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目次
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10一階 水産博物館
20船
30ニッカウイスキー
100二階➀考古展示室
110縄文時代
111パネル展示
113前期~中頃の土器
115中期~後期の土器
116晩期の土器
117続縄文・擦文時代
118流行土器を追え
130続縄文・擦文・中世
140入船遺跡
142徳利形土器
143注口土器
150続縄文時代の土器
151小型土器
153瓢形土器
155木製品
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200二階②
211大谷地貝塚
213出土品
215土偶
221装身具
223八幡山遺跡
225腕輪
227琥珀製平玉
230祭祀
241石棒・石刀
243石偶
245安芸遺跡
300二階③
310手形足形土版
320土偶
330縄文時代の芸術
332スタンプ状土製品
333小形土製品
350土鈴 余市大川遺跡 |
400二階④
410擦文時代
411擦文時代の交易
413刻書土器・墨書土器
431石器製作
432発掘調査体験記
433石器 沢町遺跡
441魚形石器
442骨角器
450縄文人の食事
※恵山式土器文化の4期
500二階⑤
510登町10遺跡
513登町10遺跡出土物
515縄文時代の土器型式
530土壙墓出土土器
550後志一番古い縄文ヒエ
561石器類 |
600三階 アイヌ民族
610余市アイヌの伝説
620アイヌ以前の余市
623歌人 違星北斗
624大川遺跡の銅鏡・土偶
625民具
630天内山
631天内山遺跡出土遺物
700余市のアイヌ文化
701アイヌ文化期
711銙帯金具
713鉄製品
715内耳土鍋
721直刀
725須恵器・土師器
731太刀
733首飾り
741アットゥシ
751ヨイチアイヌ
755運上家
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8003変わりゆくヨイチ
813アイヌと神々
831新しい木彫りの道具
833ヨイチのカムイギリ
850四階 民具 |
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01外観
よいち水産博物館 |
飛び出しているのは |
船の舳先です |
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10一階 水産博物館 |
20船
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北前船、弁財船(べざいぶね)
江戸時代中頃以降、北海道と大阪を結んだ航路を行き来しました。
(船主が自らの船に自分の荷物を積んで売り買いする船が多かったのです。買い積み船といいます。運賃積みの船もあり)
北陸地方を拠点とし、春先に米、味噌、醤油、酒、漁具、日用雑貨などを積み込んで大坂を出帆し日本海側を廻って松前、枝幸で売り捌きました。さらに北の蝦夷地沿岸各地にも向かいました。
(山形県酒田までが西回り航路。春一番に港に着く船を氷割船と言いました。北前の名称は大阪から見て、北方の北陸地方の船を指す言葉でしたが、次第に北国行きの船を呼ぶようになりました。語源はいろいろな説があり。小説の影響もあるかもしれません。司馬遼太郎)
弁財船は一本帆で風の力を利用して進む船で、明治30年代まで用途を変えながら航海を続けました。
(船の構造から言う名称は弁財船。北前船は弁財船の中でも船首と船尾が大きく反り上がるなどいくつかの特徴がありました。)
この模型は500石積弁財船の三分の一で材料は実物と同じスギ、ヒノキ、ケヤキなどが用いられています。
設計製作者 酒井久蔵 |
北前船・弁財舟の縮小模型
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北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海を航行し、大阪と北海道を結んでいた商船です。
【特徴】
大阪から下関を経て北海道に至る「西廻り」航路を走っていました
寄港地で安い商品を買い、高く売れる港で積み荷を売りさばきながら航海していました
帆船で、船の形としては「ベザイ船」が主流でした
ベザイ船は船体が堅牢で、鋭い船首で波を切り裂き、逆風でも進むことができました
【役割】
生活必需品に加え、雛人形などの高級品、そして様々な文化を運んでいます
日本人の衣・食・住の生活環境向上に大きな役割を果たしました
【衰退の要因】
電信の普及や東北本線の全通、汽船の普及などにより、北前船の独占性が失われていったことが理由のひとつです
線路の拡大により、日本海沿いでの輸送をめぐり、市場での競争が導入されました
【北前船の寄港地】
日本海や瀬戸内海沿岸には、北前船の寄港地・船主集落が点々とみられます
※松江で鉄を仕入れ、北陸方面などで卸し、地元の産業を発達させたり、松前昆布は沖縄まで運ばれ、沖縄料理を革新させました。
また、寄港地各地の文化や伝統を運び、各地に全国の文化や祭、民謡、料理などを定着させました。
北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称。
買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。
※位置航海が成功すると、莫大な儲けが約束されており、成功した船頭がしらは、次の航海では船主になりました。
ベザイ船は、正式には弁才船(べざいぶね)と呼ばれ、江戸時代に活躍した大型の帆船です。千石船(せんごくぶね)とも呼ばれ、内航海運を目的としていました。
【特徴】
1本の帆柱と大きな横帆をあげて帆走する
甲板がないため、多くの荷を積むことができる
少ない乗組員で済む
風待ちをする必要があった
荒天で波をかぶると沈没する可能性があった
【活躍】
菱垣廻船(側面に菱形組みの垣があった)や樽廻船(樽詰め荷物を運んだ)と並んで江戸・大坂間の海運を支えた
江戸後期から明治時代にかけて北海道と瀬戸内・大坂を結ぶ北前船として活躍した
【歴史】
17世紀後半に瀬戸内海で発達してきた和船
江戸時代後期になると、和船のほとんどがベザイ船に変わっていった
明治以降に優れた西洋の船に置き換わっていったと信じられている
※何度も書いてすみません。江戸時代には海外渡航禁止の目的(密貿易・密入出国)から、五百石以下の船しか作れませんでした。
千石船とは行が五百石帰りが五百石で千石船と言われました。 |
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30ニッカウイスキー
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※京都で学生時代を過ごして、ウイスキーもたまに飲むこともあった。近隣「大山崎」にサントリーの蒸留所があり、なぜかそちらが多かった。
ニッカは独特の苦味があり(泥炭でくすべた味)初心者には不向きだったのかもしれない。私はあまりアルコール類を買わなかった。
ただ、当時はアメリカのアフリカ系ジャズシンガーのサミーデイビスジュニアのCMが影響して?角瓶が珍重された。
今も、趣味の製菓用にブランデーを持っているが、飲むことはない。
2022年に余市で宿泊した時に、宿の女主人にニッカの工場見学は行った方がいいのでしょうかと聞くと、「マッサン」を見なかったヒトなら行かなくていいといわれ、
反省して見学に行き、二日間で3万円分の余市工場オリジナルウイスキーを、土産に買いました。
学生はサントリーのレッドか、ニッカのハイニッカが一般的な洋種の選択でした。
※ニッカウヰスキーは最初、大日本果汁株式会社として、果汁の瓶詰を作ろうとしましたが、果汁は発酵して、栓が飛ぶか瓶が割れるか、栓を開けると吹き出すかでした。この問題への長い間の解決の苦難の末、ウヰスキーの生産にシフトチェンジして現在に至ります。
壁の説明書きはそれらを語っているようです。 |
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ハイニッカ
学生はこれを飲んでました |
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角瓶からコップにウイスキーを少量入れ、火をつけると青い炎をあげて燃え、電灯を消して見つめました。電気を付けた後、うっかり忘れてコップをさわって大やけどをしました。 |
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以上、過去の北前船と、現代のニッカウヰスキーは、余市町の発展に深く寄与した産業として、記念碑的に展示されています。
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100二階➀ 考古展示室
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101
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110縄文時代
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111パネル展示
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旧石器22,00年前頃
縄文
早期8,000年前頃
前期6,000年前頃
中期
後期4,000年前頃
晩期
続縄文2,300年前頃 |
擦文1,400年前頃
中期800年前頃 |
縄文時代
縄文時代 |
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早期~中期頃
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・当時の環境
旧石器時代から気温が上がり、縄文時代になると生き物が増え、弓矢・土器時計が発明されたことで、人間が食べられるものが増えました。
この頃から、食べ物を求めて、あちこちに移動する生活ではなく、家を建てて同じ場所に住むようになります。
その後、それぞれの家が集まって作られるようになり、集落が作られるようになっていきました。
・この時期の流行土器
底が尖った土器(尖底土器)が古く、だんだんと平底の土器に変わっていきます。
また、文様も貝殻でつけた文様から縄文をつけるようになります。
◆前期土器流行「植物の繊維をミックス」
前期の土器には植物の繊維を混ぜて作るものがあります。
土器の軽量化(それでもこの時期の土器は他の時期の土器に比べると重いのですが)や粘土の粘りが少なくなり、土器作りの作業を
しやすくするためと言う効果があったと思われます。
しかし、土器を焼くときに繊維が燃えてしまうので、土器内部がスカスカになってしまい、もろい土器になってしまう難点も持っています。 |
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早期~中期頃 |
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流行土器を追え |
かたち
尖底-丸底-平底
平底土器がだんだん流行り始めます |
文様
貝殻→縄文

縄文は縄を撚ったもの原体で付けます
原体を押し付けたり
羽?Y?のような文様をつけるのも流行ります |
厚さ
薄い→めっちゃ厚い
→そこそこ厚い

もろさ
とても…もろい
高さ
30~40cmくらい |
光沢 なし
貼付=粘土紐装飾
めっちゃ細い紐→
口と平行に紐状の貼付が付く
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中期後半頃
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・当時の環境
大きな集落ができるようになりますが、後期には徐々に集落が分散化していきます。また、この時期から「環状列石(ストーンサークル)」のような生活の場ではないと考えられる場所が作られるようになります。
・この時期の流行土器
厚手で筒形の土器が使われるようになり、道央から道東にかけて棒で突いてつける文様(刺突文)のある土器が見られるようになります。
中期末~後期には、同じ筒形の土器でも、使い方に合わせたいろいろな形の土器が作られるようになります。
晩期には、東北地方の亀ケ岡文化の影響を強く受けます。
◆晩期土器流行「異色土器にドキドキ」
町内の大川遺跡と言う遺跡からは、縄文時代晩期の土器がたくさん見つかっています。
中でも「異形土器」と呼ばれる、変わった形の土器も多く見つかっています。土器じぃのモデルとなった「二足土器」も、大川遺跡から見つかったと伝わっていますが、その他にも土器としては使いにくそうな様々な形の土器が見つかっています。
なぜこのような形の土器が作られたのでしょうか? |
中期後半頃 |
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113前期~中頃の土器
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この時代の土器は
底が尖った土器(尖底土器)と
底が平たい土器(平底土器)があります。
これは土器の使用方法の違いによるものではないかとも考えられています。
底が尖った土器
=煮炊き(調理)のための土器
底が平たい土器
=煮炊き(調理)と、食べ物保存の、兼用の土器
時代が進むにつれて、底が平たい土器が増えていく傾向にありますが、なぜ土器の底に違いがあるのか、これ以外の理由があるのかもしれません。 |
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下に記述 |

下に記述 |
縄文前期~中頃の土器

上に記述 |
余市町最古の土器
早期の土器
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余市町最古の土器発見!
木村台地遺跡
現在余市町内で発見されている発掘資料の中で、最も古い時代の土器や石器(縄文時代早期・約8000年前)です。
展示されている土器は、「貝殻文土器」と呼ばれる貝殻を押した文様が見られるものです。
木村台地遺跡は、北海道余市町にある縄文時代早期の遺跡です。
【概要】
標高約30mの平坦な台地上に所在しています。1958年に発掘調査を実施しました |
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町内最古の土器(前期)
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前期~中期土器
前期の土器
中野式土器
中野式土器
フゴッペ洞窟
縄文前期
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底部が尖り、
製作に使用した胎土に繊維を含ませる特徴の土器です。
(繊維土器は東北系に多い) |
前期の土器
円筒土器上層式
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福島町第一編第三章第一節
この型式で前期のものを円筒下層式あるいは余市式といい、中期のものを円筒上層式と呼んでいる。
AI による概要
円筒土器上層式は、北海道余市町内で発見されている土器で、貝殻の縁を使って文様がつけられています。
【特徴】
円筒形をしており、器面全体に羽状縄文を施して地文にしている
上部に大きな突起を4つ持ち、上半部には粘土ひもを貼りつけて文様帯を設けている
貝殻の縁を使って文様がつけられている
【発見場所】余市大谷地貝塚の上層。
【関連情報】
円筒土器は、縄文時代前期中葉から中期中葉の東北地方北部から北海道南西部でつくられたバケツ形の土器です。 |
前期土器
円筒土器
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円筒土器
フゴッペ洞窟
前期~中期
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円筒土器
東北地方北部の影響を受けて作られた円筒形の土器です。(円筒土器上層式)
また、フゴッペ2類の出土も見られます。 |
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115中期~後期の土器
余市式土器
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中期の土器 |
余市式土器 |
余市式土器
出土地:大谷地貝塚
年 代:縄文中期末~後期初頭
円筒形をした土器で、粘土ひもを貼り付けるという特徴があります。 |
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余市式土器とは
北海道函館市の余市の大谷地貝塚から出土した土器を標式とする土器の形式です。渡島地方の貝塚から出土しています。
函館市史 通説編 第一巻 (貝塚の全盛期)
貝塚から出土する土器には、余市式土器と呼ばれる形式のものが含まれている。
余市式土器は、余市の大谷地貝塚から出土した土器が標式となっており、下層と上層から出土した土器がある。
この土器形式を細分すると余市式土器と呼ばれている形式にも編年関係がある。
渡島地方で余市式土器を伴う貝塚は、アサリ坂(天祐寺)貝塚、青柳町貝塚、湯川貝塚、煉瓦台貝塚、戸井貝塚、,熊別川貝塚、原木貝塚、伊勢畑貝塚、静狩貝塚で、貝塚と遺跡名が付けられているほとんどの貝塚から余市式土器
函館市史 通説編 第一巻 (煉瓦台貝場の土器)
煉瓦台貝場の土器 この貝塚から出土する主な土器は余市式土器で、わずかに東北地方の榎林式や,煉瓦台貝塚の余市式土器は大谷地貝塚出土のものと装飾などに多少の違いもあるが、その一般的特徴は器形が円筒形
椴法華村史 (絵紙山3遺跡)
採集したバチ形の石器や土器をみると縄文前期の円筒下層式土器、縄文中期後半の余市式土器、縄文後期の無文土器
椴法華村史 (〔椴法華遺跡〕)
昭和五十七年八月に現地調査したとき、縄文中期後半の余市式土器の破片を採集した。,
余市式土器とは余市大谷地貝塚の上層から発見されたので余市式と呼んでいるが、器形はほとんど円筒形をしていて
函館市史 通説編 第一巻 (貝塚の分布)
包含層からは後述する余市式土器や石器類と骨角製の針や箆(へら)が出土している。
函館市史 銭亀沢編 (銭亀沢地区の遺跡の立地)
豊富な動植物 余市式土器。
函館市史 別巻 亀田市編 (貝塚を構成する貝類)
この煉瓦台貝塚が形成された時期は、縄文時代中期後半の余市式土器の時代であり、貝類の堆積と土層は、地点によって
まとめ
余市式土器は、余市町大谷地貝塚から出土した土器を標識とし、上層式と下層式がある。
渡島地方の貝塚と名づく遺跡には全て余市式が出土する。
土器型式は綴形円筒土器である。
縄文中期後半を分布の中心とする。
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後期の土器
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余市町内の登2遺跡
中期末葉の北筒式。少量の中期円筒土器上層式、見晴町式、天神山式
柏木川式、
後期前葉トリサキ式、
後期中業手稲式が出土。
余市町内の登3遺跡
中期前葉 円筒土器上層式、
中期末葉 北筒式が主体を占め、
早期末葉の東釧路 N式、
中期中葉の天神山式、柏木川式、
後期前葉の涌元式、トリサキ式、大津式、
後期中葉のウサクマイC式、手稲式、
晩期中葉の大洞系土器等が出土している。
引用「登町2遺跡、登町3遺跡」 |
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116晩期の土器
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117続縄文・擦文時代
続縄文時代の土器 続縄文前期は恵山文化、中期は江別太文化、後期は後北式=江別式文化
擦文時代の土器(7~13世紀)
擦文時代の土器
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擦文土器の型式には、横走沈線文系土器や長胴甕形土器などがあります。
【横走沈線文系土器】
口縁部から頸部にかけて横走沈線文が施された長胴甕形の土器
北海道から東北地方北部に広く分布
北海道では擦文土器あるいは土師器、東北地方北部では土師器に分類されている |
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118流行土器を追え
縄文中期末~晩期頃 4000年前頃
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かたち
これまでの壺形意外に…いろいろな形のラインナップが増えます。
かめ、つぼ、坏、皿、舟、注口、変な形も…
文様
後期後半から…縄目の粒が小さくなります。 ・・・・・・・・・➡………
部分的に縄文をわざとこすって消したり、縄文の上を撫でたり、する方法が流行りはじめます。
厚さ
後期頃までは…厚い!重い!⇒うすくて軽~い に変化!
もろさ
前に比べると…カタイ!
光沢
晩期頃には…テカテカ
貼付
太かったり細かったり…浅めの線で様々な模様を描く
沈線
うにょ----ん(工字文)、ギザギサ!(斜状文)、ぐるぐる(渦巻文)、クロス!クロス!(格子文)
え---っくす!(X字文)、やじるし(羽状文) |
かたち |
かたち
これまでの壺形意外に…いろいろな形のラインナップが増えます。
かめ、つぼ、坏、皿、舟、注口、変な形も… |
文様 |
文様
後期後半から…縄目の粒が小さくなります。 ・・・・・・・・・➡………
部分的に縄文をわざとこすって消したり、縄文の上を撫でたり、する方法が流行りはじめます。 |
厚さ |
厚さ
後期頃までは…厚い!重い! ⇒うすくて軽~い に変化! |
もろさ、光沢 |
もろさ
前に比べると…カタイ!
光沢
晩期頃には…テカテカ |
貼付。沈線 |
貼付
太かったり細かったり…浅めの線で様々な模様を描く
沈線
うにょ----ん(工字文)、ギザギサ!(斜状文)、ぐるぐる(渦巻文)、クロス!クロス!(格子文)
え---っくす!(X字文)、やじるし(羽状文) |
続縄文時代~擦文時代頃
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・当時の環境
◆続縄文時代:
東北より南が弥生から古墳時代の頃、北海道では特有の文化が作られるようになります。
続縄文時代は、漁撈を主体とする文化で、海や漁に関わる道具が多く作られるようになりました。
◆擦文時代:
周辺地域との交流が盛んになり、同時期の本州で見られるようなかまどのついた四角い竪穴住居など、本州文化の影響をこれまで以上に
強く受けます。
また、この時期から道内でも雑穀栽培が始まります。
・流行土器
◆続縄文時代:
前半は、東北地方の弥生文化の影響を受けた恵山式と言う土器が作られるようになります。
後半には後北式(後期北海道式薄手縄文土器の略)と言う土器が全道的に広がり、東北地方や千島・樺太まで爆発的に広がります。
◆擦文時代:
擦文時代になると、これまでのような縄文をつけず、土器の表面を擦ったような擦文土器が作られるようになります。
これらの土器のほかに、本州との交流によって、須恵器や鉄器が道内で広がっていきます。 |
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130続縄文・擦文・中世
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140入船遺跡 |
141
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発掘調査体験記 ~入船遺跡~
「ムキムキじゃなくても大丈夫…の巻」
入船遺跡は余市川河口左岸、大川遺跡とは対岸に位置しています。道路のアスファルトなどを重機で除去した後、手作業で掘り進めていくと、旧道の路盤がありました。通常は重機を使うのですが、当時の調査の方針でこの路盤は人力で掘削することとなりました。
近所の鉄工所に作ってもらった鉄製のクサビとハンマーなども使用しましたが、主役はツルハシでした。20~30歳代の若者が力任せにツルハシを振り下ろしても形色番はビクともしません。そこに登場したのは当時70歳に近かった。最高齢の小柄な作業員。軽くツルハシを一振りすると、あれだけ固かった路盤は簡単に崩れ落ちました。豊かな経験とそこから得た技術やコツの大事さを知りました。
※続縄文時代の恵山文化の貝塚から多量の骨角器が出土した。また、貝塚内に墓坑も確認された。 |
発掘体験記
入舟遺跡 |
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縄文晩期の土器 大川遺跡
二足土器
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二足土器
大川遺跡
縄文晩期後葉~続縄文
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古代中国の青銅器を真似た三足土器は知っていますが、二足土器とは何でしょう。
土に埋めるか、支えの装置が無ければ、どうにもならない大洞式・亀ヶ岡式土器です。 |
双口土器
双口土器
大川遺跡
縄文晩期
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双口土器は、本州なら半島ですが、北海道では日本海航路か樺太経由で伝播したのでしょうか。
大陸系の土器です。本州では弥生時代になると俄然増加します。
動物の胃をモチーフにしたような土器です。成形も焼成もかなり高度です。 |
香炉形脚付注口土器
香炉形土器
大川遺跡
縄文晩期
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香炉形部
注口部
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注口部
脚部
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香炉+注口+脚という珍しい形。
どこからこのかたち、このような土器思想が来たのでしょう。
珍しい3つの土器を総合したのでしょうか。 |
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隅丸方形の平鉢土器
最初から方形土器を作って、四隅に突起。側面にX型の深いしわをつけ、沢山の列点を
施文している。
この土器も非常に手の込んだ土器である。 |
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142徳利形土器
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表面に岡山楯築墳丘墓の施帯文、橿原考古学研究所博物館弧文円板、同円筒埴輪の弧文に似た呪術文がびっしりと施された
とても奇妙な土器です。
正解:この文様は羊歯状文というのだそうです。
羊歯状文とは
AI による概要
羊歯状文とは、植物のシダの葉に似ている模様で、縄文時代晩期前葉の土器などに施されています。
羊歯状文は、東北地方の大洞BC式に特徴的な文様です。
【特徴】
シダの葉に似ていることから「羊歯状文」と呼ばれています
彫刻的な手法で丁寧に描かれています
縄文時代晩期前葉になると、文様帯幅が狭くなり、直線化の傾向が認められます
平行沈線文になっていく過程です
【出土例】
川崎市市民ミュージアムに収蔵されている下原遺跡出土の土器
元屋敷遺跡出土の鉢(縄文時代晩期前葉大洞BC式土器)
【関連情報】
縄文土器の文様には、土器をぐるっと回してみると、物語を表現しているようなものがあります。
こうした土器は、当時の宇宙・世界のこと、ムラとムラとの関係、人と人のつながりを表現していると考えられています。
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蓋付土器
ふた付土器
大川遺跡
縄文晩期 |
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蓋付土器とされている。まずよく蓋がはなれずに見つかったということ。
蓋の形が、周囲が欠けて壊れてはいるが、現代の蓋の常識とはかけ離れて、蓋の持ち手が蓋の中央ではなく、蓋の周囲に跳ね上げた角であること。なんだこれ、、
土器の頸が貼り付けられたのか、、、だが、針状のもので細かい刺突文が巡っている。
普通なら密着させようと綺麗にこすり取るつなぎ目をわざとこのような装飾を行なっている。 |
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143注口土器 安芸遺跡、大川遺跡、 縄文後期・晩期
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左の1点が安芸遺跡、他が大川遺跡出土です。
安芸遺跡は縄文時代後期後半、大川遺跡は縄文時代晩期です。 |
注口土器 |
大川遺跡
晩期 |
安芸遺跡
後期後半 |
大川遺跡
晩期
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これらの注口土器は、東北地方や新潟でよく見かけた気がする。
移入された土器が、移住や婚姻で来た人の作か。 |
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150続縄文時代の土器
この絵ってZAZY?
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151小型土器・ミニチュア土器 大川遺跡 続縄文時代
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日常的に使われた土器ではなく、、儀式など特別な用途があったと考えられます。
※小さくともしっかりと精緻に施文が施されています。 |
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153瓢形土器 大川遺跡 続縄文時代
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この頃の本州でも複数のパーツを貼り合わせて作る土器が流行しました。いち早く北海道石狩低地に技術移転しているのは驚きです。日本海航路の威力ですね。 |
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155木製品
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発掘調査体験記 ~安芸遺跡~
「厄介だけど大切だったもの…の巻」
安芸遺跡は現在の海岸線と並行して走る2本の砂丘のうち、より内陸の黒川砂丘とその縁辺にある低湿地に位置しています。
低湿地部分を掘り進めて行くと、その地下にある水にフタをしていた土層を剥がしてしまうため、水が大量に湧き出てきます。
この地下から沸いた水により、翌日はプールのようになってしまい、調査ができなくなってしまうのを防ぐため、ポンプをかけて水を調査区の外に排出します。それでも調査区の中は、田んぼのようなぬかるんだ状態となり、足をとられて転倒することもありました。しかし、この水のおかげで土器や石器とともに、大量の木製品が壊れることなく出土しました。 |
木杭
安芸遺跡
縄文中期~後期前半
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木杭 安芸遺跡 縄文中期~後期前半
加工材で、石斧などによる加工痕がある。自然木の一端を尖らせてたもので、杭として使用したと思われます。 |
木杭
安芸遺跡
縄文中期~後期前半
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木棒 安芸遺跡 縄文後期
石刀に類するもの。儀式用ではないか。
一端に頭部が作られ、断面は楕円形。
板材 安芸遺跡 縄文中~後期前半
加工材年て使用されていたもの。板目板材(木目の幅が広く、まだ若く柔らかい材)で荒く加工された分割材です。 |
丸木弓
安芸遺跡
縄文後期
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木棒
安芸遺跡・縄文後期
石刀に類似するもので、儀式具ではないかと思われる。
一端に頭部が作られ、断面は楕円形になっている。 |
串状木製品
大川遺跡
縄文中期~後期前半
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串状木製品
大川遺跡 縄文中~後期前半
器具ではなく何かの施設の骨組みの一部と考えられる。梁または桁と思われます。
丸木弓
安芸遺跡 縄文後期 |
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斧柄、安芸遺跡 後期
石斧を装着して使う工具の柄。
柄に樹皮が残る未完成品かも知れない。
又のある木杭
安芸遺跡 中期~後期前半
器具ではなく何らかの施設の骨組みを構成する材料と考えられる。二股で横架材を受ける部位ではないかと思われる。 |
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200二階② |
201
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211大谷地貝塚
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古くから知られていた遺跡で、
大正時代には、小樽高等商業学校の寺田貞次氏により貝塚が広がっていたこと、人骨が発見されていたことが報告されています。
大正14(1925)年には、京都帝国大学の清野謙次氏が発掘調査を行い、遺跡の東半分が貝塚、西半分が住居であることや中央部から不完全な人骨があったこと、土偶があったことなどが報告されています。
昭和9 (1934)年には、小樽市内の教員であった五十嵐鐵氏により『大谷地貝塚の層位的研究』が発表され、翌年に北海道の帝国大学の河野広道氏により土器形式として「余市式」が明記されました。
平成9(1997)年には、遺跡の詳細な分布調査が行われ、縄文時代、中期の住居跡や墓、貝塚が発見されたほか、コタマガイやイガイなどの貝類、魚類では圧倒的にニシンが多く発見されました。
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大谷地貝塚は、北海道余市郡余市町登町64 約45m×9m厚さ60cm
余市湾奥500mの黒川砂丘上にある、縄文中期後半から後期初頭、約5000~4500年前の遺跡。 貝塚を伴う集落遺跡。遺跡写真
貝塚5、住居跡4、たき火跡8。
海貝:コタマガイ、イガイ
魚類:ニシン、ホッケ、カレイ
海獣:アシカ、トド、オットセイ
土偶:遮光器土偶(現物はなぜか、天理参考館に大正時代に売り払われています。)天理参考館の大谷地貝塚土偶 |
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国指定史跡大谷地貝塚

上に記述 |
余市式土器 大谷地貝塚
遮光器土偶 大谷地貝塚
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213出土品 大谷地貝塚
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石器
大谷地貝塚
縄文晩期 |
石鏃
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石製ナイフ
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磨製石斧
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打製石斧
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石槍
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骨角器
大谷地貝塚
縄文晩期
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縫い針、石錐 |
骨角器 |
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215土偶
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余市式土器
胴部に粘土紐が貼り付けられ、縄文が地文に付いている事が特徴です。道央部を中心に広く発見されています。
※円筒土器の一種である。 |
余市式土器
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余市式土器 |
余市式土器
大谷地貝塚
縄文中期末~後期初頭 |
大谷地貝塚出土土偶(レプリカ、本物は天理参考館) 縄文晩期
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これは 本物ではありませんが、このような土偶が大谷地貝塚から見つかりました。
東北の遮光器土偶を真似て作られたと考えられます。
中空土偶 |
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220 |
221装身具
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おしゃれ縄文人
・装飾から見える社会性
縄文時代の人々が身に付けた髪飾りや首飾り、耳飾り、腕飾りなど、様々な装身具が遺跡から見つかります。
これらは単なるアクセサリーではなく、集団社会の地位を象徴したと考えられています。
時期によって、装身具の材質が変化し、価値観も変化していただけでなく、女性、男性が身に付けるもの、と、一定のルールがあったようです。
櫛は漆塗りのものがあり、高度な技術で制作されています。
この櫛は、髪を梳かすためのくしではなく、髪飾り用の櫛として使用されていたと考えられ、墓からの出土例から儀礼に関係し、女性が多く使用していたようです。首飾りは、大珠や勾玉などの玉類があり、紐に通して使用されていました。
これらの玉類は、代表的なものでは翡翠、琥珀、滑石などが使用されています。
特にヒスイやコハクは道内外との交流によって入手したと見られるものが見つかっています。
腕飾りは展示されているものは漆塗りのものですが、これ以外に貝製のものも使用されていました。
・お墓で見つかる装飾
展示されている琥珀の平玉は、墓から見つかりました。
遺体の頭部周辺からは頭につけた飾りの一部と見られるホオジロザメの歯6点が確認され、琥珀の平玉は約2000点が数珠状に連なって何連も重ねられた状態で見つかりました。 |
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223八幡山遺跡 大川遺跡 天内山遺跡 沢町遺跡
はずみ車
大川遺跡
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土器じいのポイント解説
「はずみ車」大川遺跡
はずみ車は、中央の穴に棒を通して、その棒に製品の端を結び、繊維を引き出しながら撚りをかけて糸にするための「おもり」として使われた道具じゃやよ。
形は円板、円錐のものなどが見つかってあるぞ。大川遺跡から見つかっているものは、赤色に塗られていたものもあったんじゃ。 |
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環石 |
勾玉
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勾玉
大谷地遺跡
縄文晩期
上段左端はフゴッペ洞窟 |
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225腕輪 沢町遺跡 縄文晩期
お墓から左右揃って見つかりました。木質で表面に漆が塗られています。
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227琥珀製平玉 大川遺跡 続縄文時代
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230 |
231祭祀
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祈られたモノ・場所
・石棒 (縄文中期)(函館市大船遺跡、千歳市キウス周堤墓)
石棒とは石の棒の端を瘤状、ふくらませて加工したもので、瘤は両端にある場合もあり、注口土器と同様に男性を表現した道具だと考えられています。その使用方法は明確にわかっていませんが、子孫繁栄の祈りが込められた集団のリーダーのシンボルだったなどが考えられています。
町内では大川遺跡や安芸遺跡、八幡山遺跡などから見つかっており、特に安芸遺跡と八幡山遺跡は立地が近いことや環状列石等の儀礼的な遺構が見られる点などで共通しています。
・環状列石 (縄文後期)
町内では、西崎山環状列石以外に八幡山や、既に失われた警察裏山などいくつかの地点で環状列石が見つかっています。
小樽市では忍路や地鎮山、仁木町ではモンガクなどで同様に環状列石が見つかっているため、余市湾周辺は環状列石の多い地域であると言えそうです。
西崎山環状列石では、下方に人為的に掘り込まれた跡が見られ、縄文時代後期の土器片が確認されています。このことから、配石により周囲と墓域を区画した、その時代のお墓であったと言う説が一般的です。
また、環状列石の中には シリパ岬から運ばれた石も使用されています。かなりの重量の石をわざわざシリパ岬から運んできたのはなぜなのか。シリパ岬の石が重要なのか、シリパ岬から石を運ぶこと自体が重要なのか、現在も多くの謎が残されています。
・弓と小型土器
弓の上に小型土器が立った状態で出土しました。水辺での儀式などの際に意図的に置かれたものだと考えられます。弓は一端を欠いていますが、もう一端には弦をかける弭を作り出しています。
小型土器は口縁部が意図的に欠かれているものが置かれており、儀礼的な廃棄の方法だったのかもしれません。
※水辺で「弓と小型土器」を“あの世送り”して、何を願ったのでしょう。死者の安穏?、仕留めた動物霊の御霊送り?答えは弓と壺にあると思います。 |
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折られたモノ・場所
石棒・環状列石 |
折られたモノ・場所
弓と小型土器
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弓と小型土器
出土状況 |
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世界の岩面刻画
~世界遺産もあるよ~
フゴッペ洞窟 や 手宮洞窟のような岩面刻画のある遺跡は国内では非常に珍しいですが、世界中ではいくつも見つかっています。
描かれている刻画には共通点が見られるものもあります。
もしかしたら、これらの岩面刻画を知る人々同士での交流があったのかもしれません。
2021年は「縄文」が世界遺産になりました。フランスやスペインでは、縄文時代の前の時代である旧石器時代の岩面刻画が世界遺産になっています。
縄文時代の次の時代である続縄文時代の岩面刻画が見られるフゴッペ洞窟も「縄文」や世界の岩面刻画に負けない素晴らしい遺跡です。
世界遺産にも負けない貴重な遺跡であるフゴッペ洞窟をぜひご覧ください。 |
世界の岩面刻画 |
世界の岩面刻画 |
 ラスコー(フランス)
アルタミラ(スペイン) |

マーイ(ロシア)
カリカノフカ(露)
カカチアリャン(露)
キア(露)
シェレメチェヴォ(露)
ボスフレン(スウェーデン) |
洞窟名不詳(北朝鮮)
川前里(韓国)
スックパイ(露)
手宮洞窟(日)
フゴッペ洞窟(日) |
ベラクーラペテログリフ(カナダ) |
発掘調査体験記
~大川遺跡~ |
発掘調査体験記~大川遺跡~
「一夜にして変わり果てた姿に…の巻」
大川遺跡は大川砂丘の上にあり、地面が硬くしまっているわけではないので、堀り進めること自体はそう大変ではありません。
しかし、見る見るうちに地面の水分が蒸発していくため、地面はもろく崩れやすいと言う側面もあります。
作業中に気を抜くと調査で見つかった住居の縁を歩いて壊してしまったり、発掘調査区がフェンスで囲われているとは言え、
強い風が吹くと砂が舞い、やっと姿を現した土器や石器などがまた砂に追われてしまうこともありました。
夜中に強風が吹いた翌日は、前日にせっかく掘り終えたお墓がすっかり砂でで埋まっていたこともありました。 |
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発掘調査体験記 ~大川遺跡~
「合掌…の巻」
大川遺跡では、縄文時代晩期から近世に至る。1000基を超えるお墓が確認されました。遺体が確認されなかったものや、土に還っており、ほぼ見分けのつかないものもありますが、土砂の質感や色の微妙な変化に沿って掘り進めると、遺体の輪郭が見えてきたり、歯の位置から頭の方向が判明します。
近世のお墓はほぼ全身骨格が確認される場合もあります。お墓を掘っていたら、その夜枕元に立っていた話を耳にしたこともありますが、どんな時代のお墓を掘る場合でも、手を合わせ、祈ってから掘るようにしていました。中には花や酒を供えてから作業を行う人もいました。 |
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241石棒・石刀
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所有者の集団における地位をあらわす威儀具であったと考えられます。
偶然畑の中から発見されたもので、近くには八幡山環状列石があります。 |
引用 八幡山遺跡調査報告 余市町 発掘詳細報告
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八幡山遺跡 北海道余市郡余市町黒川町707ほか
種別:集落
時代:縄文、続縄文、擦文
主な遺構:縄文住居4、擦文住居3、土坑59、炉跡、小土坑172、剝片集中10、炉跡8、集石4、溝状遺構4、性格不明遺構2
主な遺物:土器片1833、土製品1、陶磁器160、剝片石器、礫石器、石器14,687、石製品7、金属製品638、古銭、ガラス製品8、
炭化物や種子
特記事項:
石囲炉を持つ縄文住居(H2)からはイノシシの幼獣の骨片が確認された。
住居の床面やカマドからは完形土器が数点出土した。
時期は9世紀で、当該期の一括性の高い資料として特筆される。
平成30年度に検出された擦文住居の床面の続きからは機織りに使用したとみられる礫が多量に見つかった。
八幡山遺跡
土器は縄文時代早期~晩期、続縄文時代、擦文時代のものがみられますが、縄文早期(東釧路Ⅳ式)のものが最も多くみつかりました。
ただし、早期の土器は八幡山遺跡の遺構に直接関わる形ではほとんどみつかっておらず、
遺跡の中心となる時代は縄文時代中期と擦文時代でした。
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石棒 特殊な石材を使用した石棒
石棒の先端部だと思われます。これまで町内の遺跡や過去に八幡山遺跡でも石棒が確認されていますが、それらの石棒とは石質や形状が異なっているようです。
石質は、輝石安山岩、斑部分は捕獲岩(凝灰岩)と考えていますが、
捕獲岩をこれだけ含んでいるものは珍しく、意図的にこの石質を選んだとすれば、採集は非常に難しいようです。
引用「八幡山遺跡」 |
石刀 大川遺跡
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大川遺跡は、北海道余市郡余市町大川町にある複合遺跡です。
縄文時代からアイヌ文化期~近代に至るまでの人々の痕跡が発見されており、約170万点の遺物が確認されています。
【特徴】
余市川河口右岸の大川砂丘上に位置し、標高は約5メートル。大正期から知られており、1960年に町郷土研究会が本格的な発掘調査を行った
縄文時代晩期から続縄文時代の墓壙群約1000基や、刻書土器、雑穀の炭化種子などが発見されている
中世の墓壌の一つでは和鏡が伴う火葬墓があり、他例を見ないものである。
大川遺跡
種別:散布地
時代:縄文、中世(細分不明)、近世(細分不明)、続縄文
主な遺構:住居跡
主な遺物:土器、石器、陶磁器、鉄器、骨角器
特記事項:縄文時代晩期と続縄文時代の墓壙群を主体とし、中世の墓壙が検出され、多量の副葬品が出土した。
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243石偶
ミニチュア磨り石 フゴッペ洞窟 続縄文時代
ミニチュアすり石
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ミニチュアすり石
フゴッペ洞窟 縄文時代
磨り石ですが、実際に使用されたものではなく、特別な用途で使用された物だと思われます。 |
石偶(有孔円礫)沢町遺跡
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種別:散布地
時代:縄文中期から後期
主な遺物:縄文土器、石器
特記事項:種別:包含地
種別:墓
時代:縄文晩期
主な遺構:墓壙163、溝1、土坑1、焼土5
主な遺物:縄文土器、石器、土製品、石製品
特記事項:擦文住居跡と縄文晩期の墓壙群
種別:集落
時代:擦文時代
主な遺構:住居4
主な遺物:土師器、須恵器、紡錘車
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沢町遺跡 引用「八幡山遺跡 大川遺跡 天内山遺跡 沢町遺跡」
擦文住居址
町西側のヌッチ川近くの小高い丘の標高約30mの緩斜面に位置する。擦文住居址4軒発見。
平面形はみな隅丸方形(角の丸い正方形)をしており、カマドが無く住居の床のほぼ中
央に火を焚いた炉の跡が確認された小型の 1 軒(SH-3、2.6×2.4m)を除く 3 軒は共通し
てカマドが西側に設けられており、カマドから住居の外に向かって煙を外に出すためのト
ンネル状の煙道(長さは 1.3m~2m)が作られています。3 軒の住居の大きさは 5.5m~6m
ほどです。
そのうち 2 軒(SH-1、SH-2)のカマドの焚口周辺には平たい大型の礫が数点出土し、焚
口を補強するための袖石として使用されたものと思われます。
しかし、沢町遺跡では縄文時代晩期のお墓は多数みつかったものの、八幡山遺跡と同様
に擦文時代の遺構は住居址だけでお墓はみつかりませんでした。
※擦文時代の墓地が未発見なのは、この地の擦文人は風葬をしていたのだろうか。
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石偶(有孔円礫) |
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石偶(有孔円礫)
沢町遺跡 縄文時代
岩石の破片で丸いものを円礫といいます。
これは黒曜石で人の形をしている上に、自然に穴が空いているため、石偶としての意味があったと思われます。 |
岩偶 沢町遺跡
岩偶 |
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岩偶
沢町遺跡 縄文晩期
Yの字形のような岩偶で、4点の礫と共に出土しています。
これは埋葬儀礼の最終段階に行われた儀礼で使用されたものではないかと考えられます。 |
握石(にぎりいし) 沢町遺跡
握石(にぎりいし) |
握石(にぎりいし)
沢町遺跡 縄文後期~晩期
お墓で眠る人が、両手(片手)で腰の辺りで握っている石です。
大きさに反して重いものが多いです。
※死者に握らせた石ということか。どんな信仰があったのだろうか。 |
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安芸遺跡
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245弓と小型土器 安芸遺跡 縄文後期 引用「安芸遺跡」
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種別;散布地
時代:縄文
主な遺構
主な遺物:土器、石器、土製品、石製品、木製品
特記事項:縄文時代後期の木製遺物が発見された。 |
写真引用「安芸遺跡」
丸木弓と小型土器と
オロシガネ状石製品 |
丸木弓と小型土器 |
オロシガネ状石製品
上面
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オロシガネ状石製品
底面
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接合後のオロシガネ状石製品
これは脚付石皿ではないか |
脚付石皿は、
秋田県大湯環状列石(4脚)、
青森県六ケ所村(3脚)
で見ました。 |
オロシガネ状土製品 |
規則的に並んだ突粒です。どのようにして作りつけたのでしょう。貼り付けたのか、生乾き面を彫り込んだのか。
沖縄のシリシリ器で作ったようなでかいディンプルです。 |
オロシガネ状石製品 |
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4脚や1脚、無脚のものや、そこで使う磨り石も同時に出土している。
ポイと捨てたのでなく、丁寧に、石皿と磨り石をあらせて捨てている。 |
以上引用
以下余市水産博物館安芸遺跡の展示
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300二階③
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310縄文時代の絵馬?
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・手形、足形付土版
手形、足形付土版は、全国的に見ても数十点程度しか発見されておらず、土偶などに比べると大変数が少ないものです。
これらの土版は、縄文時代のほぼ全期間にまたがって見つかっており、東日本で集中的に確認されています。
ほとんどの手形足形が幼児や子供のものにであることから、子供の健やかな成長を願うお守り的な意味で作られたのではないか?
病気や悪事を追い払う魔除けの意味で作られたのではないか?
出生から死に至るまで様々な局面での通過儀礼などに使われた道具ではないか?
……など、他に様々な可能性が考えられていますが、どのような意味を持つものなのか、明確には分かっていません。
展示されている土版のように、孔があるものも多く、紐を通して吊り下げて使用されたのではないか、と考えられています。
土器や土偶を作ることに比べると、比較的簡単に制作できる手形、足形付土版の発見例が少ない理由は分かりませんが、子供への強い思いを感じられる資料なのではないでしょうか。 |
手形足形土版 |
左手
人差し指・中指・薬指の指先に調整痕あり。実際より長くなっている。
右手
小指の長さが実際よりも非常に短くなっている。
これらは、棒状の工具で先端や縁を、難度が調整したためと考えられる。 |
手形付土版
入船遺跡※
縄文中期~晩期初頭
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8~10歳の男子。
同時期・同一人物の両手の土版と見られる。
調整した痕跡が見られる。 |
足形付土版
入船遺跡
縄文中期~晩期初頭
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1~2歳の男子。
同時期・同一人物の両手両足の土版とみられる。 |
※入舟遺跡
北海道余市郡余市町朝日町26 手形付土版、足形付土版(1995年度発掘) 骨角器・動物型骨角製品(1998・1999年度発掘)
続縄文時代、恵山文化期の貝塚から多量の骨角製品が出土した。また、貝塚内に墓坑も確認された。
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320土偶
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縄文の女たち
・土偶
土偶は、女性、特に妊婦をモデルにしたと考えられているものが多いです。
早期と前期の土偶は頭や手足の表現を簡略化し、体の表現を強調する抽象的なものです。
中期になると、顔や手足体の部位がはっきりと表現され始めます。立て掛けられたり、紐で吊るしたりできる板状ものや、立像、坐像などが見られ、これまでの抽象的な表現と具象的な表現が組み合わさります。
後期になるとほとんどの土偶が立像となり、
後期の終わりから晩期にかけては中空の土偶が多くなります。
板状の土偶は晩期ごろまで続きます。
町内でも様々な時期の土偶が確認されています。
フゴッペ貝塚の土偶は、星のような形をしており、紐が通るような孔があけられています。
栄町7遺跡の土偶は、胸やお尻が強調され、一目で女性だとわかります。
登町5遺跡の土偶は目鼻立ちがしっかりと表現されたものです。
登川左岸遺跡から見つかった板状土偶は、頭部がありませんが、お腹のあたりに産道のように見える沈線が刻まれ、部分的にベンガラが塗られています。
大川遺跡からは、土偶の頭部や手足が多く見つかっています。もしかしたらたくさんの土偶が作られていたのかもしれません。
現在町内にはありませんが、大谷地貝塚でも土偶が見つかっています。こちらは中空のもので、頭部からは当時の髪形などを想像することができます。 |
土偶 |
縄文の女たち
土偶
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フゴッペ貝塚 フゴッペ貝塚写真図版
種別:集落
時代:縄文
主な遺構:住居、土坑、貝塚、焼土
主な遺物:土器、石鏃、石錐、ポイントもしくは両面加工のナイフ、つまみ付きナイフ、スクレイパー、楔形石器、異形石器、
すり石、たたき石、くぼみ石、砥石、石鋸、石錘、石皿、台石
特記事項:
縄文前期末から中期初頭の住居跡、土坑群。
縄文中期末の住居跡、土坑群、貝塚。
縄文晩期後葉の土坑群。
フゴッペ貝塚出土十字土偶
フゴッペ貝塚出土土偶
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フゴッペ貝塚出土土偶
縄文前期末~中期 |
十字土偶と言われる土偶。
顔や体の表現は見られない。
住居内から見つかりました。 |
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フゴッペ貝塚出土土偶
縄文前期末~中期
参考
十字型板状土偶
三内丸山遺跡
青森県 |
登町5遺跡出土土偶
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ハート形土偶に類似し、目・鼻・口と眉が表現されています。
2点ほぼ同じ場所で出土しましたが、同一個体ではないと思われます。 |
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登町5遺跡出土土偶
縄文中期~後期
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登町5遺跡
縄文時代後期頃?
参考
ハート形土偶
群馬県吾妻町
郷原遺跡 |
栄町7遺跡出土土偶 縄文晩期
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板状土偶
フゴッペ川右岸の河川堆積物の中から出土しています。 |
板状土偶 |
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栄町7遺跡出土
板状土偶
通称ななちゃん |
大川遺跡出土土偶 縄文晩期
2003年度報告では大量の管玉・ヒスイ玉・ガラス玉、人骨の出土した土壙がいくつも発見されている。
余市町_大川遺跡 大川遺跡 八幡山・大川・天内山・沢町遺跡
種別:散布地
時代:縄文、中世(細分不明)、近世(細分不明)、続縄文
主な遺構:住居跡
主な遺物:土器、石器、陶磁器、鉄器、骨角器
特記事項:縄文時代晩期と続縄文時代の墓壙群を主体とし、中世の墓壙が検出され、多量の副葬品が出土した。
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頭・脚・腕部がそれぞれ出土しています。 |

脚部 |

腕部 |

頭部 |
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登川左岸 土板状土偶 縄文晩期末
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登川左岸土版状土偶
遺跡名:登川左岸
縄文晩期末
大型の板状土偶で、頭部が欠損しています。
表裏ともに浅い沈線があり、
部分的に赤色顔料の跡があります。 |
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登川左岸
縄文時代晩期頃 |
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330 |
331縄文時代の芸術
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縄文時代の芸術作品
・縄文時代の芸術作品
縄文文化の芸術は、何らかの信仰などの宗教的な要素や内容が込められています。生活の上で最も重要な食料資源の豊作や、子孫繁栄のお願い、人間の生死に伴う畏れなど、様々な祈りを込められた土器や土製品などの道具を見ると、当時の人々の価値観や美意識が見えてくるのではないでしょうか。
・ベンガラ
縄文時代や続縄文時代のお墓を調査すると埋葬されている遺体の上や、その周辺にベンガラが散歩されていることがあります。また、特別な土器や道具とみられるものにベンガラが塗られていることが多いです。ベンガラは酸化鉄を主成分とする赤色顔料のひとつで、場所によっては、天然で採取できる場合もありますが、人工的に作られる場合もあります。
赤い色は体に流れる血の色や炎などを表し、お墓に撒かれるのは、再生を祈るなどの特別な意味合いが込められていると考えられます。 |
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縄文時代里芸術作品
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332スタンプ状土製品 安芸遺跡・大川遺跡 縄文後期
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沈線による文様があります。つまみ部分にも貫通孔があり、紐などを通していたものや、底面が円形または無文のものなどがあります。 |
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「スタンプ状土製品」
スタンプ状土製品には大きく2種類あるんじゃ。
1つは、スタンプ面が平たく、何かをすり潰すための道具だったと考えられているもの。
2つ目は、模様の線が深く、行事の際に食べ物に押すスタンプとして使われたと考えられているのじゃ。 |
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333小形土製品
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落花生形土製品
入舟遺跡・大川遺跡
縄文晩期
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垂飾具年て使用された物と考えられています。 |
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コマ形土製品
大川遺跡 続縄文期
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ミカン形土製品
大川遺跡 続縄文期 |
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クマ形土製品
大川遺跡 続縄文
土器の縁の装飾の一部と考えられます。 |
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オロシガネ状土製品
安芸遺跡
縄文後期
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334小形土製品
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分銅型土製品
大川遺跡 縄文時代
分銅のような形の土製品 |
勾玉形土製品
大川遺跡 縄文期
勾玉のような |
漏斗型土製品
沢町遺跡 縄文晩期 |
液体を移し替えるための道具として使われたと考えられる。
※何を移し替えたんだろう。酒?
細い口の容器に、細い管の漏斗を挿して。少しずつチビチビと移し替えたもの…貴重品?
※ネット検索しても他に類例がありません。
日本唯一の土製縄文漏斗のようです。 |
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円形土器片
大川遺跡 縄文晩期
土器片の周辺を円形に調整した物です。
垂飾具とも考えられていますが
詳しい用途はわかっていません。
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イモ貝状土製品
大川遺跡 縄文時代
横に穴が貫通しているので、腰飾りや腰ひもの緒締め年て使用されていたと考えられます。
※これはきっとサザエの蓋でしょう。
南海のイモガイは断ち切らないと螺旋にならない。それより身近なサザエの蓋がいいのでは? |
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350土鈴 余市大川遺跡
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縄文時代の音色
・土鈴(どれい)
展示されている土鈴は、縄文時代晩期のお墓と、続縄文時代の建物跡から見つかりました。
縄文時代晩期の土鈴が見つかったお墓は、ベンガラが厚く撒かれており、底からヒスイの玉も確認されました。土鈴は埋葬する
際に、土の上に置かれたか、何かに吊るされて使用されたものだと考えられます。
続縄文時代の土鈴が見つかった小形の建物跡は、火を焚いた炉跡は見つからず、生活の匂いが感じられない場所でした。床面からは
石器を製作する際にでる黒曜石の屑が多量に見つかっていることから、ここは住居跡ではなく工房のような場所だったと考えられます。
土鈴は祭事など特別な行事で使用されていたと考えられていますが、大川遺跡の土鈴がどのような意図で利用されていたものなのかはわかっていません。
※大川遺跡の縄文晩期(約3000年前)の墓と、続縄文時代(約1700年前)の住居跡から出土した。 |
続縄文時代(約1700年前)の土鈴
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中には6個の土玉が入っています。
振ると「コロコロ」となります。 |
土鈴 大川遺跡 縄文晩期 続縄文時代
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土で作られた密閉型の鈴。どのように使用されたかはわかっていません。 |
縄文晩期の土鈴
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続縄文時代の土鈴 |
縄文時代晩期の土鈴 |
縄文晩期(約3千年前)の土鈴
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上部底部にも文様が刻まれています。
振ると「カラカラ」と乾いた音がします。 |
土版 大川遺跡 縄文晩期
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特異な形をした土版です。
特に右側の土版は墓標などにぶら下げられていたものかもしれません。 |
土版 大川遺跡 縄文晩期
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ベンガラで赤く塗られている土版です。 |
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400二階④
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410擦文時代
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411擦文時代の交易
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北と南と北海道
~南~
・律令国家との交易
7~8世紀、擦文文化の人々は律令国家との交易を行っていました。国家からもたらされた鉄製武具や袴帯金具(かたいかなぐ)などは、擦文文化の人々と本州の人々の交流や交易を語る資料と言えるでしょう。
9~10世紀、律令国家と交易を継続的に行っていた東北北部では、集落が急増し、製鉄や製塩、須恵器の生産が開始され、それらの生産物は擦文文化の人々との交易に用いられました。
10世紀頃には、擦文文化が北海道北東部、さらには、サハリンや千島列島にまで拡大していき、擦文文化の人々はこれらの地域の天然資源を獲得しました。その結果、北海道に交易によって刀子、鎌、斧などの鉄製品がもたらされ、北海道の海獣の毛皮や鷲羽などが都に運び込まれることとなりました。
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北と南と北海道
~北~
・北と南の交流
8~10世紀頃は世界的に温暖な気候でした。
当時は擦文文化、製鉄や須恵器の生産が開始された東北地方北部の文化
オホーツク文化、
大陸の文化と、
様々な文化をもつ地域が交流・交易を活発に行い、各地で様々な文化やモノが交わされました。
・オホーツク文化
5~9世紀、サハリンから北海道千島列島へオホーツク文化圏が拡大します。
オホーツク文化の人々は、海獣狩猟や漁撈活動を主な生業とし、移動と定住を繰り返しながら、海洋資源を獲得していました。
オホーツク文化は、熊の頭骨を竪穴住居内の祭壇に安置する祭祀や、遺体の頭に甕形土器をかぶせる埋葬方法、豚の飼育など、様々な点で、これまでの北海道の文化とは大きく違う文化でした。
また当時は温暖期であったため、北海道のオホーツク海沿岸でも流氷が接岸せず、
一年を通じて食料や交易資源の獲得か゛化膿でした。
このような温暖な気候によって、オホーツク文化の人々による交易は、様々な地域と行われ、多くの地域がその影響を受けました。
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発掘調査体験記、~大川遺跡~
「新幹線より早く掘るのだ…の巻」
大川遺跡は縄文時代晩期から近世までの多くの時代にわたる複合遺跡です。
近世のお墓を降掘り、記録し、遺物を取り上げると、その下に擦文時代のお墓、それを掘り終えると、その下に縄文時代のお墓と、各時代のお墓が重なり合って見つかることもありました。
しかし砂丘上にあるため掘ってすぐに確認しないと、あっという間に地面が乾いてしまって、土砂の色が見分けられなくなります。土砂の質の変化を見極め、新たな遺構を見つけるために、調査はスピードが求められました。 |
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北と南と北海道
~南~ |
北と南と北海道
~北~
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発掘調査体験記
大川遺跡 |
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413刻書土器・墨書土器
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刻まれた土器・墨書で書かれた土器
文字が刻まれた土器
「?」は、「奉」が「夷(エミシ)」もしくは別の文字が省略され、記号がされたものではないかと考えられています。
また、札幌市の北海道大学構内のいせきであるサクシュコトニ川遺跡からも同様の字が刻まれたものが見つかっています。
墨書で書かれた土器
土器の表面に「七」や「大」と思われる文字が書かれています。
国内では南に行くほど刻書より墨書で描かれたものが多く見つかっていますが、道内では墨書の書かれた土器などはほとんど見つかっていません。
これらの土器に書かれた文字は、
所有や窯記号などの意味が考えられますが、全てが「文字」として、意味を理解した上で書かれているものかは不明です。
発見されている土器には「大」など記号として書きやすいもの「七」や「奉」のように《めでたい記号》と考えられるものなどが描かれることが多いようです。
また、「長谷」など2文字が書かれているものは、所有としての文字ではないかとも考えられます。
余市町で発見されているものは、トメやハライがしっかりと書かれているものが多く、それらは「文字」と意識して書かれているものなのかもしれません。 |
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刻まれた須恵器・「奉」が描かれた磁器
「大刀」が刻まれた須恵器
須恵器の表面に「大刀」と言う文字が刻まれています。青森県五所川原で作られた須恵器です。擦文時代のもので大川遺跡からみつかりました。
「?」「奉る」が描かれた磁器
碗の見込みに「?」、表面に「奉」と言う文字が描かれています。江戸時代(19世紀頃)に作られた肥前系染付碗で、大川遺跡から見つかりました。
見込みには、重ね焼きの際にそれぞれの碗がくっつかないようにおいた台の跡である目跡(めあと)が5ヶ所にみられます。 |
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414
須恵器
大川遺跡 擦文時代 |
青森県五所川原産の須恵器です。
本州から運ばれた物だと考えられます。 |
墨書のある土器
大川遺跡 擦文時代
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土器に墨書で文字が見られます。道内で見つかる墨書のある土器は、非常に珍しい物です。
※って、見えねーや
矢印の先は小さいしピンボケ
その上の「必」みたいのはわかる |
「?」が刻まれた土器 |
「?」が刻まれた土器
大川遺跡 擦文時代
土師器に「?」を刻書。
「奉」「夷」の略字でないかと考えられている。 |
「大刀」が刻まれた須恵器
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「大刀」が刻まれた須恵器
大川遺跡 擦文時代
須恵器表面に刻書 |
黒色土器
no caption
うしろから撮影のため |

詳細不明。ごめんなさい |
内外黒色土器  |
内外黒色土器
大川遺跡 擦文時代
黒色土器は道内でも発見例が少ない。未だに出自が不明。
北方地方との関りのある資料かも知れません。 |
オホーツク式土器
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オホーツク式土器
大川遺跡 擦文時代
余市地方では見かけない形と文様が付けられている。北方との関連があると考えられています。 |
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430 |
431石器製作
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これで君も、石器分け職人
・石器って石とドウチガウ?
石器とは石を使って作られた道具です。(作りかけのものや壊れているものも見つかります。)パッと見ただけでは道に落ちている石では?と思うものも、昔の人が道具として使用した痕跡があれば石器といえます。
石器によっては、人によって加工された痕なのか、自然に壊れただけなのかの判断が専門家にも難しいものもあります。
しかしそれだけに土器や土偶などと違い、畑などで見つかっても放置されてしまうことが多くあります。もしかしたらこれまでただの石だと思っていたおうちの畑のいしも、石器かもしれません。
・石器作りはプロのお仕事
石作りでは、道具の使われ方に合わせた石材が選ばれ、石と石との打撃、石と木棒や鹿角との打撃などによって石器計の形を整えて作られます。
石器作りでは、石材の性質を熟知していなければ、思い通りの形を作ることはできません。石器が削り出される前の石材を「母岩」と呼び、打撃によって剥離したカケラを「剥片」残された母岩はその段階で「石核」と呼びます。この剥片を取る技術について、旧石器時代は規則的・効率的に同様の形をした剥片を大量に生産し、定型的な石器製作が行われました。 |
石器の種類
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狩猟・漁撈具 |
突き刺す |
石鏃 |
石槍 |
網などの錘 |
石錘 |
釣り具の錘 |
魚形石器 |
農具・工具 |
割る・削る・切る |
磨製石斧 |
打製石斧 |
掻器・削器 |
えぐる |
磨製石斧 |
孔をあける |
石錐 |
みがく |
砥石 |
石器をつくる |
たたき石 |
土を掘る |
打製石斧 |
調理具 |
皮を剥ぐ |
掻器・削器 |
ナイフ |
肉・骨を切る |
掻器・削器 |
ナイフ |
製粉する |
石皿 |
たたき石 |
すり石 |
北海道式石冠 |
権威的・呪術的な道具 |
呪術具 |
石棒 |
石剣 |
装身具 |
勾玉 |
その他玉類 |
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432発掘調査体験記
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発掘調査、体験記、~大川遺跡~
「いま会いに行ける遺跡…の巻」
大川遺跡は大川1丁目の住宅街の一角に位置しており、1998年以降の調査は、フェンスで囲まれることもなく、町民の方の目に触れることも多くなりました。
道路のすぐ脇の調査をしていると人の気配を感じ、見上げると町民とおぼしき高齢の男性がバリケードの向こう側にしゃがんで興味深げにこちらを覗き込んでいます。「ここは大昔どんなところだったんだ?」「地面から顔を出しているそれはなんだ?」「など次々と質問され、それに答えているうちに、他の通行人や近所の人たちも足を止め臨時のミニ遺跡見学会が始まったこともありました。 |
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発掘調査体験記 ~大川遺跡~
「灼熱のアイス人間…の巻」
大川遺跡は余市川河口部右岸に位置し、大川砂丘上にあり、1994年当時の発掘調査はフェンスで囲まれ、そのフェンスに太陽光が反射し、風も遮られるため、電子レンジの中で調理をされているような気持ちになるほどの暑さでした。
肌はジリジリと音を立てているかのように焼け、深さ80cmほどのお墓の中に温度計を置くと目盛りを振り切り測定不能だったことを覚えています。
腕の日焼けが、普段露出していた部分(チョコレート)、Tシャツの袖をまくった部分(ストロベリー)、露出していない部分(バニラ)と三色アイスのようになっていました。 |
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433石器 沢町遺跡、大川遺跡 縄文晩期、続縄文時代
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矢の先に付ける「石鏃」や、槍の先に付ける「石槍」、いろいろな物に穴を開ける「石錐」などの様々な石器が作られました。 |
余市町沢町遺跡 沢町遺跡-全国文化財総覧 八幡山遺跡 大川遺跡 天内山遺跡 沢町遺跡 北海道90沢町遺跡
沢町遺跡
位置:標高30m余の緩斜面にある遺跡。
遺跡:擦文住居跡4、平面形は隅丸方形で、1軒ノミはカマドがなく住居中央に炉跡を確認。(2.6m×2.4m)
他の3軒は西側にカマドを設け、排煙トンネルを設ける。 (5.5m~6m)
遺構:沢町遺跡では縄文晩期のお墓は多数見つかったが、擦文時代の遺構は住居跡のみで、墓は見つからなかった。
※この頃、北方民族では風葬が行なわれていたと聞いている。
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砥石 沢町遺跡

砂岩や泥岩等の柔らかい自然石をそのまま利用 |
石鏃
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石斧
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石器 |
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敲石
沢町遺跡
縄文後期~晩期
物をたたいたり、磨り潰したりする道具。
窪み石
沢町遺跡
縄文後期~晩期
両面に数か所、叩かれてできた窪みがある石器。 |
北海道式石冠と石皿
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持ち手を作り出した礫石器を北海道式石冠と言います。
石冠と石皿は一緒に出土するもので、木の実を叩いたり、磨り潰したりすることに使います。 |
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440 |
441魚形石器 大川遺跡 続縄文時代
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釣りの疑似餌やおもりとして、オヒョウやヒラメなど大型魚を捕獲するために使用したと考えられている石器です。 |
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442骨角器 続縄文時代
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獣・鳥・魚の骨や角、歯牙などで作られた器物です。
銛や針、釣針、尖頭器などや、装飾具も作られました。
金属器の使用後も継続して使われました。 |
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錘(鹿骨)
釣針先(鳥骨:続縄文)
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銛頭(鹿骨)
続縄文時代 |
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443骨角器 続縄文時代
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動物型刺突具(鯨骨)
恵山形銛頭(鹿骨)
続縄文時代 |
針入(鳥骨)
中柄(鯨骨)
中柄(鹿骨)
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針(鳥骨) |
尾棘(エイ) |
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450食事
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縄文のお食事事情
・縄文人の食事
狩猟採集民族であった縄文人は、海の幸、川の幸、山の幸を季節ごとに旬のものを食べていたようです。ただし冬になると獲物をとらえる事は困難であったため、食料を備蓄するために貯蔵用の穴を掘ったり燻製を作ったり、生きるための工夫をしてきました。
海では魚類、貝類、海獣類のほか、クジラやイルカなど、
川ではサケやマスなどの大型魚類を中心に捕っていました。
山の森や林では、ドングリ・クルミなどの木の実や、ヤマシモやサトイモ、ユリ根、カタクリなどの根茎類や各種の野草、
熊や鹿、ウサギやキツネなどの陸獣を獲っていました。
どんな料理をしていたの?
当時の「お食事事情」は遺跡内の貝塚や住居内などで見つかる魚や獣、植物などによって見当をつけることができます。
例えば町内の大川遺跡では、
縄文時代晩期から擦文時代の大量の魚骨や獣骨が見つかっただけでなく、
擦文時代のヒエやキビ、コメが炭化したものも見つかりました。
主な調理方法は土器で「煮る」。現在の料理で言えば、シチューや寄せ鍋のような料理ができます。煮ることによって食べることができる食材が増えただけでなく、消化も良くなりました。その他にも木の実を使ったクッキーやハンバーグのようなもの、サケやクリはなど保存食として加工されていたのかもしれません。 |
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続縄文&擦文のお食事事情
・続縄文時代は「漁撈」
続縄文時代前半の恵山文化期の遺跡からは、釣り針や銛など「漁撈」に関わる道具がたくさん見つかっており、この時代の人々は、海の生業を中心とした生活を送っていたと考えられています。
魚形石器は、東山文化期に作られたもので、魚の形に似ているところから名付けられました。頭部や尾部に一重か二重の線がぐるりと刻まれているものが多く見られます。
用途にはいくつか説がありますが、魚釣り用の疑似餌やおもりとして、オヒョウやヒラメなど大型の魚を捕獲したと言う説が有力です。
余市町も含めて現在まで魚形石器が発見されている遺跡の多くが海岸に近いので、漁労文化に関係した石器である事は確かであると思われます。
擦文時代は「雑穀栽培始まる!」
擦文時代は、四角い竪穴住居に進み、ムギ・アワ・キビ・ソバ・ヒエなどの雑穀栽培を行うなど、本州の暮らし方を取り入れつつも続縄文時代から続く漁労文化を主として、住居の中では、伝統的な囲炉裏を使い、水田は作らない、といった北海道の地域性が強く現れた文化でした。 |
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続縄文・擦文の食事 |
縄文人のお食事 |
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ヒエ |
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キビ |
コメ |
ソバ |
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※恵山式土器文化の4期 引用「恵山式土器文化」
1期:青森県の弥生文化前葉の二枚橋式土器に対応した、亀ケ岡式土器の伝統を強く残した変形工字文が特徴で、甕、短頸甕、鉢形、台付浅鉢型土器などからなる(第46図1~5)。下添山遺跡、瀬棚町海岸砂丘遺跡などから出土するほか、恵山貝塚からも出土。
2期:青森県の弥生文化中葉田舎館式の古い時期や宇鉄Ⅱ遺跡出土の土器に対応した、波状工字文や変形工字文、変形工字文に由来した3~4条の沈線を重ねて鋸歯や波形が施文された土器が作られた(第46図6~13)。甕の頸部は長大化するとともに直立し、そこに無文帯を幅広く残すものとなる。ボール形やコップ形土器、把手付鉢や丸底の鉢が作られるのはこの時期で、浅鉢、鉢形や壷形など多様な器形の土器が作られた。遺跡数が増加して石狩低地帯付近まで分布する。恵山貝塚、尾白内遺跡が代表的な遺跡である。
3期:瀬棚町南川遺跡の住居址や墓、アヨロ遺跡の墓からセットで出土した南川Ⅲ群、アヨロ2類b土器が相当し、器形の変化が少なくなり、甕、鉢形、壷形土器が主体となって、平行沈線文と鋸歯状の沈線文で特徴づけられる(第46図14~19)。この時期の土器も石狩低地帯まで分布し、札幌市N295遺跡などの土壙墓や住居内から出土している。
4期:南川遺跡出土の南川Ⅳ群土器が相当する、横走ないしは波状を描く沈線で縁どられた中に、帯縄文という特殊な縄文が施された土器である(第46図20~29)。この時期の土器も石狩低地帯に分布するが、作られた土器が移入品として持ち込まれていたらしい。 |
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500二階⑤ |
510登町10遺跡 余市町旭町26番地(余市農道空港約1000mは登町10遺跡の全体を破壊してつくられたものであった。)
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511登町遺跡とは
登町10遺跡ってどんな遺跡?その1
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登町10遺跡ってどこ?
遺跡の調査は後志自動車道余市ICから仁木方面へ延びる一般国道5号倶知安余市道路の建設に伴い行われました。
調査区は余市町の市街地から4kmほど離れた余市農道離着陸場のある丘陵の東側斜面に位置しています。
昔の登町10遺跡
調査前は畑として利用されていた場所で、周辺では昭和20年代以降、野菜や燕麦、ぶどうなどが栽培されていました。
農道着陸場建設以前は、調査区を含む丘陵全体が現在より13mほど高いものでした。
これまでの調査の流れ
試掘調査…平成30年11月
発掘調査…令和2年4月~10月
整理作業報告書刊行作業…令和2年11月から令和4年3月
まとめ
登町10遺跡は高速道路の続きの道路を作るために必要な発掘調査だった。
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登町10遺跡ってどんな遺跡?その1
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登町10遺跡ってどこ?  |
むかしの登町10遺跡
これまでの調査の流れ
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高速道路の続きをつくる予定だった
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登町10遺跡ってどんな遺跡?その2
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登町10遺跡ってどんな遺跡?
調査地点の現在の標高は約17~27mです。遺物は約20,000点、遺構は、縄文住居35軒のほか、剥片集中、焼土遺構、土壙、小土壙などが確認されました。
縄文時代早期から続縄文時代までの遺物が見つかっていますが、遺跡の主要な時期は、縄文時代早期、後期だと考えられます。
早期の住居は、調査区の南側や西側斜面、後期の住居は、調査区東側から沢地周辺に集中する傾向が伺えます。
今回の調査によって、縄文時代、早期・前期・後期の3時期の集落の様相の一端が明らかになりました。
登町10遺跡周辺の遺跡
調査区の周辺は多くの遺跡があり、以前から土器や石を見つけたと言う報告もある地域でした。
今回の大発見
早期住居23件
①縄文時代、早期の住居と集落
~初めて見つかった早期の集落~
前期住居1軒
②縄文時代前期の住居
③縄文時代前期の縄文ヒエ
~後志最古の縄文ヒエ
後期住居11軒
④縄文時代後期の集落
まとめ
今回の調査によって、余市町の縄文時代、早期・前期・後期の住居の様子がわかってきたぞ。
※詳細が書かれていませんが、縄文前期のイネ科植物ヒエが発見されたことは重大な発見ではないでしょうか。 |
登町10遺跡ってどんな遺跡?その2
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登町10遺跡っどんな遺跡?
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登町10遺跡周辺の遺跡
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今回の大発見
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縄文早・前・後期の住居がわかった。 |
登町10遺跡に住まう一族
~縄文時代早期・前期~
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縄文時代早期のおうち
余市町では、縄文時代早期の遺跡は確認されていましたが、調査例も少なく、その実態はわかっていませんでした。
今回の調査によって町内で初めて23軒もの住居のほか、同時期の土壙、小土壙、焼土。剥片集中が多数の確認されました。
これらの情報をもとに、これまで確認はされていたものの、詳細がよくわかっていなかった早期の遺跡についても、新たな事実がわかっていくこととなりそうです。
縄文時代前期のおうち
余市町ではこれまでフゴッペ貝塚と言う遺跡でのみ縄文時代前期の住居が見つかっていました。
今回確認された前期の住居は海の近くにあるフゴッペ貝塚とは地理的条件が大きく違う立地での確認となりました。
登町10遺跡では前期の遺稿として、住居のほかに土壙や焼土、剥片集中などが確認されました。
まとめ
縄文時代早期の集落例は少ないので、他の早期の遺跡と比較できる非常に重要な遺跡なんじゃ |
登町10遺跡に住まう一族
縄文早期・前期
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縄文早期のおうち
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縄文前期のおうち
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縄文早期の集落例は少ない。 |
登町10遺跡に住まう一族
~縄文時代後期・続縄文時代~
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縄文時代後期のおうち
余市町では縄文時代後期の遺跡はいくつか調査されていましたが、西崎山環状列石など、特殊な性格を持つ遺跡での調査が多く、集落遺跡としては余市平野の砂丘上に立地する安芸遺跡のみでした。
今回の調査で11軒の住居のほか土壙、小土壙、炉跡、剥片集中など多数見つかり、丘陵裾分に立地する後期の集落遺跡と言うこれまで調査されていない立地ての集落の確認となりました。
登町10遺跡と続縄文時代
遺跡内では続縄文時代の遺物が東側斜面部に集中してみつかっています。今回の調査では、遺構は見つかっていませんが、かつては東側斜面部から丘陵の裾野にかけて、続足縄文時代の集落があったのかもしれません。
現在、東側斜面部は凶調査区の6m先から削平されており、その状況を確認する事は出来ませんでした。丘陵周辺では、町内でも早い時期に水田が作られており、そのための土取りによって丘陵が削られた可能性があります。
まとめ
山側で縄文時代後期の集落が見つかったのは町内初なのじゃぁ |
登町10遺跡に住まう一族
縄文後期・続縄文 |
縄文後期のおうち
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登町10遺跡と続縄文時代
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山側で縄文後期の遺跡が見つかったのは町内初なのじゃ
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513登町10遺跡出土物
早期・前期・後期
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コッタロ式土器
№1縄文早期後半
№2縄文早期後半 |
円筒下層式
№3縄文前期前半 |
円筒下層式
№4前期前半
手稲式土器
№5後期中頃 |
№6ナイフ
№7スクレイパー |
№8砥石 |
№9砥石 |
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コッタロ式土器 縄文早期後半期の土器
・後半期の土器は、東釧路Ⅱ式土器→東釧路Ⅲ式土器→コッタロ式土器→中茶路式土器→東釧路Ⅳ式土器の序列が示される縄文土器群である。
・縄文・撚糸文を器面に施文してから微隆起線文を貼付する土器、微隆起線を最初に貼付した後に撚糸文・絡条体圧痕文を施文する土器の
二種があり、前者がコッタロ式土器、後者が中茶路式土器で、コッタロ式土器が古いとされている。
・早期の後半には、縄を押しつけたり、回転させたりして施文した縄目の文様の絡条体圧痕文、組紐圧痕文土器や、斜行縄文、羽状縄文、
それに細い隆起線などを組み合わせた平底の土器が、ほぼ全道的に出現する。
・東釧路Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ式、コッタロ式、中茶路式、梁川町式土器などとよばれるグループである。
・石器は石槍、つまみのある石小刀、石錘、石斧などで貝殻文・条痕文土器群に伴うものとあまりかわらない。
細身で長身の石鏃や環頭石斧など特徴のある石器もみられる。絡条体圧痕文・組紐圧痕文土器群の成立によって、
北海道の縄文早期の文化は安定した状態で、ほぼ全道に均一な分布をみることになる。引用ADEAC 「早期の土器」「 早期後半の文化」
円筒下層式土器 縄文前期の土器
円筒下層式土器は、縄文時代前期の土器で、円筒形や樽形の器形をしており、縄文の文様で装飾されています。
【特徴】
縄文1万年の中で最も多彩な縄目の文様を持つ
縄を串に巻き付けて転がすと縄目が縦に並ぶ単軸絡条体がつく
縄目の並びが地域によって異なり、地域性が見られる
胎土に植物繊維が混入している
口縁には円周を4等分して山形や波状口縁にした土器もあり
体部は単節の縄文や複節の縄文などと、異状斜縄文を施文するのがあり
底部の揚げ底部分に縄文が付いていることもある
【分布域】
北海道の南部から道央、道東北部、本州の青森県を中心に秋田、岩手へと分布した
青森県青森市の三内丸山遺跡や秋田県大館市の池内遺跡、秋田県能代市の杉沢台遺跡や北海道函館市のサイベ沢遺跡などに出土している
・円筒下層式土器は、縄文 1 万年の中で一番多彩な縄目の文様をもつ。縄を串に巻き付け、転がすと縄目が縦に並ぶ単軸絡条体がつく。
さらに串の本数を増やすと縄目が互い違いに並ぶ多軸絡条体がつく。縄目の並びが地域によって異なり、”津軽と南部”の様な
地域性が見られる。粘土紐など華やかな装飾をつけず、多様な縄目を使うことが円筒土器の人々のこだわりだったのだろうか。
引用「六ケ所村立郷土館」
手稲式土器 縄文後期の土器
手稲式土器は、縄文後期に作られた土器で、関東地方の加曽利B式土器の系列に属しています。類縁の土器は東海、近畿にまで広くみられ、
磨消縄文の系譜は四国、九州にまでたどれる。 まさに全国を風靡した土器ということができる。
東日本の縄文文化、特に後半期の研究に欠かせない土器です。
【特徴】
深鉢や浅鉢の平行沈線をつなぐ弧線にさまざまなバリエーションがある
磨消手法が発達している
羽状縄文はまだない
【出土例】
札幌市の手稲遺跡で出土した土器群が、当初同一時期に製作された土器と考えられ、一括して手稲式土器と呼ばれていた
【研究の意義】
東日本の縄文文化、特に後半期の縄文文化を研究する上で、手稲式土器は避けられないものである
類縁の土器は東海、近畿にまで広くみられ、磨消縄文の系譜は四国、九州にまでたどれる
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514これで土器博士
これで土器博士!
土器を観察してみよう
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土器のどの部分?…口縁
土器のどこを見れば良い?…沈線
土器の断面
なんと言う名の土器?
住吉町式土器
(縄文早期中頃)№344
↓ |
↓
何時代の土器?
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515縄文時代の土器型式
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物見台式土器
早期中頃
貝殻の縁でギザ文
貝殻を横に引いた掻き取文 |
物見台式土器
縄文早期中頃
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住吉町式土器
早期中頃

沈線 |
アルトリ式土器
早期中頃
貝殻横線文 |
アルトリ式土器
早期中頃
貼付帯に貝殻で刻み |
東釧路Ⅲ式
早期後半
貼付帯に縄文原体で文様 |
コッタロ式
早期後半
貼付帯に縄文原体と工具で文様 |
コッタロ式
早期後半

平底 |
コッタロ式
早期後半
貼付帯に工具で文様 |
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物見台式土器 早期
物見台式土器は、縄文時代早期の尖底土器で、貝殻の腹縁で沈線を施文した幾何学的な文様を特徴としています。
【特徴】
標式遺跡は青森県東通村の物見台遺跡
口縁は平縁と波状があり、乳房状突起を有するものもあります
底部が乳房状で、口縁部が内反しているものもあります
文様は貝殻の腹縁部分を用いた刺突や、棒状工具を用いた押し引きによるものです
住吉町式土器 早期中葉
住吉町式土器は、北海道函館市住吉町遺跡で出土した縄文時代早期中葉の土器で、貝殻文尖底土器とも呼ばれます。
【特徴】
円錐形の器形で、尖底部の乳頭状突起が特徴
器体には貝殻による圧痕文や沈線文・刺突文などが施文されている
底が不安定で、土器の大きさは普通高さが30センチメートル前後
尖底部は砲弾形のものと乳房状のものがある
【関連情報】
住吉町遺跡から出土した石器の特徴から、この地域では漁業を中心とした生活を営んでいたと推定されています
北海道の縄文早期の中頃は貝殻による文様が特徴的な土器が主流となります
道南部を代表する「住吉町式」は底部が尖底に対し、道東部の「沼尻式」は平底です
アルトリ式土器
アルトリ式土器は、縄文時代中期後葉(約4900~4800年前)の土器様式です。
山梨県甲府盆地を中心に、八ケ岳製南麓から富士川下流域、伊豆地方、西関東が主な分布域です。房総半島からも出土しています。
注意AIによる上の記述は間違いです。
アルトリ式土器は、 北海道豊浦町豊浦アルトリ遺跡出土の土器です。但し遺跡の詳細、土器の詳細については不明です。
唯一 「恵庭市柏木川13遺跡」でアルトリ式土器について述べています。
東釧路Ⅲ式
東釧路Ⅲ式土器は、縄文時代早期の終わり頃に北海道内で広く分布した土器で、薄手の平底土器です。
釧路市・東釧路貝塚にちなんで命名されました。
【特徴】
・上から交互に向きを変えて、細い縄文がつけられています
鉢型の土器で底が平らでクの字状に張り出す特徴があります
縄や紐を転がしたり、押し付けたりして文様がつけられています
絡条体圧痕文・組紐圧痕文・撚糸文が帯状に複合して施文されています
口縁が直立に近く立つ、もしくは大きく外反し底面が外に大きく張りだす
・鉢型の土器で底が平らでクの字状に張り出す特徴を持っています。
縄文時代に入って縄文の文様がもっとも発達した時で縄や紐を転がしたり、押し付けたりして文様がつけられています。
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中茶路式
早期後半

薄い貼付帯が付けられる |
中茶路式
早期後半
底の内側に縄文がつけられる |
土器の底に突起が付く
粘土を押さえた爪の跡
縄文早期
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中茶路式
早期後半

縦と横に貼付帯がつけられる |
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綱文式
前期前半

節を指で撫で消す |
静内中野式
前期前半
胎土に繊維を混ぜる |
手稲式
後期中頃

く字に外反。節を指で消す。沈線 |
北筒式
中期後半

工具で押引した文様 |
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中茶路式土器 早期後葉
後半期の土器は、東釧路Ⅱ式土器→東釧路Ⅲ式土器→コッタロ式土器→中茶路式土器→東釧路Ⅳ式土器の序列が示されている土器群である。
六ケ所村表舘X群土器と十勝の中茶路式土器に共通の土器文様(縄ひもを波形に押しつけた押圧文)が見られ交易があったことがわかった。
綱文式土器 前期前葉
綱文式土器は、縄文時代前期前葉の土器で、縄文の縄目が太いのが特徴です。
【特徴】
底部が尖底になる
胎土に繊維を多く含む
丸底で口に向かって開く形
太目の縄文が横走する
【分布】
石狩低地帯以北に広く分布している
網走市大曲洞窟遺跡などから出土している
すり鉢状に底が丸くなり、口縁とほぼ平行にはしる綱状によった太めの縄文でかざられた綱文式
静内中野式土器 前期
静内中野式土器は、縄文文化前期の土器で、胎土に大量の繊維や撚糸を含むのが特徴です。縄文文化前期土器の標識資料とされています。
手稲式土器 後期中葉
手稲式土器は、縄文時代後期中葉(約3500年前)の土器で、北海道札幌市手稲区の紅葉山砂丘遺跡から出土しています。
関東地方の加曽利B式土器の系列に属しており、東海や近畿、四国や九州など全国に分布しています。
【特徴】
深鉢や浅鉢の平行沈線をつなぐ弧線にさまざまなバラエティがある
磨消手法がよく発達している
羽状縄文はまだない
北筒式土器
北筒式土器は、縄文時代中期後半から後期初頭に北海道の道東や道北に分布した円筒形の土器です。北海道円筒式土器とも呼ばれます。
【特徴】
口縁は山形突起をもった波状もしくは平縁で、口縁部に肥厚帯がつくられる
口縁部に円形の刺突文が数センチメートル間隔でめぐる
若干の繊維を含んでいる
【分布】
日本海側では岩内町、噴火湾岸では登別市が南限
遺跡も海岸地帯だけではなく山岳地に近いところまで分布
・縄文時代中期後半~後期初頭の土器
約4500年前から、4000年前ころまでの土器です。 「北筒式土器」という名前で知られる、円筒形の縄文土器が作られた時期です。
北筒式土器の時期は数百年あり、土器の形や作りが少しずつ変化しているため、さらにいくつかに分類して呼ばれています。
・北筒式土器は北海道円筒式土器の略で、中期後半に主として道東や道北に分布した、若干の繊維を含んだ円筒形の土器である。
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北筒式
中期後半

刺突文 |
余市式
後期前半

厚い貼付帯
原体を押し当てる |
手稲式
後期中頃
節を指で撫で消す |
𩸽澗式ほっけま
後期中頃

表面を磨く(ツルツル) |
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恵山式
続縄文前半

小突起、刻み、沈線、刺突、くの字外反 |
恵山式
続縄文前半 |
恵山式
続縄文前半 |
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余市式土器
北海道函館市の余市の大谷地貝塚から出土した土器を標式とする土器の形式です。渡島地方の貝塚から出土しています。
𩸽澗式土器 縄文後期 3900~3400年前
小樽市塩谷海岸𩸽間地区出土の土器
𩸽間遺跡
トコロチャシ南尾根遺跡出土の𩸽間式土器
恵山式土器
恵山式土器は、北海道の函館市にある恵山(えさん)にちなんで名付けられた土器で、続縄文文化の前期を代表する土器です。
【特徴】
口唇に刻みがめぐり、全体は幾何学的な沈線文と縞縄文で構成されている
甕形、深鉢形、浅鉢形、壷形、台付鉢形など、さまざまな器形がある
地文として斜行縄文が用いられ、新しくなると縞縄文が多用される
【出土状況】
恵山貝塚から出土しており、この貝塚には多くの貝塚が残されており、釣り針やモリなどがたくさん見つかっている
恵山式土器は、恵山と弥生の交流を物語る
【恵山式土器の文化】
恵山式土器を用いた人々は「恵山文化」と呼ばれ、海の生業に依存していた文化だったと考えられている
恵山文化には多くの貝塚が残されており、釣り針やモリなどがたくさん見つかっている
伊達市 有珠モシリ遺跡から南海産のイモガイ製貝輪が発見されるなど、南の本州との交流があったことがわかっている
恵山式土器文化 海岸に居住し、漁撈と海獣狩猟を生業にする文化。また、ソバなどを栽培する畑作農耕文化でもある。
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530土壙墓出土土器 (登町10遺跡) |
531
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1号土坑
コッタロ式№242 1号土坑
コッタロ式№244
早期後半 |
20号土坑
コッタロ式早期後半
35号小土坑
手稲式後期中頃 |
36号住居
手稲式後期中頃×2 |
8号土坑
コッタロ式早期後半
37号土坑
手稲式後期中頃 |
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535土壙墓出土土器 no caption
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20号住居
コッタロ式
早期後半№145
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35号小土坑
手稲式
後期中頃№336 |
36号住居
手稲式
後期中頃№217
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1号土坑
コッタロ式№242
早期後半
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左:36号住居
手稲式
後期中頃№218 |
右:37号土坑
手稲式№298
後期中頃
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左:1号土坑
コッタロ式№244
早期後半
右:8号土坑
コッタロ式№250
早期後半
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550 |
551
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(今のところ)後志で一番古い縄文ヒエ
後志志で一番古い縄文ヒエ
縄文時代前期の焼土(F6)から、ヒエ属の種子が1粒見つかっています。
後志管内における縄文時代のヒエの確認例は、フゴッペ貝塚で縄文時代中期初頭から末のヒエが確認されているのみでした。
今回は管内で2例目の発見となり、最も古い縄文ヒエであることがわかりました。
どうやって種子を見つける?
今回の調査では、縄文ヒエ以外にもいくつかの植物種子が確認されました。このように当時の種子を見つけることができたのは、フローテーションと言う方法を取り入れていたからです。
フローテーション法とは「浮遊選別法」とも言いますが、水の中に土壌を浸し、表面に空気を含む孔がたくさんできている炭化した種子などの遺物を浮かべて選別する方法です。
調査では、焼土や炉跡など種子を含んでいる可能性がある遺構の土壌を調査段階で採集し、整理作業でフローテーション法を使って餞別を行いました。こうして見つかった種子も、重要な遺物の1つとして調査研究が行われます。
今わかっている限り、後志で1番古い時代のヒエが見つかったんじゃん! |
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後志で一番古い
縄文ヒエ
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後志で一番古い
縄文ヒエ
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どうやって種子を見つける
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一番古いヒエが見つかった
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大昔の余市町は今と違うの?
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縄文時代早期の余市
約9000~6000年前頃の余市は、現在よりも海が内陸に入り込んでおり、現在の標高10mの等高線と当時の渚線がほぼ一致するような環境でした。
図は現在確認されている早期の遺跡を当時の地形に当てはめたものです。
遺跡は、当時の海岸線に臨み、多くの水産資源に支えられた漁労活動が可能だったと推測されます。
今回調査された登町10遺跡は、これらの遺跡内で唯一、早期の集落が確認されています。
遺構の立地を見ると、
住居は概ね標高20m前後か、それ以上の斜面の高い地点に、
土坑は標高17~19mの斜面の低い位置にまとまる傾向が見られました。
土坑にはお墓も含まれていることから、高い地点に居住地、低い地点に墓域と言う意識的な集落構造がみてとれそうです。
現在確認されてる遺跡の性格から、縄文時代早期には、各遺跡ごとに以下のような役割があったと考えられます。
■拠点・基幹集落➡登町10遺跡
■墓域(+集落)➡八幡山遺跡、登町11遺跡
■漁場・猟場➡木村台地・フゴッペ貝塚・登町3遺跡
今回の調査で早期の集落が見つかったことで、当時の様子が見えてきたんじゃ |
大昔の余市は今と違うの
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縄文早期の余市 |
当時の様子が見えてきた
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縄文早期の余市湾 |
内陸に大きく湾が侵入している。
登町10・八幡山・登町4,3,11・フゴッペ貝塚
・木村台地遺跡は、海岸に面した集落だった。
登町10が現在随分内陸にある理由が判明した。 |
登町10遺跡の遺構分布図
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凡例
橙…早期
緑…前期
水…後期 |
遺構分布図
多数の住居跡 |
早期橙:大集落
前期緑:極小期
後期水:中集落
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再発掘で早期の集落が発見された。 |
早期の大集落は遠浅の海が食料調達に寄与し大集落を産んだ。 |
縄文海進最大期6500-6000年前の縄文前期には集落が衰退している。
中期の集落はない。 |
縄文後期の寒冷期にまた、集落が 増加し、海獣や漁撈が活発になったのか。
余市川による古余市湾の埋め立てが進んで湿原地帯(現余市平野)の増加が関係しているのか
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561石器類
石器類 |
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石核、石鏃 |
石鏃、楔形石器 |
スクレイパー
箆状石器
石錐
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オロシガネ状石製品
石斧
スクレイパー |
スクレイパー
ナイフ
ナイフ
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玉斧
石斧
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玉斧は威信材。
なぜここに登場?
大規模な交易があったのか。 |
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571
凹石、石皿
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たたき石
叩く・砕く
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すり石
すり潰す
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レキ石器マスターになろう
登町 10 遺跡の石器にさわってみよう
登町10遺跡からは、レキ石器とよばれる石で作られた道具もたくさんみつかりました。
一目みただけでは、道に 落ちてる石との違いがわかりにくいものも多いですが、 使用された部分をよく観察しながら優しく触ると
「擦った あと(ツルツル)」があったり、「たたいたあと (ゴツゴツ)」があったり、人間が道具として使った痕跡をみつけることができます。
ケガをしないように注意しながら、ぜひさわってみてください。 |
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展示されている石器は、すべて登町10遺 跡からみつかった大 切な資料なんじゃ |
レキ石器マスターになろう |
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600三階 アイヌ民族
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610余市アイヌの伝説
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ヨイチと言う地名
江戸時代のアイヌ語通詞(通訳)の上原熊次郎によると「ヨイチ。夷語イヨチなりユウオチの略語にて即温泉のある所と訳す。此れ川上に温泉のあるゆえ地名になす由」と言い、明治時代に活動したアイヌ語地名研究者の長田方正によると「イオチ。蛇多くいる所の義。余市村のアイヌ忌て実を語らずといえども、他部落のアイヌは蛇所と言うをしるなり」と言います。
この2つの見解を自身の著書『北海道の地名』で紹介している山田秀三さんは「特別の根拠がない限りは、この両説があったとしておきたい」としています。
江戸時代の初め、寛文9 (1669)年のシャクシャインの戦いの頃、津軽藩により蝦夷地各地の様子が記録された「『津軽一統志』にある「松前より〔上〕蝦夷地迄所付」では「ふるひら」と「もいれ」の間に「興市 川有、澗あり(中略)家四十軒 古城あり」と記されています。
興市は川があって船が停泊できる「澗」がある場所、また「古城」とは東中学校付近にあった天内山遺跡の事だと思われます。
ヨイチはここだと指し示せる場所はわかりません。余市川河口の集落のあった場所がヨイチなのかもしれません。 |
余市アイヌの伝説
ヨイチアイヌの伝説1
フゴッペ岬のシャチ |
ヨイチアイヌの伝説2
イヨチコタンの戦い
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ヨイチアイヌの伝説3
クマが盗む魚
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ヨイチアイヌの伝説4
キナザシの怪物
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ヨイチアイヌの伝説5
クア・チヤラスと熊飛岩
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ヨイチアイヌの伝説6
カムイワッカ 神の水
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ヨイチアイヌの伝説 1 フゴッペ岬のチャシ
フゴッペ岬(小樽市蘭島との境界)の上 に男二人と女一人の兄弟が住むチャシが ありました。 この兄弟は意地悪で、 忍路や 余市のアイヌの人たちが岬の下を通りか かると上から石を投げて悪さをするので 困っていました。
ある春のこと、ニシンの大群が浜に押し 寄せて白子で海が真っ白になりました。 忍 路のアイヌが近くを歩いていると、 岬の上 へ点々とニシンのうろこが続いているのが あり、 上へ通ずる路があることがわかりま した。
それまでは兄弟の住処がわからなかっ たのですが、 忍路と余市のアイヌが協力 して岬の上まで続く道に沿って攻め入り、 その兄弟をついに殺すことが出来ました。 その後は、 そのチャシに人が住むこと はなかったそうです。 |
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ヨイチアイヌの伝説2 イヨチコタンの戦い
余市にはじめてアイヌ民族が住み始 めた頃、 突然、フルカチャシにサルアイ ヌ (日高地方沙流川流域のアイヌ民族) 60名ほどが赤井川方面から余市川を 沿って攻め下ってきました。 チャシと は 「砦」、 「城」、 「柵囲いされた場所」 を 指すアイヌ語で、 儀式や皆で相談する 場所のことをいいます。 フルカチャシ は後に天内山チャシと呼ばれた遺跡で、 余市川左岸で河口からほど近い丘にあ りました。
サルアイヌが攻めてきたとき、その 怪しい物音を聞きつけた長老がチャシ の外に出ると、敵が大勢向かってくる のが見えました。 長老が驚いて戻ろう
としたとき敵の矢が放たれ、 かぶっ ていた兜の後ろが運悪くはね上がり、 あらわになった首筋に矢が刺さって死 んでしまいました。
余市に住んでいたアイヌの人たちは、 近くの集落に援軍を求めて戦いの準備 をしましたが、 急に雷が落ちて敵の大 半が死にました。 やがてオショロ、デタ リヒラ(現白岩町)、 ユウナイ (現豊浜 町)、フルビラから集まった援軍ととも に戦ってついに敵を全滅させました。 その時の雷を余市アイヌの人たちは雷 神様 (カンナカムイ) として崇めました。 その後、 余市アイヌはモイレ山やハ ルトリ (現浜中町) 河口などに集落を 広げて常に油断せずに敵に備えたので、
強い集団になったと言われました。
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ヨイチアイヌの伝説3 熊が盗む魚
明治になってから開拓がはじまった余市川 河畔には、長い間巨木がうっそうと茂り、その 木々からの落ち葉が川を豊かなものにしたの で、サケやマスがたくさん獲れたそうです。
川沿いに住んでいたアイヌ民族は獲れた 魚を幾尾も突き刺した木の棒の片方を岸壁 に差し込み、 もう一方を川の中に入れて鮮度 が落ちないようにしながら漁をしていました。 それを嗅ぎつけた熊が棹からサケを抜き 取っていきます。 全部を盗むのではなく1、2 尾を狙うだけなので、 棒から外れて川に流れ てゆく残りのサケをアイヌの人たちがまた拾 い集めるのだそうです。
川沿いのかつてのアイヌ集落は岬のよう に川に突き出た丘のふもとあたりで、そこは キナザシと呼ばれていました。 このキナザシ という地名は「スガ (敷物の材料)を刈り取ると ころ」と言われています。
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ヨイチアイヌの伝説4 キナザシの怪物
キナザシに「パイプ」 と呼ばれる怪物が でました。 この怪物は獰猛な熊のことと後 の人が推測しています。 アイヌは年に一 度、長老の家に集まって祭りの宴会をし ていました。 ある年、キナザシの人たちが 長老の家に集まっていた時、その怪物が キナザシに現れました。
そこに誰もいないのがわかると、 怪物 は下流のテイネ (余市橋の西側のたもと、 湿ったところという意味)に向かい、留守役 のおじいさんをかみ殺しましたが、 そこに いた娘がひとりだけ逃げ延びて皆が集ま っている長老宅に駆け込みました。
周辺集落のアイヌが続々と集まって、 怪物を退治しようとしました。 最後は茂入 山に追い詰めて刀で刺し殺しました。 |
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ヨイチアイヌの伝説5 クア・チヤラスと熊飛岩
幾千年かの大昔、年老いた神様が山 頂から滑って降りてきました。 その時右手 に杖を持って左のわきの下にそえて滑っ たので、 岩を崩しながら滑った杖の後が 今も残っていて 「クア (杖) チヤラス ( 崩れる)」 という地名になったのだそうです。
熊飛岩はその近く、 20m弱ほど岸から 離れた海面にある 「小鯨の背」 のような岩 です。 岩の南側にはふつうの男性の2倍 もあるような足跡が、 左右のかかとを揃え た格好でありました。
またその1mほど離れたところには長さ 約60cm 幅30cm、 深さ15cmもある熊 の足跡がふたつあって、 ひとつは海面よ りも上に、もうひとつは水の中に見えるの だそうです。 熊が岩に弾みをつけて飛ん だ足跡のように見える穴がその岩にあっ たのでしょうか。
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ヨイチアイヌの伝説6 カムイワッカ 神の水
クワチャライシの山頂から滑り降りてき た年老いた神様がある時、 浜に立ってい ました。 漁師さん達はその姿を見て、この 海岸線に飲み水がないことを訴えました。 すると神様の姿がこつ然と消えて、 山の 中腹にまた現れました。 神様は持ってい た杖で崖の上のほうを示しました。 すると そこから水が湧き出てみるみるうちに大き な滝になりました。 やがて時がたち、 その 滝の近くの海中ににょっきりと立っている 岩の形が、 年老いた神様の姿に似ている と誰彼となく言うようになり、 その岩は神 姿岩と呼ばれるようになりました。 その滝 は昭和時代のはじめ頃にはまだあって、 とてもおいしい水だったそうです。
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シャチの頭骨
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アイヌの人々は豊浜神社とは別の場所にあっ たこのシャチの頭骨を、儀式の祭具としてたと 伝わっています。
その後、 豊浜地区の人々によって豊浜神社の境内に移して安置しました。 |
海に生きるヨイチアイヌ
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日本海に面した余市は、縄文時代から人が住み続け、現在に至ります。
アイヌ文化に共通する要素が様々な時代に見られ、続縄文時代から擦文時代には、ガラス玉、鉄器・須恵器などが海を通ってヨイチに運ばれました。
14世紀頃には、鉄の矢尻や刀、漆塗りの木製品などを手に入れ、お墓の形も変わるなどして、ヨイチのアイヌ文化が成立します。
ヨイチアイヌは、余市川河口や海岸線、内陸の川沿いに暮らしました。
目の前に広がる海はニシンやサケ、海獣類などの豊な漁場であると同時に、北や南につながって、人や物が往来する道であり、
その活動範囲は、本州、サハリン、大陸までおよびました。
カムイギリ |
余市アイヌが作ったカムイギリは、シャチをかたどった祭具です。
レプンカムイ(沖・いる・神)であるシャチが、クジラ、アザラシ、サケ、ニシンなど海の生き物を従えています。
ヨイチのカムイギリは、家の中の祭壇の上に掲げられ、その下には、漆塗りのトゥキ(高坏)、テクニ (捧酒箸)、キツネとシギの頭骨、浜で拾われた丸石や鳥形の流木、山海の季節の収穫が供えられていました。朝夕の祈りは、火の神、カムイギリ、狐の神、シギの神の順にお祈りしたと伝わります。 |
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狩猟の図
早坂文嶺が、 漁猟を行う様子を描いたもので
す。 船上の男性が、 身の丈よりも長い離頭銛 (キテ) を構えています。
早坂文嶺は、 松前藩 16代藩主昌宏に仕え、
二司馬 (ニシパ)の号を用いることで知られています。 ニシパとはアイヌ語で 「人格者、 貴人」 を意味します。
離頭銩 |
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620アイヌ以前の余市
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621 1アイヌ文化の成立以前の余市
アイヌ以前の余市 |
1アイヌ文化の成立 |
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623歌人 違星北斗(いぼし・ほくと)
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落葉松は伸びる……力強い幹がグングン伸びて正に天を突いてゐる。 ヨイ チのウタリは貧苦になやんでゐるこの頃でも、これだけは希望そのものゝ やうに元気がいい。 余市組合は黙々の中に或るものは成長してみます。 日夜故郷に祈りつゝある異郷の友よ。 風の便を聞いて下さい。
『コタン』より |
違星北斗の生涯 |
違星北斗の詩 |
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違星北斗の生涯
北斗は明治35(1902)年、 余市町に 生まれたアイヌ民族の歌人で、本名を 瀧次郎といいます。 北斗の父甚作は漁業を営み、祖父万次郎は東京にあった
開拓使仮学校に入学、卒業後は北海道開拓使雇員になりました。
違星の姓は、「実父 伊古武礼喜(イコンリキ)の祖先伝来のエカシシロシ (氏族の記号)がチガイボシ※でした。
北斗は町内の小学校を卒業後、道内各地を転々とします。23歳になった大正14(1925)年2月、知人を頼って上京して働きながら、アイヌ語研究の創始者であった金田一京助ら著名人らと交流を深めます。
『アイヌ神謡集』を遺して若くして亡くなった知里幸恵のことを知り、思想や宗教などの知識を吸収した北斗は、アイヌ民族の地位の復興を目指
して、北海道へ帰る決意をしました。
昭和2(1927)年、日高管内平取町に向かった彼は、イギリス人宣教師バチェラーの平取幼稚園を手伝いながら、アイヌ研究に没頭します。 同年末から、 売薬の行商人として再び北海道内をめぐった北斗は、 同年代のアイヌ民族間と親交を深めます。翌3年にかけて多くの短歌をよみ、4月に発行された歌誌『志づく』では違星北斗歌集の特集が組まれました。
歌人としての評価が高まりつつあった同じ頃、持病の結核が悪化し、27歳という若さで亡くなります。北斗が遺した歌と志は、その後に続くアイ ヌに受け継がれました。 |
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違星北斗の句碑
余市水産博物館前庭
碑文
春浅き 鰊の浦や 雪五尺
所在地 余市町 入舟町2番地
建立年 昭和5年
建立者 余市町教育委員会
北斗は歌人として知られていますが、碑の建立にあたっては沢口観〇がこの句を選び、石碑を寄贈しました。
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違星青年 文学博士 金田一京助
五年前の夕日がとつぷり暮れてから、成宗の田圃をぐるぐるめぐつて、私の門前へたどり著いた未知の青年があつた。 出て逢ふと、あゝうれしい、やつとわかつた。 ではこれで失 礼します。
◇
誰です、と問うたら、余市町から出て来たアイヌの青年、違星滝次郎というものですと答へて、午後三時頃 成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶっ通しに成宗を一戸一戸あたって尋ね廻つて、足が余りよごれて上がれない、というのであったが、兎に角上つてもらった。
◇
これが、私の違星青年を見た最初である。
(以下省略)
違星北斗遺稿集 「コタン」 より |
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624大川遺跡
銅鏡
土偶
違星北斗が大川遺跡で採集した土偶
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長さ16cm×幅11cm×厚さ1.5㎝(ほぼ原寸大)
ほぼ完形の稀な板状土偶。全体的に赤色顔料が見られます。 |
違星北斗歌集「コタン」
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「コタン」創刊号 |
違星北斗遺稿集「コタン」 |
ネット検索すると、現代でも書物が販売され、詩集歌集が読まれています。 |
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625民具
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樹皮衣
アットゥシ
オヒョウと木綿の糸で作られた○○○の○○です。
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サシコ
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漁場で使われた作業着です。木綿の布を重ねて、裏表から木綿糸で刺して作られます。 |
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かんじき |
煙管キセル) |
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しょいかご |
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船絵馬 |

海上安全や豊漁を祈願して神社に奉納した |
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背負子
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荷を運ぶ背負子。樹皮を編んで作られた。
額帯が付けられている。 |
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下に記述 |
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ここに展示したキセルや背負子は、その機能からアイヌ、和人の区別なく 両者に使われました。
アットゥシはオヒョウの樹皮の繊維から、サシコはワタの種子の繊維から 織られました。
蝦夷地に侵入してきた和人の影響によって、アイヌ民族の働き方、生活、道具や身につけるものが変わりながら、 のこりました。 |
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630天内山
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天内山
天内山は、 余市川の左岸にありました。余市川の川岸と一番近いところで約225m、海岸(余市川河口)とは直線で約500mほどの距離にありました。山の大きさは、昭和45年に発掘調査された当時で、長さ約140m、幅約45m、
標高 19.8mで、頂上部分は平坦でした。周囲はかなり急斜面で、特に先端部は明治時代から当時までに土取りによって大きく削ら れていました。
発掘調査によってみつかった貝塚は、江戸時代から 明治時代ごろのものと長期間の利用がみられました。 貝塚からみつかった貝はアワビやイガイなど岩礁の海岸から捕られるものが多いことから、当時は、モイレ山(博物館のある山) から天内山の先端にかけての低地帯が岩礁の多い海であった可能性があります。 |
天内山模型と地図 |
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天内山 |
天内山の破壊 |
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天内山の地図 |
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横になっているのでそれでよいと撮影したのが間違いでした。
これじゃ何んにもわからない。 |
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地図を反転引き延ばして。空撮とちずのずれがある |
地図の場所の空撮 |
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明治神社と阿弥陀院からだいたいの場所を特定し、
余市市立東中学校の南隣の道路の形から、
赤丸地域にあったものと推定しました。 |
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631
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天内山遺跡出土遺物
天内山遺跡からは、続縄文文化期の終わり頃から擦文文化期はじめ頃のお墓や、
アイヌ文化期の貝塚などが見つかりました。
お墓からは続縄文文化期後半(後北式)→続縄文から擦文への過渡期(北大式) →擦文文化期の土器がそれぞれ見つかっています。
擦文文化期のお墓からは、刀子、鉄鏃などの本州からもたらされた、鉄製品が多く見つかりました。これらの171点の資料は、昭和51年5月21日に北海道指定有形文化財に指定されました。 |
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天内山遺跡出土遺物
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天内山遺跡
余市川左岸の丘陵先端部にある天内山は、続縄文時代(約2000年前)以降からアイヌ文化期にわたって営みが見られた場所です。
発掘調査の結果、貝塚、祭場、墳墓、チャシ跡などが複合する遺跡で、
出土した遺物も、土器、石器、鉄器、骨角器、土製品、石製品、鉄製品、真鍮製品、自然遺物など多種多様にわたっています。 |
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天内山遺跡発掘調査
昭和45 (1970)年余市側の埋め立てや住宅地を広げるために、天内山の土砂採取が開始されました。当時を知る方によると「掘削された土中から立派な刀が現れて驚いた」そうです。9日間だけの発掘調査が行われました。
調査された範囲は約110平㎡のみでしたが、調査の結果、天内山は続縄文文化期から擦文文化期、アイヌ文化期まで連続した人々の営みが続いていた場所であったことがわかりました。 |
天内山遺跡発掘調査
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天内山チャシ
河野常吉により明治34 (1901)年に書かれた天内山の見取り図は、自信が担当して大正7 (1918)年に刊行された『北海道史』付図に「余市の城址」として報告されました。
高野はこの「城址」をアイヌ民族が使用していたチヤシ(アイヌ語で砦、柵、柵囲いといった意味)と考えました。
地元では「アイヌ民族のふるいお墓があるとの言い伝えにより山麓にお供え物をしていた」「アイヌ民族による祭場の伝承が残っていた」というお話があります。
発掘調査でA区とB区からは、アイヌ文化期の多くの柱穴、貝塚などが見つかりました。
A区は儀式が行われた場所(ヌサ場)と考えられます。
B区の貝塚からは、貝、魚骨、動物骨が見つかり、当時の人々の食生活を考えることができる資料です。
発掘調査によって天内山はチャシであることが確認されました。
現在、天内山の姿を見る事はできません。しかし15世紀のコシャマインの戦いや、17世紀のシャクシャインの戦いといった日本史上に残る大事件が起きていた時代に天内山を含む余市川河口一帯には多くのアイヌの人々が生活を営み、歴史上重要な河口であった事は間違いないと言えるでしょう。 |
天内山チャシ |
余市の砦跡
文書読み取れず |
文の大意は、明治25年以降崖が切り崩されて現存しない。
この時に見える風景の様子を表したもの。 |
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640天内山発掘調査
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641天内山発掘調査区
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A区
A調査区は西よりの山頂部に設定されました。調査区中央に石が規則的に並んで置かれており、中央部からは鉄鍋の破片が見つかりました。調査区全体で多くの柱穴のような小さな穴(小土坑)が確認されました。しかし、穴のナビを見る限り規則的ではないので、住居や柵、チャシの見張り台などに利用されたものではなさそうです。ここは儀式が行われた場所(ヌサ場)ではないかと考えられています。
拡張区ではお墓(10号墳墓)が行見つかっています。
B区
B調査区は東側の崖縁に沿って設定されました。調査区B-1では717点の石が集められていました。何か目的を持って集められたと考えられますが、積石や敷石ではないようで、礫の配置にも規則性が見られないことから、何故集められたものかは分かりません。
調査区B-2では、アイヌ文化期の貝塚が見つかりました。チャシの頂上近くで見つかっていることからも、単なる日常の食料を廃棄したものではなく、A区と関わりがある貝塚なのかもしれません。
C区
C調査区は東側の崖に沿って設定されました。C区で9基、A区拡張区で1基のお墓が確認されたほか、楕円形の土坑が3基確認されましたされたほか、39基の柱のような小さな穴(柱穴)が見つかりました。
天内山遺跡で見つかったお墓は、骨が確認されませんでした。そのためにどのように埋葬されていたかは分かりません。これらのお墓は、お墓の大きさや副葬品などから3つの種類に分けられます。
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第一様式2・6・8 号墳墓(赤で示したお墓)
・お墓の形が円形または円に近い楕円形
・副葬品は、続縄文(後北式)土器と多くの石器
・お墓の底にベンガラが撒かれている。
第二様式4・5・9・10号墳墓(青色で示したお墓)
・お墓の形が楕円形で第一様式よりも小さい。
・副葬品は土器が全く無く、金属器が伴い、2個が3個の石が配されている。
第三様式1・3・7号墳(緑色で示したお墓)
・お墓の形が、長楕円形また角が丸い長方形
・副葬品は、鉄器類と擦文土器もしくは土師器 |
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B区貝塚出土遺物
骨角器 |
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骨角器 |
骨角器 |
骨角器3
石製円盤1
土製円盤1
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643B区貝塚出土遺物
貝殻 |
カワシンジュガイ,イガイ,タマキガイ

コマタガイ,ウバガイ |
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エゾタマキガイ,サラガイ,ウチムラサキ,オオヒタチオビ
クロアワビ,ツメタガイ

ホタテ貝,アヅマニシキ貝,バテイラ |
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650 |
651
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8号墳墓(第一様式)
お墓の底から4点の土器がまとまって見つかっています。お墓の底では、卵形にベンガラが塗られており、その縁からは壺の口縁部が1点置かれていました。
展示資料
・後北式土器4点 ・石鏃12点 ・ナイフ1点 ・ナイフ状石器1点 ・掻器2点 |
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653
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6号墳墓(第一様式)
5点の土器と剥片類がお墓の全面から見つかっています。
特に剥片は4カ所でまとまって確認されました。お墓の底から35cmほどの高さにこぶし大の石が3点見つかりました。
展示資料
・後北式土器5点、・石鏃10点 ・ナイフ1点 ・掻器6点 |
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655②
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2号墳墓(第一様式)
石は石鏃のまとまりと、ナイフ・掻器類のまとまりに分かれ、そのまとまりの間からエイの歯の化石が確認されました。石鏃には副葬品用の模造石鏃も見つかっています。
展示資料
・後北式土器2点 ・石鏃5点 ・有柄1点 ・ナイフ状石器1点 。掻器7点 ・ブチコダス(エイ)の歯の化石1点 |
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661
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10号墳墓(第二様式)
北東角に袋状の小土坑が確認されています。お墓の中に4点の大型の石が長軸を挟んで2点ずつ置かれており、埋葬方法のひとつと考えられます。
長軸上に直刀、東北部の石の下から刀子が見つかっています。石の内側からは、鉄斧が刃部をお墓の底に突き刺した状態で見つかっています。
展示資料
・大刀1点 袋状鉄斧1点 |
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663
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9号墳墓(第二様式)、
4号墳墓と同じように2点の石が確認され、石の間に鉄斧と刀子を斜めに置き、南側の石から少し離れたところから鉄鎌が確認されました。
展示資料
刀子1点 ・鎌1点 ・袋状鉄斧1点 |
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665④⑤
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4号墳墓|(第二様式)
お墓の底からは、ハの字に2点の石が置かれ、石の下からは鉄器が2点、お墓の長軸と同じ向きで見つかっています。 |
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5号墳墓(第二様式)
周囲に小土壙が5基確認されています。お墓の長軸と同じ向きで刀子が6点みつかっています。
これを挟んで2点の石が設置されてあり、石の北側には鉄鏃7点がまとまってみつかっています。
展示資料
・刀子4点 ・鉄鏃3点、 |
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671
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7号墳墓(第3様式)
東壁と西壁の隅で土器が確認されており、その中間で刀子2点が壁にくっつけられるようにして見つかっています。
展示資料
・擦文土器3点、 |
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擦文土器3点 |
7号墳墓(第3様式) |
擦文土器
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擦文土器
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擦文土器
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673
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3号墳墓(第3様式)
土器の底部のみが西北隅から見つかりました。
展示資料
・擦文土器(深鉢)1点 ・刀子1点 |
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675➀
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1号墳墓(第3様式)
北側に小土坑が11基確認されています。土器、鉄器、鉄製円環がお墓前面から見つかっています。
展示資料
・擦文土器3点 ・鎌1点 ・刀子1点 |
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700余市のアイヌ文化
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701アイヌ文化期
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遺跡分布図
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ヌッチ川遺跡
東中校庭遺跡
天内山遺跡
入舟遺跡
大川遺跡
大浜中遺跡 |
擦文時代からアイヌ文化へ
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擦文時代は、縄文時代から続く土器使用と竪穴住居への居住を続けながら、アワやヒエの雑穀栽培を行い、カマドを用い、実用道具を石器から敵へと変えた時代です。
人々は、本州の暮らし方を取り入れながらも、北海道の地域性を保った生活を送っていました。
また、本州との交易は、より活発になり、鉄製品を手に入れ、海産物や動物の毛皮を移出していたと考えられます。
アイヌ文化は、このような擦文文化の要素を残しながら、北方の文化や本州地域の人々との交流によって形成されていきました。 |
擦文時代からアイヌ文化へ
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装いの変化
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装いの変化
擦文時代の装飾品は、土製の丸玉や平玉が出土する程度で、装飾品の出土事例が少ないのが特徴です。
しかし、アイヌ文化期になると、ガラス玉が多く流通するようになり、今でもタマサイやシトキ、ニンカリと呼ばれる首飾りや耳飾りは、アイヌ文化を特徴づける資料の1つです。
このようなアイヌ文化の特徴的装飾品は13世紀末から14世紀初頭の遺跡からを和産金属製品を転用したシトキが出土することから13世紀には既に確立していたことがわかります。 |
装いの変化
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生活と生業
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擦文時代では狩猟・漁労・採集・農耕の4つを組み合わせた、生業サイクルのもとに、本州との交流・交易によって、鉄製品やコメを得ていました。また、その対価として、海産物や動物の毛皮、鷲羽などを送り、律令制度の外の世界として本州との繋がりを得ていました。
アイヌ文化でも、引き続き狩猟・漁労・採集・農耕を中心とした生業サイクルを続けながら、徐々に和人の商品経済に組み込まれて行きました。
そして擦文時代から続く生活様式と和人から入手した物品により、今に続くアイヌ文化が成立していきました。 |
生活と生業
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711
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銙帯金具
銙帯とは、金・銀・玉石等の装飾を施した革帯(ベルト)のことです。8世紀の奈良時代、律令制度では、中国の唐にならって、貴族・役人の衣服が決められ、銙帯もその一つです。
展示資料は、片方に取り付けられていた金具で、大河遺跡の擦文人が本州の律令国家と深い関わりがあったことを示しています。 |
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713
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鉄製品
縄文時代になると、本州からの交易品として、鉄製品が持ち込まれ、北海道で本格的に普及します。出土例が多いのは刀子で、万能加工具として重宝されたようです。他にも斧、鎌、鋤、鍬先などの鉄製品が出土するようになります。 |
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鉄製品 大川遺跡 擦文時代前半? (7世紀代)
お墓からの一括資料です。馬具の鏡板が発見されたことで注目されています。その他に刀子・鉄斧、鉄鎌などが出土しています。 |
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715
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内耳土鍋
内耳土器は、器の内側に紐を吊るすための耳 が付いた土鍋です。 擦文土器の使用が終わりを 迎える頃に内耳土器が出現します。
アイヌ文化期に向けて煮沸具が土器から鉄鍋 へと移行するさなか、 高価で希少な鉄鍋の入手 はまだ難しく、代用品として作られました。 |
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内耳土鍋 |
内耳土鍋 |
内耳土器
旧東中学校校庭遺跡
擦文時代末期

薄く作られた土器で、内耳部分は失われ、痕跡のみが残っています。 |
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内耳鉄鍋
出土地: 大浜中遺跡
年代:中世 (13世紀頃)
鍋の内側に弦をぶら下げるための耳がある鉄鍋で、 13世紀に北陸からもた らされたものとされ、 北海道の日本海側では出土例の少ないものです。耳を内側 につけたのは、 ひもを弦にして炉の上に吊るしたときに、焼け焦げないようにし たものと考えられています。 |
内耳鉄鍋
大浜遺跡
中世(13世紀頃)
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右:内耳鉄鍋
左:内耳土器
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内耳鉄鍋 |
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721
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直刀
擦文時代になると、交流・交易で入手した太刀や蕨手刀といった武具が、お墓や北海道式古墳から出土しています。副葬品と考えられ、余市町では天内山遺跡やフゴッペ洞窟から鉄製品が出土しています。
直刀
大川遺跡 擦文時代
お墓から見つかりました。刀身に反りのない真っ直ぐな形のものです。 |
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723
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菊水双雀鏡
入舟遺跡
室町時代中期~後期
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 満開の花が描かれています。青銅質のものです。 |
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シトキ
入舟遺跡から出土した、菊花双雀鏡と呼ばれる和鏡に2個1対の紐通し穴が
開けられています。これは鏡を「シトキ」と呼ばれる首飾りにつける飾板として転用したものと考えられます |
シトキ、菊花双雀鏡 |
シトキ |
菊花双雀鏡
孔 |
菊花双雀鏡
入舟遺跡
13世紀末~14世紀初頭
鋳造後に2つ穴が開けられています。上質な青銅質のものです。 |
耳飾り
16世紀以降 耳たぶに穴を開けてピアスのようにして使用します。 |
出土地
大浜中遺跡
ヌッチ川遺跡
大川遺跡 |
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725須恵器・土師器
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坏などの底に円形や十文字などの記号のようなものが見られます。
これらは刻印(イトッパ)と呼ばれ、家系・集団などの同族を表す家紋とする説が有力
土師器 大川遺跡 擦文時代
ロクロによる糸切り痕がみえるものもあります。 |
須恵器
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須恵器とは窯を用いて1100度以上の高温で還元焼成された土器のことで、素焼きの土器に比べて硬くしまっていることが特徴です。
北海道では窯の検出例がないことから、全て本州産と考えられます。
8~9世紀に律令国家の政策で秋田城、胆沢城などの城柵が築かれると、その周辺で須恵器生産が開始され、北海道にも流通しました。
やがて9世紀末葉から10世紀に青森の五所川原窯が開かれると北海道のへの供給量が著しく増加し、道北・道東地域まで広く流通するようになります。 |
須恵器 |
須恵器
大川遺跡
続縄文末~擦文時代
本州で製作されたものです。余市で見つかっているものは東北地方北部で作られたものです。 |
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731太刀
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アイヌ文化期になると、小刀や漆器の他に、太刀や腰刀等も副葬品として多く見られるようになります。
これらは、儀礼用の宝物の一種だと考えられています。 |
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大刀
入舟遺跡(近世)
お墓から見つかりました。矢筒、火打石、火打金、刀子と一緒に見つかりました。 |
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733
首飾り 大川遺跡 17世紀
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お墓から見つかりました。ガラス玉と一緒に貨幣を一緒に連とするものもあります。 |
首飾り |
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銛(キテ)
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回転式銛頭と呼ばれる、漁撈具の先端部分です。大型魚類や海獣類を獲るのに使用します。
獲物に突き刺さると、紐が結わえられた先端部分が柄から離れて獲物に残ります。 |
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銅鏃
銛先に装着されるものです。
銛先
獲物に刺さると中柄から離れ、穴に通した紐を手繰り寄せ、捕まえます。 |
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735
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糸巻き
入舟遺跡 (近世)
カツラの木から作られた糸巻きです。 中心にアイヌの文様がきざまれています。 |
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糸巻
大川遺跡 近世 |
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火打金と火打石
大川遺跡からは、三角の山形の火打金が出土して
います。
北海道の遺跡から出土する火打金は、このような 山形が一般的ですが、 この形は、江戸では武士の間 で流行した形で、 庶民の間ではカスガイ型が用いら れました。
火打金・火打石
入舟遺跡 (近世)
お墓からみつかりました。矢筒、太刀、刀子と一緒にみつかりまし |
火打金と火打石 |
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火皿
出土地: 入舟遺跡
年代:近世
アペオプと呼ばれるもので、石を粗く削り成形しています |
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キセル
タバコは、酒とともにアイヌ文化の嗜好品の ひとつです。 本州から持ち込まれ、 アイヌ文化 の風習に取り入れられていき、 17世紀頃には
がんくび
副葬品としてお墓からキセルの火皿や雁首が出 土します。 |
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煙管(キセル)
大川遺跡(近世)
刻み煙草を吸うための道具です。 |
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741アットゥシ(オヒョウニレの樹皮衣)
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オヒョウニレの樹皮着(アットゥシ)
採集地: 余市
濃紺の木綿を帯状にした布で文様を張り付け、その上に刺繍をしています。
アットゥシと呼ばれます。 |
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751ヨイチアイヌ
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ヨイチアイヌの集団
ヨイチアイヌは余市川河口やヌッチ川河口に暮らしていました。
擦文時代11世紀を中心に余市川河口には約70軒の住居跡があり、1669年のシャクシャインの戦いのときには、余市川河口に40軒ほどの家があったことが津軽藩によって記録されています。
19世紀に入った頃には余市地方全域で89軒564人だったアイヌ人口の規模でしたが、約30年後には家82軒、493年と少しずつ減少していきます。
30年ほどの間の人口の減少は、運上家の労働に組み込まれた働き方や、暮らしの変化によるものと思われます。 |
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場所と運上家
松前藩は、徳川幕府に承認されたアイヌとの交易権を主だった家臣に権利として与えました。その権利とは、地域ごとに分けられて商場、あるいは場所と呼ばれ、知行主(商場を分与された藩士)は自らの商い場へ船を出し、アイヌとの交易を行いました。
そこで得た品物を松前で商人たちに売却した収益で暮らしを立てましたが、交易はやがて商人が年限を決めて請け負うようになりました。 |
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安政年間の
余市鳥瞰図 |
余市アイヌの集団
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場所と運上屋 |
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753
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白線部分「シロシ」
高台に刻印のある椀
刻印 (シロシ)のある腕は、 底部に見られるのが一般的です。 余市では腕の高台にも刻印(シロシ)があり、 珍しい習慣と言 えます。 |
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755
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運上家
場所を請負った商人が建てた運上家は、 漁業 経営やアイヌの人々との交易、 出稼ぎ漁民の監 視を行なっていました。
幕府が蝦夷地を直轄し た後は、幕府の役人などの宿泊や文書の連絡と いった公的な仕事も行なうなど、 様々な機能を合わせ持った蝦夷地での和人による場所経営の中心の建物でした。
出稼ぎするアイヌ
19世紀からヨイチ場所を請負った林家は、場所内のアイヌを積丹半島の西岸や増毛地方に連れていき、アワビや秋味 (サケ) 漁を行いました。
千アワビは幕府統制品となっていて増産強化 が目指されていたことが背景にありました。
運上家の番人に付き添われてフルウ (積丹半島西 岸)やマシケ場所に向かいましたが、70人ものアイヌが出稼ぎした年もありました。 |
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運上屋
出稼ぎするアイヌ |
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上棟銭
出土地: 大川遺跡 年代: 江戸時代 (19世紀)
上ヨイチ運上家に関連したもので、 林家の店印が見られます。
マタジュウの店印が 見られる椀
余市場所 (1806~1825) の請負人であった藤 野喜兵衛の店印が書かれています。 底部には アイヌ民族のシロシも見られることから、 深 く関係していたことがわかります。 |
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林家古文書 「ヨイチ御場所蝦夷人名前書控」安政6(1859)年
運上家が調べた安政6年当時のアイヌの家族一軒の総人数、 男女別の内訳 和人がつけた惣乙名や小使などアイヌ集団中で の役職の有無を示した古文書です。
林家古文書 「マシケ江秋味出稼届書」天保7 (1836)年
林家は 19世紀前半、 積丹半島西岸のフルウ、 留萌地方のマ シケ、ヨイチ場所の隣のオショロヘアイヌを引き連れて漁を行 っていました。 フルウではアワビを、マシケ場所ではアワビ、 秋サケをとっていました。 |
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明治五年余市熊祭 真景之図
明治5(1872)年4月に余市川村 (余市川右岸河口、 現在の大川町)で 行われたクマの送り儀礼の様子を描い たものです。
作者である栗田鉄馬は、 明治4年に 余市に入植した元会津藩士で、本人が 69歳になったときに当時の記憶をもと に描いたものと考えられます。
栗田は明治5年には家族と黒川町 の長屋に居を構えましたが、 同11年に は開拓使の画工として雇われているた め、 栗田が余市に滞在したのは7、8年
間ほどと短いものだったようです。
実際の絵図は掛け軸 (35.0 × 119.3 cm) で、綱でつながれたクマを曳く人々、 輪になって踊る人々、 祭壇の準備をす る人々と、情景は大きく3つに分けられ ています。 絵図をよく見ると、 家並みの 傍らには木で組まれた飼いクマの小屋 の扉が開いていたり、 残雪の上の人の 足跡、駆ける犬、 子どもを背負った女 性、皿に盛られた供物を運ぶ人など、 服装や身に着けた道具や表情も細かく 描かれ、 儀式を間近で実際に見なけれ ば描けない臨場感が伝わります。
ここに展示されている資料は、すべて 絵図内で描かれているものです。 どこ に描かれているか、 探してみてくださ い。
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狩猟用矢筒
儀礼用矢筒
儀礼用矢筒 |
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煙草入れ
腰刀×3
首飾りタマサイ |
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8003変わりゆくヨイチ
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810 |
811
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813
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アイヌと神々
アイヌは動物を神々の化身と考えま した。 また神々はふだんは天上の世界 に暮らしていて、 目的をもって人間の世 界を訪れる時は様々な動物の姿になる と信じていました。
また、神々を厚くもてなして、人間の 世界のお土産をたくさん持ち帰ってもら うと、それは他の神々に伝わって、他 の神々も人間の世界を訪れてくれると も信じていました。
アイヌはクマを送る時、 頭骨を特に 丁重にヌササン (幣柵) にまつりました。 肉や毛皮等をもたらしてくれたお礼にご 幣 (イナウ)やお酒、土産となる数多の 品々を祭壇に捧げました。 |
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蝦夷地から北海道へ
明治2(1869)年、蝦夷地は北海道 に名前が変わりました。 これはアイヌの 住む島だった蝦夷地が日本の一部とな ることを意味しました。 アイヌは「平民」 として国家に編入され、「旧土人」として 差別され続けました。
「北海道旧土保護法」の制定
明治32(1899)年に作られた「北海 道旧土人保護法」という法律は、農業 のための土地をアイヌに与え、日本語 や和人風の習慣による教育を行うこと で、アイヌを和人に同化するためのも のでした。
学校では、アイヌ語をはじめ独自の 文化は否定され、日本語や和人風の 生活のしかたが教えられました。 |
アイヌと神々
蝦夷地から北海道へ
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木幣 (イナウ)
祈りや祭をする時に使用するもので、柳やミズキを削ってつくります。
儀礼用冠 (サパウンペ)
儀式のときに男性が頭にかぶる礼冠です。
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815
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腰帯
サハリンアイヌの女性が使用したものに複製している |
鹿角製腰刀
シカの骨に細かな彫刻
矢
鉄鏃で中柄に骨を使用。鏃の窪み部に毒を塗ることあり。 |
捧酒箸 |
へら:かき混ぜ用。大きいのは濁り酒を用。
小は日常料理用。 |
片口:儀式の酒入れ
サケ皮靴:縫い合わせて造る |
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830 |
831
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新しい木彫りの道具
ここで紹介する道具や祭具は平成の はじめころに作られたものです。 製作 者のエカシ(お爺さん) は、 江戸時代か ら何代もつづく家系の方で、 ご自分が かつて作ったものや、 身のまわりにあ ったものをのこすために、もう一度、 作 って博物館に届けていただいたもので す。
なかでもカムイギリは代々守られてき た宝物でしたが、 ご自分が戦争に行く ことになり、 もしも自分が戦地で亡くな った場合、 父祖が大切にしてきたカム イギリを守ることができなくなると思い、 一度燃やしてしまったものを、 再び、 よ みがえらせたものです。
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大乗寺前の記念撮影
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新しい木彫りの道具 |
樹皮製容器 
白樺の樹皮を折り曲げてつくる。小物入れ・水入れに使用。 |
盆 お盆として使用。
伝統的文様が彫られている |
片口
儀式時の酒注ぎ |
木皿 食物容器。アイヌ文様が彫刻されてる |
墓標 |
墓標アシニ
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余市アイヌの墓標 |
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ヨイチのカムイギリ
カムイギリは北海道日本海側の一部 で使用されていた祭具とされています。 フロア中央に展示されているカムイ ギリと、このカムイギリを製作したエカ シへの聞き取りによって、 使用方法な ど細かなことがわかりました。
カムイギリの腹部には7つの穴があ けられ、ニシン (ヘロキ)、サケ (カムイ チェプ)、マグロ(シビ)、サメ (カルマ)、 アザラシ(トッカリ)、 イルカ (タンヌ)、ク ジラ (フンベ) の木彫りを木の鎖でつな いでいます。
エカシの自宅に祭られていたカムイ
ギリには、 波文様が彫られていたそう です。
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カムイギリ |
ヨイチのカムイギリ |
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矢筒 
木製で4ヶ所に桜の樹皮を巻いている。小刀と竹製の鏃、矢の中柄(楔型)が附属する |
削りかけのある捧酒箸 
削りかけを持つパスイで儀式の時や祭壇のイナウに結びつけて使用する |
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山刀=山道具
ナタの鞘=ナタ・カマは鞘なしなので樹皮を編んでつくった。 |
小刀
動物の解体・木彫品を彫るなど多目的に使用する両刃の小刀。柄や鞘に木彫を施し、常に腰に下げる。
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儀式用冠
儀式のときに男性が頭にかぶる。礼冠。
樹皮製。 |
木幣
祈りや祭に使用する。ヤナギ・ミズキ製。 |
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850四階 民具
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