全ての写真

更新履歴
NEW PAGE

礼文町郷土資料館
オホーツクミュージアムえさし2
名寄市北国博物館
西興部村郷土館
紋別市立博物館
遠軽町埋蔵文化財センター
道東三湖
美幌博物館
端野歴史民俗資料館
北網圏北見文化センター
東京大学常呂陳列館
ところ埋蔵文化財センター
ところ遺跡の館
女満別郷土資料室
知床博物館
知床・斜里
羅臼町郷土資料館
釧路市埋蔵文化財調査センター
対馬博物館地域展
山梨県立考古博物館列島展地域展
発掘された日本列島2023対馬
ポー川史跡自然公園 標津町歴史民俗資料館
中標津町郷土館
別海町郷土資料館
根室市歴史と自然の資料館
釧路市立博物館
釧路湿原
標茶町博物館
北斗遺跡展示館
浦幌町立博物館
音更ふるさと資料館
幕別ふるさと館
帯広百年記念館
帯広百年記念館埋蔵文化財センター
忠類ナウマン象記念館
えりも町郷土資料館
日高門別図書館郷土資料館
日高・十勝の観光
新ひだか町博物館
苫小牧市美術博物館
だて歴史文化ミュージアム
支笏湖
北海道prologue
発掘された日本列島2022
豊前市埋蔵文化財センター
中津市歴史博物館
大分県立歴史博物館
国東市弥生のムラ安国寺集落遺跡
六郷満山
大分市歴史資料館
大分県埋蔵文化財センター
亀塚古墳公園・海部資料館
熊本県立美術館装飾古墳室
熊本博物館
塚原歴史民俗資料館

和水町歴史民俗資料館
熊本県立装飾古墳館
日田市立埋蔵文化財センター
筑後市郷土資料館
岩戸山歴史文化交流館
広川町古墳公園資料館
東名縄文館
吉野ケ里歴史公園
奴国の丘歴史資料館
板付遺跡弥生館
オホーツクミュージアムえさし
宇美町立歴史民俗資料館
五郎山古墳館
筑紫野市歴史資料館

小郡市埋蔵文化財調査センター
吉井歴史民俗資料館

大野城心のふるさと館

福岡市埋蔵文化財センター
王塚装飾古墳館
志摩歴史資料館
菜畑遺跡
新町遺跡
新宮歴史資料館
海の道むなかた館
水巻町長歴史資料館
北九州市立埋蔵文化財センター
発掘された日本列島
2021

発掘された日本列島2020
長野県立歴史館特別展
相川郷土博物館
佐渡博物館
新穂歴史民俗資料館
新潟市文化財センター
弥生の丘展示館
新潟県埋蔵文化財センター
阿賀町郷土資料館
縄文の里・朝日 奥三面歴史交流館
野尻湖ナウマンゾウ博物館
牧歴史民俗資料館
片貝縄文資料館
窯蓋遺跡ガイダンス

十日町市博物館
南魚沼市市民会館展示室
なじょもん 津南町農と縄文の体験実習館

津南町歴史民俗資料館
馬高縄文館2
藤橋歴史の広場
長岡市立科学博物館
赤磐市山陽郷土館
小牧野遺跡
田舎館村埋蔵文化財センター
つがる市森田歴史民俗資料館
つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)
亀ヶ岡考古資料室
中泊町博物館
大山ふるさと資料館

野辺地町立歴史民俗資料館
六ケ所村郷土館
三沢市歴史民俗資料館
東北町歴史民俗資料館
北部九州旅行
兵庫考古博物館
壱岐の古代文化

十和田市郷土館
兵庫考古博物館 '19春の特別展
おいらせ阿光坊古墳館
青森旅行
兵庫県立考古博物館
八戸市博物館
東京国立博物館 常設展2
発掘された日本列島2019
鳥取県埋蔵文化財センター
八雲立つ風土記の丘資料館
出雲玉作資料館
島根県埋蔵文化財センタ―
福市考古資料館
米子市埋蔵文化財センター
上淀白鳳の丘展示館
妻木晩田遺跡
(妻木晩田史跡公園)
善通寺市立郷土館

詫間町民俗資料館・考古館
詫間町民俗資料館・考古館
奈良万葉文化館
東京国立博物館常設展
徳島県立博物館
飛鳥資料館
明日香村埋蔵文化財展示館
大山・鹿島歴史民俗資料館
歴史に憩う橿原市博物館
徳島県立考古資料館
徳島県埋蔵文化財総合センター
さぬき市歴史民俗資料館
福山草戸千軒ミュージアム復元施設
広島県立歴史博物館(福山市)
岐阜市歴史博物館
浅間縄文ミュージアム2
長野県の遺跡発掘2018平出博物館
橿原考古学研究所付属博物館3
橿原考古学研究所付属博物館2
橿原考古学研究所付属博物館1
石川県埋蔵文化財センター沖縄写真通信
いしかわ歴史発掘
金沢縄文ワールド
発掘された日本列島2018石川会場
長野市立博物館
南アルプス市ふるさと文化伝承館
長野県立歴史館
 常設展2

長野県立歴史館
 常設展1

長野県立歴史館
 特別展

平出博物館
松本市考古博物館2

松本市考古博物館1
安城市歴史博物館3
安城市歴史博沖縄写真通信物館2

安城市歴史博物館1
浅間縄文ミュージアム2
浅間縄文ミュージアム1
小海町郷土資料館
川上村文化センター
南牧村美術民俗資料館
北杜市考古資料館2

北杜市考古資料館1
鷹山黒曜石体験ミュージアム
智頭枕田遺跡・智頭町歴史資料館
長和町原始・古代ロマン体験館
岡谷美術考古館
箕輪町郷土博物館
伊那市考古資料館
伊那市創造館
中川村歴史民俗資料館
駒ケ根市立博物館
松川町資料館
高森町歴史民俗資料館
豊丘村歴史民俗資料館
喬木村歴史民俗資料館
発掘された日本列島2017三重会場
三重県総合博物館2
上郷考古博物館

宮田村文化会館
飯島町陣嶺館
大鹿村中央構造線博物館
2017博物館紀行
信州の縄文
会津只見考古館
金山町歴史民俗資料館
やないづ縄文館
福島県立博物館2
福島県立博物館1
じょーもぴあ宮畑
伊勢堂岱縄文館
秋田県立博物館
由利本荘市修身館
秋田県埋蔵文化財センター
山形県立博物館
山形県埋蔵文化財センター

長井市古代の丘資料館
高畠町郷土資料館
北海道立北方民族博物館Part1part2
part3part4
二風谷アイヌ文化博物館
白老アイヌ民族博物館
函館市北方民族資料館
大津市歴史博物館2
発掘された日本'16
土井ヶ浜・人類学ミュージアム
下関市立考古博物館
山口市の考古資料館
出雲弥生の森博物館
神辺歴史民俗資料館
しんいち歴史民俗博物館
帝釈峡博物展示施設時悠館
東北地方の縄文
神石高原町立歴史民俗資料館
みよし風土記の丘
岡山市埋蔵文化財センター
古代出雲歴史博物館2
古代出雲歴史博物館1
総社市埋蔵文化財学習の館
青谷上寺地遺跡展示館
鳥取県埋文青谷調査室
富山県埋蔵文化財センター2
能美市立博物館
砺波市埋蔵文化財センター
南砺市埋蔵文化財センター
氷見市立博物館
上宝村ふるさと歴史館
飛騨民族考古館
蒜山郷土博物館
鏡野郷土博物館
笠岡市立郷土館
倉敷考古館
岡山県立博物館3
岡山県立博物館2
岡山県立博物館1
古代吉備文化財センター
村岡民俗資料館
豊岡市歴史博物館
岡山の縄文
朝来市埋蔵文化財センター

東近江市埋蔵文化財センター
琵琶湖博物館
丹後古代の里資料館

京都市考古資料館
高千穂町歴史民俗資料館
高千穂紀行
宮崎県埋蔵文化財センター
西都原考古博物館
西都原古墳群
南宮崎ドライブ
南の縄文2
西日本の縄文
2014北陸の縄文旅
塚原遺跡公園展示館

久々野歴史民俗資料館・堂之上遺跡
富山市民俗民芸村 考古資料館
立山町埋蔵文化財センター
弓の里歴史文化館
北代縄文広場
富山県埋蔵文化財センター
魚津歴史民俗博物館郷土館
朝日不動堂まいぶんKAN
寺地遺跡
長者ヶ原考古館
小矢部ふるさと歴史館
桜町JOMONパーク
チカモリ遺跡・御経塚遺跡
真脇遺跡縄文館
立山黒部アルペンルート
黒部峡谷と欅平
五箇山・白川郷
金沢市内観光
2014南の縄文
宮崎県総合博物館
屋久島環境文化村センター
屋久島周遊
屋久杉自然館
屋久島町歴史民俗資料館
中種子町立歴史民俗資料館
種子島ドライブ
開聞岳周辺ドライブ
指宿市考古時遊館Coccoはしむれ
鹿児島市立ふるさと考古歴史館
ガンガラーの谷
上野原縄文の森
沖縄県立埋蔵文化財センター
2013北の縄文
網走市立郷土博物館
モヨロ貝塚館
北海道開拓記念館
北海道立埋蔵文化財センター
小樽市総合博物館運河館
赤レンガ庁舎
千歳市埋蔵文化財センター
恵庭市郷土資料館
沙流川歴史館
北小金貝塚
北陸の縄文
入江・高砂貝塚館
函館博物館
函館 大船遺跡
函館市縄文文化交流センター
三内丸山遺跡
青森森林博物館
是川縄文館
南の縄文旅行記
御所野遺跡
大湯環状列石
岩手県立博物館
東北歴史博物館
縄文
国立歴史民俗博物館
最古の漆と文化
2013中部地方の縄文
新潟県立 歴史博物館2
山梨県立考古博物館
釈迦堂遺跡博物館
北の縄文1
井戸尻考古館
八ヶ岳美術館
尖石縄文考古館
北相木村考古博物館
諏訪神社と神長官守矢史料館
森将軍塚古墳
長野県立歴史館
八ヶ岳と縄文文化
野尻湖ナウマンゾウ博物館
十日町市博物館
馬高縄文館
新潟県立歴史博物館
縄文を旅する1
2013吉野ヶ里遺跡
吉野ケ里遺跡
吉野ヶ里歴史公園



2012台湾特集

台湾史前文化博物館
知本温泉と卑南族
ブヌン観光農場


2012台湾特集

台湾の空港での
犯罪危険情報


台湾土産アクセサリー
台湾土産おもちゃ
台湾土産食品
台湾土産原住民
陽明山・野柳
新北投・淡水・士林
国立台湾博物館
原住民博物館
ドールハウス博物館
袖珍博物館
烏来温泉
花蓮・太魯閣

2012紀伊半島
 伊勢神宮
 那智勝浦
 串本
 白浜

2011台湾特集
高雄
阿里山公路から嘉義・台南
阿里山
日月潭と国道21
九族文化村
台北
平渓線沿線の旅
九分と金瓜石

沖縄特集
海底遺跡の旅
 2与那国島ドライブ
 1与那国民俗資料館

 那覇散策
 那覇新都心
 沖縄青の洞窟
 歳末の那覇
 アメリカフェスト3
 アメリカフェスト1
 アメリカフェスタ2
 美ら海水族館
 モーターパラグライダー
 パラセーリング

信州特集
 安曇野 わさび 碌山
 上高地ウエストン

瀬戸内地方特集
 倉敷美観地区

ケアンズ
 パロネラパーク
 アサートン高原
 アボリジニアート
 キュランダ鉄道
 グリーン島


台湾の街風景

京都・奈良特集
 嵐山錦秋2
 嵐山錦秋
 町家 京町家
 三千院
 金閣寺
 法隆寺
 東寺広隆寺木屋町
 紅葉の天橋立
 竜安寺
 祇園祭


北海道特集
 トラピスト修道院・
 トラピスチヌ修道院・
 男爵資料館

 函館山の夜景
 富良野・美瑛町

紅葉特集
 白馬残照
 八方尾根を飛ぶ(1)
 八方尾根を飛ぶ(2)

久米島 ファィル

宮古島特集
 宮古島一周(2)
 宮古島一周(1)
 宮古島で
  出会った人々

島根特集
 松江
  松江城堀めぐり
  小泉八雲旧居

宮島・厳島神社

和倉温泉・兼六園
高山・白川郷
 屋台会館
 高山の朝市
 上三之町
 白川郷

神戸特集
 ベイエリア
 風見鶏の館
 うろこの館
 異人館の花嫁

九州特集
 長崎
  グラバー園


全ての写真・動画


沖縄情報
 沖縄お役立ち情報
パソコン情報

 チャット
 あぷろだ

 圧縮解凍講座
 サイトマップ

 PCお役立ち情報1
 PCお役立ち情報2
 ホームページ簡単作成

 LINK 掲示板
この頁は、沖縄を支援するHPです。
沖縄の自然・風景・文物などを、多くの人々の協力により、写真で紹介しています。
タイトル 沖縄写真通信にふさわしい写真を募集しています。

'24.05.14 感謝470,000アクセス yuko_okinawa@hotmail.com HPは2030.08.21まで有効()
'23.09.12 感謝460,000 '22.11.21 感謝450,000 22.04.20 感謝440,000 21.09.02 感謝430,000 '20.12.29 感謝420,000 
11/29(金) 今回記事「礼文町郷土資料館」  前回記事 「オホーツクミュージアムえさし2

11/30(土)
  一昨日それまで使っていた夏物伸縮Gパンを秋物伸縮Gパンに変えたところ少しゆるかった。
 ゴムが劣化したのかと、伸縮ナシの31インチに変えると、最初縮んでいた時はまあまあだったが、
 スーパーで買い物をして乗車しようとしたら、両ひざの上にGパン全てがのっかってきた。
 縮みが取れて伸びたら、ひどく大きくなって、ガバガバになっていた。ずり下がっていた。
  翌日、全てのGパンの中に、以前、胆嚢摘出手術で腹部の脂肪を全て吸引した時に買った30インチを履いた。
 縮んだ状態で随分履きにくいと思ったが、なんとぴったりだった。ただ、ホックがへその上に来るので、
 これを留めたり外したりするときだけちょっときつい。縮みが解消されると胴回り以外はぴったりだ。
  いったい何が起きたのか考えてみた。
  以前、父が癌で日赤に入院していた時、立って、帳簿をつけていた。死ぬ前の整理。
 腹部切開で不都合だったのか、当時は病院でふんどしが用いられ、父もそれを付けていた。
 ズボンなど履けないのでそのままの姿だったが、なんと、臀筋が痩せ細って、なくなり、
 尻の周りについていた皮膚が半ズボンを脱がずに前だけ開けて、後ろに押し下げたように、
 皮膚が垂れ下がっていた。
  きっとこれだと思った。これまで、いくら運動しなくても31インチのズボンがぴったりだったのに、
 30インチになったのは、臀筋が痩せたからだ。そしてそれは、歩き不足だけでなく、体の老衰化が
 進んでいるからだ。今朝、久しぶりに歩いた。歩いていると、おばさんに追い越された。
 そうか、早歩きしないと効果が上がらないんだ。思い出して、早歩きする。それでも以前より遅い。
 帰って来て、いつもは腰が痛いのに、感じない。筋力が衰えて腰痛が出ていたのだと思い出した。
 木曜日に1時間泳ぎ、40分水中歩行したけれど、重力を感じて歩くのはまた別だった。
 たった一日歩いただけでは何の効果もない。毎日歩くと、多分膝関節症が悪化する。
  過度にならずに、適当に歩行を取り入れるようにしないと、どんどん臀筋が痩せる。
 年を取り、もう寿命が、来年の夏までかと恐れているのに、老衰という別の圧力がせまってくる。
 何も言わずに今夜眠ったら、もうそのまま目が覚めなくていいのに。最近毎日そう思う。




次回更新 更新日未定、2024/12/13(金)を予定しています。
ページの写真や文章がコピーしにくい時は写真は無料ソフト「撮っ太郎」を使うとコピーできます。
文章は、マウスで選択し「メモ帳」にドロップでコピーできます。 
 スマホでは、ページ本体が最も下にあります。


 北海道の縄文 №37 2022.06.16

  礼文町郷土資料館 北海道礼文郡礼文町大字香深村ワウシ958-4
   0163-86-2119 月休(6-9月無休) 撮影可

  ※礼文島と利尻島はオホーツク文化発信地です。 
   他所では見られないような遺物が満載です。

館の特徴





稚内港から礼文島香深港まで62.1km約2時間(20ノットで航行)
 縄文時代以降人々はこの距離を漕ぎ渡って往来していた。氷河期は陸続きだった。
 明治以降にこの距離を熊が身も凍る海を泳いで渡った(利尻島へ)。
日本海航路の北辺。サハリンとの接点。
旧石器、縄文時代から南方とシベリアとの接点であった。
縄文・オホーツク文化の遺跡遺物多数。
樺太との接点のオホーツク文化(original)
交通 フェリー乗り場のそば。
近隣観光地 島内のhotel民宿・旅館は団体客専門でほぼ満室。稚内泊で往復するのがbest。
YH桃岩荘は超超有名。一度宿泊したいと思っています。礼文島のbest spot
近隣博物館 礼文町・利尻町利尻島リップ館稚内にある。
宿泊情報 だいぶ前から予約すると空いてるかも。3ヶ月前と聞いた。
稚内のユースホステル、ドミトリーを利用するのが便利。離島はいつも満室。
 
  はじめに
 先の「オホーツクミュージアムえさし」では、オホーツク人が北方民族ではないことことを知り、大変驚きました。
ここでは、北前船が関ケ原の合戦直後には、既に宗谷岬や礼文島に来て、交易をおこなっていたことがわかりました。
つまり、奈良時代の阿倍比羅夫の渡島半島遠征以降も、それ以前からも、蝦夷地との交易は続いており、
時代が進んで船舶の大型化、操船技術の発達とともに、北海道全域の沿岸地方との交易がおこなわれていた。
 学校教育では、北前船は松前藩との交易としか教えなかったが、それは全く事実に反することだった。
松前藩の設置は1604(慶長4)年であるが、学校教育では教えない北海道を巡る東国出身の南部氏安東氏、若狭出身の蠣崎氏(後:松前氏ただし安東氏の末裔が蠣崎氏を継いで、血脈は失われている)などが、鎌倉・室町時代から蝦夷地に関わり、支配や交易という、、、現代から見れば収奪や強制労働などをおこなっていた。
 私にとって初めて知った北海道の歴史に僅かに触れ、目が覚める思いでした。
 
目次
10稚内港
12北防波堤ドーム
13宗谷丘陵周氷河地形
14フェリー乗船場展示
16博物館紹介
17発掘品展示
20フェリー礼文航路

30資料館外観・入口展示
32礼文島の地誌自然
40地形・地勢

100先史・歴史時代
110礼文島の遺跡
112縄文・続縄文文化

112縄文時代
113上泊3遺跡
※考察 礼文島の大木式土器人
121上泊3遺跡出土物
124礼文島の円筒上層式
125平岸天神山遺跡
126函館の円筒土器
127富山天神山式土器
130船泊遺跡
140船泊の土器
150平玉工房
160縄文人骨
161複顔女性
163船泊遺跡の人骨群
165ビノスガイの貝製品
※考察 貝平玉の副葬
※考察 需要品の連絡
166石製品
169骨角製品
171島の幸と縄文人
200交易
210交易品
220石器類
230骨角器
241島外に繋がる土器
242船泊上層式

250浜中2遺跡
254縄文晩期土器
260続縄文時代
262続縄文土器
267骨角製品

300オホーツク・擦文文化
311オホーツク文化
313牙製婦人像
316婦人像1
317婦人像2
318動物像 クマ
※資料オホーツク文化の時代区分
※資料礼文島のオホーツク土器編年
330住居と土器の変遷

351香深井5遺跡
361香深井6遺跡
370オホーツク文化の暮らし
380オホーツク文化の生業
410海の狩人

420擦文文化
423香深井6遺跡

430アイヌ文化期
430江戸時代の礼文島
433松浦武四郎
440近世アイヌ出土物

450オホーツク文化後期
450浜中2遺跡
451骨角製品
461歯牙製女性像・動物像
462クマ牙像
463牙製女性像

471国際共同研究の場
472浜中2遺跡の発掘調査
473オホーツク文化期のお墓
474食生活の復元
475植物種子
476礼文島出土の黒曜石
477久種湖の年縞調査

500地形と景観
 
 
 10稚内港

稚内という街
 北海道の最北辺にあって、戦前は樺太との人や物資・特に海産物とその加工品の往来で繁栄した港町と思っています。
陸の孤島・秘密都市
 
枝幸から走っていくと、稚内の手前100kmには大きな町もなく、ほぼ陸の孤島です。延々と砂丘海岸の続く何もない超さびれた海岸道路を走り、この先にどんな廃墟が待っているのだろうと思っていると、突然、それまでの風景とは一変する、考えられもしないような大きな町が現れました。
 鉄道交通も僅か。半島の東西を南北に走る道路も、ほぼ貸きり状態。だのに、突然巨大な町、産業都市が出現したのです。驚きです。
 普通は近隣の都市間交通が多く、人や車の往来が盛んで物資輸送も頻繁に行われ、そのうえで、大都市が成り立っているものです。
ところが稚内は、例えば、ロシアの秘密都市のように、延々続く荒野の果てに、突然巨大都市が出現するような、陸の孤島の大都市でした。
街中に入ると、それまでの砂浜・砂丘・不毛の荒野ではなく、見慣れたどこにでもある街路が続き大きなスーパーマーケットも何軒もあり、
大きなビルも立ち並ぶ、近代都市でした。
 市内には、港の対岸(に見える地域、実際は大きな港湾の中)に大きな工場群があり、夜も灯りを煌々と照らして盛んに操業しています。
 いやはや、大変な驚きでした。原野を走っていた車が、突然瞬間移動して、阪神地方の街中に現れたかのような錯覚。何とも言えない不思議な違和感に襲われました。

乗り捨てられた本州の車
 下の港湾施設(港)写真を撮影した場所の手前には市営の無料駐車場があります。とても広大で沢山の車両が泊まっていました。私が泊まったドミトリーもそこを駐車場にしていました。私が車を停めた向かい側にも何台も停まっているのですが、それを見て大変驚きました。滋賀№の軽四が何台も・続いて姫路№のもあり、それがずっと停まりっ放しなのです。これは、私同様日本海フェリーで北海道入りして、さらにこの最果ての地に逃げてきた(働きに来た)んだなと思いました。車両が軽四なのは、フェリー料金のせいでしょう。そう思って、周囲の車を見回すと、もう何年も動いてなくて、新しい乗用車の周りに背の高い草が取り囲み雪解け以前から車内に入った形跡などない車も何台もありました。
 北海道には人が流れてやってくるイメージが、映画などで多少ありましたが、本当に本州や道内から沢山の人がやってきて、ここにひっそりと生活している。隠れ住んでいる。そんな言葉だけの(・・・・・)「網走番外地」のような物悲しい雰囲気を想起しました。

物流の不思議
 しかし、ただの港湾都市で、資源のない街稚内です。人々が流れてやってきても、どのように工場を設立して運営するのでしょうか。
周辺の道路に大量の物資を積んだトラックが沢山走行しているわけでもなく、鉄道は港の手前で終点となり、工場内への引き込み線もなく、貨物運行が盛んなわけでもないようです。
 原料をどこからどうやって運び、どこへどうやって搬出しているのか。この街の産業や経済はどのように成り立っているのか不思議です。
稚内市の産業は凄いものです。大きな工場が昼夜を問わず稼働しています。生産額は大変なものでしょう。しかし、その物流は?

サロベツ原野のトラック便
 稚内で数日を過ごし、来たときは半島東側道路でしたが、帰りは、西側道路を南下していきました。サロベツ原野の広大な不毛地帯。西側からは日本海からの季節風に打ち上げられた砂丘が延々と続いています。
そんな中を大型のトラックが1台だけ走っていました。北海道特有の幅の広い道路で、見通しは完全にきく直線道路。トラックは他の車にどんどん追い越されていきました。タコメーターのついたトラックは、運送会社で検査があり、決められた速度以上を出すとペナルティを課されるので、その速度で走らざるを得ないのです。

 これだけ繁栄している稚内市を走り出るトラックがほとんどない理由は、ここにあるようです。延々百数十kmも無人不毛の地なのに、更に大都市のトラックターミナルまでは何百kmもあります、それを法定速度で走る。北海道では、ちょっとスーパーへと言うと、100kmも走る場合もあり、それなりの速度で走らざるを得ない。そんな中で積雪期用の法定速度を掲げる道路標識に従うと、トラック輸送は人件費と時間ばかりがかかって経済的に成り立たないのです。だからトラックは走らない。きっとコンビニやスーパーへの荷下ろし用のトラックは仕方なく非効率ながらも走っているのでしょう。それも最低限度の数で超大型トラックで。

 そう考えると、残るのは飛行機海上輸送。おそらく郵便や現金などは航空便。あとは、工場の原材料搬入も、製品搬出も船便でしょう。それも、バラ積み船ではなく、フェリーなどのようなトラックの荷台輸送や、コンテナ船によるものでしょう。急送を要するスーパー・コンビニの荷物以外は船の貨物便で全国と繋がっているのでしょう。
 そうすると、原料はどこから来るのでしょうか。それはやはり、地の利を生かしてロシアやアラスカなどからの海産物ではないでしょうか。
 私には、北の果ての不思議都市に見えました。

 11港湾施設
フェリーターミナル
渡り廊下は2本ある
フェリーターミナル
利尻礼文観光ガイド 稚内港北防波堤ドーム
遠景
わけのわからん
モニュメント
コーストガード
沿岸警備隊

冬の波は激しい
防波堤と消波ブロック列

 12北防波堤ドーム
 映画ドラマでおなじみ。北ドーム。上のリンクをクリックし、しばらくすると素晴らしい映像世界が広がります。
 かつて、樺太や千島列島が我が国の領土であった頃、人と物資でごった返した港。吹雪の中を北に向かう人々や、樺太から引き上げてくる人々が無言で歩く姿が演じられ、また、想像されます。筆舌に尽くしがたい記憶を物語った北海道遺産です。
 現在ドームの太い円柱の外は道路になっていて、ショーもない車が止まっていますが、その場所は、じつは、
 この太い柱の外には、鉄道が敷設され、札幌や内地に向かうことができた。下船すぐ乗車。機能的に作られた、乗客保護のドームでした。
 現在は、冬には美しくライトアップもされるようです。

 ドームは昭和11年(1936)完成。設計者当時26才の土屋実。 全長427m、海上からの高さ14m、柱の数70本。半アーチ式ドームはの古代ローマ建築を彷彿とさせる建築。
 稚内-樺太大泊間の旧稚泊航路整備の一環として、冬季の北西越波防止のために建設された

船から降りるとドームが風雪と波浪から乗客を守り、柱の右側(今は道路)には蒸気機関車が停車していました。


 13稚内の特筆観光地
宗谷丘陵周氷河地形 氷河期地形 (鳥海山氷河地形)

 宗谷丘陵の氷河地形は、かつて山火事によって木々が焼き払われ、地面が露出し、その起伏の状態が一目瞭然となっています。
 ウルム氷期に、この辺りを覆った寒冷気候のため、山稜の岩石が破壊され、土砂とともに谷に流れて埋め尽くし、なだらかな丘陵地帯を形成した。
宗谷丘陵の周氷河地形
引用Wikipedia「周氷河地形」

 この地形は、やはり、ドローン空撮以外では見ることができないようです。
 ドローンと言えば、ただ車で走っているだけではわからないのですが、枝幸から宗谷までの海岸道路、宗谷から南西のサロベツ原野でも
 空撮を行なえば美しい風景が見られる場所が何か所もありました。
 

 14稚内港フェリーターミナルとその展示

2F待合floor
最奥改札乗船口
フェリーターミナル
2F
フェリーターミナル
1F
 15盗掘禁止ポスター
ウスユキソウ
アツモリソウ
ミヤマオダマキ
エゾカンゾウ
ツリガネニンジン
レブンコザクラ
レブンキンバイソウ
クロユリ
レブンハナシノブ

 16博物館紹介

 17発掘品のデモ展示(利尻、稚内)
フェリーターミナルに考古遺物、それもとても重要な、品々が展示されているのは初めて見た。とても意義のあることです。



貼付文土器(口縁部)
利尻町亦稚貝塚
オホーツク文化期

スクレイパー
利尻富士町役場遺跡
オホーツク文化期
貼付文土器(口縁部)
利尻町亦稚貝塚
オホーツク文化期

ナイフ
利尻富士町役場遺跡
オホーツク文化期
柱状石斧、石錘

利尻富士町役場遺跡
オホーツク文化期
十和田式土器
鈴谷式土器

利尻富士町役場遺跡
オホーツク文化期
土器片
稚内市冨磯貝塚
オホーツク文化期

石鏃、石銛
稚内市オンコロマナイ1遺跡
鈴谷文化期

 オホーツク式土器編年
鈴谷式土器の特徴: 刺突文・櫛目文・縄線文・撚糸圧痕文
十和田式土器特徴: 円形刺突文・突瘤文・

 鈴谷式→十和田式→刻文系→沈線文系→貼付文系

 鈴谷式は縄線文、十和田式は円形刺突文
 江ノ浦B式・江ノ浦A式は口唇部直下の隆起帯と刻文・爪形文
 南貝塚式東多来加式(ひがしたらいかしき)は沈線文と型押文である。
なお、道東部では江ノ浦B・A式以降独自の変化をするが、
その後半には「ソーメン文」と呼ばれる細い波状の貼付文がつく土器が主流をしめ、
最終的には擦文式土器との折衷・融合型式(トビニタイ式)になる。
※鈴谷、十和田、
江ノ浦、
南貝塚、東多来加
は全てサハリン南部の遺跡名である。

骨鍬
礼文町香深井遺跡
オホーツク文化期
釣針先、銛先鏃
香深井1遺跡
オホーツク文化期

釣針軸(元)・銛頭(開窩)・銛頭(閉窩)
香深井1遺跡
オホーツク文化期
十和田式土器(口縁部)
刻文土器(口縁部)
香深井1遺跡
オホーツク文化期
沈線文土器(口縁部)
元地式土器(口縁部)
香深井1遺跡
オホーツク文化期

 ※鈴谷式・十和田式はともにサハリン南部の貝塚から出土した土器型式です。青森県十和田湖地方とは無縁です。
 ※これらの展示物は、実は大変重要な展示物で、ページを読み進めるとわかるのですが、特に香深井1遺跡の遺物はここだけの展示です。

 20フェリー (利尻・礼文航路のみ)
 21宗谷岬
稚内港フェリー岸壁 宗谷岬方向
埠頭の対岸には沢山の工場があります

この付近は知られざる日本の重要な食品生産地帯です。
宗谷岬

岬には何もない。道内の岬にはよく似たモニュメントがあるだけ。
 22ノシャップ岬

ノシャップ岬は稚内
納沙布岬(ノサップ)は根室市

北海道にはよく似た発音の地名が沢山存在。

この岬は大きな通信設備などあり、利尻礼文との交信だけではなさそう。
列島各地に監視レーダーや高性能通信網が配置。北の守り。
 23利尻富士利尻山

海上独標利尻富士は火山島。利尻・礼文は屋久島・種子島の関係に似ている

マグマ溜りが冷えてできた屋久島と、付加体の種子島

マグマが溜り噴火した利尻島と付加体の礼文島

北の海は暗く雲の流れが早い
 24礼文島香深港
島内唯一のフェリー発着の港湾
空港は北端にある。
なんでこんな不便なところに作ったのかねェ

プレートの沈み込みによって集まった海底堆積物が隆起した島

海底段丘というらしい
初めて聞いた

これが海底段丘

8km先に利尻島が見える
 香深港の地名は香深井
 空港は北部船泊村幌泊にある。
 どちらも、重要な遺跡がひしめく地域にある。
  香深井遺跡群
  船泊遺跡群
 
 

 30資料館外観・入口展示 港から徒歩2分、ここに礼文島に2つしかない信号機がありました。

 31外観入口展示
礼文町郷土資料館
立派な建物です。資料館だけでは閑古鳥が啼くので、
教育委員会が入居しています。町役場近隣 礼文町郷土資料館 1F:地誌自然
2F:考古展示
 
 

 32礼文島の地誌自然 1F


 33礼文島の地形
  ―桃岩/ももいわ 礼文島西海岸元地―
 桃岩は、マグマが作った幅200~300m、高さ190mの巨大な溶岩ドームです。新第三紀中新世(約2,300百万年前~約500万年前)に、浅い海底の柔らかな堆積物にデイサイトマグマ(火山岩の1つであるデイサイトが溶けたもの)が貫入してできたものと考えられています。(屋久島の成因と同じ)
 海底の隆起に伴い、周囲の地層が浸食によって削り取られ現在の姿になりました。岩の西側から眺めると、放射状の柱状の節理(規則性のある割れ目のうち両側にズレが見られないもの)からなる核と、それを取り囲むように結晶質及びガラス質のバンドが何層も見え、外側に近づくとマグマが泥と接触した時にできた角礫状の岩石が見えます。

 このような地質的な特徴は、世界的にも有名なほか、桃岩にはアイヌにまつわる伝説が残されています。
時は江戸時代礼文島において礼文島の香深アイヌと留萌地方天塩アイヌとの間に争が起こりましたが、
香深アイヌからの休戦の申し入れを天塩アイヌが受け入れて、桃岩の頂上で、講和の誓いを立て祝宴となりました。そして、香深アイヌが頂上に祭壇を作り、数々の宝物を天の神に供えたところ、端から彩雲が降りてきて、宝物を受け取り、天空遥かに舞い上がって行ったと伝えられています。

桃岩
桃岩

高249.6m 幅300m
超巨大な岩
地下で冷えたマグマが浮上した巨岩。
桃岩と言えばYH桃岩荘有名
 34夏 写真の下に、それぞれ、面白い名前が付けられています。
エゾ感動 猫と沢山の尻尾 早朝のイブキトラノオと雲海
 35秋
逆利尻の日没 ゴロタ岬の夕日 利尻の夕焼け
鉄府からゴロタ岬 Susuki Bay
 36春
水芭蕉の夕焼け エゾエンゴサク対カルマン渦
太陽向き花と猫
 

 40地形・地勢

 日本最北の島礼文島
礼文島は、北海道の北端、稚内市から西へ59キロメートルの日本海に位置しており、利尻島とは約8km隔てて向かい合う、一郡一町の島です。
人口は約2600人、恵まれた自然や資源を生かした水産と観光のまちとして発展し、今日に至っています。
なお、礼文島は、日本国内で人が住む最北限の離島ですが、日本最北端の離島と言えば、北方領土の一つである択捉島となります。
北海道本島から利尻礼文に渡ったヒグマが駆除されたことがあります。約60kmもの凍るような海を泳いで渡ったのでしょう。
 人間なら5分も持たないでしょうが。凄い体力・生命力です。

 礼文島の地形・地勢
礼文島は、南北に細長く、中央には最高地点である標高490メートルの礼文岳があります。
島内全域には海岸段丘が広がっており、平野はほとんどありません。
また、島の東側海岸線に向かって、比較的緩やかに下降するのに対し、西側は北部の一部を除いて、海食崖が発達し、断崖絶壁となっています。
 (島の西側は切り立った断崖で、東に向かってなだらかに傾斜している。)

北部には西にスコトン岬、東に金田ノ岬に抱かれた、船泊湾があり、沿岸には標高100m前後の平坦な丘陵や、湾の奥には砂丘(オションナイ砂丘)も発達しています。
また、島では、唯一の淡水湖である久種湖の周辺には、湿地や平地が広がっています。
河川は流路が短いものが多く、香深井川河口には、唯一の沖積平野が広がっています。

海岸段丘×、海成段丘

日本最北の島礼文島  
南北29.8km
東西7.9km
周囲72km
面積81.33㎢
利尻島まで8km
礼文島の地形・地勢

地形段彩図
茶色ほど標高高い
地形傾斜区分図
赤ほど傾斜急
主な河川・湖沼分布図
他に小沢・無名沢あり
西海岸中部
宇遠内地区の海蝕崖
船泊湾沿岸の砂浜
久種湖
久種湖の北端にオションナイ砂丘がある

 50礼文島の成立と自然
日本列島は6852の島から成り立っています。このうち、北海道、本州、四国、九州、沖縄の5つの島は、本土として扱われ、本土を除く6847の島が『離島』と呼ばれます。なお、離島の中でも人が住む有人離島は418島あり、これらは日本の国土や領有を維持している大切な島々です。
 51
礼文島の成立と自然
トド オオワシ ※鳥類の剥製作りは難しいのでしょうね

 52礼文島内の規制地・保護地
自然豊かな島である礼文島は、日本最北の国立公園である利尻・礼文・サロベツ国立公園の主要な一角を占めています。
指定区域内には、特別保護地区及び第1~3種特別地域が設定され、一定の開発行為が規制されることにより、環境保護が図られる仕組みとなっています。
また、島内のほぼ全域には、国が維持・管理する国有林が広がっています。こうした森林は、なだれや土砂流出防止、水源確保や干ばつ防止など、その目的別に、保安林として一定の規制のもとに管理され、多様な植生が保護されています。

なお、保安林は植生保護だけでなく、地域の住民の生活維持、安心、安全の為にも、大きな役割を果たしている森林でもあります。

礼文島内の
規制地・保護地
国立公園指定地域
国有林保安林図

 53礼文島の気候・風土
礼文島の気候は、1年を通じて冷涼な気候で、夏季でも真夏日となる気温30度以上になる日はほとんどなく、25度以上の夏日も数日しかありません。
冬季は最高気温0度以下の真冬日が多くありますが、暖流である対馬暖流の影響を受けていることもあり、氷点下20度以下の日はほとんどありません。
また年間を通じて季節風の影響も強くを受け、中でも南西と北東の方角から吹く風が多いのが特徴です。
ちなみに、気象庁に統計が残る2003年以降において、観測史上1位を記録した気象データは下記の通りです。

礼文島の気候・風土
月別降水量と
月別平均気温
観測史上一位 礼文島の日の出日の入り
冬至の頃 朝7:00頃~午後4:00頃 8時に明るくなり3時にはもう暗い
夏至の頃 朝3:50頃~午後7:30頃 3時に明るくなり夜8時頃まで明い

夏は夜中に日が昇り、冬はあっという間に夜になる。鬱陶しく極寒。
冬場はビタミンDを飲み続けないと鬱病になるでしょう。
友人の祖父が礼文島在住。真夏に薪ストーブをガンガン焚いていた。
夏寒く、冬死ぬほど寒いらしい。

 数十キロ離れた山間の話
 谷を挟んで嫁殺し村と、婿殺し村と呼ばれるムラがあった。
 昔は嫁は日が昇る前から起きだして朝食の用意や谷川で洗濯をし、婿は日が暮れるまで外で野良仕事をしていた。
 谷の西側では早朝から日が射し、嫁は早くから起きだす。嫁に労働の負担がかかるから嫁は大変。嫁殺し村。
 谷の東側では遅くまで日が射し、婿は遅くまではたらき続けねばならず、加重労働で婿は大変で、婿殺し村。

 夜中に日が昇る北辺の夏って、どんなもんよ。そうかと思えば、昼に暗くなってあっという間に夜になる冬ってどうよ。
 小学生が6時間終わって帰る頃は夜だ。中学生がクラブを終えて帰ったら、こりゃあ深夜なんじゃないか。そんな時間まで外にいたら凍死するかも。


 54礼文島の地史・地質
礼文島は、海底に堆積した土砂や火山灰、マグマなどによって形成された岩石が隆起し、周囲を海に囲まれることによって形成された島です。
利尻島が約200万年前の噴火によって生成されたことと比較すると、隣り合う島ではありますが、その地質や年代が相互に異なっています。

島の基盤を作るのは、礼文層群と呼ばれる6層から構成される地層で、1億年以上前の白亜紀と呼ばれる時代の地層です。
これらの地層は主に島の中央から西側に広く堆積しており、最も古い地層は西海岸南部にある地蔵岩付近一帯で確認されています。
※付加体の上に火山噴出物が堆積している。付加体の中にマグマが貫入している(桃岩)。火山地帯にある付加体の島。

礼文島の地史・地質
地形地質の変遷 中生代からの
礼文島の地層層準
新生代の
礼文島の地層層準

 55礼文島の動物たち
礼文島で生息する動物のうち、陸棲の哺乳類類は、北海道を代表する、熊や鹿などが生息しないなど、ごく限られた種しか生息していません。
一方、海棲の哺乳類は、トドやアザラシなどがほぼ1年を通じて確認されるほか、クジラが座礁することもあります。
また、トカゲなどの爬虫類が一切生息していないことや、鳥類が多く生息することなども併せると、離島独特の生物相を示しているといえます。なお、かつては移入されたキタキツネが野生化して生息していましたが、病気を媒介する害獣としてすべて駆除されました。

礼文島の動物たち 礼文島の哺乳類
岩礁に集まるトド
浅瀬で休息するアザラシ
浜辺に打ち上げられた
(寄り鯨)
ヘビ・トカゲ類なし
シカ・クマなし。
キタキツネなし。
ネズミ多種在り。

ゴマフアザラシ
ゴマフアザラシ
ネットで困るのは、アザラシ、オットセイ・トドなど、凶暴な成体でなく、可愛い幼体の写真しかない。 植物図鑑として、花や実、葉っぱや枝の写真はあるが木全体はない。だからさっぱりわからない。  使い物にならないネット情報。
 
 

 100先史・歴史時代 1F

礼文島が離島となったのは、地球上で最後の氷河期が終わりを迎えた頃です。この最終氷期は、時代的には旧石器時代であり、その後は本州と同じく、縄文時代を迎えますが、それ以降、北海道は独自の歩みをたどります。礼文島に生きた先史・古代の人々の暮らしは、遺跡を発掘することによって、徐々に明らかになってきています。
 101
考古・歴史展示
礼文島の先史・歴史時代

垂飾・石鏃付銛頭

 110礼文島の遺跡
 111礼文島の主な遺跡
礼文島を含む北海道全体の歴史は、縄文時代以降は本州と大きく異なっています。それは、北海道特有の気候や風土、自然環境や地理的、環境など、様々な要因があったためと考えられています。
礼文島には旧石器時代終わりごろに初めて人の痕跡が残されますが、温暖化によって離島となった縄文時代以降、人々はあるときには、北から、またある時は、南から、海を越えて渡ってきました。

礼文島の主な遺跡

礼文島の主な遺跡
旧石器時代   知床尺忍小学校裏遺跡
縄文時代  中期 上泊3遺跡
後期 船泊遺跡
晩期 浜中2遺跡
続縄文時代 上泊4遺跡
東上泊遺跡
浜中2遺跡オションナイ2遺跡
オホーツ
ク文化期

香深井2遺跡神崎遺跡西上泊遺跡香深井5遺跡
香深井6遺跡
擦文時代    香深井5遺跡元地遺跡
香深井1遺跡、沼ノ沢遺跡
アイヌ文化期   トンナイチャシ香深井チャシ
オションナイチャシ重兵衛沢2遺跡
・旧石器人は歩いてきた
・縄文中期に舟で来た
・以後60kmを漕いで往来

・続縄文まで島北部が中心
 遺跡多数

・オホーツク期から南端の
 香深井にも棲み始めた
・居住地は、漁と交通の便
 が決め手だっただろう。
・礼文島には縄文中期から人が棲み始め、現在、55の遺跡があるといわれています。

 112縄文・続縄文文化と礼文島
北海道における縄文時代は、約12,000年前に始まりましたが、礼文島では、これまでの調査により、中期の後半(約4000年前)に初めて人が定住したことがわかっています。現在、中期後半以降の遺跡が13ヶ所見つかっていますが、晩期の遺跡は1カ所しか見つかっていません。

続縄文時代は、縄文時代に続く北海道、独特の歴史区分であり、本州ではおおよそ弥生時代から古墳時代に相当します。礼文島では、現在、
15カ所の遺跡から続縄文時代の遺物が出土しています。このうち、浜中2遺跡やオションナイ2遺跡などは発掘調査が行われています。


縄文・続縄文文化と
礼文島
上泊3遺跡
縄文中期後半
円筒土器最北限集落
浜中2遺跡 骨角器
続縄文前半

ヤス・ヘラ・銛・針
装飾品(線刻)・針入れ
櫂?叩き棒?
浜中2遺跡 土器 続縄文前半

深鉢
口縁部に突瘤文、刻み目文、縄線文。北海道北部の土器。
続縄文前期は宇津内Ⅱa式
口唇部直下にめぐる突瘤文が特徴
続縄文中期は宇津内Ⅱb式
上部に2つ穴のあいた取っ手のような出っ張りが4つあります。 この取っ手とその下の文様を合わせて見ると、フクロウの顔を表現しているようにも見える、特徴的なデザインの土器です。
 写真右端上下は中期土器


 113上泊3遺跡周辺の遺跡 縄文中期
東海岸北部の上泊地区では、現在5つの遺跡が確認されています。同地区の遺跡は、採取された土器等が大正11 (1922)年に東京大学へ持ち込まれたことで世に知られられました。昭和58 (1983)年の道路工事の際、上泊3遺跡を含む3つの遺跡が発掘されました。

上泊3遺跡からは、約4000年前の東北地方から北海道で作られていた「円筒上層式土器」が見つかっています。合わせて見つかった住居跡は、
島内最古の集落で、日本海を渡った人々が古くから礼文島で活動していた証です。
出土品の一部を島の歴史の始まりを伝える資料として、礼文町有形文化財に指定されています。

円筒下層式土器は、縄文前期後半の6500年前(注16500~6300注25900colBP)の北海道駒ケ岳の火山灰直上から出土している。
 円筒上層式土器は、縄文時代中期の開始期 5500年前頃からとされる。
4000年前の円筒上層式は、大木10式並行期で、東北地方南部の影響を強く受けた、終末期の円筒土器となる。やがて大木式に移行する。
引用は六ケ所村歴史民俗資料館の素晴らしい編年資料である。六ケ所村のある下北半島からは、北海道内浦湾への交易航路があり、
 この交易路は舟で石狩低地と直接繋がっているので、東北地方の円筒上層式は、渡島半島を経ずに石狩低地に伝播したとも考えられる。
 ※内浦湾北岸には、北黄金貝塚や、円筒上層式土器出土の入江貝塚がある。入江貝塚の円筒上層式土器は下に3Dで引用しています。

※稚内から60kmも離れた離島にリアルタイムで土器型式の変化が伝わり、本土同様に変化していく土器型式を不思議と思わずにいられない。
 きっと、新しい土器文化人が次々とやって来たので、土器型式が本土同様に変化していったのでしょう。

上泊3遺跡と周辺の遺跡 上泊3遺跡 位置と遠景 遺跡位置
発掘の様子昭和58(1983)

出土石器
上泊3遺跡
石核石器:斧・錘・皿・砥石。
剥片石器:鏃、銛先、匙、掻器など。

銛先・錘・掻器など漁撈中心の生活
円筒上層式土器
上泊3遺跡
特徴は口縁部に付く太い粘土紐、粘土紐と粘土紐の間につく縄の押圧文である。
器の形は、底から胴部にかけてまっすぐ立ち上がり、口縁部はラッパのように広がる。また、口縁部は大ぶりに波立つ。 円筒上層式土器の装飾は口縁部 に集中し、胴部は縄文のみがつけられる北海道では渡島半島に分布する。
引用google  北海道円筒上層式
内浦湾 入江貝塚3D円筒土器 手で動かせる

 ※考察 礼文島の大木式土器人
 礼文島にやって来た「円筒上層式」文化人は、渡島半島から海流に乗って来たのだろうか。
 それとも、東北地方日本海側を船出して、陸伝い航法で、利尻・礼文に来たのだろうか。
 更に、石狩低地から来たのだろうか。

 礼文島の円筒上層式土器は4000年前のもの。この系統の終末期土器に当たる。やがて大木式にとってかわる。
 大木式の影響を強く受けた終末期の円筒上層式文化人が、何を思って突然礼文島にやって来たのだろうか。
 渡島半島からも、石狩低地からも、随分と北行している。
 目的は交易だろうか、それとも、移住か。
 東北南部から北上してくる大木式文化人に追われた? それとも、旅に出たのだろうか。
 
 115上泊3遺跡と周辺の遺跡  縄文中期末、擦文初頭、擦文前期
   ・円筒土器文化最北限の集落 礼文町船泊村ウエントマリ付近
   ・最初に縄文人か定着した場所
   礼文島幌泊段丘の遺跡群 東上泊・上泊3・上泊4遺跡
     周辺といっても、非常に近接した場所に遺跡がある。
上泊漁港付近 東上泊・上泊3・上泊4

上泊3遺跡
北海道礼文郡礼文町船泊村ヲチカフナイ107-1・2ほか
時代:縄文中期
主な遺構: 住居跡5・土壙14・集礫10・石組炉1・焼土57・廃棄場・石錘集中
主な遺物: 円筒上層C式土器円筒上層CD式土器天神山式土器
      石鏃・石槍・石錐・ナイフ・スクレイパー・石核・石斧・たたき石・砥石・石皿・石錘・サメ歯装飾・骨製品
特記事項: 礼文島東岸の縄文時代中期の集落、廃棄場、石錘集中。円筒土器文化の北方への広がりを示す。

天神山式土器は富山県の土器である。
 富山市小竹貝塚からは北方系民族の大きな骨が沢山見つかり、移住定着、混血していたと、見聞きしたことがあるが。
上泊4遺跡
北海道礼文郡礼文町船泊村ヲチカフナイ596・599-1ほか
時代: 続縄文初頭
主な遺構: 住居跡1・石組炉1
主な遺物: メクマ式土器(稚内市のメクマ遺跡の土器、続縄文初頭の土器、破片図
      石鏃・石銛先・石錐・ナイフ・スクレイパー・石核・石斧・たたき石・石皿・砥石
特記事項: 礼文島東岸の続縄文期初頭の竪穴住居跡
東上泊遺跡
北海道礼文郡礼文町船泊村ウェントマリ258番地
時代: 続縄文前半
主な遺構: 土壙3・集礫1・焼土5
主な遺物: メクマ式土器・香深井式土器・下田ノ沢1式相当土器(下田ノ沢式は釧路地方の土器、縄文中期の土器)
      石鏃・石銛先・石錐・ナイフ・スクレイパー・石斧・たたき石・砥石・石錘・玉
特記事項: 礼文島東岸の続縄文期前半の土器・石器群
 116
礼文町指定有形文化財
上泊3遺跡出土遺物
円筒上層式土器(4波形の口縁部がない)
砥石・ウキ
石錘・磨製石斧・つまみ付きナイフ
石槍・掻器・ヤス・?・石鏃・?

 礼文町指定有形文化財 指定書
1.
2.
3.
4.
種 別
員 数
指定年月日
指定理由
有形文化財
637点(土器33点、石器601点、骨角牙器3点)
平成3年3月2日
 検出された5軒の住居跡のうち4軒から出土した遺物は、現状では島内に検出例がなく、かつ年代的に最も古い住居跡から出土した一括資料であり、北海道本土からの渡島・定住期の状況を知る唯一の資料である。
 また、約260㎡に及ぶ廃棄場跡からは、複数の型式に属する土器群が、多量の石器や焼土、魚骨等と共に出土しており、土器の遺存状態や出土状況、石器器種の偏在など、当集落を形成した人々の意識の変化を考察する上で貴重である。

 一方、包含層からは、深鉢形や円筒形などの土器を始め、生業に関する石鏃、石銛先、石槍、石錘、浮子などの石器のほか、捕獲物の解体加工に関する石匙、掻器、削器などがまとまって出土している。
これら石器の組み合わせは、海での漁猟に適応した島嶼における生業のあり方を示すものとして重要である。

 以上の物件は、本島最古の集落遺跡から出土した遺物群であり、本島における人の定住当時の様相を考察する上で欠かせない内容を持っている。
 また、北海道南西部に展開した円筒土器文化圏との関係を始め、当時の日本海沿岸における人の移動や物流を考える上で、その学術的(価値)は高い。

 120縄文時代
 121上泊3遺跡出土物 中期
有考第2号
     礼文町文化財指定書
     上泊3遺跡出土遺物
 土器13点、石器,石製品122点、骨角牙器1点(以上住居跡出土)
 土器15点、石器.石製品158点、骨角牙器1点(以上廢棄場跡出土)
 土器5点、石器,石製品321点、骨角牙器1点(以上包含層出土)

上記について、礼文町文化財保護条例第5条により礼文町有形文化財に指定する。
  平成27年3月2日
           礼文町教育委員会
上泊3遺跡出土物

石皿
浮子
石錘
砥石
石斧

 123
石匙 削器 削器 石錐 石鏃、石銛先
石槍
・棒状骨製品(海獣骨製)
・牙垂飾
 (ホホジロザメ上顎歯製)
・弓筈状骨製品(海獣骨)

 124礼文島の円筒上層式土器
 東北の円筒土器とは随分文様が違っている。妙なでっぱりの装飾も違う。4波形の口縁部の形も違う。
  また、同時に天神山式土器が出土しているというが、天神山式は富山県の土器。札幌の平岸天神山式は文献がない。札幌の天神山式かも。
公開されている
円筒上層式土器

 125平岸天神山遺跡 引用「広報さっぽろ 2014年7月号 豊平区」(豊平区の古代遺跡)

豊平区の古代遺跡
 旧石器時代や縄文時代などの古代の遺跡が、実は札幌市内 にもあるということをご存じですか?
市内の遺跡はなんと500カ所以上あり、豊平区内にも多数の遺跡が点在しています。
今回は区内の主な遺跡や発掘された土器・石器などを紹介します。遠い古代の文化に思いをはせてみませんか。

その他の遺跡から出土した石器
その他の遺跡から出土した石器
上/T466遺跡 (羊ヶ丘1) から出土した縄文時代の石製装飾品
右/T464遺跡 (羊ヶ丘1) から出土した旧石器時代の石器

[平岸天神山遺跡]
■所在地/平岸1条18丁目ほか
■時代/縄文時代早期~アイヌ文化期までの遺物・遺構が発掘されている。
■発掘時期/平成5年~平成20年の間、3回発掘調査が行われている。

 現在の天神山緑地を中心とした遺跡。 天神山児童会館の建設や宅地造成に伴って発掘調査が行われた。
 縄文時代 早期からの遺物が発掘されており、縄文時代中期の代表的 な土器型式「平岸天神山式」が見つかったことで知られている。
 山頂部にはアイヌ文化期のチャシ(地形を利用した砦、館) 跡が残されている。
 平岸天神山遺跡   縄文中~晩期の土器 
これが
平岸天神山式土器
天神山緑地  オロシガネ状土製品
縄文後期

北海道には弥生文化がない

 126函館の円筒土器 引用「道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログ コラムリレー第211回 円筒土器 市立函館博物館の福田」

円筒下層式 円筒上層式 この円筒下層式土器も、円筒上層式土器も
共に、東北地方北部の土器そのままです。

 サイベ沢遺跡の円筒土器 引用「函館市-函館市地域史料アーカイブ:恵山町史」 サイベ沢遺跡 函館市桔梗町 縄文前期初頭から中期末葉の遺跡
円筒下層式
1~2、椴川式
3~5、サイベ沢Ⅱ式
6~8、サイベ沢Ⅲ式
円筒上層式
1~3、古武井式
4~7、サイベ沢Ⅴ式
8~11、サイベ沢Ⅵ式
12~15、サイベ沢Ⅶ式
16~20、見晴町式

127天神山式土器(富山県)5300~4600年前
 上山田・天神山式土器とひとまとめにして言われますが、これは間違いで、
 天神山式土器は、富山県魚津市天神山遺跡を標識とし、
 上山田式土器は、富山県かほく市上山田貝塚が標識遺跡です。

 天神山式土器は縄文時代中期中葉、約4500年前の土器です。
 外観は波状口縁で、胴体には、
 渦巻や、円形のボタンのような突起を貼りつけて文様をつくっています。
天神山式土器(富山県)

 小竹貝塚 人骨 縄文前期中葉~後葉 約6000~5500年前  富山市呉羽町1523-5
 低湿地遺跡である小竹貝塚からは91個体の人骨が出土し、そのうち
バイカル湖周辺から北海道経由で南下してきた、身長165~170cmの長身の北方系人骨が6体。
東南アジアや中国南部に多く、南西諸島を北上し、薩摩半島から対馬海流に乗って日本海を北上して来た南方系人骨とが混在していた。

 北方系と南方系の人々が言葉も通じないのにどのように意思伝達していたのかは不明だが、同じ小竹貝塚に棲んでいた。
つまり、少なくとも縄文前期後葉には、シベリア・サハリン・沿海州などや、
東南アジア・福建省などとの人的なつながりがあり、往来があったことを意味している。

そうでなければ、小竹国際集落に最大161体もの異邦人の人骨が埋葬されることはなく、このような海の道は、それ以前からもそれ以後も続いていたと考えるべきでしょう。

 礼文島上泊3遺跡の天神山式土器は、札幌市 平岸天神山式土器 ではなく、魚津市 天神山遺跡の土器だろうと思います。
 確認のしようがありませんが。
 
 130船泊遺跡

 131船泊遺跡 縄文中期~後期
久種湖を海と隔てる砂丘上にある船泊遺跡は、島を代表する遺跡の一つです。明治23 (1890)年には既に知られており、戦後すぐに行われた発掘で出土した土器は「船泊上層式土器と名付けられています。平成10 (1998)年の発掘調査では、30基近い墓のほか、
平玉などの貝製品と、それらの製作道具が多量に出土しました。
貝製品制作跡として、全国屈指を誇り、特殊な技術と目的を持った縄文人が遺跡を残したことがわかります。
翡翠など島外の品も出土し、当時の広域な交易活動を示す最北の縄文集落として、平成25 (2013)年に出土品の一部が重要文化財に指定されました。

 原料ビノスガイとは、北日本沿岸部・日本海・オホーツク海に生息する長寿貝

船泊遺跡
船泊遺跡の位置と今
発掘状況
様々な貝製品
貝製品製作跡

  国指定重要文化財 指定書
 133北海道船泊遺跡出土品 縄文時代後期の作業場や住居跡、人骨が出土
1. 種別 有形文化財
2. 員数 1616点(墓壙群出土134点、作業は゛跡出土1341点、包含層出土7093点)
3. 指定年月日 平成25年6月19日
4. 指定理由
 墓壙群出土遺物からは、当時の埋葬儀礼のあり方や、船泊遺跡をめぐる広い交易を物語る資料が多く、作業場跡からは、平玉を始めとする貝装身具製作の実態を解明する上で貴重な資料が出土している。また、包含層からは、当時の生業に関わる土器、石器、骨角器、および特徴的な形状の貝製品が極めて良好な依存状態で出土している。

これら1616点の出土品は、日本列島最北端の大規模な縄文時代遺跡における人々の営みを復元するために欠かせない内容を持っており、併せて、日本列島北辺の島嶼における遺跡の実態や、日本海を巡る広域な交易活動を考える上で、その学術的価値は非常に高い。

国指定重要文化財
北海道船泊遺跡出土品
国指定重要文化財 重要文化財指定書 船泊遺跡
←久種湖・船泊湾→
中央が
船泊遺跡
船泊湾
船泊遺跡・スコトン岬・トド島

 140船泊遺跡出土 土器 縄文後期
鉢形土器
作業場跡
鉢形土器
作業場跡
深鉢形土器
作業場跡

 150平玉工房


 151縄文時代の職人技
船泊遺跡の縄文人は、貝製品製作に関して、専門的な技術を持っていました。
平玉は主要な製品の筆頭で、様々な製作段階の出土品と、作業に使われる石器の観察から、大きく4段階に分かれる行程を復元できました。

穿孔に伴う破損品が最も多く、難しい作業であったことがわかります。完成品には、周囲の研磨の度合いによる精製品と粗製品、直径の違いなど複数の規格がありました、小さな平玉には、縄文人の技が注ぎ込まれています。

縄文時代の職人技 貝製品の加工手順 第1段階 (打割)
原材料のビノスガイから 厚い部分を割り、素材を作る
第2段階(剥離)
素材の角を打ち欠き、側縁を丸く整える
第3段階(穿孔)
メノウ製の錐を使って、両側から穴をあける
第4段階 (研磨)
側縁の凹凸を砥石で磨く
道具と未成品
 152MAID IN 船泊
日本屈指の出土量を誇る貝製品が、礼文島内で作られていました。
船泊遺跡からは、材料の貝や破損品、未製品、加えて、メノウ製石錐、短冊形石器などの道具が出土しました。
短冊形石器は、他にまとまった出土例がなく、船泊遺跡の特殊性を物語ります。
貝製品の中でも、特に平玉に関する情報は他の遺跡を圧倒します。
貝製品製作を目的の一つとしていた縄文人にとって、材料や道具が容易に手に入る船泊湾は格好の場所であったようです。

MAID IN 船泊 様々な貝製品
完成品と未成品
加工道具
メノウ製石錐
敲石
短冊形石製品
砥石 
短冊形石製品または棒状石製品と言われ
何の説明もなかったが、
貝製品の加工に使われたのか。
 153
貝垂飾
貝管玉未成品
貝垂飾
ビノスガイ製
作業場跡
3つの貝平玉をアスファルトで接着
貝管玉未成品
ビノスガイ製
作業場跡
 154
貝製品
タマキガイ製
作業場跡

二つの抉りは糸で止めるための溝か

この形状はどこかの博物館で見た記憶がある。

タカラガイを模した形か、鉢巻きに縫い付ける装飾にも見える。
貝平玉
ビノスガイ製
作業場跡
未成品
破損品
穿孔品

 155平玉製作工程
 156第1段階 打割整形
平玉製作工程 第1段階 打割整形
貝殻を割って素材を作る
素材ビノスガイ
 157第2段階 剥離整形
第2段階 剥離整形 素材剥片
素材を円形に整形する
破損品
 158第3段階 穿孔
第3段階 穿孔
メノウ製石錐で両側から穿孔する
破損品
 159第4段階 研磨整形
第4段階 研磨整形
縁辺を砥石で磨く
 

 160縄文人骨 縄文時代後期

 161複顔女性 船泊遺跡23号墓人骨 女性 縄文後期

 日本最北の縄文人の実像にせまる
 162船泊遺跡23号墓人骨(女性
国立科学博物館、篠田謙一博士らの研究グループによって、この人骨から採取されたDNAから(ゲノム=遺伝情報の全体)が日本で初めて解析され、このデータをもとに頭部を復元した資料が、2018年に公開されました。遺伝子情報に基づく復元像は、縄文人の実像を示す大変貴重な資料です。

女性の特色

解析された遺伝子情報
遺伝子 染色体 表現型
MC1R 16 シミのリスクがある
肌の色は濃い
EDAR 2 切歯はシャベル型ではない
毛髪は細く、縮れている
ABCC11 16 耳垢は湿型
OCA2 15 茶色または黒色の虹彩
HEPC2 15 茶色の虹彩
EDAR 2 歯冠のサイズが大きくなる
WNT10A 2 歯冠のサイズが小さくなる
ABO 9 A型 (A/O型) ※血液型
RHD 1 Rh陽性 ※血液型
COL23A1 5 鼻の高さは中程度
PCDH7 4 突顎の程度は弱い
PAX3 2 鼻根の高さは中程度
ADH1B 4 活性型 (酒に強い)
ALDH2  12 活性型 (酒に強い) 

 女性の遺伝子検査
   耳垢が湿っているのは縄文人。 切歯がシャベル型なのは半島人(従って彼女は半島人ではない。)
   酒に強い、ウワバミのような人は高知・鹿児島や島嶼部と、寒い地方の人に多かったなぁ、、
   気候が関係ないとしたら、島嶼部・離島は半島人との混血が少なく、縄文因子過多で酒が強いのかもしれない。
   青ヶ島の人なんぞは、ジュースのように酒を飲み、赤くもならない。羨ましいです。私はウイスキーボンボンでも真っ赤になります。

 163船泊遺跡の人骨群
船泊17号墓
頭を北東
、顔を南に向けた熟年男性。副葬品は無し
船泊24号墓
配石墓

黄色の泥岩と円礫が、遠景に交互に並ぶ配石墓。中央に小さな円礫が敷き詰められている
船泊24号墓
左の配石の下に土壙墓の人骨
船泊15号墓
頭を北、顔を東にした壮年女性。多数のビノスガイ製平玉を副葬
船泊10号墓
頭を北北東、顔を東の熟年女性。ビノスガイ製平玉多数副葬
船泊12号墓
頭を西、顔を北の熟年男性。ビノスガイ製平玉多数副葬
船泊6号墓頭を北、顔を東。熟年女性ビノスガイ製平玉多数副葬 船泊9号墓頭を西、顔を北に向けた8歳前後の児童。ビノスガイ製平玉副葬 船泊7号墓

頭を北北西、顔を東。
熟年男性。ビノスガイ垂飾1点副葬
船泊5号墓
頭を北、顔を東。熟年男性。ビノスガイ平玉多数副葬
 165ビノスガイの貝製品

貝平玉
ビノスガイ製

上:15号墓 首周辺 
中:15号墓 手首周辺
下:12号墓 腰周辺 

※考察 貝平玉の副葬
ビノスガイの貝殻は礼文島北部の海岸でいくらでも拾えるようです。
厚みのある大きな貝殻です。これを敲き石と翡翠の石錐と砥石だけで加工するのは大変ですが、玉製垂飾の加工に比べればたやすい。
貝製平玉は、はっきり言って、粗製です。これを首にかけていても美しくは見えないし、不細工です。
もしこれが日常用の装飾品であれば、摩耗や汚れがあるはずだがそれがない。装飾品ならもっと綺麗に整形するはず。
でも綺麗にはしていない。その必要のない用途に使われたのではないだろうか。
 で、これは、死者の旅立ちのための装飾品(副葬品)ではないか。六文銭的な。
 と、私は感じました。
 こういうのも、昔、懇意にしていた老人がなくなった時、驚くことに、旅支度で、白装束。わらじを履かせて、首から数珠をかけて、
こんな死に装束は見たことがないようなことをしていました。もしかしたら、縄文時代の死出の旅支度だったのかもしれない。


 他の貝製品

最下段2個はタカラガイ製
10号墓
上中段はマクラガイ製
15号墓
タカラガイは南海産の貝
 房総半島・山口県日本海側以南などでも拾える。

マクラガイ
 房総半島・男鹿半島以南の海域で採取。

※考察 需要品の連絡
 日本海航路を通じて、
山口県以南のタカラガイや男鹿半島以南のマクラガイを運んでいた、長大な交易路があったようだ。
 更に、礼文島で需要のある貝殻の情報を、
また、舟で帰って秋田・山口に伝えたのだろう。湖の貸しボート程度の舟で往復するなんて、凄い操船技術と、強運だ。
 こんな長大な冒険旅行に命を掛ける縄文人て、どんな考えでこんなことができたのだろう。
また、この往復を一人の人物が、何度も繰り返していたのでしょうか。

 166石製品
石匙(ナイフ)
頁岩製
右:11号墓
左:19号墓
石鏃
黒曜石製
13号墓
 168玉製品
垂飾
左:ヒスイ製 7号墓
右:カンラン岩製23号墓

ヒスイ製 28号墓
管玉 蛇紋岩製
11号墓
 169骨角製品
鳥骨管玉
鳥骨製 13号墓
これらの装飾品は、完成品で持ち込まれたのか、礼文島で加工したのか。
きっと交易用の完成品でしょうね。
新潟のヒスイ以外は、どこから?
 
 
 170

 171島の幸と縄文人
礼文島の遺跡は、骨や貝殻の保存状態がとても良いことが特徴です。
遺跡に残る動物の骨からは、昔の人の食べ物、獲物を取った場所や技術、季節などを推測できます。

縄文人が残した船泊遺跡では、海に住む様々な生き物が出土しました。
なかでもトドやアシカの仲間が多数出土した事は、彼らが肉や、毛皮などを求めて積極的に狩猟していた証です。
大きな雄の頭の骨には、穴が開けられていたり、住居内に並べられたりしたものもあり、苦労して取った獲物に対する彼らの思いを偲ばせます。

島の幸と縄文人 船泊出土動物種一覧
あらゆるものを食べました。ネズミまで。
穴を開けられたトドの頭蓋骨 岩の上で休むトドの群れ

 172縄文のグルメ
出土した動物には偏りがあり、貝類ではイガイ、魚類ではニシン、鳥類ではアホウドリ、哺乳類ではニホンアシカが多く出土しました。その他にもホッキ貝と呼ばれるウバガイやホッケなど、食材としてなじみのある名前も挙がります。春に大群で回遊してくるニシン、夏に島内で繁殖するウの仲間など、縄文人は、群れる動物を狙って効率的に獲っていたようです。春から夏に群れる動物が多い一方で、タラやアザラシなどが極めて少ないことから、船泊の縄文人は、寒い時期は島を離れていたのかもしれません。

縄文のグルメ 貝類出土割合
魚類出土割合
貝類の大半
エゾイガイ(ムール貝)
繁殖力が強く身が大きくおいしい
魚類の大半ニシン
2~3月が漁期海が荒れる時期。イワシ並みに小骨が多い。
鳥類出土割合
哺乳類出土割合
鳥類の大半が 
アホウドリ。大型。
海棲哺乳類の大半
ニホンアシカ

 173貝類
エゾイガイ
ウバガイ
カガミガイ
ビノスガイ
サラガイ
ヒメエゾボラ
エゾアワビ

 魚類
カレイ・ホッケ
メバル属・ニシン
メバル属ソイ カレイ科アカガレイ ニシン ホッケ

 174ニホンアシカ 絶滅種 豚肉のようにおいしかったのではないか。

 175鳥類 鳥を捉える専門の矢で、早朝暗い時に群れに近付く

 176哺乳類
 

 200交易

 201交易品
貝製平玉・サルボウ貝輪
これら交易に出す品
ヒスイ・イモガイ
タカラガイ

これら入手品

 203海を越えた品々
島を取り囲む海は、縄文人を閉じ込めていたわけではありません。島では、手に入らない、ヒスイやイモガイなどが、島外とのつながりを示します。
希少なな装飾品や材料が、海を越えて運ばれていました。
接着剤として使われたアスファルトの中には、国外産のものもあります。
一方、島内の船泊遺跡で出土したものとよく似た貝平玉が、北海道本島やシベリアでも見つかっています。礼文の縄文人は、島外の品々と貝製品や島の幸を交換していたのかもしれません

 持ち込まれた物
海を越えた品々 島外から満ち込まれたもの
アスファルト
黒曜石製尖頭器
アスファルト
ヒスイ
黒曜石製石槍
イノシシ牙製品
イモガイ・タカラガイなど南方系貝類

イノシシ分布域
南方系貝類生息域
搬入品
アスファルト
ヒスイ
黒曜石石槍
猪牙製品
イモガイ・タカラガイ

 持ち出された貝平玉
極東に拡がる貝平玉
礼文島発
北海道内 シベリア極東
搬出品
貝平玉

 210交易品
玉と垂飾
左:玉 翡翠製 包含層
右:垂飾 翡翠製 27号
垂飾
 
垂飾 蛇紋岩製 包含層         

 垂飾・玉未成品 ※礼文島で製作していたので未成品がある。
垂飾未成品
蛇紋岩製 包含層
玉未成品 玉未成品
蛇紋岩・方解石製
包含層
※礼文島に蛇紋岩は産出しませんが、夕張岳周辺に産出します。原石で入手し、島内で加工して交易した、加工交易が行なわれていました。

 異形石器
異形石器
黒曜石製 包含層

 アスファルト付着製品
 天然アスファルトは新潟県上越地方から東北日本海側、さらには道南・渡島半島から石狩低地の北まで、石油産出地域で原油と共に産出しています。
アスファルト付着の遺物 アスファルト付着の遺物 骨製刺突具
石鏃
銛頭
海獣骨製 作業場跡

骨と黒曜石製石鏃をアスファルトで固定

 貝製品
貝垂飾
垂飾
左右ともイモガイ製
垂飾
右:アオブネ製
左:マクラガイ製

 牙製品
イノシシの犬歯製
牙短冊形製品

 220石器類

 221石から生まれた道具
石を薄く割った薄片からは、石鏃や掻器、石匙など様々な石器が作られ、使われていました。これらは剥片石器と呼ばれます。一方、大きな石を加工した、礫石器もあります。
石鋸や磨製石斧、石皿などが出土しています。こういった石器には、島内の頁岩やメノウ、砂岩といった石材を中心に島外の黒曜石なども利用されていました。狩や獲物の解体・加工、貝製品製作まで、豊富な石器は、縄文人の多様な活動を物語ります。

石から生まれた道具
石鏃・石槍
掻器(剥片石器)
磨製石斧・石鋸・
石皿(礫石器)
両面調整石器かな
歯牙製垂飾
石製平玉
 222石鏃・石槍
石鏃

黒曜石・メノウ・頁岩
石鏃
黒曜石・メノウ・頁岩
石槍
頁岩・チャート
黒曜石
 223石匙・掻器
掻器
黒曜石・頁岩製 包含層

横型石匙でないかなぁ
西日本の横型石匙を否定し掻器としたのだろう
石匙
黒曜石・頁岩製 包含層

これらは石刃石器
 224石錐
石錐
黒曜石・頁岩製 包含層
石錐
石錐素材頁岩片
製作途中段階の素材
など
 225磨製石斧
磨製石斧
緑泥岩片岩
包含層

粘りのある岩石

 230骨角器
 231獲物が産んだ道具
骨や歯を材料とした骨角器は、石器と並ぶ重要な道具でした。
島内の遺跡からは、通常の遺跡では、残りにくい骨角器も、冷涼な気候と砂地に守られて、大量に見つかっています。
出土した骨角器は、礼文島ならではの保存状態の良さで縄文人の活動を今に伝えます。
彼らは石鏃をアスファルトで固定した銛頭で海獣を狩り海獣の牙から削り出した釣り針で魚を釣っていました。
鳥の骨から作った骨針は、穴の部分が壊れても再加工して、短くなるまで使っていたようです。
捕らえた獲物は骨まで利用し、道具を手入れしながら使っていた様子が目に浮かびます。

獲物が生んだ道具 骨斧・銛頭・骨針 骨箆・骨槍・釣針 銛頭
骨箆・釣針・銛頭・弭
 233
骨斧
鯨骨製 包含層
斧になるほど
重くて硬い骨
釣針
海獣の犬歯製 包含層
釣針製作工程
銛頭
海獣骨製 包含層

上部に石鏃を付け
下部を銛柄に付ける
骨針
短くなるまで再利用
貝輪
上サルボウガイ製
下タマキガイ製
包含層
骨刀 鯨骨 包含層
 240

 241島外につながる土器
 礼文島を代表する、縄文土器は、船泊遺跡から名付けられた船泊上層式です。
 土器は模様や出土状況等から「型式」に分類されます。
型式は、地域、時間的なまとまりを持ち、集団や時期を知るためのカギとなります。
 船泊上層式は、縄文時代後期中頃の北海道北部に特有の形式です。
 船泊遺跡からは、北海道南西部で出土する、ウサクマイC式手稲式もみつかりました。

同時期の東日本では、千葉県加曽利貝塚出土の加曽利B式に代表される、よく似た土器が出土します
船泊遺跡の土器も例に漏れず、南北をつなぐ縄文人の交流を示しています。


礼文町船泊遺跡は(略)、縄文時代中期から後期にかけての土器や人骨が発見される遺跡(略)。
(略)発掘では、貼床などを伴う生活面24基、墓壙24基、土壙19基、屋外地床炉29基、集石炉58基などが検出された。
遺物は縄文時代後期中葉の船泊上層式が中心で、この時期は、南は九州から北は北海道北部まで、統一化された土器文様が見られる
 引用「いちご畑よ永遠に 礼文町郷土資料館①」
なぜ縄文後期中葉に九州から礼文島まで同じ土器文様何だろう。
 急速な日本海航路の発達によって情報が一斉に伝達されたのだろうか。

島外につながる土器 手稲式 縄文後期中葉 (亀ヶ岡系の文様)

船泊上層式 縄文後期中葉(縄文系文様)

ウサクマイC式  擦文or続縄文(擦文の上に横沈線)
手稲式
縄文後期中葉
船泊上層式
縄文後期中葉
ウサクマイC式
擦文時代
※おかしい
下が古く上が新しいはずの図
ウサクマイC式が擦文時代ってヘンじゃないか。
ここヘンですね 船泊上層式⇒手稲式⇒ ウサクマイCでないか。
ウサクマイC遺跡は擦文時代の遺跡or続縄文時代恵山文化の遺跡とも言われている。
 ウサクマイC式土器が最新との情報が多い。


 242船泊上層式土器
深鉢形土器
入江式 包含層
鉢形土器
船泊上層式 包含層
   鉢形土器
ウサマイC式
   小形土器
船泊上層式
   
壺形土器
手稲式
二つの土器を半乾きの時に接着したようです。何か目的があったのでしょう。
 245よく似た土器
深鉢形土器
船泊上層式
深鉢形土器
ウサクマイC式
深鉢形土器
手稲式
 

 250浜中2遺跡 縄文晩期

 251縄文文化と浜中2遺跡 縄文晩期 亀ヶ岡系土器
 船泊湾のほぼ中央に位置する浜中地区は島内でも、有数の遺跡が集まる地区です。現在6つの遺跡が確認されており、中でも浜中2遺跡は縄文時代から江戸時代のアイヌ文化まで、数千年にわたる期間の遺物が見つかっています。骨や貝などの保存状態が良く、昔の人がどのような動物を、いつ、どのように捕獲し食べていたのかを知ることができます。
 島内では他に例のない、約3000~2500年前の縄文時代晩期の土器がまとまって出土したことも特徴の一つです。
これらの土器は、東北地方が起源で同時期の北海道南西部でも出土する「亀ケ岡式土器」の流れをくむものです。

縄文文化と浜中2遺跡
浜中2遺跡の位置と
調査区
縄文時代晩期
出土した晩期の土器

亀ヶ岡系
縄文晩期のアシカ類と石器・土器の集中
 254縄文晩期土器 浜中2遺跡
縄文土器
浜中2遺跡
縄文晩期後葉
縄文土器
浜中2遺跡
縄文晩期後葉

亀ヶ岡系
 255縄文晩期土器 浜中2遺跡 亀ヶ岡系土器

 ※亀ヶ岡系の磨り消し縄文土器に、なにか、タツノオトシゴ状の装飾がついている。
  ここを持って傾けるための把手かな。
 256縄文晩期土器 浜中2遺跡

沈線と縄文の見事な甕です
 
 


 260続縄文時代

続縄文土器とは、北海道地方で縄文時代後に使用されていた土器です。続縄文時代は本州の弥生時代や古墳時代と並行して行われ、約1,200年前(7・8世紀ころ)まで続きました。

続縄文土器の初期には、兜野式琴似式大狩部式興津式などの土器が分布し、突瘤文が少量見られます。
また、続縄文時代早期の深鉢形土器には、波形の曲線の文様である「変形工字文」が特徴的に現れています。

続縄文時代には、鉄器や管玉、ガラス玉、イモガイで作った貝輪などの遺物も出土しています。これらの品々は、本州の弥生社会で権威を示すようなものでした。 引用「続縄文土器」


 261北辺の続縄文時代
 本州に弥生文化が栄えていた頃、北海道州周辺では「続縄文文化」と呼ばれる縄文文化の流れをくむ土器を作る文化が営まれていました。
この文化は、北海道独自の文化と言え、小規模な農耕や土器の複雑な模様など、後の文化と関連付けられる要素も見つかっています。

 この時代の初期には、地域によって異なる土器を作っていましたが、次第に類似した土器を作るようになります。
礼文島では、住居や墓が見つかり、同時代初期の各地の土器や、末期にはサハリン島の土器も持ち込まれています。
海を渡った土器は、後のオホーツク文化へと続く、列島北辺の人の移動をものがたります。

北辺の続縄文時代 島内の続縄文遺跡 続縄文時代の墓
出土した道内の
続縄文土器
道北・道東
道北の土器
道東の土器
道央
道央の土器

 262続縄文土器
 道東から礼文島へはオホーツク沿岸を北上して、利尻島を海上独標にして、その傍の礼文島に着いたのでしょう。
 スコトン岬を出るとしばらく島影が見えない。
 道南からは海流に乗ってやはりサロベツ原野からは、利尻島を目指してきて、その島影の礼文島に入ったのでしょう。
 交易品は蛇紋岩で、欲しかったのは貝製平玉か。
道東の土器
道北の土器
道南西地方の土器

 263続縄文土器 続縄文前半(畿内の弥生時代相当期) 上泊3遺跡 上泊4遺跡 東上泊遺跡
 264ミニチュア土器 続縄文前半(畿内の弥生時代相当期) 上泊3遺跡 上泊4遺跡 東上泊遺跡
 265続縄文前半期土器 浜中2遺跡
           
           

 267骨角製品 続縄文前半期
ヘラ状製品
浜中2遺跡
続縄文前半
掘り具
浜中2遺跡
続縄文前半
ヤス先
浜中2遺跡
続縄文前半
銛先
浜中2遺跡
続縄文前半
鉤状製品
浜中2遺跡
続縄文前半
槍先
浜中2遺跡
続縄文前半
 
 

 二階展示室 

 300Ⅱオホーツク文化・擦文文化


Ⅲ礼文島の開拓、
Ⅳ礼文島の基幹産業
は船の都合で割愛

 310最北限の先史古代文化


 311オホーツク文化


 311オホーツク文化と礼文島
 オホーツク文化は、サハリン南部・北海道北端からオホーツク海沿いに広まった、古代文化です。時代的には、古墳時代から平安時代の前半に相当し、北海道の続縄文文化や擦文文化とは全く異なる内容を持つ文化です。

 彼らの生業は、海獣の狩猟と漁労が中心で、集落は海沿いに築かれました。また、遺跡の出土品には、精巧に作られ骨格製品や、帯金具など東アジア由来の金属製品など特徴的なものが多く見られます。


土層剥ぎ取り展示を
撮影していません
オホーツク文化と礼文島

本州と北海道の時代区分
オホーツク文化期は
道北:古墳時代初頭~平安時代前期まで
道東:古墳時代中期~平安前期まで…道東ではその後トビニタイ文化に写る
オホーツク文化の遺跡地図
 

 オホーツク文化の遺跡地図 引用オホーツク文化

オホーツク文化の
主要遺跡

引用オホーツク文化

参考
オホーツク文化とトビニタイ文化

厚真から北海道が見える

サハリン南部
1 シャフチョールスク
2 東多来 (タライカ)
3 ベーリンスコエ

 サドーヴニク
 カリーニナ
5 ネベリスク
 イワーノフカ
6 十和田 (サハリン)
7 クズネツォーヴォ

 スタラドゥブスコエ
8 江ノ浦 (サハリン)
9 南貝塚 (サハリン)
 セディフ
 ベロカーメンナエ
10 アショールスク
  アンフェルツェフォⅡ

14 鈴谷貝塚
  リュートガ

北海道

11 浜中 (礼文町)
12 重兵衛沢(礼文町)
13 上泊1 (礼文町)
14 香深井(礼文町)
15 元地(礼文町)
16 亦稚貝塚(利尻町)
17 赤貝塚(利尻町)

19 泊内(稚内市)
20 オンコロマナイ貝塚(稚内市)
21 声間貝塚(稚内市)
22 抜海(稚内市)
23 天塩川口 (天塩町)
24 浜益岡島洞窟(石狩市)
25 朱太川右岸6(寿都町)

26 宮津 (奥尻町)
27 青砂丘(奥尻町)

28 目梨泊 (枝幸町)
29 幌別砂丘(枝幸町)
30 川尻北チャシ(枝幸町)
31 雄武竪穴群雄武町)
32 栄(紋別市)
33 川西(湧別町)
34 栄浦第二 (北見市)
35 常呂川河口(北見市)

36 能取岬西岸(網走市)
37 二ツ岩 網走市)
38 最寄貝塚(網走市)
39 須藤・ピラガ丘(斜里町
40 チャシコツ押上・下(斜里町
41 トロ海岸砂丘・滝ノ上(斜里町)
42 知床岬 (斜里町)
43 相泊 (臼町)
44 トビニタイ (羅臼町)
45 船見町高台(羅臼町)
46 オタフク岩 (曜日町)
47 松法川北岸(羅臼町)
48 三本木 (標津町)
49 下別(弟子屈町)
50 弁天島(根室市)
51 トーサムポロ(根室市)
52 オンネモト(根室市)
↓国後島
53 シロマンベツ川河口左岸
54 ポンキナシリ
55 ニキショロ湖沼口・西岸
56 古布砂丘

57 チポイ3 (色丹島)

58 留別(択捉島)
59 年前(択捉島)
60 紗那 (択捉島)
61 別飛(択捉島)

 出土遺物
腰に子熊が彫り込まれた女性像(女神像)
と海獣像
子熊女性像➀
子熊女性像②
海獣骨製と
トナカイ角製帯留め
帯留め
青銅製帯金具
宗谷管内
枝幸町目梨泊遺跡
靺鞨文化のベルト


 313牙製婦人像


 315礼文島出土の歯牙製女性像及び動物像
これらの異物は、礼文島北部の船泊湾沿岸の砂丘にある遺跡から採取されたものです。正確な採取場所は不明ですが、その特徴からオホーツク文化圏のものと推定され、マッコウクジラの歯を使って製作されています。

女性像2点のうち、大きなものは高さ約13cm、ややひし形で角張っている顔は、まるで仮面をつけているかのように見えます。さらに、両手を前に組んでいる姿は、祈りを捧げているかのようにも見え、全体的に宗教的な雰囲気が漂っています。

作家の司馬遼太郎は著書「オホーツク街道 街道をゆく38」の中で、この女性像を礼【礼文島のビーナス】として紹介しています。

なお、こうした女性像は、島内の浜中2遺跡や利尻島の亦稚貝塚(またわっかかいづか)、網走市のモヨロ貝塚などからも出土しており、オホーツク文化圏における特徴的な遺物といえます。
動物像は、長さ約10cmで熊を表現したものです。しかし、礼文島には今も昔も熊が生息していた記録はありません。ただ、オホーツク文化圏においては、熊の頭骨を家の中に安置したり、動物の骨を使って熊の像を作る例があり、熊はオホーツク人にとって畏れ・敬う特別な動物だったことが想像できます。

礼文島出土の歯牙製女性像及び動物像 牙製像 礼文島出土の歯牙製女性像及び動物像

 316婦人像1 礼文島大備地区 高さ13cm マッコウクジラの牙製
祈祷師の顔はお面。下半身はスカートのような衣服。お面は頭からすっぽり被っているようだ。
祈祷師はトランス状態になると、この世のものでなくなるので、このような異形(いぎょう)のものの顔なのだろうか。


 317婦人像2 礼文島大備地区砂丘出土 高さ9cm マッコウクジラの牙製
正面は粗製に見えるが背面は精緻なドレスをまとう。
完成後、正面の表現全てを削り取られたようだ。 しかし、頭には、とんがり帽子を被っている。
防止を背面から見ると、正面も精緻に造られていたようだ。


 318動物像 クマ 礼文島大備地区砂丘出土 全長約10cm マッコウクジラの牙製
熊像は大胆に省略した像である。完成後削り取った様子は見られない。
大胆なデフォルメか、未完成品か、これもまた、この世のものでないものを表現したのだろうか。

 

 319 ※資料 オホーツク文化期の時代区分
続縄文時代の時代区分は前期(弥生時代)と後期(古墳時代)とされている。がオホーツク文化期の時代区分は聞いたことがない。
 この博物館では、オホーツク文化期の時代区分5期に分けられている。

当館の区分 Wikiの区分
草創期 初期
初期 前期
中期 中期
後期 後期
末期 終末期
しかし、これ以上詳しいことはわからない。

 一方、『「もう一つの日本列島史」 2オホーツク氷民文化 宇田川 洋』では、右代啓視・赤松守雄(一九九五)が、
 オホーツク文化を次の四期に分けていることを紹介している。
プレ期 5世紀以前(続縄文文化)
前期 5~8世紀
後期 7世紀中葉~9世紀
トビニタイ期 9世紀末~12世紀
 
 どうも定説がわからないので、当館の区分に従って5期にわかれるが、その詳しい年代区分は不明としておきます。 
 
 
  
320※資料 礼文島のオホーツク式土器編年
➀一般的オホーツク式土器の編年
 オホーツク式土器は、一般的に
  鈴谷式期  (4c)が最初とされることあり。
  十和田式期(5-6c頃)初期、 
  刻文期  (7世紀)中期、
  沈線文期  (7−8c頃)中期
  貼付文期  (8−9c頃)後期。 

 または、
  円形刺突文
  刻文、 
  沈線文とソーメン状貼付文  の三期にわたって変遷するともされる。

 これまでの道東の博物館では、オホーツク式土器が独特の文様の発達を遂げるさまを見てきました。
特に、有名な波や貝、海獣や水鳥を表した貼付文は、オホーツク文化の終末期に、道東・網走方面で発達した紋様であり、
その文化が、次第に道北に向かって拡がっていく様子も見てきました。
  このような土器文化の独自の発達は、オホーツク人がサハリンから南下し、道東各地に入植する段階で、各々の入植地で独自性を発揮し、
他の入植地とは異なる文化や行動を高めていったことに起因すると思われます。

②礼文島のオホーツク式土器編年
 すると、サハリンや道北の稚内・利尻礼文から、道東に南下してきたオホーツク文化では、
 オホーツク文化の発信源、利尻礼文島の土器編年は道東のものとは異なり、最も中心地に近いものと考えられます。

 つまり、以下331~339の礼文島の土器は、道北特有のオホーツク式土器の編年です。
 そこで、次に、321から引用文を手がかりに、礼文島の土器編年を見ていきましょう。

 
 321礼文島香深井A遺跡の土器編年 引用「香深井A遺跡出土オホーツク土器の型式細別と編年 熊木俊朗」

要旨 礼文島香深井 A 遺跡出土土器群は、北海道北部のオホーツク土器編年を構築する際に最も重要となる資料である。
(中略)香深井 A 遺跡出土土器群に対して属性分析の手法を用いた分析を試みた。

その結果、この土器群の型式変化は(略)、単線的かつ不可逆的なあり方を示すことが明らかになっ た。
この結果を踏まえて本論では、 北海道北部のオホーツク土器編年として以下のような5型式 (8段階) からなる型式編年を提示した。
すなわち、
刺突文群=十和田式(前半・後半)
刻文I群
刻文Ⅱ群
沈線文群(前半・後半)
道東部の貼付文期に併行する土器群 (前半・後半) という編年である。

香深井A遺跡出土オホーツク土器の型式細別と編年 熊木俊朗
口縁部文様要素の分類
口縁部文様要素分類一覧表

 322➀刺突文群=十和田式(前半・後半
刺突文系文様 刺突文系文様 1.突瘤文
器面の内面から断面円形の施文具を刺突し、 外面に瘤を作る
2.円形刺突文
(内面瘤あり)

断面円形で棒状ないし竹管状の施文具を器面 外面から刺突し、内面に瘤を作る
3.円形刺突文
(内面瘤なし)

2と同じ施文具・施文法を用いているが、内面に瘤を作らない
4.円形刺突文と刻文系文様の併存
1~3の刺突文系文様と、刻文系文様が併存するもの

 323②刻文I群
5.2本の指による爪形文
親指と人差し指など、 相対する二本の指の爪 を用いて施す。つまんでひねるものと、ほと んどひねらないものがある
6.縦~斜め方向の刻文

棒状の施文具の先端を器面上で縦~斜め方向に動かして刻みつける
7.1本の指による爪形文
一本の指の爪で刻みつける
8.型押文
先端が櫛歯状に分かれた施文具をスタンプのように押捺する。なお「型」と他の種類の刻文系文様が併存する例はここに分類する
9.刺突文
1~3以外の施文具で刺突する。器面上で施文具を動かさない点で6・10と異なる
10.
棒状の施文具の先端を器面上で水平に動かして刻みつける。 なお 「刻横」と他の種類の刻 文系文様が併存する例はここに分類する

 324 ③刻文Ⅱ群
11.沈線文と刻文系文様の併存
刻文系文様と、13の沈線文が併存するもの
12.摩擦式浮文
太い棒状の施文具あるいは指などで器面をなでつけてできる凹面の線を隣接させ、複数の 凹凸線を作出する。 刻文が併存する例も含む
13.沈線文
12を除く、様々な太さの沈線文。口唇部外縁 に刻みを併存する例を含む

 325 ④沈線文群(前半・後半)
道東部の貼付文期に併行する土器群 (前半・後半)
14.貼付文
道東部のオホーツク土器に多く見られる、細い粘土紐を貼り付けた文様
 
 

 330住居と土器の変遷
   時代区分は本館の区分名称です
 

 331➀草創期

 草創期の住居
1969年に香深井2遺跡にて調査が実施されていますが、研究機関による学術調査のため、当町では、当時の写真を所有しておりません。

 草創期の土器
深鉢形が多く、文様は口の周りには外から突いて貫通させた円形の文様や、撚った紐を直線状、あるいは波状に押し付けた、文様などがあります。

草創期の住居
草創期の土器 左:不明
右:刻文系
刻文系
円形刺突文

 333②初期

 初期の住居
平面型は四角形で、床面は粘土を敷き詰めた貼り床となっています。中央には 炉があり、屋根を支えるため、柱も、穴の大きさから太さの異なる柱が使われています。

 初期の土器
形は深鉢形のみで、文様は、口の周りには棒状のもので、外側から突いた円形の文様や、内側からていたこぶの模様などがあります。

初期の住居
初期の住居跡
初期の土器
突瘤文 左:刻文
右:円形刺突文
円形刺突文
内から外へ貫通
円形刺突文と刻文

 335③中期

 中期の住居
全体が確認できませんが、貼り床の形状から平面型は五角形と思われます。床面中央が炉で、石が一部残っていることから、石囲い炉であったことがわかります
 中期の土器
形は深鉢形につぼ形が加わり、口の周りの肥厚帯と呼ばれる厚みが特徴です。模様は指先でつまんで付けた爪形の文様や、型押した文様などがあります。

中期の住居
中期の土器
刻文系 型押文
円形刺突文

 337④後期

 後期の住居
これまでの発掘調査で北部船泊湾沿岸の浜中2遺跡において一部が確認されたのみで、住居の詳細な状況は未だわかっていません。

 後期の土器
形は深鉢形とかめ形で、つぼ形はなくなります。口の周りの肥厚帯がなくなるとともに、文様は短い刻み目や単純な直線が引かれるものが多くなります。

沈線文と刻文系の併存
沈線文と刻文系の併存
1本指の爪形文

 339⑤末期

 末期の住居
平面形は四角形ですが、床は粘土がなく貼り床ではありません。中央に炉があり、石囲いの石が一部残されています。

 末期の土器
深鉢形やかめ形を始め、コップ形や椀形などの新しい器形が加わります。文様は、指でこするものや型押しなどのほか、何もつけないものが増えていきます。
末期の土器 末期の住居
へら書き沈線文
※5期に渡る土器を見てきましたが、草創期から後期初頭頃までは、土器文様に息吹が感じられ、より良いものを作ろうとする熱意が感じられますが、後期後半から末期では、もはや土のかたまり、美しいものを創出しようという意思が感じられません。そして、器面も形状も擦文土器に似てきました。これが文明の崩壊。末期症状というのでしょうか。
   

 350オホーツク文化

 351香深井5遺跡 オホーツク文化初期・末期
オホーツク文化の遺跡は島内各所にありますが、特に香深井地区に集中しています。香深井5遺跡は、体育館建設に先立つ調査によって発見・調査され、道路工事に伴い再度調査されました。オホーツク文化の中でも、初期と末期の住居址が見つかったことが特徴です。

初期の遺跡は宗谷地域に多いものの、生活の跡がまとまって見つかる例は少なく、彼らが南下してきた頃についての貴重な手がかりです。
彼らは末期になる、宗谷地域や道東の限られた場所に遺跡を残して消えていきます。
香深井5遺跡は、オホーツク文化の始まりと終わりを知る、礼文島ならではの遺跡といえます。

香深井5遺跡 香深井5遺跡の位置 発掘の様子
平成7(1996)年
末期の「元地式土器
出土状況
出土したイヌの骨
香深井5遺跡出土遺物 遺跡周辺風景

遺跡は香深井湾の南端、総合体育館付近一体にあり、体育館建物部分とその前の道路部分のみ発掘調査をした。
遺物出土状況

様々な骨やウニ殻が大量廃棄の「ゴミ捨て場」。それ以外にも壊れた土器や石器なども出土

出土土器の多くは壊れているが、小型土器はそのまま出土することもある
 353出土物 香深井5遺跡
有孔石錘
香深井6遺跡
オホーツク文化後期
上:石斧 
下:ナイフ
香深井5遺跡
オホーツク文化後期
石鏃
左下:銛先鏃   
右下:スクレイパー
オホーツク文化初期
 354
土製品
香深井5遺跡
オホーツク文化末期

何かの装飾品のようですが、着色したのでしょうか

それとも、紡錘車なのでしょうか
 355
石製玉類
香深井5遺跡
オホーツク文化初期

上記土製品に似た石製品です。宝石は装飾品

ならば、上、土製品も装飾品だったのでは
 356
左:銛先鏃  
右:スクレイパー
香深井5遺跡
オホーツク文化初期
石鏃
 357
刺突具(骨鏃)
香深井5遺跡
オホーツク文化末期
中柄
香深井5遺跡
オホーツク文化末期
結合式釣針
軸と鉤
香深井5遺跡
オホーツク文化末期
組合せ釣針の軸と
イメージ
 358
器種不明品
香深井5遺跡
オホーツク文化末期
器種不明品
サメの歯
鋭い鮫の歯は切断に使える
クマの歯
硬い象牙質に穴を開けて吊り下げられる
器種不明品
 
 360

 361香深井6遺跡 オホーツク文化後期
香深井6遺跡は香深井市街地の入り口に位置し、主にオホーツク文化後期の遺跡が出土しています。この時期は、同文化が宗谷から根室、南千島まで、オホーツク海南岸にくまなく拡がった時期に当たります。遺跡には、彼らの盛んな活動を示すように、鳥獣や魚の骨、ウニ殻が厚く堆積していました。
また、同時期に北海道本島で栄えた、擦文文化の遺跡も見つかっています。

後にオホーツク文化は、擦文文化の影響を受けて変容しますが香深井6遺跡も両文化が交流する場所だったのかもしれません。時代が下がっても住みやすい場所であったようで、近世アイヌ期のキセルなども出土しています。

香深井6遺跡
香深井6遺跡の位置 平成10年の発掘 擦文文化の土器
オホーツク文化期の
魚骨層
香深井6遺跡
出土遺物
遺跡周辺
遺跡は香深井湾のほぼ中央にあり、道路部分のみ発掘
集積炉跡
地面を少し掘り下げこぶし大から人頭大の石を敷き詰めた炉
蒸し焼きや毛皮に残る脂肪落としなどに使っていた
イヌの頭骨
ゴミ捨て場。イヌの頭骨が出土
 363
掘り具
香深井6遺跡
オホーツク文化後期
結合式釣針軸と鉤

香深井6遺跡
オホーツク文化後期


下:刺突具(骨鏃)
香深井6遺跡
オホーツク文化後期

刺突具=ヤスか骨鏃
下:針入れ
銛先 針入れはピンボケか表面の装飾が見えないアングルでした。
 364
穿孔製品
香深井6
オホーツク文化後期
指先骨・歯牙 海獣骨・鳥骨
 大学時代の友人に農学部種畜繁殖を学びその後ガン研に就職したドクターが、北里大学青森から関西までバイクで帰ってきたことがある。
その時、首から下げていたのがイヌの歯だった。
 途中、大学の研究機関などに立ち寄り、女性からこれはイヌの○○の歯でと、見ただけで種別や部位を言い当てる人がいて、流石はと感心したそうな。
 やがて、私が引きこもっている時に、その女性と結婚すると連絡があった。
 現在では引退して学会での発表などはしていないそうだ。
 

 370オホーツク文化の暮らし

 371魚と家畜 (漁と家畜?)
 島の北部に位置する浜中2遺跡では、オホーツク文化の人々が、地面が盛り上がるほど骨を捨てていました。
厚く、堆積する魚骨、ウニ殻を調べると、彼らが魚を常食していた事は明白です。
ソイやカレイなどを周年とりつつ、ニシンといった特定の季節、群れる魚を集中的に獲り、大漁の時には保存食を作っていたのでしょう。

魚は、家畜の餌にもしていたようで、人と犬の骨を分析した結果、ともに海産物を多く食べていたことがわかりました。オホーツク文化の人々が飼っていた犬や豚は、縄文時代のイヌや本州以南の野生のイノシシとは異なる姿で、食用の家畜を飼う文化と併せて、大陸北東部から持ち込まれた集団(×集団、〇習慣)であることもわかっています。

※主食も副食も魚というのは、現代人にとってはおかしいかもしれませんが、1960年代までは、日本の各地の漁村の食生活でした。
米を買うよりも、タダで獲れる小魚を腹いっぱい食べることができた時代でした。現在は、日本中の海は不漁ですが。

魚と家畜
魚類個体数出土割合
浜中2遺跡
ニシン漁期3-5月
ホッケ漁期5-7、11月
厚く堆積する魚骨・ウニ殻
浜中2遺跡
イヌ頭骨
香深井6遺跡
シベリア犬というらしい。餌は魚。
ブタ♀頭蓋骨
浜中2遺跡
カラフト豚。放し飼い
 373魚骨 香深井5遺跡
魚骨
香深井5遺跡
オホーツク文化期
メバル属(メバル/ソイ)
ウニ綱(ムラサキ・バフン)
板鰓亜綱(小型サメ)
タラ科(マダラ/スケトウ)
ホッケ・サケ科
トラフグ属・カレイ科
ブリ・ニシン
トラフグ属
ブリ
 374動物骨
動物骨
浜中2遺跡

放し飼いの非常食糧を食べている。緊急事態があったのでしょう。
カラフトブタ幼体
生後すぐ
子豚の丸焼きって高級料理。何かのもてなしに使ったようです。

柔らかいので生後間もなくを食べたのだろう
カラフトブタ肩甲骨
浜中2
カラフトブタ頭蓋骨 イヌ前足
室内で飼っていた犬を殺すほど飢えた。
 

 380オホーツク文化の生業

 381オホーツク文化の生業
オホーツク文化の生業の中心は、魚介類を得る漁労と、アシカ等の海獣狩猟で、合わせてイヌとブタも飼っていました。
礼文島内の遺跡は特に骨の保存状態が良く、彼らが食べていた動物のほぼ全てが分かります。
彼らは、礼文の海と獲物の習性を知り尽くし、季節ごとに回遊する種や群れる種を積極的に捕獲していました。

春に大群で来有するニシンやホッケ、
夏にはウニや貝、渡り鳥など様々なものを、
秋はホッケやサケ、
冬にはタラや海獣などを捉えていたようです。
海へ高度に適応したオホーツク文化の人々は、一年を通して礼文の海で活動し、
家畜に餌を与えられるほど、食料に余裕のある、豊かな暮らしを送っていました。

オホーツク文化の生業
カレンダー :ニシン・ホッケ・サクラマス(産卵期の回遊魚)
:アホウドリ・アワビ・ウニ・カレイ・ニホンアシカ
:サケ・ホッケ(回遊魚)ソイ
:オットセイ・アザラシ・トド・タラ

穀物が少ないので、動物を獲り続けるしかない。動物=主食・副食
穀物は交易品。自家栽培大麦の収量はそれほどでもなかったようだ。
 382
貝塚
おびただしい食物残渣の骨
剥ぎ取り地層
 383浜中2遺跡ゴミ捨て場
鯨骨製容器
脊椎骨

使い終わって捨てた
イシイルカ頭蓋骨
 384
海獣骨や鯨骨 植物質残渣ならすぐに消えてなくなるが、
骨角はなかなか溶けて消えないね。
 
 

 410海の狩人

 411海獣の狩人
 オホーツク文化の人々は、アシカなどの海獣を盛んに狩り、肉や脂肪、交易品にもなる毛皮などを得ていました。遺跡からは骨や狩猟具が沢山見つかり、例として、
 東海岸の香深井1遺跡では、オットセイの雄が大量に出土しました。オットセイは上質な毛皮を持つ一方で、特に雄は泳ぎが早く、冬の沖合でしか獲れません。

 船泊湾内の浜中2遺跡は、トドとニホンアシカの割合が高いものの、 3種の合計は、海獣出土量の7割を超えます。彼らは特殊な技術・道具・知識を持ち、積極的にアシカ類を狩っていました。捕獲が困難かつ、生活に不可欠な海獣を特別視していた証が、彼らの遺跡には海獣の頭蓋骨などを集めた「骨塚」が残されています。

海獣の狩猟 哺乳類出土個体数割合
香深井1遺跡
香深井1遺跡
オットセイ25%
アシカ類22%
イヌ33%
ブタ8%
放し飼いのブタよりも、餌を必要とするイヌの方が多く食用にされた。
カラフトブタは貴重品だったのか。

海獣出土個体数
割合比較
香深井1、浜中2遺跡
香深井1遺跡
オットセイ60%
トド10%
ニホンアシカ3%
浜中2遺跡
オットセイ20%
トド25%
ニホンアシカ28%
どちらも海岸沿いだが、場所によって獲れる動物が違う。
砂浜地形の浜中2や岩場地形の香深井。海流にもよるのか。
それとも、巨大動物トドは避け、小型のオットセイなどを狙ったのか。

どこかの博物館で巨大トドの皮革で作ったカヌーを見た。それほど大きくてどう猛。

骨塚出土
イシイルカ頭蓋骨
浜中2遺跡
住居内骨塚トド頭蓋骨出土状況
浜中2

大物が獲れると飾りたくなるのが狩猟者の心情。
巨大なイルカも、もっと巨大でどう猛なトドも、自慢の種だったのかもしれない。
 412
 413浜中2遺跡
ハクジラ亜目
肩甲骨
ヒレナガゴンドウ
下顎骨
ニホンアシカ頭蓋骨 トド 大腿骨
オットセイ大腿骨
アザラシ大腿骨
ニホンアシカ脛骨
オットセイ脛骨
アザラシ脛骨
ウ属上腕骨
ツル属手根中手骨
 
 


 420擦文文化7~13世紀頃 1400~700年前


 421擦文文化と礼文島
擦文文化とは、本州の古墳文化の強い影響を受けて、成立した文化で、本州と近い北海道南西部から徐々に北海道全域へ拡大しました。本州では、飛鳥時代から平安時代に相当します。

島内では現在、12ヵ所の遺跡が見つかっています。なお、擦文(さつもん)とは、土器の表面にはっきりと見られる木目の跡が、文様のように見えることから、名付けられた言葉です。

擦文文化と礼文島
4~12cの本州と北海道の時代(文化)相関図

4世紀頃
4世紀
・オホーツク文化はサハリン南部と、道北北部に、利尻礼文島に存在した。
・続縄文は北海道全域と、東北南部まで拡大していた。
・古墳文化は東北全土に影響を及ぼしていた。
 5~9世紀頃  5~9世紀
・オホーツク文化は道北から道東に厚く拡大し、千島列島にも広がった。
・続縄文文化人は、擦文文化へと、移行期にあった。
 (続縄文人に、擦文文化が拡がっていった。)
・律令文化の支配は、東北中部まで。対エミシ戦争を行なっていた。
 10~12世紀頃  10~12世紀
・道北のオホーツク文化人は、サハリンに撤退した。
・道東から千島列島の、取り残されたオホーツク人は、
 十勝から道東地域で擦文文化との融合文化であるトビニタイ文化を形成する。
・北海道全域は擦文時代となる。
・本州は武士による東北の支配が完了し平安時代となる。

 擦文住居
住居跡のくぼみ
沼の沢遺跡
香深井1の擦文文化の竪穴住居

方形で壁の一部にカマドを付ける。
カマド跡
湯釜もある
カマドの対側に
土管のようなものが埋められている。
何?これ!
最初に述べたように、
香深井1遺跡の展示物は、稚内フェリーターミナルにのみありました。

 423香深井6遺跡 擦文文化後期の遺跡 
香深井6遺跡はオホーツク文化後期の単独遺跡ですが、数少ない擦文文化の遺物が出土しています。

香深井6遺跡遺物擦文遺物包含層出土土器。この下はオホーツクの包含層 香深井6遺跡
ゴミ捨て場に銛頭が出土
 424擦文土器 香深井6遺跡 擦文後期
器形:甕・深鉢・高坏が主体。特徴:器面全体に擦痕。文様:線刻沈線文か無文

深鉢
擦痕

擦文後期
高坏 無文
坏 無文

線刻・沈線文
 426骨角器 香深井6遺跡 擦文後期
右:銛先
左:骨箆
香深井6遺跡
擦文時代後期

ヘラが必ず出土する
何に使うのかな

上段:刺突具(骨鏃)
左下:穿孔製品
下:刺突具(骨鏃)
この刺突具は長短で一組になっていた記憶がある。
 
 


   アイヌ文化期

 430 江戸時代の礼文島
 431
江戸幕府は、蝦夷地を治めるため、
渡島半島南部に松前藩を置きました。当時は米が取れないため、藩の収入は、藩の直轄領におけるアイヌとの交易による魚介類、毛皮類などでした。また、家臣への俸禄も米では支払えないため、その代わりに各地に商場(あきないば)を作り、そこで家臣とアイヌとの交易を許しました。

その後、家臣たちは、この商場における交易権を商人に与え、その代わりに商人から運上金を得るようになります。これを「場所請負制」と言います。場所を請け負った商人は、魚場を開拓して、出稼ぎ和人やアイヌを働かせました。

やがては反応、直轄領も請け負いになり、藩の収入も商人からの運上金へと変わっていきました。
礼文島は当初、貞享年間(1684~1688)に開かれた宗谷場所の付属扱いでしたが、明和2年(1765)に例文場所として独立しました。

江戸時代の礼文島

「江戸幕府は蝦夷地を治めるために松前藩を置いた」というのは、都合のいい言い換え。
実際は、ならず者集団がいくつも蝦夷地に渡って侵略を繰り返し、みかじめ料を取り立てていたのだが、そのうちの松前にいた集団が、江戸幕府に対して、藩としての承認を要求したので、松前藩として認めたにすぎない。江戸幕府は北辺のことなど何一つ分かっていなかった。


 432江戸時代の漁場と海産物
宗谷場所の付属扱いであった頃から、礼文島の漁場を請け負っていたのは、飛騨屋・武川久兵衛、阿部屋・村山伝兵衛、柏屋・藤野喜兵衛などの大商人たちでした。
当時の宗谷・礼文産の海産物の中で特筆されるが「煎海鼠(いりこ=ナマコを煮て乾燥させたもの)です。当時の煎海鼠は、北前船によって蝦夷地から長崎へと運ばれ、中国へと輸出されていました。

江戸時代の漁場と
海産物
絵図に描かれた礼文島の人家・番屋 漁場と海産物

 433北海道の名付け親松浦武四郎
 松浦武四郎は、1818(文化15)年に現在の三重県松阪市に生まれました。ロシアの南下が危惧される北方情勢を耳にし、「蝦夷地」と呼ばれていた北海道を目指します。
 武四郎は蝦夷地で、測量や探検が及ばず、アイヌ以外が踏み込んだことのない内陸まで進みました。道中はアイヌの協力を得て、また積極的にアイヌ語を覚えるなど、状況をつぶさに観察し ました。その記録を幕藩へ献上、一般にも蝦夷地とアイヌについて普及に努め「多気志楼(たけしろう)もの」として人気を得ます。 新政府で開拓判官となった武四郎は、「北海道」の統治方針に憤って辞職、「馬角斎(ばかくさい)」と号し、 北海道を避けるように各地を遍歴、 古物蒐集に終生を費やしました。

えぞこうきょうさんせん ちりとりしらべたいがいず
蝦夷闔境山川地理取調大概図 1860 (安政7)年 多気志楼主人としての署名が見えます。
(弘は武四郎の(いみな)) (札幌市中央図書館所蔵)

北海道国郡全図 1869(明治2)年
開拓判官としての署名が見えます。(弘は武四郎のいみな) (札幌市中央図書館所蔵)

松浦武四郎肖像
明治17年、武四郎 67歳の時の写真。首には収集した縄文時代の 勾玉や古墳時代の管玉などを繋げた「大首飾り」を掛けています。 (三重県松阪市 松浦武四郎記念館所蔵)
 434
西蝦夷地場所絵図25
レフンシリ島
江戸時代安政年間
礼文島内のアイヌ語地名➀
礼文島内のアイヌ語地名②
 

 440出土遺物 近世アイヌ 重兵衛沢2遺跡

 441アイヌの骨角器
 近世アイヌも 石鏃付き骨製銛頭 を使っていた。
銛先
重兵衛沢2遺跡
近世アイヌ
石製雁首と吸い口
重兵衛沢2遺跡
近世アイヌ
古銭
重兵衛沢2遺跡
寛永通宝と永楽通宝
近世アイヌ
ヘラ状製品
重兵衛沢2遺跡
近世アイヌ文化期
 443発掘出土品
3号墓(鉄製刀子②)
出土状況
鉄製刀子 マキリ
香深井5遺跡3号墓
近世アイヌ文化期
    3号墓(繊維製品)
出土状況 
繊維製品
香深井5遺跡3号墓
近世アイヌ文化期 
   
3号墓
(キセル雁首と吸い口)
出土状況
雁首
香深井5遺跡3号墓
近世アイヌ文化期
吸い口
香深井5遺跡3号墓
近世アイヌ文化期

ピンボケ
 
 


 450浜中2遺跡

 450骨角製品 オホーツク文化後期
 451骨角器
銛先
浜中2
オホーツク文化
中~後期
中柄を射し込む部分が開いているタイプ
銛先 浜中2
オホーツク文化
中~後期
中柄を射し込む部分か゛閉じているタイプ
 453副葬品骨鏃
鳥骨鏃
浜中2墓坑出土
オホーツク中-後期

アホウドリなどの骨で作られています
骨鏃
浜中2墓坑出土
オホーツク中-後

魚や海獣の骨角製
副葬品の検出位置この遺体は屈葬されてい 墓坑の外に、まとめて供えられていたというべきか ※屈葬状態に折り曲げるのはいつなんでしょう。埋葬直前でしょうか。死後硬直が解けてからだと、だいぶ時間がかかる。
 455骨鏃
中柄 浜中2
オホーツク文化中-後
銛先と柄を繋ぐ道具 刺突具(骨鏃)
浜中2 
オホーツク文化中-後

左2本は海獣骨製
他は鳥骨製
 457釣針
結合式釣針軸
浜中2
オホーツク文化中―後期

鈎と組み合わせて使用
単式釣針
浜中2
オホーツク文化中―後期
 
 460骨角器
掘り具
浜中2 中-後期
針入れ
歯牙製装飾品
浜中2 中-後期
装飾 装飾
歯牙装飾品 歯牙装飾品 大きな牙を輪切りにして、中を刳り抜いた。
 

 461礼文島出土の歯牙製女性像及び動物像

   浜中2遺跡の骨角彫像
これらの異物は、礼文島北部の船泊湾沿岸の砂丘にある遺跡から採取されたものです。正確な採取場所は不明ですが、その特徴からオホーツク文化圏のものと推定され、マッコウクジラの歯を使って製作されています。

女性像2点のうち、大きなものは高さ約13cm、ややひし形で角張っている顔は、まるで仮面をつけているかのように見えます。さらに、両手を前に組んでいる姿は、祈りを捧げているかのようにも見え、全体的に宗教的な雰囲気が漂っています。

作家の司馬遼太郎は著書「オホーツク街道 街道をゆく38」の中で、この女性像を礼【文島のビーナス】として紹介しています。

なお、こうした女性像は、島内の浜中2遺跡や利尻島の亦稚貝塚、網走市のモヨロ貝塚などからも出土しており、オホーツク文化圏における特徴的な遺物といえます。
動物象は、長さ約10cmで熊を表現したものです。しかし、礼文島には今も昔も熊が生息していた記録はありません。ただ、オホーツク文化圏においては、熊の頭骨を家の中に安置したり、動物の骨を使って熊の像を作る例があり、熊はオホーツク人にとって畏れ・敬う特別な動物だったことが想像できます。

礼文島出土の歯牙製女性像及び動物像

 462クマ牙像 浜中2遺跡 オホーツク文化期

 463牙製女性像  浜中2遺跡 オホーツク文化期
   腰の部分に動物が浮き彫りにされている

 464礼文島の牙像について
 おかしいと思われた方も多くあったかと思います。
 313~318でも牙製婦人像が出ています。同一反復ではないかと思われたかもしれません。
それは、礼文島北部の大備地区という場所の、大備海岸の砂丘から発見されたもので、
仮面の婦人像顔を削り取られた婦人像荒削りのクマ像でした。
 461~463の婦人像はやはり礼文島北部の浜中2遺跡から出土した婦人像です
こちらも10m程の砂丘上にある遺跡ですが、住居や墓、それに、末期・後期・中期・初期と各時代の遺物が出土しました。
この牙像は子熊を連れた婦人像、または、熊神婦人像と、精緻に彫り上げられ、体毛の質感まで出したクマ像です。

ということで、北海道全体で10体出土の内、3体が礼文島からでした。

 
 470

 471国際共同研究の場としての礼文島
   北の狩猟採集民の生活と文化を明らかにする。
   プロジェクトの研究目的:
 私たちは、北方地域に暮らした古代の人々が、どのように 自然を利用し、豊かな文化を作り出してきたのかを明らかに するために、国内外の大学と協力して調査研究を行なっています。古代の狩猟採集民は、気候や環境の変動に対して、さまざまに工夫をこらし、時に新しい技術を考え出すことで地域に適した暮らし方や文化を作り出してきました。
 礼文島は、北と南からの海流が出会う島です。この島には数千年前の縄文文化期から約200年前の近世アイヌ文化期まで絶えることなく人々が暮らしてきました。 礼文島は周辺の島々や大陸と海によって繋がり、行き交う人びとは、南と北から異なる文化を運んできました。
 わたしたちは、浜中2遺跡が大陸と日本列島を繋ぐ南北の文化交流点であり、数千年間という長い時間の中で交流の歴史を調べることができる大変貴重な歴史文化遺産であると考えています。

国際共同研究の場としての礼文島 プロジェクト 
 三つのねらい
➀国際的・学際的研究
  ネットワークを活用した新たな研究成果の発信
②礼文島を舞台にした若手研究者の育成
③地域に根ざした考古学の取り組み

 472浜中2遺跡の発掘調査の概要
 1.浜中2遺跡の特徴
礼文島は、良好な考古学的資料が発見される場所として知られてきました。
特に、浜中2遺跡には縄文文化期から近世アイヌ文化期にわたって、継続的に人々が暮らした痕跡があります。
なかには、本州や大陸との交流を示す証拠も発見されています。

発掘調査の目的:
(1)古代の人びとの暮らしの 移り変わり (漁・食文化・祈りの変化)を明らかにする。
(2)数千年間にわたる環境や気候の変化と、人々の暮らしの変化との関係を明らかにする。
(3)アイヌ文化が形作られた歴史と、文化的な多様性を「南北との文化交流」 という視点から明らかにする。

浜中2遺跡発掘調査の
概要
浜中2遺跡の特徴 発掘調査の様子 ・アワビの貝塚(近世アイヌ)
・骨製品(オホーツク文化)2014出土
・魚骨堆積層(オホーツク文化)
・アワビの貝塚 ・魚骨堆積層

・クマ形骨製品 ・アシカ類の送り場 ・クジラの送り場

      クマ形骨製品
(続縄文時代) 
・アシカ類の送り場
・クジラの送り場(オホーツク文化)
  

浜中2遺跡は、 オホーツク文化初期と末期の集落遺跡である。 こんなに狭い場所だと思わなかった。
 続縄文時代のクマ形骨製品(子熊の頭部彫像)は、初期オホーツク文化の遺物と考えるべきでしょう。
 オホーツク文化は発生の当初から、クマ信仰・クマ祭を持っていた。

 引用「ロシア科学アカデミー人類学民族学博物館所蔵のクマ祭資料(2)「ケー トのクマ祭にて」の序文によると
  「クマ信仰一般と 「クマ祭」と呼ばれる特別な儀礼は広く文化の一般的な段階現象として知られている。
   ユーラシアではクマ祭はピレネー山脈から日本列島まであり、 アメリカ大陸でも記録されている。
   それについてはシベリアの資料に拠るものを含め、 膨大な文献がある。」
   としている。つまり、続縄文人と融合してオホーツク文化を産んだ北方民族は、初めからクマ信仰を持っていたようである。


 473オホーツク文化期のお墓

 1.浜中砂丘と埋葬墓
浜中砂丘遺跡では、砂丘の砂にカルシウム分の豊富な貝殻が多く含まれているため、骨や角などが非常に良い状態で発見されます。お墓は、埋葬姿勢や一緒に埋められた道具などから、当時の社会や死生観を、遺骨は遺伝的情報などを教えてくれます。

 2.調査で発見された墓
浜中2遺跡から、オホーツク文化期の異なる時期に暮らした人々のお墓が見つかりました。その結果、若くして亡くなる子供がいたことや、女性が裁縫だけではなく、狩猟や漁労などに関わっていた可能性が示されました。

オホーツク文化期のお墓 1.浜中砂丘と埋葬墓
2.調査で発見された墓
オホーツク文化初期刻文段階 周産期死亡児
オホーツク文化中期 沈線文式段階小児(7-8歳)
オホーツク文化期晩期 元地式土器段階 40第女性
に伴う 副葬品:鉄製腕輪・刀子・釣針

オホーツク文化期前期 十和田式段階 熟年女性

石の槍またはナイフと骨針が副葬されていた
「狩猟」と「裁縫」を行なう女性だったのか
直径1mmにも満たない針穴

 474オホーツク文化期の食生活の復元

 1.海からの恵みと家畜
大量に出土するアシカの仲間やクジラ、魚の骨、貝やウニの殻は、オホーツク文化期の人々が、海の資源を積極的に利用していたことを物語ります。銛頭や釣り針、石のおもりなど、狩や漁の道具も見つかっています。

魚の中では、春にニシン、夏や秋にはホッケが多量にとられていました。
陸の動物では、イヌやブタが飼育された痕跡も見つかっており、当時の食生活が多様で、安定した食料の確保の工夫が伺えます。

食生活の復元 1.海からの恵みと家畜 網を沈めるための石錘

骨製の組み合わせ釣針の軸
オホーツク文化期の魚介類の出土状況 ・魚介類残渣の量が特徴的である。
前期は人数が少なく、中期に一挙に増加し
後期・晩期と次第に減少していく。
・最小個体数の意味不明だが、何らかの原因で漁獲数が減少したのだろうか。

 2.外から来たイヌとブタ
オホーツク文化の貝塚からは、2011年から2014年までにイヌ78頭、ブタ11頭分の骨が見つかっています。人々はイヌやブタを島の外から持ち込んで飼育したようです。骨からDNAを採取して、イヌとブタがどこから持ち込まれたのかを、現在調査しています。

2.外から来たイヌとブタ
ブタの頭骨 オホーツクイヌの体格
柴犬よりちょっと大きい。
オホーツク犬という犬種がいたのだろうか。
 私はカラフト犬だと思っていました。
シベリア犬でしょうか。

 3.イヌとブタの餌の違い
骨の中に残された窒素と炭素の比率を調べると、イヌは、人間と同じく魚などを食べていた一方で、ブタは魚に加え、植物も食べていたことがわかりました。この結果から、イヌは人間の側で飼われ、豚は放牧されていたと言う飼育方法の違いがあったと考えられます。
※イヌは人間の住居内で飼っていて、ブタは外で飼っていた。つい最近まで、樺太ではカラフトブタを放し飼いしていたようです。
 ブタは犬と違って、自分で餌をとれる(草)ので。

3.イヌとブタの餌の違い

 475遺跡から見つかった植物の種

 1.植物を利用した痕跡を探る
遺跡の土を水で洗い細かい網でふるうことで、土の中に残った植物の種を回収し、当時の人々がどのような植物を食べていたかを調べます。
a.火を焚いた跡の土などを水で濾します。
b.水に浮いた種を細かい目のふるいで受け止めます。

1.植物を利用した痕跡を探る 水による選別 a.火を焚いた跡の土などを水で濾します
b.水に浮いた種を細かい目のふるいで受け止めます

 2.オオムギ(ハダカムギ)の種
オホーツク文化期の遺跡がオオムギ・キビ・アワなどの栽培植物が伴うことが知られていました。
浜中2遺跡では、それ(オホーツク文化)以前の時期からもオオムギが確認されました。

大麦(裸麦)種子 ・上: オホーツク文化期のオオムギの種子は、寒帯種

・下: 続縄文・縄文晩期の種子は温帯種

 3.浜中2遺跡で見つかった植物種子
土壌分析の結果、オホーツク文化期の層から最も多く、多様な種類の種が見つかりました。

栽培植物で、ビールのような飲み物にも利用される。ハダカムギに加え、薬草になるキハダ、染料になる漆属も見られることから、オホーツク文化期の植物資源利用の多様性が伺えます。

3.浜中2遺跡で見つかった植物種子 時代と植物種子の量 植物栽培
縄文晩期に食用植物の栽培があり
続縄文期に増加する。弥生末期の寒冷化で一旦減少し、
オホーツク文化で爆増する。
オホーツク文化終末期に激減し、
アイヌ文化期では食物栽培はほぼなかった

※オホーツク人は、狩猟・海獣狩猟・漁撈・交易に加え、食物栽培も盛んに行っていた。
 しかも、畑作栽培だけでなく、有用樹木の栽培まで行なっていた。
 アイヌはその文化を継承していなかった。

ハダカムギ/食糧
キハダ/医薬
ヌルデ/染料
ハダカムギ (2条と6条)
キハダ
ヌルデ/ウルシ属 (画像はツタウルシ)

栽培植物でビールのような飲み物にも利用される ハダカムギに加え、 薬草になるキハダ、 染料になる ウルシ属もみられることから、 オホーツク文化期の 植物資源利用の多様性が伺えます。

 476礼文島出土の黒曜石の原産地推定

 1.黒曜石の特徴と産地推定
黒曜石は地上近くで急速に冷えたマグマにより形成されるガラス質の岩石です。マグマの成分によって、色や質などが変化します。
ガラス質のため叩くと貝殻状に割れる

 2.黒曜石はどこから来たの?
各産地の黒曜石はそれぞれ成分が異なる!

礼文島の遺跡で、特に石器に多く利用される生物由来の珪質頁岩そして豊富な珪素を含んだ熱水が岩盤の亀裂や穴に溜まってできたメノウは、礼文島産出します。
一方、黒曜石は、島外の限られた場所でしか産出しません。

礼文島出土の黒曜石の原産地推定
1.黒曜石の特徴と産地推定
2.黒曜石はどこから来たのか
黒曜石産原地
白滝
瑠辺蘂
置戸
滝川
赤井川
豊浦
※北海道全道から移入

 3.蛍光X線分析による黒曜石製石器の原産地推定結果
蛍光X線分析方法(XRF)を用いて、礼文島の3遺跡から出土した黒曜石製石器の成分を計測しました。その結果、これらは道内の様々な地域から集められたことがわかりました。

3.蛍光X線分析による原産地推定結果
遺跡位置ごとの原産地 年代別にサンプル遺跡を置き換えてみた。
➀縄文中期 ②続縄文 ③オホーツク前期~後期 ④オホーツク初期と末期の順。
・縄文中期:白滝Aと赤井川が中心
・続縄文 :白滝Aがほぼ全体
・オホーツク全期:白滝Bが半分
・オホーツク初期末期:でも白滝Bがほぼ半数を占める
オホーツク時代は白滝B産地が大人気でした。
※白滝Bがどこを指すかは不明だが、白滝A採掘後に発見された産出量の多い鉱山か
 

 477久種湖からみる島の自然の移り変わり

 1.久種湖 湖底のボーリング調査
2011年の冬に久種湖の湖底のボーリング調査を実施した結果、久種湖の底に18mの厚さを持った湖底堆積物があることが判明しました。

この堆積物を調べることで何がわかったのか?
1.16,000年前の最終氷期の終わりから連続する堆積物の存在
2.河川沿いの湿地から汽水湖(淡水と海水の混じった湖)、そして、淡水湖への変化する湖の歴史
3.約8500年前に始まった砂丘の形成。

堆積物に含まれる花粉や胞子から明らかになったこと:
4.花粉の変化が語る湖周辺の植生と景観の変化
5.縄文文化の中期、後期、そしてオホーツク文化期に見られる樹木の減少と墓地の拡大→ 人間集団による燃料としての樹木の伐採

久種湖からみる島の自然の移り変わり 久種子の形成と周辺環境の変化
福井県水月湖の年縞調査
湖沼状況
5千年前から淡水湖沼
8.5千年前から汽水湖沼
1.1万年前から砂丘
1.6万年前頃は河川湿地
植物状況
 1千年前から樹木減少(オホーツク文化の薪伐採)
 3千年前頃樹林減少(縄文後期。縄文人の活動による)
 8~5千年前樹木減少墓地の拡大(縄文中期。縄文人の活動による)
 1.6万年前以降気候変動と共に樹林増加(温暖化による)
 1.6万年前草っパラでした
 
 500礼文島の景観
 501海成段丘 礼文島の丘は、海底で作られた段丘です。
香深港裏手の丘陵
巨大な海底段丘が

そのまま隆起した

圧巻の
地形である。
山の頂上はスキー場に
なっているようだ。
富士見ヶ丘スキー場
 503利尻富士

利尻島は谷川岳に似ている
そんな気がした

利尻礼文距離約10km
サロベツ展望台から20km
礼文島の島影である 北端のスコトン岬まで
 504礼文島と利尻島の形成

プレートの沈み込みによって、プレート上の堆積物が押し上げられる。
海水を含んで地底に沈むプレートは高温高圧下で海水が岩を溶けやすくして、マグマを発生し上昇する。

付加体の島ができるところには火山フロントが発生し、火山が生まれる。
礼文島と利尻島である。

利尻島と礼文島 礼文島に連なる付加体の島 砂丘で仕切られた久種湖と船泊湾 図の引用先はKashmir3D国土地理院のものらしい。自由にDLして使えるようですが、
私どのようにして使ったのか記憶にない。
ここから探したのかもしれない。
礼文島3D

 日本海航路を南からくると、大型船は船泊湾に停泊したであろう。サハリンから南下したオホーツク人の船も船泊湾に停泊したでしょう。
 その後、稚内と礼文島の往来が激しくなると、手近な港として、香深井港が利用され、遺跡もここに集中するようになったのかもしれない。
 現在の礼文島航路と同じ発想である。
 
  礼文島 付加体の島  島弧-海溝系に置ける付加体の地質学的位置づけと構成について   礼文島のスコトン岬(海成段丘)

 510稚内市市営駐車場

フェリーターミナルの傍には無料駐車場があります。

有料だと、誰もフェリーに乗れない。

何年動かしてないのか周囲を草が取り囲む

軽四をフェリーに積んで日本の最果てに放置した
 



  '24.05.14 感謝470,000アクセス
  '23.09.12 感謝460,000アクセス
  '22.11.21 感謝450,000アクセス
  '22.04.20 感謝440,000アクセス
  '21.09.02 感謝430,000アクセス
  '20.12.29 感謝420,000アクセス
  '20.06.21 感謝410,000アクセス 
  '19.10.06 感謝400,000アクセス 
  '19.02.05 感謝390,000アクセス
  '18.06.18 感謝380,000アクセス
  '17.08.26 感謝370,000アクセス
  '16.10.23 感謝360,000アクセス
  '16.01.29 感謝350,000アクセス
  '15.02.07 感謝340,000アクセス
  '14.01.19 感謝330,000アクセス