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目次
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01外観
10地学
11郷土を学びましょう
12フカガワクジラの発見と産出時代
15タカハシホタテガイ
100考古展示
110旧石器時代
111大型哺乳動物と人の移動
113深川の旧石器時代
114細石刃核
120縄文時代
121遺跡地図
125縄文早期土器
126納内6丁目付近遺跡
201集落跡模型
210縄文石器
※不定形なスクレイパー
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240縄文土器
昆虫遺骸
243縄文早期土器
245動物骨の土器紋様
251平底押引文土器
253中期土器
260石斧の作り方
270棚の土器
300縄文時代後晩期
313縄文後晩期土器
321広里1遺跡
323縄文晩期
※考察晩期の大型石槍
340縄文晩期土器 |
350続縄文時代
350続縄文時代の遺跡
351続縄文土器
370音江環状列石
380環状列石出土物
387環状列石と土塁 |
400擦文時代
401東広里遺跡
410擦文土器
420東納内遺跡
440擦文文化
441炭化米
※考察擦文時代の銅製品
443鍛冶道具
※考察 鉄滓
50アイヌ文化期
※イオマンテ
521星兜鉢と刀
528内園2チャシ跡
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01外観
深川市生きがい文化センター |
深川市生きがい文化センター
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郷土資料館 |
生きがい文化センターと郷土資料館(写真)
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生きがい文化センターと郷土資料館(地図) |
アイヌ語地名 |
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10地学
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11郷土を学びましょう
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深川のまちは、100年の歴史を積み重ねました。 この間に、先人の皆様は厳しい自然条件や幾多の困 難を克服し、私たちに貴重な文化遺産・生活の知恵等を残し、 まちづくりをして下さいました。
私たちは、このようなすばらしい発展をとげた深川 に住むひとりとして、今、ここに先人の皆様の進取不 とう不屈の精神を偲びながら、 深川の歴史に目をむけ、 郷土をより一層理解することが必要です。
そして、私たちも更に輝かしい21世紀の創造と躍 進をめざし、美しい文化のまち、伸びゆく平和なまち づくりに努めましょう。 |
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12フカガワクジラの発見と産出時代
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この化石は、 昭和53年(1978) 9月22日、高橋定右衛門 (深川市)、三田信行・久保田正広 (旭川市)らが化石採集のため、
多度志川中流域の下湯内付近の河床を探しているうちに発見したものです。
その後、北海道教育大学札幌分校の木村方一助手(当時)を中心に発掘調査団が組織され、地域の人々の協力を得て、37点の化石骨の発掘に成功しました。
調査の結果、 全骨格のおよそ10%にあたる化石骨が産出し、全長は約6.3mと推定されています。
およそ500万年前(新生代第三紀鮮新世) に生息していたヒゲクジラの一種とわかり、産出地にちなんでフカガワクジラと命名されました。 |
フカガワクジラ
500万年前
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フカガワクジラの発見と産出時代 |
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500万~300万年前の深川市
多島海時代 |
300万~200万年前の深川市
陸化の時代 |
約500万年前 |
フカガワクジラの海
500万年前の北空知の想像図です。
広い内湾状の海が広がり、西方には増毛山地の土台になる島が見えています。
海底には、タカハシホタテガイ、海面にはクジラやカイギュウが群れています。それにサメも餌を狙っています。 |
約400万年前 |
火山灰の積もる海
やがて、100万年もすると、増毛山地に火山活動が始まります。
そのためでしょうか、海底に30mにも及ぶ火山灰が堆積しました。
(多度志町岩瀬付近の凝灰岩)有珠山以上の大噴火が長く続いたと考えられます。
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約300万年前 |
砂浜に変わった海
この海は、さらに浅くなり、遠浅のような海になってしまい、
大小の潮だまりができました。その潮だまりには、アナジャコなどの小動物が盛んに自分のすみか(巣穴)を作っています。この住処が化石になっている(生痕化石)ことから想像されます。 |
約200万年前 |
湖に変わった北空知
それからの海は、どんどん浅くなり、ついに海から離れ、北空知一円に広がる湖になりました。湖の周辺には、温暖な気候を反映して、スギの仲間を中心に広葉樹も多く森林がが繁りました。
その樹木が湖に運ばれ、亜炭となりました。 |
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13知ってる?フカガワクジラ
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フカガワクジラは、1978年に発見。1979年から1980年にかけて100人
を超える市民の方々が参加した発掘で堀り上げられた化石で、本村方一名誉教授(道教大)や古沢仁博士(札幌市博物館活動センター)らの研究によって、新属新種(アーケオパラエナ・ドサンコ)としてデビューしました。
フカガワクジラが生きていたのは、およそ350から520万年前の海です。
つまり、深川市は、それくらい昔は海で、クジラが泳いでいるようなところだったのです。深川からは、タカハシホタテと言う大きな貝の化石が見つかっています。
深川クジラは、クジラの家の中でも、ゆっくり泳ぐセミクジラか含まれます。セミフカガワクジラはクジラ類の中でも、ゆっくり泳ぐセミクジラ科に含まれます。セミクジラ科は、フカガワクジラ以外にも10種類ほど化石が知られて、現在の海には4種類の仲間が泳いでいます。 |
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知ってる?
フカガワクジラ
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1哺乳類の中のクジラ偶蹄類

私たちヒトとクジラは、同じ「哺乳類」です。どちらも、母が母乳で子を育てます。鯨は鹿や牛など偶蹄類の仲間です。 |
2鯨類の中のヒゲクジラ

鯨の中には、
イルカやマッコウクジラを含む
ハクジラ類と、
クジラヒゲと言うブラシのようなものを口の中で持つヒゲクジラ類に分かれます。 |
3ヒゲクジラ類中のセミクジラ科

ヒゲ鯨類の中にはいくつかグループがあって、その中で特にゆっくり泳ぐセミクジラ科がいます。 |
4セミクジラ科の中のフカガワクジラ

セミクジラ科の中に、フカガワクジラが含まれます。深川クジラはおよそ400万年前の古いタイプのセミクジラ科です。
セミクジラ科にはフカガワクジラを含めて10種類以上、絶滅した種がいます。今では4種類のセミクジラが生き残っています。 |
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14フカガワクジラの復元と産出部位 500万年前
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フカガワクジラ |
2頭蓋骨 |
7胸椎
6肋骨 |
8椎体骨端 |
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15タカハシホタテガイ
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深川郷土資料館
タカハシホタテガイ
約200万年前に絶滅したホタテガイの仲間で、多度志川流域や滝川周辺域に特に産出します。
現在のホタテガイと比較すると、耳や膨らみが大きく、放射肪の数が少ないのが特徴で、鮮新世を代表する化石の一つです。 |
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タカハシホタテガイ
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タカハシホタテガイ
200万年前
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スナモグリの仲間化石
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巻貝
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タカハシホタテガイ |
タカハシホタテガイ |
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100考古展示
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110旧石器時代
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111大型哺乳動物と人の移動
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北海道に人々が住み着いたのは、今からおよそ2万年前の後期更新世の末期と言われています。
当時は気候が寒冷で海水面が低下して、日本列島は大陸と地続きになっていました。
そこを通ってマンモス、ヤギュウ、ヘラジカなどが南下し、これらの動物を追って人々も北海道に渡ってきました。 |
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113深川の旧石器時代 納内3遺跡
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北海道の旧石器時代は、約2万年前から1万年前頃まで続きます。深川では、納内3遺跡から34点の旧石器が見つかっています。
これらの石器は約1万年から1万2千年前のものと考えられています。 |
旧石器遺物
納内3遺跡 |
深川の旧石器時代 |

下に記述 |
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114細石刃核
細石刃核
神居岩遺跡
旧石器時代
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細石刃核
神居遺跡
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細石刃核
神居遺跡
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細石刃核
神居遺跡
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細石刃 納内3遺跡 旧石器時代
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納内3遺跡:旧石器時代、遺物:両面加工の尖頭器・有舌尖頭器・細石刃核・細石刃もしくは細石刃様剥片・スクレイパー・スポール |
剥片
納内3遺跡 |
剥片
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細石刃
納内3遺跡
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細石刃 |
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115納内3遺跡
原石
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尖頭器
納内3遺跡 |
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スクレイパー
納内3遺跡 |
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120縄文時代
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この時代は、縄目の文様をつけた土器を使用したことに特色があり、石鏃、石槍、ナイフなどの石器を使用し、狩猟や漁労、植物の採集生活を営んでいました。
この時代は、およそ8千年続き、早期・前期・中期・後期・晩期に区分され、遺跡の多くは河岸段丘ゆ丘陵地帯に分布しています。
なお、6千年前頃には、気候の温暖化に伴い、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇と、自然の食料資源が豊かになりました。 |
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121遺跡地図
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122縄文土器の作り方
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粘土を手でこね、輪積み、巻き上げなどの方法で形を作り、縄を転がして、文様をつけたのち、日陰で乾燥させたものを「野焼き」して出来上がります。土器は食べ物の煮炊きや貯蔵に使用されました。 |
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125縄文早期土器
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126納内6丁目付近遺跡 縄文時代早期
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130早期土器 |
131
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133
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135
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140
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200納内6丁目付近遺跡 早期後半 |
201集落跡模型
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※発掘が広範囲とはいえ、遺跡全体としては一部分なので、全てはわからない。
北の沢と南の小河に囲まれた地域に集落があり、住居の新旧不明だが、南の方にも建物跡が散在する。
水場遺構と思われるため池があり、その先にトラップピットが集中している。これはもっと広範囲に拡がっていると推測される。
石狩川と集落の間にトラップピットが密集するのは、船で来る外敵の侵入を避けるためでしょうか。それとも鹿・ヒグマ捕獲でしょうか。
穴は縦長なので、エゾシカ用とウサギなどの小動物用でしょうか。
更にその先に大河石狩川が流れている。水運と川漁を利用していたのでしょう。 |
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沢跡 北の沢
住居跡群
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住居跡群
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トラップピット群
(縄文中期)
石狩川 |
トラップピット群
(縄文中期)
石狩川 |
竪穴住居跡群 16
土壙 6
トラップピット23
焼土23 |
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203納内6丁目付近遺跡 早期後半温暖期
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昭和62年(1987)から平成2年(1990)にかけて発掘調査された遺跡で、深川で最も古い6千年ほど前の縄文時代早期後半の竪穴住居跡が多数見つかっています。
また、沢跡(北の沢)から当時のクルミ・ブドウなどの種子や昆虫遺体が検出されました。
植物花粉の分析や今では本州以南にしかいないアカスジキンカメムシ(樹木の汁を吸う食性)やウスヒョウタンゾウムシ(花や実に集まる昆虫)の遺体が検出されたことで、当時は今よりも温暖であったことがわかります。 |
トラップ・ピット
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溝状ピットとも言われ、動物捕獲のための落とし穴です。とりわけエゾシカを捕獲するための「わな」のひとつと考えられています。この遺構は、縄文時代中期頃に作られたと言われています。 |
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納内6丁目付近遺跡
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遺構調査状況 |
トラップピット調査状況
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トラップ・ピット
縄文中期頃
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※エゾシカは昼間に行動する動物のようです。私の近所のホンシュウジカは夜に大胆に行動します。
蝦夷鹿が昼間にピットに落ちるというのは、何か覆いをしてワナにしていたのでしょうか。それとも夜間に落ちたのでしょうか。。
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210縄文石器
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210遺物 納内6丁目付近遺跡
縄文早期の、石鏃・石槍・石錐・つまみ付きナイフ・スクレイパー・石斧・石のみ・と石・たたき石・台石
が出土
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211縄文早期遺物 納内6丁目付近遺跡
※石刃鏃のように形が整った石鏃です。石刃鏃は縄文早期の、道東や道北に拡がった一時的な寒冷化の所産です。
道央の深川市でも縄文早期の石刃技法が拡がっていたのでしょうか。
異形石器 |
異形石器
円形scraperでないか
side scraperの一種 |
ブドウ属種子 |
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キハダの種子 |
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オニグルミ殻 |
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キハダは漢方薬。黄檗、黄柏などともいう。
アイヌは種実を乾燥し下痢腹痛に用いた。また、消炎効果があり、外用薬としても用いる。
種実はblueberry大です |
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213
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石錐(きり) |
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石製品 |
左:尖ったもので何度も擦った痕跡
右:ツルツルに丸みを帯びて、擦って何かの表面を柔らかくした痕跡。
中:よくわからない石器 |
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つまみ付きナイフ |
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※今更ながら、つまみ付きナイフはタテ型です。
東北地方では、ときに西日本型(黄河文化センター型というべきか)の
横型が混じることがあります。
北海道では全てタテ型ということは、
タテ型ナイフは北方から伝わった石器形態なのでしょうか。 |
土製品
土製円盤 |
土製品 |
何に使ったのでしょうか。 |
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215
石鏃、石槍、石錐、つまみ付きナイフ、スクレイパー、石斧、石のみ、と石、たたき石、台石
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217
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240縄文土器
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241
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昆虫遺骸
以下の四頭の昆虫は、調査区の北端近くに、縄文時代早期の泥炭層があり、ここから中茶路式土器のほかにクルミ・キハダ・ブドウなどの種子、昆虫などが検出されている。
アオカナブンの生息環境
本州、四国、九州と、佐渡島、種子島、屋久島などに分布。 低地から山地までの雑木林や森林に生息している。 クヌギ、コナラ、ヤナギなどの広葉樹の樹液をなめる。
アカスジキンカメムシの生息環境
本州、四国、九州の山地の森林や草むらなどで見られるカメムシです。
【生息環境】山地の森林、草むら、 丘陵地から山地にかけて。
【生息地例】皇居周辺、代々木公園、葛西臨海公園、 駅前の公園。
【食草】ミズキ、コブシ、コナラ、フジ、ハゼノキ、アオキ、スギ、 ヒノキ。
【特徴】美しい身体の色が特徴的、微香、死んでしまうと黒っぽく色あせてしまうと言われています
大きさは17~20ミリ
キンカメムシ類は主に熱帯性で、日本では南西諸島か、より北に見られるものでも関東地方までであるが、本種は温帯性の種である
アカガネサルハムシ
北海道、本州、四国、九州、沖縄に分布。低地から山地の雑木林やその周辺の草むらなどに生息する。畑などでもよく見かけられる。個体差はあるが、多くは上翅(じょうし:甲虫類の二対の翅(はね)のうち、背部をおおうかたい翅)の大部分が名前にあるように赤銅色をしており、それ以外の部分はメタリックグリーンとなっている。
ツノアオカメムシ
山地の林縁や林内、樹木に生息するカメムシで、北海道から九州まで分布しています。
【生息環境】山地の林縁や林内、広葉樹林とその林縁、山地性の樹木(カエデ類やミズキなど)
【出現時期】6~9月、 夜間灯火にも飛来する。
【特徴】全長は18~25mm前後、
全体に金属光沢を帯びた緑色で美しく、前胸の側角がよく発達している
幼虫と成虫ともに植食性で、カエデ類やミズキなどの山地性の樹木に寄生して吸汁する
体表は密に点刻され、点刻部が緑色をしていることにより、ざらついたように見える
肩にみえる部分が、ツノのように突き出しているのが特徴
【海外での分布】朝鮮半島、中国、ロシア南東部 |
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243縄文早期土器 納内6丁目付近遺跡
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縄文早期土器
東釧路3式土器(早期後半)
中茶路式土器(早期後葉) |
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245動物の骨を使った土器紋様(押引文) 納内3遺跡
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遠位端押引文
「逆3」字状2段 |
遠位端押引文
「逆3」字状
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中足骨前面押引文
「逆3」字状
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中足骨後面押引文
「逆3」字状
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中手骨後面押引文
「3」字状 |
中手骨前面押引文
矢羽根状 |
中手骨後面押引文
「3字」状 |
中手骨後面押引文
「逆3」字状 |
動物の骨を使った
土器の紋様(押引文)
納内3遺跡 |
近位端押引文
「:」状
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250 |
251 平底押引文土器(道東の土器、前期末~中期初頭)
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252早期土器
早期土器
納内6丁目付近遺跡 |
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縄文尖底土器(早期) |
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納内3遺跡 北海道深川市納内字納内1196−97・475・437ほか
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旧石器時代:両面加工の尖頭器・有舌尖頭器・細石刃核・細石刃もしくは細石刃様剥片・スクレイパー・スポール
縄文時代:集落遺跡、土壙33・集石3・焼土1 遺物:石斧・石斧未成品・剥片・石鏃・石槍・ナイフ・石錐・つまみ付きナイフ・スクレイパー
・石斧・たたき石・すり石・砥石・石鋸・台石・石皿・石錘・石核 |
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253中期土器 納内3遺跡
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254中期土器 納内3遺跡
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255中期土器 納内3遺跡
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音江2遺跡 縄文時代
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遺構:集落遺跡、竪穴住居跡3・土壙5・焼土1
遺物:北筒式土器・余市式土器・石鏃・石槍・石錐・つまみ付きナイフ・
・スクレイパー・石斧・石のみ・砥石
特記:縄文時代中期末〜後期前葉の「丸のみ形石斧」が4点出土している。 |
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256中期土器 音江2遺跡
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中期土器
音江2遺跡
北筒式土器 |
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中期土器(刺突文)
北区1遺跡
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260石斧の作り方
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深川市の周辺では、神居古潭変成帯で生成された片岩などの変成岩を、容易に手に入れることができます。
納内3遺跡をはじめ市内数カ所の遺跡では、片岩を素材にして石斧が制作されていました。
ここでは次のような工程で石斧が制作され、広く石狩川下流域まで運ばれていたと考えられます。
第一工程 石斧の素材。
片岩の採集地から一定の形に割って遺跡に運び込む。
第二工程 荒割整形
小さく打ち欠いて、おおよその形状を整える。
第三工程 成形の最終段階。
打ち欠きと敲きにより形状を細く整える。
第四工程 研磨(成品化)
研磨して刃を作り出し、全体に磨きをかける。 |
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石斧の作り方 |
第1工程
第2工程
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第3工程
第4工程 |
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接合資料(石斧未成品)
中期 国見2遺跡
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砥石 前~中期
納内3遺跡 |
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270棚の土器 no caption |
271
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273
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275
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277
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300縄文時代後晩期
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310土器 |
313縄文後晩期土器 内園遺跡
内園6遺跡 北海道深川市音江町字内園435ほか
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種別:集落遺跡
時代:縄文中期・晩期
遺構:土壙・柱穴・焼土・集石・石器埋納
遺物:縄文土器・石鏃・石槍・ナイフ・石錐・つまみ付きナイフ・スクレイパー・石斧・たたき石・すり石・台石 |
内園2遺跡
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縄文晩期
内園6遺跡 |
縄文晩期
内園4遺跡 |
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縄文後期
内園6 |
縄文後期
内園6 |
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315後晩期土器 内園6
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317後期土器 内園3遺跡
縄文後期
内園3遺跡 |
縄文後期
内園3遺跡
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縄文後期
内園3遺跡
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縄文後期
内園3遺跡
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320 |
321広里1遺跡 深川市5条7-23 縄文晩期
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種別:集落 遺構:住居・土壙・焼土 遺物:縄文土器・石器・玉・線刻礫 |
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底部有孔土器 晩期
広里1遺跡
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底部有孔土器 晩期
広里1遺跡 |
石器素材(埋納石器)
縄文後期
内園3遺跡 |
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322
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台形土器 縄文後期
内園6遺跡
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線描礫
縄文晩期
広里1遺跡 |
線描礫
正面に朱書き |
線描礫
裏面に朱模様 |

爪楊枝とポスターカラーで描いた〇。石は遺跡下面から採取したもの |

※こんな技法で描かれています。と言うことかな |
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323縄文晩期
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薄手土器 晩期?
内園6 |
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土製品
縄文~擦文時代
内園3・6、東納内 |
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大型石鏃(副葬品用)
晩期 内園4
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大形石鏃
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※縄文中期中葉からの寒冷化によって動植物の生育が変わり、
食糧の入手が困難となり、5人に1人しか生き残れなくなった時期に、
石刃剥がし技法で作られたような整った大型の石鏃は、
いったい何のために作られたのだろうか。
一度つがえて飛ばせば、砕けてしまう石鏃に、どんな思い入れが
あったのだろうか。 |
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330 |
331晩期石器 内園4遺跡
※考察 縄文晩期の大型石槍
縄文晩期に大型石鏃や石槍を使う対象動物は、ヒグマとエゾシカでしょうか。
エゾシカは逃げ足が速く、ヒグマは獰猛すぎて手で射る弓矢や手で投げる石槍など役に立たない。
どちらも俊敏で高速。鹿は逃げ、熊には一瞬で殺されてしまう。
警察官の所持する38口径などでは全く歯が立たず、明治の火縄銃も役に立たず、ヒグマが人を襲って食べた三毛別事件では、
このクマを撃った猟師は逆にクマに襲われて殺されたという。
38口径銃では頭蓋骨も貫通しないらしい。
そんな恐ろしい猛獣ヒグマを、いったいどうやって熊狩りできていたのだろうか。
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333縄文晩期石器
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石錘
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石銛
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削器
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掻器
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異形石器

この異形石器縄文前期にも見かけたような |
つまみ付きナイフ
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340縄文晩期土器 内園4遺跡
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350続縄文時代
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2300年前頃、本州では大陸から稲作と金属器が伝わり、弥生文化が広がります。
北海道には、わずかな金属器が伝わりましたが、縄文時代と同じ狩猟や漁労、植物採取を中心とする生活が営まれていました。
この時期を続縄文時代と呼び、およそ2000年前から1300年前頃まで(約700年間)続きました。 |
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350続縄文時代の遺跡
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続縄文時代
上に記述 |
続縄文時代の遺跡

内園2遺跡調査状況 |
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351続縄文土器
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353続縄文土器
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360続縄文時代
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北広里3遺跡の住居跡
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続縄文時代
納内4遺跡
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住居模型
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続縄文土器の初期には、尖底土器が含まれる。 |
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370音江環状列石(ストーンサークル) 深川市音江町字向陽171番地1 縄文後期
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概要:標高113mの稲見山台地に構築。13号まで確認されているが、元はもっと多数あったらしい。1917、1953、1955に発掘調査。
規模形状:遺構は、北と南の2グループある。
北側には1~10号までが並部。遺構の直径は2m~5m前後。自然石を環状に立て置き、その内側に川原石を敷き詰めたり積み重ねたりしている。
南側には11~13号までの3基があり、それらは東西、南北の長さが30mほどの土手で方形の区画を設けている。ここには環状の配石はない。
埋葬施設・出土品:
北側の遺構の敷き詰めた石を取り除くと下から2m×0.5m、深さ1mほどの隅丸方形の墓壙が掘られていた。
墓壙内から腐食した人骨、底から翡翠の小玉、黒曜石製石鏃、チャート製の石匙、朱漆片が出土した。
南側の方形土塁の内側には、隅丸方形状に平たい石を敷き詰め、その下に1m×2mの墓壙が掘られていた。
11号では翡翠小玉23、有柄石鏃12個が並べられた状態で出土した。石鏃のそばには朱漆の弓が樹皮様の紐を巻き付けて置かれていた。
12号では翡翠小玉9、朱漆片、13号では翡翠小玉6、黒曜石石鏃1が出土している。 引用「Wikipedia音江環状列石」 |
環状列石 環状列石 環状列石 環状列石 環状列石 環状列石 環状列石
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371
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373環状列石模型
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壊れた環状列石×3
子供の遊びと思われたか蹴り飛ばされた配石 |
荒れた環状列石3
整った環状列石3
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環状列石9 |
環状列石11 |
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375音江環状列石 縄文後期の墳墓遺跡
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明治20年(1887)頃、稲見山で発見されたものです。昭和27年(1952)から昭和31年にかけて、地域の人々の協力を得て、東京大学の駒井和愛教授らによって、本格的な発掘調査が行われました。その結果、縄文時代後期の墳墓と分かり、昭和31年12月、文化財として、国の「史跡」に指定されました。 |
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380音江環状列石 出土物 |
381
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382
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11号 ひすい玉 |
12号 ひすい玉 |
13号 ひすい玉 |
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383
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石鏃 |
弓
塗られた漆の残片 |
土器
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つまみ付きナイフ |
石鏃
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ひすい玉
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385
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387環状列石と土塁 音江環状列石
丸線囲み=環状列石
ケバ線囲み=土塁
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400擦文時代
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北海道では、8世紀頃から13世紀頃にかけて、土器の胴部を擦ったような模様のある擦文土器が使用され、この時期を擦文時代とよんでいます。
人々は、川の近くに集落を作り、カマドを持つ方形の竪穴住居で暮らし、狩猟や漁労、植物採集のほか、小規模な畑作(アワ・オオムギ・コムギなど)を行なっていました。
深川では、石狩川沿いに数百から千にのぼる竪穴住居跡が残っていました。 |
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深川市の擦文時代遺跡
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北海道深川市には、擦文時代の住居跡や環状列石などの遺跡があります。
【擦文時代の住居跡】
・東納内遺跡(オサムナイ)
約千年前の擦文時代の住居跡で、掘立柱穴やかまど跡、土器などが発見されています
擦文時代の集落遺跡・住居跡・土器集中区・擦文土器・土製品出土
【擦文文化の遺跡の特徴】
・土師器の影響を受けた刷毛目のような整形痕がつけられた擦文土器が出土しています
・4本柱を基本とした造りつけのカマドと煙道をもった方形の竪穴住居が確認されています
・北海道式古墳と呼ばれる小規模な墳丘が確認されています
・鉄製刀子、武器としての蕨手刀・直刀・毛抜き形太刀などの刀類、鉄鏃、農工具の斧、鎌、鍬先、漁具の魚突鈎、環、鑷子、針、釘などの
金属器が出土しています
・土製や鉄製の紡錘車が出土しています
・アサ(大麻)の種子、布や紐などの繊維製品が出土しています |
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401
東広里遺跡
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昭和62年(1987)から平成元年(1989)にかけて発掘調査された遺跡で、擦文時代の竪穴住居跡から、
土器、鉄斧、銅製品の破片、琥珀原石などが出土しています。
種別:集落
時代:擦文
主な遺構:竪穴住居8、掘立柱1、焼土9、集石1、
主な遺物:擦文土器、須恵器、紡錘車、袋状鉄斧、刀子、鉄鏃、棒状鉄製品(鉄製品原材料)、たたき石、砥石、琥珀原石、長円礫、非焼成粘土塊
特記事項:炭化米・ニシン椎体(背骨)を検出。鉱石系素材の鍛冶 |
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擦文土器 |
擦文時代 上に記述 |
東広里遺跡
住居跡調查状況
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上に記述 |
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410擦文土器
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AI による概要
擦文土器は、7世紀ころから北海道で作られるようになった土器で、表面が木のへらで擦って仕上げられています。擦ったあとが文様のように見えることから「擦文土器」と呼ばれています。
【特徴】
・弥生土器の系統をひく土師器と縄文土器の伝統を残す北海道系の続縄文土器が相互に影響を及ぼし合いながら形成されたと考えられている
・北海道独自の文様として鋸歯状や交叉状の刻線文なども見られる
・擦文土器をもつ「擦文文化」の遺跡は北海道全域に広がっており、常呂遺跡で最も多く見つかる
【時代】
・7世紀ころに始まり、12世紀から13世紀初めころまで続いたと考えられている
・オホーツク海沿岸に擦文土器を使う文化が本格的に広まってくるのは10世紀以降と考えられている
【擦文文化の暮らし】
・四角い竪穴住居に住み、雑穀栽培を行うなど、本州の暮らし方を取り入れつつも、住居の中では伝統的な囲炉裏を使い、水田は作らない、
といった北海道の地域性が強く表れた文化でした |
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擦文土器
東広里遺跡 |
擦文土器
東広里遺跡
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擦文土器
東広里遺跡
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須恵器
納内3遺跡 |
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420擦文土器 東納内遺跡
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東納内遺跡:縄文中期・晩期・続縄文・擦文時代の遺跡である。
種別:擦文集落
主な遺構:住居・土器集中区
主な遺物:擦文土器、土製品 |
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東納内遺跡 |
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擦文土器
東納内遺跡 |
擦文土器
東納内遺跡
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430 |
431擦文土器
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432擦文土器
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433擦文土器
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納内6丁目付近遺跡 |
納内6丁目付近遺跡 |
東納内遺跡 |
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434擦文土器 東納内遺跡
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440擦文文化
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擦文文化期には、本州から須恵器や鉄製品が入り、鍛冶技術や、紡績、機織り技術も伝わってきました。
東広里遺跡からは、鉄斧・鉄鏃・刀子・釘などの鉄製品が出土しています。また、
鍛冶を行った証拠となるフイゴの羽口や鉄滓、糸を紡ぐ紡錘車も見つかっています。 |
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441炭化米
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東広里遺跡の5号住居跡覆土から炭化した米が11粒発見されました。現在の米と比べかなり小粒です。(※東北産米か?)
擦文文化期の米は、札幌市・小樽市・余市町・松前町で見つかっており、これと同時期の可能性があります。 |
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擦文文化
上に記述 |
鉄鏃・鉄製品 |
炭化米

上に記述 |
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442遺物
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琥珀原石 |
銅製品 |
※考察 擦文時代の銅製品とは
この時代の製品は銅鏡や同銭です。鉄器主体の文化です。その中で、
銅銃(読み:どうわん、意味:銅椀、用途:仏具・食器)がある。
平泉文化が蝦夷・擦文・アイヌとの交易の中で、持ち込んだらしい。
壊され延ばされているが、鍛冶技術もある中、何かに加工し直したのだろうか。 |
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443鍛冶道具
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※考察 鉄滓
この時期の北海道での鍛冶を、鉄製品の修理や鉄材料からの道具の製造をする、野鍛冶、と考えていました。
しかし、鉄滓は、たたら製鉄による、砂鉄や鉄鉱石を還元して玉鋼や銑鉄を作る際に生じる残渣である。
すると、この地域に円筒炉を構築し、炭焼き窯を構築し、砂鉄を集めて、本格的な製鉄炉が一時期稼働していたことになるが情報はない。
岩木山麓では円筒形製鉄炉(半地下式竪形炉)によって直接製鋼法による製鉄を行なっていたことは既出で、
生産された鉄素材は擦文文化圏へ供給されていた。
【製鉄技術の説明】
直接製鋼法とは、鉄鉱石を比較的低温で還元して、直接粗鋼を作る製鉄法です。たたら製鉄の一種で、ケラ押し法とも呼ばれます。
間接製鋼法とは、鉄鉱石を還元して炭素利用の多い銑鉄を作り、その後に脱炭精錬して鋼をつくる製鉄法です。
たたら製鉄の技法は、「銑押し法」と「鉧押し法」の2つに大別されます。
鉧押し法(直接製鋼法)では、炭素の含有量が低く、柔らかい「鉧」が得られます。鉧は銑鉄より割れにくく日本刀に使用。
銑押し法(間接製鋼法)では、炭素の含有量が高く、割れやすい「銑鉄」(ずくてつ/せんてつ)が生産され、再度溶かして脱炭します。
中国地方の直方体のたたら炉では大量の鉄を間接製鋼法で生産できるが、岩木地方の円筒炉では直接製鋼法で少量高品質の生産が可能。
【深川市地域の鉄原料】
北海道には金属鉱床が豊富である。北海道の鉱物資源地図を見る限り、留萌の内陸部・深川市付近にはクロムの鉱床はあるが鉄鉱石はない。
あるのは遠く札幌の北石狩市である。すると、石狩市から船で運ぶか、岩木山麓の鉄原料のように、半島から船で運んだのかもしれない。
それとも、石狩川の砂鉄を採取したのかもしれない。
いずれにしてもこの地で製鉄が続かなかったのは、原料産地からの距離にあったのだろう。
結論
東北北部の和人である擦文人を相手に、大量の須恵器を交易していた津軽半島では、大変な景気だったのでしょう。
そのため、同時に交易していた岩木山の製鉄業者は、北海道への進出を図ったのかもしれない。そして、石狩低地から、内陸の上川盆地へ
進出して、一時期製鉄炉を設けて稼働し、副産物として鉄滓が残ったのかもしれません。 |
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500アイヌ文化期
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アイヌ文化は、擦文文化の伝統を受け継ぎ、和人文化の影響を受けて、中世に成立しました。
その後、和人の蝦夷地進出が進み、その支配が強まるにつれて、アイヌ文化も変化しました。
アイヌ民族は狩猟、漁労、植物採集のほか、小規模な農耕を生業としていました。
内陸では、川、湖、沼で魚が獲れ、周辺には山菜が豊富で、シカも捕れる所にコタン(集落)をつくりました。
深川のアイヌ民族の場合はサケ漁が基本でしたから、コタンはその漁場に近いところに作られ、石狩川流域やその支流に分布していました。
幕末にこの地方を踏査した松浦武四郎は、その日誌の中で、
アイヌの若者たちは、男女を問わず、浜(漁場)へ連れていかれて、奴隷同様に酷使されていたと記しています。
このためコタンは壊滅状態で、深川のコタンも例外ではありませんでした。
ベッバラ(妹背牛橋の北あたり)とイジャアン(深川橋付近)がかろうじて残っている程度で、武四郎は、場所請負人や漁場の番人たちの横暴がその原因であり、彼らがまた蝦夷地開拓を妨げていると訴えています。 |
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※イオマンテ
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イオマンテとは、アイヌ民族の伝統儀礼のひとつで、動物の霊を送る儀式です。アイヌ語で「霊送り」を意味し、「カムイモシリ(神の国)」へ動物の魂を送るという意味もあります。
【イオマンテの目的】
・動物を敬い、カムイ(神)の存在を意識する
・動物の魂をカムイモシリへ送り、再訪を願う |
フクロウ神事(コタンコロカムイ=集落の神)
その他のイオマンテ、
シマフクロウ(コタンコロカムイ=集落の神)、エゾオオカミ(ホロケウカムイ=狩の神)、シャチ(レプンカムイ=沖の神)、また
イオマンテという言葉こそ使われませんが、クマゲラやエゾイタチ、狩猟の獲物となるエゾシカや魚についても、同様の儀式が行なわれていました。
チセ平地住居 |
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トンコリを奏でる |
ウバユリの根を採取
サケを獲る |
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星兜鉢と刀
発見月日 昭和57年(1982) 6月29日
発見場所 納内町6区
発見者 長谷川勝英
星兜鉢は、鎌倉時代から南北朝時代にかけてのものであり、
刀は3振が蝦夷刀、2振が日本刀、1振が合口拵(あいくちこしらえ)です。
蝦夷刀は豪壮な造りであり、南北朝時代のもの、
日本刀は室町時代のもの、
合口拵は江戸時代のものと推定されています。匕首=鍔の無いしろさやの短い刃物。短刀。
星兜鉢、刀は、本州から移入されたものですが、どのような形で持ち込まれたかは今後の検討課題です。 |
刀剣
蕨手刀一振り
蝦夷刀三振り
日本刀二振り
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523
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525星兜鉢
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528内園2チャシ跡
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深川市から神居古潭にかけての石狩川流域には、数多くのチャシが残されていました。
音江チャシ跡(E-10-5)のように、現在知られているチャシのほか、すでに埋もれたり、削平されてしまっているものもあります。
その1つが内園2遺跡の調査の時に発見された内園2チャシ跡です。溝の中から鉄鍋片などが出土しています。 |
小札(こざね)
内園2チャシ |

上に記述 |
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鉄製品
内園2チャシ |
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