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詫間町民俗資料館・考古館
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part3part4
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2014南の縄文
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種子島ドライブ
開聞岳周辺ドライブ
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北陸の縄文
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縄文
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2013中部地方の縄文
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2026/5/19(火)
 今回記事「紀伊風土記の丘資料館」  前回記事「発掘された日本列島2025京都会場

2026.5.19(火)
 紀伊風土記の丘 をあげました。
 今回は279Mbという大変大きなサイズとなっています。従って内容も大変豊富です。

 紀伊風土記の丘が最後に開いた特別展です。「海と古墳、船と交易と漁撈、航海と祭祀」など紀ノ川河口の文化が寄って立つ全てが
 明らかにされています。
 館はこのあと、閉館直前に資料館の回顧展を行ない、閉館しました。
 数年後に別の名前で荒田に開館するそうですが、私はそれを見られません。 いわば、最後の展覧会でした。

次回更新 2026/06/上旬~中旬をめざしています。
毎回申し上げておりますように、一つ作ってはすぐに出し、の状態です。ご容赦ください。

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 2025.11.18-1

 和歌山県立紀伊風土記の丘資料館 和歌山県和歌山市岩橋1411
   073-471-6123 月休 9時~16時30分

交通 バス:和歌山駅東口から午前午後3本ずつ。  帰路:JR田井ノ瀬駅まで徒歩1.9km30分
タクシー

近隣観光地 和歌山市内和歌山県西側の観光地。 南側。 東側。
近隣博物館 博物館多数
 
 目次


11博物館へ
12クスの巨木
13岩橋千塚古墳群地図
14ピロティ入口
15製塩炉
※考察石敷き製塩炉
16岩橋千塚古墳

20資料館入口

特別展
遥かなる古墳時代の海へ
100
Prologue遥かなる海
101西庄遺跡の漁業
105土錘
106動物遺存体

110Chapter1
海へ漕ぎ出す
111大船に乗りたい
112波切り板
113発掘された実船
114二つの船体構造
115喪船
116他界へ翔る葬送船
117古水温から昔の海を知る
120船のイメージを覆す
123井戸枠に使われた船
125舟絵画描かれた船
127巣山古墳の葬送船

200Chapter2
 浮かび上がる航路
210海の祭祀
211祭祀遺物
212瀬戸内海の島々
213滑石製祭祀具
215荒神島遺跡
217魚島の祭祀遺物
219串本市 向屋敷遺跡
221紀伊半島の祭祀
223海の祭祀の広がり
231阪田山遺跡
241紀伊半島の
 海浜集落と祭祀
243潮岬周辺の遺跡
247淡路島・大阪湾
251模造品
261朝鮮半島の
  海の祭祀
263竹幕洞祭祀遺物
265雨流遺跡

270海を行き来する人々
271東日本系土器
272近畿地方南部の
東日本系土器の分布
281沖ノ島祭祀出土品
291笠嶋遺跡の船
292葬送船 (竪板)
293海路か陸路か
※考察関東の模倣坏
295三重県の遺跡
297鳴神4遺跡

300Chapter3
海を超えつながる
310大漁狙いと大物狙い
313骨角製釣針の分布
315土錘と刺網
318タコ壷漁
320堅魚の起源
321鰹の煮炊き具
330ツルツルの棒と
350ギザギザの口縁
360銛の地域性
※考察二つの銛頭
370塩の一大生産地
372製塩土器
375製塩炉
374丸底製塩土器

400Chapter4
 海に葬る
411海に臨む王
420紀氏と古墳
翼を広げた鳥形埴輪
※考察 滑空埴輪
423浦々の有力者
425海人と古墳
427地ノ島遺跡
431砂丘上の古墳
と石棺墓群
432銅鏡の分布と海
435運ばれた石棺材
436尾ノ先遺跡
441前期古墳
451大型釣り針
453横穴式石室
455中国の鉄鉢
※考察鉄鉢や鉄艇
460もう一つの海の墓
461磯間岩陰遺跡
※考察田辺湾の岩陰遺跡
467岩陰墓の変質
468古墳後期の岩陰墓
471人骨の関係
475骨占い
481洞穴墓と岩陰墓
486舟葬墓

500Epilogue
海は隔たりか繋がりか

1000常設展示
1010旧石器時代
ナイフ形石器の文化

1030縄文時代
1032縄文土器
1033交流

1050弥生時代
1052稲作の道具
1053土器
1055銅鐸

1100古墳時代
1120紀伊の古墳
1121副葬品
1123韓式系土器
1130鳴滝・大日山

1200岩橋千塚古墳
1210副葬品
1220周辺の遺跡
1223埴輪
1240動物埴輪

1400古代
1411紀伊の古代寺院

1500中世
1510根来寺
1530大甕

1600近世
1610和歌山の民具

2000屋外展示
 
 はじめに
  紀伊風土記の丘は岩橋千塚古墳群のことですが、岩橋と書いていわせと読みます。
 この館はまもなく休館します。そのため、全力での展覧会です。
 展覧会の内容は、これまでどこの博物館でも見たことのない、海を中心とした内容です。

  海に面した遺跡は多々あるのに、なぜこのような内容が取り上げられなかったのか大変不思議に感じました。
 その意味で、海洋王国紀伊の、もう二度と見られないかも知れない、先史を浮き彫りにします。
 10
 11博物館へ

紀伊風土記の丘の案内石の文言
紀伊風土記の丘は、特別史跡岩橋千塚古墳群を整備して 資料館 民家集落 植物園等 を付設し、本県の文化遺産を 一般に公開する史跡公園である。

この公園の面積は約五十万平方メートル 域内の古墳は五百余基を数え、六世紀に築造されたものが大部分を占めている。
紀伊の国、紀氏一族の墳墓といわれ、全国まれにみる貴重な古代遺跡である。これをながく後世に保存するためにこの公園を建設した。
  昭和四十六年七月
     和歌山県教育委育会

和歌山駅東口発風土記の丘行きバス終点 風土記の丘前
松下幸之助氏に莫大な援助を得て建設された
案内石碑
風土記の丘公園は、考えられないほど広大。

バス終点から歩く歩く

正面の山全体が史跡公園であり、多数の古墳

埋没していた縄文クスノキの、これが幹部分
希少建物の展示場
寄贈された博物館
目的はこの特別展 猛烈に古い石垣
これの正体を忘れた
ここまで苔むすには随分時間が掛かる。
江戸時代のお墓や古い寺の石垣に生える苔

普通の苔と違う種類
なんだろう?

 12クスの巨木
古墳時代の「クスノキの巨木」
 この巨木 (クスノキ 周囲12m、直径4m、 推定樹齢350年) は、 平成23年9月に紀伊半島に甚大な被害をもたらした台風12号の通過後、 紀ノ川(和歌 山市六十谷橋付近)で発見されました。 放射性炭素年代測定法による年代測 定で西暦700年前後まで生育していたものと判明し、古墳時代から奈良時代にかけてのクスノキと考えられます。 和歌山県立紀伊風土記の丘にある特別史跡 「岩橋千塚古墳群」 が築造された同時期、発見現場近くで生育してい たものと考えられます。

Giant camphor tree from the Kofun Period
This gigantic, petrified tree (a camphor tree, with a trunk circumference of 12 meters, diameter 4 meters, estimated to be over 350 years old) was discovered near the Musota Bridge in the Kinokawa River, Wakayama city in September 2011 after Tropical Storm Talas had swept through the Kii Peninsula, wreaking widespread devastation. Radioactive carbon dating determined that the tree was alive until around 700 AD, meaning that the tree lived during the Kofun period through around the Nara period. It is likely that the tree grew near the site where it was found, around the same time as the construction of the Iwase senzuka Kofun Group, a special national historic site on the grounds of Wakayama Prefecture Kii-fudoki-no-oka.


発見当初の状態 70tと50tクレーンでの引き揚げ

 13岩橋(いわせ)千塚古墳群地図
特別史跡岩橋千塚古墳群
 14ピロティ入口

1階部分はピロティ形式
昔流行っていた。
高校の校舎も同じだった。使い勝手が悪い。

講義室や展示室に使用している

 15製塩炉
石敷製塩炉 (西庄(にしのしょう)遺跡 石敷製塩炉2)

和歌山市西庄の西庄遺跡から発見された、 古墳時代 (5世紀)の製塩炉を移築したものです。
この製塩炉は、 2.3m×1.5mの範囲に、 砂岩系の河原石を規則的に敷いてつくられたもので (石敷製塩炉)、 炉の上に製塩土器を置き、濃度を高めた海水を煮沸して塩を得るための施設と考えられます。
西庄遺跡では18基以上の石敷製塩炉が検出されており、 製塩や漁労をおもな生業とした古墳時代の海浜集落であったと考えられます。

石敷製塩炉2
製塩炉での塩づくりの再現実験

※考察 石敷き製塩炉 
石敷き製塩炉
AI による概要
石敷き製塩炉(いしじきせいえんろ)は、主に古墳時代後期から奈良時代にかけて、日本の海岸沿い(特に瀬戸内地方や若狭地方など)で塩を作るために使用された施設です。それまでの灰土(はいつち)で壁を作る炉に比べ、熱効率が大幅に向上した構造が特徴です。

主な構造と特徴は以下の通りです。
1. 炉の構造と設置
・地面の石敷き: 砂浜や地盤の上に、平らな石(主に礫石や石板)を隙間なく敷き詰めて炉床(炉の底)が作られています。
・熱効率の向上: 炉の底に石を敷き詰めることで、燃料である木材の熱を蓄熱(保温)し、効率よく製塩土器を加熱する構造になっています。
・炉の形状: 長方形や楕円形をしており、大きなものは長径が約5mに達する(福井県船岡遺跡など)ものから、1m程度の小規模なものまで多様です。

2. 製塩土器(せいえんどき)の配置
・丸底土器とのセット: 石敷きの上に、専用の「製塩土器」を多数配置して海水を煮詰めていました。
・時期による変化: 7世紀頃からは、それまでの脚の付いた製塩土器から、石敷きに直接置きやすい丸底の容器が主流となりました。

3. 加熱方法
置き火(おきび)式: 石敷きの上の隙間に燃料を入れて燃やし、その熱で直接土器を加熱する「置き火」の状態で製塩が行われていたと考えられています。

4. 遺跡での確認
・灰層(はいそう): 石敷きの上には、燃料が燃えた後に残った灰や土器の破片が厚く層(灰層)を形成しているケースが多いです。
・代表的な遺跡: 岡山県の喜兵衛島(きへいじま)遺跡群、福井県の船岡遺跡などが知られています。
 
置き火とは
AI による概要
「置き火(おきび)」とは、焚き火や薪ストーブなどで、薪(まき)が燃え進んで炎が収まり、芯の部分が赤々として熱を放っている状態のことです。漢字では一般的に「熾火」や「熾き火」と書きます。
キャンプやバーベキューなどのアウトドアでは、この「置き火」の状態が最も調理や暖を取るのに適していると言われています。

置き火の主な特徴
・火力が安定している:大きな炎が上がっているときよりも熱量が一定で、じっくりと加熱できます。
・煙が少ない:薪が炭化した状態なので、目に染みる煙や食材への煤(すす)の付着がほとんどありません。
・遠赤外線効果:中までじっくり火を通すことができるため、お肉や焼き芋などが美味しく仕上がります。
・火持ちが良い:炎が上がっている状態よりも燃焼速度が穏やかで、長時間熱を維持できます。

置き火を作るコツ
hinataレンタルなどのキャンプ用語解説によると、いきなり置き火を作ることはできず、まずは薪をしっかり燃やして「炭化」させる必要があります。
 1.最初は細い枝や着火剤で火を育て、太い薪に火を移します。
 2.薪がしっかりと燃えて全体が黒くなり、その後赤く光り始めたら、崩して平らに広げます。
 3.大きな炎が落ち着き、溶岩のように赤く輝く状態になれば「置き火」の完成です。
アルペングループの解説にもある通り、一見すると火が消えそうに見えるかもしれませんが、実は非常に高温(600〜900℃程度)なので、取り扱いには注意が必要です。

※「石敷き製塩炉」の使用法が想像できなくて、調べてみました。
 石敷きの上で火を燃やし、燃え尽きて煙を出さなくなった状態で、製塩土器を熾火(おきび)・つまりは赤熱した炭の上に、並べる。
 
 私は、縄文時代からの製塩土器のかたちを見て、きっとできた塩は,灰だらけ,炭まぶれだろうと思っていました。
 ザ!鉄腕DASH!!で藻塩として作ったものも、灰色でした。
 はやりのキャンプやBBQなどせず、ガスや電気燃料の生活をしていると、燃え火の特性を忘れてしまっていることに思い至りました。

 初期には底丸容器に先の尖った脚をつけ、粗塩(あらじお)が出来ると脚はポキッと折り捨て、塩壺として使いましたが、これは生産容量が少なかった。
 物理的に手の届く狭い範囲の焚き火なので熱効率が下がり、小さな製塩土器となったのでしょう。

 そのうち、効率化を考え、たき火を広くし、手で鹹水(濃くした海水)壷を置くだけでなく、二本の生木で壷を挟んで置くようになり、
 製塩土器は大型化した。(と想像される。)
 そして、さらに、石の上で火を焚くと石が蓄熱することから、石を敷いた上で製塩作業を行なうようになり、石敷き製塩炉が完成した。

 ※実際、土の上、青草の上で半日かかって、大量の木を燃やし、周囲の青草は完全に燃えて駆除されたのに、焼け残りを完全に燃やし、
  炭や灰を片付けると、たき火の中心の下からは、青い葉をした草が出てくる、あんな高温の中心部なのに焼けずに残ったのか。と思って
  いると、掃除で掛けた水が命を目覚めさせ、元のように成長を始めました。土や砂は、下から水分があがってくるので、大火(おおび)
  燃やしても地下水が蒸発して地表はそれほど高温度にはならないのです。だから高温になる石が熱効率アップ材だったのです。

 北陸では直系5mもの長楕円の石敷き炉が発掘されたそうです。こんな大きな炉の真ん中まで製塩土器を載せる道具は、梯子のような物だった
 のでしょうか。

 また、同じ方法で焼き塩も作ったのでしょう。この土器は底の丸いかなり大きな土器で、一次焼成の粗塩(あらじお)の中の結晶水や
 にがり(塩化マグネシウム)を蒸発 させるものです。
 三重県志摩式製塩土器は底が平らで側面が低い土器が使われていました。平らな石敷きの上に置くには丁度良かったのかも知れません。

 私の子供の頃、家では、塩は漬物(冬に向けて何樽も漬け込む)や味噌造り、醤油づくりなどで大量に使いますから、
 カマスで一俵 買いました。これは赤穂の粗塩で、焼き塩よりも安く大きな家ではこんな風に買って、水屋の片隅に土台の上に置いていた。
 すると、やがて、ムシロでできたカマスの下部が湿ってきます。にがりが出始めたのです。で、カマスの端の下に容器を置くと溜まります。
 これを味噌造り同様に、ミンチ機で煮大豆を挽き潰し、溜まったにがりを入れて豆腐を作っていました。

 私の母は町内で作り始めた豆腐は絶対に買いませんでした。色々問題を起こして貧乏になった末の起業でしたが、豆腐づくの仕組みを知っている
 ので、豆腐は水を混ぜればいくらでも増量できると母。その内、豆腐屋は儲けて店を大きくした。やはり母の言ったことはあたっていたらしい。
 私は今でも、豆腐が、プリンのようにブスブスで柔らかいと、水を絞って本当の大きさを調べることがある。2/1が水だったこともある。
 どんなスーパーでも高くても、社長の名前入りでも、信用しない。今は薬局コスモスの「やまみ」の豆腐を買っている。
 絹も木綿もしっかりした食感で、手抜きがない。


 16岩橋(いわせ)千塚古墳
 岩橋千塚古墳群は、 和歌山市の東部、 紀ノ川南岸の岩橋山塊(いわせさんかい)に位置し、東西約3km、 南北約2.5kmの範囲に
5世紀初頭頃から7世紀にかけて築かれた約850基の古墳が群集しています。
 これらは大きく10地区に分けられますが、このうち前山A、 前山B、 大谷山、 大日山、 和佐(わさ)地区の一部が国の特別史跡に指定され、
約430基の古墳について和歌山県立紀伊風土記の丘により保存・活用がはかられています。

 古墳群は、長期間にわたり前方後円墳円墳方墳が同一の墓域に築かれるという特徴をもち、6世紀代には 大型前方後円墳大日山35号墳に代表される首長の墓が丘陵の稜線上に築かれ、 周辺部に中小型の古墳が混在して累々と重なり群集する姿となります。

 また、 結晶片岩を用いて造られた独特な岩橋型横穴式石室や、 竪穴式石室箱式石棺を含む多様な埋葬施設、
大日山35号墳から出土した独自の意匠をもつ人物、動物、 器財埴輪や大王墓出土埴輪と類似した家形埴輪などは、
紀ノ川流域の古墳文化の特色をよく現しています。

 紀ノ川下流域を支配した勢力によって築かれた古墳群であり、その被葬者たちは、地域首長を頂点として強い結びつきをもった同族集団と考えられます。

岩橋千塚古墳群 岩橋千塚古墳群 前山A・B地区 (昭和29年撮影 北西から)
紀ノ川と岩橋千塚古墳群 (西から)
岩橋千塚古墳 岩橋千塚古墳群の位置

 17
岩橋千塚古墳群と周辺の遺跡

 岩橋山塊の周辺には縄文時代から近世までの先人たちが残した多数の遺跡が分布しています。

 花山(はなやま)丘陵西麓に位置する鳴神(なるかみ)貝塚 (国史跡) は、 縄文時代早期末から晩期 (7000~2300年前)に営まれた生活の場で、 明治期に近畿地方で初めて発見された貝塚として著名です。 近年の調査では、墓へ埋葬された足を折り曲げた状態の人骨が発見されました。
 井辺(いんべ)遺跡では、 弥生時代後期から古墳時代初頭 (2~3世紀) の建物や、前方後方形周溝墓を含む墓域が検出され、比較的大きな集落の跡と考えられます。

 また、大日山の西麓に立地する大日山遺跡では、谷川の跡や大型の竪穴建物から祭祀遺物が出土し、岩橋千塚古墳群が築かれた古墳時代中期 (5世紀) に水辺の祭祀がおこなわれていたと考えられます。

 花山丘陵西側の平野部に立地する音浦(おとうら)遺跡と周辺の遺跡では、古墳時代中期 (5世紀)の大規模灌漑水路と考えられる大溝が検出されたほか、馬を殉葬(じゅんそう)したとみられる古墳や朝鮮半島の技術で作られた陶質土器や韓式系土器などの、渡来人の居住を示す遺構や遺物がみつかっています。

岩橋千塚古墳群と周辺の遺跡
※注意:以下に登場する遺跡は、全て紀の川南岸の遺跡です。
 紀ノ川は大河で、渡し難く、近世まで、舟での渡河でした。
 従って、紀ノ川北岸とは少し文化の様相が異なるようです。

鳴神貝塚
音浦遺跡
鳴神貝塚
縄文前期~晩期
約5千-3千年前
埋葬人骨
伸展葬の女性シャ-マン
縄文土器 貝類 アカニシ
マガキ,
ハマグリ,
ヤマトシジミ,
ハイガイ

アカニシ貝は日本沿岸の砂泥地に棲息する大形食用貝です。
 アカニシ貝は唾液腺にテトラミンという毒を持っており、食用にするには取り除かねばなりません。
 アカニシ貝はパープル腺(鰓下腺)から黄色い粘液を分泌し、これが繊維に付着すると紫外線に反応して紫色に変色するため、
       ヨーロッパはもとより、日本でも、高貴な布としての染色に使われました。

       他の貝に比べて殻の破壊が激しいのは、1.中身を取り出すため、2.唾液腺を取り去るため、3.パープル腺を布に押し付けるため。
       などで、壊されたものと思われます。

 でもどうやって唾液腺が毒分泌腺だと知ったのでしょう。それとも殻を壊して、内臓は食べずに身だけを食べて毒をまぬがれたのかな。

 音浦遺跡
韓式系土器
古墳時代の渡来人集落
※漢式系土器の分布
引用土師器と韓式系何質土器
乾式系土器 市之郷遺跡出土品
 古墳時代中期の住居跡出土。
 貯蔵具の壺と調理具の平底鉢・鍋・甑が揃っていて、 半島人の居住跡です。

音浦遺跡では、
 貯蔵具の壷、調理具の平底鉢か鍋と甑の出土がみられます。
 カマドは壊れやすいので出てないかもしれません。

それと玉津田中遺跡から、幼児埋葬用の円葬土器がやはり乾式系土器としてあがっています。

大日山1遺跡
古墳~平安時代
大日山1遺跡 大型竪穴建物
石組遺構
祭祀関連遺物
大日山1遺跡
岩橋千塚古墳群の一部を構成する遺跡です。
大日山の西麓に位置する古墳時代の集落・墓地遺跡であり、
特に古墳周辺の生活基盤や古墳造営に関わる遺構が見つかっています。

遺跡のタイプ:古墳時代(集落・墓地)
主な遺構: 住居内柱穴や古墳に関連する構造物
地理:岩橋千塚古墳群の西麓,標高約7mの緩斜面

井辺遺跡
岡崎縄文遺跡
井辺遺跡
前方後方形周溝墓
井辺遺跡
前方後方形周溝墓は、弥生後期後半〜古墳時代初頭(3世紀頃)に造られた、前方後円墳の原型ともいわれる前方後方型をした溝(周溝)に囲まれた墳丘墓です。

m主なポイント
・特徴: 四角い「方型」の墓が2つ連なる(前方後方)形状。
・時期: 弥生時代から古墳時代へ移行する過渡期の短期間に集中的に造られた。
岡崎縄文遺跡
縄文土器
岡崎縄文遺跡
縄文時代後期後半から晩期前半(約3千〜3,500年前)の貝塚です。
1964年の団地造成中に発見され、ハマグリ主体の貝層から、
東北地方の文化影響を受けた土器や大洞(おおぼら)式系統の晩期土器が出土し、当時の文化交流を示す貴重な遺跡です。

岩橋千塚古墳域と
周辺地区の遺跡
鳴神Ⅳ遺跡
音浦遺跡
花山地区
岩橋遺跡
史跡 鳴神貝塚
大谷山地区
大日山地区
高橋神社遺跡
岩橋Ⅱ遺跡
前山B地区
前山A地区
和佐地区
大日山地区
大日山I遺跡
井辺地区
井辺遺跡
井辺前山地区
寺内地区
山東地区

井辺前山6号墳
玉類(勾玉,管玉,小玉)

大日山35号墳
形象埴輪集合
家,動物,器財
(重要文化財)
6世紀前半の前方後円墳です。全国唯一の「両面人物埴輪」や「飛翔する鳥形埴輪」など、独創的な形象埴輪が多数出土したことで知られる、紀ノ川流域を治めた首長墓です。
特徴
・規模と構造: 全長約86mの前方後円墳で、三段構成の基壇上に築かれています。内部には「岩橋型横穴式石室」と呼ばれる、石棚を持つ構造が見られます。
・日本唯一の埴輪: 両面に表情の異なる顔を持つ「両面人物埴輪」は国内唯一の発見です。また、滑空する姿の「鳥形埴輪」も極めて珍しく、これらは「大日山35号墳〜全国に例のないユニーク埴輪 」newsでも大きく取り上げられています。
・出土品: 人物、動物(馬、猪など)、器財など多様な埴輪が出土し、当時の祭祀の様子を伝えています。

岩橋型横穴式石室
AI による概要
 岩橋型横穴式石室は、5世紀末〜6世紀の和歌山県・岩橋千塚古墳群周辺特有の石室構造です。
玄室と羨道の間に「玄室前道」と呼ばれる狭い通路を持つのが特徴で、結晶片岩の薄い石材を巧みに組み、石の棚や「横穴式石室の構築原理を考える」が指摘するような特殊な形態を形成しています。

特徴的な構造と背景
・場所: 和歌山市の岩橋千塚古墳群(国の特別史跡)とその周辺、主に紀の川流域。
・構造: 玄室前道(玄室の前にある短い通路)が存在する。これにより、追葬(追加の埋葬)が可能になり、初期横穴式石室として貴重な事例。
・石材: 緑色の薄い結晶片岩(青石)を積み上げ、石の棚や石張りを持つ独自の石室構造。
・関連性: 古墳時代の豪族「紀氏」の墓域と関連が深い。
見どころ
・将軍塚古墳: 最大級の石室を持ち、内部を見学可能(国内最大規模!豪族・紀氏の墓とも伝えられる「岩橋千塚古墳群」へ!参照)。
・風土記の丘冬期企画展『岩橋型横穴式石室の始まり』: 紀伊風土記の丘では、この特殊な石室に関する企画展が開催されたことがある。


特別史跡の古墳銘 天王塚古墳
前山A2号墳
③前山A13号墳
④前山A17号墳
⑤前山A18号墳
⑥前山A46号墳
⑦前山A58号墳
⑧前山A67号墳
⑨前山B101号墳
⑩前山B220号墳
将軍塚古墳
知事塚古墳
郡長塚古墳
大日山1号墳
大日山35号墳
⑯大日山43号墳
⑰大日山70号墳
大谷山6号墳
⑲大谷山22号填
⑳大谷山28号墳
㉑大谷山39号墳
花山2号墳
㉓花山6号墳
㉔花山8号墳
㉕花山10号墳
㉖花山33号墳
㉗花山42号墳
㉘花山44号墳
㉙花山45号墳
㉚花山46号墳
井辺1号墳
井辺八幡山古墳
井辺前山6号墳
㉞井边前山7号填
㉟井辺前山24号墳
㊱井辺前山26号填
㊲井辺前山32号填
㊳井辺前山36号填
寺内18号墳
㊵寺内32号墳
㊶寺内35号墳
㊷寺内63号墳
㊸寺内6号墳

 18
古墳時代の「クスノキの巨木」 (枝部分)
この巨木(クスノキ 周囲12m、直径4m、推定樹齢350年)は、 平成23年9月に紀伊半島に甚大な被害をもたらした台風12号の通過後、 紀ノ川(和歌山市六十谷橋付近)で発見されました。 放射性炭素年代測定法による年代測定で西暦700 年前後まで生育していたものと判明し、 古墳時代から奈良時代にかけてのクスノキと考えられます。 和歌山県立紀伊風土記の丘にある特別史跡「岩橋千塚古墳群」が築造された同時期、 発見現場近くで生育していたものと考えられます。

Giant camphor tree from the Kofun Period
(segment of the branch) This gigantic, petrified tree (a camphor tree, with a trunk circumference of 12 meters, diameter 4 meters, estimated to be over 350 years old) was discovered near the Musota Bridge in the Kinokawa River, Wakayama city in September 2011 after Tropical Storm Talas had swept through the Kii Peninsula, wreaking widespread devastation. Radioactive carbon dating determined that the tree was alive until around 700 AD, meaning that the tree lived during the Kofun period through around the Nára period. It is likely that the tree grew near the site where it was found, around the same time as the construction of the Iwase-senzuka Tumulus Clusters, a special national historic site on the grounds of Wakayama Prefectural Kii-fudoki-no-oka.

玄関への階段 古墳時代の「クスノキの巨木」 (枝部分) 縄文から古墳時代まで
生きていたクスノキの
巨木
古墳時代に川底に埋没
紀の川の流れが変わったから
発見場所地図
発見当時の状態 展示している枝はこの部分(幹部分は資料館の北側に展示)
河川敷に引き上げられた直後の「クスノキの巨木
 


 20和歌山県立紀伊風土記の丘資料館入口



 和歌山県立紀伊風土記の丘資料館休館記念 特別展
 20特別展遥かなる古墳時代の海へ
      海が生むのはへだたりか、
         それとも、つながりか?

 和歌山県立紀伊風土記の丘資料館は、岩橋千塚古墳群と共に、令和8年3月31日をもって休館いたします。
 休館後は新たな施設として生まれ変わり、令和9年に開館する予定です。

 今回はその休館記念としての展覧会です。館の全力を上げての素晴らしい展示です。
 
 21
二階入り口 特別展ポスター

畳4~5枚分の垂れ幕
将軍塚古墳石室

 22特別史跡岩橋千塚古墳群
 岩橋千塚古墳群は、今から約1600年~1400年前につくられた約1000基のお墓(=古墳)の集まりです。
その一部が 「特別史跡」に指定され、 約 500 基の古墳が分布しています。
特別史跡は、約63 (東京ドーム約13.5個分)あり、紀伊風土記の丘が管理・整備しています。
 岩橋千塚古墳群にある古墳の形には、前方後円墳、 円墳、方墳があります。

古墳…古墳時代につくられた土を盛って造ったお墓。
   形や大きさによって葬られた人の権力をあらわしていると言われています。
全国にある古墳の形も調べてみよう!!

特別史跡岩橋千塚古墳群 特別史跡 岩橋千塚古墳群
特別史跡とは国宝と同じくらい貴重で価値がある場所
岩橋千塚古墳群の範囲と
特別史跡の範囲
 23
岩橋千塚古墳群 全体模型

岩橋千塚古墳群は、 和歌山市東部の岩橋山塊(いわせさんかい)に位置し、東西約3km、南北約2.5kmの範囲に5世紀初頭から7世紀代にかけて約850基の古墳が造られました。 これらは、この地域を支配した豪族の墳墓と考えられます。 丘陵北西部(大谷山・大日山・前山A・前山B地区)と二つの独立丘陵(花山・井辺前山地区)を中心に多くの古墳が分布しています。 主稜線上には5世紀から6世紀代の首長墓である大・中型の前方後円墳が立地し、周辺に小型の円墳や方墳等が密集して築かれています。 丘陵西側(井辺地区)には7世紀代の首長墓である大型の方墳が立地しています。

岩橋千塚古墳群
全体模型
 24岩橋千塚古墳群 全体模型
岩橋千塚古墳群
全体模型
 
 

 30
ごあいさつ
 紀伊半島は、日本列島の中央に位置する国内最大の半島です。
 三方を海に囲まれた紀伊半島の人々は、古代より海と関わりをもってき ました。 海は暮らしの場であるとともに、 外部世界とつながる場でもあり、 人々は東西に接する海を通じて、 東日本 (太平洋-熊野灘) 西日本 (瀬戸 内海-紀伊水道 ・ 太平洋)の各地域との交流を行いました。

 岩橋千塚古墳群が最盛期を迎える少し前の古墳時代中期 (今から1600年 前)、 倭王権が朝鮮半島情勢への関与を強めていくようになると、 交通や軍 事の上から海はさらに重要視されるようになりました。 発掘された船から は当時の航海の姿が、 海に関わる祭祀遺物や遠隔地から運ばれた土器から は当時の航路が浮かび上がります。

 また、 紀伊半島の有力者たちは倭王権の一部を構成し、 海での交易、外交、 軍事などに関わりました。 『日本書紀』『古事記』に記される紀氏の活躍や、 海の近くに位置し、 海を臨むように築かれた多くの古墳の存在からも、 彼 らからみた海の重要性がうかがえます。

 海を介した人々の交流は、 倭王権や有力者が行った世界だけにとどまり ません。 漁労や製塩などの生業と生産をめぐる技術、 古墳とは異なる墓で ある岩陰・洞穴への埋葬、 海に関わる信仰や呪術のあり方など、 紀伊半島 と遠方の地域との共通性は様々な局面で確認することができ、その背景に あった紀伊半島の人々による主体的な交流の存在を浮かび上がらせます。

 本展示では、古墳時代を中心とした遥かなる海、 その海を舞台とした人々 の交流を示す考古資料を取りあげます。 この内容は、 令和 10 年度に開館予 定の和歌山県立考古民俗博物館 (仮称) における新しい常設展示 「海と交流」 とも関連するものです。 令和7年度末で当館は一旦休館しますが、新たに 生まれ変わる当館の展示の一部としてご覧いただければ幸いです。

 最後になりましたが、本展示を開催するにあたり資料の出陣や写真の提 供などに格別の御協力を賜りました関係者・関係機関の皆様に厚く御礼申 し上げます。
令和7年10月4日
和歌山県立紀伊風土記の丘館長 増渕徹

ごあいさつ
 

 100 Prologue遥かなる海
 古墳時代の海は今と違ったのか?

 遥かなる古墳時代の人々のみた海は、どのようなものだったのか。

 当時の海の環境を知る すべは少ないが、研究の進展により海の姿、海の水、海の幸について、 探ることが可能になった。
 海の姿は、 海岸地形から海の形を把握する。
また、海の水は、海水温や古気候から推定できる。
そして、海の幸は、多量に出土した魚の骨や貝の殻からは当時の漁業の実態を知ることができる。

 遥かなる海は、 今とどのように違ったのか?
最新の研究から古墳時代の海を探る。

Prologue遥かなる海

 101西庄遺跡の漁業

古墳時代の漁業センサス
 西庄遺跡 (和歌山市) は、紀の川河口に形成された入り江に立地する海浜集落である。
発掘調査では、 哺乳類・鳥類・魚類の骨及び貝殻が多数発見され、魚類や貝類は骨角や殻質、そして魚の鱗および歯、ウニ類はウニの棘までが
残されており、 貴重な資料である。

 動物の骨や歯などから人と動物の歴史を研究する「動物考古学」の目で同定・分類が行われた西庄遺跡では、当時の人々が漁労・ 採集を行った水産資源の実態が解明できる。

古墳時代の漁業センサス
 
  西庄遺跡出土の魚類の骨
 

西庄遺跡出土の動物依存体 触手動物門
 コケムシ網
環形動物門
 ウズマキゴカイ
軟体動物門
 多板網
 ヒザラガイ
 腹足網
オキナエビスガイ目
アワビ属 メガイアワビ
スガイ
イシダタミ
クマノコガイ
コシダカガンガラ
バテイラ
バイガイ
サザエ
キクスズメガイ
フトヘナタリガイ
イモガイ科
カワアイガイ
ツメタガイ
レイシガイ
イボニシ
イボキサゴ
フトコロガイ
ムシロガイ
イソニナ
ナガニシ
コウダカマツムシガイ
ボサツガイ属
シロキリオレガイ
 斧足網
 アカガイ
 サルボウガイ
 サトウガイ
 キクスズメ
 コタマガイ
 マガキ
 イタボガキ
 フジノハナ
 ハマグリ
 カガミガイ
 チョウセンハマグリ
 オキアサリ
 バカガイ科
 ナミノコガイ
節足動物門
 甲殼網
 クロフジツボ
棘皮動物門
 ウニ網
 アカウニ
 ムラサキウニ
脊椎動物門
 軟骨魚網
 アカエイ
 トビエイ
 サメ類
 硬骨魚網
 ウルメイワシ
 カタクチイワシ
 アナゴ科
 ハモ科
 コイ科
 マダイ
 クロダイ属
 フェフキダイ科
 ムロアジ科
 ニベ科
 イトヨリダイ科
 サバ属
 ブリ属
 スマ
 ベラ科
 ウシサワラ
 カツオ
 マグロ属
 サツオミシマ
 フカカサゴ科 コチ科
 ボラ科
 ハタ科
 エソ科
 カレイ科
 ガンゾウヒラメ
 フグ科
 ハリセンボン科
 爬虫網
 ウミガメ科
 哺乳網
 イルカ科


古墳時代は(あたた)かな海だったのか?

 西庄遺跡では出土したカツオなどの外洋で生息するこれらの魚種は、現在では紀伊半島南部の遺跡のはるか南方での水揚げとなる。
ウシサワラやイモガイの生息域も、同様である。 磯間岩陰遺跡 (田辺市)の貝類を検討した黒住耐二は、貝類の生息環境から 古墳時代には今よりも暖かな海を想定する。

 カツオの動物遺存体の出土量や当時の船の航行速度を考えるならば、これらの現在の生息域で漁をしていたと考えるよりも、 古墳時代にはこれらの生息域が現在よりも北上していた可能性がある。 古墳時代の海と今の海とは異なる環境が想定できるのでは ないだろうか。

古墳時代は暖かな海だったのか?
イモガイとイモガイ加工品

ウシサワラ(下)と
ウシサワラの骨(上)


へ、磯へ、浜へ-多様な漁業-

 西庄遺跡の人々は、広範囲の漁場を舞台に、 海の水平方向・垂直方向に多様な漁業を行っていた。

 貝類は、 満潮時に水面下にある潮間帯だけでなく、干潮時でも水面下にある浅海潮下帯(せんかいちょうかたい)にかけて生息するアワビやサザエ、オキアサリも多い。

 魚類は、沿岸外海・内海にかけて生息する個体が主な捕獲対象であった。 表層ではイワシ、サバ属、マアジ属、ボラ科、中層ではマダイやクロダイ、 下・底層ではハモ属やエソ科、ハタ科、ヒラメなどが確認できる。
さらに外洋に生息するカツオやマグロ、 カジキ、ウシサワラなども確認できる。

 軟骨魚網(なんこつぎょこう)ではエイ目やサメ類が、 爬虫網ではウミガメ科、 哺乳類ではイルカが存在する。

沖へ、磯へ、浜へ
-多様な漁業-
  西庄遺跡出土魚類等の生息域


海の姿
 約6000年前の縄文時代前期には、海面の標高(海水準)が現在よりも2~4m高くなり、 日本列島各地では 「縄文海進」 と呼ばれる現象が生じていた。 和歌山平野でも当時の海底を示す砂泥層や貝殻を含む地層が現在の標高5m付近で認められる。

 縄文時代後期以降の海退を経て、 古墳時代の海面は現在とほぼ同じ高さとなり、かつての入り江は潟湖(せきこ)内海(うちうみ)となった。

和歌山平野の周辺の海岸砂丘の内側には、 縄文時代後期以降の海退により取り残された潟湖や内海が存在し、これらの周囲に集落遺跡が立地する。古墳時代中期には、砂丘上に立地する内海に面して西庄(にしのしょう)遺跡(和歌山市)が形成され、 生産活動が行われた。

海の姿
古墳時代 (古代前半) の海の姿
・縄文時代は今よりも5m近く海面が高く、「縄文海進」 と呼ばれている。

・古墳時代に、河口付近に入り江や内海が形成され、港があった。

 105土錘
・西庄遺跡の人々は、沖や磯、浜、など広い範囲で漁を行なっていた。
・西庄遺跡(和歌山市)には、古墳時代の動物・鳥・魚の骨、貝が良く残っていた。
・魚や貝の種類を調べることで、古墳時代にどのような漁業を行なっていたかわかるようになる。

土錘 土錘
和田岩坪遺跡
古墳前期
土錘
和田岩坪遺跡
古墳前期
 106動物遺存体
 107
イモガイ・イモガイ加工品 西庄遺跡
古墳中期~後期
ハマグリ
現生標本
ハマグリ
西庄遺跡
古墳中期~後期
ウシサワラ
西庄遺跡
古墳中期~後期
タイ
西庄遺跡
古墳中期~後期
 

 110Chapter1 海へ漕ぎ出す

人々はどのように海へ出たのか?
 遠方に交流を求めた古 墳時代の人々は、どのように海に出たのか。
 発掘される船は断片的で、その数も少なく、 構造や規模、航行能力など、いまだ明確でない点も多い。
 しかし、 良好に残された船や船材によって、 船の構造が明らかになってきた。

 「準構造船」の登場に より、船はさらに大型化し、輸送能力を向上させた。 そして、古墳時代には、活発な交流や交易が行われた。
 発掘された船から、海に漕ぎ出した人々を考える。

Chapter1
海へ漕ぎ出す

 111Chapter1-1大船に乗りたい
   古墳時代の船
 発掘された船から古墳時代の船の形と構造を理解する。 古墳時代の船は準構造船と呼ばれ、(くり)船 (丸木舟) の上部左右に舷側板を取り付けたものである。 これらは弥生時代後期以降に順次大型化し、 古墳時代には推定で全長12mを超えるような実船の発見例もある。 乗組員積載 物資の増加、航行能力の向上が 大型化の背景にあるとみられる。 当時の人々も、また、私たちと同じように大船に乗りたかったのであろう。

・丸木舟の上部・左右に舷側板や竪板を接合し、大型化した船が「準構造船」だ。

Chapter1-1
大船に乗りたい
  古墳時代の船

 112波切り板 久宝寺遺跡
  久宝寺遺跡(八尾市)で発見された船は、長さ12m以上の規模に復元される外洋船だ。

 113発掘された実船
竪板型準構造船の実船は、 1983年に久宝寺遺跡 (八尾市) ではじめて発見され、その構造や規模が明らかになった。
竪板の高さは約1.73m、 刳船部の船首は途中で切断されていたが約3.0mの長さが残る。
4分の1の船体が残っていたとすると推定で全長12m以上となり、外洋も航海可能な大型の船である。

発掘された実船
 114
二つの船体構造
 刳船(くりぶね)の上部・左右に舷側板や竪板(たていた)を接合し、船の大型化を図ったものが「準構造船」である。
準構造船には、二つの船体構造が存在する。
 一つは「竪板型と呼ばれ、 刳船部の船首・船尾に竪板と呼ばれる波除板(なみよけいた)を斜めに取り付け、竪板に舷側板を固定する。
 もう一つは「貫型(ぬきがた)と呼ばれ、左右の舷側板を角材((ぬき))や板を通す、または、挟むことで固定する。
古墳時代にはこれら二つの船体構造が併存しており、規模、用途、海域に応じて使い分けられていた。

二つの船体構造
    竪板形準構造船
貫型準構造船     
刳舟(丸木舟)
複材刳舟(準構造船)
構造船

 115喪船 巣山遺跡
・巨大古墳である巣山古墳の葬送船からは、 大王たちの保有した船の姿が想像できる。
※巣山古墳:奈良県広陵町

喪船 巣山遺跡 竪板(波切り板)

 116他界へ(かけ)る葬送船
 全長220mの巣山古墳 (広陵町)の周濠からは、 全長 8m以上に復元される葬送船(そうそうせん)が発見された。 巣山古墳の船は、船材が薄く文様が過多であることから実用船ではない。

 葬送船は、クスノキ製の竪板1枚とスギ製の舷側板2枚からなる竪板型の準構造船である。
竪板は上下二段の同心円文を中心とし、周囲に直弧文(ちょっこもん)が描かれている。
舷側板は同心円文と帯状文(おびじょうもん)を中心に、五線帯(ごせんたい)鍵の手文(かぎのてもん)と呼ばれる文様が描かれる。

 大王墓に匹敵する巣山古墳から出土した葬送船からは、大王たちの保有した船の一端が垣間見える。


他界へ翔る葬送船
竪板,舷側板,
刳舟(丸木舟)
竪板:上下二段の同心円文周囲に直弧文

舷側板:同心円文と帯状文を中心に、
    五線帯や鍵の手文
 117
古水温(むかしのすいおん)から海の水を知る
 古墳時代の海の水がどのようなものであったのか。
海の水の温度は、円石藻(えんせきも)と呼ばれる植物プランク トンから復元ができる。 この円石藻が生成するアルケノン化合物は、その生育水温に伴って変化するため、堆積土中に含まれるアルケノンの分子組成から 海水温が復元できる (kajita et.al 2022 ほか)。

 この方法により、 東京湾では過去5000年間の海水温が復元された。
1世紀後半から5世紀後半に相当する弥生時代の終わりごろから古墳時代中期にかけては海水温が上昇する。
このため古墳時代は、比較的、 海が温暖な時期であった

古水温から海の水を知る
  円石藻が生成するアルケノン化合物の分子組成
外洋の円石藻  アルケノン古水温計により復元された東京湾の古水温
 


古墳時代の気候変動
 気候に関しては、樹木年輪のセルロースに含まれる 酸素同位体比から夏の乾湿の復元が行われている。
酸素同位体比により、年輪が形成された年の夏の「降水」・「湿度」を知ることができる。

 気候復元からは、
2世紀前半、 弥生時代後期から古墳時代への移行期は、 湿潤化/寒冷化が進み、
2世紀半ばから数十年単位の乾湿を繰り返し、 乾燥化する。 その後、古墳時代には、
5世紀に湿潤化が一旦収束した後に、
6世紀には乾湿を繰り返し
7世紀初めごろまで湿潤化/寒冷化傾向となる。

古墳時代の気候変動 樹木年輪(大桑村の木曽ヒノキ)



樹木年輪セルロース酸素同位体比による気候復元
・木の年輪からは、当時の雨の量が推定できる。 古墳時代には雨が多い時期や少ない時期があった。

樹木年輪セルロース酸素同位体比による気候復元
 


 120Chapter1-2船のイメージを(くつがえ)

 部材から見た船
 船は大きな木を用いて作られる。そのため、 船として用いられた後も、 再利用されて別の部材に用いられることから、船の全体がわかる資料は少ない。
しかし、断片的ながらも井戸枠や 部材、杭として用いられた材や 再利用されず捨てられた部材などを、仔細に観察すると船の構造や形がわかる。 端材となるまで使われ、役目を終えた船から 当時の船をみる。

部材から見た船

端材といわれても

 河内湖南岸の瓜破北(うりわりきた)遺跡 (大阪市) では、刳船部の船首先端、 舷側板(つなみ)、 船べり材、 隔壁 (仕切板) などの船材が多量に出土した。

 再利用しにくい凹凸(おうとつ)部や孔、 段、 刳り込みが残る部分が多く、 いずれも切断や加工の痕跡が認められることから、再利用されず捨てられた端材とみられる。

 端材からは、 当時の船の各部位がどのような形であったのかがよくわかり、 出土した船材から「船の解体場」「リサイクルセンター」として考えられている。 河内湖沿岸では船が多数出土しており、船の保有の多さと往来の頻繁さを示すものだろう。

・大阪市には当時、 河内湖(かわちこ)があり、沿岸では船が多数出土している。
・瓜破北遺跡 (大阪市)では船材が多量に出土し、「船のリサイクルセンター」とみられる。

端材といわれても
 121
瓜破北遺跡船材
出土状況1
破北遺跡船材 (船べり部) 出土状況2
舷側板
舷側板(フェンダ)
(しとみ)屋北遺跡
古墳中-後期
船べり材
瓜破北遺跡
古墳後期
舷側板
瓜破北遺跡
古墳後期
櫂,隔壁(仕切板)
瓜破北遺跡
古墳後期

瓜破北遺跡
古墳後期

 122舟形木製品
舟形木製品
船形木製品
五反田遺跡

時期:古墳前期
所蔵:兵庫県立考古博物館

船形木製品
笠嶋遺跡

時期:古墳前期
所藏:串本町教育委員会

 123
井戸枠に使われた船

 大きな刳船は、井戸枠としても転用された。
 蔀屋北遺跡 (四条(なわて)市) では、刳船部を前後または左右に切断し、 組み合わせた井戸枠として発見された。
砂地に立地する遺跡であるため、 井戸が崩れないように井戸枠として用いられたのだ。

 井戸枠の側面には、船べり材の一部や接合面が残り、 台形のくぼみが認められる。
台形のくぼみは「チキリ」と呼ばれ、 リボン状のくさびを用いて船材同士を接合する方法である。
これらは複数の船材を継いだ 「複材刳船(ふくざいくりぶね)」と呼ばれる構造である

井戸枠に使われた船
  井戸枠に用いられた
蔀屋北遺跡の船 
  蔀屋北遺跡発掘調査
全景
蔀屋北遺跡
刳船のチキリ痕跡
 
井戸枠に用いられた
蔀屋北遺跡の船
 

 124板に残った舟

 125舟絵画
描かれた十一隻の船
 袴狭(はかざ)遺跡 (豊岡市) の絵画板材 (船画) は、11隻の船が線刻され、すべて進行方向を左としている。
中央には長く描かれた大型船が あり、その周囲には、 小型船が取り囲んでいる。

 この絵画板材に描かれた船は、遠隔地に向かう航海のための船団を描いたという解釈もあるが、航行能力が異なる大小の船が船団を
組んで長距離を併走するのは難しい。 このため大型の準構造船を中心に近海用の船などによる海上パレードではないだろうか。

描かれた十一隻の舟 船の絵画 大型船
※大型船とは、一本の細い線で描かれている、かろうじて見える、舟のことで、見ようによっては、船台の上に小舟二隻を載せているように見える。
       これは、描き手が、大型船の向こう側にいる二隻と、その向こうにいる一隻を描こうとしたために起こったことです。
       もし彩色があれば画家の意図がわかるかも知れません。

 ただし、大型船は他の小舟が刳り舟を改造した準構造船であるのに、構造船のように描かれています。竪板がありません。
 もう帰ってこないかもしれない、死出の旅かも知れない、舟と船乗り達を、盛大に送り出しているのでしょうか。

 126舟絵画 袴狭遺跡
・板には、中央の長い舟を囲んだ11隻の船が描かれる。この絵は船のパレードを描いたのか。

絵画板材[複製品]
袴狭遺跡
時期:弥生後期~古墳前期


 127巣山古墳の葬送船 (4c末~5c初頭 古墳時代前期 墳長220m後円部径130m前方部幅112m前期では超大型古墳)
巣山古墳の葬送船 (竪板)
 竪板は長さ約2.1m、幅約 0.8m で側面に突起があり、下端は船首に接合するために2つ の突起がある。
正面には上下二段に区画され た内部には、それぞれ同心円文を中心とし、 周囲に直弧文が描かれている。
表面には木くさびが残る。
葬送船は、 全長 8m 以上であったと推定されている。

北側周濠からみた
巣山古墳
巣山古墳の葬送船 (竪板)

 


 200Chapter2浮かび上がる航路

地図無き航路をどう復元するのか?

 古代の航海は 「地廻り(じまわり)航法」 「地乗り(じのり)航法」と呼ばれ、 沿岸や島を伝って、山や岬、島を目標に自らの船の位置を
確認しながら進んだとみられる。

 文字の無い時代である ため、当時の航路についての手がかりは少ない。 しかし、ひとつながりの 航路のように連なる海の祭祀遺跡や、人々の足跡を示す東日本の土器からは、 航路を推定することもできる。

 浮かび上がる航路から、 紀伊半島では西日本と東日本の航路が交差する。

浮かび上がる航路
 

 210Chapter2-1祈りの行方
  海の祭祀と航路
古墳時代中期以降には、 島や岬において石製品や鉄製品、 土製品などが発掘される。
特に滑岩と呼ばれる柔らかい石で、勾玉や鏡、剣などを模して作られた滑石製模造品は、 祭祀のために用いられたとみられる。
こうした海の祭祀遺跡の分布は紀伊半島から大阪湾、瀬戸内海の各地に点在し、 朝鮮半島まで連なる航路となる。

Chapter2-1
祈りの行方
海の祭祀と航路


海の祭祀とは
 海の祭祀とは何か。 海や島のカミに対する祭祀に関した遺物が発見された遺跡を 海の祭祀遺跡とする。
 島や岬、海に面した台地の山頂や突端では、海や島のカミを祭る行為が行われた。

祭祀で捧げられるものは、金属製品では農工具や武器、 小型鏡のほか、 鉄鋌などの鉄素材も出土する。
土製品は土師器・須恵器 の他に手づくね土器 (ミニチュア土器) が出土する

 また、滑石と呼ばれる柔らかい石で作られた滑石製模造品(有孔円板・剣・勾玉) がある。

滑石製模造品
滑石と呼ばれる柔らかい石で作られた滑石製模造品がある。
鏡を模した有孔円板、剣を模した剣形模造品、 薄い板状の勾玉形模造品、 さらに滑石製臼玉が存在する。
これらには紐を通すための孔があり、榊などの枝に吊り下げて神に捧げられた

海の祭祀とは 滑石製模造品

 211祭祀遺物


・島や岬、海に面した山頂で海や島のカミを祀ることを海の祭祀という。
・瀬戸内海では祭祀に船形土製品や手づくね土器が多数出土する。

 船形土製品,土器
 船形土製品・手づくね土器/東風浜遺跡
古墳中期/香川県

船形土製品/大洲浜遺跡/古墳中期/香川県
船形土製品/大浦浜遺跡/古墳中-後期/香川県      
滑石製模造品
(鏡形,有孔円板,剣形)
大浦浜遺跡
古墳中期-後期
カマド形土製品
大浦浜遺跡
古墳中期-後期
手づくね土器
大浦浜遺跡
古墳中期-後期
 212
瀬戸内海の島々 (その1)
 瀬戸内海には700以上の島々が点在し、古墳時代には海の祭祀遺跡が増加する。
 (岡山県)児島の南東に位置する(香川県)直島群島(なおしまぐんとう)の一部を構成する荒神島(こうじんじま)遺跡 (直島町: 荒神島) では、多数の手づくね土器や土器とともに、 滑石製模造品や鉄製品が出土し、 現在も多数の須恵器が散布する。

 児島(こじま)はかつて、 北の 「吉備の穴海(あなうみ)」によって島となっており、 穴海の入口には備前高島遺跡 (岡山市 高島) が存在した。
島内は岩盤山(いわくらやま)山頂、 その北に位置する天狗山(てんぐやま)北麓と中央広場と呼ばれる平坦部の3箇所に分布する。

瀬戸内海の島々 瀬戸内海の島々 備前高島遺跡遠景 肥前高島遺跡平面図
 213滑石製祭祀具
・瀬戸内海には約700以上の島々が点在する。岡山県から香川県らかけては島で祭祀が盛んに行なわれた。
・滑石と呼ばれる柔らかい石で作られた道具は、 榊などの枝に吊り下げて神に捧げられた。

滑石製模造品(剣形・勾玉形・有孔円板)
備前高島遺跡
時期:古墳中期
 214
瀬戸内海の島々 (その2)
 瀬戸内海の 「瀬戸」「水道」と呼ばれる島々の間には、目印となる地点や、 潮流が激しい海上交通の難所が存在する。 これらでは、航海に関する海の祭祀が行われたのだろう。

 児島の南西には、 大浦浜遺跡 (坂出市)、大州浜(おおすはま)遺跡 (坂出市) が存在する。 船形土製品や手づくね土器が多数出土する。
船形土製品は荘内(しょうない)半島の北に位置する東風浜(こちはま)遺跡(三豊(みとよ)市)からも出土する。

 燧灘(ひうちなだ)に浮かぶ魚島にある大木(おおき)遺跡(上島町)は、瀬戸内海の中央に位置し、「沖乗り(おきのり)航法」ルートの目印となる。小型の鉄鋌が多数出土しており、 鍛冶祭祀(かじさいし)が行われた。

 備前高島遺跡
備前高島遺跡 瀬戸内海の島々(その2)
手づくね土器,製塩土器
備前高島遺跡
古墳中期
鉄製品 (鏃・鎌)
時期: 古墳中期
備前高島遺跡
滑石製紡錘車・管玉
備前高島遺跡
時期:古墳中期
滑石製紡錘車・管玉
備前高島遺跡
時期:古墳中期

 215荒神島遺跡 香川県香川郡直島町
  ・海の祭祀は石でできた鏡や剣,勾玉,道具や板,土器等を捧げた。
荒神島遺跡の遠景と山頂部からみた四国島 荒神島遺跡の遠景
山頂部からみた四国島

滑石製模造品(有孔円板)
手づくね土器
荒神島遺跡 古墳中期

滑石製模造品(有孔円板•勾玉形)
備前高島遺跡 古墳中期
鉄製品(鏃•鎌·刀子·芹)
荒神島遺跡 古墳中期

滑石製模造品(有孔円板•勾玉形)
荒神島遺跡 古墳中期

 手づくね土器
手づくね土器

鉄製品(鏃•鎌·刀子·芹)
荒神島遺跡 古墳中期
手づくね土器 滑石製模造品
(有孔円板•勾玉形)
備前高島遺跡古墳中期

手づくね土器

 217魚島の祭祀遺物 愛媛県越智郡上島町魚島松の浦479 大木遺跡 古墳中期

瀬戸内海の真ん中に浮かぶ魚島では大木遺跡(上島町) で祭祀が行われる。

荒神島遺跡須恵器散布状況
鉄鋌
大木遺跡 古墳中期
鉄鋌
鉄製品(短剣・鏃)
大木遺跡 古墳中期
小形鏡
大木遺跡 古墳中期
滑石製模造品
(勾玉形·有孔円板)
時期:古墳中期
大木遺跡
製塩土器
大木遺跡
古墳中期
滑石製臼玉
時期:古境中期
大木遺跡
 218
魚島 大木遺跡
祭祀遺物出土地
魚島 大木遺跡遠景 (中央の丘陵が祭祀遺跡)
※瀬戸内海の祭祀島の繁盛ぶりは、どれほど内海航路が、また、
半島航路が、頻繁に行なわれてきたかの証であり、
また、それほど、当時の海運が、危険に満ちたものだったかを
あらわしているのでしょう。

 219串本市 向屋敷遺跡の祭祀遺物 古墳中-後期

向屋敷遺跡遠景
(中央の丘陵右裾)

滑石製模造品
滑石製模造品
(剣形・有孔円板・管玉・勾玉形・斧形・鏡形)

古墳中期~後期
串本市向屋敷遺跡
 
 220
 221
紀伊半島の海の祭祀
 紀伊半島の沿岸にも島や岬 ((はな)) に位置する海の祭祀遺跡が数多く存在する。

 紀淡海峡に位置する友ヶ島(ともがしま)の北方、 神島遺跡 (和歌山市) から出土した滑石製臼玉・管玉が加太の淡嶋(あわしま)神社に伝えられている。 淡嶋神社は元来、 神島(かみじま)に鎮座していたとされ、海の祭祀との関わりが深い。

 また、 田辺湾に面した岬の先端には、 阪田山遺跡 (白浜町)が存在する。 遺跡中腹の築かれた配石遺構からは、臼玉2000点を主体とした滑石製模造品、管玉、須恵器、土師器、 棒状石製品が発見された。 当時、 阪田鼻(さかたのはな)は湾へと出入りする船からの目印となった。

紀伊半島の海の祭祀 神島遺跡遠景 (左の島)


・友ヶ島の神島遺跡 (和歌山市)から発見された 臼玉・管玉は、加太の淡嶋神社に伝えられる。
 并神宝目緑 井 入組記

滑石製品(管玉,臼玉)
神島出土 古墳中期
淡嶋神社 和歌山県
神宝目録 并入組記
淡島神社(和歌山博物)
 223
海の祭祀の広がり
 海の祭祀遺跡の分布をみると、 紀伊半島から大阪湾周辺、瀬戸内海の沿岸に連なるように分布する。これらは河口に存在する潟湖や内海に位置する港津やその出入り口となる島、また、海上交通の要衝や目印に位置しており、船による移動と深く関わっている。

 これらの遺跡の祭祀の目的は、航海の安全を祈ったとみられる。海の祭祀は各地に点々と存在し、古墳時代の航路の一部を示している。そして、古墳時代中期以降に一斉に出現することから、この時期に海上交通が重要視された。

海の祭祀の広がり


海の祭祀遺跡の分布


●集落遺跡   
その他祭祀遺跡
半島
竹幕洞祭祖遺跡
羅州郎洞遺跡
泗洲勒島遺跡
金海鳳凰洞遺跡
九州
沖ノ島
 (沖ノ島祭祀遺跡)
中津宮
辺津宮
山口
西遺跡
美濃ヶ浜遺跡
瀬戸内
大浦浜遺跡
高島遺跡
長越遺跡
大洲浜遺跡
東風浜遺跡
火内遺跡
魚島大木遺跡
出作遺跡
木戸原遺跡
雨流遺跡
日出遺跡
་་荒神島遺跡
神島遺跡
磯間岩陰祭祀遺跡
畿内・紀伊半島
長原遺跡
小島東遺跡
木戸原東遺跡
布留遺跡
南鄉遺跡群
亀川遺跡
西庄遺跡
鷹島遺跡
津ノ森遺跡
里Ⅱ遺跡
磯間岩陰遺跡
阿須賀神社遺跡
阪田山遺跡
向屋敷遺跡
大水崎遺跡



阪田山遺跡配石遺構出土状況図
阪田山遺跡遠望

第3図
 弥生式土器出土状態実測図 ならびに 須恵器出土状態復元図(12弥生式土器3線4~7 有蓋高坏8鉄器)
海の祭祀は紀伊半島から瀬戸内海の沿岸に分布し、船による移動と深く関わっている

第3図 第3図

須恵器(高坏,ハソウ),鉄鉾由良町 里Ⅱ遺跡
古墳中期
由良町教育委員会
 
 230
 231阪田山遺跡
・海の祭祀の目的は、航海の安全を祈った。 朝鮮半島に至る海上交通が重要だった。
・紀伊半島の沿岸には、島や岬 (鼻) に位置する海の祭祀遺跡が数多く存在する。

阪田山遺跡発掘調査図面
(巽三郎氏原図)
時期:昭和
所蔵:和歌山県教育委員会
 233
・阪田山遺跡 (白浜町)では、臼玉・管玉などが発見され、岬の祭祀が行われていた。

滑石製臼玉
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会


滑石製模造品(臼玉)
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会
碧玉製管玉
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会
滑石製有孔円板
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会
滑石製模造品(剣形)
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会
須恵器(蓋,蓋坏)
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会
製塩土器
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会
土師器甑(こしき)
阪田山遺跡
古墳中期~後期
田辺市教育委員会
 
 
 240
 241
紀伊半島の海浜集落と祭祀
 紀伊半島の海浜集落においても、祭祀遺物が出土する。紀伊半島の海の祭祀では滑石製臼玉が主体となるが、海浜集落においても共通する。

特に西庄(にしのしょう)遺跡 (和歌山市)では多数の滑石製臼玉が出土している。
勾玉形模造品、 有孔円板が次いで多く、剣形模造品は少ない。 また、 鉄鋼や武器なども出土しており、祭祀を行っていた。

 紀伊半島のこれらの遺跡は海に関わる遺跡であり、 海の祭祀遺跡と共通する祭祀遺物をもつ。

紀伊半島の海浜集落と祭祀
紀伊半島の海浜集落と祭祀

・紀伊半島の海浜集落においても、海の祭祀遺跡と共通する道具が発見されている。

      ・滑石製子持勾玉、蛇紋岩滑石製勾玉、滑石・蛇紋岩・碧玉製管玉
  古墳中期~後期
  西庄遺跡  和歌山県教育委員会

・滑石製模造品(有孔円板・剣形・勾玉形・臼玉)
  古墳中期~後期
  西庄遺跡  和歌山県教育委員会

鉄鋌
  古墳中期~後期
  西庄遺跡  和歌山県教育委員会

滑石製模造品
(有孔円板・剣形・勾玉形・臼玉)
鉄鋌 滑石製子持勾玉、蛇紋岩滑石製勾玉、
滑石・蛇紋岩・碧玉製管玉

 243
潮岬周辺の祭祀遺跡
 紀伊半島の南端、串本町域は、東西からの海流の影響を受けた陸繋砂州(りくけいさす)が形成され、その上に向屋敷(むかいやしき)遺跡矢ノ熊(やのくま)遺跡大水崎(おおみさき)遺跡が存在する。

 向屋敷遺跡では、多量の滑石製臼玉と剣形模造品、 有孔円板、 勾玉形模造品が出土している。 紀伊半島を航行する船にとって、潮岬はランドマークであるとともに、 東西の潮流がぶつかる地点にあり、海上交通の難所でもあったとみられる。

 紀伊半島の海の祭祀は、臼玉が最も多く、これに対して有孔円板 剣形模造品が少ないという特徴が認められる。

潮岬周辺の祭祀遺跡
鷹島遺跡遠景

・潮岬は海からの目印であり、海上交通の難所だったため、その近くでは海の祭祀が行われた。

 鷹島遺跡 和歌山県有田郡広川町唐尾
    碧玉製勾玉・滑石製管玉・小型鏡・鉄鏃
有田郡 鷹島遺跡
古墳前期
高坏,手づくね土器
鷹島遺跡
古墳前期
 
   
滑石製模造品
(有孔円板・勾玉形)
大水崎遺跡
古墳中期-後期
串本町教育委員会
滑石製模造品
(剣形・臼玉)
串本町 大水崎(おおみさき)遺跡
古墳中期~後期
 245
津ノ森遺跡遠景
(左の水田の範囲)
  手づくね土器
阿須賀(あすか)神社遺跡
古墳中期
新宮市教育委員会 
滑石製模造品(臼玉)
阿須賀(あすか)神社遺跡
古墳中期
新宮市教育委員会
     
滑石製模造品(臼玉)
ガラス製小玉
津ノ森遺跡
古墳中期~後期
熊野市歴史民俗資料館
滑石製模造品(剣形・有孔円板・勾玉形)
滑石製管玉
津ノ森遺跡
古墳中期~後期
熊野市歴史民俗資料館
鹿角製模造品(剣形)
[複製品]
磯間岩陰遺跡
古墳中期
田辺市教育委員会
滑石製有孔円板
鹿角製模造品(円板)
[複製品]
磯間岩陰遺跡
古墳中期
田辺市教育委員会
 247
淡路島・大阪湾周辺の集落祭祀
 淡路島や大阪湾とその周辺では、 海浜集落や海から少し離れた集落遺跡においても滑石製模造品を用いた祭祀が認められる。
 集落遺跡での祭祀は海とは関わらないが、 祭祀遺物は海の祭祀遺跡と共通する
さらに滑石製模造品の製作も行われており、 海の祭祀では、これらの集落遺跡から持ち込 まれた祭祀遺物を用いていた可能性がある

 ※つまり、海の祭祀道具を作っていた集落があった。きっとそれを買って船出し、風待ち潮待ちの時に祭祀を行なったのでしょう。

淡路島・大阪湾周辺の集落祭祀
淡路島・大阪湾周辺の集落祭祀
ピンボケ
南淡路市 木戸原遺跡
鉄鋌
毛抜形鉄製品
滑石製模造品

木戸原遺跡 祭祀具製造
AI による概要

 南あわじ市の木戸原遺跡は、古墳時代中期(約1600年前)の海人グループに関わるとされる重要遺跡です。
特に祭祀具として、剣・鏡・玉の三種の神器を模した滑石製の「石製模造品」が多く出土しており、当時のヤマト政権と関係する祭祀が行われていた場所とみなされています。

主な出土祭祀具と特徴
・石製模造品: 滑石(柔らかい石)を削り、剣・鏡・玉を模した祭祀用具。当時の主要な祭祀用品である。
・鉄挺: 鉄器の原料となる板状の鉄。この遺跡で祭祀と鍛冶が結びついていたことを示す。
・韓式系土器: 朝鮮半島系の影響を受けた土器が多数出土し、半島との交流や海人の活動を示す。

背景
 この遺跡は、古墳時代の瀬戸内海航路における重要な航路拠点であり、5世紀代に、ヤマト政権の意向を受けて朝鮮半島との交通・貿易を担っていた海人(あま)の拠点集落と考えられている。また、近隣の雨流(うりゅう)遺跡は鉄器の鍛冶を行っていた可能性が高い。

この遺跡の出土品や歴史的背景について、さらに詳細を知りたいですか?
・石製模造品の具体的な種類(剣、鏡、玉の比率など)
・近くの五斗長垣内遺跡(ごっちょかいといせき)との関連

 

 250模造品
 251模造品 亀川遺跡 古墳中期~後期

土製・滑石製模造品 てづくね土器
滑石製品
大阪府亀川遺跡とは AIによる概要

大阪府阪南市にある亀川遺跡は、古墳時代前期から中期にかけての製塩遺跡や、中期末〜後期前半の集落と祭祀域が明確に分かれた複合遺跡です。

 約1500年前の滑石製勾玉や管玉が1万点近く出土し、玉作(工房)のむらであったことが分かっており、近隣の古墳群とも関連する重要な場所です。

遺跡の場所と特徴: 阪南市自然田(じねんだ)に所在し、菟砥(うど)川下流の平坦地に立地。
 てづくね土器 亀川遺跡 古墳中期~後期
手づくね土器
主な遺構と時代:
・古墳時代前期〜中期: 製塩土器が多く出土する土坑が多数確認され、製塩の場であった。

・古墳時代中期末〜後期前半: 14棟の竪穴住居や、滑石製の勾玉・管玉の未製品が1万点近く出土し、玉造り工房があった。

・中世: 13世紀末〜14世紀前半の掘立柱建物や土坑が確認されている。周囲の環境: 南には玉田山古墳群、西には波太神社があり、周辺にも多数の遺跡が存在する。

滑石製模造品(勾玉形)
滑石製模造品(臼玉・有孔円板•剣形)、滑石製管玉
鉄製品(鏃・棒状鉄製品・素材)
鉄製品(釣針・刀子 ̇不明鉄製品)
 亀川遺跡 古墳中期~後期

滑石製模造品 臼玉
鉄製品
鏃、棒状鉄製品,素材,
釣針,刀子, ̇不明鉄製品
滑石製模造品 勾玉形,
有孔円板,剣形,管玉
滑石製模造品 臼玉
不明鉄製品
 253
須恵器(高坏,蓋坏)
製塩土器
亀川遺跡 古墳中-後期
大阪府
 255
銅製品(鏃,小型鏡)
古墳前期~中期
長越遺跡
兵庫県立考古博物館
滑石製模造品
(有孔円板•剣形)、

滑石製·蛇紋岩製勾玉
長越遺跡
古墳前期~中期
 257
滑石製品
(有孔円板•臼玉•剣形)
滑石製管玉
大阪府小島東遺跡
古項中期~後期
金属製品(鏃)
大阪府小島東遺跡
古項中期~後期
骨角製品(刀剣装具・
刀子柄柄頭・斧形か)
大阪府小島東遺跡
古墳中期~後期
鉄滓、羽口
小島東遺跡
古項中期~後期
 
 260
 261
朝鮮半島の海の祭祀
朝鮮半島の西海岸、 黄海(ホワンハイ)に突き出た邉山(ピョンシャン)半島の先端に位置するのが竹幕洞(チュンマクドン)祭祀遺跡(韓国: 扶安(プアン)郡) である。 遺跡は岩盤上の狭い平坦地に位置する。 周囲は 「海門(かいもん)」 とされ 海上交通の難所でもあった。

 竹幕洞祭祀遺跡では、 陶質土器をはじめ、鉄鉾(てつほこ)、 馬具, 銅鏡, 鉄鏡が出土する。
注目できるのは、 剣形・勾玉形・有孔円板の滑石製模造品である。 これら日本列島各地の海の祭祀遺跡から出土するものと全く同じものである。 竹幕洞祭祀遺跡では倭の人々も祭祀に参加し、 航海の安全を祈願したと考えられる。

朝鮮半島の海の祭祀 朝鮮半島の海の祭祀 竹幕洞祭祀遺跡とその出土物 竹幕洞祭祀遺跡出土遺物
堂窟(龍堂) 水聖堂近傍の献灯所 竹幕洞祭祀遺跡
空中写真
 263竹幕洞祭祀遺物
・朝鮮半島の西海岸にある竹幕洞(チュンマクトン)では、日本列島の海の祭祀が行われた。
滑石製模造品
(鏡形,短甲形,刀子形,勾玉形)[複製品]
古墳中期
竹幕洞祭祀遺跡

国立歴史民俗博物館
(原品: 韓国国立全州博物館)

鏡形
刀子形,勾玉形 短甲形 裏面

短甲形と鏡形
短甲形 表面
 265
雨流(うりゅう)遺跡の祭祀と子持ち勾玉
淡路島南部の三原(みはら)平野に位置する雨流遺跡は、かつて存在したラグーン (潟湖)の周辺に立地する。 溝からは東日本系土器とと もに祭祀遺物が発見された。
祭祀遺物は滑石製模造品のほか、子持ち勾玉が発見されている。 この子持ち勾玉は、大型の勾玉の周囲に小さな勾玉を付けた形 状をしている。 海の近くから出土すること が多く、海との関わりが強い遺物である。

 雨流遺跡出土物 淡路島 雨流遺跡 古墳中期
雨流遺跡の祭祀と子持ち勾玉 雨流遺跡の祭祀と子持ち勾玉
遺物出土状況

滑石製 子持勾玉
滑石製勾玉,管玉
紡錘車
滑石製模造品
(有孔円板•剣形)
滑石製模造品
(有孔円板•剣形)
 
 

 270Chapter2-2海を行き来する人々
   東日本から近畿へ
 航路を推定する方法として、人の動きからその道のりを推定することができる。人が持ち運んだ土器の動きから、考古学では人の動きを考える。 東日本の人々は どのようにやってきたのか、 土器の動きを追うと、近畿地方では沿岸部と内陸部の両方に分布がある。 そこでは、数多くの土器が発見される遺跡もあり、集団での移動も考えられる。 ウマを利用した陸路とともに、 船を用いた海路により東日本から人々がやってきた。

海を行き来する人々 Chapter2-02
海を行き来する人々
東日本から近畿へ

 271
手がかりとなる東日本系土器
 古墳時代中期・後期の関東地方や東海地方以東の東日本の土器は比較的容易に区別できる。 特に須恵器の坏や蓋の形を模倣した「須恵器模倣坏」と呼ばれる土師器の坏は、特徴的である。

 東日本系土器は、大阪湾や紀伊半島、 淡路島の沿岸にも分布がある。
 淡路島の雨流(うりゅう)遺跡(南あわじ市) や、 紀伊半島の道瀬(どうぜ)遺跡 (紀北町)では、多くの土器が発見されており、東日本から集団が訪れ ていたとみられる。 さらに、 河内湖(かわちこ)周辺でも土器が認められることから伊勢湾から紀伊半島をまわり、大阪湾へと至る海路を復 元することも可能である。

手がかりとなる東日本系土器
房総半島から三浦半島を望む


・東日本の土器は、須恵器の坏や蓋をまねた「模倣坏」と呼ばれる土師器が特徴的である。


※模倣坏 AI による概要
 模倣坏は、古墳時代後期(6世紀前半頃)に、朝鮮半島から伝わった高品質な土器である須恵器の形状を、赤褐色の土師器で真似て作った食器です。須恵器が貴重だったため、関東地方を中心に一般集落で広く流行しました。

主な特徴と詳細
・特徴: 須恵器の坏(皿)や蓋を忠実に再現しているが、素材は土師器。内外面にヘラミガキ(磨き)が施され、黒色処理されたものが多い。
・流行の背景: 6世紀、カマドの普及に伴い日常的な食器(坏)の需要が急増したため、実用的な器として大量生産された。
・特殊な例: 須恵器を模倣しつつも、底部が平らな「平底模倣坏」が特に北関東地域で多く見られる。
・役割: 古墳時代後期の関東地方における土器編年(時間軸)の指標となる重要な遺物。

6世紀後半には、須恵器そのものの流通が安定したため、徐々に模倣坏の生産は減少していきました。

土師器
(短頸壺,須恵器模倣坏)
大寺山洞穴(おおてらやまどうけつ)遺跡
古墳中期~後期
千葉大学文学部考古学研究室
土師器
(短頸壺,須恵器模倣坏)

 272近畿地方南部の東日本系土器の分布
近畿地方南部の東日本系土器の分布 近畿地方南部の東日本系土器の分布
伊勢湾
十宮古里遺跡(鈴鹿市)
高ノ御前遺跡(三重県)
熊野灘(三重県)
道瀬遺跡
紀淡海峡
 鳴神遺跡(和歌山県)
鳴門海峡(淡路島)
 木戸原遺跡
 雨流遺跡
大阪湾
 小阪遺跡
 山之内遺跡
 小阪合遺跡
 長原遺跡
 讃良郡条理遺跡
 蔀屋北遺跡
 西神ニュータウン第42遺跡
畿内陸路(北路)
 長谷遺跡
畿内陸路(南路)
 布留遺跡
 谷遺跡
 粟原カタソバ遺跡
 南郷遺跡


・東日本系土器は、大阪湾や紀伊半島、 淡路島の沿岸に分布し、航路の手がかりとなる。

土師器(琬・高坏・壷)
蔀屋北(しとみやきた)遺跡
古墳中期~後期
大阪府教育委員会
琬・高坏・壷

土師器 (須恵器模倣坏)
長原遺跡
大阪府教育委員会
 

 281沖ノ島祭祀出土品 原品は全て国宝 所蔵 国立歴史民俗博物館 (原品:宗像大社神宝館)

国家的な海の祭祀
 福岡県沖ノ島は、 九州島の西北約60kmに位置する玄界灘の孤島である。
島の南の尾根上に沖津宮(おきつみや)があり、周囲一帯が沖ノ島祭祀遺跡 (宗像(むなかた)市:沖ノ島) とされる。
沖ノ島における祭祀は4世紀から 8世紀にかけて継続して行われた。

 沖ノ島祭祀遺跡では銅鏡や金銅製品の多量出土など、他の祭祀遺跡や九州島の古墳副葬品とは隔絶しており、畿内中枢勢力との関係がうかがわれる。 しかし、 滑石製模造品や土器、 鉄鋼など海の祭祀の要素も含まれており、その目的は、航海の安全や交流の成功を祈ったと考えられる。

国家的な海の祭祀 国家的な海の祭祀
 2826沖ノ島祭祀遺物
・沖ノ島では倭王権による国家的な祭祀が行われた。 航海の安全や交流の成功を祈った。
・沖ノ島(福岡県) は、世界遺産「神宿る島」 宗像・沖ノ島と関連遺産群です。

馬具・杏葉 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡7号遺跡
古墳中期~後期

歩揺(ほよう)付飾金具 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡 7号遺跡
古墳前期~中期

金銅製带金具[複製品]
沖/島祭祀遺跡 7号遺跡
古墳中期~後期
珠文鏡[複製品]
沖/島祭祀遺跡 7号遺跡
古墳前期~中期

金製指輪 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡7号遺跡
古墳中期~後期
 283沖ノ島17号遺跡遺物
沖ノ島17号遺跡 沖ノ島祭祀遺跡17号遺跡
16号遺跡出土玉類 沖ノ島
 284
滑石製臼玉 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡7号遺跡
古墳中期~後期
滑石製模造品
(剣形・有孔円板)[複製品]
沖ノ島祭祀遺跡21号遺跡
古墳後期
滑石製子持勾玉[複製品]
沖ノ島祭祀遺跡 7号遺跡
古墳前期~中期
滑石製方形臼玉 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡 5号遺跡
飛鳥・奈良時代
滑石製平玉 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡 1号遺跡
飛鳥・奈良時代
 285
鉄刀・鉄剣 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡7号遺跡
古墳前期~中期
上:鉄板 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡16号遺跡
古墳前期~中期

下:(たて)中央鉄板 [複製品]
沖ノ島祭祀遺跡7号遺跡
古墳中期~後期
鉄斧[複製品]
沖ノ島祭祀遺跡5号遺跡
飛鳥・奈良時代
 287
・沖ノ島では倭王権による国家的な感祀が行われた。航海の安全や交流の成功を祈った。
・沖ノ島(福岡県)は世界遺産 神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群です。

滑石製模造品
 (馬形・船形)[複製品]
 沖ノ島祭祀遺跡1号遺跡
 飛鳥・奈良時代
 288
沖ノ島平面図 7号遺跡出土馬具
沖ノ島
 
 291
紀伊半島 笠嶋(かさしま)遺跡の船 古墳前期

 紀伊半島の南端に位置する笠嶋遺跡(串本町)では、古墳時代前期とみられる津波堆積物から船底材、 舷側板、 櫂などが出土した。

 船底材はクスノキ製で、 船尾は失われているが、残存する長さ約 4.2mに対し、幅は0.4mと細長い形状を示す。
特筆すべきは、船底が平坦な断面形状をもつことである。 船首の先端部には V字状の刳り込みがあり、両側面には面取り状の加工が施されている。
平坦な船底は類例が少なく、岩礁帯に対応した形状である可能性が指摘されている。

紀伊半島笠嶋遺跡の船
笠嶋遺跡の船出土状況


・紀伊半島の南端に位置する笠嶋遺跡 (串本町) では、津波が運んだ砂から船が発見された。

脚付盤 クサビ,モリ
笠嵨遺跡
古墳前期
串本町教育委員会
網端(あば)(浮子(うき))
笠嵨遺跡
古墳前期
串本町教育委員会
櫂,木錘(浮き)
笠嵨遺跡
古墳前期
串本町教育委員会

 292
巣山古墳の葬送船 (竪板)
竪板は長さ約2.1m、 幅約 0.8m で側面に突 起があり、 下端は船首に接合するために2つ の突起がある。 正面には上下二段に区画され た内部には、それぞれ同心円文を中心とし、 周囲に直弧文が描かれている。表面には木くさびが残る。
葬送船は、 全長 8m 以上であったと推定さ れている。

巣山古墳の葬送船
(竪板)
 293
海路か陸路か
 近畿地方の東日本系土器の分布は、 大和盆地では長谷(ながたに)遺跡 (奈良市) の例が関東平野北西部とされている。

内陸部への移動は東山道(とうざんどう)の成立に伴う陸路であり、下伊那地域や上毛野(かみつけの)地域での本格的なウマの飼育と関連付けられてきた。

 大阪湾や紀伊半島、 淡路島の沿岸では、海路と関係する。 また、 須恵器坏身を模倣した土師器坏が多く、これらは関東平野東部に分布する。 このため、沿岸の人々は海路により、 内陸の人々は陸路によりそれぞれ、 東日本から近畿地方へと移動したとみることもできるかもしれない。

西神ニュータウン№42地点遺跡出土状況
海路か陸路か


関東地方の須恵器模倣坏の地域性
※考察 関東の須恵器模倣坏
関東地方の地形図に当てはめると、旧利根川、霞ヶ浦、富士川と、関東平野各地の湿地と丘陵によって隔絶された地域で、独自に発展した坏です。
しかも、最初に持ち込んだ誰かが、蓋と身を間違えて使い、それをそのまま模倣して須恵器で生産に移している。
よくわからない物を模倣するということは、往々にしてこんなものでしょう。

※以前、秘密のケンミンショーで、歴史の浅い関東人が、千年の関西の文化風習を見下す番組を作っていた。妊娠出産と犬は腹が立ったし、
以前も書いたが、ぜんざいとしるこ。それをぜんざいと田舎ぜんざいなんて、文化が伝わってない証拠でした。
 こんなことが古代からずっと続いているんですね。どれだけ文化が伝わらない土地柄なんでしょうか。

 294
・淡路島や熊野では、東日本の土器が多く発見される。海路で近畿地方にやって来たのか?
※逆に言うと、関東の船は、まず、熊野や淡路に寄港してから難波の津に入ったのでしょう。

土師器(須恵器模倣坏)
土師器(須恵器模倣坏)
雨流遺跡
古墳中期
兵庫県立考古博物館
土師器(須恵器模倣坏) 土師器 (須恵器模倣坏)
木戸原(きどはら)遺跡
古墳中期
南あわじ市教育委員会
土師器(須恵器模倣坏)
土師器(須恵器模倣坏) 西神ニュータウンNo.42 地点遺跡土器出土状況
土師器(須恵器模倣坏)
西神ニュータウン遺跡No.42
地点
古墳後期
神戸市埋蔵文化財センター
※西神ニュータウン№42地点は、六甲山系の
山の上である。関東の模倣土器がこんな場所にまで運ばれていたのは、そうとう大量に流通していたのでしょう。
 須恵器よりた安く入手できたのでしょうか。
 
 295三重県道瀬遺跡
三重県道瀬遺跡遠景
道瀬遺跡土器出土状況
東日本の土器が出土した和歌山県鳴神Ⅳ遺跡の祭祀土坑
 296三重県道瀬遺跡
滑石製有孔円盤
三重県 道瀬遺跡
古墳中期~後期
土師器(須恵器模倣坏)
道瀬遺跡
古墳中~後期
土師器(埦,高坏,甕)
道瀬遺跡
古墳中~後期
 297和歌山県鳴神4遺跡
土師器(須恵器模倣坏,埦,深埦)
和歌山県 鳴神Ⅳ遺跡
古墳中期
 
      
 


 300Chapter3 海を超えつながる
  「交流」のその先には何が見えるのか?

 発掘される考古資料の 中には、遠く離れた地域で同じモノが発見されることがある。 他人の空似 もあるかもしれないが、 作り方や素材、 使い方なども同じ場合には、その考古資料の背後に人が介在する。

 考古学ではそれ を「交流」と捉え、 地域間の関係や人の移動を考察する。
 海を越えてつながる「交流」 とは何か。 交流という曖昧な言葉の先にある、人々のつながりの具体を考古資料から考える。

Chapter3海を越えつながる

 310Chapter 3-01 大漁狙いと大物狙い
   
 311海を介して伝わる漁労具
 漁に出る以上、多くの魚を、そして大きな魚を狙うのは、誰もが望むことだろう。
大漁狙いと大物狙いの代表ともいえる釣針や銛頭、漁網、タコ壺、これらの漁具は各地にどのように広がり、共有されたのか。
そこには、海流、海域、漁場、交易など、様々な要因が介在するのではないか。
海を越え伝わった漁労に関する 技術や道具から、 交流の実態を探る。



擬餌針の源流
 擬餌針は、動きや光に反応し、 餌となる小魚と間違えて食らいつく魚の習性を利用したものである。
 近現代の擬餌針は、カツオのほか、 スズ キやサワラ、ブリ(イナダ)、カンパチ、サバ を対象としている。
材質にはウシやシカの角、 クジラの骨が使われ、 シカの角は特に 海中で光り、魚から目立つといわれている。
釣針の形状には大きさ、厚さ、針の形など 様々な違いがある。 今も太平洋沿岸に広く伝わる擬餌針の原型が古墳時代に遡り、各地に広っていた


 312
・この釣針は、動きや光に反応し、餌となる小 魚と間違えて食らいつく疑似針だ。
・今も太平洋沿岸に広く伝わる擬餌針の原型が古墳時代に遡り、各地に広がっていた。

カツオ一本釣り釣針
時期: 近現代
民俗資料
熊野市歴史民俗資料館
カツオ一本釣り釣針
民俗資料
時期:大正中期
鳥羽市立海の博物館
カツオ一本釣り釣針
民俗資料
時期:近現代
  カツオ一本釣り釣針
民俗資料
時期:昭和
熊野市歴史民俗資料館
 
イナダ・サワラ引縄釣り釣針
民俗資料
時期:昭和 
     
カツオケンケン釣り
釣針
民俗資料
時期 現代
銛頭
民俗資料
時期:昭和~現代
所蔵:個人
銛頭
民俗資料
時期:昭和
熊野市歷史民俗資料館

 313骨角製釣針の分布
骨角製釣針の分布
1 西庄遺跡
2 磯間岩陰遺跡
3 日向浦遺跡
4 白浜遺跡
5 蛎塚貝塚
6 神明社貝塚
7 新井浜遺跡
8 伊庭遺跡梶子遺跡
9 日野遺跡
10由比ヶ浜中世集団墓地遺跡
11葉山御用邸内遺跡
12浜諸磯遺跡
13海外第1号洞穴遺跡
14 大浦山洞穴遺跡
15鴨居八幡神社境内貝塚
16 鳥ヶ崎洞穴H号
17田戸台横穴
18なだぎり遺跡
19 沢辺遺跡
20 表浜貝塚

※これまで、畿内と関東東海との物資の交流が盛んであることを見てきたが、これが技術や文化のみの移転ではなく、人の移住を含んでいた。
黒潮打ち寄せる紀伊半島から、大型魚の鰹を追って東へ移住を繰り返し、房総半島沖にまで、小さな刳り舟で鰹の魚影を求めていった。
そして、最後には三大漁場の一つ金華山沖まで、移住と出漁を繰り返し、毎日大漁に恵まれたのだろう。



・カツオの釣針は、黒潮の流れに沿って回遊するカツオ漁の範囲と一致する。

単式釣針
軸部+針部=鹿角
複合式釣針
軸部 針部
鹿角+鹿角
鹿角+鉄
 骨+鉄

原品は国指定重要文化財
釣針(鉄製) [複製品]
磯間(いそま)岩陰遺跡
時期:古墳中期
所蔵: 田辺市教育委員会 原品は国 (文化庁) 所蔵
釣針(鉄製)
西庄(にしのしょう)遺跡
時期: 古墳中期~後期
和歌山県教育委員会

 315土錘と刺網

一網打尽の発想
 土錘は、 網漁に用いられた錘である。 網は遺存していないが、 その形状や重量からは、小型の管状(つつじょう)土錘や有孔棒状(ゆうこうぼうじょう)土錘は刺網(さしあみ)(りょう)に用いられたみられる。

 刺網漁は魚群の通り道を遮る(さえぎる)ように網を設置することで、魚を網の目に刺して捕獲する。
 有孔棒状土錘は、弥生時代に大阪湾沿岸で出現し、 瀬戸内海沿岸を中心に分布する
 紀伊半島では、 紀淡海峡(きたんかいきょう)周辺に集中する。 現在も紀淡海峡周辺では刺網漁が盛んにおこなわれている。
 古墳時代にも大阪湾へ回遊する魚群の通り道として、良好な漁場(ぎょば)が 形成されていたのではないか。

刺網漁 刺網 土錘 一網打尽の発想


・土錘は、 網漁のおもり。 網は遺存していないが、その形や重さから刺網漁に用いられた。
・有孔棒状土錘は、西庄遺跡のある紀淡海峡周辺に集中する。 刺網漁が盛んな地。

土錘  有孔棒状土錘
時期:古墳中期~後期
西庄(にしのしょういせき)遺跡
和歌山県教育委員会
 
有孔棒状土錘
時期:古墳中期~後期
西庄(にしのしょういせき)遺跡
和歌山県教育委員会
有孔棒状土錘
時期:古墳中期~後期
西庄(にしのしょういせき)遺跡
和歌山県教育委員会
 
有孔棒状土錘
時期:古墳中期~後期
西庄(にしのしょういせき)遺跡
和歌山県教育委員会 
 
土錘(工字形·管状·有孔棒状)
和歌山県加太地区出土
時期:古期後期
土錘(工字形·管状·有孔棒状)
和歌山県加太地区出土
時期:古期後期


エピ刺網
民俗資料
土錘(工字形·管状·有孔棒状)
小島東遺跡
時期:古中期~後期
所藏:大阪府教育委員会
 316
・刺網漁は魚群の通り道を遮るように網を設置し、魚を捕まえる。 まさに一網打尽。

土錘(工字形・管状) 、土製紡錘車
阿須賀(あすか)神社遺跡
弥生後期~古墳前期
新宮市教育委員会
有孔棒状土錘網復元品
市脇遺跡
時期:古墳前期
所蔵:橋本市
土錘(工字形・管状・有孔棒状)
地ノ島(じのしま)遺跡
時期: 古墳前期~後期
所蔵:有田市教育委員会
 318タコ壷漁

タコはお嫌い?
 海中で岩場に(ひそ)むタコの性格を利用し、捕獲するのがタコ壺である。
播磨灘や大阪湾の沿岸では、イイダコを対象とした釣鐘形のイイダコ壺が発見される。
 一方、和歌山県内での、 イイダコ壺の出土は極めて少ない。 数十万点という土器片が出土した西庄遺跡でも、たった2点しか出土していない。 紀伊水道では、 イイダコ漁が不漁であったのか、 それともイイダコが口に合わなかったのだろうか。

・タコはお嫌い? 和歌山県内での、 イイダコ壺の出土は極めて少ない。

タコはお嫌い?
イイダコ壺
西庄遺跡
古墳中期~後期
和歌山県教育委員会
イイダコ壺
貴船(きぶね)神社遺跡
古墳中期~後期
兵庫県立考古博物館
 
 

 320Chapter 3-02堅魚の起源
    カツオの煮炊き具?
水揚げした魚をどのように消費したのか。 中でもカツオはタンパク源として重宝され、古代には貢納品(こうのうひん)として、
干し固めた「堅魚(かたうお)」、煮て干し固めた 「煮堅魚(にかたうお)」、煮汁を煮詰め濃縮した 「堅魚煎汁(かつおのいろり)」 の生産が各地で行われた。
古墳時代には、自ら消費するだけでなく、 貢納や交易のためカツオの加工が行われた。
そのルーツは古墳時代にあるのではないか、 可能性を探る。

Chapter3-2
カツオ漁の起源
カツオの煮炊き具?
 321
鰹の煮炊き具
 カツオの加工に用いられたとみられる煮炊き具がある。
弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて直径50~60cm に復元できる粗製深鉢が紀伊半島から出土する。
外面にはススが厚く付着する。 煮炊きに用いられたのは明らかである。

 この粗製深鉢は、古墳時代前期以前は紀伊半島の南部に集中し、
西は地ノ島(じのしま)遺跡 (有田市)、東は三重県の東里(ひがしさと)遺跡 (御浜(みはま))にかけての沿岸部に分布する。

 カツオの煮炊き具と断定することは難しいが、他に例を見ない大型深鉢が、紀伊半島沿岸から出土することは何らかの大きな海産物を煮込んだのだろうか?

鰹の煮炊き具 潮岬オゴク谷出土粗製深鉢


鰹と倭王権
 古墳時代中期には、
紀伊半島北部西庄(にしのしょう)跡や内陸の秋月(あきづき)遺跡(和歌山市)、四国北東部の日出(ひうで)遺跡(鳴門市)からも粗製深鉢が出土する
 一方、
紀伊半島南部では粗製深鉢は認められなくなる。 粗製深鉢をカツオの煮炊き具と考えると、その分布の変化と、西庄遺跡でのカツオ遺存体の増加は連動している。

 倭王権と関係する海浜集落遺跡で多量のカツオの骨と煮炊き具が出土するのは、 カツオ漁を行い、 カツオの加工を行い、 貢納品(こうのうひん)としていた。 まさに、 「堅魚(かたうお)」 の貢納とも関係するのではないだろうか。

鰹と倭王権

あちこちにある鰹島
鰹が集まる漁場?
鰹漁や加工の基地?
四国鳴門
1 日出遺跡
紀伊西部
2 西庄遺跡
3 秋月遺跡
4 地ノ島遺跡
5 大塚遺跡
6 徳蔵地区遺跡
7 磯間岩陰遺跡
8 大目津泊Ⅰ遺跡
紀伊南部
9 笠嶋遺跡
10 潮岬台地オゴク谷
紀伊東部
11 八反田遺跡
12 新宮下本町遺跡
13 阿須賀神社遺跡
14 東里遺跡
串本大島と鰹島

 322
鰹の骨が語る

カツオ((かつお))は古代における太平洋沿岸の国々では、 「堅魚(かたうお)」 「煮堅魚(にがたうお)」「堅魚煎汁」が作られ、 貢納品(こうのうひん)としておさめられてきた。

 西庄(にしのしょう)遺跡では、多数のカツオの骨が出土している。
古墳時代中期にはカツオの出土量が急増することが明らかになりつつある。
カツオ遺存体の出土は、 カツオ漁またはカツオの加工を行っていたことを示している。

 西庄遺跡は、倭王権との関わりをもつ生産遺跡と評価されている。
貢納品として重要視されたカツオが多数出土することは、 遺跡の性格を考える上でも注目できる。

 ※西庄遺跡から倭王権の中枢までは、神武東征で船で通った大和川を遡るのが近いようだ。

鰹の骨が語る 鰹の骨が語る 鰹の骨が語る


・貢納品のカツオが多数出土する西庄遺跡は、倭王権と関係する生産遺跡だ。
・西庄遺跡では多数のカツオの骨が出土し、カツオ漁またはカツオの加工を行っていた。

カツオ現生標本
時期:現代
所蔵: 東海大学人文学部丸山研究室
カツオ
西庄遺跡
古墳中期~後期
和歌山県教育委員会

 324
・紀伊半島には、カツオの加工に用いられた煮炊き具があり、直径50~60cmに復元できる。
・古墳時代中期には、西庄遺跡でカツオ遺存体と煮炊き具が増加する。 倭王権と関係?

※大量貢納要求に答えるためには、大量の鰹の漁獲と、粗製大深鉢と、大量の燃料と多くの人手が必要。
 これらを他の集落から入手しようとすると、対価が発生し、租税以上の持ち出しとなり、成り立たなくなる。
 その点をどうしたのか。税ではなく、商品として生産すれば、問題は解決したのだが?

粗製深鉢
笠嶋(かさしま)遺跡
時期: 古墳前期 所蔵: 串本町教育委員会
粗製深鉢
西庄遺跡
古墳中期~後期
和歌山県教育委員会

 327カツオ煮沸土器
・海の近くで見つかり、外面にはススが厚く付着 する煮炊き具はカツオ用か?
・太平洋沿岸ではカツオを加工し、「堅魚」「煮鰹魚」 「鰹魚煎汁」として都に収めていた。

カツオ煮沸土器
古墳前期の粗製深鉢
粗製深鉢
東里遺跡
古墳前期
御浜町教育委員会
粗製深鉢
阿須賀神社遺跡
古墳前期
新宮市教育委員会

粗製深鉢
新宮下本町遺跡
古墳前期
新宮市教育委員会
粗製深鉢
八反田(はったんだ)遺跡
古墳前期
和歌山県教育委員会

粗製深鉢
古墳前期
大塚遺跡
みなべ町教育委員会
粗製深鉢
古墳前期
笠嶋遺跡
串本町教育委員会
 

 330Chapter 3-03ツルツルの棒とギザギザのロ

 紀伊水道をめぐる地域性
 漁具以外にも、交流を示す考古資料が存在する。
何に使ったか わからない ツルツルの石の棒と 口の部分をギザギザに刻んだ 煮炊きの甕である。
習俗や生活 といった日常からみえてくるの は、海を介して隣り合う地域、 向かい合う地域のつながり。
 車も電車も橋もないが、 船にのれば海を越えてすぐに行くことができた。 現在とは交流の形も違ったのだろうか。

Chapter3-3
ツルツルの棒とギザギザのくち
紀伊水道を巡る地域性
 
 


ツルツルの石の棒
 長さ10~25cm の石の棒が紀伊水道沿岸の集落遺跡祭祀遺跡古墳から出土する。
両端を加工し、丁寧に研磨された精製品も存在する。 この石の棒を 「棒状石製品(ぼうじょうせきせいひん)」と呼んでいるが、その用途はよくわかっていない。

 棒状石製品は結晶片岩製であり、この石材は四国を除くと、 紀伊半島の紀の川南岸から有田川北岸まで、そして沼島(ぬしま)までの範囲でしか採取されない。 このため、紀伊水道沿岸で出土する棒状石製品は、石材が運ばれたとみられ、海を越えた交流を示す遺物とみられる。

※棒状石製品とは
海人(あま)が使用した細長い石を磨き上げた棒状石製品が出土しています。漁具を操る海人との関連が深く、鉄製釣針やタコ壺などの遺物とともに、古代の製塩と海上交易の重要性を示しています。

・棒状石製品: 細長い石の両端を磨き上げて尖らせた道具。漁具や、祭祀的な要素を持つ海人の道具と考えられている。
・関連遺物: 鉄製釣針、タコ壺、船形土器製品など、漁業や海上活動に関連するものが多数。
・日本遺産: 「『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」」の構成文化財の1つ。
・石材: 和歌山県産の緑泥片岩。和歌山県産の漁具。

ツルツルの石の棒
棒状石製品の分布
明石
1 東野町遺跡
淡路島
2 貴船神社遺跡
3 畑田遺跡
4 鎧崎古墳群
5 しだまる古墳群
6 沖ノ島古墳群
7 沼島
大阪湾沿岸
8 湊遺跡
9 新堂遺跡
10 西庄遺跡
波川帯(三波川結晶片岩類)
結晶片岩


三波川帯(御荷鉾緑色岩類・生石層)
泥質片岩


紀ノ川以南
11 地ノ島遺跡
12 津井浜遺跡
13 広川町公民館保管
田辺湾沿岸
14 梅田遺跡
15 大塚遺跡
16大目津泊 遺跡
17 阪田山遺跡

棒状石製品
沖ノ島古墳群
古墳後期
南あわじ市教育委員会
棒状石製品
鎧崎(よろいざき)古墳群
古墳後期
南あわじ市教育委員会
棒状石製品
畑田遺跡
時期:古墳時代
淡路市教育委員会
※棒状石製品
・結晶片岩は有田川南岸地域が産地です。
・緑泥片岩は徳島県・沼島が産地とされている。
 淡路島に出土地が多いのはこのためか。

 重量があり、縦方向に石目が走って粘りのある
 棒状石器なので、その特性を活かした使用法
 があったのではないだろうか。
 

 333棒状石製品

実用品? 精製品?
 棒状石製品は紀伊半島では、海浜集落から発見される。 棒状石製品を観察すると、端部に面があるものや摩擦によりすり減った箇所があり、 何らかの実用品であると想定されている。

 一方、淡路島では、古墳時代後期の横穴式石室や埋葬施設内部から発見され、副葬品としておさめられていた。
これらは丁寧な研磨がなされ、精製品とみられる。

 紀伊半島と淡路島では時期が異なり、 実用品と精製品という性格も異なる。 当初は実用品だったものが、後に精製品として扱われ両地域の交流の証とされたのだろうか。

棒状石製品 実用品? 精製品? 沼島神宮寺保管
棒状石製品


・ツルツルの棒は紀伊半島と淡路島から発見される。 両地域の交流の証か?
・ツルツルの棒は、両端を加工し、丁寧に磨かれたものもある。 何に使ったのか?

棒状石製品
阪田山遺跡
弥生後期~古墳後期
高山寺(和歌山県立博物館保管)

棒状石製品
阪田山遺跡
古墳中期~後期
白浜町教育委員会
棒状石製品
大目津泊(おおめづとま)り遺跡
弥生後期~古墳後期
みなべ町教育委員会
棒状石製品
津井浜遺跡
古墳中期~後期
有田市教育委員会

棒状石製品
地ノ島遺跡
古墳中期
有田市教育委員会
棒状石製品
貴船神社遺跡
時期:古墳中期~後期
兵庫県立考古博物館
 334
・ツルツルの棒の石は和歌山周辺でしか取れない(緑色片岩製)。 メイドイン和歌山 ?

棒状石製品
西庄遺跡
時期:古項中期~後期
和歌山県教育委員会
 ※もし棒状石製品が祭祀具なら、こんなに大量に出土するのはおかしいだろう。
  実用品だったが使わなくなり、そのうちどこかから見つかったものの、その頃には使用法も名前も廃れ、誰も知らなくなった不思議品として
  神社に持ち込まれたのではないか。

  丁度、鳥取県米子市の石馬が「石馬大明神」などとボケをかましたご神体になったように。
  だが、この石馬、ご神体になっていなかったら、転売されるか、おかしな民間信仰で、触って触って、今頃ツルツルのチビた石くれになっていた。
  石馬大明神ありがとう。
  

 350ギザギザの口
 351
土器の口を刻む
 弥生時代後期から古墳時代前期にかけて煮炊きに用いた 「甕」 の形は、近畿地方全般で共通する。
 しかし、 紀伊半島と淡路島を中心に分布するⅤ様式形甕は、口縁部の端に面をもち、 「ギザギザ」のキザミ目をもつ。
縦筋を刻んだタタキ板で口縁部の端を軽く叩くため、こうした文様が端部に刻まれる。

 このキザミ目をもつⅤ様式形甕の分布は、 北は明石海峡を挟んだ本州側、 淡路島、 紀伊半島西部から南東部までの沿岸を中心に分布する。
煮炊き具という日用品の作り方も共有され、日常的な人の交流があった。


※Ⅴ様式形甕
AI による概要


 「Ⅴ様式形甕(ご様式けいがめ)」は、弥生時代後期後半~終末期(庄内式期前後)の畿内第Ⅴ様式土器の伝統を引く、口縁部が直立~内湾する有段口縁の甕のこと。タタキ技法が普及し、日常的な煮炊きや保存容器として広域に展開した。

Ⅴ様式形甕の主な特徴
・時期: 弥生時代後期後半から古墳出現期(第Ⅴ様式~庄内式期)。
・特徴: 畿内第V様式の流れを汲み、口縁部が直立または内側に湾入する。首部が括れ、有段(段が付く)になる特徴を持つ。
・製作技術: 外面にタタキ痕(タタキ技法)が明確に残るものが多く、特に格子タタキなどが普及。
・背景: 畿内地域を中心に、その周辺地域へも波及した規格性の高い甕。

地域的な展開
・近畿北部: 畿内第Ⅴ様式的体部に有段口縁を組み合わせた折衷的な甕が見られる。
・関東・鹿児島: 関東沿岸部や鹿児島(成川式土器)にも、この時期の畿内第Ⅴ様式土器の影響を受けたタタキ技法を用いた甕が確認されている。

土器の口を刻む 甕口縁部のキザミ目


・紀伊半島と淡路島の煮炊きの「甕」の口は「ギザギザ」のキザミ目をもつ。

弥生土器(甕,高坏)
 352
弥生土器淡路型器台
貴船神社遺跡
弥生後期
淡路市

弥生土器(甕)
舟木遺跡
弥生後期~古墳前期
淡路市教委
弥生土器(甕)
舟木遺跡
弥生土器(甕)
舟木遺跡
淡路型器台
貴船神社遺跡

 353煮炊き具(甕)の地域性

口縁部を刻む甕の分布範囲
明石海峡北部~淡路島~大阪湾沿岸~紀ノ川流域~紀伊半島西部~南部
下内膳遺跡(洲本市) 東阿波型土器
西田井遺跡(和歌山市)
※この甕の底部の形状からは、
 地面に掘った穴にハメる使用かな?
 必要とあらば引き抜いて、中の物を取り出す。
 水瓶ならば、中を洗える。また使用できる。

 ギザギザ口縁は、そこから中に空気が入る。
 しかし、虫も入るかも。
 

底部に台が付く甕の分布範囲(熊野型甕)
和歌山県太地町~伊勢湾~東海地域

両型式混在地域
和歌山県太地町~三重県熊野市
津ノ森遺跡(熊野市)
新宮下本町遺跡(新宮市) ※この甕の底部なら、地面の穴に入れて、
 それだけでは不安定なので、
 手で周りに土を寄せて押し固め、最後に
 パンパンと、土を叩いて、動かさない方式
 ではないか。 
 354
弥生土器
西田井遺跡
弥生後期
和歌山県
弥生土器(甕)
大目津泊りⅠ遺跡
弥生後期~古墳前期
みなべ町
弥生土器(手焙形土器)
大目津泊りⅠ遺跡
弥生後期~古墳前期
みなべ町

  弥生土器(高坏)
大目津泊りⅠ遺跡
弥生後期~古墳前期
みなべ町 
熊野型甕S字状口縁甕
阿須賀神社遺跡
古墳前期
新宮市

弥生土器熊野型甕
東里遺跡
古墳前期
御浜町
弥生土器熊野型甕
新宮下本町遺跡
古墳前期
新宮市
弥生土器熊野型甕
不明石製品
津ノ森遺跡
古墳前期
熊野市歴史民俗資料館
弥生土器熊野型甕   
 


 360銛の地域性
 361
大物狙いのロマン
 (もり)は獲物に突き刺さった際に、 索縄(さくじょう)とともに()から外れた銛頭(もりがしら)が内部に留まることによって獲物を捕捉する。 大物を狙う際、銛ならば泳がせつつ格闘し、時間をかけて 引き上げることが可能である。

 船に引き上げるまで数時間を要する場合もあり危険を伴う漁法であるが、その反面、大物を狙うことができ、引き上げることができた時の収穫は大きい。 それゆえに漁師の力量と勇敢さが示されたのであろう。漁労具の中でも釣針と並ぶ骨角器として銛は存在感が際立っている。

・銛は縄とともに柄から外れた銛頭が刺さり、獲物を捕捉する。 大物を狙いのロマン。
※これって離頭銛ですよね。

大物狙いのロマン

 銛タイプの境界図
 363
二つの銛頭
 古墳時代の骨角製の銛頭については、 製作技法である角取(つのど)りとソケット部分である柄装着部(えそうちゃくぶ)の形態に着目すると、 二つに分類することができる。

 Aタイプは、幅と長さがある立体的な銛頭であり、柄装着部が開いた形となる。 鹿角(ろっかく)分岐部(ぶんきぶ)を用いる。
 一方、
 Bタイプは、 柄装着部が閉じた形となり、 枝角の先端を用いる。 このため鹿角を刳り貫り抜くのみで加工が容易であり、枝角は比較的
利用しやすく数も多い。
 銛頭の二つの分類は、 田辺湾沿岸付近を境に紀伊半島の東西にそれぞれのタイプが分布する。


・古墳時代の銛頭は、作り方と柄装着部の形態 に着目すると、二つに分かれる。
・銛頭は、田辺湾沿岸付近を境に紀伊半島の東西でそれぞれのタイプに分かれる。

二つの銛頭



  組み合わせ式獣骨製
西北九州地域

銛頭
西庄遺跡
古墳中~後期
Aタイプ
紀伊半島北西部

原品は国指定重要文化財
銛頭[複製品]
磯間岩陰遺跡
古墳中期
田辺市教委 原品国保有


A'タイプ
山陰地域
上寺地型・福浦型
銛頭・エイ椎骨装身具
柏谷遺跡
古墳時代
和歌山市所蔵
銛頭・骨鏃
日向浦遺跡
古墳中期
高山寺(和歌山県立博物館保管)


Bタイプ
紀伊半島南・東部
志摩半島・伊勢湾
三浦半島(三浦型)

銛頭
海外(かいと)第1号洞穴遺跡
古墳中期
三浦市
銛頭・骨鏃
日向浦遺跡
古墳中期
高山寺(和歌山県博保)
銛頭
大浦山洞穴遺跡
古墳中期~後期
三浦市
銛頭・骨鏃
白浜遺跡
古墳中~後期
鳥羽市立海の博物館

 ※考察 二つの銛頭
Aタイプ,Bタイプの銛頭について調べようとしましたが、全くわかりませんでした。種類や分類が非常に多いのです。
検索項目
古代銛のタイプ
古代銛の種類
古墳時代の銛頭
弥生時代の銛頭
閉窩式銛頭
開窩式銛頭
この5つの検索ワードから更に分岐したHPに進んでみましたが、さっぱりわかりませんでした。
 ただ、縄文時代初頭に北海道から閉窩式銛頭が南下し、宮古まで伝播したというのです。
 (この宮古とは、三陸の宮古ではなく、南西諸島の宮古と思います。)
だから、Aタイプの銛頭は閉窩式に思えるのです。

 その後、開窩式銛頭が北方から登場し、縄文時代に北海道・青森の分布。
しかし、そのピンと脚が跳ね上がった形は、Bタイプ銛頭そっくりなのでこれではないかと想像します。

 が、銛頭には、一本銛、離頭銛を始めとする沢山の種類と分類があるので、結局答えは見つかりませんでした。
 
 ※「オホーツク文化の銛頭の分類についての覚書高橋 健
 

 370Chapter3-4塩の一大生産地
  塩づくりイノベーション

かつて、 和歌山は塩の一大生産地だった。 倭王権の中枢から 近い大阪湾と紀伊水道の沿岸は、 塩や海産物の生産地として重視 されたからだ。 塩の大量生産を行うために考え出されたのが、 塩づくりの効率化である。 熱効率の向上や燃料の有効活用が重要視され、 丸底式製塩土器と石敷製塩炉が生み出された。 塩づくりの技術革新は紀淡海峡周辺で起こったのか。

Chapter3-4
塩の一大生産地

 371
古墳時代の塩づくりの中心

 弥生時代中期に備讃瀬戸(びさんせと)ではじまった土器製塩は、
 弥生時代後期以降、 大阪湾・紀伊水道沿岸へと広がり、
 古墳時代中期には主体となる。

 製塩土器は、逆三角錐から円筒状の体部に脚台のついた「脚台式」の 製塩土器から、
 小型球形の体部でかつ脚台が無くなった丸底の「丸底式」製塩土器へと変化する。

 この脚台式から丸底式への変化は古墳時代中期であり、土器製塩が最も活発化する時期に相当する。
古墳時代の塩づくり の中心は紀伊半島を含めた近畿地方南部にあった

古墳時代の塩づくりの中心

発展する土器製塩

 丸底式製塩土器次第に小型化し、コップ形・深婉(ふかわん)形へと形状が分かれる。これらは外面にススが付着せず、容量も小さいことから、 焼塩に用いた土器とみられる。
 これとは別に甕形(かめがた)の製塩土器が認められ、生産遺跡で目立つ。外面にススが付着することから、煎熬(せんごう)(粗塩作り)のための土器とみられる。
 また、「石敷製塩炉」 と呼ばれる石を敷いた炉の上で製塩が行われ、 熱効率化や燃料有効化が図られた。 この段階には、製塩土器が発展し、
煎熬焼塩の機能分化がより進む。 分布も大阪湾 紀伊水道沿岸へと広がり、塩づくりの中心地として確立した。

煎熬:主に海水から塩を作るために、濃い塩水を釜で煮詰めて結晶化させる作業を指す言葉
焼塩原塩を高温で煎る・焼くことで水分と苦味成分(にがり)を取り除き、粒子が細かくサラサラで、まろやかな旨味が特徴の塩

甕形製塩土器は濃縮海水から粗塩を作る煎熬に使用。
 小型深碗形土器は焼塩づくりに使用した。

発展する土器製塩

 372製塩土器
製塩土器 鉄製品(鏃・刀子)
大目津泊Ⅰ遺跡
古墳中期
みなべ町
製塩土器
大目津泊Ⅰ遺跡
弥生後期~古墳前期
みなべ町
・右端奥の深皿型は志摩式製塩土器です。
・熱効率を求めたタンブラー形は、熾火の中に
 深くうずめられたのかも。
・粗塩作り用土器は3点下を向いている
 373製塩の中心地
・古墳時代の塩づくりの中心は、和歌山を含めた 近畿地方南部にあった。
・古墳時代の塩づくりは、塩分の濃い海水を土器に入れて煮詰めた。 土器製塩という。
・製塩土器は、 脚台のついた 「脚台式」から、丸い 「丸底式」へと変化する。
・脚台式から丸底式への変化は、和歌山で土器製塩が最も活発化する時期に相当する。

製塩土器
地ノ島遺跡
古墳前期~中期
有田市教育委員会
製塩土器
貴船神社遺跡
古墳中期
淡路市
製塩土器
古目良(こめら)岩陰遺跡
古墳中期
田辺市

製塩土器
貴船神社遺跡
古墳中期
淡路市教育委員会
製塩土器
大目津泊りⅠ遺跡
弥生後期~古墳前期
みなべ町教育委員会
 374
丸底式製塩土器の発明 古墳時代後期(6世紀後半頃)
 製塩土器は、 脚台が縮小化し、 痕跡的な脚台から丸底へと変化することが淡路島の引野(ひきの)遺跡 (淡路市)で明らかにされている。

 初期の丸底式は口径が 8~10cm と少し大きい形状であり、 紀淡海峡周辺にのみ分布する。 球形化した丸底式への変化に伴い、 不安定な脚台が不要になったとみられ、 球形化による熱効率が重要視された。 これこそが、 丸底式製塩土器の発明である。
※安定化のための脚台が、不安定要因だったという、皮肉な話である。

・球形化することで、熱効率が重要視された。丸底式製塩土器の発明だ。

丸底式製塩土器の発明
脚台式から丸底式への製塩土器の変化
製塩士器
引野遺跡
古墳前期~中期
淡路市

製塩土器
西庄遺跡
古墳中期
和歌山県
 375製塩炉
西庄遺跡の石敷製塩炉
小島東遺跡の石敷製塩炉
貴船神社遺跡遠景と石敷製塩炉
貴船神社遺跡
石敷製塩炉
 376
製塩土器
西庄遺跡
古墳中期
和歌山県

・石を敷いた炉の上で製塩が行われるようになり、 熱効率化や燃料有効化がはかられた。

  製塩土器
小島 東遺跡
古墳中期
大阪府
     

・丸底式製塩土器は小さくなりコップ形・ 深琬形へと分かれる。これらは焼塩に用いられた。

製塩土器
貴船神社遺跡
古墳中期~後期
兵庫県立考古博物館
製塩土器
貴船神社遺跡
古噴中期~後期
兵庫県立考古博物館
鉄製品(鏃・鎌·斧)
貴船神社遺跡
古墳中期~後期
兵庫県立考古博物館
 


 400Chapter4 海に葬る

 401
海を臨む墓から何を見出すのか?

 古墳時代は多くの古墳や墓が築かれた時代であ り、海を意識した古墳や墓も多く築かれる。

そして、古墳や墓の内容も、大王墓やそれに次ぐ古墳、地域の有力古墳、 平野や流域を代表する古墳、海の近くの古墳や墳丘をもたない墓、岩陰墓や洞穴墓まで様々である。

こうした海の古墳や 墓の多様性は、統治領域、 外交や軍事、海上交通や 交易、漁労、製塩などの 海の生業と生産といっ た、様々な海と人との関わりを示している。

 それぞれの海に臨む墓から、どのような関わりやつながりを見出せるだろうか。


 410

 411Chapter4-01海に臨む王
   海の古墳とは何か
 海の近くに築かれ、 海を意識した古墳は、海の古墳と呼ばれる。しかし海の古墳の定義は広く、海との関わりも様々である。
海の古墳はなぜ作られたのか。 海と人との関わり方に着目すれ ば、その理由を少しずつ読み解 くことができる。 海に面して築かれた巨大古墳からはその被葬者の権力を誇示しつつ、また、その力の源泉が海であったことがわかる

海の古墳とは何か 海の古墳とは何か

五色塚古墳 (墳長 194m) は、対岸に淡路島を、眼下に明石海峡を臨む前方後円墳だ。
・有力者がおさめた範囲で海の近くを選んだ古墳がある。 五色塚古墳 (神戸市) は海の古墳の代表例だ。

鰭付円筒埴輪
五色塚古墳
古墳時代前期
4世紀後半

 412
統治のための海の古墳
 広く統治(とうじ)した領域の中から、海の近くを選地(せんち)した海の古墳がある。 その代表例である五色塚古墳 (神戸市) は、対岸に淡路島を、眼下に明石海峡を臨む位置に築かれる墳長194mの前方後円墳である。 本州と淡路島との間が最も狭まった海上交通の要衝に面しており、海を航行する船に対してその姿を 印象付けただろう。

 また、大阪湾の南端、 紀伊水道には、 淡輪(たんのわ)古墳群(岬町) が存在する。 墳長 210m の西陵(せいりょう)古墳、墳長170mの淡輪ニサンザイ古墳(宇度墓(うどばか)古墳 以上、岬町) は、大王墓以外の古墳としては破格の規模である。

五色塚古墳の鰭付円筒埴輪
統治のための海の古墳

 415
西陵古墳遠景
淡輪ミサンザイ古墳 (宇度墓古墳)

・大阪湾の南、 紀伊水道への出入口には、 淡輪古墳群 (岬町) が存在する。 墳長 210m の西陵古墳は大王墓以外では破格の規模だ。

円筒埴輪
西陵(さいりょう)古墳
古墳中期
岬町教委
円筒埴輪 破片
西陵古墳
古墳中期
5世紀前半
 420
 421
紀氏(きし/きうじ)と海の古墳

紀の川北岸の時代(5~6世紀)
 古墳時代中期(5世紀頃)の紀伊半島の首長墓は、紀の川北岸木ノ本(きのもと)古墳群 (和歌山市) である。
古墳群は紀の川河口に形成された潟湖(せきこ)に面し、海を臨む。

 車駕之古址(しゃかのこし)古墳は、周濠(しゅうごう)外堤(がいてい)を含めると120m 以上の規模となる。
紀氏と海の関わりを示すとともに、その領域や海上交通を意識した古墳である。

 ※北岸と南岸の紀氏は別の集団である。

紀の川南岸の時代(6~7世紀)
 さらに、古墳時代後期には、岩橋(いわせ)千塚古墳群では大日山35号墳 (6世紀前半)(和歌山市) が築かれた。
古墳からは紀伊水道を(なが)めることができ、晴れた日には淡路島や四国島を見渡せる。
岩橋山塊(いわせさんかい)に墓域が移った後も、海を意識した古墳が築かれた。

紀氏と海の古墳

・大日山 35号墳 (和歌山市、 墳長 86m) からは晴れた日には淡路島や四国島を見渡せる。
・古墳時代中期の紀伊半島の首長墓は、 紀の川北岸の車智之古址古墳 (全長約120m)だ。

大日山35号墳上空写真 車駕之古址古墳


 翼を広げた鳥形埴輪

国指定重要文化財
翼を広げた鳥形埴輪
大日山35号墳
古墳後期
所蔵: 当館
・紀淡海峡の南北にそれぞれの古墳群が築かれる点は、紀氏と海の関りを示す。

※島根県松江市:八幡鹿島山古墳 鳥形埴輪は、朝顔形埴輪に付けられた、鳥形装飾でした。

※考察 滑空埴輪
 猛禽類がまじかに飛ぶ姿は、鷹狩で見られる。鷹狩は、北方遊牧民の狩猟法であるが、古墳時代にはすでに日本に入っていたという。
 この滑空する鳥形埴輪は、鷹狩をイメージし、鷹匠の腕に止まる瞬間を円筒埴輪の上に再現したものではないだろうか。
 

 423Chapter4-2 浦々の有力者
   紀伊水道周辺の古墳
 紀伊水道とその周辺には浦々(うらうら)に海の古墳が築かれる。
海の古墳は、帆立貝(ほたてがい)形古墳や中型円墳、小型円墳からなる古墳群、そし て墳丘をもたない埋葬施設に葬られた墓など多様である。
また 副葬品も朝鮮半島をはじめとした他地域との関わりも持つものや漁労具を副葬するものまで多様である。
こうした多様性から それぞれの古墳と海との関わり方を読み解いていく。

Chapter 4-2
浦々の有力者

淡路島の古墳
 淡路島には岬の先端や島に築かれた海の古墳が数多く存在する。

 淡路島の南端に位置する阿那賀(あなが)には鎧崎(よろいざき)古墳群しだまる古墳群沖ノ島古墳群 (以上、 南あわじ市)が存在し、その立地と漁労具の副葬から海との関わりを印象付けている。これらの古墳群は海に面し、 可耕地(かこうち)が少ない立地から、海に関わる生業をもった被葬者の姿が想定できる。

 土器の副葬が多いが、提瓶(ていへい)平瓶(ひらか) など液体の運搬用の土器も多く、船による古墳へのアクセスなども考慮する必要がある。

淡路島の古墳
沖ノ島古墳群遠景
鎧崎古墳群 沖ノ島古墳群遠景
 424
・海の古墳から提瓶や平瓶など液体の運搬用の土器が発見される。 船に乗るからか?

須恵器(提瓶,蓋,蓋坏)
沖ノ島8号墳
時期:古墳後期
南あわじ市教育委員会
土製丸玉,水晶製切子玉
沖ノ島8号墳,沖ノ島古墳群
時期: 古墳後期
南あわじ市教育委員会

・淡路島の岬や島に築かれた鎧崎古墳群しだまる古墳群沖ノ島古墳群は、海の古墳だ。

鉄製品(鏃,両頭金具)
沖ノ島8号墳、沖ノ島古墳群
時期: 古墳後期
南あわじ市教育委員会
須恵器 (提瓶,広口壺)
時期古墳後期
沖ノ島8号墳
南あわじ市教育委員会
須恵器
(提瓶,蓋坏,短頸壺)
沖ノ島1号墳
時期: 古墳後期
南あわじ市教育委員会
平瓶の変化
 平瓶は本来水筒であったため、紐を掛ける輪状の突起が上下左右についていた。それが用途の変化に応じて次第に退化し、最後にはコブのような痕跡だけになった。
 ここに掲載した6この平瓶には退化最後の突起が両肩に一つずつついているのみである。
 かなり時代が進んだ頃の土器である。

 425
海と関わる人々の古墳
 紀伊水道やその周辺には、大小様々な古墳が海に面して築かれる。 墳長30m近くの帆立貝形古墳や中型円墳、 直径10mの小型円墳からなる古墳群、そして墳丘をもたない箱式石棺など多様である。 そのため被葬者の社会的地位や性格、海との関わりもそ れぞれ異なる。

 これらの古墳には、副葬品に倭王権や他地域との広い交流を示すものもある。
また、埋葬施設にも、石材や石室構造に他地域からの影響を受けた古墳もある。これらの古墳の被葬者は、海を通じた交流や交易を行っていた。地域における有力者とみられる。

 426
・紀伊水道には、大小様々な古墳が海に面し築かれる。 海と関わる人々の古墳だ。

 鎧崎(よろいざき)古墳群 古墳後期 南あわじ市
耳環
鎧崎(よろいざき)古墳群
時期: 古墳後期
南あわじ市
水晶製切子玉,
碧玉製管玉,
ガラス製小玉,
土製丸玉
鎧崎古墳群
時期: 古墳後期
南あわじ市教育委員会
土製丸玉
鎧崎古墳群
時期: 古墳後期
南あわじ市教育委員会
鉄製品(刀,鏃)
鎧崎古墳群
時期:古墳後期
南あわじ市教育委員会
須恵器
(提瓶平瓶・高坏)
鎧崎古墳群
時期:古填後期
南あわじ市教育委員会

 427
地ノ島遺跡の箱式石棺と埋葬人骨 古墳時代前期 和歌山県有田市

 椒浜(はじかみはま)から西へ 700m の沖合に位置する地ノ島では、箱式石棺4基が発見された。
このうち、未盗掘の第3号石棺、第4号石棺には人骨が遺存(いぞん)していた。

 第3号石棺は2枚の板石を重ね継いで両側壁(そくへき)とするものである。
石棺内には人骨の左肩に鹿角製刀子(ろっかくせいとうす)が置かれていた。
人骨は遺存状態が良好であり、 40代の女性とみられる。

 第4号石棺は、3~4枚の板石を重ね継いで側壁とする。 副葬品は貝輪のみである。

 地ノ島遺跡 (有田市)の石棺墓群は、椒浜古墳群とともに墳丘を伴わない箱式石棺で構成され、 海浜部における埋葬形態を示す。

椒浜(はじかみはま)から西の沖合に位置する地ノ島(じのしま)では、箱式石棺4基が発見され、 人骨が残っていた。

地ノ島遺跡の箱式石棺と埋葬人骨
地ノ島遠景
人骨
地ノ島(じのしま)遺跡第3号石棺
時期:古墳中期
所蔵:有田市教育委員会 (大阪公立大学医学部保管)
3号石棺墓人骨
成年女子
人骨
地ノ島(じのしま)遺跡第3号石棺
時期:古墳中期
所蔵:有田市教育委員会 (大阪公立大学医学部保管)
 

 431
砂丘上の古墳と石棺墓群
 有田市の椒浜(はじかみはま)に位置する(はじかみ)古墳(有田市)は、砂丘上に立地する墳長 24mの帆立貝形古墳である。
発掘調査の記録から、横穴式石室と考えられている。
奥壁側には石枕が置かれ、銅鏡、 甲冑(かっちゅう)鉄鋌(てってい)、鉄刀、鉄鏃、土師器壺・高坏などが配置される。
蒙古鉢形の冑(もうこばちがたのかぶと)は朝鮮半島との関係が想定されている。

 椒古墳の北東の砂丘では椒浜古墳群とされる20基以上もの石棺墓群が発見されている。
土師器や須恵器、管玉などが発見されており、 椒古墳と前後する時期であると推定されている。

(はじかみ)古墳 (有田市) は、 砂丘に築かれた帆立貝形古墳で、朝鮮半島との関係が想定される。
(はじかみ)古墳 (有田市) の北東の砂丘では椒浜古墳群とされる20基以上もの石棺墓群が発見されている。

砂丘上の古墳と石棺墓群
土師器
(小型丸底壺,高坏)
椒 古墳
時期: 古墳中期
所蔵:東京国立博物館
石枕
椒古墳
時期:古墳中期
所蔵: 東京国立博物館
 
 

 432銅鏡の分布と海

銅鏡の分布からみる海の古墳
 紀伊水道とその周辺では、銅鏡の出土は紀北から紀中地域に多く(地図から みなべ町以北。田辺市以南は紀南地域)
紀伊半島の前期・中期古墳の分布のそれぞれ南限付近に位置する

 これらの古墳を倭王権側からの視点でみれば、前期中葉から後葉にこれまで古墳が不在だった地域をネットワークの拠点に組み入れるべく、 交流関係の構築と太平洋岸へのルート開拓が図られたといえる。

 また、銅鏡の出土をみると、沿岸に集中することがわかる。このため、構築された交流関係と開拓されたルートは海上交通であり、海沿いの有力者との関係構築が図られ たとみられる。

※倭王権による、紀北~紀中への銅鏡の配布は、王権の勢力が太平洋岸へのルート開拓、支配領域の拡大をもくろむ工作である。らしい。
 ということは、紀南へはまだ延びていない。ということ。
※紀中までと言っているが、下の地図を見ると、紀南からも出土しており、古墳前期後葉以後に銅鏡が配布された(権勢を伸ばした)ようだ。
※これらが大量の中国鏡であり、中国では用済みになった物が交易によって大量入手できたようだ。
 たかが銅鏡一枚もらって傘下に入るとは、やすいよなぁ~。

銅鏡の分布からみる海の古墳
銅鏡の分布からみる海の古墳
紀伊半島西側における銅鏡の分布
凡例
・三角縁神獣鏡(舶載鏡)
・舶載鏡
・破鏡(舶載鏡)
・鏡式不明
・倭製鏡
・破鏡(倭製鏡)

 433銅鏡
虺龍(きりゅう)文鏡
(はじかみ) 古墳
時期: 古墳中期
所蔵: 東京国立博物館
(き)=まむし

 435
運ばれた組合式石棺材

 天神山古墳 (湯浅町) は、 現在は土取りにより消滅している。 しかしながら、 推定される古墳の規模は直径約30mと、 紀中地域 における最大規模の円墳である。

 天神山古墳の埋葬施設は2基の組合式石棺である。 石棺材は湯浅町内に残されているが、その石材は結晶片岩を用いる。
結晶片岩は三波川変成帯に分布しており、 天神山古墳の組合式石棺の石材は、 有田川以北から運ばれたと考えられる。
当古墳の組合式石棺については、古墳築造において有田川以北地域と当古墳の被葬者との関係が現れていると考えられる。

運ばれた組合式石棺材
石棺石材の出土地
北部の硬質結晶片岩(Sm)

南部の軟質砂岩(Tu)

北のものが南へ
南のものが北へ

理由は?
加工のしやすさか、
権威や美意識か
天神山古墳
組合式石棺
(復元状況)

 436尾ノ先遺跡

岬に累々と築かれる墓地
 尾ノ崎(おのさき)遺跡 (御坊市) には約20基の墓が築かれ、 (みぞ)で区画をした周溝墓と呼ばれる墓が主体となる。
古墳時代前期から中期にかけて長期にわたり周溝を共有しつつ連綿と墓が築かれる。

3号周溝墓は、墳長約10mであり、五神鏡(ごしんきょう)、管玉が副葬された組合式木棺を埋葬施設とする。 また、
15号墳は、 礫敷(れきじき)をもつ竪穴式石室を埋葬施設にもち、 珠文鏡(しゅもんきょう)、玉類、剣、 ヤリガンナを副葬する。
14号墳は、 墳長 19.8mの前方後円形の周溝墓となる。 埋葬 施設が多様であるが、 鏡などの副葬品を有している。

岬に累々と築かれる墓地
尾ノ崎遺跡周溝墓群全景
尾ノ崎遺跡周溝墓群発掘状況
尾ノ崎遺跡 15号周溝墓埋葬施設


天神山古墳 (湯浅町) は、古墳の規模は直径約30m と、 紀中地域最大の円墳だ。
・天神山古墳(湯浅町) の埋葬施設は、結晶片岩製の組合式石棺である。 有田川以北から運ばれた。

・尾ノ崎遺跡 (御坊市) では、周溝墓と呼ばれる墓、約20基が連綿と築かれた。

装飾付壺
時期:古填後期
天神山古墳
所蔵:東京国立博物館
碧玉製勾玉・管玉
ガラス製小玉
尾ノ崎遺跡15号周溝墓
時期:古填中期
所戲:御坊市教育委員会
鉄斧
尾ノ崎遺跡 12号周溝墓
時期:古墳中期
所蔵:御坊市
珠文鏡
五神鏡
珠文鏡
尾ノ崎遺跡15号周溝墓
時期:古墳中期
所蔵:御坊市教育委員会
五神鏡
尾ノ崎遺跡3号周溝墓
時期:古墳中期
所蔵:御坊市教育委員会
 440
 441
南部川河口を見下ろす前期古墳
 城山(しろやま)1号墳(みなべ町)は新福寺(しんぷくじ)の裏山の段丘上の、南部川河口を見下ろす位置にある。

 古墳は、粘土採掘中に組合式石棺が発見された。
長さ50~100cm 幅40~60cmの板石(いたいし)を小口各1枚、側壁各3枚を組み合わせ主室(のしま)とし、さらに主室の前後に小口1枚、 側壁1枚を足し、 副室を設ける。

 組合式石棺の全長は3.2mであり、内部には、赤色顔料が塗られていた。 この石棺石材は、 田辺層群白浜累層(しらはまるいそう)軟質砂岩のもので生痕化石(せいこんかせき)が残されていることから、田辺市神子浜(みこのはま)周辺で採取され、 運ばれたものである。

南部川河口を見下ろす前期古墳
城山1号墳の箱式石棺


墳丘を持たない墓
 安久川(あくがわ)流域には権現平(ごんげんだいら)古墳群をはじめ、安久川古墳、高見山古墳、オリフ古墳脇ノ谷古墳(以上、白浜町)が存在する。
 古墳時代中期中ごろに築かれた脇ノ谷古墳は、 安久川の河口の砂浜に位置する。
発掘調査時には墳丘は確認されず、 箱式石棺のみが確認された墳丘をもたない石棺墓である。 棺内からは鉄剣、弓飾(ゆみかざり)金具、
90点以上の鉄鏃、 須恵器壺、 鹿角片が出土している。 その副葬品の量と種類からは、古墳の副葬品と遜色がなく、 まさに墳丘を持たない古墳ともいえるだろう。

墳丘を持たない墓
脇ノ谷古墳の箱式石棺
安久川流域の古墳分布図
脇ノ谷古墳箱式石棺
安久川流域の古墳 (脇ノ谷古墳・オリフ古墳)
 443
・城山1号墳 みなべ町) では、 田辺市付近から運ばれた軟質砂岩の組合式石棺が発見された。
・海の古墳には、 銅鏡や武器などの王権や他地域との広い交流を示すものがある。

獣文带四獣鏡,銅鏃
城山1号墳
時期:古墳前期
所蔵:田辺市教育委員会
 445

脇ノ谷古墳は墳丘をもたない墓だが、副葬品は古墳と遜色がない。 墳丘をなぜ築かなかったのか。

須恵器壺
脇ノ谷古墳
時期:古墳中期
白浜町教育委員会
鉄製品
(剣, 鏃,両頭金具)
脇ノ谷古墳
時期:古墳中期
白浜町教育委員会
両頭金具
 450
 451大型釣り針
大型釣針を副葬する古墳
 オリフ古墳(白浜町)(古墳中期 6世紀) は、直径10mほどの円墳である。眼下には、海と安久川河口を望むことができる。
内部主体は、コの字形となった側壁と奥壁を残すのみであるが、 その石積みからは横穴式石室と推定される。

 出土遺物の中には鉄鏃、 刀子、 須恵器、玉類などが見られるが、中には全長8cm にも達する大型鉄製釣針3点が存在する。
類例を見ないそのサイズは、当時の漁労具の種類や機能を考える上で興味深い資料である。
大型魚種や底層の魚種を対象としていると みられる。

大型釣針を副葬する古墳
大型釣針を副葬する古墳

鉄製釣針
古墳後期
オリフ古墳
田辺市教育委員会
鉄製品 (鏃・刀子)
古墳後期
オリフ古墳
田辺市教育委員会
碧玉製管玉・水晶製管玉・ガラス製小玉
オリフ古墳
古墳後期
田辺市教育委員会
須恵器(蓋杯‧高杯)
古讓後期
オリフ古墳
田辺市教育委員会

 453
本州最南端の横穴式石室

 上ミ山(かみやま)古墳(すさみ町)は標高 81m の上ミ山の頂上付近に位置し、 周参見湾(すさみわん)稲積(いなづみ)島を見下ろす。
古墳時代後期前半の古墳であり、 直径は20~40mの円墳と考えられている。
東側石室は右袖式の横穴式石室であり、 長さ約2.3m 幅約2.1mのほぼ正方形の平面形をもつ玄室をもつ。

 玉類の種類が豊富であり、碧玉製の平玉・管玉、水晶製棗玉・切子玉、琥珀製の棗玉 ・ 小玉、埋木(うもれぎ)製の(なつめ)玉がある。
琥珀や埋木は岩手県や千葉県で産出することから、これらの地域から運ばれたものと考えられる。

本州最南端の横穴式石室
上ミ山(かみやま)古墳空中写真
上ミ山古墳横穴式石室発掘状況
上ミ山古墳土器出土状況


・上ミ山古墳 (すさみ町) は山頂付近にあり、周参見湾や稲積島を見下ろす古墳だ。

水晶製切子玉、碧玉製管玉・平玉、埋木製棗玉、ガラス製小玉
上ミ山古墳
時期:古墳後期
すさみ町教育委員会
碧玉製管玉
平玉 ガラス製小玉
埋木製棗玉
水晶製切子玉 水晶製切子玉,碧玉製管玉・平玉,埋木製棗玉,ガラス製小玉
上ミ山古墳
時期:古墳後期
すさみ町教育委員会
須恵器
(鈴付異形高坏·高坏)
上ミ山古墳
古墳後期
すさみ町

 455鉄鉢

海を越え運ばれた鍑 (鉄鉢)
 丸山古墳 (紀の川市)(5世紀前半 古墳中期) は古墳時代中期中ごろの円墳である。
墳丘の副葬施設からは、鍑(鉄鉢)(ふく てっぱち )、鉄鋌、 鉄刀が副葬されていたとされる。

 この鍑は鋳造品であり、口縁部の内側に注ぎ口が作られる。湯を注ぐための湯釜と考えられている。

 朝鮮半島でも類例があるが、 より北方の騎馬民族との関係が指摘されており、中国東北部の三燕(さんえん)地域 (慕容鮮卑(ぼようせんぴ)) の墳墓でも認められることから、これらの地域から運ばれた可能性がある。

 丸山古墳は海の古墳ではないが、その鍑は 直線距離にして1500km離れた中国東北部から海を越えてやってきた。

・丸山古墳の鍑(湯釜)は、1500km離れた中国東北部から海を超えてきた。

紀の川市 丸山古墳とは
AI による概要

 紀の川市(和歌山県貴志川町)の丸山古墳は、5世紀前半に築造された直径約42mの大型円墳です。貴重な鉄製武器や、中国から持ち込まれたとされる鋳造の鉄鉢(てっぱつ)が出土し、ヤマト政権と繋がりのあった紀伊の武人的な首長の墓と考えられている、歴史的に重要な史跡です。

特徴と概要
・築造時期・規模: 5世紀前半、直径約42mの円墳。
・場所: 和歌山県紀の川市貴志川町上野山。
・被葬者: 貴志川流域を支配した、ヤマト政権と関わりの深い強力な首長。
・出土品: 鉄鉢(湯を沸かす窯)、鉄刀、甲冑、勾玉など。特に鉄鉢は国内で類例がほとんどない貴重なもの
この古墳は、当時の紀伊地域における有力豪族の存在を示す貴重な証拠となっています。

を越え運ばれた鍑 (鉄鉢)
丸山古墳出土鍑の移動距離
鍑 (鉄鉢)
丸山古墳
古墳中期
高山寺
鍑 (鉄鉢)
 
         
丸山古墳鍑·鉄鋌出土状況
丸山古墳鉄艇(鋌)

※考察 鉄鉢や鉄艇は何だろう。
 たまたま、半島経由で珍品として伝わったものなのか、それとも、中国奥地の鮮卑の一団が、海路を頼んで紀伊半島まで持ち込んだものなのか。
 高い鉄の鋳造技術に長けた騎馬民族の一族が、馬に乗って半島南部まで南下し、そこから、馬と引き換えに列島までの船を頼み、大都会で密集の北部九州から逃れ、瀬戸内海の突きあたり、和歌山県までやって来たのだろうか。

 私はこのような鉄鉢を、どこの博物館でも見たことがない。仏具の銅椀ならみましたが、あれは、きっと金槌で叩いて仕上げたものではないか。
鉄は青銅のような展性がないので、これは鋳物でしょう。やはり、鍛冶に()けた人々の(おさ)の古墳で、渡来一族は鍛冶を生業にしたのではないでしょうか。ただし、その鍛冶遺構や遺物の有無は、この展示ではわからない。

 
紀の川市 鍛冶遺構
AI による概要

 紀の川市周辺では、紀ノ川沿いの集落遺跡や古墳から、古代の鉄器生産や修理に関連する鍛冶遺構が確認されています。主な関連情報は以下の通りです。

1. 鍛冶遺構の確認例
・和歌山市の周辺地域(鳴神地区遺跡など): 紀ノ川南岸の低丘陵に位置する遺跡群では、弥生時代の竪穴住居や古墳時代後期の古墳が発掘されており、平安~鎌倉時代の建物跡周辺で小鍛冶(鉄器の修理や加工)を行っていたとみられる鍛冶炉が3基確認されています。
・関連遺構(ふいごの羽口): 鳴神地区遺跡では、鉄を溶かすための「ふいご」の羽口が出土しています。
・他の遺跡での事例: 近隣の弥生時代・古墳時代遺跡においても、鉄滓(鉄のカス)や羽口など、鉄器生産関連遺構が調査されているケースがあります。
2. 時代背景と特徴
・古墳時代~平安・鎌倉時代: この地域では、特に古墳時代後期以降、鉄器の生産・加工が徐々に拡大したと考えられています。また、紀の川が交通の要衝であり、物流や技術(渡来人技術など)が伝来するルートでした。
・渡来人との関連: 周辺の古墳群(例:大日山古墳群)では、渡来鍛冶工人の存在を示唆する副葬品(金層ガラス玉など)が6~7世紀の横穴式石室から出土しており、鉄器製造の担い手と考えられています。

 456丸山古墳の遺物
碧玉製勾玉
丸山古墳
時期: 古墳中期
所蔵: 東京国立博物館
丸山古墳
時期:古墳中期
高山寺
琴柱形石製品
ガラス製小玉
 

 460Chapter 4-03 もう一つの海の墓
岩陰墓と古墳
 紀伊半島に分布する古墳時代の岩陰墓は、 岩陰と呼ばれる半洞穴を墓葬の場として用いる。
海岸部に特徴的なその墓制は、海人や海洋民の墓制としてこれまで考えられてきたが、その時期や内容を検討すると、変質が認められる。
 岩陰と古墳に葬られた人々の違いは何なのか。 海の古墳とは別の海辺に葬られた人々の墓を考える。


 461磯間岩陰遺跡

岩陰墓の全貌を示す磯間(いそま)岩陰遺跡

 磯間岩陰遺跡(田辺市) は、8基の岩陰墓からなる埋葬遺跡である。
当遺跡は継起(けいき)的に 営まれた墓域であり、かつ良好に遺存する人骨からDNAによる血縁関係の検討が行え、さらに未盗掘の副葬品からもその被葬者の関係性が追える数少ない資料である。

 磯間岩陰遺跡の変遷をみると、古墳時代中期における岩陰への埋葬と後期の岩陰への埋葬については、岩陰内の空間利用が変化し、埋葬施設及び副葬品にも変化が認められる。


AI による概要
和歌山県田辺市にある磯間岩陰遺跡は、古墳時代の人骨や鹿角製品が多数出土した、同時代の貴重な葬送・儀礼遺跡です。12体以上の人骨が確認され、当時の漁労民の生活や葬送文化を知る上で非常に重要な場所とされています。

主な特徴と詳細
・場所: 和歌山県田辺市磯間
・時代: 主に古墳時代(遺跡は古墳時代の墳墓)。
・出土品: 鹿角装剣(しかづのそうけん)、鹿角製釣針、鳴鏑(なりかぶら)など。
・特徴: 岩陰(自然の岩の隙間)を墓地として利用しており、多数の人骨とともに漁労用具が見つかっていることから、この地特有の葬送習俗が示されています。

岩陰墓の全貌を示す磯間岩陰遺跡
磯間岩陰遺跡7・8号石室
岩陰遺跡石室の位置
磯間岩陰遺跡の変遷
岩陰遺跡の埋葬施設の配置と変遷

※古墳時代中期中葉から、この場所に葬るべき一統を葬って来た場所のようです。死誰かれなく埋葬したのではなく、秩序が感じられます。
 そして、時代の流れとともに、やがて石室墳墓から火葬墓へと、より一層密集した埋葬が行なわれるようになった。

 462
岩陰墓とは何か?
 紀伊半島の南西部の南部(みなべ)川から日置(ひき)には、新第三系の田辺層群に属する砂岩及び泥岩などが分布する。
 岩陰とはかつての島々や半島の砂岩や泥岩の崖面が海蝕によって削られ、 隆起することで露出し、浅い半洞穴となったものである。

岩陰は縄文時代以来、 生活の場として利用されてきた。そして、この岩陰遺跡を墓域とした古墳時代の墓葬形態が岩陰墓である。
 紀伊半島の古墳時代の岩陰墓は 23遺跡を数え、そのほぼすべてが田辺湾沿岸に位置する。

岩陰墓とは何か? 紀伊半島における岩陰遺跡の分布

岩陰墓集中地域 1 元島岩陰遺跡群
2 古目良岩陰遺跡
3 立戸岩陰遺跡
4 丸橋丘岩陰遺跡
5 宝乗院岩陰遺跡
6 岩屋谷岩陰遺跡
7 磯間岩陰遺跡
8 鬼橋岩岩陰Ⅰ遺跡
9 鬼橋岩岩陰Ⅱ遺跡
10 内之浦岩陰遺跡
11 畠島岩陰遺跡
12 藤島岩陰Ⅰ遺跡
13 藤島岩陰Ⅱ遺跡
14 藤島岩陰Ⅲ遺跡
15 立ヶ谷岩陰遺跡
16 横浦岩陰遺跡
17 垣谷岩陰遺跡
18 綱不知岩陰遺跡
19 築屋敷岩陰遺跡
20 小島岩陰Ⅰ遺跡
21 小島岩陰Ⅱ遺跡
22 内ノ川岩陰遺跡
23 田津原岩陰遺跡

※考察 田辺湾の岩陰遺跡
 田辺湾周辺に岩陰遺跡が集中している理由を考える。
 それは簡単なことで、この地域は田辺層群上部白浜累層という軟質砂岩層地帯であり、海蝕洞が形成されやすい地域である。
紀伊半島の年平均隆起速度は4.4mm/yearである(それでも国内最速級)が、定期的に発生する南海トラフ地震によって数十cm~1m程度の地震性隆起が
生じる。これが海蝕洞を多数形成する要因である。  

海蝕洞穴の形成
岩影とは?(海蝕洞穴の形成)

生活の場 埋葬の場として用いられる 岩陰遺跡
岩陰遺跡(半洞穴)
過去の磯や砂浜

現在の磯や砂浜。波浪により崖面が削られる
地震や地殻変動により隆起した

 463磯間岩陰遺跡
磯間岩陰遺跡3号石室1号人骨
磯間岩陰遺跡 4号石室人骨出土状況
磯間岩陰遺跡5号石室
 464

・磯間岩陰遺跡の変遷をみると、 古墳時代中期と後期の岩陰への埋葬については、岩陰内の空間利用が変化する。
・磯間岩陰遺跡の1号~4号石室は、DNA分析ではその多くが母系の血縁者で同一系統であるが、墓の継続性は少ない。

貝類・サンゴ
磯間岩陰遺跡 3号石室
時期:古項中期
所蔵:田辺市教育委員会
耳環
磯間岩陰遺跡火葬跡
時期古墳後期
所蔵:田辺市教育委員会

鹿角製品
(刀子柄·柄·儀杖頭·剣形)
複製品]
磯間岩陰遺跡2号石室
古墳時代中後期
田辺市

刀子
原品は国指定重要文化財
鹿角装剣(ろっかくそうけん)
鹿角製品(鏃形(やじりがた)・円板・鳴鏑(なりかぶら)) [複製品]
磯間岩陰遺跡1号石室
時期:古墙中期
所藏:田邊市教育委

 466中期の岩陰

古墳時代中期の岩陰墓
 綱不知岩陰(つなしらずいわかげ) (白浜町) (古墳前期~後期 約4~6世紀)
は、田辺湾の南岸の中央部分が陸地側に深く入った湾内にある。そのため波が穏やかで船を係留する(つな)が不要であることから、周辺は 「綱不知(つなしらず)」と呼ばれている。

 岩陰奥では、埋葬施設が発見されている。埋葬施設は北側側壁は奥壁を利用し、それ以外は自然礫(しぜんれき)板石(いたいし)を用いた箱式石棺を構築する。 石積みはやや乱雑となり、磯間(いわま)岩陰遺跡の4号石室と類似する。東側小口には線刻を格子状に巡らせた(または節理か)板石を用いる。内部には人骨が残存し、仰臥伸展の状態で埋葬していた。

古墳時代中期の岩陰墓 綱不知岩陰遺跡現況


・綱不知岩陰遺跡 (白浜町) は、 内部には人骨 が残存し、 仰向きの状態で埋葬されていた。

須恵器
(蓋坏,短頸壺,高坏)
綱不知岩陰遺跡
古墳中期
高山寺
鉄製品 (鎌・刀子)
綱不知岩陰遺跡
時期:古墳中期
所蔵 高山寺
須恵器
(蓋坏·短頸壺·高坏)
綱不知岩陰遺跡
時期:古墳中期
所藏:高山寺

 467岩陰墓の変質

岩陰墓の変質
 古墳時代中期の磯間岩陰遺跡では、 1号石室の直弧文(ちょっこもん)を施した鹿角装剣(ろっかくそうけん)、 搬入された石材と側壁を重ね継ぐ箱式石棺、 さらに骨角製品 (釣針・銛頭・弓矢装具) は、それぞれ倭王権、 岩橋千塚古墳群などの紀北地域、 和歌山市西庄遺跡 東日本 (三浦半島)との交流が想定される。

 これらの被葬者は古墳と同様の副葬品や 埋葬施設をもつことから、 中期には相対的に地位が上昇したと考えられる。 一方、 後期においては古墳が増加し、海の古墳に比して岩陰墓の被葬者は相対的に地位が低下する。

岩陰墓の変質 古目良岩陰遺跡現況
古目良岩陰遺跡洞穴平面図

・古墳時代後期の岩陰墓は副葬品は少数・少量であり、埋葬施設もなく、 遺体はそのまま横たえられていた。

         
滑石製臼玉
古目良岩陰遺跡
時期: 古墳後期
御坊市教育委員会
耳環
古目良岩陰遺跡
古墳後期・飛鳥時代
田辺市教育委員会
銙帯
古目良岩陰遺跡
時期: 奈良時代
田辺市教育委員会
鉄銛、鹿角製刀子柄
古目良岩陰遺跡
古墳後期
田辺市教育委員会

岩屋谷岩陰遺跡アワビ貝包丁三浦半島からも発見されている。 海を越えた関係だろうか。

 須恵器 (提瓶 高坏)
時期:古墳後期
田津原岩陰(たづはらいわかげ)遺跡
白浜町教育委員会 
高坏
提瓶
貝包丁
岩屋谷岩陰遺跡
時期:古墳後期
田辺市
   
 
 

 468
古墳時代後期の岩陰墓(その1)

 古墳時代後期の岩陰墓は、磯間(いそま)岩陰遺跡(5号~8号石室)の他には古目良(こめら)岩陰遺跡岩屋谷(いわやたに)岩陰遺跡、立戸(たちど)岩陰遺跡鬼橋岩(ききょうがん)岩陰I・Ⅱ遺跡(以上、田辺市)、内ノ川(うちのがわ)岩陰遺跡、田津原(たづはら)岩陰遺跡 (白浜町)などが副葬品や 人骨を伴う例である。 副葬品は少数・少量 であり、埋葬施設も簡略化しているか、 埋 葬のない状態である。

 古目良岩陰遺跡は弥生時代後期から古墳時代中期にかけて製塩活動の場として用いられるが、後期には墓地として利用される。
立戸岩陰遺跡では古墳時代後期末から飛鳥時代の墓葬跡が確認された。

内ノ川岩陰遺跡は、大腿骨の大きさから成人 と未成人の2体の人骨が存在する。 オオキセルガイの貝殻はいつの時代?

古墳時代後期の岩陰墓(その1)
人骨
内ノ川岩陰遺跡
時期: 古墳後期
白浜町

 469
古墳時代後期の岩陰墓(その2)

 鬼橋岩岩陰(ききょうがんいわかげ)遺跡では須恵器、 碧玉製管玉が、 (うち)ノ川岩陰遺跡では人骨とともに須恵器、土師器、鎌、鏃、刀子が出土した。

 内ノ川岩陰遺跡からは、大腿骨の大きさから成人と未成人の2体の人骨が存在しているとみられる。 鏃、 斧、 鎌のほか、オオキセルガイの貝殻が出土している。
 岩屋谷(いわやだに)岩陰遺跡からは人骨とともに、 土師器、 鉄銛(てつもり)、アワビ貝包丁、 魚骨などが出土している。

 田津原岩陰遺跡 (白浜町)では須恵器が出土し、 古墳時代後期に墓葬が行われている。

古墳時代後期の岩陰墓(その2) 須恵器(高坏・蓋坏)
内ノ川岩陰遺跡
時期: 古墳後期
田辺市教育委員会
鉄製品 (鏃・斧・鎌)
内ノ川岩陰遺跡
時期:古填後期
白浜町教育委員会
オオキセルガイ
内ノ川岩陰遺跡
時期:不明
白浜町
オオキセルガイ害虫
陸生貝。植物の芽や葉を食害する。
 
 470
 471人骨の関係
「吾 (あが(われ))ら」の関係

 磯間(いそま)岩陰遺跡1号石室では2体の人骨が 頭部をそれぞれ反対側に向けて、向かい合 うように埋葬されていた。 2体の人骨はとも に男性で、 1号人骨が成人 (中年)と2号人骨が子ども(3歳前後) である。 1号人骨が先に葬られたが、ほぼ同時に2号人骨が葬られたとみられる。

 それぞれの鹿角装剣(ろっかくそうけん)は、 大人用と子ども 用という大小の差はあるが、 同じ文様や、 あつらえであり、両者の近い関係がわかる。 ミトコンドリアDNAの分析では、ともに現代日本人よりも縄文系寄りのゲノム配列をもち、血縁関係があると見られる。

磯間岩陰の人骨
「吾 (あが)ら」の関係 「吾 (あが)ら」の関係 磯間岩陰遺跡1号石室1号人骨
磯間岩陰遺跡1号石室の人骨発見状況

磯間岩陰遺跡1号石室室人骨のDNA
磯間岩陰遺跡1号石室出土遺物 (文化庁蔵)
 472
・岩陰墓では、倭王権や古墳との関係よりも、「私」 と 「あなた」の関係が重視されていた。
・磯間岩陰遺跡 (田辺市)は、人骨からDNA 分析による血縁関係の検討が行える。 縄文人 の系統とされる。

1号石室第2号人骨
磯間岩陰遺跡1号石室
古墳中期
田辺市教育委員会
1号石室第1号人骨
磯間岩陰遺跡1号石室
古墳中期
田辺市
 473
(われ)」 と 「(なんじ)」の関係

 遠隔地の岩陰墓・洞穴墓(どうけつぼ)どうしの緩やかな共通性は、 遠隔地の集団どうしに結びつきがあるが、 それぞれが不定期でかつ緊密
ではない交流であった。

 磯間(いそま)岩陰遺跡でのDNA分析では多くが母系の血縁者であるが、 埋葬施設や副葬品などにみられる交流の継続性はない。
このため、その交流や関係は血縁関係よりも、 被葬者個人との関係に基づき行われていたといえる。

「倭王権との古墳秩序に基づく関係」よりも、「吾(あが 田辺弁: 被葬者) と汝 (おまん 田辺弁:他者)との関係」 が埋葬におい て重視されていたのではないか。

※わかりにくい。血統よりも、親密な付き合いの他の血統者つまり、血筋(ちすじ)ではなく親密な他人との関係が重視された。

「吾」と「汝」の関係
磯間岩陰遺跡3号石室調査状況
 
 

 475
骨占い
 弥生時代・古墳時代には、ト骨(ぼっこつ)と呼ばれるシカやイノシシの肩甲骨を用いた占いが行われた。

 骨に火で熱した棒を肩甲骨に押し付け、 焼け方・コゲ、割れ方で吉や凶を占うものだ。 奈良時代になると 「さん」と呼ばれる四角い枠を彫り出すものもある。

 骨が良く残るからなのか、それとも占いが好きなのかわからないが、 海辺の洞窟遺跡や集落からは骨占いが多く発見される。
航海や漁の成功を占ったのかもしれない。
 明日の船出は吉だろうか。

骨占い 骨占い 骨占い
刻角(こっかく)卜骨(ぼっこつ)
白浜遺跡
弥生後期~古墳後期
鳥羽市立海の博物館
銅鏃,骨鏃,(ゆはず),サメ椎骨
白浜遺跡
弥生後期~古墳後期
鳥羽市立海の博物館
ト骨
海外第1号洞穴遺跡
時期:古城中期~後期
所載:三浦市

 476卜骨
卜骨
西庄遺跡
古墳中期~後期
和歌山県
 477
三浦市指定文化財
ト骨
大浦山洞穴遺跡
弥生後期~古墳後期
所蔵:三浦市
ト骨
浜諸磯(はまもろいそ)遺跡
時期:飛鳥時代
所藏:三浦市
 
 480

 481Chapter 4-04交響する墓たち
   洞穴墓と岩陰墓
 紀伊半島における岩陰墓と同様に洞穴を墓地として利用する地域は、 房総半島、 三浦半島、伊豆半島に存在する。

これらの洞穴墓には、多様な骨角器や貝製品がみられ、 岩陰墓と同様に 古墳と遜色のない副葬品をもつ
また、石棺墓や、 船を棺として用いる舟葬墓(しゅうそう)などが存在する。
 太平洋岸で共通するこれらの墓制に(※紀伊半島で)共通するものは何か。

Chapter4-4
交響する墓たち
洞穴墓と岩陰墓

 482
洞穴墓の実態
 古墳時代の洞穴墓は木棺や配石、 箱式石棺など施設が認められるが、 雨崎(あめざき)洞穴遺跡のように 82体もの墓葬が確認されており、
個々の埋葬が明確でないものも多い。 中には焼骨(しょうこつ)のみの埋葬も認められる。

 一方、 大寺山(おおてらやま)洞穴では、洞穴壁面に沿って12基の船を棺に転用した舟葬墓(しゅうそうぼ)が発掘されている。
棺としては明瞭だが、 同時期に複数人が葬られることから、これら洞穴墓は集団の墓として機能していた。

洞穴墓の実態 三浦市指定文化財
鹿角製品(弣,簪(ゆづか,かんざし))
大浦山洞穴遺跡
弥生後期~古墳後期
三浦市
三浦南市指定文化財
骨角製品
(ヤス·骨鏃·釣針)
大浦山洞穴遺跡
弥生後期~古墳後期
三浦市


・三浦半島と房総半島では波により崖面が削られることで形成された洞穴(ほらあな)に遺跡がある

三浦市指定文化財
鹿角製(ゆはず)
大浦山洞穴遺跡
弥生後期~古墳後期
三浦市
貝包丁,イモガイ未製品
大浦山洞穴遺跡
弥生後期~古墳後期
三浦市
貝包丁,イモガイ未製品
大浦山洞穴遺跡
弥生後期~古墳後期
三浦市
貝輪
大浦山洞穴遺跡
弥生後期~古墳後期
三浦市

 483
海外第1洞穴遺跡の墓葬
 海外第1洞穴遺跡は、古墳時代中期の洞穴墓が発見された。洞穴の壁面に沿って約10基の墓が設けられ、墓葬施設の側壁として洞穴壁面を利用する。 石室状に囲まれたものや石組みが認められるが、 石積みは乱雑であり埋葬施設は明確ではない。 伸展葬の状態で墓葬された4号墓とそれ以外は再葬された状態で出土した。

 副葬品は赤色顔料が塗られた個体もあり、骨鏃や鹿角製鏃・鳴鏑・把・附・刀子柄・複合式釣針、サメ歯製垂飾、水晶製切子玉、ガラス製小玉が出土している。

海外第1洞穴遺跡の墓葬
海外第1号洞穴遺跡 海外第1号洞穴遺跡発掘
    水晶製切子玉,
ガラス小玉
海外第1号洞穴遺跡
古墳中期~後期
三浦市
ヘラ状骨角器
鹿角製品(鏃,鳴鏑),
骨鏃
海外(かいと)第1号洞穴遺跡
古墳中期~後期
三浦市
鹿角製品   
サメ歯製垂飾
海外第1号洞穴遺跡
時期:古墳中期~後期
所蔵: 三浦市
骨角製品
(刀子柄,工具柄,根鋏)
海外第1号洞穴遺跡
古墳中期~後期
三浦市

 484
洞穴墓に共通性はあるのか?
 各地の洞穴墓には、 骨角製品や埋葬方法などに類似が認められる。 しかし、その共 通性は全てにおいて認められるものでなく、 ある要素では認められるが、 別の側面では認められず、継続性はない。 このため、 岩陰墓の交流と同様にそれぞれの被葬者が個 別に行う交流によって、 他地域との共通性が表れたのではないか。

 しかし、その特色からは、 洞穴墓における集団としての共通性の方が明確に表れている。 洞穴遺跡はその立地や形成過程、 気候などに共通性が認められるが、それぞれの分析と相互の比較が今後も必要である。

洞穴墓に共通性はあるのか?

瑪瑙製勾玉
鳥ヶ崎横穴群(とりがざきおうけつ)
(鴨居(かもい))
時期: 古墳後期
東京国立博物館
小型鏡
鳥ヶ崎横穴
(鳥ヶ崎H号横穴)

古墳後期
東京国立博物館
 

 485洞穴墓群
 486舟葬墓
舟に抱かれて眠る 大寺山洞穴遺跡出土品

 館山湾に位置する大寺山洞穴(おおてらやまどうけつ)遺跡では、古墳時代の舟葬墓が発掘された。
 舟葬墓(しゅうそうぼ)は船を(ひつぎ)に用いて葬る特殊な墓葬である。 発掘調査では南壁に沿って12基の舟棺(ふなかん)が発見されている。 棺の上にさらに棺を積み上げ、3体もの人骨が追葬される例もある。

 副葬されたものとしては、 三角板革綴短甲(さんかくばんかわとじたんこう)横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)
青銅製鈴、金銅製品、漆塗盾(うるしぬりたて)鹿角製刀装具(ろっかくとうそうぐ)歩搖(ほよう)付金銅製品なども出土しており、
古墳時代中期を中心とし、 後期にも埋葬が行われた。 前方後円墳の副葬品とも遜色がなく、被葬者はどのような人物だったのか。

舟に抱かれて眠る 大寺山洞穴遺跡舟棺発掘状況
大寺山洞穴遺跡現況
大寺山洞穴遺跡舟棺
 487玉類
瑪瑙製勾玉,切子玉,丸玉,ガラス製小玉,碧玉製算盤玉,管玉
大寺山洞穴遺跡
古墳中期~後期
千葉大学文学部考古学研究室
    青銅製鈴
大寺山洞穴遺跡
古墳中期~後期
千葉大学文学部考古学研究室
鹿角製刀装具
大寺山洞穴遺跡
時期:古墳中期~後期
千葉大学文学部考古学研究室
步搖付金銅製品
大寺山洞穴遺跡
古墳中期~後期
千葉大学文学部考古学研究室
 


・大寺山洞穴遺跡は、 短甲 (よろい)や青銅製の鈴など、 前方後円墳とも遜色がない副葬品をもつ。
・大寺山洞穴遺跡では、洞穴壁面に沿って 12基の船を棺に転用した舟葬墓が発掘されている。

大寺山洞穴遺跡
古墳中期~後期
三角板皮綴短甲
三角板皮綴冑
横矧板鋲留短甲
蝶番金具
 


 500Epilogue


 501Epilogue 海が生むのはへだたりか、それとも、つながりか
 海でつながる交流は、 様々な大小の空間で認められる。 これらの空間 では考古資料の共通性が認められ、 そこに交流の痕跡が見出される。
 一方で、これらの空間の間には独自性とも呼べる差異も認められる。 交流が織りなす共通性は、大きく共通するが、 細部では異なる。
 海でつながっていてもその様相は必ずしも一様ではないのはなぜか。 こうした 共通性と独自性は、 なぜ生み出されるのだろうか。

  ―海が生むのはへだたりか、それとも、つながりか―

Epilogue
―海が生むのはへだたりか、それとも、つながりか―

 510
 511

海が生み出す独自性
 海を隔てて様相が変わる考古学事象 (遺物・遺構・遺跡) は、 多数ある。 漁労具の使い方、作り方、 土器の文様や形の違いなどからみた独自性はもちろんのこと、海をへだてるとその先には存在しない考古学事象も存在する。

 海がもたらすへだたりは少なからず存在した。
 自然によってもたらされる境界として、海は存在する。 狭い海峡や半島の先端などでは、 海流や潮流の早さにより、 航行が制限される箇所がある。 また、岩礁が航行の妨げとなり、 さらに、船の大きさ、航路、距離も航海の課題となる。

 また、人間によってもたらされる境界も存在する。 海は国や地域の領域を画すものとしても用いられ、 争いの際には防衛線ともなった。 さらに、隣接する浦々同士の漁場 (漁業権)をめぐって争いも生じたのだろう。

海が生み出す独自性
重山(由良町)からみた由良湾

海が生み出す共通性
 海がもたらすつながりは、電気も動力も無い時代においても、驚くほど遠く、広い空間での交流が存在した。また、それが特定の考古学事象にとどまらず、 多くで認められる。

 海がもたらすつながりは、 必需物資の交換や交易、交渉、 婚姻といった隣接する地域間のつながりが生み出す恒常的な交流がある。

 それとともに、海を介するがゆえの遠隔地への移動、移住、 交易、政治的要請に基づく移動や軍事、 さらには突発的な漂流といった直接的だが単発的な交流が存在した。 海をめぐる交流には、これらの恒常的な交流 と単発的な交流が重層的に存在したといえる。 それゆえに、大小と広狭の空間を持っていたと考えられる。

 また、 交流は空間だけでなく、 近現代、 現代につながるような漁労具、 漁法、風習も存在する。 海がもたらすつながりは、時間を超えて今も続き、私たちの社会に息づいている。

海が生み出す共通性 海を介した交流のモデル
海を介した交流のモデルでは、
恒常的な交流:日常的な隣村との接触、ちょっと広い範囲の交流。
単発的な交流:遠隔地への移動・移住・突発的な漂流

これらのネットワークを通して、技術・情報・知識の共有化がなされてきた

としているようだ。

おわりに
 紀伊半島沿岸には、美しく特色ある歴史的風土がみられる。
 その風土は、海という自然との関わりとともに、海 に生きる人々との関わりによって形成された。 また、 海が生むへだたりやつながりにも、自然と人という二つの要素が関係する。

 古墳時代は、倭王権をはじめとした権力が生むイデオロギー、 領域、経済、軍事などが、 海に生きる人々へも影響を与え始める時期でもある。 海の古墳や海の生産遺跡などは、これらを代表する考古学事象だろう。 一方で海に生きる人々にとっては、海との関わりは これまでと変わらず継続していた。 海の古墳などの考 古学事象にみる独自性からは、権力も選択肢や手段に しかすぎず、海に生きる人々からは、利用すべき存在 でもあった。

 海とそこに関わる人々が権力に対峙することで生み 出した、 支配の不完全さ ・ 不徹底さが古墳時代には見 える。

おわりに
天神崎 (田辺市) に沈む夕日 (田辺市)に沈む夕日

 513漁業権漁場図
・隣接する浦同士の漁場をめぐって争いを解決するため、 漁場や漁業権が決められた。

漁業権漁場図
免許第2475号
免許第898号
時期: 明治・昭和
和歌山県資源管理課
(和歌山県立文書館保管)
 520
・糸をつむぐ紡錘車は海の近くの遺跡から発見される。 網や糸を作っていたのか。

滑石製紡錘車
西庄遺跡
古墳中期~後期
和歌山県教育委員会
滑石製紡錘車
阪田山遺跡
弥生後期~古墳後期
高山寺
滑石製紡錘車
時期:古墳中期
日向 浦遺跡
所蔵: 高山寺
滑石製紡錘車
綱不知岩陰(つなしらずいわかげ)遺跡
古項中期~後期
所蔵:高山寺
 
 


 1000常設展示

 1001年表
常設展示室 年表
旧石器~弥生時代 古墳~飛鳥時代
奈良~南北朝時代
室町~江戸時代
明治~令和時代


 1010旧石器時代

旧石器時代の和歌山
WAKAYAMA IN PARAEOLITHIC PERIOD
ナイフ形石器の文化
 後期旧石器時代 (約4万年から1万3000年前) は、 新人 (ホモ・サピエンス) が、 打製石器を主な道具として、獲物を求めて生活の場を季節的に移動させながら、 動物の狩猟や植物 の採集などをおこなっていた時代である。

 この時代の遺跡は、 和歌山県内で20カ所以上が確認され ている。県下における最古の人間活動を示す遺物のひとつに、 狩猟や加工の道具であるナイフ形石器がある。

 藤並(ふじなみ)地区遺跡(有田川町)では、縦長の剥片 (材料の石を打ち欠いた破片)で作られた頁岩製のナイフ形石器や、 横長の規格的な剝片から作られたサヌカイト製の国府型(こうがた)ナイフ形石器のほか、掻器(そうき) (皮などをなめす道具) 削器(さっき)(切る・削る道具) 石核 (石を打ち欠いたあとに残った塊) が出土し、旧石器時代の石器製作の痕跡が明らかとなっている。


Culture of Backed Blade
"Late stone age" (from about forty-thousand to thirteen-thousand years before) is such an age that Homo sapiens hunts animals and botanizes plant matters in search of prey by utilizing chipped stone tools as its principal tools while migrating seasonally its place to live.
As the sites in this period, 20 or more sites have been confirmed in Wakayama prefecture. One of the relics which shows the oldest human activity in Wakayama prefecture is a backed blade being a tool for hunting and manufacturing.
In Fujinami district site (Aridagawa town), end scrapers (tools for tanning a hide and the like), side scrapers (tools for cutting or scraping materials) and cores (blocks remained after beating and breaking stones) were excavated other than backed blades made of shale fabricated from vertically long flakes (broken pieces obtained by beating and breaking a stone material), and Ko-type knife-shaped stone implements and weapons made of Sanukite fabricated from horizontally long standard flakes, so that it becomes clear the traces of Age. manufacturing stone implements and weapon… …Age.

ナイフ形石器文化
 「後期石器時代」(約4万年前から1万3千年前)は、ホモ・サピエンスが季節移動しながら、打製石器を主要な道具として用い、獲物を求めて動物を狩猟し、植物を採集していた時代です。

この時代の遺跡として、和歌山県内には20以上の遺跡が確認されています。和歌山県で最も古い人類の活動を示す遺跡の一つが、狩猟や製造に用いられたナイフ形石器です。

 藤並地区遺跡(有田川町)では、縦長の剥片(石材を叩いて砕いた破片)から製作した頁岩製の背付刃物や、横長の規格剥片から製作したサヌカイト製のナイフ形石器。武器のほか、端削り(皮などをなめすための道具)、サイドスクレイパー(材料を切ったり削ったりするための道具)、石核(石材を叩いて砕いた後の塊)が出土し、石器・武器製作の痕跡が明らかになった。

石器時代の和歌山


ナイフ形石器
 日本の旧石器時代 (約4万年前から1万3000年前)は、とても寒かった時代 (最終氷期) で、 人びとは、ナウマン象やオオツノジカなどの動物を獲物として追いながら、生活する場所を移動させていました。

 ナイフ形石器は、 この時代に使われていた道具の一つで、 動物を射止めるための槍の先、 または、 ものを削ったり、切るための道具と考えられます。

ナウマン象臼歯
加太沖海底 (和歌山市)
旧石器時代
和歌山県教育委員会
ナイフ形石器
ナイフ形石器
旧石器時代
吉田遺跡(岩出市)
和歌山県
ナイフ形石器
旧石器時代
鳴滝遺跡(和歌山市)
和歌山県
ナイフ形石器
壁川崎遺跡 (御坊市)
旧石器時代
和歌山県教育委員会
ナイフ形石器
西庄地区遺跡 (和歌山市)
旧石器時代
和歌山県教育委員会
    ナイフ形石器
府中遺跡 (和歌山市)
旧石器時代
和歌山県教育委員会
ナイフ形石器
猪垣遺跡 (紀の川市)
旧石器時代
和歌山県教育委員会
   


 1030縄文時代

 1031
縄文時代の和歌山
WAKAYAMA IN JOMON PERIOD

縄文土器の世界
 土器の使用がはじまった縄文時代 (約1万3000年から 2500年前)には、人々はシカやイノシシなどの動物の狩猟や、
魚貝類などをとる漁撈、 ドングリなどの堅果類の採集・加工を生業としていた。

 和歌山県内には縄文時代草創期から晩期までの遺跡が 約200カ所分布する。 約6000年前の前期は海水面が現在よりも5m から6m高く、人々は丘陵の端部に貝塚などを営んだ。 国史跡・ 鳴神貝塚 (和歌山市) は明治28年(1895) に近畿地方で初めて発見された貝塚である。

 また、多様な土器文化が展開し、早期の押型文土器 (楕円な どの彫刻を施した棒を表面に転がした土器) である高山寺貝塚 (田辺市) 出土の 「高山寺式」 や、 爪形の文様や粗い縄文を特徴 とする鷹島遺跡 (有田市) 出土の中期の 「鷹島式」 などは、 近畿や西日本に広く分布しており、人々の活発な交流活動を示している。

World of Jomon Pottery
In Jomon period (from about thirteen-thousand to twenty-five hundred years before) wherein peoples commence to use potteries (soft-fired and unglazed earthenwares), and hunting animals such as deer and wild boar; fish catching a variety of fishes and seashells; and gathering and processing nuts such as acorn were a typical life style for the peoples at that time.
In Wakayama prefecture, about 200 of sites had been distributed in a period of from the pioneer days to the last stage of Jomon period. In the preceding period being about six thousand years before, sea level is 5 to 6 meter higher than that at present, so that peoples result in shell middens at ends of hills. In this connection, national historical site "Narukami" shell midden (Wakayama city) is the midden (kaizuka) that was found fist in Kinki (Osaka metropolitan) region in Meiji 28 (1895).
Furthermore, it has been considered that a variety of pottery civilization had been expanded. Namely, "Kozanji style" pottery which was excavated from Kozanji shell midden (Tanabe city) and which is an Incipient-Jomon pottery decorated with dowel-impressed patterns at early stage (more specifically, a rod on which a sculpture design of an elliptical or the like pattern had been applied is rolled on the surface of a pottery which had not yet been fired); "Takajima style" pottery at the middle stage which was excavated from Takajima site and which is characterized by crescent patters applied by making finger-nail-like impressions and rough cord-mark impressions; and the like potteries had widely been distributed in Kinki region and west Japan. These facts indicate people's…


縄文土器の世界
 縄文時代(約1万3000年前から2500年前)は、人々が土器(軟質焼成の素焼き土器)を使い始めた時代で、鹿や猪などの狩猟、様々な魚や貝類の捕獲、ドングリなどの木の実の採取・加工が、当時の人々の典型的な生活様式でした。

 和歌山県には、開拓時代から縄文時代後期にかけて、約200ヶ所の遺跡が分布していました。それ以前の約6000年前は、海面が現在よりも5~6メートル高かったため、人々は丘陵地帯の端に貝塚を造成しました。ちなみに、国史跡「鳴神貝塚」(和歌山市)は、明治28年(1895年)に関西地方で初めて発見された貝塚です。

 さらに、高山寺貝塚(田辺市)から出土した押形文(楕円形などの彫刻文を描いた棒を焼成前の土器の表面に転がす)を施した押形文(早期縄文土器)である「高山寺式」土器や、爪状圧痕と粗い紐状圧痕による三日月文を特徴とする鷹島遺跡から出土した中期「鷹島式」土器など、多様な土器文明が展開していたと考えられています。これらの事実は、人々の…

縄文時代の和歌山


 1032縄文土器
宮滝式土器 縄文土器 深鉢
(宮滝式土器)
溝ノロ遺跡(海南市)
縄文時代後期
和歌山県教育委員会
縄文土器深鉢
(高山寺式土器)
(複製品)
高山寺貝塚(田辺市)
繩文時代早期
9,000-6,000年前
和歌山果教育委員会

高山寺式土器
高山寺式土器

 1033
縄文時代の交流
和歌山の遺跡からは東北地方の土器遮光器土偶がみつかっています。縄文時代のおわりごろには、西日本と東日本の人びとの交流が盛んであったと考えられます。

縄文末期の寒冷化に伴い、東北地方から沢山の人々が南下してきました。遠くは九州北部まで、また、当時の土器は沖縄でも出土しています。
 彼らは九州に土偶や石棒などの文化を持ち込んだことでも知られています。そして、何よりも凄いことは、岡山や九州に移住後、
 その土地の土器を持ってもう一度ふるさと東北に帰省して行きました。このため東北各地から当時の土器が出ています。
 しかし、地図も宿屋も、道路も標識もないのに、どうやって帰れたのでしょう。彼らには我々にない特有の空間認識力があったとされます。
 そのことを「サンカ」の人々を取り上げた動画で見ました。

縄文時代の交流 石棒
太田・黒田遺跡

(和歌山市)
縄文時代又は弥生時代
和歌山県立紀伊風土記の丘
石棒(東北地方 成輿野型石棒)
西飯降遺跡 (かつらぎ町)
縄文時代晚期
和歌山県立紀伊風土記の丘
土偶
鳥居遺跡(海南市)

縄文時代後期
個人蔵
土偶
(東北地方 遮光器土偶の手)
川辺遺跡(和歌山市)
縄文時代晚期
和歌山県教育委員会
スクレイパー (削器)
川辺遺跡 (和歌山市)
縄文時代
和歌山県教育委員会
石鏃
川辺遺跡 (和歌山市)
縄文時代晩期
3,000~2,400年前
和歌山県教育委員会
 1035
石刀
川辺遺跡(和歌山市)
繩文時代晚期
3,000-2,400年前
和歌山県教育委員会
敲き石
川辺遺跡 (和歌山市)
T繩文時代晚期 3,000-2,400年前
和歌山県教育委員会
磨製石斧
川辺遺跡(和歌山市)
繩文時代晚期 3,000-2,400年前
和歌山県教育委員会
定角式磨製石斧
(蛇紋岩製)
川辺遺跡 (和歌山市)
縄文時代後期
和歌山県教育委員会
定角式磨製石斧の
定角とは何か

「定角」とは、石斧の側面(両側縁)が真っ直ぐに研磨され、はっきりと角張っている形状を指します。


 1050弥生時代

 1051
弥生時代の和歌山
WAKAYAMA IN YAYOI PERIOD
米作りのはじまり

 弥生時代は、本格的な米作り (水稲耕作)や、鉄や青銅など の金属の道具の使用が始まった時代で、近畿地方におけるその 幕開けはおよそ2500年前のことである。

 和歌山県内には弥生時代の遺跡が400カ所以上分布する。
前期の太田・黒田遺跡 (和歌山市)堅田(かただ)遺跡 (御坊市)では、縄文時代の伝統を残す突帯文土器や呪術用の石棒も使用されたが、
遠賀川式土器や石包丁 (稲穂を摘む道具) 木製農具など、 農耕文化の到来を示す道具類が多く認められる。

 さらに堅田遺跡では日本列島最古段階の青銅器の鋳型や溶解炉が発見され、 高度な手工業技術が早くから到来したことを示している。

 こうした背景には、 海岸線を紀伊水道や熊野灘に囲まれた和歌山の地が、 海路を通じて東西日本弥生文化交流の交差点的な役割を果たしていたことが考えられ、 前期から中期の遺跡から 出土した瀬戸内、 東海、 中部地方からもたらされた弥生土器が これを物語っている。


Start of Rice Cropping
Yayoi period is such a period that actual rice cropping (wet-rice agriculture), and application of metal implements such as iron and copper implements start. The prologue of the Yayoi period in Kinki region was about twenty-five hundred years before.
In Wakayama prefecture, 40 or more of the sites in Yayoi period have been distributed. Although clay band design potteries which have remained the tradition of Jomon period and stone rods for magic had been also used in Oda/Kuroda site (Wakayama city) and Katada site (Gobo city) in the preceding term of Jomon period, many implements which indicate the advent of agriculture civilization such as Ongagawa- type potteries and stone reaping knives (a tool for picking up ears of rice plants) /wooden agricultural implements etc. have been recognized. Furthermore, a casting mold and a melting furnace for bronze implements being in the oldest stage of Japanese island were found in Katada site which indicates such fact that an advanced technology of handicraft production had been offered at an early stage.
Judging from the fact as mentioned above, it is considered that geographic conditions of Wakayama the coastline of which is defined by Kii-suidoh (Kii channel) and Kumano-nada (Kumano raging sea) fulfill a role of a cross over point in east and west Japanese Yayoi cultural interchange through sea road. The Yayoi potteries being originated from Setouchi, Tokai and Chubu area (midland) which had been excavated in the sites extending from the previous term to the medium term thereof tell the fact that such consideration as mentioned above is proper.

稲作の始まり
 弥生時代は、本格的な稲作(水稲農耕)が始まり、鉄器や銅器といった金属器具が用いられるようになった時代です。近畿地方における弥生時代の序章は、およそ2500年前のことでした。

 和歌山県には、40以上の弥生時代の遺跡が分布しています。縄文時代の伝統を残す突帯文土器や呪術用の石棒は、縄文時代前期の小田・黒田遺跡(和歌山市)や堅田遺跡(御坊市)でも使用されていましたが、遠賀川式土器や石製刈取庖丁(稲穂を摘む道具)・木製農具など、農耕文明の到来を示す多くの道具が確認されています。

 さらに、堅田遺跡からは、日本列島最古期の青銅器の鋳型と溶解炉が発見されており、これは、早い時期から高度な手工芸技術を有していたことを示唆している。

 以上のことから、紀伊水道と熊野灘に海岸線を囲まれた和歌山の地理的条件は、海路を通じた東西弥生文化交流の交差点としての役割を果たしていたと考えられる。その前期から中期にかけての遺跡から出土した弥生土器が瀬戸内、東海、中部地方を起源としていることは、こうした考察が妥当であることを物語っている。


 1052稲作の道具

立野遺跡
  (西牟婁郡すさみ町)  (弥生の木工生産拠点)
  弥生時代前期
 周参見川と太間川の下流域に位置する。 平成 22年から近畿自動車道紀勢線建設工事に伴う発掘調査が行われた。

 弥生時代前期の自然流路からは、 容器や農具、工具などの木製品 とそれを加工する石斧等の石器が多量に出土した。
 また、 弥生土器と縄文土器の系譜にある 突帯文土器が共に出土しており、縄文から弥 生の過渡期にあたる遺跡として注目される。

立野遺跡

磨製石斧
立野遺跡 (すさみ町)
弥生時代前期
2,500-2,300年前
和歌山県教育委員会
石庖丁(石製穂積具)
立野遺跡(すさみ町)
弥生時代前期 2,500-2,300年前
和歌山県教育委員会
木製 柄杓
広鍬 未製品

立野遺跡 (すさみ町)
弥生時代前期
2,500-2,300年前
和歌山県教育委員会

 1053土器
瓢形土器
高坏
高坏
弥生土器 壷
(ひさご形壷)
弥生中期
2300-2000
宇田森遺跡(和歌山市)
弥生土器 甕
船岡山遺跡
(かつらぎ町)

弥生中期
2300-2000年前
弥生土器 壷
船岡山遺跡
(かつらぎ町)

弥生中期
2300-2000年前

 1054和歌山県の遺跡

和歌山市
1 藻江遺跡
2 深山遺跡
3 平井遺跡
4 田屋遺跡
5 西田井遺跡
6 宇田森遺跡
7 川辺遺跡
8 府中IV遺跡
9 橘谷I遺跡
10 吉田遺跡
11 太田黒田遺跡
12 鳴神貝塚
13 神前遺跡井辺遺跡
14 和田遺跡
15 滝ヶ峯遺跡
16 千石山遺跡菖蒲谷遺跡
岩出市
17 荒田遺跡
紀の川市
18 北山三嶋遺跡
かつらぎ町
19 船岡山遺跡
20 東渋田遺跡
21 佐野遺跡
22 丁ノ町・妙寺遺跡
23 西飯降Ⅱ遺跡
橋本市
23 柏原遺跡
24 市脇遺跡
25 東家遺跡
26 血縄遺跡
海南市
27 岡村遺跡
28 亀川遺跡
29 大野中遺跡
30溝ノ口遺跡野上中南遺跡
有田市
31 地ノ島遺跡
32 星尾山遺跡
有田川町
33旧吉備中学校校庭遺跡
34 田殿尾中遺跡
広川町
35 鷹島遺跡
由良町
36 里Ⅱ遺跡
御坊市
37 堅田遺跡
38 亀山遺跡
39 富安Ⅰ遺跡
40 東郷遺跡
41 小松原Ⅱ遺跡蛭田坪遺跡
42 中村遺跡中村Ⅱ遺跡
43 尾ノ崎遺跡
美浜町
44 吉原遺跡
みなべ町
45 大目津泊I 遺跡
46 徳蔵地区遺跡
47 高見遺跡
48 片山遺跡
田辺市
49 八丁田圃遺跡
50 古目良遺跡
51 矢矧遺跡
52 神田遺跡
53 田辺城下町遺跡
白浜町
54 瀬戸遺跡
55 大古Ⅱ遺跡
すさみ町
56 立野遺跡
串本町
57 笠嶋遺跡
新宮市
58 八反田遺跡
59 佐野遺跡
60 阿須賀神社遺跡

 1055銅鐸
野井→太田黒田→小松原 小松原銅鐸
(外縁付紐2式4区袈裟襷文)
小松原銅鐸出土地
(御坊市)
弥生時代中期
紀元前2~1世紀
和歌山県教育委員会
太田・黒田銅鐸(複製品)
(外縁付紐1式4区袈裟襷文)
太田・ 黒田遺跡(和歌山市)
弥生時代中期
紀元前2-1世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘
野井銅鐸
(扁平鈕2式6区袈裟襷文)
野井銅鐸出土地(有田市)
弥生後期
1-2世紀
個人蔵
下の尾銅鐸
扁平鈕式
日高郡みなべ町晩稲出土 (みなべ町)
弥生時代中期
2.300-2.0004
和歌山県教育委員会
有本銅鐸
(扁平紐1式流水文)
有本銅鐸出土地
(和歌山市)
弥生時代中期
紀元前2~1世紀
突線鈕式
初期 菱環鈕式
中期 外縁付鈕式
中期末~後期
   扁平鈕式
後期 突線鈕式


 1100古墳時代

 1101

古墳時代の和歌山
WAKAYAMA IN KOFUN PERIOD
紀伊の古墳
 和歌山県内には岩橋千塚古墳群以外にも、4世紀から7 世紀にかけて築造された700 基以上の古墳が知られている。
 古墳時代前期から中期の古墳は、 秋月1号墳 (和歌山市)をはじめ、 下里古墳 (那智勝浦町)、 山崎山5号墳(海南市)、車駕之古址(しゃかのこし)古墳 (和歌山市) などの前方後円墳に代表される。

 古墳の副葬品には、 阪東丘(はんどうおか)2号墳 (御坊市) から出土した 阪東丘2号墳(御坊市)から出土した二神二獣鏡等の銅鏡や武器・武具、 装飾品、 また大谷古墳 (和歌山市)の馬冑(うまかぶと)に代表される朝鮮半島との密接な交流を示すものも含まれる。

 古墳時代中期末から後期になると、 円墳などに岩橋型や畿内型の横穴式石室が構築され、 鳴滝1号墳 (和歌山市) 出土の環頭大刀や馬具、 子持ち勾玉などの例にみられる豊富な副葬品が出土するようになる。

Kofun Tumili in Kii
It is known that 700 or more of kofun tumuli which had been constructed in a period of from the 4th century to the 7th century exist other than Iwase-senzuka kofun tumuli in Wakayama prefecture. Kofun tumuli in the previous term to the medium term of Kofun period are represented by keyhole-shaped kofun tumuli such as Akizuki No. 1 kofun tumulus (Wakayama city) including Shimozato kofun tumulus (Nachi-katsuura town), Yamazakiyama No. 5 kofun tumulus (Kainan city) and Shakanokoshi kofun tumulus (Wakayama city). As grave goods of the kofun tumuli, those which show a close relationship with Korean Peninsula represented by bronze mirrors such as a mirror with two gods and two beasts which had been excavated from Bandooka No. 2 kofun tumulus (Gobo city), weapons, defensive equipment, ornamental articles, and further a horse helmet in Otani kofun tumulus (Wakayama city) are also included.
In a period of the medium term to the later term of Kofun period, corridor-style stone chambers of Iwase-type and Kinai-type were constructed in circular-shaped kofun tumuli etc. so that abundant grave goods as represented by a sword with a decorated ring pommel, horse trappings, compounded magatama etc. which had been excavated from Narutaki No. 1 kofun tumulus (Wakayama city) had
become excavated.

紀伊の古墳
 和歌山県には岩橋千塚古墳以外にも、4世紀から7世紀にかけて築造された古墳が700基以上存在することが知られている。
 古墳時代前期から中期の古墳は、下里古墳(那智勝浦町)をはじめとする秋月1号古墳(和歌山市)、山崎山5号古墳(海南市)、釈迦ノ越古墳(和歌山市)などの前方後円墳に代表される。

 古墳の副葬品としては、坂東岡2号古墳(御坊市)出土の二神二獣鏡などの青銅鏡に代表される朝鮮半島との密接な関係を示すものや、武器、防具、装飾品、さらには大谷古墳(和歌山市)出土の馬兜なども含まれます。

 古墳時代中期から後期にかけては、円墳などに岩橋式や畿内式の横穴式石室が築造され、鳴滝1号古墳(和歌山市)出土の輪柄付剣、馬具、複合勾玉などに代表される豊富な副葬品が出土しました。

古墳時代の和歌山
紀伊の古墳
 1120紀伊の古墳
 1121副葬品

有田市指定文化財
鋸歯文鏡
箕島2号墳 (有田市)
古墳時代中期 5世紀 個人蔵
有田市指定文化財
瑪瑙製勾玉・碧玉製勾玉・滑石製管玉
箕島2号墳 (有田市)
古墳時代中期 5世紀 個人蔵
石製模造品 斧 (模型)
伝岩橋千塚古墳群
(和歌山市)

古墳時代前期 4世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘
筒形銅器(模型)
伝岩橋千塚古墳群
(和歌山市)
古墳時代前期4世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘
石釧(模型)
伝岩橋千塚古墳群(和歌山市)
古墳時代前期 4世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘


ガラス製小玉
阪東丘2号墳(御坊市)
古墳時代中期 5世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘
四神二獣鏡
阪東丘2号墳 (御坊市)
古墳時代中期 5世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘

須恵器 把手付椀
阪東丘2号墳 (御坊市)
古墳時代中期 5世紀 和歌山県立紀伊風土記の丘


三角縁神獣鏡とは
鏡の縁の部分の「断面の形」 が三角で、 鏡の裏に神仙 (西王母や東王父など)と獅子のような霊獣とが交互に配置されている鏡。 主に3~4世紀の古墳から出土する。 この鏡を 『魏志倭人伝』 に記された邪馬台国の卑弥呼の使者が魏の皇帝から下賜された銅鏡とみる見解もあるが、 どこでつくられたものなのか明確でなく、さまざまな解釈が提示されている。

三角縁神獣鏡
伝花山出土 三角縁神獣鏡
伝花山出土 三角縁神獣鏡 伝花山出土 三角縁神獣鏡
レプリカ

 1123韓式系土器

鳴神地区遺跡群  (和歌山市)
            4世紀から6世紀
 音浦(おとうら)遺跡鳴神IV. V遺跡で構成される。

 音浦遺跡では、5世紀代の竪穴建物、 掘立柱建物 や灌漑用水と考えられる大溝などが検出され、
  初期須恵器、陶質土器、韓式系土器が多量に 出土した

 鳴神Ⅳ遺跡と鳴神Ⅴ遺跡では前期から後期の円墳と方墳が11基確認された。
  5世紀の古墳からは馬歯が出土しており、 渡来系集団との関係が考えられる。

韓式系土器  
鍋,甑,長胴甕
鳴神地区遺跡群
韓式系土器 ※牛角把手付片口鍋?
陶質土器 壺
鳴神地区遺跡群
(和歌山市)
古填時代中期 5世紀

須惠器 ハソウ
鳴神地区遺跡群
(和歌山市)
古填時代中期 5世紀
土師器 高坏,壷
鳴神地区遺跡
(和歌山市)
古墳中期 6世紀
土師器 甕
鳴滝遺跡(和歌山市)
古墳中期 5世紀
 1124
韓式系土器 鍋・甑 韓式系土器 鍋・甑・長胴甕
鳴神地区遺跡群
(和歌山市)
古墳時代中期 5世紀
甑 底面
長胴甕

 1130鳴滝遺跡・大日山遺跡

鳴滝遺跡 (和歌山市) 5世紀前半

 紀ノ川北岸の丘陵平坦部に位置する。
掘立柱建物が南北5棟、 東側に南北2棟並んで検出された。桁行4間(けたゆき4けん)梁行3間(はりゆき3げん)、 平面積は 最大で約 82㎡の総柱建物で、 妻通棟持柱(むなもちばしら) をもつ。5世紀前半の巨大倉庫群跡である。

楠見式土器」の特徴を持つ須恵器が出土している。稲穀(籾)の貯蔵庫とする説や、ヤマト政権における対外交流港の物資保管庫であるという説がある。

「妻通」の意味不明。妻側の誤植でないか。棟持柱は妻側にある。


左:鳴滝遺跡群 
右:大日山遺跡群
鳴滝遺跡群 須恵器 器台
(楠見式土器)
鳴滝遺跡 (和歌山市)
古墳時代中期 5世紀
楠見式土器
・特異な壺,甕,高杯,器台のセットを標式とする土器群。
・甕では肩部に乳状の突起をもつことを特徴とする。

このような土器は朝鮮半島の洛東江中・下流域に広汎に分布するが、国内では和歌山市を中心に大阪府・香川県・岡山県(本例)に10遺跡が知られているのみである。


大日山Ⅰ遺跡 (和歌山市) 4世紀から6世紀
 大日山西麓に位置する集落遺跡である。
大日山中腹に水源のある2本の旧流路に挟まれた範囲に、4世紀後半から5世紀代の竪穴建物群が検出された。
2棟の竪穴建物は周囲を溝で囲み、 谷川に降りる石組階段が付設される。
柱穴から鳥形土器や杯が出土し、 4世紀後半の祭祀遺構と考えられる。

  大日山Ⅰ遺跡
滑石製模造品
大日山I遺跡
(和歌山市)
古墳時代中期 5世紀
土師器
ミニチュア土器
大日山I遺跡
(和歌山市)
古墳時代中期 5世紀
土製円盤
大日山I遺跡(和歌山市)
古墳時代中期 5世紀 

鳥形土器
大日山I遺跡(和歌山市)
古墳時代中期 5世紀
※鳥形土器
 「発掘された日本列島2025」でも同様の 鳥形土器 が展示されていた。
 解説には何もなかったが、大日山Ⅰ遺跡の解説で、初めて、祭祀に関わる土製品であると判明。

 私は単に埴輪の一種類かと思っていました。鳥竿(後の鳥居か)など、神聖域を形成する、または
 神聖域を表す道具だったようです。
 
 
 


 1200岩橋(いわせ)千塚古墳群

 1201
岩橋千塚古墳群の変遷

TRANSITION OF IWASE-SENZUKA KOFUN TUMULI
岩橋千塚古墳群の出現

 岩橋千塚古墳群は5世紀初頭頃に古墳の築造が開始される。
 花山8号墳大谷山39号墳などの粘土槨を主体部にもつ古墳が造られている。

 この他、5世紀代には前山A地区などで箱式石棺 (前山 A17号墳など) や竪穴式石室 (前山 A65号墳など) をもつ古墳が築造される。
 過去に花山地区で発見されたとされる三角縁神獣鏡筒形銅器石釧斧模造品などがあり、4世紀代にさかのぼる古墳があった
 可能性が指摘されている。
 また5世紀代の朝鮮半島製の陶質土器も発見されている。

Appearance of Iwase-senzuka Kofun Tumuli
In the Iwase-senzuka kofun tumuli, the kofun tumuli were started its construction substantially in the beginning of the 5th century. More specifically, such kofun tumulus having clay coating over a wooden coffin as its principal structure was constructed as is
evident from Hanayama No. 8 kofun tumulus, Otaniyama No. 39 kofun tumulus etc. In addition, kofun tumuli provided with a box- shaped sarcophagus (Maeyama No. A17 kofun tumulus etc.) and the one provided with a pit-style stone chamber (Maeyama No. A65 kofun tumulus etc.) were constructed in Maeyama area A etc. in a period of the 5th century. In the past, there were triangular- rimmed mirrors, cylindrical bronze objects, ring-shaped steatite bracelets, axe imitations and the like which had been reported as the discovery in Hanayama area. In these circumstances, it has been pointed out that there is a possibility that such kofun tumuli might go back to the period of the 4th century. Furthermore, stoneware or flint implements made in Korean peninsula in the period of the 5th century have also been discovered.

岩橋千塚古墳の様相
 岩橋千塚古墳では、
5世紀初頭から古墳の築造が本格的に開始されました。具体的には、花山8号古墳や大谷山39号古墳などに見られるように、木棺の上に粘土を敷き詰めた古墳が築造されました。また、

5世紀には前山A地区などで、箱型石棺を備えた古墳(前山A17号古墳など)や竪穴式石室を備えた古墳(前山A65号古墳など)が築造されました。過去には、花山地域から三角縁鏡、円筒青銅器、環状滑石腕輪、斧模造品などが発見されたことがあり、こうしたことから、

これらの古墳は4世紀頃まで遡る可能性が指摘されています。また、5世紀頃には朝鮮半島で作られた石器やフリント製の道具も発見されています。



岩瀬千塚古墳の変遷
 1210副葬品
陶質土器 有蓋高坏
岩橋千塚古墳群
花山地区 (和歌山市)
古填時代中期 6世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘
陶質土器 有蓋高坏
岩橋千塚古墳群
花山地区 (和歌山市)
古填時代中期 6世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘
陶質土器 有蓋高坏 陶質土器 有蓋高坏 陶質土器 有蓋高坏
陶質土器 壷  陶質土器 壷
伝岩橋千塚古墳群
古墳中期 5世紀
       
須恵器 台付壺
伝岩橋千塚古墳群
古墳中期 5世紀

 1220岩橋千塚古墳群と周辺の遺跡
 1221
 岩橋千塚古墳群と
周辺の遺跡
         
1天王塚古墳
2前山A2号墳
3前山A13号墳
4前山A17号墳
5前山A18号墳
6前山A46号墳
7前山A58号墳
8前山A67号墳
9前山B101号墳
10前山B220号墳
11将軍塚古墳
12知事塚古墳
13郡長塚古墳
14大日山1号墳
15大日山35号墳
16大日山43号墳
17大日山70号墳
18大谷山6号墳
19大谷山22号墳
20大谷山28号墳
21大谷山39号墳
22花山2号墳
23花山6号墳
24花山8号墳
25花山10号墳
26花山33号墳
27花山42号墳
28花山44号墳
29花山45号墳
30花山46号墳
31井辺 1号墳
32井辺八幡山古墳
33井边前山6号墳
34井边前山7号填
35井辺前山24号填
36井辺前山26号墳
37井辺前山32号墳
38井辺前山36号填
39寺内18号墳
40寺内32号墳
41寺内35号墳
42寺内63号墳
43寺内6号墳

 1223
埴輪(はにわ)ってなんだろう?

 埴輪とは、 粘土を焼きあげてつくった製品で、 4世紀から6世紀ごろに、 古墳の上に立て並べました。
家や動物、 人物、 武器、 武具などをかたどった形象埴輪(けいしょうはにわ)と、
壺をのせる台の形が変化した土管形の円筒埴輪があります。

 埴輪を並べた意味については、古墳に葬られた人物の生前の一場面を再現したものか、 葬送に係る場面、 または他界での暮らしをあわらしたものと考えられています。

埴輪ってなんだろう?
人物埴輪
岩橋千塚古墳群
古墳時代中期 5世紀
人物埴輪
重要文化財】
(きぬがさ)形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
 

 1230埴輪
 1231形象埴輪
 1232
武人形輪 甲
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期前半
6世紀前半
【重要文化財】
武人形輪 甲
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期前半
6世紀前半
  【重要文化財】
武人埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
       
【重要文化財】
両面人物埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
【重要文化財】
盛装男子埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
  【重要文化財】
巫女形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期
6世紀
(衣服の裾)       

 双脚輪状文形冠帽をかぶった人物埴輪
【重要文化財】
双脚輪状文形冠帽をかぶった人物埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
双脚輪状文

九州の装飾古墳内の文様にも多く見られた双脚輪文は、何のことだかわけがわからず、必死で調べましたがやはり不明でした。
 その文様が紀の国に登場すると、冠帽として昇格しています。

 双脚輪文は、冠や帽子(それに類するもの)だったかも知れないし、全く別のものや、単なるハート形のようなマークにすぎないのかも知れない。
それを知らない人が冠帽として解釈し、被ったのかもしれない。

 そういえば、ずいぶん昔、キンピカの大形銅鐸を被り物だと解釈して、中井貴一に被らせた映画がありました。監督は新藤兼人だったかな?
当時はまだ、鳴り物としての銅鐸から、見る物へ変化したという考えがなかった時代・謎の時代で、頭にかぶる。被って見せる
ということでは、見る銅鐸への変化を、ある意味とらえていたのかもしれません。

 ただし この映画は40年以上前だったか。検索しても出て来ない。 
 このページを始めて、「聞く銅鐸から、見る銅鐸へ」の言葉を聞くまでは、大きな銅鐸はかぶるものだと 思っていました。(((大笑)))
 


 1236円筒埴輪


 朝顔型埴輪
重要文化財 朝顔形埴輪 ※白い部分は、復元補修しています。
円筒埴輪は、弥生 時代のお墓に供えられていた壺を乗せる台が変化したものと考えられています。
朝顔形はさらにそれが変化したものです。

畿内型朝顔型埴輪 【重要文化財】
朝顔形円筒埴輪(畿內型)
大日山35号墳(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
朝顔形埴輪
紀伊型朝顔型埴輪
【重要文化財】
朝顔形円筒埴輪 (紀伊型)
大日山35号墳 (和歌山市)
古墳時代後期 6世紀

 円筒埴輪
紀伊型円筒埴輪 【重要文化財】】
円筒埴輪(紀伊型)
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
畿内型円筒埴輪
【重要文化財】
円筒埴輪 (畿内型)
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀

 石見型埴輪
石見型埴輪
前山 A58号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
石見型埴輪
伝花山地区出土品
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀

 1237
胡籙(ころく)形埴輪 【重要文化財】
胡籙(ころく)形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
(ゆぎ)形埴輪 【重要文化財】
(ゆぎ)形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
 

 1240動物埴輪
 動物埴輪は、主に鳥と獣がモデルとなっている。 魚が関東地方でごく少数確認できる。 鳥には、水鳥 (白鳥・鴨・雁鶴・鷺・鵜・鷹がある。 獣は、馬・犬・猪・鹿が大半を占め、 少数の牛や猿、 むささびも作られ、その多くが人に飼われている動物もしくは狩猟の対象となる動物である。

Animal haniwa (clay figures) are usually prepared by the use of models of birds and beasts. Fish models, however, had been confirmed in Kanto area with very rare cases.
Examples of bird are aquatic birds (swan, duck, goose, crane, heron), cormorant and falconine. Most part of animal models is horse, dog, wild boar and Japanese deer, and a small number of cattle, monkey and flying squirrel models had also been found. Most of them are farm animals or those that are targets for hunting.

動物埴輪は、鳥獣の模型を用いて製作されることが多いが、関東地方ではごく稀に魚類の模型も確認されている。 鳥類としては、水鳥(ハクチョウ、アヒル、ガン、ツル、サギ)、ウ、タカなどが挙げられ、動物の模型は馬、イヌ、イノシシ、ニホンジカが大部分を占め、牛、サル、ムササビの模型も少数ながら見つかっている。その多くは家畜や狩猟の対象となった動物である。

動物埴輪 水鳥形埴輪 【重要文化財】
水鳥形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
猪形埴輪 【重要文化財】
猪形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
牛形埴輪 【重要文化財】
牛形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古時代後期前半
6世紀後半
牛形埴輪
犬型埴輪
犬型埴輪
【重要文化財】
犬形埴輪
大日山35号墳
(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀
 


 1400古 代


 1411古代の和歌山
   紀伊の古代寺院
 飛鳥時代の7世紀後半を中心に建立された古代寺院は、伊都(いとぐん)郡の神野々廃寺(ここのはいじ)名古曾(なこそ)廃寺、佐野廃寺、那賀(なが)郡の西国分(にしこくぶ)廃寺、最上(もがみ)廃寺、 北山廃寺、 名草(なくさ)郡 (現和歌山市)の上野廃寺など15ヶ寺が確認されている。

 これらは南海道に沿って建立された寺院で、伊都郡は川原寺(かわらじ)系、那賀郡は坂田寺(さかたじ)系、 名草郡は法隆寺西院(ほうりゅうじさいいん)系の軒瓦を有するという特徴的な瓦の分布を示す。

 佐野廃寺(かつらぎ町) は、『日本霊異記(にほんりょういき)』に登場する「狭屋寺(さやでら)」 と考えられる法起寺式の伽藍配置(がらんはいち)の寺院で、 川原寺系軒丸瓦や、 青銅製の風招(ふうしょう)佐波理椀 蓋(さはりわんふた)が出土した。

 奈良時代(8世紀)に聖武天皇の勅願により創建された国分寺である紀伊国分寺跡 (紀の川市)では、発掘調査によっ金堂、督、講堂、鐘楼、中門、回廊が確認されている。

Ancient Buddhist Temples in Kii
As the ancient Buddhist temples set up at the midpoint of the latter half of the 7th century corresponding to Asuka period, fifteen temples such as Konono, Nakoso and Saya abandoned temples in Ito county; Nishikokubu, Mogami and Kitayama abandoned temples in Naga county; and Ueno abandoned temple in Nakusa county (Wakayama city at the present day) had been confirmed. These temples were set up along Nankaido district, and they indicate characteristic distribution of Kawara (roof tiles) in which the roof tiles of the temples in Ito county were eave tiles belong Kawara-ji temple system, those in Naga county were eave tiles belong Sakata-ji temple system, and those in Nakusa county were Horyu-ji temple-Saiin system, respectively.
Saya abandoned temple (Katsuragi town) was the one having the arrangement of buildings within the temple cloister of Hokki-ji temple system considered to be "Sayadera temple" appeared on "Nihon Ryouil herein round eave tiles of Kawara-ji temple system, Fusyo and Sahari wan-futa (wooden cup lid) had been exc
   …s of Kii kokubun-ji temple (provincial monastery)
   …ich was founded through the Chokugan (Imperial
   …homu emperor i… century),
   …

紀伊の古代寺院
 飛鳥時代に相当する7世紀後半中期に成立した古代寺院としては、伊都郡の神野廃寺、勿来廃寺、佐屋廃寺、那賀郡の西国分廃寺、最上廃寺、北山廃寺、名草郡(現和歌山市)の上野廃寺など15寺院が確認されています。これらの寺院は南海道沿いに立地し、伊都郡の寺院は河原寺系、那賀郡の寺院は坂田寺系、名草郡の寺院は法隆寺・西院系といった特徴的な瓦分布を示しています。 佐屋廃寺(かつらぎ町)は、『日本霊異記』に「佐屋寺」とされる法起寺系の伽藍配置を持つ寺院で、河原寺系の丸い軒瓦、青銅製の普照、佐波利椀蓋(木製の杯蓋)が見受けられる。 紀伊国分寺(国分寺)は、天皇(16世紀)の勅願により創建された。

古代の和歌山
紀伊の古代寺院
古代の和歌山
紀伊の古代寺院
 1412
飛鳥時代に、本格的な仏教寺院がつくられるようになって、 瓦づくりなどの様々な技術が、 朝鮮半島から日本に伝えられました。

軒丸瓦・軒平瓦
紀伊国分寺跡
(紀の川市)
奈良・平安時代
(8~9世紀)
紀伊国分寺瓦

橋本市 県指定史跡 7世後半 伽藍配置: 法起寺式か

神野々廃寺(こののはいじ)
 紀ノ川の北岸、 吉原川西岸の河岸段丘上 に立地する。 周辺は、古代の「伊都(いと)村主(すぐり)郷」と推定される。
 塔心礎が現存し、調査の結果、塔の基壇 (川原石の乱石積) が検出された。
 伽藍配置は不明であるが、 地形から法起寺式の可能性がある。 川原寺(かわはらでら)系、 (もと)薬師寺系軒丸瓦や火頭形三尊塼仏(かとうけいさんそんせんふつ)などが出土している。

火頭形三尊塼仏
神野々廃寺(こののはいじ)
火頭形三尊塼仏
神野々廃寺 (橋本市)
飛鳥時代 7世紀
和歌山県立紀伊風土記の丘

名古曽廃寺 橋本市 県指定史跡 7世後半 伽藍配置: 法起寺式

 紀ノ川北岸の段丘上に立地する。 塔心礎が現存し、調査では塔と金堂の基壇が検出され、東に塔、西に金堂が並ぶ 法起寺式の伽藍配置をとる。
川原寺系本薬師寺系軒瓦が出土し、同じ伊都郡の神野々廃寺や古佐田廃寺(橋本市) と共通する。
付近には奈良三彩壺の蔵骨器が出土した名古曽墳墓が所在する。

川原寺式
複弁六葉蓮華文軒丸瓦
名古曽廃寺 (橋本市)
飛鳥時代 7世紀
三重弧文軒平 瓦
名古曽廃寺(橋本市)
飛鳥時代 7世紀
名古曽廃寺
 
 


 1500中世


 1510
中世の和歌山
WAKAYAMA IN THE MIDDLE AGES
中世根来寺(ねごろじ)の繁栄

 根来寺の地は、高野山上に大伝法院(だいでんぽういん)を建立した覚鑁 (1095-1143) が、弘田荘内の豊福寺(ぶふくじ)に居を移した場所である。
大伝法院勢力が正応元年(1288) に高野山から現在の根 来寺に拠点を移したのち、室町時代には寺領が増加して伽藍 整備がなされ、教学が興隆し、門前町では根来塗、鋳物、金工などの生業が営まれた。天正13年(1585) の羽柴秀吉 による紀州攻略で壊滅するまで、強大な軍事力を擁した巨大勢力であった。

 根来寺遺跡からは、 発掘調査によって旧大門、 旧円明寺、
塔頭(たっちゅう)子院、半地下式の倉庫、 湯屋、 町屋、 城砦(じょうさい)などの遺構が 極めて良好な状態で発見された。 また、大量の中国製磁器や 国産陶磁器、密教の修法で用いられた法員、武器や武具、生 活用品など、その繁栄ぶりを示す13世紀から16世紀を中心とする様々な遺物が出土している。



Prosperity of Negoro-ji temple in the Middle Ages
The land of Negoro-ji temple is a place wherein Kakuban (1095-1143) who established Daidenpoin on Koyasan moved his home to Bufuku-ji temple in Hirota manor.
After moving the bases of Daidenpoin potency from Koyasan to Negoro-ji temple at present in Shoho 1 (1288), the temple domain increased in Muromachi period, and the temple compound was developed. As a result, education and learning flourished, and regular vocations relating to Negoronuri, Imono (casting), metalwork etc. thrived. Until the annihilation due to Kishu conquer by Hashiba Hideyoshi in Tensho 13 (1585), Negoro-ji temple was a huge potential possessing a massive military force.
From the site of Negoro-ji temple, structural remains such as old Daimon, old Enmyou-ji temple, Tacchuh Shiin (branch temples), Han- chika-shiki (pit) depositories, Yuya (bathhouses), Machiya (town houses), Jousai (acropolis) etc. had been discovered in an extremely good condition. Moreover, a variety of relics indicating a situation of the prosperity in Negoro-ji temple with a central focus on a period of from the 13th century to the 16th century had been excavated, and they are, for example, a large amount of porcelain made in China as well as domestically produced pottery and porcelain, Hougu (ritual tale) used...

中世における根来寺の繁栄
 根来寺の地は、高野山に大伝法院を建立した覚鑁(1095-1143)が広田荘の武福寺に居を移した地です。
正保元年(1288年)、大伝法院の拠点が高野山から現在の根来寺に移された後、室町時代には寺領が拡大し、境内も整備されました。その結果、学問が盛んになり、根来塗、鋳物、金工などの生業が盛んになりました。

 天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州征伐によって滅亡するまで、根来寺は強大な軍事力を有し、大きな潜在力を有していました。

 根来寺跡からは、旧大門、旧円明寺、塔頭支院、藩地下式、湯屋、町屋、城塞などの遺構が極めて良好な状態で発見されました。さらに、13世紀から16世紀にかけての根来寺の繁栄の様子を示す様々な遺物も出土しており、例えば、国産陶磁器や中国製の磁器、奉納された法具、金銀糸の帯びた帯 ...

中世根来寺の繁栄

 1520
根来寺遺跡 (岩出市) 12世紀~16世紀末 寺院

 根来寺は、戦国時代には勢力を伸ばし、ルイ ス・フロイスにより「日本で最も栄えた寺院の一つ」とされたが、1585年(天正13)の豊臣秀吉
の紀州攻め
により、 壊滅的な打撃をうけた。

 発掘調査では、天正の兵火時の遺構から輸入陶磁器や仏具など大量の遺物が発見された。 調査成果からは、山内に約300の子院が存在し、
中世に繁栄した根来寺の姿が判明した。

根来寺遺跡
  護摩杓(ごましゃく)
根来寺遺跡(岩出市)
室町時代 16世紀

賢瓶
根来寺遺跡 (岩出市)
室町時代 16世紀
 
  独鈷杵(とっこしょ)
根来寺遺跡 (岩出市)
室町時代 16世紀

火舎(かしゃ)
根来寺遺跡 (岩出市)
室町時代 16世紀
 
   
毛抜
根来寺遺跡 (岩出市)
室町時代 16世紀

天狗眼鏡
根来寺遺跡 (岩出市)
江戸時代 17世紀

天狗眼鏡レンズ
根来寺遺跡 (岩出市)
江戸時代 17世紀
青磁椀
根来寺遺跡(岩出市)
室町時代 16世紀
青磁香炉
根来寺遺跡
(岩出市)
室町時代 16世紀
中国製
青花片口
根來寺遺跡(岩出市)
室町時代 16世紀

 1530大甕
備前焼大甕
根来寺遺跡(岩出市)
中世
   鳴滝遺跡 柱穴からの大甕出土状況
須恵器 大甕
鳴滝遺跡 (和歌山市) 古墳時代中期 
     
鳴滝遺跡 (和歌山市) 古墳時代中期
鳴滝遺跡 (和歌山市) 古墳時代中期 鳴滝遺跡 (和歌山市) 古墳時代中期


 1600近世

 1610

和歌山の民俗
FOLK CUSTOM IN WAKAYAMA
ちょっと昔の道具たち

 当館に収蔵されている民俗文化財の多くは、私たちが現在の生活のなかで使用している便利な道具が普及する以前にくらしのなかで用いられてきた道具である。
 たとえば、 家屋を照らす灯器具は、提灯や行灯からランプに移り変わり、さらに電気製品へと時代の流れとともに変わってきた。

 これらの道具の変遷は先人の知恵や工夫が練り込まれた結果であった。 暗闇を照らす明かりは、くらしを営むなかで非常に重要なものであった。特定の空間のみを照らすことや光を持ち歩くという、 光を自在にあやつる行為は暮らしのなかで画期的なことであった。


Tools Utilized Heretofore (short time ago)
Most of folk cultural properties collected in our museum are such tools that they had been used in ordinary life before appearing such
convenient tools used in our ordinary life at present.
For instance, as to lighting fixtures for illuminating
accommodation unit, lantern and paper-covered light (andon) change to lamp, and further to electric appliances with the times.
A transition of these tools was brought about due to the result of an integration of wisdom and ingenuity by our predecessors. A lighting for illuminating darkness was a very important tool in an ordinary life. It was epoch-making to handle freely light, for example, to illuminate only a certain space, or to carry out a lighting instrument in daily life.

昔使われていた道具
 当館が収蔵する民俗文化財の多くは、現在私たちが日常生活で使っているような便利な道具が登場する以前から、日常生活で使われていた道具です。
 例えば、住居を照らす照明器具は、提灯や行灯からランプへ、そして時代とともに電化製品へと変化してきました。
 こうした道具の変遷は、先人たちの知恵と創意工夫の集大成によってもたらされたものです。暗闇を照らす照明は、日常生活において非常に重要な道具でした。特定の空間だけを照らしたり、照明器具を日常生活に取り入れたりと、光を扱うことは画期的なことでした。

ちょっと昔の道具たち
 1620ちょっと昔の道具たち
炭火アイロン
Clothes iron
炭を入れて底を熱し、その熱と本体の重さを利用して衣類のしわを伸ばすための道具。
炭火が消えないよう空気口が付けられており、工夫がなされています。

火熨斗(ひのし)
Oriental clothes iron
神社で見かける柄杓のような形をしている昔のアイロン。 くぼみに焼けた涙を入れて、先の平らな部分を熱して、衣類などのしわを伸ばす道具。火熨斗アイロンともいいます。

電気アイロン
Electric iron
20世紀初めにアメリカで普及した電気アイロンは、昭和初期に日本で製造され始め、 昭和20年代に一般家庭に普及しました。
初めは温度調節もなく、次第に便利になりました。

燭台
Candlestick
蝋燭を立てたり、 灯明皿を置いたりして灯りをとるための台です。
灯明皿をのせる円形の台と蝋燭を立てる突起の付いた台が備わった兼用の燭台もあり、 長く使われました。

炭火焼アイロン
火熨斗
電気アイロン 燭台

有明行燈(ありあけあんどん)
Ari-ake andon lamp
箱形の行燈の代表的なもので、寝るときに枕元などに置いておき、一晚中、小さな明かりを付けておくときに重宝しました。
満月や三日月形の窓があるのが特徴です。

ランプ Lump
石油を用いた灯火具。
炎を覆う火屋(ほや)や反射用の笠を付けて使用しました。 置きランプや吊りランプなどがあります。
明治20年(1887)頃には全国に普及しました。

糸車 Spining wheel
紡車(つむぎぐるま)竹車(たけぐるま)などともいいます。 主に綿を糸にするときなどに使いました。主として女性が使っていたといいますが、その扱いは難しかったそうです。

有明行燈 ランプ
糸車
 1640

 1641和歌山の郷土玩具

和歌山の郷土玩具
 郷土玩具は、各地方で創作され、古くから日本に伝わる材料で生産され、その土地の特色を持つおもちゃのことをいう。
 明治時代のおもちゃ博士 清水晴風によると郷土玩具は、以下のように分類している。
➀祈りの道具
②観光のおみやげもの
③子どもの遊び道具
 和歌山県では、 昔から特徴あるおもちゃが作られてきた。 農山漁村の日常的な仕事を再現したものや、 仕事の成功を願 うもの、庶民の祈りが込められたもの、 和歌山らしさを強調した観光の土産物など、 郷土玩具には和歌山の風土が色濃く反映されているが、その多くは、 現在ではほとんど知られて いない。

和歌山の郷土玩具
 1643
池植凧
Ikeue kite
和歌山市南休賀町に店を構えている池植安兵衛の作った凧。 武者絵を得意とし、この凧にも馬に乗った武者が描かれています。
池植凧は昭和の初めには絶えてしまいます。

池植凧(いけうえたこ) 池植凧
御坊人形
天神様
御坊人形
鯛狆,三番叟
大漁船
かえる置物 瓦牛 土鈴
くじら
(太地町 秋山コレクション)
20世紀

瓦 猿
(和歌山市 松島コレクション)
 

 2000屋外展示


 訪問日2025.11.18には、折からの熊騒動により、岩橋千塚古墳群への立ち入りは危険とされ、立ち入りを禁止されました。

 再訪日2026.03.01の最後の営業日に再訪した際には、大日山35号墳の中に入れるイベントがあり、これによって、岩橋千塚古墳群の撮影をしました。この日の特別展は「紀伊風土記の丘の歩み」でした。近い将来にこの時の写真をアップロードいたします。

この先が岩橋千塚古墳です。 この日熊の目撃があり入場禁止でした。 重要文化財の住宅群 重要文化財
旧谷山家住宅(漁家)
旧柳川家住宅と前蔵
旧谷山住宅
 
 
 
 
 
 



  '26.02.05 感謝490,000アクセス 約12ヶ月今後は、1万アクセスいただくのに約17ヶ月を要するようです。
  '25.02.08 感謝480,000アクセス 約9ヶ月
  '24.05.14 感謝470,000アクセス 約8ヶ月
  '23.09.12 感謝460,000アクセス 約10ヶ月
  '22.11.21 感謝450,000アクセス 約7ヶ月
  '22.04.20 感謝440,000アクセス 約7ヶ月
  '21.09.02 感謝430,000アクセス 約9ヶ月
  '20.12.29 感謝420,000アクセス 約6ヶ月 北相木村博物館様のおかげです。
  '20.06.21 感謝410,000アクセス 約8ヶ月
  '19.10.06 感謝400,000アクセス 約8ヶ月
  '19.02.05 感謝390,000アクセス 約8ヶ月
  '18.06.18 感謝380,000アクセス 約10ヶ月
  '17.08.26 感謝370,000アクセス 約10ヶ月
  '16.10.23 感謝360,000アクセス 約9ヶ月
  '16.01.29 感謝350,000アクセス 約11ヶ月
  '15.02.07 感謝340,000アクセス 約13ヶ月
  '14.01.19 感謝330,000アクセス