2025.12.10-4
三重県松阪市 嬉野ふるさと会館
嬉野考古館 三重県松阪市嬉野権現前町423-88
0598-42-7000 月休 9:00~17:00 撮影可
※嬉野考古館は嬉野ふるさと会館の二階にあります。
Google mapでは別建物とされていますが間違いです。
嬉野ふるさと会館が開いていれば観覧できます。
嬉野ふるさと会館 利用案内
月休、9:00~22:00
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目次
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100企画展 天白遺跡
101天白遺跡ジオラマ
102※考察 配石墓
105写真資料
110天白遺跡
112縄文時代
113土偶
114石棒
115赤色顔料の精製
※資料 赤色顔料
120土器
200天白配石遺跡
210自然崇拝 |
300縄文時代
310嬉野縄文の特質
313
※考察嬉野の考古遺跡
※津市芸濃郷土資料館
320縄文時代
330遺跡
332押型文土器
333石器
335石剣・磨石
337土偶
350縄文土器 |
400第2室
400弥生時代
401入口展示
407嬉野の遺跡分布
411弥生時代
413弥生系と縄文系集落
415野田遺跡の水田遺構
420弥生土器
431石器
432中期土器
440貝蔵遺跡
443土器
460貝蔵・片部遺跡
480行燈展示
481鐸形土製品
483特殊器台 |
500古墳時代前期
510古墳時代初頭
550古墳時代前期
551嬉野前期古墳
553筒野1号墳
570装身具
600古墳時代後期
601西野古墳群
611副葬品
613西野古墳群
630西野5号墳
637子持器台
710馬具
730天保1号墳
800埴輪
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1100古代
1111古代寺院
1121軒瓦
1130土器
1141丸瓦
1143土器
1153天華寺廃寺
1155シビ出土窯
1250斎串
1400平安時代
1410平安~中世
1420土器
1500鎌倉時代
1530行燈ケース
1600室町時代
1700近世 |
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01はじめに
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縄文遺跡、天白遺跡は、二つの特質を持つ遺跡です。
まず、配石遺構が30もあることです。次に、土偶の数が大変多いことです。
そして、この遺跡は東北地方と深い関係があり、土器は、東海系の土器が主流となっていますが、関東系の影響を受けていたり、
近畿系の土器も混じっていたりするといわれています。
この遺跡をつくった人々は、縄文中期後葉に始まった寒冷期に押されて、東北地方のどこかから、雪崩のごとくやって来た避難民の一団で、
放浪の旅の途中で関東にしばらく暮らして土器に影響を受け、更に木曽三川にはばまれて、中京地区にも滞在して影響を受けました。
やがて、三つの大河を北に進んで渡ることができ、関が原付近に長く滞在したものの、そこから西に進むグループと別れ、紀伊半島を南下し、
先住者との折り合いをつけて、河川流域で、やがて大きな集落を築くことができた人々の、苦難の旅の果ての遺跡だと思います。
また、弥生時代には、九州で始まった水田稲作は、100年で九州から近畿地方に達しましたが、その後、鈴鹿山地を越えて東海地方に入るのには、
100~200年かかったと記憶しています。稲作農耕民は、鈴鹿山地の縄文人の手ひどい抵抗にあって進出を拒まれていましたが、やがて、紀伊半島を海路で南から回って伊勢湾から侵入し、要害の関門を迂回しました。
それほど九州弥生人はというよりは、半島南部の海賊漁民たちは新天地を欲しがり、支配地を広げたかったようです。
ここ嬉野に入植した弥生人と縄文人は、伊勢湾を挟んで対立的に別々の集落を形成していました。
その痕跡が、遠賀川系土器の出土する遺跡と東海系条痕文土器が出土する遺跡とが、土器が入り混じること、つまり融和することなく、対立的に
生活していたことが、発掘によって明らかとなりました。
更に、古墳時代、古代においても発見があるかと思います。どうか、小さな館ですが、それなりの魅力を持っています。よろしくご観覧を! |
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02松阪市嬉野ふるさと会館 三重県松阪市嬉野権現前町423-8
松阪市嬉野考古館は、嬉野ふるさと館の二階に併設されています。
この日、タクシーで往復して、外観を撮り忘れました。
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10松阪市嬉野考古館
嬉野考古館
企画展
天白遺跡
~縄文人、その祈りとマツリ~
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常設展示
考古資料からみた松阪北部の歴史
テーマ展
国史跡 天白遺跡
縄文時代のマツリ(祭祀)とイノリ(祈り)
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企画展
100天白遺跡
~縄文人、その祈りとマツリ~
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101天白遺跡ジオラマ
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祝
「三重県天白遺跡出土品」 (163点) (三重県所蔵)、
国の重要文化財に指定されました。
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告知 祝
撮影:平成4年12月18日 |
天白遺跡周辺 写真 |
天白遺跡周辺 地図
遺跡範囲と
国史跡指定地域 |
集落と配石場 |
集落地域
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配石墓×30余  |
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天白遺跡とは
天白遺跡(てんぱくいせき)は、三重県松阪市嬉野釜生田町にある、縄文時代後期中葉から晩期初頭(約3,500〜3,000年前)にかけて約1,200年間続いた大規模な祭祀遺跡(祈りの場)です。国指定史跡に登録されています。
主な特徴
・西日本最大規模の配石遺構:川原石を並べた配石遺構30基や埋設土器26基、焼土30基などが集中して見つかっています。配石遺構は東日本に多い形態で、西日本でこれほど集中的に確認されるのは極めてまれです。
・独立した祭祀場:周辺に居住跡(住居跡)が確認されていないことから、特定の集落のためではなく、地域の人々が共同で祭りや儀式を行う専門の聖地であったと考えられています。
・豊富な出土品:土器や土偶、石器、勾玉などの装飾品に加え、赤色顔料の原料となる辰砂(しんしゃ)の原石なども出土しており、2022年には出土品一括が国の重要文化財に指定されました。
(※なお、愛知県知多郡東浦町にも同名の「天白遺跡(こちらは縄文時代早期からの集落遺跡)」が存在します) |
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102資料・考察
配石墓 記述日2026.05.26
天白遺跡は東海地方※最大の配石遺構を持つ遺跡である。 (※ご存じと思いますが、三重県は東海地方です。)
そこで、この地方の配石遺構についてしらべました。
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配石墓 の多い地域(AIによる)
北東北は縄文後期約4000年前。北海道では縄文後晩期約4000~3500年前、に作られた。
長野県大町市は約縄文前期5000年前から作られた。
配石墓は、主に縄文時代の中期から後期にかけて、石材が入手しやすい
北海道や東北地方(特に青森県や秋田県)で多く造られました。 (※縄文中期寒冷化に伴い、大量の餓死者を弔う目的ではないか)
また、関東地方の多摩丘陵周辺などでも数多くの配石墓が見つかっています。 (※うろ覚え知識です、東北地方から移住してきた人々との記憶があるのですが)
1.北海道・北東北地方(代表的な中心地)
縄文時代を通じて最も配石遺構・配石墓が密集しているエリアです。
・青森・秋田: 大規模な環状列石を持つ 大湯環状列石(秋田県境) や、配石墓が多数検出された 小牧野遺跡 などが有名です。
・北海道: 墓を伴う環状石籬が多く、北黄金貝塚や鷲ノ木遺跡 などが知られています。
(石を輪の形に並べた遺跡)
2.その他の地域
・関東地方: 関東ローム層が広がる地域などでは、石を並べた配石墓や土坑墓がまとまって発見されることがあります。
・中部地方: 山梨県の 金生遺跡など、祭祀を伴う(環状)配石遺構が発達した地域でも墓が併存していました。
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関東地方、多摩丘陵の配石墓(AIによる)
関東地方の多摩丘陵周辺(特に東京都町田市や多摩市域)では、縄文時代後期から晩期にかけての「配石墓」や、環状に組まれた「配石遺構(ストーンサークル)」が数多く発見されています。これらは当時の集落の共同墓地や祭祀の場として機能していました。
多摩丘陵における配石墓や関連する代表的な遺跡は以下の通りです。
代表的な遺跡・施設
・田端環状積石遺構(町田市小山町)
・概要: 縄文時代後期から晩期(約3,500年~2,800年前)にかけての集団墓地・祭祀場跡です。30基ほどの土壙墓(土を掘った墓)の周りに石を並べ、その上に縦9メートル、横7メートルのストーンサークルが築かれています。
・見学情報: 京王相模原線「多摩境駅」から徒歩5分とアクセスが良く、「日本一駅から近いストーンサークル」として知られ、実物は埋め戻し保存されていますが、レプリカが見学可能です。詳細やアクセスは町田市公式ページをご確認ください。
多摩ニュータウンの配石墓
多摩ニュータウン地域では、縄文時代中期の集落跡に伴う「配石遺構」や「配石墓」が多数発掘されています。
石を並べただけの単純な土坑ではなく、特定の祈りや埋葬の儀式を伴うものとして、縄文時代の精神文化を解明する上で重要な遺構です。
多摩ニュータウンにおける配石墓の特徴と事例
・祭祀と墓の役割: 縄文時代の配石遺構・配石墓は、集落(ムラ)の墓域や祭りの場として設けられました。遺体を土坑に埋葬した上に、石を環状(環状積石遺構)や方形に並べたり、敷き詰めたりする特徴があります。
・多摩ニュータウンNo.947遺跡: 配石の下から土坑が検出され、当時の埋葬や祭祀の様子をうかがうことができる貴重な遺構として記録された。
・多摩ニュータウンNo.72・796遺跡: 大栗川周辺の非常に大規模な遺跡群で、住居跡に加え複数の配石遺構が発見されています。
中部地方の配石遺構
中部地方における「配石遺構」は、縄文時代に石を組んで作られた墓や祭祀の場です。特に山梨県の「金生遺跡」や三重県の「天白遺跡」などが全国的に有名です。石器や祭祀具が多く出土しており、当時の精神世界を知る上で非常に重要な遺跡群となっています。
中部地方の代表的な配石遺構
・金生遺跡(山梨県北杜市)
・特徴: 八ヶ岳南麓の標高約770mに位置する縄文時代後・晩期の集落跡。墓や祭祀遺構が集合した大規模な配石遺構があり、異常に多くの
石棒や土偶が出土しています。祭祀の中心地であったと考えられています。
・女夫石遺跡(めおといしいせき)
韮崎市穂坂町にある縄文時代中期の集落跡です。
・特徴: 巨大な自然石を中心に、住居跡や配石遺構が見つかっています。
・大野遺跡(長野県木曽郡大桑村)
・特徴: 縄文中期~後期の遺跡です。竪穴住居群の周囲をドーナツ状に取り囲む環状配石遺構が出土し、重要な縄文集落跡です。
・上原遺跡(大町市)
・特徴: 縄文時代前期(約5,000年前)の集落跡で、2群の配石遺構が発見されました。
1号群は中心の石柱と12個の側石柱で構成される楕円形の配石で、祭祀の場として利用されたと考えられています。
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近畿地方の配石墓(AIによる)
近畿地方の配石墓は、主に縄文時代後期から晩期にかけて見られる遺構です。近畿の代表例として、滋賀県甲良町の「小川原遺跡(こがわら、西日本最大級の配石遺構群)」、また東日本文化との融合を示す「西ノ前遺跡(滋賀県)」などが挙げられます。
近畿地方の代表的な配石墓・配石遺構
滋賀県
・小川原遺跡(犬上郡甲良町)
・犬上川流域に位置する縄文時代後期〜晩期の中心的集落。
・西日本最大級とされる配石墓や配石遺構が広範囲で検出され、ハート形土偶の出土でも有名です。
・西ノ前遺跡(守山市)
・縄文時代後期の集落遺跡。東日本(関東など)で主流だった環状配石墓や配石遺構が多数見つかっており、
東西文化の接触・交流を物語る重要拠点として知られています。
京都府
・森山遺跡(城陽市)
・木津川流域の丘陵上に立地し、縄文時代後期の住居跡とともに配石遺構や土壙墓が確認されています。
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東海地方の配石墓(AIによる)
東海地方における「配石墓」は、主に縄文時代から弥生時代にかけて造られた、遺体や遺物を埋葬しその上に石を並べたお墓です。
県境を越えて地域ごとの特色ある遺跡が数多く見つかっています。
代表的な遺跡と特徴
・天白遺跡(三重県松阪市)
縄文時代後期から晩期の西日本屈指の祭祀・配石遺跡です。配石遺構のほか、水銀朱が付着した石器なども見つかっており、当時の祭りと墓の深い関わりを示しています。
・上白岩遺跡(静岡県伊豆市)縄文時代中~後期
東海地方で初めて完全な形での環状列石が発見された遺跡です。中央に大きな石を置き、周りを石で囲んだ構造をしており、大規模な墓域であると考えられています。
・愛知県内の発掘調査
近年では愛知県三河山間部のマサノ沢遺跡などで縄文時代後期の配石墓群が検出されており、岩偶などの祭祀遺物も同時に出土しています。
配石墓の役割
東海地方の配石墓は、単なる埋葬施設としてだけでなく、石を並べることで故人を弔う儀礼や祖先をまつる祭りの場としての機能も兼ね備えていたと考えられています。 |
※考察 天白遺跡の配石遺構
配石遺構には幾つかの系統があるようである。
縄文時代前期から始まったもの。関東地方で行なわれていたもの。東北や北海道の系統のもの。などである。
天白遺跡の配石遺構は、東北地方の配石遺構と深いつながりのあるもので、縄文中期に始まり、人々の南下移住に伴い出現したものである。
※考察 配石遺構1
縄文海進が終わり、寒冷化の始まりに伴い、食糧確保が困難となり、それまでの大型住居や多人数集落で暮らしていた縄文人は、
分散して暮らすようになり、多人数、豊富な食糧で行なえた社会保障的な共同生活を解散し、それぞれの家族単位での食糧獲得競争となった。
当然、傷病者や高齢者の家は餓死せざるを得なくなった。
旧石器時代は食糧を求めての移動が日々であったため、傷病者や高齢者は置き去りであっただろうから、そのような時代に逆戻りした。
しかし、縄文人が違ったのは、年に一度か、何度か、集まって穴を掘って死者を持ち寄って埋葬し、その上に墓標のように石を置いた。
当然、野生動物全盛の時代、遺体は山犬やクマなどに食い荒らされ、産卵していたものと思われ、人骨一体分ではなく一部だったであろう。
血縁の一統であるため、墓坑は隣接し、その年に果てた魂を祈ったに違いたない。
やがて墓石は連なり、共に旅立った魂への鎮魂の祈りを込めて、配石墓となった。
言い忘れたが、この寒冷化によって、縄文人の人口は1/5、20%にまで落ち込んだそうだ。熾烈なサバイバルの時代でした。
※考察 配石遺構2
縄文中期寒冷化に伴って始まったと思われる配石墓・配石遺構は、寒冷化の進行と共に南下した。それは縄文人が南下したということである。
早く南下した人々は、在地縄文人と競合しない場所を選んで定住する。遅く南下した者は、空いた場所を求めてはるか遠くまで行く必要があった。
移住者は、一族あげて、あてどなくさまよった者もいたかもしれないが、なかには、パイロット隊員を派遣して、移住適地を確保した後に
集団移住した者たちもいたようだ。それが、東北地方の遺跡を調べていると時折出土する北部九州や吉備・北陸の土器である。
これは、その地域に里帰りして集団を導いたに違いない。
しかし、この時に疑問なのが、道もなく、宿もなく、食糧すらない。ましてや行き来のための地図もナビゲーションもない。
いったいどうやって辿り着いたのかということだ。
先頃、「サンカ」という移動漂泊の人々が戦中戦後までいたことを知った。そして、私が幼少期に出会った人々が正にそれであったことも知った。
それは、日本ばかりでなく、海外にも同様の漂泊の民がいて(昨年TV放映)、よく似た暮らしをしていることも分かった。
多くは山中の資源を利用して生活し、作った品物を現金や食糧と交換して必要な物を確保する。
しかし、彼らはある時突然現れて、(日本の場合)河原などに住み着き、そして、また突然どこかへ去ってしまう。
正に月光仮面のように、~はやてのように現われて、はやてのように去って行く~
外国の場合は、旧石器人のように一定の範囲を遊動しているようである。
彼らに共通なのは、驚異的な空間認識能力で、決して道に迷うこともなく、全てを把握しているという。
外国の場合も、深い山中には、毒蛇や毒虫、毒草、未知の病気のある中で、裸足で移動するのであるから、それは驚異的と言える。
移住の先遣隊となったのは、身体強健、頭脳明晰な者達ばかりであるはずだ。これは、南太平洋に移住していった人々も同じことを言っている。
当然空間認識力にも優れた人々だったのでしょう。
※2026.9.4時点で、
その後、縄文時代には、ある土器型式の全国的な流通網が作られていたことがわかっており、人々はそのネットワークを通じて移動していた
ものと思われます。全国的な交易ルートにはいろいろなものがあり、例えば、ベンガラや、南海の貝交易などは沖縄から北海道まで続いて
います。
きっと縄文時代から多様な交易交通網があり人々はその道を利用して交易や移動をしていたものと思われます。
※考察 配石墓の建設1
大変な苦労の末にやっとたどり着いた定住の地で、集落を営み、移動中に倒れて見捨てた仲間をも思い、やがて配石墓を造って、土偶と共に
あるいは遺骨の一部と共に、魂の安らかなるを祈ったに違いない。
こういった葬送祭祀は、移動中にも忘れられることなく、連綿と受け継がれ続けたに違いない。
※考察 配石墓の建設2
在地縄文人の配石墓では、縄文中期前半は温暖期で、動物食糧も豊富で、人々は集団で暮らし、集落には大型建物があり、多人数・共同で狩猟活動を行なっていた。獲物は集落全体に分配され、働けなくなった人々も、傷病者にも生活が保証された。
しかし、縄文中期後半の寒冷化の始まりによってこの集落保障システムが成り立たなくなった。動植物食糧が得られなくなったからだ。
人々は共同生活から家族単位や、小集落に別れて個別の生活単位になり、つまり、働けなくなったら餓死が待つようになった。
やがて、年に何回か時期を決めて一ヶ所に集まり、葬送儀礼の祭祀を行なうようになった。この時作られたのが環状列石でした。
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105写真資料 天白遺跡 A地区
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天白遺跡 A 地区から出土した土偶の数々
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石棒,土偶,土製丸玉,土製勾玉,石刀類
天白遺跡 A 地区から出土した祭祀遺物
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出土遺物
石棒,
土偶,
土製丸玉,
土製勾玉,
石刀類 |
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配石20~27出土状況
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天白遺跡 A 調査区南半部発掘状況
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土偶出土状況
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配石15~19出土状況
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地中レーダー探査
地中探査の状況
(赤い色が石等の抵抗値が高い場所) |
天白遺跡A調査区
遺構図
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天白遺跡 A 調査区
(北から) |
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周囲に石を巡らした配石遺構
二重に石を巡らした配石遺構
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配石1・配石2・焼土13出土状況
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天白遺跡出土 土偶1 |
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110天白遺跡 |
111天白遺跡
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国史跡 天白遺跡
天白遺跡は、三重県(伊勢平野)のほぼ中央部を流れる雲出川の支
流中村川中流の河岸段丘左岸に立地する遺跡です。 松阪市嬉野釜生田町に所在し、 現標高は28m前後です。
1992(平成4)年に、県営ほ場整備事業に伴う発掘調査が実施され、縄文時代後期中頃(今から約3500年前)から晩期 (2300年前)にかけての
配石遺構30ヶ所、土器埋設坑 26ヶ所などとともに、多量の遺物 (土器や石器など) が見つかりました。
その中には日常品ではなく、マツリ(祭祀) やイノリ (祈り) に使用されたと思われる土偶、 石偶、 石剣 の他、 朱の付いた土器なども多く出土しており、中でも土偶の出土数は三重県でも群を抜いています。
したがって、当遺跡の性格については、「日常の場」ではなく、むしろ大規模な “マツリ (祭祀)” や葬送儀礼等がおこなわれた 「非日常の場」であったとも推定されています。
縄文時代の配石遺構がまとまって発見された例は極めて珍しく、 縄文時代研究 (学問的見地)の上でも大変重要な遺跡であることから、2000(平成12)年、
国の史跡に指定されました。 |
天白遺跡 調査と保存の経緯
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昭和 63(1988)年 |
天白遺跡を発見(皇學館大學考古学研究会)。 |
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平成2(1990)年 |
県営ほ場整備事業に先立つ天白遺跡の試掘調査を三重県埋蔵文化財センターが実施。 |
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平成4(1992)年 |
平成2年の試掘調査結果による本調査を実施。
縄文時代の配石遺構を発見とともに、 遺跡の北端とその広がりが東西約90mであることが推定された。
また、文化庁等の現地指導も受ける。 |
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平成5(1993)年 |
天白遺跡の範囲確認調査を実施 (嬉野町教育委員会) 遺跡の南北の広がりは約100mと推定された。
ほ場整備の計画変更がなされ、 縄文時代の配石遺構を中心に東西 124m、 南北 105mの範囲が、 嬉野町史跡に指定された。 |
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平成7(1995)年 |
町指定範囲が三重県史跡に指定された。 |
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平成12(2000)年 |
西日本において、縄文時代の配石遺構がまとまって発見されたのは極めて珍しく、かつ保存状況も良好である等により、
国史跡に指定された。
(平成12年4月12日付け 指定面積 14,226m2) |
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平成23(2011)年 |
天白遺跡の国史跡指定地内の公園整備完了。
(配石遺構の一部復元、 標識・東屋等の整備) |
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天白遺跡 調査と保存の経緯
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112
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縄文時代
太古の昔、人びとは食物を求めて狩猟採集の生活をしていました。
私たちが“縄文時代”と呼ぶ時代は、今からおよそ 12,000 年前から、およそ2,300 年前まで、約1万年もの間続いたと考えられています。
人びとの生活は自然と共にあり、 季節の海の幸、山の幸の恵みを頼りにしていました。
人びとは恵みを与えてくれる自然を敬い、 感謝するマツ リを盛大に行ったことでしょう。
天白遺跡はマツリの場と考えられています。 マツリでは自然の力の偉大さをたたえるとともに、 人間が自然を破壊することは厳しく戒めたこと でしょう。環境破壊が人間の生活をおびやかし始めている今、
私たちは、自然とともに生きた縄文時代から学ぶことが、 数多くあるのではないでし ょうか。 |
縄文時代 |
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縄文土器
人々は、 狩りで得た動物の肉、海や川で捕った魚介類、 森で集めた木の 実などをそのままか火であぶって食べていました。
しかし、今から約1万5千年前、世界に先駆け、この日本では、粘土をこねて焼いた土器と呼ばれるものが発明されました。
これは極めて画期的な出来事で、土器は食物のあく抜きや煮炊きに使用 され、食生活が格段に豊かになりました。
土器は日常の生活には欠かせないものとなり、その用途に適した形の土器が作られるようにもなりました。
土器には、文様のないものの他、 沈線や隆線等で飾り立てたものも現れますが、 表面に縄を転がして縄目の文様をつけた土器も多く、
その時代を代表する土器として“縄文土器” と呼ばれています。
本展示では、 実際の煮炊きに使用された甕(深鉢)の他、祭祀 (マツリ)に使用されたと考えられる浅鉢や注口土器の他、埋葬用甕に転用された
深鉢なども展示しました。 |
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113土偶 天白遺跡 縄文時代後期中葉から晩期初頭
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土偶
土で人や動物などを形づくって焼いたものを土偶といいます。
縄文時代の遺跡から出土する焼き物ですが、 天白遺跡では約70点あまり発見されており、その数は下沖遺跡 (嬉野宮野町)の出土例を加えると、 三重県下の出土総数のほとんどを占めています。
一般的に、 土偶は人の場合 「女性」 の姿を表わしており、命を直接生み出す女性を不思議な力を持つ神にたとえ、 多産や安産の祈りを込めたものと思われます。
また、 実際の出土品には一部が欠 けているものが多く、意識的に欠き割って、 病などの身代わりとして使用したとも言われています。
いずれ にしても、まつりや祈りのための道具であったことは間違いありません。 |
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国史跡 天白遺跡
土偶
縄文時代後期
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土偶
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天白遺跡でみつかったたくさんの土偶
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114石棒
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115赤色顔料の精製
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赤色顔料が付着する遺物
天白遺跡から出土した土器や石皿などには赤色顔料が付着しているものも多くみられます。 多くは鉢の内面もしくは文様のある鉢の外面に認められ、土偶や岩偶と同様に、 祭祀的な意味合いをもつものでしょう。
縄文時代の赤色顔料としては、 酸化鉄 (赤鉄鉱) を原料とする 「ベンガラ」 と、辰砂 (硫化水銀) を原料とする 「朱」 の2種類がありました。天白遺跡ではその両方が認められますが、量的には朱のほうが多いです。 なお、 辰砂の原石も1点ですが出土しています。
また、 天白遺跡では、 朱の付着した敲石、磨石、石皿や辰砂原石も出土しており、この 場所で赤色顔料を生産していた可能性も高いといわれています。
いずれにしても、 天白遺 跡が単なる集落遺跡ではなく、 祭祀場であったことを強くうらづける事象といえます。 |
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国史跡 天白遺跡
すり石
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
石皿
縄文時代後期
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赤色顔料が付着する遺物
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朱の付いた石器や土器
写真: 三重県埋蔵文化財センター所蔵
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※資料 赤色顔料
三重県の赤色顔料鉱山 (AIによる)
三重県付近で赤色顔料(水銀朱・辰砂など)が産出する代表的な場所は、多気郡多気町にある丹生鉱山跡周辺です。古代から水銀の産地として知られ、東大寺の大仏建立時にも献上された歴史ある赤色顔料の採掘スポットです。
1. 丹生鉱山・丹生水銀鉱跡(多気郡多気町)
・詳細: 古代(縄文時代〜邪馬台国の時代)から水銀(朱・辰砂)を採掘していた日本有数の水銀鉱山跡です。
鮮やかな赤紫色の顔料が採取でき、歴史的な「たぬき掘り古道」が残されています。
・場所: 三重県多気郡多気町丹生
2. 天白遺跡(松阪市嬉野町)
詳細: 国内でも初期の水銀朱利用を示す重要な縄文時代の祭祀遺跡です。
国内最古級の水銀朱が付着した石器や土器、辰砂鉱石が出土しています。
※辰砂鉱石の採取
天白遺跡から丹生鉱山まではほぼ直線に南下して23km5時間の行程である。朝出れば、夕方には帰って来れる身近な距離である。
天白遺跡以外に付近の縄文遺跡で使用されていないので、天白縄文人が発見して採掘し、精製して使用したようだ。
これは、彼らが長い漂泊の果てに身に付けていた知識によって生み出された産物ではないでしょうか。 |
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国史跡 天白遺跡
石鏃
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
打(製)石斧
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
石錐
縄文時代後期
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120土器
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 深鉢
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 深鉢
纏文時代後期
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 深鉢
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 深鉢
埋設土器
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 深鉢
縄文時代後期
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一条寺K式 東海地方起源の土器 |
国史跡 天白遺跡
縄文土器 小型深鉢
縄文時代後期 |
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 浅鉢
縄文時代後期
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類似土器は千葉県西広貝塚・前浦遺跡で出土という |
国史跡 天白遺跡
縄文土器 鉢
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 鉢
縄文時代後期
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国史跡 天白遺跡
縄文土器 注口土器
縄文時代後期
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類似土器は千葉県佐倉市から出土という |
国史跡 天白遺跡
縄文土器 壺
繩文時代後期
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この土器について
調べたところ |
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この土器について調べたところ、
画像検索による
この土器の具体的な型式については、出土した三重県松阪市の天白遺跡の報告により、以下のような型式が含まれていることがわかっています。
天白遺跡の縄文時代後期(約3,500〜3,000年前)の土器には、
主に西日本の様式である一乗寺K式から、続く滋賀里Ⅰ・Ⅱ式までの各型式が含まれています。
天白遺跡の土器型式の特徴
・東西文化の結節点:
西日本の型式(一乗寺K式など)が中心ですが、東日本の加曽利B式の影響を強く受けた土器も一緒に出土しているのが
大きな特徴です。
・交流の証拠:
東北地方の瘤付(こぶつき)土器など、遠方との交流を示す珍しい型式も確認されています。
・祭祀の場:
この遺跡は大規模な配石遺構(ストーンサークル状の遺構)を持つ祭祀遺跡であり、写真のような壺も儀礼的な役割を
果たしていたと考えられています。 |
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天白遺跡土器は、一条寺k式土器 (このリンクの最下に一条寺K式の説明があります。)
一乗寺K式土器
一乗寺遺跡は、京都左京区一乗寺向畑町に所在する。ここに最初に縄文人が生活したのは、凡そ7000年前、早期後半の時期で、押型文土器と土器の表面を平らにするために貝殻でなでた痕跡の貝殻条痕の上に、紐状の粘土を貼り付け、細い竹の先端で丸い文様をつけた土器が出土している。
しかし、これらの土器は量は少なく、多くの人々が生活していたようではないようだ。
一乗寺遺跡で再び人々が生活を始めるのは、凡そ3500年前、後期中頃のことである。縄文時代後期は、中期には温暖だった日本の気候が寒冷化に向った時代で北白川扇状地にはイチイガシなどのドングリが実る照葉樹林の森が広がっていた。残念ながら住居の跡は発見できないが、多くの土器、石器が出土し、この時代には人々が定着して生活していたことがわかる。しかし、同じ一乗寺遺跡内でも人々は少しずつ生活する場所を移していたようで、北、中央、南地点から出土する土器はそれぞれ器形、文様が異なっている。その中で、北地点の土器は器形や文様にそれまで知られていた土器とは違う特徴があり、近畿地方の後期中頃の土器として、佐原真氏が一乗寺式土器と名づけた。Kは後期を差している。
一乗寺式土器には、ものを煮炊きする深鉢、盛り付ける浅鉢、液体を注ぐ土瓶(注口土器)の三つの器種のセットがある。
深鉢には文様で飾り、丁寧に仕上げる精製深鉢と、前面に貝殻条痕が残る粗製深鉢の二種類があり、精製深鉢にも口縁部が、「く」字形に折れ曲がり、頸部がくびれて胴部が膨らむものと、口縁部が直線的に開き、あまり屈曲がないものとがある。
口縁部が折れ曲がる精製鉢は、口縁部と胴部の二箇所に文様を施す。口縁部は縄文を施した低い隆帯や、日本の沈線の間に縄文を施し、外部は無紋で残す磨消縄文により文様を描き、胴部には数本の平行沈線の間に縄文を引いて縄文を施す。
口縁部、胴部の数箇所には渦巻き文が変化した「ノ」字文、逆6字文、C字文を入れる。頸部などの文様を施さない部分は丁寧に磨いている。屈曲のない深鉢は、胴部だけに縄文を入れ、口縁部と頸部は磨いて仕上げる。 |
滋賀里Ⅰ・Ⅱ式 AI による概要
「滋賀里Ⅰ・Ⅱ式」は、滋賀県大津市の滋賀里遺跡を標式遺跡とする、縄文時代晩期(約3,000年前)の土器型式です。
西日本における縄文時代晩期の編年の基準となる重要な土器群として位置づけられています。
滋賀里Ⅰ・Ⅱ式の特徴と変遷
・標式遺跡と命名の由来
・国鉄湖西線の建設に伴う発掘調査(1971〜1972年)などで出土した土器群をもとに、1973年の報告書で型式編年が提唱されました。
・滋賀里Ⅰ式(晩期初頭〜前葉)
・晩期の最初期にあたる土器群です。
粗製土器と精製土器があり、黒く丁寧に磨き上げられた浅鉢や深鉢などが特徴で、機能性と洗練された美しさを備えています。
・滋賀里Ⅱ式(晩期中葉)
・滋賀里Ⅰ式に続く時期の土器群です。この時期になると、九州南部から伝わったとされる「橿原式」の精製有紋土器が
組み込まれ、多様な文様が施されるようになります。 |
加曽利B式 AI による概要
加曽利B式とは、縄文時代後期中頃(約4000年前)に関東地方を中心に流行した縄文土器の形式です。
千葉県の「加曽利貝塚」のB地点から出土した土器を基準にして名づけられました。
主な特徴
・器種が豊富: 先行する時期に比べて、小型の深鉢や壺、注口土器など器の種類が増加しました。
・繊細な文様: 縄文(縄を転がした文様)だけでなく、竹管やヘラなどで描かれた細い線(集合沈線文)や、線を引いた後に縄文を消す(磨消し縄文)といった技法が多用されました。
編年と歴史的意義
加曽利B式は、古い順から B1式・B2式・B3式(または新式) などに細かく分類されます。
加曽利貝塚の地層調査で、土器が変化していく様子(層位学的関係)が日本で初めて科学的に証明された遺跡であり、日本の縄文土器研究の基礎を築いた重要な土器形式として知られています。 |
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200天白配石遺跡
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210
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自然崇拝 (アニミズム)
縄文人がどんな信仰を持っていたのか? それを考えることは、想像の域を出ないのですが、 おそらく、 縄文人は自然現象や物質 (たとえば大きな不動の岩や石など)、
あらゆるものに精霊が宿るものと考え、それに対して大きな畏怖と脅威を抱いていた反面、自然からも大いなる加護を求めていたとも考えられます。
したがって、 マツリ (祭祀) や呪術をすることによって、 災いや病気を避けたり、一方では獲物や採集物の増加等を祈っていました。
祭りや呪術にたずさわっていた人物、“シャーマン” と呼ばれる人ですが、すでに縄文時代には存在していたと思われます。
このシャーマンを仲立ちにして、自然界のあらゆる神々に祈りをささげ、世の平安を求めていたのが、縄文社会の一側面であったのかも知れません。
天白遺跡で発見された広大な配石遺構群や多くの火を焚いた痕跡 は、そんな世界を物語っているとも言えましょう。 |
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自然崇拝アニミズム |
御塩所(御塩殿神社) |
令和5年6月27日(火)、「三重県天白遺跡出土品」(163点)(三重県所蔵)が国の重要文化財に指定されました。 |
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| 300 |
300縄文時代
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310
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嬉野の縄文時代の特質
―縄文時代後期の社会
現在、 三重県内においては複数の土偶を出土する遺跡は、この中村川流域の縄文時代、後期の集落跡が主であり、他には宮川流域にある森添遺跡のみです。
こうしたことから、 現在の中村川流域において縄文時代の大きなムラが営まれていたと考えられます。 そうした、こと以外に平成4年の三重県埋蔵文化財センター調査の天白遺跡においては西日本最大級の配石遺構
(墓)を有するムラが確認されました。
この配石遺構は、配石墓を環状に巡らすといった形態を有するもので、 東日本の縄文時代のムラ跡ではよく確認される遺構ですが西日本においては、大変珍しい遺構です。
そうしたことから、こうした遺構の成立するには、天白遺跡のムラが東日本との深く交流をしていたものだと考えられます。
こうしたことは、 平成3年度に嬉野町教育委員会が調査した下沖遺跡 において確認された土偶の中に、東日本で見られるような立体形の土偶 が出土することや東北の大洞式の土器などが出土することから、東北を 含めた広い範囲で交流がなされていたことが考えられます。 |
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嬉野の縄文時代の特質 |
嬉野の縄文時代の特質
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天白遺跡配石遺構 |
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313
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※考察 嬉野の考古遺跡について 記述日2026.05.25
上記解説の通り、東日本との交流が深く関係していると思います。
最初に、たくさんの土偶、を見た時、秋田県や岩手県の遺跡、引いていは北海道の遺跡かと、見まごうばかりでした。
伊勢堂岱遺跡では、配石遺構に沢山の人骨が埋葬され、その上に、まるで目じるしのように、個性豊かな土偶が無数に置かれていました。同時に多角形に加工した石片・土器片などが置かれていました。嬉野では三角石片はなかったので、区別できましたが、まるで東北地方の配石遺構でした。
縄文中期後葉になると気温が低下し、沢山の東北人が南下し、しかも、何世代もかけて南へ西へと移住を繰り返し、北部九州にまで進出。
それまで石棒や土偶がなかった地域にその東北文化を持ち込みました。
関ケ原で岩手県の座産土偶が発見され、それが神戸で発見された座産土偶とオリジナルとの丁度中間の形状とされています。
つまり、東北から移住してくる中でも座産土偶は伝承し続け、おそらく大切な出産に際しての護符のように造られたのでしょう。
しかし、世代を越えて一生に数度しかない出産での護符は次第に形骸化され、形も曖昧となって伝わり、神戸で発見された癒着した身体のような
座産土偶の姿が、オリジナルと照らし合わせると、丁度中間の形が関ケ原でした。
つまり、東北から寒冷化に追われて沢山の縄文人が南下し、一部は太平洋岸を歩き、巨大な木曽三川の湿地帯を北に迂回して、廻り込み、紀伊半島にたどり着いた一群は、三重県を南下し、松阪市の中村川流域や宮川流域に住み着いたのでしょう。世代をかけて移動しながらも、必ず訪れる
高齢死や病死、事故死などはむしろ定住状態よりも多かったので、葬送儀礼はそれほど形をかえに伝承されたのでしょう。
結論として、三重県の一部に東北からやって来た人々が定住したために、このような東北の風習が持ち込まれたものと考えます。
※天白遺跡移住者は、千葉県(関東系)の土器の影響を受けているので、太平洋側~東海地方を歩いたのでしょう。そして木曽三川迂回後南下し
三重県に入った。彼らは座産土偶を持っておらず、別の文化から来たようです。秋田県かな?
※座産土偶グループは日本海沿岸を南下して滋賀県から琵琶湖東岸を回って来たのだろうか。しかし、親不知の断崖は越せなかっただろう。
天白グループとは別の地域から、同じように暖かい土地を目指して豪雪地帯の関ケ原に達し、何世代かを経て、やがて雪の少ない神戸に移動。
座産土偶の伝播のその先は知らないから、更に岡山平野に向かったかはわからない。 |
※津市芸濃郷土資料館について (芸濃郷土資料館は無人で常時閉鎖。三重県埋蔵文化財センターや・三重県総合博物館の許可が必要です。)
島根県立古代出雲歴史博物館では、岩手県の座産土偶や、青森県の陰嚢付注口土偶が展示されています。これら島根県の山中から出土した遠来の遺物は、津軽半島へ弁柄を取りに行った、島根の縄文人の船で運ばれたものと思われ、非常に完形に近く元の形をとどめています。(弁柄色でした)
(※古代出雲歴史博物館の座産土偶・陰嚢付注口土器については古代出雲歴史博物館2を立ち上げ、「60縄文時代の各地との交流」で検索)
また、これらと同じ島根の展示コーナーに、「双耳壷」が、何の脚注もなく、置かれていました。あまりにも不自然なため、その後、ネット検索していましたら、全く同じ形状の双耳壷が三重県芸濃郷土資料館の「館便り」に掲載されているのを発見しました。つまり、津市芸濃地方と、島根県出雲市の日本海側山中の遺跡とは深いつながりがあったのです。これらはどちらも形を保っており、安全な方法で両所に運ばれたようです。
(※古代出雲歴史博物館の双耳壷については、古代出雲歴史博物館2を立ち上げ、双耳壷 で検索)
この双耳壷の生産地はわかりませんが、どこかで何個か(2個だけかも)造られた同形の物が、それが偶然にも
東北からの花嫁が船でやって来た、島根県の山中の遺跡と、遠く三重県の芸濃地域とに運ばれて現代にまで伝わることになりました。
どちらもとても完形に近いかたちを保っているので、当時、非常に大切にされていたものだとわかります。
このことを発見してから十年以上の時が流れ、今回、この芸濃郷土資料館に双耳壷を見に行こうとして連絡を取ったのですが、
簡単に言っちまえば、「そんなのしらね~」「なんのはなし~」てなことになっちまって、結局見に行けませんでした。残念でした。 |
日本での双耳壷の生産地
日本において、2つの耳(持ち手)が付いた壺である「双耳壺(そうじこ)」(あるいは二耳壺)は、古代の土器から中世・近世の陶磁器にいたるまで、いくつかの代表的な窯場や地域で生産されてきました。
1. 珠洲焼(石川県珠洲市)
中世(12世紀後半〜15世紀末)の日本海側を代表する陶器である珠洲焼(すずやき)では、多くの双耳壺が生産されました。
・特徴: 釉薬をかけずに高温で焼き締める「還元炎焼成」により、独特の灰黒色〜灰色を呈します。
・用途: 当時は主にお墓に納める「蔵骨器(骨壺)」などとして使われ、大型の双耳壺も出土しています。
2. 古瀬戸・瀬戸焼(愛知県瀬戸市)
鎌倉時代から室町時代にかけて、日本で唯一「釉薬(うわぐすり)」をかけた施釉陶器を生産していた瀬戸(古瀬戸)でも、双耳壺(二耳壺)が作られました。
・特徴: 灰釉(かいゆう)や褐釉(かつゆう)がかけられた、気品のある姿が特徴です。
・用途: 後世には茶道における花器(花入れ)や茶道具としても珍重されました。
3. 越前焼(福井県丹生郡越前町)
日本六古窯の一つである越前焼でも、中世から近世にかけて焼き締めの双耳壺が生産されています。
・特徴: 素朴で力強い土の質感と、窯の中で灰が降りかかってできる自然釉(ビードロ釉)の味わいがあります。
4. 近世・近代の磁器産地(佐賀県・兵庫県など)
江戸時代以降、高級な飾り壺や花瓶として、磁器製の精巧な双耳壺(または双耳花瓶)が各地で生産されるようになりました。
・出石焼・盈進舎(兵庫県豊岡市): 明治時代に良質な白磁で知られた盈進舎などで、立体的な装飾を施した「白磁双耳壺」などが作られました。
・九谷焼(石川県)/有田焼(佐賀県): 色絵や金彩を施した華やかな装飾用の「双耳付花瓶・飾り壺」が、輸出用や高級調度品として数多く生産されました。
※芸濃・出雲の双耳壷は北陸から東海が産地ではないかと思います。 |
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320縄文時代
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縄文時代とは、日本列島に土器が出現した12000年前から水田稲作が開始される約2400年前までの動物の狩りをしたり、 植物を採集を生活の糧 として、
定住生活を送った時代です。 土器の形や作り方によって6期に 分けられています。
| 草創期 |
12000年前~10000年前
★天保遺跡(有舌尖頭器) |
| 早期 |
10000年前~6000年前
★ 釜生田遺跡 押型文・竪穴住居
★井之上遺跡 押型文
★東野B遺跡 押型文・竪穴住居住居 |
| 前期 |
6000年前~5000年前
★釜生田遺跡
★下沖遺跡 |
| 中期 |
5000年前~4000年前
★堀之内遺跡
★針箱遺跡 |
| 後期 |
4000年前~3000年前
★天白遺跡
★下沖遺跡 |
| 晩期 |
3000年前~2400年前
★蛇亀橋遺跡
★ 天保遺跡 |
特徴
| 土器 |
縄文を施したものがよく知られますがそれ以外に押型文条 痕文等のさまざまな文様が施されるものがあります。
また土器には文様で飾られる精製土器と文様で飾られない粗製土器があります。
また土器の種類としては 深鉢浅鉢が主になりますが、 時代によっては注口土器 (やかん型の土器) や脚の付く壺等もあります。 |
| ムラ |
縄文時代のムラは竪穴住居と呼ばれる、 竪穴を掘り周囲に土堤を設け、屋根等で包た住居で1つのムラに5棟~6棟の住居で構成されておりムラの人口は30人~20人程度だと考えられています。 |
| 食事 |
縄文時代の人々は狩猟採集を主にした生活でしたが、動物を食料の主にするのではなくクルミ・ドングリ・トチ・地下茎等の植物食料を主にし魚貝類 (コイ・フナ・サケ・ヤマトシジミ等)や動物
(タヌ キ・イノシシ シカ イルカ・クジラ・ヘビ等)のあらゆる種類のものを食料としています。 |
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縄文時代 |
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下沖遺跡全景 |
下沖遺跡全景
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蛇亀橋遺跡2次調査区
全景
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蛇亀橋遺跡から見つかった落とし穴
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330遺跡 |
331
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天保遺跡
有舌尖頭器
縄文時代草創期
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石斧,ナイフ形石器,
尖頭器,細石刃
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旧石器時代の狩りの
風景復元イラスト |
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332押型文土器
馬之瀬遺跡
押型文土器
縄文時代早期 |
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棒に縄を巻いた押型
と思います
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333石器
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石鏃 |
石錐 |
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石匙 |
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井之上遺跡
石匙
縄文時代前期
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石匙
皮はぎ等に使われた石器 |
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嬉野の縄文カレンダー
縄文カレンダー |
冬 狩猟
イノシシ
シカ
タヌキ
サル
ウサギ
家造り |
秋 採集
クルミ
ノブドウ
ドングリ
クリ
土器作り |
夏 漁撈
コイ
サケ
ナマズ
フナ
石器作り |
春 採集
ヤマノイモ
ワラビ
ゼンマイ
アサリ |
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335石剣・磨石
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下沖遺跡
石剣
縄文時代後期
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下沖遺跡
すり石
縄文時代後期
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337土偶
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下沖遺跡の土偶 AI による概要
日本最古の土偶は粥見井尻遺跡(松阪市飯南町)から出土しています。
三重県松阪市嬉野町(旧嬉野町)にある下沖遺跡は、縄文時代後期の集落遺跡です。発掘調査では16点の土偶が出土しており、板状土偶が中心ですが、足の指や膝、臀部を立体的に表現したものや、東北地方南部からの搬入品とみられるものも確認されています。
下沖遺跡と土偶に関する特徴と関連するスポット
・遺跡の立地と性格: 中村川左岸の河岸段丘上に位置し、竪穴住居や集石遺構などが発見されている縄文時代の拠点集落です。
・土偶の出土状況: 計16点の土偶が発掘されました。板状の形態のほか、細部を立体的に表現した個性的な土偶も含まれているのが特徴です。
・出土品の展示: 下沖遺跡から出土した遺物の多くは、松阪市にある嬉野考古館で保管・展示されています。
・周辺の関連遺跡(天白遺跡): 下沖遺跡から中村川を下った約2kmの場所には、国指定史跡である天白遺跡があります。
天白遺跡は日常の生活域ではなく、周辺の集落が共同で使用した「祭り場(祭祀場)」と考えられており、
ここからも多数の土偶が出土しています。
土偶の詳細な出土品や歴史的背景については、松阪市公式ウェブサイトの文化情報で詳しく解説されています。 |
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350縄文土器
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新々田遺跡
縄文土器 深鉢
縄文時代前期
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蛇亀橋遺跡
縄文土器 深鉢
縄文時代中期
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下沖遺跡
縄文土器 浅鉢
縄文時代後期
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下沖遺跡
浅鉢
縄文時代後期 |
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下沖遺跡
縄文土器 深鉢
縄文時代後期 |
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天保遺跡
縄文土器 深鉢
繩文時代晚期
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| 400 |
400第2室
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400弥生時代 |
| 401入口展示
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| 403全景
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407嬉野の遺跡分布
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| 410 |
411
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弥生時代
弥生時代とは日本列島において米作りが開始された、紀元前3世紀~前方後円墳がつくられる3世紀後半代までの600年間を指します。
米作りは、大陸から九州地方に導入されてから急速に広がり、この伊勢湾岸に到達しました。
この嬉野町が所在する雲出川流域においては中ノ庄遺跡 (三雲町)や片野遺跡・鳥居本遺跡 (一志町)で見られる以外に町内の下之庄東方遺跡、
庵ノ門遺跡 ・ 野田遺跡・権現前遺跡・上野垣 内遺跡等で認められています。
こうした状況は、 近畿地方に水稲農業が 開始された時とほぼ同時期に水稲農耕がこの地で開始されたことが解っています。
こうした稲作が開始された頃はやや不安定なムラの営みでしたが、 中期に入りムラは大きく変化する様になってきます。
それは、 下之庄東方遺跡で見られるような、ムラから集落へと言ったような集落規模の拡大となります。
こうした大型化する集落は前期から中期 (Ⅱ様式) から拡大化と規格的な集落が形成され、 後期まで継続した集落が営まれます。
こうした継続的な集落の存続とは別に弥生時代の集落は沖積平野から、 山間部の平野にも集落が展開し中郷地区の午前坊遺跡や天白遺跡等に集落が形成される様になります。
特徴
| 集落: |
弥生時代の集落はまわりに濠を巡らした、防御的な性格を有した集落が出現します。 また、下之庄東方遺跡で見られたような、大きな集落が形成される拠点集落とそれから分かれた周辺集落の2つに分かれます。
また、縄文時代の集落においては、2棟単位が集落の一単位であったのが、大型竪穴住居1棟、小型竪穴住居4~5棟、高床倉庫1棟が1単位となり、 そうした単位が拠点集落においては4~5単位となり ます。 |
| 祭祀: |
稲作は、稲とそれをとりまく自然に対する信仰・儀礼が発達し、弥生時代を代表する、銅剣 銅鉾・銅・銅鐸の青銅器祭祀具が創出されます。現在町内においては、銅鐸等の祭祀具は確認されていませんが下之庄東方遺跡においては銅鐸に使用されたと考えられる舌が出土していることなどから、町内の弥生時代の遺跡においては銅鐸が存在していたと考えられます。 |
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413弥生系と縄文系
遠賀川系と条痕文系の遺跡分布 |
遠賀川系土器とは半島系・弥生系の土器である。
条痕網系土器とは東日本系・縄文系土器である。
伊勢湾西岸には遠賀川系土器集落が大勢を締め、嬉野のある雲出川流域の湿地帯付近も九州弥生系である。
一方、木曽三川の下流の氾濫地帯こそ遠賀川系土器集落が大勢を占めるが、縄文系集落に対して、弥生系が
入り込む形で分布している。
稲作農耕文化とはいうものの、その実は、朝鮮半島南部沿岸の海賊漁民であるので、そう簡単に受け入れられる
はずはないのです。うっかりすると、青谷上寺地遺跡の大虐殺のような憂き目にあうので、縄文系の警戒心は
もっともなものである。 |
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415野田遺跡
野田遺跡全景
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野田遺跡全景
小さな水田が並ぶ |
水田の測量図
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野田遺跡では、
佐賀県唐津市の菜畑遺跡のように、小さな水田が規則的に並んでいる。
初期水稲栽培では、稲籾の性質にばらつきがあり、収穫時期が異なるため小さな水田区画と、入りやすい畦道が必要でした。 |
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420弥生土器 |
| 421
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422前期
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野田遺跡
弥生土器 壺
弥生時代前期
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野田遺跡
弥生土器 壺
弥生時代前期
壺 |
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424中期
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上野垣内遺跡
弥生土器 壺
張生時代中期
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伝川北西山古墳
弥生土器 細頸壺
弥生時代中期
野田遺跡
弥生土器 細頸壺
弥生時代中期 |
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426後期
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前山遺跡
弥生土器 壺
弥生時代後期 |
前山遺跡
弥生土器 甕
弥生時代後期
東海系台付甕 |
前山遺跡
弥生土器 高杯
弥生時代後期
前山遺跡
弥生土器 高杯
弥生時代後期
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台付甕 AIによる概要
考古学における「台付甕(だいつきかめ)」は、主に東海地方(伊勢湾周辺・遠江など)に起源・中心を持つ土器の系統です。
台付甕の系統と特徴
・発祥と広がり:
弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて東海地方で生まれ、その独自の煮炊き技術とともに東日本の広い地域(関東や東北など)に
波及しました。
・形状: 口の縁がアルファベットの「S字状」に曲がっているものが多く、「S字状口縁台付甕」とも呼ばれます。
・機能: 器壁を薄く作って脚台を付けることで、炉の中で安定し、熱効率(対流)を劇的に高める工夫がされていました。 |
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| 430 |
431石器
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馬之瀬遺跡
石包丁
弥生時代
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天花寺表採
磨製石斧
弥生時代 |
前山遺跡
銅釧
弥生時代後期 |
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432中期土器
馬之瀕遺跡
弥生土器 甕
秀生時代中期 |
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435後期土器
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女牛谷遺跡
弥生土器 鉢
弥生時代後期
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女牛谷遺跡
弥生土器 甕
弥生時代後期
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女牛谷遺跡
弥生土器 脚付長頸壺
弥生時代後期
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女牛谷遺跡
弥生土器 甕
弥生時代後期 |
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437
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女牛谷遺跡
弥生土器 脚付甕
弥生時代後期
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女牛谷遺跡
弥生土器 壺
弥生時代後期 |
前山遺跡
弥生土器甕
弥生時代後期
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前山遺跡
弥生土器 壺
弥生時代後期 |
前山遺跡
弥生土器 甑
弥生時代後期

蒸し器となっています |
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440貝蔵遺跡 三重県松阪市嬉野中川町
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| 441全景
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443土器
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貝蔵遺跡土器出上状況 |
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貝蔵遺跡
弥生土器 墨書土器片
弥生時代後期
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貝藏遺跡
弥生土器壺
体部にヘラ描文様
弥生時代後期
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445
貝蔵遺跡
弥生土器 壺
体部に絵画墨書
弥生時代後期 |
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447
貝蔵遺跡
弥生土器 鉢
体部に絵画墨書
弥生時代後期 |
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| 460貝蔵・片部遺跡 三重県松阪市嬉野中川町 |
| 461
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463
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貝蔵遺跡
弥生土器 甕
弥生時代後期
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片部遺跡
弥生土器 たたき甕
弥生時代後期
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弥生土器 脚付長頸壺
弥生時代後期
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片部遺跡
弥生土器 高杯
弥生時代後期
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no caption |
貝蔵遺跡
弥生土器 ヒサゴ壺
弥生時代後期
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465
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貝蔵遺跡
弥生土器 壺
弥生時代後期 |
貝蔵遺跡
弥生土器 壺
弥生時代後期 |
片部遺跡
弥生土器 手焙り型土器
弥生時代後期 |
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片部遺跡
弥生土器 高杯
弥生時代後期 |
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480行燈展示 |
| 481銅鐸形土製品 貝蔵遺跡
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483
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貝蔵遺跡
特殊器台
弥生時代後期 |
蔵遺跡
特殊器台
弥生時代後期
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特殊器台 貝蔵遺跡 |
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| 500 |
500古墳時代
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510古墳時代初頭
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貝蔵遺跡
墨書土器「田」
弥生末~古墳初頭 |
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貝蔵遺跡
墨書土器「人面」
弥生末~古墳初頭
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片部遺跡
松阪市指定文化財
墨書土器 「田」
日本最古級
古墳時代前期 |
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墨書 「田」 赤外線写真
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550古墳時代前期 |
551
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嬉野の前期古墳の特質
中村川流域の前期古墳の特質は、まず、 前方後方墳があげられます。 これらの古墳については正確に調査がされていないために不明な点が多 くありますが一部の出土遺物から、古墳時代前期のこの地域と他地域と
の関係を知ることができます。
まず、 筒野古墳から出土している三角縁 神獣鏡について見るならば、筒野古墳と同じ鋳型で作られた鏡について 見ると、岐阜県大垣市にある長塚古墳や大分県宇佐市にある赤塚古墳・ 滋賀県栗東町にある岡山古墳があります。 こうした同一の鏡を有する古墳は共に個々関係するものではないですが、 ほぼ同一の時期に鏡が分与されたと考えられましょう。
また、こうした前方後方墳は畿内的な要素のみならず、 古墳の形など が東海地方の特徴を有するもの等もある為、広く東海地方の各地域と深 <関係し成立していたものと考えられます。 |
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553筒野1号墳
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| 560筒野1号墳
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570装身具
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車輪石
(レプリカ)
向山古墳
(松阪市小野町)
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石釧
(レプリカ)
向山古墳
(松阪市小野町)
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古墳時代前期
車輪石
(レプリカ)
原田山古墳
松阪市嬉野上野町
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古墳時代前期
鍬形石
(レプリカ)
原田山古墳
松阪市鎮對上野町 |
車輪石=オオツタノハガイをモチーフ
鍬形石=ゴホウラガイをモチーフ |
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600
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古墳時代(後期)
5世紀末から6世紀に入り、 古墳は横穴式石室と呼ばれる埋葬施設に変化します。
そうした動向は、この中村川流域において横穴式石室が導入されるようになりますが、 それは6世紀前半 (MT15~TK10) 段階に横穴式石室が導入されます。
この時期に導入されたと考えられるものとしては、 島田に所在する天保1号墳や天花寺の西野5号墳があります。
こうした、 その以外に初期に導入されたもので、 釜生田に所在する釜生田A-5号墳等は石室の形からこれらの古墳より先行する可能性を有するものです。
こうした初期に導入された横穴式石室について見るならば、 天保1号墳は石室床面から金銅製の剣菱形杏葉や雲珠等の馬具や銀製の太刀金具・鞘金具や金銅製胡禄飾り金具・靫金具等の豊富な金属製馬具・武具が確認されており、 それ以外の銀製の釵子や山梔玉・空玉等の装身具が確認されている。
また、 西野5号墳について見るならば、 金銅製の鞍飾りや、筒形金銅製品等があり、 藤ノ木古墳で確認された副葬品内容を一部持つことが確認されました。
そうした豊富な副葬品を有するといった状況は、導入期の横穴式石室において、 この雲出川流域の特徴と言えましょう。
また、 横穴式石室が定着し群集墳と呼ばれる古墳群を形成するようになると、 滝之川のまんじゅう山古墳群で確認されたように大型の古墳を中心として数基の古墳が集まるようになります。 このまんじゅう山古墳群においてはこうした群に対する祭祀場としての立石
(墓標) を設けることが確認されました。 こうした横穴式石室の造営もほぼ6世紀末~7世紀になり徐々に造営されなくなります。
特徴
| 馬具 |
古墳時代の馬具は4世紀の後半には伝来したと考えられる が、5世紀に普及し6世紀に入り盛行します。
こうした、 馬具についての出土品を見ても、 日本で見られる馬具を見ても 馬は華麗に装飾する物として捉えられ ていたようです。 |
| 須恵器 |
| 古墳時代の中期~後期に入り、土器のあり方は一変し、 前代の土器から、 窯によって焼成される硬質の土器へと変わります。 |
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601西野・小谷古墳群
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| 610 |
| 611副葬品
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613西野古墳群 三重県松阪市嬉野天花寺町(旧・一志郡嬉野町)の西野地区
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天花寺丘陵の西方にある片野池付近 の丘陵先端に立地する古墳群である。
墳丘の流出が激しいが、 11基の円墳で構成されると考えられる。
2号墳~6号墳は昭和61・62年に嬉野町教育委員会が、7号墳は昭和63年に三重県埋蔵文化財センターがそれぞれ調査を行っている。
3号墳は直径約50mの円墳と推定され、周溝の一部が残る。 遺物は大量に二重口縁壺が出土したほか、 碧玉製石釧が確認された。
7号墳は直径15mの円墳で、墳丘には葺石を巡らしていた。 主体部はすでに 流失しているため不明であるが、 加工痕のある板状砂岩や石枕の存在から組合わせ式石棺の可能性もある。 |
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須恵器
有蓋長脚高坏
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古墳時代後期 西野5号墳石室内出土土器
西野5号墳
松阪市嬉野天花寺町
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加工痕のある板状砂岩
西野7号墳
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西野古墳群 |
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土師器 甑(こしき)
古墳後期
表採
松阪市嬉野須賀町
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630西野5号墳 |
631
古墳時代後期
鉄製品 刀・鏃
西野5号墳
松阪市嬉野天花寺町
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| 632鉄鏃・鉄製品
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635須恵器
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須恵器 台付壺
須恵器 広口壺
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須恵器
無蓋長脚高坏 |
須恵器 小型無蓋高坏
須恵器壷蓋
須恵器はそう
須恵器 提 瓶 |
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637西野5号墳
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須恵器 子持器台
古墳時代後期
西野5号墳 (嬉野天花寺町) 出土
松阪市教育委員会 所蔵
松阪市域の北西に位置する西野古墳群のうちの1基、西野5号墳から見つかりました。 縁をぐるりと回るように8つ、中央に1つの小型の坏を有していることが特徴的です。これは、古墳祭祀の際に供献土器
(死者にささ げる土器)として使われたと考えられます。また、その 特殊な形から見る者を魅了する美しさも感じられます。 |
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須恵器 子持器台 |
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須恵器 子持器台
古墳時代後期 西野5号墳  |
須恵器子持ち器台 |
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須恵器 子持器台
古墳時代などの遺跡から出土する、小さな壺や坏(つき)などの小形容器が周囲や上部に多数くっつけられた(あるいは載せられた)特殊な土器(須恵器や土師器)の台のことです。
特徴と用途
・形状: 大きな鉢状や筒状の器台の上面・縁などに、複数の小さな壺や杯(子持壺、子持坏)が巡らされている、あるいは一体化して作られています。
・用途: 実用品ではなく、古墳の埋葬や墳丘上で行われた葬送儀礼・祭祀(供献儀礼)において、神仏や故人への食べ物・お供え物を捧げるために使われた特殊な祭祀用具と考えられています。
・出土状況: 出土数が非常に少なく、完全な形で発見されることも珍しいため、考古学上貴重な資料とされています。全体の姿が分かる資料は兵庫県立考古博物館などの一部の博物館でも紹介されています。
出土した地域や時代の傾向
子持ち器台や、それに類する「子持ち壺」「装飾付器台」が出土する地域や時代には、明確な考古学的な傾向(トレンド)が存在します。
主に古墳時代中期から後期(5世紀後半〜6世紀)にかけて、西日本(特に九州、瀬戸内、近畿)を中心に発展しました。
1. 時代の傾向:5世紀後半〜6世紀前半が最盛期
・技術の伝来(5世紀中頃):朝鮮半島から最先端の窯業技術(硬くて青灰色をした「須恵器」の製法)が日本列島に伝わりました。この初期の段階から、半島特有の「器台の上に容器を載せる・くっつける」という様式が持ち込まれました。
・華美な装飾化(5世紀後半〜6世紀初頭):日本列島の各地で須恵器の生産が本格化すると、独自の発展を遂げます。この時期に、大きな器台にたくさんの小さな壺や杯をくっつけ、さらに馬・猪・鳥などの動物の粘土人形まで飾り立てる「装飾須恵器」のブームが起きました。
・儀礼の変化(6世紀後半以降):古墳の埋葬様式が、限られた有力者だけのものから「横穴式石室」という家族墓のような形へ移行するにつれ、墓前での祭祀の形も変わり、こうした派手な子持ち器台は徐々に作られなくなっていきました。
2. 地域の傾向:西日本の「有力首長」の勢力圏
子持ち器台をはじめとする装飾須恵器は、どこからでも均等に出るわけではなく、特定の地域に集中しています。
・北部九州(福岡県など):朝鮮半島との外交窓口であったため、最古級(5世紀後半)の優れた子持ち器台(例:福岡市羽根戸出土の「据台付子持𤭯」など)が出土しています。
・吉備・中国・瀬戸内地域(岡山県・兵庫県など):もともと弥生時代から「特殊器台」という巨大な祭祀用の器台を作る文化(埴輪のルーツ)が強かった地域です。そのため、須恵器の時代になっても子持ち器台や子持ちはそう(水注)といった複雑な造形を好んで受け入れ、優れた出土品が多数遺されています。
・近畿・東海(大阪府・愛知県など):大和朝廷の中枢である近畿の大型古墳(例:大阪府茨木市の海北塚古墳)や、東海の有力古墳(例:愛知県豊田市の大塚古墳)の石室内からもまとまって出土しています。これらは中央の政権や、地方の有力な首長(ボス)たちが、自らの権威を示すための葬儀で用いたことを物語っています。
このように、子持ち器台は「朝鮮半島由来の最新技術」と「日本の古墳祭祀の特別感」が融合した、特定の短い時代(約100年間)の限定的なトレンドアイテムだったと言えます。 |
韓式須恵器
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古墳時代後期
韓式系須惠器 把手付甕
清水谷5号墳
松阪市嬉野天花寺町 |
古墳時代後期
須恵器 甕
清水谷5号墳
松阪市嬉野天花寺町 |
新たに嬉野にやって来た半島人が、大切に持ってきた甕なのだろう。
カマドにかけていない証拠に煤がついていない。
何に使ったのか、精製土器でもないのだが。 |
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| 700古墳時代後期 |
710馬具
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古墳時代後期
鉄製 馬具
西野5号墳
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馬具 金銅製鞍金具  |
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馬具 鞍 |
鞍  |
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古墳時代後期
鉄製 馬 具
西野5号墳
松阪市嬉野天花寺町
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金銅製 雲珠 轡 |
雲珠、轡 |
轡、 |
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雲珠 |
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730天保1号墳
馬具 |
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馬具の名称
辻金具,手綱,
前輪(まえわ),
面繋(おもがい),
引手(ひきて),鏡板,
胸繋(むながい),馬鐸,
後輪(しずわ),
尻繫(しりがい),
杏葉(ぎょうよう),
障泥(あおり),鞍,鐙 |
古墳時代後期
鉄製 馬具
天保1号墳
松阪市嬉野島田町
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剣菱形杏葉 |
鞘口金具
胡籙金具,釵子,雲珠
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800古墳後期 埴輪
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埴輪が語る嬉野
古墳時代を代表する出土遺物の中には、 鏡や土器・石製品等のもの以外に、 古墳の外表を飾るための埴輪があります。
こうした、 埴輪は人や動物を形どった埴輪以外に家・盾・蓋・翳等 の器材をかたどったものがあります。 こうした形象埴輪以外に円筒埴 輪朝顔埴輪等もあります。 本来の埴輪は円筒埴輪系と形象・器材埴 輪系の2つの要素で成り立っています。
本来的には円筒埴輪で示され るものが主体になると考えられます。
特長
円筒埴輪・円筒埴輪には朝顔埴輪と円筒埴輪があります。 これら は本来朝顔埴輪は壺と壺をのせる台を模したもので、 酒等を入れてい たものが形式化されたのでしょう。
また円筒埴輪は食物等を置く台が 模されたのと考えられています。 こうしたものが古墳のまわりを取り 囲み、 悪霊から亡くなった人を守っていたと考えられます。 |
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清水谷5号墳
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埴輪が語る嬉野 |
古墳時代後期
円筒埴輪
清水谷5号墳
松阪市嬉野天花寺町
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円筒埴輪 |
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朝顔形埴輪 |
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家形埴輪 |
馬形埴輪 |
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| 1000 |
1100古代
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| 1101全景
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1110飛鳥奈良時代 |
1111古代寺院
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飛鳥・奈良時代
飛鳥・奈良時代とは7世紀~8世紀末までの間をさします。
奈良時代は大和においては都が造営されるようになります。 こうした都を中心 とした政治がなされるようになります。 こうした制度の整備がなされるようにな り、 個別的な支配によって地方政治がなされるといった古代国家が成立します。 故にこの時期のさまざまな遺物にはこうした都と関連した遺物が多数確認されます。
町内においては、この時期の遺跡として確認されるものとしては大きく3つに分けられます。
です。
この中でも特に寺院については他に中谷廃寺 積善寺跡などでも瓦が確認されていることから寺院の可能性が考えられています。 |
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嬉野の古代寺院の特質
町内の古代寺院は、 4か寺~6か寺が、 1200年前に存在していたと考えられています。 古代における寺院は、 塔・金堂・講堂などの施設を設けるものであり、
その性格の中心は、 学問と信仰の場の性格が強いものでした。
こうした、 寺院の造営は、 旧一志郡内において他地域においても存在しており、 それらについて見ると、現白山町においては大角遺跡においては重圏文軒丸瓦が
確認されており、 川口関との関連が推定されている。 また、 一志町においては高 岡廃寺。 八田廃寺の2か寺が確認されており、 両寺院については町内の寺院より
先行すると考えられます。
町内の寺院において、 現在その状況について調査で確認されているものとして は、 天華寺廃寺があります。 この寺院は調査により、 塔 金堂の跡と考えられる 遺構が確認されており、 わずかではありますが寺院の実態について触れることが 出来ます。 この寺院は調査により多数の瓦が確認され、 その詳細について知るこ とができました。
他の寺院についてはその詳細については不明ですが、 一部調査で確認された事 としては、 一志廃寺については天華寺廃寺より古式の瓦が確認されていることか
ら、町内においての寺院では一志廃寺が先行して造営がなされたものであると考 えられます。
この天華寺 一志廃寺の造営後、 嬉野 上野廃寺の造営がなされたものと考え られます。 |
嬉野の古代寺院の特質 |
古代神社・寺院 |
嬉野管内古代寺院
瓦変遷図
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重要文化財
木造薬師如来立像 |
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1121軒瓦
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飛鳥時代
軒丸瓦
複弁八葉蓮華文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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飛鳥時代
軒丸瓦
複弁重弁八葉蓮華文
天花寺廃寺
松阪市適野天花寺町
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飛鳥時代
軒丸瓦
单重弁七葉蓮華文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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飛鳥時代
軒平瓦
三重弧文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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飛鳥時代
軒平瓦
四重弧文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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飛鳥時代
軒平瓦
三重弧文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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飛鳥時代
軒丸瓦
单重弁七葉蓮華文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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1130奈良時代土器
飛鳥時代
須恵器 蓋・坏
上野寺創建期の土器
上野廃寺
松阪市嬉野上野町 |
奈良時代
須恵器 高坏
上野寺盛行期の土器
上野廃寺
松阪市嬉野上野町
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奈良時代
須恵器 蓋・坏
上野寺盛行期の土器
上野廃寺
松阪市嬉野上野町
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奈良時代 土師器坏
上野寺盛行期の土器
上野廃寺
松阪市嬉野上野町
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平安時代
須恵器 杯
黒田遺跡
松阪市嬉野黒田町
奈良時代
土師器 皿
ムラの土器
天保遺跡B地区 松阪市嬉野島田町
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平安時代
須恵器 杯
黒田遺跡
松阪市嬉野黒田町
平安時代
須恵器 杯·蓋
黑田遺跡
松阪市嬉野黒田町
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平安時代
須恵器 長頸瓶
黒田遺跡
松阪市嬉野黒田町
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長頸瓶
実際はこのような
くびが付いていた
と考えられます。 |
平安時代
土師器 長胴甕
ムラの土器
堀之内遺跡A地区
松阪市嬉野堀之内町
奈良時代
土師器把手付甕
ムラの土器
天保遺跡B地区
松阪市嬉野島田町
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| 1140 |
1141
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飛鳥時代
軒丸瓦
複弁八葉蓮華文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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飛鳥時代
軒丸瓦
複弁八葉蓮華文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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飛鳥時代
軒丸瓦
複弁八葉蓮華文
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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平安時代 土師器 坏
天花寺廃絕期
天花寺廃寺
松阪市嬉野天花寺町
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奈良時代
須恵器 円面硯
上野廃寺
松阪市嬉野上野町
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円面硯 (えんめんけん )
奈良時代の硯は、 丸い形をしているところから円面硯と よばれています。
これには,脚がついており机などの上に おいて墨をすったと考えられます。
私たちが日常使ってい るのは, 長方形をした黒い石の硯で、平安時代に作られ始めたものです。
それ以前は,陶硯 (とうけん) とよばれる焼きものの硯で, 墨 (すみ) をする面が丸いのが一般的でした。 |
円面硯
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1143
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平安時代 土師器 坏
底部二墨書「南」
黒田遺跡
松阪市嬉野黒田町
平安時代
土師器 皿
底部に墨書「田」
黒田遺跡
松阪市嬉野黒田町
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奈良時代
土馬
川北清水遺跡
(白山高校)寄贈)
松阪市嬉野川北町
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奈良時代 須恵器
蓋・坏
生産地の土器
上尾戸窯跡群
松阪市嬉野滝之川町
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奈良時代
土器製作道具 鉄製品
上尾戸窯跡群
松阪市嬉野滝之川町
奈良時代
土器製作道具 あて具
上尾戸窯跡群
松阪市嬉野滝之川町
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| 1150 |
1153天華寺廃寺
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天華寺廃寺 六角博仏 |
天華寺廃寺文字瓦
「南万中」

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天華寺廃寺 菱形塼仏
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1155シビ出土窯
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辻垣内窯鴟尾出土状況
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辻垣内鴟尾配置想定図
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鴟尾出土状況 |
鴟尾出土状況
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1200古代2 シビ 白鳳時代 |
1210
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国指定重要文化財
奈良時代
鴟尾
釜生田辻垣内瓦窯群出土鴟尾
釜生田辻垣内窯跡 松阪市嬉野釜生田町
釜生田辻垣内瓦窯群は、 中村川沿いの段丘城に位置する窯跡群です。
この窯跡は登窯3 平窯2が確認されました。 この内 の2号窯からは鴟尾が2個体確認されました。 この鴟尾 とは、 寺院や宮殿跡の屋根の大棟を飾るもので、
町内の 古代寺院に供給される予定だったものでしょう。
この鴟尾の大型のものが、 高さ148.6cm・基底部幅48.0cm・胴部から鰭部までの幅119.2cmあり、 現存鴟尾の中で 最大級のものとなります。
小型の鴟尾については、高さ124.8cm・基底部幅 54.2cm・胴部から鰭部までの幅97.3cm です。
こうした鴟尾は現在のところ、町内のどの寺院に利用 されていたかは不明ですが、 他の窯跡から出土している 軒丸瓦類から推察されるものとして町内の寺院において
も古い段階の寺院跡であったと考えられます。 |
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| 1220鴟尾
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1250奈良時代
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奈良時代
斎串
上野廃寺
松阪市嬉野上野町
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奈良時代
糸巻
上野廃寺
松阪市嬉野上野町 |
糸巻
展示している部材は
この部分です。
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1400平安中世
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| 1401平安時代 |
1410平安~中世
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平安時代~中世
町内において、奈良時代において見られた寺院の消失と新たな集落が 形成されるようになります。 この平安時代から鎌倉時代にかけての時期 にそうした姿が認められるようになります。
こうした時期において人々が生活する地域は町内の全域に拡大するよ うになります。 この中でも、 平生遺跡においては、 多数の山茶碗と共に、 中国産の青磁碗の完成品が確認されています。 こうしたことから、 平生 遺跡において生活していたと推察される層は、
有力農民層が生活してい たものだと考えられています。
こうした時代の集落は、 現在の中村川沿いに点在し、 宇気郷にまで広 がっております。 これは、単に上流へ連なるというのではなく、 多気(美
杉村)に連なった交通路が想定されます。 こうしたあり方は中世に覇権を有する北畠氏との関係が注目されます。
また、町内においては、そうした集落以外に中世に入ってからそれぞ れの中村川に面した丘陵部には山城等の城が作られるようになります。 そうした城跡で町内においても有数な城跡として、
小原城 森本城・滝 之川城 八田城 天花寺跡などがあります。
また集落としては、 平生遺跡以外にも多数存在し、 釜生田の弥五郎垣内遺跡 (14世紀) においては個人の宅地を溝で区画する単独の住居跡が 確認されており、家の単位の成立が考えられます。 また12~13世紀の集 落としては、
中尾垣内遺跡や下之庄東方(南浦) 遺跡においては集落を 方形に区画する条里遺跡が確認されています。 |
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| 1420土器
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1430平安時代
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土師器 ○○○ |
灰釉陶器 埦
土師器小皿 |
平安時代
黒色土器 椀
平安時代
土師器 小皿
堀ノ内遺跡 |
平安時代
土師器坏
平生遺跡
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1500鎌倉時代
灰釉系陶器
小皿、埦(山茶碗) |
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1530行燈ケース・鎌倉時代
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平生遺跡
中位段丘上に位置する遺跡中央部付近 では、 飛鳥・奈良時代の掘建柱建物群と 平安時代後半の柵を伴う掘建柱建物群が確認されている。 飛鳥時代から竪穴住
居がまったく確認できないことや断続 しているものの建物群に一定の方向性 が保たれていることから、郡衙などの拠 点的な遺跡である可能性が指摘されて
いる。 この遺跡を特徴づける特殊な遺物 は、奈良時代のものとして円面硯が挙げられる。 また、 平安時代の遺物としては 貿易陶磁が挙げられる。 |
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鎌倉時代
青磁 碗
平生遺跡
松阪市嬉野平生町
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平生遺跡 |
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| 1540和鏡
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1600室町時代
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1610
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室町時代
土師器 鍋
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室町時代
土師器 南伊勢系 鍋
弥五郎垣内遺跡
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鎌倉時代
土師器 伊勢型鍋
小川遺跡
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室町時代
土師器 南伊勢系 鍋
小川遺跡 |
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| 1620
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1700近世
近世
風炉
野田遺跡
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