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詫間町民俗資料館・考古館
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浅間縄文ミュージアム1
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信州の縄文
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やないづ縄文館
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長井市古代の丘資料館
高畠町郷土資料館
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part3part4
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白老アイヌ民族博物館
函館市北方民族資料館
2013

大津市歴史博物館2
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南の縄文2
西日本の縄文
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立山黒部アルペンルート
黒部峡谷と欅平
五箇山・白川郷
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2014南の縄文
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屋久島環境文化村センター
屋久島周遊
屋久杉自然館
屋久島町歴史民俗資料館
中種子町立歴史民俗資料館
種子島ドライブ
開聞岳周辺ドライブ
指宿市考古時遊館Coccoはしむれ
鹿児島市立ふるさと考古歴史館
ガンガラーの谷
上野原縄文の森
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2013北の縄文
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北海道開拓記念館
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小樽市総合博物館運河館
赤レンガ庁舎
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恵庭市郷土資料館
沙流川歴史館
北小金貝塚
北陸の縄文
入江・高砂貝塚館
函館博物館
函館 大船遺跡
函館市縄文文化交流センター
三内丸山遺跡
青森森林博物館
是川縄文館
南の縄文旅行記
御所野遺跡
大湯環状列石
岩手県立博物館
東北歴史博物館
縄文
国立歴史民俗博物館
最古の漆と文化
2013中部地方の縄文
新潟県立 歴史博物館2
山梨県立考古博物館
釈迦堂遺跡博物館
北の縄文1
井戸尻考古館
八ヶ岳美術館
尖石縄文考古館
北相木村考古博物館
諏訪神社と神長官守矢史料館
森将軍塚古墳
長野県立歴史館
八ヶ岳と縄文文化
野尻湖ナウマンゾウ博物館
十日町市博物館
馬高縄文館
新潟県立歴史博物館
縄文を旅する1
2013吉野ヶ里遺跡
吉野ケ里遺跡
吉野ヶ里歴史公園
2013↑


2012台湾特集

台湾史前文化博物館
知本温泉と卑南族
ブヌン観光農場


2012台湾特集

台湾の空港での
犯罪危険情報


台湾土産アクセサリー
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台湾土産食品
台湾土産原住民
陽明山・野柳
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原住民博物館
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2012紀伊半島
 伊勢神宮
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 串本
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阿里山
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九分と金瓜石

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海底遺跡の旅
 2与那国島ドライブ
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 アメリカフェスト3
 アメリカフェスト1
 アメリカフェスタ2
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 モーターパラグライダー
 パラセーリング

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 安曇野 わさび 碌山
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'25.02.08 感謝480,000アクセス '24.05.14 感謝470,000 yuko_okinawa@hotmail.com HPは2030.08.21まで有効()
2026/4/13(月)
 今回記事「大阪府立弥生文化博物館」  前回記事「発掘された日本列島2025佐世保会場佐世保市島瀬美術センター」 

2026.4.13(月)
 「大阪府立弥生文化博物館」をあげました。本当は
 「発掘された日本列島2025」京都会場をあげようと思いましたが、編集に未完の部分がみつかり、急遽変更しました。

 「弥生文化博物館」の展示では、これまでただ、並べられていただけの展示物が、真実の姿を語ります。
 また、第三部の特別展「伝世」では、どこの館でも取り上げていなかった、弥生青銅器の秘密が丁寧に語られます。

 この館のDATA量は、普通の館の3倍。330MBもあります。
 訪問者の皆様には、ぜひ、この機会に弥生文化館が解き放つ魅力を体感していただきたいと思います。
 私はすっかり魅了されました。 

次回更新 2026/05/上旬を予定しています。
毎回申し上げておりますように、一つ作ってはすぐに出し、の状態です。ご容赦ください。

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 2025.11.19-2

 大阪府立弥生文化博物館 大阪府和泉市池上町4丁目8-27
   0725-46-2162 月休 9時30分~17時 撮影可

 
交通 JR信太山駅から800m徒歩10分

近隣観光地 池上曽根史跡公園
近隣博物館
 
 目次


10外観
第1展示室
20タイムトンネル
30弥生住居
40弥生時代
50弥生遺跡
60米作りの伝播
61稲作伝播ルート
65米つくりのルーツ
100ジオラマ米作り
110農具
130新しい技術
140鉄斧
143鋳造の技術
150青銅器
151鋳型の分布
152鋳型
200木器
220織物
222生活の中の技術
230弥生人
240弥生人骨
250絵画土器

300戦乱の弥生時代
301戦士の墓
303戦い
305身を守る戦士
1050戦いの風景
1061漢代の武器
1063鉄の武器
1064石の武器
1065金属の武器
1066弓を射る戦士

1070弥生時代の世界
1100卑弥呼の館
1105卑弥呼
1110卑弥呼の時代
1131東アジアの様相
1133邪馬台国と卑弥呼
1141卑弥呼ゆかりの品々
1144卑弥呼の食卓
1146中平年銘の鉄刀
1151卑弥呼と銅鏡

1161北九州の王墓
1170ムラ戦いクニ
1180貝輪
1190装身具
1192北九州の「王」墓
1196社会のしくみ

1210交流
1401船
1410貝交易
1413列島の交流
1430貝輪と交易
1411半島交易
1445列島の交易
1460海外との交流

1461来たもの
1464半島から来なかったもの
1466中国から来なかったもの
1467半島系土器の広がり
1471中国伝来
1475不伝来の中国の品
1490下賜されたもの

1500青銅器
1502青銅製祭器の分布
1510青銅製祭器の種類と変化
1511聞く銅鐸・見る銅鐸
1517クニのまつり

1550弥生墓制
1552弥生時代の各地の墳墓
考察 弥生時代の墓
1555弥生時代の棺
1557供献土器
1560貝のアクセサリー
1570死とまつり
1571鳥竿
1573絵画土器
※彩文土器の検索
1580祭祀具

1600水源池遺跡

2000第2展示室
  池上曽根ワールド
2010曽根世界ワールド
2013きっかけの土器
2015発掘調査の歴史
2020祭りや生業の道具
2022神の使いとしての鳥
2025龍の絵画土器
2028フグを食べた弥生人
2029タコ壺のかたち
2031弥生の建築物
2033大型建物の柱
2035井戸
2050弥生の石器
2060木器
2080土器
2089子供を埋葬した壷

3000特別展 伝世
 プロローグ伝世とは
3020伝世の考古学的認定

3030第I章 弥生時代の伝世
 銅鐸の生産➀
3040銅鐸埋納論
3050年代測定
※考察 銅鐸内に付着した植物痕跡
3060大福銅鐸
3070銅鐸の破砕
3090銅鼓3100

3100第Ⅱ章 王莽の鏡
 宮廷鏡
 柴金山古墳
 漢鏡の編年
3103美濃観音寺山古墳
3105鉛同位体分析
3107椿井大塚山古墳
 王莽鏡の評価
3130伝世の実相
3140王莽銭が示す交流
3151倭鏡の製作
3155巨大な銅鐸
3157後漢との交流

3200第Ⅲ章 鏡の伝世
3201中国鏡の変遷➀
3203中国鏡の変遷②
3205中国鏡の変遷③
3207中国鏡の変遷④
3250中国鏡の変遷⑤
3253中国鏡の変遷⑥


3300漢鏡流入
3301漢鏡流入➀
3303漢鏡流入②
3305大和天神山古墳
3306伝世はどこで
3009諸説
 鏡の伝世に関する諸説➀
 鏡の伝世に関する諸説②
3350鏡の磨滅
 弥生時代遺跡出土の銅鏡
3361黒塚古墳
3367武器の伝世
  玉類の伝世

3370第Ⅳ章 模倣されたモノ
3373貝輪と腕輪形石製品
3375模倣された鏡
3381三国・晋代の銅鏡生産
3383三角縁神獣鏡の製作技術
3390勝福寺古墳
 「同型鏡」の入手と広がり

3410第Ⅴ章 地域の中での伝世
3411和泉地域の首長墓
 久米田貝吹山古墳
3417摩湯山古墳・馬子塚古墳
3421和泉黄金塚古墳
3425久米田風吹山古墳
 和泉地域の伝世鏡
 弥生の終わりと古墳の始まり
3427エピローグ

4000池上曽根学習館
 
 
 10外観
弥生文化博物館

 20入口展示
 20タイムトンネル
タイムトンネル
      米つくりの始まり
弥生時代へようこそ。
米つくりが本格的に始まったのがこの時代で、今から二千数百年前のことです。
米づくりに必要な 水田・用水・農具などの確保をめぐり、人と人との関係がしだいに 複雑になっていきました。
      新しい技術の誕生
弥生時代には、青銅器や鉄器、ガラスの使用も始まりました。
銅鐸・銅矛 などまつりの道具には黄金色に輝く青銅が、
農具や工具には鋭利な鉄が利用されました。

素材や技術の革新は、生産力の向上につなが りました。
ムラからクニへ
戦争が始まったのも弥生時代です。

濠や柵で囲った集落や鋭利な鉄製の武器、手傷のある人骨などは戦いがあったことを物語っています。

戦いを通してムラはクニへと統合され、邪馬台国に女王・卑弥呼が登場します。
弥生人
弥生人は、のっぺり顔で身長が高いという特徴があります。
二重まぶたで彫りの深い顔の縄文人と は異なります。

米つくりなどの新しい技術を持って移住してきた人々の遺伝子が合わさって、この特徴が形つくられました。
      交流
弥生時代には、中国や朝鮮半島、 南西諸島との交流も盛んになり、大型の船で海を越え青銅器や 鉄器、装飾品用の貝などが運ばれました。
また金印が象徴するように、政治的な国際関係も生まれました。
死とまつり
死者を葬る墓は、九州の甕棺墓、西日本の木棺墓、東日本の再葬墓
など地域で差があります。
一方、
まつりに使う銅矛、銅剣、銅鐸などの分布にも違いがあります。
こうした差はしだいに解消に向かい、 古墳時代を迎えます。
 


 30第一展示室常設展


 30弥生住居
弥生人のくらし
ここでは、弥生時代の一家団らんの風景を現代の一家団らんの風景から復原しました。

弥生人の顔は面長(おもなが)で、平べったい顔が特徴です。 足は靴をはきなれた現代人と違って、 指の間が広がっています。
「魏志倭人伝」 によれば人々は手づかみで、食事をしていたようです。 身近な生活の道具は、 石から鉄へ移り変わっていくところでした。
この模型では以上のような状況を、 各地の発掘調査のデータに基づき忠実に復原しました。

この模型は、 「弥生人のくらし」 を復元したものです。 左にも解説プレートはありますが、もう少し 詳しく説明しておきましょう。
注意して見ていただきたい点は、

➀竪穴住居 (建物) の内部の周りに段差 (周堤) があるので、壁際にモノを置く空間があるなど、 住居内は思いのほか広かったこと、
②食器は各自で使う銘々器(めいめいき)であったこと、
③『魏志倭人伝』 に記されているように、 手を使って食事をしていたこと、
④貫頭衣はVネックであったこと、
⑤渡来系の顔つきの人と縄文系の顔つきの人がいたこと※、
   ※この模型では、 おとなは渡来系の顔つき、子どもは縄文系の顔つきを基にしています。
⑥足は土踏まずが発達しており、 指は広がっていたこと、などです。 これらは、 考古学や文献史学などの調査・研究で明らかになったことです。

一方、弥生時代に竪穴住居 (建物) で夫婦・子どもがいっしょに生活していたかどうか、 女性が食事 の準備をしていたかどうか、どのような姿勢で座っていたかどうか、 といった 「暮らしぶり」につい ての根拠はありません。
模型は、上記➀~⑥などを知っていただきたく、 学識経験者の意見をふまえ、 復元しました。

弥生人のくらし

家の隅っこに固めて置かれた壷
モノをためておく
ワシが出てきたような壺があるやないか!

水を入れておいたり、だいじなイネの種もみを収めておくんだよ。

◎モノを貯めておく壺
◎モノを煮炊きする甕
◎モノを盛りつける高坏
これがよく使われる弥生土器のセットなんだ!
家の入口で見張る海渡
おぉ! イヌがのぞいとるで!
エサがほしいんかいな。

ボクのモデルになった弥生犬「海渡」だよ!

大阪市と八尾市にまたがる亀井遺跡でみつかった弥生犬の骨から復元されたんだ。
別にエサをほしがってるわけじゃなくて、あやしい人やクマやイノシシがこないように見張ってるんだからね!
のぞいてみよう!
弥生人のくらし
石皿と叩き石
モノを割ってつぶす
ツボのとなりの大きな石はなんや?
家の中に石があったら危ないやないか!

あれは石皿っていって、かたい木の実とかを割ったりすりつぶしたりするための石器だよ。
ドングリとかクルミ、 木の実はたくさんとれるし、
おいしいからね~
煮炊きに使う甕
モノを煮たり炊いたり
お母さんの前にある土器が甕だよ。
表面にススがついて黒くなってるでしょ。
おコメを炊いたり、おかずを煮たりするんだよ。

なるほど~!
つまり、いまのナベみたいなもんやな。

縄文犬と弥生犬の違い

下に表示

 のぞいてみよう!弥生人のくらし
・貝を盛った高坏
・高く盛る器
お父さんの前においてある高坏には、貝が盛りつけられてるよ!

うまそうやなぁ! ワシ、貝も好きやで。
酒蒸しとかバター焼きとか・・・

ま、 まぁ、弥生時代にバターはなかったと思う
けどね...
のぞいてみよう!
弥生人のくらし
・田圃で使うクワやスキ
道具の置き場所
道具の置き場所道具が出しっぱなしやないか!
お母ちゃんにおこられるでぇ!

弥生時代の家には棚がなかったみたい。

田んぼや畑で使う道具は家のすみっこに寄せて置いてたみたいだね。
・長く広げた足の指
・弥生人の足

お兄ちゃんの足のゆび!すごく広がってるね。しかも、 ゆびが長~い!
クツをはいとらんかったからやな・・・ジャンケンもできそうや!
 

 40
弥生時代
弥生時代とは、まさしく灌漑水田稲作が日本列島で始まった時代です。
水田稲作は北部九州から次第に列島各地に広まり、 青銅器や鉄器も使用されました。

各地で大集落が出現し、 濠で囲み、 象徴的な大型建物を 建てた地域の中核集落も営まれました。
さらに富や 権力をめぐる争いにより人々の間に支配関係が生まれ、社会のしくみが複雑になりました。
また 「漢委奴国王」の金印や卑弥呼の魏への遣使が物語るように、 倭人社会は東アジア世界と深く関わります。

そして各地のクニは 次第にまとまり、 卑弥呼の登場で最終章をむかえます。
なお、弥生時代の開始や終わりの時期については、 さまざまな説があります。

弥生時代 金印「漢委奴国王」


弥生式土器第1号
明治17 (1884) 年、 現在の東京大学に近い 「向ヶ丘弥生町(むこうがおか やよい ちょう)」で見つかった壺です。
「貝塚土器」 (=縄文土器)と異なる文化のものと考えられ、地名をとって 「弥生式土器」と命名されました。
        原資料所蔵: 東京大学総合研究博物館

弥生式土器第1号
弥生式土器第1号
弥生式土器第1号
   


全国弥生遺跡マップ
日本列島に灌漑水田稲作が伝わってから約1000年 におよぶ弥生時代に生まれた全国各地の数多くの 遺跡の中から、 初現期の水田、中核集落、盛大なまつり、 王墓築造など、 時代の特徴を端的に読み取ることが できる、時代を代表する 20 遺跡を取り上げ紹介し ます。 これらの遺跡を通じて、 弥生時代のイメージ が鮮明になることでしょう。

全国弥生遺跡マップ 全国弥生遺跡マップ
原の辻遺跡
菜畑遺跡
吉野ヶ里遺跡
板付遺跡
須玖岡本遺跡

土井ヶ浜遺跡
加茂岩倉遺跡
荒神谷遺跡
加茂岩倉遺跡
青谷上寺地遺跡
楯築遺跡

田村遺跡群(高知県)

池上曽根遺跡
纏向遺跡
唐古·鍵遺跡
東奈良遺跡(大阪府)

朝日遺跡(愛知県)
登呂遺跡
大塚・歳勝土遺跡
八日市地方(ようかいちじかた)遺跡(富山県)
垂柳遺跡(青森県)


弥生時代の始まりと終わり
 弥生時代のスタートラインは灌漑水田稲作の始まりに ありますが、その実年代に関しては炭素14測定法 (AMS 測定法)という科学的分析によって、従来の説より 古くさかのぼる紀元前10世紀頃だとする見解が出されています。
 また紀元前9世紀頃、あるいは紀元前7世紀以降とみる意見もあります。

 一方、弥生時代の終わりについては、卑弥呼の墓の有力な候補とされる奈良県箸墓古墳が築造された3世紀中頃という考えのほか、
卑弥呼が倭王に共立された2世紀後葉、あるいは卑弥呼の宗女(そうじょ) 豊与(臺与)が擁立された3世紀後半などの意見もあります。

 こうした弥生時代の始まりと終わりのとらえ方の違いから、時代の長さについてもおよそ900年から1200年まで幅があります。

弥生時代の
始まりと終わり
弥生時代の諸説

 40
 50弥生遺跡
纒向遺跡まきむく いせき
纒向遺跡の遠景
奈良県桜井市/邪馬台国の王都の有力な候補地

楯築遺跡たてつき いせき
発掘調査の風景
岡山県倉敷市/吉備の巨大墳丘墓
吉野ヶ里遺跡よしのがりいせき
復元された吉野ヶ里遺跡
佐賀県神埼市・吉野ヶ里町/国内最大級の環濠集落

原の辻遺跡はるのつじいせき
遺跡の遠景
長崎県壱岐市/ 『魏志人伝』「一支国」 の都
池上曽根遺跡いけがみそね いせき
発見された大型建物と井戸の跡
大阪府和泉市・泉大津市/ 集落研究をリードした中核集落

唐古・鍵遺跡からこ・かぎ いせき
多重の環濠
奈良県田原本町/近畿最大級の環濠集落
須玖岡本遺跡すぐおかもと いせき
甕棺墓
福岡県春日市/ 「奴国」の王墓と甕棺墓群

菜畑遺跡なばたけいせき
弥生時代の幕開けを告げる土器
佐賀県唐津市/日本最古段階の水田
八日市地方(ようかいちじかた)遺跡
多重に巡る環濠
石川県小松市/北陸最大級の環濠集落

東奈良遺跡
鋳型をはじめとする鋳造関連品
大阪府茨木市/日本屈指の銅鐸生産集落
田村遺跡群
調査中の竪穴住居
高知県南国市/四国最大の集落遺跡

板付遺跡
木杭で組まれた灌漑用堰と水路
福岡県福岡市/稲作の始まりを語る遺跡
加茂岩倉遺跡かもいわくらいせき
発見された銅鐸
島根県雲南市/全国最多の銅鐸が出土

土井ヶ浜遺跡どいがはまいせき
集めた骨を納めた墓
山口県下関市/多数の人骨が発掘された集団墓
登呂遺跡とろいせき
杭で補強された唯
静岡県静岡市/教科書にも載っている弥生集落 水田跡

朝日遺跡あさひいせき
バリケードを築くための杭。
愛知県名古屋市・清須市/東海最大の弥生集落
垂柳遺跡 たれやなぎ いせき
発見された水田
青森県田舎館村 東北最大の水田跡

大塚・歳勝土遺跡
おおつか さいかちどいせき
環濠に囲まれた住居群。
神奈川県横浜市/東日本を代表する環濠集落
青谷上寺地遺跡あおやかみじち いせき
多彩な木製品
鳥取県鳥取市/山陰の「地下の弥生博物館」

荒神谷遺跡こうじんだにいせき
358 本の銅剣
島根県出雲市/全国最多の青銅製祭器が出土

 60米作りの伝播
 61稲作伝播ルート
米作りの伝播
ジャポニカ起源地の巨大湖はすでに消滅している
列島への3経路

温帯ジャポニカの2経路
半島経由(松菊里)
長江直接
熱帯ジャポニカの1経路
これを持ち込んだのが旧モンゴロイド

半島への伝播は比較的新しい

長江内陸への伝播は
大変古い
 65
米つくりのルーツ
米つくりが伝わってきた経路には、いくつかの学説があり ます。 揚子江 (長江) 下流域からの直接渡来説、朝鮮半島 経由説、南島沿い渡来説など代表的なものを紹介します。 渡来してきた人びとは米つくりだけではなく、石の工具・ 農具 武器も日本列島に伝えました。

ここでは、最古の水田跡といわれる菜畑遺跡の石器と、 朝鮮半島各地の遺跡からみつかった石器を比較してみました。

朝鮮半島の各地で見つかった石器

視点:右→左
木を削る斧
 扁平片石斧
 慶尚南道影池
木を削る斧
 抉入片刀石斧
 慶尚南道南山
木を切り倒す斧
 太型蛤刃石斧
 慶尚南道南山
柄のついた石の剣
 有柄式磨製石剣
 韓国 慶尚南道太平
 京都大学総合博物館

磨いて仕上げた石鏃
 磨製石鏃
 朝鮮半島
 京都大学総合博物館
稲穂を摘みとる石器
石庖丁
朝鮮半島
京都大学総合博物館
石剣と石鏃 米つくりのルーツ
日本で米作りが始まった頃の石器

視点:右→左
磨いて仕上げた石鏃
 磨製石鏃
 福岡県 伯玄社遺跡
磨いて仕上げた石の剣
 磨製石剣
 佐賀県 菜畑遺跡
柄のついた石の剣
 有柄式磨製石剣
 福岡県 馬田遺跡
木を切り倒す斧
 太型蛤刀石斧
木を削る斧
 抉入片刃石斧
木を削る斧
 扁平片石斧
稲穂を摘みとる石器
 石庖丁
佐賀県 菜畑遺跡
稲穂を摘みとる石器
石庖丁
佐賀県 菜畑遺跡
 69
 

 100ジオラマ米作り

 20世紀の水田
春の水田
田起こし
インドネシア
踏耕
インドネシア
田植え
インドネシア
田植え
日本
田植準備~田植え

 110農具
米つくりの道具
水田の土を掘り起こしたり、 ならしたりする鍬や鋤、 稲穂を摘みとる石包丁、 脱穀につかった臼と杵などがセット で伝わってきました。 また、 石の鍬は畠作につかったようです。
農具は、はじめ刃先まで木でつくりましたが、徐々に刃先は鉄に転換していきました。 次の古墳時代には、ほと んどの農具が鉄器におきかわっていました。

左端:又鍬(木製)
福岡県拾六町ツイジ遺跡
左:鋤:(鉄の刃先)
 岡山県上東遺跡
右:一木鋤(刃先まで木)

鉄鍬(鋤)先
 福岡県宮の前遺跡
杵(脱穀具)
大阪 巨摩遺跡
大足
水田の草を踏み込む道具
静岡県山木遺跡
田下駄
水田で足の沈みを防ぐ
静岡県登呂遺跡
有肩翼状石器(土堀具)
石鍬
長野県恒川遺跡

青銅製鍬先
佐賀県千塔山遺跡

大阪府新家遺跡
広鍬・狭鍬・又鍬
         
鉄鍬(鋤)先
京都府田辺天神山遺跡
鉄鍬(鋤)先
佐賀県千塔山遺跡
もみすりの実験結果
木包丁
大阪府巨摩遺跡
鉄製手鎌
福岡県赤井遺跡
石包丁
池上曽根,池島福万寺
抉入打製石包丁
長野恒川遺跡
石包丁
福岡県蒲田水ヶ本遺跡
福岡県宮原遺跡
打製石包丁
岡山県菰池遺跡
岡山百間川腹尾島遺跡
打製石鎌
磨製石鎌
山口県綾羅木郷遺跡
鉄鎌
佐賀県千塔山遺跡
大型石包丁
福岡県下稗田遺跡
 120秋の水田
秋の水田
 20世紀の水田 稲刈り
日本 
稲刈り
マレーシア 
脱穀
タイ
 
風選
ミャンマー
 
 
他の草取り~選別刈り取り

 130新しい技術の誕
   鉄器や青銅器がつくられるようになり、道具や武器を一新しました。専門技術者も現われました。
 140鉄斧
 141
鉄の威力
鉄の道具や武器は、 破壊力・強度・耐久性などの点で、木や
石のものより一段とすぐれていました。 たとえば、 鉄の
斧は石斧の1/3ないし1/4の時間で、 木を切り倒すことが できます。 また鉄の道具をつかって、いままで以上にこ まかいところまで加工ができるようになりました。 しか し、一度に鉄器が普及したのではありません。 6~700年 間におよぶ弥生時代から古墳時代にかけて、 工具や武器 や農具が少しずつ、石や木から鉄に変わっていきました。


新しい技術の誕生
鉄の威力
 142石斧
木を切り倒す斧
太型蛤刃石斧
大阪府 池上曽根遺跡
木を削る斧
扁平片石斧
木を削る斧
柱状片刃石斧
大阪府 池上曽根遺跡
木を削る斧
小型柱状片刀石斧
大阪府池上曽根遺跡
 143
鋳造の技術

青銅器の鋳物やガラスの製品もつくりはじめました。 炉で溶かした青銅やガラスの原料を、 石や土の鋳型に流し込んで製作しました。
銅鐸や銅剣などは1個ずつ、勾玉や銅鏃などは数個、 まとめてつくっています。
鋳型のほか、炉の送風装置 (鞴の羽口) もみつかっています。
鋳型の発見状況からみると、 北部九州と近畿地方南 部が、 弥生時代の鋳物生産の中心地であることがわかります。

ナイフ(鉄刀子)
京都府 田辺天神山遺跡

木に穴をあける鉄器
鉄ノミ
大阪府 水走遺跡

ナイフ(素環頭刀子)
福岡県 上り立遺跡
石山寺縁起」絵巻に描かれた工具
(鎌倉時代)
手斧,ノミ,槍鉋
 145
木を削る斧の柄
横斧の柄
大阪府瓜生堂遺跡
木を切り倒す斧の柄
縦斧の柄
大阪府 巨摩遺跡
 
 150青銅器
 151鋳型の分布
鋳型の分布 全国
一針 B
下屋敷
今宿丁田
名古山

原山
上高野
田益田中
下七見
堅田

白藤
秋葉
豊島馬場
御床松原
    大阪湾周辺
 
平方
下々塚
雞冠井
服部
芝生
東奈良
垂水
田能
楠·荒田
鬼虎川
玉津田中
大阪
瓜生堂
亀井
池上曽根
唐古·鍵
新沢一
西神ニュータウン65地点
北部九州
 
春日井市
大南
大谷
赤井手
岡本
バンジャク
須玖唐梨
須玖岡本
須玖永田
須玖五反田
須坂本
須玖尾花町
駿河
黑田
竹ヶ本
御領
平若
上白水館
中白水
トバセ
大深田
香椎
志賀島勝馬
比恵

御床松原
有田
西新町
五十川
石崎
三雲
吉武
石勺
飯倉D
大谷
永岡

宮ノ上

中原前
高宮八幡宮
津古東台
ヒルハタ
弥永原
井尻B

平塚川添
西石動
柚比本村·前田
惣座
本行
平原
櫟木
土生
安永田
鍋島本村南
原古賀三本谷
仁俣
吉野ヶ里

上枇杷
北部九州
浜山
久保長崎
吉木
松本
八田
燒ノ正
那珂
下ノ方
那珂八幡
板付
大橋E
上月隈
仲島
赤穂ノ浦
森園
庄原

 いかに北部九州に鋳造工房が多かったかがよく理解される。


 152鋳型
鋳造の技術
青銅器の鋳物やガラスの製品もつくりはじめました。 炉で溶かした青銅やガラスの原料を、 石や土の鋳型に流し込んで製作しました。
銅鐸や銅剣などは1個ずつ、勾玉や銅鏃などは数個、 まとめてつくっています。

鋳型のほか、炉の送風装置 (鞴の羽口) もみつかっていま す。
鋳型の発見状況からみると、 北部九州と近畿地方南 部が、 弥生時代の鋳物生産の中心地であることがわかり ます。

ガラスの輝き
ガラス小玉
家名遺跡
大阪府八尾市,大阪市
弥生後期
鋳造の技術
銅鐸の石製鋳型
大阪府東奈良遺跡
銅鐸の土製鋳型
奈良県唐古・鍵遺跡
広形鋼戈の石製鋳型
福岡県 多田良遺跡
中広形銅剣の石製鋳型
福岡県八田遺跡
 153
巴形銅器の石製鋳型 フイゴの羽口
唐古・鍵遺跡
小型仿製鏡
福岡飯氏馬場遺跡
東京都館町遺跡
 154
最古級の石製銅鐸鋳型
向日市鶏冠井(かいで)遺跡
両面に銅矛の型を彫り込んだ鋳型
細形銅矛の石製鋳型
吉野ケ里遺跡
青銅のブレスレットを作る型
有鉤銅釧の石製鋳型 ※
福岡県香椎松原遺跡
作りかけの青銅の鏃
連鋳式銅鏃
大阪府 下池田遺跡
ガラスの勾玉を作る型
ガラス勾玉の土製鋳型
大阪府 東奈良遺跡
ガラスの勾玉を作る型
ガラス勾玉の石製鋳型
福岡県 赤井手遺跡
 
 160新しい技術
鉄の威力
鉄の斧での切口
石の斧での切口
作業効率の向上
鉄の斧で切った切り株
石の斧で切った切り株
(所要時間約3分)
(所要時間約12分)
青銅製品ができるまで

銅鏃の鋳型
須玖岡本遺跡坂本地区

(福岡県春日市) 弥生時代後期
春日市教育委員会

銅鏃とその未成品 ほか
穂積遺跡 (大阪府豊中市)
/ 弥生時代後期
弥生時代の
大規模な鉄生産
鉄器
ごっさかいと
五斗長垣内遺跡
(兵庫県淡路市)/弥生時代後期
鉄を加工する石器
台石・敲石・砥石
ごっさかいと
五斗長垣内遺跡
(兵庫県淡路市)/弥生時代後期
ガラス製品の製作道具
とガラスの破損品
(鋳型:上段・中段左)、
(坩堝:下段)、
(ガラス:中段右)
すぐごたんだ
須玖五反田遺跡
(福岡県春日市)
弥生時代後期
ガラスの輝き
ガラス小玉
亀井遺跡 (大阪府八尾市・大阪市)
弥生時代後期
 
 200
 200木器をつくる
 201
木を割る 加工する,仕上げる
ロクロ,
木の鍬,
食物を盛る木の器
木製高坏
 202木製高坏
食物を盛る脚付の器
木製高坏
大阪府 四池遺跡
 203
作りかけの石庖丁
石庖丁の未製品
大阪府 池上曽根遺跡

稲穂を摘みとる石器
石庖丁
大阪府 池上曽根遺跡
作りかけの木の鍬
広鍬の未製品
大阪府池上曾根遺跡
 木を切り倒す斧の
できるまで
         
石器を作る石
福岡県 今山遺跡
作りかけの石斧
太型蛤刃石斧の未製品
福岡県 今山遺跡
木を切り倒す斧
太型蛤刀石斧
福岡県 多久野球場遺跡


作りかけの木の鍬
広鍬の未製品
大阪府池上曾根遺跡
刃先まで木で作った土掘り具
広鍬
大阪府 池上曽根遺跡
 

 220織物
 221
繊維に撚りをかける人 布を織る人
 222
生活の中の技術
アサ・カラムシのような植物の繊維や蚕のまゆなどから糸を紡ぎ、 原始機をつかって布を織る技術も伝わってきました。
二枚の布を綴じあわせて頭を通す 「貫頭衣」という衣類もつくりました。 また、 木工ロクロによって、 木 の容器もきれいに仕上げました。
このほか、 稲穂を摘む 石器、木を切り倒す石斧、 木の鍬を造っていく過程を展 示しました。


池上曽根遺跡から出土した布
ひじょうに小さな破片ですが、 経糸(たていと)緯糸(よこいと)を交互に織り合わせた平織の布の、 中央を3mm程度の間隔で、なみ縫い(ぐし縫い)しています。
科学分析などは行われていないので詳細は不明ですが、素材は麻と考えられています。

拡大して観察すると、 織糸が右撚りで撚られているのに対し、 縫い糸は左撚りになって いるのがわかります。

貫頭衣って?
『魏志倭人伝』には、男性は「横幅衣(おうふくい)」 女性は「貫頭衣」 を着ていたと記されています。
「貫頭衣」は布を縦に並べ、 頭の出る部分を残して縫い合わせた形であったとされています。
弥生時代の布は、「織」 の部材の長さから幅30cmぐらいの ものであったとみられています。

生活の中の技術 貫頭衣って? 池上曽根遺跡から出土した布
 223織物道具
糸巻具
奈良県唐古・鍵遺跡
繊維に撚りをかける
道具の部品
紡錘車
大阪府 喜志遺跡

大阪府池上曽根遺跡
 

 230弥生人
 230
 231
弥生犬
※弥生犬の説明が撮れていません。


 弥生人の一年
弥生人の一年

 232弥生人
弥生人
米つくりや鉄器 青銅器などを日本にもたらし、 縄紋文化の伝統をとりいれた大陸系弥生人は、 縄紋人よりも少し背が高く、 面長(おもなが)で扁平な顔をしていたようです。
しかし、大多数は縄紋人が新しい文化を受け入れて弥生人になりました。 弥生人はさまざまな自画像を残しました。
入墨を施した顔や木の人形のほか、 目だけを残したものもあります。 魔除けの呪力をもたせたのでしょうか。

人をかたどった木製品
木偶
烏丸崎遺跡
弥生人

 233顔を描いた分銅形土器が未撮影
 234人面絵画
・魔除けの眼を描いた土偶
  壁邪紋土器
  大阪府
・顔を描いた土製品
  分銅形土製品
  大阪府
・顔を描いた土製品
  分銅形土製品
  山口県
三点の写真を撮り忘れています
 235人面を描いた製品

人をかたどった木製品
 木偶
 滋賀県 湯ノ部遺跡


人をかたどった木製品
 木偶
 滋賀県大中の湖南遺跡
人をかたどった木製品
 木偶
 徳島県 庄遺跡


人をかたどった木製品
 木偶
 滋賀県 湯ノ部遺跡
 
 240弥生人骨
  縄文人 男159.2cm 女150.5cm
弥生人 男162.8cm 女150.2cm
古墳人 男162.6cm 女151.3cm
弥生人の頭蓋骨
山口県 土井ヶ浜遺跡

 250絵画土器
祭りの場と人物を描いた土器
鳥取県稲吉角田遺跡
祭りの場と人物を描いた土器
鳥取県稲吉角田遺跡
祭りの場と人物を描いた土器
鳥取県稲吉角田遺跡
稲吉角田遺跡出土土器の絵

「祭りの場と人物」とされている。この館の解釈はそのようです。
 大方の見方は、死者を運ぶ黄泉の船と、鳥の羽をつけた漕ぎ手。黄泉の高殿の階(きざはし)に到着し、高殿に入る(建物)。
 吊るされた銅鐸が到着を知らせて打ち鳴らされる。黄泉の国には鹿も待っている。鹿は豊穣の象徴である。
 253
人物を描いた土器
絵画土器
奈良県清水風遺跡

顔を表現した土器
人面土器
千葉県三島台遺跡

実に写実に半島人(エベンキ人)の特徴を表している
 255
入れ墨のある顔を描いた壷
人面土器
愛知県亀塚遺跡
※この土器は
安城市歴史博物館では
撮影禁止です。
 257
顔を表現した土器
人面土器
茨城県女方遺跡


※千葉県成田市の
人物埴輪
 


 300戦乱の弥生時代

 301戦士の墓
戦士の墓

 山賀遺跡の人骨
大阪府東大阪市の山賀(やまが)遺跡では、第5次調査(2018年)にて弥生時代前期末〜中期前葉の木棺墓から人骨が2体出土し、国立科学博物館で分析が行われました。

大阪府山賀遺跡

佐賀県吉野ケ里遺跡
吉野ケ里遺跡の人骨
佐賀県の吉野ヶ里遺跡で発見された「首なし人骨」は、弥生時代中期の甕棺(かめかん)から見つかった、30代から40代の男性の骨です。頭部が欠損し、肩や腕に切り傷があったため、戦いによる犠牲者、あるいは首狩り(敵の首を取る風習)の被害者と考えられています。

 大阪府勝部遺跡
  大阪府勝部遺跡の人骨
大阪府豊中市の勝部(かつべ)遺跡は、弥生時代中期を中心とする集落・墓地遺跡であり、特に石槍や石鏃が突き刺さった状態で発見された人骨は、当時の激しい集団間争乱の証拠として非常に有名です。計14基の木棺墓から、殺傷された痕跡を残す貴重な人骨が出土しています。


 303襲撃

戦い
弥生時代の武器には、 接近戦をおこなう短剣や刀、すこし離れた敵を突き刺す矛や、遠くの敵をたおす弓矢などがありました。
最初は石の武器をひろく用いましたが、 農具 や工具とおなじく、しだいに鉄製品に変換していきました。
表面をていねいに磨きあげた石剣や石戈は、金属の武器 を模倣して、その威力にあやかったようです。
防御には木の楯を用いました。ほかに木の甲や藤を編んだ党もあったことでしょう。

戦い

襲撃
甕棺から見つかった人骨の一部。 被害者は骨太の熟年男性、 推定身長162.1cmと考えられる。
骨は第二胸椎で、逆手で握った石剣の一撃を背後から浴びたとみられる。
○は突き刺さった石のやじり (上)と突き刺さった石の剣 (下) です。

※突き刺さった石の矢じりの写真を撮り忘れています。

襲撃 スダレ遺跡の人骨
福岡県飯塚市(旧穂波町)椿にあるスダレ遺跡は、弥生時代前期〜中期(約2000年以上前)の集落・墳墓群です。遠賀川上流域の丘陵に位置し、木棺墓を中心に計70基以上の遺構が確認されました。特に第2胸椎に磨製石剣が刺さった男性人骨(3号甕棺)の発見は、当時の戦闘行為を示す貴重な資料として知られます。

石剣の刺さった人骨
福岡県 スダレ遺跡
穂波町教育委員会

 305身を守る戦士
身を守る戦士 身を守る戦士
木で作った盾
木盾
大阪府 鬼虎川遺跡
木で作った甲
木 甲
静岡県 伊場遺跡
青銅製槍
 
 1000
 1050戦いの風景
 1051

 1060武器
 1061漢代の武器

石の鏃つきの矢
(大阪府鬼虎川遺跡)
矛,戈,剣,刀 刀と剣の違い
剣は両側に刃がありまっすぐな直刀が多く、主に突く用途です。
刀は片側にしか刃がない「片刃」で、反りがある「湾刀」が多く、斬る用途に特化しています。
 1063鉄の武器
 1064石の武器
戦いで使う土の弾
土弾
奈良県 唐古・鍵遺跡

戦いで使う石の弾
石弾
大阪府 山賀遺跡
石の短剣
打製石剣
大阪府 城山遺跡

石の短剣
打製石剣
大阪府 城山遺跡

同一反復
石の短剣
打製石剣
大阪府 亀井遺跡


鞘に入った石の短剣
打製石剣
奈良県 唐古・鍵遺跡
鞘に入った石の短剣
打製石剣
奈良県 唐古・鍵遺跡
石の矢じり
打製石鏃
大阪府 池上曽根遺跡

 1065金属の武器
青銅の矢じり
銅鏃
滋賀県 鴨田遺跡


鉄の矢じり
鉄鏃
大阪府 昭和池遺跡
円い柄頭の鉄の刀
素環頭鉄刀
大阪府 崇禅寺遺跡


青銅の矢じり
銅鏃
大阪府亀井遺跡
 1066弓を射る戦士
弓を射る戦士

 1067石の武器
石鏃
池上曽根遺跡
石の矢じり
石鏃
池上曽根遺跡
  鉄剣をまねた石の剣
剣型磨製石剣
大阪府 巨摩遺跡

鉄剣をまねた石の剣
鉄剣型磨製石剣
長崎県 里田原遺跡
     
銅戈をまねた石の武器
磨製石戈
奈良県 鴨都波遺跡
銅戈をまねた石の武器
磨製石戈
福岡県 馬場山遺跡
銅剣をまねた石の剣
銅剣型磨製石剣
兵庫県 垂水遺跡
 

 1070弥生時代の世界

 1071
弥生時代の頃の世界
ムラ・戦い・クニ
卑弥呼の館

 1073弥生時代の頃の世界
アシャンタ石窟寺院
 1075
ローマのアントニウス・ピウス帝
ティオティワカン遺跡
ローマのコロセウム
ハトラのアラート神殿
万里の長城
後漢の光武帝
 

 1100卑弥呼の館
卑弥呼の館
邪馬台国の女王 卑弥呼が住んでいた館を、 ここ数年急速にふえてきた遺跡発掘調査の成果を中心に、 『魏志倭人 伝』 の記述や、 東南アジアの民族例などを参考にしなが ら、想像を加えて模型に復原しました。

濠や柵をめぐらせた館の構造・規模、 寝殿・ 高殿・神殿・政庁・倉庫・物見櫓兵士の宿舎 工房などの建物のかたち、 あつまった人々の風俗や持ち物や身分の上下関係などに注目してください。

卑弥呼の館
 1101復元 卑弥呼の館
  狼火台
鍛冶工房
内濠
營業蒼庫
<租税を運ぶ人びと〉
倉庫の管理棟
外郭の物見櫓
外郭の正門
<租税を運ぶ人びと
倉庫の管理棟
外郭の物見櫓
外郭の正門
卑弥呼の住い
内郭
高殿
宝庫
<卑弥呼 >
内郭の正門
政所
中郭の物見櫓
<政治と裁きの場〉
接見の間
中郭の物見櫓
内郭の東間
神殿
接見の間
男弟の住い
上級兵士の住まい
<楯と矛をもつ兵士>
中郭の物見櫓
使者の宿泊施設
中郭
<中国 (魏)の使者〉
〈他国の使者〉
外郭
中郭の正門
中郭の東門
女の召使いの住まい これより後方に
<他国の従者〉
内濠
中郭の物見櫓
女の召使いの住い
(これより後方に多数)
中郭の東門
兵士の住い
宿泊施設
(他国の従者〉
内濠
市(市のにぎわい)

外郭の東門
外濠

 1103ジオラマ
  復原 卑弥呼の館 模型縮尺 1:50

 1105全景
 1106宮都中心部
 1107西倉庫群
 1108東居住地
 


 1110卑弥呼の時代

 1111卑弥呼
鏡をかかげる倭の女王卑弥呼
「汝の国中の者に示せ」 と魏の皇帝から卑弥呼に贈られた 「銅鏡百枚」。
卑弥呼がかかげ、 黄金色に輝く幻惑的な光で人々を魅了したその鏡を、
現代技法で復元しました。

 1120
 
 1130
 1131東アジアの様相
・卑弥呼の時代の東アジア
・3世紀の東アジア
・「魏志倭人伝」に書かれた卑弥呼と邪馬台国の人々


卑弥呼の時代の東アジア
 卑弥呼が共立された2世紀後葉、 中国では黄巾の乱に疲弊した後漢王朝の末期にあたり、 魏・呉・蜀が並び立ち、遼東半島では公孫氏(こうそんし)が勢力を拡大していました。
そして220年に後漢が魏により滅ぼされると、 魏・呉・蜀が覇権を競う三国時代に突入しますが、 公孫氏もあなどれ
ない存在でした。

 しかし234年に蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)が死亡すると、 南方への不安が薄らいだ魏は遼東攻撃に力を注ぎ、 238年に公孫氏を滅します。
すかさず翌年に、卑弥呼は魏に遣使(けんし)を送りました。 中国王朝を後ろ盾として倭の統合を図った卑弥呼は、国際的な政治感覚にたいへん優れた王でした。

後漢
184 黄巾の乱が起こり、 後漢王朝が衰退する
208 赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍が曹操に勝利
三国時代
220 曹操を継いだ曹丕が魏を建国する
221劉備が蜀を建国する
229 孫権が呉を建国する
234 五丈原の戦いで諸葛孔明が病死する
238 魏が公孫氏を滅ぼす。 翌年卑弥呼が魏に遣使を送る
263 魏が蜀を滅ぼす

265 司馬炎が晋を建国する
280 晋が呉を滅ぼす

卑弥呼の時代の東アジア
後漢-三国時代-晋

3世紀の東アジア情勢
 曹操(そうそう)の跡を継いだ曹丕(そうひ)が220年に魏を興し、それに対抗して劉備(りゅうび)(しょく)を、 孫権(そんけん)()を建てます。
 また遼東半島では公孫氏(こうそんし)が勢力を広げていました。 3世紀前半の東アジアは激動の時代を迎え、 その東端に位置する倭も複雑な政治的関係に深くかかわっていきます。

3世紀の東アジア
三国時代の東アジア
(3世紀前半)
3世紀前半の気候変動
3世紀前半(西暦200年〜350年頃)は、地球規模での寒冷化の傾向と、日本列島周辺における不安定な気候(特に湿潤化・寒冷化)が特徴的な時期でした。この気候変動は、東アジアやローマ帝国など、当時の文明に大きな影響を与えたと考えられています。

『魏志倭人伝』 に書かれた 卑弥呼と邪馬台国の人々

『魏志倭人伝』 は卑弥呼について、夫や婿をもたず、 人前に姿をほとんど見せず、弟が政治を補佐し、千人 の女性が身辺の世話をしていること、そして「鬼道」と 呼ばれるまつりごとにより人々を治めていると書いています。
宮殿には宮室、 楼観があり、 城柵を設け、常に 兵により守られています。 また邪馬台国の人々に 関しては、風紀が正しく、盗みをせず、訴訟も少ないこと、 飲食にあたっては、 生野菜を食し、 高杯を使い、 手で食べ、 飲酒を好むなど、詳しく紹介しています。
さらにト骨を 生口用いた占い 葬送の場での歌舞飲酒、大人・下戸の身分差についても取り上げています。

「魏志倭人伝」に書かれた卑弥呼と邪馬台国

「魏志倭人伝」 所蔵写真提供:宮内庁書陵部
「魏志倭人伝」現代語訳
 

 1133邪馬台国と卑弥呼
邪馬台国と卑弥呼
『魏志倭人伝』 に記された卑弥呼は、 2世紀後半の倭の内乱を終息するため共立された邪馬台国の女王です。

 魏が公孫氏を滅した景初2 (238) 年の翌年、卑弥呼は生口や班布をたずさえた遣使を帯方郡経由で魏に送り、
魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、 銅鏡 100枚、五尺刀2口など多くの貴重品を賜りました。
正始4(243) 年にも遣使を送り、 狗奴国との争いが激化すると正始8年に使いを出します。
そして248年頃に亡くなると、 「径百余歩」 の墓が築かれました。 それこそ定型化した最初の前方後円墳、 箸墓古墳だとの説が有力です。

邪馬台国と卑弥呼 魏志倭人伝

所蔵写真提供:
宮内庁書陵部
※1生口:生きた土鈴や捕虜
※2班布(はんぷ):まだら模様のある布

邪馬台国の候補地
女王卑弥呼が宮都をおいた邪馬台国の所在地につい ては、さまざまな説が江戸時代より主張され、 「邪馬台国 論争」 が続いていますが、 いまだに決着のつかない謎です。 有力とされる九州説や畿内説のほかにも、数多くの候補地が上げられています。

邪馬台国の候補地  邪馬台国 候補地

 ※私は、九州や関西の博物館を数多く訪問して、邪馬台と書き記された連合国は、北部九州にあったと思っています。
  その政治・軍事の中心は、やがてヤマトに移動しましたが、それは邪馬台が移動したのではなく、九州から移動してきた多数の武力集団が
  奈良盆地附近の勢力と共に新しい政治の中心地を作り上げたのだと思います。
  これまで見てきた資料からはそのようにしか受け取れません。

  あれほど隆盛であった北部九州だのに、なぜ、辺境の大和、泥沼の中につくられた集落がいきなり政治的・軍事的な力を持つことができるのか。
  現代の世界史を見てもすぐに、そんなことはあり得ないとわかる。理解できることだとおもう。

  北部九州で密集していた集落国家が、この列島には東にもっと広い土地があるという地理的発見により、狭い土地での領土戦争に見切りをつけ、
  東進し、大和川を遡ったその奥の、広大なヤマト湖にたどり着き、まだ誰のものとも決まっていない、湿地を干拓して、新しいクニにしようと
  したのではないか。
  そのことを最も如実に物語っているのが、神武東征である。遅れてやって来た宮崎の狗奴国が東進する様は、先行した国々に似ているだろう。

  都市国家として邪馬台国が周辺の全勢力をあげて打ち建てられるためには、強固な経済力がなければならない。それは北部九州でなければ
  得られない。大和の泥沼の中では鉄も銅もなく、あるのは経済力の弱いフロンティア(未開地)のみである。
 
  と、思っています。(笑)



卑弥呼の衣装
中国や日本の専門家の指導のもとに、 卑弥呼の衣装を

復元しました。 後漢王朝から表着(おもてぎ)を贈られ、同時に入手した布で上衣(うわぎ)や裳を作り、 卑弥呼は後漢王朝が後ろ(だて)であることをアピールするため、あえて中国風の表着を上衣や裳の上に羽織ったという想定です。

絹製の表着には、 さまざまな文様を刺繍しています。
上衣は絹布2枚を縫い合わせた貫頭衣に袖を着けたもので、 アカニシという貝から採取した 染料で薄紫色に染めました。
また(も)の赤色に はニホンアカネを使用しました。 なお卑弥呼像が着ている展示品は、 化学繊維・染料を用いています。
➀中国風の絹製表着
②アカニシで薄紫色に染めた上衣
③ニホンアカネで赤色に染めた裳

卑弥呼の衣装 卑弥呼の衣裳 ➀中国風の絹製表着
あかにしで薄紫色に染めた上衣
ニホンアカネで赤色に染めた裳
 

 1140

 1141卑弥呼ゆかりの品々
卑弥呼の宝石箱
卑弥呼が身に着けた装飾品を、当時の日本列島内外の副葬品を
参考に想像しました。 箱は中国への窓口、 後漢代の楽浪郡の石巌里(せきがんり) 205 号墳で見つかった銅鏡や化粧品を入れた漆器製のケースを モデルにしました。 模様は、 やはり楽浪郡の彩篋塚(さいきょうづか)古墳出土の 漆製品を参考にアレンジし、 側面に龍などを細密に再現しました。

箱の中に納めた装飾品は、 福岡県の平原方形周溝墓(ひらばるほうけいしゅうこうぼ)に副葬されたガラス製の勾玉や小玉、 メノウ製管玉などを参考に作成しました。

➀ うるし塗り(漆器) の宝石箱
② メノウ製管玉のブレスレット
③ ガラス製勾玉・小玉のネックレス
④ ガラス製小玉のネックレス
⑤ メノウ製管玉のブレスレット
⑥ ガラス製勾玉 小玉のネックレス
⑦ ガラス製小玉のネックレス4

卑弥呼の宝石箱
 1144
卑弥呼の食卓
倭の女王、 卑弥呼のある日の夕食を大胆に復元しました。
季節は春の設定。 食材の選定にあたっては、 池上曽根遺跡をはじめ各地の 遺跡内で発見された骨や種子、 花粉などの分析結果を根拠としま した。主食は野菜を混ぜて炊き込んだご飯。 メインディッシュは マダイの塩焼き。 さらにサトイモとタケノコとブタ肉の煮物、 ハマグリとイイダコのワカメ汁、 アワビの焼き物なども添えました。

王の食事なので、贅沢な内容に仕上げています。

➀玄米の炊き込みご飯 (ゼンマイ、タケノコ)
②マダイの塩焼き
③ミョウガ
④サトイモ・タケノコブタ肉の煮物
⑤ハマグリとイイダコのワカメ汁
⑥アワビの焼き物
⑦ショウサイフグの一夜干し
⑧炒りエゴマ風味キビモチ
⑨アワ団子のシソの実あえ
⑩ゆでワラビ

卑弥呼の食卓

 1146
「中平」 年銘の鉄刀

 「中平」以下24文字が金象嵌された鉄刀。
 「中平」 とは 184年から7年間にわたり使用された後漢の年号です。
その頃中国遼東では公孫氏(こうそんし)が後漢から自立を強め、 倭では卑弥呼が 共立されました。
そこで公孫氏 が倭と同盟を結ぼうと、 後漢 王朝から賜わった刀を卑弥呼 の後漢遣使に与えたとの説もあります。
その後、 把頭を その後、把頭を付け替え、 150年余りを経て奈良県東大寺山古墳に副葬されました。
卑弥呼の時代の 東アジア情勢を語る重要な 刀です。

【象嵌文字】
中平□年五月丙午
造作文刀百練清剣上
應星宿下辟不祥

【文意】
中平□年吉日、 銘を刻んだ刀を作る。
鍛え上げた立派な刀は、
天上では星座の神々の役に立ち、
地上ではわざわいを払う。

「中平」 年銘の鉄刀 文意 鉄刀
現物の写真は3157にあります

「中平」 年銘の鉄刀 (レプリカ)
東大社 : 東京国立博物館
当資料は現在、 特別展示室 において展示 しております

 
 

 1150鏡の世界
 1151
卑弥呼と銅鏡
 景初3 (239) 年に朝貢した倭女王卑弥呼に対し、 魏の皇帝は 金印とともに 「銅鏡百枚」 などを贈りました。
それがどの種類の鏡であったかについては、幾つかの説があります。
魏の年号があることから、 三角縁神獣鏡が有力視されてきました。 しかし中国での出土例がなく、 倭で製作されたとの意見もあります。
近年では、 奈良県黒塚古墳などで特別の扱いを受けていたことから、画文帯神獣鏡が 「銅鏡百枚」 の中心であったとの考えもあります。
 また、 後漢時代のさまざまな鏡であったという説もあります。



卑弥呼と銅鏡
副葬された鏡と
副葬状況
天理市 黒塚古墳
副葬された鏡
画文帯神獣鏡
三角縁神獣鏡

副葬状況

黒塚古墳 (奈良県天理市) の鏡と副葬状況
写真提供: 奈良県立橿原考古学研究所


天上界を描く鏡
 天上界にすむ神仙(しんせん)霊獣(れいじゅう)を主題とした鏡が神獣鏡(しんじゅうきょう)画像鏡(がぞう きょう)です。

そこには不老長生の象徴である西王母(せいおうぼ)、西王母と対をなす東王父(とうおうふ)、 仙人、 そして天上界を護る龍や虎などが登場します。とりわけ 神獣鏡の図像は、中国の鏡の中でも非常に精緻に描かれています。

 また鏡の銘文には鏡をもつ者の立身出世、 子孫繁栄、 健康長寿 などが願われています。

日本で神獣鏡や画像鏡が見つかるのは 卑弥呼の時代からです。
死後に魂が昇仙する天上界へのあこがれは、 倭人社会にも少なからず及んでいたことでしょう。

※卑弥呼の時代に中国の神仙思想が入って来たようです。

天上界を描く鏡
画文帯環状乳神獣鏡
図柄解説


「卑弥呼と鏡の世界」の鏡
卑弥呼の時代前後に中国でつくられた鏡を中心に展示しています。
中国の鏡にはいろいろな図像や文様が描かれていて、 古代中国の人々の世界観や信仰対象が表されています。 そのなかでも後漢時代後半からつくり始められた神獣鏡や画像は、 卑弥呼の時代と深く関わっています。

●展示品はすべて館蔵品です。
●鏡の輝きを見ていただきたく、 1面は鏡面を上に向けています。
●情報端末で文様を拡大して見ることができます。

「卑弥呼と鏡の世界」の鏡
中国鏡の時代区分
後漢~三国時代
 1153
は卑弥呼の時代前後につくられた中国鏡
卑弥呼の時代より前につくられた中国鏡
同向式神獣鏡
同向式神獣鏡
鳥文鏡
四獣鏡
夔鳳鏡
斜縁同向式神獣鏡
単夒鏡
画文帯環状乳神獣鏡
画文帯対置式神獣鏡
 
画文帯環状乳神獣鏡
 
画像鏡
画像鏡
画像鏡
双頭龍文鏡
内行花文鏡
方格規矩四神鏡
盤龍鏡
方格規矩四神鏡
四神鏡
獣帯鏡
鏡面を向けた鏡
 ※卑弥呼の時代末期につくられた鏡が、卑弥呼の鏡となる。魏鏡は?
 
 

 1160北部九州

 1161北九州の王墓
 1162
北九州の王墓
 1163
柄と刃をひとつづきで鋳造した銅剣
有柄式銅剣
佐賀県 吉野ヶ里遺跡
青銅の剣
細形銅剣
佐賀県吉野ヶ里遺跡
ヘアバンド
ガラス管玉の頭飾り
佐賀県吉野ヶ里遺跡

 ※ガラスの管玉はやはり吹き技法で作ったのだろうか。大した技術で色と太さが一定している。
 頭痛や熱を冷ますのに使ったのだろうか(笑)。ガラスはギシギシこすれ合うと細かな破片が飛び散って、大変危険。眼に入ったらえらいことに。
 1165
中国前漢時代の鏡
速弧紋清白鏡
福岡県 峯遺跡

中国前漢時代の鏡
速弧紋日光鏡
福岡県 峯遺跡
右端:毛ぬき
鉄製鑷子
福岡県 峯遺跡
中国のガラスの宝器を加工した円板
ガラス壁片加工円板
福岡県 峯遺跡
鉄の剣
福岡県 峯遺跡
打ち込む鉄の武器
鉄戈
福岡県 峯遺跡
 

 1170ムラ戦いクニ
ムラ・戦い・クニ

環濠集落の全貌
大塚・歳勝土遺跡
弥生時代中期後半
横浜市
ムラを守る
防御のために打たれた杭
朝日遺跡 (愛知県清須市・名古屋市)
弥生時代中期
愛知県埋蔵文化財センター
物見櫓(復原)
吉野ヶ里遺跡

(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市)
佐賀県教育委员会
高地性集落
古曽部・芝谷遺跡(大阪府高槻市)
弥生時代後期
高槻市教育委員会

石の武器
人骨に刺さっていたと思われる打製石鏃
山賀遺跡 (大阪府東大阪市・八尾市) / 弥生時代中期/ (公財)大阪府文化財センター

矢柄つきの石鏃
鬼虎川遺跡 (大阪府東大阪市) / 弥生時代中期
東大阪市教育委員会・東大阪市立郷土資料館

打製石剣
恩智遺跡 (大阪府八尾市) / 弥生時代中期
八尾市立歴史民俗資料館
青銅の武器

銅剣
比恵遺跡 (福岡県福岡市) / 弥生時代中期
福岡市埋蔵文化財センター

銅矛・銅戈
宇木汲田遺跡 (佐賀県唐津市) / 弥生時代中期
佐賀県立博物館
銅矛・銅戈・銅剣

鉄の武器
左から 鉄矛・ 鉄剣・素環頭太刀 (2点)
ふたつかやま
二塚山遺跡
(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町 三養基郡上峰町)
弥生時代中期
佐賀県立博物館
防禦
石鏃が刺さったままの盾
南方(済生会) 遺跡 (岡山県岡山市)
弥生時代中期中葉~後葉


下之郷遺跡(滋賀県守山市)/弥生時代中期後半
戦いの犠牲者か?
傷のある頭蓋骨

銅鏃が刺さったままの骨盤(寛骨)

青谷上寺地遺跡 (鳥取県鳥取市) / 弥生時代後期
鳥取県埋蔵文化財センター
 
 1180貝輪
 1181
南海産の貝で作った腕輪
オニニシ製貝輪
鹿児島県 広田遺跡
鹿児島県歴史資料センター 黎明館
南海産の貝で作った腕輪
ゴホウラ製貝輪 (金隈型)
福岡県 金隈遺跡
福岡市埋蔵文化財センター
  南海産の貝で作った腕輪
ゴホウラ製貝輪 (土井ヶ浜型)
山口県 土井ヶ浜遺跡
豊北町教育委員会
 
   
 1183

南海産の貝で作った腕輪
ゴホウラ製貝輪 (立岩型)
福岡県 立岩遺跡
 
南海産の貝で作った腕輪
ゴホウラ製貝輪 (諸岡型)
福岡県 諸岡遺跡
 

ゴホウラ製貝輪をまねた青銅の腕輪
有鉤銅釧
ゴホウラ製貝輪をまねた青銅の腕輪
有鉤銅釧
大阪府 要池遺跡

 

 1190装身具
 1192北九州の「王」墓
北九州の「王」墓
福岡県吉武高木遺跡
ネックレス
碧玉製管玉の首飾り
福岡県 吉武高木遺跡
ネックレス
碧玉製管玉とヒスイ製勾玉の首飾り
佐賀県 椛島山遺跡
アクセサリー
碧玉製管玉とガラス製小玉
八尾市 亀井遺跡
弥生文化博物館
 1194
貝で作ったリング
貝製指輪
山口県 土井ヶ浜遺跡
鏡の破片を再利用したペンダント
内行花紋鏡の破片
大阪府 瓜破北遺跡
ガラス化した焼き物のペンダント
ファイアンス製垂飾
福岡県 三雲遺跡

骨で作ったヘアピン
骨製髪飾り
奈良県 唐古・鍵遺跡


髪飾り
木製竪櫛
大阪府 巨摩遺
石のペンダントトップ
石製勾玉
大阪府亀井遺跡

銅鐸の破片を再利用したペンダント
突線鈕式銅鐸の破片
静岡県 藤井原遺跡

 1196
社会のしくみ
弥生人は、ヒスイ・鹿の角イノシシの木貝など、 縄紋時代から引き継いだ材料に加え、ガラスや青銅などの新しい材料もつかって、
かんざし ヘアバンド・櫛・ネックレス・ブレスレット・リングなどのアクセサリー をつくりました。
ただ、 身に飾ったのは特定の人々に限 られていたようです。

また鹿角製の儀式棒の飾りや、金メッキを施した蓋弓帽(がいきゅうぼう)は、手にもって支配者のシンボルにしたようです。
 (蓋弓帽:は帽子ではなく、傘の骨の先端につけた飾り。転じて儀丈の頭飾りを指している)

アクセサリーを飾った身分の高い人 髪飾り
木製竪櫛
滋賀県服部遺跡

装身具
儀式用の杖
儀仗
大阪府 亀井遺跡

ネックレス
碧玉製管玉の首飾り
兵庫県 田能遺跡

蓋弓帽
社会のしくみ
髪飾り
木製竪櫛
滋賀県服部遺跡


青銅で作ったブレスレット
銅釧
兵庫県田能遺跡
※写真では銅釧が撮れていない
ネックレス
碧玉製管玉の首飾り
兵庫県 田能遺跡
尼崎市教育委員会
アクセサリーを飾った身分の高い人
 
 

 1210交流

交流 発掘された「準構造船」
久宝寺遺跡(大阪府八尾市)

弥生時代終末から古墳時代初頭
船を進める
櫂×3
青谷上寺地遺跡
(鳥取県鳥取市)
弥生時代後期から古墳時代前期

青谷上寺地遺跡 (鳥取県鳥取市)
弥生時代中期
鳥取県埋蔵文化財センター

船のイメージ
土器に描かれた船
唐古遺跡(
奈良県磯城郡田原本町)
弥生時代中期
交流の窓口
原の辻遺跡の船着き場と復原模型
原の辻遺跡 (長崎県壱岐市)
北と南の交流
北の島にまで届いた南島産貝輪
(イモガイ製)
有珠モシリ遺跡
(北海道伊達市)
縄文時代中期
噴火湾文化研究所
対外交流
楽浪から伝来したガラス釧
大風呂南1号墓

(京都府与謝郡与謝野町)
弥生時代後期

中国の貨幣(貨泉)
青谷上寺地遺跡
(鳥取県鳥取市)
弥生時代後期
鳥取県埋蔵文化財センター
精密な計量
石製分銅
亀井遺跡
(大阪府大阪市・八尾市)
弥生時代前期か
さおばかりの錘 (権)
原の辻遺跡
(長崎県壱岐市)
弥生時代後期
 1220
 

 1400交流
 1401
  くり抜いた丸太と板材を組み合わせて造った船
    準構造船
     大阪府久宝寺遺跡
     弥生時代後期~古墳時代  

鏡で船の内部をご覧いただけます。
 

 1410貝交易
 1411

 1413
列島の交流
弥生時代にはさまざまな物資が交流しました。結婚にともな

う贈り物、戦争による略奪、政治的な貢物(みつぎもの)下賜品(かしひん)などの ように人々の移動にともなって運ばれる場合、あるいは交 易のように物資の移動が中心になる場合などがあります。 交流を示すものとして、ブレスレットの材料となったゴホウ ラなどの南海産の貝と、玉の材料となったヒスイを展示しま した。 ゴホウラは沖縄の近海で、ヒスイは新潟県糸魚川河口 の周辺で採取したものをつかったようです。

列島の交流  
  ヒスイの勾玉
福岡県 吉武高木遺跡
ヒスイの勾玉
富山県 野田遺跡
ヒスイの原石
富山県内

貝輪の材料となる南海産の貝
ゴホウラ
現生標本 

南海産の貝で作った腕輪
オオツタノハガイ製貝輪
鹿児島県 広田遺跡

鹿児島県歴史資料センター 黎明館
南海産の貝で作った腕輪
ゴホウラ製貝輪
鹿児島県 広田遺跡

鹿児島県歴史資料センター 黎明館
   
 

 1430貝輪と交易

 1440列島の交易
 1441半島交易
朝鮮半島の鏡
多鈕細紋鏡
福岡県 吉武高木遺跡

朝鮮半島の特徴をもつ銅矛
細形鋼矛
福岡県 吉武高木遺跡

朝鮮半島の特徴をもつ銅
細形銅戈
福岡県 西武高木遺跡

朝鮮半島の特徴をもつ銅剣
細形銅剣
福岡県 吉武高木遺跡
 
1443半島から来たもの
朝鮮半島から伝わってきたもの
朝鮮半島の鈴
朝鮮式小銅鐸
大分県別府遺跡
朝鮮半島の鏡
多鈕細紋鏡
大阪府 大県遺跡

朝鮮半島の系統をひく土器
朝鮮系無紋土器
福岡県 横隈鍋倉遺跡
朝鮮半島の系統をひく土器
牛角把手付壺
佐賀県土生遺跡

佐賀県立博物館

 1445列島内の交易
東海地方から運ばれた
大阪府 平野遺跡

瀬戸内地方から運ばれた高杯
大阪府 亀井遺跡
青銅で作った煮炊き用の鍋
銅鍑
長崎県 佐護クビル遺跡
  円窓土器       

円窓土器
AI による概要

 円窓付土器(まるまどつきどき)は、弥生時代中期以降に東海地方(特に尾張地域)を中心に分布する特殊な土器です。
壺の胴体部に大きな丸い穴が開けられており、貯蔵や煮沸には不向きなため、お祭りなどの儀礼用として使用されたと考えられています。

円窓付土器の特徴と概要
・特徴:壺の胴部上半に、拳ほどの大きさの正円または楕円形の孔が開いている。
・出土地域: 朝日遺跡(愛知県)を中心とする尾張地域の遺跡から多く出土。
・分布: 近畿地方の遺跡からも出土例があるが、尾張からの搬入品ではなく各地域で独自の調整がされている事例もある。

用途の推定
 日常的な実用品ではなく、儀礼的な役割があったと推定されています。
・儀礼用: 孔が開いているため、穀物や水を入れて貯蔵・輸送する用途には使えない。
・供献用: 墓への供え物として使用された可能性が指摘されている。
継続的利用: 環濠や貝層などからも出土するため、祭祀的な日常作業で使用されていた可能性もある。

主な出土遺跡
・朝日遺跡(愛知県):
中心的な出土遺跡。
・高蔵遺跡(愛知県): 復元された台付円窓付壺が出土している。
・熱田貝塚(愛知県): 弥生時代中期の円窓付壺が出土。
この他の関連情報については、弥生時代の祭祀遺跡や尾張地域の古墳・遺跡に関する検索結果が参考になります。

この土器は東海地方とされていますが、北陸地方能登半島においても分布しています。
 土器の用途としては、埋葬用の土器で二次葬の骨を入れる土器かと思われます。
 

 1460海外との交流
 周囲を海に囲まれた日本列島では、 海外との交流に船は 不可欠でした。
いま知られている弥生時代の船は、木を 刳りぬいた丸木舟の両側に、 板を張る構造のものでした。 最初、 朝鮮半島との交流が盛んでした。
各種の青銅器や土器が伝えられました。 紀元前108年に楽浪郡が設置されてからは、 中国の鏡 武器 貨幣などがもたらされました。

 1461来たもの

 東アジアの中での交流
日本列島に来た主なものと遺跡
  沖縄宇堅/漢式三角鏃  山口・沖の山/五珠銭・半両銭
山口・地蔵堂/金銅製蓋弓帽
福岡・志賀島/金印

長崎・佐護クビル/銅
長崎対馬・シゲノダン/青銅製剣飾り
長崎原の辻/権・大泉五十・車輿具
長崎・里田原/多鈕細文鏡

佐賀 ・宇木汲田/多鈕細文鏡
福岡・三雲/中国製銅剣・ガラス璧
福岡・吉武高木/多鈕細文鏡
福岡・須玖岡本/ガラス璧

大分・別府/朝鮮式銅鐸
福岡・守恒/五珠銭

京都・田辺天神山/銅釦
大阪・亀井/貨泉
兵庫・会下山/漢式三翼鏃
岡山・高塚/貨泉 
鳥取·青谷上寺地/ 鋳造鉄斧
島根·西川津/鋳造鉄斧
京都·函石浜/貨泉
長野·社宮司/ 多鈕細文鏡

 1463来なかったもの
 1464半島から来なかったも
 1466中国から来なかったもの
牛車(ぎっしゃ) 文字

 1467半島系土器の広がり
 
 1470伝来不伝来
 1471中国伝来
中国三国時代の鏡
景初三 (239) 年銘
画紋帯神獣鏡
大阪府 和泉黄金塚古墳
中国の青銅の矢じり
漢式三翼鏃
兵庫県会下山遺跡
芦屋市教育委員会
中国の貨幣
貨泉
大阪府 亀井遺跡
中国の貨幣
五銖銭
福岡県 守恒遺跡
青銅の飾り金具
銅釦
京都府 田辺天神山遺跡
同志社大学歴史資料館
中国の青銅の剣
中国式銅剣
福岡県 伝三雲遺跡
糸島市教育委員会
 1473中国伝来

 1475伝わってこなかった中国の品々
墓に入れたブタ小屋の模型
明器(めいき)(便所)
墓に入れた井戸の模型
明器(めいき)(井戸)
 1490下賜
 1491
金印全景
金印印面
「漢委奴國王」漢の倭の奴の国王

この頃の「印」 は、 紙に捺すものではありません。
荷物や書簡を縛ったヒモなどを封印する粘土に捺すものなので、 いまの「ハンコ」 と違って、 文字が彫り込まれ(陰刻) ています。

金印全景

封泥
封印に使った粘土を復元したもの
封泥
 1492金印
 

 1500青銅器
 1501
青銅器
 1502青銅製祭器の分布
平形銅剣
広形銅矛
出雲型銅剣(中細形C類銅剣)
大阪湾型銅戈
邪視(辟邪)文系銅鐸(福田型銅鐸)
近畿式銅鐸
三遠式銅鐸
菱環鈕式銅鐸
外縁付鈕式銅鐸
扁平鈕式銅鐸
突線鈕式銅鐸

 青銅器の分布
広形銅矛 武器形青銅器
広形銅矛
扁平鈕式銅鐸
突線鈕式銅鐸
平形銅剣 出雲型銅剣
(中細形C類銅剣)
銅鐸型青銅器
外縁付鈕式銅鐸
近畿式銅鐸
外縁付鈕式銅鐸
扁平鈕式銅鐸
近畿式銅鐸
近畿式銅鐸 三遠式銅鐸

 1510青銅製祭器の種類と変化

鳴らす銅鐸➀ 鳴らす銅鐸② 見る銅鐸

聞く銅鐸
 Ⅰ式 最古段階
     菱環鈕式 
 Ⅱ式 古段階
     外縁付鈕式
 Ⅲ式 中段階
     扁平鈕式
 Ⅳ式-1 新段階-1
     突線鈕式

30~50cm
見る銅鐸
 Ⅳ-2
  新段階-2~5
   突線鈕式
50~1m
近畿式
三遠式
 ※引用「大岩山と近江の銅鐸」


 1511鳴らす銅鐸➀

最古段階Ⅰ式と
中段階Ⅲ式
鳴らす銅鐸
菱環鈕式銅鐸
出土地不明
鳴らす銅鐸
扁平鈕式銅鐸
神戸市桜ケ丘遺跡


トンボ,カマキリ

2匹のトカゲ,カメ

シカの群れ
(子鹿を含む)
銅鐸にいるのは

大阪湾型銅戈(大阪府)
中広形銅戈(福岡県)
祭りの道具に変化した青銅の戈
大阪湾型銅戈
大阪府瓜生堂遺跡


中広形銅戈
福岡県原町遺跡

鋳掛の痕跡
 
 1513鳴らす銅鐸②

中段階の銅鐸
鳴らす銅鐸
扁平鈕式銅鐸
大阪府林昌寺


中段階Ⅲ式
祭りの道具に変化した青銅の剣
平形銅剣と(愛知県)
中細型銅剣(島根県)
平形銅剣
愛知県 古田遺跡


中細形銅剣
島根県神庭荒神谷遺跡

 1515見る銅鐸

新段階の銅鐸
突線鈕式
見る銅鐸
三遠式銅鐸
浜松市 前原Ⅷ遺跡


新段階Ⅳ-2
祭りの道具に変化した青銅の矛
広形銅矛(熊本県)
中細形銅矛(大分県)
中細形銅矛
熊本県 轟遺跡
広形銅矛
大分県 坊主山遺跡


 1517
クニのまつり
銅鐸は地中に埋められた状態で出てきます。 穀物を育てる大地の霊のエネルギーを、 とりだす道具としての役割を持っていたのでしょうか。 最初は小さかったものが徐々に 大型化しました。 かねとして鳴らす銅鐸 (聞く銅鐸) が、 まつられる銅鐸 (見る銅鐸) へと変化しました。

銅剣・銅矛・銅戈などの武器も、 刃のない飾られる大型品への変化をたどります。
武器のもつ威力は悪霊を追い払い、 豊穣をもたらすと信じられていたのでしょう。
 武力崇拝のはじまりです

クニのまつり 銅鐸・銅剣・銅矛の埋納
島根県荒神谷遺跡
 
荒神谷遺跡で
埋納された青銅器の種類と数

銅剣358本(全て中細形銅剣=出雲形銅剣)
銅矛16本(中細形14,中広形2)
銅鐸6個(全て菱環鈕式)
 
 


 1550弥生墓制

 1551会場全景

 1552弥生時代の各地の墳墓
まわりを溝で区画する
(方形周溝墓)
大阪府瓜生堂遺跡
棺の上に大きな石をのせた墓
(支石墓)
長崎県里田原遺跡
四隅に張り出しのある墓
(四隅突出墓)
鳥取県阿弥大寺遺跡
巨大な人工の丘の墓
(墳丘墓)
岡山県楯築遺跡

甕棺の集団墓地
佐賀県吉野ヶ里遺跡
貝のアクセサリーを副葬する
鹿児島県広田遺跡

土を掘って遺骸を納める
(土壙墓)
大阪府鬼虎川遺跡
頭骨だけを再び集めた墓
山口県土井ヶ浜遺跡

木の棺に遺骸を納める
(木棺墓)
大阪府雁屋遺跡
いったん埋葬した後、 骨を壺に集める
(再葬墓)
茨城県小野天神前遺跡

石の棺に遺骸を納める
(箱式石棺)
佐賀県大友遺跡
小児用の甕棺
福島県天神原遺跡

甕の中に遺骸を納める
(甕棺墓)
福岡県金隈遺跡


考察 弥生時代の墓
 弥生時代初頭の墓は実にバラエティーに富んでいる。これは、大陸や半島、南の島々からやって来た人々の故郷の墓制なのかも知れない。
実に様々で、共通するのは土に埋めること。(北海道の中世以降に風葬にする習慣=アメリカインディアンと共通があったらしい)
土中埋納以外はある意味奇想天外でもある。半島では支石墓3種類が流行っていたようだが、九州の一部にしか上陸していない。きっとそれは支配者の墳墓で、階層によって異なっていたり、庶民はやがて腐って汚く臭いから土に埋めちゃう!的な埋葬だろか。
 (そこから、土の下には死者の世界があるとの説話は、この行為を合理化するための自己弁護なのかもしれない。)

 まぁ、とにかく、だから様々な墓が残されるようになったのではないだろうか。


 1555
弥生時代の棺
弥生時代の墓は、 地域によって異なった姿を見せていました。 弥生時代も終わりごろになると、階層や政治的な地位によって、 同じ地域の墓にも違ったものがあらわれ、 一人のための墓も造り始めました。 そのうちのいくつかを紹介します。

また、ここでは前1世紀ころの近畿地方の組合せ式木棺と、 北部九州の甕棺を比べてみました。
墓に供えた土器や貝製品をも展示しました。

 甕棺
甕棺 土器の棺
甕棺
福岡市藤崎A遺跡

※実に精緻で熟練の作品

 木棺
弥生時代の墓 木棺 木の棺
木棺
大阪府 巨摩遺跡


※有力者の棺には芳香を放つ材や堅牢な材を使用していた

 1557供献土器
墓に供えた土器
供献土器
大阪府 雁屋遺跡
         
墓に供えた土器
供献土器
大阪府 雁屋遺跡
墓に供えた土器
供献土器
大阪府 船橋遺跡
 
 1560貝のアクセサリー
貝のアクセサリー
貝符
鹿児島県広田遺跡
種子島 南種子町
「山」を刻んだ貝のアクセサリー
           

画像を移動しています

画像を移動しています
 

 1570死とまつり
人々は一体(いったい)(=一緒)になって祭りをおこない、死ぬと共同墓地に葬られました。
やがて一人のための墓が祭られます。

ムラのまつり
弥生時代のムラでは、いろいろなまつりや儀式がおこなわれていたようです。
ト骨(ぼっこつ)吉凶(きっきょう)を占う道具です。
祭場に立てた木の鳥は、 穀霊(こくれい)や祖霊をムラに運んだのでしょう。

シカや建物をよく(つぼ)に描いていますが、豊かな実り への祈りをこめたのでしょうか。
小銅鐸は銅鐸を小型にしたものです。 農耕のまつりに使われたことでしょう。
また、 土笛や琴などの楽器は、 まつりの雰囲気を盛り上げたのでしょうか。
 1571鳥竿
死とまつり 韓国の祭り場に立てられた木の鳥
鳥を形どった木製品
鳥形木製品
大阪府 亀井北遺跡

首の長い鳥を形どった木製品
鳥形木製品
大阪府 山賀遺跡

ムラのまつり

 1573絵画土器
7本足の動物を描いた土器
絵画土器
大阪府 萱振遺跡
シカを描いた土器
絵画土器
大阪府 大里遺跡
シカを描いた土器
龍を描いた土器
大阪府 船橋遺跡

龍を描いた土器
大阪府 船橋遺跡


2025に実物の写真を
掲載しています

 1575不明土器
用途が明らかでない土器
手焙形土器
大阪府 小阪合遺跡
土の笛
陶損
島根県 タテチョウ遺跡
紋様のある土器
彩紋土器
大阪府 山賀遺跡

弥生文化博物館

※彩文土器の検索
上記「彩文土器」を画像検索したところ、次の回答を得ました。

AIによる概要 この画像は、インダス文明のモヘンジョ・ダロから出土した、ハラッパーの彩文土器(テラコッタ製)です,。
・文明: インダス文明(紀元前3300年〜1300年頃)
・出土地: パキスタンのモヘンジョ・ダロ
・特徴: 赤い塗料で幾何学的な文様が描かれたテラコッタ製の土器です。」

AIによる概要
 この画像に写っているのは、中国の新石器時代、特に仰韶(ぎょうしょう)文化馬家窯(ばかよう)文化(紀元前3000年〜2000年頃)に作られた彩文土器(彩陶)の一種と考えられます。
特徴と背景
・彩陶(さいとう): 粘土で作った土器の表面を磨き、鉄分やマンガンを含む顔料(赤や黒)で幾何学模様、動物、人物などの文様を描き、焼き上げたものです。
・アンダーソン土器: 1921年にスウェーデンの考古学者ヨハン・アンダーソンが中国河南省の仰韶村で発見したことから、日本では一般的に「アンダーソン土器」とも呼ばれています。
・文様と形状: 画像の土器は、丸みを帯びた胴部に黒と赤の顔料で緻密な幾何学文様が描かれており、当時の高度な製作技術と美的感覚を示しています。この種の土器は、黄河流域の農耕定住生活の中で発達し、主に煮炊きや貯蔵、あるいは祭祀用の道具として使用されました。

 ※いかにも弥生文化離れした彩色なのでしらべましたら、AIはこんな嘘っぱちの結果を出しました。おもしろいですね。
  ほんとにAIは・・・・ですね。

 しかし、それにしても奇妙なデザインですね。どこから舞い込んだのでしょう。展示品ということは誰も調査しなかったか、
 あるいは、判明しなかったのでしようか。
 


 1580祭祀具
    青銅の小さな鈴
小銅鐸
大阪府 寛弘寺遺跡

ニワトリの頭を形どった土製品
鶏頭形土製品
奈良県 唐古・鍵遺跡


 まつりに使った石器
有角石器
千葉県 草刈遺跡

千葉県文化財センター
千葉県 御林跡遺跡
 
占いに使ったシカの角
きざみぼね
刻骨
奈良県 唐古・鍵遺跡
占いに使った動物の骨
ト骨(イノシシの肩甲骨)
ト骨(シカの肩甲骨)
大阪府 亀井遺跡

弥生文化博物館
 
 


 1600水源池遺跡

 1610
水源池遺跡 水源池遺跡と周辺の遺跡 水源地遺跡と周辺の遺跡
伽羅橋南遺跡
無名塚古墳
取富木車塚古墳
水源地遺跡
大園遺跡
大園古墳
富木南遺跡
取石遺跡
熊野街道

ごあいさつ
 水源地遺跡は高石市加茂2~3丁目一帯に所在する集落遺跡で、これまでの発掘調査で古墳時代を中心に、 さまざまな時期の遺構や遺物の出土が確認されています。
 大阪府教育委員会は、昭和54年から55年にかけて府営高石綾井住宅の高層化に伴い水源地遺跡の発掘調査を行いました。
その結果、 5世紀後半 (古墳時代中期後半) に建てられた複数の倉庫や同時期に生産された須恵器、平安時代の土器が大量に埋められた井戸など、
集落遺跡の様相が明らかになりました。

 今回の弥生プラザ展示では、同調査で出土した土器などを展示し、高石に眠る知られざる遺跡をご紹介します。 本展示を通して古代の高石に生きた人々の暮らしや文化の一 端をご堪能いただけたら幸いです。
      大阪府教育庁文化財保護課
      大阪府立生文化博物館

水源地遺跡とは
 水源地遺跡は高石市加茂2~3丁目周辺に広がる集落遺跡で、高石市の浄水場(現在は配水場)周辺に遺跡が広がることからその名が付けられました。 遺跡の範囲は東西約400m×南北約500m で、 高石市役所や市立加茂小学校といった施設が範囲内に所在します。

 本遺跡は南西に所在する大園(おおぞの)遺跡同様、市東部から中央部にかけて広がる低位段丘(ていいだんきゅう)上に立地し、さらに南東から北部にかけては低位段丘上を開析(かいせき)した谷を、西部は海岸砂丘の後背低地を望むことから、段丘上の縁辺部に所在することになります。

 同地一帯では昭和初年に地下げ工事の際に遺物が出土したことが知られ、昭和20年代の府営住宅の建設に際する、 宇田川誠一氏主宰の「伽羅橋(きゃらばし)クラブ」による発掘調査で、多数の弥生土器や 須恵器が出土する集落遺跡として知られるようになりました。 昭 和40年から50年代にかけては周辺の宅地化が進んだことから、 高石市教育委員会や大阪府教育委員会による本格的な発掘調査が行われ、古墳時代や平安時代に営まれた集落の様相が明らかになりました。特に特徴的な初期須恵器が数多く出土した点が着目 されています。

 これまでの調査成果から、 水源地遺跡は弥生時代から中世にか けて営まれた遺跡であり、 特に古墳時代中期から後期にかけて大きく繁栄し、 その後時代が下るにつれて北から南に集落が移動していったと考えられています。

ごあいさつ 水源地遺跡とは 水源池遺跡の遺構平面図
 1620
全景写真(南から)
水源池遺跡第2次調査
第1区
全景写真(北から)
水源池遺跡第2次調査
第2区
把手付椀
須恵器
古墳時代中期
坏身,坏蓋,坏蓋
調査風景
水源池遺跡第2次調査
第1区
須恵質蛸壺
古墳時代後期
飯蛸壷(イイダコツボ)×2
有蓋高坏×2,有蓋高坏
 1630
平安時代の井戸検出状況
水源池遺跡第2次調査
第2区
黒色土器
椀(黒色B類)×2
椀(黒色A類)
土師器(井戸出土平安時代)
椀×3
現地説明会の様子
水源池遺跡第2次調査
第2区


羽釜
 
 


 2000第2展示室 池上曽根世界

 2001
高床倉庫
高床倉庫には稲を収めていたと考えられています。稲は穂摘みの状態で保管され、必要に応じて脱穀・ 精白されていたと考えられています。
中には種籾や豊作を願う神像もいれられていたのかもしれません。 床下の空間には農具などがおかれていたのでしょう。
柱は一本の木を上の方だけ四角くし、 「ねずみ返し」 をはめ込んでいます。



 2010曽根世界ワールド


 2011展示方針
池上曽根遺跡の長年にわたる発掘調査の成果を一堂に集めました。
大型建物と大型井戸・竪穴や平地式の住居・井戸・ゴミ捨て用の穴・用排水溝、それらをとりかこむ環濠、環濠の外部に造られた方形周溝墓、井堰や水路 などが見つかっています。また遺跡からは、 くらしやまつりにつかった土器・石器・木器・ 金属器などの道具が数多く出土しました。 いずれも弥生時代の社会や文化を理解する ための貴重な資料です。

池上曽根ワールド
この展示室には池上曽根遺跡から出土 した資料がいっぱい。 石器や木器、 土器のほか、さまざまな祭りの道 具も展示。
大型井戸の木枠はレプリカだけど、 実物の大きさと同じ。 大型建物に使われた柱もあり、この展示室に入ると池上曽根遺跡のすべてがわかる。

池上曽根ワールド

 2013きっかけの土器
池上曽根遺跡発見のきっかけとなった土器 壺
この土器は、大正年間 (1920年代)に 池上曽根遺跡内で南繁則氏により発見された弥生時代中期 (今から約2000年前) の壺です。

きっかけの土器

※きっかけの土器
 この土器は、弥生時代中期(約2,000年前)を代表する長頸壷です。
 型式名は、発見地の和泉地域の指標となる「日明山(ひやりやま)」あるいは広域的な編年上の呼称である「畿内第Ⅱ様式」に分類されます。

1. 型式名と分類
・日明山型(ひやりやまがた): 大阪府和泉地域の弥生中期を象徴する型式です。この時期の和泉地域の土器は、壺の頸(くび)が非常に長く発達するのが最大の特徴で、その極致がこの「日明山型」とされています。
畿内第Ⅱ様式: 近畿地方全体の土器編年(時代のものさし)において、中期前半から中頃に位置づけられる様式です。

2. 形状と装飾の特徴
形状: ラッパ状に大きく開いた口縁部と、すらりと長い頸部を持っています。この時期、液体を注ぐための機能が発達し、このような洗練された形の壺が作られるようになりました。
文様(櫛描文): 頸部に施された平行な横線は、植物の茎などを束ねた「櫛状の工具」で描かれた「櫛描文(くしがきもん)」です。中期前半から中頃にかけて、近畿地方の壺はこの文様で全体を飾るのが一般的になります。

3. 出自と背景
大阪府立弥生文化博物館の近隣にある池上曽根遺跡(和泉市・泉大津市)など、和泉地域の主要な遺跡から同型の土器が多数出土しています。これらは当時の祭祀や貯蔵に用いられ、弥生人の高度な製作技術と美意識を示しています。


 2015発掘調査の歴史
池上曽根遺跡の
発掘調査の歴史
上曽根遺跡の発掘調査の歴史

 遺跡の発見
 ベールをぬぐ池上曽根遺跡

 ムラの様子が見えてきた
 ムラの中核に迫る



遺跡の発見
 1900年(明治33)弥生土器や石器の発見
 1967年(昭和42)発掘調査

池上曽根遺跡の全貌
紀元前3・4世紀ごろ
ムラが生まれました

●弥生時代I期にさかのぼる
 方形周溝墓が全国で初めて
 見つかりました。
紀元前3世紀~紀元後1世紀ごろ
最も人口が多く、ムラが繁栄しました

●ムラをめぐる溝が掘られました。
●無数の柱の穴が残されていました。
●土器・木器・石器が大量に消費されていました。
 作りかけの品もたくさんありました。
●和歌山や河内から土器が運ばれていました。
 また石庖丁には紀ノ川流域の緑色片岩が使
 われました。
●鍬鋤などの農具・石斧の柄などの工具を含む数多く の種類の木器が見つかっています。
●鳥形や男根状の木製品が見つかりました。
●ムラの南で方形周溝墓が見つかりました。
紀元後1~3世紀ごろ 環濠は埋められ、
ムラの規模が小さくなりました

●井戸の底から龍を描いた土器が見つかりました。
●円形に一段高く削りだしたり、溝で囲んだりする
 特殊な空間が見 つかり、そこには数件の建物が
 あったと見られます。
●環濠の外の埋もれた河川から割られた銅鐸の破片が
 見つかりました。

     
  集落を囲む環濠
集落の南で発見された方形周溝墓群
 
円形の台地状部に集中する柱穴
まとまって見つかったタコ壺
 



ムラの中核に迫る 史跡整備にともなう調査 (1992~1994年) によって次々と重大発見がありました
紀元前1世紀ごろのムラの中核部分が 明らかになってきました
・弥生中期後半の大型建物や井戸などが発 見されました。
・大型建物の南側に青銅器製作工房があっ たようです。
・サヌカイト (石器の原料) や蛸壺を納めた 穴も見つかりました。
・年輪年代法により、 大型建物の柱 (柱12) の伐採年が紀元前52年であると判明し、 それが弥生時代中期後半末に当たること もわかりました。
・「弥生都市」という考えが出され、 それに対する賛否の議論が高まりました。

ムラの様子が見えてきた 幾重にも巡る環濠 ムラの中核に迫る
弥生時代中期後半の遺跡の様子

発見された大型建物と井戸
発掘調査の様子
復元された大型建物と井戸
 2017発掘調査のジオラマ
ジオラマ
発掘調査
 

 2020祭りや生業の道具
 2021
祭りや生業の道具 占いに使った鹿の角 占いに使った鹿の角
 2022
神の使いとしての鳥
弥生時代、 鳥は土器や銅鐸に描かれたり、木で作られるなどまつりの道具に多く表されました。 また、 鳥の格好をした司祭者が描かれた土器が見つかっています。
空を舞う鳥は人の住む世界と神や精霊が住む世界とを行き来し、人々の生活を豊かにする祖先の霊や穀物の精霊を運んでくる神聖な生き物と考えられたのでしょう。

神の使いとしての鳥 神の使いとしての鳥
鳥型木製品
鳥形木製品
 2023
骨のペンダント
骨製垂飾
猪の牙のペンダント
猪牙製垂飾
建物が描かれた土器
絵画土器
 2024
銅鐸をまねた土製品
銅鐸形土製品
穴のある儀礼用の土製品
環状石斧形土製品

 2025絵画土器
「龍」は想像上の動物として弥生時代に中国から日本に伝わります。
土器に描かれたものが日本で最も古いのですが、今のものとはずいぶん違います。

土器にいるのは..."龍"
土器にいるのは..."龍" 胴が短く、足も「ひれ」状に描かれています。

池上曽根遺跡出土
龍が描かれた壺 龍が描かれた土器
 2026
銅鐸の破片
突線鈕式銅鐸片
青銅の矢じり
銅鏃
ヒスイ製の勾玉
弥生文化博物館
呪術に使った土の道具
男茎形(おはせがた)の土製品
 2027
石製紡錘車
土製紡錘車
土器の破片を加工した円板
土製円板

 2028
フグを食べた弥生人
当館が位置する池上曽根遺跡。 弥生時代には現在より も海が近かったからでしょうか、遺跡からはタイやスズ キ、 ハモなど色々な種類の魚の骨が出土しています。 そ の中にはフグの骨も含まれていました。
フグはおいしいけれど、 その多くは毒を持つ危険な魚です。 しかし、 池上曽根遺跡で暮らした弥生人たちは長年の経験によりその調理方法を身に付けていたのでしょう。

漁網につけるおもり
土錘
漁網につけるおもり
石錘
フグを食べた弥生人

 2029
タコ壺のかたち
弥生時代のタコ壺は、 多くが丸底のコップ形です。
上部にあいている穴は縄を取り付けるためのもので、いくつかをつなげて延縄(はえなわ)としていたことがわかります。
池上曽根遺跡からは上部に把手がついた釣鐘形のイイダコ壺も出土しています。

飯蛸壷
池上曽根遺跡
タコ壺のかたち

イイダコをタコ壺から取り出しているところ
 
 

 2030弥生の建築物
 2031
どんな建物に住んでいたの?
弥生時代の人々が住んでいたとみられる建物は大きく二種類があります。

竪穴住居 (竪穴建物) 地面を直径5m前後の円形や一辺5m前後の方形に掘り、 直径15~20cm の柱を4~8本立て、柱を(けた)でつなぎ、 垂木(たるき)をかけてカヤやワラなどで屋根をふくものです。
竪穴住居は、地面を掘ることで壁と床ができるので、 材料と道具が少なくてすみ、 高い技術がなくても地面を掘る労力をおしまなければ、 なんとか建てることができます。 また、 半ば地下に住まうことから冬は比較的あたたかく過ごせたでしょう。

掘立柱建物(高床建物) 地面に柱の太さの4~5倍の穴を掘って柱を立て、 柱に横木を組合せた上に板などで床をはり、 板や薄板を編んだもの、ワラなど で壁をこしらえ、垂木をかけてカヤやワラなどで屋根をふくものです。
掘立柱建物は、地面から離れた 床や壁、屋根をもたせるために木と木を組合せる設計が必要です。 また、 丸い木から板を作ったり、 柱に穴をあけるなど細かな木の加工には、高い技術と 石の道具のほかに鉄の道具が必要です。
床の上は乾燥するため、 住まいのほか、稲穂をはじめとする食料を保存する倉としても使われます。

池上曽根遺跡の
大型建物
どんな建物に住んでいたの


柱を支える礎板
 大型の建物を支えるには長くて太い柱が必要ですが、柱を穴の中に立てただけでは重さのために沈み、 建物は傾きます。 そこで柱の根元に工夫がいります。 それが礎板です。 大小の木や板を穴の底に敷き、 柱からの重みを受けるのです。

 礎板には使わなくなった材料を使いまわすことがあり、一方に軸とみられる突起がついていることから建物の扉 と考えられるものも見つかりました。 もとの大きさは不明ですが、厚さが10cmほどあり、大型扉と考えられます。

柱を支える礎板 柱を支える礎板
礎板に転用された扉
 2033大型建物の柱
  大型建物の柱
柱12
BC52年に切り出された柱
 
  大型建物の柱
柱6 
大型建物の柱
柱4
 
大型建物の柱
柱7
大型建物の柱
柱18
大型建物の柱
柱8
 

 2035井戸
大型建物と大形井戸 大型建物と大形井戸 大形井戸 大型建物
 2040井戸
弥生時代最大級の くり抜き井戸枠。

大型建物のとなりから、クスの木をくり抜いた直径約2mの井戸枠が見つかりました。 底から1mほどが完全に残っています。 大型建物でとりおこなわれる祭りで使う 「聖なる水」 をくむ井戸だったのかもしれません。 井戸枠内側には鋭い傷が残り、 鉄斧で形が整えられた証拠です。
また四角の穴が5箇所あけられています。 まわりから水を集める工夫です。


井戸枠の埋まった状態
掘り出された井戸枠
 

 2050弥生の石器
 2051
BC52年という年代
 大型掘立柱建物に使われた柱のうち、残りの良いものを年輪年代測定した結果、紀元前 (B. C.)52年に伐採されたことが明らかになりました。
今からおよそ2000年前です。
 いっしょに見つかった土器から建物は弥生中期後半という時期に建てられたこともわかりました。
その結果、 それまでの弥生時代の年代を100年も古く考え直さなけばならなくなりまし た。考古学界に大きな一石を投じた発見でした。

高温で変形した土器
弥生時代中期
BC52年という年代
調査でみつかった柱穴

 2053石器の材料
サヌカイト: 鏃など、 打製石器 鏃など、打製石器の材料として多く使われています。 近畿では大阪府と奈良県にまたがる二上山で採れます。
緑色片岩: 池上曽根遺跡では、石庖丁の素材として多く使われています。 和歌山県の紀ノ川流 域で採れます。

石器の材料
 
石で作った戈
せっか
石戈
石の剣
だせいせっけん
打製石剣
磨いた石の剣
磨製石剣
磨いた石の剣
ませい せっけん
磨製石剣
 

 2055
狩りの様子
銅鐸や土器には、鹿やイノシシの狩りをしている場面が描かれているものがあります。
狩りには弓矢が多 く使われたようで、伝香川出土銅鐸に描かれた絵画には、5匹の猟犬を使ってイノシシの狩りを行っている様子も描かれています。
狩りの様子 伝香川出土銅鐸に
絵かがれた絵画
石の矢じり
打製石鏃
磨いて仕上げた石の
矢じり
磨製石鏃

 2057
石の道具が語ること
◆「石器ってなに? いつごろ使ったの?」
 古くから石は多くの生き物にとって、 最も身近な道具のひとつとして使われ てきました。
人の祖先は硬い石を割って鋭い刃を作りだし、 他の動物の鋭い爪や牙に対抗できる石の道具 「打製石器」を産み出しました。
火を使い始めるより古い約250万年前のことです。 この時から土器の誕生までを旧石器時 代と呼んでおり、 打製石器は狩りの道具として発達していきます。
 続く縄文時代には樹木の伐採・加工 の道具としても発達しながら弥生時代に引き継がれます。

 弥生時代には磨き研いで鋭い刃を作りだす 「磨製石器」が多く作られ、稲作とともに石庖丁が登場します。
しかし、弥生時代中頃から、 石器は数も種類も少なくなり、次第に素材が金属の「青銅器」と「鉄器」が多くなります。
弥生時代から古墳時代へと移り変わる頃には、石器の時代は終わりを告げ、 鉄器の時代になっていきます。

集落を囲う溝 石の道具が語ること 石を打ち欠く
石を磨く・研ぐ
磨製石器
稲穂を摘みとる石器
石庖丁
・作りかけの石庖丁

・石庖丁のミニチュア
  小型石庖丁

・作りかけの大型石庖丁

・石庖丁の形をした草刈り用の石器
  大型石庖丁
    ・木を切り倒す斧
  太型蛤刃石斧

・木を削る斧
  柱状片石斧

・木を削る斧
  扁平片石斧 
     
・打つ道具
  石槌

・環状石斧を仕上げる道具
  環状石斧用穿孔具
穴をあける道具
石錐

棒につけた武器
環状石斧
穴をあける道具
石錐
 

 2060木器
池上曽根遺跡の環境復原
空から見た池上曽根 「弥生ムラ」の周辺
紀元前1世紀ごろの池上曽根 「弥生ムラ」 周辺の環境を、 地理学・古生物学・考古学な どの研究成果にもとづいて復原しました。 平野には、 今は埋まってしまった川が何本 も流れ、水田は少なく、 たくさんの樹木がは えています。 そして砂丘にはクロマツ、湿 地にはアシが茂っています。

木器
池上曽根遺跡の環境復原
池上曽根遺跡の環境復原


和泉最大の集落・ 池上曽根遺跡
 多重の環濠でかこまれ、 「神殿」 あるいは 「祭殿」 とみられる大型建物が建ち、 大型井戸が設けられ た池上曽根遺跡では、一時期最大1000人もの人が 住んでいたという推定もあります。
 さらに石器や木器製作だけでなく、 弥生先端技術である青銅器鋳造が行われた可能性も高いのです。
 以上は弥生中期に限っての集落の姿です。 しかし 300 年以上にわたって、 池上曽根遺跡は和泉最 大の集落であり続けました。

  和泉最大の集落・池上曽根遺跡  東からみた池上曽根遺跡航空写真
(府道松ノ浜北線発掘調査時) 

液体をすくう道具
しゃく
杓子

食物を盛る器
台付鉢
食物を盛る器
把手付鉢
高坏


姿なき鉄の道具
 弥生時代には、 まつりに銅の道具 「青銅器」、 実用品に鉄の道具 「鉄器」 を使用しています。

 青銅器は地面を掘って丁寧に埋められた 状態で見つかります。
しかし、 鉄器は見つかることがまれで、とくに大阪などでは極 めて少なく、加工した木材などに痕跡とし て見られる程度です。

鉄器が見つからない 理由については 「腐食しやすい」、「貴重で あったので再利用されている」 など様々な 考え方がありますがよく分かっていません。

姿なき鉄の道具
石斧と鉄斧の比較 樹木にみる石器と鉄器の切れ方の違い
石斧
切り倒す時間約12分
繊維が切れていない

鉄斧
切り倒す時間約3分
繊維が切れている
 2070
木を削る斧の柄
柱状片刃石斧の柄
扁平片刃石斧の柄
呪術に使った木の道具
男茎形(おはせがた)の木製品

呪術に使った木の道具
男茎形(おはせがた)の木製品

鹿角製飾りをまねた木製品
    魚をすくう手持ちの網の枠
手網(たも)の枠


  作りかけの柄杓
柄杓未成製品

液体をくむ柄のついた道具
柄杓(ひしゃく)

叩く道具
木槌 
 
作りかけの鍬 広鍬の未製品
広鍬の未製品×2
刃先まで木でできた土掘り具
広鍬
又鍬
作りかけの鍬の泥よけ
刃先まで木でできた
土掘り具
組合せ鋤
刃先まで木でできた土掘り具
組合せ鋤
組合せ鋤
一木鋤

 2080土器
 2081
土の容器が語ること
◆「土器ってなに? 何に使ったの?」
 粘土は炎で熱して500°C以上にすると化学変化を おこし、 水につけても元にはもどりません。 この現象を利用して作った容器のことを 「土器」と呼んでいます。 土器の登場は縄文時代の目印とされ、約 13,000 年前のことになります。

 縄文時代の人々は、 土器という水が漏れず燃えない容器を使って、 お湯を沸し、 食材を煮ることで、 より多くの食料を生み出しました。

 続く弥生時代になると現在の炊飯につながる米を 炊く調理も始まり、 食物はより食べやすく、消化し やすくなったと考えられます。 そのため、 今のお粥 のように体の弱った者や幼児で も食べやすい食べ物が増えたと 思われます。

 また、弥生時代には使い方にあわせて土器の種類が増え、 その多くは炊飯ジャー ・鍋・やかん・土鍋・茶碗・皿などに姿かたちを変えながら、 現在まで受け継がれています。

土の容器が語ること 弥生時代の煮炊きの
道具


 池上曽根遺跡の土器

 ミニチュア土器
祭りにつかった土器
ミニチュア土器
 2083 1~3世紀
1~3世紀 煮炊に使う鍋,甕
食物を盛る脚つきの器
高坏
食物を盛る器,鉢
煮炊に使う鍋,甕
煮炊に使う鍋,甕
鹿を描いた壺
壺をのせる台,壺・器台
 2085前2~1世紀
前2~1世紀
  壺,高坏
 
液体を入れる壺,壺
蓋つきの貯蔵用の壺
壺と蓋
食物を盛る器,鉢
鉢,壷     
記号をつけた壺
水差型土器


鍋の蓋

高坏
高坏
器台
 2087前3~前2世紀
前3~前2世紀
甕,鉢,壷

鍋の蓋

 2089子供を埋葬した壷
子供を埋葬した壷
日明山(ひやりやま)式土器
 
 2090池上曽根遺跡 おもな遺構の分布
 
 はじめに 編集者
 特別展の名「伝世」では、私のような素人には内容がわかりませんでした。写真を編集していく中で、その重大な意味がわかってきました。

 特に私が最初におどろいたのは、あの大量の青銅製品の原料が全て中国から持ち込まれていたことです。私は以前、近畿地方の銅鐸生産工房に銅や錫の原料を供給していたのは、兵庫県内の鉱山ではないかと推論を、ながながとしたことがありました。それは全て間違いでした。
あの弥生時代に、大量の青銅が原料として大陸から搬入されていたのでした。いったい何と引き換えに入手したのでしょう。

 次に、国内でつくられたとされる銅鏡が、大陸産であったり、ヤマト王権が中国鏡を模倣生産して、漢鏡だと騙して豪族に配布していたり、
三角縁神獣鏡は人気のない駄鏡だったり、、、と。まだまだ、驚くような内容があげられています。

 これまで何年も全国の博物館で見て来たものが、あっさりと価値観を崩される。そんな、物凄い感動を受けた展示会でした。
 ぜひ、期待してご覧ください。
 


 3000特別展 伝世


 3010伝世とは

ごあいさつ
 山中でみつかった銅鐸や古墳から発掘された銅鏡など、考古資料の一部には、作られた年代と地中に埋まった年代が大きく異なる場合があります。 このような「伝世品」 (でんせいひん)は、人びとのあいだで長期間伝えられた大切な宝物でした。

 それらは、現代人にとっても、過去のモノの取扱いを復元するためのきわめて重要なてがかりとなります。
銅鐸や銅鏡がいつ作られ、 どこでどの程度の期間使われ、 なぜ埋められたのかを問うことは、 当時の人びとの思想や信仰、あるいは権威や権力の所在とその系譜を明らかにすることにつながります。 この点についての理解が日本列島における古代史像を左右する大問題となるいっぽうで、直接的 な証拠が少ないために、多くの考古学者が頭をなやませてきました。

 本展では、このような「伝世品」に関する新たな視点からの解釈や自然科学的分析の成果、それらをめぐる熱い議論などについて 検討し、弥生時代から古墳時代への移行の歴史的意義について考えます。

 なお本展の準備に際しては、青銅器・青銅器文化・金工技術研究の国際拠点形成を進めておられる国立大学法人島根大学のご協力を得て、企画および資料収集の充実を図ることができました。開催にあたり、惜しみないご支援をいただいた同学法文学部および所蔵機関をはじめとする関係者・関係機関の皆様に厚く御礼申し上げます。
 令和7年10月11日 大阪府立弥生文化博物館 毎日新聞社 

ごあいさつ さまざまな中国鏡 伝中国/戦国~三国/当館

 特別展「伝世」ポスター
伝世
弥生時代古墳時代をつなぐモノ
大阪府立弥生文化博物館
令和7粘土秋季特別展

重要文化財
大和天神山古墳出土
内行花文鏡
[奈良国立博物館
(奈良県立橿原考古学
研究所附属博物館保管)]
加古川市指定文化財
里古墳出土
画文帯神獣鏡
〔加古川市教育委員会〕
岐阜県指定文化財
美濃觀音寺山古墳出土
方格規矩四神鏡
〔美濃市教育委員会]
兵庫県指定文化財
松帆6号銅鑼
〔南あわじ市教育委員会〕


プロローグ
 伝世とは

 考古学において製作年代と埋没年代のあいだに大きな開きがある出土品が発見された場合、それらは伝世をへた器物であると理解されることが多い。 つまり伝世品は、価値と耐久性をもつ宝物のような器物が、それを所有した世代の中で廃棄、埋納、副葬 といった形により消費されることなく代々継承されたことを示すものである。

 現代における伝世品の身近な事例として、 神社で受け継がれてきた御神体が挙げられる。 祭礼で用いられるもの、人目にふれないよう保管されるものなど、その扱いはさまざまであるが、地域社会の結合の中心に位置する神社に属する共有財産として伝えられてきたという点も重要である。

 いっぽう、 個人の地位継承の象徴として受け継がれる伝世品、すなわちレガリアとよばれるものもある。 人類史上、 さまざまな社会において、 権力所有の正当性がレガリアを通じて示されてきたが、 顕著な墳墓の副葬品の中には、そのような性格をもつものが含まれる可能性が高い。

  プロローグ
伝世とは


神社の祭礼で用いられる銅矛
 高知県高岡神社/現代/吉田広氏提供/
 弥生時代中~後期に製作され、 おそらく 弥生時代のうちに埋納されたと考えられる5本の銅矛。
江戸時代の1657年に付近で発見され、高岡神社に奉納されて今にいたっている。 現在まで毎年秋の例大祭の行列の中で掲げられてきた。

神社の祭礼で用いられる銅矛
    剣璽等承継の儀
令和元年5月1日/
皇位継承の証として剣璽・御璽国璽が承継された儀式/
宮内庁提供
 


プロローグ
考古資料の年代決定


 考古資料の年代を決定するためには、 資料が作られた順番=編年 (相対年代)を明らかにしたうえで、それに絶対年代 (暦年代)を与えていくことが必要となる。

 弥生時代および古墳時代については、 土器の編年 などにもとづき、それぞれ前期・中期・後期・終末期に区分することができる。 この相対年代と文字史料自然科学的分析の成果を照らし合わせることで、年代観の枠組みが形づくられている。

 銅鐸については、 土器とともに出土することが少ないため、 銅鐸自体の形態や文様にもとづいた詳細 な編年研究がなされている。

 古墳については、 副葬品や埴輪などにかんするさ まざまな編年を組み合わせた古墳編年が組み立てられている。
古墳時代前期の場合、 およそ125年程度と想定される期間が5段階に区分されており、 1 段階が25年程度=およそ1世代にあたるという計算になる。

プロローグ
弥生時代と古墳時代をつなぐもの


プロローグ
弥生時代と古墳時代をつなぐモノ


 本展では、このような伝世品の中でも、特に銅鐸銅鏡に注目する。
 銅鐸は弥生時代の地域社会における共有の財産と して山中などに埋納されたと考えられるのに対し、
 銅鏡の多くが、 古墳の副葬品、 つまり個人に帰属するものとして墳墓に納められた。

 この2種類の青銅器によって象徴される、 弥生時代から古墳時代への移行は、 平等な社会から身分差のある階層化した社会へという、 古代国家形成史の文脈の中で重要な位置を占めてきた。

 また、 それらは単なるものではなく、 地域社会の結合や繁栄を可能とする何らかの力、ないしは権力や宗教的カリスマ性の根拠といった意味がともなう ことが多いと考えられる。
 以下では、このような器物の物理的な側面象徴的な意味の双方をあわせて 「モノ」と呼び、その伝世の歴史的展開についてみてみたい。

プロローグ
考古資料の年代決定
弥生~飛鳥時代年表

 3011年表と指標
関連年表
弥生~飛鳥時代年表
弥生中~弥生終末期 古墳前期~飛鳥時代
古墳時代前期編年の指標
※この指標凄い!
 

 3020
プロローグ
伝世の考古学的認定

 伝世を考古学的に認定するためには、器物の製作流通埋没の年代の峻別が重要である。
 また、実際には世代をこえることはないものの、 いっけん伝世したようにみえる長期間の保有という 事態もありえる。 このため、器物の製作年代と埋没年代のあいだに、古墳編年において2時期以上のズレがあるものを「長期保有」、その中でも3時期以上のズレが認められる場合を「伝世」の可能性が 高いとみなすことが多い。

「「伝世」とそれに関連する器物の存在類型
岩本崇氏作成図(本展図録特別論考所収)より一部改変

伝世の考古学的認定


プロローグ
伝世論➀

 漢王朝の時代に作られた漢鏡は、中国大陸では製 作年代と埋没年代が矛盾なく対応するのに対し、日本列島の古墳出土のものでは、 製作年代と埋没年代は一致しない例が大半であり、ほとんどが伝世をへたものと考えられている。
 問題は、それらの伝世がどこで誰によってなされ たのか、ということにある。

 なぜなら、弥生時代の遺跡からみつかる漢鏡は北部九州に集中するのに対し、古墳時代になると近畿地方の古墳出土品が圧倒的に多くなるという、分布 の変化がみられるからである。

 この点にかんして、弥生時代のうちに各地に流入した漢鏡が共同体の司祭者の権威付けのための宝器として「伝世」したのち、古墳時代になって司祭者が世襲的首長へと変質をとげた結果、 古墳に副葬されたという説が長年有力視されてきた。この説は「伝世鏡論」 とよばれ、 多数の漢鏡を保有したと推測される近畿地方の社会が、弥生時代から優位性をもつ存在であったという歴史観を支える理論として重要な意味を有した。

プロローグ
伝世論②

 これに対する批判も早くからなされ、各地で発掘調査が進んでも、近畿地方の弥生時代遺跡での漢鏡出土例は増えなかったが、 古墳時代研究者、特に銅鏡研究者の多くが伝世鏡論を支持する状況が長く続いた。

 しかし、主に2010年代以降、中堅世代の研究者を中心に、弥生時代の資料状況をふまえた形での評価の見直しが進められている。

 いっぽうで、大王墓級の古墳の再発掘の成果や銅鏡の銘文にかかる新たな解釈などにもとづき、改めて
近畿弥生社会への鏡の流入と伝世を認めるべき という主張もなされている。

 考古資料自体で伝世を把握することはなかなか難しいが、さまざまな観点から蓋然性(確からしさ) の高い理解を模索する努力がなされている。

 伝世論は、日本列島における古代国家形成過程を 考えるうえでの最大の難問であると同時に、今日、 最も熱い議論がなされているテーマの一つであると いってよいだろう。

伝世論➀
伝世論②

伝世 (でんせい)とは?

今回の展示にでてくる
伝世 (でんせい)」 ・・・ってなんや?

伝世代々伝えていくという意味だよ!
たとえば、おじいちゃん、おばあちゃんより前の
ご先祖様から大切にされてきたみんなの宝物や、
王様だけがもつことができる地位をあらわすもの
など、 長く受け継がれてきたものを伝世品というよ。

焼き鳥屋さんの「秘伝のタレ」も伝世か?!
みんなに大切にされるって意味もあるんやな~。

伝世(でんせい)とは? 銅鐸(模作品)
銅鏡(模造品)


伝世をさがす方法

伝世の意味はわかったけど、 昔の人が大切にしたものとそうでないものと、 見分けがつくんか?

考古学では難しい問題なんだけど、 ルールを決めて、条件をクリアしたものを伝世と決めるという考え方があるんだ!

どんなルールなんや?
つくられた年代と使われなくなった時代が、50年以上、 世代でいうと3世代ちがえば確実に伝世といえるんじゃないかという意見だよ。
ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんくらいやな!

伝世をさがす方法 銅矛(模造品) 銅矛(模造品)

 3030

1-1
第I章 弥生時代の伝世

銅鐸の生産 ➀

 弥生時代の伝世品の代表例が銅鐸である。
 銅鐸の製作年代は、弥生時代中期前葉から後期後葉の500年前後に及んだものと考えられる。
吊り手()の断面形状などの特徴から、菱環鈕式、外縁付鈕式、扁平鈕式、 突線鈕式に大別され、
前3者は2段階、後者の突線鈕式は5段階に細分されている。

 大きな画期となるのが突線鈕式である。それより前は実際に楽器として用いられた「聞く銅鐸」 であったのに対し、 突線鈕式は 「見る銅鐸」へと変質したと考えることが一般的である。

 図表

銅鐸の生産➀ 銅鐸の移り変わり
菱環鈕
外縁付鈕
扁平鈕
突線鈕1式
突線鈕3式・三遠式
突線鈕4式・近畿式


1-2
第1章 弥生時代の伝世
銅鐸の生産②


 青銅は銅、錫、 鉛の合金であり、鉛の同位体(同じ元素の中で重さの異なるもの)の比率は、鉱山ごとに異なる。

これを測定した結果、 菱環鈕式および 外縁付鈕式の前半 (1式)に属する銅鐸は、朝鮮半 島産の青銅器と共通する鉛を使用したのに対し、
外縁付鈕式の後半 (2式) から突線鈕式のものは、 中国本土の前漢鏡と共通する鉛 (A領(ラージエー)域)を使用し、
突線鈕式中ごろ以降のものはその中でもきわめて画一的な鉛 (a 領(スモールエー)域) を用いていることが判明した。

このような原料の変化は、日本列島で作られた武器形をはじめとするほかの青銅器ともおおむね共通しており、人びとの海をこえた交流の歴史を反映し ている。 特に興味深いのは、大型で製作点数の多い 突線鈕2式以降の銅鐸が非常にまとまりの良い、 よく管理された原料を用いていることである。 それらは中国大陸の市場流通品ではなく、政治的事情にもとづいて贈与されたものではないかとみる説もある。

銅鐸の生産②
銅鐸の鉛同位体比分布


弥生時代の伝世
弥生時代で伝世したものとして、ここでは「銅鐸を紹介するよ。
銅鐸って弥生時代に大切にされとった「祭り」で使う道具やんな?
そうだよ!銅鐸は丁寧に埋められた状態でみつかることが多いから、地域で大切に伝世された宝物だと考えられているんだよ。

弥生時代の伝世

堺市 下田遺跡
四区袈裟襻文銅鐸
発掘調査時に空気にふれた面とふれなかった面で色が異なっている
弥生時代中期(扁平鈕式新段階)

展示資料キャプションの見方
※これは例です

 3040
1-3
第1章 弥生時代の伝世
銅鐸埋納論

 銅鐸は、銅鏡や各種の武器のように個人の墓に副 葬されることはなく、 地域社会の共有財産として大 切に扱われたものと考えられている。

 この重要な器物を埋納することによって人びとの アクセスを断つ、という行為はいかなる事態によって生じたものか。
弥生時代後期のおわりに多くの銅鐸の埋納がなされたという画期があることは古くから説かれてきたが、 それより前の埋納をめぐって、 現在大きく二つの説が主張されている。

 一つは、弥生時代中期末~後期初頭にも集中的に 埋納されたという 「2段階埋納説
もう一つはそ れよりさらに前の時期にも、少数が継続的に埋納されたという 「多段階埋納説」である。 これまで、 複 数の銅鐸の一括埋納例などをてがかりとして議論が 進められてきた。

 銅鐸の多数埋納の背景に、 個々の銅鐸を保有して いた複数の集団の連帯や統合といった政治的要因を 推定する意見ともあいまって、銅鐸埋納論は、 弥生 社会像を左右する大きな研究テーマといえるものと なっている。


左端と中央
右端は次項にて
1-3銅鐸埋納論


1-4
第1章 弥生時代の伝世

松帆銅鐸

 2015年、兵庫県淡路島工場の砂置場から複数の銅鐸が発見され、 さまざまな新知見がもたらされた。
採砂地の地名にもとづいて松帆銅鐸と名付けられたこの銅鐸群は、 菱環鈕2式1個外縁付鈕1式 6個によって構成される。
前者と後者は隣接する型式であり、 また、このような古い段階の銅鐸の製作年代の詳細は必ずしも明らかではないが、製作・埋没年代のあいだに100年以上の差を見込むことは可能であろう。

 また、各銅鐸には内部に吊り下げて音をならすための「舌」がともなっていたことも注目に値する。
これにより、 銅鐸の変遷の中でも古相(こそう)のものが集め られたこれらの銅鐸が、やはり音を聞くための楽器 であったということが明瞭となった。

1-4松帆銅鐸


南あわじ市 松帆 兵庫県指定文化財
四区袈裟襷文銅鐸
松帆6号銅鐸 内部に一回り小さな銅鐸を入れた状態で埋納された
弥生時代中期 (外縁付鈕1式)
製作 3BC
南あわじ市滝川記念美術館玉青館
南あわじ市 松帆 兵庫県指定文化財

松帆銅鐸舌6 銅鐸を鳴らすために内面につるす
弥生時代中期
製作3BC
南あわじ市滝川記念美術館玉青館

銅鐸を埋めたのは・・・
土のなかに埋められた銅鐸には、古いものと新しいものが一緒にみつかることがあったりして、「いつ埋められたのか」が問題になっているんだよ。
大切な宝物を埋めてしまうなんて、 よっぽど大変なことがおきたんやろな。
有力な意見が2つあって、 1 もともと楽器だった銅鐸が大きなオブジェ (置物) のようなものに変化する紀元1世紀ごろと、 弥生時代が終わりに近づいたころに埋めたという2段階埋納説と、2もっと前から何回も埋められたという多段階埋納説とよばれているよ。

銅鐸を埋めたのは…

南あわじ市 松帆 兵庫県指定文化財
四区袈裟襷文銅鐸
松帆4号銅鐸
弥生時代中期 (外縁付鈕1式)
製作 3BC
南あわじ市滝川記念美術館玉青館
南あわじ市 松帆 兵庫県指定文化財

松帆銅鐸舌4 銅鐸を鳴らすために内面につるす
弥生時代中期
製作3BC
南あわじ市滝川記念美術館玉青館
 

 3050
1-5
第1章 弥生時代の伝世
年代測定

 松帆銅鐸には、埋納時に銅鐸の内部に混ざりこん だ植物片が、 完全に腐食することなく遺存していたものがあった。
これについて放射性炭素年代測定分析がおこなわれた結果、 約 2100 ~ 2300年前、 つまり、弥生時代中期前葉から後葉のいずれかの時 点で埋納されたことが判明した。 すなわち、 銅鐸の 埋納が弥生時代中期末~後期初頭および後期後葉の 2段階のみとは限らないことが示されたのである。

 ただし、 長野県柳沢、 兵庫県桜ヶ丘、 島根県加茂岩倉といったほかの顕著な多数埋納例は、各青銅器のセット関係 からいずれも中期 末~後期初頭のも のとみられ、 松帆 銅鐸は、 古い段階 での銅鐸埋納の存在を示す物証とし て貴重である。

年代測定 銅鐸付着植物遺存体放射性炭素年代測定結果
※銅鐸内に付着した植物痕跡

※考察 銅鐸内に付着した植物痕跡
 他の遺跡の、埋納から発掘・出土した銅鐸には見られない鐸内の植物痕跡は特異なものである。
 想像を巡らすに、銅鐸供出、加熱破壊の命令から逃れるために、砂山に埋納した時、音の出る舌を取り外さずに、運んだため、鐸内に草を詰めたのではないか。
 これまで、松帆銅鐸は、砂を詰めて運んだと考えていたが、砂を詰めると重い。ムラから砂山までの間に砂はなく、草を押し込んで、また、あるいは、そうした銅鐸の中に更に小型銅鐸を押し込んでその中にも草を詰め込んで、音がしないようにし、新月の夜に、ムラ人にも、見張りの征服者の兵士にも知られぬよう、こっそり抜け出して数人で運び去り、埋納したに違いない。
 そのあと、村人にはどんな運命が待ち受けていたのだろうか。

 3060
1-6
第1章 弥生時代の伝世
大福銅鐸

 いっぽう、新しい段階の銅鐸の伝世を考えるうえで重要な例が奈良県大福銅鐸である。 突線鈕1式の銅鐸が、方形周溝墓の溝底でみつかった土坑 (掘り込み穴) の中に埋納されていたもので、 製作年代は 1世紀前半ごろと考えられる。

 この銅鐸の名をとっ て大福型とよばれる銅鐸群は、近江(滋賀県) 南部 地域で製作された可能性がある
大和 (奈良県) 地域での突線鈕式銅鐸の出土例は少なく、のちに王権中枢が所在することとなるこの地域における当該期の銅鐸のあり方をうかがわせる貴重な資料である。

 方形周溝墓は、 周溝内などから出土した土器によって弥生時代後期後葉、 すなわち2世紀後半ごろに構築されたものと考えられており、
100年以上の伝世がなされたことになる。

1-6大福銅鐸
大福銅鐸の出土遺構
2号方形周溝墓
大福銅鐸の出土遺構
弥生時代後期/桜井市教育委員会 1987 『桜井市大福遺跡 大福小学校地区発掘 調査概報」より一部改変

大福銅鐸 大福銅鐸

大福銅鐸
○坪井・大福遺跡の東部に位置する大福遺跡からは銅鐸が出土している。
○突線鈕1式(1世紀頃) の六区袈裟襷文銅鐸 であり、 総高45cm、 重量 3.851kg。
○銅鐸の埋納坑は、 弥生時代後期後半から 庄内式期に築かれた方形周溝墓 (東西11 m、南北11.5m) の周溝底で検出された。

 3070
1-7
第1章 弥生時代の伝世
銅鐸の破砕


 大福遺跡の一角では、 銅鐸が出土した方形周溝墓 と同じころに営まれた青銅器生産の痕跡が検出されている。
鋳型外枠やフイゴの羽口などと共に細片化した突線鈕式銅鐸の破片が出土しており、 銅鏃など の小型の実用品を製作するために銅鐸の破片が素材 として用いられたものと考えられている。

 かつての銅鐸が集団の繁栄などにかかわる祭器で あったとするならば、 それを破砕し、スクラップに してしまうような大きな価値観の変化がこの時期に 生じたと考えられるのである。

 銅鐸埋納(時期) 論については、今後も議論が続 いていくものと思われるが、いずれの立場をとるに しても、銅鐸が気の遠くなるような長い期間にわ たって使用された器物であったことは間違いない。 おそらく銅鐸は、象徴的な意味が込められた、 弥生人の生活の根幹にかかわるモノとして伝世されたの であろう。 そして、 その継承が弥生時代終末期まで には完全に終了し、 破砕がなされるまでにいたった という事実は、この時期に生じた大きな社会変化を物語っている。

1-7銅鐸の破砕

こわされる銅鐸
銅鐸がつくられてから、 どれくらいの期間で埋められたかはよくわからんかっても、弥生時代はずっと大切にされてたんやんな?
それが、弥生時代の終わりごろになると、銅鐸は使われなくなってしまうんだ・・・。
その証拠に奈良県大福遺跡では、銅鐸をこわして別の道具をつくっていることがわかっているよ。銅鐸を使う祭りもなくなったのかもね・・・。
・・・ってことは伝世もしていないことやんな?大きな変化の予感がするで・・・。

こわされる銅鐸

桜井市 大福遺跡
銅鐸片
銅鐸を破砕してスクラップにしたもの
弥生時代後期
製作AD1-2 埋没AD2
桜井市 大福遺跡
銅塊
弥生時代後期
製作AD2 埋没AD2
桜井市 大福遺跡
土製鋳型外枠
小型青銅器の外枠
弥生時代後期
製作AD2 埋没AD2
桜井市 大福遺跡
送風管
フイゴの羽口
弥生時代後期
製作AD2 埋没AD2

 3090銅鼓(どうこ)
中国南部~東南アジアの楽器。
土中や水中で保管された事例も知られる。
 明代ころ

銅鼓

※銅鼓とは
AI による概要
銅鼓は、紀元前5世紀頃から中国南西部や東南アジア(特にベトナム北部)で製造・使用されてきた、青銅製の太鼓(片面鼓)です。主に祭祀や雨乞いの道具として用いられ、権力や富の象徴でもありました。ドンソン文化の代表的な遺物として知られ、太陽やカエルの装飾が特徴的です。

主な特徴・詳細は以下の通りです。
・形状と材質: 底部がなく、上部(鼓面)が平らな樽のような形の青銅器。
・用途: 雨乞い、農耕儀礼、葬儀、治療の儀式などで精霊に働きかける祭器。現代でも一部の山地民族の間で使用されている。
・起源・文化: 紀元前5世紀頃の雲南地方で生まれ、ベトナム北部の「ドンソン文化」で大きく発展した。
・文様・装飾: 鼓面には中央に太陽紋、周囲に鳥紋や幾何学紋が描かれる。鼓面の縁にカエル(蛙)の立体的な像が配置されることが多い。
・分類: フランツ・ヘーゲルによってⅠ型からⅣ型に分類されている。
・分布: 中国雲南省、広西チワン族自治区、ベトナム、ラオス、タイなど、メコン川・紅河流域に広く伝播した。

日本で出土する「銅鐸」とは、底がない、吊り下げて叩く、雨乞いの儀礼に使われるなど、共通の思想や起源的つながりが推測されている。

 3095
翡翠製勾玉
水晶製算盤玉
ガラス小玉
美濃市 美濃観音寺山古墳
岐阜県指定文化財
出土玉類一式
弥生時代後期など〔弥生時代終末期〕
製作 AD1-AD3
埋没 AD3
美濃市教育委員会

ガラス小玉
水晶製算盤玉
翡翠製勾玉
 


 3100第Ⅱ章 王莽(おうもう)の鏡

 3101

Ⅱ-1
第Ⅱ章 王莽(おうもう)の鏡
王莽が作らせた宮廷鏡

 紀元前後は、中国大陸の王朝が前漢から後漢へと転換した動乱の時期であった。
この二つの漢のあい だで実権をにぎったのが、 (紀元8~23年)を 建てた王莽 (紀元前45年生~紀元23年没) である。

 王莽(おうもう)は、官僚のあいだに日用品として広く普及した銅鏡を、自らの権威を示すためのプロパガンダ (政治宣伝) の手段として利用した。 王莽の功績をたたえるとともに、それを保持すれば利益を得られるといった銘文をめぐらせた鏡が多数製作されたのである。
王氏作」、「王氏昭」という銘文をもつ方格規矩四神鏡(ほうかく きくししんきょう)のほか、
大阪府紫金山(しきんざん)古墳から出土した「有善銅・・・ 尚方(しょうほう)御鏡・・・」 という銘文をもつものがこれにあたる。

 「尚方」 というのは中央官庁に属する役所の一つで、 天子御料(ごりょう)の貴重品や美術工芸品を製作した組織である。
その尚方の「御鏡」は、王侯貴族が用いるものとして朝廷に上納(じょうのう)するために製作されたものであったと考えられている。
 このような鏡を本展では 「王莽鏡」 と呼ぶ。

王莽が作らせた宮廷鏡
※王莽(前45年 - 23年10月6日)とは



Ⅱ-2
第Ⅱ章 王莽の鏡
紫金山(しきんざん)古墳


 大阪府紫金山古墳は、摂津地域北東部に所在する墳長110mの前方後円墳である。

 後円部墳頂の竪穴式石槨(せっかく)内部に長大な木棺が納められ、その内外から多数の副葬品が検出された。築造時期は4世紀第2四半期ごろと考えられている。
  銅鏡には、「尚方御鏡」 のほかに三角縁神獣鏡 10面、倭鏡1面がある。
多くの鏡が納められながら、棺内で被葬者の遺体近くに添えられたものは、 尚方御鏡1面のみであり、ほかはすべて棺外の石槨北小口および南小口にまとめて置かれていた。 つまり、 製作年代の古い尚方御鏡のみが特別扱いされた 様子がうかがえるわけである。

紫金山古墳 AI による概要
紫金山古墳は、大阪府茨木市にある古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳です。
全長約100m〜102mで、当時の三島地域の首長の墓と考えられています。
未盗掘の状態で発見され、直径約36cmの「勾玉文帯神獣鏡」など、当時の最大級の鏡や多数の武器・農工具が出土した重要な遺跡です。
基本情報
・所在地: 大阪府茨木市室山1丁目
・時代: 古墳時代前期(4世紀)
・形状: 前方後円墳(全長約100m)
・特徴: 後円部に竪穴式石室がある
主な出土品
この古墳からは、権力の象徴となる多種多様な遺物が出土しました。
・鏡: 直径約36cmの勾玉文帯神獣鏡(古墳時代最大級)や三角縁神獣鏡など。
・腕輪形石製品: 車輪石、鍬形石、筒形銅器など。
・鉄製品: 鉄製の甲冑(日本における初現期の資料)、刀剣、鉄鏃、工具類(斧、鋸、鑿)、農具(鍬)など。
歴史的価値
紫金山古墳は、近畿地方の古墳時代前期を代表する古墳の一つです。特に、発見された石室が未盗掘であったため、当時の埋葬の実態や、地域間交流、中国大陸や朝鮮半島との関係を解明する上で非常に重要な資料となっています。

 紫金山古墳/古墳時代前期 /
 京都大学大学院文学研究科 2005 『紫金山古墳の研究 一古墳時代前期における対外 交渉の考古学的研究-』
 平成 十四~十六年度科学研究費補 助金(基盤研究(B) (二)) 研究成果報告書』 より
柴金山古墳 墳丘測量図 副葬品 出土状況 鏡Ⅳ・Ⅴ・Ⅶ~Ⅸ・Ⅻ
(倭製勾玉文帯神獣鏡1面のほかは全て三角縁神獣鏡)

鏡Ⅰ(方格規矩四神鏡)
鏡Ⅱ・Ⅲ・Ⅹ・Ⅺ
(全て三角縁神獣鏡)
※柴金山古墳の埋葬
AI による概要
紫金山古墳(大阪府茨木市)では、後円部中央の竪穴式石室にコウヤマキ製の長さ約4.7メートルの割竹形木棺が納められていました。この棺は、丸太を縦半分に割ってくり抜いた構造をしており、当時の強力な権力者によって使用されたと見られています。
割竹形木棺の概要と出土状況
紫金山古墳の埋葬施設における木棺の特徴は以下の通りです。
・棺の素材と構造: 長大な丸太を半分に割り、内部を削って棺としたものです。棺材には耐久性の高いコウヤマキが使用されていました。
・出土位置: 墳丘の後円部中央にある竪穴式石室内に直接配置されていました。
・副葬品との関連: 棺の推定頭部位置から尚方作獣帯鏡などの銅鏡が出土しています。

※割竹形木棺 の時代は
AI による概要 割竹形木棺の主な時代は古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)です。一部は弥生時代後期の墓から検出されることもありますが、古墳時代初期の有力者の墓として特によく使われました。
時代と特徴の変遷
・弥生時代後期: 出現の兆しが見られ、遺跡から検出されることがある。
・古墳時代前期: 最も盛んに使用された時期。近畿地方を中心に、全長5mから8mに及ぶ長大な棺が、竪穴式石室などに納められた。
・古墳時代中期・後期: 棺の規模が徐々に小さくなり、舟形木棺や箱形木棺へと多様化・変化していった。
関連情報
・用途: 主に有力な被葬者の埋葬に使用された。
・材料: コウヤマキという耐久性の高い木材が好んで使われた。



 紫金山古墳 尚方御鏡(方格規矩四神鏡)の銘文
新有善銅出丹陽。 新に善き銅有り(しんによきどうあり)丹陽に出づ(たんようにいづ)。※新は王莽の建てた国名

凍治銀錫清而明。 銀と錫を錬治するに(ぎんとすずを れんやするに) 清にして明なり(きよらかにして あきらかなり)

向方御竟大毋傷。 尚方の御鏡は(しょうほうの おんかがみは)大いに傷なし(おおいに きずなし)

巧工刻之成文章。 巧なる工は之を刻み(たくみなるこうは これをきざみ)文章を成す(ぶんしょうをなす)

左龍右乕辟不羊。 左龍と右虎は不祥を辟く(さりゅうとうこは ふしょうをしりぞく)

朱鳥玄武順陰陽。 朱鳥と玄武は陰陽を順ふ(しゅちょうと げんぶは いんようをととのう)

子孫備具居中央。 子孫備具し、中央に居らん(しそんびぐし、ちゅうおうにおらん)

長保二親樂富昌。 長く二親を保ち(ながくにしんをたもち)楽しみ富み昌えん(たのしみ とみさかえん)

壽做金石如侯王。 寿は金石とともに敷き(いのちはきんせきとともにつき)侯王の如くあらん(こうおうのごとくあらん)


尚方御鏡 (方格規矩四神鏡) の銘文
紫金山古墳(鏡I) / 岡村秀典 2017 『鏡が語る古代史』 岩波新書より

紫金山古墳 尚方御鏡(方格規矩四神鏡)の銘文

尚方御鏡 尚方御鏡
尚方御鏡(方格規矩四 神鏡)の拓本·断面図
紫金山古墳(鏡I)/ 京都大学大学院文学研 究科 2005『紫金山古 墳の研究一古墳時代前期における対外交渉の考古学的研究一』平成14~16年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書』より

尚方御鏡
柴金山古墳の鏡
(王莽鏡)
茨木市 紫金山古墳
ほうかくきくししん
方格規矩四神鏡
新 (漢鏡4期) 〔古墳時代前期]
製作 1BC~AD1
埋没 AD4
王莽鏡

 漢鏡の編年(岡村編年) 引用wikipedia漢鏡


 3103
Ⅱ1-3
第Ⅱ章 王莽の鏡
美濃観音寺山古墳


 岐阜県美濃観音寺山古墳は、 長良川右岸の標高 155m の観音寺山山頂に位置する墳長 20.5mの前方後方形墳丘墓であり、
築造時期は弥生時代終末期の 3世紀前半ごろと考えられる。

 埋葬施設から 「王氏昭・・・」の銘をもつ方格規矩四神鏡、 倭製の重圏文(じゅうけんもん)鏡、玉類が出土しており、
王氏昭鏡は、製作されてから200年程度の期間をへて副葬されたことになる。

 鏡は完形のものが破砕 されている。 玉類のうちのガラス小玉は、高アルミナタイプのカリガラス (Group PⅡ) とよばれるもので、
日本列島には弥生時代後期前葉に流入したと考えられ、 こちらも副葬までに200年程度の伝世が見込まれる。

美濃観寺音山古墳 墳丘測量図 墳丘測量図
美濃観音寺山古墳/弥生時代終末期/美濃市教育委員会 2012 『美濃観音寺山古墳・ 長福寺遺跡 西観音寺遺跡 東観音寺遺跡』より

方格規矩四神鏡
美濃市 美濃観音寺山古墳
岐阜県指定文化財
方格規矩四神鏡
新(漢鏡4期) (弥生時代終末期〕
製作 1BC~AD1
埋没 AD3

重圏文鏡 美濃市 美濃観音寺山古墳
岐阜県指定文化財
じゅうけんもん きょう
重圏文鏡
弥生時代終末期
製作 AD3
埋没 AD3

王莽の鏡
王莽(おうもう)...って誰や?
中国大陸で約 2000 年前に 「新」 という国をつくった人だよ。

新しいことをたくさんしようとした人なんだ。
王莽の鏡って・・・まさか、 自分で手作りしたんか?
おしいけどちがうよ・・・。 王莽が自分のすごさを宣伝するために、 特別に命令してつくらせた境があるんだ。

王莽の鏡

 3105
Ⅱ-4
第Ⅱ章 王莽の鏡
鉛同位体比分析


 漢鏡とされる鏡の多くには、長期間の伝世が想定されているが、これらの鏡が後世に 「踏み返し」 (鏡を型取りするコピーの技法)によって製作されたものであれば話は変わってくる。 このため、 古墳出土 鏡の中には多くの踏み返し鏡が含まれると主張する 研究者と、やはり漢代に作られた鏡であるとする研究者のあいだで意見の対立があった。

 近年、複数の王莽鏡について鉛同位体比分析がおこなわれた結果、 そのほとんどが前漢鏡と共通する 鉛A領域の原料を用いたものであることが明らかとなった。
 漢鏡の原料は、 後漢前半の漢鏡5期に鉛B 領域へと転換することが知られており、 古い原料に よって製作された分析対象の鏡は踏み返しによる可 能性は低いことになる。

 この分析の対象には、兵庫県立考古博物館加西分館所蔵千石コレクションの王莽代の方格規矩四神鏡と内行花文鏡が含まれている。
このような大型の内行花文鏡の優品も、王莽の宮廷鏡として製作された 可能性があると考えられている。

鉛同位体比分析
鉛同位体比分布図
a 領域付近拡大図/ 「尚方御」 鏡と 「王氏作(昭)」 鏡を中心に鏡名を表示/
岡村秀典 2025 「歴史考古学からみた倭王権の形成」 『論争邪馬台国』 雄山閣

方格規矩四神鏡
千石コレクションNo. 132
新 (漢鏡4期)
製作 1BC-AD1
埋没
兵庫県立考古博物館加西分館 【古代鏡展示館】
      内行花文鏡
千石コレクションNo. 140
新(漢鏡4期)
製作 1BC-AD1
埋没
兵庫県立考古博物館加西分館 【古代鏡展示館】

 3107
Ⅱ-5
第Ⅱ章 王莽の鏡
椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳


 京都府椿井大塚山古墳の副葬品には、 王莽代の内行花文鏡の大型品が含まれる。
本墳は、墳長 180m の前方後円墳で、後円部墳頂の竪穴式石槨からさまざまな副葬品が出土した。
とりわけ 32面分の三角 縁神獣鏡をはじめ、 画文帯神獣鏡内行花文鏡・方 格規矩鏡といった多くの銅鏡類の出土で知られており、
築造時期は、3世紀後半ごろと考えられる。

 石槨が不時(ふじ)発見された際に大半の遺物が取り出されており、 副葬品配置の詳細は不明であるが、
内行花文鏡については、 200年以上の伝世が見込まれる。
この鏡は、鉛同位体比に加え、微量元素の分 析結果も尚方御鏡に近似 することから、王莽宮廷鏡であった可能性が高いとされる。

椿井大塚山古墳 椿井大塚山古墳
墳丘測量図
墳丘測量図 椿井大塚山古墳/古墳時代 前期/
山城町

1998『昭和二八年 椿井大塚山古墳発掘調査報告』より


Ⅱ-6
第II章 王莽の鏡
王莽鏡の評価


 王莽鏡は、 漢鏡編年 (第Ⅱ章で改めて説明) の4期後半に編年されるものであり、その中でも特に面径の大きな優品は、 近畿や東海地方の古墳から出土 することが特徴である。 これに対し、 大陸との交流 の窓口となる北部九州から出土した同時期の鏡は一 回り小さい。

 近年、この点に着目して、 北部九州出土鏡は民間の商業ルートで楽浪郡を経由してもたらされたものであるのに対し、
近畿・東海地方の王莽鏡は、北部九州をとびこえる形で王莽から直接贈られたものではないかという説も唱えられている。

 いっぽう、これらに続く漢鏡5期の銅鏡の大型品 は、北部九州に多く分布することが知られており、これを倭奴国王(わのなこくおう)の遺使と関連づける解釈もみられる。
 このような政治動向と銅鏡の分布を重ね合わせる議論が近年、 改めて活況を呈しているのである。

王莽鏡の評価


内行花文鏡 木津川市 椿井大塚山古墳
重要文化財
内行花文鏡
新(漢鏡4期) 〔古墳時代前期〕
製作 1BC-AD1
埋没 AD3
 
 
 3130
伝世の実相
銅鏡の製作年代(緑色のオブジェクトの始点)古墳への副葬年代(鏡の写真の位置)のズレを模式的に表したもの/縦軸は西暦を表す

奈良県富雄丸山古墳    奈良県富雄丸山古墳造出埋葬施設出土鏡>
1:三角縁神獣鏡 (1号鏡) 製作AD250-副葬AD390
2:龍文鏡(2号鏡)     製作BC20-副葬AD390
3:画像鏡(3号鏡)     製作AD190-副葬AD390
奈良市教育委員会所蔵
大阪府柴金山古墳
大阪府紫金山古墳出土鏡
4:方格規矩四神鏡(鏡I)     BC10-AD370
5:「仿製」 三角縁神獣鏡(鏡Ⅷ) AD365

京都大学考古学研究室所蔵 (大阪府立近つ飛鳥博物館保管)
奈良県大和天神山古墳 奈良県大和天神山古墳出土鏡
6:方格規矩四神鏡(1号鏡)      製作AD20- 副葬AD330
7:画文帯四獣鏡(12号鏡)      製作AD190-副葬AD320
8:三角縁神人龍虎画象鏡(15号鏡)* 製作・副葬AD330
9:人物鳥獣文鏡 (22号鏡)*     製作・副葬AD330
すべて重要文化財、 奈良国立博物館所蔵
(*は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館保管)
奈良県黒塚古墳 奈良県黒塚古墳出土鏡
10:画文帯求心式神獣鏡(34号鏡) 製作AD290-副葬AD275
11:三角縁神獣鏡(18号鏡)    製作・副葬AD290
12:三角縁神獣鏡 (19号鏡)   製作・副葬AD290

すべて重要文化財、文化庁所蔵
(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館保管)
 3140
Ⅱ-7
第Ⅱ章 王莽の鏡
王莽銭が示す交流


 紀元前後漢王朝の動揺のいっぽうで、 周辺部で は、より遠方へ、 より活発に人びとの交流が広がった地域もあった。
 王莽は、みずからの治世(ちせい)をアピールする目的で遠方からの朝貢を厚遇(こうぐう)した。 即位直前の紀元5年には、
東夷(とうい)が大海をわたって使いを送ってきたという記録があり、 この人物は、日本列島の集団の代表者と する見方が有力である。

 また、 王莽が作らせた貨泉という貨幣が瀬戸内海の東端にあたる大阪湾沿岸の各所で出土している。
中には、兵庫県入田稲荷前(いりた いなり まえ)遺跡や大阪府亀井遺跡のように複数枚がまとまって発見された例もある。

 この様相は、それに先立つ時期の中国製文物(ぶんぶつ)の多くが、弥生時代開始期以来、 大陸との交流の窓口の位置を占めた北部九州止まりの分布を示すこととは大きく異なっている。
中国大陸につながる交流への 参加は、 九州より東の地域の人びとに大きな刺激を 与えたものと考えられる。

※王莽の「新」国の首都
AI による概要
 王莽が樹立した「新」の首都は常安(じょうあん、現在の西安)です。
詳細: 前漢の都であった長安を、王莽が8年に帝位を簒奪し「新」を開いた際に「常安」と改称しました。
この常安(長安)で、王莽は新・前漢の滅亡まで(8年 - 23年)統治を行いました。
 
 ※後漢の首都は洛陽。325kmの場所です。

 いずれにしても古代中国の首都は内陸深くにあり、対外交易としての外港使節は、長い陸路を通って要約到達したようです。
 これは、容易には旅ができない距離にあり、案内人や、莫大な費用を要する朝貢だったようです。

王莽銭が示す交流 南あわじ市 入田稲荷前遺跡
貨泉
王莽が鋳造させた貨幣
「新」~「後漢」 〔弥生時代後期)
製作 AD1
埋没 AD1-AD2
南あわじ市滝川記念美術館玉青館
八尾市・大阪市 亀井遺跡
貨泉
王莽が鋳造させた貨幣
新~後漢 〔弥生時代後期〕
製作 AD1
埋没 AD1-AD
 
 3150
 3151
Ⅱ-8
第Ⅱ章 王莽の鏡
倭鏡の製作


 この時期、 日本列島でも銅鏡 (倭鏡) の製作がはじまる。 いずれも小型鏡で、 前漢鏡などを模倣した単純な文様があらわされ、
まず北部九州で製作が開始されたのち、さほど時間をおかずに近畿地方でも 作られるようになったとみられている。

 面径が小さいことに加え、取扱いについても漢鏡と異なる点がある。
特に近畿地方では、 集落内のさまざまな場所から廃棄されたような状況で検出されることが多く、 墳墓に副葬されたり、 古墳時代の遺跡から出土した例はきわめてまれである。

 大阪湾に面した高地性集落である大阪府惣ヶ池(そうがいけ)遺跡において土坑内から出土した倭鏡は、弥生時代後期前葉に製作されてから数十年をへた後期中葉に埋没したものと考えられる。

倭鏡の製作
小型倭鏡:
惣ヶ池遺跡弥生時代後期/和泉市教育委員会所蔵・提供/
左: 写真、
中: 3 画像 (株式会社イビソク須山貴史氏作成)
右: レントゲン写真


王莽と東アジアの交流

王莽さんの特別な鏡は、日本でもみつかってるんやな!
そうなんだよ! ほかにも王莽がつくった 「貨泉」というお金もあちこちの遺跡からみつかっているよ!
まさか・・・ ワシのすごさに気づいて、 特別に鏡を もってきてくれたんかな...。
逆だよ・・・。 日本列島のクニから代表者が挨拶に行ったみたいだよ。
王莽は遠くから挨拶にきた人を歓迎したみたいだから、 そのときにもらったのかもしれないね!

王莽と東アジアの交流

ずいりょうじさんちょう
岐阜市 瑞龍寺山頂遺跡 複製品
内行花文鏡
破砕して副葬されたもの
新(漢鏡4期) 〔弥生時代後期]
製作 1BC-AD1
埋没 AD2
当館 (原品は国立歴史民俗博物館)
    さくらのばば
唐津市 桜馬場遺跡
複製品 (原品は重要文化財)
方格規矩四神鏡
北部九州の甕棺墓に副葬されたもの
弥生時代後期
製作 AD1
埋没 AD1
当館 (原品は佐賀県立博物館)
  そうがいけ
和泉市 惣ヶ池遺跡
和泉市指定文化財
小型倭鏡
前漢鏡の文様を模倣したもの
弥生時代後期 (倭鏡)
製作 AD1
埋没 AD1-AD2
和泉市教育委員会
 
 

 3155
Ⅱ-9
第Ⅱ章 王莽の鏡
巨大な銅鐸


 弥生時代の倭鏡は小型であるが、 高さ1mをこえる突線鈕式銅鐸の存在が示すとおり、倭人は大型の青銅器を製作する技術を有していた。
その総数は 400個、 用いられた原料金属の重量は合計 7000kg という試算がなされている。 そのほとんどが、 産地の限定された鉛a領域の原料で製作されている。

 問題は、この原料がいつ、 どこからもたらされたかである。
中国鏡の原料分析によれば、 前漢~新代 の漢鏡4期まではもっぱら鉛A領域が用いられ、 後漢代前半の漢鏡5期の中でB領域に転換し、その後もそれが継続する。 つまり、 紀元1世紀中ごろ以降の中国大陸では鉛A領域原料の流通は途絶えていたと考えられるのである。
 これに対し、日本列島で紀元1世紀中ごろから2世紀後半にかけて製作された銅鐸では、鉛a領域の 原料が一貫して用いられている

 近年では、 紀元5年の東夷王の遺使の際に、 王莽 から大量の鉛a領域の原料が贈られ、 これを弥生時代後期のおわりまで利用し続けたとする解釈もあらわされており、 今後の議論の進展が期待される。


※鉛A・B領域とは

「鉛B領域」は、主に考古学や文化財科学における鉛同位体比分析において、青銅器やガラス製品の原料産地を推定するために分類された指標の一つです。
・産地・系統: B領域鉛は、中国華南地方、または華北地方(河北省、山東省)に鉱源を持つ鉛原料と推定されています。特に古墳時代の青銅器(三角縁神獣鏡など)やガラス製品の原料として重要視されています。

・A領域との違い: A領域が主に中国華北や楽浪郡(朝鮮半島)に関連する原料を示すのに対し、B領域は華南地域など別の鉱山系統を示すとされています。

「鉛A領域」は
※鉛同位体比分析(考古学的な遺物や原材料の産地推定)における「A領域」は
 主に弥生時代に日本へ輸入された前漢鏡(中国華北地方の鉛)を示す領域です。
 この領域は、東アジアの鉛同位体比分布を分析する馬淵久夫・平尾良光らによる分類に基づく4つの領域(A~D)の1つです。

鉛同位体比 A領域の特徴
・原料産地: 華北地方の鉛鉱石に由来すると考えられている。
・時代・遺物: 主に弥生時代に将来された前漢鏡のデータが集まる領域。
・日本国産青銅器: 弥生時代に日本で製作された国産青銅器の多くもこの領域に分布し、中国からの技術移転と原材料供給の歴史を示している。・別称: 分析者によっては「a領域」と表記されることもある。
関連する他の領域

・B領域: 後漢・三国時代の舶載鏡が示す領域で、華中〜華南の鉛。
・C領域: 日本産の鉛鉱石(日本列島由来)の領域。
・D領域: 主に新羅や他の地域に見られる鉛の領域。

 ※紀元1~2世紀に国内で使われた銅は、比較的列島に近い、華北や朝鮮半島の楽浪郡から持ち込まれた、精錬・合金された青銅が持ち込まれた。
 7トンもの精錬された青銅をどのようにして持ち込んだのか、何と交換していたのか。謎ですね。

巨大な銅鐸 大阪府 西浦
重要文化財
六区袈裟襷文銅鐸
発掘調査によって埋納状態が確認された大型銅鐸
弥生時代後期 (突線鈕4式)

製作 AD2
埋没 AD2

 3157
Ⅱ-10
第Ⅱ章 王莽の鏡
後漢との交流

 王莽没後の紀元25年漢王朝が復興され、57年倭奴国王107 年倭国王帥升(すいしょう)等が遺使をおこなった。
これらをはじめと する公式・非公式の交流の中で多数の文物が日本列島にもたらされた。

 4世紀後半に築造された奈良県東大寺山古墳出土の大刀には、 後漢の年号である中平年 (紀元184~189年)の銘が刻まれており、
200年近くの伝世をへたも のであると考えられる。

(文章)
中平口年吉日、 銘を刻んだ刀を作る。
鍛え上げた立派な刀は、
天上では星座の神々の役に立ち、
地上ではわざわいを払う。
金錯銘花形飾環頭大刀 (銘文)
(R)
東大寺山古墳/ 後漢 〔埋没 古墳時代前期〕 /東京国立博物館/中平年銘/
Image:TNM Image Archives

後漢との交流

金錯銘花形飾環頭大刀 中平五月丙午
造作文刀百練清(釖)
上應星宿 (下辟不羊)
(文意)
中平口年吉日、 銘を刻んだ刀を作る。
鍛え上げた立派な刀は、
天上では星座の神々の役に立ち、
地上ではわざわいを払う。

金錯銘 花形飾環頭大刀 (銘文)
東大寺山古墳/後漢 〔埋没: 古墳時代前期〕 /東京国立博物館/中平年銘/
Image:TNM Image Archives

      天理市東大寺山古墳
きんさくめい はながたかざり かんとうたち
金錯銘 花形飾環頭大刀
後漢(古墳時代前期)
製作 AD2
埋没 AD4
当館 原品は東京国立博物館)

金錯銘花形飾環頭大刀
 


 3200第Ⅲ章 鏡の伝世

 3201
Ⅲ-1
第Ⅲ章 鏡の伝世
中国鏡の変遷➀


戦国鏡 (紀元前5世紀後半~前3世紀第4四半期)
 殷代(いん)には、青銅製の彝器(いき) (祖先祭祀や儀礼に使用された器物)が隆盛したが、 戦国時代になると銅鏡が台頭する。
 紀元前3世紀ごろから登場する山字文(さんじもん)羽状獣文地(うじょうじゅうもんじ)は、 戦国鏡(BC5c~BC3c)の代表例である。
山字文鏡 羽状獣地文鏡

漢鏡1期 (紀元前3世紀後葉~前2世紀中ごろ) 漢鏡は、岡村秀典氏によって全7期に分類されており(3101または3103の直上参照)、
 漢鏡1期は、鈕や文様に戦国鏡の伝統が残る蟠蠣文(ばんちもん)の段階(中国の春秋戦国時代から前漢時代)である。
 小型の龍が絡み合う蟠璃文(数匹の龍が、細い蛇のような胴体を互いにくねらせて絡み合っている図案)は、春秋戦国時代の青銅器に広く採用された。

  中国鏡の変遷➀ 中国鏡の変遷➀
中国鏡の変遷
中国鏡の変遷
岡村秀典 1984「前漢鏡の編年と様式」『史林』第 67 巻第5号、
同1993「後漢鏡の編年」「国立歴史民俗博物館研究報告』
第55集 国立歴史 民俗博物館などをもとに作成

中国鏡の変遷


中国鏡の見方
ほぇ~。 鏡がいっぱいやな。 よくみるといろんな種類があるんやな!

そうだね。
・まんなかの 「(ちゅう)」を中心に、
・まわりの 「鈕座(ちゅうざ)」、
・文様がたくさん描かれている 「内区(ないく)」、
・文字が入っている 「銘帯区(めいたいく)」、
・一番外側の「外区(がいく)
などのパーツに分かれるよ。
文様の数や描き方の違いで、 古いか新しいかを見分けるんだよ!
ワシと同じくらいハンサムな「龍」もおるから、探してみてや~。

中国鏡の見方

 3203
Ⅲ-2
第Ⅲ章 鏡の伝世
中国鏡の変遷②


漢鏡2期 (紀元前2世紀後半)
 草葉文(そうようもん)の出現を画期として、 鏡式が多様化する。 草葉文鏡は植物文様を主文様とし、 戦国鏡(前5c~前3c)とは異なる要素をもつ新たな鏡式である。
. いっぽうで、蟠蠣文鏡(ばんちもんきょう)の系譜を引く鏡も存在する。
渦状虺龍文鏡(かじょうきりゅうもんきょう)螭龍文鏡(ちりゅうもんきょう)である。 いずれも龍をモチーフとした文様がほどこされる。
(渦状虺龍文鏡or虺龍文鏡) (螭龍文鏡)

また、乳状突起のあいだに曲線が這うように雲気文(うんきもん)を配す、 星雲文鏡(せいうんもんきょう)も登場する。(星雲文鏡)

・漢鏡3期(紀元前1世紀前半~中葉)
 この時期には、 異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)が出現する。 銘文と幾何学文様が中心の鏡式である。
銘文には良質な鏡であると謳うものや、君臣や男女のあいだの思慕(しぼ)の情など、当時の世相を反映したものが流行した。

中国鏡の変遷② 鏡の各部名称
神人龍虎画像鏡(参考)
当館/断面は模式図

外区
内区外周
内区主文様帯


帯 圏 乳 乳座 鈕孔
タイ ケン ニュウ ニュウザ チュウザ
文様面=鏡背
鏡面=鏡表

連弧縁四蟠龍文鏡(れんこえんしばんりゅうもんきょう)
前漢 (漢鏡2期)
渦状虺龍文(かじょうきりゅうもん)
前漢 (漢鏡2期)
四山字文(しさんじもん)
戦国
星雲文(せいうんもん)
前漢 (漢鏡2期)
重圏銘帯(じゅうけんめいたい)
前漢(漢鏡3期)
虺龍文(きりゅうもん)
前漢 (漢鏡4期)
草葉文(そうようもん)
前漢(漢鏡2期)
連弧文銘帯(れんこもんめいたい)
前漢(漢鏡4期)

 3205
Ⅲ-3
第Ⅲ章 鏡の伝世
中国鏡の変遷③


・漢鏡4期 (紀元前1世紀後葉~紀元1世紀前葉)
 3期に続き異体字銘帯鏡もみられたが、徐々に衰退し、 消失する。
新たに虺龍文(きりゅうもん)獣帯(じゅうたい) 方格規矩四神(ほうかくきくししん)内行花文鏡が登場する。このころから銅鏡の図像や銘文に当時流行した神仙思想(しんせんしそう)の影響がみられるようになる。

 虺龍文鏡は細線で逆S字形の虺龍 (足も角もない小型の蛇状のもの)を描いた鏡式である。 通常 10cm前後の小型な鏡式である。

 方格規矩四神鏡は四神を主体として動物文様を配し、その周囲にTLV字形の文様をほどこす。 方格やTLV字形の文様は当時の宇宙観をあらわすとされる。漢鏡4期の中でも動物文の数や外区の文様、鈕座(ちゅうざ)や乳の数、乳座(にゅうざ)に変化がみられる。

 内行花文鏡連弧文銘帯鏡(れんこもんめいたいきょう)銘帯(めいたい)雲雷文(うんらいもん)へと置き換わったものとされる。
鈕座に種類があるが、 4期では四葉座(しようざ)が多い。 また、 方格規矩四神鏡と同じく当時の宇宙観 (「九天(きゅうてん)」) をあらわすとされる。

中国鏡の変遷③

方格規矩鏡にあらわされた宇宙
古代鏡展示館 2023 『古代鏡展示館秋季企画 展方格規矩鏡鏡に広がる天円地方の宇宙 -』 企画展解説シート第13号より一部改変

内行花文鏡にあらわされた宇宙 (九天)
曽布川 寛 2014 「漢鏡と戦国鏡の宇宙表現 の図像とその系譜」 「古文化研究』 第13号、 黒川古文化研究所、 作図は川見典久

方格規矩鏡にあらわされた宇宙
 天は丸く地は四角
内行花文鏡にあらわされた宇宙 (九天)
 鏡は太陽。16の半円が太陽光。鏡背には神仙思想の図。

 3207
Ⅲ-4
第Ⅲ章 鏡の伝世
中国鏡の変遷④

・漢鏡5期 (紀元1世紀中葉~後葉)
 この時期の鏡は、 「後漢鏡」 とよばれ、 4期から
続く➀「方格規矩四神鏡」、 「内行花文鏡」、 「細線式獣帯鏡(さいせんしきじゅうたいきょう)」に加え、
②「浮彫式獣帯鏡(うきぼりしきじゅうたいきょう)」 「盤龍鏡(ばんりゅうきょう)」と いった新たな鏡式が登場する。

 ➀の鏡式にみえる主だった変化の属性には、 内行 花文鏡の「鈕座」 や、 方格規矩四神鏡および獣帯鏡の「主文(しゅもん)」や「乳座」などがあげられる。
 そのいっぽうで、 ➀の 「霊獣(れいじゅう)」 などの図像が 「線」 的な表現なのに対し、②では図像が立体的な「浮彫」であらわされている。

・漢鏡6期 (紀元1世紀末~2世紀前半)
 鏡のバリエーションは変わらないが、 このころは鏡の生産量が少なくなっていく。
 内行花文鏡は、 鈕座が 「蝙蝠座(こうもりざ)」 とよばれるものとなる。
これを含めて全体的に鏡の面径が小さくなり、方格規矩四神鏡や獣帯鏡が変化して鳥文のみに なっていく。
いっぽうで新たな鏡式として 「画像鏡」 が出現する。

中国鏡の変遷④

方格規矩四神鏡
後漢(漢鏡5期)
内行花文鏡
後漢 (漢鏡5期)
方格規矩四神鏡
前漢 (漢鏡4期)
浮彫式(うきぼりしき)獣帯鏡
前漢(漢鏡5期)
内行花文鏡
後漢(6期)
神人龍虎(しんじんりゅうこ)画像鏡
後漢 (漢鏡7-1期)
盤虎(ばんこ)
後漢(漢鏡5期)
鳥文(ちょうもん)
後漢 (漢鏡6期)

 3250
Ⅲ-5
第Ⅲ章 鏡の伝世
中国鏡の変遷⑤


・漢鏡 7-1 期 (紀元2世紀後半)
 7期は製作活動の傾向から大きく2段階にわけることができ (7-1・2期)、 神仙思想に登場する「西王母(せいおうぼ)」や「東王父(とうおうふ)」 といった神人を主像に組み込んだ「神獣鏡」 などがあらわれる。

 四川(しせん)地域を工房の拠点とする「廣漢派(こうかん は)」の手による「画文帯神獣鏡」や「八鳳鏡」などと、徐州(じょしゅう)地域 (現
江蘇省) が製作の中心となる 「上方作(じょうほうさく)浮彫式獣帯鏡」 や 「画像鏡」 などといった鏡が盛行する。

 いずれの鏡も日本列島の広い範囲から出土するが、特に徐州系統が多く、近畿中枢部を中心に北部九州、山陰、瀬戸内など広域に分布する。

・漢鏡7-2期 (紀元2世紀後半~3世紀前半)
 「画文帯神獣鏡」が製作の中心となっていく。環状の乳をもつ「環状乳」、 神獣像の頭部が全体で同じ方向を向く 「同向(どうこう)」、
頭部が鈕方向を向く 「求心(きゅうしん)」、 求心式の中でも神仙と両脇の霊獣3像が、紐を挟んで対称となる 「対置(たいち)」 などに細分され、 華北東部や江南などの地域で製作されたと考えられている。

中国鏡の変遷⑤

後漢鏡の製作系統概念図
馬渕一輝 2025「漢·三国·西晋鏡の流入経 路-洛陽·武昌·楽浪·倭汇书汁石出土鏡 の比較中心C-』『古文化研究』第24号、 公益財団法人黒川古文化研究所より

後漢鏡の製作系統概念図
華西系:三段式神仙鏡
    方銘獣紋鏡

徐州系:袁氏作系画像鏡
    斜縁神獣鏡
    上方作系獣帯鏡
    画紋帯同向式神獣鏡
淮派:浮彫式獣帯鏡
   盤龍鏡

廣漢系:環状乳神獣鏡
    獣首鏡
    八鳳鏡
江南系:重列式神獣鏡
    対置式神獣鏡

呉派:画像鏡

 3253
Ⅲ-6
第Ⅲ章 鏡の伝世
中国鏡の変遷⑥


・三国時代の鏡 (3世紀前半~後半)

 三国 (魏・呉・蜀) 時代の鏡についてみてみると、
呉鏡(ごきょう)」では神獣の列が上下に重なった「重列(じゅうれつ)式神獣鏡」や「対置式神獣鏡」、「求心式神獣鏡」などが作られた。

魏鏡(ぎきょう)」 では漢代に流行した 「方格規矩四神鏡」、「獣帯鏡」 などのほか 「画文帯神獣鏡」 も製作された。
これらはいわゆる 「復古(ふっこ) (模倣(もほう)) 鏡」 であり、モデルになる鏡をもとに創作模倣したものである。

方格規矩鏡では、いっけん漢鏡と同様にみえても、
 ➀ 漢鏡では「鈕孔」の断面形態が「円」であるのに対し、 「長方形の鈕孔をもつ、
 ②外区文様のうち一番外側の 鋸歯文のさらに外側に 「突線」 がほどこされる、
 ③文様が逆転したものがあるといった相違点がある。

 少しのちに製作される「三角縁神獣鏡」 のうち古相のものは、文様は 「画文帯神獣鏡」の影響を受けつつ、➀や②と同様の特徴をもっている。
このよう な所見にもとづき、 初期の三角縁神獣鏡の製作は「魏鏡」 工人によって担われたとする説が、近年では多くの支持を集めている。

中国鏡の変遷⑥


銅鏡一式
伝中国
戦国~三国
製作4BC-AD3
はちほう
八鳳鏡
後漢 (漢鏡7-1期)
同向式二神二獣(どうこうしきにしんにじゅう)
後漢 (漢鏡 7-1期)
しほう
四鳳鏡
後漢(漢鏡7-1期)
双頭龍文鏡
後漢 (漢鏡7-1期)

画文帯環状乳神獣(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅう)
後漢 (漢鏡7-2期)
鍍金画文帯対置式神獣(ときんがもんたいたいちしきしんじゅう)
後漢 (漢鏡7-2期)
銘帯対置式神獣(めいたいたいちしきしんじゅう)
後漢 (漢鏡7-2期)
京丹後市大田南5号墳
複製品(原品は重文)
方格規矩四神鏡
後漢代の鏡を模倣したもの
三国〔古墳時代前期〕
製作AD3
埋没AD3


 
 3300

 3301漢鏡流入➀

Ⅲ-7
第Ⅲ章 鏡の伝世
漢鏡の流入➀


・前漢代の鏡の流入
 漢鏡は、 日本列島に多く流入した。
前漢代漢鏡 2・3期のものの大半は、 北部九州の有力者の墓において副葬品とされた。
30面ほどの漢鏡がガラス璧などとともに出土した事例については、経済的な交易ではなく、前漢王朝から政治的意図をこめて贈られたものと評価されている。

 次の漢鏡4期前半鏡は、 小型鏡が多く、 楽浪郡の 市場流通品が持ち込まれたものと考えられている。

・王莽代の鏡の流入
 漢鏡4期後半鏡の分布の様相は大きく変わり、北部九州近畿地方を中心とする2つの分布圏が形成される。
 また、 紫金山古墳瑞龍寺山頂(ずいりょうじさんちょう)遺跡美濃観音寺山古墳から出土した漢鏡のように、近畿地方から東海地方に分布するこの時期の鏡は、いずれも 面径20cmをこえる大型品であり、北部九州で出土する同種のものより一回り大きい。 このため、前述のとおり前者が王莽からの政治的な贈りもの後者を中国での市場流通品とみなす解釈がある。

漢鏡の流入➀

方格規矩四神鏡 天理市 大和天神山古墳
重要文化財
方格規矩四神鏡
1号鏡
後漢 (漢鏡5期) (古墳時代前期]
製作 AD1
埋没 AD4
方格規矩四神鏡 天理市 大和天神山古墳
重要文化財
方格規矩四神鏡
8号鏡
後漢 (漢鏡5期) (古墳時代前期〕
製作 AD1
埋沒 AD4

鏡の伝世
そういえば弥生時代に銅鐸がなくなってからも大切に伝世されたものってあるんか?
古墳時代のお墓 (古墳) からみつかるには、弥生時代のころに中国でつくられた古いものがたくさんあるよ。
古墳ってえらい人のお墓やろ?
よっぽど鏡がお気に入りやったんやろな~。

海をわたってきた 「漢鏡」 (漢の時代につくられた鏡) は、
えらい人の力を示すのにぴったりのステータスシンボルだったんだろうね。
漢鏡がたくさんある地域の勢力はすごかったのかも。

鏡の伝世 漢鏡4期後半鏡の分布 漢鏡4期後半鏡の分布
岡村秀典 2025 「歴史考古学からみた倭国王帥升の台頭」 『古文化研究』 第24号、 公益財団法人黒川古文化研究所より一部改変 



方格規矩四神鏡 天理市 大和天神山古墳
重要文化財
方格規矩四神鏡
9号鏡
後漢 (漢鏡5期) (古墳時代前期〕
製作 AD1
埋没 AD4
方格規矩四神鏡 天理市 大和天神山古墳
重要文化財
方格規矩四神鏡
16号鏡
後漢 (漢鏡5期) 〔古墳時代前期〕
製作 AD1
埋没 AD4

方格規矩鳥文鏡 (参考)
方格規矩鳥文鏡 (参考)
大和天神山古墳 (21号鏡) / 重要文化財/後漢 (漢鏡5期前 半・鉛B領域) / 奈良国立博物館/ 13.9cm (S=1/1)

 3303漢鏡流入②

Ⅲ-8
第Ⅲ章 鏡の伝世
漢鏡の流入②

・後漢代の鏡の流入
 漢鏡5期前半鏡については再び北部九州が分布の中心となる。 福岡県平原(ひらばる)1号墓では、製作時期には 異論もあるものの、
超大型内行花文鏡をはじめと する 40枚の銅鏡が出土しており、 年代的に紀元57年の倭奴国王遺使との関連を指摘する意見もある。

 続く5期後半鏡は、 再度北部九州近畿地方の二極的な分布を示し、北部九州では中心部よりもやや 周辺からの出土が多い。
これに対し、 近畿地方では、奈良県桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)古墳に6面、同県大和天神山古墳に4面、同県小泉大塚(こいずみおおつか)古墳に3面以上という多くの鏡が納められていた。

漢鏡の流入② 漢鏡5期後半鏡の分布
漢鏡5期後半鏡の分布
岡村秀典 2025 「歴史考古学からみた倭国王帥升の台頭」 『古文化研究』 第24号、
公益財団法人黒川古文化研究所より一部改変

方格規矩四神鏡 天理市 大和天神山古墳 重要文化財
方格規矩四神鏡
19号鏡
後漢 (漢鏡5期) 〔古墳時代前期〕
製作 AD1
埋没 AD4
   内行花文鏡   天理市 大和天神山古墳 重要文化財
内行花文鏡
20号鏡
後漢 (漢鏡5期) 〔古墳時代前期]
製作 AD1
埋没 AD4

大和天神山古墳の鏡
 ここにも、たくさん鏡がならんどるで!
そうなんだよ! 奈良県大和天神山古墳出土の鏡だね。全部で23面みつかっているんだ。

なんとなく弥生博にある鏡と似ている気がするな〜。

中国や日本列島でつくられた、いろんな鏡がそろってるよ。 古いものは250年以上も伝世したんだよ。
まるで宝ばこみたいやな〜。

大和天神山古墳の鏡 内行花文鏡 (参考)
内行花文鏡 (参考)
大和天神山古墳 (4号鏡) /重要文化財/ 後漢 (漢鏡 5 重要文化財/後漢(漢鏡5 期後半・鉛 B領域)/奈良国立博物館/20.5cm (S=1/1)
 

 3305 大和天神山古墳
Ⅲ-9
第Ⅲ章 鏡の伝世
大和天神山古墳


 大和天神山古墳は、4世紀前半ごろの大王墓と考えられる奈良県行燈山古墳(あんどんやまこふん)の西側近くに位置する墳長105m前方後円墳で、後円部の竪穴式石槨中央に納められた 「木櫃(もくひつ)」 内部の水銀朱を取り囲むような 形で計23面の銅鏡が出土した。

 「木櫃」に遺体が納められたか否かという点につ いては諸説があるが、 大量の鏡をもちながら、 その中に定型的な三角縁神獣鏡を1面も含まず、 漢鏡主体の構成をとるという点でも注目される。

 その内訳は、紀元1世紀中ごろの漢鏡から4世紀前半の倭鏡まで幅広く、王権中枢にたくわえられていた鏡の実態をうかがわせるものとして興味深い。

 このうち、もっとも古い銅鏡が製作されてから副葬されるまでに250年以上の伝世をへたことになる。
なお近年おこなわれた原料金属の鉛同位体比分析の結果によれば、これらについて踏み返しによって製作された可能性は低いと考えられる。

大和天神山古墳 墳丘測量図
大和天神山古墳/古墳時代前期/奈良県立橿原考古学 研究所 1963 『大和天神山古墳』 奈良県教育委員会より

 3306伝世はどこでなされたのか

Ⅲ-10
第Ⅲ章 鏡の伝世
伝世はどこでなされたのか


 大和天神山古墳と同様に王権中枢に所在する墳長 204mの前方後円墳である桜井茶臼山古墳では、
中国鏡56面以上、 三角縁神獣鏡26面以上、 倭鏡21面以上の計103面以上というきわめて大量の鏡が納められていたことが明らかとなった。

 これらの中には、漢鏡4期後半に属するものが含まれている可能性があり、 古墳が築造された3世紀後半までに 250年以上の伝世が見込まれる。

 このような例をはじめとして近畿地方の古墳からは、膨大な数の漢鏡が出土しており、 そのいずれも長期間の伝世をへたことになる。

 そこで、改めて論点となるのが、これらの鏡がは たしてどこで伝世されたのか、という問題である。
漢鏡は中国大陸との交流によって入手されるものであり、 その伝世の場所を問うことは、それらの入手の中枢となる勢力、すなわち、
のちのヤマト王権につながる政治主体所在を明らかにすることに等しい。

伝世はどこでなされたのか
墳丘測量図
桜井茶臼山古墳/古墳時代前期/赤色立体図/
奈良県立橿原考古学研究所提供



内行花文鏡 (参考)
大和天神山古墳(4号鏡)/重要文化財/後漢 (漢鏡 5 期後半・鉛 B領域) / 奈良国立博物館/20.5cm (S=1/1)
内行花文鏡 (参考) 大和天神山古墳(17 号鎮 重要文化財/後漢 (漢鏡 半・鉛B領域) / 奈良 物館/15.3cm(S=11)
  内行花文鏡(参考)
大和天神山古墳(号鏡)/重要文化財/後(漢鏡5期後半•鉛B領域)/奈良国立博物館/15.3cm 15.3cm S-1/1)
 3307
内行花文鏡 天理市 大和天神山古墳 重要文化財
内行花文鏡
3号鏡
後漢 (漢鏡5期) 〔古墳時代前期]
製作 AD1
埋沒 AD4
神人龍虎画像鏡
天理市 大和天神山古墳
重要文化財
しんじんりゅうこがぞう
神人龍虎画像鏡
11号鏡
後漢 (漢鏡7-1期) 〔古墳時代前期〕
製作 AD2
埋没 AD4
神人龍虎画像鏡 (参考)
大和天神山古墳 (10号鏡)/
重要文化財/後漢 (漢鏡 7-1期・ 鉛B領域) / 奈良国立博物館/ 16.8cm (S=1/1)

画文帯四獣鏡
天理市 大和天神山古墳
重要文化財
がもんたいしじゅう
画文帯四獣鏡
12 号鏡
後漢(漢鏡7-2期) (古墳時代前期)
製作 AD2-3
埋没 AD4
上方作系浮彫式六獣鏡
天理市 大和天神山古墳
重要文化財
じょうほうさくけいうきぼりしき
上方作系浮彫式六獣鏡
23 号鏡
後漢 (漢鏡71期) (古墳時代前期)
製作 AD2
埋没 AD4
 3308
画文帯環状乳四神四獣鏡 (参考)
大和天神山古墳(2号鏡)/重要文化財/
後漢 (漢鏡 7-2期・鉛B領域) /
奈良国立博物館/ 13.9cm (S=1/1)
画文帯環状乳四神四獣鏡 (参考)
大和天神山古墳 (14号鏡)/重要文化財/
後漢 (漢鏡7-2期・ 鉛B領域) /
奈良国立博物館/ 16.8cm (S=1/1) 
画文帯求心式四神四獣鏡 (参考)
大和天神山古墳 (6号鏡)/ 重要文化財/
後漢 (漢鏡7-2期・ 鉛B領域) /
奈良国立博物館/ 16.5cm (S=1/1)
 

 3309諸説
Ⅲ-11
第Ⅲ章 鏡の伝世
鏡の伝世にかんする諸説➀


 日本列島における古代国家形成史を左右する、この難問に対して多くの説が示されており、
 漢鏡4・5期 鏡にかんしては次の5つの考え方に整理されている。

・A案 製作と同時期(リアルタイム)に中四国以東の諸地域に流入したのち、 当地域で伝世
・B案 別地域 (九州など) にリアルタイムで流入し、当地域で伝世をへたのち、 中四国以東に移動
・C案 別地域 (九州など) にリアルタイムで流入 し、当地域で伝世をへたのち、畿内中枢に移動し て諸地域に再分配
・D案 列島外 (中国大陸ないし朝鮮半島北部) で 伝世されたのち、 古墳時代開始期前後に中四国以 東に流入
・E案 古墳時代開始期前後に踏み返しや復古により列島外で製作され、中四国以東に流入

鏡の伝世にかんする諸説➀
中四国以東への「伝世鏡」 流入の諸案
下垣仁志 2018『古墳時代の 国家形成』
吉川弘文館より




Ⅲ-12
第Ⅲ章 鏡の伝世
鏡の伝世にかんする諸説②


 A案は、 伝統的な 「伝世鏡論」の解釈であるが、 北部九州をしのぐような勢力が近畿地方に存在した という想定の妥当性が問題となる。
 B案C案は、北部九州で伝世した漢鏡が弥生時代終末期に畿内へと移動したとみる点で共通する。

 B案では、 北部九州の勢力の主導性が評価されるが、 その場合、なぜ北部九州に大・中型鏡が少ないのか、 という疑問が呈されている。
王権からの配布を想定する

 C案では、もともと銅鏡副葬の伝統がある北部九州において、なぜ大型鏡の優品がいずれも埋没することなく伝世したのかという点が問題となる。

 D案は、古墳出土鏡では内行花文鏡の割合が高いのに対し、中国大陸出土鏡では方格規矩鏡が圧倒的に多いという鏡式の比率の違いが指摘されている。
 E案については、 原料の鉛同位体比分析がなされた事例では否定的な結果が示されていることに加え、前期古墳出土の漢鏡に、同じ原鏡からコピーされたものがほとんどないという事実も課題となる。

 このように、いずれの案にも疑問点が指摘され、現在議論の真最中である。

鏡の伝世にかんする諸説②

三角縁神人龍虎画像鏡 天理市 大和天神山古墳
重要文化財
三角縁神人龍虎画像鏡
15号鏡
三国~西晋 〔古墳時代前期〕
製作 AD3
埋没 AD4
三角縁神人龍虎画像鏡
三角縁神人龍虎画像鏡 (参考) 大和天神山古墳(5号鏡)/ 重要文化財/三国~西晋 (鉛 B領域) / 奈良国立博物館/ 17.0cm (S=1/1)
人物鳥獣文鏡 天理市 大和天神山古墳
重要文化財
人物鳥獣文鏡
22号鏡
古墳時代前期 (倭鏡)
製作 AD4
埋沒 AD4
四獣鏡 四獣鏡 (参考)
大和天神山古墳 (13号鏡)
重要文化財 古墳時代前期 (倭鏡・鉛B領域) / 奈良国立博物館/13.4cm (S=1/1)
四獣鏡 天理市 大和天神山古墳
重要文化財
四獣鏡
18号鏡
古墳時代前期 (倭鏡)
製作 AD3-AD4
埋沒 AD4
四獣鏡 四獣鏡 (参考)
大和天神山古墳(7号鏡)/
重要文化財/古墳時代前期(倭鏡・鉛B領域)/ 奈良国立博物館/16.9cm (S=1/1)
 
 3350
Ⅲ-13
第Ⅲ章 鏡の伝世
鏡の磨滅


 古墳出土の銅鏡には表面がすり減ったものが多く含まれる。
滋賀県小松古墳 (墳墓) や同県三川丸山(みかわまるやま)古墳 (墳墓) から出土した漢鏡は、 特にそれが顕著で、ほとんど文様が判別できない状態にいたっている。いずれも製作から副葬までに少なくとも百数十年以上の期間をへた伝世鏡ということになる。

 「伝世鏡論」では、このような磨滅を、弥生時代 に流入した宝器としての銅鏡が伝世されたことによる 「手ずれ」と理解する。
そして、 埋葬施設において特別扱いされた伝世鏡のうちにこれが顕著なものがあることを、立論の根拠の一つとした。

 現在では、このような銅鏡の文様の不鮮明さは「手ずれ」によるものではなく、二次的な研磨がおこなわれた結果である可能性が高いとも考えられているが、いずれにしても鏡の伝世を示唆する痕跡であると考えられよう。

鏡の摩滅


大切にされた鏡 ?
 表面がのっぺりとした変な鏡があるで。なんでこんな、 ぬめぬめなんやろ?

長く伝世される間にみがかれてすり減って 「手ずれ」した可能性があるといわれているよ。
ただ、そうじゃなくて、 鏡の鋳型を粘土でコピーしてつくったから、文様がきれいにでなかったんじゃないか?という意見もあるよ。

同じ鏡でも、人によって見方が違うんやな〜。

大切にされた鏡



Ⅲ-14
第Ⅲ章 鏡の伝世
弥生時代遺跡出土の銅鏡


 列島各地で日々おこなわれてきた発掘調査の蓄積は、「伝世鏡論」提唱時には不明瞭であった、弥生時代後期社会の様相を明らかにしつつある。
当該期の近畿地方では、大型の集落や墳墓は知られておらず、鉄器とその製作遺跡などについても同時代の列島の中でめだつ要素はみあたらない。
突線鈕式銅鐸はそのような中で例外的に顕著な発達をみせるものといえるが、肝心の銅鏡の出土例が少なく、特に完形鏡はいっこうにみつからない状況である。

 これに対し、 漢鏡を破片にした破鏡小型倭鏡については少しずつ弥生時代の遺跡からの出土例が増加している。
大阪府瓜破北(うりわりきた)遺跡では、前漢代の銘帯鏡片や鈕孔のすり減りが顕著な方格規矩鏡片、 小孔をあけて紐を通したと考えられる内行花文鏡片などが出土している。

 近隣の同府加美(かみ)遺跡や同府池島(いけしま)福万寺(ふくまんじ)遺跡でも 漢鏡を破片にしたものが検出されているほか、 加美遺跡と亀井遺跡では小型倭鏡などが発見されている。

弥生時代遺跡出土の銅鏡

複合口縁壺 長浜市 小松古墳
複合口縁壷
弥生時代終末期
製作 AD3
埋没 AD3

方格規矩鏡 長浜市 小松古墳
方格規矩鏡
はさい
文様が磨滅した破砕鏡
後漢 (漢鏡4期)
〔弥生時代終末期〕
製作 AD1
埋没 AD3
内行花文鏡 長浜市 小松古墳
内行花文鏡
後漢(漢鏡5期)
〔弥生時代終末期]
製作 AD1
埋没 AD3
方格規矩鏡 長浜市 三川丸山古墳
方格規矩鏡
文様が磨滅した破砕鏡
後漢 (漢鏡4期)
〔弥生時代終末期〕
製作 AD1
埋没 AD3
 3351
内行花文鏡片 大阪市 瓜破北遺跡
内行花文鏡片
つり下げるための孔をあけた鏡片
後漢(漢鏡5期) 弥生時代終末期
製作 AD1
埋没 AD3
大阪市 瓜破北遺跡
めいたい
銘帯鏡片
銘帯(文字が書いてある部分) の破片
前漢 (漢鏡3期) 〔弥生時代終末期〕
製作 2BC
埋没 AD3

小型倭鏡 小型倭鏡 石製鐓 内行花文鏡片 小型倭鏡
  大阪市 加美遺跡
小型鏡
紐が破損したのちに孔をあけたもの
弥生時代後期 〔弥生時代終末期〕
製作 AD1-AD2
理设 AD3
大阪市 加美遺跡
小型鏡片
弥生時代後期
  -古墳時代前期
製作 AD1-AD4
埋没 AD1-AD4
大阪市 加美遺跡
石製鐓(いしづき)
武器などの柄の端にはめるもの
古墳時代前期
製作 AD3-AD4
埋没 AD3-AD4
大阪市 加美遺跡
内行花文鏡片
後漢(漢鏡6期)〔弥生時代終末期]
製作 AD2
埋没 AD3
大阪市 加美通節
小型倭鏡
古墳時代前期
製作 AD3-AD4
埋没 AD3-AD4

東大阪市,八尾市池島・福方寺遺跡
方格四乳鏡片
後漢(漢鏡6期) 弥生時代終末期
製作 AD2
埋没 AD3
東大阪市,八尾市池島・福万寺遺跡
画文帯神獣鏡片
後漢(漢鏡7-1期)〔弥生時代終末期〕
製作 AD2
埋没 AD3
 
 3360
 3361
Ⅲ-15
第Ⅲ章 鏡の伝世
黒塚古墳 奈良県天理市柳本

 古墳からは、さまざまな武器が出土するが、鉄製の身 (刃先)に長い柄を持つヤリは、 特に古墳時代前期を特徴づけるものの一つといえる。

 奈良県黒塚古墳からは、ヤリを含む多数の武器 が出土している。本墳は、墳長134m前方後円墳で、築造時期は3世紀後半と考えられている。 後円部中央に設けられた竪穴式石槨の内部には長大な木棺が納められ、その内外から多くの副葬品が検出された。

とりわけ計34面という多くの銅鏡が出土したことで著名であるが、 そのうち33面を占める三角縁神獣鏡はすべて棺外で鏡面を内側に向けて配置されていた。

残る1面は、 漢鏡 7-2 期の画文帯神獣鏡で、 棺内 の被葬者の頭部近くに納め られていた。
 つまり、 ここでも多くの鏡の中で、伝世の漢鏡のみが特別な扱いを受けているわけである。

※考察 黒塚古墳の被葬者にとっては、漢鏡 画文帯神獣鏡が破邪の力を持つ鏡であり、三角縁神獣鏡は 重要な力のない ザコな鏡だった。
 現代の考古学者が 卑弥呼の鏡 として持て囃す三角縁神獣鏡は意味のない 破魔の力の少ない、だから 33面も入手できた鏡だった。雑鏡(ぞうきょう?)

黒塚古墳
墳丘測量図
墳丘測量図
黒塚古墳/古墳時代前期 /奈良県立橿原考古学研究所編 2018 『黒塚古墳の研究』 八木書店より

遺物出土状況
黒塚古墳/古墳時代前期/奈良県立橿原考古学研究所提供/

棺内中央に面径の小さい34号鏡 (画文帯神獣鏡) が配置され、石槨と木棺のあいだから多数の三角縁神獣鏡やヤリなどが出土した
竪穴式石槨検出状況
黒塚古墳 / 古墳時代前期/奈良県立橿原考古学研究所提供/

長大な木棺の中および木棺とそれを覆う石槨のすきまから 多数の鏡や鉄器が検出された

特別な扱いの鏡 ?
古墳からみつかった棺のまんなかに1面だけ置かれた鏡があるな~?
よく気づいたね! 奈良県黒塚古墳からはたくさんの鏡がみつかってるんだけど、 まんなかのものは特別扱いをされてるね。
鏡の文様にワシのしんせき (龍) がおるからちゃうか?
リュウさん一族も大事だけど、大昔に中国からもらった「伝世鏡」だからというのが一番の理由じゃないかな・・・。

※ということは、他の三角縁神獣鏡は、どこ産?・・・ 

特別な扱いの鏡?

画文帯求心式神獣鏡 三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡
天理市 黒塚古墳
複製(原品重要文化財)

画文帯求心式神獣(がもんたいきゅうしんしきしんじゅう)
34号鏡 棺内の被葬者近くにおかれていたもの
後漢 (漢鏡7-2期)
 (古墳時代前期〕
製作 AD2
埋没 AD3
天理市 黒塚古墳
重要文化財
三角縁神獣鏡
18号鏡
三国 〔古墳時代前期]
製作 AD3
埋没 AD3
天理市 黒塚古墳
重要文化財
三角縁神獣鏡
世紀 4BC
19 号鏡
三国 〔古墳時代前期]
製作 AD3
埋沒 AD3
天理市 黒塚古墳
重要文化財
三角縁神獣鏡
20 号鏡
三国 〔古墳時代前期]
製作 AD3
埋沒 AD3
天理市 黒塚古墳
重要文化財
三角縁神獣鏡
21 号鏡
三国〔古墳時代前期]
製作 AD3
埋沒 AD3

 おお、ここでは、三角縁神獣鏡は 三国時代の鏡で、画文帯神獣鏡は漢鏡。
  鏡をもらった国の権威が違うと鏡の価値が全く違うということらしい。
  やはり、漢鏡(漢の国)の権威と威力(神通力)は超絶だということらしい
 
 
 3367
Ⅲ-16
第Ⅲ章 鏡の伝世
武器の伝世


 ヤリは刃部の下端まで木製のパーツ(装具)で覆う 「呑み口(のみくち)」 とよばれる構造をもつ。
   (※槍の吞み口:先端の刃部である「穂」とそれを支える長い棒である「柄」の接合部分を指し、柄が穂に差し込まれる強度を高める部分)

黒塚古墳出土品の中には、この部分の付近に左右一対の孔=刃関双孔(はまちそうこう)をもつものがある。
   (※刃部と柄((なかご))をつなぐための目釘穴のこと)

この孔は、本来、短い茎部(けいぶ)をもつ剣身を柄に固定するために用いられたもので、
弥生時代後期に多くの類例が存在するいっぽう、
前期古墳から出土する鉄剣には基本的に認められない。

 黒塚古墳出土のヤリについては長さなどにばらつきが大きく、 さまざまな機会に製作された剣身がヤリに改変された可能性が指摘されている。

 このような事例から、古墳時代のはじめごろに王権が弥生時代に各地で使用されていた鉄剣をかき集め、画一的な装具をほどこしたうえでヤリとして各地の首長に配布したのではないかと考えられている。

 つまり、一部の武器については、数十年から100年をこえる期間伝えられた器物、 すなわち一種の伝世品ととらえられるのである。
古墳から出土する膨大な量の武器の中には、現在認識されていないさらに多 くの伝世品が含まれている可能性が高いといえよう。

武器の伝世

ヤリ装具の構造 ヤリ装具の構造
水野敏典 2022 「黒塚古墳にみる武器副葬 とは何か-古墳時代前期前半の武器副葬 の一様相-」 『古代武器研究』 vol.17 より
ヤリに残された
改変の痕跡
ヤリに残された改変の痕跡
黒塚古墳/弥生時代終末期 〔古墳10cm 時代前期〕 / 文化庁 (奈良県立橿 原考古学研究所附属博物館保管) /写真: 奈良県立橿原考古学研究 所提供、 実測図 : 奈良県立橿原考 古学研究所編 2018 より




Ⅲ-17
第Ⅲ章 鏡の伝世
玉類の伝世


 銅鏡や武器とともに、 古墳の副葬品として欠かせ ないのが被葬者の身を飾った玉類である。

玉類の伝世については、
弥生時代後期から古墳時代前期にか けての地域社会において長期保有されたものと、
古墳時代前期に製作されたのち中期まで王権において 長期保有されたものの違いなどが議論されている。

 兵庫県西野山3号墳出土品は、弥生時代後期から 地域社会で長期保有された玉類の代表例である。 本墳は墳長31mほどの前方後円墳である。
墳頂から粘土槨が検出され、三角縁神獣鏡のほか、ヤリ・剣・ 鉄鏃・銅鏃・玉類・有機質製品などが出土しており、築造時期は古墳時代前期後半と考えられる。
   (※古墳時代初期の割り竹形木棺に続く、粘土槨形木棺は古墳時代前期から中期(4世紀~5世紀)の首長墓にみられる埋葬施設である。)

 玉類は、 勾玉2点、管玉90点以上、 算盤玉8点 ガラス小玉5点からなる。
もっとも古い算盤玉は、弥生時代中期後葉に製作されたものと考えられ、400年近い伝世をへた可能性をもつ。これをは じめとするさまざまな由来のものが一つのセットとされ、 全体として古い様相を示す点に特徴がある。

玉類の伝世
墳丘測量図
西野山3号墳/赤穂市教育委員会提供/墳形は推定
 3368
伝世品いろいろ
たくさん伝世品をみてきたけど、銅鐸や鏡以外はないんか?
ほかにもヤリのような武器や、アクセサリーにつかったなどにも伝世したものがあるよ。
武器に、玉に、 鏡に・・・。 なんか聞いたことあるような・・・。
いわゆる「三種の神器」 だね。 この3つは昔から特別なものだったのかもしれないね。


伝世品いろいろ

ヤリ
黒塚古墳
天理市 黒塚古墳
重要文化財
ヤリ
刃関双孔(はまちそうこう)をもつ剣がヤリに改変されたもの
弥生時代終末期
〔古墳時代前期]
製作 AD3
埋没 AD3

※刃関双孔とは
AI による概要
刃関双孔(じんかんそうこう)とは、弥生時代後期から古墳時代前期の鉄剣に見られる特徴的な形式で、刃(やいば)と茎(なかご)の境目である「(せき)」の近くに、目釘孔(めくぎあな)が2つ並んでいるものを指します。主に西日本で出土する、剣を固定するための技術的特徴です。

概要と特徴
・構造: 茎部分に、本来1つであるはずの目釘孔が2つ並列または縦列に穿たれている。
・時期・地域: 主に弥生時代後期後半〜古墳時代初頭、近畿や丹後地域などで見られる。
・機能: 杉山和徳氏による研究では、この鉄剣が後年「槍(やり)」に改造・転用された例が挙げられており、長柄武器として再利用しやすい構造を持っていた。
・意味: [丹後地域の類例や類似の短茎鉄剣の研究(こちらの広島大学学術情報リポジトリPDF)によると、当時の有力な副葬品であり、その珍しさから特定の地域や支配層に関連する可能性が指摘されている。
・他の特徴: 短茎(短い柄)であることが多く、東日本でよく見られる鹿角装(ろっかくそう)鉄剣とは異なる系統である。

出土事例
・間門松沢第1号墳(静岡県):杉山和徳氏の分析により本形式が確認されている。
・古天王5号墓(京都府丹後地域):短茎刃関双孔の鉄剣が出土。

この特徴を持つ鉄剣は、ヤマト政権が各地の有力者に武器を分配した際、あるいは特定の在地技術を示すものとして、当時の武器生産と流通を知る上で重要な資料となっています。


三角縁神獣鏡
西野山3号墳
上郡町 西野山3号墳
赤穂市指定文化財
三角縁神獣鏡
三国 〔古墳時代前期〕
製作 AD3
埋没 AD4

 玉類の伝世
上郡町 西野山3号墳 赤穂市指定文化財
出土玉類一式
翡翠,ガラス製勾玉,碧玉・緑色凝灰岩製管玉,水晶製算盤玉
弥生時代中期~古墳時代前期 〔古墳時代前期〕
製作 1BC-AD4
埋没 AD4
 


 3370第Ⅳ章 模倣されたモノ

 3373

IV-1
第IV章 模倣されたモノ
貝輪と腕輪形石製品


 弥生時代から古墳時代の墳墓には、貝・青銅・鉄などを素材とした腕輪が副葬されることがある。

 貝製腕輪 (貝輪)は、琉球列島海域産の貝殻を加工したものであった。
弥生時代中期の北部九州で大量に副葬されたのち、 後期には事例が減少するが、
古墳時代前期には材質をへと置き換え、実用性を失った腕輪形石製品となる。

 紫金山古墳からは、 碧玉(へきぎょく)製の腕輪形石製品とその祖型となった貝輪がともに出土している。
貝輪はゴホウラ螺腹部(らふくぶ)(ふくらんだ部分)に孔をあけ、外唇部 (平らな部分)を残して表裏に直弧文とよばれる古墳時代特有の文様を線刻している。

貝輪と腕輪形石製品
貝輪の使用部位
貝輪の使用部位
秋山美佳 2005 「紫金山古墳出土貝輪の文様と形態」
「紫金山古墳の研究』 京都大学大学院文学研究科より


IV-2
第IV章 模倣されたモノ
北谷(きただに)11号墳

 滋賀県北谷11号墳は、墳長105m前方後円墳で、 後円部に設けられた粘土槨の内外から多数の副葬品が出土した。
  (粘土槨:古墳時代前期~中期,4~5世紀,畿内を中心に普及した墓制)

 計5点の鍬形石(くわがたいし)が出土しており、このうち3点が碧玉製の完成品で、 1点は同種の碧玉製ながら完成していない未成品、
もう1点が軟質の石材である滑石製である。
未成品が古墳に副葬されるというのはきわめて異例な事態であり、製作の過程がわかる 貴重な資料である。

 鍬形石は、環状の部位を中心に笠状や突起状、板状の部位をともなう複雑な造形物である。 原材からこの形を作り出すにはかなりの手間を必要とするわけだが、そこに腕輪としての実用的な機能が求められるわけではない。

 古墳時代には、様々な器物が石材により模倣 され、祭器として古墳に納められたが、 腕輪形石製品は、弥生時代の貝輪が有した意味や価値が、 姿を変えた形で世代をこえて引き継がれていったことを物語るものとして興味深い。

北谷11号墳


まねされたもの

この白い腕輪と緑色の腕輪、 形がそっくりやな。

白い貝がらでできた腕輪を、 緑色の石でまね (模倣)したんだよ。
中国製の貴重品や、弥生時代にはやった大事なものをモデルにして、素材や文様を変えてつくったものが古墳時代にはたくさんあるんだよ。

ワシも神様やから、きっとまねされてしまうんやろな~。
実はさっきみた大和天神山古墳の鏡の中に、龍をまねた文様があるんだけど、どれかわかるかな?

まねされたもの

貝輪 茨木市 紫金山古墳
貝輪 (複製品)
ゴホウラの貝輪を加工したもの
古墳時代前期
製作 AD3-AD4
埋没 AD4
大阪府立近つ飛鳥博物館(原品は京都大学考古学研究室)
鍬形石 茨木市 紫金山古墳
くわがたいし
鍬形石 (複製品)
貝輪を石におきかえたもの
古墳時代前期
世紀 4BC 3BC 2BC 18C AD1 AD2 AD3 AD4 AD5 AD6
製作 AD3-AD4
埋没 AD4
|大阪府立近つ飛鳥博物館(原品は京都大学考古学研究室)

鍬形石
右端が作りかけ
草津市 北谷11号墳
鍬形石
左から3番目のものは作りかけの未成品
古墳時代前期
世紀 4BC 3BC 28C 1BC | AD1 / AD2 | AD3 | AD4 | ADS | AD6 製作
滋賀県立安土城考古博物館

 3375
Ⅳ-3
第Ⅳ章 模倣されたモノ
模倣された鏡

 日本列島で製作された銅鏡すなわち倭鏡は、独自に考案したデザインではなく、 中国鏡を模倣したものが圧倒的に多く、
古墳時代前期には特に盛んに製作された。

 滋賀県北谷11号墳からは、 被葬者の遺体に添えたと考えられる状態で倭製方格規矩鏡が検出された。
面径 23.8cm の大型鏡で、 文様は漢鏡と共通するが、獣像は退化して稚拙な表現となり、 外区にもL字文が ほどこされるなど、
漢鏡にはみられない特徴が多々認められる。
とはいえ、倭製方格規矩鏡にはこれよりもさらに 文様の省略や退化 が進んだものも多く、 この鏡は比較的古い段階に位置付けられる。

模倣された鏡

北谷11号墳 墳丘測量図
北谷11号墳/古墳時代前期/中司照世・川西宏幸 1980 「滋賀県 北谷11号墳の研究」 『考古学雑誌』 第66巻第2号より



Ⅳ-4
第Ⅳ章 模倣されたモノ
長慶寺山1号墳


 漢鏡倭鏡の境界を考えるうえで、興味深い資料が兵庫県加古川市 長慶寺山1号墳から出土している。

 本墳は、墳長34mの前方後円墳で、 竪穴式石槨 から銅鏡鉄鏃などが出土した。 築造時期は、古墳時代前期中ごろと考えられる。
 銅鏡は、後漢代の漢鏡とみなされてきたが、今回の展示準備に際して、 文様や断面形、 鈕孔の開口(かいこう)方向などから、
古墳時代の倭鏡ではないかという指摘(岩本崇氏による) がなされた。

 古墳時代の人びとが、 このようないっけん漢鏡にしかみえないほど忠実なものを製作したのはなぜか。古い鏡にどのような価値を見出したのだろうか。
 倭鏡の模倣対象は、基本的に漢鏡であり、同時代 に近い三国時代の鏡は対象とならなかった また、 倭鏡の中には、 径40cmをこえるような超大型鏡が 含まれており、 それよりも小さな大中小の倭鏡とあわせて、序列をもった体系が作り出されている。 その背景には、各地の首長に倭鏡を配布した王権の政治戦略があったと考えられている。

 ※より権威絶大な漢鏡を偽造して、階級の低い地方首長に、階級付けをして、さらに漢鏡だとだまして、配ったということかな?

長慶寺山1号墳


デザインをまねた鏡
この 「方格規矩鏡」、 さっきまでみてきたのとくらべると、 文様がちょっと雑なような・・・。
これは 「倭鏡」 といって、 漢の鏡をまねて日本列島でつくられたものだよ。
ローマ字のLみたいな形の文様が、 大和天神山古墳の鏡とは逆向いとるなー
きっと古い鏡の実物をみながら、鋳型をつくったから、左右がひっくり返っちゃったんだろうね。

デザインをまねた鏡

方格規矩鏡 方格規矩鏡 方格規矩鏡 滋賀県草津市 北谷11号墳
方格規矩鏡
後漢代の方格規矩鏡を模倣したもの
古墳時代前期 (倭鏡)
製作 AD4
埋没 AD4
滋賀県立安土城考古博物館
内行花文鏡 内行花文鏡 加古川市 長慶寺山1号墳
加古川市指定文化財
内行花文鏡
後漢鏡か倭鏡か評価が分かれるもの
後漢(漢鏡5期) あるいは古墳時代前期 〔古墳時代前期]
製作 AD1 AD3
埋没 AD4
加古川市教育委員会
鉄鏃 加古川市 長慶寺山 1号墳
加古川市指定文化財
鉄鏃
古墳時代前期
製作 AD4
埋没 AD4
加古川市教育委員会
 
 3380
 3381
Ⅳ-5
第Ⅳ章 模倣されたモノ
三国・晋代の銅鏡生産


 三角縁神獣鏡の中にも、 紫金山古墳出土鏡のように、日本列島製とみなされ 「仿製(ぼうせい)」 とよばれるものがある。

 文様が大幅に退化し、銅質も不良となることから、製作地が日本列島へと移ったとみなされてきたものである。

 しかし近年、三国時代における中国大陸での銅鏡生産自体もこの時代には衰退していることがわかってきた。

後漢鏡を模倣した京都府大田南5号墳大和天神山古墳出土鏡のような、過去の鏡の創作模倣が主となっていると考えられるのである。

 このようなこともあり、現在では、「仿製」三角縁神獣鏡を含むすべての 三角縁神獣鏡が中国大陸製であるという説を支持する研究者が増えつつある。

三国・晋代の銅鏡生産

方格規矩鏡
三角神人龍虎画像鏡
方格規矩四神鏡 (展示は複製品) 大田南5号墳/重要文化財/三国 〔古墳時代前期〕 /京丹後市教育 委員会/ 17.4cm

三角縁神人龍虎画像鏡 (参考) 大和天神山古墳 (5号鏡)/ 重要文化財/三国~西晋 (鉛 B領域) / 奈良国立博物館17.0cm


IV-6
第IV章 模倣されたモノ
壺井御旅山古墳


 大阪府壺井御旅山古墳(つぼいおたびやまこふん)からも多数の 「仿製」 三角縁神獣鏡が出土している。

 本墳は、 墳長44.5mの前方後円墳で、古くに盗掘がなされていたが、盗掘坑の内部に、 出土した多数の銅鏡が再度埋納してあり、
その内訳は流雲文縁変形獣帯(りゅううんもんえんへんけいじゅうたい)1面「仿製」 三角縁神獣鏡4面内行花文鏡 14面ほかの計22面にのぼる。

 近年、中国製との見方が強まっている 仿製」 三角縁神獣鏡以外の鏡のすべてが倭鏡で、 内行花文鏡 には同じ型 ((はん))で作られたものが3セット認められるなど、 注目すべき内容を含んでいる。

壺井御旅山古墳
壷井御旅山古墳 多数の銅鏡が出土した前方後円墳
壺井御旅山古墳/古墳時代前期/ 大阪府教育委員会 1970
『南河内・ 石川流域における古墳の調査』


 3383
IV-7
第IV章 模倣されたモノ
三角縁神獣鏡の製作技術➀


 さらに近年、三角縁神獣鏡の製作技法にかんして、 3次元計測の成果にもとづ き、新たな見解が示されている。
 紫金山鏡御旅山鏡鋳造時に生じたとみられる痕跡を3次元データ図上に表現すると、
よく似た位置 (A~E、G) に笵傷(はんきず) (()バリ)があることがわかる。

また、鋳造時に青銅を流し込んだ入り口 (湯口(ゆぐち))もほぼ同様の位置関係にあるものとみられている。
 このことから、 この2つの鏡は、深い笵傷をもつ同一の鏡笵を利用して製作されたものと考えられる。

三角縁神獣鏡の製作技術➀


三角縁神獣鏡の鋳造痕跡
紫金山古墳 (鏡VII)、 壺井御旅山古墳 (C4) /西晋/京都大学考古学研究室、 大阪府立 近つ飛鳥博物館/宇野隆志・清水康二 ・清 水克朗• 三船温尚 菅谷文則 2019 「三角縁 神獣鏡における同乳鏡と鏡笵再利用技法』『古 代学研究』 第223号より (宇野隆志氏提供)

同范 三角縁神獣鏡
230鏡 (紫金山 [鏡VI] [面径22.0cm〕)
三角縁神獣鏡
226鏡 (壷井御旅山 [C-4] [面径 22.0cm〕)
三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡の鋳造痕跡
三角縁神獣鏡の鋳造痕跡
紫金山古墳 (鏡VII)、 壺井御旅山古墳 (C4) /西晋/京都大学考古学研究室、 大阪府立 近つ飛鳥博物館/宇野隆志・清水康二 ・清 水克朗• 三船温尚 菅谷文則 2019 「三角縁 神獣鏡における同乳鏡と鏡笵再利用技法』『古 代学研究』 第223号より (宇野隆志氏提供)


   
仿製 三角縁神獣鏡
茨木市 紫金山古墳
「仿製」 三角縁神獣鏡
鏡Ⅷ 壺井御旅山古墳鏡(C4)と同じ笵傷(はんきず)をもつ
西晋 〔古墳時代前期]
製作 AD3
埋没 AD4
仿製 三角縁神獣鏡 羽曳野市 壺井御旅山古墳
「仿製」 三角縁神獣鏡
C4 紫金山古墳鏡(鏡Ⅷ)と同じ笵傷をもつ
西晋 〔古墳時代前期)
製作 AD3
埋没 AD4
仿製 三角縁神獣鏡
羽曳野市 壺井御旅山古墳
「仿製」三角縁神獣鏡
C2
西晋 (古墳時代前期〕
製作 AD3
埋没 AD4

 3385
IV-8
第IV章 模倣されたモノ
三角縁神獣鏡の製作技術②

 三角縁神獣鏡の製作技術モデルは右図のとおりまとめられている。

ここで想定されているのは、同じ笵で何枚か鋳造をおこない (同笵技法)、傷が生じてこれ以上の使用に耐えなくなった段階で、
鋳造面を削り込んで平らにしたところに、もう一度新たな図像を彫り込むという技法 (鏡笵再利用技法)である。

 その際、 鋳型にあった深い傷や乳などは、新たな図像の鏡にも痕跡として引き継がれることになる。
この案が正しいとすれば、 三角縁神獣鏡は効率性を重視した特異な技法によって製作されたことになる。

三角縁神獣鏡の製作技術②

 三角縁神獣鏡製作技術モデル   三角縁神獣鏡の製作技術モデル
宇野隆志 清水康二 清水克朗 2025 「鏡笵再利 用技法の復元にみる三角縁神獣鏡の製作技術」 『古 代学研究』 第242号より (宇野隆志氏提供)

流雲文縁変形獣帯鏡 羽曳野市 壺井御旅山古墳
りゅううんもんえんへんけいじゅうたい
流雲文縁変形獣帯鏡
C 1
古墳時代前期 (倭鏡)
製作 AD3-AD4
埋没 AD4
同范 内行花文鏡 羽曳野市 壺井御旅山古墳
内行花文鏡
同じ型 (笵)で作られたもの
古墳時代前期 (倭鏡)
製作 AD4
埋没 AD4
 
 3390
IV-9 第IV章 模倣されたモノ
勝福寺(しょうふくじ)古墳

 兵庫県川西市勝福寺古墳は、6世紀前半に築造された前方後円墳である。
後円部の横穴式石室などから画文帯同向式神獣鏡をはじめとする多くの副葬品が出土した。

 この鏡には 28面もの 「同型鏡」 が確認されている。
同型鏡とは、モデルとなる鏡を真土(まね)に押し当てて鋳型をコピーした鏡一般をさす言葉であるが、このうち特に 5世紀ごろに中国南朝で製作されたと考えられるものを「同型鏡」とよぶこととする。 これらの鏡は、文様や傷などの特徴をてがかりとして、製作の順序系譜などをうかがうことができ、現在では約30種、総計およそ140面の 「同型鏡」 が存在することがわかっている。

勝福寺古墳
横穴式石室実測図 横穴式石室実測図
勝福寺古墳/古墳時代後期/
大阪大学勝福寺古墳発掘調査団 2007 より


そっくりな鏡のつくり方

 この2つの鏡、えらいそっくりやな~。
これは 「同型鏡」 といって、 同じ鏡をモデルにしてコピーされたものなんだ!
同じ文様のものが、 28面もある鏡もあるんだよ。
えっ?!なんでそんなにたくさんコピーしたんや?

5世紀ごろの中国で、日本列島の人(倭人)にわたすために、特別に急いでつくられたらしい

そっくりな鏡のつくり方


IV-10
第IV章 模倣されたモノ
「同型鏡」の入手と広がり


 5世紀後葉に造られた前方後円墳である兵庫県加古川市 里古墳(さとこふん)からも、勝福寺古墳鏡〔勝〕と同型の鏡〔里] がみつかっている。
笵傷などから、製作の前後関係としては、 〔〕 が 〔〕 に先行すると考えられる。

 いっぽう、 古墳の築造時期は里古墳が勝福寺古墳に先行することから、
〕は日本列島に流入してすぐに副葬されたのに対し、
〕 は少なくとも数十年保有されたのちに副葬されたことになる。

 「同型鏡」は、南北朝時代(中国)の南朝において、王朝が保有していた後漢から魏晋代の鏡を「原型」として製作されたものと考えられている。

 このような技法の銅鏡製作は、一般的にはなされておらず、日本列島向けに「特鋳(とくちゅう)」されたものだったのではないかとみられている。

同型鏡」の入手と広がり
同型鏡」の分布
同型鏡」の分布
勝福寺古墳・里古墳出土鏡と同じ文様をもつ「同型鏡」 /辻田淳一郎 2018 「同型鏡と倭の五王の時代」 同成 社などをもとに作成

 同型鏡
画文帯同向式神獣鏡 川西市 勝福寺古墳 兵庫県指定文化財
画文帯同向式神獣鏡
里古墳鏡と同型
南朝 〔古墳時代後期〕
製作 AD5
埋没 AD6
画文帯同向式神獣鏡 加古川市 里古墳 加古川市指定文化財
画文帯同向式神獣鏡
勝福寺古墳鏡と同型
南朝古墳時代中期)
製作 AD5
埋没 AD5
 
 


 3410第Ⅴ章 地域の中での伝世


 3411和泉地域の首長墓

V-1
第V章 地域の中での伝世
和泉(いずみ)地域の首長墓


 鏡の伝世について考えるため、 和泉地域の様相をみてみたい (本章の遺跡の所在はいずれも大阪府)。

 和泉地域は、古墳時代中期の大王墓が形成される堺市百舌鳥古墳群を擁する地域として著名である。

しかし、古墳時代前期前葉には前方後円墳は築造されていない。
ところが前期中葉になると、前方後円墳である久米田貝吹山(くめだかいぶきやま)古墳が出現する。
その後、小地域ごとに首長墓の築造が続き、中期前葉にかけて多くの伝世鏡が出土している。

和泉地域の首長墓
和泉地域北部の首長墓系譜 和泉地域北部の首長墓系譜 三木 弘ほか 2015 「和泉地域における古墳時代前期の埴輪生産」
『大阪府立近つ飛鳥博物館館報』18、 大阪府立近つ飛鳥博物館をもとに作成


V-2
第V章 地域の中での伝世
久米田貝吹山古墳
(古墳時代前期中葉)

 岸和田市久米田貝吹山古墳は、 墳長約130m前方後円墳である。 後円部の竪穴式石槨は後世に大規模な破壊を受けていたが、 副葬品として、銅鏡や腕輪形石製品、 武器類のほか、 小札革綴冑(こざねかわとじかぶと) 柄付手斧(えつきちょうな)といった中国大陸とのかかわりの深い遺物も出土している。

 出土した埴輪の特徴から、 築造時期は古墳時代前期中葉すなわち4世紀半ばごろに比定できる。

 銅鏡は細片化しているが、 漢鏡7-2期2世紀後半から3世紀前半ごろに製作された画文帯同向式神獣鏡の可能性が高い。
そうすると、鏡が製作された年代と古墳が築造された年代のあいだには150年前後の隔たりがあるということになる。

久米田貝吹山古墳 副葬品集合(一部参考)
久米田貝吹山古墳/古墳時代前期中葉/岸和田市教育委員会


地域の中での伝世

 伝世鏡ってかっこええなー! やっぱワシみたいな選ばれし者がもってたんやろな!

リュウさんみたいな・・・かはともかく、地域の中で大切に次の世代のリーダーに受け継がれていたことが、
古墳などの調査からわかってきたよ!

ここ弥生文化博物館の近く (和泉地域北部)では、4基の古墳から伝世鏡が出土しているんだ。 ぜんぶ150年から200年くらい伝世しているんだよ!

そのあいだずっとこの地域にリーダーがいたってことか?!

地域の中での伝世

円筒埴輪 岸和田市 久米田貝吹山古墳
えんとうはにわ
円筒埴輪
古墳時代前期中葉のもの
古墳時代前期
製作 AD4
埋没 AD4
画文帯同向式神獣鏡 岸和田市 久米田貝吹山古墳
画文帯同向式神獣鏡
久米田風吹山鏡と似た文様をもつ
後漢 (漢鏡7-2期) 〔古墳時代前期〕
製作 AD2-AD3
埋沒 AD4

 3415
和泉地域北部の首長墓

和泉地域では、前方後円墳っていう立派な古墳は古墳時代のはじめごろ (前期前半/ 3世紀代) にはつくられなかったんだ。

 え、 じゃあリーダーはおらんかったってことか?
 さっきと話がちゃうやないか!
 そうなると、 鏡はだれがもっとったんや・・・?

そこがナゾなんだよね。
伝世鏡がみつかるのは、 和泉地域でやっと大きな古墳がつくられるようになる古墳時代前期後半 (4世紀代) からだから、
それまではお墓に鏡を入れずにもっていたのかな?

和泉地域北部の首長墓
円筒埴輪 岸和田市 摩湯山古墳
円筒埴輪
古墳時代前期後葉のもの
古墳時代前期
製作 AD4
埋没 AD4
 
 3417

V-3
第V章 地域の中での伝世
摩湯山古墳馬子塚古墳


 久米田貝吹山古墳の東南の丘陵先端には、 墳長約200m和泉地域最大前期大型前方後円墳である岸和田市摩湯山(まゆやま)古墳が立地する。
 その南西側には一辺約35mの方墳で摩湯山古墳の陪塚(ばいちょう)とみられる同市馬子塚古墳(まごづかこふん)が近接している。
この古墳は、昭和33年に堤改修の土取りのために破壊を受け、その際、 埋葬施設の粘土槨と、碧玉製 管玉、銅鏡1面、 埴輪片が確認されている。

 埴輪には、(きぬがさ)形埴輪や衝立(ついたて)形埴輪などの形象埴輪のほか、 円筒埴輪、 鰭付円筒埴輪があり、円筒埴輪の特徴から、古墳時代前期後葉すなわち4世紀後葉ごろの築造が想定される。


 出土した鏡は、吾作系 斜縁二神二獣(ごさくけいしゅえんにし にしんにじゅう)で、残存状 態は良くないが、 3次元計測の結果、 文様の不鮮明 な部分は手ずれや二次研磨、錆化の結果による可能性も考えられる。

 製作時期は、3世紀前半代の三国期に比定され、 副葬までに150年前後の伝世をしたと想定される。 長い伝世のあいだにくり返し研磨がなされたことを示すものかもしれない。

※吾作系とは
「吾作系」という言葉は、主に考古学の分野で「吾作明鏡」という銘文を持つ古墳時代の銅鏡(斜縁神獣鏡など)の系統を指します。

考古学における「吾作系」
・銘文: 鏡の背面に「吾作明鏡」やそれに類する文字が刻まれているものを指します。
・特徴: 中国の三国時代に製作された可能性がある鏡式で、古墳時代前期の日本の古墳から出土します。
・出土場所: 大阪府の黄金塚古墳 や兵庫県など、国内各地の古墳で見つかっています。

摩湯山古墳・馬子塚古墳

和泉地域北部の古墳の分布
和泉地域北部の古墳の分布
古墳時代前期~中期/展示に関連するもののみ
百舌鳥地域 取石地域
信太地域
久米田地域
  百舌鳥地域
長山古墳
大山古墳
ミサンザイ古墳
御廟山古墳
乳岡古墳
いたすけ古墳
大塚山古墳
四ツ池遺跡
ニサンザイ古墳
塔塚古墳
下田遺跡
経塚古墳 
取石地域
大園古墳
大園遺跡
和泉黄金塚古墳
カニヤ塚古墳
菩提池西古墳群
貝吹山古墳

信太地域
丸笠山古墳
豊中遺跡
鍋塚古墳
府中遺跡
玉塚古墳 
久米田地域
下池田遺跡
田鶴羽古墳群
摩湯山古墳
無名塚古墳
風吹山古墳
貝吹山古墳
馬子塚古墳
女郎塚古墳
持ノ木古墳
玉塚古墳
 

和泉地域北部の
鏡副葬古墳
和泉地域北部の鏡副葬古墳

古墳時代前期後半~古墳時 代中期前半/ 久米田貝吹山 古墳: 岸和田市教育委員会 2013 『久米田古墳群発掘 調査報告1』より一部改変、

久米田風吹山古墳 : 岸和田 市教育委員会 2014 『久米 田古墳群発掘調査報告2」 より一部改変、
摩湯山古墳馬子塚古墳和泉黄金塚古墳 : 岸本直文氏提供データ より一部改変

岸和田市 馬子塚古墳
埴輪
古墳時代前期後葉のもの
古墳時代前期
製作 AD4
埋没 AD4
岸和田市 馬子塚古墳
しゃえんにしんにじゅう
斜縁二神二獣鏡
文様が鮮明な部分と不鮮明な部分がある
三国〔古墳時代前期]
製作 AD3
埋没 AD4

 3420
 3421
V-4
第V章 地域の中での伝世
和泉黄金塚古墳


 信太丘陵の北部には、 墳長約94m前方後円墳である和泉市和泉黄金塚古墳が築かれた。
 後円部墳頂から3基の粘土槨が発見され、 それぞれの埋葬施設から玉類、 石製品、 武器 武具類、 工具類などの副葬品が出土している。

 埴輪の特徴から、古墳時代中期初頭 4世紀末葉ごろに築造されたものと考えられる。

 鏡は3基の埋葬施設それぞれから出土しており、 2世紀後半から3世紀前半ごろにかけて製作された 後漢鏡および三国鏡の総数6面からなる。

 特に注目されるのは中央槨から出土した 「景初三年」の銘をもつ画文帯同向式神獣鏡である。
この年は 『魏志倭人伝』において卑弥呼が魏に朝貢した年=239年として知られ、 魏から卑弥呼に与えられ た「銅鏡100枚」 との関連も考えられてきた。
 これらの鏡は古いもので200年前後、新しいものでも150年前後の伝世をへて副葬されたものと 推定される。

和泉黄金塚古墳
円筒埴輪
和泉黄金塚古墳
和泉市 和泉黄金塚古墳
円筒埴輪
古墳時代中期初頭のもの
古墳時代中期
製作 AD4
埋没 AD4
 3423
画文帯同向式神獣鏡 和泉市 和泉黄金塚古墳
複製品 (原品は重要文化財)
画文帯同向式神獣鏡
最初三年 (239年)の銘をもつ
古墳時代中期
製作 AD3
埋没 AD4
当館 (原品は東京国立博物館)
画文帯同向式神獣鏡 岸和田市 久米田風吹山古墳
画文帯同向式神獣鏡
久米田貝吹山鏡と似た文様をもつ
古墳時代中期
製作 AD3-AD4
埋没 AD
 3425
V-5
第V章 地域の中での伝世
久米田風吹山(くめだかぜふきやま)古墳


 岸和田市久米田風吹山古墳は、 墳長約71m帆立貝形墳である。
後円部の粘土槨から、 銅鏡のほか、鉄製甲冑(かっちゅう)や環頭部分に象嵌(ぞうがん)をほどこした素環頭大刀などが出土している。

 副葬品と埴輪の特徴から、 久米田貝吹山古墳から 50年ほどのちの古墳時代中期前葉5世紀前葉に 築造されたものと考えられる。

 鏡は2面発見されており、うち1面は画文帯同向式神獣鏡である。漢鏡7-2期に該当し、2世紀後半 から3世紀前半ごろに製作されたものである。

 古墳の築造時期と鏡の年代との間には少なくとも 200年のギャップがあり、 また久米田貝吹山古墳か ら出土した鏡と非常によく似た鏡式である点も注目される。

久米田風吹山古墳
素環頭大刀 (環頭部) (参考) 素環頭大刀 (環頭部) (参考)
久米田風吹山古墳
/古墳時代中期前葉/岸和田市 教育委員会2014 『久米田古墳群発掘調査報告2』 より/環頭部に象嵌をほどこす/全長112.4cm 


V-6
第V章 地域の中での伝世
和泉地域の伝世鏡


 和泉地域では、古墳時代のはじまりごろには顕著 な古墳がみられず、 前期中葉以降になって各地で首長墓が築造されるようになる。

それらの古墳に副葬された鏡は、いずれも3世紀前半を前後する時期に中国で製作され、伝世をへたものであった。
製作時期のまとまりがよい鏡群であることから、王権から和泉地域にリアルタイムで分配され、当地域で伝世したものが首長墓の築造のたびに副葬された可能 性も指摘されている。

 このように考えると、古墳時代前期前半の和泉地域の集落においては、前方後円墳を 造らないものの中 国鏡を入手し保有できる首長が存在 し、前期後半になっ て前方後円墳に鏡を副葬する社会へと変容したとみることができよう。

和泉地域の伝世鏡 和泉地域北部出土伝世鏡の
時期幅
和泉地域北部出土伝世鏡の時期幅
*岩本崇 2020 『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』 六一書房の編年による


V-7
第V章 地域の中での伝世
地域からみた弥生時代のおわりと古墳時代のはじまり

 集落遺跡からは、 古墳とは異なる側面がみえてくる。
 堺市下田遺跡の古墳時代前期前半の大溝からは 質・量ともにの豊かな内容の木製品のほか列島各地の外来系品を含む古式土師器が出土しており、対外 的な交流も活発な大規模集落の様相がうかがえる。

 このような集落は、和泉北部の各小地域で発展したと考えられ、今後さらに調査が進展すれば、各地域の首長の存在が明確になってくるだろう。

 弥生時代のおわりから古墳時代のはじまりにかけて社会は連綿とつながっていた。
鏡を副葬する首長墓の系譜とその造営集落など、 多角的な側面から検 討を重ねることで、 鏡を代々保有する地域社会の実像に迫ることができるだろう。

地域からみた弥生時代のおわりと
古墳時代のはじまり
古式土師器 (参考)
古式土師器 (参考)
下田遺跡弥生時代終末期~古墳時代前期前半/ 財団法人大阪府文化財調 査研究センター 1996 『下 田遺跡』より一部改変/
a: 庄内甕、b:小型丸底 土器、 c: 布留甕/a は 生駒山西麓産胎土

円筒埴輪 岸和田市 久米田風吹山古墳
円筒埴輪
古墳時代中期前葉のもの
古墳時代中期
製作 AD5
埋没 AD5


和泉地域北部の集落

うわー、この木の道具すごい丁寧につくられててピカピカや! こんなんが遺跡から出土するんか!

こういうのはめずらしいもので、ふつう大きな集落でしかみつからないんだ。
これは和泉地域の下田遺跡っていう集落から出土した、 古墳時代のはじめごろのものだよ。

え?! ってことは、この近くでまだ古墳をつくってない時期に、もう立派な集落があったってことか!
そんな集落をまとめていたリーダーが、 代々鏡を受け継いでたんかもな・・・!

そうかも! 想像がふくらむよね!

和泉地域北部の集落
刀剣柄装具
環形付木製品
  堺市 下田遺跡
刀剣柄装具

赤く着色している
古墳時代前期
製作 AD3
埋没 AD3
堺市 下田遺跡
環形付木製品

黒漆を塗る
古墳時代前期
製作 AD3
埋没 AD3

 3427
E-1
エピローグ
エピローグ➀

 弥生時代を代表する伝世品である銅鐸については、
➀弥生時代中期末~後期初頭および ②後期後葉という、さまざまな考古資料の画期と一致する時期に埋納 されたとみる2段階埋納説が現在有力である。
 これに対し、 松帆銅鐸の分析結果は、 ➀よりも古い時期に埋納がなされたものがあること、 すなわち 多段階埋納の可能性を考慮する必要性があることを示している。
それが一般的であったのかという点に ついての判断は難しいが、いずれにしても、 多くの銅鐸はいずれかの場所で長期間伝世したとみるのが 自然である。

 いっぽう、古墳時代の伝世品としてもっとも顕著 なものは銅鏡である。
古墳からは大量の伝世鏡が出土し、かつその分布の中心は近畿地方にある。 それらの伝世がどこで誰によってなされたのか、とい う点は、 中国王朝との外交、ひいてはヤマト王権の成立という日本古代史のシナリオを左右する大問題 に直結することとなるわけである。

 この点にかんする新たな視点からの解釈や自然科 学的分析の成果などについては、すでにみてきたと…

エピローグ エピローグ➀

E-2
エピローグ
エピローグ②


 …おりであるが、近年の銅鏡研究の進展により、古墳時代人が鏡に対してかつて想定されたよりも深い認識をもち、それらの意味をふまえて保有贈与をおこなった可能性が高いと考えられるようになった。

 このことおよび近畿地方弥生時代の遺跡における銅鏡出土例の少なさから、近年では、古墳出土の中国鏡が北部九州や中国大陸などで伝世したのち古墳時代開始期ごろになって近畿地方へ流入したと みる説が多くの研究者によって提起されている。

 具体的な伝世鏡流入のシナリオについては、複数の案が示され、 いままさに議論が進行中であるが、 本展のまとめとしては銅鐸の様相に注意を払ってお きたい。
つまり、集落や墓地からは出土しなくとも 集団内での伝世は確実になされており、またそれら の製作に必要となる大量の青鋼原料を入手する力が 近畿地方の集団には備わっていたという点である。 いずれにしても、このような 「伝世論」 がおわり を迎える日はまだまだ先のことであろう。 考古資料 は、各地の博物館などで長期保管され、今後も 「伝世」されていくのである。

エピローグ②   

伝世ってのは

伝世ってのはナゾも多いけど、 「大事なモノをずっと大切にしたい!」 っていう気持ちが伝わってきて、ワシは好きや!

そうだね!
弥生時代から古墳時代へ200年以上伝世していた鏡もあったけど、これから先はぼくたちがしっかり文化財を守っていきたいよね。

ところでリュウさんはなにか伝世品ってもってるの?
カイト、なに言うてるねん!

ワシは弥生時代から生きてる龍やで!ワシ自身が伝世品みたいなもんや!
そっか......。ずっと弥生博で長生きしてね!

伝世ってのは   
 
 4000池上曽根学習館
 
 
 
 
 




  '26.02.05 感謝490,000アクセス 約12ヶ月今後は、1万アクセスいただくのに約17ヶ月を要するようです。
  '25.02.08 感謝480,000アクセス 約9ヶ月
  '24.05.14 感謝470,000アクセス 約8ヶ月
  '23.09.12 感謝460,000アクセス 約10ヶ月
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