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黒部峡谷と欅平
五箇山・白川郷
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2014南の縄文
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屋久杉自然館
屋久島町歴史民俗資料館
中種子町立歴史民俗資料館
種子島ドライブ
開聞岳周辺ドライブ
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小樽市総合博物館運河館
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北小金貝塚
北陸の縄文
入江・高砂貝塚館
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三内丸山遺跡
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南の縄文旅行記
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縄文
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最古の漆と文化
2013中部地方の縄文
新潟県立 歴史博物館2
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2026/5/19(火)
今回「鈴鹿市考古博物館」  前回記事「宮崎市埋蔵文化財センター

07/25(土)
 鈴鹿市考古博物館をあげました。

 先日プールに行ったとき、男女が入ってきました。男は大柄で顔つきと仕草に泳ぎ方が日本人出来ではない。話し声は聞こえないほど小声。中国人だ。
どうやら女に泳ぎを教えに来たらしい。見ていると全くでたらめな指導でびっくりした。小学校で水泳授業を受けた日本人ならこんなことはしない。
そしてとうとう、女はビート板を持ち、顔を水に浸けて歩くことをやりだした。こんなこと誰だもできる。したたかな女の下心が見え透いている。
 まるで少し水泳ができるように近付いた風に見せかけているのが丸わかり。顔の端っこでニヤついていた。

ひと泳ぎしてコースの端でプールを見渡した時、びっくりした。プールにいるほとんどがこの二人を見ていた。このプールでは相当な梅干しばばもじじも
かなり泳げる。いろいろな泳法もマスターしている。だから私以上に下手糞な泳ぎ、指導になっていない泳法指導。そして、薄ら笑いしている女。

 中国人と付き合っている女と、日本女をものにしようとしている中国人。狐とタヌキのだまし合い。笑ってしまいました。みんなも同じでしょう。

 その次にプールに行った帰り、脱水機の中にスイミングキャップを置き忘れ、落とし物に出て来ず、取られてしまいました。
このキャップはFサイズのキャップをいくつも試して、やっと見つけた大きいサイズ。メーカーによって同じFサイズでも、そして素材によっても
かなり差があるのです。要約見つかったキャップをなくしてしまいました。乾いた時には紫色で、濡れると黒に見える。それをなくしてしまった。

 キャップがなければ泳がしてもらえない。プールに何度も届がないかを尋ねたが、ダメでした。
昨日スポーツ用品の大型ショップを何軒もまわってやっとFサイズ(55~59)ではなく(58~63)が一つだけあったので買った。55-59は小さくて頭に入らない
-63でも小さかったがこれが最大だった。きっとなくしたキャップは-65ぐらいだったのでしょう。

次回更新 2026/08/ 中旬をめざしています。
毎回申し上げておりますように、一つ作ってはすぐに出し、の状態です。ご容赦ください。

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 2025.12.09-1

 三重県 鈴鹿市考古博物館  三重県鈴鹿市国分町224
     059-374-1994
     休館日
      月曜日と第3火曜日(祝日・休日のときはその翌日)
      祝日・休日の翌日(日曜日を除く)

交通 JR関西線 河曲駅から徒歩約25分

近隣観光地 鈴鹿サーキット、大黒屋光太夫記念館
近隣博物館 四日市市立博物館、三重県総合博物館、桑名市博物館
 
 目次


10伊勢国分寺跡
20鈴鹿市考古博物館

1000特別展「古代の市役所
1011河曲郡衙(狐塚遺跡)
鈴鹿市国分町
1021志太郡(御子ヶ谷遺跡)
 静岡県藤枝市南駿河台
1030栗太郡衙(岡遺跡)
 滋賀県栗東市
1051嶋上郡衙跡
 大阪府高槻市清福寺町
1311武義郡衙(弥勒寺官衙遺跡)
 岐阜県関市

1331今回紹介する遺跡
1333暗文土師器
※考察 土馬
1350正倉火災と炭化米
※考察 正倉と炭化米
1371行方郡衙 (泉官衙遺跡)
 福島県南相馬市
1373河内郡衙(上神主・茂原官衙遺跡)
 栃木県宇都宮市河内郡上三川町
1375新田郡衙 (上野国新田郡家跡)
 群馬県太田市

(特別展「古代の市役所)
1381佐位郡衙(上野国佐位郡正倉跡)
 群馬県伊勢崎市
1382橘樹郡衙(橘樹官衙遺跡群)
 神奈川県川崎市
1383高座郡衙(下寺尾官衙遺跡)
 神奈川県茅ヶ崎市
1384伊那郡衙(恒川官衙遺跡)
 長野県飯田市
1385御原郡衙
(小郡官衙遺跡群,下高橋官衙遺跡)
 福岡県小郡市・三井郡大刀洗町

1391館・厨家
1392正倉
1393郡庁
1394郡衙とは?
1410墨書土器と木簡
1461廬原郡衙(尾羽廃寺跡)
 静岡県静岡市
1471朝明郡衙(久留倍官衙遺跡)
 三重県四日市市

2000常設展
2001考古プロムナード
2100旧石器時代

2200縄文時代
2210土器・石器
2220北一色遺跡
2230上箕田遺跡

2300弥生時代
2310磯山銅鐸
2320線刻土器
2400弥生土器群
2409扇広遺跡
2414年代を探る1
―型式編年―
2415岸岡山Ⅲ遺跡
2500鈴鹿の遺跡

2600古墳時代
2621人物埴輪
2623刀装具

2631鶏形埴輪
2633鹿絵巫女埴輪
2645家形埴輪
  甲冑形埴輪
2650馬形埴輪
2700古墳時代後期
2713王の館と倉
2720副葬品
2730須恵器窯
2740須恵器
2743鉄製品
2762陶棺
2763年代を探る2
 堤瓶の変化

2800奈良平安時代
2810奈良時代
2811硯
2825棒状土製品
2826方筒状土製品

2900平安時代
2911灰釉浄瓶
2913八稜鏡
2921伊勢国分寺跡
2925製塩土器

3100鎌倉室町時代
3110梅田遺跡
3120山茶碗

3400江戸時代

4000鉄鍛冶

4200伊勢国府
4217刻印瓦
4219河曲郡衙
4231都の暮らし
4232貴族の食卓
4235奈良時代の村

4321伊勢国分寺瓦
4710鈴鹿の古代瓦
 
 はじめに
 ※鈴鹿市考古博物館は、伊勢国分寺跡に作られました。驚くのは、これほど広大な土地が宅地開発されずに残っていたことです。
  関西本線河曲(かわの)駅(無人駅)下車後、最初に北側に渡る踏切を見落とし、スマホの出鱈目道案内で方向を見失い、迷っていたところ
  偶然、たった一人だけ外に出ていたおばあさんが、ご親切に車で送って下さいました。心より感謝しています。


 10伊勢国分寺跡


史跡 伊勢国分寺跡
指定年月日 大正11(1922)年10月12日

 国分寺は天平13 (741) 年の聖武天皇の詔によって、国ごとに建立が命じられた寺院で、僧寺と尼寺からなります。 ここは僧寺の遺跡と考えられます。発掘調査により, 約180m四方の区画を築地塀で囲み, 西寄りに金堂・講堂といった礎石建ち瓦葺の建物が南北に一直線に配置され、東寄りでは食堂や掘立柱建物とともに小院や北東院と名づけた築地塀による区画が確認されました。 整備として,これらの建物・区画の位置・大きさを土盛りや舗装で表現しました。

 僧寺には七重塔を建てるように命じられました。 調査では塔の基礎 (基壇)の明確 な遺構を確認できていません。しかし、小院の内部には正方形にめぐる浅い溝があり、 これが塔の基壇の周囲をめぐる溝であったと解釈して、想定復原図を描きました。
  令和2年3月 鈴鹿市

史跡 伊勢国分寺跡
歴史公園
史跡 伊勢国分寺跡 整備平面図 創建期復原図
早川和子画


 20鈴鹿市考古博物館

令和7年度 特別展
 ここまでわかった! 古代の市役所!
   会期令和7年1月2日(土)~令和8年2月8日 (日)
      鈴鹿市考古博物館

 ※この展示は、日本各地の郡衙や政庁を特集したものでした。



 1000特別展「古代の市役所」
 1001
はじめに
 平成6年度から始まった鈴鹿市考古博物館建設に伴う狐塚遺跡の発掘調査で、 整然と建ち並ぶ大型の掘立柱建物群が確認され、 河曲郡衙(かわわぐんが)の政庁 (役所の中心施設) や正倉(税を収納した倉庫) であることがわかってきました。郡衙とは、古代の地方の役所のひとつで、 現在の市 役所に相当します。

 当館の常設展示では、この調査成果をいち早く活かし て、 正倉の模型を製作し、 実際の遺構をプロムナードに おいて再現しています。

  古代の市役所とは、
    どのようなものだったのでしょうか。

 本展では、郡衙遺跡の発掘調査の先駆けとなった
静岡県志太郡衙跡(しだぐんがあと)
滋賀県岡遺跡(おかいせき)
福岡県小郡官衙遺跡(おごおりかんがいせき)をはじめ、 近年成果を上げた
四日市市久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)
岐阜県弥勒寺官衙(みろくじかんが)遺跡
神奈川県橘樹官衙遺跡群(たちばなかんが いせきぐん)
群馬県上野国佐井郡正倉跡(こうずけのくに さ いぐんしょうそうあと)など
14郡の調査成果を狐塚遺跡の最新成果とともに出土遺物や写真パネル等で紹介します。
 この展示が古代の市役所に対する理解を深めるきっ かけとなれば幸いです。

※各遺跡の位置図には国土地理院 地理院地図 (電子国土Web 陰影起伏図) を使用していま す。

はじめに

 1011
河曲郡衙(かわわぐんが) (狐塚(きつねづか)遺跡)
所在地 鈴鹿市国分町

 鈴鹿川左岸の標高43m前後の高位段丘の辺縁部に立地しています。 狐塚遺跡の北には 伊勢国分寺跡、 北東には伊勢国分尼寺跡とみられる国分遺跡があり、 古代の重要な遺跡が密集した地域です。

 遺跡の東部で郡庁、 西部で正倉が確認されました。 郡庁から南東へ約200mの
ところには白鳳寺院とみられる南浦遺跡があり、 南浦(みなみうら) (大鹿(おおか)) 廃寺と呼ばれていま
す。 それぞれの間に入り込んだ小さな谷によって、 独立した区画のようになってお
り、郡庁と正倉間の北側で確認された掘立柱建物群は、(たち)厨家(くりや)と推定されていま す。

 郡庁は、建物群の中央北寄りで確認された東西棟を正殿とするならば、 その南にある東西棟 2棟は前殿(ぜんでん)、 東西に配置された南北に長大な建物4棟は脇殿(わきでん)となります。 正殿の北西には、 総柱建物とみられる建物 1棟がありますが、 塀などの区画施設は 確認されていません。 脇殿は2回の建て替えが確認され、西南脇殿は総柱建物に建 て替えられています。

 正倉は掘立柱の総柱建物で、 北列3棟、 西列5棟、 南列2棟以上、 東列1棟以上 が確認されています。 柱筋を揃え、一定の間隔をあけて計画的に建物を配置し、「ロ」 字型に並んでいたとみられています。

 正倉の造営の開始時期は、7世紀末から8世紀初頭とみられ、 建て替えがないこ とから短期間で廃絶し、 位置関係から国分寺建立に伴い移転させられたとみられて います。 郡庁は出土遺物が少ないため、 造営時期などまだわかっていませんが、 正 倉と同じような時期に営まれていたと推定されています。

 郡衙の造営後、隣接地に伊勢国分寺が建立されました。 国府に隣接して建立され た国分寺が多い中で、 郡衙に隣接する国分寺はほかに例がなく、 河曲郡の郡司を務 めた在地豪族が土地を提供するなど、国分寺造営に大きく関わっていたためとみら れています。

河曲郡衙跡
河曲郡衙跡
位置図
河曲郡衙関連遺構配置図及び伊勢国分寺伽藍配置図
刻書土器
狐塚遺跡
鈴鹿市国分町
鈴鹿市考古博物館
飛鳥~奈良時代
須恵器
狐塚遺跡
鈴鹿市国分町
鈴鹿市考古博物館
飛鳥~奈良時代
 1013
 
狐塚遺跡 郡庁 正殿・西北脇殿 (南上空から)
 
狐塚遺跡 正倉 (上空から)
 
狐塚遺跡 郡庁 西南脇殿 (南から)
 
狐塚遺跡館・厨家? (北から)

南浦遺跡(南浦廃寺) 掘立柱建物群(西から)
河曲郡衙正倉模型
 1015
重弧文軒瓦
南浦遺跡(南浦寺)
鈴鹿市国分町
鈴鹿市考古博物館
飛鳥~奈良時代
単弁蓮華文
複弁蓮華文
単弁蓮華文
 1020
 1021
志太郡衙(しだぐんが)(御子ヶ谷(みこがや)遺跡)
 所在地 静岡県藤枝市南駿河台1丁目12

 瀬戸川右岸に広がる低丘陵の北東端で、 北
に開口する谷の入口部に形成された自然堤防 と丘陵裾部の微高地に立地しています。 地形的な制約を受けた東西 80m、南北 70mの狭い範囲で、掘立柱建物 30棟、 門、 板 塀、柵、井戸、 石敷の道路などが確認され、 谷奥の湿地などからは志太郡の郡司や厨家に関連する約 270 点の多量の墨書土器や郡衙の業務に関わる木簡が出土し、 郡庁や厨家(くりや)がコンパクトにまとまった郡衙遺跡であるとされてきました。

 地形的には北側に広く開口しているにもかかわらず、いずれの時期も南に門が設 けられ、門に向かう通路を北東側から敷設し、 東辺から南辺を土塁や板塀によって 囲んでいます。 建物の重複する状況などから大きく8世紀と9世紀の2時期にわけ られ、 I期は、 「コ」の字のように建物が配置されています。 位置をずらすなどの 増改築が行われていますが、いずれの建物も規模が小さく、柱筋の通りも悪いため、 郡庁と積極的に評価するには疑問が残る状況です。 II期になると、 建物配置を大きく変更し、 東隅では南面に(ひさし)を有する建物を掘立柱塀(ほったてばしらへい)で囲みます。 中央に井戸を設け、その東には側柱建物(がわばしらたてもの)総柱建物(そうばしらたてもの)が南北に並び、 北西には大型の建物が建ちます。

 郡の役人の官職名である大領(だいりょう)少領(しょうりょう)主帳(しゅちょう)と書かれた土器が多数出土しており、志太郡衙に関連する遺跡であることは疑いようがありません。 郡名 + 施設名の厨家の 「志太厨」 「志厨」 と書かれた土器を含めて多量の食器が出土し、 井戸もあるこ とから厨家とみるのが妥当といえます。

 現在、志太郡衙跡は史跡公園として整備 され、建物や板塀が実物大に復元されてい ます。 隣接する志太郡衙資料館では、 発掘調査の様子や出土品が展示されています。

志太郡衙
(御子ヶ谷遺跡)
位置図
志太郡衙跡整備状況 (東から)
志太郡衙跡 郡衙関連遺構配置変遷図
           
志太郡衙跡 遠景(北から) 志太郡衙跡調査区全景 (東から)
志太郡衙跡 掘立柱建物 SB04 (西から)
志太郡衙跡 東部の掘立柱建物群 (北から)
志太郡衙跡石敷道路と南側低湿地 (南東から)
藤枝市鄉土博物館
志太郡衙跡 掘立柱建物SBO2 柱出土状況
藤枝市鄉土博物館提
 1023
蓋,坏
須恵器
志太郡衙跡
静岡県藤枝市
蓋,坏,皿
土師器
志太郡衙跡
静岡県藤枝市
壷,高坏

志太郡衙跡
静岡県藤枝市
転用硯
円面硯
円面硯
 1030
栗太郡衙(くりもとぐんが)(岡遺跡)
 所在地 滋賀県栗東市

 金勝(こんぜ)川と草津川に挟まれた丘陵の先端に立地しています。 東西 200m、 南北300mの範囲で8世紀前半に営まれた郡庁、 正倉のほか、 (たち)とみられる建物群が確認されました。

 郡庁は、 四面廂付建物(しめんひさしつきたてもの)の正殿を中心に北東・西の三方を長大な殿舎(でんしゃ)で囲みます。 南は中央に門、その脇に殿舎を並べ、 「ロ」の字 型配置を取ります。 その後、 南面の殿舎は塀に建て替えられ、 「コ」の字型配置と なります。 この郡庁に先行する「L」 字型に配置した建物群が確認されており、「評」 段階の役所とみられています。

 郡庁の西隣には、溝で囲まれた東西約 100m、 南北約60mの区画があり、 正倉 とみられる総柱建物を北東部で3棟、西部で2棟確認しました。 周辺から多量の炭 化物が見つかっていることから、 火災によって焼失したとみられています。
正倉院の南で、 溝と掘立柱塀に囲まれた区画があり、 東塀に沿って建てられた建 物が確認されています。 郡庁に向かう東側に門があることから、館の可能性が考え られています。

 郡庁の建物群は、8世紀後半には廃絶してしまいますが、 石帯(せきたい)や墨書土器など官 衙に関連する遺物は継続して出土しています。 西に隣接する正倉は、 「L」 字状の 配置をとる建物群に建て替えられ、その建物群に、郡庁の機能の一部を移したとみ られています。

 岡遺跡から北東へ約2kmのところにある手原(てはら)遺跡では、伽藍(がらん)は確認できていませ

んが、 瓦がまとまって出土していることから、 白鳳寺院の存在が想定されています。 8世紀後半以降、 その東部では、 「L」 字型に配置された大型の掘立柱建物群、 (ひさし)を伴う建物など多数の建物が確認され、(すずり)や墨書土器、木簡、 石帯、 土馬が出土し ているなど、 官衙的な要素が多くみられることから、 岡遺跡から手原遺跡にも郡衙の機能の一部が移転したとみられています。

栗田郡衙(岡遺跡) 位置図
岡遺跡
手原遺跡
岡遺跡 郡衙関連遺構配置図
小壺,蓋,坏
須恵器
岡遺跡
滋賀県栗東町

須恵器
岡遺跡
滋賀県栗東町

 1040
 1041
岡遺跡 総柱建物
(西から)
岡遺跡郡庁東脇殿
(南から)
手原遺跡
一面廂付掘立柱建物
(東から)
手原遺跡 倉庫群
(北から)
手原遺跡
四面廂付掘立柱建物
(西から)
岡遺跡 総柱建物
(西から)
 1043
移動式カマド
岡遺跡
奈良時代
  製塩土器
手原遺跡
滋賀県栗東市
把手付中空円面
円面硯

岡遺跡
滋賀県栗東市
奈良時代
面違鋸齒文(めんたがいきょしもん)縁複弁蓮華文
輻線文縁(ふくせんもんえん)単弁蓮華文
均整唐草文
重弧文
軒瓦
手原遺跡
滋賀県栗東市
飛鳥時代
  
 
手原遺跡全体図
岡遺跡
滋賀県栗東市

 1050
 1051
嶋上郡衙(しまのかみぐんが) (嶋上郡衙跡(しまがみぐんがあと))
 所在地 大阪府高槻市清福寺町35

 淀川北岸の三島平野の中央を流れる芥川の右岸に広がる三島台地の北東部に立地しています。 井戸から 「上郡」 と書かれた土器の出土が嶋上
郡衙の発見の契機となりました。 その後の発掘調査によって、 郡衙に関連する建物 の主軸の方位は、西に傾く古期と正方位に近い新期の2時期あったとみられ、 山陽 道の北に新期の郡庁、 正倉、 厨家、 白鳳寺院が確認されています。 そのほか、関連 するとみられる多数の建物群も確認されています。

 古期の郡庁は明らかになっていませんが、 新期の郡庁は、正殿・脇殿等の主要建 物は未確認ながら、 大型の柱穴が確認されており、 東西約 55m、 南北約110mの 範囲を囲む回廊の一部とみられています。 郡庁の南には山陽道から石敷きの道路が 敷設され、 その両脇には道路と方位が揃う建物が確認されており、 郡衙に関連する 施設とみられています。

 郡庁の南西で確認された柱筋を揃えた総柱建物2棟は、 正倉とみられ、 周辺では 方位が概ね揃う総柱建物や側柱建物が確認されています。 また、 山陽道と並行する 溝が確認されており、 正倉を区画するものとみられています。 この溝の西辺部では 橋状の遺構が確認され、 土馬や銅銭がまとまって出土しています。

 郡庁の北で井戸を伴う建物群が確認され、 厨家とみられています。 また、 郡庁の西にある芥川廃寺(あくたがわはいじ)では白鳳から平安時代の軒瓦が出土しています。 伽藍は明らかになっていませんが、 回廊とみられる柱穴が確認されています。

 嶋上郡衙跡から山陽道を西へ約600m行くと郡家今城遺跡(ぐんげいましろいせき)があります。 計画性の ある建物群が確認され、 墨書土器、 帯飾りが出土していることから、 郡衙で働いて いた役人の居住地のひとつとみられています。

嶋上郡衙 嶋上郡衙跡 嶋上郡衙 嶋上郡衙跡 嶋上郡衙関連遺構配置図
嶋上郡衙跡 正倉
(南から)
芥川廃寺 回廊状遺構 (東から)
嶋上郡衙跡 6M.M(N)地区 NH5 建物(南方) 郡家今城遺跡 掘立柱建物 (北から)
 1053
玄蕃,上郡,吉
墨書土器
嶋上郡衙跡
郡家今城遺跡
今城塚古代歴史館
奈良時代
    鳥取部□六人部子□□
木簡
郡家今城遺跡
奈良時代
平瓶(形水入れ)
円面硯
□郡口
風字硯
 
均整唐草文
重弧文
重圈文,複弁蓮華文
軒瓦
芥川廃寺
今城塚古代歴史館
飛鳥~奈良時代
    萬年通寶,隆平永寶,和同開珎,神功開寶

銅銭
嶋上郡衙跡 高槻城下層遺跡
高槻市立今城塚古代歴史館
奈良~平安時代
 
巡方,丸鞆,蛇尾
帯飾り
郡家今城遺跡
大阪府高槻市
奈良~平安時代
 
 
 
 1310
 1311
武義郡衙(むぎぐんが) (弥勒寺官衙遺跡(みろくじかんがいせき))
 所在地 岐阜県関市

 長良川が山塊に阻まれ、 鋭角的に屈曲し、西へと流れを変える内側で、 池尻(いけじり)山との間に形成された河岸段丘上に立地しています。
 長良川沿いに東から、郡衙遺跡である弥勒寺官衙遺跡、 白鳳寺院の弥勒寺跡、祭祀遺跡の弥勒寺西遺跡、武義郡(むぎぐん)を治めたムゲツ氏の祖先の墓とされる池尻(いけじり)大塚があります。

 8世紀初頭に造営が開始された郡庁は、 同じ場所で建て替えが行われ、3時期の 変遷があります。
Ⅰ期は、脇殿が各2棟からなる 「H」 字型の配置、
Ⅱ期は、正殿 を中心にして左右対称に東西脇殿を配置した「品」 字型の配置となり、周囲は掘立 柱塀で囲まれ、南には八脚門があります。
Ⅲ期は塀がなくなり、 西脇殿が西へ大き く移動したとみられます。正殿は無廂から一面廂、二面廂へ、掘立柱建物(I・Ⅱ期)から礎石建物 (Ⅲ期) へと荘厳化されていきます。

 正倉は、郡庁の背後にある、 現況では1~1.5m 高い段丘面上に造営されていま す。 東北西の三方を溝で区画した東西 130m、南北 40mの範囲のうち、 北寄りで、東西に並ぶ総柱建物群が確認されました。 火災にあったとみられ、 多量の炭化米が出土しています。 正殿の背後に位置する建物は、掘立柱建物から基壇をもつ礎石建物へと建て替えられています。 この礎石建物は、 正倉のなかで最も大きく、「法倉(ほうそう)」 だとみられます。

 遺跡の東端では、 郡衙への出入り口となる門が確認され、 館・厨家は郡庁・正倉 と東の門の間にあったとみられています。
 正倉の西側に位置する弥勒寺跡は、 講堂の前面において、 塔を東、 金堂を西に配置した、いわゆる法起寺式の伽藍配置をとる白鳳寺院で、郡衙に先行して建立されたとみられています。 弥勒寺跡の西側の谷あいでは、 斎串(いぐし)形代(かたしろ)などが出土しており、祭祀を行っていたとみられます。

武義郡衙弥勒寺
官衙遺跡
位置図 弥勒寺官衙遺跡
郡庁(南上から)
弥勒寺官衙遺跡
郡衙関連遺構配置図
弥勒寺官衙遺跡 正殿 柱穴 調査状況 (北から) 弥勒寺官衙遺跡 正殿 柱穴 調査状況(東から)
弥勒寺官衙遺跡 正倉礎石建物
(法倉) (東から)
弥勒寺官衙遺跡 門跡(南西から) 弥勒寺官衙遺跡 門跡 (南西から)
弥勒寺跡 整備状況 (南東から)
 1313
弥勒寺官衙遺跡 遠景 (南東から)
円面硯
弥勒寺官衙遺跡
岐阜県関市
関市文化財保護センター
奈良時代
蓋,坏,捏鉢
須恵器
弥勒寺官衙遺跡
関市文化財保護センター
奈良時代
平瓶,高坏
線鋸歯文緣複弁蓮華文
面違鋸歯文縁複弁蓮華文
重弧文
軒瓦
弥勒寺跡
関市文化財保護センター
飛鳥時代
 1330
 1331今回紹介する遺跡
今回紹介する遺跡 関東・東北・東海
行方郡衙 (福島県)
泉官衙遺跡(福島県)
河内郡衙  (栃木県)
上神主·茂原官衙遺跡
 (栃木県宇都宮市)
新田郡衙 (群馬県)
上野国新田郡家跡
 (群馬県太田市)
佐位郡衙(群馬伊勢崎)
上野国佐位郡正倉跡
橘樹郡衙(神奈川県)
橘樹官衙遺跡(川崎市)
伊那郡衙(長野伊那市)
恒川官衙遺跡(長野県)
蒲原郡衙(静岡県)
羽廃寺跡(静岡市)
高座郡衙 (神奈川県)
下寺尾官衙遺跡(〃)
志太郡衙(静岡県)
関西・中部
武義郡衙(岐阜市)
弥勒寺官衙遺跡(〃)
栗太郡衙(滋賀県栗東)
岡遺跡・手原遺跡
朝明郡衙
久留倍官衙遺跡
嵨上郡衙
嵨上郡衙跡
河曲郡衙
狐壕遺跡
中四国 九州

御原郡衙
小郡官衙道跡群
下高橋言衙道跡
 1333
暗文土師器(あんもんはじき)

 暗文土師器は、畿内産土師器とも呼ばれ、当時の最高級品とされる金属製の食器を模倣して作られました。
飛鳥から奈良時代に、 都で流行していた土器のひとつです。

 ある程度乾燥した状態で、表面を道具で 磨くように、らせんや放射状の模様をいれています。
光の加減によって、かろうじて 見ることができる模様のため、 「暗文」 と呼 ばれています。

 地方の役人にとって、都へのあこがれから手に入れた土器とみられており、地方の役所や有力者の居住地で出土することが多い土器のひとつです。

暗文土師器(あんもんはじき) 暗文土師器
弥勒寺官衙遺跡

土馬
 土馬は、 馬の形をした土製品で、 (くら)手綱(たづな) などの馬具を表現した丁寧な作りのものから、 デフォルメされたものなど様々な形の ものがあります。

 国家が主導し、 神祇令(じんぎりょう)に規定された祭祀を律令祭祀といいますが、(けが)れなどを祓うために行われた祭祀に使用されていた道具 には、木製の形代や人面墨書土器、 金属製 の道具などのほか、 この土馬も含まれてい たとみられています。

 馬に穢れを乗せ、川に流して祓ったとみられ、 また、 雨乞いなどにも使用されていたとみられています。

土馬 土馬
土馬
岡遺跡
滋賀県栗東市
奈良時代

※考察 土馬
 最初に土馬と出会った時に、水に関係する祭祀に使われる呪術具との説明があり、なぜ馬が水に関係あるのだろうとずっと疑問でした。
「馬に穢れを乗せ、川に流して祓った」の言葉でやっと意味が解りました。いや、わかったつもりになっています。

 当時の運搬は、馬、牛、人、船でした。身近なもので、早いのは馬。つまり、現代の(スーパーカー)宅急便のようなものでした。牛と人は遅い。
当時の万能運搬者(トラック)が馬だった。身についた穢れや不運をこの万能高速運搬具に載せて消し去ってくれることを願ったのでしょう。

 しかし、視覚上サッと運んでくれる様子が見たい。そこで、物をサッと運んで 消し去るものは川の水。今とは違い、山には広葉樹が生い茂り、豊かに水を含んだ山岳地帯からは、滔々(とうとう)と、囂々(ごうごう)と河川に水を流し、様々なものをあっという間に押し流したのでしょう。

(私の生家近くの川は、昔は淵となり、夏も冬も水が枯れることはなかったそうだ。しかし、戦後、米軍の空襲で焼け野原になった国土再建のため、
建築資材として家を建てたり、薪や燃料としてなど、切り払われてから、川の水が減少し、夏には枯れるようになり、河童が住みそうな深い淵は、
ただの河原になってしまった。その後、この森林荒廃が復旧されることはなかった。これは全国的に同じようです。)

 馬は万能運搬者で、何でも運んでくれる素晴らしい生き物。そして川は激しい流れで何でも押し流してくれる。水洗(すいせん) だった。
まぁ、しかし、何でも流してくれる水路には、実際は都のゴミを流す装置だったので、桶に入れた糞尿も流し、その水で野菜も洗ったのかも。
この考えはやがて形骸化し、土馬祭祀の場所には水底に土馬がうず高く積もっており、かろうじて斎串などの木製品は流れ、あるいは止まったかも。

 この馬を水に流すことから、水に関する祭祀の主体として、水災封じに土馬が使われるようになり、水と土馬の奇妙な組み合わせが後世に伝わったのではないでしょうか。
 
 1350
正倉火災と炭化米

 8世紀後半以降、 税としての穀稲 (稲籾) を納めた正倉が火災にあい、焼失する事件が各地で起きた記録が残っています。
「神火」 と呼ばれた正倉の火災は、当初、神を冒涜した役人らに対する「神 の怒りの火」によるものと信じられ、 国司や郡司を交代させるなどの対応がとられていました。 しかし、 その後も各地で頻発したことから、「神火」 であること自体が疑われ、調査が行われた結果、 郡司の地位をめぐる争い税の横領を隠蔽するため郡司などが正倉に放火していたことが明らかとなりました。

 郡衙遺跡から出土する炭化米は、 正倉火災の証拠のひとつで、 火災の理由はともかく、 郡衙正倉の所在地の有力な手がかりとなります。
行方郡衙や新田郡衙など、以前から炭化米が採取されていた遺跡はいくつもあり、 発掘調査によって正倉であることが確認されています。


※考察 正倉と炭化米
 正倉の模型や図面を見ると、とても火事が起こりそう・飛び火しそうな場所ではないのに、必ず正倉跡からは炭化米が出る。
 私は、農民が圧政に対して蜂起し郡衙を襲撃し、正倉に火をつけたのではないかと思っていました。

 ところがそれが、郡司が自らの横領を隠すため、帳簿と備蓄量の差を暴露されないために火をつけていた。当時も厳しい監査があったのでしょう。
そして、それを隠すために、神様が火をつけたと、随分バチあたりな他責思考のデマを流布し定説となっていた。。よーやるよ。嘘つきめ!
 で、結局燃やしちまってなくなった正倉の建物と米は、また、農民の税で働かされて建て直しさせられ、もう一度、倍量の米を税に取られた
のでしょうか。

正倉火災と炭化米 正倉火災と炭化米 尾羽廃寺跡 炭化米出土状況 (南から)

黒い部分が炭化米が 集中している箇所
  狐塚遺跡 正倉
(北西から)
狐塚遺跡 正倉を区画する柵 (東から)
     
橘樹官衙遺跡正倉
(南西方)
藤枝市鄉土博物館提供
久留倍官衙遺跡 正倉(東方)
四日市市 提供
上神主・茂原官衙遺跡 正倉 (東から)
上三川町教育委員会
提供
恒川官衙遺跡 正倉礎石
飯田市教育委員会 提供
炭化米
尾羽廃寺跡
静岡県埋蔵文化財センター
奈良~平安時代
炭化米
弥勒寺官衙遺跡
奈良時代
 1370
 1371
行方(なめかた)郡衙 (泉官衙遺跡)
 所在地 福島県南相馬市

 阿武隈山地から太平洋に向かって派生した丘陵の南には、太平洋に向かって流れる新田川によって形成された沖積平野が広がっています。
郡衙は、 丘陵裾部に発達した 河岸段丘面に立地しています。 泉官衙遺跡は、礎石が残り、瓦や炭化米が採取されたことで古くから寺院跡として知られていましたが、 発掘調査によって郡衙であることが明らかとなり、 郡庁、 正倉、 館などが確認されました。

 Ⅰ期の郡庁の建物の主軸は、方位が東に振れ、正殿を中心に四周に長舎を配置した「口」の字型の配置をとり、塀によって殿舎を連結しています。 Ⅱ期になると、 建物 の主軸の方位を正方位に変え、建物配置はI期をほぼ踏襲しながら、正殿を四面廂にし、区画内を石敷きにしています。
 Ⅲ期は、同じ場所で区画を拡大して改修を行い、正殿は無廂になり、長大な後殿、南には八脚門を配置し、東西脇殿は左右対象ではなくなります。

 郡庁の西側で確認された総柱建物がI期の正倉とみられています。 Ⅱ期の正倉は、 郡庁から 150mほど西に離れた場所で造営され、 溝で囲まれた中に掘立柱や礎石の 総柱建物が確認されました。 『続日本紀』 の宝亀5 (774) 年 7月20日の条には、行方郡の正倉火災に関する記述があり、 実際に多量の炭化米が出土しています。

 遺跡の西端で官道の可能性がある道路跡、その東では掘立柱塀で区画した中に掘立柱建物や竪穴建物などの建物群、南に八脚門が確認され、 官道に関連して、宿泊施設である(たち)とみられています。 厨家施設は確認されていませんが、 館院(たちいん)の南に隣接する広畑遺跡から「(くりや)」と書かれた土器が出土しています。 また、郡庁の西隣で南北方向 の大溝と大型の掘立柱建物群が確認され、 南を流れる河川を利用した港として機能し ていたとみられています。

 寺院について、当初、 寺院跡とみられていた地区は、 正倉であることが明らかとな りました。 そこで、遺跡の中で、 瓦が出土している東の地区に寺院を想定しています。

行方郡衙・泉官衙遺跡 郡衙関連遺構配置図
 
写真・図面 南相馬市教育委員会 提供
         
郡庁北東部(南から) 郡庁北西部(南西から)
大溝 (南から)
正倉(北東から)
館院 (南から)
花葉文軒丸瓦
 1373
河内郡衙 (上神主(かみこうぬし)茂原(もばら)官衙遺跡)
 所在地 栃木県宇都宮市 河内郡上三川町

 田川西岸の台地の東端に位置し、 田川の旧河道によって東西約1km、南北約4km の島状に独立した台地の辺縁部に立地しています。 古くから寺院跡として知られて いましたが、 発掘調査によって郡衙であることが判明しました。 郡衙施設全体は東 西約250m、南北約400mの範囲の中で、 北・西・南は溝、 東は崖によって区画さ れ、その中央に郡庁、 南に正倉、 北に関連施設が確認されました。 また、 外郭施設 の南東隅と古墳の間を東山道が通っています。 柱穴などの重複から、 7世紀後葉か ら9世紀前半にかけて、4時期の変遷があったとみられています。

 郡庁の
Ⅰ期は、 一面廂付掘立柱建物の正殿と西に長大な脇殿を 「L」 字型に配置 しています。
Ⅱ期には、 正殿は四面廂にし、 西脇殿は同じ場所で建て替え、 東脇殿 を新築して、 「コ」の字型の配置をとります。
Ⅲ期には移転したとみられています。 正殿・両脇殿を囲む塀などの施設がないため、郡庁に伴う門はありません。

 正倉の
Ⅰ期は、 長大な建物を中心に、 その南から西にかけて建て、
Ⅱ期にはI期 の建物の間を埋めるように建てられ、 東や北側を含め、40棟近くになります。
Ⅲ期 には郡庁が移転したことで正倉別院となり、 外郭施設は南北規模を縮小し、 正倉の みを囲みます。 中心となる建物は、大規模で、格式の高い瓦葺礎石建物で、 「法倉(ほうそう)」 とみられています。 この建物に葺かれた瓦には人名が多数刻まれ、 瓦の製作を負担 した郡内の戸主の名前が記載されたとみられています。
Ⅳ期は、瓦葺礎石建物を掘 立柱建物に変え、 Ⅲ期の建物を維持していたとみられています。

 郡庁の西から北側では、 (もや)の半面だけに(ひさし)を有する、 特徴的な三面廂付建物や 長い煙道を有する長方形の竪穴建物などが確認され、 井戸もあることから、館・厨家とみられています。

 近隣にある西下谷田遺跡(7c-8c初頭)や多功遺跡でも、官衙的な建物群が確認されており、先行する西下谷田遺跡の官衙が上神主・茂原官衙遺跡に移転し、さらに多功遺跡(8c-10c)へと 移転したものとみられています。

河内郡衙
上神主・茂原官衙遺跡
郡衙関連遺構配置図 官衙Ⅰ期~Ⅲ期 官衙Ⅳa・Ⅳb期 軒瓦・刻書瓦

写真・図面 上三川町教育委員会 提供
郡庁 (北から)
大溝 (南から)
正倉SBOI (西から)
刻書瓦出土状況
 
 1375
新田(にった)郡衙 (上野国新田郡家跡(こうずけのくににった ぐうけ あと))
 所在地 群馬県太田市

 渡良瀬川によって形成された扇状地の扇端に立地し、東には金山八王子という独立丘陵があります。 旧地名の天良 (てんら)は「寺」 が転化したもので、礎石が残り、 炭化米が採取されたことから寺院跡とみられていましたが、 発掘調査によって郡衙 であることがわかり、日本最大級の規模の郡庁院が確認されました。台形状に囲む溝を外郭施設として、内部に郡庁、 正倉を配置しています。

 郡庁の
 Ⅰ段階は、掘立柱建物の正殿を中心に、 四方を長大な殿舎で囲み、掘立柱塀 で連結する「ロ」の字型の配置をとります。 正殿と東脇殿以外の殿舎は主軸の方位が異なるため、 郡庁院はいびつな形となっています。北西隅には総柱建物が建ち、建物以外の敷地には石を敷き、 正殿の南面には縁石を有する通路が設けられました。
 Ⅱ段階の正殿は、同じ場所で礎石建物へと建て替え、掘立柱建物の前殿、 西脇殿の南に殿舎を加えるも、 南の殿舎はなくなり 「コ」の字型の配置となります。
 Ⅲ段階には三方の殿舎もなくなります。 正殿は弘仁9(818)年の地震で被害を受けたとみられ、
 Ⅳ段階において、 復旧したとみられています。

 正倉は
 Ⅰ段階に政庁の北側で造営が開始され、 区画溝の北辺に沿って建ち並びます。
 Ⅱ段階には郡庁の北で南北に列をなして建てられ、 掘立柱建物が礎石建物へと建て替え始められます。
 Ⅲ段階は、北から西にかけて新たに建てられた礎石建物を含めて、南北の列をなし、
 Ⅳ段階はⅢ段階の計画を踏襲し、建て替えが行われています。

 「上野国交替実録帳(こうずけのくにこうたいじつろくちょう)」の新田郡の郡庁に関する記述は、 Ⅰ段階の長舎によって「ロ」字型に配置された郡庁の調査成果と合致し、 正倉の記述は、Ⅲ・Ⅳ段階の正倉とみら れています。館については、現時点では明らかになったとはいえませんが、 郡庁の南 西で確認したⅠ段階の建物群が初期の館である可能性が指摘されています。

 郡衙から北東約300mのところに、群馬県内で最も古い寺井廃寺があります。 白鳳から奈良時代の軒瓦が採取され、長期にわたって維持された寺院とみられます。

新田郡衙 上野国新田郡家跡
郡衙関連遺構配置図 Ⅰ期→Ⅱ期
Ⅲ期→Ⅳ期

写真・図面 太田市教育委員会 提供
郡庁(上空から)
正倉礎石建物(南から)
郡庁 石敷き遺構
(南から)
寺井廃寺出土軒丸瓦
 1380
 1381
佐位(さい)郡衙 (上野国(こうずけのくに)佐位郡正倉跡)
 所在地 群馬県伊勢崎市

 渡良瀬川によって形成された扇状地の扇端の西に位置し、細長い侵食谷によって 発達した舌状の微高地上に立地しています。 正倉が確認されたことで、 史跡に指定されましたが、近年、 郡庁の正殿とみられる掘立柱建物が確認されています。

 8世紀中頃から後半に掘削されたとみられる正倉東辺の溝の東側で確認された、 遺跡内で最大級の掘立柱建物が正殿とみられています。 また、 この建物の南西、 正倉の東辺溝の西側で確認された掘立柱列は、 西脇殿または掘立柱塀とみられています。 推定郡庁院の南東の郡衙の出入口は旗竿を立て荘厳化していたとみられます。

 正倉は、遺構の重複関係から、7世紀後半から 10世紀にかけて5時期の変遷が考えられています。
 Ⅰ期は、 工房とみられる大型の竪穴建物群から始まり、掘立柱 の側柱建物、 総柱建物で構成される正倉に建て替えられ、
      広範囲に2~3棟程度で まとまって確認されていますが、 正倉を区画する施設はまだありません。
 Ⅱa期に 増改築が行われ、 東西に倉庫を直列に並べた様子が伺え始めます。
 Ⅱb期には郡衙 正倉では初めての発見となる平面形が八角形になる掘立柱の総柱建物のほか、 大型 の礎石建物が新たに建てられます。
 Ⅲ期には大型の礎石建物を中心に東西約250m、南北約350mの範囲で、 幅3~5mの大溝によって囲まれた台形状の正倉院が成立し、
     区画内に正倉が集約されていきます。
 Ⅳ期には礎石化が進み、 八角形の建 物も礎石建物となります。 注目されるのは、「上野国交替実録帳」 の記載との整合性 で、「八面甲倉」は
   、 平面形が八角形になる建物、 「法土倉」 は中央部の大型礎石建物、 「法板倉」 は南東の大型礎石建物にあたるとみられていますが、
     すべてが合致するわけではないようです。

  ※法倉 ※土倉 ※法土倉

 正倉院から850mほど北に7世紀後半に創建された上植木(かみうえき)廃寺があります。 伽藍 は中門 金堂・講堂が一直線上に並(四天王寺式or法隆寺式)び、 中門から続く回廊は講堂に取り付き、 塔は 回廊内の金堂の南西に位置します。 長期にわたって維持されていたとみられます。

佐位郡衙
(上野国佐位郡正倉跡)
佐位郡衙
(上野国佐位郡正倉跡)
郡衙関連遺構配置図

写真・図面 伊勢崎市教育委員会 提供
正倉八角甲倉 (北から)
大型掘立柱建物 正殿? (北東から)
正倉礎石建物(東から)
八角甲倉 復元模型
 1382
橘樹(たちばな)郡衙 (橘樹官衙遺跡群)
 所在地 神奈川県川崎市

 多摩丘陵の東部に広がる下末吉台地の北東端部に位置し、 小河川の侵食によって形成された谷が入り込み、東西に舌状に延びる台地上の平坦面に立地していま す。東西約600mの範囲に東から正倉、推定郡庁、厨家、館、白鳳寺院が確認さ れています。

 郡庁は未確認ですが、 正倉の南西で、 平行する東西溝と柱穴列が確認されてお り、郡庁の南と北を区画する施設とみられています。 区画の南北の規模は約70m と推測され、郡庁とみても妥当な規模です。

 正倉は、7世紀第3四半期から 10世紀初頭にかけて5時期の変遷が考えられ ています。
Ⅰ期は正倉に先行する建物群で、
Ⅱ期になってから正倉が造営され始 めます。 この時期の建物は方位を西に大きく傾けています。
Ⅲ期になると、 正倉の 造営方位は正方位に揃い、東西約 213m、南北約140mの範囲において、 幅2m 程度の溝で地形に合わせて北に突出する形の
     区画を設けます。
     区画の北部や東部 では正倉が整然と並び、 西部では法倉とみられる大型の総柱建物、 中央付近では 大型の側柱建物が建ちます。
     中央は空閑地になっていたとみられます。
Ⅳ期は、 Ⅲ期の正倉が維持され、
Ⅴ期の段階で廃絶していったとみられています。 現時点で は、 正倉の礎石化は確認されていません。

 現在まで法燈(ほうとう)を伝える影向寺(ようごうじ)が西端に位置し、 現在の本堂の下で白鳳期の金堂 が確認され、塔の建立は遅れることがわかっています。 伽藍の全容は明らかとな っていませんが、 白鳳から平安時代にかけて維持されていたとみられます。 出土 した文字瓦からは、建立時期や郡域を超えた地域のつながりがみてとれます。 また、寺院に先行して、 Ⅱ期の正倉と同様に方位を西に大きく傾け、 「L」 字状に配 置した掘立柱建物の長舎2棟が確認されており、 「評」 段階の政庁や有力者の居宅 の可能性が指摘されています。

橘樹郡衙
橘樹官衙遺跡群
郡衙関連遺構配置図
 
写真・図面 川崎市教育委員会 提供
         
郡庁区画溝か (南から) Ⅱ期正倉 (北西から) Ⅱ期正倉 (北西から)
影向寺出土軒瓦
「无射志国荏原評」
刻書瓦
塔跡掘入地業
 1383
高座郡衙(たかくらぐんが) (下寺尾官衙遺跡(しもてらお かんが いせき))
 所在地 神奈川県茅ヶ崎市

 相模野台地が西に向かって舌状に延びた先端周辺に立地し、北を小出川、 南を駒寄川が流れています。 台地上では外郭施設とみられる溝によって区画された中に、 郡庁、 正倉、館・厨家が確認され、 郡庁の南西の低地部で下寺尾廃寺、 河川近くでは、津や祭祀の遺構も確認されています。
7世紀末から8世紀中葉の前期と、8世 紀中葉から9世紀前半の後期の2時期の変遷が考えられています。

 前期郡庁は、四面廂付掘立柱建物の正殿を中心に、 北側に後殿、 脇殿は正殿よりも北側に配置し、 東脇殿と後殿の北辺を揃えています。
西脇殿は東脇殿とは異なる 規模で東西非対称となるものの、 殿舎で周囲を区画しており、少なくとも「コ」の 字型の配置を取っていたとみられます。

 後期郡庁は、 正殿は同じ場所で、 後殿・ 東脇殿は掘立柱塀に建て替えが行われました。 北西では掘立柱塀と主軸が同じとなる溝状の遺構が確認されており、東西で異なる区画施設だったとみられています。

 前期の正倉は、郡庁後殿から北へ約100mの台地の北縁部に造営されます。 掘立柱の総柱建物4棟が柱筋を揃え、等間隔で東西に並び、西から東へ順に建てられたとみられています。 これらの南には、 とみられる長大な側柱建物が建ちます。 これらの正倉は竪穴建物に壊されており、8世紀の第2四半期には機能を失ったとみられています。 外郭施設の東側で確認した、 南北に並ぶ礎石建物の痕跡から、 後期の正倉が移転するとともに礎石化したとみられています。

 下寺尾廃寺は、伽藍の北東の礎石建物が金堂、西の大型の掘立柱建物が 講堂とみられており、塔は確認されていません。 下寺尾廃寺から西へ約200m のところで、川津の船着場として整備されたとみられる遺構が確認されてい す。 また、 郡衙周辺の旧河道から水辺の祭祀を示す痕跡が確認されており、 特に西方では律令的な祭祀、 南方では仏教的な祭祀に関連する遺物が多数出土しています。

高座郡衙 下寺尾官衙遺跡 郡衙関連遺構配置図 郡庁 (北東から) 正倉 (東から)
下尾寺廃寺遺構配置図
北B遺跡 祭祀遺物出土状況 (西から) 下寺尾廃寺出土軒丸瓦
相模国分寺再建期の軒丸瓦と同范

 1384
伊那郡衙(いなぐんが)  (恒川官衙遺跡)
 所在地 長野県飯田市

 天竜川の氾濫原に面した低位段丘の最上段に郡衙は立地し、遺跡の東西は段丘崖、北は旧河道とみられる窪地、南は湿地帯によって、東西約800m、 南北約700 mの範囲が区画されています。 郡庁は未確認ですが、 正倉、 厨家または館とみられる施設、 祭祀場が確認されています。

 正倉のⅠ期は7世紀後半、 Ⅱ期は8世紀前半、 Ⅲ期は8世紀後半から 10世紀の 3期の変遷が考えられています。

造営方位は地形に影響されていたとみられ、大き く西に振っています。
Ⅰ期から正倉の周囲を溝によって区画し、 南を直進する溝は、 南西隅で古墳を避けて北へ向きを変え、 およそ東西 220m、南北 160mの範囲を 区画していたとみられています。

 区画内の中央付近や南東付近で平面が正方形になる側柱建物が2棟ずつ、 東西に直列します。 南辺に沿って、 側柱建物2棟が東西に 直列して並び、平面形が正方形に近い側柱建物へと建て替えられていきます。 また、 北に離れた位置に1棟確認され、 その間は空閑地となっています。
Ⅱ期になると、 区画南辺からやや離れて東西に掘立柱の総柱建物7棟が計画的に並んでいます。 そのほか、北東部で確認されている建物は側柱建物とみられています。
Ⅲ期になると、 Ⅱ期の建物配置を踏襲して礎石建物への建て替えが行われます。 礎石建物は7棟確 認されていますが、 そのほかの掘立柱建物も痕跡が残らなかっただけで礎石化されていたとみられています。 区画溝などから重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)が出土していますが、種類 や出土割合から総瓦葺きの正倉は復元できず、瓦葺きの建物の実態は不明です。 正倉はたびたび火災にあい、 正倉周辺や区画溝などから出土した炭化した穀類や木材を科学分析した結果、4回ほど火災にあったとみられています。

 正倉院の北東部で確認された掘立柱建物群と竪穴建物群が厨家(くりや)または(たち)とみられています。 また、南には 「恒川清水」 と呼ばれる湧水が存在し、 周辺の湿地から形代、斎串などが出土しており、 祭祀が行われていたとみられます。

伊那郡衙 恒川官衙遺跡 伊那郡衙 恒川官衙遺跡 郡衙関連遺構配置図

写真・図面 飯田市教育委員会 提供
郡庁(北東から)
館・厨家推定施設 掘立柱建物群 (北から)
正倉 (東から)
正倉出土瓦
 1385
御原郡衙(みはらぐんが)  (小郡(おごおり)官衙遺跡群下高橋(しもたかはし)官衙遺跡)
 所在地 福岡県小郡市・三井郡大刀洗町

 御原郡衙は、上岩田遺跡小郡官衙遺跡下高橋官衙遺跡の順に郡内を移転または機能を分散したとみられ、これらを結ぶ官道も確認されています。
 7世紀第3四半期上岩田遺跡では寺と役所 (評衙) が一体的に作られていたとみられていますが、 天武7(678)年の筑紫国地震で金堂が倒壊すると、 寺は移転し、長舎や 四面廂建物を「ロ」字のような配置に建て替えます。
 7世紀末から8世紀初頭に、 官衙機能は小郡官衙遺跡に移転したとみられ、 造営方位を地形に合わせて大きく東に振り、 南西に開く 「コ」 字型または、 「ロ」 字型の配置を取っていたとみられます。

 8世紀中頃以降に移転したとみられる下高橋官衙遺跡では東西 175m、 南北 170mの範囲を、 大小二重の溝で囲った区画内に、 多数の大型の掘立柱建物を確認しています。 郡庁は未確認ですが、郡庁や館 厨家などを一院にまとめたとみられています。


 上岩田遺跡では正倉は確認されず、 小郡官衙遺跡で郡庁に先行する総柱建物3棟が確 認されています。 郡庁が小郡官衙遺跡に移転すると、 正倉は郡庁の北側に造営され、 正倉 は東西2列に並びます。 北東を溝、 南東・南西はやや貧弱な掘立柱塀で囲んだとみられ ます。

 8世紀中頃以降下高橋官衙遺跡の郡庁・曹司(ぞうし)院とされる区画の西側に移転し、 溝 で囲まれた東西 150m、南北170mの区画内で東西辺に沿って掘立柱の総柱建物が等間隔で建てられます。 東列の南には大型の側柱建物が建ち、西列の南には瓦葺建物が想 定されています。
南列は総柱建物と側柱建物が並びます。 建て替えによって、 西列北端の 建物は礎石化したとみられます。

 上岩田遺跡において、 金堂とみられる基壇が確認されましたが、 筑紫国地震によって 倒壊し、北西約500mのところに瓦を再利用して井上廃寺が建立されたとみられます。

 上岩田遺跡は、 「初期の役所に仏堂を取り込み、 信仰を利用して地方の統治を進めたことがわかる貴重な遺跡」 とみられています。
 小郡官衙遺跡への移転は、律令国家の権威を建 物によって示すため、より広い敷地が必要になったとみられています。


御原郡衙
小郡官衙遺跡群
下高橋官衙遺跡)
上岩田遺跡 小郡官衙遺跡 下高橋官衙遺跡
8世紀中頃~
上岩田遺跡 Ga 区 (東上空から) 上岩田遺跡 基壇地割れ検出状況 (北から)
小郡官衙遺跡
(南上空から)
下高橋官衙遺跡 正倉 (南から)
 
 
 1390
 1391
(たち)厨家(くりや)

 館は、国内を巡行する国司や公的な使者等の宿泊施設、 または郡司(ぐんじ)の官舎
 厨家は、 郡衙で働く人の給食、国司や使者の接待、 儀式・饗宴等の食事を準備する施設です。

いずれも複数の建物や竈屋(かまどや) (調理するための施設) とみられる竪穴建物で構成されていたとみられていますが、発掘調査では、 郡庁のような画一的な建物配置は確認できていません。

 行方(なめかた)郡衙や栗太(くりもと)郡衙では、確認された建物の内容と、官道・郡庁に隣接するなどの周辺の状況を合わせて、館の可能性が指摘されています。

 また、 志太(しだ)郡衙や高座(たかくら)郡衙では、「厨」と書かれた墨書土器などの出土遺物から厨家が推定されています。


館・厨家 行方郡衙
(泉官衙遺跡) 館院
栗太郡衙(岡遺跡)
主要遺構配置図
志太郡衙出土 墨書土器
 1392
正倉(しょうそう)

 主に税として納められた穎穀(えいこく) (稲穂の束や稲籾(いなもみ)) など を収蔵した施設で、 「倉」 と 「屋」 があります。
「倉」 は 高床倉庫とみられる総柱建物、 「屋」は土間または平地床とみられる側柱建物で、 穎穀の湿気防止に適した高床倉庫の「倉」 が多数を占めていました。

 正倉の中でも大規模で、瓦葺礎石建物などに荘厳化された倉は、飢饉の際に民衆を救済するための穀稲(こくとう)を収蔵していた「法倉(ほうそう)」 にあたるとみられています。

 倉庫令(そうこりょう)の規定には
 「凡倉皆於高燥処置之 側開池渠 去倉五十丈內 不得置館舎」

  (倉庫は、高く、乾燥した場所に設置し、近くに池や溝を設け、倉庫から五十丈内には官舎は置かない)

とあり、正倉の周囲には溝が掘られている事例が多くありました。
 また、 河曲(かわわ)郡衙や行方(なめかた)郡衙は郡庁と正倉が約150m(五十丈) 離れていることが確認されています。

正倉
橘樹官衙遺跡群 正倉 区画溝

上野国佐井郡正倉跡 区画溝
 1393
郡庁(ぐんちょう)

 郡内を治めるための政務のほか、 儀式や饗宴(きょうえん)などが行われていたとみられる政庁(せいちょう)のことで、 「郡衙の政庁」を省略して 「郡庁」 と呼んでいます。

 郡庁の中心となる建物を正殿(せいでん)、 その両脇に位置する建物を脇殿(わきでん)、 後方に位置する建物を後殿(こうでん)、 前方に位置する建物を前殿(ぜんでん)と呼びます。

 これらの建物で囲まれた広場 (前庭(ぜんてい)) で儀式や饗宴 などが行われていたとみられています。 建物群を囲む塀 には、門が附属します。

 郡庁の建物配置は、 左右対称の建物配置を意識していますが、画一ではありません。 山中氏は、 建物の配置を文字に見立てて 「口」の字型、 「コ」の字型、 「品」の字 文字に見立てて「ロ」の字型、 「コ」の字型、「品」の字型と呼び、 左右対称に配置した 「ロ」、 「コ」、「品」の字 を中心にいずれかの建物を欠く変形型、 いずれにも当て はまらない型の7型式に分類しています。

郡庁
主な建物配置の模式図
「口」の字型
「コ」の字型
「品」の字型
 1394
郡衙とは?

 現在の市役所に相当する古代の役所のことで、郡の行政機構や施設を示す考古学の学術用語です。
 この用語は、地方官衙研究の第一人者である山中敏史(やまなかとしじ)氏が 『古代地方官衙遺跡の研究』 において提唱されました。

 日本は、飛鳥時代以降、隋・唐から政治の仕組みや法律を学び、 天皇を中心とする国家の成立を目指しました。
大宝元 (701) 年、「大宝律令」 が制定され、 和銅3(710) 年には奈良盆地に都・平城京がつくられるなど、 天皇中心の中央集権国家が完成しました。

 この政治体制 における地方支配の仕組みとして、地方は現在の県や市 町村にあたるような国・郡里 (郷)に分けられ、 国・郡にはそれぞれの地域を治める役所が置かれました。

 郡を治めるための役所である「郡衙」 の主な施設には、
 郡庁(ぐんちょう)正倉(しょうそう)(たち)厨家(くりや)などがあり、 そのほかの実務を行った施設は曹司(ぞうし)と呼んでいます。
 これらを構成する施設は、部署ごとにまとまり、 塀や溝で区画して一院を形成することもありました。

※今回の展示では、郡の役所を示す用語として「郡衙」 を使用していますが、 文献史学では 「郡家 (ぐうけ)」 の用語が使用されています。 史跡の名称には 「郡衙」、「郡家」 の両方が同じ意味で使用されています。 また、 大宝令以前 は 「郡」 は 「評」 と表記されますが、記載が煩雑となるのを避けるため、 「評」 の意味を含めて、 「郡」 としている場合がありますので、ご了承ください。

郡衙とは
 
 
 

 1410
墨書土器と木簡

 文字が書かれた遺物は、役所や寺院など限られた遺跡から出土することから、遺跡の性格を考える上で、その内容は重要なポイントとなっています。

 墨で文字が書かれた土器を墨書土器と呼び、 地方の役所跡からは、役職名や人名、 施設名などが書かれたものが出土しています。

 志太(しだ)郡衙跡では、郡役人の役職名である「大領」・「少領」・「主帳」 と書かれた土器や、郡名 + 施設名の 「志太(くりや)」 「志厨」 と書かれた土器など、 約 270点が出土しました。 その中には 「(まし)厨」と書かれ たものが含まれています。 「益」は東に隣接する益頭郡(ましずぐん)を指すことから、益頭郡の厨家(くりや)所有の土器が志太(しだ)郡衙に移動したことになり、 宴会等で食器が不足した際に、 借りた可能性が考えられています。

 益頭郡衙(ましずぐんが)に比定されている(こおり)遺跡でも 「益厨」の墨書土器とともに 安倍郡を指す「安厨」 の墨書土器が出土しており、これらのことか ら郡衙間で交流していた当時の様子を伺うことができます。

 木簡は、広くは墨で文字が書かれた木製品のことをいいますが、 特に短冊状の板に文字を書かれたものを指し、役所の業務にかかわる文書や都へ納める税に付けた荷札などの木簡が各地の遺跡から出土しています。

 武義(むぎ)郡衙や志太郡衙では呼び出し状とみられる木簡、行方郡衙で
は、 正倉の区画溝から租税として納められた穀に関連するとみられ る木簡が出土しています。




墨書土器と木簡 墨書土器と木簡 主帳
益厨
藤枝市鄉土博物館
 1430
 1431
墨書土器
志太郡衙跡
藤枝市郷土博物館
奈良時代
大領
志大領
志太厨 志大領
志厨
志太厨
志太○
志太少領
志太厨
志厨
志大
志太○
志太少領
 1433
安厨,益厨
墨書土器
郡遺跡
静岡県藤枝市
藤枝市鄉土博物館
奈良時代
習書
墨書土器
久留倍官衙遺跡
三重県四日市市
四日市市
奈良時代
 1450
 1451
木簡
弥勒寺西遺跡
関市文化財保護センター
奈良時代
 1453
塔,大寺,廣万呂,厨

墨書土器
弥勒寺官衙遺跡
弥勒寺西遺跡
関市文化財保護センター
奈良~平安時代
塔,大寺,越 刻書土器
手原遺跡
滋賀県栗東市
栗東市教育委員会
奈良時代
 1455手塚遺跡
連,山
墨書土器
手原遺跡
滋賀県栗東市
栗東市教育委員会
奈良時代
越,□麻一
連,山
越,□麻一
越,□麻一,山
 1460

 1461
廬原郡衙(いはらぐんが) (尾羽廃寺跡(おばねはいじ あと))
 所在地 静岡県静岡市

 庵原山地南端の丘陵裾部に沿って流れる小河川による沖積作用によって形成された微高地に立地しています。 瓦が出土することが古くから知られてきた 尾羽廃寺跡では、郡庁や館・厨家は未発見ですが、正倉とみられる礎石建物や掘立柱建物群に、 白鳳寺 院が隣接して建立されていることから、 廬原郡衙とみられています。

 東西方向の大溝の北側では掘立柱建物3棟、 南側では礎石建物 1棟、 掘立柱建物2棟が確認されています。
正倉とみられる礎石建物の基壇は、ほぼ正方形で、 20cm程度残存していますが、 基壇外装はなされていません。
丁寧な掘込地業(ほりこみじぎょう)がなされていますが、礎石の直下での沈下が確認されています。 基壇の直上には、 承和5 (838) 年の伊豆諸島神津島の噴火による火山灰が堆積していたことから、これ以前に建てられたとみられています。 その後、 10世紀前半に火災によって倒壊したとみられています。

 大溝からは8世紀前半から10世紀前半の土器や瓦、 木製品が出土しています。 出土した木簡には人名が書かれており、 郡衙における政務に関わるも のとみられています。

 尾羽廃寺跡の伽藍は、 金堂・講堂が一直線に並んでいます。 金堂の南で確認された掘込地業の痕跡は、 門とみられています。 金堂の南西で塔心礎(とうしんそ)が出土し、 金堂の東側で石製露盤(せきせいろばん)が採取されています。
西山田川 (旧尾羽川) を境に西に寺院、東に正倉と分かれます。 東側では、廂付の可能性が指摘されている大型の建物が確認されており、
郡庁もまた東側に造営されていた可能性が高く、 今後の調査の進展が期待されます。

廬原郡衙 尾羽廃寺跡
尾羽廃寺跡
郡衙関連遺構配置図
      尾羽廃寺跡 大溝
(東から) 
尾羽廃寺跡 正倉 掘込地業の沈下 (北西から)   
尾羽廃寺跡 大溝 木簡出土状況(東から) 尾羽廃寺跡 金堂基壇東縁 (西から)
 1463
重弧文
軒瓦
尾羽廃寺跡
静岡県静岡市
静岡市埋蔵文化財センター
飛鳥時代
線鋸歯文縁複弁蓮華文(せんきょしもんふくべんれんげもん)

須恵器
尾羽廃寺跡
静岡県静岡市
静岡県埋蔵文化財センター
奈良時代


 1470
 1471
朝明郡衙(あさけ ぐんが)  (久留倍官衙遺跡(くるべ かんがいせき))
 所在地 三重県四日市市

 朝明川と海蔵川に挟まれた丘陵の北東辺縁 部に立地し、 丘陵頂部の平坦面で郡庁、 斜面

で正倉を確認し、 裾部の建物群は館や厨家、曹司(ぞうし)とみられています。 近接して造営された白鳳寺院はなく、 久留倍官衙遺跡から北東へ 4.4km離れたところに縄生廃寺跡(なお はいじあと)があります。 大きく3時期 の変遷が考えられており、時期によって施設の性格が全く異なっています。

 Ⅰ期は7世紀末から8世紀前半代の郡庁で、 正殿と脇殿の西辺を揃えた 「コ」の字型配置をとり、 東を正面としています。 掘立柱塀によって、 正殿・ 脇殿・八脚門を連結しています。

 Ⅱ期は8世紀前半代から後半代で、 丘陵頂部の平坦面において長大な掘立 柱建物が確認されています。 この長大な建物については、 土間または低床の 収納施設の「屋」 とみる説、 また、 聖武天皇の東国行幸に関わる頓宮関連施 設とみる説があります。
とんぐう
 Ⅲ期は8世紀後半代以降の正倉で、 溝で囲まれた東西 150m、南北99m の範囲で確認された 11 棟の総柱建物、 2棟の側柱建物が確認されました。 最大2回の建て替えが行われ、1回目の改修時に、区画の東西幅は69mと 狭められています。


 丘陵裾部の計画的に建てられた掘立柱建物群は、周辺に井戸があることから館・厨家とみられていますが、 施設の性格を裏付ける遺物はありません。 官衙遺跡は、その性格から同じ場所で長期にわたって維持されていくのが 通例ですが、 久留倍官衙遺跡の郡衙施設は3時期の変遷の中で、 その都度、 性格が変化しています。 その理由や未確認のⅠ期の正倉院、Ⅱ・Ⅲ期の郡庁の所在が今後、 明らかになることが期待されています。

朝明郡衙 
久留倍官衙遺跡
朝明郡衙 
久留倍官衙遺跡
位置図
久留倍官衙遺跡
郡衙関連遺構配置図
           
久留倍官衙遺跡 遠景(南西から) 久留倍官衙遺跡 全景(東上空から)
久留倍官衙遺跡 郡庁 (北西から)
久留倍官衙遺跡 郡庁正殿 (西から)
久留倍官衙遺跡 Ⅱ期 大型掘立柱建物
(北東から)
久留倍官衙遺跡 館・厨家 (南から)
 1473
蓋,坏
須恵器
久留倍官衙遺跡
三重県四日市市
四日市市
飛鳥~奈良時代
製塩土器
久留倍官衙遺跡
三重県四日市市
四日市市
奈良時代
転用硯,円面硯

久留倍官衙遺跡
三重県四日市市
四日市市
奈良時代
 1480
郡遺跡 総柱建物
(南から)
郡遺跡 F地区調査区全景 (北から) 狐塚遺跡郡庁 正殿・西北脇殿 (上空から) 狐塚遺跡 郡庁の現況 (東上空から)
  狐塚遺跡郡庁 東南脇殿 (南東から)
 
狐塚遺跡 正倉、館・厨家? の現況
(東上空から) 
狐塚遺跡郡庁 前殿
(西から)
 
   
上野国新田郡家跡 正殿 堀込地業断面
 
 
 


 2000常設展

常設展入口
 2001考古プロムナード
遺跡はなぜ地下に埋もれているのか

遺跡はなぜ地下に埋もれているのか
わが国では過去の人間が使った物 (遺物) や生活の痕跡 (遺構)のほとんどは地下に眠っている。このことを不思議に思われる人も多いだろう。 図のように人間のさまざまななりわいと自然の力のはたらきが複雑に重なりあって、過去の痕跡は土中に姿を消し遺跡はつくられてゆくのである。 土中にパックされることで遺構や遺物は数千年という時間保存されることになるが、残されたものが全てではないことも常に心に留めておきたい。
保存するため、捨てるためなど様々な理由で人は穴を掘る。 また、高温 多湿の風土、かつ資材の多くが植物質であるわが国の建物は地上部分 の構造物は失われやすく、地中に掘られた穴が建築物の唯一の手がかり として残されることがおおい。
※埋納
※埋葬
※ゴミ捨て穴、貯蔵穴
※溝、土壌、柱穴、竪穴住居
人為的に掘られた穴や溝を放置しておけば、 数ヶ月もたてば土に埋まり、 草に覆われてしまう。
土壌の形成と運搬という自然の働きはダイナミックである。
※腐葉の堆積と微生物による分解
※ミミズやモグラなどの生物による土の運搬
※霜柱や乾燥のひび割れによる表土の風化
※雨水・風による土砂の運搬、穴の埋没
P
自然災害は、 その瞬間の人々の暮らしを一気に土中にパックして残す。
当時の人々の嘆きとはうらはらに、 考古学者にとってかけがえのない貴重な遺跡となる。
※火山噴火
※洪水
※土石流
台地の辺縁など堆積より土壌の流失が速くすすむと ころでは、逆に地下の遺跡が序々に露出してしまう。
そうなると上部は耕作などによって攪乱・破壊され てしまい、結局遺構は土中部分のみが残ることになる。
自然地形ではほとんど平坦面はありえない、 我々が 目にする平坦な地形は永い年月にわたる人の営みに よって維持されている。 その結果、 旧地表は地下に 埋もれることになる。
※水田・畑の開墾・客土
※低地の埋め立て、 造成
※災害跡地の整地

なぜ発掘調査をするのか
学術調査...・・考古学研究上の疑問点を解決するため、 または遺跡の保護・整備のために必要なデータを得るために行う調査。
緊急調査・・・ 道路や建物の建設によってやむを得ず壊されてしまう遺跡を将来のための図や写真などの記録として残すために行う調査。

発掘調査の流れ
事前の準備
➀資料調査 :過去の研究や記録にもとづき調査の計画をたてる
②届出・通知:文化庁長官への発掘の届出通知が必要
③区域設定 :記録や遺物の取り上げに必要な地区割りを決める

屋外の作業
④表土除去: 耕作などで攪乱された表土は重 機で取りのぞく
⑤遺構検出: 序々に掘り下げ、 過去に掘られ た穴 (遺構)の輪郭を探す
⑥遺構の掘り下げ:遺構の埋土を取りのぞくと土 器等の遺物が姿をあらわす
⑦記録:  遺物出土の状況や遺構の埋もれ方を図面や写真で記録する
⑧写真撮影
⑨取り上げ:遺物や科学分析用の試料を出土 状況などを記録して取り上げる
⑩航空写真測量:遺跡全体の写真撮影を 行い平面図を作成する
⑪成果公表  :新聞発表や現地説明会を開催 して成果を公表する

屋内の作業
⑫洗浄:出土遺物の土をブラシや筆で丁 寧に洗い落とす
⑬保存処理:錆を落としたり、樹脂を含浸 させて補強する
⑭注記:遺物の一点一点に遺跡名、 出土遺構などを記入する
⑮接合・復元:破片をつなぎ合わせ、不足部分 は石膏や樹脂で補う
⑯実測・写真撮影:遺物は写真と実測図面で記録に 残す
⑰科学分析 :採取した土・骨・炭などの資料は 専門家に依頼して分析する
⑱報告書作成:調査や分析の成果を考察ととも に報告書としてまとめ公刊する
伊勢国分寺・府
「(株)古環境研究所提供」

考古プロムナード
常設展示室の案内
※考古プロムナードの右手壁に発掘調査の様子を描いた立派な絵がありましたが、未撮影。
※考古プロムナード左手に旧石器から弥生時代までの展示が、裏と表にあり、撮影困難でした。
※考古ギャラリーには大量の弥生~江戸時代の土器が展示されています。
※「伊勢国分寺を造る」は小鍛冶の展示。
※考古ステージには伊勢国分寺模型等の展示。
※考古ラボでは伊勢国分寺の瓦が展示されています。
 


 2100 旧石器時代

 2110
旧石器時代
最終氷期の最寒冷期、干上がった伊勢湾を大河が流れる。
大陸の一部となった日本列島をナウマンゾウが、オオツノジカが駆け抜けた。
小さなナイフ形石器は、はるかいにしえの狩人の落としものだ。
 万年前
13



2.1-2.5












最終氷期最盛期

ナイフ形石器出現
岩宿遺跡(群馬県)
姶良丹沢火山灰(AT)降下
最終氷期最寒冷期
翠鳥園遺跡(大阪府)
出張遺跡(大台町)
宮沢遺跡(宮城県)




細石器出現
矢出川遺跡(長野県)
カリコ遺跡(玉越町)
白滝服部台遺跡(北海道)
鈴鹿の遺跡




寺谷遺跡
山越知南遺跡
祓山遺跡
西ノ岡A遺跡
寺山遺跡
上高塚遺跡
大新田遺跡
山脇遺跡
乙部遺跡




旧石器時代 旧石器時代

 ナイフ形石器 旧石器時代
ナイフ形石器          
今村A遺跡 稲生塩屋
チャート
北野遺跡 稲生町
チャート
山脇遺跡 稻生町
チャート
池ノ下遺跡 稲生町
チャート
祓山遺跡 野町南
サヌカイト・チャート・頁岩
大新田遺跡 野町
チャート

 スクレイパー 旧石器時代

旧石器遺物と縄文遺物が隣り合って置いてある
スクレイパー
山脇遺跡 稲生町
チャート
祓山遺跡 野町南
チャート

 有茎尖頭器 縄文草創期
  有茎尖頭器   北中大野遺跡
チャート
双児塚遺跡 伊船町
チャート
追分遺跡 追分町
チャート
大新田遺跡 野町
下呂石 
 2120
2万年前の暮らし

 剥片
  左2点:二次加工のある剥片
チャート・玉髄

右1点:剥片、下呂石

乙部遺跡 御薗町 

 ナイフ形石器
ナイフ形石器 ナイフ形石器 長者屋敷遺跡 広瀬町
チャート
山越知南遺跡 越知町
Yamaohchi Ohchi-cho
瑪瑙・サヌカイト
寺谷遺跡 郡山町
Teradani
瑪瑙
 
 


 2200縄文時代

 2210
縄文時代
最後の氷期が終わる頃、煮炊きのための土器が発明され、利用できる天然の恵みは増えた。
動物相の変化は弓矢を生み、やがて大きなムラも営まれた。
縄文人の生活は時期によって、あるいは自然環境に応じて 多様な変化を見せ、豊かな精神文化が育まれた。

千年前
13
草創期




8
早期



6
前期




5
中期
4
後期

3
晩期

神子柴遺跡(長野県)
土器・弓矢の出現
小瀬ヶ沢洞窟(新潟県)
栫ノ原遺跡(鹿児島県)
土偶の出現
粥見井尻遺跡(飯南町)
夏島貝塚(神奈川県)
粟津湖底遺跡(滋賀県)
大鼻遺跡(亀山市)
上野原遺跡(鹿児島県)
中野B遺跡(北海道)
アカホヤ火山灰降下
縄文海進
三内丸山遺跡(青森県)
鳥浜貝塚(福井県)
真脇遺跡(石川県)

加曽利貝塚(千葉県)
不動堂遺跡(富山県)

堀之内貝塚(千葉県)
天白遺跡(嬉野町)
亀ヶ岡文化
寺野東遺跡(栃木県)
大洞貝塚(岩手県)
鈴鹿の遺跡

北中大野遺跡
椎山川河床遺跡
西ノ野遺跡
追分遺跡
大新田遺跡

東庄内A遺跡

今村A遺跡




追谷遺跡


西川遺跡
東庄内B遺跡

北一色遺跡
東庄内A遺跡


上箕田遺跡
木田坂上遺跡
居敷遺跡



考古博物館
なるほどポイント!

土器の表面全体に縄目の文様をつけ, 渦巻きや 「J」字形などの文様を2本の線で描きます。
文様の外側となる縄目を磨いたり, なでて消すことで縄目の文様を強調します。
このようにしてつけられたよ〜く見てみよう!
文様を「磨消縄文」 と呼んでいます。
また、このような文様をもつ縄文土器は、見つかった岡山県の遺跡の名前にちなんで 「中津式」と呼ばれています。

    縄文土器深鉢
北一色遺跡 国府町
縄文時代中期
なるほどポイント!  縄文土器深鉢
東庄内A遺跡 東庄内町
縄文時代後期 
 
異形部分磨製石器
今村A遺跡 稲生塩屋
チャート
石鏃
大新田遺跡 野町
黒曜石 ・チャート・サヌカイト
   石鏃
祓山遺跡 野町南
サヌカイト・チャート
    石匙
中尾山遺跡 国分町
チャート
 
 
 2220
北一色遺跡 縄文中期~晩期
 国府町の鈴鹿川右岸の台地に位置します。
竪穴住居や晩期の合口 土器棺墓が検出され、中~後期の 土器 耳栓 石鏃 磨製石斧が出土しました。
耳栓は非貫通の円孔 が穿たれただけの粗製品です。
調査地点以外においても多くの遺物 が散布しており、 市内では比較的 規模の大きな拠点集落と考えられ ます。
調査年月日 1968年

    縄文土器深鉢
北一色遺跡 国府町
縄文時代後期
縄文土器片
北一色遺跡 国府町
縄文時代中期
   
縄文士器深鉢
上箕田遺跡
上箕田・中箕田町
縄文時代晚期

 2230上箕田遺跡
縄文土器 壺
上箕田遺跡
上箕田中箕田町
縄文時代晩期
縄文土器鉢
上箕田遺跡
中箕田町
縄文時代晩期

考古博物館
なるほどポイント!
「耳栓」は,「みみせん」ではなく、 「じせん」と読みます。 現在の 「ピアス」のように使われていたと考えられています。
北一色遺(きたいっしきいせき)跡の出土品は、シンプルなものですが、 複雑な文様を彫ったものもあります。

    なるほどポイント!
 
耳栓
北一色遺跡 国府町
縄文時代
 

平田遺跡出土石刀
平成16年の1次調査で出土した縄文時代晩期前半の石刀です。 出土した場所は弥生時代後期末の方形周溝墓の 溝であるため, 何らかの原因で紛れ込んだものと考えら れています。
長さ 392mm, 幅 25.3mm 厚さ 22.3mm で, 石材は片岩, 形は直刀形で, 3条の文様帯を有します。 文様のある完 形の資料では県内唯一の出土例です。
石刀は実用品ではなく, 石剣や石棒と同じように祭祀
や呪術に関わる道具であると考えられています。
平成23年4月19日に鈴鹿市指定文化財に指定されました。

石刀
平田遺跡
平田本町一丁目
粘板岩
縄文時代晩期
平田遺跡出土石刀

凹石くぼみいし
上箕田遺跡
上箕田中箕田町
砂岩
縄文時代晩期
石皿
寺谷遺跡 郡山町
砂岩
磨石
寺谷遺跡 郡山町
砂岩
縄文時代
 2240
縄文のムラ

考古博物館
なるほどポイント!

 縄文時代の終わりごろの土器です。形から「深鉢」と呼ばれています。
現在の鍋のように煮炊きに使われたもので,その証拠に土器の表面には黒い 「スス」 がついています。
この土器は, 穴の中に置かれたような状態で見つかりました。
骨は見つかっていませんが棺おけとして再利用されたと考えられます。
土器の大きさからすると、 乳幼児を埋葬するために使われたのでしょう。

なるほどポイント! 縄文土器深鉢
加佐登遺跡
加佐登二丁目
縄文時代晚期
縄文土器深鉢
西川遺跡 郡山町
縄文時代中期
寺谷遺跡 郡山町
粘板岩
岡田遺跡 岡田町 西ノ野遺跡 国府町
蛇紋岩 その他
上箕田遺跡
上箕田・中箕田町
玄武岩
 2250
石鏃
寺谷遺跡 郡山町
サヌカイト・チャート
野田遺跡 稲生町
チャート
山脇遺跡 稲生町
チャート
池ノ下遺跡 稲生町
サヌカイト
スクレイパー
尖頭器未成品
スクレイパー
梅田遺跡 国府町
チャート
尖頭器未製品
寺谷遺跡 郡山町

古谷遺跡 郡山町
瑪瑙
 
 


 2300弥生時代

 2310
弥生時代
水田稲作は北部九州で始まった。 その頃中国は戦国時代。
すでに商品経済が発達し、様々な文物が行き交った。
大陸から伝わった金属の道具は独自の発展を遂げ、 やがて忘れ去られる。
豪華な副葬品が納められた「王墓」、濠に囲まれたムラ、 そびえ立つ楼観。 中国の歴史書は倭の国々を記した。

西暦
BC400













1AD









200

水田稲作が始まり、
金属器が伝わる。
板付遺跡(福岡県)


唐古鍵遺跡(奈良県)
砂沢遺跡(青森県)

神庭荒神谷遺跡 (島根県)
加茂岩倉遺跡(島根県)
池上曽根遺跡(大阪府)



環濠集落の最盛期
大塚・歳勝土遺跡(神奈川県)
朝日遺跡(愛知県)
吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
57倭奴国王光武帝に朝貢
「漢委奴国王」 金印
107倭国王帥升安帝に生口献上
銅鐸の埋納
大岩山遺跡(滋賀県)
倭国大いに乱れる
楯築墳墓(岡山県)
239卑弥呼魏に朝貢
鈴鹿の遺跡





大木ノ輪遺跡
上箕田遺跡



一反通遺跡
須賀遺跡
東庄内B遺跡
中尾山遺跡
扇広遺跡
西ノ岡B遺跡
沖ノ坂遺跡


南山遺跡
南谷遺跡

磐城山遺跡
岸岡山遺跡
神戸中学校遺跡

弥生時代
  銅鐸形土製品
上箕田遺跡
上箕田・中箕田町
弥生時代中期
磯山銅鐸の絵画
拡大図
シカ,イノシシ
魚,スッポシ
シカ,イノシシ
磯山銅鐸
磯山遺跡 磯山町
弥生時代 中期
 磯山銅鐸
外縁鈕式
紀元前2c-紀元前1c
線刻画付
銅鐸形土製品
一反通遺跡 上野町
弥生後期
銅鐸片
一反通遺跡 上野町
弥生中期
    水晶片
岸岡山Ⅲ遺跡 岸岡町
弥生時代後期
管玉
中尾山遺跡 国分町
绿色凝灰岩
弥生時代中期
 
 
石小刀
中尾山遺跡 国分町
サヌカイト
時代中期

石錐
一反通遺跡 上野町
サヌカイト
弥生時代中期
磨製石鏃 磨製石鏃
弥生後期
磐城山遺跡 木田
一反通遺跡 上野町
鉄鏃
南谷遺跡 稲生町
石鏃 石鏃
中尾山遺跡 国分町
サヌカイト
末野A遺跡 郡山町
サヌカイト

保子里遺跡 国府町
サヌカイト
磨製石剣
中尾山遺跡 国分町
サヌカイト
弥生時代 中期

打製石剣
一反通遺跡 上野町
サヌカイト
弥生時代中期
 2320
上箕田遺跡 壺 (弥生時代後期)
※絵がかいてあるめずらしいもの

    弥生土器(鹿線刻)
上箕田遺跡
上箕田・中箕田町
弥生時代後期 
   
  よ~く見てみよう!  線刻土器 弥生土器
(人・鹿線刻)
上箕田遺跡
上箕田・中箕田町
弥生時代 後期
   
弥生土器 壺
(沈線文系土器)
八重垣神社遺跡 十宮町
弥生時代前期


ハイアロクラス タイトとは
AI による概要

 水中で噴出したマグマが急冷され、砕けてできた火山岩です。別名「水冷破砕岩」とも呼ばれ、ガラス質の破片が主体で、主に枕状溶岩の周囲に分布する、海底火山の活動を示す重要な岩石です。

主な特徴・詳細
・形成プロセス: マグマが水と接触して急激に冷えて収縮・破砕(水冷破砕)し、バリバリに割れて火山ガラスの破片(角礫)になります。
成分: 玄武岩質のものが多いが、安山岩質など他の成分でも形成されます。
外観: 黄褐色~暗緑色の角礫と基質(細粒の凝灰岩)からなる角礫岩のような見た目をしています。
関連地形: 枕状溶岩(溶岩が枕の形に固まったもの)とセットで発見されることが多いです。

この岩石がある場所は、過去にその場所が海底や湖底であったことを示す証拠となります。

太形蛤石斧
扇広遺跡 高岡町
ハイアロクラスタイト
弥生時代中期

柱状片石斧
境谷遺跡 国分町
ハイアロクラスタイト
弥生時代中期

扁平片石斧
境谷遺跡 国分町
ハイアロクラスタイト
弥生時代中期
抉入石斧
中尾山遺跡 国分町
ハイアロクラスタイト
弥生時代中期
太形蛤刃石斧
中尾山遺跡 国分町
ハイアロクラスタイト
弥生時代中期

石包丁
弥生時代中期
中尾山遺跡 国分町
緑色片岩
 


 2400弥生土器群

 2401鈴鹿の遺跡分布 
    弥生遺跡の数は膨大です
鈴鹿の遺跡分布
 2403
弥生土器 壺
上箕田遺跡上箕田・中箕田町
弥生時代前期
弥生士器 甕
八重垣神社遺跡 十宮町
上箕田遺跡
上箕田,中箕田町
弥生時代前期
・弥生土器深鉢
長者屋敷遺跡 広瀬町
弥生前期

・弥生土器鉢
・弥生土器 蓋
上箕田遺跡
上箕田・中箕田町
弥生時代前期
 2405
弥生土器壺
須賀遺跡 矢橋三丁目
弥生時代中期

弥生土器壺
上箕田遺跡 中箕田町
弥生時代中期
弥生土器甕
須賀道跡 矢橋三丁目
弥生時代中期
弥生土器
八重垣神社遺跡 十宮町
弥生時代中期
弥生土器蓋
一反通遺跡 上野町
弥生時代中期
 2407
弥生土器 壺
・中尾山遺跡 国分町
・中尾山遺跡 国分町
・添遺跡 河田町
弥生時代中期
・弥生士器 高坏
・弥生土器 鉢
・弥生土器 壺
中尾山遺跡 国分町
弥生時代中期
 
 

 2409
扇広(おぎぶる)遺跡 弥生中期中葉の集落遺跡
 鈴鹿川左岸の丘陵南向きの斜面に 位置します。
竪穴住居34棟、掘立柱建物2棟、方形周溝墓5基、濠1条 が検出され、 中期中葉の土器や磨製石剣、石斧、石包丁・砥石などが出土しました。
 濠は丘陵を切断するように設けられています。 防御性の高い集落跡で、付近には最古段階の銅鐸片が出土した東ノ岡遺跡があります。
     調査年月日 1990年

考古博物館
よ~くみてみよう なるほとポイント

左側の台付甕には、 お猪口をさかさまにしたような足がついています。
これは、弥生時代の人が工夫した結果生まれた、 画期的な発明です。
弥生時代の人は竪穴住居の真ん中に作った炉で煮炊きをしていました。

 甕の場合、底の部分が暖まりにくいのが難点でした。しかし、台を付けることで底から暖めることができます。
 つまり、 熱効率をアップさせたのです。

台付壺 扇広遺跡 中期
壷 扇広遺跡 中期
台付甕 扇広遺跡 後期
甕 扇広遺跡 中期
扇広(おぎぶる)遺跡
なるほとポイント
弥生土器 壷
扇広遺跡 高岡町
弥生中期
弥生土器 高坏
扇広遺跡 高岡町
弥生中期
 2413
一反通遺跡
鈴鹿川左岸の台地上に位置します。 弥生時代中後期の濠が検出されて います。 土器には前期新段階から後 期までのものがあり、 打製石剣 磨 製石鏃・石斧 銅鐸片 銅鐸形土製 品など豊富な出土遺物が知られます。 さらには管玉・勾玉・砥石・玉未製 品など玉作り関係遺物も採集されて
おり,鈴鹿川流域の中核的な環濠集 落です。
調査年月日 1988年 1996年 1998年 • 2001年

弥生の稲づくり 鉢 一反通遺跡 上野町 後期
台付壺 十宮古里遺跡 十宮四丁目 後期
器台 一反通遺跡 上野町 後期
壺 一反通邀跡 上野町 後期

高坏 一反通遺跡 上野町 後期
高坏 沖ノ坂遺跡 国分町 中期
高坏 上箕田遺跡 中箕田町 後期
一反通遺跡
 2414
年代を探る 1
 時とともにかたちは変わる ―型式編年―

 我々が使う道具にはコップ、スープ皿といった役割に応じたまとまりがあり、これを考古学者は形式と呼んでいる。
さらにそれぞれの形式ごとにみてみると、時代に応じた流 行のかたちや模様があって徐々ではあるが変化し続けていることは、現代の私たちの身の回りの経験からも感じることができる。
そこで、遺跡から出土した一つの形式の物を集め、細部の変化に注目して分類し、ならべていくと、かたちによる一定のまとまりとならびが見いだされる。これのまとまり 型式と呼んでいる。
 分類した型式のならびを、 遺物の出土した層位などを検証して方向付けることができれば、 それを時間の流れとしてとらえて年代を遡る物差しにすることもできるわけだ。この作 業を型式編年と呼んでいて、考古学の年代決定の基本となる手続きである。


高杯という一つの「形式」にもさまざまなかたちがある。

脚のかたちと杯の深さによって 分類すると、ほら、このとおり
このまとまりが「型式」だ

どっちへ変化したか?
かたちだけでは分からない

層位などから方向付けると
こう変化したことが分かって、
時間のモノサシとなる

 2415
岸岡山Ⅲ遺跡
 伊勢湾の海岸に面した丘陵上に位置します。
 第1次調査では北向きの 緩やかな斜面から竪穴住居 33棟、
 第 2次調査では南向きの斜面から竪穴 住居 50棟が検出されました。 竪穴住 居は重複しているものが多く見られ ます。

 壺甕・高坏手焙形土器な どの土器類や水晶片が見つかりまし た。
 水晶片には大きな塊もあり、この集落で玉作りが行われていた可能性があります。
調査年月日 1997年5月28日~9月30日 2007年11月20日
~2008年3月26日

土師器 手焙形土器
平田遺跡 平田本町一丁目
古墳時代前期

土師器器台
岸岡山遺跡 岸岡町
古墳時代 前期

土師器 手焙形土器
岸岡山遺跡 岸町
古墳時代前期

土師器 手焙形土器
十宮古里遺跡 十宮四丁目
古墳時代前期
土師器 台付甕
十宮古里遺跡 十宮四丁目
古墳時代 前期

土師器台付甕
岸岡山遺跡 岸町
古墳時代 前期

土師器壺
岸岡山Ⅲ遺跡 岸岡町
古墳時代前期
岸岡山Ⅲ遺跡 土師器高坏
岸岡山Ⅲ遺跡 岸岡町
古墳時代前期


十宮古里遺跡 (旧神戸中学校遺跡)
鈴鹿川右岸の低位段丘上に位置 します。 後期の方形周溝墓 3 基・ 溝2条・濠2条 土壌が検出され ました。 濠は幅 2.5m~3mで、環 濠の一部と考えられます。 濠や方 形周溝墓からは赤色顔料や櫛描文 で飾られたパレススタイルの壺や 手培形土器を始めとする大量の土 器が出土しました。
調査年月日 1993年8月23日~12月16日 1998年8月17日~31日

・土師器壺
・短頸壷
岸岡山Ⅲ遺跡 岸岡町
古墳前期
土師器壺
十宮古里遺跡
十宮四丁目
古墳前期

十宮古里遺跡
十宮四丁目
古墳前期

十宮古里遺跡
十宮四丁目
古墳前期
土錘
一反通遺跡 上野町
十宮古里遺跡
(旧神戸中学校遺跡)
 
 


 2500鈴鹿の遺跡

考古博物館
なるほどポイント

徳居(とくすい)34号窯 郡山町
古墳時代の須恵器と呼ばれる土器を焼いた窯跡です。 朝鮮半島から伝わった技術で、丘陵などの斜面にトンネルを掘って窯をつくります。
鈴鹿市徳居(とくすい)町周辺には多くの窯跡が分布し、県内でも大規模な須恵器の生産地のひとつでした。

狐塚遺跡 国分(こくぶ)
古代の河曲郡の役所 (郡衙郡家)で、現在の市役所です。 税として納められた稲穂を収納した倉庫が見つかりました。
床を高くした倉庫は、 建物内部に床を支えるための柱 (床束)があります。

扇広(おぎぶる)遺跡 高岡町
弥生時代中期後葉の竪穴住居です。 建物内部に屋根を支えた柱の跡が見つかっています。
竪穴住居の形は、弥生時代中期中葉ごろを境に円形から四角形に変わっていきます。

岸岡山(きしおかやま)Ⅲ遺跡 岸岡町
岸岡山丘陵の日当たりの悪い北側の斜面から弥生時代の集落が見つかりました。 日当たりのよい斜面を選ばなかったのは、海からの風を避けるため
だったのでしょう。

考古博物館
なるほどポイント

津賀平遺跡 津賀町
古代の集落跡です。 役人が身に着けたベルト飾りや緑釉陶器 (高級食器) などが出土しています。
倭名類聚抄(わ みょうるいじゅしょう)』 (平安時代の百科事典) にある 「高宮郷」 の中心的な集落だったと考えられています。

伊勢国府跡 (長者屋敷遺跡) 広瀬町
奈良時代の伊勢国を治めた役所で、 現在の県庁にあたります。 国府跡では瓦葺の建物が多く見つかりました。
そのなかで屋根に葺かれた状態を残した多量の瓦が出土しました。 台風によって10m以上吹き飛ばされたものと考えられています。

伊勢国分寺跡 国分町
博物館前庭で河曲郡の役人の住まいに関係する建物2棟が見つかりました。 柱の位置がわかるように舗装の色を変えてあります。
ぜひ、帰りに確認して、 建物の大きさを実感してみてください。

寺谷11号墳 郡山町
古墳群の中で最後に造られた古墳です。 箱式木棺を墓壙内に納めたもので、周囲に浅い溝をめぐらせています。
棺には, 7世紀後半の須恵器が副葬されていました。

考古博物館
なるほどポイント

寺谷(てらだに)古墳群 郡山町
円墳や方墳など10~20mほどの小さな古墳が20基見つかりました。 墳丘は後世の開墾で失われ、古墳の周りに掘られた溝の中から円筒埴輪や巫女、
馬, 鶏, 家などの形をした形象埴輪が出土しました。 これらの埴輪は展示してあります。

⑩狐塚遺跡 国分町
河曲郡の役所の中心施設の建物です。 建物が「コ」字状に並ぶように計画的に建てています。 これら
の建物に囲まれた空間では、政治や儀式など行っていたと考えられています。

⑪寺谷古墳群 郡山町
古墳に立てられていた円筒埴輪を棺として使ったお墓です。 3個の円筒埴輪をつなげ, 両端は埴輪の破片で蓋をしています。

中尾山遺跡 国分(こくぶ)
弥生時代の 方形周溝墓」というお墓の跡です。周囲に掘られた溝を上から見た形が四角くなっているので、こう呼んでいます。
溝の内側に土を盛って, 亡くなった人を埋葬していました。 残念ながら、盛土は削られてしまったため、埋葬した痕跡は残っていませんでした。


考古博物館
なるほどポイント!

高井 B遺跡 御薗町
弥生時代から鎌倉時代の複合遺跡です。 平安時代の高級食器である緑釉陶器が約50点出土しました。

天王(てんのう)遺跡 岸岡町
古代の掘立柱建物の跡です。 柱を据えるために掘った穴の横に人が立っています。 海に近い天王遺跡は、港の施設があったと考えられています。
この遺跡から出土した 「蹄脚硯(ていきゃくけん)」 という立派な硯の破片が展示してあるので、 探してみましょう!

寺山遺跡 ・ 寺田山7号墳 高岡町

寺田山7号墳は、直径14.5mの円墳で、墳丘が2mほど残っていました。 埋葬施設は木棺を直接埋納した木棺直葬墓で、 鉄刀・ 鉄剣・ 鉄斧が
副葬されていました。 墳丘の裾には円筒埴輪の底が残っていました。

南山6号墳 河田(こうだ)
鈴鹿市内では数少ない横穴式石室を埋葬施設にもつ古墳です。 石室の石材は基底部を残し、ほとんど失われていましたが、 土師器、須恵器,鉄鏃,
刀子など豊富な副葬品が出土しました。


なるほどポイント なるほどポイント
  高井B遺跡 
寺谷古墳群
天王遺跡
狐塚遺跡 
     
寺山遺跡・寺田山7号墳
寺谷古墳群
南山6号墳
中尾山遺跡
  津賀平遺跡
徳居34号窯跡 
伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)
狐塚遺跡 
     
伊勢国分寺跡
扇広遺跡
寺谷11号墳
岸岡山Ⅲ遺跡
なるほどポイント なるほどポイント         


 2600古墳時代

 2610
古墳時代
近畿地方を中心として、各地域を治める王のために前方後円という形の大きな墓を築く習慣が、本州・四国・九州の三島へと広がった。
最も根本的といえる祖先のまつりが共有されたことで一つの国としてまとまる第一歩が踏み出された。

西暦

300


400


500


600

239卑弥呼魏に朝貢

266壱与西晋に使者
畿内で前方後円墳の出現



前方後円墳が築造される
369倭王七支刀を受ける

巨大古墳が築かれる
大型円墳が多く見られる
421倭王讃宋へ朝霞
須恵器生産が始まる
小規模古墳が多数築かれる
478倭王武栄に表文

横穴式石室が導入される
527筑君磐井の乱
埴輪が立てられなくなる
郡山付近で須恵器生産盛ん

全国的に前方後円墳の終焉

646大化薄葬会
古墳築造の終焉
672壬申の乱
寺院建立始まる
鈴鹿の遺跡




神大寺遺跡


寺田山—号墳
愛宕山1号墳
天神遺跡
津賀平遺跡
白鳥塚1号墳

西ノ野5号墳
稻生窯跡群
石薬師東古墳群
寺谷古墳群
西ノ野1号墳
保子里1号墳
南山6号境
德居業跡群

郡山遭陈群
北野古墳
蛸田古墳

天王遺跡

古墳時代 古墳時代 ・土師器 高坏
・土師器 鉢
・土師器 小型丸底壺
保子里(Bokori)遺跡 国府町
古墳時代前期
・土師器 甕
・土師器 壷
・土師器 小型鉢
保子里(Bokori)遺跡 国府町
古墳時代前期
土師器壺
門山遺跡
 2620
 2621人物埴輪
古墳を造る 臼玉
経塚古墳 中瀬古町
滑石または蝋石
古墳時代
人物埴輪
不明 石薬師町
古墳時代後期
 2623刀装具
・銀象嵌鞘尻
・銀象嵌鞘口
・環頭大刀把頭
保子里1号 国府町
古墳時代後期
保子里1号墳出土
大刀想像復元
・銀象嵌鞘金具
・銀象嵌鞘口金具
・環頭大刀把頭
・垂飾付耳飾
保子里1号墳 国府町
古墳時代後期
         


保子里1号墳
鈴鹿川右岸の段丘上に立地しま す。 直径20m前後の円墳がくっつ いた双円墳という珍しい形です。 明治32年に地元の人によって 掘られ、北側の墳丘から石棺が 2 基見つかり、出土遺物は東京国立 博物館に保管されました。
承台付碗や垂飾付耳飾など大陸 や朝鮮半島の影響が強い遺物が特
徴です。
6世紀中頃の築造とみられます。
平成になったころの保子里1号墳 (現在は回生病院の駐車場に保存されています。)

保子里1号墳 保子里1号墳


だりゅうきょう とは
AI による概要


鼉龍鏡(だりゅうきょう)とは、古墳時代に中国の銅鏡(環状乳神獣鏡など)をモデルにして、日本で作られた青銅製の鏡(仿製鏡)の一種です。背面にワニに似た空想上の獣「鼉龍(だりゅう)」が描かれていることからこの名がつけられました。

鼉龍鏡の特徴
・図像の独自性: 中国鏡に描かれていた本来の世界観や意味が日本の鏡工人に正確に伝わらなかった結果、神像と獣の表現が崩れ、神と獣が融合したようなユニークなデザインになっています。
・高い技術: 複雑な文様を表現しており、大型で精巧に作られたものが多く、当時の日本における高い鋳造技術水準を今に伝えています。
・出土の背景: 古墳の副葬品や祭祀の道具として、日本各地の古墳から出土しています。

文化財の詳細や日本各地の博物館での収蔵状況については、文化遺産オンライン や 東京国立博物館 の名品ギャラリーをご確認ください。近年では、奈良市の富雄丸山古墳で発見された盾形の「鼉龍文盾形銅鏡」が過去に類例がない国宝級の発見として大きな話題を呼びました。

鼉龍鏡
保古里1号墳 国府町
古墳時代後期



承盤とは
AI による概要

承盤(しょうばん)とは、主に水注(すいちゅう:水を入れる急須のような注ぎ口のある器)や瓶(かめ・びん)の下に敷く「受け皿」のことです。

歴史的な美術品としては、中国や朝鮮半島で作られた青磁(せいじ)や白磁のものが有名です。

主な特徴は以下の通りです:
・デザインの様式:中国・宋の時代や朝鮮半島(高麗時代)の陶磁器に多く見られます。特に蓮の葉(蓮葉・れんよう)をかたどった器形が一般的で、皿の内側や側面に葉脈や花びらの文様が彫り込まれているのが特徴です。
・実用性と美しさ:水注などと一緒に一対(セット)で作られ、本体から垂れる水滴を受け止める実用的な役割と、器全体をより豪華で優美に見せる装飾的な役割を持っていました。

※なお、仏具には似た名称として、導師(お坊さん)が座るための台である「礼盤(らいばん)」 や、密教法具をのせる「金剛盤(こんごうばん)」 などがありますが、これらとは異なるものです。

承盤
保古里1号墳 国府町
古墳時代後期

承盤付碗想像復元図

 2625
寺田山7号墳
丘陵の先端に位置する前方後円 墳1号墳から水道局のタンクに向 かって10基あまりが分布してい ます。 7 号墳は市道建設に先立ち 発掘調査されました。 直径14.5m の円墳ですが, 埴輪列と葺石を 持っています。 主体部は木棺直葬 で鉄斧・鉄刀 鉄剣が副葬されて いました。 5世紀末頃の築造とみ られます。
調査年月日 1990年10月1日~11月30日

鉄斧
寺田山7号墳 高岡町
古墳時代後期

寺田山7号墳 調查年月日
1990年10月1日~
11月30日

考古博物館
よ~くみてみよう なるほどポイント

 鉄剣と鉄刀、よく似ていますね。いったいどこが違うのでしょう。

先端をよく見てみましょう。 剣は先端が中央、 刀は片側によっています。
剣には両方に刃があるのに対して、刀は片方だけに刃があるからです。

なるほどポイント 鉄剣
寺田山7号墳 高岡町
古墳時代後期
鉄刀
矢下3号墳 西冨田町
古墳時代前期
 2630

 2631鶏形埴輪
鶏形埴輪
寺谷3号墳 郡山町
古墳時代後期

 2633鹿絵巫女埴輪
寺谷(てらだに)古墳群

 鈴鹿市郡山町(こおりやまちょう)にある古墳群です。 現在は鈴鹿大学 (学校法人享栄(きょうえい)学園) の敷地内にあたります。

平成4(1992)年の発掘調査で 5世紀後半~6世紀前半の古墳19基と円筒埴輪棺墓3基の他, 飛鳥時代にくだる方墳1基,8世紀代の甕棺墓(かめかんぼ)5基などが確認されています。
 円墳を首長墓とし、周囲に小さな方墳を従えるようにまとまりをもって、概ね東から西に向かって墓域を広げていっています。

 この古墳群からは、多くの形象埴輪が出土しており、円筒形の基部をもつ鶏形埴輪や巫女形埴輪の底部には,植物で作った輪の痕跡(淡輪(たんのわ)技法)が残っています。


 公式マスコットキャラクターの寺谷みこは寺谷古墳群から 出土した巫女形埴輪をモデルにしています。

寺谷古墳群
寺谷みこ


考古博物館
なるほどポイント!  よ~く見てみよう!

 寺谷17号墳から出土した2体の巫女形埴輪は、衣服に『鹿』が描かれた全国的にみても珍しい埴輪です。
1体の巫女には()れた帯の右側に枝分かれした角を持つ牡鹿が1頭描かれています。
もう1体の巫女には垂れた帯の左右に2頭ずつ 『鹿』が描かれています。
これらの鹿は、頭に2本の線が描かれています。これを耳の表現として牝鹿とする説と、枝分かれしていない角として若い牡鹿とする説があります。

『鹿の絵』 は、 実際の衣服に描かれていたものなのか、鹿の霊力を宿していることを表現したものなのか、その意味は謎です。

ここに注目!
※常設展示室内には、ほかにも 『鹿の絵』があります。 探してみましょう!

なるほどポイント

鹿らしきが左に
鹿が右に

ちょっと判別しにくい
 2640
 2641
土師器小型鉢
西ノ野4号墳 国府町
古墳時代後期
土師器小壺
西ノ野4号墳 国府町
古墳時代後期
須恵器
西ノ野4号墳 国府町
古墳時代後期

須恵器短頸壺
西ノ野4号墳 国府町
古墳時代後期
 2643
愛宕山1号墳
国府町の西ノ城戸集落の南の丘陵上 に位置する前方後円墳です。全長66m 後円部の径は38m, 西に向いた前方部 は丘陵の形をそのまま利用して形作ら れています。 墳丘からは埴輪片が採集 されています。 立地や墳形から見て 4 世紀末から5世紀初頭にかけて築かれ た国府地区一帯で最も古い首長の墓と みられます。

愛宕山1号墳立体模型
縮尺1/250
平成16年度博物館実習生製作
平成になった頃の愛宕山1号墳
ベンガラ
西ノ野4号墳 国府町
古墳時代後期
棗玉
西ノ野4号墳 国府町
琥珀
古墳時代
須恵器蓋坏
西ノ野4号墳 国府町
古墳時代後期

 2645寺谷6号墳
  家形埴輪
寺谷6号墳 郡山町
古墳時代後期 
       


甲冑形埴輪
寺谷3号墳 郡山町
古墳時代後期
         
 

 2650寺谷古墳群
武人と馬 朝顔形埴輪
寺谷3号墳 郡山町
古墳時代後期
円筒埴輪
寺谷3号墳 郡山町
古墳時代後期


 馬形埴輪 寺谷17号墳
頭部から前足にかけては復元されたものです。
左耳や鞍などは実物です。
じっくりと観察して違いを確認してね。

馬形埴輪
寺谷17号墳 郡山町
古墳時代後期
 


 2700古墳時代後期

 2710

 2713王の館と倉 南山6号墳
王の館と倉 ・須惠器提瓶
・須恵器ハソウ
南山6号墳 河田町
古墳時代後期
・須恵器高坏
・須恵器壺
南山6号墳 河田町
古墳時代 後期
須恵器蓋坏
南山6号墳 河田町
古墳時代後期
 2715
土師器鉢
南山6号墳 河田町
古墳時代後期
土師器壺
南山6号墳 河田町
古墳後期
土師器小型高坏
南山6号墳 河田町
古墳時代 後期
土師器高坏
南山6号墳 河田町
古墳時代 後期

土師器高坏
南山6号墳 河田町
後期

 2717鉄刀
岸岡山2・3号墳岸町
古墳時代後期

 2720副葬品
 2721
ガラス玉
長者屋敷遺跡 広瀬町
古墳時代後期
玉類
岡田南遺跡 岡田1丁目
古墳時代
勾玉
碧玉·瑪瑙
小玉
ガラス

管玉
緑色凝灰岩
 2723
経塚古墳
中瀬古集落の西に所在し,現在 伊勢鉄道に切断された形で一部が 残っています。 全長 36m, 後円部 径29m 前方部幅 10m 高さ4.5m の帆立貝形の前方後円墳で 馬蹄 形の周溝をめぐらせていました。
主体は粘土槨で,副葬品として 滑石製の玉類と量も種類も豊富な 鉄製品が出土しました。
5世紀前半の築造と見られます。

鉄剣
経塚古墳
中瀬古町
古墳時代
鉄鉾
経塚古墳
中瀬古町
古墳時代
経塚古墳

昭和41年の経塚古墳
 2725
鉄刀
経塚古墳
中瀬古町
古墳時代

 2730須恵器窯

 2731須恵器窯 稲生窯跡
須恵器を焼く 埴輪破片
稲生窯跡 稲生町
古墳時代後期
須恵器破片
稲生窯跡 稻生町
古墳時代

 2733石塚遺跡
円筒埴輪
石塚遺跡 御薗町
古墳時代前期
蓋形埴輪(部分)
石塚遺跡 御町
古墳時代前期
家形埴輪(部分)
石塚遺跡 御薗町
古墳時代前期
盾形埴輪(部分)
石塚遺跡 御薗町
古墳時代前期
土師器壺
石塚遺跡 御蘭町
古墳時代前期

 2735
徳居 33・34号窯
 「太陽の街」の排水路工事中に 発見され緊急調査が行われました。
 33号窯は灰原のみが残り、 焼け損ないの須恵器と灰が3m以上の厚さに堆積していました。
 34号窯は窯本体が上下を切断され焚き口と焼成部の一部のみが残存していました。 須恵器の他に陶棺も焼かれていました。
6世紀末から7世紀初めに生産を行ったようで す。

徳居 33・34号窯


調査年月日 1993年
3月22日~4月10日
窯壁
徳居33・34号窯跡
徳居町
古墳時代
溶融須恵器
徳居33,34号窯跡
徳居町
古墳時代後期
 2740須恵器
 2741
須恵器ハソウ
西高山2号墳 郡山町
古墳時代後期
須恵器蓋坏
西高山2号墳 郡山町
古墳時代後期
須恵器高坏
西高山2号墳 郡山町
古墳時代後期


 2743鉄製品
鉄斧
経塚古墳 中瀬古町
古墳時代
紡錘車
天王遺跡 岸岡町
古墳時代後期
紡錘車
天神遺跡 岡田町
滑石または蝋石
古墳時代
 2745
鉄刀子
経塚古墳 中瀬古町
古墳時代

鉄鎌
経塚古墳 中瀬古町
古墳時代
不明鉄器
古墳時代,経塚古墳
鉄鏃
経塚古墳 中瀬古町
古墳時代
 2750
 2751
須恵器平瓶
大鹿山6号墳 国分町
古墳時代後期
須恵器高坏
大鹿山6号墳 国分町
古墳時代後期
土師器坏
大鹿山6号墳 国分町
古墳時代後期
 2753
大鹿山6号墳
 伊勢国分尼寺推定地の調査に伴い発 見されました。 直径は推定 15mの円墳 です。 南に向かって開口する横穴式石 室を持ち、石室は複室構造を取るもの です。 周溝は幅約4mで白鳳寺院の瓦が 大量に投棄されていました。 石室内か ら須恵器 土師器の他金環1点が出土 しています。 6世紀末頃に築かれたと みられます。

大鹿山6号墳
金環
大鹿山6号墳 国分町
古墳時代後期

須恵器蓋坏
大鹿山6号墳 国分町
古墳時代後期
須恵器蓋坏
大鹿山6号墳 国分町
古墳時代後期
大鹿山6号墳
調査年月日 1992年9月17日~11月15日
 2755
鉄鉾、鉄石突
岸岡山2・3号墳 岸岡町
古墳時代後期
鉄刀子
岸岡山2·3号墳 岸岡町
古墳時代後期
 2760
 2761
須恵器高坏
天王遺跡 岸岡町
古墳時代後期

須恵器脚付短頸壺
愛宕2号墳 岸岡町
古墳後期
 2762陶棺
陶棺 陶棺
陶棺
德居33·34号窯跡
德居町
古墳時代 後期

 2763年代を探る2
   土器にも盲腸がある? 一痕跡器官一

 遺物の型式編年を行うさい、かたちの序列はたやすく直感的に求められる。しかし、変化が序列の どの方向に進んだかは、かたちのみからは求められない。そこで初期の考古学者は痕跡器官という 考えをうまく導入した。

 痕跡器官はもともと生物学の言葉である。 ある役割を担っていた器官が、その役割を失って退化し ながらも残っているもの、たとえばヒトの盲腸や尾てい骨 (尻尾の骨)、ヘビやクジラの脚の骨があげられる。
 これに似た現象が、 おもしろいことに人間が作った道具にも数多く現れるのだ。

 その例は須恵器「提瓶(ていへい)」の肩の取っ手に顕著に現れている。 本来ある機能や意味を持っていた部分が、
それらを失うことによって、 痕跡化したり装飾となってしまう。
 遺物からこのような痕跡を見いだすことができれば、変化の方向を知ることができるわけだ。

土器にも盲腸がある
痕跡器官
須惠器提瓶
・岸岡山23号墳岸町
・八野古墳群 八野町
・岸岡山2·3号墳 岸町
古墳時代後期


 須恵器「堤瓶」の変化

もともとは水筒だった。ひもを付けるためしっかりした環状

簡略化して かぎ状に

もうひもはかけられない
置いて使う道具へ

突起状に

ボタン状の痕跡に
 


 2800奈良平安時代

 2810奈良時代
 2811奈良時代

奈良平安時代
唐の制度にならって「律令」が整えられ、
天皇を中心とする中央集権国家が完成した。
京と地方を結ぶ直線道路、立ち並ぶ瓦葺きの官舎、
そして「国の華」国分寺。
これらは、国家の威信を示すモニュメントでもあった。

西暦



700













800



900


1000

1100

672壬申の乱


701大宝律令完成
710平城遷都

740藤原広嗣の乱・聖武関東行幸
741国分寺建立の詔
764藤原仲麻呂の乱
766伊勢・美濃官舎損壊


775伊勢・美濃・尾張異常風雨
776大伴家持伊勢守になる
780伊勢国人民の偽籍発覚
794 平安遷都

809志摩国分寺僧尼を伊勢国分寺へ移す
861伊勢国司ら課丁二八人隠匿

935平将門の乱


1016藤原道長摂政になる

1167平清盛太政大臣になる
鈴鹿の遺跡
南浦廃寺
山辺瓦窯跡
寺山遺跡
河曲郡衙跡


伊勢国府跡
伊勢国分寺跡
川原井瓦窯跡
木田坂上遺跡
天王遺跡

津賀平遺跡
山の原遺跡
国府A遺跡
国分東遺跡




三宅神社遺跡
岡田遺跡
大木ノ輪遺跡
川原井遺跡

奈良平安時代


須恵器坏
沖ノ坂遺跡 国分町
奈良時代
須恵器壺
三宅神社遺跡 国府町
奈良時代


考古博物館
なるほどポイント!  よ~く 見てみよう!

 書道の大切な道具 「文房四宝」の一つに硯があります。

古代において硯といえば陶製で円形のものが主流でした。当時、文字を書くことができる人は、僧侶や役人に限られていたため、 硯は寺院や国府・郡衙などの役所であったことを確認できる重要な手がかりとなります。 陶硯を入手することが難しい場合は,蓋や坏などの日常に使用する土器などを硯にました。

平安時代の終わりごろから徐々に石製の硯が使用されるようになり、 現在に至ります。 石硯は、楕円形から方形の硯へと変化します。

石硯
竹野一丁目遺跡
竹野一丁目
鎌倉時代
石硯
土師南方遺跡
若松西二丁目
江戸時代

円面硯
寺谷古墳群 郡山町
奈良時代
なるほどポイント!
円面硯
西高山C遺跡 郡山町
奈良時代
蹄脚硯
天王遺跡 岸岡町
奈良時代


考古博物館
なるほどポイント!

ひと昔前まで和銅元 (708) 年発行の「和同開珎」が日本最古のお金といわれていました。 しかし、『日本書紀』には,683年 「これ以降は、銅銭を使いなさい。 銀銭は使ってはいけません」という記述があり、 「 和同開珎」 より古い 「銅銭」 と 「銀銭」 の存在が考えられていました。

北野古墳出土の 「無文銀銭」は、この 「銀銭」にあたると考えられています。 叩いて加工したもので、 重さを統一するために銀の破片が貼り付けられています。

平成10年、奈良県飛鳥池工房遺跡の発掘で、「富本銭」 が発見されました。『日本書紀』にある「銅銭」がこの「富本銭」 と考えられています。

富本钱
奈良文化財研究所 2002
『飛鳥 藤原京展 古代律令国家の創造」

なるほどポイント!
和同開珎
大欠積石塚 加佐登
Ohkake
奈良時代

無文銀銭
北野古墳 加佐登町
白鳳時代
須恵器長頸壺
宮上道古墳 小田町
古墳時代後期

須恵器蓋坏
宮上道古墳 小田町
古墳時代後期
 2821
木造天神坐像
国分町・菅原神社
須恵器坏
長者屋敷遺跡 広瀬町
奈良時代
土師器皿
長者屋敷遺跡 広瀬町
奈良時代

土師器坏
三宅神社遺跡 国府町
奈良時代

土師器甕
上箕田遺跡
上箕田·中箕田町
奈良時代

 2825棒状土製品
棒状土製品
德居33·34号窯跡
德居町
古墳時代後期

 2826
方筒状土製品
右図の北山遺跡の事例などにより、
石材の代わりに須恵器を使用し古墳の 墓室を造ったものと考えられる。

方筒状土製品 方筒状土製品
北山遺跡 亀山市
考古学雑誌第17巻10号
中ノ川地域の考古学
より
方筒状土製品
金井場窯跡 徳居町
古墳時代後期
 


 2900平安時代

 2910
 2911


灰釉浄瓶
AI による概要

灰釉 花文浄瓶 | 鶴田 純久の章 お話「灰釉浄瓶(かいゆうじょうへい)」は、仏教儀礼や僧侶の日常で使用された水瓶の一種で、平安時代を中心に現在の愛知県周辺にあった「猿投窯(さなげよう)」などで焼かれたやきものです。美しい自然釉や精巧な造形が特徴で、日本各地の遺跡から出土しています。

灰釉浄瓶の主な特徴
・形状(フォルム): 胴部に水を入れるための「注口(ちゅうこう・添水口)」があり、頂上部の細長い首から少しずつ水を注ぐ・飲むための独特な形をしています。
・素材と釉薬: 灰を釉薬として使用しており、高温で焼かれることで美しいガラス質の緑黄色や淡黄色の膜をまとっています。
・文様: 高い技術で作られたものには、胴部などに雲や草花などの文様が線彫り(陰刻)されていることもあります。

由来と歴史
・元々はサンスクリット語の「軍持(クンディカー)」に由来し、インドなどで修行僧が携帯した水瓶がルーツです。
・平安時代頃からは、寺院での仏教儀礼用として国内の窯(主に猿投窯)で本格的に生産されるようになりました。
・現代では当時の高い陶芸技術や仏教文化を伝える重要な考古資料・美術品として、文化遺産オンライン や各地域の歴史博物館(九州国立博物館など)に収蔵・展示されています。

灰釉浄瓶(かいゆうじょうへい)
川原井遺跡 加佐登町
平安時代
土師器甕
津賀平遺跡 津賀町
平安時代

須恵器鉢
梅田遺跡 国府町
平安時代

 2913八稜鏡
津賀平遺跡
鈴鹿川左岸の台地上に位置します。 過去に行われた3回の発掘調 査から古墳時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡であることが判 明しています。
注目される遺物として八稜鏡が あります。 八稜鏡は平安時代に作 られた和鏡の一種で柱穴から出土 していることから地鎮などの祭り に埋納されたものと考えられてい ます。

八稜(はちりょう)
津賀平遺跡 津賀町
平安時代

津賀平遺跡

調査年月日 1989年
1994年7月4日~8月10日
1995年8月2日~9月30日


石銙(せっか)

 古代において、 官人 (役人)が公式衣装を着た時に使った革製の帯を革帯(かくたい)といいます。
この革帯には銙(か)という半円形や方形の飾りが連続してつけられていて、銙帯ともいいます。

 奈良時代には、金属製の銙が使われ、平安時代には石の銙が使われました。

 展示してあるものは,巡方(方形の)という種類の石銙(せっか)です。

石銙 石銙
津賀平遺跡 津賀町
平安時代


緑白二彩小壶
須賀遺跡 須賀
平安時代
 2915
土師器坏
津賀平遺跡津賀町
平安時代
灰釉皿
([智」墨書)
南浦廃寺 国分町
平安時代

須恵器平瓶
津賀平遺跡 津賀町
平安時代
 
 2920
 2921
伊勢国分寺跡
AI による概要


鈴鹿市伊勢国分寺跡は、奈良時代に聖武天皇の勅命によって日本各地に建立された官営寺院「国分寺」の一つです。大正11年に国の史跡に指定され、現在は整備された「史跡伊勢国分寺跡歴史公園」として親しまれています。

歴史と概要
・創建: 天平13年(741年)、仏教の力で国を護る(鎮護国家)ことを目的に、聖武天皇の詔により建立されました。
・場所: 三重県鈴鹿市国分町に位置し、僧寺と尼寺が置かれていました。
・発掘と現在: 昭和63年からの発掘調査によって金堂や塔、講堂などの大規模な伽藍(がらん)の配置が確認されました。

見どころ
歴史公園としての整備: 遺構のあった場所には舗装された見学路が整備されており、古代の寺院の規模を体感できます。
鈴鹿市考古博物館との連携: 敷地内に隣接する鈴鹿市考古博物館では、出土した貴重な遺物や模型が展示されており、歴史を深く学ぶことができます。

須恵器瓶子
伊勢国分寺跡 国分町
平安時代
須恵器蓋
伊勢国分寺跡 国分町
平安時代

灰釉段皿
伊勢国分寺跡 国分町
平安時代

 2923
三宅神社遺跡 (伊勢国府跡)
伊勢国総社に比定される三宅神社の東南に広がる遺跡です。 当遺 跡は平安時代における伊勢国府の 所在地に推定されています。 これ までの調査では奈良時代から平 安・鎌倉時代の掘立柱建物・井戸・ 土坑が数多く見つかっています。 今のところ官衙に関連する確実な 遺構は発見されていません。

AI による概要
大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)〈延喜式内社の論社〉 - Shrine ...三重県鈴鹿市国府町にある三宅神社遺跡は、平安時代における「伊勢国府」の所在地として推定されている重要な遺跡です。伊勢国総社に比定される三宅神社の南東に広がり、長きにわたる発掘調査で歴史の解明が進められています。
遺跡に関する主な特徴や発見物
伊勢国府の中核地域
古代の行政区画である伊勢国の中心地(国府)があった場所と考えられており、政治・文化の中心として機能していた重要なエリアです。
奈良・平安時代の遺構
これまでの発掘調査(区画整理などに伴うもの)により、8世紀末から11世紀頃(奈良時代から平安時代)にかけての掘立柱建物跡や多数の遺物が見つかっています。
神社との深い関わり
この遺跡のすぐ北側には、式内社の論社であり伊勢国の総社と推定される「三宅神社」が鎮座しています。中世以降の歴史や祭祀においても、この地域が拠点であったことが窺えます。

轆轤(ろくろ)土師器 坏
三宅神社遺跡 国府町
轆轤土師器小皿
三宅神社遺跡 国府町
平安時代
土師器小皿
三宅神社遺跡 国府町
平安時代
三宅神社遺跡
調査年月日 1996年
5月23日~31日
6月17日~7月17日
12月9日
灰釉小碗
梅田遺跡 国府町
平安时代
 2925長者屋敷遺跡は伊勢国府跡です
フイゴ羽口
長者屋敷遺跡 瀬町
奈良時代

 製塩土器
志摩式製塩土器
津賀平遺跡 津賀町
志摩式製塩土器
志摩式製塩土器
結晶化した塩を詰め込んで加熱して 水分を飛ばし、
焼塩にするために使わ れたと考えられる。
天王遺跡から伊勢湾を望む 
知多式製塩土器
津賀平遺跡 津賀町
平安時代
知多式製塩土器
海水を煮詰めて塩の結晶を 取り出すために使う。

製塩士器
天王遺跡 岸岡町
奈良時代  
 


 3100鎌倉室町時代
 3110


鎌倉室町時代
政治・経済・文化あらゆる面において旧来の 権威や伝統が意味を失った中世。
異類異形の輩が跋扈し、新たな時代の風潮は婆娑羅と呼ばれた。
発掘調査で得られた生活の跡は、絵巻物に描かれた 民衆の姿を彷彿とさせる。

西暦







1200

1300


1400




1500




柳之御所遺跡(岩手県)

一ノ谷墳墓群(静岡県)
1192鎌倉幕府成立
草戸千軒町遺跡(広島県)


1336室町幕府成立


1467~1477応仁の乱
一乗谷朝倉氏遺跡(福井県)

堺環濠都市遺跡(大阪府)
1573室町幕府滅亡
1682本能寺の変
 
鈴鹿の遺跡
敷田遺跡

椎山中世墓
大木ノ輪遺跡
中尾遺跡
竹野一丁目遺跡

橋門遺跡




沢城跡





神戸中学校遺跡
神戸城跡

鎌倉室町時代
青磁皿
梅田遺跡 国府町
鎌倉時代
青磁四耳壺
梅田遺跡 国府町
鎌倉時代
青白磁小壺
梅田遺跡 国府町
鎌倉時代


    数珠
伊勢国分寺跡 国分町
水晶
鎌倉時代
青磁碗
伊勢国分寺跡国分町
鎌倉時代
青磁皿
伊勢国分寺跡 国分町
鎌倉時代
青白磁小壺
伊勢国分寺跡 国分町
鎌倉時代

考古博物館
よ~くみてみよう なるほどポイント

この段に置いてある磁器のうつわと数珠は、平安時代末~鎌倉時代頃のお墓の中からみつかりました。
当時、青磁などの、中国から輸入されたとても高価なもので!
それをいくつもお墓に副葬していることから、この墓の主は国分寺の僧か、有力な官人だったのではないかと考えられます。
ちなみに、この時代の一般的なお墓に副葬されるうつわは、山茶碗や土師器です。
なるほどポイント


常滑燒壺
国分町
室町時代
青磁碗
中瀬古南遺跡 中瀬古町
鎌倉時代
白磁碗
狐塚遺跡 国分町
鎌倉時代
 3120山茶碗
餓鬼草子 瓦器皿
梅田遺跡 国府町
鎌倉時代
土師器羽釜
十宮古里遺跡
十宮四丁目
室町時代


山茶碗
AI による概要

 山茶碗(やまぢゃわん / やまちゃわん)は、平安時代末期から室町時代(12〜15世紀)にかけて、主に東海地方(愛知・岐阜周辺)で大量生産された日常用の無釉(ゆうやく・うわぐすりなし)陶器です。窯の周辺の山中から破片が大量に出土することからこの名が付きました。

山茶碗の主な特徴
・素朴な風合い: 釉薬をかけずに焼かれているため、土本来の素朴な味わいがあります。窯の炎によって生じる自然釉(ビードロ色)や焦げが見られることも特徴です。
・重ね焼き: 器を重ねて窯に詰める「重ね焼き」の技法が用いられており、高台(器の底)の部分に、くっつき防止の籾殻(もみがら)の跡が残っているものが多くあります。
・用途: 平安時代以降の一般庶民に広く普及した日用雑器(食器など)とされています。

歴史と背景
・ルーツ: 東海地方で発展した灰釉陶器(猿投窯など)から派生した器です。
・生産: 約400年間にわたり庶民向けの器として数多く作られ、当時の食文化や流通を知るための重要な考古資料にもなっています。

現在では、その簡素な造形と時代を経た土の質感が評価され、骨董品としての価値や、現代の食卓で使う器(酒器や小鉢など)としても人気を集めています。

山茶碗 - Wikipedia
山茶碗. 12~15世紀に東海地方で焼かれた無釉陶器の俗称。 言語; 読み込み中… PDFをダウンロード; ウォッチリス...

山茶碗
山茶碗とは. 山茶碗(やまぢゃわん)は11世紀ごろの常滑や瀬戸周辺のほか、東海地方西部で焼かれた日用雑器のことです。 日...

陶磁器お役立ち情報
木村達哉 on Instagram: "【山茶碗について】 山茶碗は平安時代末から ...
山茶碗は平安時代末から室町時代頃まで東海地方を中心に作られた無釉の量産雑器です。 焼成した窯跡近くの山中で大量に採取され...

山茶碗 山茶碗(兎墨書)
竹野一丁目遺跡
竹野一丁目
鎌倉時代
山茶碗(墨書土器)
天王遺跡 岸町
鎌倉時代

土師器皿
(「むめかく」墨書)
沢城跡 飯野寺家町
室町時代
 


 3400江戸時代

考古博物館
なるほどポイント!

織田信長の三男信孝は、天正8 (1580)年、神戸城を拡張するとともに、天守閣を築きました。
昭和40 (1965)年,庭園造成工事の際に発見された金箔瓦は,この天守閣に使われたものと考えられています。

 『鈴鹿市史』では、軒平瓦と紹介されていますが、
扁平な形状などから棟込瓦(むなごめがわら)などの飾瓦(かざりかわら)の可能性が考えられます。
金箔は,宝珠(ほうじゅ)鉤の手状(かぎのて じょう)の文様の突出した部分, 外縁(がいえん)に施されています。

土師器皿
十宮古里遺跡
十宮四丁目
江戸時代
陶器天目茶碗
十宮古里遺跡
十宮四丁目
江戸時代
なるほどポイント
金箔瓦
神戸城
神戸四丁目 (本多町)
室町~江戸時代
横櫛
平田遺跡 平田本町
江戸時代
 
 4000


 4000鉄鍛冶

国分寺を造る
伊勢国分寺跡 鈴鹿市国分町 8世紀中頃
国分寺跡の150m南で見つかった竪穴住居は国分寺の造営キャンプと考えられる。
鉄滓(てっさい) (スラグ) が出土していることから小鍛冶の様子を再現した。

国分寺を造る 小鍛冶 国分寺を造る 和釘を作る
 ※現代の古代寺院修復に際しても、同じ釘づくりが行なわれています。古代の釘も打ち直して再度使われます。


竪穴住居の内部 (想像図)
 四畳半ぐらいの広さの半地下式ワンルームの家です。

 奥の火が燃えているところは、カマドです。 (こしき) (蒸し器) や甕(なべ) を使って食事を作ることができます。
この中で、数人が共同生活をしていました。
竪穴住居の内部
(想像図)


 4200伊勢国府

伊勢国府とは
AI による概要


 伊勢国府は、奈良時代から平安時代にかけて、現在の三重県(伊勢国)を治めるための政治の中心地(国庁)が置かれていた場所です。行政や司法、軍事などの拠点として機能していました。

詳しい情報は、鈴鹿市公式ウェブサイトの国指定史跡「伊勢国府跡」の解説ページをご参照ください。(※そんなにくわしくはない)
伊勢国府に関する主なポイントは以下の通りです。
📍 所在地と範囲
長年の発掘調査の結果、現在の三重県鈴鹿市国分町・広瀬町および亀山市にまたがる一帯が、かつての伊勢国府(長者屋敷遺跡)であったことが確認されています。

・規模: 東西約600m、南北約800mに及ぶ広大な敷地でした。
・周辺環境: 古代の主要幹線道路である「東海道」や、古代の重要な関所である「鈴鹿関」に近い交通の要衝に位置していました。


国府の主な機能
 国司(くにのつかさ)と呼ばれる中央政府から派遣された役人が政務を執り行い、以下のような役割を担う施設の中心となっていました。
・行政・司法: 戸籍の管理、税(稲や特産物)の徴収、治安維持。
・関連施設: 国府の周辺には、国の平安を祈る「伊勢国分寺」や、神仏をまつる施設などがセットで置かれていました。

🔍 現在の状況
 長者屋敷遺跡として知られていた場所からは、大量の古代の瓦や掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)の跡が発見されています。その歴史的価値の高さから、国の史跡に指定されており、発掘された遺物や調査の詳細は亀山市歴史博物館などの資料で詳しく知ることができます。

 
 4210
伊勢国府

 国府は、古代「国」ごとに置かれた地方の役所である。
国府には中央から国司が派遣され、その業務は一般行財政をはじめ、裁判・軍 事など多岐に渡った。

 伊勢国司は古代三関(さんげん)の一つである鈴鹿関を管轄し、さらには斎宮寮(さいくうりょう) の長官を兼ねることもあった。
国府の中心的な施設である政庁では、儀式や饗(きょうえん)などが行われた。
正殿(せいでん)と東西の(わき)殿が左右対称に配置され、周囲に堀がめぐり、さらに同一場所で建て替えられるのが一般的である。

 鈴鹿市広瀬町の長者屋敷遺跡は奈良時代の伊勢国府跡である。
政庁は、八世紀中頃から後半にかけてのもので、瓦葺礎石建物からなる。
南面する正殿を中心に北の後殿と東西の脇殿が渡り廊下で結ばれる建物配置は隣の近江国府によく似ている。

伊勢国府
大宰府
伯耆国府
近江国府
伊賀国府
肥前国府
伊勢国府
下野国府
陸奥国府(多賀城)

伊勢国府政庁
長者屋敷遺跡 鈴鹿市広瀬町 8世紀中頃
門は未調査のため南門のみ想像復元し、基壇は整形・ 外装ともに認められないため現状のまま表現した。 (縮尺 1/200)

伊勢国府政庁
 4215

伊勢国分寺跡と周辺の発掘調査
 国分寺の全盛期である奈良・平安時代の遺構跡の他、国分寺建立以前に遡る郡衙関連の建物跡や鎌倉時代遺構の建物跡などが見つかっている。



ちぎれた写真から文章を復元しています
   考古博物館
よ~くみてみよう なるほどポイント

 たくさんの文字のに、こんな文字が書いて あります。
   「川勾郡」 
 この文字は「川勾郡(かわわぐん) 河曲郡(かわわぐん)」を表しています。
 博物館周辺の地域は「河曲かわの」と呼ばれています。これは古代の「河曲郡」に由来して
います。
「川勾」と「河曲」 文字を比べると、まったく同じ意味の漢字が使われていることがわ
かります。
     川=河 (勾=曲)

 古代の人は、「かわ」 + 「まがる」で (かわわと読み、)
どちらの漢字を使ってもかまわなかっ(たようです。)
 4217刻印瓦
安,水,宿
宿 文字瓦
長者屋敷遺跡 広瀬報
奈良時代
水・宿

水・宿

 4219
河曲(かわわ)郡衙

古代の地方行政の単位として国の下に郡があった。
各郡には役所(郡衙)がおかれ、役人 (郡司)は地元の有力豪族が 任用されて税の徴収などの実務をおこなった。
郡衙には中枢施設の、郡庁、徴収した税を納める正倉、宿泊施設の館、厨房施設の厨家などがあった。

実際の発掘では、方位を揃え配置された大規模な建物群があれば役所の可能性が高く、倉庫群である正倉や、正殿・脇殿が均整に配置される郡庁の存在から郡衙と認められる。

また墨書土器や硯、郡司がベルトに付ける腰帯(ようたい)具ほか、焼米の出土も有力な証拠となる。

伊勢国河曲郡の郡衙正倉は当博物館建設に先立ち実施した調査により発見された。台地の端部を板塀で区画した中に掘立柱建物の倉庫 十一棟がコの字状に配置されている。

河曲(かわわ)郡衙 河曲郡衙 筑後国御原郡衙
小郡市小郡遺跡
の遺構

近江国栗太郡衙
焼米とは?
炭化米の事?郡司が貢納された米を横領して、監査が始まる前に米倉庫に放火して御神火だと流布して証拠隠滅した、炭化米のことでしょうか。
 4230
 4231
都の暮らし ―食と住―
 平城京で発掘された長屋王の居宅は敷地が2町四方(約56000㎡)(東京ドーム1.2個分) を占め、築地塀に囲われた中に檜皮葺きの掘立柱建物が整然と立ち 並ぶ。 邸内には居住、厨房関係の施設のみならず、武具・馬具や仏 像の工房、写経所までが整備されていた。 庭には池のある庭園もあり宴の場となったであろう。池に放たれていた鶴には飼料として米を与えていた。

 一般庶民の住居は1町(約1万㎡弱)を32に区画(約300㎡93坪)あるいは64に区画(約46坪)したものであった。 小さな掘立柱建物1棟と井戸そしてささやかな蔬菜畑がせいぜいの宅地である。
 (※現代の宅地にしては広いが、自給自足が基本の時代だから居宅は小さく、菜園を広げなければ生きられなかったのか)

 食生活にも格段の差があった。当時は一日2食が基本である。
 貴族 の場合、当然主食は白米で、副食には鮑、鯛、鮎など全国からの山 海の珍味が膳を賑わせた。 通常の食事は土器も使われたが、儀式や 宴会の際は金属の器が用いられた。長屋王は氷室をも所有していて、 夏にはオンザロックを楽しむこともできた。
 下級役人や庶民の日常の食事は極めて質素であった。主食は玄米、 基本は一汁一菜か二菜で、味つけは塩のみの味気無いものであったろう。この点では、山海の幸がたやすく手に入る地方の農民の方が まだ恵まれていた。
 (※この頃はまだ、むらさき=醤油や味噌はなかったようだ。)


都の暮らし
―食と住―
都の暮らし
―食と住―
都の暮らし
―食と住―
貴族の居間 長屋王邸
 4232
貴族の食卓
奈良時代貴族の日常の食卓を再現した。 季節は秋頃。 主食は白米の。副食はアユの姿煮 肉なます、アワ ビのウニあえ、ワカメの汁。 季節の果物としてクルミ、 シイの実、ヒシの実、里芋、ミカンが添えられる。

貴族の食卓 貴族の食卓
里芋
ミカン
シイの実
ヒシの実
クルミ
ワカメの汁
アワビのウニあえ
アユの姿煮
肉なます
白米
 4233
鬼瓦
伊勢国分寺跡国分町
奈良時代
文字瓦
川原井遺跡 加佐登町
奈良時代
 4235
遺跡からみた奈良時代の村

 写真(下の寺山遺跡)は掘立柱建物とそれを取り巻く小型の竪穴住居からなる典型的 な奈良時代の村である。
竪穴住居は地面を方形に掘り下げ、面積は十平方メートル未満、壁を掘り抜いてカマドを作り付けている。

 屋根は主柱を持たない合掌式とみられる。出土遺物も煮炊き用、食器の少量の土器であることが多い。 このような竪穴住居での生活は、有名な山上憶良の「貧窮問答歌」 の情景をほうふつとさせるものがある。

 ところが、この地域では比較的早くから竪穴住居は建てられなくな り、奈良時代末頃にはほとんどの住居は掘立柱建物へと転換する。 掘立柱建物の建築には今までにない建築技術と資材が必要であり、 このことからみて民衆の大多数は厳しい税の負担にも関わらず、着実に生産を向上させ力を蓄えていたとみられる。

とはいえ、奈良時代前半に整然とした掘立柱建物群が建てられていたにもかかわらず中頃に再び竪穴住居化する集落や、突然断絶する 集落の例もあり、村社会の発展は一筋縄にはいかなかったようだ。

遺跡からみた奈良時代の村
遺跡からみた奈良時代の村
寺山遺跡
木田坂上遺跡

庶民の食卓
一般庶民の食卓を、都の下級役人に支給された食 事にもとづいて再現した。 主食は玄米それも雑穀 混じりの飯。 副食はヒジキの煮物に塩、山菜ある いは野菜の汁である。 地方の庶民の日常の食事内 容もこれに類似したものであろう。

庶民の食卓 庶民の食卓
野菜の汁

ヒジキの煮物
玄米

 4321伊勢国分寺瓦
 伊勢国分寺跡の主要伽藍は、講堂・金堂・中門・南門を南北に一直線上に並べ、中門と金堂を回廊でつなぎ, 塔を回廊の外に配置する東大寺式伽藍配置を採用していると考えられます。

 約180m四方を築地塀に囲まれた主 要伽藍は,西2/3 に配置されています。 東1/3のほぼ中央には創建期に小院を設けます。 その中央には正方形の建物基壇の痕跡があり、塔の可能性が考えられています。 小院の北に大型の建物を配置し, 周辺から土師器・須恵器などの土器類とともに製塩土器や炭化物が出土したことから、食堂と考えています。 南東隅にも大型の掘立柱建物 2 棟が並列しています。 その後、小院は 廃絶し、 北半分を区画する北東院へと・・・

鬼瓦 飛雲文○単弁八葉○蓮華文軒丸瓦
均整唐草文軒平瓦 均整唐草文軒平瓦
伊勢国分寺跡出土
伊勢国分寺跡の
主要伽藍
単弁八葉蓮華文軒丸瓦
伊勢国分寺跡出土
 4500年表
 
 4600伊勢国分寺瓦
 4610

文字がわら
 古代の瓦には 「水」 「宿」 「守」など様々な印が付けられているものがあります。 これ らは文字瓦とよばれています。
伊勢国府跡の文字瓦が示す目的や意味ははっきりわかっていませんが, 生産者をあら わすものであるとか, 瓦造りの費用を負担した土地や人をあらわすものであるとか, 使 う場所をあらわすものなどが考えられます。
いずれにしても, 整理するために付けられたと考えられ, それだけ多くの人がかかわっ た大規模な公共事業であったということをうかがい知ることができます。

 その時代に誰が何の目的でそれを作ったのか、わかっていないことはまだまだたくさんあります。 昔の人が残した土に埋もれていたモノを証拠に, まだわかっていない昔の ことを解き明かしていく, それが考古学なのです。

文字がわら
手,宿,百,水
文字瓦
伊勢国府跡
奈良時代
?,守,人

瓦のもよう
 古代の瓦の代表的なものには,平瓦, 丸瓦、軒平瓦, 軒丸瓦, 鬼瓦などがあります。
 平瓦丸瓦のうち軒先に使う瓦には 模様が付けられ, 軒平瓦, 軒丸瓦と呼 ばれます。

 日本で瓦が屋根に使われるようになったきっかけは, 仏教が伝来し, 寺を建てるように なったことでした。 このため, 軒丸瓦には仏教と関係が深いハスの模様がよくつかわれま した。 また, 軒平瓦には, シルクロードそして遥か西の国へのあこがれから,唐草文がよ くつかわれました。
しかし, 伊勢国府には重圏文・重廓文と呼ばれるシンプルな線で囲ったもようが使われ ています。 このもようは、聖武天皇が建てた難波宮で使われた瓦とよく似ており,また, 聖武天皇が伊勢へ旅をした時に訪れたとされる場所の周辺でも見つかっています。 役所で ある伊勢国府には,政治的な理由からこの模様が使われたと考えられます。

瓦のもよう 平瓦
鬼瓦
面戸瓦
鴟尾
熨斗區
丸瓦
鳥衾
軒丸瓦
軒平瓦
山本忠尚著「日本考古学用語辞典」より転載

寄贈品
この遺物は神戸高校の郷土史研究クラブOBの方々からのあずかりものです。
高度経済成長期には、鈴鹿市でも道路整備や、住宅地・工業地の開発などでたくさんの 遺跡が壊されそうになりました。 しかし、その当時の発掘調査は,行政の体制が整っ ておらず, 神戸高校郷土史研究クラブや、三重大学歴史研究会などによって行われるこ とが多く、みつかった遺物については,学校などで保管されることも多かったようです。 現在に至る鈴鹿市の考古学は, こういった歴史愛好家たちの手によって支えられてき たのです。

寄贈品



 4620
 4623
飛雲文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦 鬼瓦

磚(せん)
 伊勢国分寺跡からは板状のA 類, 短軸断面が正方形となる 角柱状のB類, 短軸断面が台 形となるC類の3種類のが 出土しています。
講堂・金堂 の基壇は塼 (レンガ) によっ て化粧を施しており, 主に台 形のC類が使用されています。
この台形の塼は全国的に見ても類例のない, 非常に珍しいものです。



 
 4700
 4710鈴鹿の古代瓦
鈴鹿の古代瓦 土師南方遺跡
天王屋敷遺跡
山田寺金堂跡
山田寺の瓦

 六世紀終り頃大和国に始まった寺院建設は七世紀半ばを過ぎて地方に波及した。
天王屋敷遺跡はその頃の寺院跡である。

地方に伝えられた建築技術の系譜は土師南方遺跡南浦(大鹿)廃寺にみられる山田寺川原寺系軒瓦によく表れている。

八世紀中頃に建てられた伊勢国分寺(※150年も後に建てられた。建築技術は成熟していた)では、僧寺と尼寺とで異なる形式の軒瓦が用いられた。
国分寺と同じ頃に建てられた伊勢国府においては国分寺とは異なる後期難波宮系軒瓦(8世紀726年造営開始の最新技術)が主体を占め、平城宮(710年造営)のものと同じ型で作られた瓦がこれに加わる。(それでも建築は25年瓦は50年経った技術だった)

その一方で国府と僧寺、国府と尼寺、尼寺と南浦廃寺、八野遺跡(瓦窯跡)と国府・尼寺など同形式の軒を共有する関係も認められる。

河原寺の瓦 難波宮の瓦
 4720
南浦廃寺
伊勢国分僧寺跡
 
 
 
 
 
 
 



  '26.02.05 感謝490,000アクセス 約12ヶ月今後は、1万アクセスいただくのに約17ヶ月を要するようです。
  '25.02.08 感謝480,000アクセス 約9ヶ月
  '24.05.14 感謝470,000アクセス 約8ヶ月
  '23.09.12 感謝460,000アクセス 約10ヶ月
  '22.11.21 感謝450,000アクセス 約7ヶ月
  '22.04.20 感謝440,000アクセス 約7ヶ月
  '21.09.02 感謝430,000アクセス 約9ヶ月
  '20.12.29 感謝420,000アクセス 約6ヶ月 北相木村博物館様のおかげです。
  '20.06.21 感謝410,000アクセス 約8ヶ月
  '19.10.06 感謝400,000アクセス 約8ヶ月
  '19.02.05 感謝390,000アクセス 約8ヶ月
  '18.06.18 感謝380,000アクセス 約10ヶ月
  '17.08.26 感謝370,000アクセス 約10ヶ月
  '16.10.23 感謝360,000アクセス 約9ヶ月
  '16.01.29 感謝350,000アクセス 約11ヶ月
  '15.02.07 感謝340,000アクセス 約13ヶ月
  '14.01.19 感謝330,000アクセス