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出雲玉作資料館
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福市考古資料館
米子市埋蔵文化財センター
上淀白鳳の丘展示館
妻木晩田遺跡
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善通寺市立郷土館

詫間町民俗資料館・考古館
詫間町民俗資料館・考古館
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長野県立歴史館
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松本市考古博物館2

松本市考古博物館1
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安城市歴史博沖縄写真通信物館2

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浅間縄文ミュージアム1
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黒部峡谷と欅平
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金沢市内観光
2014南の縄文
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屋久島周遊
屋久杉自然館
屋久島町歴史民俗資料館
中種子町立歴史民俗資料館
種子島ドライブ
開聞岳周辺ドライブ
指宿市考古時遊館Coccoはしむれ
鹿児島市立ふるさと考古歴史館
ガンガラーの谷
上野原縄文の森
沖縄県立埋蔵文化財センター
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モヨロ貝塚館
北海道開拓記念館
北海道立埋蔵文化財センター
小樽市総合博物館運河館
赤レンガ庁舎
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恵庭市郷土資料館
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北小金貝塚
北陸の縄文
入江・高砂貝塚館
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三内丸山遺跡
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2013中部地方の縄文
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2026/5/19(火)
今回記事「安土城考古博物館」  前回記事「松阪市嬉野考古館」

10/18(日)
➀粒子線照射の影響が見た目に明らかになってきた。
 明るさも、色も、光もない、放射線、だが、短時間の照射を積み重ねて、10日あまりです。
 前立腺の場合、恥骨結合の左右、陰茎の根元をねらって、両足の付け根外側付近から照射するのですが、照射位置の皮膚が赤く焼けている。

 放射線によって日焼けのような現象を起こしている。ひりひりする。と、同時に痔になった。
 私の場合、刺激物を食べたり、下痢を起こして何回も排便すると起こるが、今回は原因不明だ。

 週一で行なわれる医師面談で、先週、この痔は粒子線照射によって肛門も激しく日焼けしたせいでしょうね。
 と言うと、断固否定した。粒子線は前立腺付近にしか当たっていない。それは、理論値ですね。いいえ、絶対に当っていない。

 しかし、前立腺照射場所の両足の付け根には、たて15cm横10cmにわたって放射線焼けで皮膚が赤くなっている。
 医師の理想とはかけ離れて、実際の放射線技師達には、ピンポイントで見えもしない前立腺だけに照射できる能力はない。
 皮膚のやけどと同じ、かなり広い範囲に照射しているようだ。
 結論として、肛門が放射線焼けで皮膚が弱り、裂けて痔を引き起こしたようだ。

 この、医師との問答の中で、一つ重大な知識を得たことがある。それは、殺菌剤だ。
 患部に痔の薬(ボラギノールやラナンキュラス)を塗ってもちっとも腫れが引かないが、それは、麻酔と傷薬に特化しているからだ。
 そこで医師の言う殺菌剤(ピロエース:抗生物質+抗真菌剤:通常水虫・たむし薬として販売)を試してみると、あっという間に腫れが引いた。
 そこに痔の薬を麻酔薬として使用。(私は水虫・たむし、ではない)

 先にも述べたように、この痔は放射線焼けであるため、放射線治療が終了するまで恢復のめどが立たないが、目前の痛みと腫れは押さえられる。
 
②栗の渋皮煮を沢山作ってあちこちにあげた。ロピアで3000円分の栗を、鬼皮だけを必死にむいて、重曹と共に煮て、
 渋皮の周りについた筋や皮を親指の腹や竹串で取って、また、重曹で煮るを繰り返し、三~四回繰り返したら、水だけで煮て、
 最後に水と砂糖と落し蓋で煮る。煮詰まって来たところで火を止め、取り出すか、そのまま放置して一晩位は置く。
 すると、栗の中に含まれていた水が流れ出て(放置すると鍋の中に出る)、これを最後に煮あげてドロドロの砂糖液になったら火を止める。

 この菓子作りをする時の重大な注意点は、『渋』はタンニンで染色に使われる物質。これが衣服につくと直ちに薄茶色のシミとなって染色され、取れない。
 だから、人にあげる時には、けっして、素手で触らない。触った手は必ず流水で洗うことを明記しておくことです。

付帯:あまった栗はそのまま冷凍庫に入れておくと一年間保存できる。冷蔵庫では腐ります。

③粒子線照射など、一連の病院通いと、写真編集などで多忙になり、薬屋コスモスで買っていた6枚切り食パンと牛乳を買うのが煩わしくなった。
 食品スーパーのラ・ムーでパンの耳が100円ほどで売られていて、はたと思いついた。
 パン耳って、小麦粉がギュッと詰まって焼かれている部分。白い部分は空気層で膨らました部分。だとすると、パン耳一枚で十分なカロリーあるな。
 で、二回ほど買って試してみた。最初は耳二枚食べたが、これは食べ過ぎだった。一枚で十分だとわかった。

 三回目に買おうとしたらなくて、代わりにラムーオリジナルの40cm前後の食パンが目についた。200円だった。試しに買って食べたら随分おいしく柔らかい。
 4~6枚切りの食パンは買った時から乾いてカサカサで飲み物なしでは食べられないが、これは違った。
 以前、8時頃に市内の喫茶店店主がずらっと並んで買い求めていたのだ。だが一般客は意外と誰も買わない。きっとまずいと思っているのだろう。
 それ以来これで三回買っている。小腹がすくと、菓子を食べてどんどん豚るのだが、これはホルモン療法で体が更年期女性と同じになっているからで、
 ホット・フラッシュもたびたび起こる。が、まぁ、それ以前から食べすぎ運動不足で腹が飛び出していて、ウエスト95cmとなっている。

 現在は、菓子食を押さえ、こばらすきには、食パンの薄切りを食べることにしている。菓子代も浮くし、手間が省ける。

次回更新 2026/11/ 上旬をめざしています。
毎回申し上げておりますように、一つ作ってはすぐに出し、の状態です。ご容赦ください。

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 2026.01.18

(安土信長系博物館3館)
  今回のページに含まれる博物館と公式HP
   安土城考古博物館  近江八幡市安土町下豊浦66  (駅からのルート)
   安土城天守 信長の館 近江八幡市安土町桑実寺77  (考古博物館の裏側。敷地内を通っていける)
   安土城郭資料館   近江八幡市安土町小中700  (信長公像から地下道を通ればすぐ)

  安土城考古博物館 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
    0748-46-2424 月曜休館 9時~17時 料金¥600

   ➀安土城考古博物館
   ②安土城天守 信長の館 (安土城考古博物館の隣)
   ③安土城城郭資料館  (JR安土駅の南隣)
     ※3館とも休館日・開館時間は同じ。

交通 JR琵琶湖線安土駅より駅北のレンタサイクル。レンタサイクル店は無人。自転車選びは慎重に。特に故障車。
・レンタサイクル店に手荷物預かりもあるが、但し無人なので、ちょっと置かしてもらうだけ。貴重品は絶対×。
・サイクル店を背に右に出るとすぐ地下道があり、抜けるとすぐに安土城城郭資料館。
・サイクル店を背に左にしばらく進むと地下道があり、右に抜けると安土城跡から一連の信長系博物館が広大な田圃の遠景に見える。

近隣博物館 信長の館。城郭資料館。かわらミュージアム。特別史跡安土城跡。
滋賀県の博物館   立派な博物館が多数あり、車でまわれば湖畔の風景も楽しい。

近隣観光地 付近の観光地。 滋賀県の観光地。 ロックイベント。

 
 目次


01安土城考古博物館
10安土城跡
30第1常設展示室
40近江の戦国時代
60信長の生涯
100企画展示室
110粟津湖底遺跡
112土製石製骨製品
118滋賀県の遺跡
119先史時代年表
120琵琶湖湖底遺跡
122針江浜遺跡

130縄文時代
131プロローグ
132遺物

140弥生時代
141縄文から弥生へ
143弥生土器の変遷
160大中の湖南遺跡
161水田と農具
163木製農耕具
165大中ムラの生活
173金属器生産と玉造り
180祈りとまつり
※考察 祖霊像分布
190古代楽器
※考察古代楽器 琴
200稲作作業
220銅鐸のマツリ
221大岩山銅鐸
222銅鐸の変遷
240管玉
242玉造資料


250古墳時代
250王の姿
260瓢箪山古墳
261卑弥呼の鏡
※三角縁神獣鏡の段階
263古墳 副葬品
270副葬品
280土師器・須恵器
310玉類
317祭祀具
320埴輪
340槍戦士と騎馬
343鉄製甲冑変遷
351新開古墳の世界
361大陸文化の摂取
362武具武器の副葬
403山津照神社古墳
411穴太飼込古墳群
413副葬カマド
440雲雀山古墳群
451稲荷山古墳
453金銅製装身具
460横穴式石室
471寛弘寺古墳群


600第2常設展示室
603安土城の復元
611土づくりの城
620支配の拠点へ
630戦国大名と城
633関津城と出土品
640城郭の石垣
650安土城の石垣
661六角氏の観音寺城
670浅井氏の小谷城
680戦国時代の近江
703観音寺城跡出土資料
705観音寺城下町
711中世近江の村々
713須恵八幡神社文書
720安土城の歴史
730信長の大船
741信長と鉄砲
742金箔瓦
750羽柴秀吉邸模型
761安土城の発掘
765安土城の金箔瓦
767米蔵跡金箔鯱瓦
800長柄の槍
811信長の姿
821信長の世界
822肖像画
823朱印状
830近世城郭の登場

900回廊展示
930湖底遺跡の地震跡

1000安土城天主
   信長の館
     文芸の郷


1010外観
1110三英傑
111安土城の変遷
1115南蛮図屏風
1120復元天守1階
1150安土城の瓦
1156金箔瓦
1158彫金
1160饗応膳
1200復元天守
1300天守内部障壁画
1350天守再建
1370石引ジオラマ
※考察 石引 イベント

2000安土城郭資料館

2020安土山模型
2030安土城構造模型
2050陶板画
2070
安土城デザイン意図
 


 01 安土城考古博物館 2026.01.18-1


 10安土城跡
特別史跡 安土城跡
 織田信長が天下統一を目前にしてその居城として築いた城である。天正四年(一五七六 信長43才)着工、天正九年ごろ竣工したと認められる。
天正十年(一五八二)六月、本能寺の変の直後に天閣等も罹災し、ついで廃城となった。

 琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城域とし、各所に石垣を築き、中央に七層の大天主閣をはじめ各殿舎等を建て雄大かつ壮観を極めた。また山ろく平地には城下町を形成するなど近世城郭の先駆であった。

 現在、城の縄張りを知ることのできる石垣石段・礎石等のほか、罹災をまぬかれた織田氏の菩提寺である総見寺の三重塔・楼門および金剛力士像(いづれも重要文化)が残存している。

※資料 本来、琵琶湖湖岸に建設されたはずの安土城が現在田圃の中にあるのは、1972年(昭和47)国の、琵琶湖総合開発事業、によって、
琵琶湖の出口洗堰(あらいぜき)を1.5m下げ、下流域に大量の水を供給できるようにした。
 これによって、滋賀県民が「文句ゆうたら琵琶湖の水止めたで~!」と言っても止まらないようになってしまった。
この琵琶湖の水位低下によって、琵琶湖湖岸に広大な農地が生まれたと同時に、
生態系が壊され、例えば、ヤチ鼠が激減した。ネズミが減ったらいいことだと…ですが、この鼠は湖岸に生える葦原に棲息し、この鼠の髭が
漆絵師が極細の線を引くときの筆となるのです。他の物で代替えすることは不能なのです。

安土城跡
レンタサイクル店から東に進み地下道を右にくぐれば

現在はまだ一面の田圃の中に、安土城跡、考古博物館、文芸の郷を
一望できます
特別史跡 安土城跡


 20安土城考古博物館
安土城考古博物館

「城郭」と「考古学」をテーマとした県立博物館
安土文芸の郷
織田信長ゆかりの歴史・文化・芸術の発信拠点
あづちマリエート
ゴシック調ルネッサンスデザインの総合体育館・多目的ホールです
安土城考古博物館 博物館入口


 30第1常設展示室(シアタールーム)
   この展示室では、定時に資料映像が上映されます。
 40近江の戦国時代

近江の戦国時代
Omi in the Sengoku, Warring States Period

強大な戦国大名が生まれなかった近江では、 守護 六角氏を中心に、武士や寺、町や村などが自立して 地域に割拠していましたが、 信長 ・ 秀吉 ・ 家康の登場 により、統一権力の支配に組み込まれます。

Omi Province did not have a single powerful Sengoku warlord,
and the samurai, temples, towns, and villages were mostly
independent, centering on the Shugo, or regional governors, the Rokkaku clan. Eventually, with the appearance of Oda Nobunaga, Toyotomi Hideyoshi, and Tokugawa Ieyasu, Omi was incorporated into the rule of a unified power.

近江国には強力な戦国武将は存在せず、武士、寺社、町、村は概ね独立しており、
守護、すなわち地方の支配者である六角氏を中心に勢力を保っていた。
やがて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出現により、近江は統一勢力の支配下に組み込まれることになった。

近江の戦国時代

 近江の戦国時代
14767仁の乱
1487鈎の陣
1502第一次伊庭氏の乱
1514第二次伊庭氏の乱
1525黒橋口の戦い
1527足利義春朽木へ動座
1528足利義春桑実寺へ動座
1536天文法華の乱
1546足利義輝坂本で元服
1550足利義春穴太で死去
1560野良田の戦い
1563観音寺騒動
1567六角氏式目制定
1568織田信長箕作山城攻略
1570鐘ヶ崎退き口
1570姉川の戦い
1571延暦寺焼き討ち

 50坂本築城


1572坂本城築城
1573小谷城落城
1573鯰江城開城
1574長浜城築城
1576安土城築城
1577安土山下町中
掟書発布
1578大溝城築城
1579安土城天守完成
1582明智光秀安土入城
1582山崎の戦い
1582安土城天守炎上
1582織田信長安土城入城
1583織田信雄安土城下に掟書発布
1583賤ケ岳の合戦
1585八幡山城築城
1600佐和山城落城

1609彦根城築城
1615大坂夏の陣

 60信長の生涯

 63
織田信長の生涯
The Life of Oda Nobunaga

戦国末期に登場した織田信長は、天下人として戦 乱の無い 「天下静謐」を目指します。 時代の変革者 と見られがちな信長ですが、 戦国末期という時代の 現実に冷静に対応したリアリストでした。

Oda Nobunaga, who emerged in the 16th century, late Sengoku, or Warring States Period, aimed to unify and rule Japan, creating a peaceful world without warfare. Today, Nobunaga is often seen as a revolutionary of his era, but he was a realist who calmly responded to the realities of his time.

16世紀、戦国時代末期に登場した織田信長は、日本を統一し、戦争のない平和な世界を築くことを目指した。今日では、信長はしばしば時代の革命家と見なされるが、実際は当時の現実を冷静に受け止めた現実主義者であった。

織田信長の生涯
 70
織田信長の生涯 1582本能寺の変
1582行幸後殿見学
1581盂蘭盆会
1581ヴァリニャーノ帰国
1581京都馬揃え
1580安土山城屏風絵製作
1580大坂本願寺開城
1580ヴァリニャーノ安土城訪問
1580安土セミナリヨ建設
1576安土城築城開始
1575家督譲渡
1575任官
1575越前一向一揆殲滅
1575長篠の戦
1574伊勢長島一向一揆殲滅
1573室町幕府滅亡
1570大坂本願寺挙兵
1568上洛室町幕府再興
1567美濃攻略岐阜入城
1563小牧山城築城
1560桶狭間の戦い
1559上洛
1558岩倉城攻略
1554清州城入城
1553斎藤道三と会見
1552家督相続
1548結婚
1547初陣

1546元服
1534誕生
 90安土城プロジェクションマッピング
六角時代の安土 元亀元年横山城開城 信長時代の安土 現代の安土
 


 100企画展示室
   旧石器から古墳時代までの遺物が展示されています。
 101全景

企画展示室
特別陳列IV

「滋賀の縄文・弥生・古墳時代」
会期: 令和7年11月29日 (土) ~令和8年2月1日 (日)
会場: 企画展示室

滋賀の縄文・弥生・
古墳時代

 110粟津湖底遺跡
 111
大津市
縄文時代中期
粟津湖底遺跡

粟津縄文人の生業カレンダー
これまでも状況証拠などから同様なカレンダーは推定さ れていたが、第3貝塚の調査では確実な証拠を裏付ける ことができた。
 瀬口眞司 「琵琶湖に眠る縄文文化 : 粟津湖底遺跡』 (洋泉社、2016年) 掲載図を一部改変

粟津縄文人の生業カレンダー
冬
狩りは一年中おこな われていたが、 冬が最盛期だった。

秋~初冬
木の実拾い。
イモやムカゴなども採集対象だった可能性がある。

春~夏
魚捕り・シジミ採り、春には、山菜などの 採取も想定できる。


粟津縄文人の食卓
分析の結果、獣類10.9%(0.1%はイノシシ、シカ以外)、 魚類20.0%、 貝類 16.7%、 植物 52.4%となった。 当初の想像より、 獣類の割合が少なく、 植物や魚介類の 割合が多いことがはっきりと判明した。
 瀬口眞司 「琵琶湖に眠る縄文文化 粟津湖底遺跡』 (洋泉社、2016年) 掲載図を一部改変

粟津縄文人の食卓 獣類10.9%
 イノシシ(8.6%)
 シカ  (2.2%)
魚類20.0%
 フナ (7.2%)
 コイ (4.7%)
 ナマズ(6.6%)
 ギギ (1.5%)
貝類16.7%
 シジミ(16.7%)
植物52.4%
 イチイガシ(5.3%)
 トチノキ (38.9%)
 ヒシ   (8.2%)
・鹿の捕獲率が少ない
・食べやすいイチイガシが少なく
 あく抜きに手間のかかる栃の実が
 多いのは、栽培していたのか
粟津湖底遺跡 貝塚
約 5,000年前
粟津湖底遺跡
セタシジミ主体の貝層

 112縄文土器

粟津湖底遺跡の土器は何式か
滋賀県大津市の粟津湖底遺跡(あわづこていいせき)では、複数の時期の遺構から異なる様式の縄文土器が出土しています。

・第3貝塚(縄文時代中期前葉)
 • 船元I式(ふなもと1しき)を主体としています。
 • あわせて、新保式(しんぽしき,北陸系)、北裏CI式・CII式(きたうらC1・C2しき,東海系)なども出土しています。

・自然流路(縄文時代早期前葉〜中葉)
 • 大鼻式(おおばなしき,近畿東海系)や神並上層式(こうなみじょうそうしき,近畿・西日本系)などの押型文土器が出土しています。

※縄文早期には近畿・西日本系縄文人が定住し、自然流路に土器を投げ込んでいた。
 縄文中期前葉に西日本系,北陸系,東海系と、住民が著しく変化し、土器の投入も、川から湖へ直接投入した。

深鉢
 113湖底出土遺物
 
粟津湖底の土偶
粟津湖底の土偶は、滋賀県大津市の粟津湖底遺跡(琵琶湖の湖底)の第3貝塚などから出土した、縄文時代中期(約5,000年前)の土偶です。

粟津湖底の土偶の特徴
• 出土背景: 水中(湖底)の良好な保存環境のなか、貝塚から縄文土器や漆製品などとともに発見されました。
• 造形的意義: 本格的に土偶の製作が全国で激増する時代への移行期に位置づけられており、当時の造形文化や精神世界を伝える貴重な資料となっています。
• 表情・デザイン: どこかユーモラスで微笑んでいるようにも見える表情や、顔面に刻まれた入れ墨状の鋭い文様などが特徴です。

土偶

 石器など
石鏃
石匙
 
 
石皿と磨石 シカ骨製ヤス
漆塗り竪櫛
シカ骨製ヤス 漆塗り竪櫛

 115道具
鹿角製の斧柄 セタジジミ スッポン

※セタシジミ
➀貝塚の貝層はヤマトシジミではなく、在来種のセタシジミでした。
②セタシジミ貝の胴部に開けられた穴は何だろう。
 琵琶湖では春先に、前年に産み付けられた鮎の卵からかえでた小魚が、沿岸に群れいて、これを追い込んで捉える小鮎漁があります。
 長い竿の先にカラスの羽を付け、水中に音がするものを別の棹で引っ張って追うのですが、この漁法に使った貝殻ではないかと
 私は想像しています。
 116
スッポン イノシシ右下顎骨

 118滋賀県の遺跡
滋賀県の遺跡
遺跡数 約4,600ヶ所
(湖底遺跡 約100ヶ所)
古墳 4,000ヶ所以上
宮都 3ヶ所
滋賀県の遺跡 塩津丸山古墳群
塩津港遺跡
北牧野古墳群
黒田長山古墳群
古保利古墳群
尾上浜遺跡
葛籠尾崎湖底遺跡
王塚古墳
針江浜遺跡
熊野本古墳群
長浜茶臼山古墳
垣籠古墳
山津照神社古墳
入江内湖遺跡
松原内湖遺跡
上御殿遺跡
鴨稲荷山古墳
打下古墳
荒神山古墳
曼陀羅山古墳群
神郷亀塚古墳
大中の湖南遺跡
春日山古墳群
金剛寺野古墳群
安土瓢箪山古墳
千僧供古墳群
西河原古墳群
八幡社古墳群
烏丸崎遺跡
壺笠山古墳
雪野山古墳
木村古墳群
相谷熊原遺跡
太鼓塚古墳群
下之鄉遺跡
大岩山古墳群
錦織遺跡
大津宮跡
伊勢遺跡
皇子山古墳
岩瀬谷古墳群
新開古墳
和田古墳群
植遺跡
膳所城下町遺跡
膳所茶臼山古墳
石山国分遺跡
粟津湖底遺跡
近江国庁跡
唐橋遺跡
関津遺跡
宮町遺跡
紫香楽宮跡

 119先史時代年表


縄文時代
年代 時代  事 項

前7,300年頃
前3,200年頃
前2,500年頃

前1,400年頃


前800年頃
縄文
早期
前期
中期

後期


晚期

大津市石山貝塚・粟津湖底遺跡、 守山市赤野井湾遺跡などで、定住はじまる。
粟津第1・ 2貝塚などで集落が営まれる。
粟津第3貝塚、 米原市起し又遺跡、 長浜市醍醐遺跡などで集落が営まれる。

東近江市正楽寺遺跡・今安楽寺遺跡、 甲良町小川原遺跡、大津市穴太遺跡など各地に大集落が営まれる。 彦根市松原内湖 遺跡で10隻の丸木舟出土。

高島市北仰西海道(きとげにしかいどう)遺跡や大津市滋賀里遺跡などに大集団墓地が営まれる。
 弥生時代

前6世紀頃


前3世紀頃


1世紀頃
弥生
前期


中期


後期

守山市小津浜(おづはま)遺跡・服部遺跡や長浜市川崎遺跡など湖岸や 低湿地に稲作を主体とした農耕集落が出現。

近江八幡市大中の湖南遺跡で木製農耕具を多用する農耕集落 が営まれ、守山市下之郷遺跡などでは大規模な環濠集落が成立。

守山市伊勢遺跡や栗東市下鈎(しもまがり)遺跡、 高島市針江川北遺跡など では、地域首長の居館が出現し、 野洲市大岩山に銅鐸24個が 埋められる。 高島市熊野本遺跡で高地性集落出現。
古墳時代

4世紀頃

5世紀頃


6世紀頃
古墳
前期

中期


後期

東近江市雪野山古墳や近江八幡市瓢箪山古墳など、豊富な副葬品をもつ大規模な前方後円墳が築かれる。
東近江市木村古墳群などで、平地に大規模な古墳が築かれ、大陸文化の影響を受けた、鉄製武具・武器を多量に副葬する栗東市新開古墳などが築かれる。

野洲市甲山古墳、米原市山津照(やまつてる)神社古墳、 高島市鴨稲荷山(かもいなりやま)古墳など大型石室や石棺を伴う首長墓が、 華麗な金銅製の冠 履・馬具などを副葬してきずかれる。 また、 大津北郊に渡来系 集団による横穴式石室の造墓がはじまり、 大群集墳を形成。 平野部には渡来人集落も営まれる。


 120滋賀県の遺跡
 120琵琶湖湖底遺跡
 121
琵琶湖の湖底遺跡
 湖底遺跡とは、琵琶湖や内湖の湖底(干拓により 陸化された場所も含む) にある遺跡のことを指し、 約100箇所あります。
 県外では、 北海道の網走湖底遺跡、 長野県の諏訪湖底遺跡などが知られますが、琵琶湖のようにこれほど多数の湖底遺跡が立地するのは世界的にも稀です。

 琵琶湖の湖底遺跡は、かつては陸上にあった人間の生活の痕跡 (遺構や遺物) が、 地盤沈下や水位上昇などにより形成されたもので、
後期旧石器時代から平安時代末期までの遺跡が確認されています。 なかには村全体が水没したとの伝承がある遺跡、縄文時代から平安時代までの遺物が漁の網で 引き上げられている琵琶湖で最も深い場所 (水深 10~70m) に位置する長浜市葛籠尾崎湖底遺跡のような特殊な遺跡もあります。

 湖底遺跡の成因についての定説はありませんが、大規模な地震による地盤沈下と琵琶湖の水が唯一流れ出す瀬田川の川底の自然隆起による相乗作用で形成されたという考え方が有力です。
 *琵琶湖の基準水位は東京湾平均中等潮位 (T.P) から+84.371m

琵琶湖湖底遺跡


葛籠尾崎湖底遺跡
葛籠尾崎
尾上浜遺跡
尾上遺跡
森浜遺跡
針江浜遺跡
入江内湖遺跡
多景島遺跡
大中の湖南遺跡
浮御堂遺跡
長命寺湖底遺跡
赤野井湾遺跡
小津浜遺跡
烏丸崎遺跡
津田江湖底遺跡
粟津湖底遺跡
蛍谷遺跡
志那湖底遺跡
矢橋港遺跡
唐橋遺跡


 122針江浜遺跡
   場所:滋賀県高島市新旭町針江沖(琵琶湖の水深約2.7m)
   時代:弥生時代前期(約2300年前)から中期
   発見:弥生前期の集落跡、ヤナギ埋没林
      地震液状化の噴砂や地割れ跡
針江浜遺跡 (高島市)
 針江浜遺跡は、現在の湖岸から100m程沖合に位置 する遺跡で、 琵琶湖西岸の代表的な湖底遺跡です。 発掘調査で、弥生時代前期の集落、 中期の水田に伴 う用水路やヤナギ林、地震痕跡などが水面下約2.7m 付近の湖底で見つかっています。

 稲作文化導入期にあたる前期は、柵と溝で囲まれた竪穴住居や掘立柱建物、 墓とみられる土坑などが検出され、多量の土器、 磨製石器、 炭化米、未製品を含む木 製農具などが出土しています。

 この集落は、 前期後葉頃に琵琶湖の水位上昇により 水没します。 そのため住民は一旦この地を離れますが 中期初頭には水位低下に伴い再びこの地を水田として再開発します。 しかし、地震の被害を受けてこの地は 再度放棄され、その後の生活の痕跡は確認されていません。

針江浜遺跡 (高島市) 葛籠尾崎,竹生島,
伊吹山
針江浜遺跡(高島市)
針江浜遺跡弥生時代前期の集落跡

 出土物
針江浜遺跡(高島市)
弥生土器

展示は左⑤←右➀
鳥形
➀鉢
 
②  ③   ④   
④ ④③②
⑤広口壺
 


 130縄文時代


 131プロローグ

 滋賀県は日本最大の、そして世界でも有数の長い歴史を持つ湖である琵琶湖を擁し、 また鈴鹿・比良山系などの山に囲まれた豊かな自然環境は、
はるか昔からこの地に暮らす人々を支えてきた。

 今からおおよそ13,000年前に始まる縄文時代は、狩猟採集を暮らしの中心とした時代で、人々は琵琶湖や付近の山々から季節ごとにもたらされる恵みにより、豊かな日々を送っていた。

 2,500年前頃、米作りが始まった弥生時代には、琵琶湖に流入する多くの河川が作り出した、 広大で肥沃な平野と、 恵まれた水を利用して水田が作られるようになる。 そして
 1,700年前に始まる古墳時代には、 ムラムラは統合され、より大きな「クニ」 となり、それをまとめる豪族が登場する。 彼らは、 その力を示すように競って大きな古墳を造り、豪華な副葬品とともに葬られた。

プロローグ 狩猟に使われた陥し穴 (大津市関津遺跡
縄文時代後期)
堅果類の貯蔵穴
(彦根市六反田遺跡
縄文時代後期)
川辺の竪穴住居跡
(大津市穴太遺跡
縄文時代後期)
 132遺物
  北山古墳 (長浜市)
後期旧石器時代
翼状剥片
関津遺跡 (大津市)
縄文時代草創期
有舌尖頭器
  大通寺古墳群(大津市)
縄文時代草創期
有舌尖頭器
 
 
蛍谷遺跡(大津市)
後期旧石器時代
ナイフ形石器

関津遺跡(大津市)
後期旧石器時代
角錐状石器
六反田遺跡(米原市)
繩文時代草創期
有舌尖頭器

風呂流遺跡(日野町)
繩文時代草創期
有舌尖頭器
津田江湖底遺跡
(草津市)
縄文時代早期末~前期
縄文土器(浅鉢)

津田江湖底遺跡
(草津市)
縄文時代早期末~前期
縄文土器(深鉢)
 135
穴太遺跡 (大津市)
縄文時代後期
石鏃
穴太遺跡 (大津市)
縄文時代後期
石錐
穴太遺跡 (大津市)
縄文時代後期
石器の原石
(サヌカイト)
穴太遺跡 (大津市)
縄文時代後期
削器

穴太遺跡 (大津市)
縄文時代後期
磨製石斧
打製石斧
滋賀里遺跡(大津市)
繩文時代晚期
石鏃(ㄡ力卜製)
石鏃(チャート製)
 136
滋賀里遺跡 (大津市)
縄文時代晩期
骨角製の装飾品
滋賀里遺跡 (大津市)
縄文時代晩期
骨角製の装飾品
石棒
滋賀里遺跡 (大津市)
縄文時代晩期
石棒
石棒
 137
入江内湖遺跡 (米原市)
縄文時代前期
漆塗 鉢
小川原遺跡 (甲良町)
縄文時代後期
磨石・石皿
滋賀里遺跡(大津市)
縄文時代晩期
縄文土器
滋賀里遺跡(大津市)
縄文時代晩期
縄文土器
 


 140弥生時代


 141縄文から弥生へ
 縄文時代の人々は、琵琶湖や周辺の山々からもたらされる豊かな恵みに支えられ、定住的な生活をおくるようになった。
粟津湖底遺跡などの貝塚では、セタシジミをはじめ、 どんぐりなどの堅果、獣や魚などの骨が捨てられており、当時の人々の食生活を今に伝えるタイムカプセルといえる。

 また、 貝塚からは人々の暮らしぶりを示す土器や道具、装身具や土偶も出土している。
そして紀元前3世紀頃、 近江の地にもコメ作りの技術がもたらされる。これが近江における弥生時代の始まりである。
人々は大きなムラをつくり、 いっしょに農作業や狩猟・漁労にいそしむようになった。

縄文から弥生へ
 142石器 烏丸崎遺跡
烏丸崎遺跡 ( 草津市 )
弥生時代
石器
烏丸崎遺跡 (草津市)
弥生時代
石器
石包丁
磨製石鏃
環状石斧 磨製石斧
打製石斧

 143弥生土器の変遷
 縄文時代の土器は、主に浅鉢・深鉢の2種類が使われていた。
 弥生時代になると、壷・甕・高坏などの新しい器形が登場する。

 土器は人々が煮炊きや貯蔵に使ったものであるが、壊れやすく比較的手軽に作ることができたので、 そのデザインや作り方の変化から、
遺跡の年代を推測する重要な手がかりでもある。

 弥生土器は I期~V期に区分されている。

弥生土器の変遷
Ⅰ期
BC200頃
Ⅱ期
BC120頃
Ⅲ期
BC50頃
Ⅳ期
AD50頃
Ⅴ期
AD200頃

 144土器1
小津浜(おづはま)遺跡 (守山市)
弥生土器Ⅲ期
弥生土器 壺 弥生土器 甕 小津浜遺跡(守山市)
弥生時代I期
弥生土器 甕
 145

弥生土器 (やよいどき)
縄文土器と同じように、 「縄」や「櫛」 などでつけた 「模様」 がありますが、表面のでこぼこした「飾り」 が減り、使いやすくなりました。
調理用の甕、 保存用の壺、 一本の脚がついた盛付用の高坏などがあります。 使う目的により、様々な形のものがあります。

弥生土器 小津浜遺跡(守山市)
弥生時代Ⅲ期
弥生土器 壺
 146
弥生土器 鉢
湯/部遺跡(野洲市)
弥生時代Ⅲ期
壺
弥生土器 甕
赤野井湾遺跡(守山市)
弥生時代IV期
水差し
弥生器 水差
湯/部遺跡(野洲市)
弥生時代IV期
甕
鉢
錦織遺跡(大津市)
弥生時代V期
甕
壺
器台 器台 器台
高坏

 160大中の湖南遺跡とその時代 (滋賀県近江八幡市(旧安土町)) 
   弥生時代中期初頭の初期農耕集落および湖底遺跡

紀元前4世紀頃、 中国大陸・朝鮮半島から渡来してきた人々により、 日本列島に稲作技術がもたらされ、 水田は列島各地にたちまち広がった。
狩猟・採集の縄文時代から、 農耕の弥生時代へ。
この大きな生活基盤の変化は、人々の暮らしを 一変させた。 人々は大きなムラをつくり、 共同し てコメつくりを中心とする生活をはじめた。
コメといっしょに、 中国大陸や朝鮮半島から青銅器や鉄で造られた新しい道具や文物も伝わった。

大中の湖南遺跡とその時代

 161
大中の湖南遺跡の水田と農具

 大中の湖南遺跡では、区画された水田跡と多数の木製農耕具が発見された。
 この発見によって、弥生時代中期はじめ (前2世紀) の人々が矢板や杭で区画された水田で、かなり完成されたシステム の農作業を行っていたことが明らかになった。

 大中の湖南遺跡の木製農具は、広鍬・狭鍬・又鍬・鋤など、種類も多く出土量も多い。 鋤や鍬も木製ながら、 水田耕作の作業順序に対応した多様な形をもっている。 また木製農具の未製品が大量に出土しており、 製作の様相が推測される。

大中の湖南遺跡 木製農具の出土状況

 163木製農耕具

まめのぶくんの「まめ知識」
木を知り、 木を使う(きをしり、 きをつかう)
 弥生時代の人々は、農具や食器など、 多くのモノを木で作りました。
この時、 農具は強い 「カシ」 材で製作し、 矢板などの大量に必要となる場合は 「スギ」 材を、 「たも網」 など弾力が必要となる 場合は 「ヤナギ」 材を利用します。

 弥生時代の人々は、木の 性格を熟知し、 作る道具の 目的によって、 より相応し い材料を選んでいたことがわかるのです。

広鍬,組合せ鋤,狭鍬
だいなかのこみなみ
大中の湖南遺跡
狭鍬
だいなかのこみなみ
大中の湖南遺跡
(近江八幡市)
弥生時代中期
(前2世紀)
木製農具
広鍬,狭鍬 狭鍬,又鍬

 165
まめのぶくんの「まめ知識」
鍬の未製品 (くわの みせいひん)

 弥生時代の人々も、モノを作る時は、大量生産を考えていたようです。
 例えば、 農具の 「鍬」 を作るときは、細長い板を用意して、これを縦方向に使い、 「鍬」 を3~4個連続させたモノを作ります。
最後に、これを切り離して、仕上げになります。

 こうすることで、同じ形の「鍬」 を大量に作ることができ、 また、 材木の節約にもなったようです。

鍬の未製品 だいなかのこみなみ
大中の湖南遺跡
(近江八幡市)
弥生時代中期(前2世紀)
木製農具未成品

鍬未製品
赤野井湾遺跡(守山市)
弥生時代後期(2世紀)
木製容器
壼

 165大中ムラの生活
 167大中ムラの生活
 大中の湖南遺跡からは、 木工具、 農具、 狩猟具、漁具、 祭祀用具、 また動植物の遺体などじつにさまざまな遺物が出土している。 その豊富な内容から、弥生人の生活を詳細に復元することができる。

 さまざまな形の石斧は、 鉄製のオノやノミと同様、 農具をつくる木工具として使われていた。
狩りに使った弓・石鏃や石槍、 漁労に使った釣り針やヤス、 網枠や漁網につける石錘や土錘、鹿角製銛なども出土している。
貝塚からはセタシジミやコイ、イノシシやシカ、キジやカモなどの骨が出土し、 弥生人のグルメな食生活がうかがえる。

大中弥生ムラの生活

大中の湖南遺跡
(近江八幡市)
弥生時代中期(前2世紀)
木製容器
高杯
大中の湖南遺跡
(近江八幡市)
弥生時代中期
(前2世紀)
木製容器 盤
赤野井湾遺跡 (守山市)
弥生時代後期 (2世紀)
木製 臼

 170弥生のムラと生活
 171
弥生時代のムラと生活
 コメつくりのためには、田植えや収穫だけではなく、水田を作ったり水田を維持する水路を掘ったり、人々が協力して働く必要があった。
そのため弥生時代には、人々が集まって大きなムラをつくることになった。
また、 限られた豊かな土地をめぐる争いや蓄えられた富をめぐる争いもはじまった。

 このため、 弥生時代の大きなムラには自衛のための濠が巡らされるのが一般的であった。 このようなムラは環濠集落と呼ばれている。

 中期後半の守山市下之郷遺跡(もりやま ししもの ごう いせき)では、 内濠と外濠を含め9重以上の濠がめぐっているらしい。
弥生時代はまさに環濠集落の時代であったといえる。

弥生時代のムラと生活


まめのぶくんの「まめ知識」
石包丁(いしぼうちょう)

 弥生時代のお米作りでは、 「石包丁」 と呼ばれる道具を使って、 稲の 「穂」 の部分だけを刈り取っていました。
実った「お米」 から順番に収穫するためで、鳥に食べられることを防ぎ、また、 秋の台風などの被害を少なくするためと考えられています。

 滋賀県では石包丁が少ないことから、木で作った「木包丁」 なども使われていたようです。

稲の管理・稲刈り
石包丁
だいなかのこみなみ
大中の湖南遺跡
(近江八幡市)
弥生時代中期
(前2世紀)
石包丁
笠原南遺跡(守山市)
弥生時代前期(前3世紀)
石包丁
赤野井湾遺跡 (守山市)
弥生時代後期 (2世紀)
火きり臼
木包丁
弥生時代後期(2世紀)
赤野井湾遺跡 (守山市)
針江北遺跡 (高島市)
扁平石斧
柱状片刃石斧 蛤刃石斧
小津浜遺跡 (守山市)
弥生時代前期 (前2世紀)
炭化米
大中の湖南遺跡
(近江八幡市)
弥生時代中期
(前2世紀)
鹿角製モリ
石剣
 
 
 173
金属器生産と玉つくり

 弥生時代には、縄文時代以来の土器・石器・木器・骨角器に加え、 新たに金属器の生産が開始された。
北部九州では、すでに紀元前2世紀前半に、近畿地方でもやや遅れて青銅器の国内生産が開始されている。

 弥生後期の長浜市五村(ごむら)遺跡や東近江市石田遺跡でフイゴの羽口が出土しており、近江での青銅器生産の一端を示している。

 鉄器については、 北部九州では紀元前2世紀前半に、広範に使われだし、近畿では1世紀後半頃から急速に普及している。
高島市の熊野本遺跡や守山市ニノ畦(にのあぜ)遺跡で、鉄素材と思われる鉄片 がまとまって出土しているのは、この頃のことである。

 また、 玉つくりは、 弥生時代の近江でも、盛んに行われていた。
草津市烏丸崎(からすまさき)遺跡や野洲市市三宅遺跡などで玉生産工房跡が発見され、 出土遺物から製作工程が復元されている。

金属器生産と玉つくり

 やじり
赤野井湾遺跡 (守山市)
弥生時代後期 (2世紀)
木製鏃


大中の湖南遺跡
(近江八幡市)
弥生時代中期(前2世紀)
銅鏃

多孔質銅鏃
鴨田遺跡(長浜市)
弥生後期(1世紀後半)
五銖銭 (複製品)
鴨田遺跡 (長浜市)

五村遺跡(長浜市)
弥生時代後期(2世紀)
巴形銅器
五村遺跡(長浜市)
弥生時代後期(2世紀)
フイゴの羽口

石田遺跡 (東近江市)
フイゴの羽口 (複製品)
 

 180祈りとまつり 木偶

弥生時代の祈りとまつり
 弥生時代には、コメつくりが伝わるのとともに、豊作を祈るまつりなど、 新たなまつりが行われるようになった。
銅鐸や銅剣などの金属製祭器や、人間や鳥・舟・武器などをかたどった木製の模型(形代かたしろ)などが、 新たなまつりを代表している。

 このうち木製形代は縄文時代にはなかったもので、農耕とともに日本にもたらされた風習と考えられる。
鳥形や刀形は、鳥や刀の霊力を形代に移してまつりや祈りに使ったものであろう。

弥生時代の
祈りとまつり

祖霊像の系譜
 木偶は、 徳島県で1遺跡、 大阪府で2遺跡、 滋賀県で5遺跡、 愛知県で1遺跡から出土している。

 この中で滋賀県の大中の湖南遺跡の中期前半のものが最も古い。
中期に滋賀県を中心に分布している。
中期後半の野洲市湯ノ部遺跡では4体の木偶が出土し、その内の1体に男茎と思われる棒を差し込んだものがある。
大中の湖南遺跡の2体 の内の1体にも体の部分に穴が開けられており、木偶が男女一対で作られていた可能性がうかが る。

 これらは、北アジアのシャーマニズムとの関わりが指摘されており、 方形周溝墓などで使われていることから、 祖霊を表現したものと考えら
れている。

祖霊像の系譜 祖霊像分布図 ※考察 祖霊像分布
※東日本に特に、人面付土器や土偶形容器(容器は祖霊骨入れ)が圧倒的に多い。
この祖霊骨容器を作るグループは、太平洋岸から東海・関東平野・北関東沿岸から入植したのか、
 それとも、縄文人が弥生文化の影響下で変質したのか。
しかし、以前、山梨県で見た、頭が容器になった土偶付き容器は、縄文人の作とは思えなかった。

 琵琶湖東岸や旧大阪湾東岸に北東アジア系シャーマニズムの男女一対の木偶が多い。
 この信仰は、半島から瀬戸内海を来た人流と、日本海航路で若狭湾に上陸して琵琶湖東岸に至ったグループがあったようだ。終点が大阪湾東岸だったようだ。

 ※半島からやって来た農耕民にはいろいろな祖霊信仰があり、どのような経緯で渡来してきた、
  進んで開拓民として来たのか、農奴としてやって来た、のかは、わからないが、
  明らかに分布が異なることから、何らかの人為的な意図があることは間違いないと思う。 

まめのぶくんの 「まめ知識」
木偶と土偶(もくぐうとどぐう)

 木で作った人形を 「木偶」、 土で作った人形を 「土偶」 とよびます。 また、
「木偶」は弥生時代の遺跡から見つかり、
「土偶」 の多くは縄文時代の遺跡から見つかります。

 いずれも 「お祭り」に使われ、祖先や神様、 精霊などを表わしたと考えられています。
 しかし、「木偶」 が、 男女 の2体をセットとするのに 対して、 「土偶」の多くは、女性像のみになっています。

 木偶
木偶と土偶

木偶 (複製品)×3

湯ノ部遺跡(野洲市)
弥生中期(紀元前後)

烏丸崎遺跡(草津市)
弥生中期(紀元前後)

大中の湖南遺跡
 (近江八幡市)
 弥生中期
 (紀元前2世紀)
 
 

 190古代楽器

古代楽器の世界
 弥生時代のまつりに歌や踊り、飲食が伴っていたことは、 『魏志倭人伝』 などの記録からもうかがわれる。
そして歌や踊りのはやしに、 楽器が使われたとみられるが、 その代表的なものが琴である。
 琴は縄文時代にあったともいわれているが、確実なものは弥生時代からである。

 しかし、 滋賀県の弥生時代の出土琴はいまだ少数で、 古墳時代のものが多くみつかっている。
守山市服部遺跡や草津市中沢遺跡の出土琴などが槽造(そうづく)りであることがわかっていて、大半のものが共鳴箱をもっていたと見られるが、
現在のものとは異なり、高島市森浜遺跡の例のように、 板状のものもあった。

 なお古墳時代の埴輪には、 琴のほかに太鼓・笛などが確認できる。


古墳時代
古代楽器の世界
服部遺跡 (守山市)
古墳前期 (3世紀)
琴(複製品)

森浜遺跡(高島市)
服部遺跡 (守山市)
古墳前期 (3世紀)
琴柱(複製品)
森浜遺跡(高島市)
古墳前期(3世紀)
琴(復元品)

赤野井湾遺跡(守山市)
弥生時代後期(2世紀)
土鈴


※考察 古代楽器 琴
※随分古い記憶だが、とある神社で、舞の奉納ではなく、祈りの場面で和琴を使っていた。
 琴が神舞や背景音としてではなく、神託・神事に使われたのではないかと思って書いたのだが、
・ネットでヒットしたのは香川県琴弾八幡宮。寛永通宝の巨大砂絵(江戸時代)。UFOが飛び去った音が琴に似ていたとされる神社。

・「鳴弦の儀」神事として、残っていたようだ。神社名は不明。
 


 200稲作作業

 201
 203田起こし
【水田耕作の様子】
これらの人形は弥生時代の水田耕作の様子を再現したものです。
田起こしと収穫の作業をしています。
田起こしとは、土を細かく砕いて、 丁寧にかき混ぜる作業です。

この人形は、 「鋤」 を使って田起こしをしているところです。
この人形が使っている 「鋤」 は木で作られていました。
人形の後ろにある展示ケースには本物の「鋤」と製作途中の未製品があります。
未製品を見れば、 どのような工程で作られたかを知ることができます

田起こし 【水田耕作の様子】
この人形は

205大足
この人形は、「大足」という履き物を履いています。
「大足」とは 「田下駄」 とも呼ばれ、 土に足が沈まないようにするために履く、木で できた道具です。

大足

 207柄ぶり
この人形は、 「エブリ」 を使って代掻きをして、 土ならしをしているところです。

エブリ

 209石包丁
この人形は、 「石包丁 」 を使って、稲の収穫をしているところです。 根元から刈り取る現在とは違い、 穂先だけを摘み取ります。
後ろの展示ケースには本物の「石包丁」や、木でつくられた 「木包丁」 などがあります。

石包丁
 


 220銅鐸のマツリ

銅鐸のまつり
 弥生時代に特徴的な祭器のひとつとして、銅鐸があげられる。
銅鐸は、 もともと鳴らして使ったもの (聞く銅鐸)が、やがて置いて見るもの(見る 銅鐸) へ変化したと考えられている。

 滋賀県は、 出土数も多く、 湖南を中心に32口の出土が知られている。
野洲市大岩山遺跡から日本最大のも のを含めて24口の銅鐸が出土している。
銅鐸のまつりについては、いくつかの考え方もあるが、農耕の豊穣を祈るまつりに使われたという説が有力である。

銅鐸のまつり

大岩山銅鐸の発見
 (※銅鐸の数え方は「口(こう)」または「点(てん)」です。または、一般的な物の数え方である「個(こ)」です。以下では口を使用。)

 明治14年、 野洲市の大岩山遺跡で14口の銅鐸が発見された。 さらに昭和37年にも10口の銅鐸が発見された。 平成8年、 島根県加茂岩倉遺跡から33口の銅鐸が出土し、 1箇所出土数日本1位の座は失ったが、 大岩山の名は銅鐸研究史上欠かせないものとなっている。

 これら24口は偶然発 見されたものであるため、 出土時の正確な記録は残っていない。
しかし昭和37年出土の10口 については、 関係者からの聞き取りや銅鐸表面に残された砂土の調査の結果、 大中小3口単位で入れ子にされ、穴の中に埋納されていたことが推定されている。

大岩山銅鐸の発見 大岩山銅鐸とは
大岩山銅鐸は、滋賀県野洲市小篠原の大岩山で出土した、弥生時代後期(1〜3世紀)の多数の銅鐸群の総称です。

主な特徴
・日本最大の銅鐸:明治14年(1881年)に発見されたものの中には、現存する日本最大(総高約135cm、重量約45.5kg)の「突線鈕5式銅鐸(とっせんちゅうごしきどうたく)」が含まれており、国の重要文化財に指定されています。
・見せる銅鐸:初期の「音を鳴らして使われた小さな銅鐸(聞く銅鐸)」から、時代を経て祭祀の装飾化・大型化した「見る銅鐸」の最新段階にあたります。
・大量出土:明治期に14個、昭和37年(1962年)に10個の計24個がごく近接した山頂・山腹の地点から発見されました。

大岩山遺跡
銅鐸出土地点
大岩山遺跡 入れ子で見つかった
7・4・1号鐸
大岩山銅鐸 埋納復元


 221
大岩山遺跡の銅鐸
 大きくなって、吊り下げることのできなくなった 銅鐸の事例として、 大岩山遺跡から出土した24口の 銅鐸が指摘できます。
弥生時代後期に作られたこれら銅鐸の中には、 高さ 134.7cmの日本最大の銅鐸も 含まれています。
 一番小さなものでも 45.5cmあり、 最近淡路島で見つかった銅鐸が約30cm程度以下であることとくらべて、 大岩山の銅鐸がいかに大きい のかがわかります。

 大きくなって、吊り下げることのできなくなった 銅鐸は、それ自体を「神さま」 のように仰ぎ見るよ うになり、 また、 ムラのシンボルとして扱われるよ うになったとも考えられています。

大岩山遺跡の銅鐸


大岩山銅鐸の特徴
 大岩山遺跡から出土した24口の銅鐸には、色々な特徴がありますが、東海地方で作られた「三遠式銅鐸」と、近畿地方で作られた「近畿式銅鐸」の両者が含まれていることが、大きな特徴の一つと言われています。「近畿式銅鐸」については、滋賀県で 生産された可能性も指摘されています。

 さて、近畿式銅鐸の特徴の一つは、 双頭渦文飾耳 という「サザエさん」の髪形のような「飾り」を持つことです。これを持たない銅鐸の中で、3・8・9号銅鐸が三遠式銅鐸になります。 1・2号銅鐸も「飾り」を持ちませんが、 これはやや古い銅鐸で、 近畿地方で作られたものです。
さらに、 4・7号 銅鐸では、なぜか「飾り」 が切り落とされています。
     銅鐸の号名は昭和37年出土の展示品です。

大岩山銅鐸の特徴 双頭渦文飾耳
 


銅鐸の使い方
 銅鐸は、中国などで発達した楽器や、 家畜に 「ぶら下げる鈴」 などが変化し、 朝鮮半島を経て、 弥生時代の日本列島に伝わったと言われています。
 そのため日本に伝わったころは、「吊り下げて音 を鳴らす」 という、楽器や鈴の機能がのこっており、 実際に、 「舌」 と呼ばれる細長い金属などの棒が、銅鐸といっしょに出土した事例もあります。 当時だれも聞 いたことのない金属音が、 お 祭りの場で神様を呼ぶ合図に なったと言われています。
 しかし、日本列島に伝わっ た銅鐸は、大きくなりつつ発展し、 やがて、吊り下げて音 を鳴らすことが不可能になります。
野洲市の銅鐸博物館では、復元した 銅鐸で音を鳴らすことができます。

銅鐸の使い方 野洲市の銅鐸博物館では、復元した 銅鐸で音を鳴らすことができます。

 222銅鐸の変遷
見る銅鐸の変遷

  見る銅鐸の変遷
   扁平鈕式↓
→突線鈕5I式→突線鈕5Ⅱ式
三遠式全身鐸→三遠1式→三遠2式→三遠3Ⅰ式→三遠3Ⅱ式→三遠4式→
                          突線鈕3Ⅱb式
  突線鈕1式→穾線鈕2式→突線鈕3Ia式→突線鈕3Ib式→突線鈕3Ⅱ式→突線鈕4式→

 224大岩山銅鐸
大岩山遺跡 (野洲市)
複製品
原品は重要文化財
1号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕Ⅰ式大福型
    大岩山遺跡 (野洲市)
重要文化財
2号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕Ⅰ式大福型
大岩山遺跡 (野洲市)
複製品
原品は重要文化財
6号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕2式近畿式
大岩山遺跡 (野洲市)
複製品
原品は重要文化財
3号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕2式三遠Ⅰ式
大岩山遺跡 (野洲市)
重要文化財
4 号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕3式近畿式
大岩山遺跡 (野洲市)
重要文化財
5号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕3式近畿式
大岩山遺跡 (野洲市)
重要文化財
7号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕3式近畿式
大岩山遺跡 (野洲市)
重要文化財
9号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕3式三遠2式
大岩山遺跡 (野洲市)
重要文化財
8号銅鐸
弥生時代後期 (2世紀)

突線鈕3式三遠4式
大岩山遺跡 (野洲市)
重要文化財
10号銅鐸
弥生時代後期(2世紀)

突線鈕1式近畿式

 240烏丸崎遺跡の玉作資料
    烏丸崎遺跡(草津市)
     弥生時代中期(紀元前後)

 241管玉の作り方
管玉の作り方
「古代と現代との同居』より

第1工程 原石 (碧玉)を適当な 大きさに割りとる
 ↓
第2工程 擦り切りの前にあらかじめ 原石の表面を扁平な板状に 砥石で磨く
 ↓
第3工程 石鋸で擦り切る (金剛砂、石英砂等)+水を混ぜて切る
     V字状の溝に石のみをいれてたたき折り取る
 ↓
第4工程 四角→八角→十六角に 研磨する
 ↓
第5工程 両面より石針で 穴をあける
 ↓
第6工程 仕上げ砥石で磨き上げる

 242玉作資料 烏丸崎遺跡(草津市)
玉作資料
烏丸崎遺跡 (草津市)
弥生時代中期
(紀元前後)
玉作資料

破損した管玉
玉原石 破損した管玉
平玉
 243玉作資料
玉作資料
 244玉原石
玉原石
玉原石 玉原石
 245石鋸
石鋸
 246石錐
石錐
 
 


 250古墳時代

 250王の姿
 251
前期 (4世紀)の王
前期古墳では、多くの銅鏡類や鋼鉄・石製 装身具・鉄製の刀剣・甲冑に加え、鉄製農工 具などが見られることから、司祭者的な政治 支配者が浮かんでくる。王とはいえシンプル な装いである。

安土瓢箪山古墳出土品により復元した王の姿(4世紀)
A king of the early Kofun Period (4th century)
He was buried together with many bronze mirrors, bronze arrowheads, stone accessories, iron swords and armor, and iron agricultural tools. These burial goods suggest that he was a priestly political ruler. Although he was a king, his dress was simple.

前期 (4世紀)の王

 252
中期 (5世紀)の王
中期古墳では鏡・玉類の副葬は少なくなり、鉄製の甲冑 刀剣・鏃などの武具や鉄製や金銅製の馬具の大量副葬が見られるようになり、その姿も軍事的・政治的支配者の様相を深め、新たな技術や風習の導入とともに戦乱が多発したことをうかがわせる。

栗東市新開1号墳出土品により復元した王の姿 (5世紀) A king of the middle Kofun Period (5th century)
He was buried together with a stock of weaponry, such as iron and gilt bronze-plated armor, swords, arrowheads and horse trappings. He was a military and political leader.

中期 (5世紀)の王

 253
後期(6世紀)の王
後期古墳では、 華麗な金銅製の冠や履をはじめとする装飾品 ・ 武具馬具などが現れ、王者の統治はより強力になり、 本格的な政治支配者の姿を示すようになっている。

高島市鴨稲荷山古墳出土品により復元した王の姿(6世紀) A king of the late Kofun Period (6th century)
He was buried together with accessories including brilliant crown and shoes of gilt bronze, weapons, horse trappings, etc. He had become a more powerful figure. In this period, the king had developed into a genuine political ruler.

後期(6世紀)の王

 ※上記の王の姿は、支配者の出自そのものがどんどん変化(更新)しているのではないか。支配者が変わっている。のではないか。
  ➀農耕開拓民の王、②農耕民を支配する戦争をする王 ③戦後安定期の裕福な王侯貴族

 
 256
弥生犬
弥生犬は縄文犬より
やや大きい
 

 260瓢箪山古墳
AI による概要
安土瓢箪山古墳は、滋賀県近江八幡市安土町宮津にある、滋賀県内で最大規模の前方後円墳で、国の史跡に指定されています。

主な特徴
• 規模: 墳丘長は約162m(約134mとする資料もありますが、一般に162m規模とされることが多いです)。県内最大です。
• 築造時期: 4世紀中頃から後半(古墳時代前期)に造られたと推定されており、滋賀県内でも最古級の前方後円墳の一つとされています。
• 形状: 前方後円墳。観音寺山(繖山)の支脈尾根の先端を利用して築造されています。ひょうたんのような形をしていることから「瓢箪山」の名が付けられました。

※古墳前期に162mの前方後円墳は、畿内大王と関りのある豪族の墓と考えられます。

瓢箪山古墳とその時代

 近年、 滋賀県においても、
長浜市小松古墳や東近江市神郷亀塚(じんごうかめづか)古墳 (日本列島最古級(3世紀前半・220年頃)とされる全長36.5mの前方後方墳)などのように、
3世紀中頃から前半に遡る古墳の存在も明らかになっているが、 瓢箪山古墳をはじめ、 雪野山古墳、膳所茶臼山(ぜぜちゃうすやま)古墳、北谷11号墳などが代表的な前期の古墳で、豊富な副葬品が出土しており、首長の実力や大和政権との関わりを示している。

 前期の古墳は竪穴式石室に長大な木棺を埋葬し、中国製や国産の銅鏡を始め、 玉類 (勾玉・管玉)、 石製品(鍬形石・石釧・車輪石) など呪術的色彩の濃い宝器類や刀剣などの金属製武器・甲冑などの武具類などを副葬しており、 葬られた首長の司祭者的性格と軍事指導者的性格を示している。

 瓢箪山古墳は全長136m、高さ13mで滋賀県最大の前方後円墳で、 後円部に3基の竪穴式石室、前方部に2基の箱式石棺があり、銅鏡・玉類・鉄刀・鉄剣・鉄鏃・短甲・土器など豊富な副葬品が発見されている。

瓢箪山古墳とその時代 雪野山古墳 墳丘測量図
雪野山古墳 竪穴式石室内の出土状況


 261
卑弥呼の鏡
古代史最大の謎、 邪馬台国。 その所在地を探す手掛かりと考えられているのが、 卑弥呼がもらった100面の鏡です。

 その最も有力な候補の一つが、 三角縁神獣鏡。
 これは、 直径20cmを超える大型の鏡で、 縁の部分の断面が三角形になっています。 また、 西王母などの神様と竜虎などの聖獣が、 独特のタッチで表現されているのも特徴です。

 現在まで全国で500面以上見つかっており、 卑弥呼 のもらった数よりもずいぶん多くなっていますが、 奈良県や京都府南部に多く、 滋賀県からは13面が出土しています。

卑弥呼の鏡


鏡の使い分け
 内行花文鏡と鼉龍鏡
 雪野山古墳では、 内行花文鏡は模様を上にむけて、遺骸の頭付近に置かれていました。 その下には琴柱形石製品、 右横には鍬形石が配置され、亡き首長を表現するかのようです。

 一方、三角縁神獣鏡と鼉龍鏡は、 鏡面 (映す方)を内側に、頭上と足元の仕切り板に立てかけてありました。 それは、鏡の呪力で亡き首長を護るためと考えられて います。

 このように、 古墳から出土する鏡は使い分けがなされており、 特に、三角縁神獣鏡は、亡き首長を護るために使われることが多いことが、 重要な特色になってい ます。

鏡の使い分け


三角縁神獣鏡
 滋賀県の三角縁神獣鏡は、 東近江市の雪野山古墳、野洲市の古冨波山古墳と二番山林古墳から3面ずつが出土しています。
 その他は1面ずつですが、大津市瀬田の織部古墳、栗東市の岡山古墳と亀塚古墳、 野洲市の大岩山古墳からも出土しており、
 県の南東部に集中していることが特徴です。

滋賀県の三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡出土古墳

大岩山古墳
古富波古墳 •
雪野山古墳
亀塚古墳
二番山林古墳
岡山古墳
織部古墳

 ※滋賀県出土の三角物神獣鏡出土古墳の編年
段階 A B C D 倣1 倣2 その他の鏡
古冨波山古墳 2 1
織部古墳 1
雪野山古墳 3 倣製内行花文鏡・倣製鼉龍鏡
大岩山二番山林古墳 1 2 獣帯鏡(漢鏡5期) 不明平縁
岡山古墳 1 盤龍鏡(漢鏡6)
亀塚古墳 1
大岩山古墳 1 倣製画像鏡

※三角縁神獣鏡 の 段階

AI による概要
 三角縁神獣鏡は、その文様や形態的特徴から大きく4〜5つの段階に分けられるのが一般的です。研究者(新納泉氏など)による五段階区分では、中国で作られた「舶載鏡」から、それを列島内でコピーして作った「仿製鏡(ぼうせいきょう・倭製)」へと移り変わる変遷が示されています。

三角縁神獣鏡の変遷段階
 三角縁神獣鏡の型式学的編年は、主に以下の5段階(または4期)で説明されます。

・第1〜2段階(舶載鏡の古相)
 神像や獣像が鮮明で、魏の紀年銘(景初三年や正始元年など)が刻まれたものが出現します。中国の工房で高度な技術により製作された鏡の段階です。

・第3〜4段階(舶載鏡の展開から終焉)
 文様が次第に抽象化・形式化していきます。中国での製作技術や供給が徐々に変化・断絶していく時期と重なります。

・第5段階(仿製鏡・倭製のはじまり)
 中国製の鏡を原型にして、列島内の工人たちが作った「仿製鏡(倭製)」が本格的に登場する段階です。既存の鏡の型を粘土に押し当ててコピーする「踏み返し」という技法も用いられました。段階研究の重要性これら銅鏡の段階(型式)と、古墳から一緒に出土する土器や埴輪の編年を組み合わせることで、ヤマト王権が全国の地域首長にどのような順序で鏡を分配したのか、古墳の築造時期などを詳細に知ることができます。三角縁神獣鏡の編年や製作地論争(中国製か倭製か)について、さらに詳しくお知りになりたい点や、特定地域の古墳の出土例について知りたいことはありますか?


 263雪野山古墳出土物

古墳 (こふん)
古墳時代(3世紀から7世紀にかけて)は、古墳 (墓) が作られた時代です。
古墳には、 クニの王や豪族などの権力者が葬られました。
円墳、方墳、前方後方墳、 帆立貝形古墳、 前方後円墳など、いろんな形をしたものがあります。 なかでも前方後円墳は、最も格式が高い古墳です。

雪野山古墳遺物 古墳

古墳の副葬品
古墳の棺や石室には、 様々な品物が納められました。 その品物を副葬品といいます。 副葬品から、その古墳に葬られた王や豪族の力の強さや、 中国大陸や朝鮮半島とのつながりもわかります。

古墳の副葬品

 雪野山古墳 東近江市 古墳前期(4世紀)
管玉 琴柱形石製品
石製紡錘車 鍬形石

 265雪野山古墳副葬鏡
雪野山古墳遺物 1号鏡
(内行花文鏡)
2号鏡
(鼉龍鏡(だりゅうきょう))
3号鏡
三角縁波文帯盤龍鏡(さんかくぶちはもんたいばんりゅうきょう)
4号鏡
三角縁唐草文帯四神四獣鏡(からくさもんだいししんしじゅうきょう)
5号鏡
辛出銘(しんしゅつめい)三角縁四神四獣鏡

 267靫(ゆぎ)
   矢を入れて背負うか腰につけるための伝統的な武具(矢入れ)
靫
東近江市ほか
古墳前期 (4世紀)
雪野山古墳
漆塗り靫

 270瓢箪山古墳 副葬品
AI による概要
近江八幡市にある安土瓢箪山古墳の後円部中央石室からは、銅鏡や石製の腕飾類、武器、農工具など、多彩で豊富な副葬品が出土しています。
主な副葬品は以下の通りです。
• 銅鏡:銅鏡2面など
• 石製腕飾類:鍬形石(くわがたいし)、石釧(いしくしろ)、車輪石(しゃりんせし)など
• 装身具:管玉(くだたま)、勾玉(まがたま)など
• 武器・武具:剣、刀、短甲、銅鏃(どうぞく)、鉄鏃(てつぞく)など
• 農工具:斧、鎌、鉋(かんな)、鍬(くわ)など

 271
瓢箪山古墳
瓢箪山古墳 墳丘測量図
(用田政晴 『琵琶湖をめぐる古墳と古墳群』 (2007年) 掲載図を一部改変)
瓢箪山古墳 竪穴式石室
瓢箪山古墳 竪穴式石室内部
 273
銅鏃
鉄鏃
筒形銅器
管玉,石釧
車輪石,鍬形石
二神龍虎鏡
き鳳鏡
やりがんな
剣身,刀子
鉄斧,鉄鎌
異形鉄器
やりがんな
鉄斧,鉄鎌
 

 280土師器・須恵器
土師器・須恵器の世界

 古墳時代中期には、 弥生時代以来の流れをくむ素焼きの土器 (土師器)に加え、新たに須恵器と呼ばれる高温で焼かれた、硬い陶質の土器が
現れる。 須恵器は朝鮮半島からもたらされた技術よって作られた土器で、 「登り窯」という独特の構造を持った窯で焼かれている。

 器形も、それまでの壷・甕・高坏に加え、瓶やという新しい形が登場し、装飾を付けた特殊な用途のものもある。
これらの土器は、製作技術や使われた粘土の分析から、 製作地の明らかになったものもあり、 出土した遺跡の年代だけでなく、 流通経路なども明らかにしている。
 281
土師器・須恵器の世界 古墳時代の土器の変遷
近江の古墳時代の須恵器窯跡の分布 美園窯跡
榎尾窯跡
木尾内の神窯跡
知原窯跡
石寺窯跡
庄田窯跡
鏡山北西麓窯跡
鏡山南東麓窯跡
宮川窯跡
泉窯跡
西谷窯跡
高坪山窯跡
 285
土師器と須恵器

古墳時代には、 「はじき (土師器)」と「すえき (須恵器)」といった新しい土器が生まれました。
5世紀 (古墳時代中期)に朝鮮半島から伝わった須恵器は、 新しい土器づくりの技術である 「のぼりがま」で焼いて完成させました。

土師器と須恵器
  葛籠尾崎湖底遺跡(長浜市)
古墳時代前期(3世紀)
土師器 甕
森浜遺跡(高島市)
古墳時代前期(3世紀)
土師器 器台
  森浜遺跡 (高島市)
古墳時代前期 (3世紀)
土師器 甕
森浜遺跡 (高島市)
古墳時代前期 (3世紀)
土師器 高坏
森浜遺跡 (高島市)
古墳時代前期 (3世紀)
土師器 甕
森浜遺跡 (高島市)
古墳時代前期 (3世紀)
小型丸底壺
穴太飼込古墳群
(大津市)
古墳時代後期
(7世紀前半)
須恵器 壺
         
穴太飼込古墳群
(大津市)
古墳時代後期
(7世紀前半)
須恵器 甕
穴太飼込古墳群
(大津市)
古墳時代後期
(7世紀前半)
須恵器 坏身・坏蓋
金屋古墳(甲良町)
古墳時代後期(6世紀)
須恵器 脚付長頸壺
穴太飼込古墳群
(大津市)
古墳時代後期
(7世紀前半)
須恵器 有蓋高坏
穴太野添古墳群
(大津市)
古項時代後期
(7世紀前半)
須惠器子持台付壺
金屋古墳(甲良町)
古墳時代後期(6世紀)
須恵器 台付壺
金屋古墳(甲良町)
古墳時代後期(6世紀)
須恵器 器台
穴太飼込古墳群
(大津市)
古墳時代後期
(7世紀前半)
須恵器 高坏
 
 310玉類
 311
管玉製作工程
 313
黒田長山古墳群
(長浜市)
古墳時代
勾玉
おうぎゅうづか
黄牛塚古墳(米原市)
古墳時代
勾玉
下味古墳 (栗東市)
管玉
古墳時代
滋賀里遺跡 (大津市)
古墳時代
子持ち勾玉

南滋賀遺跡(大津市)
古墳時代
子持ち勾玉
ほうしょうじ
法勝寺遺跡 (米原市)
古墳時代
子持ち勾玉

 315管玉製作行程

➀粗割(直方体)
②形割(面取り)
③側面打裂(面取り)

④研磨
⑤穿孔
⑥仕上げ
 317祭祀具
金森西遺跡 (守山市)
古墳時代前期 (3世紀)
玉作資料
緑色凝灰岩 原石
勾玉・環状石製品
原石 勾玉・環状石製品
緑色凝灰岩玉作り資料 管玉造資料 滑石製品未製品
滑石製品
管玉・勾玉・剣 紡錘車 有孔円板
 


 320埴輪

 321
埴輪の世界
 古墳の上には、 さまざまな埴輪が立ち並べられていた。 もっとも多いのは、円筒埴輪という筒形のもので、これはもともと器台の上にお供え物を入れた壷を乗せ、 墓に供えたものがはじまりといわれている。

 これ以外にも、 人物・鳥・家・盾などを型どった形象埴輪がある。 これら埴輪には、人々が死者を送るときの葬送の儀礼を表現したものもある。 当時の儀式を探る重要な手がかりであると同時に、当時の風習や文化、 さらには政治体制を考える上で重要な資料でもある。

埴輪の世界
円筒埴輪の変遷
 322
供養塚古墳 近江八幡市 5世紀中頃(古墳中期) 全長50~53m  帆立貝形 前方後円墳

 中期古墳の住蓮坊(じゅう れんぼう)古墳(円墳)や後期古墳の岩塚古墳・トギス塚古墳とともに千僧供(せんぞく)古墳群を構成している。

 供養塚古墳からは 
 昭和8年の土取り工事に際して石室が発見され、内部から横矧板鋲留短甲(よこはぎいた びょうどめ)や直刀などが出土した。
 昭和57年度の調査では、 墳丘長約52m で短小な前方部を持つ前方後円墳であることが判明した。
周濠からは多量の埴輪が出土し、 人物 埴輪・馬形埴輪・家形埴輪・蓋形埴輪など多彩な形象埴輪は、 中期後葉の近江における埴輪の様相を知る上で良好な資料である。

円筒埴輪
供養塚古墳 供養塚古墳
(近江八幡市)
古墳中期 (5世紀)
円筒埴輪
円筒埴輪


埴輪(はにわ)
埴輪は、粘土を焼いて作ったもので、 古墳の上に並べられました。 埴輪は大きく分けて、円い筒の ような形をした円筒埴輪、 人間や 動物、 家、 様々な道具などの形を した形象埴輪の2つの種類があり ます。

  蓋形埴輪 埴輪 供養塚古墳
(近江八幡市)
古墳中期 (5世紀)
蓋形埴輪
蓋形埴輪
 
 
人形埴輪 供養塚古墳
(近江八幡市)
古墳中期 (5世紀)
人形埴輪
  家形埴輪
  供養塚古墳
(近江八幡市)
古墳中期(5世紀)
家形埴輪
   
馬形埴輪
供養塚古墳
(近江八幡市)
古墳中期 (5世紀)
馬形埴輪
盾形埴輪
上寺地(かみてらち)古墳
(長浜市)
古墳中期(5世紀)
盾形埴輪
 


 340槍戦士と騎馬

馬具 ・ 武具装着復元 実物大
國立中央博物館 (大韓民国) の資料を参考として、 新開(しんがい)1号古墳出土の馬具 武具を用いて装着状態を復元しています。

馬具・武具装着復元
実物大

 343古墳時代の鉄製甲冑変遷図
古墳時代の
鉄製甲冑変遷図
古墳時代前期

小札革綴冑
竪矧板革缀短甲
方形板革短甲
古墳時代中期
古墳時代中期

長方板革綴短甲
鋲留技法の導入(中期中葉)

三角板革衝角付冑
三角板革綴短甲
三角板鋲留短甲
三角板・横矧板併用鋲留短甲

変形板鋲留短甲
小札鋲留眉庇付冑
横矧板鋲留短甲
横矧板皮綴短甲

小札鋲留衝角付胄
小札甲
古墳時代後期

竪矧広板鋲留衝角付冑
 

 350新開古墳の鎧
 351
新開古墳の世界

 4世紀後半から5世紀にかけて近畿地方を中心に、前方後円墳は急速に巨大化し、平野部に濠を巡らして小山のような墳丘を盛り上げるようになる。その規模からして抜きんでた首長(大王)や有力豪族の出現を示している。

 5世紀の古墳は、その副葬品においても銅鏡や玉類など呪術的性格のものは少なくなり、 かわって大陸系の鉄製の武器・馬具や甲冑・金銅製の装身具など、軍事的・政治的支配者としての性格を強めている。

 栗東市の新開1号墳は5世紀中頃に造られた、小規模な円墳であったが、 銅鏡をはじめ玉類や、大量の鉄製の武器・武具馬具が良好な状態で出土した。 その副葬品の中には、 朝鮮半島とのつながりを示すものは少なくなく、被葬者は対外交渉に関わった人物である可能性が指摘されている。

新開古墳の世界 新開古墳の位置関係
 352
新開1号墳 北棺
変形五獣鏡
複製品
(原品は重要文化財)
当館蔵

新開1号墳 北棺
ばんりゅうきょう
盤龍鏡
複製品
(原品は重要文化財)
当館蔵
新開1号墳 北棺
変形神獣画像鏡
複製品
(原品は重要文化財)
当館蔵

新開1号墳の副葬品 北遺構:剣,刀
南遺構:馬鐸,工具類,刀,短甲などの甲冑類,眉庇付胃,盾,鞍,盾,刀,刀剣,馬具,鏡,剣,鉄鏃

馬具の名称 《轡くつわ》銜(はみ),ひって(引手),たちぎき(立聞),鏡板,

 おもがい(面繋),ひって(引手),鏡板,辻金具,たづな(手綱)
 むながい(胸繫),馬鈴,

《鞍》まえわ(前輪),しずわ(後輪),ふくりん(覆輪),うみかなぐ(海金具),いそかなぐ(磯金具)
   しおでかなぐ(鞖金具),いぎ(居木)

 あおり(障泥),つぼあぶみ(壺鐙)
 うず(雲珠),ぎょうよう (杏葉),しりがい(尻繋),

新開1号墳 南棺外
金銅製 銙(か)
複製品
(原品は重要文化財)
新開1号墳 南棺外
楕円鏡板付轡(だえんかがみいたつきくつわ)
重要文化財
新開1号墳 南棺外
せいどうせいばたく
青銅製馬鐸
複製品
(原品は重要文化財)
新開1号墳 南棺外
さんかんれい
青銅製三環鈴
複製品
(原品は重要文化財)
新聞1号墳 南棺外
金銅製鉸具(かこ)
複製品
(原品は重要文化財)
新開1号墳 南棺外
鉄製鉸具(かこ)
複製品
(原品は重要文化財)
新開1号墳 南棺外
わあぶみ
輪鐙
複製品
(原品は重要文化財)
 355
新開1号墳 南棺
三角板革綴短甲
複製品
(原品は重要文化財)
新開1号墳 南棺
くびよろい かたよろい
頸甲・肩甲
複製品
(原品は重要文化財)
 
 360
 361
大陸文化の摂取
 ―馬具と装飾品―


 馬具は5世紀前半、北九州にいち早く伝わり、やや遅れて近畿地方にもたらされた。
北九州にもたらされた馬具は比較的簡素なものであった。

これに対し、近畿地方には、新開1号墳の出土品のように、 乗馬に必要な轡・鞍・鐙などの他に三環鈴・馬鐸・吹き流しを付ける蛇行状金具など装飾的なもの、 華麗なものが多い。 これら初期の馬具はほとんどが輸入品である。

 また装飾品でも、 伝統的な首飾りに、 碧玉・瑪瑙・水晶・ガラスなどを用いた大陸風の色彩豊かなものが使用されている。
そして大陸からの影響を受けて、武人らしく短甲の上につける帯も、 金銅製の飾り金具を付けている。

大陸文化の摂取 ※北九州に伝えられた簡素な馬具は、、、実用品
 近畿地方に伝えられた馬具は、、、、、装飾品か

 馬の使用法が変わってしまった。と言えるのではないか。
 北部九州では戦闘の道具。近畿地方では威厳を表すための威儀具。


古墳時代の近江の甲冑
 弥生時代、強力な殺傷力をもつ金属製武器が伝来し普及するのに伴い、 防御のために皮革や木製の楯や甲冑が作られます。

 古墳時代前期には中国や朝鮮半島で作られた鉄製の甲冑がもたらされ、 中期には日本独自の甲冑が畿内地域で量産され、各地に配布されます。

 滋賀県内で出土した甲冑で代表的なものは、

前期は雪野山古墳の木甲(もっこう)と小札革綴冑(こざねかわとじかぶと)、 安土瓢箪山古墳の方形板革綴短甲(ほうけいいたかわとじたんこう)

中期は新開1号墳の三角板革綴短甲、三角板鋲留(びょうどめ)短甲、横矧板(よこはぎいた)革綴短甲、 横矧板鋲留短甲、

三角板革綴衝角付冑(かわとじしょうかくつきかぶと)、小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつくかぶと)、

黒田長山4号墳の横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)、 雲雀(ひばり)山2号墳の三角板鋲留短甲などです。

 雪野山古墳と安土瓢箪山古墳は鉄製甲冑の導入期、       (古墳時代前期 4世紀初頭~前半頃 輸入品か)
 新開2号墳は国産化され量産される時期            (古墳時代中期 5世紀中頃、中央政権から下賜されたもの)
 黒田長山4号 墳や雲雀山2号墳は保有者が増加する時期のもので、(古墳時代中期後半 5世紀後半 量産されるようになった)
甲冑の型式や製作技法、変遷を考える上で重要な資料 となっています。

 

古墳時代の近江の甲冑 黒田長山4号墳
黒田長山4号墳
埋葬施設
 362
新開1号墳 南棺
しょうかくつきかぶと
衝角付冑
複製品
(原品は重要文化財)
新開1号墳 南棺
まびさしつきかぶと
眉庇付冑
複製品
(原品は重要文化財)
 363
黒田長山4号墳
 長浜市余呉町・木之本町

 黒田長山古墳群は、 近江と越前を結ぶ北国(ほっこく)街道を見下ろす山丘の尾根上に、21基以上の円墳で構成される中期後半 (5世紀後半) の古墳群で、 昭和52~53年に21基が発掘調査されました。

 群中では卓越した規模の4号墳は墳丘に貼り石が施された円墳 (直径約18m・高さ3.3m) で、墳頂に掘り込まれた埋葬施設は南北に並列する
二つの木棺直葬で、 未盗掘であったため副葬品が良好な状態で残っていました。

 南棺には鉄製短甲1領、 鉄刀3点、鉄鏃100点以上、 北棺には鉄製短甲1領、 鉄剣4点、 鉄刀1点、鉄鏃46点以上、鉄斧1点が副葬されていたほか、
北棺の棺外には鉄鉾2点が置かれていました。

 南棺、北棺ともに副葬品が武具・武器であることから、 被葬者は武人的性格の人物と考えられます。

黒田長山4号墳


? はてな? ポイント
 短甲に時代ごとの特徴はあるの?

 短甲は鉄の板を動物の革でとじていましたが、 古墳時代中頃から鋲でとめたものが広まりました。

 革綴短甲→鋲留短甲

? はてな? ポイント

 黒田長山古墳群の副葬品
黒田長山古墳群の副葬品
黒田長山古墳群の副葬品
 4号墳の他の古墳の副葬品は、

1号墳 鉄刀2、刀子1、 棺外で鉄鏃38以上、刀子1
2号墳 鉄剣1、刀子1
5号墳 鉄斧1
7号墳 鉄刀1
8号墳 鉄剣1
9号墳 鉄刀1
10号墳 鉄刀1、刀子1
13号墳 刀子1、 鉄鉾1、 鉄鏃12
14号墳 鉄剣1、 鉄鏃17

 4号墳以外も、 副葬品が鉄刀や鉄剣など武器であることから、 被葬者は武人的性格の人物と考えられます。

黒田長山4号墳 北棺
よこはぎいたびょうどめたんこう
横矧板鋲留短甲

 364黒田長山4号墳 副葬品
黒田長山古墳群の副葬品
上と同じ
黒田長山4号墳 北棺
鉄斧
黒田長山 4号墳 北棺
鉄鏃
黒田長山 4号墳 北棺
鉄刀
黒田長山4号墳
北棺
鉄鉾
黑田長山4号填 南棺
鉄鏃
 
 400
 401
山津照神社古墳 絵図
「第三図」
(山津照神社蔵)
山津照神社古墳 絵図
「第四図」
(山津照神社蔵)

 403
山津照神社古墳 古墳時代後期 6世紀中葉
 米原市能登瀬

 山津照神社古墳は、米原市近江地域に分布する息長(おきなが)古墳群の中で最後に築造された6世紀前半の前方後円墳です。

 この古墳は全長が46mで、南に流れる天野川や「東山道 (中山道)」で東国へ通じるルートを意識した、古墳の側面を重視した造りとなっています。
裾部には威儀具(いぎぐ)を模した石見型盾形(いわみがたたてがた)埴輪を巡らせ、須恵器祭祀をおこなった造り出し状の平地を、
背後のくびれ部に擁していたことが明らかになりました。

 主体部である横穴式石室は、 明治時代に発見され埋め戻されています。 豊富で豪華な副葬品からは、大陸、北陸、 湖西、東国との関わりが見られます。
 この古墳は、 継体大王擁立期における地方豪族息長(おきなが)氏の動向を明らかにする上においても非常に重要な古墳といえるでしょう。

山津照神社古墳


山津照神社古墳石室の構造

 明治15年(1882)、 神社参道拡幅工事の際に、後円部に設けられた横穴式石室の存在が明らかとなりました。
山津照神社にはこのときの詳しい経緯と、古墳や出土品に関する報告書が保管されています。
とくに石室や出土品に関する詳細な絵図があり、絵図の記載から、後円部に「石門」(幅三尺、高五尺) 「邃道(すいどう)」 (凡一丈五尺) 「室」 (内法凡幅九尺、奥行一丈五尺、 高七尺)からなる石室があったことがわかり、さらに「二重ノ石室 御棺奉鎮ノ所」 を備えていました。

 「二重ノ石室」の記載から、 北部九州系の内部に岩屋形がある横穴式石室だった可能性があります。
(この石室は)北陸にも見られることから、越の国と近江、北部九州をつなぐルートの存在が推測され、 継体大王の出現とも関連がありそうです。

山津照神社古墳石室の構造


  山津照神社古墳

内行花文鏡
五鈴鏡
馬具 辻金具 
山津照神社古墳

獣文鏡
水晶製 三輪玉
馬具 雲珠 
     
山津照神社古墳
馬具 杏葉
馬具 輪鐙
山津照神社古墳
馬具 轡 引手・鏡板
米原市
山津照神社古墳
円筒埴輪
 405
米原市
山津照神社古墳
須恵器 提瓶
須恵器 杯
須恵器 台付壺
山津照神社古墳
須恵器 台付壺
須恵器 壺
 410
 411
穴太飼込古墳群
 大津市穴太二丁目・三丁目ほか

 京阪電鉄穴太駅付近に広がる古墳群で、 45基が 確認され、そのうち22基が発掘調査されており、6世紀後半から7世紀前半にかけて造営されたことが明らかになっています。

 副葬品の中心は須恵器や土師器ですが、 11基でカマドやコシキなどがセットになったミニチュア炊飯具形土器が出土しています。

 また、本古墳群とは川を挟んだ尾根上に広がる穴太野添(のぞえ)古墳群では約150基が確認され、 発掘調査された24基のうち8基からミニチュア炊飯具形土器が出土したほか、銀製釵子も出土しています。

 穴太飼込古墳群と穴太野添古墳群の山麓には、 渡来人が導入した建築様式と考えられる大壁建物(おおかべたてもの)が見つかった穴太遺跡、7世紀中頃に創建された穴太廃寺があります。

穴太飼込古墳群


福王子古墳群
 大津市南滋賀一丁目・二丁目

 飛鳥時代に建立された南滋賀町廃寺東側の山腹に造営された約20基からなる古墳群で、 発掘調査された8基のうち2号墳や19号墳など5基でカマド・カマ・コシキなどのミニチュア炊飯具形土器が出土しています。

 ミニチュア炊飯具形土器はこのほかに大津北郊の嶽(だけ)古墳、袋(ふくろ)古墳群、大谷南古墳群、大通寺(だいつうじ)古墳群、 太鼓塚古墳群、 穴太飼込古墳群、熊ヶ谷古墳群などでも出土しています。

 ミニチュア炊飯具形土器は、 近江のほかの古墳では出土しないことから、 大津北郊に居住した渡来人が副葬した特別な土器と考えられます。
なお、南滋賀町廃寺周辺など大津北郊では、渡来人の施設と考えられる大壁(おおかべ)建物が複数みつかっています。

福王子古墳群

 古墳群の位置と周辺遺跡
古墳群の位置と
周辺遺跡
穴太野添古墳群
穴太飼込古墳群
穴太廃寺跡
穴太遺跡
崇福寺跡

南滋賀遺跡
福王子古墳群
南滋賀町廃寺跡
近江大津宮錦織遺跡

古墳群の位置と周辺遺跡
 413副葬カマド
大津市 穴太飼込11号墳
ミニチュア炊飯具形土器
カマド
福王寺古墳群 19号墳 (大津市)
古墳時代後期
ミニチュア炊飯具形土器
福王寺古墳群 2号墳
(大津市)
古墳時代後期
ミニチュア炊飯具形土器
カマド・カマ・コシキ
ドーム状の天井を持つ
横穴式石室
大津市塚穴古墳
 
 440
雲雀山古墳群 1・2・3号墳
雲雀山1号墳
 直径19mから21mの低平な円墳状を呈しています。 埋葬施設は発見されていません。 鉄製の短剣1口と土師器が出土しています。

雲雀山2号墳
 直径16m、高さ3.2mの円墳で、 簡略化された竪穴式石室が検出されています。 変形獣文鏡、玉類、 武器類、三角板鋲留短甲等のほか、 棺上部から破砕された須恵器類が出土しています。 墳丘規模や副葬品から、 2号墳は古墳群の中で盟主的な存在であると考えられています。

雲雀山3号墳
 直径12m、高さ1.5mの円墳。 埋葬施設は木棺直葬(もっかんじきそう)と思われます。 変形獣文、 鉄剣、 鉄鏃等のほかに、須恵器坩形土器が副葬されていました。

雲雀山古墳群
1・2・3号墳
長浜市雲雀山古墳群 3号墳
変形獣文鏡

長浜市 雲雀山古墳群 2号墳
変形獣文鏡
長浜市 雲雀山古墳群 2号墳
三輪玉
長浜市 雲雀山古墳群 2号墳
鉄刀・鉄剣
長浜市
雲雀山古墳群 2号墳
鉄鏃
長浜市
雲雀山古墳群 1号墳
土師器
長浜市
雲雀山古墳群 2号墳
須恵器
 
 
 450
 451
鴨稲荷山古墳
 高島市鴨

 鴨稲荷山古墳は、6世紀中頃に築造された墳丘長約45mの前方後円墳で、 後円部の横穴式石室には凝灰岩製家形石棺が納められていました。
現在、 墳丘の大半は失われていますが、 大正12年(1923)に京都大 学により学術調査がおこなわれています。

 石棺の内外から内行花文鏡、玉類、須恵器のほか、金銅製の冠・履、肩や腰の飾り、 金製の耳飾りなどが出土しています。
ここに葬られた人物はこれらの品々で全身を装飾し、金銅製の金具で飾られた象徴的な大刀をも つことで、大陸との積極的な交渉をおこなった豪族の権 威を示したとみられます。

 また、 出土した杏葉や雲珠 などで飾られた馬具も金銅製で装飾性が強いことから、 権威の象徴として副葬されたことがうかがわれます。
副葬品は大王墓級の内容であるため、 被葬者は継体大王を支えた三尾君(みおのきみ)氏と考えられます。

鴨稲荷山古墳 鴨稲荷山古墳の家形石棺

 滋賀県内出土の装飾環頭大刀
滋賀県内出土の装飾環頭大刀

双鳳文環頭 (大伽耶製) 高島市 鴨稲荷山古墳出土
三葉文環頭(新羅製) 高島市 二子塚古墳出土
単龍文環頭(伽耶もしくは新羅製)高島市 北牧野2号墳出土
単龍文環頭 (日本製)竜王町 鏡山古墳出土


雲雀山古墳群 古墳時代中期から後期(5世紀末〜6世紀初頭を中心とする時期)
 長浜市湖北町伊部・田川町

 小谷山から派生する小丘陵尾根に立地し、 直径10m 程度の小古墳ばかり16基程度で構成されています。 昭和26・27年 (1951・1952) に、 大阪市立大学文学 部歴史学教室が1・2・3号墳を発掘調査しました。

 古墳群は、 5世紀後半の短期間に築造されたと考えられます。 1・2・3号墳はすべて鉄製の武器・武具を 主体に副葬した状況がみられ、 武人たちの古墳群ともいうべき様相を呈しています。

 また、 越前武生にいたる幹道である北国脇往還道に沿って築かれており、近江と越前との関係をうかがう上で注意すべき古墳群といえます。

雲雀山古墳群

 452鴨稲荷山古墳の復元品 死に装束

 453金銅製 履
鴨稲荷山古墳
金銅製履(くつ)

 454金銅製 冠
鴨稲荷山古墳
金銅製冠

 455金銅製 半筒形飾具
鴨稲荷山古墳
金銅製半筒形(はんつつがた)飾具
復元品

 456金銅製 双魚佩
鴨稲荷山古墳
金銅製双魚佩(こんどうせいそうぎょはい)
復元品
 
 460
近江の横穴式石室

 横穴式石室は、5世紀の終わりころ、 朝鮮半島から導入された新しい墓制であるが、 近江には通常の横穴式石室と異なる、 特異な構造をもつ
ものが分布することで注目されている。

 これらは、通常の石室が長方形の立面・平面プランを取り、それに墓道がつくのに対し、
 ➀ドーム状の天井 を持ち、 平面も正方形ないし横長の方形を取る グループと、
 ②石室と墓道のつながりが、 同一平面でなく下り坂になったり、 階段になり、 石室が低くなっているグループがあって、
大津北部と、湖東地域にまとまって分布している。

 それぞれの地域には、 文献資料や文字資料により、
渡来氏族の二つの雄族(ゆうぞく)、倭漢氏(やまとあやうじ)と秦氏(はたうじ)につながる、
志賀漢人氏
(しがあやひとうじ)
と依知秦氏(えちはたうじ)が濃密に分布することが知られており、 氏族の違いがその墓制に現れた可能性も指摘されている。

倭漢氏 (大津市周辺に居住)
倭漢氏(やまとのあやうじ)は、古代の日本に中国や朝鮮半島から渡来し、大和政権に仕えた有力な渡来系氏族で、東漢氏(やまとのあやうじ)の別名です。
秦始皇帝の末裔とされる「秦氏(はたうじ)」と並び、帰化人(渡来人)の中で大きな勢力を誇りました。

主な特徴と起源
• 祖先:後漢の霊帝(れいてい)の子孫である「阿知使主(あちのおみ)」を祖と伝えています。
• 拠点:大和国高市郡の檜隈(ひのくま。現在の奈良県明日香村周辺)を本拠地としました。
• 役割:先進的な技術や文化を伝え、文筆(文書の記録)、外交、財務(財政)、軍事、土木建築などを担いました。

歴史と活躍
• 朝廷での立場:すぐれた実務能力と武力を持ち、大和朝廷の運営を支えました。蘇我氏とも深く結びつき、政治や仏教の導入などにも関わりました。
• 子孫の発展:平安時代には武官として有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を輩出した坂上氏などにつながっていきます。

秦氏 (湖東地区愛知郡愛荘町周辺に居住)
秦氏(はたうじ)は、古代日本に大きな勢力を持った最大級の渡来系氏族です。

起源と渡来
• 出自:『日本書紀』などでは秦の始皇帝の末裔(弓月君が率いて帰化した)と称されていますが、実際の出自は朝鮮半島系(新羅など)とする説が有力です。
• 本拠地:山城国葛野郡太秦(現在の京都府京都市右京区周辺)を拠点としました。地名の「太秦」は、秦氏が朝廷に上納した「うずまさ」(うずまき状に束ねた絹糸)に由来するといわれます。

主な功績と技術
• 先進技術の伝播:養蚕・機織(絹織物)、土木・灌漑(桂川の治水など)、酒造、製鉄、鉱山開発などの高度な技術を日本に伝えました。
• 経済力と組織力:優れた技術と財政力を背景にヤマト朝廷で重んじられ、全国に「秦部(はたべ)」などの部民を組織しました。

主要な人物とゆかりの神社仏閣
• 著名な人物:聖徳太子に仕えた秦河勝(広隆寺を建立)や、朝廷に絹を貢いだ秦酒公などが知られています。
• 神社仏閣:京都の広隆寺のほか、松尾大社(秦氏一族の忌寸都理が創祀)や伏見稲荷大社(秦伊呂具が創祀)など、多くの重要な社寺の創建に関わりました。

志賀漢人氏 (大津市北部湖西地区周辺に居住)
志賀漢人(しがのあやひと)氏は、古代の近江国(現在の滋賀県大津市周辺)に居住していた渡来系氏族です。

概要と特徴
• 居住地: 琵琶湖の周辺、特に現在の大津市北郊地域や湖岸に多く住んでいました。
• 出自: 倭漢氏(やまとのあやうじ)の配下にあたる「漢人村主(あやのすぐり)」の流れをくむ集団です。
• 役割: 琵琶湖の湖上水運や、それに伴う物資の運搬・管理において重要な役割を果たしました。当時の政権(蘇我氏など)の指示や関与のもとで活動していたとされています。

依知秦氏 (東近江氏や愛荘町周辺に居住)
依知秦氏(えちのはたうじ、「依智秦氏」とも表記)は、古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけて現在の滋賀県東部(湖東平野の愛知郡、現在の愛荘町周辺)を本拠地として活躍した、有力な渡来系氏族です。

特徴と活動
• 出自とつながり: 古代の最大級の帰化氏族である「秦氏(はたうじ)」の一族で、その一部が近江国(現在の滋賀県)に定住して形成されました。
• 地域の開発: 湖東地域(愛知郡周辺)に居住し、先進的な技術や文化をもとに農耕や土木、地域の開発を主導しました。
• 歴史的痕跡: 愛荘町にある依智秦氏の里古墳公園(上蚊野古墳群)など、朝鮮半島の文化や影響を伝える多くの古墳や出土品が残されており、近江における渡来人の足跡を立証する貴重な存在となっています。

近江の横穴式石室

ドーム状の天井を持つ横穴式石室
大津市塚穴古墳
階段状の施設を持つ横穴式石室
近江八幡市竜石山2号墳
墓道が下り坂になる横穴式石室
野洲市丸山古墳

 特徴ある横穴式石室の分布
特徴ある横穴式石室の分布
 

 470
滋賀県立安土城考古博物館 大阪府立近つ飛鳥博物館 連携展示
    令和7年度 出かける博物館
寛弘寺古墳群が 映す 古墳時代

 471
寛弘寺古墳群とは
 寛弘寺古墳群は、 南北1.2km、東西 0.7kmに わたる、 標高80~120mほどの低丘陵と谷地形が入り組んだ丘陵部の上に造られています。
調査で確認された古墳の総数は91基で、 古墳の墳形は、 造出付円墳(つくりだしつきえんふん)2基、円墳31基、方墳 31基です。

 後期の群集墳では円墳が一般的に なるなかで、方墳と円墳がほぼ同数であること は特筆されます。
古墳の多くは小規模で、 直径または一辺が5~6m程度ですが、 埋葬施設は粘土槨・木棺直葬(もっかんじきそう)・ 横穴式石室など多様です。

 古墳群の造営は4世紀後半から7世紀後半まで継続しており、 300年にわたる長期間の造墓 活動は、 寛弘寺古墳群の特徴といえます。

寛弘寺古墳群とは


寛弘寺古墳群の始まり
 寛弘寺古墳群の造営は、 古墳時代前期の4世紀後半に、 古墳群北部の丘陵や東部丘陵の北側から始まります。
今回展示している10-1号墳 は古墳群の中でも最初期の古墳であったと考えられます。

 初期段階の古墳からは埴輪が出土 しておらず、 南河内地域の中小古墳においても 埴輪を伴わないことが多いことから、 当時の地域的特色がうかがえます。

 一方で、 10-1号墳の棺内から出土した半円方形帯二神二獣鏡(はんえんほうけいたいにしんにじゅうきょう)は、中国後漢の末期 (3世紀前半頃) に製作された鏡とみられています。 こうした鏡を入手し得た点から、古墳群の造営を始めた人々が、王権との結びつきを持っていた可能性が考えられます。

寛弘寺古墳群の始まり


寛弘寺古墳群の埴輪
 5世紀代になると、北側の丘陵では古墳の築造は行われなくなり、東側の丘陵において規模の大きな古墳が築造されるようになります。

 古墳群内では、 古墳の築造の開始から少し遅れて埴輪の樹立が始まります。
 5世紀前半頃に築造された造出付円墳(つくりだしつきえんふん)の17号墳からは、円筒埴輪のほか、人物・馬形をはじめとする形象埴輪が出土しています。
こうした、形象埴輪を用いた葬送儀礼は、百舌鳥・古市古墳群の影響を受けていると考えられ、この時期の寛弘寺古墳群の被葬者は、王権と近い関係性を築いた人物であると考えられます。 寛弘寺古墳群では、 およそ20基の古墳から埴輪が出土しており、 その数は南河内地域の中でも突出しています。

寛弘寺古墳群の埴輪


寛弘寺古墳群の終わり
 6世紀中頃を過ぎると、 横穴式石室をもつ古墳 が築造されるようになります。 石室内には家形 石棺が納められ、 馬具を副葬する古墳が現れは じめます。 同時期に築かれた75号墳は未盗掘であったこともあり、 衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、 挂甲(けいこう)等の武具類のほか、 銀製空玉(ぎんせいうつろだま)、 鉄地金銅張(てつじこんどうばり)の馬具のセットなど非常に豊富な資料が出土しています。

 その後、寛弘寺古墳群は、6世紀後半から7世紀後半にかけて、 階層的に多岐にわたる集団の墓域として機能し続けます。 しかし、この時期以降は、 寛弘寺古墳群としてのまとまった 造墓は終息し、木棺墓や土器棺墓が営まれます。

寛弘寺古墳群の終わり

 寛弘寺古墳群の分布
寛弘寺古墳群の分布 寛弘寺遺跡
寛弘寺古墳群
円墳・方墳古墳群
終末期古墳
 472
寛弘寺10-1号墳
半円方形帯二神二獣鏡
管玉
石釧
勾玉
寛弘寺12号墳
水晶製切子玉
 473
馬形埴輪
寛弘寺17号墳
円筒埴輪

展示品は馬のこの辺り 17号馬形埴輪 色々な杏葉
-色々な杏葉-
➀剣菱形杏葉(5世紀後半~6世紀前半)
②楕円形杏葉 (6世紀前半)
③鐘形杏葉 (6世紀)
④心葉形杏葉 (6世紀後半)
⑤花形杏葉 (6世紀後半)
 476
轡,杏葉
寛弘寺75号墳
須恵器 坏身蓋
土師器 壺蓋
 477
堤瓶 ハソウ
高坏
高坏
台付壺
 
 

 600第2常設展示室

   中世近江の展示がおこなわれます。

 601ドーム下室

 三つの展示室をつなぐ中央室。
この時初めて気づいたのですが、ここの建物は、中世ヨーロッパ、特にスペイン風?様式で出来ていました。
 ドーム屋根の下は感動的でした。


第2常設展示室

 603
安土城の復元

 この模型は、現在知ることのできる資料とこれまで行われてきた発掘調査の成果をもとに、 地形と普請を復元したものです。
標高199mの安土山は、 城が築かれた当時は琵琶湖に突き出た半島状の山でした。 三方を湖に囲まれた安土山は天然の要害で、 城の前面には堀が廻らされていました。

 また、この地は交通の要所でもあり、 対岸の坂本や大津、湖北へは舟で往来することが可能で山麓には東山道(中山道) の脇道である下(しも)街道が通っていました。

 安土城の縄張りは安土山全域におよび、山頂の天主をはじめ、 三方に伸びる尾根の要所には石垣・郭が設けられ、 谷筋には湖や街道と城内を結ぶ道が造られていました。
 昭和21年(1946) から始まった大中の湖干拓事業によって、安土山の周囲の湖面が埋め立てられ、現在はのどかな田園に囲まれています。

安土城の復元


 610土づくりの城
 611
土づくりの城
Castles Built From Earth

 「城」という字は「土から成る」 と書くように、 まさに中世の城は、土を掘り、 土を盛り上げて土台がつくられているのです。
これらは、立地や形から山城とか城館と呼ばれています。 その周囲は、土でつくられた土手や堀のような様々な形の施設と方法で、
敵から身を守るための工夫がなされています。

Medieval Japanese castles (late 11th - 16th century) were built by digging into the earth and piling up soil to create their foundations. They are called mountain castles or fortified residences because of their location and formation. Around mountain castles and jokan, fortified residences, various types of facilities and methods, such as earthen rampart walls and moats, were used to protect against enemies.

 中世日本の城郭(11世紀後半~16世紀)は、地面を掘り、土を積み上げて基礎を築くことで建設されました。その立地と構造から、山城や城郭住居と呼ばれています。山城や城郭住居の周囲には、土塁や堀など、敵の攻撃から身を守るための様々な施設や工法が用いられました。

土塁 (土居)
山を削り、 堀を掘った土を使って、 台形状に盛り、つき固めて作った壁のこと。 この上に板や丸太を用いて塀や柵を建てて、攻めてくる敵を攻撃したり、 敵を防いだりします。

堀
弓矢や槍の攻撃から城全体を守るための、 深く幅広い溝。
堀には自然の沼や川を利用したものや、人工的に掘ったものがあり、水のあるものを 「水堀」 水のないものを 「空堀」 と呼んでいます。

虎口
城の出入り口のことで、もとは小さく口を開けるという意味で小口でしたが、 今は形が虎の口に似ていることからこの字が使われ、 形によって一文字・桝形・馬だし・食違いなど様々な名前がつけられています。

くるわ
曲輪(郭)
山を平らにけずり、 堀や土塁で区画した敷地や空間のことで、中に館や矢倉などを建てます。 普通この区画の組み合わせ (縄張り)で城はできています。 後に、これが 「丸」 と言われるようになります。

土づくりの城



たてどるい
堅土塁 Tate-dorui, Vertical Earthen Rampart Walls
 城が作られている山の斜面に沿って縦方向に作られた土塁で、斜面からの敵の侵入を防ぎます。

たてぼり
連続竪堀 Renzoku Tate-bori, Recurring Vertical Trenches
 城が作られている山の斜面に縦方向の堀を何本か並べて掘ったもので、斜面からの敵の侵入を防ぎます。

ほりきり
堀切 | Horikiri, Trench
城が作られている山の上を山続きに攻め込まれないように、尾根をV字型に切断し切り通した空堀のことです。

うねぼり
畝堀 Une-bori, Ridged Moat
堀の底に田の畦のような区画を、土塁でつくり、 堀に水を溜ま りやすくして、敵の侵入を防ぎます。

しょうじぼり
障子堀 (堀障子) | Shoji-bori, Segmented Moat
畝堀をさらに発達させたもので、堀の底に土塁で障子の桟の ような区画をつくり、 堀底での敵の動きを防ぎます。


桝形虎口 | Masugata-koguchi, Masugata Gate
土塁を四角にめぐらせて隣り合う辺の隅に2つの出入り口を つけたもの。侵入する敵に対して横方向から弓矢や槍で攻撃します。

平虎口 Hira-koguchi, Hira Gate
両側から伸びた土塁で出入口をつくるもので、 最も簡単な城の出入り口のこと。 「一文字」 や 「食違い」 などの種類があります。

馬だし | Umadashi Bailey
虎口の前に小さな半円形やコの字の土塁で曲輪を作るもので、いったん馬や兵をここで待機させてから出撃します。

土橋・木橋| Dobashi- Kibashi, Earthen and Wooden Bridges
堀切で離された城の内と外、 曲輪と曲輪を結ぶ橋で、土・石・舟など様々なものが用いられます。

やぐら
矢倉台(櫓台)| Yagura-dai, Turret Base
敵を見張るための矢倉を建てるところで、 土塁の隅に築き、他より一段高くし、周りを土塁で囲ったりします。

 613
曲輪
(静岡県山中城)
竪土塁
(滋賀県下山城)
障子堀(静岡県山中城)
桝形虎口
(滋賀県下山城)
平虎口(滋賀県下山城)
馬だし (静岡県山中城)
土塁 (滋賀県下山城)
連続竪堀
(京都府平山城)
堀切(静岡県山中城)
畝堀(静岡県山中城)
曲輪 (静岡県山中城)
櫓台(静岡県山中城)

 620安土城模型
安土城基盤模型

築城記の世界
 『築城記』 は越前の朝倉氏に伝わった資料で、 中世の城作りの教科書です。
塀や木戸・ 矢倉、 城内から矢を射かける狭間(ざま)など、城の具体的な形や寸法などが細かく記されています。

 ここではその記述を元に、 中世の城の姿を再現してみました。
私たちが知っている江戸時代の白亜の城郭とは全く違う、 「戦闘のため」の城だったのです。

築城記の世界 築城記の世界


築城記 用害之事

オモテ
カフキノ
水戸也

山城の事、然るべく相見ゆる也、然れども水これ無くば詮無く候間、努
々木の手遠きはこしらへべからず、又水の有る山をも
尾つづきを掘り切り、水の近所の大木を切りて、その後水の
留むる事これ在り、能くよく水を試みて山を拵うべき也、人足等
無躰にして爾にとりかかり然るべからず、返すがえす出水の事
肝要に候条、分別有るべし、末代人数の命を延ばす事は
山城の徳と申す也、城守も天下の覚を蒙る也、日夜
辛労を積みて拵らうべき事肝心也

一、塀の高さ五尺二寸ばかり、狭間の長さ三尺二寸ばかり、
狭間の口の広さぬりたて七すばかり、狭間の角を
よくおろして矢の出よき様に拵らうべき也、

一、狭間の数は一町の面に丗と申す、四町二百二十ばかり
然るべきと也、然れども数の事、よう躰によるべし、矢出
て敵いたむべき所を見はからいて多くも切るべき也、
又身とおりの狭間などと云いて、昔はきらず候事に候、
然れどもいらざる狭間をば狭間蓋をしてふさぐ事
なれば、狭間多くして苦しからずとの口伝これ多し

一、矢蔵は塀の棟よりも二尺高く上ぐる也、弓一
張たつほど然るべし、矢蔵数多く候事は然るべく候、大い
に上ぐるべからず、小矢蔵は七尺四方ばかり然るべく候也、

一、矢蔵の狭間は三尺ばかり、口六寸ばかり、狭間の下八寸ばかりたるべし、
一、弓隠しは三尺ばかり、莚など然るべく候、
一、木戸は柱間七尺、柱はいかほども太くて然るべく候、寸法はこれ有るべからず候也、
一、弓隠しは三尺ばかり、莚など然るべく候口伝あり、

一、木戸はおよそかくの如し、

ぬきと伝也
木戸柱也
是は冠木に
木の積木をば
あらず
車つきと云う也

一、カイ有る木を十六角ばかりに削り候、門の木
をして内よりさす、横に木を渡す也、しおり内へ明
る也、片開きは左へ開く也、

一、狼煙はかがりを焼く如く木を積みて置く也、 用の時
火を付ける、狼のフンをくぶる也、狼煙けぶり上へ 能く立ちのぼる也、
かがり焼きは干したる木を長く積み、風面より火を
付くる也、又生木をば多く積みて、消さざるやうに焼く也、
いずれも木多く積み、火太く強く見え候様に焼き候也、

一、平城は始めてこしらえ候時、まずうちをする也、
かならず土居出来て内狭くなり候、土居の
広さなどよく分別して、縄打にて広くも
狭くも成る也、地割とは云うべからず、うちと 云うべき也、

一、追手の口は土橋然るべき也、自然板橋などは火を
付ける事有る也、切りて出てよき方を土橋にする也、

一、搦手の口、かけ橋もくるしからず、但様躰 によるべし、

一、木戸柱の口の広さ九尺ばかり、長さは土の上一丈ば
かり、一方に一本、両方に二本也、柱は面を広く四角
作りて、立つべき地へはいかほども深く入りてよき也、 くぐり木戸は右の方に有るべし、

一、木戸は内へ入りてかまえ候也、土居にても石蔵にて
も塀にても透きの無きように立てる也、

一、城の戸口をば内の見えぬように右かまえに
ひつめて、外より内の見えざるように、拵うる也、又
城の戸より内の少し広くなるように心得べき也、

一、城の木戸と家の間は、鍵を二段三段ばかりにつくる ように心得べき也、

一、追手へ大手共敵付く時は、搦手より切て出るように

右この一巻は、朝倉殿家中・窪田三郎兵衛尉、
隠れなき射手たるにより、朝倉殿より窪田方にこれを相伝えらる。 しかるに、若州武田殿において、窪田長門守と申す人体これ在り。 三郎兵衛尉の親類なり。然る間、相伝の条、種々
懇望せしめ、これを写すものなり。秘すべし、秘すべし、くだんの如し。

            河村入道
 時に永禄八、十月廿七日
             誓真(花押)



戦う城から支配の拠点へ

 中世の城は 『築城記』 からもわかるように、 一時的な戦闘のための砦にすぎませんでした。 しかし戦乱の世に入ると、 城は次第に地域支配の拠点としての役割を果たすようになっていきます。
 建物の恒久性や、支配者の権威を示す要素が求められてくるのです。礎石を用いた堅固な建物が城内に現れ、時に瓦が葺かれることもありました。 鉄炮の普及に対応し、石垣も用いられるようになります。

 このように、戦国時代には城郭の機能は高度に発達し、巨大で複雑な縄張りを持つ城が各地に現れるようになりました。
比高差300mの全山に郭をめぐらせた六角氏の観音寺城は、その代表的な例です。 城郭は単なる砦から、 戦国大名の権力を象徴する構築物へと変化していったのです。

 織田信長の築いた安土城は、戦国時代に現れた石垣・礎石・瓦の3要素が初めて完備された点で着目されていますが、それ以上に、
金箔瓦・鯱瓦(しゃつほこかわら)を用いた高層建築 (天主) や総石垣作りの縄張りなど、これまでになかった要素が多く見られます。 強力な権力を持つ信長 だからこそ作り得た、全く新しいタイプの城郭だったのです。
そしてその姿が、江戸時代の城郭のモデルになっていきました。

戦う城から支配の拠点へ 戦う城から支配の拠点へ

 安土城城郭模型

 630戦国大名と城

 631戦国大名

戦国大名と城~群雄割拠の時代~

 1467年に起こった応仁の乱以降、室町幕府と将軍の権力は失墜しました。
地方では守護もしくはそれに取って代わる勢力が台頭し、 戦国大名となって強力な領国支配体制を確立していきます。
甲斐の武田氏や相模の後北条氏などがその典型です。

 また、地域住民や一向宗信徒たちによる一揆が、支配者としての力を持った地域も存在しました。 いわゆる「下剋上」の時代です。
このような世情の中、 戦闘拠点である城郭は急速に発達しました。

戦国大名と城 戦国大名
朝倉義景
一向一揆
浅井長政
尼子氏
朝倉氏
山名氏
浅井氏
武田氏
毛利氏
斎藤氏
六角氏
織田氏
三好氏
本願寺
今川氏
北畠氏
長宗我部氏
根来·雑賀衆
上杉謙信
上杉氏
武田信玄
後北条氏
北条氏政

 633関津城(せきのつじょう)

関津城 ―戦国時代の館城―
 関津城は、大津市の南部、 琵琶湖から唯一流れ出る 瀬田川左岸の丘陵先端部に築かれた戦国時代の館城です。
城が築かれた位置は近江の南の玄関口的な場所で、古代から関や津(港) がおかれていました。

 城は、清和源氏の流れを汲む宇野源太郎守治が承久の乱 (1221年)に戦功を立てた恩賞として与えられたことに始まるとされています。

 平成21~23年度に行われた発掘調査で、 土塁で囲んだ曲輪に礎石建物や用途が異なる複数の倉庫 (蔵) が整然と配置されていたことが判明したほか、 城内での日常生活の様子がうかがえる豊富な遺物が出土 しています。

 出土した遺物は、 土器や陶磁器など生活用具、調度品の飾り金具、甲冑の一部のほか、 火災に遭った土壁造りの蔵からは保管されていた米が炭化した状態で出土しています。

関津城 曲輪Ⅲ 曲輪Ⅱ 上段
土蔵造り建物の基礎
(地覆石)
関津城跡 (曲輪I・Ⅱ・Ⅲ)
 
 635関津城跡出土品遺物
朝鮮王朝陶磁瓶
朝鮮 徳利
朝鮮 徳利
備前 徳利
瓦質土器 風炉
信楽 水指
瓦質土器 風炉
信楽 水指
 636関津城跡出土品
関津城跡出土品
白磁 皿
青花 皿
土師器皿
青磁碗
青磁皿
瀬戸 美濃 天目椀
 637
ちょうつがい
蝶番
飾り金具
蔵の壁土
 
 640城郭の石垣

宇佐山城 (大津市)
信長が近江と京を結ぶ、現山中越えを押さえるために築城。
永禄年間の石垣として貴重。
石垣の傾斜は緩く直線的である。
      佐生城 (東近江市)
六角氏が信長の侵攻に備えて整備した城である。
中山道に面した側に石垣が築造されている。
この石垣も直線的な石垣であり、 隅も完全な算木積みにはなっていない。
      鎌刃城(米原市)
江南と江北、近江と美濃の境目の城として、数々の戦いの舞台となった城である。
ほぼ垂直に積まれた石垣で、 裏込めの石材は殆ど認められない。
     
小谷城(長浜市)
江北の戦国大名浅井氏の居城で、浅井亮政段階から整備されたと考えられる。 巨石を用いるが、ほぼ垂直に積まれている。
隅の処理も同型の石材を積み上げるだけの単純な処理となっている。
      大溝城 (高島市)
高島郡支配と勝野津を掌握するために信長が築いた水城。
安土城とほぼ同時期の天正六年に築城。 極めて緩い傾斜が特徴。

 650
安土城の石垣
石を2つに割り、割れた面を表にして積まれています。
石と石のすき間には小さな石 をつめて支えとしています。
高さは10mまでが多く、その技 術は高く400年たった今でもしっかりしています。

安土城の石垣

城を守る高い石垣
 安土城を境に高く堅固な石垣が用いられるようになりました。 これは西日本の高い城作りの 技術のひとつです。
最初の頃の石垣は、石の自然の面を大切にして積まれたもので、あまり高く積むことはできませんでした。
安土城を境に、石は好みの形に割られて使われるようになり、 近世の名古屋城や大坂城の頃には四角に加工された石が使われ、高く積む技術が発達しました。

城を守る高い石垣

石垣の築き方
安土城の石垣は、おおよそ次のような順序でつまれて
います。まず、山の斜面をL字に切りとり、基礎となる大きな 根石を置きます。 その前に縄や板、杭で基準をつくり、石 をうまく組合わせながら、少しずつ積みあげています。 また裏には栗石と呼ばれる石をつめ、水はけをよくしています。

石垣の築き方

観音寺城の石垣
 自然の石の面を用いて積まれたものです。
 石の大きさはまちまちで揃っていません。
この時代は技術的にあまり高い石垣を積むことができませんでした。

観音寺城の石垣

彦根城の石垣
石を鉄のくさびで割ったり、石鋸で切ったりしたものが使われています。
高く丈夫な石 垣にするため、 すき間がない ようにぴったりと積まれてい ます。10mを越える石垣が生れるのはこの頃からです。

彦根城の石垣

 660

 661
六角氏の城 「観音寺城」
 滋賀県安土町・五個荘町に築かれた観音寺城は、 佐々木六角氏の居城です。
城のある標高430mの険しい山はまさに自然の要害であり、さらに頂の本丸を包みこむように山の斜面いっぱいにつくられた鱗状の曲輪群の、 その優美な姿は山城の完成されたものといわれています。
 また、 山麓には城主が日常住む屋形と城下町がととのい、 城は戦のときにだけ使われたようです。

六角氏の城
「観音寺城」
六角氏の城
「観音寺城」


掘り出された「観音寺城」
昭和44・45年にかけて、 史跡観音寺城跡を整備するために発掘調査が行われました。
発掘調査は、本丸、 池田丸、 平井丸などを行い、館の跡で多数の食器類が発見されました。

掘り出された
「観音寺城」
掘り出された
「観音寺城」
池田丸城屋敷 平井丸跡屋敷 平井丸跡潜り門 池田丸跡石倉 池田丸跡虎口 本丸跡
本丸跡裏虎口

観音寺城跡の復元

 663
六角氏の城 「観音寺城」

 滋賀県近江八幡市と東近江市にまたがって築かれた観音寺城は、近江守護であった佐々木六角氏の居城です。
城のある標高430mの険しい山は、 まさに自然の要害であり、さらに頂の本丸を包み込むように山の斜面いっぱいに作られた鱗状の曲輪群のその優美な姿は、 山城の完成されたものと言われています。
また、 山麓には城主が日常住む屋形と城下町がととのい、 城は戦のときだけ使われたようです。


観音寺城跡で発見された品々
 これらは、すべて観音寺城跡を 発掘調査した時に発見されたもの です。
日常生活に使われた食器類とともに、中国製の香炉や合子の棚飾りもの、 硯、水滴など六角氏の生活ぶりを示す貴重な資料です。

 観音寺城遺物
六角氏の城
「観音寺城」

観音寺城跡で発見された品々
皿(土師質土器)
碗・皿
(瀬戸美濃焼鉄釉)
 665
小皿 (美濃焼)
碗 (中国製染付)
碗 (中国製染付)
皿 (中国製染付)
坏 (中国製染付)
皿 (中国製白磁)
 667
坏 (中国製白磁)
碗 (中国製青磁)
甕(常滑燒)
甕(信楽焼)
銅錢(宋)
 
 670
浅井氏の城 「小谷城」
 滋賀県湖北町小谷山につくられた小谷城は浅井氏の居城です。
 この小谷山は標高494mの険しい山で、山の頂に本丸、 京極丸などの曲輪がつくられています。
特に清水谷の斜面には鱗状の小さな曲輪と長く続く縦堀群が配置され、敵の侵入を防いでいます。
浅井氏三代は信長との戦いによってこの城で壮絶な最後を遂げて います。
小谷城古絵図(滋賀県小谷城址保勝会蔵)

浅井氏の城「小谷城」

掘り出された小谷城
 昭和45年から50年にかけて史跡小谷城跡を整備するために発掘調査を行いました。 調査は本丸、 京極丸、山王丸に及び、 千畳敷の大広間では城内で使われていた多量の食器を発見しています。
数少ない山城の発掘調査のひとつです

掘り出された小谷城 本丸正面石垣
大広間東北墨井戸跡とそれに続く溝
大広間跡
大広間入口黒金門石段


横江遺跡復元模型
S=1:200
Yokoe Village diorama (14-15th century),
Moriyama City, Shiga
 横江遺跡(守山市) で発掘された鎌倉時代後期から室町時代(14~15世紀頃)の村の様子を再現した模型です。
村の中は堀や溝などの水路で屋敷地を区画し、水路に囲まれた範囲には、掘立柱を用いた建物などが建てられていました。 琵琶湖の近くには、このように水路で区画された村が、 たくさんありました。

横江遺跡復元模型
横江遺跡復元模型


 680戦国時代の近江~
 鎌倉時代以降、 近江国を支配したのは、 源平合戦で活躍した佐々木一族です。 やがて一族は諸家に分かれ、 江北の京極氏と江南の六角氏が それぞれの地域を支配するようになりました。

 ただし近江守護に任じられたのは、一時期を除いて本宗家の六角氏です。 やがて戦国時代にはいると、 京極氏は家臣の浅井氏に圧倒されます。
 六角氏は信長に逐(お)われるまで支配を続けますが、家臣たちの力が強く、強力な支配を打ち立てることができませんでした。

戦国時代の近江~
浅井長政像
(小谷城址保勝会蔵)
上平寺城絵図
井吹町図
佐々木略系図
 
 700
 701観音寺城の姿
 六角氏の居城である観音寺城が初めて歴史に現れるのは、南北朝の争乱の時です。
その後次第に城郭としての形を整え、 15世紀後半には標高400mの山全体に郭をめぐらせた大規模な城郭に発展しました。

 城の大手は当時の主要道である東山道を向き、 山裾には城主の居館である 「御屋形」があります。
山頂部は本丸をはじめとして池田丸・平井丸・布施丸といった重臣たちの屋敷地が肩をならべ、 その他の尾根にも下級家臣の屋敷がありました。

観音寺城の姿 本丸裏の食い違い虎口 平井丸の平虎口
観音寺城平面図 本丸遺構
 703
3 観音寺城跡出土資料
            一括
            室町時代
 昭和四四年(一九六九)から五年に行われた、史跡整備のための発掘調査で出土した資料です。
場所は山頂中枢部の伝本丸・伝平井丸・伝池田丸で、礎石建物跡や溝・石段・井戸などが見つかりました。
伝平井丸では、庭園跡も確認されています。
遺物は十六世紀後半のもので、飲食具や茶道具・仏具・硯などが出土しており、 山上で日常生活や文化活動が営まれていたことがわかります。

観音寺城跡出土資料 観音寺城跡出土資料
観音寺城出土遺物一括
信楽すり鉢
壺
瀬戸鉄釉甕
 705
観音寺城下町
 観音寺城のある織山の南斜面、 城の大手道が東山道に交わる石寺あたりに、 城下町はありました。
15世紀後半にはその名が史料に現れ、16世紀半には 「石寺新市」 が作られています。

 この市場は自由に商売ができる楽市だったようで、現在確認できる最も古い楽市になります。 石寺城下町は少しずつですが発掘が進められ、 将棋の駒や土器・木器・漆器などの遺物が出土しています。 しかし残念ながら、 当時の姿や機能を解明するには至っていません。
   近江国守護施行状写 (今堀日吉神社蔵)

観音寺城下町
 707
仏具(五鈷杵)
土師器 皿
硯
水注
青花香合
青磁香炉
天目 碗
水指
 710
 711
中世近江の村むら

 中世になると、村人が結集して自治的な組織を作り、 村の行政や経済・宗教行事を運営して いくところが現われます。
このような組織を惣と呼びますが、 生産力の高い近江では惣村が多く見られました。
 惣の拠り所が村の神社で、田畠が寄進されて惣の共有財産とされたり、村の鎮護のため大般若経が請い求められ転読が行われたりしました。
また近江では在地における商業も盛んで、権利や通商ルートをめぐる争論も絶えなかったようです。

   須恵八幡神社文書 弘安8年10月11日付け 沙弥西仏他連署畠他寄進状 (八幡神社蔵)

中世近江の村むら 大般若波羅蜜多経扉絵 (福円寺蔵)
 713
須恵八幡神社文書(竜王町須恵)
 竜王町須恵は、古くは小須恵(こすえ)村と言ったようで、 八幡神社は中世には 「小須恵若宮」 「小須恵之宮」 と呼ばれていました。
この神社に伝えられた文書は、中世の土地寄進状と近世の村文書(むらもんじょ)になります。

 鎌倉時代後期くらいから、 村の人々が自分たちで村の自治を行う組織 (惣(そう)) が、神社の宮座(みやざ)を中心に結成されたのでしょう。
人々が神社に土地を寄進し、 それが惣有田(そうゆうでん)として住民の共有財産になっていきました。
 また、 神社のそばに阿弥陀堂があり、 「宮の聖(みやのひじり)」 が毎日読経を行っていました。


妙行免状(須恵4)

すへ(須恵)のかきう(垣内)ち大しやうくん(将軍)
の木、所もの、なけき(嘆き)申尓よて
さし於く(差し置く)所也、すかうふん尓
■うとう伊賀うけとり(受け取り)候ハぬ、
のちのため二、状如件、
りやく於う四ねん(年)十一月十八日
                妙行(花押)


沙弥たう阿弥・ちゃく女とら女
           連署田畠寄進状(須恵3)
わかミやとの(若宮殿)へきんしん(寄進)まいらす■てん田の事、

    但この田のセうたう米二しやうひきの
合半者、ますの一斗五升まい年ことに八月■んか
    に沙汰しまいらせ候なり

右、件田者、さミ(沙弥)たうあミ(阿弥)かセんそさうてん(先祖相伝)の

志里やう(私領)なり、志(し)かりとゆくとも、わかミ(我が身)ろ

うまう(老耄)のきさミ(刻)によて、わかミヤとの(若宮殿)へき

志ん(寄進)しまいらセ候ところ、 さいち(在地)めいはく(明白)なり、

セまつ大(世々末代)こゝ(ここ)たいたい(後々代々)於ふる(経る)とゆうともたん(他)の

さまた(妨げ)けあるへからす候、仍為後日沙汰、き志(寄進)ん

状如件、
か里やく(嘉暦)三年四月六日
             さみ(沙弥) たうあミ(阿弥)(花押)
             ちゃく女とら女(略押)

須恵八幡神社文書
(竜王町須恵)
妙行免状(須恵4) 弥たう阿弥・ちゃく女とら女

左右神社文書(さゆうじんじゃもんじょ) (竜王町橋本)

 竜王町橋本は、江戸時代は橋本村、 それ以前は橋本と武久という二つの村からなっていました。
左右神社は、両村の産土神(うぶすながみ)(土地の守護神)として村人の信仰を集めた神社で、 遅くとも14世紀前半には存在していたようです。
中世には、 神社の氏子の構成する宮座(みやざ)が、 村の自治を 行う核となっていました。
「左右神社文書」は、神社に納められて村の財産となった土地の寄進状や、 自治を行った際の文書などからなっています。
これらの文書は「不明惣箱(あけずのそうばこ)」 に納められ、 村人以外みることができなかったようです。


左右神社文書
 720
安土城の歴史

 織田信長は天下統一の拠点として、古くから近江の要地であった安土を選びました。

 安土城の築城は天正4年(1576) 正月の石垣普請に始まり、天正7年には天主が完成して信長が移り住みます。
築城にあたっては、畿内・東国・北陸から多くの人夫が徴発され、 当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。
壮麗な桃山文化の粋を結集した安土城は当時の人々に天下人の威容を存分に知らしめました。
しかし、天正10年の本能寺の変に伴う混乱で、 天主・本丸をはじめとする主要な建物が焼失してしまいます。

 天正13年に豊臣秀次によって八幡城が築城されると、 安土城は廃城となります。
平成元年(1989) に安土城跡は20年計画で発掘が開始され、多くの調査成果を得ています。

安土城の歴史

安土城略年表 空から見た安土山

 730
織田信長の 大船 (イメージ復元模型)
信長は、元亀4年(1573)5月22日後に安土城を築くことになる大工棟梁の岡部又右衛門に命じて、「長さ三十間(約 54m) 幅七間 (約13m)、百艇、前後に櫓」を備え た大船をわずか40日ほどで建造します。 そして、挙兵した将軍義昭に対抗するために、信 長は7月6日に大船に乗って坂本に布陣します。さらに7月26日には浅井・浅倉勢を攻 めるために高島方面へ大船で出撃しています。
大船は、安土山 (城)の築城が開始される天正4年(1576)、解体されます。


信長の大船(模型)
滋賀県立安土城考古博物館
Model: Ship Commissioned by
Oda Nobunaga
Azuchi Castle Archaeological Museum

織田信長の 大船
(イメージ復元模型)
織田信長の大船 (模型)
 ※大切な資料の展示なのに、資料の前に脚注を置いて、見えなくするような展示は、「博物館展示論」では考えられない。
  それとも見せたくないのだろうか。


 740
 741
信長と鉄砲

 16世紀の中頃に我が国に伝えられた鉄砲(鉄炮)は、 合戦において威力を発揮するにつれ、全国の戦国大名から重視されるようになりました。
なかでも信長は、 鉄砲の大量生産地であった和泉の堺や近江の国友を勢力下におき、他の戦国大名よりも有利に鉄砲を調達することができました。

 こうして集めた鉄砲をもとにして鉄砲衆を編成し、合戦において数千挺規模の鉄砲を導入しました。 長篠の合戦で武田軍に勝利した要因の一つとして大規模な鉄砲の使用が挙げられます。

信長と鉄砲

 742
光り輝く金箔
 金箔瓦は織田信長によって初めて使用されたともいわれ、安土城跡からは軒瓦の凹面に金箔を貼り付けた金箔瓦が数多く発見されています。
こうした瓦は安土城のほか、岐阜城・清洲城・松ヶ島城・松阪城など信長一族の居城から出土しており、権力の象徴として信長とその一族にのみ
使用が許されていたようです。

 豊臣秀吉の時代になると聚楽第や伏見城・大坂城などで凸面に金箔が張られた金箔瓦が作られています。

光り輝く金箔

 金箔瓦
金箔巴紋軒丸瓦
金箔唐草紋軒平瓦
松阪城跡出土
火縄銃
 743安土城屋根瓦
安土城屋根瓦の復原 金箔瓦出土城郭分布図
■仙台城
■小高喊
■山形城
▲若松城
■江戸城•
▲沼田城
▲小諸城
▲上田城
■福島城 •
▲松本城
▲甲府城
▲ 駿府城
● 信長段階
▲秀吉段階
■秀吉段階以降
■名古屋城
●岐阜城
▲清洲城
▲金沢城
▲大垣城
●松ヶ島城
●神戸城
▲松坂城
■彦根城
▲北ノ庄城
■安土城
▲長浜城+
▲聚楽第
▲八幡山城
▲伏見城
■大津城
■二条城
▲郡山城
▲亀山城
▲高槻城
▲大坂城
▲和歌山城
▲江美城
▲岡山城
▲広島城
▲中津城
▲小倉城
■熊本城
▲麦島城
▲名島城
■唐津城
▲名護屋城
▲日野江城
▲佐土原城
安土城屋根瓦の復元
1:1

 744金箔瓦

複製
金箔桐紋軒丸瓦
金箔巴(ともえ)紋軒丸瓦
金箔唐草紋軒平瓦

大阪城跡出土
複製
金箔巴紋軒丸瓦
金箔唐草紋軒平瓦
聚楽第跡出土
複製
金箔巴紋軒丸瓦
金箔唐草紋軒平瓦
伏見城出土
 
 750
伝羽柴秀吉邸復元模型

 この模型は 「伝羽柴秀吉邸」 を縮尺40分の1で復元したもので、 平成元年より開始された発掘調査に基づいています。

 大手道(おおてみち)に面したこの屋敷跡は、貞享(じょうきょう)4年(1687) に描かれた 「近江国蒲生(がもう)郡安土古城図」 の記述から「羽柴秀吉邸」といわれています。

 屋敷地の遺構は上下2段の郭(くるわ)で構成されています。 下段郭の入口には壮大な櫓門(やぐらもん)が建ち、 門内に入ると厩(うまや)が配置されています。
 上段郭は屋敷の主人が生活する場所です。 大手道に面した高麗門(こうらいもん)を入ると、防御のための隅櫓(すみやぐら)が建ち、右手には台所があります。 さらに進むと屋敷の中心施設となる主殿があります。 主殿には式台、遠侍、内台所が付属する複雑な構成となっています。

伝羽柴秀吉邸復元模型 伝羽柴秀吉邸復元平面図 復元模型


特別史跡安土城跡伝羽柴秀吉邸跡
  復原模型の概要

大手道(おおてみち)に面したこの屋敷には、 信長の家臣羽柴秀吉が住んでいたと伝えられ、上下2段に分かれた郭(くるわ)で構成されています。
下段郭の入口には壮大な櫓門(やぐらもん)が建っています。

門内の石段を入ると、 馬6頭を飼うことのできる大きな厩(うまや)がありますが、 それ以外は広場となっています。
背面の石垣裾に 設けられた石段は、上段郭の裏手に通じています。 上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。

正面入口は、大手道に面した高麗門(こうらいもん)です。
その脇には隅櫓(すみやぐら)が建ち、 防備を固めています。 門を入ると右手に台所があり、 さらに進むと主屋の玄関に達します。

主屋は、式台(しきだい)・遠侍(とおざむらい)、主殿(しゅでん)、内台所(うちだいどころ)・遠侍の3棟が接続した複雑な構成になっています。

安土城跡伝羽柴秀吉邸跡
復元模型
 760
 761
安土城の発掘調査
  主郭部二の丸東溜り、伝羽柴秀吉邸跡

 天主台(てんしゅだい)の南西に隣接する二の丸東溜りでは、天主から崩れ落ちたと見られる大量の瓦、焼け焦げた柱の部材・壁材など、 安土城炎上を物語る痕跡が発見されました。 また、 珍しい形の黄瀬戸も出土しています。

 大手道(おおてみち)を入って最初にあらわれる屋敷跡は「伝羽柴秀吉邸跡」と称されますが、これは後の伝承によるものです。
遺構は大手道の西側に位置し、上下二段の郭(くるわ)より構成されています。 発掘の結果、さまざまな種類の土器や陶磁器が出土し、 当時の武家の生活を窺い知ることができます。

安土城の発掘調査 安土城の発掘調査
羽柴秀吉殿舍群
復元平面図
伝羽柴秀吉邸厩
復元平面図
伝煙硝蔵跡
集積された瓦
安土桃山時代
(6世紀後葉)
安土城跡出土資料
平瓦
丸瓦

 763
安土城の発掘調査

主郭部伝米蔵跡・伝台所跡
 天主・本丸のある主郭部は安土城の中枢です。
主郭部に至る道や外周をめぐる道からは、計画的に配置された門や武者隠しなどが数多く発見され、優れた防御性を示しています。

 伝米蔵跡は主郭部・三の丸の北東に接する方形の郭で、 発掘調査の結果、 金箔や鯱瓦(しゃちがわら)、文字瓦、 線刻瓦などの各種瓦が出土しています。
 米蔵跡の北西に位置する伝台所跡は主郭部の北虎口(きたこぐち)に隣接し、緻密(ちみつ)な細工の上に黒漆、 金箔が施された飾り金具が出土しています。

主郭部伝米蔵跡・伝台所跡
主郭部平面図
二の丸東溜焼け瓦出土状況 (天主から落下したもの)
二の丸東溜礎石炭化材出土状況
 765
安土城出土の金箔瓦
 安土城跡の天主周辺では、 金箔を貼りつけた軒丸瓦・軒平瓦・鯱瓦、 菊紋や桐紋の瓦のほか、 天主が火災に遭ったことを物語る、 焼けて 歪んだ瓦や壁土が出土しています。
 なお、 金箔瓦は、織田信長が安土 城で初めて使用するようになりますが、安土城では凹面に金箔を貼っ た瓦が使用され、豊臣秀吉の大阪 城などでは凸面に金箔を貼った瓦 が使用されています。

線刻瓦
菊紋瓦
桐紋瓦
金箔軒丸瓦
金箔軒平瓦
安土城跡採集
金箔瓦
安土城出土の金箔瓦
 767
安土桃山時代 16世紀後期

伝米蔵跡出土 金箔鯱瓦
             安土町

 三の丸の建物に葺かれていたと思われる鯱瓦の断片で、目・牙・鼻・下顎・髭・腹・胸鰭が確認できます。
一部に金箔の下地と思われる黒漆の跡があります。 城郭に用いられた鯱瓦としては最初期のものと考えられます。

二の丸南帯郭
(黒金門~本丸)構造図
天主台 天主の礎石
火災で焼けた天守台石垣
鬼瓦 金箔鯱瓦
焼けた瓦
焼けた壁土
焼けた食器
 
 800長柄の槍
 810
 811
信長の姿

 織田信長の姿を描いた画像や木像は、数多く残されています。
ところが、ほとんどのものが信長の死後に作られているため、どこまで似ているのかはよく分かりません。

 宣教師のルイス・フロイスは信長の姿について、 「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯(たいく)であり、髪は少なくはなはだ声は快調で・・・」と記していますが、残されている像も面長で細身の身体、切れ長の目と広い額、端正な顔立ちのものが多く、 フロイスがいうところの「善き理性と
「明晰な判断力」 の持ち主という評価は、納得ができます。

 服装は、礼装である束帯(そくたい)姿に笏(しゃく)を持ったもの、 平服の肩衣袴姿(かたぎぬ はかますがた)のものの他、初陣時の姿と伝えられる像、 また信長とは思えない いかつい髭面の甲冑姿もあります。

信長の姿


信長のしるし
 信長が出す文書(もんじょ)の最後に据(す)えられた、信長の 「しるし」。 それが花押と印章(かおうといんしょう)です。
信長の花押はいろいろな形に変化していきました。 始めは足利将軍の花押を真似ていましたが、 最後は、聖人君主の出現を意味する動物「麒麟」の麟の字を象(かたど)った花押に なります。 しかも偉くなった信長は、次第に自分で書く花押から、捺すだけの印章を多用するようになります。

 岐阜城に入る頃、天下統一への意志を表した「天下布武」の文字を用いた朱印を使い始めます。
初めはシンプルな楕円形でしたが、 次に馬蹄形で囲むようになり、最後は二疋の龍(にひきのりゅう)が配されました。

 黒印は馬蹄形ですが、たった一つだけ「寶(たから)」の字を用いた小さな黒印を捺した文書が残されています。
 なお、信長の直筆で確実なものは、永青(えいせい)文庫の1点しか確認されていません。

信長のしるし

 813いろいろな信長像
 820
 821
織田信長の世界

 安土城を築いて城郭の歴史に大きな画期をもたらした信長は、政治や文化の世界でも風雲児でした。 父は尾張国守護代家に仕える奉行人(ぶぎょうにん)の家柄でしたが、 次第に頭角を現し、 尾張を統一した後、 美濃、 近江、 伊勢と力を伸ばし、天下統一を目指すようになります。

 キリスト教を保護したり、 鉄砲を効果的に活用したり、 茶の湯を政治的に利用するなど革新的な政策を多く打ち出しましたが、 志(こころざし)なかばで京都本能寺で討たれてしまいました。

織田信長の世界
都南蛮寺図
(神戸市立博物館蔵)

赤地牡丹唐草
天鵞絨洋套
(上杉神社蔵)


鉄鐔―永楽銭据紋銀象眼(てつつば えいらくせん すえもん ぎんぞうがん)―複製 一箇
              桃山時代力  
        原資料 安土町摠見寺藏

 鉄地に、当時流通していた中国銭である永楽通宝を、銀象眼で施した刀の鐔の複製です。表に六枚、裏に七枚が散らされています。
長篠合戦図屏風や諸将旗旌図(しょしょう きせいず)などの資料に描かれた信長の旗印には、この永楽銭が描かれていました。

 摠見寺(滋賀県長浜市)にある江戸時代の古文書に、延享(えんきょう)二年(一七四五)に信長の子孫である旗本の織田能登守信門(のぶかど)が寄進した鐔(つば)のことが見られますが、それがこの鐔のことと考えられています。

鉄鐔―
永楽銭据紋銀象眼
鉄鍔 表:永楽銭六枚
裏:七枚
 
 822肖像画

信長画像複製
             一幅
            天正一一年(一五八三)五月
            原本 神戸市立博物館蔵

 右手に笏(しゃく)を持ち、高麗縁(こうらいべり)の上畳(あげだたみ)に坐す、束帯(そくたい)姿の信長を描い

た画像です。画面上部には信長の菩提寺である京都大徳寺総見院(そうけんいん)の住持(じゅうじ)・古渓宋陳(こけいそうちん)による賛(さん)があります。現存する最も古い信長の肖像の一つです。かしこまった像容、信長の一周忌に当たる年紀などから、礼拝用に制作された像と考えられます。現在、神戸市立博物館が所蔵している原本は、明治時代まで安土山の総見寺に伝わっていたということです。

信長画像複製 フラッシュ撮影禁止
信長画像複製


お市の方画像複製
              一幅
           原本 一九世紀力
           原本 当館蔵

 織田信長の妹で、浅井長政に嫁いだお市の方の肖像です。
浅井氏が滅亡した後は、柴田勝家と再婚しますが、勝家が賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉に敗れると、夫とともに自害しました。
この画像の原本の元になったは、長女の茶々(淀殿)が高野山持明院に奉納したもので、桃山時代から江戸時代初にかけて描かれたと考えられています。
個性の乏しい相貌(そうぼう)や、 白地の小袖に朱地の腰巻という華やかな衣装は、この時代の女性肖像画の特徴です。

お市の方画像複製 お市の方画像複製

 823朱印状 前田家
前田利家朱印状
            1通
          天正19年(1591)正月2日 三階左京亮宛

 利家は信長の古くからの家臣で、信長の身辺を固める馬廻 りから次第に戦功を重ね、天正年間には北陸方面軍を任され た柴田勝家の配下に置かれます。 越前朝倉氏を亡ぼした後に 中二郎を分割支配し、天正9年(1581)には能登国を与え られました。この朱印状は、家が能登国内で米千俵分の 三左京に与えたものです。 三階左京亮は、利家と思われますが、はっきりとはわかりません。


於能州在夕
千俵遣之候、
全可令知行
之状、仍如件、

天正十九
笹計肌

壬正月二日 利家 (朱印)
三階左京亮殿

《意訳》前田利家から
        三階左京亮への安堵状
能登の各所において、合わせて米俵千俵分が穫れる土地を与えます。
今後はあなたが、 これらの地を領地として支配して下さい。 (一五九一年閏正月二日)

前田利家朱印状

 824朱印状 豊臣秀吉

豊臣秀吉朱印状
               1通
              2月6日
            長浜惣中(そうちゅう)宛

 近江の長浜惣中から、年頭祝儀の5貫文を贈られたことに対する礼状です。
この朱印状は秀吉が太閤になってからのものですが、初めて城持ち大名になれた長浜の町と後々まで関係を保ち続けている事実は、
さすが秀吉と言うべきでしょう。

 「よろこび思し(おぼし)召され候」 と、 自分に敬語を使っているのも、天下人秀吉ならではの表現です。
用いている紙も、 信長家臣時代とは格段に立派になってることがわかります。

為年頭祝儀、
鳥目五百疋
到来、悦思召候也、

二月六日 (朱印)
    長浜
     惣中

豊臣秀吉から長浜惣中に出された朱印状

そちらから、新年のご祝儀として銭五貫文 が届きました。
太閤殿下は、このことを大変 嬉しく思っておられます。 (二月六日)

豊臣秀吉朱印状 豊臣秀吉朱印状

 825織田信長朱印状
織田信長朱印状  一幅
         天正五年(一五七七) 五月一〇日
                津田利右衛門尉宛

 信長が、山城国(現京都府南部)の代官を務める津田利右衛門尉(つだりうえもんのじょう)に出した命令書で、日付の下に信長の朱印が捺されていま
す。
 「天下布武」の文字を刻んだ信長の朱印は三種類ありますが、これは二匹の龍で文字を囲む珍しいもので、現在十二通しか確認されていません。
内容は、指出検地(さしだしけんち)で見つかった隠し田について、急ぎ取り調べるよう命じています。
 信長政権下で、 土地調査が進められていた様子もわかります。

織田信長朱印状

 信長書状文面
上山城当尾
事、去年指出候
外、隠田有之由、
然而以先代官
筋目、早々罷越
可申付候也、

天正五
 五月十日(朱印)
  津田利右衛門尉(りうえもんのじょう)とのへ

《意訳》信長が
      津田利右衛門尉に出した命令書


上山城(かみやましろ)地域の当尾(とおのお)で、去年提出させた土地
目録にあげてある以外に、隠田(かくしだ)があるとい
う情報を得た。それについて、まずは代官 の責任で現地を調査するよう申しつける。
               (一五七七年五月一〇日)

信長書状文面



 明智光秀書状
明智光秀書状        一幅
       八月八日 西方寺宛
             当館藏

 光秀は、近江志賀郡を支配しながら丹波一国の支配権も信長から与えられ、さらに北接する丹後(京都府北部)を領する長岡(細川)藤孝を配下にしていたため、丹後にも所領を持っていました。 この書状は、おそらく京都の西芳寺が、丹後の所領について問い合わせたことへの返事です。
柿のお礼の後、寺領については、調べてから連絡すると答えています。 花押の形から、天正八年(一五八〇)から九年頃のものと思われます。

明智光秀書状

貴札本望之至候、
殊柿一籠賞翫
無他候、抑丹後
御寺領分有之由候、
何之地候哉、不明候、猶
追而様子承、可随
其候、恐惶謹言、

 惟任日向守
八月八日 光秀(花押)

西方寺
 尊報

《意訳》明智光秀が西方寺に出した手紙

お手紙ありがとうございました。とりわけ、
お贈り下さった柿は、美味しくいただきま
した。さて、丹後に寺領をお持ちだそうで
すね。どのあたりにある領地なのか、こち
らではよくわかりません。様子を調べて、
またご対応いたします。 恐惶謹言。
               (八月八日)

明智光秀書状文面
 
 830
 831
近世城郭の登場
戦国時代の終わりには従来の山城が築かれ なくなり、 十分な広さと大きさを持つ平城へと移り変わります。 近世城郭の登場です。 彦根城
には近世城郭にみられる典型的な建造物が見られます。

◆天守
 近世城郭の象徴ともいえるのが城の中心にそびえる天守です。
彦根城の天守は三層三階と小型ですが、 屋根は切妻・入母屋・唐破風など多用に配置し、二階と三階には花頭窓(かとうまど)、 三階には高欄付(こうらんつき)の廻縁(まわりえん)を四隅に取り付けるなど、 変化に富んだ姿を見せています。 構造は櫓の上に望楼を乗せる古い形式を残しています。

◆白壁
 中世の山城は急場の戦に備えてすぐに造作できる土壁や板張りの塀が普通でした。
しかし、城主の生活の拠点となる近世城郭では表面に漆喰を施した白壁に変化しました。
これは天守や櫓の白壁と同じく、城を立派に見せると同時に、鉄砲の弾を防ぐ機能も有していました。

◆枡形虎口

 虎口とは城の出入り口で、城の玄関であると同時に最も敵と相対する場所です。築城技術の発達とともに、この虎口の構えが強固になりました。 桝形虎口は塁(るい)で囲って四角くした虎口で、
二重の門が築かれました。
敵が一気に侵入する のを防ぐとともに、 味方の城兵を待機させるこ とができました。

近世城郭の登場
◆天守
◆白壁 ◆枡形虎口
彦根城の復元
(文化1年の締図を基にした) 1:400
 833
近世城郭の幕開け 完成された城づくり
 The Beginning of Early Modern Castles Completed Castle Construction

 これまで見てきたように、中世の城は山を削り土を盛って作り、板や丸太で作られた戦いのための城でした。 これらの城は、戦国時代という大きな時代の流れの中で、領国を安定して統治するという戦国大名の目標にあわせて、 独自の様々な 創意工夫がなされ、巨大な山城に発達してきました。 中世城郭の完成です。

 このような中、彗星のごとく歴史の舞台に登場した織田信長は、 並外れた感性と行動力によって、世の中の流れを変えていきました。 城づくりにおいても一大革命 を起こしました。山の上には累々と高い石垣を築き、その上には高くそびえたつ 金銀にいろどられた天主。 きらびやかな御殿、櫓や屋敷が建ち並び、 城の下には立派な道と城下町が広がるという一大要塞を築いたのです。 中世ヨーロッパ もほうふつとさせる城づくりは、いま全国で見られる城郭の先駆けでした。

 まさに安土城は城郭における近世という時代の幕開けだったのです。
石垣、 金箔瓦、本格的天主、御殿、櫓門、 城下町すべては「安土」 ここにはじまります。 そして、この近世という時代の扉を開けたのは信長その人自身なのです。

Medieval castles were battle ready fortresses carved out of mountains and piled-up earth, and using simple structures such as planks and logs. These castles were built using various innovative ideas by warring states daimyo aiming to unify the country, and gradually developed into huge mountain castles, eventually being completed as medieval castles.
Against this backdrop, Oda Nobunaga burst onto the historical stage like a comet, changing the course of the world with his extraordinary sensitivity and dynamism, and revolutionizing castle construction. In addition to the glittering palaces, turrets and residences, he built high stone walls on the mountain and a towering tenshu keep decorated with gold and silver. Below the castle he built fine roads and a castle town forming a huge fortress.
Castles with stone walls, gilded roof tiles, a true castle tower, palace, turret
gates and the castle town all began in Azuchi. Azuchi Castle was the forerunner of the castles that can be seen throughout the country today.
Azuchi Castle truly marked the beginning of the early modern period in castle construction, and it was Oda Nobunaga who opened the door to this early modern period.

 中世の城郭は、山を削り、土を積み上げて築かれた、板や丸太といった簡素な構造物を用いた戦闘準​​備の整った要塞でした。
これらの城は、国を統一しようと戦国大名たちが様々な革新的なアイデアを駆使して築城し、次第に巨大な山城へと発展し、最終的に中世の城郭として完成しました。

 こうした背景のもと、織田信長は彗星のように歴史の舞台に現れ、その並外れた感性と行動力で世界の流れを変え、城郭建築に革命をもたらしました。彼は、きらびやかな宮殿、櫓、住居に加え、山の上に高い石垣を築き、金銀で装飾されたそびえ立つ天守閣を建造しました。城下には整備された道路と城下町を築き、巨大な要塞を形成しました。
石垣、金瓦葺きの屋根、本格的な天守閣、宮殿、櫓門、そして城下町を備えた城郭は、すべて安土から始まったのです。安土城は、今日日本各地で見られる城郭建築の先駆けと言えるでしょう。

 安土城はまさに近世初期の城郭建築の幕開けを告げるものであり、その扉を開いたのは織田信長でした。

近世城郭の幕開け
完成された城づくり
 

 900回廊展示
 910
← →
第3収蔵室
製図室
整理室
第2収蔵室
第1収蔵室
 920
貝塚貝層
 930
湖底遺跡で見つかった地震跡
 昭和61年(1986)、 国内で初めて高島市今津

 町北仰(きとげ)西海道遺跡で縄文時代晩期 (約3,000年前)の地震による液状化の跡が見つかりました。
 その後、 全国でも地震跡が発見されるよう になり、 滋賀県内では26遺跡、 28地点で地震跡 が確認されています。
その多くは地下水位が高く、地盤が軟弱な琵琶湖周辺に集中しており、湖 岸や湖底遺跡でも地震跡が見つかっています。

 縄文時代では津田江湖底遺跡 (草津市) 北 仰西海道と同時期の可能性が高い液状化跡、弥 生時代は烏丸崎遺跡(草津市)と針江浜遺跡 (高 島市)で液状化による噴砂や地割れが見つかっ ています。

 また、 烏丸崎遺跡では天正13年 (1586)から寛文2年(1662)にかけて断続的 に発生した地震による断層も見つかっています。 なお、針江浜遺跡では、弥生時代中期の地震、も しくは地震による津波で倒壊したヤナギの埋没 林も見つかりました。

 発掘調査で見つかった地震跡は、 発生時期を ある程度特定できるため、 文献記録の残らない 古墳時代以前を含めて、今後の地震予知の重要 な資料として注目されています。

湖底で見つかった
地震跡
液状化した地層
噴砂
砂脈
砂脈
 940
 950第2収蔵室
大津市粟津湖底遺跡
貝層断面剥ぎ取り転写
 
 
 1000 


 安土町文芸の郷内
 1000 安土城天守 信長の館 2026.01.18-2

AI による概要
「安土城天主 信長の館」は、かつて織田信長が築き、わずか数年で焼失した「幻の名城」安土城の天主(最上部)を原寸大で復元・展示している滋賀県近江八幡市の歴史体験施設です。

主な見どころ
・天主の原寸復元:1992年のスペイン・セビリア万国博覧会に出展された、安土城天主の最上部(5・6階部分)が移築・展示されています。
・絢爛豪華な装飾:外壁に施された約10万枚の金箔や、狩野永徳が描いたとされる金碧障壁画、天人の絵が描かれた天井などが忠実に再現されています。
・VRシアター:200インチの大画面とVR技術で、当時の安土城や城下町を大迫力で体感できるショートムービーが上映されています。
利用案内
・所在地:滋賀県近江八幡市安土町桑実寺800(安土町文芸の郷内)
・営業時間:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
・休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、祝・休日の翌日、年末年始
・入館料:大人 610円 / 学生 350円 / 小中学生 170円
・公式サイト:安土城天主信長の館|公益財団法人安土町文芸の郷振興事業団


 1010外観
 1100一階
 1110三英傑
所謂三英傑入口正面に置かれた
甲冑姿
徳川家康
織田信長
豊臣秀吉

 1114
    安土城の変遷

天正4年(1576年) 正月17日 信長、 安土城築城を命じる (総奉行 丹羽長秀)
     
信長 43歲 2月23日 信長、 岐阜より安土城に移る
4月 1日 天主を築き始める(石垣を築き始める)
天正7年(1579年) 5月11日 天主を竣工し、信長天主へ移り住む (梯立式望楼型)
天正9年(1581年) 9月 天主内装を含め完成する
天正10年(1582年) 5月15日 徳川家康一行、 安土城に招かれる
長篠の合戦から7年、武田氏征伐の祝賀として
豪華な料理でもてなす (饗応膳、館内に展示)
5月17日 明智光秀に中国出陣を命じる
信長 49歲 5月29日 信長、 上洛し本能寺に入る
6月 2日 明智光秀、 本能寺を襲う 信長自刃する (本能寺の変 ) 信長の妻子日
6月 3日 信長の祭祀、日野城へ退避する (蒲生賢秀の子氏郷により)
6月 4日 豊臣秀吉、毛利と和睦し、軍を還す
6月5日 明智光秀、安土城へ入る
6月8日 明智光秀、 安土城を出る
6月13日 明智光秀、山崎にて豊臣秀吉等に敗れる (山崎の合戦)
6月15日 安土城天主焼失する
     
天正11年(1583年) 正月 織田信雄、清洲より安土に入る
2月 信長の廟所が二の丸跡に豊臣秀吉により造営される
6月2日 信長の一周忌法要
天正12年(1584年) 4月 秀吉と家康の小牧長久手の戦い、 和睦
信雄は豊臣政権に協調したため、 安土城下の再建かなわず
天正13年(1585年) 8月 豊臣秀次、八幡城を築城。 安土の城下町を
そっくり八幡へ移され、 安土も衰微の一途をたどる
大正15(1926年)に史跡に、昭和27年(1952年)には特別史跡に指定され、国によって文化財として保護されて行くことになります。

安土城炎上の原因について
➀明智勢大正15年(1926年) に史蹟に、昭和27年(1952年)には特別史跡にの守る安土城に攻めてきた、織田信雄が明智の残兵討伐のため火を放った
②明智光秀の敗報を聞き、 秀満(娘婿) が安土城撤退の時に火をかけたなどの諸説あるが、原因は不明とされている

安土城の変遷 安土南蛮図屏風 安土城屏風絵風陶板壁画

 1115南蛮図屏風
南蛮図屏風


 1120復元天守
 1130
 1140
撮影スポット 撮影用陣羽織

 1150金箔瓦
 1151
 1152
安土城の瓦
 「信長公記」 には 「瓦は唐人一観に 仰せつけ奈良衆に焼かせ」 とあり、 奈良 の寺院の瓦を作っていた工人たちに焼かせています。この瓦を安土城の近くで焼いたのか、 奈良で焼いて製品として安 土に運んだのかは不明です。
(中略)
 瓦では、他に安土城を代表する物として金箔瓦とがあります。
 金箔瓦は三巴文軒丸瓦と唐草文軒平瓦のそれぞれの文様の凹部に施されています。これ以外に小菊文瓦・桐文飾瓦・棟飾瓦・輪違瓦にも金箔が施されていますが、これらは凸部に施されています。

 この安土城と同じ型式の瓦は織田信澄の近江高島城天主と織田信雄の伊勢 松ヶ島城天主から大サイズの1型式のみが出土しています。 そのうち伊勢松ヶ島城のみ金箔瓦です。織田信忠に譲った 岐阜城からも金箔瓦が出土していますが、安土城のものとは文様が異なってい ます。

 これら金箔瓦の使用が許可されたの は信長の直系一族のみであったようです。

 安土城の金箔瓦が出土する箇所は主郭部がほとんどで、搦手道から未使用の三点と伝羽柴邸跡櫓門周辺から四点が出土するのみでした。

 主郭以外の家臣屋敷地には瓦葺きの建物は無かったと考えています。 もし伝羽柴邸櫓門に金箔瓦が使われていたとなると、この郭は家臣の屋敷でなく信長の館になります。 御座所の可能性も否定はできません。 (以下略)

「発掘調査20年の記録
安土 信長の城と城下町」 より
(編著 滋賀県教育委員会)

安土城の瓦 安土城の瓦➀ 安土城の瓦② 安土城の瓦③
小菊金箔瓦 金箔瓦の数々 上: 三巴文軒丸瓦
下: 唐草文軒平瓦

 1153安土城跡から発掘された瓦の種類
安土城跡から発掘された瓦の種類
 1156
安土城跡から出土した
 金箔 瓦
安土城を特徴づけるもののひとつに、多様な瓦があります。

軒先を飾る瓦は伝統的な巴紋・唐草紋を 踏襲していますが、簡略化することによっ て新しいデザインを作り出しています。 さらに、安土城をはじめとして信長の息子たちの城にのみ使用された「金箔瓦」 は、権力を象徴する織田家のシンボルとも 言えます。

「安土城・1999」より
(編集発行:滋賀県安土城郭調査研究所
滋賀県立安土城考古博物館)

金箔唐草文軒平瓦
(安土城跡出土)
金箔巴紋軒丸瓦
(安土城跡出土)
安土城跡から出土した遺物
巴紋軒丸瓦
(安土城跡出土)

 1158
【錺金具(かざりかなぐ)牡丹唐草打出し】
安土城天主の金具の模様 〈牡丹 唐草> は琵琶湖に浮かぶ竹生島の 都久夫須麻神社本殿の長押金具の 忠実な模写である。
竹生島の国宝・都久夫須麻神社 は、中世以来、竹生島弁天として 有名な神社である。
その本殿の一部は秀吉をまつった豊国廟の遺材を移したといわれ ている。
草花のモチーフは、桃山朝の最 も好まれたデザインで、錺金具の <牡丹唐草文〉もその一つ。

錺金具牡丹唐草打出し


柱や梁の「箔おし」
金箔押しは、 経験・感・ 手先の器用がすべてと言われる。
塗りを布で何度何度も磨き、 平均化する。その上で金箔を1枚づつ丁寧に貼りあげてゆく。
その上で金箔を1枚づつ丁寧に貼りあげてゆく。

柱や梁の「箔おし」


京都若林仏具製作所の彩色工房で5階の内陣下陣の梁を飾る龍の彫り物の修理復元作業が行われた。
「雲彩色」
岩絵の具を使った絵師の筆先が、 「雲繝彩色」 (うんげんさいしき) と言われる独特の手法で 堀りの強弱を際だたている。

波濤に鯱図

 1160
レシピの贈呈
「天正十年 安土御献立 復元レシピ
は、平成21年4月25日に学校法人 茶 屋四郎次郎記念学園 東京福祉大学大学 院より安土町に寄贈していただいたもので す。 茶屋四郎次郎記念学園は、尾州茶屋家 16代の妻で東京福祉大学大学院の理事 長中島 範(なかしまのり) 氏を中心に 「安土御献立」 を 「続群書類従」 に基づい て復元し教材として活用されておりました この度より多くの方々に知っていただこ うと安土町文芸の郷 「天主信長の館」で展 示することとなりました。

 今回ご紹介する「安土御献立」(「続群 書類従」記載) は、天正10年(1582 年) 5月織田信長が武田勝頼討伐に功をな した徳川家康や穴山梅雪を安土城にてもて なした時の饗応メニューです。 この饗応膳 をとおし、当時の食文化の一端に触れ、歴 史ドラマへと思いをはせていただければ幸 いです。 また、 茶屋家は、 近世初頭に角倉 家、 後藤家と並ぶ京の三長者で、茶屋家初 代茶屋四郎次郎清延は本能寺の変の際、後 世に「神君伊賀越」 といわれた脱出を演出 し、物心ともに支援を行って無事に岡崎ま で帰着させる役割を果たしました。 この時 の功績により、徳川家康の御用商人として 取り立てられました。

レシピの贈呈
 1161

信長が家康の武勲を讃えた「本膳料理」
天正十年
 安土御献立

  信長の家康饗応膳

織田信長が徳川家康をもてなした豪華な「本膳料理」とし て歴史に記されているのが「天正十年 安土御献立」です。武 田氏征伐の武勲を祝すための饗宴で、安土城に招いた家康 を天正十年五月十五日・十六日の両日にわたり総計実に百 二十品にも及ぶ料理で歓待しています。具体的には到着後、 間もなく出されたおちつき膳、晩御膳、翌日の朝飯膳、夕膳 の四食で鯛の焼物、鰻の丸焼き、鴨汁、鮎の鮓、数の子、海老 の舟盛り、雲雀の丸焼き、滋賀のふなずしなど全国各地か ら集めた至高の食材が用いられています。ただし、なぜか 「式の膳」の式三献は行われていません。ちなみに、この時、 接待役を任された明智光秀は信長から「仕度が行き過ぎで ある」と叱咤され、役を降ろされて豊臣秀吉の援軍に回さ れました。この時の遺恨が後の本能寺の変の動機になった とも言われています。

資料提供 近江八幡市安土城天主信長の館

本資料は織田信長ゆかりの近江八幡市及び「安土城天 主信長の館」のご協力を得て展示しています。この「天 正十年 安土御献立」は信長が全国から集めた至高の食 材で作った当時における最高の料理で、現在の日本料 理の原典と称される貴重なものです。茶屋四郎次郎記 念学園・東京福祉大学理事長の中島範氏(茶屋家十六 代目当主の妻に当たります)が綿密な資料考証に基づ き再現したレプリカを近江八幡市に寄贈したもので す。茶屋四郎次郎清信は江戸幕府の呉服御用商人で朱 印船貿易でも活躍し、信長が家康を接客した時にも家 康のお供をしていた京都の名高い豪商です。

献立解説 再現!安土御献立 信長の家康饗応膳
     三河武士のやかた家康館 リーフレットよ
り

 1162おちつき膳 献立

本膳
➀たこ  タコはゆでて、いぼを取り皮をむいて使う。これは腐敗を防ぐためという。
②たいの焼物 タイの料理はひれを立派に立てることが礼儀で「ひれ立ての事」という盛りつけの きまりがあった。
③な(葉)汁 青菜を入れた、すめ味噌の汁。「みめみそ」とは味噌汁の上澄みを取った汁のこと。コイのなます。身を細く切ってワサビ酢で和える
④なます コイのなます。身を細く期ってワサビ酢で和える。
⑤香の物 味噌の漬物。古来より味噌のことを香といった。
⑥ふなのすし フナのナレズシ、近江・美濃の特産。
⑦御飯
二の膳
⑧うるか アユの内臓・卵を塩漬けにしたもの。
⑨うちまる ウナギを丸のまま焼き、醤油と酒を合わせたたれを付ける。醤油の使用はこの頃始 まったばかりで珍しい高級調味料であった。
⑩ほや冷汁 ホヤは古来より珍味とされ、ナマコに似たさわやかな香りと歯触りが好まれた。
⑪ふとに ナマコを干したホシコにナガイモを入れて巻き、すめ味噌で煮る。
⑫かいあわび アワビは古くから貝の王者として賞美され、不老長寿の縁起ものとされた。
⑬はむ(はも) ハモはこの頃から流通過程にのり、京、大阪で盛んに食べられるようになった。
⑭こいの汁 「鯉にまさる魚はない」と『四条流包丁書』(一四八九)にある。
三の膳
⑮やきとり 鳥といえばキジ。塩焼きか、クルミ酢をつけて焼いた。
⑯つる汁
 やまのいも
ツル肉は皮脂を除き塩漬けにしたものを、薄く切ってゆでて汁の具とする。
⑰かざめ ワタリガニのこと。室町後半から安土桃山時代の武将の響膳に多く見られる。
⑱にし ニシの身は辛みがあるので、この特徴を生かしてケシの実や,タデ,コショウをすりこんで更に辛く、おいしくと調理法も工夫された。
⑲すずき汁 室町時代以降、美味な鳥・魚を「三鳥五魚」として定め、スズキはタイ、コイとともに 五魚に含まれる。
与の膳
⑳巻きするめ するめを巻いて、ひもで結び数日おく。さっとゆで、薄く切る。正式の儀式料理に用いる。
㉑鴨つぼ ナスの真ん中をくり抜き、酒で煎ったシギ肉をつめて柿の葉で蓋をし、藁でからげる。 「手の物」といわれた料理の一つ。
㉒鮒汁 近江鮒として琵琶湖の特産。
㉓しいたけ 煮染。味付けにはすめ味噌が使用された。
五の膳
㉔まながつお 刺身 身を薄く切って刺身にする。
㉕生姜酢 ナガツオの刺身に付ける。醤油が普及する以前、刺身に添える調味料は酢であった。
㉝ごぼう 室町中期以降、生産量が増加し、消費が増えた。煮ごぼう、酢ごぼうとして食した。
㉖鴨の汁 カモの渡りシーズンは八月下旬から翌年二月下旬とされており塩漬けされた肉が 使用されたと思われる。
㉗削り昆布 コブを六~七cm縦に切り込みを入れ、火にあぶるとコブが強くたつので、これを盛る。
御菓子
㉘ようひもち
 (羊皮餅)
安土桃山時代初期の茶会の記録にあるが、その製法、形状などわからない。現在の大 福餅のような菓子ではないかと推測される。
㉙まめあめ 大豆を煎りあめでからめた菓子、当時の茶会で使用
㉚美濃柿 美濃国(岐阜県)は木練棒(甘柿)の産地として有名であった。
㉛花に昆布 コブを柔らかく煮て花形に切ったもの。
㉜から花 檜のうす板で作った実在しない花を華やかにするため添えた。

五月十五日
おちつき膳
五月十五日
おちつき膳
献立次第
 1164
 1168
 1169
 
 
  

 1200天守閣一階を展望階段から
 

 1220中二階 下から仰ぎ見る信長の天守

 1240二階
 
 1300一階の展示
 1311

安土城天主障壁画解説
            文 内藤昌氏
 「天主」は、城下町の「平安楽土」を夢みて 「経済」「政治」 「宗教」の三権力を総合した「文化」のシンボルとして設計され た。高さ本丸より約四十六メートル、城下より約百七十メートル で、世界最初の石垣上六階・地階一階(計七重) 木造高層建築と いえる。

天主五階(地階から数えて六重)
 地階(一重)から三階(四重)までの巨大な吹きぬけ空間のまわ りに「経済」をふまえた「政治」機能をもつ信長の諸座敷があった。 ついで四階(五重)の控え室「小屋の段」を登り、その上に「宗教」 の聖域を計画している。特に仏教の教えを説く聖域が五階(六重)で、「八角の段」と称して宇宙を形どり以下の諸絵図を、狩野永徳が描く。

 東側の四階からの階段を登って、外陣に入れば、正面に、阿鼻地獄図(A)」がある。現世で悪事をすれば閻魔大王が審判して餓鬼・畜生の地獄に堕ちる教訓を示す。

 天国へは、とりあえず地獄から地上の煉獄に登る。まず海上に神の力をもった龍と鯱(共に鯉と蛇をモデルにした生命力豊かな想像上の動物)が飛び交う図があり、さらに天井に彫物を飾る外陣をめぐらす。

 ついで内陣に入って「浄土」の仏教的世界へと導く。内陣の八面には、「極楽浄土図[釈迦説法図] (B)」が描かれる。西正面には「西方浄土」が描かれ、仏教の始祖=釈尊が、まわりの釈門十大弟子に仏法を説く様相を示す。
障壁画配置図


天主六階(地階から数えて七重)
 五階内陣東側から階段を登って六階の北面を背にして南をのぞむ天上界に至る。いわゆる「天子南面」する「四角の段」といわれ、 正面の南 西 北 東と一周して天地創世の中国故事に基づく、道 教・儒教の教義を描く。天下人の倫理感をはぐくむ「天道思想」を 具体的に教える。

障壁画配置図

 1313
➀【天人影向図(てんにんようこうず)】
昇り龍を彫る柱に支えられた天井には、天女が楽を奏でている。
仏法の功徳により、天上界(六階)に導かれる様相を描く。
②【降魔成道図(こうまじょうどうず)】
釈迦が静坐(せいざ)修行の最中、魔王は様々な妨害を試みるが、

韋駄天(いだてん)の加護もあって、釈迦はそれらを悉く(ことごとく)排除し、ついに悟りを開くのであった。
こうしたストーリーのうち、今回の復元部分には、退散する魔物と、韋駄天の乗る雲の一部が描かれる。
右側に釈迦説法の様子が続くわけである。
③【双龍争珠図(そうりゅう そうじゅず)】
龍は、鯉(こい)と蛇をモデルにした生命力豊かな想像上の動物。宝珠(ほうじゅ)を奪い合う龍が描かれる。

 1315
戦国グラフィティ
The Civil Wars; "Grafiti"
中央に我が国最大の湖、 琵琶湖が南北に横たわり、周囲を比叡、 比良山系や伊吹山、 鈴 鹿山脈などの1000メートル級の山々が取り囲む滋賀県は、古来、 東海道や中山道に代表 されるように幾筋もの主要街道が通り、 東西日本や北日本を結ぶ交通の要衝として、 幾度 も歴史の表舞台に登場してきました。

In the center of Shiga Prefecture, there lies Lake Biwa. It is the largest lake throughout the north and south of Japan, and it is surrounded by the mountains which reach higher than 1000 meters. Mountains such as Hiei and Hira, also Mt. Ibuki and Suzuka Mountain Range are beautiful and historic. From ancient times. there have been many traditional roads that still exist today such as:Tokaido and Nakasendo in Shiga Prefecture. These roads are well-known for the most important traveling routes throughout Japan and they also play a very important part in Japanese history.

滋賀県の中央部には琵琶湖があります。琵琶湖は日本の南北で最大の湖であり、周囲を標高1000メートルを超える山々に囲まれています。比叡山や比良山、伊吹山、鈴鹿山地などは美しく、歴史を感じさせる山々です。古くから滋賀県には東海道や中山道など、現在も残る多くの古道があります。これらの道は日本の主要な交通路として知られ、日本の歴史においても非常に重要な役割を果たしてきました。

織田信長
Nobunaga Oda.

近江の国が日本史の中で最も劇的な舞台となったのは、 戦国 時代です。 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など天下取りを志す 武将たちが、 この国の中を駆けめぐり、 その中から後の時代の 都市基盤となる城下町が出現しました。 「近江を制する者は天下 を制す」 と言われ、 京の都に近く、 また交通の要衝であった近 江の国を支配することが天下統一の第一歩であったのです。 安土の地に壮大な城を築いた信長の知謀など、 この近江の国 (滋 賀)には、武将たちの描いた巨大なロマンやさまざまなストー リーを垣間見ることが出来ます。

It was in the age of civil wars that the country of Omi (present shiga Prefecture) became the most dramatic stage in the history of Japan. In those days there was a famous saying that said "People who con- trol Omi will conquer the whole country." It was here where it all began. great generals such as Nobunaga Oda. Hideyoshi Toyotomi and leyasu Tokugawa, ran about starting battles between each other to see who could claim the land first, thus gain control and power over the whole country.
Under these circumstances, beautiful castles and lavish historic monu- ments were built in order to claim territory of the land and also to signify the general in controls name. It was in the later days that the cities and towns were made and in which we now see today.
Omi was geographically close to Kyoto and to control Omi was a step to unify the whole country. One important reason was due to the impo- rtant travel routes throughout Shiga Pref. In this way, you could access throughout all of Japan.
Another historical point about Omi is you can see a glimpse of the sites through the novels written about this period showing us the battles and pictures of the great generals during this era. documents and resources show us Nobunaga who was the one who built the splendid castle in Azuchi. Also there is much more evidence to teach us about other various stories that happened in Omi and other cultural aspects about Japanese history.

内乱の時代、近江国(現在の滋賀県)は日本の歴史において最も劇的な舞台となりました。当時、「近江を制する者は国を征服する」という有名な言葉がありました。すべてはここから始まったのです。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった偉大な武将たちが、誰が先に近江を支配し、国を掌握できるかを競い合い、戦いを繰り広げました。<br> こうした状況下で、領土を主張し、支配する武将の名を刻むために、美しい城や豪華な史跡が築かれました。そして、後に現在の都市や町が建設されたのです。

近江は地理的に京都に近く、近江を支配することは国を統一する一歩でした。滋賀県を通る重要な交通路が近江に張り巡らされていたことも、その理由の一つです。このようにして、日本全国にアクセスできるのです。<br> 近江に関するもう一つの歴史的な点は、この時代を描いた小説を通して、戦場の様子や当時の偉大な将軍たちの肖像画を垣間見ることができることです。文献や資料からは、安土に壮麗な城を築いた信長の存在を知ることができます。さらに、近江で起こった様々な出来事や、日本の歴史におけるその他の文化的側面について教えてくれる証拠も数多く存在します。

安土城(模型)
A Model of Azuchi castle
 1317
  ④ 【伏義・神農図(ふっき・しんのうず)】南面東側

 中国創世期の伝説に三皇(=伏羲(ふっき)[包犠(ほうぎ)]・神農・軒轅(けんえん)[黄帝】) がいて、天下を治めたといわれる。

まず左の伏羲は、黄河から龍がもたらした宇宙の「図」と、洛水(らくすい)から亀がもたらした人知の「書」をもって「八卦(はっけ)=吉凶禍福(きっきょうかふく)を占う学」を創始する。

次に右の神農は 農業の祖で、一日に百草(ひゃくそう)をなめて毒か薬かを実験する様相を示す。
やがて医学の創始者となる。この両祖の姿を描いて天地創造の図とする。

※神農に「じんのう」とルビされている。神農の意味(医療・農耕の神)
※信州に「百草丸(ひゃくそうがん)」という漢方薬があるのはこのことか。
  ⑤ 【軒轅問道図(えんけんもんどうず)】(黄帝と廣成子(こうせいし)) 南面西側
中央の軒轅は、無為自然(むいしぜん)の神髄を体現した 左の廣成子に天下政治の教えを請うて
帝王の学 を学ぶ様相を描く。
  ⑥ 【老子出関図(ろうししゅっかんず)】 (老子と関令尹喜(かんれいいんき)) 西面南側

道徳の創始者=老子が牛に乗って西に向かい、函谷関(かんこくかん)の 関令(かんれい)=尹喜(いんき)に請われるままに『道徳経』を授ける様子を描 く。

かくて老子の「倫理学=道教」が始まるのである。

  ⑦ 【尚父(しょうふ)遇文王図(ぶんのう)】 (文王) 西面北側 (※尚父は文王を遇す)

中国の古代は、夏・殷・周の3代をいう。 国家の大政が整っ たのは、ようやく周の時代で、B.C.1122 武王(ぶおう)が建国し、 以来B.C.256まで、 37代867年間の大王朝が続く。

その政権を定めたのは武王の父=文王で、聖人=呂尚(りょうしょう)を尋ねて 政を治める教義を学ぼうとする様相を描く。
  ⑧ 【尚父遇文王図】 (太公望) 北側 西面

そこでようやく渭水(いすい)のほとりで釣り糸を垂れている

呂尚(りょしょう)(=太公望)聖人に遭遇して、武王の補佐役となる
ことを願う形容を示す。
  ⑨【周公握髪図(しゅうこう あくはつず)】 (周公旦) 北面東側

 文王(ぶんのう)の子で武王(ぶおう)の弟=周公(しゅうこう)は、名を「亘(たん)」といい、
BC11~12世紀の大政治家。

兄の武王と甥の成王(せいおう)を補佐して 周王朝の諸制度を整備する。
大変に忙しく、洗髪時に3度も髪をつかんで中断するほどに客に対応して情報を求め、
天下の賢人(けんじん)を探した。 その勤勉な様子を示す。

  ⑩ 【杏壇図(きょうだんず)】 (孔子と孔門十哲(こうもんじってつ)) 東面北側

最後に、儒教の祖=孔子(名は「丘(きゅう)」、字(あざな)は「仲尼(ちゅうじ)」。B.C.479) が現れ、顔淵(がんえん)や閔子騫(びんしけん)など、徳行(とっこう)・言語 ・政事・文学の四科に秀でた10人の高弟を教育した。 その教場は、名香ただよう杏(あんず)の木が植えられて、特に
「杏壇(きょうだん)」といわれた聖域の様子を描く。

※杏壇から教壇が来たのだろうか?
  ⑪【孔子観欹器(こうし かん ききず)図】 (孔子と子路(しろ)たち) 東面南側

孔子が、勇を好み、信義を重んじた弟子の子路(しろ)を連れて、 魯(ろ)の桓公(かんこう)の霊廟を訪れたところ、「欹器(きき)」が置かれていた逸話を描く。

帝王座右の道具で、適量の水を入れれば水平になるが 少々の過不足でも傾くことを示しており、
「経済「政治」「宗教」の三権力のバランスを計る帝王の教えを説く。


 1350再建

平成の安土城ができるまで
 今を去る四〇〇余年の昔、ここ安土の地にきらびやかな巨城があった。織田信長が建てた安土城である。

 安土城は多くの点で歴史に残る斬新さを持っていた。
第一に、安土城は軍事戦闘用の施設というよりは、 日本統一の政治の中核として企画された「天下城」であった。
第二に、日本では最初の高層の天守閣を 備えていた。
第三に、建築、工芸、絵画等、多くの分野の名人を集めて造られた総合芸術であった。
そして 第四には、日本古来の伝統様式に中国・南蛮の風を加えた独創性豊かな作品であった。

 日本文化の真髄は、事物をあるがままに受け入れ、自然な姿で表現する「生なりの文化」にある。だが、 「生なり」なるが故に、あらゆる色と形と動きと表情をも受け入れられる。世界の様式と各国の画題を、 極彩の小宇宙に集約したといわれる安土城天守閣は、その象徴ともいえるだろう。

 一九九二年スペイン王国セビリア市で開催された万国博覧会の日本館を企画建設するに当たって、「生な り」なるが故に万物を受け入れ得る日本文化を表現するものとして、迷うことなく安土城天守閣を選んだ。

 そしてそれは、セビリア万国博終了後、大和ハウス工業株式会社等の尽力により、この安土の地に移築再建することができた。本品は、知り得る限り忠実に往時の姿を原型原寸原色原素材で再現したものである。 かつてこの地で、このような極彩異形の空間から天下を志向した織田信長の心境に、しばし浸っていただければ幸いである。

      セビリア万国博覧会日本館総合プロデューサー
      安土城天主再建委員会委員長
            堺屋太一


安土城天主 信長の館に ご協力くださった方々
寄贈者
 大和ハウス工業株式会社
協力者
 オムロン株式会社
 神戸市立博物館
 ジャスコ株式会社
 株式会社日本経済新聞
五十音順

 ここ「信長の館」には、 1992年(平成4年) に開催された「スペイン・セ ビリア万国博覧会」の日本館のメイン展示物として出展された
「安土城天主」最上部 (5、6階部分)が原寸大復元されています。

 復元にあたっては現代の名工と呼ばれる人々が集まり、可能な限り当時の記録 に基づき技術の粋をつくして忠実に再現されました。

 万博終了後、 安土の地に譲渡移築され、 セビリア万博では製作されなかった、
「軒」「金箔瓦で書いた庇屋根」 「6階部分の外壁 金箔のを設置した大屋根」などを取り付け展示しております。
 ◆写真-スペイン・セビリア万博一◆



 1370石引ジオラマ

※考察 石を引く庶民
 琵琶湖周辺から大勢の住民を使って巨石を運んだのは、きっと、世に二つとない盛大なイベントだったのでしょう。
 動員された農民たちには小銭を渡し、逆に支配者の偉大さを体感させ、また、出来上がった城に対する愛着を持たせるのでしょう。

 このように、最終段階で人に引かせたり、また、港から牛に引かせたり、さらには、赤牛に引かせたり、沿道の人々に驚きを与えたのでしょう。

 
 
 2000


 2000 安土城郭資料館 2026.01.18-3

 2010外観

googlemap Street View
※JR安土駅北側のレンタサイクル店を背に、右に出るとすぐに地下道がありくぐるとスグヨコ。
 地上の踏切を渡ると大回り。この地図で徒歩経路のほうは地下道で線路をくぐる。

※JR安土駅南出口の階段降りると左側にある。(徒歩の場合)
 2020安土山模型
安土城跡模型  安土城は元は琵琶湖に突き出た山塊の要害の地だったそうです。
琵琶湖総合開発によって琵琶湖の水位を下げ、水田地帯を増やす政策のため、現在は田圃の中の小山になり下がりました。
 本当は凄い眺めだったのでしょう。

※八郎潟干拓、津軽半島十三湖など、その後米国の小麦輸出圧力で自由に米作が出来ず、転作を要求された。悲しい出来事であった。

模型 『安土山 観音寺山』
 規模
  全長 二七0メートル
  全幅 一八0メートル

 縮尺
  水平方向 二000分の一
  垂直方向 一000分の一

 表示
  緑色 標高 九0メートル以上
  茶色 標高 九0メートル以上
  柿色 平坦部 (郭など)
  灰色 崖崩れ 土取り

(参考図面)
・特別史跡安土城跡平面図 一000分の一
・史跡観音寺城跡平面図  一000分の一
・国土基本図       二五00分の一

模型
「安土山・観音寺山」


安土城 (特別史跡)

 岐阜を居城としていた織田信長は、 天下統一の拠点として安土を選んだ。
天正4年(1576) に開始された安土築城は、 3年後の天正7年、 天主閣の竣工をもって完成する。 天主 の屋根は金箔瓦で縁どられ、その内部は当時最高の技術者 達によってきらびやかに飾られた。
また山頂付近の主郭部 分には巨石をつかった石垣が塁々と築かれ、 山の谷筋は家 臣の屋敷で埋め尽くされていた。

 このように後世の築城に大きな影響を与えた安土城も、 天正10年(1582) 本能寺にて信長が滅ぶと同時に焼失し、 現 在はその石垣だけが城跡に残されている。

安土城 (特別史跡)
織田信長画像

●安土山 (郭・道・その他)
1天主閣
2本丸
3二の丸(信長)
4三の丸(名倉邸)
5米蔵
6煙硝蔵
7長谷川邸
  (織田家墓)
8黒鉄門
9八角平(菅屋邸)
10七兵工平
ⓐ大手口道
11織田信澄邸
12森蘭丸邸
13織田信忠邸
14武井夕庵邸
15羽柴秀吉邸
16徳川家康邸
  (接見寺本堂)
17堀邸(射場)
18総見寺本堂跡
19三重塔
20仁王門
21論所場
22百々橋口
⒝七曲り
23椿平
24馬場平
Ⓒ搭見寺参道
25江藤邸
26茶所

安土城を制する


 2030安土城構造模型
 


 2050陶板画


 2051鳥瞰図
安土城

 2052安土城

安土·南蛮図屏風 陶板壁画

 西暦1581年 織田信長は安土のセミナリヨに滞在していたイエズス会派の巡察師 ヴァリニャーノ神父に 屏風絵を贈呈しました。

 ヴァリニャーノ神父と天正少年使節の四人にこの屏風絵を
持参し、ローマ法王グレゴリオ十三世のもとへ旅立ちました。

 この陶板壁画はその際彼らが辿った「安土城」「安土城下町」「京都」「長崎」「マカオ」「リスボン・ローマ」の様子を 一画面の高さ161.5糎 幅367糎で計六画面に 描いたものです。

なおこの陶板は1300度で焼きあげられ 絵付けは全て手作業で半永久的に変色しないものです。

安土城
外観 五層七重の安土城を中心に画面左中央の見寺や画面下方には徳川家康、豊臣秀吉らの武家屋敷さらに上方には 琵琶湖が広がる。

安土・南蛮図屏風
陶板壁画
安土城

 2053安土城下町
画面右上方には城内につながる百々橋がみえる。
その下方には三階建の神学校セミナリヨが上方には 宴の模様や信長が好んだ相撲の様子、中央には 安土城中へ向かう南蛮人の行列が描かれている。


 2054京都
京都
画面右上方に春の清水寺や祇園社 中央には夏 祇園祭りの様子 左下才の秋の実りの田畑 信長か 築造した室町将軍の二条城、そして上方の内裏では
正月の節会と 京都の四季を描いている。


 2055長崎
画面中央には 長崎へ上陸する南蛮人の荷上げの様子 下方には巡察師ヴァリニャーノ神父と共に信長から託された 安土城を描いた屏風などを持ち 船出する天正少年 使節一行が描かれている。


 2058蛇石
織田信長公 「蛇石」 を安土山天主まで天正四年に修羅で引き揚げるジオラマ
織田信長公は、 観音寺城を築き近江全体を支配していた佐々木六角義治を破って京への道を開き、 永禄11年に足利 義昭を奉じて上洛します。 信長公は義昭の為に賑やかに囃しながら都大路を大石を修羅に載せて運び、 二条に
大規模な御所を築いて上げました。 天正3年に長篠の戦いで武田氏に大勝利し、翌4年から観音寺城のある織山 の隣に有る湖に突き出た安土山に築城を始めました。

蒲生野一帯に分布している古代の火山溶岩が固まって出来た湖東流紋岩が石垣に大量に使用されました。 この岩は 灰色をしておりますが風化すると白く変色しますが、 花崗岩よりも強靭ね滑らかな表面を持ちサイコロ状の巨岩が多く 石の目に沿って割り易くて野面積みに石垣を積み易いのです。
近くの八幡山や長命寺山には湖東流紋岩の巨岩が多くあり、 筏や船に載せて湖上を安土に運び社寺の石工を任され 高い技術を持っていた「穴太衆」 が安土城の高い石垣を積みました。

信長公の側近で弓の名手、 太田牛ーが認めた 「信長公記」 の安土築城の項で、 城奉行の丹羽長秀、 滝川一益 羽柴 秀吉が対岸の白王辺りに有った高さ3メートル、重さ112トンの巨石 「蛇石」 を信長公の京都の修羅曳きに倣って 人足一万人で三日三晩掛けてコロ棒と修羅に載せた 「蛇石」 を賑やかな囃しに載せて安土山天主まで曳き上げました。 その有様は安土城下の楽市楽座で集まって来た人々の脳裏に深く刻み込まれました。

主人を明智光秀の謀反で失い、 あの絢爛豪華な天主閣の炎上を眺めた安土城下の民は、豊臣秀次公の八幡山築城による 楽市楽座に開催時に安土全村挙げて近江八幡の東町に移住致しました。 彼等は正月の左義長祭に信長公や馬回り衆 が華美な内掛け姿で城下に繰り出した姿や、 盂蘭盆会に安土全山に明かりを灯して 「光の山」 にした事などを思い出し て懐かしみ、 修羅曳きの勇ましい姿を松明に棒を差して担ぎ、 棒の先に綱を付けて引張り 左義長祭」 として再現しま した。 「チョウヤレ」や「まっせ・まっせ」の掛け声は修羅を曳く時の掛け声なのです。 修羅曳き人足56人、 石の上載り人7人を陶器で造りました。

  椎の木窯 西村眞一

 
 2060城郭資料館二階

 2070安土城のデザイン意図
安土城のデザイン意図 信長が許可した当時の南蛮風デザインの教会 ―神戸市立博物館蔵―


 安土山は東海道・東山道、それに北陸道を京に
結ぶ近江の要所にあり、比叡の美しいすがたを 映す琵琶湖にのぞむ景勝の地であります。
ここに信長は、型やぶりでけんらん豪華な人工 美を対比させ、新しい時代を築く「天下統一」の シンボルとして、天主をつくろうとしました。

 一方、大航海時代をむかえ、日本は唐(中国)、
天竺(インド)をへて、はるかかなたにヨーロッパ
文化を初めて知りました。これを南蛮文化といい

 信長は、当時の最高の建築技術と考えられて いる唐(中国)様に加えて、最先端デザインである 南蛮風を加味していたのです。
 そして『天守指図』によって復元されたすがた は、東・西・南・北の四面とも、まったく非対称 のダイナミックな造形美をもつ城となりました。

(注)現在学術用語としては「天守」ですが、安土城が建築された天正四年は「天主」で、建立後は天守・天主・殿主・殿守等混用されています。


内藤 昌氏による
復元模型
安土城はヨーロッパに紹介された
日本最初の名建築
内藤 昌氏蔵

 2071
安土城天主復元案の説明
             (元名古屋工業大学教授内藤昌氏復元)
全体説明:この復元案は、東京静事堂文庫(せいかどうぶんこ) 所蔵の「天守 指図 (てんしゅさしず)」をもとにしたものです。「天守指図」は、加賀藩大 工大工池上右平 (いけがみうへい)が作成した天守各階の平面図で、 内藤氏 は天主跡の実測図と照合し、この指図が安土城天主の設計図であると判断しま した。
 内藤案の特徴は、地階から4階まで、建物の中央部が吹き抜け構造になって いる点です。 天主跡の礎石を見ても中央部分だけ礎石が無く、こうした復元案 の根拠の一つとしています。

天主の構造
『信長公記』の「安土山御天守の次第」によれば、安土城天主は石垣で囲わ れた地下1階と、地上6階の7階建てであったことがわかります。また宣教師 の書物には屋根が5層であったと記されています。

屋根瓦
 城内の建物に瓦が使われ始めるのは安土城からです。 この頃、信長をはじめ、 家臣たちの城郭に瓦が使用されていたことが、各地の城跡の発掘調査で確認さ れています。

金箔瓦
 安土城跡の発掘調査では、天主を中心とした主郭部から大量の金箔瓦が出土 しています。しかし信長時代に金箔瓦が見つかったのは安土城以外では嫡男信 実の城、次男信雄の松ヶ島城と三男信孝の神戸城だけなので、信長は金箔 瓦を一族で独占していたようです。
安土城をはじめとした信長時代の金箔瓦は文様の地の部分に金箔を貼ってい るのに対し、秀吉時代の金箔瓦は文様自体に金箔を貼っている点が異なってい ます。

内部の障壁画
『信長公記』によると、天主の各部屋は狩野永徳によって描かれた障壁画で 飾られていたことが分かります。 画題は、 花鳥風月や仏教・儒教・道教の故事 など多岐にわたっています。

黄金の最上階と八角形の5階
『信長公記』によると、 天主の最上階は総金箔貼りで、一階下の5階は八角
形の平面を持ち、 外側の柱は朱塗りで内側の柱は総金箔貼りであったとしるさ れています。

吹き抜け構造
 内藤復元案の最大の特徴は、地階から地上2階まで中央が吹き抜けとなり、 地上3階に吹き抜け部分にかかる渡り廊下がある所です。
しかし、この復元 については異論も出されており、いまだ結論は出ていません。

安土城天主復元案の説明
 
 
 
 
 
 
         


  '26.02.05 感謝490,000アクセス 約12ヶ月今後は、1万アクセスいただくのに約17ヶ月を要するようです。
  '25.02.08 感謝480,000アクセス 約9ヶ月
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  '20.06.21 感謝410,000アクセス 約8ヶ月
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