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   西日本の縄文 北陸の辺縁は何処まで   2015.10.20-4

  青谷上寺地遺跡展示館 15   鳥取市青谷町青谷4064  0857-85-0841  休館 月曜・祝日の翌日  撮影可

交通 レンタカー or  青谷駅から徒歩可能
     
時期 弥生時代
     
見所 襲撃された集落から発見された、一村皆殺しの殺戮痕跡。弥生人の脳
 
歴史 青谷上寺地遺跡は、妻木晩田遺跡と共に、当時の港湾を持つ集落遺跡でした。
集落は弥生前期後葉 (紀元前180年頃) から始まり、弥生後期末 (紀元170年頃)に 殺戮が行われた。
しかにもかかわらず、集落は3世紀半ば(250年頃) まで続き、その頃衰退を始める。

      ※誤字・誤植があると思います。ご容赦ください。


次 

01外観
10ロビー展
11弥生人の描いた絵画・文様
  ごあいさつ
11a
  絵の持つ意味
  ①シカ:土地の象徴
  ②鳥:稲の象徴
  ③建物:稲の象徴
  ④舟
  ⑤魚
  ⑥人
11b多視点画
11c独立画
11d物語性
   稲吉角田遺跡/
   線刻絵画土器
11e身体表現
11f絵画から記号へ
  桜ヶ丘5号銅鐸A・B面
11g文様

 

入口展示
12遺跡紹介ビデオよ
  中国製の貨幣 (貨泉)
  青谷上寺地遺跡の虐殺
20展示室展示
21遺跡概観
22米作りの広まり
  弥生時代は
23海の恵み・山の恵み
25祈りの世界
27大規模な土木工事
30弥生時代
32土製品 
33土器と土玉
35土器 後期
37分銅形土製品と台付装飾土器

40交易交流―陸を往き、海を渡る
 土器がもたらす交流
 交流する人々
 青谷上寺地遺跡を取り巻く交流
44説明パネル
46他地域の土器
48鉄器・石器・土製品

50玉製品
51玉
52玉の流通経路の変遷
  ①弥生時代前期~中期前葉
  ②弥生時代中期中葉~後葉
   弥生時代後期~終末期
53玉の加工過程
54骨角器を作る
55青谷上寺地の工芸力
  弥生の箱
  弥生の箱
56布を織る・籠を編む
  "かせ"は


60木器を作る
61木器
63石器・鉄器
70デザイン
72絵画とデザイン
74土器
79線刻絵画木製品と土器

80蘇った弥生人
84復顔
86殺傷人骨
87脳
88脳髄 
89頭骨

90木製品
93木製工芸品
97貝塚  

 01外観
・青谷上寺地遺跡
・青谷上寺地遺跡展示館
・鳥取県埋蔵文化財センター
   青谷分室
 と、
・山陰本線青谷駅 との間の

 地図と徒歩時間
青谷上寺地遺跡展示館 入り口 館のトレードマーク



 10ロビー展

  11弥生人の描いた絵画・文様

  ごあいさつ
        弥生時代、人々は土器や木器、骨角器、石器、金属器などに、様々な絵や文様を表しました。
        鹿、魚、建物、人、鳥、舟などの絵や、流水文、渦巻文、三角文といった文様を描いています。

        弥生人はなぜこれらの絵や文様を表したのでしょうか。
        戦前の小林行雄氏や故佐原真氏は銅鐸に表された絵を分析して「農耕賛歌」としての意味を読み取りました。

        また、佐原氏は原始絵画が児童画と多くの共通点を持つことを指摘しています。
        この度の展示では、全国の弥生時代の遺跡から出土した絵画・文様を展示すると共に、その特徴を紹介します。

 11a 
ロビー展 ごあいさつ 絵の持つ意味     
①シカ:土地の象徴
②鳥 :稲の象徴 
③建物:稲の象徴
④舟        
⑤魚
⑥人

 絵の持つ意味
これまで弥生時代の絵画については小林行雄氏、佐原真氏、岡田精司氏、春成秀爾氏、金関恕氏などの研究者が
その特徴を丹念に拾い上げ解釈を試みてきました。

  ①シカ:土地の象徴
土器に描かれる最も多い画題です。  シカは4~5月頃に角が抜け落ち、新たに生え変わります。

春成秀爾氏は角のないシカが銅鐸に多く描かれるのは、角のない季節のシカを表していて、
初夏に田植えをして秋に収獲する稲作のサイクルと一致しています。

春の祭りに使われた銅鐸には角のない、秋の祭りには角のある鹿が描かれたと解釈されています。

  ②鳥:稲の象徴
鳥はくちばし、頸、脚が長いという共通の特徴があり、サギ、ツル、コウノトリなどの説があります。
いずれも渡り鳥で稲と共に水田に姿を現すなど、稲作との関連があります。

鳥に託した弥生人の想いも時代と共に変化していったようであり、鳥が祖霊や穀霊を運ぶ使者から、
死者の魂として意識されるようになったことを表している推測されます。

  ③建物:稲の象徴
土器に描かれる中で2番目に多い画題です。建物の構造から、神殿や高床倉庫と言った特別な建物が多いと考えられています。
共通する画題の組み合わせや構図が見られることから、祭祀的な意味合いを持つのではないかとする説もあります。

  ④舟:
稲吉角田遺跡の土器には羽飾りと思われる装飾品を頭に付けた複数の人が舟を漕いでいます。
金関恕氏は頭飾りを付けた人物は穀霊を運ぶ鳥をかたどった鳥装の祭祀者で、舟も穀霊を運ぶものとして信仰の対象になったと指摘しています。

  ⑤魚:
土器・銅鐸両方に用いられる画題。銅鐸に描かれた魚は画一的で、その特徴からフナもしくはコイと考えられます。
土器や木器では魚の形状は様々です。
弥生人が自分たちの周りに存在し、実際に目にした魚を描いたためではないかと推測されています。
青谷上寺地遺跡からは、サメ、シュモクザメと考えられる絵が見つかっています。

  ⑥人:
銅鐸には脱穀する人、狩猟する人、武器を持って戦う人、I字状の道具を持つ人などが描かれていて、弥生人の生活の一面が垣間見えます。
土器では鹿、建物に次いで多い画題ですが、銅鐸のように脱穀する人やI字状道具を持つ人は描かれていません。
全体を描いたもの、顔のみを描いたもの、鳥装の人物を描いたものなどが見られます。

  ※「I字状の道具」とは「杵」で脱穀する人です。



11b多視点画
      弥生人の描いた動物は、体は横からの視点で描かれているのに、脚や頭は斜めからの視点で描かれているものが多いという特徴があります。
      異なる視点で描かれた絵を「多視点画」といい、その技法を使った最も有名な画家がピカソです。

 清水風遺跡出土
線刻画
弥生時代中期後葉

船体は側面から、
櫂は上から
の視点で描かれている。
 青谷上寺地遺跡出土
線刻絵画琴側板
弥生時代中期後葉

胴体は側面、脚は斜め横、
円孔の両側に描かれた
動物は頭部は斜め上から
の視点で表現されている。


11c独立画
      ひとつひとつの絵が重ならない描き方です。 イメージを絵にする時、絵が重ならないように全て描こうとすることが指摘されています。
      児童がものを水に絵を描くと、同じようになる場合が多いようです。

 清水風遺跡出土
線刻絵画土器
弥生時代中期後葉
 土器を上から見た図
角のない鹿、すっぽん
角のある鹿
梯子のある建物
鳥装の女性シャーマン


11d物語性
      土器や銅鐸に表現された絵には、物語性が見られるものもあります。 そのストーリーについては、いろいろな解釈がされています。
      みなさんは、どのような話だと思いますか?

   稲吉角田遺跡/線刻絵画土器/弥生中期後半
      シカとみられる動物、木に何かをぶら下げた図、2棟の建物、舟とそれを漕ぐ鳥の羽を頭に付けた人物などで構成される。
      豊作への祈り、収穫への感謝など「まつり」に関する物語を表したとする説、淀江平野の村の情景を描いたものとする説など、諸説ある。
 
稲吉角田遺跡/線刻絵画土器/弥生中期後半
楯と戈を持つ鳥装の人物、魚と藻?、屋の刺さったた鹿、建物、弥生中期
斜格子文の帯でA・B面それぞれ6区に分け、トンボ・カマキリ・狩りの様子等が表されている/伝香川県出土/弥生時代中期
A面

トンボ・カマキリとクモ・すっぽん・水鳥・イモリとすっぽん・イノシシ狩り
B面

イモリ・トンボ・工字状のものを持つ○頭の人・市かを狩る○頭人・脱穀する△頭人2人・梯子のある建物

人・魚、工字形のものをもつ○阿多のの人・魚三匹

トンボ2匹・イモリ


11e身体表現
     弥生の人々はどのように人を描き表したのでしょうか。
     描かれた人物画からは、顔に刺青をしていたことや、身に着けていたものなどを窺うことができます。

身体表現 人面文土器亀塚遺跡出土/人面文土器/弥生時代終末期  顔に刺青のような線が多数描かれています。
中国の史書「魏志倭人伝」には「黥面文身」とあり、「古事記」にも「鯨ける利目」とあること、

亀塚遺跡出土品などから、弥生時代に顔や体に刺青をした人たちがいたことがうかがえます。
楯築弥生墳丘墓出土
人形土製品/弥生後期
 前面は横方向の文様帯がヘラで描かれ、
首飾りやベルトと思われる表現もみられる



11f絵画から記号へ
     弥生時代中期から絵を描いた土器の出土例が多くなります。 しかし、後期になると減少し、記号分が急速に増えます。
     春成氏は画像の崩れ方を追求し、中期の絵画が大幅に省略し、抽象化されて記号文となっていく系譜を明らかにしました。

絵画から記号へ 絵画から記号へ

龍/弥生中期/唐子・鍵遺跡/胴のうねりやヒレが表現されている
龍から変形した文様龍から変形した文様/弥生後期/唐子・鍵遺跡/
ヒレが無くなり胴の動きが文様化している

桜ヶ丘5号銅鐸A面とB面
龍から変形した記号龍から変形した記号
/弥生後期
四分遺跡/記号文土器
/弥生時代後期

 桜ヶ丘5号銅鐸A面/弥生中期// 工字形のものを持つ○頭の人・魚3匹 トンボ2匹・イモリ//すっぽん・水鳥 脱穀する人△頭の人2人
   桜ヶ丘5号銅鐸B面//カエル・ヘビ・棒状のものを持つ△頭の人 カマキリ・カエル・クモ
               //○頭の人の左右に△頭の人が二人 /弓を持ち、シカの角をつかむ○頭の人




11g文様
   弥生時代に描かれた文様には、三角文、同心円文、綾杉文など、いろいろありますが、
   その中でも比較的長い期間、広い地域で弥生人に好まれたのが、流水文と呼ばれる美しい文様です。
   畿内で始まり、各地に広まったと考えられています。

   流水文は東北・関東地方の縄文時代晩期 (約3000年前) の土器に描かれる「工字文」から徐々に変化して成立したとする説が最も有力ですが、
   畿内で始まる流水文との間には時間と距離に隔たりがあり、今後の研究課題です。

文様 流水文青谷上寺地遺跡/
流水文のある櫛2点/
弥生中期後葉
流水文模式図 工字文-模式図
奈良県 唐子・鍵遺跡
兵庫県 片引遺跡
大阪府 瓜生堂遺跡
兵庫県 桜ヶ丘1号銅鐸


 入口展示
  12遺跡紹介ビデオより
弥生人の脳 2千年前の青谷 人骨の発掘 木製品の取り上げ 様々な工芸品
結合式ヤス 結合式ヤスの装着 鋭い先端-材質は? 中国製の貨幣※1
朝鮮半島製の鉄斧
卜骨一般に牛の肩甲骨を使用するが、日本では 卜骨出土状況鹿の肩甲骨を使う
韓国勒島遺跡の卜骨 人骨の出土状況 傷ついた骨 刺し傷のある頭蓋骨 武器が刺さった骨盤 脊椎カリエスの背骨
弥生後期に先住弥生人と後発半島人が戦争した
※2
木製品9千、獣骨27千、人骨5200、骨角製品1400 鉄製品250、人の脳3点 大量虐殺。先住者の痕跡を消滅させた悪魔の殺戮 泥層の中に投げ込まれ、酸素を遮断されたため 腐敗を免れた。日本初。
英国では泥炭中から出土
漆塗り高坏の脚 妻木晩田遺跡も港湾ムラなぜ殺戮がなかったか。
ここの住民が襲ったのか


 ※1中国製の貨幣 (貨泉)
     この頃の貨幣は、半島人・弥生人・中国人の間だけでなく、沖縄諸島の縄文人に対しても、物々交換の担保として使用された。


 ※2青谷上寺地遺跡の虐殺 (テロップでは縄文人が弥生人を虐殺したことになっている。)

     天然の良港を持つ青谷上寺地遺跡は港湾施設であり、 縄文人が棲んでいたのではない。 当然、半島出身弥生人の交易商人等が住んでいた。

     それを金属製武器で襲撃して残虐な殺戮を行い、皆殺しにしてドブに投げ込み、宝物を奪い去り、生活用品やムラを燃やし、
     あるいは、二度と使えないように徹底的に壊して、ドブに捨てた。

     これは、弥生後期に起こった土地収奪戦争。 これが武人が王として台頭してきた背景であり、
     この後に、領土拡張で、富と権力を手に入れた大王の墳墓が巨大化する。

     だいいち、弥生人の侵入から千年も経っているのに、縄文人がいる訳がない。 縄文人はもう全て奴隷化されていた。
     ましてや舟を使って港湾拠点を襲撃なんてできる訳ない。





 20展示室展示


  21遺跡概観  弥生時代前半後期~古墳時代初頭 2200年前~1700年前

    青谷上寺地遺跡は鳥取県のほぼ中央の青谷町にあり、  日本海にほど近い平野部に位置する弥生集落です。
    平成10~13年に発掘され、多種多量の出土品がありました。

    土器、石器や、腐食してしまう金属器、木器、骨角器なども多数出土しました。中には中国大陸や朝鮮半島との交易品も多数みられます。
    さらに、多くの人骨と共に弥生人の脳が見つかるなど、奇跡的な発見もありました。

    青谷上寺地遺跡からは弥生時代に関する多くの情報が得られ、「弥生の博物館」と呼ばれています。

入り口
弥生の博物館
甦る弥生の博物館 青谷上寺地遺跡 弥生の大集落 弥生の博物館 遺跡全景 2000年前の
青谷上寺地遺跡


 22米作りの広まり
  ※1弥生時代は

    "灌漑技術を伴う水田稲作"が広まった時代です。 青谷上寺地遺跡でも水田跡が見つかっており、
     開墾・耕作や収獲などに使われた道具も出土しています。 炭となった稲穂も見つかっています。

     また、様々な農具とそれを作る技術も伝わりました。 そして、一年かけて育てる米作りが人々の生活の一部になっていきます。
     農事暦※2に関連した祭りも豊作を願う大切な行事として行われるようになりました。 少し前の「日本の農村風景」の原型
       ※2種蒔・収獲など、農業をするための暦

最初の展示ケース 米作りの広まり
農作業の広まり
水田稲作※1 農耕具 木器・石器
鋤柄・組合せ平鋤・
泥除け・田下駄
直柄又鍬弥生時代後期~古墳時代初頭/アカガシ製↓
木包丁(後期初頭-後葉) 
石包丁(後期初頭-古墳前期初頭/穂摘具)
大型石包丁(中期中葉-後葉/根狩り・草刈)

横槌(全期後葉-中期前葉)/磨製石鎌(前期末-中期)
磨製石釜(前期末-中期)
直柄平鍬(全期後葉-中期前葉)
直柄又鍬(後期-古墳初頭)
木鎌(後期*-古墳初頭)
炭化米(中期中葉-後葉)
 木包丁とは、
石包丁と同じ穂摘み具
↑外側の歯が内側に湾曲してのび、中央2本の歯の切り込みは両側の歯よりも浅い作りになっています。
この形は青谷上寺地遺跡特有のものです。


  23海の恵み・山の恵み

    青谷上寺地遺跡は、日本海に繋がる静かな潟湖(内湾)、豊かな森や川、水田の周りには低湿地と、様々な自然に恵まれていました。

    海では網や釣針、ヤスやモリで魚などを取っていました。
    磯や岩礁でカキやアワビを剥がして取るためのアワビオコシも見つかっており、潜水漁も行われていました。
     
    森では弓矢や罠で動物を狩りました。木の実や食用植物の採集も大切な仕事でした。
    また、海からは人々が生きていくのに欠かせない塩分、森からは燃料となる薪なども得ていたと考えられます。

海の恵み・山の恵み 海の恵み・山の恵み タモ枠(後期)/浮子(前期後葉-中期前葉)/錘状骨角器(後期初頭-後葉/鹿角製ルアーかも) 単式釣針(前期末-中期前葉)/結合織釣針(中期中葉-後葉)/鈎状骨角器(中期後葉-古墳初頭) 櫂(後期初頭-古墳初頭)
アワビオコシ(中期中葉~後期)

単式ヤス・離頭銛頭・
結合式ヤス
土錘・石錘・石鏃
鏃形骨角器
弥生の海
青谷上寺地の古地理変遷
6500BP縄文海進の頃
2100BP集落隆盛の頃
漁労の様子
突き漁・潜り漁
海の獲物 森の恵み 弥生人の生業暦 春先を中心にした生業暦
現代と変わらない季節の恵み 遺跡からはそれぞれの
季節の労働に関係が深い遺物が沢山見つかった。


  25祈りの世界
      弥生時代になると、農耕に関わるマツリが伝わるなど、新しいマツリや占いが行われるようになりました。
      自然を敬い、共に暮らす弥生人にとって、感謝や祈りをささげるマツリや事の正否を問う占いは、とても大切なものでした。

      青谷上寺地遺跡では、マツリの道具が沢山出土しています。
      実物を真似て木で作った形代、琴、土笛、線刻絵画土器、スタンプ文土器、犠牲獣など様々なものがあります。

      村のマツリや家族のマツリなど、いろいろなマツリが行われたことでしょう。

     土笛=陶塤(とうけん)

祈りの世界 祈りの世界 イノシシの下顎骨が出土した土坑中期後葉 呪術具 呪術具 人形(後期)、
農具形(中期後葉)
犠牲獣/犬頭骨・猿頭骨猪下顎骨
武器形木製品/戈の柄
卜骨(猪骨)
箱作の琴/中期/天板に日月星を表す共鳴穴 卜骨(猪骨)/重圏文鏡片
銅鏡片

楯/中期後葉/上端のT字/1対の渦/1対の三角文を浅く掘り込み他を赤塗

  27大規模な土木工事

       湿地に囲まれ、海辺の近い微高地に居を構えた青谷の人々は、水田を開き守り、ムラを造り発展させるために、
       大規模な土木工事を行いました。
       洪水や飛砂による土砂の堆積も検出されています。自然との闘いも不断の努力でなされたことでしょう。

       区画や治水などの役割を持った溝は、作り始めた頃は素掘りでしたが、土砂で埋まる度に何度も護岸工事がなされました。
       弥生時代中期の工事は杉の大板を杭で止めるのが主流でした。  後期には矢板をきれいに打ち込む構造に変化します。

       このような工事に使われたのは建築廃材でした。これらの資料は弥生時代の建築技術の解明に大変役立っています。

大規模な土木工事 大規模な土木工事 矢板を使った護岸工事の様子 大板を杭で止めた様子 ネズミ返し 床板-木目に対して斜めに削る斜交切削
栓-木組みに用いる止具
柱材:弥生~奈良 
梯子:弥生後期後葉
高床倉庫の図解
千木やはめ込み式板壁など弥生建築が神社建築の基となったようです
木材に見る建築技術表面加工・継手・仕口など発達した技術が見られる 大型掘立柱建物弥生最長4mの垂木を元に復元。杉皮葺 妻木晩田遺跡の復元建物 青谷上寺地遺跡の高楼
 30弥生時代
  32土製品
  33土器と土玉
縄文土器縄文晩期中葉~後葉 土玉弥生中期後葉/壺から発見 謎の土玉ヒノキの細枝の環に通されて発見/弥生中期 壺・甕・脚付甕・鉢 甕・脚付甕・鉢・高坏
  35土器 後期
後期の土器 器台・蓋・鉢・水差形土器・無頸壺・器台・器台 甕・高坏(木製高坏写し)

  37分銅形土製品と台付装飾壺
後期前葉壺・後期後葉壺
線刻絵画土器(絵の内容不明)/後期
台付装飾壺/後期初頭~後葉
分銅形土器/中期中葉~後期/吉備から中国・近畿。北九州・北陸は少量出土 絵画土器かと思いました間違いすみません 絵?文様? 台付装飾壺
後期初頭-後葉
これはロクロか回転台でスタンプ文押しでしょうか ソロバン玉形の弥生土器は九州にありましたが 土製品にはよくこのようなササラ目が書かれることがあります。


  40交易交流 -陸を往き、海を渡る-

  土器がもたらす交流
    青谷上寺地遺跡から出土した土器の中には、地元青谷で作られたものとは、形も、材料となる粘土も少し異なる土器があります。

    他の地方から来た人が作ったのかもしれないし、他地域の土器の形を真似して作ったり、 余所の土地から運ばれてきたりした
    可能性もあります。

    また、逆に、因幡地方独特の土器である台付き装飾壺は、形や模様がよく似ている土器が長崎県から富山県までの
    日本海側各地で出土しています。

    マツリや儀式に使われたのではないかと考えられている土器で、同じ器を使った共通のマツリが行われていたのかもしれません。
    暮らしの器である土器からも、青谷の人々が周辺地域と盛んに行き来したことがわかります。

    器と共に、人も文化も交わり伝わっていったことでしょう。


    ≪青谷上寺地遺跡から出土した土器の故郷≫ 朝鮮半島南部/北陸/近畿北部/畿内/岡山県北部・南部/広島県北部/島根県東部など


  交流する人々
    青谷上寺地の人々は,他の地方の人々と様々な交流を行っていました。

    周辺では手に入らない材料を使って作られたものや、他の地方で作られたことが明らかなもの、作り方や形が遠方と共通であるもの、
    他の地方で始まった風習や生活様式や技術に根ざしたものなどの、出土がそれを教えてくれます。

    徒歩か水上交通以外に移動手段を持たなかった弥生人ですが、想像以上に広範囲な交流を行っていたようです。
    青谷上寺地遺跡に素も人々は、広く交流しながら様々な情報を得て生活していたのです。


  青谷上寺地遺跡を取り巻く交流
    中国との交流-青銅鏡・貸泉   朝鮮半島-無文土器・有肩鉄斧 勒島遺跡

    北九州-袋状鉄斧・結合式釣針 原の辻遺跡-台付装飾壺  北部九州・中国地方西部との交流

    日本海沿岸地域-台付装飾壺・花弁高坏  北陸地方との交流

    中国地方・近畿地方-脚付鉢・壺  中国地方南部・四国地方との交流

  44説明パネル
土器がもたらす交流
交流する人々 交流する人々 青谷上寺地遺跡を取り巻く交流 護岸施設に転用された舟溝の護岸施設に4.7m以上の丸木舟の一部が転用されていた。
弥生後期初頭~後葉
韓国勒島遺跡の卜骨の出土状況 青谷上寺地遺跡の卜骨の出土状況
  46他地域の土器
美作系土器/中期中葉-後葉/壺/水平に広がる口縁部の上に筒状の作り出しが付く 備後北部系土器/中期中葉-後葉/注口付台付鉢/広島県北部の塩町式土器の特徴を持つ 畿内系土器/台付鉢/高台には6箇所に穴が開けられている
近畿北部系土器/後期/胴部に穴を開け、わざと壊して儀式に用いたと思われる


  48鉄器・石器・土製品

素環頭刀子/中期後葉
素環頭刀環頭中期-古墳初頭/切断柄飾り
鋳造鉄斧/前期末-中期前葉
袋状鉄斧/袋状鑿/土笛/石垂/打製石剣/土垂/石垂 朝鮮半島系無文土器/アワビオコシ/袋状鑿 貨泉/結合織釣針
星雲鏡
銅剣型骨角器/黒曜石剥片/サヌカイト素材礫



 50玉製品

 51
弥生人にとっての「玉」とは、身を飾る装身具以上に、まじないやマツリなどの活動と大きくかかわる呪術的な意味を持ったものです。
弥生時代には管玉の製作も始まり、緑色をした碧玉を主な素材とした管玉は、山陰の多くの邑で作られています。

弥生時代後期になると、ガラス製の勾玉・管玉・小玉も出土します。

青谷上寺地遺跡からは、玉を作り出す道具、作っている途中の未成品も沢山出土しており、原石から製品に作り上げる工程を復元することができます。
人々が素材から形を切り出し、砥石で美しい玉に磨き上げた製品が当時の輝きのままに遺されています。



 52玉の流通経路の変遷  碧玉やヒス水など、玉の流通経路の変遷から、青谷上寺地遺跡の交流を窺うことができます。

 ※1①弥生時代前期~中期前葉(約2200~2100年前)
      青谷上寺地遺跡では中期前葉約2100年前に管玉政策が始まる。
      石材は石川県小松市周辺で採れる「菩提系碧玉」が使用され「大中の湖技法」と呼ばれる技法が用いられました。

     「菩提系碧玉」原産地に近い石川県八日市市地方遺跡や福井県下屋敷遺跡などでは青谷上寺地遺跡と同じ「大中の湖技法」が使われており、
      製作技術と共に「菩提系碧玉」がこれらの地域から伝わったと考えられます。

  ※2②弥生時代中期中葉~後葉 (約2100~2000年前)
     「菩提系碧玉」を使った管玉政策が盛期を迎えます。 北部九州でもこの管玉や石材の需要が高まり、北陸から北部九州へ運ばれました。
      その一方で、北部九州から鉄製品が北陸にもたらされたと考えられています。

      青谷上寺地遺跡では北陸と北部九州とを結ぶ中継点であったため、北陸から北部九州までの様々なものが入って来たと推測されます。

  ※3③弥生時代後期~終末期 (約2000~1800年前)
      八日市地方が衰退し、「菩提系碧玉」の流通が停滞していきます。 そのため各地で代わりとなる石材を使った碧玉製作が行われるように
      なります。
      島根県の花仙山で産出される碧玉がこの時期に広まっていきました。

      青谷上寺地遺跡では代わりの石材は殆ど使用されず、管玉政策は終焉を迎えます。青谷上寺地遺跡の「ものづくり」の中心は木製品に
      移行し、花弁高坏を代表とする高度な技術を使った精巧で美しい製品が作られ、日本海沿岸の各地に流通するようになります。

玉をつくる 玉をつくる 玉の流通経路の変遷と青谷上寺地遺跡 ※1
①弥生時代前期~中期前葉(約2200~2100年前)
※2
②弥生時代中期中葉~後葉 (約2100~2000年前)
※3
③弥生時代後期~終末区 (約2000~1800年前)


  53玉の加工過程

玉砥石・石鋸
雲母片岩製
ヒスイ製勾玉 管玉製作資料



  54骨角器を作る
    骨角器は、骨や角を利用した弥生時代の大切な道具です。骨や角は適度な硬さと柔らかさを備えているので、加工しやすく丈夫な素材です。
    加えて、鹿角、哺乳類の骨、鳥類の骨、魚類の骨、歯牙、貝殻などそれぞれの特性を生かした使い方がなされています。

    骨角器の種類は、ヤス先・モリ先や釣針などの漁具、骨鏃などの武器・狩猟具、簪(かんざし)・櫛や腕輪などの装飾品、梁や刺突具等の日用品
    マツリや占いに関わる品など多種多様です。

    素材の多くは、食用としてとらえられた動物や漁具から得ていると考えられます。

骨角器を作る
貝輪/有孔牙製品/垂飾品/オオカミ後臼歯製
刺突具・切断素材・鹿下顎骨・刻み目のある骨角器
簪状骨角器/
櫛状骨角器
ヘラ状骨角器
弣状骨角器
ヘラ/弥生前期末~中期前葉/鹿中手足骨製
弭状骨角器/弥生後期
柄頭/後期初頭~後期後葉



  55青谷上寺地の工芸力
    弥生の箱  木で作られた容器や、箱などが沢山出土しました。板がバラバラの状態で見つかった場所もあります。
            箱のような形を組み合わせてみると3種類の木製品になりました。 三日月と円形の文様も見えます。

    弥生のそっくりさん
            粘土を焼いてつくる土器、樹木を削って作る木器、それぞれ材料は違うけれど、作っている人は同じ青谷の弥生人。
            よく見比べてください。全体の形だけでなく、透かしの入れ方や細かな模様までそっくりに作られています。

青谷上寺地の工芸力 弥生の箱 鋸なしで作られた精緻な工芸 弥生のそっくりさん 左:土製高坏
右:木製高坏
左:土製杯
右:木製杯

木製・土製共に高度な技術力です。



  56布を織る・籠を編む
      縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけて、大陸から新しい技術が伝えられますが、その一つが織物です。 それまでは編んで作っていました。
      弥生時代の織物は絹と麻が使われたと考えられ、青谷上寺地遺跡では絹織物が見つかっています。

      編み物も約70点見つかっていますが、そのほとんどが「かご」です。材料は蔓状の技をもつマタタビが多く使われています。
      出土した「かご」をかんさつすると、「巻き編み」や「網代編」など、様々な編み方が確認できます。

      「かご」を復元してみると、とても美しいものであったことがわかります。

   "かせ"は 1本の支え木と2本の腕木を工字に組み合わせたもので、支え木を握り、
           軽く振り回しながら腕木に糸をからめとる方法で糸を巻き取ったと考えられています。 琉球舞踊に出てきます。

布を織る・籠を編む 編み物 かご巻き編み・網代編み・
縁仕舞い
編み物に使用された道具紡錘車
紡錘車(土製・鯨骨製) かせ・管状骨角器 木針・骨針 マタタビ製かご 平織りの絹織物 いろいろな編み方
組みひも 弥生のかご



 60木器を作る
  61木器
木器を作る 写真悪くてすみません 木履・腰掛・壺形容器と蓋 漆塗り曲げ物・椀・蓋 壺形容器と蓋・桶・蓋
・椀杯形容器・高坏飾りの耳
高坏飾り耳・用途不明部品 桶・匙


  63石器・鉄器
伐採石斧・扁平片刃石斧
柄付き袋状鉄斧・斧膝柄
鑿状片刃石斧
柱状片刃石斧・
鹿角製柄付き鑿
鉄製鑿レントゲン写真
特殊な小型鉄製工具
鉄棒を叩き刃を成形した
臨機応変の工具らしい
耳かき型工具
板状鉄斧・楔・鉄斧・敲石 板状鉄斧・楔(袋状鉄斧を再利用)
/弥生後期~古墳初頭
敲石・軽石加工品
鏨(たがね)・石錘・石錐 袋状鑿・刀子・袋状鉄斧 ヤリガンナ・鏨(たがね)
鋳造破片の再利用
 
 70デザイン

  72
  ※1絵画とデザイン 青谷上寺地遺跡からは多数の木器・土器・石器が見つかっています。
               中には柄を描いたものや文様を表したもの、何に使ったのかわからない不思議な形をしたものなどがあります。

               縄文時代ではわずかだった絵画資料は、弥生時代中期以降、豊富になります。
               描かれる内容は人や動物、建物、舟などで、何らかの意味があったと考えられます。

               土器に描かれた様々な文様は、現代の私たちにも美しさが伝わってきます。
               また、地域や時期によって変遷していく文様は、考古学の研究にも役立っています。

               デザインや絵画を見ていくことで、青谷上寺地遺跡に暮らした人々のことがもっと見えてくるかもしれません。

青谷上寺地遺跡の
デザインと絵画
絵画とデザイン ※1
絵画とデザイン
※2土器の文様 貼付文・ヘラ描文・櫛描文・凹線文・ 刺突文・透孔・鋸歯文・渦巻文・木葉文・流水文

 ※2
  貼付文   粘土を土器の表面に貼り付けた文様です。帯状の粘土を貼った貼付突帯文や、円形のものを貼りつけた円形浮文などがあります。
  ヘラ描文  先をとがらせた道具で描いた文様です。
  櫛描文   先端が3本維持用に分かれた道具で描いた文様。平行な線を一度に描くことができます。
          櫛描文の出現を持って弥生時代中期 (約2150~2000年前) に区分します。
  凹線文   指や布、皮などを使い、土器の表面を横向きに撫でて凹凸の装飾効果を出したもの。弥生中期後半 (約2050~2000年前) を代表する
         文様です。
  刺突文   ヘラや櫛、貝殻などを押し当てて付ける文様です。
  透孔     高坏などの脚部に穴を開けた文様です。三角形や円形のものがあります。
  鋸歯文   三角形が連続する文様です。
  渦巻文   渦巻を描いたもので、単体のものと連続するものとあります。
  木葉文   木の葉を繋ぎ合わせたように見えることから木葉文と呼びます
  流水文   水が流れているように見えることから名づけられた。


  74土器

深鉢-縄文晩期/口縁突帯
壺-弥生前期/多条突帯 
壺-前期後葉/羽状文   
壺-前期後葉/木の葉文 
甕-前期後葉/ヘラ描沈線文・刺突文
壺-中期前葉/斜格子文・櫛描文
壺-中期前葉/櫛描文・刺突文
壺-中期前葉/凹線文・斜格子文・遠景浮文
異形土器-中期中葉~後葉/鋸歯文
高坏-中期後葉/鋸歯文・2色塗彩色
壺-スタンプ文       
高坏-中期後葉/三角透孔
甕-弥生後期末~古墳初頭/弥生後期以降甕の口縁に施文なくなる
壺-終末期/貝殻刺突文
器台-綾杉文       
深鉢-縄文時代晩期/口縁部に突帯
壺-弥生前期/多条の貼付突帯文
壺-前期後葉/羽状文  
甕-前期後葉/ヘラ描沈線文・刺突文
壺-前期後葉/木葉文
壺-中期前葉/斜格子文・櫛描文 壺-中期前葉/斜格子文・櫛描文
壺-中期前葉/櫛描文・刺突文
壺-中期前葉/凹線文・斜格子文・円形浮文
異形土器-中期中葉~後葉/鋸歯文
高坏-中期後葉/鋸歯文・2色塗彩
高坏-中期後葉/三角の透孔
壺-スタンプ文

甕-弥生後期末-古墳初頭
  弥生時代後期以降、
  甕の口縁部には文様が  施されなくなっていく。

壺-弥生時代終末期/
   貝殻刺突文
  76
台付装飾壺 後期中葉
赤彩祭礼用。スタンプ文や様々な文様で装飾。
台付装飾壺・壺・器台
-スタンプ文
台付装飾壺-後期初頭~後葉/スタンプ文 壺-後期初頭~後葉/
スタンプ文
甕-弥生後期~古墳前期/スタンプ文 壺-弥生後期~古墳前期/スタンプ文
壺-弥生中期~奈良時代スタンプ文 鼓形器台-スタンプ文 線刻絵画土器-後期初頭~後葉/手書き渦巻文
線刻絵画土器-弥生後期/描画文様不明


  79線刻絵画木製品と土器
柄状木製品/裏面は穴を中心に2条の同心円が二か所、コンパス状道具で描画
軽石加工品
連続渦巻文板・流水文陽刻板・壺・線刻絵画土器 ・櫛状骨角器
・弭状骨角器
・線刻絵画土器×4
・軽石加工品(人面)
・腕輪形石製品
・壺(弥生中期-奈良)
・線刻絵画のある礫
 (前期末~中期)
・線刻絵画土器
・線刻絵画のある礫
・線刻絵画土器(壺頸部に鹿)
・線刻絵画土器(3本
 指の水鳥状脚1本/弥生中期~奈良時代)
・魚型(魚型の中に魚/弥生中期後葉)
刳り物箱-中期後葉/片側に複数の魚反対側に鹿が数頭 鹿と魚 船団線刻板-中期後葉/小型舟3隻/大型2隻以上。蓋-魚・琴/天板-魚 絵付土玉/櫂 絵付土玉/鹿魚水鳥 櫂/弥生中期/クワ製
櫂の線刻画 線刻絵画土器-中期後葉/サメ サメの絵 椀-弥生中期 指物箱-中期後葉/蛇の線刻画/杉製







80蘇った弥生人

  今から約1800年前の弥生人です。
    100人分以上出土した人骨の中から、ほぼ完全な頭蓋骨を選び、どのような顔立ちであったのかをコンピューターで復元してみました。

    モデルになったのは熟年 (40~50歳代) の渡来系の男性です。 上の歯は全て残っています。下顎には歯根膿症が見られます。
    歯は全体にすり減っていて、現代人よりも酷使していたことがうかがわれます。

    この男性の髭や髪型は、骨からはわかりません。 この復顔では、顔の輪郭がわかるように髭を付けていません。髪型は想像です。
    複願は鳥取大学医学部の井上貴央氏にお願いし、同学部の井上仁氏の協力を得た。

 84復顔

青谷地域の年表前期後半に集落形成
中期後半に著しい拡大
古墳時代初頭に消滅
紀 元前2 世紀~紀元後2世紀
青谷の弥生時代弥生時代後期後半(2世紀代)に殺戮があった 甦った弥生人 頭蓋骨から復顔作成過程40代男の頭骨 頭蓋骨のCT写真 髪型・耳・瞼・口唇は現代の半島人のデータを使用


  86殺傷人骨
100人分以上の人骨が出土した様子
溝から百体分以上の人骨が出土。
殺傷痕のある人骨は十体分以上確認済
弥生時代後期後葉
青谷上寺地遺跡住人が自分達のした護岸工事の溝に殺して投げ込まれた 殺傷痕の部位 小児致命傷とならない部位を傷付けなぶり殺しか、息のあるうちにドブに投入 成人仕留めず息のあるうちに投入した
見つかった人骨成人推定身長:男性162㎝女性148㎝平均死亡年齢男性30歳代女性20歳代大柄な半島人 石鏃が刺さった人骨 脊椎カリエスの背骨 脊椎カリエスの人骨 殺傷痕のある頭蓋骨15~18歳成人女性



 87脳
  88脳髄  
脳1-男性30~40歳
脳2-男性40~50歳
脳3-壮年女性
脳3と脳1のレプリカ 脳3 脳1 脳2

  89頭骨
弥生人の脳
女性20~30歳
復顔された頭蓋骨ほぼ完形の頭蓋骨 脳の残存の様子 サンプルされた脳切片 殺傷痕のある頭蓋骨 脳が残っていた頭蓋骨
眼窩篩/貧血持ちの人 弥生人の脳 日本最古の古代人の脳 他の脳の残存例 外耳道骨腫サーファー耳と言われる海女の耳骨や、その遺伝形質 復顔された頭蓋骨




 90木製品
  93木製工芸品
花弁高坏脚部-坏部6弁に対し倍数の透かし 坏部裏面の花弁模様。水銀朱塗布。山陰・北陸等日本海側で出土。組合せ式 6枚の花弁 12の透かし彫り
桶形容器と蓋
 平面は舟形で、一木をく り抜き、長方形の透かし を入れた高台が付く。

※蓋とありますが、底板の意味です。押し込むと密着して水か漏れません
桶形容器
これは現代に再現され 高級ワインクーラーとして欧米などに輸出され 大人気です 漆塗り壺形容器と蓋黒漆地に赤漆で同心円文や斜格子文を描画 下から見上げます 漆塗り壺形容器と蓋モクレン製 珍しい広葉樹の大木を使った高級品
漆塗り壺形容器蓋赤漆にスタンプ文が明瞭 木製高坏水平口縁/しなやかな山桑製 一木造の現代的なデザイン 脚部に抉り入り ロクロで回転し、鋭利な鑿仕上げ。夫婦の力作。 展示状況

  97貝塚 海岸の集落なので、海産物が重宝した。 従って貝塚ができるのも当然でした。
弥生時代の磯の生物は現代と変わらない