西日本の縄文 北陸の辺縁は何処まで 2015.10.20-4 青谷上寺地遺跡展示館 15 鳥取市青谷町青谷4064 0857-85-0841 休館 月曜・祝日の翌日 撮影可
※誤字・誤植があると思います。ご容赦ください。 |
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01外観 |
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10ロビー展 |
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11弥生人の描いた絵画・文様 ごあいさつ 弥生時代、人々は土器や木器、骨角器、石器、金属器などに、様々な絵や文様を表しました。 鹿、魚、建物、人、鳥、舟などの絵や、流水文、渦巻文、三角文といった文様を描いています。 弥生人はなぜこれらの絵や文様を表したのでしょうか。 戦前の小林行雄氏や故佐原真氏は銅鐸に表された絵を分析して「農耕賛歌」としての意味を読み取りました。 また、佐原氏は原始絵画が児童画と多くの共通点を持つことを指摘しています。 この度の展示では、全国の弥生時代の遺跡から出土した絵画・文様を展示すると共に、その特徴を紹介します。 11a
絵の持つ意味
①シカ:土地の象徴
②鳥:稲の象徴
③建物:稲の象徴
④舟:
⑤魚:
⑥人:
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11b多視点画 弥生人の描いた動物は、体は横からの視点で描かれているのに、脚や頭は斜めからの視点で描かれているものが多いという特徴があります。 異なる視点で描かれた絵を「多視点画」といい、その技法を使った最も有名な画家がピカソです。
11c独立画 ひとつひとつの絵が重ならない描き方です。 イメージを絵にする時、絵が重ならないように全て描こうとすることが指摘されています。 児童がものを水に絵を描くと、同じようになる場合が多いようです。 11d物語性 土器や銅鐸に表現された絵には、物語性が見られるものもあります。 そのストーリーについては、いろいろな解釈がされています。 みなさんは、どのような話だと思いますか? 稲吉角田遺跡/線刻絵画土器/弥生中期後半 シカとみられる動物、木に何かをぶら下げた図、2棟の建物、舟とそれを漕ぐ鳥の羽を頭に付けた人物などで構成される。 豊作への祈り、収穫への感謝など「まつり」に関する物語を表したとする説、淀江平野の村の情景を描いたものとする説など、諸説ある。 11e身体表現 弥生の人々はどのように人を描き表したのでしょうか。 描かれた人物画からは、顔に刺青をしていたことや、身に着けていたものなどを窺うことができます。
11f絵画から記号へ 弥生時代中期から絵を描いた土器の出土例が多くなります。 しかし、後期になると減少し、記号分が急速に増えます。 春成氏は画像の崩れ方を追求し、中期の絵画が大幅に省略し、抽象化されて記号文となっていく系譜を明らかにしました。
※桜ヶ丘5号銅鐸A面/弥生中期// 工字形のものを持つ○頭の人・魚3匹 トンボ2匹・イモリ//すっぽん・水鳥 脱穀する人△頭の人2人 桜ヶ丘5号銅鐸B面//カエル・ヘビ・棒状のものを持つ△頭の人 カマキリ・カエル・クモ //○頭の人の左右に△頭の人が二人 /弓を持ち、シカの角をつかむ○頭の人 11g文様 弥生時代に描かれた文様には、三角文、同心円文、綾杉文など、いろいろありますが、 その中でも比較的長い期間、広い地域で弥生人に好まれたのが、流水文と呼ばれる美しい文様です。 畿内で始まり、各地に広まったと考えられています。 流水文は東北・関東地方の縄文時代晩期 (約3000年前) の土器に描かれる「工字文」から徐々に変化して成立したとする説が最も有力ですが、 畿内で始まる流水文との間には時間と距離に隔たりがあり、今後の研究課題です。 |
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入口展示 12遺跡紹介ビデオより
※1中国製の貨幣 (貨泉) この頃の貨幣は、半島人・弥生人・中国人の間だけでなく、沖縄諸島の縄文人に対しても、物々交換の担保として使用された。 ※2青谷上寺地遺跡の虐殺 (テロップでは縄文人が弥生人を虐殺したことになっている。) 天然の良港を持つ青谷上寺地遺跡は港湾施設であり、 縄文人が棲んでいたのではない。 当然、半島出身弥生人の交易商人等が住んでいた。 それを金属製武器で襲撃して残虐な殺戮を行い、皆殺しにしてドブに投げ込み、宝物を奪い去り、生活用品やムラを燃やし、 あるいは、二度と使えないように徹底的に壊して、ドブに捨てた。 これは、弥生後期に起こった土地収奪戦争。 これが武人が王として台頭してきた背景であり、 この後に、領土拡張で、富と権力を手に入れた大王の墳墓が巨大化する。 だいいち、弥生人の侵入から千年も経っているのに、縄文人がいる訳がない。 縄文人はもう全て奴隷化されていた。 ましてや舟を使って港湾拠点を襲撃なんてできる訳ない。 |
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20展示室展示 |
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21遺跡概観 弥生時代前半後期~古墳時代初頭 2200年前~1700年前 青谷上寺地遺跡は鳥取県のほぼ中央の青谷町にあり、 日本海にほど近い平野部に位置する弥生集落です。 平成10~13年に発掘され、多種多量の出土品がありました。 土器、石器や、腐食してしまう金属器、木器、骨角器なども多数出土しました。中には中国大陸や朝鮮半島との交易品も多数みられます。 さらに、多くの人骨と共に弥生人の脳が見つかるなど、奇跡的な発見もありました。 青谷上寺地遺跡からは弥生時代に関する多くの情報が得られ、「弥生の博物館」と呼ばれています。 |
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22米作りの広まり ※1弥生時代は、 "灌漑技術を伴う水田稲作"が広まった時代です。 青谷上寺地遺跡でも水田跡が見つかっており、 開墾・耕作や収獲などに使われた道具も出土しています。 炭となった稲穂も見つかっています。 また、様々な農具とそれを作る技術も伝わりました。 そして、一年かけて育てる米作りが人々の生活の一部になっていきます。 農事暦※2に関連した祭りも豊作を願う大切な行事として行われるようになりました。 少し前の「日本の農村風景」の原型 ※2種蒔・収獲など、農業をするための暦 |
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23海の恵み・山の恵み 青谷上寺地遺跡は、日本海に繋がる静かな潟湖(内湾)、豊かな森や川、水田の周りには低湿地と、様々な自然に恵まれていました。 海では網や釣針、ヤスやモリで魚などを取っていました。 磯や岩礁でカキやアワビを剥がして取るためのアワビオコシも見つかっており、潜水漁も行われていました。 森では弓矢や罠で動物を狩りました。木の実や食用植物の採集も大切な仕事でした。 また、海からは人々が生きていくのに欠かせない塩分、森からは燃料となる薪なども得ていたと考えられます。 |
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25祈りの世界 弥生時代になると、農耕に関わるマツリが伝わるなど、新しいマツリや占いが行われるようになりました。 自然を敬い、共に暮らす弥生人にとって、感謝や祈りをささげるマツリや事の正否を問う占いは、とても大切なものでした。 青谷上寺地遺跡では、マツリの道具が沢山出土しています。 実物を真似て木で作った形代、琴、土笛※、線刻絵画土器、スタンプ文土器、犠牲獣など様々なものがあります。 村のマツリや家族のマツリなど、いろいろなマツリが行われたことでしょう。 ※土笛=陶塤(とうけん) |
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27大規模な土木工事 湿地に囲まれ、海辺の近い微高地に居を構えた青谷の人々は、水田を開き守り、ムラを造り発展させるために、 大規模な土木工事を行いました。 洪水や飛砂による土砂の堆積も検出されています。自然との闘いも不断の努力でなされたことでしょう。 区画や治水などの役割を持った溝は、作り始めた頃は素掘りでしたが、土砂で埋まる度に何度も護岸工事がなされました。 弥生時代中期の工事は杉の大板を杭で止めるのが主流でした。 後期には矢板をきれいに打ち込む構造に変化します。 このような工事に使われたのは建築廃材でした。これらの資料は弥生時代の建築技術の解明に大変役立っています。 |
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30弥生時代 | ||||||||||||||||||||||||||||||
32土製品 | ||||||||||||||||||||||||||||||
33土器と土玉 |
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35土器 後期 |
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37分銅形土製品と台付装飾壺 |
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40交易交流 -陸を往き、海を渡る- 土器がもたらす交流 青谷上寺地遺跡から出土した土器の中には、地元青谷で作られたものとは、形も、材料となる粘土も少し異なる土器があります。 他の地方から来た人が作ったのかもしれないし、他地域の土器の形を真似して作ったり、 余所の土地から運ばれてきたりした 可能性もあります。 また、逆に、因幡地方独特の土器である台付き装飾壺は、形や模様がよく似ている土器が長崎県から富山県までの 日本海側各地で出土しています。 マツリや儀式に使われたのではないかと考えられている土器で、同じ器を使った共通のマツリが行われていたのかもしれません。 暮らしの器である土器からも、青谷の人々が周辺地域と盛んに行き来したことがわかります。 器と共に、人も文化も交わり伝わっていったことでしょう。 ≪青谷上寺地遺跡から出土した土器の故郷≫ 朝鮮半島南部/北陸/近畿北部/畿内/岡山県北部・南部/広島県北部/島根県東部など 交流する人々 青谷上寺地の人々は,他の地方の人々と様々な交流を行っていました。 周辺では手に入らない材料を使って作られたものや、他の地方で作られたことが明らかなもの、作り方や形が遠方と共通であるもの、 他の地方で始まった風習や生活様式や技術に根ざしたものなどの、出土がそれを教えてくれます。 徒歩か水上交通以外に移動手段を持たなかった弥生人ですが、想像以上に広範囲な交流を行っていたようです。 青谷上寺地遺跡に素も人々は、広く交流しながら様々な情報を得て生活していたのです。 青谷上寺地遺跡を取り巻く交流 中国との交流-青銅鏡・貸泉 朝鮮半島-無文土器・有肩鉄斧 勒島遺跡 北九州-袋状鉄斧・結合式釣針 原の辻遺跡-台付装飾壺 北部九州・中国地方西部との交流 日本海沿岸地域-台付装飾壺・花弁高坏 北陸地方との交流 中国地方・近畿地方-脚付鉢・壺 中国地方南部・四国地方との交流 |
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44説明パネル |
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46他地域の土器 |
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48鉄器・石器・土製品 |
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50玉製品 |
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51玉
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52玉の流通経路の変遷 碧玉やヒス水など、玉の流通経路の変遷から、青谷上寺地遺跡の交流を窺うことができます。 ※1①弥生時代前期~中期前葉(約2200~2100年前) 青谷上寺地遺跡では中期前葉約2100年前に管玉政策が始まる。 石材は石川県小松市周辺で採れる「菩提系碧玉」が使用され「大中の湖技法」と呼ばれる技法が用いられました。 「菩提系碧玉」原産地に近い石川県八日市市地方遺跡や福井県下屋敷遺跡などでは青谷上寺地遺跡と同じ「大中の湖技法」が使われており、 製作技術と共に「菩提系碧玉」がこれらの地域から伝わったと考えられます。 ※2②弥生時代中期中葉~後葉 (約2100~2000年前) 「菩提系碧玉」を使った管玉政策が盛期を迎えます。 北部九州でもこの管玉や石材の需要が高まり、北陸から北部九州へ運ばれました。 その一方で、北部九州から鉄製品が北陸にもたらされたと考えられています。 青谷上寺地遺跡では北陸と北部九州とを結ぶ中継点であったため、北陸から北部九州までの様々なものが入って来たと推測されます。 ※3③弥生時代後期~終末期 (約2000~1800年前) 八日市地方が衰退し、「菩提系碧玉」の流通が停滞していきます。 そのため各地で代わりとなる石材を使った碧玉製作が行われるように なります。 島根県の花仙山で産出される碧玉がこの時期に広まっていきました。 青谷上寺地遺跡では代わりの石材は殆ど使用されず、管玉政策は終焉を迎えます。青谷上寺地遺跡の「ものづくり」の中心は木製品に 移行し、花弁高坏を代表とする高度な技術を使った精巧で美しい製品が作られ、日本海沿岸の各地に流通するようになります。 |
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53玉の加工過程 |
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54骨角器を作る 骨角器は、骨や角を利用した弥生時代の大切な道具です。骨や角は適度な硬さと柔らかさを備えているので、加工しやすく丈夫な素材です。 加えて、鹿角、哺乳類の骨、鳥類の骨、魚類の骨、歯牙、貝殻などそれぞれの特性を生かした使い方がなされています。 骨角器の種類は、ヤス先・モリ先や釣針などの漁具、骨鏃などの武器・狩猟具、簪(かんざし)・櫛や腕輪などの装飾品、梁や刺突具等の日用品 マツリや占いに関わる品など多種多様です。 素材の多くは、食用としてとらえられた動物や漁具から得ていると考えられます。 |
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55青谷上寺地の工芸力 弥生の箱 木で作られた容器や、箱などが沢山出土しました。板がバラバラの状態で見つかった場所もあります。 箱のような形を組み合わせてみると3種類の木製品になりました。 三日月と円形の文様も見えます。 弥生のそっくりさん 粘土を焼いてつくる土器、樹木を削って作る木器、それぞれ材料は違うけれど、作っている人は同じ青谷の弥生人。 よく見比べてください。全体の形だけでなく、透かしの入れ方や細かな模様までそっくりに作られています。 |
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56布を織る・籠を編む 縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけて、大陸から新しい技術が伝えられますが、その一つが織物です。 それまでは編んで作っていました。 弥生時代の織物は絹と麻が使われたと考えられ、青谷上寺地遺跡では絹織物が見つかっています。 編み物も約70点見つかっていますが、そのほとんどが「かご」です。材料は蔓状の技をもつマタタビが多く使われています。 出土した「かご」をかんさつすると、「巻き編み」や「網代編」など、様々な編み方が確認できます。 「かご」を復元してみると、とても美しいものであったことがわかります。 "かせ"は 1本の支え木と2本の腕木を工字に組み合わせたもので、支え木を握り、 軽く振り回しながら腕木に糸をからめとる方法で糸を巻き取ったと考えられています。 琉球舞踊に出てきます。 |
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60木器を作る |
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61木器 | ||||||||||||||||||||||||||||||
63石器・鉄器 |
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70デザイン | ||||||||||||||||||||||||||||||
72 ※1絵画とデザイン 青谷上寺地遺跡からは多数の木器・土器・石器が見つかっています。 中には柄を描いたものや文様を表したもの、何に使ったのかわからない不思議な形をしたものなどがあります。 縄文時代ではわずかだった絵画資料は、弥生時代中期以降、豊富になります。 描かれる内容は人や動物、建物、舟などで、何らかの意味があったと考えられます。 土器に描かれた様々な文様は、現代の私たちにも美しさが伝わってきます。 また、地域や時期によって変遷していく文様は、考古学の研究にも役立っています。 デザインや絵画を見ていくことで、青谷上寺地遺跡に暮らした人々のことがもっと見えてくるかもしれません。
※2 貼付文 粘土を土器の表面に貼り付けた文様です。帯状の粘土を貼った貼付突帯文や、円形のものを貼りつけた円形浮文などがあります。 ヘラ描文 先をとがらせた道具で描いた文様です。 櫛描文 先端が3本維持用に分かれた道具で描いた文様。平行な線を一度に描くことができます。 櫛描文の出現を持って弥生時代中期 (約2150~2000年前) に区分します。 凹線文 指や布、皮などを使い、土器の表面を横向きに撫でて凹凸の装飾効果を出したもの。弥生中期後半 (約2050~2000年前) を代表する 文様です。 刺突文 ヘラや櫛、貝殻などを押し当てて付ける文様です。 透孔 高坏などの脚部に穴を開けた文様です。三角形や円形のものがあります。 鋸歯文 三角形が連続する文様です。 渦巻文 渦巻を描いたもので、単体のものと連続するものとあります。 木葉文 木の葉を繋ぎ合わせたように見えることから木葉文と呼びます 流水文 水が流れているように見えることから名づけられた。 |
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74土器 |
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76 |
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79線刻絵画木製品と土器 |
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80蘇った弥生人 ※今から約1800年前の弥生人です。 100人分以上出土した人骨の中から、ほぼ完全な頭蓋骨を選び、どのような顔立ちであったのかをコンピューターで復元してみました。 モデルになったのは熟年 (40~50歳代) の渡来系の男性です。 上の歯は全て残っています。下顎には歯根膿症が見られます。 歯は全体にすり減っていて、現代人よりも酷使していたことがうかがわれます。 この男性の髭や髪型は、骨からはわかりません。 この復顔では、顔の輪郭がわかるように髭を付けていません。髪型は想像です。 複願は鳥取大学医学部の井上貴央氏にお願いし、同学部の井上仁氏の協力を得た。 |
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84復顔
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86殺傷人骨 |
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87脳 |
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88脳髄 |
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89頭骨 |
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90木製品 |
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93木製工芸品 |
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97貝塚 海岸の集落なので、海産物が重宝した。 従って貝塚ができるのも当然でした。 |