伊那谷でも見られた唐草文土器について、この館で実態を明らかにしたいと考えていましたが、文献不足で解明できませんでした。 |
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10平出遺跡 平出の泉に育まれた平出遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての大集落です。昭和25年から現在までの発掘調査により、 縄文時代では中期60、後期2古代では、古墳時代79、平安時代28、時期不明30の、合計199軒の住居が発見され、緑釉水瓶を始めとする 土器・石器などが大量に出土しました。 これらの発掘調査は、当地における縄文時代から平安時代までの村落のあり方を解明するうえで極めて重要な遺跡であることから、 昭和27年に国史跡に指定されました。 現在、塩尻市では、史跡一帯を「縄文の村」「古代農村」の復元や体験地区・ガイダンス地区を設け、史跡公園として整備しています。 出土品は平出博物館 (遺跡より徒歩5分) に展示しています。 ※平出の泉:大量の湧水がわき出す泉として知られる。現在はかなりせばめられ、有機物が溜まって死んだ水のような色をしています。 このため、年一回、掻い掘りが行われています。周囲の雑木林から大量の有機物が流入し、水門のため流出しないようです。 ※平出遺跡:周囲にブドウ畑や水田が取り囲む中で、広大な復元住居や復元農地などが設けられ、現在も復元され続けている。 |
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11遺跡地図 |
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12各施設
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22古墳時代の復元住居 (ガイダンス棟を背にして右側) 昭和57年の発掘調査によって発見された古墳時代(約1300年前)の竪穴住居を復元したものである。 4本柱で、屋根が直接地面に接し出入り口は南側に造られ、室内左手にカマドが設置されている。 こうした伏屋(屋根だけの家)は、当時の一般的な住居形態であり、縄文時代の家と基本的に変化がない古い様相を示している。
平出遺跡 第5号高床式倉庫(古墳時代) 古墳時代(約1400年前)に属する。平成15年度の遺構確認調査で発見され遺構保護のため約1m盛り土した上に平成21年3月復元された。 桁行2間(3.54m)、梁間2間(3.41m)、地上高5.76mの高床、板壁造りの構造で、大きな「鼠返し」や南側の梁間に「棟持柱」が屋根まで延びて いるのが特徴である。 古墳時代の村 平出遺跡全体では2世紀から7世紀にわたる掘立柱建物跡が80以上発見され、博物館裏山には同時期の古墳が3基築かれています。 ここでは当時の有力者の家と考えられる大型住居や高床式倉庫(私有倉)、周囲には桃園や林を復元し、6世紀末から7世紀初頭の 農村の様子を再建しています。
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23縄文時代の復元住居 (ガイダンス棟を背に正面) 縄文の村 (集落エリア) 平出遺跡では、じょうもん時代の早期~晩期までほぼ前期間その遺跡をたどることができますが、最も栄えたのは中期(約5000年前)で、 110軒以上の住居跡が見つかっています。 ここではドングリ林に囲まれた茅葺き屋根の7軒の住居が弧状に並び、南側には信仰の対象となった立石を据えた広場が設けられています。 |
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24廃村エリア 住居跡 縄文時代には、中央広場を取り囲むように長期にわたり住居がつくられ続けた結果、住居が環状に配列する環状集落がよく見られます。 ここでは環状集落が二つ並ぶ双環状集落という大変珍しい集落跡が発見されました。 廃村エリアには村人が集落を去った後の住居跡群を復元してあり、土器廃棄の様子もレプリカで再現してあります。
平安時代の村 (ガイダンス棟を背に最も左側) 平安時代に入ると住居は遺跡全体に広がり、、50軒以上の住居跡が見つかっています。 ここでは平安時代の1戸と呼ばれる〇〇家族の家並を復元しており、ニワを中心に4棟の住居と1棟の納屋からなる住居群を中心に、 周囲には畠や林が取り囲み、11世紀前半の農村風景を再現しています。 すみません。写真を撮っていません。 気が付きませんでした。 リンクをご覧ください。 |
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50平出博物館 |
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51外観 |
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60第1室 「塩尻の原始」展示室 |
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61平出遺跡発掘の歩み 平出遺跡では、発掘から70年も経つのに今だに、遺跡の復元を行っています。素晴らしい活動ですね。 |
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100縄文時代 |
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101縄文時代の平出 平出遺跡に初めて人が姿を現したのは縄文早期からですが、最も栄えたのは45軒の竪穴住居が発見されている中期と、 2軒の敷石住居が発見されている後期の時代です。 これらの住居からは多数の土器や石器、土偶などが出土し、平出の泉や比叡山(ひえのやま)など恵まれた自然環境の中で豊かな生活が 営まれていたことがわかります。 遺物の中には、埋甕や平出3類A土器など以後の縄文文化研究で重要課題となった出土品も多く、縄文文化の解明に大きな役割を果たしました。 |
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101a土器 |
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102埋甕 縄文時代中期に中部・関東地方では、住居址入口の床下に土器を埋設した埋甕が盛んに設けられるようになります。 平出遺跡では、昭和25年にロ号住居跡から高さ68cmの大甕が逆さに埋められた状態で出土し、埋甕の最も早い発掘例となりました。 大場磐雄は、この埋甕の用途を幼児埋葬説として提唱し、その後の埋甕研究の端緒となりました。現在では、 他に、貯蔵説、胎盤収納説、建築儀礼説などが挙げられています。 |
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102a唐草文系土器 |
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102b埋甕 昭和25年、ロ号住居の出入り口の床下から逆さに埋められて発見され、幼児埋葬説が提唱されました。 縄文中期に特徴的に出土する埋甕の研究の端緒ともなった記念すべき大甕です。 |
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103縄文人の信仰 平出遺跡からは呪術やまつりに使った道具が数多く発見されています。 縄文時代の代表的な信仰の道具である土偶は30点以上出土しており、一遺跡の出土量としては際立っています。 石器の祭祀具では石棒、石剣、石冠が出土しており、13号住居跡から出土した石棒には彫刻が施されていました。 石棒から変化した石剣にもさまざまな形態のものが見られ、一遺跡からこのような多くの出土は極めて珍しいといえます。 これらの道具には、自然の恵みや社会の繁栄など平出縄文人の切なる願いが込められていました。 |
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103a祭祀用石製品 |
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103b祭祀用石製品 |
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104土偶 女性を模した土製の人形で、縄文時代の代表的なまつりの道具です。平出からは中期から晩期にかけての多くの土偶が出土しています。 おしゃれな平出縄文人 平出の縄文人がどのような衣服を着、装飾品を身に着けていたか、その実態を知ることはなかなか難しい。 土偶は呪術信仰の道具ですが、人間を模したその表現から当時の人々の服装や装身具出飾った姿を伺うことができます。 三つ編みにしたり、大きく結い上げた髪の毛、渦巻き文様の衣服、頬には入墨の跡も見られます。 また、実際の出土品には耳に孔をあけて差し込んだ耳飾りや、大きなネックレスなどもあります。 予想以上にお洒落だった縄文人の姿をこれらの出土品は物語っています。 |
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ここで突然、古代遺跡が出現しますが、これが、第1室の構成です。 | ||||||||||||||||||
古墳時代~平安時代 105古代の土器 平出遺跡から出土した、古墳時代から平安時代にかけての土器には、膨大な量の土師器を始めとして、須恵器や施釉陶器があります。 これらの土器は、食器、煮炊具、貯蔵具として使われました。62号住居跡からは煮炊き具の甕がカマドで使用されていた状態で出土し、 98号住からは貝殻の入った甕が出土しています。 これらの多量の土器類は、器形の変化などから7段階に分類・整理されましたが、それはその後の古代土器編年の基準となるものでした。 灰釉陶器 平出の発掘で初めて注文された灰釉陶器は、植物の肺を釉薬とした白色の陶器で、平安時代に東海地方で生産され、この地方にもたらされました。 緑釉陶器 平安時代中期(1000年前頃) 緑色の釉薬を施した陶器。鉛を溶媒とし、呈色剤の銅の傘下によって緑色を呈し、その量で濃淡が生じます。 低火度緑釉(800℃)と高火度緑釉(1250℃)の2種類があり、日本での生産は7世紀以降に始まったとされています。 他の陶器に比べて貴重であった緑釉陶器は、近江・尾張の製品がこの地にもたらされました。 緑釉陶器の保有量の多寡は、身分の滋養下野貧富の差を示すことになり、これが多量に出た遺跡は高貴な人であった。 墨書土器 墨で文字や記号を書いた土器で、平安時代に多く見られます。農村にまで文字が普及していたことがわかります。
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106緑釉水瓶と灰釉陶器 張りのある優雅な形、美しい緑色の色調。平出遺跡を象徴する緑釉水瓶は川上茂人によって耕作中に偶然発見された。 平安時代に儀式に使用されたこの陶器の発見が平出遺跡の本格的な発掘のきっかけとなりました。 発掘が始まると灰釉陶器と呼ばれる白い色をした陶器が大量に出土し注目を集めました。 その後の研究で愛知・岐阜など東海地方で生産され、この地方にもたらされたものであったことが明らかとなりました。 平安時代にはこの他にも三彩・青磁・白磁などの多種類の陶器が使用されました。 |
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107平出古墳 平出遺跡周辺には古墳が幾つか築かれましたが、比叡ノ山(ひえのやま)の背後に3基が現存しています。S31年1号墳、S58年2号墳を発掘。 2号墳から松本でも有数の規模の石室を検出。装身具・武具・馬具・須恵器・土師器など豊富な副葬品が出土した。 平出3号墳 また、長田東端の古墳群は現存しないが、鉄剣と土器類が残されている。これら古墳群は平出を治めた一族のものと考えられる。
須恵器 硬質で灰褐色の須恵器は、奈良・平安時代になり、一般の農民にも普及し、土師器・灰釉陶器と共に多様な器が使用されました。 平出2号墳の装飾具 平出2号墳からは、金環(耳飾り)や丸玉、小玉、勾玉(首、腕飾り)といった装飾品が見つかっている。
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108古代の平出 平出遺跡では、今までに古墳時代70、平安時代28、時期不明30の計175軒の住居と平安時代の掘立柱建物4が発見されています。 これらの建物は平出の泉からの流れに沿って立ち並び、その周囲は畑が取り囲み、村の東端には水田が営まれました。 村の背後には村人の信仰の山である比叡山が横たわり、その奥には村を治めた首長の墓(古墳)が築かれました。 人々は、鉄製の農具で米・麦・豆などを作り、馬・牛・鶏も飼育していました。 このように古代の農村の様子を知る上で平出遺跡はまたとない遺跡と言えます。 |
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109 平出村の生活痕 古墳時代から平安時代にかけての遺跡の出土物です。遺跡名がわからなくなっていますが、平出遺跡以外にありません。 |
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112 |
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200第2室 |
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210入口展示 | ||||||||||||||||||
211
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土偶 女性の姿を現していることから、豊かな収穫や出産を祈るものであったことが分かります。完全なものがないことから、壊すために造られたことが 分かります。文様・形から、当時の人々の姿を知ることができます。
弥生土器、石鏃、打製石斧
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資料 松本平の縄文遺跡 松本平西南地域には、多くの縄文遺跡があり、平出遺跡の他に、熊久保遺跡や、小段遺跡などが、巨大集落として知られています。 熊久保遺跡 は朝日村にあり、遺物は朝日村美術館・朝日村歴史民俗博物館に展示されています。撮影禁止、公開禁止となっています。 最近は訪問者もなく、館内は開店休業状態です。この日、私が行くと、館内の照明の2/3が断線し点灯しませんでした。 訪問者減少の原因は、撮影禁止等によってWeb上の露出が減り、取り上げられることもなくなり、人が来なくなったのでしょうか。 私は、暗闇での閲覧のため、近接での観察や、非公開を条件に、撮影を許可されました。 この館は撮影禁止ですが、リンク画像でもご覧頂いた通り、唐草文土器、焼町式土器分布の中心的展示館で、大きく立派な土器が並んでいます。 公開禁止のため、詳しい考察はできませんが、是非訪問して頂きたい館です。(塩尻駅からレンタカーで行きます。) 小段遺跡 (塩尻市大字洗馬芦ノ田) 遺跡は、平出遺跡と朝日村熊久保遺跡を結ぶ中間地点にあり、大変近接しています。 ここに、大集落が、いくつも展開していたのは、縄文人にとって、北アルプスの南端、中央アルプスと南アルプスの北端にあたる山裾地帯であり、 なだらかなカーブを描く巨大な陥没地帯 (松本平) 、に面した地域は、狩猟や交易に便利な場所だったのでしょう。 |
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小段遺跡を検索中に以下の資料を見つけました。重要ですので以下に転載します。 ポスター 塩尻市立平出博物館平成24年度企画展 ―松本平西南地域の巨大集落 ~小段と熊久保~―が、 平成27年4月29日~5月20日 (平出博物館)、と、同平成27年11月14日~12月27日 (朝日村歴史民俗資料館) で開催された企画展のチラシを、 博物館巡り 2 ~平出博物館~ | miyamaodamakiのブログさんよりお借りします。 感謝 よくこんな貴重な資料をWEB上で公開保管していただきました。ありがとうございます。 |
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213松本平西南地域の巨大集落 ~小段と熊久保~ 松本平西南域には縄文時代の遺跡が多く残されていますが、とりわけ鎖川・小曽部川流域に所在する小段・熊久保遺跡は、地域の拠点集落として有名です。 ムラの範囲は200~300㎡にも達し、縄文中期から後期の初めにかけて長期にわたり存続したこの巨大集落の実態は、幾度かの発掘調査によって姿を現し つつあります。 今回のこの展示では、この巨大集落の姿を紹介し、ここで営まれていた縄文人達の生活の様子を紹介しています。
小段遺跡は 塩尻市大字洗馬芦ノ田にあり,小曽部川の右岸段丘上に位置する、縄文中期の遺跡で、竪穴住居趾10軒,小竪穴,集石と多数の遺物が発掘されました。 遺跡は小曽部川右岸沿いの妙義山系から奈良井川に広がる畑地のほぼ中央に東西に展開し、この河川の流域に立地する多くの遺跡のうちの一つである。 小曽部川上流では三ケ組、大日、山鳥場の各遺跡が知られており、縄文時代中期・後期土器、打製石斧、磨石、凹石などが出土している。 中流の対岸では岩垂、山ノ神、権現堂、岩垂原の各遺跡が知られ、 縄文前期の堅穴住居跡、縄文前期・中期土器、土偶、打製石斧、磨製石斧、石皿、石鏃、石匙、石棒、映状耳飾りなどが出土している。 |
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小段遺跡のここがすごい (小段遺跡周辺には多数の遺跡がある。「塩尻市洗馬」で検索してご覧ください。) 塩尻市大字洗馬芦ノ田 ■この地域の中核的なムラであった その地域の中心的なムラは、複数の住居、墓域、信仰の対象となる土偶を保有していることが要件だと言われています。 縄文中期の小段遺跡には、多くの住居跡や土偶、墓である土坑が多数発見されています。また、住居や墓は、次の縄文後期になっても発見されており、 長期にわたってムラ作りが行われた中心的な場所であったことがわかります。 この周辺で、小段遺跡のような規模・内容を持っている遺跡を探すと、平出遺跡、床尾中央遺跡、朝日村熊久保遺跡があげられる程度です。 小曽部川右岸の河岸段丘上に営まれた小段遺跡は、松本平南半の縄文中期・後期社会の中で、最も重要なムラであったと言えます。 また、発見された数々の資料はこの地域の縄文文化を明らかにする上で第一級の価値を持つものと言えます。 熊久保遺跡のここがすごい (縄文時代前期から後期にかけて形成された集落群の遺跡。) 熊久保遺跡 熊久保遺跡 熊久保遺跡 ■集落研究に大きな役割を果たした 昭和37年の熊久保遺跡の第1次発掘調査報告とも言うべき『信濃』第16巻7号に掲載されている「熊久保遺跡調査概報(2)」の中で、樋口昇一は 松本平における縄文中期遺跡の分布状況を分析し、地域の拠点とも言える、半径が4kmの円圏を接して存在すると推定しました。(中心分布想定) 熊久保遺跡を含む松本平の西山山麓では、離山(穂高)・三夜塚(山形)・熊久保 (朝日)がその大遺跡として名前があげられ、こうした範囲の中での 遺跡が存在するのは、集団自体の生活資源獲得のため一定の領域 (なわばり) が存在したためであると考察しました。 多くの遺跡が発掘調査された現在では、拠点的大遺跡の分布はもっと密になることが明らかとなってきていますが、熊久保遺跡の調査をきっかけに 発表された樋口の推論は、地域の中での遺跡のあり方を示した最初の研究として、縄文集落の研究に大きな役割を果たしました。
熊久保遺跡 長野県東筑摩郡朝日村には朝日村歴史民俗資料館・朝日美術館があり、熊久保遺跡の出土品を大量に展示しています。 撮影禁止ですが、撮影して掲載しているHPがあり、リンクします。私も全展示品を撮影しましたが、発表禁止で掲載していません。 最初は平出博物館ですが、おばさんが手を挙げた写真から朝日村です |
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朝日村歴史民俗資料館・朝日美術館は、長野県東筑摩郡朝日村古見1308 0263-99-2359 交通:塩尻駅からレンタカー10km(タクシーは高すぎる) 月曜休館 9:00-17:00 展示内容:熊久保遺跡出土物の展示館 遺跡の位置:長野県東筑摩郡朝日村古見1320番地 (歴史民俗資料館の前が遺跡です。) 撮影禁止ですからネット情報もなく、従って訪問者もなく、私が行ったときは展示室内の半数の電球が切れて、ほぼ暗闇でした。 (誰も来ないと館員が言っていました。掲載禁止がこの結果を招いたと思います。) 電球は明日取り替えます。ということでしたから、上にリンクした写真は、それ以降に撮影されたものと思われます。 大変すばらしい展示物ですから、是非皆さんに見学していただきたいと思います。 |
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216年表 |
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217原始の塩尻 この部屋は、塩尻の旧石器時代、縄文時代、弥生時代を展示しています。年代的には1万数千年前から2千年前までの長期に渡り、 原始時代とも言われています。塩尻の地で活躍した人々はどのような生活を送っていたのでしょうか。
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220旧石器時代 |
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221最古の狩人 -旧石器時代- 旧石器時代の塩尻 1万数千年前、塩尻の地に初めて姿を現した旧石器時代人は、みどり湖周辺と丘中学校周辺など田川流域を中心として約20ヶ所の遺跡を残した。 ここからは狩りに使った槍先形尖頭器屋ナイフ形石器が見つかっています。 当時の気候は今より寒く、カラマツなどの針葉樹林が広がり、オオツノジカやナウマンゾウが生息していました。 人々はこれらの動物を食料とし、獲物が少なくなると別の場所に移動していきました。 この時代の遺跡が少ない松本平にあって、ここ、塩尻の地には比較的多くの遺跡が残されています。 |
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222旧石器時代の石器 丘中学校遺跡 昭和40年松本平で初めて調査された旧石器時代遺跡で、槍先形尖頭器・掻器・削器・礫器等100点に及ぶ石器が発見されている。 柿沢遺跡 槍先形尖頭器112点、削器3点、石刃1点が出土し、「神子柴系石器群」の良好な資料である。 青木沢遺跡 ナイフ形石器・槍先形尖頭器・掻器・神子柴型石斧など |
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223和手遺跡 松本平屈指の旧石器遺跡 国道19・20号線が交差する高出信号一帯に広がる和手遺跡は、松本平最大の旧石器時代遺跡です。 ナイフ形石器や槍先形尖頭器など200点をこえる石器が出土しています。大きな黒曜石の原石や打ち割った剥片などが多く出土しいますので、 旧石器時代の人々がある程度の期間ここで石器を作り、動物を狩りながら生活していたことが分かります。 |
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224 |
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※両極石器(石核) 両極から剥片石器を打ち剥がす石核のこと。 |
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230縄文時代 縄文人のくらし 縄文時代 (約12,000~2,000年前) は、植物採集・狩猟・漁撈に依存した食糧採集民の時代でした。 この時代には土器や弓矢が発明され、竪穴住居が普及し、村も営まれるようになった。 向陽台、矢口遺跡など初期の村は2,3軒の小さなものでしたが、 やがて中期になると 俎原(まないたばら)、小丸山、柿沢東遺跡に代表される10軒前後の住居が中央広場を取り囲んで遠景に立ち並ぶ環状集落が出現する。 一定の場所に長期に渡って生活する定住がはじまったのです。 この安定した生活の中から食糧採集民としては世界にも例を見ないと言われているほど高度で豊かな文化を作り上げたのです。 |
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231縄文中期の一括遺物 |
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232縄文中期の一括遺物 峯畑遺跡2号住居から発掘されてた土器や石器は中期に使われていた道具のセットをよく示している。 土器には深鉢形土器を主体に様々な器型が見られる。また、石器は打製石斧や石皿・凹石・磨石を主体に石鏃・石匙・磨製石斧を伴っていた。 多量の土器と植物資源の採集・加工用石器の組み合わせは、山の幸を最大限に活用していたことを窺わせる。 |
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233 |
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234土器群右前 土器形式についてはわかりません。 |
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235右後 |
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236左前 |
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237左後 |
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240森の中の村 ドングリ・トチ・ヤマノイモ・シカ・イノシシなど、日々の糧となる木の実や動物、道具や家の材料となる様々な木、 これら全て豊かな森からの恵みでした。 塩尻には約200ヶ所の縄文遺跡がありますが、その多くは東山山麓の深い森の中で営まれていました。 燃えるような豪華な縄文中期土器を生み出した活力の源泉もこの森だったのです。 森の民、縄文人は自然と共に生き、その文化は森に育まれた文化だったのです。 凹石 1個ないし数個の凹を持ち、その凹に堅果類を置き、割ったと考えられている。 |
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241 |
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243 |
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250縄文人の道具箱 縄文時代には、煮炊きや貯蔵のための土器、食糧を得るための石器、祭りや儀礼に用いた呪術具、身体を飾る装身具など、 実に多様な道具が使用されました。 塩尻の縄文遺跡から出土する道具類を見ると、その初め頃には狩猟具の石鏃が多く、中頃には打製石斧、石皿、凹石などの 食糧植物の採集加工具が主体を占め、土器の種類も豊富となり、まつりに使う土偶や石棒も目立ってきます。 そして終わり頃になると再び石鏃が増加し、石鍬のような打製石斧が現れます。 このように時代の推移と共に使用される道具も変化し、文化を発展させてきたことが分かります。 |
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260石器 |
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261石斧 打製石斧 土堀用の石器で、地面を掘ったり地下茎や球根を取るために使われた。特に滋養文中期に多出する。 磨製石斧 磨いて造られた石斧で、木を切ったり、加工したりするためのマサカリ(縦斧)やチョウナ(横斧)として使用。 |
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262 石匙 肉を切ったり、皮を剥いだり、木や骨角の加工に使われた、縄文時代に特徴的な万能道具。 石錐 骨角器・石器・土器・木器などに穴を開けるために使用された石製の錐。突いたり回転したりして用いた。 石鏃 弓矢の先に鏃として付けた石器で、縄文時代に発生する。槍から弓矢への変化で狩猟はずっと有利となった。 |
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300縄文土器 |
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310釣手土器 橋状の釣手が付けられたこの特異な形態の土器は、内部にススが付着しているものがあることから、灯用のランプではないかと言われている。 出土例が少ない、極めて特殊な土器で、ムラの中の限られた家、呪術者など限られた人が祈りの場で使ったのではないだろうか。 |
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311釣手土器8点 |
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312釣手土器 |
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313 |
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320埋甕 |
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321獣面把手 イノシシと思われる動物をかたどった把手を付けた土器で、縄文前期に多く出土している。 |
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330縄文人の祈り 赤々と燃える炉の奥の祭壇に立てられた大きな石。その前で必死で祈りを捧げる縄文人。 立石を持った小段遺跡第1号住居は そんな光景を彷彿とさせてくれます。 小段遺跡発掘調査概報 - 全国遺跡報告総覧 縄文時代の遺跡からは立てられた石や敷き詰められた石、横たえられた巨石がしばしば発見されます。そこは祭りや祈りの場であり、 それらの石には自然の恵みや人々の平穏、社会の繁栄など縄文人の切なる願いが込められていたものと思われます。 |
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331土偶 塩尻市を含めた松本平は、縄文時代中期には最も多くの土偶を保有した地域の一つである。 まつりの道具とされるこれらの土偶に縄文人たちは何を願ったのだろうか。 |
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332祈りの道具 |
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333石器 |
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340埋甕 |
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341まつりの道具 縄文時代は超自然的な秘密の力のはたらきや、呪術に頼って自然のもたらす災害や食糧難を乗り切ろうとしました。 そのために土偶や石棒・石剣・石冠・土鈴など様々な道具が生み出されました。 中でも女性を表現した土偶は縄文時代を代表する呪術具で、塩尻からは100点を超す出土があり、土偶の祭りが盛んであった地域と言えます。 この他に釣手土器や顔面把手付土器、抽象的な土器の文様、装身具なども呪術に関したものと考えられています。 縄文人は呪術的なまつりを行うことによって豊かな実りや平穏な暮らしを祈ったのでしよう。 |
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342埋甕 唐草文土器 |
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350人と物の往来 人々が生活に必要な物資を求め、狩猟・採集地や近隣のムラへ行き来することによって道ができていきました。 また、日常的な生活圏を遥かに超えて、和田峠の黒曜石や姫川のヒスイが運ばれた道もありました。 上木戸遺跡や柿沢東遺跡からはヒスイの垂飾が発見されています。 舅屋敷遺跡や中島遺跡からは貯蔵された黒曜石も見つかり、和田峠と松本平の中継地であったと考えられています。 そして、俎原遺跡からは東北地方の土器が、舅屋敷遺跡からは近畿地方の土器も出土しています。 既に、縄文時代には人々の活発な行き来があったのです。 |
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351土器と黒曜石の流通 |
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352平出3類A土器/平出遺跡 平出第3類A式土器の基礎資料。諏訪盆地と天竜川流域を中心とした南信濃地域にある、器形、文様などの特異な土器である。 引用八十二文化財団 |
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353焼町土器/剣ノ宮遺跡 焼町土器の基本標式資料。曲線や渦文を奔放に画き、その文様の独自性から「焼町土器」と呼ばれるようになった。 主に群馬県から長野県にかけて分布する。 引用八十二文化財団 |
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355関東地方特有の土器 (ここに上がっているのは加曾利式土器でしょうか。) |
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356西日本の土器 北白川下層式土器 近畿地方を中核とした縄文時代前期 (約6000年前) の土器で、京都市の北白川小倉遺跡を標識遺跡としています。 分布域は、近畿地方一円におよび、東限は福井県、滋賀県、三重県に至っています。 鷹島式土器 和歌山県広川町の沖に浮かぶ鷹島に位置する鷹島遺跡を標識遺跡とする縄文時代中期初頭の土器です。 近畿地方を中心に、中国・四国地方や中部地方などに分布しています。 |
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357平出遺跡の土器
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400土器と村の始まり 縄文早期~晩期 の土器 |
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410縄文土器 約12,000年前から2,000年前までの長い間に渡って製作・使用された土器で、時期や地域によって形や文様に変化が認められます。 塩尻市域から出土した縄文土器に見られる形と文様の様々な変化は、この地に活躍した縄文人の暮らしの推移を良く物語っている。 |
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411遺跡分布模型 塩尻市域で発見されている旧石器・縄文・弥生時代の遺跡を表示した遺跡分布模型です。 旧石器時代は田川の上流域に、縄文時代は筑摩山地の山麓に、弥生時代は田川の流域に遺跡が集中していることが分かります。 |
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412早期 尖り底の深鉢を特徴とし、縄文や押し型文など平面的で簡素な文様が施されています。
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413前期 平底が一般的となり、深鉢に浅鉢が加わります。文様は装飾性が強くなり、この地方特有の土器が出現します。
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414中期 深鉢・浅鉢・釣手土器などの機種が豊富となり、文様は立体的で力強い躍動感にあふれて、世界の原始土器の頂点を示している。
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415後期 立体的な文様は姿を消し、平面的で落ち着いたものとなる。深鉢、浅鉢や注口土器など用途による器形分化が見られます。
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416晩期 文様は簡素となり、形も深鉢・浅鉢程度となります。そこには農民の土器である弥生土器への移行直前の姿を見ることができます。
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420森の中の村 |
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421~縄文中期 俎原遺跡~ 俎原遺跡 縄文中期の環状集落 塩尻市片丘北熊井に所在し、直径40mの中央広場を取り囲む147軒の住居跡が東西100m南北80mに渡って発見された典型的な環状集落です。 住居は縄文中期初頭から終わりまで、全期間を通して切れ目なく繰り返し造られています。 俎原の村は、この地域を活躍の場とした縄文人たちの拠点的大集落でした。 俎原縄文村の風景 このジオラマは俎原村が最も栄えた縄文中期後半の風景を再現したものです。深い森の中に14軒の住居が中央広場を取り囲んでいます。 中央の広場では祭りが行われ、ムラの周囲からは豊富な日々の糧を得ることができ、人々は豊かな暮らしを営んでいました。 |
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430弥生時代 |
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431稲作の始まり 県宝 柴宮銅鐸 銅鐸は弥生時代の農村の祭りに用いられた青銅製の祭器で、昭和35年、市内大門柴宮(大門神社)境内で発見された。 東海地方に分布する三遠式に属し、天竜川を遡ってこの地にもたらされたと考えられている。 銅鐸は近畿から東海地方を中心に分布しており、東日本からの出土例は珍しい。製作は弥生後期で、ほとんど損傷のない優品である。 |
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432稲作、塩尻に入る 今から2000年程前に塩尻にも稲作が伝わり、弥生時代が始まります。米を食べる (作る) 暮らしが人々の生活の中心となったのです。 これに伴い道具も、稲穂を摘み取るための石包丁や木器製作用の太形蛤刃石斧などの農工具が主体となり、 土器も煮炊き用の甕・貯蔵用の壺、盛り付け用の高坏など用途に応じた形となります。 また、鉄や青銅など金属器も使用されるようになり、塩尻からは祭りの道具である柴宮銅鐸が出土しています。 狩猟・採集から稲作へ、石から鉄へ、日本の歴史上激変の時代であったといわれる、縄文時代から弥生時代への移り変わりは、 人々の生活を大きく変化させることになりました。 |
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433弥生土器 平出遺跡の弥生土器は少なかったと言われている。 |
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435 |
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440弥生農耕 |
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441弥生の村 塩尻の弥生遺跡は600ヶ所あり、その大部分が稲作に適した田川流域に集中しています。 田川端・和手・中挟・向陽台・上木戸遺跡など10数件単位の大きな村が、田川の低湿地を臨んだ微高地上に営まれました。 これらの村では、住居地帯からやや離れた場所に方形周溝墓が設けられ、村を治めた権力者が葬られました。 いくつかの村々は共同で稲のまつりも行っていましたが、柴宮銅鐸はそのまつりのための道具でした。 こうした村々はやがて大きな力によって統合され、この地域にも小さなクニが生まれてくることになります。 |
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442弥生後期の遺物 |
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450農耕具 |
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451石包丁 楕円形屋半月形をしている扁平な石器で、弥生時代に稲など穀物の穂を摘むために使用された。 |
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452石製農具 弥生時代の下伊那地域で特徴的に発達した石製農具が、和手遺跡から大量に出土している。※ 農耕具としての石鍬は少なく、収穫具の有肩扇状形石器・有抉石器・有柄石器が多い。 下伊那殿強い文化的結びつきを示している。 (和手遺跡 塩尻市広丘高出 カインズ塩尻店敷地内) ※下伊那の畑作農耕民が、塩尻にやって来て石器による農耕を行ったようですね。同一文化圏だから?、雑穀農業に向いた土地だから? |
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453 磨製石鏃 和手遺跡からは、未成品から完成品までの磨製石鏃が発見されている。原料を持ち込み、ムラの中で加工していたことが分かる。 打製石鏃 材料となる下呂石(岐阜県下呂町産出)を搬入し、ムラの中で石鏃に加工したものである。(和手遺跡/塩尻市広丘高出) |
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454 土製紡錘車 糸を紡ぐための道具。(糸に撚りをかけるための道具) 太型蛤刃石斧 楕円形の断面を下大きな棒状の磨製石斧で、石斧の重みを利用して木を伐ったり割ったりした。 |
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460文化圏と文化 |
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461文化圏の間 (はざま) 稲作農業が定着する弥生時代後期 (3世紀頃) になると長野県には、北と南に二つの異なった文化圏が成立します。 箱清水式土器が分布する北の千曲川流域では水田が木製農具で耕作されたのに対し、 座光寺原・中島式土器の分布する南の天竜川流域では畑が石製農具で構成されていました。 塩尻はちょうどこの両文化圏の接触地帯に当たり、上木戸・田川端・中島遺跡などからは両文化圏の特徴を持つ土器が出土しています。 また、柴宮銅鐸は浜名湖周辺で製作され天竜川を遡ってもたらされたと考えられ、南の地域との結びつきの強さを物語っています。 |
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461a箱清水式文化圏と座光寺・中島式文化圏の特徴的遺物 |
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462土偶・装飾品 (弥生時代後期) |
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463黥面付土器 (土偶形容器) 下境沢遺跡 下境沢遺跡は、塩尻市片丘南内田にあり、平成8年から調査が行われました。 調査の結果、弥生時代の土壙群、古墳時代住居跡2軒、平安時代住居跡33軒などの遺構が発見されています。 これらのうち、弥生時代の42号土坑から再葬に関する遺物として、弥生時代前期末と考えられる土偶形容器が出土しています。 ※土偶形容器 ・子どもを葬るため,特別の容器を作った珍しい実例としては,長野・山梨・神奈川県下の土偶形容器(弥生時代中期初頭)があげられる。 女性の姿をかたどった土器に新生児の骨や歯が収納されている。(引用土偶形容器コトバンク) ・縄文晩期終末から弥生時代にかけて,中に初生児骨や歯を収めた容器形土偶が関東西部から中部地方にかけて分布(容器土偶コトバンク) ・全国では東北南部から東海地方にかけ、ほぼ完全な形のものは約5点出土。骨を納めた蔵骨器とされており、今回も大きさから赤ちゃんの 遺骨を納めていたものとみられるという (引用産経ニュース) ※黥面女性の頭部から幼児の二次葬骨や歯などを入れて葬る骨臓器・土器棺であった。 分布地はかなり多岐にわたる情報があるが、今後の発掘に待ちたい。 参考黥面土偶と西日本初の土偶形容器 土偶形容器と黥面付土器の製作技術に関する覚書pdf 諏訪木遺跡出土「土偶形容器」 土偶型容器 |
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464 |
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470豊作への祈り |
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471県宝 柴宮銅鐸 銅鐸は弥生時代の農耕の祭りに用いられた青銅の祭器で、昭和35年、市内大門柴宮 (大門神社) 境内で工事中に偶然発掘された。 東海地方に分布する三遠式に属し、天竜川を遡ってこの地にもたらされたと考えられている。 銅鐸は主に、近畿から東海地方を中心に分布しており、東日本からの出土例は珍しい。 製作年代は弥生時代後期で、ほとんど損傷のない優品である。
中狭遺跡出土玉類 昭和24年頃、小沢芳市氏によって地下50cmから勾玉1、小玉124、細形管玉33計158点が弥生後期の小型甕に納められて発見された。 その後、発見地点南側では住居址や方形周溝墓が発掘され、関連性が重視される。 弥生時代玉類の一括資料は、県内に数例あるのみで、弥生時代から古墳時代にかけて権力者の様子を示す貴重な資料である。
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500第3室 民俗 「塩尻の民俗」展示室 |
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510塩尻の民俗 人力・蓄力の道具から、動力・電力の機械に、手作りから大量生産へと私たちの生活は昭和30年代を境に大きく変わってきました。 塩尻の民俗展示室では、山の仕事・農業・川の仕事に使われた道具を展示してあります。 それぞれの仕事がまだ人力で行われていた頃の道具は、先人達の英知や労苦を物語っているようです。 蕎麦切り発祥の地 「蕎麦切りというは、もと信濃ノ国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」(雲鈴享保2年1717)と、江戸時代から塩尻は蕎麦切りの 発祥地として名高い。 現在、塩尻では長野県下一の蕎麦の生産量を誇り、各地にはそば打ち自慢が多い。江戸時代以来の食の伝統はしっかり地域に根付き、 継承され、守られている。 ※グルテンのないそば粉はそのままでは麺にできず、きっとそれまでは団子やお粥状で食べていたのかもしれない。 そこに小麦粉グルテンのようなつなぎを加えて麺にできたことは、画期的なことだったのでしょう。 |
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511
小野神社のねんじり棒祭 冬のさなかに棒を取り合う行事は蘇民祭ですね。半島から入ってきたと思われる行事で、男性がふんどしで取り合う祭は、岡山県を始め、 福島県柳津町など、各所にあります。塩尻の祭りは服を着て行うように変化してきていますね。 北熊井の鳥追い これも古代の農耕祭祀のようです。各地に残っています。 群馬県 中之条鳥追い祭 鳥追い 新潟文化物語 鳥追い祭 |
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513山と生活 北アルプス・中央アルプス・筑摩山地の峰々に囲まれ、森林面積が死の61%、約1万haを占める塩尻に暮らす人々は、山との深い繋がりの なかで生活してきました。 石油エネルギーが主体となり、箕ウド経済成長が始まる昭和30年代までは重要な燃料としての薪炭、建築用材や田の肥料としての刈敷、 屋根葺き用の茅など多くの資源が山から得られました。 しかし、近年は水源の保全や生活環境・保健休養の面での重要性に目が向けられ、森林の整備が進められています。 山仕事の道具 建築用材や薪炭は、木を伐り・運び出し・加工することによって生産されていましたが、それらの仕事には それぞれ適した山仕事の道具が使われました。 |
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514農業 特色ある塩尻の農業 戦後の経済発展に伴う急激な農業人口の減少により、農業経営も大きく変化してきました。 塩尻では、昭和60年代に圃場整備や灌漑設備の設置がほぼ完了し、大型機械を使った効率的な大規模農業へと変わってきました。 作物も米以外にレタスを中心とする高原野菜やブドウ・リンゴなどの果樹も多く栽培される様になりました。 また、ブドウを原料としたワインの醸造は地場産業として脚光を浴びています。 農具の移り変わり 現在ではガソリン・電力による農機具が使用されていますが、それ以前の農作業は主に人力によって行われ、牛馬が盛んに使われるようになったのは、 ようやく明治時代の終わり頃からです。 鋤・鍬など古代以来使用されてきた農具は、江戸時代の後半になって備中鍬や鎌の改良、千歯こきの導入などによって大きく進歩しました。 それ以降も農具は作業の効率化のための改良が重ねられ、現在に至っています。 変化する塩尻の農地 現在、市域に占める耕地面積割合は約16.5%、2800haで、種類別の割合は田38.9%、畑45.5%、樹園地15.6%となっています。 塩尻では古代以来、稲作・畑作のため須水田と畑地が農地の大半を占めてめていましたが、 明治以降、養蚕が盛んになるに従い、市内のいたる所に桑畑が作られました。 しかし、戦後の生糸産業の衰退により桑畑は減少し、代わって果樹園や野菜畑が大きな面積を占めるようになりました。
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515川の仕事 今に生きる川 都市化の進む中、水質汚染や河川開雌雄によって川への親近感は薄れ、魚の住む間起用も悪化してきました。 身近な存在であった川魚は主に大人が楽しむための釣りの対象となり、子供が川に入って魚を追うことも少なくなりました。 しかし、川の水は飲料水や灌漑用水として生活になくてはならないものとなっています。 最近では、下水道の整備が化進み河川の水質は改善されてきています。 また、水辺が人に与える安らぎや楽しみが見直され、親水公園化や生物の生活できる護岸工事が始められています。 川と生活 塩尻市は水源域に当り、主な河川として犀川水系の奈良井川、この支流の小曽部川と田川、天竜川水系の小野川があります。 河川は田畑の灌漑に利用されたばかりでなく稲作や畑作の合間には川漁が行われてきました。 ウグイ、カジカ等はウケを仕掛けたり、水面を覗いてヤスで突いたりしました。鮎は友釣りや投網、ヤナ漁が郷原附近の奈良井川で行われ、 渓流ではヤマメやイワナを釣りました。これらの川魚は人々の生活に密着し、重要なたんぱく源として利用されて来ました。 |
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600第4室 古代 「塩尻の古代」展示室 |
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601体験展示 | ||||||||||||||||||
602入口展示 |
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603 |
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605土器に触ってみよう .これらは全て本物の縄文土器土器です。 |
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606縄文中期土器 ヤナバ遺跡 |
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607縄文中期の土偶と石器 ヤナバ遺跡 |
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塩尻の古代展示室 (第4室) 奈良時代 610 瓦塔館 瓦塔は、朝鮮半島で盛んに作られたもので、そのような信仰道具としてもたらされ、作られたものでしょう。 国内では、奈良から平安時代に盛行。 |
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611菖蒲沢瓦塔 奈良時代の作で、高さ232cmは全国最大である。高度な仏教文化を享受していた豪族がいたと考えられます。 菖蒲沢窯跡 (片丘北熊井) 昭和62年出土 |
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620瓦塔 |
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622神社とまじない 古代人には、山・水・岩など全てが信仰の対象となりました。やがてこの信仰の中から阿礼神社や小野神社などの神社が成立してきます。 神社は農民にとっては産土神として、有力者にとっては氏神として祀られました。 こうした信仰とは別に、当時の農民に広く受け入れられたのは石製模造品や土器・鉄鐸などを用いて行われた呪術的なまじないでした。 当時の人々にとってこうした神社もまじないも、心の大きなよりどころであったと思われます。 |
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624仏教の普及 信濃への仏教流入の痕跡は、7世紀後半の明科廃寺を最初とします。以後、上田国分寺・松本の大村廃寺・放光寺、そして平安時代に入り 牛伏寺・保福寺等の密教寺院が山中に建てられました。 塩尻市内ではまだ寺院は見つかっていませんが、菖蒲沢の瓦塔・鰐口・丘中学校遺跡出土の「☐色寺」の墨書土器と青銅製の花瓶など 仏教の浸透を示す資料は多い。 仏教は当初有力者に信仰されていましたが、平安時代以降、次第に農民の間にも広まっていきました。 子持勾玉 平出遺跡 比較的大型で表面や湾曲部に小さな突起状の装飾を施した勾玉。集落跡の祭祀的な遺構から見つかることが多い。 普通の勾玉のような装飾具としての役割ではなく、祭祀の道具として用いられたと考えられている。 石製模造品 武器、農具等の実用品を軟らかい石材で模造した祭祀具である。古墳時代の遺跡から発見されることが多い。 |
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625瓦塔 仏教文化の浸透に伴って生み出された造形物の一つに瓦塔があります。 瓦塔は陶器製の五重塔で、奈良・平安時代を中心に製作され、主に関東・東海・中部・北陸に分布しています。 塩尻市内からは菖蒲沢窯跡・大門・吉田川西の各遺跡から出土しています。内部は空洞になっており、経典や小仏像などが納められ、 村落の一隅に安置されていたものと考えられます。 人々は、仏の功徳にあずかろうと、日々の礼拝の対象としていたのでしよう。 |
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630文字行政と税 律令下の農民は、戸籍に登録され、6歳以上になると税を負担させられました。税は農民自身の手で、上り21日間、下り10日間もかけて 都まで運ばねなりませんでした。こうして税を取り立て、法律で農民を支配するためには、文字による正確な情報伝達が不可欠でした。 そこで律令政府は各階層に文字教育を行い、文字の普及に努めた。硯や墨書土器の存在は村々にまで読み書きのできる人がいたことを 示しています。しかし、律令制が崩れる平安時代後半には再び文字を必要としない生活となりました。 |
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640 古墳出土の装身具 爾ノ神古墳 6世紀末~7世紀前半 市内、柿沢地区にある禰ノ神古墳から発見された副葬品である。 両耳には耳飾りである金環が、胸部には碧玉の管玉や硬砂岩製の丸玉、ガラス製を中心とした小玉のネックレスが見られる。
鳥形硯 菖蒲沢窯跡
緑釉水瓶 平出遺跡
火熨斗(ひのし) 和手遺跡
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650古代の土器 |
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651住居内の生活 当時、西日本から掘立柱建物の住居が普及し始めていましたが、庶民の住居は縄文時代以来の竪穴住居が一般的でした。 土間の床に藁を敷き、その上にムシロ状の編物が敷かれていました。 住居の奥にはカマドが設けられ、両脇には貯蔵穴や食器類の収納棚などが設置されていました。 住居中央の柱に囲まれた部分は、居間・作業場・就寝場などの基本的生活空間で、入口の両脇が家財道具の管理場所だったと思われます。
土器の変遷 古代の土器には土師器・須恵器・灰釉や鉛釉を施した施釉陶器・磁器などがあります。 このうち弥生土器の流れをくむ土師器の他は、朝鮮半島や大陸から伝わった新たな技術によって作り出された焼き物です。 灰色の硬質の須恵器は、当地で窯が築かれる奈良時代から平安時代にかけて盛行します。灰釉陶器は生産地が東海地方に限られ、 当初は貴族が用いていましたが、平安時代中頃には大量に生産されるようになり、松本平でも庶民の間で一般的に用いられました。
古代の食事 古代人の献立メニューはどのようなものだったのでしよう。 貴族は折敷 (おしき) の上に並べられた豪華な食器類で、米を主食に、魚・肉・山菜・酒など豊かな食事を楽しんでいました。 これら貴族の食生活は農民が税として納めた産物によって支えられていました。 一方、農民の食事は、土器や木製の食器類を用い、雑穀を主食とする粗末なものでした。 貴族と農民とでは大きな差がありましたが、自然の恵みを充分活かした食事でした。
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652貯える (貯蔵器) |
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653取り分ける (供膳器)
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654供える (葬祭供献器) |
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655煮る・蒸す (煮沸器・調理器) |
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660古代の暮らし |
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665衣類と織物 当時の衣類には主に麻が使用され、庶民の衣服は筒袖形の簡素なものでした。東大寺正倉院には、信濃国印のある麻布が現存しており、 平安時代になると信濃産の麻布は高品質の「信濃布」と呼ばれ、大量に献上され麻布の代表とみなされました。 内田原遺跡からは、麻皮を削る鉄器や、糸を紡ぐ鉄製紡錘車と共に木綿糸程の太さの麻糸の束や、平織された麻布が出土しています。 遺跡近くの畑で麻やカラムシ(苧)が栽培され、麻布が生産されていたことが分かります。 砧と台石 麻布を叩いて柔らかくする道具です。 晒 (さらし) 布を打ちたたいて柔らかくする道具。衣板 (きぬいた) の意で,『倭名類聚抄』では岐沼伊太と読む。 布を臼に入れ相対した2名の婦人が米をつくようにして打ったが,後世では布を石板または木板の上に延べ,横杵で交互に打つようになったコトバンク
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666畑作の仕事 古代の人々の生業の中心は水稲耕作でした。田川流域など河川に近い所では水田が造られ、水の便が悪い台地では畑作が行われていました。 耕作には鋤・鍬などの鉄製農具が使用され、一部牛馬の蓄力も活用されていました。 鉄製農具は堅い大地を耕し、荒れ地の開墾に大きな力を発揮しました。遺跡からは、しばしば米・麦・粟・稗・豆など当時の作物が出土します。 当時の農民が田畑で様々な作物を栽培していたことが分かります。 ※換金作物である米よりも、雑穀の畑作が中心ということは、税を納めるにしても、大変苦しい生活であったと思える。 本来雑穀栽培は朝鮮半島から持ち込まれた農耕で、稲作の裏作に雑穀を栽培し、農民の食糧とした。
鎌 刃先が直刃から曲刃に変化し、稲の収穫に鎌が普及すると、稲刈りが一般化し、ワラを利用するようになった。 斧 柄に対し直角に刃を付けた手斧が大部分で、基部は鉄板を左右から折り曲げてソケット状に作られている。
鋤・鍬 奈良・平安時代になると、U字形の鋤・鍬先の内側に溝を設け、木鍬へ密着させて使用するものが増加する。 刀子 現在のナイフで、木製の柄を付けて使った。刃先は研ぎ減りが目立ち、工具や武具として多目的に利用された。 |
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670塩尻の遺跡 |
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677塩尻市の遺跡分布の変遷 |
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山村と里村 古墳時代には、平出・中挟など平地に村が営まれましたが、 奈良時代末期には田川流域に吉田川西・和手など、大きなムラが形成され始め、以後、長期に渡って存続することになります。 一方、平安時代に入ると、標高700~800mの丘陵・山間地に開発がおよび、内田原・舅屋敷・高山城遺跡などの小規模な村が営まれました。 平地の大集落は水田を基盤とした中核的な里村であり、丘陵・山間地の小集落は畑作を主体とした山村と考えられています。 平安時代には、市内全域が人々の活動の舞台となりました。
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