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目次
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第2展示室 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
D古墳時代 纏向遺跡群 纏向遺跡地図 纏向遺跡として発掘中の地域(地図①)は、纏向小学校東隣の田んぼの中ですが、実際はもっと広大な地域です。(地図②) 纏向遺跡群地図 広大な纏向遺跡群内では、二期にわたって、都市中枢地域が移動して営まれています。(地図③) 1期目は弥生時代終末期、庄内式土器期の中枢区と都市範囲であり、 2期目は古墳時代初期の、布留式土器期の、東に移動し、都市範囲は倍以上に拡大した。 遺跡は、庄内式土器期から布留式土器期に渡る、弥生時代後期から古墳時代初頭の時期に相当します。
纏向遺跡の土器編年
纏向遺跡の時代編年 纏向遺跡から出土する土器は、弥生Ⅴ式期土器期以降の庄内式期。その次の布留式土器期に渡っている。 しかし。ここから先は学説が定まっておらず、取り上げる資料によってまちまちです。 弥生から古墳期へ 小林行雄によって畿内の弥生土器を5様式に分け、第Ⅰ様式期を前期、Ⅱ-Ⅳ期を中期、Ⅴ期を後期とした。 弥生時代と古墳時代の境界は明確ではないが、 庄内式期と布留式期を古墳前期、または、庄内式期は弥生終末期、布留式は古墳前期、などに区分される。 庄内式期と布留式土器期は、それぞれいくつかの纏向式土器期に分けられる。これもバラバラなので、Wiki纏向編年を例にあげます。
纏向の時代は、弥生から古墳時代に移り変わる時期の大集落で、全国から人が集まり、30%が来訪者。その多くが東海人でした。 纏向遺跡の古墳 纏向地域には、発生期の古墳が集中しています。 前方後円墳の、箸墓古墳、纏向石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、南飛塚古墳、、前方後方墳のメクリ1号墳など。 やはり、ここが初期畿内政権の宮都だったのでしょう。か。 |
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D0-1纏向遺跡群 ※纏向遺跡からは各地の土器が集中して出土し、古代の中心的な都市遺跡ではないかと考えられている。現在発掘調査中である。
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D0-2第2展示室 |
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D0-2-01纏向石塚古墳の出土物 |
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資料 D0-2-01a直弧文を調べる
ここでは、直弧文、弧帯文、弧文 を同義語として区別なしに使っています。
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D0-2-02panelヤマト王権の成立 3世紀後半、奈良盆地の南東部に大型前方後円墳が突如として造られる。それが、最初の大王墓箸墓古墳である。 その造営に直接かかわった纏向遺跡では、遺跡内に箸墓に先行する石塚古墳などがすでに作られていた。 纏向を最初の都とする考えが有力だが、まだ、その中心となる部分は発掘で確認できていない。 また、箸墓古墳のような初期の前方後円墳が、瀬戸内から九州北部にあり、それらの地方の地域勢力の連合による政治的なまとまりが、 ヤマト王権を支えたと考えられる。 箸墓古墳など、 初期の前方後円墳について 箸墓古墳 前方後円墳 全長280m後円部径155m 葺石、円筒埴輪を伴う。3世紀中頃から後半(布留0式期)の築造 宮山型特殊器台、都月型円筒埴輪、特殊壺、二重口縁壺(前方部) 4世紀初頭(布留1式期)の土器や木製品を墳丘上で採取している。(その頃まで祭祀が行われていた) 弁天塚古墳 前方後円墳 全長60m帆立貝式 特殊器台、特殊壺 極めて早期の古墳 纏向石塚古墳 リンク 形状: 纏向型前方後円墳 全長96m 撥形。葺石や埴輪はない。最古の前方後円墳。 築造時期:古墳前期であるが(前方後円墳が登場したので)、3世紀初頭、(庄内0式期)。 出土物:周溝から弥生終末期~古墳初頭の土器。弧文円板(吉備系祭祀遺物)。朱塗り鶏形木製品。木製鋤鍬。横槌。水槽。建築部材。土師器。 石塚古墳は、墳丘長93mの前方後円墳である。墳丘に葺石はなく、小さな前方部が付くのが特徴であり、最古の前方後円墳の一つとされている。 後円部の調査では、高さ4mの盛り土があったが、埋葬施設は確認されなかった。
中山大塚古墳 リンク 前方後円墳 全長130m 地図(山の辺の道添い) 葺石、特殊壷形埴輪、特殊壺形土器、二重口縁壷系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器 古墳時代前期前半 3世紀後半の築造 桜井茶臼山古墳 桜井市外山 リンク 前方後円墳 全長200m 後円部径110m 竪穴式石室木棺墓。副葬品に王杖,鏡,琴柱形石製品,石釧,銅鏃,鉄鏃など。 墳丘上にあった壺形の土師器は石室を中心に長方形の区画に並べられており,埴輪の原型ではないかといわれている 古墳時代前期 3世紀後半から4世紀前半
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D0-2-03土器 |
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D1ヤマト王権の成立 |
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D1-0王権の成立 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
D1-1メスリ山古墳 大王墓 古墳時代前期 4世紀前半 桜井市高田100(安倍) 前方後円墳 全長224m 後円部径128m 巨大円筒埴輪、碧玉製石製品、破鏡、武器、鉄製葺 メスリ山古墳 メスリ山古墳 メスリ山古墳 メスリ山古墳 メスリ山古墳 ※メスリ山古墳に建て並べられた埴輪類が異常に大きいことが不思議でした。権力を見せつけたかったのだろう、に、落ち着くところでした。 しかし、墳長224mの墳頂に、吉備で使われたような1mにも満たないような埴輪を並べても見えないし、映えることもない。 以前、某宗教法人の本山に行きましたら、正面のふすまは、普通の1.5倍から2倍ほどあります。といわれ、そうでないと見えない映えない。 そうだ、終末期の銅鐸が巨大化したのも同じ理由だった。メスリ山古墳の円筒埴輪が2.4mもあるのも同じだと理解しました。 考察 メスリ山古墳の安倍氏 古墳時代前期、4世紀前半の前方後円墳。全長244m後円部径128mで、磐余地域最大の古墳である。 磐余(イワレ:桜井市安倍(安倍氏の出自)付近の古地名)は、17履中,22清寧,26継体,用明天皇らの皇居のあった地域で,5~6世紀頃の要地。 葺石墓の墳丘上には方形に高さ2.4m直径0.9mの大型円筒埴輪が立っていた。 2つの石室のうち、第2室は未盗掘で、大量の武器が出土した。王権と軍事権を掌握した大王墓と考えられる。 茶臼山、メスリ山は大王墓であり、被葬者を安倍氏の祖、オオビコ(大毘古命=父)とタケヌナカワ(建沼河別命=子)と考えられている。 ※この安倍氏と、安倍晴明の一族、前九年の役の安倍氏、前九年の役で没落した安倍氏の後を支配して後三年の役で没落した清原氏の後を 支配した奥州藤原氏の子孫が安倍氏を名乗り、現代まで血脈がつながっている。という。 安倍氏は、東北(奥州)安倍氏、九州安倍氏(安倍一族=森鴎外)、長門安倍氏(安倍晋三)などは同系統なのか。私は皆、同一祖系だと思うが。 調べていると、前九年の安倍氏は、エミシが勝手に安倍を名乗ったとか、東北遠征したときのご落胤だとか、が出てくる。瑣末なことかも。 メスリ山古墳の埴輪 古墳の後円部中央にある2つの竪穴式石室の上部を、長方形に取り囲む形で、大型の円筒埴輪・高坏形埴輪と円筒埴輪が二重に巡っていた。 最大の埴輪は石室の両端の位置にあり、高さ2.4mで日本最大である。 考察 なぜ特殊器台は二重口縁壺なのか ※古墳に共献された、特殊器台の上の特殊壺は 全て二重口縁壺だった。これは臓骨器の意味。誰かの二次葬骨が入っていたはず。 ただの飾りで骨壺を並べはしない。すると、殉死がなかったとか、とは話が違う。遺体でなく、二次葬骨で周囲に配置したかもしれない。 確かに、陪塚もあり、同一の棺に二体の埋葬。(これを見て兄弟だとか、親子だという人がいるが、そんな馬鹿なことがあるはずがない。) また、以前、中国地方で王墓の傍に、明らかに殉死者の棺がおさまっていました。 二重口縁壺(骨壺)の中に遺骨を入れないで並べるはずはなく、殉死させたしもべを二次葬に壺に入れて飾ったと考える方が理解がしやすい。 と、思う。しらんけど 円筒埴輪 弥生時代の葬送用器台から変化した円筒埴輪は、透孔(すかしあな)の形が三角から長方形、そして円形中心へと変わる。 表面に残る細かなハケ目は、埴輪を作る時に、板の工具で整えた痕跡で、その方向 (縦・横) や動き方を比べることによって、年代の手掛かりになる。 時期が下るとともに、製作工程の簡略化 (手抜き) が進む。
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D1-2キヌガサ 下池山古墳 古墳時代前期前半 4世紀前半 前方後方墳、全長120m 大和古墳群に属する。天理市成願寺 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 佐紀陵山古墳(さき,みささぎ,やま) 古墳時代前期末~中期初頭 4c後半~5c前半 前方後円墳 全長207m前方部幅87m後円部径131m高さ20m 奈良市山陵町 佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群 石室の直上には衣笠形埴輪、盾形埴輪、家型埴輪も出土したがいずれも高さ1.5m、幅2mの大型埴輪であった。 佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳群 佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳 |
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考察 埴輪の起源と変遷
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古墳のまつり 古墳は、亡き支配者を葬るための墓であると同時に、跡継ぎの支配者の権威を示すための政治的な意味を持つ。 (そして、支配者一族の支配権や地位を高めるために、支配民に礼拝させた道具立てである。その信仰が現在まで、神社となって続いている。) そのため、古墳に立てる埴輪は、時期と共にその種類も変わる。 埋葬の中心になる墳丘の頂上部では、円筒埴輪や各種の器財埴輪・家形埴輪が方形に取り囲む。これらは、葬られた人を守るための意味が強い。 そして、5世紀後半に新たに加わる人物と動物の埴輪は、葬送と引き継ぎの儀礼がおこなわれた様子を再現している。 器財埴輪と家形埴輪 器財埴輪は、権威の象徴のキヌガサ (貴人にさしかける日傘の先端の飾り) などと、甲冑などの武具の埴輪に分けられる。 キヌガサ形埴輪のなかでは、佐紀陵山古墳の例が最も大きくリアルに作られている。武具の中では、盾と靫 (ゆぎ) が長い期間作られ続け、 5世紀には甲冑も加わり、共に古墳を守る意味を持つ。 家形埴輪は屋根の形によって、入母屋・寄棟・切妻に分かれ、室宮山古墳のような大型古墳では、これらを同時に並べて、亡き王の居館を 再現している。
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D1-2王権の象徴 ―王の墓― 4世紀の王権を象徴するのは、 古墳の墳丘と埴輪、埋葬のための長大な竪穴石室、そして死者に添えられた鏡や各種の石製品と、鉄製の武器・武具・農工具などである。 墳丘の形は、前方後円墳のほかに前方後方墳・円墳・方墳があるが、主要な古墳は大半が前方後円墳である。 これらの墳丘の形・大きさ、またはそのつくられた位置から、政治的な意味を読み取ることができる。 |
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D1-2-01panel 王の墓-墳丘・石室・埴輪- 大きな前方後円墳の墳丘は、(2段3段と)段積みによって築かれ、その表面には石が葺かれていた。 後円部の頂上に、埋葬のための竪穴石室が造られ、その上部には盛り土による方形の壇がある。 箸墓古墳などの初期の古墳では、その上に埴輪の祖型となる器台や壺が置かれ、後に円筒埴輪列が取り囲んで、聖なる空間を表すようになる。 石室内には、下池山古墳のように大木を刳り抜いた木棺を置き、遺骸に鏡や装身具・石製品・鉄製品などの各種の副葬品が添えられていた。 ※下池山古墳の割竹形木棺 メスリ山古墳 奈良盆地南東部、桜井市南部の丘陵にある長さ236mの大型前方後円墳で、代表的な前期古墳である。後円部の頂上に、長方形に取り囲む 大型埴輪列と、その中央に長さ8mの竪穴式石室 (主室) がある。 この石室はすでに盗掘にあっていたが、鏡と椅子形・櫛形などの石製品の破片と玉が残っていた。 その東側の高坏形埴輪の下にも副葬品のみの石室 (副室) があり、玉杖や鉄製弓矢と、200本を超す鉄製槍先、236本の銅鏃、鉄製農耕具などが 納められ、まさに武器庫のようであった。(農耕具はこの場合、工兵隊の武器です) |
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D1-2-02主室の副葬品 メスリ山古墳
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D1-2-03鏡 |
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D1-2-10 メスリ山古墳副室の副葬品 古墳前期 4世紀 ※メスリ山古墳はリンクの図面のように、竪穴石室であり、副室の副葬品置き場は、主室の周りにありました。 引用メスリ山古墳 国史跡 |
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D1-2-11 石製品 |
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D1-2-05 |
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D1-2-06 メスリ山古墳副室副葬品 ●古墳時代前期 4世紀 ●桜井市メスリ山古墳 |
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D1-2-07 メスリ山古墳 弓矢 桜井市高田100・上之宮 古墳時代前期 4世紀初頭 前方後円墳 三角縁神獣鏡・鉄弓等鉄製品・銅鏃・碧玉管玉・埴輪など多数。桜井茶臼山古墳らと共に鳥見山古墳群に属する。 全長約235mの柄鏡形の前方後円墳である。後円部頂上兵站部には大型円筒埴輪・高坏形埴輪・円筒型埴輪による長方形の埴輪列が二重に巡る。 主室の竪穴式石室はその中心に、副室の竪穴式石室は外画列東辺の内側に位置する。 盗掘を受けた主室からは、銅鏡片、玉類、腕輪型石製品、椅子型石製品、櫛形石製品、滑石製合子、刀剣が出土した。 副葬品専用の副室は未盗掘で、212本以上のやり、鉄製弓と鉄製矢、刀剣、農耕具、玉杖4本分、石製紡錘車、大型管玉、236本の銅鏃と 50本の石製鏃をソア着した屋などが出土した。 |
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D1-2-08メスリ山古墳 天理市柳本古墳群 大和古墳群 大和・柳本古墳群 |
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D1-2-12鏡 |
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D1-2-12a 王墓に納められた鏡 天神山古墳 天理市柳本町 (大和天神山古墳と称されることが多い) 天神山古墳 前方後円墳 古墳前期 3世紀後半~4世紀前半 墳丘長113m 埴輪・葺石なく、段築・周溝が不明瞭。なかった可能性。 内転びの石室に、割竹形木棺の周囲に並べられた20面の鏡が大量の41kgの水銀朱と共に出土した。 リンク大和天神山古墳、Wikipedia、古墳:探訪、大和の古墳探索、大和天神山古墳 王の墓 -鏡- 死者に鏡を添えて葬る風習は、古墳時代に特に盛んになる。中には20~40面の多量の鏡を持つ古墳があり、天神山古墳 (23面) はその 一例である。この時期には、中国鏡の他に、日本列島で作った鏡も多くなる。 三角縁神獣鏡は、同じ原型による鏡が各地の複数の古墳に分かれて副葬されている点が重要である。
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D1-2-12b 下池山古墳 平成7・8年度(1995・1996)調査 古墳時代前期前半 4世紀前半 天理市成願寺町 全長約125mの前方後円墳で、後方部にある全長6.9mの竪穴式石室には、コウヤマキ製の割竹形木棺が安置されていた。 盗掘・攪乱のため残されていた副葬品は少なく、碧玉製石釧、勾玉、管玉、ガラス小玉、槍・刀剣類、刺突具、やりがんななどであった。 竪穴敷く石室北西の裏込礫中には小石室があり、大型仿製内行花文鏡 (径37.6cm) が収められていた。鏡は絹織物、真綿、毛織物からなる袋に 入れられ、更に鏡筺に収められていた。同様の鏡埋納事例が天理市柳本大塚古墳(古墳時代前期前半4世紀前半)にある。 |
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D1-2-12c鏡
新沢千塚古墳群 引用wikipedia 橿原市の畝傍山南部の東西・南北2km四方の越智丘丘陵に位置し、4世紀末から7世紀にかけて造られた、600基以上の墓群である。 この古墳群の氏族や被葬者は特定されていない。 粘土槨を内部主体とする500号(前方後円墳)を含む23基の古墳が発掘された。 500号墳では古墳時代前期に類する副葬品が検出され、その中には懸垂鏡といわれる珍しい銅鏡が含まれていた。 新沢千塚500号墳 前方後円墳 4世紀終わりの築造。古墳群中の最古級。全長62m。粘土槨(後円部に2)(くびれ部に粘土槨1、埴輪棺1)(前方部に粘土槨1) 三角縁神獣鏡や「八ツ手葉形銅製品」と呼ばれる懸垂鏡を含む6面の鏡をはじめ、筒形銅器、銅釧、石製腕飾類、方形板革綴短甲、武器、 玉類、農工具など |
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D1-2-12h 桜井茶臼山古墳の鏡 (81枚) 古墳前期(初期) 4世紀 前方後円墳 墳丘長207m柄鏡形 箸墓古墳に後続する時期に造営。 |
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D1-2-12j |
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D1-2-12m 鏡袋の織物 下池山古墳の内行花文鏡の鏡面に残った織物は、縞模様のある平絹で、青・黄緑・茶色などの糸を織り込んでいる。 この織物の袋に入れて、小石室内に副葬していた。
広陵町 新山古墳 北葛城郡広陵町大塚 前方後方墳 古墳時代前期初頭 全長125m 鏡34面(三角縁神獣鏡9,直弧文鏡3)・金銅製帯金具・車輪石・鍬形石など 佐味田宝塚古墳 北葛城郡河合町 前方後方墳 全長111m 後円部径60m 家屋文鏡、鏡、玉類など装身具、銅鏃・盾の飾り・石釧・鍬形石・刀子・鑿・鉄斧 |
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D1-2-13石製品・装身具 川西町島の山古墳 古墳時代前期末頃 4世紀末 墳丘長200m 前方後円墳 リンク01 02 03 04 05 古墳時代前期末頃の4世紀末に築かれた全長190mの前方後円墳で、奈良県下の前方後円墳約300基のうち第20番目の規模に相当。 引用島の山古墳とは ※大量の車輪石と鍬形石が棺の周囲に副葬された古墳である。 Wikipedia、Weblio辞書、古墳マップ、コトバンク、名所・古跡、島の山古墳、島の山古墳、島の山古墳 - 奈良県川西町 |
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D1-2-13a
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D1-2-13b |
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D1-2-13c |
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D1-2-13d4世紀の国際交流 4世紀の伽耶の中心地、金海(キメ)・大成洞古墳群で、日本の前期古墳の副葬品に共通する遺物がまとまって出土しています。 このことから、中国や朝鮮半島製の文物は、この地域を通じて、日本列島にもたらされたと考えられます。 4世紀には、このような文物の移動が中心であった。
倭→伽耶・新羅に運ばれた文物
巴形銅器 引用コトバンク 弥生~古墳中期にかけて使用された青銅製の装飾金具の一種。中空の半球形をした体部の周囲に突出した4~9本の扁平な脚状装飾を有し, 全体の形が巴の形に似るところから呼ばれる。 弥生時代のものは,左曲りの6~9本の脚があり,古墳時代になると,普通右曲りの4脚となる。 古墳時代のものは革盾の装飾金具として使用されたことが知られている。朝鮮半島南部の加羅の墳墓からも発見され,当時の文化交流の あり方を示すものとして注目されている。 金銅製帯金具 広陵町 新山古墳 |
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D1-2-14王の墓 ―武器・武具・農工具― 新沢500号墳、新沢茶臼山古墳 戦いのときに身を守る甲(よろい)と冑(かぶと)は、古墳時代に入って鉄製品となる。 ※1 新沢500号※3の短甲は、長方形の鉄板を革紐で綴じ合わせ、身体の曲線に合わせて作られている。これが最初の規格品の短甲であり、 その鉄板の使用法は5世紀の短甲に繋がる。攻撃用の武器は、刀・剣・槍・弓矢などがあり、鏃は銅鏃と鉄鏃が使用されていた。 農耕具は※2、鍬・鍬の先に鉄板を取り付けるようになり、木を加工する鉄製の道具が増える。(木器の多様化と増加。技巧の向上) ※2農耕具も武器であり、戦争に用いられた。いわゆる工兵隊である。自衛隊がブルドーザーや、橋梁部隊を持っているのと同じである。 戦争をするときには道路や橋が必要である。特に弥生・古墳期には、そのようなインフラは整っておらず、攻撃側には必須の部隊である。 ※1忘れていました。鉄製品は西暦0年頃に一般化し、例えば台湾北部の海岸地帯でも日本のたたら製鉄のような方法で作られ始めました。 弥生時代終末期には、木製や皮革製の短甲が出土しています。 ※3新沢500号墳 新沢茶臼山古墳 4世紀末頃築造の前方後円墳で、新沢古墳群中でも古い時期のものです。全長62m 城山2号墳の札甲(さっこう) 小さな鉄板(小札=こざね)を連続させた甲(よろい)は、国内で唯一の例で、中国の北魏などの武人の俑によく似た表現がある。
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D2倭の五王の時代 5世紀 5世紀は、日本列島の5人の王が中国に使いを送ったと中国の歴史書に記された時代である。(※主に半島南部での軍事的支配権を求めた。) 彼らは、東アジアの中でも特に朝鮮半島の情勢に強い関心を向けていた。 同じ時期に、大王墓の大型前方後円墳 (※の造営地) が、奈良盆地から河内平野へ移動し、古墳が最も巨大化する。(百舌鳥・古市古墳群) 特に百舌鳥古墳群は、大阪湾からの眺めを意識した場所が選ばれていて、国際化時代に対応していたことがわかる。(※中国の使者に見せる為) ※倭の五王は、5世紀初頭から末葉までほぼ1世紀にわたって東晋や南朝の宋に朝貢した日本の大王である。 413年倭王が東晋、425年倭王讃が宋へ,438年倭王讃の弟珍 (『宋書』は珍,『梁書』は弥とする) が宋へ,443,451年倭王済が宋へ, 462年倭王済の子,興が宋へ,478年倭王興の弟,武が宋へ。 ※倭の五王の時代は、半島からやってきた人々が、畿内政権を打ち立て、強い権力と強大な軍事力を蓄えた時代である。 彼らは本来、半島人であり、半島で国盗り合戦をしているならば、そこに参入しようとするのは、半島人の望みだったであろう。 更に、半島のごたごたによる大量の農民兵や武人など渡来人が、雲霞の如く押し寄せてきた情勢もあり、この膨大な兵力をもってすれば、 半島はいとも簡単に手に入ると考えたに違いない。 つまり、植民地の半島人が、本国を奪取するのである。これは、夢があり、母国に帰るという大義もあったことだろう。 ロマンス=冒険譚である。 そこにもう一つ必要なのは、半島人が気にする、中国王朝のお墨付きである。半島を支配する軍事的な地位。これを求めて五王は朝貢した。 |
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D2-1宮山古墳 (室大墓:むろのおおはか、室宮山古墳 巨勢山古墳群(約700基・消滅含む)引用宮山古墳) 奈良県御所市大字室 5世紀初頭、古墳時代中期 奈良盆地の南西部にある、長さ246mの大型前方後円墳である。後円部には、南北2つの竪穴石室があった。調査された南石室は、 上部に盾・靫ゆぎ・甲冑などの埴輪が長方形に取り囲み、その南に5棟の家形埴輪が並んでいた。 特に石室の上には、直弧文などで飾った大型建物の埴輪が3棟以上置かれていた。 石室内には兵庫県加古川市の竜山石製の長持形石棺があり、三角縁神獣鏡や短甲の破片と、各種の滑石製模造品などが残っていた。 5世紀前半の 葛城氏の王墓である。 ※以前の記事でも取り上げたように、葛城氏は渡来人の大勢力の王族である。出自は半島南部の金官加羅と言われている。 葛城氏は渡来、定着以後、他の渡来王族同様、やってくる半島人集団を次々と受け入れ、常に新しい文化や技術を取り込み続けた。 宮廷政治にも深く関わった大豪族である。 葛城氏の消長wikipedia |
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D2-1-01 |
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D2-1-02宮山古墳 全長238m以上の前方後円墳で、後円部の竪穴式石室2基のほか、前方部や北側張り出し部にも埋葬施設がある。 昭和25年(1950)、後円部南側石室を調査。竜山石製の長持形石棺を納めた石室は盗掘を被り、出土遺物は三角縁神獣鏡片、玉類、杵形石製品、 琴柱形石製品、甲冑片、刀剣、石鏃、滑石製模造品などにとどまる。 石室上部には、キヌガサ・盾・靫(ゆぎ=矢を入れて持ち運ぶもの)・甲冑・草摺などの形象埴輪を含む二重の埴輪列が巡っていた。 埴輪列南側には、5棟の家形埴輪が、埴輪列の内側の石室上には入母屋造りの家形埴輪3棟以上が建てられていた。 宮山古墳石室内と石室上部の埴輪を再現した |
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D2-1-03宮山古墳の埴輪 ●古墳時代中期 5世紀 ●御所市宮山古墳 資料 寄棟造り…四方の四枚の屋根が中央に集まっているもの 切妻造り…屋根の両端が切り落とされたもの 入母屋造…切妻屋根の両端にひさしをつけたもの 研究 長持形石棺
※長持形石棺の次に刳抜式家形石棺が大王の棺として用いられます。 この石棺も、兵庫県加古川市の竜山石で作られています。このことが、葛城氏の絶大な権力を示すものだったとは知りませんでした。 竜山石を使うのは、単に石材の材質が良かったからだろう、、ぐらいにしか思っていませんでした。 すると、葛城氏の勢力は本拠地を離れて、兵庫県にまで及んでいたのでしょうね。 |
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D2-2王の居館 宮山古墳 権力者の住まいを具体的に表現したのが、家形埴輪である。宮山古墳で埴輪列の中心にあった入母屋造りの建物は、屋根の上にかつお木をのせ 角柱を直弧文で飾り、開放的な大きな窓のある祭殿を表現している。そして、寄棟と切妻の建物は、日常の住まいと倉庫だろう。 実際の居館跡 (群馬県三ツ寺遺跡など) の調査でも、同じように住まいと生産工房とまつりの場に使い分けられていたことがわかっている。 |
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D2-2-01直弧文の柱の家形埴輪 ●古墳時代中期 5世紀 ●御所市宮山古墳
私見 家形埴輪に直弧文を描いたのは、現住の建物に描かれていたのではなく、死者の住まいであるから、魂の鎮めとして描いたと思います。 考察 王の居館の彩色彩文 家形埴輪「王の居館」は、赤く彩色され、柱や壁には模様が描かれている。現在の寺社も赤彩され、柱や壁には模様が彫刻や彩文されることから この「王の居館」は、現在みられる寺社の彩色と同じと思われる。赤彩や、吉備の直弧文は魔除けであるので、一種の結界ともいえる。 宮山古墳をもっと調べればもっと面白いものが 出てきそうだ とおもいます。でも、もう時間がない。また、機会があれば。 |
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D2-3集落の生活と水まつり 南郷遺跡群 (葛城氏) 御所市大字極楽寺 5世紀前半の豪族居館遺跡 5世紀の集落遺跡の南郷遺跡群では、鉄器や玉の生産工房と共に、住まいの跡とまつりの場が調査で明らかになった。 建物の中で重要なのは、集落内の指導者の住まいと考えられる、柱を壁に塗り込めた大壁構造の大型住居である。 ※大津市立博物館などで、(謎の)大壁建物、と言われた建築物です。 一般の人々の住まいや工房は、竪穴式の住居であり、その差が建物構造に現れている。 まつりの場(南郷大東遺跡) では、小さなダムで堰き止めた水を引いて、各種の木製品を使ったまつりを行っていた。 ※南郷遺跡は豪族の葛城氏が一大拠点にしていた遺跡である。 マツリゴトの中心となる高殿や大型建物跡を検出。政治と不可分の祭祀跡が、池・木樋などの導水遺構、水まつりの跡であった。 葛城氏の南郷遺跡 |
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D2-3-01panel&giorama
古代の水まつり 水にまつわる祭祀ってなんでしょう。わざわざ水を引いた施設を作り、小屋掛けして、何をしていたのでしょう。 人面墨書土器を投げ込んでいた洪水鎮め、でもなく(墨書土器が出ていない)、曲水の宴(歌を詠んで流す)でもなく、貴人が行う祭祀。何? 水の信仰・祀り・祭り-ミツカン水の文化センター 古代史探訪 水のまつり 水と祭祀の考古学 引用古代史探訪 水のまつり
この解説文があって、初めて、橿考研のジオラマの意味が分かりました。感謝します。
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D2-3-01a キヌガサ・翳(サシバ) |
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D2-3-02木製品 南郷遺跡
南郷遺跡の木製品 ※翳(さしば) 鳥の羽などで扇形につくり,長い柄をつけたもの。貴人の行列などでさしかけ威儀を正した。 中国では竜門や敦煌莫高窟などの壁画に若干みられる。日本では埴輪や,福岡県竹原古墳の壁画などに,それらしいものがみられる。 実物としては,千葉県の金鈴塚から出土した金銅製の翳があり,伊勢神宮の遷宮に用いられる翳は全長 4.36mもある紫色の羅 (うすぎぬ) である。 引用コトバンク さしばは威儀具であったか。 翳の意味は、これが面白い。 意味:①きぬがさ。羽毛で飾った絹ばりの傘。 ②かざし。舞うときに持つ羽飾り。 ③かざす。おおう。 ④かげる。かげ。かげり。くもり。「暗翳」「陰翳」「翳翳」 ⑤かすむ。目がはっきり見えなくなる。「底翳(そこひ)」引用漢字ペディア ※私は、キヌガサを大傘の上に付ける飾りであり、キヌガサ埴輪は飾りをデフォルメしたものと考えていた。間違いでした。 現代でも貴人や高僧に差し掛ける大傘は、日除けではなく、威儀具でした。すると、古代に使われた大傘も、威儀具、さしばも威儀具。 どちらも日除けの実用品ではなく、日除けの威儀具だったんですね。 すると、キヌガサとは、日除けの威儀具であり、キヌガサ埴輪は威儀具の象徴だった。これがある古墳はとても高貴な人の墓地。 |
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D2-3-03 南郷の集落 大壁住居 周囲の柱を壁で塗り込めるため、両端の棟持ち柱を除いて外から柱は見えない。例が少なく、渡来人の住まいにつなげる考えもある。 ※南郷遺跡は渡来人王の葛城氏の拠点であり、常に渡来人を受け入れ続けているため、この建物は、渡来人の文化であることは間違いない。 半島産又は、国内産の韓式土器が多数出土するのも当然である。 ※滋賀県の琵琶湖周辺には渡来人集落が沢山あり、大壁建物が沢山出土しています。 豪族居館のようなものでしょう。 |
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D2-3-04 南郷遺跡群の土器 ●古墳時代中期 5世紀 ●御所市南郷遺跡群
葛城氏 南郷集落 奈良県北葛城郡広陵町南郷 御所市極楽寺 葛城氏は広大な地域を支配していたようです。 蘇我氏 曽我遺跡 奈良県橿原市曽我町真管 朝鮮半島南西部の全羅道出身 物部氏 布留遺跡 奈良県天理市布留町・三島町 阿部氏 メスリ山古墳 奈良県桜井市安倍 |
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D2-3-06葛城の王都 南郷の集落 |
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D2-3-07蘇我氏の 曽我遺跡 玉造の工房 5世紀後半~6世紀前半 奈良県橿原市曽我町真管 資料 渡来人蘇我氏は、橿原市曽我に入植したため、蘇我氏を名乗った百済人である。 曽我は蘇我氏の本拠地であった。玉造の曽我遺跡が官営であったか、蘇我氏の私設であったかは不明である。 玉つくり 曽我遺跡は、5世紀後半から6世紀前半の大規模な玉造りの集落です。北陸や出雲などから原石を運んできて、多くの工人を集めて各種の玉を 作っていた。祭りや古墳の副葬品に使う玉を集中管理して、各地に供給することによって、王権の影響力をより大きくしようとしたのだろう。 資料 曽我遺跡の原石コトバンク 1000万点近い遺物が出土した。玉類には勾玉 (まがたま) ・管玉・小玉・丸玉・棗玉 ・切子玉・子持勾玉があるほか,各種滑石製模造品が見られた。 石材は和歌山紀ノ川流域の滑石,山陰の碧玉,北陸の緑色凝灰岩が 95%を占め,岩手県久慈の琥珀,新潟糸魚川の翡翠,水晶,瑪瑙 ,埋木, ガラス等各地より様々なものが搬入された。 これは本来の原石産地での玉作が,5世紀末~6世紀初頭頃、権力所在地に近い当地に移動・集中したことを示しており,付近の地名等より 祭祀担当氏族の忌部氏※の関与が推定されている。 ※忌部氏=斎部氏 橿原市忌部町付近を本拠地とする。朝廷の斎事に関わる全ての物を調達する役目を担っていた。 |
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D2-4対外交流と技術革新 5世紀は、日本列島の各地に多くの渡来人がやってきた時代である。その中心は朝鮮半島からの人々であり、特に南部の伽耶を取り巻く 不安定な国際情勢が、より多くの人々の移住を促した。 彼らによってもたらされた新しい技術は、金工・鉄器生産と、土木技術・須恵器生産などが挙げられる。同時に、乗馬の風習や、横穴式石室の 埋葬法と共に、死者に食物を供える須恵器の副葬などの風習が伝えられ、技術革新と共に日常生活にも大きな影響を与えた。 |
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D2-4-01海を越えての交流 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
D2-4-01a五世紀の国際交流 5世紀の朝鮮半島には、高句麗と百済・新羅・伽耶が共存していた。これらの地域では、主に方墳と円墳が造られていた。前方後円墳が まとまって見つかった百済南部の全羅南道は、横穴式石室や須恵器のふるさとの候補地であり、日本列島との関わりの深い地域である。 |
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D2-4-01b対外交流と技術革新 |
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D2-4-02 5世紀の鏡 5世紀の鏡は、列島内で作られた直径10cm前後の小さなものが中心である。その中で、新沢千塚出土の獣帯鏡と画文帯神獣鏡は、共にに20cmを 越える大型鏡で際立っている。どちらも中国鏡ないしはそれをもとに踏み返して作った鏡であり、他にも画像鏡などの文様構成の鏡がある。 踏み返し鏡 - 新井宏 古代の青銅鏡づくり 玲子の考古学教室ブログ 兄弟鏡の最も多い鏡 新沢109号墳の画文帯神獣鏡と同じ文様の鏡は、合わせて23例ある。出土古墳は、5世紀中葉から6世紀前半までの年代幅がある。 |
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D2-4-03鉄器生産の技術 (葛城氏・物部氏 共に渡来豪族) 5世紀には、鉄器生産が盛んになる。これは、古墳に鉄素材の鉄鋌と鍛冶具の副葬が目立つようになることからわかる。更に、南郷遺跡群や 布留遺跡のような鍛冶集落では、朝鮮半島系の土器が多く出土していて、材料・道具ともに、技術者も朝鮮半島からやってきたと考えられる。 南郷や布留の集落は、有力豪族 (葛城・物部) の本拠地に当たり、このような技術と製品を管理することによって、その経済力と政治的な地位を 確保した。 南郷遺跡群 葛城氏の拠点集落 金剛山・葛城山一帯は葛城氏の所有する渡来人の巨大集落が30か所もあり、それぞれ、渡来人の特技を生かした産業が盛んでした。 葛城氏は半島南部の小国家連合の伽耶(伽羅)の金官国の出身である。彼らに与えられた土地は山林で、葛城という名から想像すると、 葛の根が絡むそれこそジャングルのような困難な土地であり、水田開発も不向きな土地であったのかもしれません。 布留遺跡 物部氏の拠点遺跡 布留遺跡weblio 初期大和政権 布留遺跡 布留遺跡 初期纏向遺跡の土器は庄内式。古墳時代に入った第二次纏向遺跡の土器は布留式でした。物部氏と関係があるのかもしれません。
鍛冶遺跡の出土物 南郷遺跡群 |
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D2-4-04甲冑と武器・武具 |
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D2-4-04a朝鮮半島と日本の甲冑 乗馬の風習が広まっていた高句麗では、乗馬に適した挂甲が主に使用されていた。南部の伽耶地域に見られる短甲の中には、日本列島の 出土品に共通するつくりの甲冑を含む。日本列島では、渡来人の鍛冶技術をもとに、冑と短甲の組み合わせ※が5世紀を通じて作られ続けた。 ※冑と短甲の組み合わせとは、挂甲 (乗馬に適した、よりフレキシブルで動きやすい鎧) を作らず (歩兵用ばかり作った) といっている。
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D2-4-04d甲冑と武器 5世紀の短甲は、小さな三角形や細長い帯状に切断した鉄板の端に孔を開けて、革紐でとじ合わせる方法から、鋲で留めるものに変化する。 同時に、鉄板の形や大きさに規格品が目立つようになる。 これらは、鋭くなった鉄鏃から身を守るためと、量産しやすくするための工夫であり、当時の先端技術が生かされた。
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D2-4-04b甲冑 橿原市新沢古墳群 古墳時代前期~後期の群集墳 墳丘数約600基 橿原市北越智町・川西町 |
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D2-4-04c
鉄製農具の改良 5世紀には農具も改良された。鋤や鍬の先端に付ける鉄の刃先が、長方形の鉄板の両端を折り返しただけの物から、U字形の本格的な刃先に 変わる。この刃先を付ける木製の部分は、ナスビ形をしたものがあり、上端に柄を連結して鍬として使用された。 このように威力を高めた農耕具で、開墾が進められ耕作地の拡大が図られた。同時に、収穫具の鎌の先がまっすぐなものから、 使いやすい曲がったものに変わる。ともに朝鮮半島から伝えられた新式の農具である。
和爾氏とは 本拠地は滋賀県大津市和爾今宿820-9という? 古代の豪族であり、現代にも和仁・丸などの名前で続く氏族である。 5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。引用wiki和仁氏 渡来人が大量に押し寄せた時期であるのだが、半島のどこからの渡来か、又は、畿内のいずれの渡来氏族の系統かなどは書かれていない。 五條市塚山古墳 方墳 5世紀中葉~後半 五條市出屋敷町 方墳(一辺24m、高さ5m)葺石一部あり。埴輪あり(円筒埴輪と家形、盾形、短甲などの形象埴輪) 緑泥片岩製の箱式石棺で小口部(北側)に板石で囲んだ小さな副室が付設されている。 鉄製武器、短甲、冑、刀剣、工具類 |
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D2-4-05乗馬の風習のはじまり 日本列島に乗馬の風習が広まったのは5世紀のことで、使われた馬具は伽耶のものによく似ている。 馬と同時に飼育の知識を持った人や、馬具をつくる人も含めて、集団の移住が伴ったのだろう。 権力者にとっては、金メッキの金具を付けた飾り馬をもつことが権威の象徴と考えられていた。 |
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D2-4-05a馬の飾り 馬具のふるさと
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D2-4-05b |
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D2-4-05c馬を飾る金具 ●古墳中期 5世紀 ●御所市石光山8号墳 |
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D2-4-06陶質土器と初期の須恵器 日本列島では朝鮮半島の陶質土器が、5世紀前半から中葉の古墳に副葬される例があるが、土器の数はあまり多くなく、古墳の例も限られている。 5世紀中葉には西日本を中心に須恵器生産が始まる。古墳に多くの須恵器が副葬されるようになるのは、近畿で横穴式石室が取り入れられる、 5世紀後半以降のことである。 |
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D2-4-06a
国産の陶質土器(須恵器)
半島産の陶質土器
須恵器 焼き物の技術革新 大量の燃料を必要とする須恵器生産は、良質の粘土と専用の窯、そして専門の工人集団を成長させた。 最初の須恵器に似た土器は朝鮮半島の南西部の全羅道と伽耶にある。これらの地域から来た工人を中心にして、大規模な生産を始めた例が、 大阪南部(陶邑)窯跡群である。
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D2-4-06b須恵器 |
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D2-4-07横穴式石室の始まり 朝鮮半島で横穴石室を早くから採用していたのは高句麗であり、その影響で漢城 (ソウル付近) を都にした百済に採用される。 この石室構造に近いのが、北部九州の横穴式石室である。 近畿の横穴式石室は、475年頃に熊津 (公州) に都を遷したのちの百済地域 (南部の全羅道を含む) の石室に、その系譜が求められる。 |
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D2-4-07a横穴式石室
列島の横穴式石室
半島の横穴式石室
初期の横穴式石室 横穴式石室の始まり 新しい埋葬法 近畿で 横穴式石室が本格的に取り入れられるのは、5世紀後半からで、同時に鉄釘で組み立てられる木棺も使われ始める。 大和では葛城山麓の群集墳のなかに、初期の横穴式石室が集中する。 前方後円墳では市尾墓山古墳の様に、家形石棺を治めるために長方形の石室が作られた。
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D2-4-07b
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D2-4-07d市尾墓山古墳 副葬品 ●古墳時代後期6世紀 ●高取町市尾墓山古墳 横穴式石室の副葬品 |
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D3-0古墳のまつり 古墳は亡き支配者を葬るための墓であると同時に、後継支配者の権威を示すための政治的な意味を持つ。 そのため、古墳に立てる埴輪は、時期とともにその種類も変わる。 埋葬の中心になる墳丘頂上部では、円筒埴輪や各種の器財埴輪・家形埴輪が方形に取り囲む。これらは、葬られた人を守る意味が強い。 そして、5世紀後半に新たに加わる人物と動物の埴輪は、葬送と引き継ぎ (権力継承) の儀礼がおこなわれた様子を再現している。 器財埴輪と家形埴輪 器財埴輪は、権威の象徴のキヌガサ (貴人に挿しかける日傘) などと、甲冑などの武具の埴輪に分けられる。 キヌガサ形埴輪の中では、佐紀陵山古墳の例が最も大きくリアルに作られている。(下に掲示) 武具の中では、盾と靫 (ゆぎ) が長い期間作られ続け、5世紀には甲冑も加わり、ともに古墳を守る意味を持つ。 家形埴輪は、屋根の形によって、入母屋・寄棟・切妻に分かれ、宮山古墳のような大型古墳では、これらを同時に並べて、亡き王の居館を再現して いる。 円筒埴輪の変遷 弥生時代の葬送用の器台から変化した円筒埴輪は、透孔の形が三角から長方形、そして円形中心へと変わる。 表面に残る細かなハケ目は、埴輪を作る時に、板の工具で整えた痕跡で、その方向 (縦・横) や動き方を比べることによって年代の手掛かりとなる。 時期が下がると伴に、製作工程の簡略化 (手抜き) が進む。 埴輪の変遷 埴輪の変遷 埴輪の変遷 埴輪のハケ目 埴輪の作り方 埴輪の作り方 埴輪の作り方 埴輪の作り方 |
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D3-01-1埴輪と木製品
纏向石塚古墳の柱材 最古の前方後円墳の一つである纏向石塚古墳では、くびれ部から前方部の南側周溝濠で柱穴および多数の柱材・建築部材が検出されている。 今回展示したのは1976年の第3次調査において前方部南側の周濠から出土した柱材や建築部材である。 この中の最も太い建築部材は、直径22cm長さ256cm、先端部はU字に抉られ、別材と組合すための加工がなされている。 表面には縦方向に丁寧に削られた痕跡が残る。最も短い柱材は、周濠内に掘られた柱穴に残存していたもので、下半部にほぞ孔を有している。 赤色顔料が付着していた柱材もあり、葬送儀礼に関わる古墳周辺の構築物が想定される。 弧文円盤はこの柱材が検出された地点に近接するくびれ部南側周濠から出土しており、柱材との関連が指摘されている。 |
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D3-2四条古墳群の埴輪・木製品 古墳時代中期前半~後期前半(5世紀前半から6世紀中頃) 奈良県橿原市四条町 |
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D3-02-1埴輪と木製品 墳丘の外表を飾るのは埴輪だけではない。これを強く印象付けたのは、四条古墳の発掘調査である。人物などの形象埴輪と共に、 各種の木製品が出土した。 ※四条古墳群 橿原市四条町に12基ほどあった古墳群。破壊された埋没古墳。多数の木製品が出土した。 同じことは、石見遺跡 (古墳) の調査でもわかっていた。木製品には、葬送儀礼に使用されたものと、埴輪と同じように古墳の周囲に並べたもの とに分けられる。 四条古墳の発掘調査 畝傍山の北東にある、5世紀後半の全長38mの造り出し付き方墳。墳丘はすでに削られていたが、周濠の中に倒れ込んだ状態で、 各種の人物・動物埴輪と木製品が残っていた。特に木製品の多さが注目され、埴輪のように立てた鳥と笠・「盾形」の他に、 手に持つさしば・刀・弓などを模したものと、容器・簡単な建築部材などが出土した。 |
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D3-02-2四条古墳の埴輪 |
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D3-02-3四条古墳の木製品 |
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D3-02-4四条古墳の埴輪 |
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D3-03石見遺跡の埴輪と木製品 ●古墳時代後期 6世紀 ●三宅町石見遺跡 奈良県磯城郡三宅町 |
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D3-03-1 埴輪の男と女 男と女の表現の大きな違いは髪形。男女共に、全身像と上半身像があり、身分差が表れている。 横穴式石室と埴輪 平群地域の前方後円墳の勢野茶臼山古墳では、6世紀中頃の横穴式石室の入口に埴輪を立てていた。 石室の入口を石を積んで閉じた後に、家を中心に巫女・キヌガサ・盾・大刀などの埴輪を立て、人物を中心とする埴輪群像を必要最小限に まとめている。 巫女の埴輪東と西 近畿の副葬は袂が大きくふくらむ意須比(おすひ)がずっと続くが、関東では衣服と装身具の種類が多く、詳しく表現されている。 |
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D3-04横穴式石室と埴輪 |
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D3-04-1 |
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D4-0ヤマト王権の展開 5世紀の古墳
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D4-1ヤマト王権の展開 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
D4-1-01群集墳の成立 大宇陀町 後出3号墳
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D4-1-02群集墳の成立 ひとつの丘陵や尾根などの定められた範囲に、多くの小規模な古墳が密集して作られる。これを群集墳と呼んでいる。 大和では、葛城山麓(葛城氏)や宇陀(安倍氏)などの地域で、5世紀から群集墳が造られる。 これらは、小規模な円墳が多く、同じ時期の前方後円墳と比べると、外見では見劣りがする。 しかし、副葬品として、鏡や武器・武具が納められ、内容では、決して引けを取らない。 これまで古墳を作ることの許されなかった人々が、様々な新しい文化や文物を積極的に取り入れた結果である。
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D4-1-03 |
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D4-2群集墳の成立 葛城市兵家古墳群 古墳中期 5世紀 |
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D4-2-1 |
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D4-3大王墓の変革 3世紀後半から、ヤマト王権との同盟、あるいは従属の証として、作られ続けた前方後円墳は、6世紀後半から末に終わりをむかえる。 変わって大形の円墳、方墳が支配者層の墓として採用される。こういった動きは大和だけではなく、列島各地でほぼ同じ時期に起こっている。 ヤマト王権による古墳に表現された支配体制に変わって、律令国家として結実する新しい国づくりへの出発点として、その意義は大きい。 |
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D5-0金銅製冠と鼓 |
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D5-0-1藤ノ木古墳 円墳 古墳時代後期6世紀第4四半期 径50m高9m墳丘裾に円筒埴輪が取り巻く 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺2丁目
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D5藤ノ木古墳の時代 藤ノ木古墳の作られた6世紀後半には、朝鮮半島で新羅によって伽耶が滅ぼされた。それまで伽耶を通じて大陸文化に接していた日本列島の 大王家や有力豪族達は、新たな窓口を百済ないし新羅に求めた。そのため、藤ノ木古墳の金銅製馬具のように、それまでとは系譜の異なる 新しい文物がもたらされることになった。 |
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D5-1藤ノ木古墳 6世紀後半 法隆寺の西にある、径約68mの大形円墳である。6世紀後半の横穴式石室に、朱塗りの家形石棺があり、館内に2人の男性が葬られていた。 石棺の裏には、3組の馬具と挂甲があり、棺内には、金属とガラスの玉を中心とする装身具と、玉纏大刀などの飾り大刀と剣、 そして、冠・履(くつ)・大帯・筒形品・半筒形品の金銅製品が納められていた。 東アジア屈指の金銅製馬具と豪華な玉纏大刀、各種の金銅製品を添えられた2人は、有力豪族ないし大王の若くして亡くなった近親者だろう。 ※2体の埋葬は、発見当初は兄弟だと言われていた。なぜ?どうしてそんな発想になるのかな。成人女性と女児の時は、親子だと言われた。 兄が死んだら弟は大事な後継ぎだから、殉死したりできないだろう。 母が死んだら子供が又はその逆で殉死するのか。 いや、両方一度に死んだんだ。暗殺など政変で殺されたなら、そんな丁寧には葬らん。馬鹿だねー。なんでこうなるの。 藤ノ木は、従僕が殉死した。成人と子供は、子供が死んだので召使が殉死したのだ。馬鹿でもわかる話だろう。 |
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D5-1-1panel 金銅製馬具 藤ノ木古墳の馬具の中では、龍・鳳凰・鬼神・象・パルメット(唐草文)などで飾られた鞍金具が最も注目されている。高度な金工技術によって 作られたこれらの馬具の製作地を考える時に、馬への装着方法・飾り方を復元して比較するのも手掛かりになる。 鞍と尻尾の間の飾り方に注目すると、中国北朝の俑と新羅の馬具に似た例がある。 |
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D5-1-2馬具
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D5-1-3馬具2 |
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D5-1-4金銅製履 |
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D5-1-5石棺内の金銅製品 藤ノ木古墳の飾り大刀 6振りの刀剣のうち、朝鮮半島製の円頭大刀以外は日本列島で作られた。金銅製の魚佩を伴い、鞘を金銅板とガラス玉で飾る玉纏大刀は、 特に豪華な作りの儀式用の大刀で、袋に入れて棺内に納められていた様子が復元できた。 |
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D5-1-6飾り大刀と剣を作る |
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D5-1-7飾り大刀と剣
飾り大刀 装飾部品 |
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D5-2 6世紀の金工 6世紀を代表する金工品には、馬具と飾り大刀がある。金メッキと象嵌の技術を使って装飾性豊かな製品が作られている。 金メッキした薄い銅板を鉄板に被せる鉄地金銅張り(てつじ こんどうばり)の技法は、主に馬具に多く用いられた。 この時期の象嵌は、鉄に鏨彫りをして金ないし銀を嵌め込む線象嵌で、刀の刀身や柄頭に施す例がある。この他にも、金属製の空玉(うつろだま)※ と耳環、そして、藤ノ木古墳のような冠や履の金銅製品がある。 ※空ろ玉:中が空洞になった金属製の玉・古代のアクセサリー。金や銀でできた耳飾りなど。引用日本神話&古代史ミニ用語辞典 |
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D5-2-1金工 |
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D5-2-01a飾り大刀 刀の柄頭を飾る風習は、特に6世紀に盛んになる。その形は、楔形・環頭・円頭・頭椎(かぶつち)などに分類できる。中でも、例の多い環頭大刀と 円頭大刀は、朝鮮半島からの輸入品を基に列島での生産が始まる。特に環頭大刀は、6世紀を通して製作された主要な飾り大刀である。
象嵌の技術
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D5-2-01b |
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D5-2-01c龍文のある鉄刀 |
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D5-2-01d素環頭大刀 |
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D5-2-01e金銅装飾大刀
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D5-2-6馬具 |
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D5-2-06a杏葉の変遷と製作 鏡板と杏葉の変遷 6世紀の飾り馬具には、様々な形の金具がある。いずれも、最初は輸入品の馬具をモデルにして作られたものである。その後も、 装飾を加えたり文様を省略しながら、列島内での馬具の生産が盛んになった。同時に、金色に輝く馬具で馬を飾ることも広く普及する。
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D5-2-06b
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D5-2-06c展示室全景 |
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D6さまざまな棺 古墳時代の棺は、その材質によって木棺・石棺・埴輪棺・陶棺に分かれる。 この時代を通じて使われた木棺は、刳抜式と組合式があり、形は、前期に多い割竹形と、中期以降の箱形がある。 木棺に鉄釘を使用するのは、横穴式石室が近畿に普及する5世紀後半からのことであり、新しい埋葬方法と同時に取り入れられた。 ※釘がなかったために刳り抜き式木棺や、板を周りに立てて囲っただけの木棺だったんですね。 すると、石囲い式石棺というのがあるので、これは、板囲式木棺をまねた構造でした。 石棺には、箱式・長持形・家形の違いがある。 その主な石材の産地は、熊本県有明海南部の宇土半島付近(阿蘇石) と、兵庫県加古川付近 (竜山石)、二上山麓があげられる。 |
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D6-1
近畿の陶棺 近畿の陶棺は、その表面を飾る突帯の特徴によって、南河内タイプと北大和タイプに分けられる。まず、6世紀中葉に南河内タイプが成立し、 少し遅れて北大和タイプが奈良県北部で集中的に作られ、これが大和以外でも使用されるようになる。 ※この格子状の突帯は、もうどなたもご存知のように、崖地などを補強するためのマス目構造(補強)と、軽量化をはかったものですね。 この時代にすでにこんな知恵があったんですね。 南河内タイプの裾模様はトラス構造になっています。荷重が一番かかりますからね。でも、リンクの中では区別がつかない。
家形石棺の形式変化 引用家形石棺の形の変遷 型式変化の特徴は、縄掛突起が次第に下に下がり、蓋石の頂部が平たくなっているということだそうです。リンク参照ください。
※陶棺にしても家形石棺にしても、製作や運搬、使用などに便利なように変化しただろうと思います。 |
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