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 西日本の縄文2 01-2    2018.06.03

  橿原考古学研究所付属博物館  奈良県橿原市畝傍町50-2 0744-24-1185月休撮影可
   第2展示室 古墳時代
   第3展示室 飛鳥時代~中世

   第1展示室
   第2展示室
   第3展示室

 交通  近鉄線 畝傍御陵駅から4分 (290m)  橿原神宮前駅から13分 (1.1km)

 見所  近畿地方最大で最高権威の博物館。 大和の先史・古代遺物の展示。

 
 目次

第2展示室
D古墳時代

D0-1纏向遺跡群
D0-2-01纏向石塚古墳の出土物
資料
D0-2-01a直弧文を調べる
D0-2-02ヤマト王権の成立
D0-2-03土器
D1ヤマト王権の成立
D1-0王権の成立
考察
メスリ山古墳の安倍氏
メスリ山古墳の埴輪

D1-2キヌガサ
考察 埴輪の起源と変遷
考察 特殊器台・特殊壺と
    二重口縁壺

古墳のまつり
 器財埴輪と家形埴輪

D1-2王権の象徴 ―王の墓―
D1-2-01王の墓-墳丘・石室・埴輪-
メスリ山古墳
D1-2-02主室の副葬品
D1-2-03鏡
D1-2-10メスリ山古墳副室の副葬品
D1-2-11石製品
D1-2-06メスリ山古墳副室副葬品
D1-2-08メスリ山古墳
D1-2-12鏡
D1-2-12a 王墓に納められた鏡
D1-2-12b 下池山古墳
D1-2-12c鏡
D1-2-12h桜井茶臼山古墳の鏡
D1-2-12m鏡袋の織物
D1-2-13石製品・装身具
 川西町島の山古墳


D1-2-13d 4世紀の国際交流

D1-2-14王の墓
―武器・武具・農工具―

D2倭の五王の時代
 葛城氏の南郷遺跡
D2-1宮山古墳
D2-1-03宮山古墳の埴輪

研究 長持形石棺
D2-2王の居館 宮山古墳
D2-2-01直弧文の柱の家形埴輪

私見 家形埴輪の直弧文
考察 尾の居館の彩色

D2-3水まつり
D2-3-01a キヌガサ・翳
D2-3-02南郷遺跡の木製品
 翳(さしば)
D2-3-03 南郷の集落の大壁住居
D2-3-04 南郷遺跡群の土器
D2-3-06葛城の王都 南郷の集落
D2-3-07蘇我氏の曽我遺跡
 玉造の工房
D2-4対外交流と技術革新
D2-4-01海を越えての交流
D2-4-01a五世紀の国際交流
D2-4-01a五世紀の国際交流
 渡来人の墓の副葬品
D2-4-025世紀の鏡
D2-4-03鉄器生産の技術


考察
庄内式土器から纏向・邪馬台国

D2-4-04甲冑と武器・武具
D2-4-04a朝鮮半島と日本の甲冑
D2-4-04d甲冑と武器
D2-4-04b甲冑
 鉄製農具の改良

D2-4-05乗馬の風習のはじまり
D2-4-05a馬の飾り
D2-4-05c馬を飾る金具

D2-4-06陶質土器と初期の須恵器
D2-4-06b須恵器

D2-4-07横穴式石室の始まり
D2-4-07d市尾墓山古墳 副葬品

D3-0古墳のまつり
D3-01-1埴輪と木製品

D3-2四条古墳群の埴輪・木製品

D3-03石見遺跡の埴輪と木製品
D3-04横穴式石室と埴輪

D4-0ヤマト王権の展開
D4-1-01群集墳の成立

D4-3大王墓の変革

 
D5-0金銅製冠と鼓

D5-0-1藤ノ木古墳

D5藤ノ木古墳の時代
D5-1-1金銅製馬具
D5-1-5石棺内の金銅製品
D5-1-6飾り大刀と剣

D5-2 6世紀の金工
 象嵌の技術
D5-2-01c龍文のある鉄刀
D5-2-01d環頭大刀
D5-2-01e金銅装飾大刀

D5-2-6馬具
D5-2-06a杏葉の変遷

D6さまざまな棺
 近畿の陶棺
 家形石棺の変化
 
第2展示室
 



 D古墳時代 纏向遺跡群


 

 纏向遺跡地図
   纏向遺跡として発掘中の地域(地図①)は、纏向小学校東隣の田んぼの中ですが、実際はもっと広大な地域です。(地図②
 纏向遺跡群地図
   広大な纏向遺跡群内では、二期にわたって、都市中枢地域が移動して営まれています。(地図③
    1期目は弥生時代終末期、庄内式土器期の中枢区と都市範囲であり、
    2期目は古墳時代初期の、布留式土器期の、東に移動し、都市範囲は倍以上に拡大した。

   遺跡は、庄内式土器期から布留式土器期に渡る、弥生時代後期から古墳時代初頭の時期に相当します。

①纏向遺跡
引用纏向遺跡の地図goo地図
②纏向遺跡群の範囲
引用桜井市立埋文
③2期に渡る纏向遺跡と範囲
引用マント蛙のブログ
纏向遺跡の現状
二つの纏向遺跡は、どちらも水郷地帯に形成されています。

水運を活用することが道路の未発達な時代の都市形成には不可欠だったのかもしれません。

確かに、使役動物牛馬もない時代、踏み分け道を、全てのものを人の背中に担いで運ぶことは、不可能であり、非効率で、水運による大量輸送が、今の高速道路や鉄道網、トラック便のような役割を果たしたのでしょう。

 纏向遺跡の土器編年
土器編年案「王権誕生

引用マント蛙のブログ
土器の編年
 
庄内式土器が
約200年~250年頃まで盛行する。

この時期を弥生時代と見るか古墳時代と見るか。
 纏向遺跡の土器編年

引用マント蛙のブログ
土器の編年
180~210年 纏向1塁
 (弥生5様式末)

210~250年 纏向2塁
 (庄内古式)

250~270年 纏向3塁
 (庄内新式)

270~290年 纏向4塁
(庄内新新式・布留0式)

290~400年 纏向5塁
 (布留1式)
 弥生・古墳の時代区分と暦年代

引用マント蛙のブログ
土器の編年
弥生後期
AD1~190年 第5様式
 (190年)
弥生終末期
190~260年 庄内式
 (70年)
古墳前期
260~400年 布留式
 (140年)


  纏向遺跡の時代編年

   纏向遺跡から出土する土器は、弥生Ⅴ式期土器期以降の庄内式期。その次の布留式土器期に渡っている。

 しかし。ここから先は学説が定まっておらず、取り上げる資料によってまちまちです。

  弥生から古墳期へ
   小林行雄によって畿内の弥生土器を5様式に分け、第様式期を前期Ⅱ-Ⅳ期を中期期を後期とした。
   弥生時代と古墳時代の境界は明確ではないが、
   庄内式期と布留式期を古墳前期、または、庄内式期は弥生終末期、布留式は古墳前期、などに区分される。

   庄内式期と布留式土器期は、それぞれいくつかの纏向式土器期に分けられる。これもバラバラなので、Wiki纏向編年を例にあげます。
暦年代 纏向編年 土器出土遺構  対応する土器形式 
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層
灰粘土層
弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部
黒粘土(1)下層
庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式)
布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層
辻地区土坑7
布留Ⅰ式
 引用纏向編年

    纏向の時代は、弥生から古墳時代に移り変わる時期の大集落で、全国から人が集まり、30%が来訪者。その多くが東海人でした。


  纏向遺跡の古墳
   纏向地域には、発生期の古墳が集中しています。
   前方後円墳の、箸墓古墳、纏向石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、南飛塚古墳、、前方後方墳のメクリ1号墳など。

   やはり、ここが初期畿内政権の宮都だったのでしょう。か。


 D0-1纏向遺跡群

 ※纏向遺跡からは各地の土器が集中して出土し、古代の中心的な都市遺跡ではないかと考えられている。現在発掘調査中である。
纏向を取り巻く環境
纏向遺跡の成立
纏向から箸墓へ向かう大溝
箸墓へ向かう纏向大溝
纏向遺跡には、
初瀬川へつながる
水路網がつくられていた。 

※湿地を利用した川船による物資輸送が盛んだった。
ベネチアのような。
纏向大溝の護岸
  
護岸全てに打ち込まれた矢板の表面は、普通は割った面をそのまま使うのに、
チョウナで丁寧に表面仕上げがしてある。
現代のコンクリート護岸同様に、美しい岸辺が延々と続いていたでしょう。
纏向大溝の断面
 
溝の両側には胴木が沈められ、その内側に矢板が打ち込まれている。
溝の中に完形の小壺が沈められているのは、水にまつわる祭祀でしょうか。  
纏向と周辺諸地域との
関わり
纏向に運ばれた土器

古墳前期3世紀・纏向
 山陰の土器
 北陸~山陰の土器
 近江の土器
 北陸の土器

古墳前期3世紀・纏向
 吉備の土器
 河内の土器
 尾張の土器
このほかに、
北部九州系
阿波系
南関東系が出土し、これほど他所の土器が集中する遺跡はなく、場所によっては30割が外来系土器である。
 





 D0-2第2展示室






 D0-2-01纏向石塚古墳の出土物


第2展示室 古墳時代 弧文円板
古墳前期3世紀
桜井市纏向石塚古墳

鶏形木製品
古墳前期3世紀
桜井市纏向石塚古墳

宮山形特殊器台
古墳前期3世紀
橿原市弁天塚古墳

表面には、呪符である弧文がびっしりと描かれている。

特殊器台破片

特殊壺 (二重口縁壺)
古墳前期 3世紀
橿原市弁天塚古墳

  ※吉備で見てきた直弧文や、円筒埴輪、特殊壺、特殊器台が、すごく洗練され、大型化して畿内で登場する。
   畿内発祥の前方後円墳は、讃岐の円形周溝墓、山陰の葺石、吉備の特殊器台、鏡の副葬が北部九州、がもととなっている。

 
 資料

 D0-2-01a直弧文を調べる

引用 エナガ先生の講義メモは、纏向石塚古墳について詳しく論じています。
引用
 
民族学伝承ひろいあげ辞典は、ヤフーがジオシティを不採算で閉鎖したようです。
素晴らしいホームページや、ブログが沢山あったのに、大変な損失だと思います。
引用
 
装飾古墳今昔紀行は、直弧文における斜交帯の起源に関する私見 -ちょっと寄り道直弧文解説講座- ということで、
直弧文について詳しく論じています。
  引用 民族学ひろいあげ辞典では、ケルト模様から始まる様々な世界の中で、直弧文について言及している論文である。
 民族学ひろいあげ辞典は、ヤフー民族学…と、川勝ワールドに引っ越していました。よかったです。

  ここでは、直弧文、弧帯文、弧文 を同義語として区別なしに使っています。

楯築遺跡の弧帯文石は
弥生時代の墳丘墓に置かれた被葬者の怨霊を封じ込める石である。石は九州から運ばれたとされるが、施文がどこで行われたかは知らない。
蛇の目同様複雑な編み目がシールドの力を持つとされる。

複雑な文様を想起して立体的に巨石に彫り込む技術があり、側面には人面も描かれた、天才の傑作である。
楯築墳丘墓 弧帯文石
弥生時代後期
(2c後半~3c前半)
引用民俗学ひろいあげ辞典
楯築弧帯文
弥生後期(2c末-3c初)の楯築墳丘墓の弧帯文の一部を取り出したものだが、

古墳時代初頭(3c)の弁天塚古墳の特殊器台の透かし彫りに同じである。墳形は帆立貝型。

鎮め紋様の力を発揮している。
楯築墳丘墓 弧帯文石の弧文一部分 
引用装飾古墳今昔紀行
宮山形特殊器台
古墳前期3世紀

橿原考古学研究所
附属博物館
宮山形特殊器台
古墳前期3世紀

橿原市弁天塚古墳
弁天塚古墳の弧文円板
古墳時代初頭(3c)橿原市弁天塚古墳では、
立て並べた特殊器台に直弧文の透かし彫りを描き、

木製円盤に、多少平面化した彫りではあるが、彫り込んで、墓の鎮めとしている。

図形としては進化し、立体感は少ない。時の経過か、製作地の違いか。
弧文円板(復元品)
引用
エナガ先生の講義メモ 

橿原考古学研究所
附属博物館

引用民族学伝承ひろいあげ辞典
纏向石塚古墳、
弧文円盤の直弧文

引用装飾古墳今昔紀行


 D0-2-02panelヤマト王権の成立

  3世紀後半、奈良盆地の南東部に大型前方後円墳が突如として造られる。それが、最初の大王墓箸墓古墳である。
  その造営に直接かかわった纏向遺跡では、遺跡内に箸墓に先行する石塚古墳などがすでに作られていた。

  纏向を最初の都とする考えが有力だが、まだ、その中心となる部分は発掘で確認できていない。
  また、箸墓古墳のような初期の前方後円墳が、瀬戸内から九州北部にあり、それらの地方の地域勢力の連合による政治的なまとまりが、
  ヤマト王権を支えたと考えられる。


 箸墓古墳など、
    初期の前方後円墳について

 箸墓古墳
  前方後円墳 全長280m後円部径155m 葺石、円筒埴輪を伴う。3世紀中頃から後半(布留0式期)の築造
  宮山型特殊器台、都月型円筒埴輪、特殊壺、二重口縁壺(前方部)
  4世紀初頭(布留1式期)の土器や木製品を墳丘上で採取している。(その頃まで祭祀が行われていた)

 弁天塚古墳
  前方後円墳 全長60m帆立貝式 特殊器台、特殊壺
  極めて早期の古墳


 纏向石塚古墳 リンク
  形状: 纏向型前方後円墳 全長96m 撥形。葺石や埴輪はない。最古の前方後円墳。
  築造時期:古墳前期であるが(前方後円墳が登場したので)、3世紀初頭、(庄内0式期)。
  出土物:周溝から弥生終末期~古墳初頭の土器。弧文円板(吉備系祭祀遺物)。朱塗り鶏形木製品。木製鋤鍬。横槌。水槽。建築部材。土師器。

  石塚古墳は、墳丘長93mの前方後円墳である。墳丘に葺石はなく、小さな前方部が付くのが特徴であり、最古の前方後円墳の一つとされている。
  後円部の調査では、高さ4mの盛り土があったが、埋葬施設は確認されなかった。

ヤマト王権の成立
上に記述
纏向・箸墓・三輪山
周辺の遺跡地図
纏向石塚古墳 特殊器台から埴輪へ 岡山
 中山遺跡/特殊器台
 西江遺跡/器台・壺
奈良
 弁天塚古墳/器台・壺
 箸墓古墳/特殊器台



 中山大塚古墳 リンク
  前方後円墳 全長130m 地図山の辺の道添い) 葺石、特殊壷形埴輪、特殊壺形土器、二重口縁壷系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器
  古墳時代前期前半 3世紀後半の築造

 桜井  桜井市外山  
  前方後円墳 全長200m 後円部径110m 竪穴式石室木棺墓。副葬品に王杖,鏡,琴柱形石製品,石釧,銅鏃,鉄鏃など。
  墳丘上にあった壺形の土師器は石室を中心に長方形の区画に並べられており,埴輪の原型ではないかといわれている
  古墳時代前期 3世紀後半から4世紀前半

箸墓古墳前方部北裾で葺石を検出 箸墓古墳
 Wikipedia
 なら旅ネット
 桜井市ホームページ
 箸墓は卑弥呼の墓か
 トピックス
 古墳マップ
 陵墓  
天理市中山大塚古墳
実測図と復元図
竪穴式石室
葺石
中山大塚古墳
 Wikipedia
 天理市ホームページ
 案内スポット
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 古墳マップ
 大和の古墳探索
 墳丘からの眺め
 奈良の名所・古跡
 大和古墳群
前期古墳の竪穴石室
桜井茶臼山古墳両璧垂直
中山大塚古墳…両璧内転び
桜井茶臼山古墳
 Wikipedia
 観光協会公式
 茶臼山古墳
 墳丘からの眺め
 桜井市ホームページ
 古墳マップ
 古墳にコーフン
 大和の古墳探索
 古代史俯瞰 

 D0-2-03土器
二重口縁壺
古墳前期3c
橿原市弁天塚古墳

臓骨器
纏向遺跡の特殊埴輪 特殊埴輪 破片
古墳前期3c
桜井市纏向遺跡
箸墓古墳の特殊埴輪、特殊壺 箸墓古墳の特殊埴輪 箸墓古墳の特殊埴輪 箸墓古墳の円筒埴輪 墓古墳の円筒埴輪
箸墓古墳の特殊壺 特殊埴壺
二重口縁壺
古墳前期4c
桜井市茶臼山古墳  
二重口縁壺の底部は最初から穿たれた臓骨器である。    
 





 D1ヤマト王権の成立




                
 D1-0王権の成立



 D1-1メスリ山古墳  大王墓  古墳時代前期 4世紀前半 桜井市高田100(安倍)

  前方後円墳 全長224m 後円部径128m 巨大円筒埴輪、碧玉製石製品、破鏡、武器、鉄製葺
  メスリ山古墳 メスリ山古墳 メスリ山古墳 メスリ山古墳 メスリ山古墳


  メスリ山古墳に建て並べられた埴輪類が異常に大きいことが不思議でした。権力を見せつけたかったのだろう、に、落ち着くところでした。
  しかし、墳長224mの墳頂に、吉備で使われたような1mにも満たないような埴輪を並べても見えないし、映えることもない。

  以前、某宗教法人の本山に行きましたら、正面のふすまは、普通の1.5倍から2倍ほどあります。といわれ、そうでないと見えない映えない。
  そうだ、終末期の銅鐸が巨大化したのも同じ理由だった。メスリ山古墳の円筒埴輪が2.4mもあるのも同じだと理解しました。





 考察 メスリ山古墳の安倍氏

  古墳時代前期、4世紀前半の前方後円墳。全長244m後円部径128mで、磐余地域最大の古墳である。
  磐余イワレ:桜井市安倍(安倍氏の出自)付近の古地名)は、17履中,22清寧,26継体,用明天皇らの皇居のあった地域で,5~6世紀頃の要地。

  葺石墓の墳丘上には方形に高さ2.4m直径0.9mの大型円筒埴輪が立っていた
  2つの石室のうち、第2室は未盗掘で、大量の武器が出土した。王権と軍事権を掌握した大王墓と考えられる。
  茶臼山、メスリ山は大王墓であり、被葬者を安倍氏の祖オオビコ(大毘古命=父)とタケヌナカワ(建沼河別命=子)と考えられている。


 この安倍氏と、安倍晴明の一族、前九年の役の安倍氏前九年の役没落した安倍氏の後を支配して後三年の役で没落した清原氏の後を
  支配した奥州藤原氏の子孫が安倍氏を名乗り、現代まで血脈がつながっている。という。

  安倍氏は、東北(奥州)安倍氏、九州安倍氏(安倍一族=森鴎外)、長門安倍氏(安倍晋三)などは同系統なのか。私は皆、同一祖系だと思うが。
  調べていると、前九年の安倍氏は、エミシが勝手に安倍を名乗ったとか、東北遠征したときのご落胤だとか、が出てくる。瑣末なことかも。



 メスリ山古墳の埴輪
  古墳の後円部中央にある2つの竪穴式石室の上部を、長方形に取り囲む形で、大型の円筒埴輪・高坏形埴輪と円筒埴輪が二重に巡っていた。
  最大の埴輪は石室の両端の位置にあり、高さ2.4mで日本最大である。

メスリ山古墳の埴輪
古墳前期4c前半
大型円筒埴輪
割竹形木棺
下池山古墳4c前半

大型円筒埴輪

高坏形埴輪

 考察 なぜ特殊器台は二重口縁壺なのか

 ※古墳に共献された、特殊器台の上の特殊壺は 全て二重口縁壺だった。これは臓骨器の意味。誰かの二次葬骨が入っていたはず。
  ただの飾りで骨壺を並べはしない。すると、殉死がなかったとか、とは話が違う。遺体でなく、二次葬骨で周囲に配置したかもしれない。

  確かに、陪塚もあり、同一の棺に二体の埋葬。(これを見て兄弟だとか、親子だという人がいるが、そんな馬鹿なことがあるはずがない。)
  また、以前、中国地方で王墓の傍に、明らかに殉死者の棺がおさまっていました。

  二重口縁壺(骨壺)の中に遺骨を入れないで並べるはずはなく、殉死させたしもべを二次葬に壺に入れて飾ったと考える方が理解がしやすい。
  と、思う。しらんけど


 円筒埴輪
  弥生時代の葬送用器台から変化した円筒埴輪は、透孔(すかしあな)の形が三角から長方形そして円形中心へと変わる。
  表面に残る細かなハケ目は、埴輪を作る時に、板の工具で整えた痕跡で、その方向 (縦・横) や動き方を比べることによって、年代の手掛かりになる。

  時期が下るとともに、製作工程の簡略化 (手抜き) が進む。
メスリ山古墳の埴輪
上に記述
大形埴輪を作る
大形埴輪製作日数
8ヶ月

半年間乾かして窯で焼く
焼き上がった埴輪
円筒埴輪
上に記述


 D1-2キヌガサ

 下池山古墳
   古墳時代前期前半  4世紀前半 前方後墳、全長120m 大和古墳群に属する。天理市成願寺
   下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳 下池山古墳


 佐紀陵山古墳(さき,みささぎ,やま)
   古墳時代前期末~中期初頭 4c後半~5c前半 前方後円墳 全長207m前方部幅87m後円部径131m高さ20m 奈良市山陵町
   佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群
   石室の直上には衣笠形埴輪、盾形埴輪、家型埴輪も出土したがいずれも高さ1.5m、幅2mの大型埴輪であった。
   佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳群 佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳 佐紀陵山古墳

下池山古墳
割竹形木棺
古墳前期4c
天理市下池山古墳
キヌガサ形埴輪
前期4c佐紀陵山古墳
佐紀陵山古墳の
キヌガサ形埴輪
キヌガサは、貴人に差し掛ける大傘の先端につける、10~20cm小さな飾りである。

しかし、埴輪にすると巨大化し、神輿のような外見である。
 
 

 考察

 埴輪の起源と変遷

埴輪の起源を調べるのだが、弥生時代後半の3世紀に吉備地方で始まったことは一致している。だが、その先は…

東京国立博物館は、
3世紀前半の弥生時代終末期に、墳丘墓で祖先を祭る祭祀に用いられた特殊器台(筒形土器)とそれに載せていた壺形土器が変化したものだ。
3世紀後半の古墳時代の始まりと共に出現した、土管のような円筒埴輪壺形土器が埴輪の最初です。
4世紀中頃から後半に、形象埴輪の、蓋形、甲冑・盾・靫形や船形などの器財埴輪や、、鶏・水鳥など鳥形埴輪が現れます。

4~5世紀の畿内地方で著しく発達した「埴輪」(※製作技術・埴輪祭祀の儀礼・埴輪の思想・埴輪を用いた葬送儀式などを意味すると考える)は、
4世紀末~5世紀末の古墳時代中期には、岩手県から鹿児島まで伝播します。(※畿内政権の祭祀の統一がそこまで及んだという意味。支配地域)

5世紀後半には、人物埴輪動物埴輪が加わった。
5世紀末頃までに、このような葬送儀礼が東北南部から九州南部にまで拡がった。としている。


埋文よこはま(横浜市埋蔵文化財センターでは、
埴輪は古墳時代(300年頃~700年頃)を代表する遺物の一つです。
弥生時代後期(200年頃)に吉備地方のお墓に供えた、とこれを載せる器台です。
 それらは赤く彩られ、器台形土器には特殊な孔が開けられ、特殊な文様が描かれています。

前方後円墳が作られるようになると、供えられた器が次第に埴輪に変化します。
始めは壺形埴輪・器台型埴輪(原形を保っている)が、形式変化し、器台型埴輪は土管や筒形の円筒埴輪となり、
器台に壺を載せた様子を、壺の胴を省略して器台に融合させて朝顔形埴輪となり、これらを総称して円筒埴輪と呼ぶ。

やがて(形象埴輪の登場)、家形埴輪が登場し、更に、盾や靫などが登場する。
西暦400年代には、鳥・馬を、西暦400年代後半には人物埴輪も登場し、西暦600年頃まで盛んに作られた。


Wiki埴輪では、
3c後半から6c後半にかけて作られ、前方後円墳と共に消滅した。中心的な埴輪には畿内では弁柄など赤色を塗布。関東では形象埴輪を彩色。
弥生時代後期後葉の吉備地方の首長墓の墳丘墓から出土する特殊器・台特殊壺が起源である。
古墳時代前期初頭(3世紀中葉~後葉)に、吉備地方で、円筒形又は壺形。少し遅れて器台に壺を載せた形の朝顔形など円筒埴輪が出現する。
これらは置くだけから、掘って埋めるもの(都月型)へと変化し、前方後円墳と共に全国へ広がる。

古墳時代前期前葉、これら円筒埴輪とは別系統の家形・蓋・盾などの器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が出現した。
4世紀後半の早い段階で、墳頂治雄王に家形。周囲に盾・蓋などの器財で取り巻き、更に円筒埴輪で取り巻く豪華に配置が成立する。
古墳時代中期中葉(5c中頃)からは巫女など人物埴輪、馬・犬など動物埴輪、が登場する馬は裸馬と装飾馬がある。
 この頃から様々な埴輪が出現し、埴輪の配列にも変化が出てくる。
古墳時代後期6世紀中頃、畿内では埴輪は生産されなくなるが、環頭、特に埼玉県では生産され続ける。


芝山古墳・はにわ博物館では、
埴輪は、吉備地方の弥生墳丘墓での祭祀に用いた土器の「台(特殊器台)と壺」のセットが起源です。
死者に供えられたまつりの土器が、前方後円墳の祭祀に取り入れられ、古墳を飾り、円筒埴輪として発展してきたものと考えられています。


コトバンク埴輪の中の、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説では、
起源は
弥生後期、吉備の墳墓で儀器化した「特殊器台」である。これは、食物共献用の壺を載せる台で、古墳の創出に受容され、形式化退化・変容した。
円筒埴輪の胴部には箍(たが=突帯)とその間に透孔(すかしあな)がある。又、外面を赤色塗彩するのも、先の特殊器台の名残である。
更に、先の器台と畿内地方出自の有段口縁底部穿孔壺(底部穿孔の二重口縁壺)が合体して朝顔形円筒埴輪が生み出された。

家形埴輪は、岡山県女男岩遺跡の器台に載った家型土製品(弥生後期)があるが、時間的な空白が大きい。
同じく楯築弥生墳丘墓出土の人形土製品(破片、弥生時代後期)があるものの、5世紀代の人物埴輪とは繋がりにくい。





考察 特殊器台と特殊壺と二重口縁壺

埴輪の起源
以上、いずれも、埴輪の起源を、長い間の青銅器祭祀を禁止され、有力首長の墳墓崇拝の強制が始まった時代の祭祀を起源としている。
確かに、弥生墳丘墓祭祀から、古墳祭祀が発展するのだが、青銅器信仰禁止と有力者墳丘墓崇拝との間が短すぎる。
これでは、首長墓崇拝の祭祀形態はまだ確立してはおらず、人々の間にも浸透してはいなかったはずで、信仰とはなっていなかっただろう。

特殊器台と特殊壺
吉備で使われた特殊器台特殊壺は、どこから出てきたのだろう。もとは、ただの器台と、それに載せたである。
器台は物をのせるのだから、産物や、食べ物を供えるもの。壺は容器だから液体の水や酒を入れるもの。または、臓骨器。

祭祀場の荘厳
神聖なものを前にして、このような荘厳(しょうごん=祭祀のために飾ること)は洋の東西を問わず、過去から現在まで同じである。

青銅器祭祀の時代、最初は打ち鳴らし次第に特殊な鳴らし方に変化し最後に信仰の対象となった銅鐸は、今でも尊いものは三方(さんぼう)奉るので、当時も器台に載せたことでしょう。信仰の対象の青銅器を中心に、様々なものが左右対称に器台に盛られて共献されていたのでしょう。
すると信仰の中心、器台に載せた銅鐸は大きい方が見栄えが良い。当然大型化していったのでしょう。

こうした祭壇の荘厳の伝統は、崇拝対象が代わった、墳丘墓上で行われた前首長からの権力継承儀式でも、古墳前方部の祭祀施設での儀式でも、
崇拝の主体を正面にして対称形に飾られ、儀式が行われたことでしょう。


青銅器祭祀に使われたのは器台に載せられた産物や、壺に入った酒や水だったのでしょう。



首長墓の祭祀
戦争と権力闘争に明け暮れた首長墓祭祀に使われるのは、
権力継承の儀式では、次世代の後継者を脅かしそうな、元首長の片腕だった有力武将の殉死。実力者排除のために、細君や妾など、賑やかにするためには更に奴婢などをも殉死とした。のではないだろうか。韓ドラではそうなっている。(女官全員あの世行きだった)

二重口縁壺
「D0-2-03土器」でも、橿原市弁天塚古墳から、出土した二重口縁壺が円筒埴輪や特殊壺に並んで置かれている。
二重口縁壺が登場するのは、都月型円筒埴輪(墳丘に埋め込まれた最初の埴輪)と共に出現した。
特殊器台と特殊壺の後に二重口縁壺が登場したのは、この頃に骨壺が埴輪と共に立て並べられるようになったからである。なぜか。

そりゃあ、生き埋めにしちゃあ残虐だから、あっさり殺して、二次葬の二重口縁壺に納めて古墳の周りに並べたのさ。きっとそうだよ。しらんけど(*^^)v



※都月型円筒埴輪以前は、円筒埴輪は、墳丘に置いておくだけのものだった。都月型円筒埴輪から埋め込み部分を作り付けた埋設型になった。
  参考資料古代への扉
 





 古墳のまつり
  古墳は、亡き支配者を葬るための墓であると同時に、跡継ぎの支配者の権威を示すための政治的な意味を持つ。
  (そして、支配者一族の支配権や地位を高めるために、支配民に礼拝させた道具立てである。その信仰が現在まで、神社となって続いている。)

  そのため、古墳に立てる埴輪は、時期と共にその種類も変わる。
  埋葬の中心になる墳丘の頂上部では、円筒埴輪や各種の器財埴輪・家形埴輪が方形に取り囲む。これらは、葬られた人を守るための意味が強い。

  そして、5世紀後半に新たに加わる人物と動物の埴輪は葬送と引き継ぎの儀礼がおこなわれた様子を再現している。

 器財埴輪と家形埴輪
  器財埴輪は、権威の象徴のキヌガサ (貴人にさしかける日傘の先端の飾り) などと、甲冑などの武具の埴輪に分けられる。

  キヌガサ形埴輪のなかでは、佐紀陵山古墳の例が最も大きくリアルに作られている。武具の中では、盾と靫 (ゆぎ) が長い期間作られ続け、
  5世紀には甲冑も加わり、共に古墳を守る意味を持つ。

  家形埴輪は屋根の形によって、入母屋・寄棟・切妻に分かれ、室宮山古墳のような大型古墳では、これらを同時に並べて、亡き王の居館を
  再現している。
古墳のまつり
上に記述
器財埴輪と家形埴輪
キャプションの宮山古墳室宮山古墳である。
室地区の宮山古墳





 D1-2王権の象徴 ―王の墓―





  4世紀の王権を象徴するのは、
  古墳の墳丘と埴輪、埋葬のための長大な竪穴石室、そして死者に添えられた鏡や各種の石製品と、鉄製の武器・武具・農工具などである。

  墳丘の形は、前方後円墳のほかに前方後方墳・円墳・方墳があるが、主要な古墳は大半が前方後円墳である。
  これらの墳丘の形・大きさ、またはそのつくられた位置から、政治的な意味を読み取ることができる。



 D1-2-01panel

 王の墓-墳丘・石室・埴輪-
  大きな前方後円墳の墳丘は、(2段3段と)段積みによって築かれ、その表面には石が葺かれていた。
  後円部の頂上に、埋葬のための竪穴石室が造られ、その上部には盛り土による方形の壇がある。

  箸墓古墳などの初期の古墳では、その上に埴輪の祖型となる器台や壺が置かれ、後に円筒埴輪列が取り囲んで、聖なる空間を表すようになる。

  石室内には、下池山古墳のように大木を刳り抜いた木棺を置き、遺骸に鏡や装身具・石製品・鉄製品などの各種の副葬品が添えられていた。
    下池山古墳の割竹形木棺



 メスリ山古墳

  奈良盆地南東部、桜井市南部の丘陵にある長さ236mの大型前方後円墳で、代表的な前期古墳である。後円部の頂上に、長方形に取り囲む
  大型埴輪列と、その中央に長さ8mの竪穴式石室 (主室) がある。
  この石室はすでに盗掘にあっていたが、鏡と椅子形・櫛形などの石製品の破片と玉が残っていた。

  その東側の高坏形埴輪の下にも副葬品のみの石室 (副室) があり、玉杖や鉄製弓矢と、200本を超す鉄製槍先、236本の銅鏃、鉄製農耕具などが
  納められ、まさに武器庫のようであった。(農耕具はこの場合、工兵隊の武器です)

王権の象徴 -王の墓-
上に記述
王の墓
-墳丘・石室・埴輪-
上に記述
メスリ山古墳
上に記述
メスリ山古墳

 D1-2-02主室の副葬品 メスリ山古墳

メスリ山古墳出土品
椅子形石製品
椅子形石製品

椅子の脚ってこと?
椅子形石製品

これ椅子?お尻入らんし載せたら痛い。
別物やね。
管玉
櫛形石製品

櫛ではない
櫛形石製品
車輪石と石釧 車輪石
石釧
鍬形石(腕輪) 石製合子 合子(ごうす)は香合(こうごう)。蓋のある小さな容器。香入れ。

木製でなく、石製は重くて持ち歩けない。用途が違うようだ。

室内で香炉の横に置くものかも。
 D1-2-03

三角縁神獣鏡

内行花文鏡
 


 D1-2-10 メスリ山古墳副室の副葬品 古墳前期 4世紀

  ※メスリ山古墳はリンクの図面のように、竪穴石室であり、副室の副葬品置き場は、主室の周りにありました。 引用メスリ山古墳 国史跡
 D1-2-11 石製品
石製品
石製石鏃
石製石鏃 副室の副葬品 玉丈
木製の部品でつないでいたのかな
石製紡錘車
ただの機織り具なら副葬されない。ホントは何だろう。
大型管玉 こんな巨大な管玉で作る装飾品て何?
本当は何に使われたのか。

中に鉄心を通して繋いで玉杖の棒にしていたのかな。玉杖は木製ではなかったのかも。
 

 D1-2-05 
桜井市纏向古墳と
箸墓古墳
後円部墳頂の埴輪と
石室(メスリ山古墳
メスリ山古墳の
発掘調査
超巨大な後円部と
小さく見える発掘現場
後円部頂上の
埴輪出土状況
二重の埴輪列と
囲み内部に石室が見える
主室内部
朝鮮式割石の上に巨大な蓋石が見える
メスリ山古墳の
発掘調査
副室内の副葬品出土状況
副室側壁は主室と違う
石製品・鉄製槍先
・鉄弓 出土状況
死者の軍隊は大量の槍を持つ槍歩兵だったのか。
副室内の副葬品の埋納状況(断面復元図)
石室は巨岩の持ち送り積みで、白兵戦用の大量の槍と、矢筒に弓。
農民は首長のために、木製鎧ってもんじゃない、木製胴着で、槍による白兵戦を強いられたのか。

確実に殲滅作戦だ。必ず死ぬ。

 D1-2-06 メスリ山古墳副室副葬品 ●古墳時代前期 4世紀 ●桜井市メスリ山古墳

玉杖
玉杖(飾り部) 玉杖(石突部)
鋸のこぎり  鑿のみ
手鎌てがま やりがんな
刀子とうす 鉄斧てっぷ

工兵隊の携行品
銅鏃

銅製弣 (ゆづか)
 銅製弣ゆづかの装着位置


 D1-2-07 メスリ山古墳 弓矢 桜井市高田100・上之宮 古墳時代前期 4世紀初頭 前方後円墳 
       三角縁神獣鏡・鉄弓等鉄製品・銅鏃・碧玉管玉・埴輪など多数。桜井茶臼山古墳らと共に鳥見山古墳群に属する。

  全長約235mの柄鏡形の前方後円墳である。後円部頂上兵站部には大型円筒埴輪・高坏形埴輪・円筒型埴輪による長方形の埴輪列が二重に巡る。
  主室の竪穴式石室はその中心に、副室の竪穴式石室は外画列東辺の内側に位置する。

  盗掘を受けた主室からは、銅鏡片、玉類、腕輪型石製品、椅子型石製品、櫛形石製品、滑石製合子、刀剣が出土した。

  副葬品専用の副室は未盗掘で、212本以上のやり、鉄製弓と鉄製矢、刀剣、農耕具、玉杖4本分、石製紡錘車、大型管玉、236本の銅鏃と
  50本の石製鏃をソア着した屋などが出土した。

メスリ山古墳
上に記述

槍先

鉄製弓と
鉄製矢

鉄製弓と
鉄製矢



 D1-2-08メスリ山古墳

 天理市柳本古墳群 大和古墳群  大和・柳本古墳群


後円部頂上の埴輪と石室
(桜井市メスリ山古墳)
天理市柳本古墳群
 
 






 D1-2-12






 D1-2-12a 王墓に納められた鏡 天神山古墳 天理市柳本町  (大和天神山古墳と称されることが多い)


 天神山古墳 前方後円墳 古墳前期 3世紀後半~4世紀前半 墳丘長113m 埴輪・葺石なく、段築・周溝が不明瞭。なかった可能性。
   内転びの石室に、割竹形木棺の周囲に並べられた20面の鏡が大量の41kgの水銀朱と共に出土した。

   リンク大和天神山古墳Wikipedia古墳:探訪大和の古墳探索大和天神山古墳


 王の墓 -鏡-
  死者に鏡を添えて葬る風習は、古墳時代に特に盛んになる。中には20~40面の多量の鏡を持つ古墳があり、天神山古墳 (23面) はその
  一例である。この時期には、中国鏡の他に、日本列島で作った鏡も多くなる。

  三角縁神獣鏡は、同じ原型による鏡が各地の複数の古墳に分かれて副葬されている点が重要である。


奈良国立博物館は、
副葬鏡の写真資料掲載
王の墓 -鏡-
上に記述
 



 D1-2-12b 下池山古墳 平成7・8年度(1995・1996)調査 古墳時代前期前半 4世紀前半  天理市成願寺町


  全長約125mの前方後円墳で、後方部にある全長6.9mの竪穴式石室には、コウヤマキ製の割竹形木棺が安置されていた。
  盗掘・攪乱のため残されていた副葬品は少なく、碧玉製石釧、勾玉、管玉、ガラス小玉、槍・刀剣類、刺突具、やりがんななどであった。

  竪穴敷く石室北西の裏込礫中には小石室があり、大型仿製内行花文鏡 (径37.6cm) が収められていた。鏡は絹織物、真綿、毛織物からなる袋に
  入れられ、更に鏡筺に収められていた。同様の鏡埋納事例が天理市柳本大塚古墳(古墳時代前期前半4世紀前半)にある。

下池山古墳
上に記述

勾玉、管玉、ガラス小玉

石釧

鉄槍、鉄剣
 D1-2-12c
竪穴式石室と木棺
天理市 下池山古墳

内行花文鏡/前期4c
天理市下池山古墳

内行花文鏡/前期4c
大和郡山市小泉大塚古墳
内行花文鏡/前期4c
橿原市新沢千塚古墳500号墳

内行花文鏡/前期4c
橿原市新沢500号墳

  新沢千塚古墳群 引用wikipedia
    橿原市の畝傍山南部の東西・南北2km四方の越智丘丘陵に位置し、4世紀末から7世紀にかけて造られた、600基以上の墓群である。
    この古墳群の氏族や被葬者は特定されていない。

    粘土槨を内部主体とする500号(前方後円墳)を含む23基の古墳が発掘された。
    500号墳では古墳時代前期に類する副葬品が検出され、その中には懸垂鏡といわれる珍しい銅鏡が含まれていた。


  新沢千塚500号墳
   前方後円墳 4世紀終わりの築造古墳群中の最古級。全長62m。粘土槨(後円部に2)(くびれ部に粘土槨1、埴輪棺1)(前方部に粘土槨1)
   三角縁神獣鏡や「八ツ手葉形銅製品」と呼ばれる懸垂鏡を含む6面の鏡をはじめ、筒形銅器、銅釧、石製腕飾類、方形板革綴短甲、武器、
   玉類、農工具など



 D1-2-12h
 桜井茶臼山古墳の鏡 (81枚) 古墳前期(初期) 4世紀 前方後円墳 墳丘長207m柄鏡形 箸墓古墳に後続する時期に造営。

三角縁神獣鏡
古墳前期4世紀
広陵町新山古墳
方格規矩鏡
仿製三角縁神獣鏡
橿原市新沢千塚500号墳
三角縁神獣鏡 方格規矩鏡 仿製三角縁神獣鏡
桜井茶臼山古墳の鏡
内行花文鏡

斜縁神獣鏡
画文帯神獣鏡

三角縁神獣鏡
 D1-2-12j
画文帯神獣鏡
前期4c桜井市茶臼山古墳
三角縁神獣鏡
前期4c桜井市茶臼山古墳
 
 D1-2-12m
 鏡袋の織物

  下池山古墳の内行花文鏡の鏡面に残った織物は、縞模様のある平絹で、青・黄緑・茶色などの糸を織り込んでいる。
  この織物の袋に入れて、小石室内に副葬していた。

三角縁龍虎鏡
桜井市池ノ内5号墳

三角縁龍虎鏡
桜井市池ノ内5号墳

方格規矩鏡
古墳前期 新沢500号

直弧文鏡
広陵町新山古墳
古墳前期4世紀
直弧文鏡

方格規矩鏡
広陵町新山古墳
古墳前期4世紀

家屋文鏡/
河合町佐味田宝塚古墳
古墳前期4世紀

家屋文鏡
古墳時代前期4世紀
北葛城郡河合町
佐味田宝塚古墳

家屋文鏡
古墳時代前期4世紀
北葛城郡河合町
佐味田宝塚古墳


  広陵町 新山古墳 北葛城郡広陵町大塚
    前方後方墳 古墳時代前期初頭 全長125m 鏡34面(三角縁神獣鏡9,直弧文鏡3)・金銅製帯金具・車輪石・鍬形石など

  佐味田宝塚古墳 北葛城郡河合町 
    前方後方墳 全長111m 後円部径60m 家屋文鏡、玉類など装身具、銅鏃・盾の飾り・石釧・鍬形石・刀子・鑿・鉄斧

 




 D1-2-13石製品・装身具 川西町島の山古墳


  古墳時代前期末頃 4世紀末 墳丘長200m 前方後円墳 リンク01 02 03 04 05

  古墳時代前期末頃の4世紀末に築かれた全長190mの前方後円墳で、奈良県下の前方後円墳約300基のうち第20番目の規模に相当。
       引用島の山古墳とは

  ※大量の車輪石と鍬形石が棺の周囲に副葬された古墳である。 
   WikipediaWeblio辞書古墳マップコトバンク名所・古跡島の山古墳島の山古墳島の山古墳 - 奈良県川西町
 D1-2-13a
川西町島の山古墳 腕輪形石製品の出土状況
川西町島の山古墳
王杖

玉杖 古墳前期4c
桜井市茶臼山古墳

車輪石の出土状況
川西町島の山古墳

車輪石 古墳前期4c
川西町島の山古墳
滑石製

車輪石 古墳前期4c
川西町島の山古墳
滑石製

車輪石 古墳前期4c
川西町島の山古墳
滑石製

鍬形石 古墳前期4c
川西町島の山古墳
滑石製
 D1-2-13b

遺骸に添えられた
鏡・玉・石製品
川西町島の山古墳

石製坩、石製紡錘車
車輪石、玉杖
前期4c新沢500号墳

石釧
石製合子、車輪石
4c奈良市猫塚北古墳

  猫塚古墳  奈良市佐紀町寺畑
   前方後円墳 全長120m 古墳時代前期 佐紀(さき)盾(たたなみ)列(れつ)古墳群

D1-2-13c
新沢500号墳の装身具
桜井茶臼山古墳の
石製品
玉葉・弓飾の石製品
鍬形石・車輪石・石釧

前期4c桜井茶臼山古墳
新沢500号墳の装身具
管玉・琴柱形石製品

勾玉/古墳前期4c
宇陀市澤の坊2号墳

勾玉
新沢500号墳

銅釧
八ツ手葉形銅製品
新沢500号墳

 ※八ツ手葉形銅製品は懸垂鏡といわれる。普通の和鏡葉専用のスタンドに立て掛けて使うが 、懸垂鏡は、吊るして使う鏡。
 



 D1-2-13d4世紀の国際交流

  4世紀の伽耶の中心地、金海(キメ)・大成洞古墳群で、日本の前期古墳の副葬品に共通する遺物がまとまって出土しています。
  このことから、中国や朝鮮半島製の文物は、この地域を通じて、日本列島にもたらされたと考えられます。

  4世紀には、このような文物の移動が中心であった。

四世紀の国際交流
4世紀の国際交流
日本出土の遺物
七支刀

石上神社 天理市布留町
七支刀は半島の剣
漢文60余文字を象嵌
詳しくはリンクの解説

半島では、蛇行剣をはじめ、いろいろなものが作られた。
金銅製帯金具

新山古墳 奈良
中国出土 金銅製帯金具
出光美術館



 倭→伽耶・新羅に運ばれた文物

式帯金具の出土地
朝鮮半島出土の遺物
倭→伽耶・新羅

巴形銅器

金海市
大成洞13号墳
大成洞2号墳
筒形銅器
大成洞1,2号墳
石製鏃/大成洞13号墳
紡錘車形石製品

大成洞18号墳
石釧/慶州 月城路29号墳

 巴形銅器 引用コトバンク
  弥生~古墳中期にかけて使用された青銅製の装飾金具の一種。中空の半球形をした体部の周囲に突出した4~9本の扁平な脚状装飾を有し,
  全体の形が巴の形に似るところから呼ばれる。

  弥生時代のものは,左曲りの6~9本の脚があり,古墳時代になると,普通右曲りの4脚となる。
  古墳時代のものは革盾の装飾金具として使用されたことが知られている。朝鮮半島南部の加羅の墳墓からも発見され,当時の文化交流の
  あり方を示すものとして注目されている。





  金銅製帯金具 広陵町 新山古墳

金銅製帯金具/復元

広陵町 新山古墳

帯先金具

円形金具

絞具
線彫りの技術
中国・晋式帯金具
     
 




 D1-2-14王の墓 ―武器・武具・農工具―  新沢500号墳、新沢茶臼山古墳


  戦いのときに身を守る甲(よろい)と冑(かぶと)は、古墳時代に入って鉄製品となる。 ※1

  新沢500号※3の短甲は、長方形の鉄板を革紐で綴じ合わせ、身体の曲線に合わせて作られている。これが最初の規格品の短甲であり、
  その鉄板の使用法は5世紀の短甲に繋がる。攻撃用の武器は、刀・剣・槍・弓矢などがあり、鏃は銅鏃と鉄鏃が使用されていた。

  農耕具は※2、鍬・鍬の先に鉄板を取り付けるようになり、木を加工する鉄製の道具が増える。(木器の多様化と増加。技巧の向上)


  ※2農耕具も武器であり、戦争に用いられた。いわゆる工兵隊である。自衛隊がブルドーザーや、橋梁部隊を持っているのと同じである。
   戦争をするときには道路や橋が必要である。特に弥生・古墳期には、そのようなインフラは整っておらず、攻撃側には必須の部隊である。

  ※1忘れていました。鉄製品は西暦0年頃に一般化し、例えば台湾北部の海岸地帯でも日本のたたら製鉄のような方法で作られ始めました。
   弥生時代終末期には、木製や皮革製の短甲が出土しています。

  ※3新沢500号墳 新沢茶臼山古墳
   4世紀末頃築造の前方後円墳で、新沢古墳群中でも古い時期のものです。全長62m



 城山2号墳の札甲(さっこう)
  小さな鉄板(小札=こざね)を連続させた甲(よろい)は、国内で唯一の例で、中国の北魏などの武人の俑によく似た表現がある。

札甲 (さっこう)
札甲/古墳前期4c
香芝市城山2号墳
城山2号墳の札甲
鉄刀・鉄槍先・鉄鉾
古墳時代前期4世紀
橿原市新沢500号墳

銅鏃
古墳時代前期4世紀
橿原市新沢500号墳

銅鏃
古墳時代前期4世紀
桜井市茶臼山古墳

筒形銅器
古墳時代前期4世紀
橿原市新沢500号墳

鉄鏃
古墳時代前期4世紀
桜井市茶臼山古墳

鉄斧
古墳時代前期4世紀
橿原市新沢500号墳
桜井市池ノ内古墳群

鉄製柄付手斧
古墳時代前期4世紀
天理市上殿古墳


古墳時代前期4世紀
橿原市新沢500号墳
やりがんな
古墳時代前期4世紀
橿原市新沢500号墳
王の墓
―武器・武具・農工具―
上に記述

やりがんな
古墳時代前期4世紀
桜井市メスリ山古墳
 
 







 D2倭の五王の時代  5世紀






  5世紀は、日本列島の5人の王が中国に使いを送ったと中国の歴史書に記された時代である。(※主に半島南部での軍事的支配権を求めた。)
  彼らは、東アジアの中でも特に朝鮮半島の情勢に強い関心を向けていた。

  同じ時期に、大王墓の大型前方後円墳 (の造営地) が、奈良盆地から河内平野へ移動し、古墳が最も巨大化する。(百舌鳥・古市古墳群)
  特に百舌鳥古墳群は、大阪湾からの眺めを意識した場所が選ばれていて、国際化時代に対応していたことがわかる。(※中国の使者に見せる為)


  倭の五王は、5世紀初頭から末葉までほぼ1世紀にわたって東晋や南朝の宋に朝貢した日本の大王である。
    413年倭王が東晋、425年倭王讃が宋へ,438年倭王讃の弟珍 (『宋書』は珍,『梁書』は弥とする) が宋へ,443,451年倭王済が宋へ,
    462年倭王済の子,興が宋へ,478年倭王興の弟,武が宋へ。


  倭の五王の時代は、半島からやってきた人々が、畿内政権を打ち立て、強い権力と強大な軍事力を蓄えた時代である。
    彼らは本来、半島人であり、半島で国盗り合戦をしているならば、そこに参入しようとするのは、半島人の望みだったであろう。

    更に、半島のごたごたによる大量の農民兵や武人など渡来人が、雲霞の如く押し寄せてきた情勢もあり、この膨大な兵力をもってすれば、
    半島はいとも簡単に手に入ると考えたに違いない。
    つまり、植民地の半島人が、本国を奪取するのである。これは、夢があり、母国に帰るという大義もあったことだろう。
    ロマンス=冒険譚である。

    そこにもう一つ必要なのは、半島人が気にする、中国王朝のお墨付きである。半島を支配する軍事的な地位。これを求めて五王は朝貢した。



 D2-1宮山古墳 (室大墓:むろのおおはか、室宮山古墳 巨勢山古墳群(約700基・消滅含む)引用宮山古墳) 奈良県御所市大字室
              5世紀初頭、古墳時代中期

  奈良盆地の南西部にある、長さ246mの大型前方後円墳である。後円部には、南北2つの竪穴石室があった。調査された南石室は、
  上部に盾・靫ゆぎ・甲冑などの埴輪が長方形に取り囲み、その南に5棟の家形埴輪が並んでいた。

  特に石室の上には、直弧文などで飾った大型建物の埴輪が3棟以上置かれていた。
  石室内には兵庫県加古川市の竜山石製の長持形石棺があり、三角縁神獣鏡や短甲の破片と、各種の滑石製模造品などが残っていた。

  5世紀前半の 葛城氏の王墓である 

   ※以前の記事でも取り上げたように、葛城氏は渡来人の大勢力の王族である。出自は半島南部の金官加羅と言われている。
   葛城氏は渡来、定着以後、他の渡来王族同様、やってくる半島人集団を次々と受け入れ、常に新しい文化や技術を取り込み続けた。
   宮廷政治にも深く関わった大豪族である。   葛城氏の消長wikipedia
 D2-1-01
倭の五王の時代
上に記述
宮山古墳
上に記述

滑石製斧
滑石製刀子

(葬送儀礼用模造品)
琴柱形石製品
勾玉・棗玉なつめ・管玉

三角縁神獣鏡

滑石製勾玉

滑石製勾玉

 D2-1-02宮山古墳
  全長238m以上の前方後円墳で、後円部の竪穴式石室2基のほか、前方部や北側張り出し部にも埋葬施設がある。

  昭和25年(1950)、後円部南側石室を調査。竜山石製の長持形石棺を納めた石室は盗掘を被り、出土遺物は三角縁神獣鏡片、玉類、杵形石製品、
  琴柱形石製品、甲冑片、刀剣、石鏃、滑石製模造品などにとどまる。

  石室上部には、キヌガサ・盾・靫(ゆぎ=矢を入れて持ち運ぶもの)・甲冑・草摺などの形象埴輪を含む二重の埴輪列が巡っていた。
  埴輪列南側には、5棟の家形埴輪が、埴輪列の内側の石室上には入母屋造りの家形埴輪3棟以上が建てられていた。


 宮山古墳石室内と石室上部の埴輪を再現した

宮山古墳
上に記述
発掘時のジオラマ
竪穴式石室に、大王用の竜山石製の長持ち型石棺

石室は朝鮮式の薄い割石を積み重ねてつくった

石室周囲を様々な埴輪が結界を張る

巨大なユギの前に五棟の邸宅が配置されている
盾形埴輪や円筒埴輪が取り囲む

 D2-1-03宮山古墳の埴輪 ●古墳時代中期 5世紀 ●御所市宮山古墳
 資料
   寄棟造り…四方の四枚の屋根が中央に集まっているもの
   切妻造り屋根の両端が切り落とされたもの
   入母屋造切妻屋根の両端にひさしをつけたもの
宮山古墳の埴輪
家形埴輪 入母屋

盾形埴輪
装飾が施されている
籠目か?

家形埴輪 寄棟

靫形埴輪 (ゆぎ)
矢が入った様子や装飾が線描き。彩色されていたか

草摺形埴輪くさずり
よろいの腰の部分

靫形埴輪
背負子になっているのか。入れた弓も描かれている

衝角付冑・盾形埴輪
衝角は舳先の様に尖った様子を言う。矢が刺さらずそれる形状。
宮山古墳全景
周囲に濠を巡らせた大きな古墳である
長持形石棺の変遷
4世紀末-5世紀前半-
5世紀中葉~後半

盾形埴輪・摺形埴輪
破片


 研究
 長持形石棺

 引用「長持形石棺/羽曳野市」

長持形石棺は、長さが3メートル近いものもあり、蓋に格子の文様を彫ることもあります。
4世紀の終わり頃から製作が開始され、5世紀代には王者の棺として近畿地方の大型の古墳で多く用いられています。
奈良県や大阪府にある古墳に使われる長持形石棺のほとんどは、兵庫県加古川市付近で産出する竜山石で製作されたものです。


 引用「長持形石棺のこと藤井寺市

長持形石棺は6枚の石の板を組み合わせた組合せ式石棺というべきものです。これは、6枚の板を組み合わせた組合せ式木棺をモデルにしたものです。

柏原市国分にある松岳山(まつおかやま)古墳の組合せ式石棺は、蓋石が蒲鉾形をしていないこと、小口部の方形突起が認められないことをのぞけば典型的な長持形石棺の構造そのものです。これが長持形石棺の初現です。(中略)

最後に長持形石棺についての興味深い説を紹介します。それは倉敷考古館の真壁夫妻が発表されたもので、

この石棺の分布は王権を象徴するというよりも
葛城氏」との深いかかわりをもつもの(大王を含む)のみ使用が許された一種の身分を表す葬法ではないかと述べられています。


 ※長持形石棺の次に刳抜式家形石棺が大王の棺として用いられます。
  この石棺も、兵庫県加古川市の竜山石で作られています。このことが、葛城氏の絶大な権力を示すものだったとは知りませんでした。
  竜山石を使うのは、単に石材の材質が良かったからだろう、、ぐらいにしか思っていませんでした。
  
  すると、葛城氏の勢力は本拠地を離れて、兵庫県にまで及んでいたのでしょうね。




 D2-2王の居館 宮山古墳

  権力者の住まいを具体的に表現したのが、家形埴輪である。宮山古墳で埴輪列の中心にあった入母屋造りの建物は、屋根の上にかつお木をのせ
  角柱を直弧文で飾り、開放的な大きな窓のある祭殿を表現している。そして、寄棟と切妻の建物は日常の住まいと倉庫だろう。

  実際の居館跡 (群馬県三ツ寺遺跡など) の調査でも、同じように住まいと生産工房とまつりの場に使い分けられていたことがわかっている。


 D2-2-01直弧文の柱の家形埴輪 ●古墳時代中期 5世紀 ●御所市宮山古墳

王の居館
上に記述
王の居館
群馬県三ツ寺遺跡

屋根は杉綾織で板葺の表現か

祭殿周囲に欄干が巡らされているかのようだ

欄干には模様が描かれ、建物全体が赤く塗られていたのだろうか

すみ柱に直弧文を描画

 私見
  家形埴輪に直弧文を描いたのは、現住の建物に描かれていたのではなく、死者の住まいであるから、魂の鎮めとして描いたと思います。

 考察
 王の居館の彩色彩文
  家形埴輪「王の居館」は、赤く彩色され、柱や壁には模様が描かれている。現在の寺社も赤彩され、柱や壁には模様が彫刻や彩文されることから
  この「王の居館」は、現在みられる寺社の彩色と同じと思われる。赤彩や、吉備の直弧文は魔除けであるので、一種の結界ともいえる。



  宮山古墳をもっと調べればもっと面白いものが 出てきそうだ とおもいます。でも、もう時間がない。また、機会があれば。


 




 D2-3集落の生活と水まつり 南郷遺跡群  (葛城氏) 御所市大字極楽寺 5世紀前半の豪族居館遺跡

  5世紀の集落遺跡の南郷遺跡群では、鉄器や玉の生産工房と共に、住まいの跡とまつりの場が調査で明らかになった。
  建物の中で重要なのは、集落内の指導者の住まいと考えられる、柱を壁に塗り込めた大壁構造の大型住居である。
    ※大津市立博物館などで、(謎の)大壁建物、と言われた建築物です。
 

  一般の人々の住まいや工房は、竪穴式の住居であり、その差が建物構造に現れている。
  まつりの場(南郷大東遺跡) では、小さなダムで堰き止めた水を引いて、各種の木製品を使ったまつりを行っていた。


  ※南郷遺跡は豪族の葛城氏が一大拠点にしていた遺跡である。
   マツリゴトの中心となる高殿や大型建物跡を検出。政治と不可分の祭祀跡が、池・木樋などの導水遺構、水まつりの跡であった。


  葛城氏の南郷遺跡


 D2-3-01panel&giorama

御所市南郷大東遺跡 御所市 宮山古墳と
金剛・葛城山麓
集落の生活とまつり
上に記述

 古代の水まつり
  水にまつわる祭祀ってなんでしょう。わざわざ水を引いた施設を作り、小屋掛けして、何をしていたのでしょう。
  人面墨書土器を投げ込んでいた洪水鎮め、でもなく(墨書土器が出ていない)、曲水の宴(歌を詠んで流す)でもなく、貴人が行う祭祀。何?
   水の信仰・祀り・祭り-ミツカン水の文化センター  古代史探訪 水のまつり  水と祭祀の考古学

  引用古代史探訪 水のまつり
人間の生活には水が欠かせませんが、古代では(中略)近くの川から村まで水を引いていました。そのままの水は不純物がたくさん含まれていますので、導水溝の途中に何ヶ所も水を溜める槽(そう)を設けて不純物を沈殿させていました。槽からは木製の樋(ひ)や土管で導水していました。

この導水施設は地域の王(豪族、村長)が管理し、安全に給水できるように「水のまつり」が行われていたようです。

奈良県御所市南郷大東(なんごうおおひがし)遺跡は、幅6m程で深さ1.2mほどの小川を石積みでせきとめて水を溜め、そこから木樋で小屋に導水して水の祭りをしていました。
小屋の周りは柵で囲まれ、導水木樋の両側に人々が集まって笛や太鼓を鳴らしながら、神を鎮める祈りを捧げます。
小屋周辺から木刀・弓・盾・琴・サルノコシカケ・桃の種などの祭祀用具や多量の「焼けた木片」があり、祭りは夜に行われたことが分かっています。

  この解説文があって、初めて、橿考研のジオラマの意味が分かりました。感謝します。

水のまつり
導水施設での儀礼の
ようす
水まつりジオラマ 
 D2-3-01a キヌガサ・翳(サシバ)
 D2-3-02木製品 南郷遺跡

木製 刀・木製さしば5c
翳(さしば)って何?
木製サシバは、貴人に従僕が差し掛けるもの。日除け。
中世の武士の絵にも、馬に乗った殿さまに、サシバを持って走っていく従僕の絵があります。

枠に絹を張ったものは個人でも持ったようです。うちわでなく顔隠し。
女性のたしなみ。ハンドバックみたいなもの。持ってないとヤバい。
 みたいな。

 南郷遺跡の木製品
南郷遺跡群の木製品
中期5c
御所市南郷遺跡

木製鏃・木製弓

舟形木製品、火きり臼、木製剣

木製キヌガサ
木製琴、琴柱、箱の蓋

下駄 古墳時代からげたがあった

 翳(さしば)
  鳥の羽などで扇形につくり,長い柄をつけたもの。貴人の行列などでさしかけ威儀を正した。
  中国では竜門や敦煌莫高窟などの壁画に若干みられる。日本では埴輪や,福岡県竹原古墳の壁画などに,それらしいものがみられる。
  実物としては,千葉県の金鈴塚から出土した金銅製の翳があり,伊勢神宮の遷宮に用いられる翳は全長 4.36mもある紫色の羅 (うすぎぬ) である。
                     引用コトバンク
  さしばは威儀具であったか。

  の意味は、これが面白い。
  意味:①きぬがさ。羽毛で飾った絹ばりの傘。 ②かざし。舞うときに持つ羽飾り。 ③かざす。おおう。
     ④かげる。かげ。かげり。くもり。「暗翳」「陰翳」「翳翳」 ⑤かすむ。目がはっきり見えなくなる。「底翳(そこひ)」引用漢字ペディア

  ※私は、キヌガサを大傘の上に付ける飾りであり、キヌガサ埴輪は飾りをデフォルメしたものと考えていた。間違いでした。
   現代でも貴人や高僧に差し掛ける大傘は、日除けではなく、威儀具でした。すると、古代に使われた大傘も、威儀具、さしばも威儀具。
   どちらも日除けの実用品ではなく、日除けの威儀具だったんですね。

   すると、キヌガサとは、日除けの威儀具であり、キヌガサ埴輪は威儀具の象徴だった。これがある古墳はとても高貴な人の墓地。

 

 D2-3-03 南郷の集落
 大壁住居
  周囲の柱を壁で塗り込めるため、両端の棟持ち柱を除いて外から柱は見えない。例が少なく、渡来人の住まいにつなげる考えもある。

  ※南郷遺跡は渡来人王の葛城氏の拠点であり、常に渡来人を受け入れ続けているため、この建物は、渡来人の文化であることは間違いない。
   半島産又は、国内産の韓式土器が多数出土するのも当然である。

  ※滋賀県の琵琶湖周辺には渡来人集落が沢山あり、大壁建物が沢山出土しています。 豪族居館のようなものでしょう。

南郷の集落 大壁住居
上に記述
韓式土器
 D2-3-04 南郷遺跡群の土器 ●古墳時代中期 5世紀 ●御所市南郷遺跡群
南郷遺跡群の土器
韓式土器

須恵器

須恵器

陶製紡錘車

紡錘車
亡命や戦争避難民、渡来人を多数所有し、更に次々と受け入れ、様々な技術や知識を持つ人々(部)を抱えることで、
高い技術集団、テクノクラートとして勢力を拡大していった。


  葛城氏 南郷集落 奈良県北葛城郡広陵町南郷 御所市極楽寺 葛城氏は広大な地域を支配していたようです。
  蘇我氏 曽我遺跡 奈良県橿原市曽我町真管 朝鮮半島南西部の全羅道出身
  物部氏 布留遺跡 奈良県天理市布留町・三島町
  阿部氏 メスリ山古墳 奈良県桜井市安倍

 D2-3-06葛城の王都 南郷の集落
 
 



 D2-3-07蘇我氏の 曽我遺跡 玉造の工房 5世紀後半~6世紀前半 良県橿原市曽我町真管

 資料
  渡来人蘇我氏は、橿原市曽我に入植したため、蘇我氏を名乗った百済人である。
  曽我は蘇我氏の本拠地であった。玉造の曽我遺跡が官営であったか、蘇我氏の私設であったかは不明である。


 玉つくり
  曽我遺跡は、5世紀後半から6世紀前半の大規模な玉造りの集落です。北陸や出雲などから原石を運んできて、多くの工人を集めて各種の玉を
  作っていた。祭りや古墳の副葬品に使う玉を集中管理して、各地に供給することによって、王権の影響力をより大きくしようとしたのだろう。

 資料
 曽我遺跡の原石コトバンク
 1000万点近い遺物が出土した。玉類には勾玉 (まがたま) ・管玉・小玉・丸玉・棗玉 ・切子玉子持勾玉があるほか,各種滑石製模造品が見られた。
 石材は和歌山紀ノ川流域の滑石,山陰の碧玉,北陸の緑色凝灰岩が 95%を占め,岩手県久慈の琥珀,新潟糸魚川の翡翠,水晶,瑪瑙 ,埋木
 ガラス等各地より様々なものが搬入された。

 これは本来の原石産地での玉作が,5世紀末~6世紀初頭頃、権力所在地に近い当地に移動・集中したことを示しており,付近の地名等より
 祭祀担当氏族の忌部の関与が推定されている。

 忌部氏=斎部氏 橿原市忌部町付近を本拠地とする。朝廷の斎事に関わる全ての物を調達する役目を担っていた。

曽我遺跡の玉関連遺物
中期 5c
橿原市曽我遺跡
曽我遺跡の調査 管玉の製作工程 中期 5c
橿原市曽我遺跡
玉つくり 砥石 曽我遺跡の玉関連遺物
石製模造品 水晶 メノウ 玉の製作工程 琥珀・水晶・碧玉 琥珀・碧玉・水晶
滑石
碧玉
 
 






 D2-4対外交流と技術革新






  5世紀は、日本列島の各地に多くの渡来人がやってきた時代である。その中心は朝鮮半島からの人々であり、特に南部の伽耶を取り巻く
  不安定な国際情勢が、より多くの人々の移住を促した。

  彼らによってもたらされた新しい技術は、金工・鉄器生産と、土木技術・須恵器生産などが挙げられる。同時に、乗馬の風習や、横穴式石室の
  埋葬法と共に、死者に食物を供える須恵器の副葬などの風習が伝えられ、技術革新と共に日常生活にも大きな影響を与えた。

 D2-4-01海を越えての交流

 D2-4-01a五世紀の国際交流
  5世紀の朝鮮半島には、高句麗と百済・新羅・伽耶が共存していた。これらの地域では、主に方墳と円墳が造られていた。前方後円墳が
  まとまって見つかった百済南部の全羅南道は、横穴式石室や須恵器のふるさとの候補地であり、日本列島との関わりの深い地域である。

海を越えての交流 五世紀の国際交流 五世紀の国際交流 五世紀の主な古墳
・前方後円墳
日本出土の朝鮮半島製遺物
・金銅製冠帽 (熊本 江田船山古墳)
・金製耳飾 (熊本 江田船山古墳)
・金銅製履 (熊本 江田船山古墳)
・金銅製鞍金具 (大阪 誉田丸山古墳)
朝鮮半島の金製耳飾 遺跡写真
伽耶 侠川 玉田古墳群

遺物写真
・伽耶 侠川 玉田M4号墳
・伽耶 侠川 玉田28号墳
朝鮮半島の古墳 百済 ソウル石村洞4号墳
百済 公州 宋山里古墳群
高句麗 集安阿将軍塚
新羅 慶州市内の王陵群
伽耶 侠川 玉田古墳群
朝鮮半島の前方後円墳
 
・全羅南道
  咸平郡 新徳古墳
・全羅南道
  海南郡 長鼓山古墳
・全羅南道
  光州 明花洞古墳
 D2-4-01b対外交流と技術革新

画文帯神獣鏡
新沢109号
舟型埴輪
古墳中期5c
新庄町寺口和田1号
三環鈴
古墳中期5c
橿原市新沢109号
天河伝説殺人事件だったかな。これが脚光を浴びたのは
金製垂飾付耳飾
大和郡山市割塚
金製垂飾付耳飾
橿原市新沢109号
対外交流と技術革新
上に記述
海を渡る
ピンボケ


 渡来人の墓の副葬品 新沢126号墳 (歴史に憩う橿原市博物館 にて公開中)

渡来人の墓 渡来人の墓
小型鏡
金製指輪

青銅製熨斗(ひのし)
金製方形冠飾
金製指輪

棺の内外での
遺物出土状況

漆盤(朱雀の文様:皿)
ガラス碗
金製髪飾

ガラス皿
金製耳飾
 


 D2-4-02
 5世紀の鏡
  5世紀の鏡は、列島内で作られた直径10cm前後の小さなものが中心である。その中で、新沢千塚出土の獣帯鏡と画文帯神獣鏡は、共にに20cmを
  越える大型鏡で際立っている。どちらも中国鏡ないしはそれをもとに踏み返して作った鏡であり、他にも画像鏡などの文様構成の鏡がある。
   踏み返し鏡 - 新井宏 古代の青銅鏡づくり 玲子の考古学教室ブログ


 兄弟鏡の最も多い鏡
  新沢109号墳の画文帯神獣鏡と同じ文様の鏡は、合わせて23例ある。出土古墳は、5世紀中葉から6世紀前半までの年代幅がある。

半肉彫獣帯鏡
中期5c
橿原市新沢173号墳
5世紀の鏡
神人歌舞画像鏡
人物画像鏡
兄弟鏡の最も多い鏡
・珠文鏡/5c
橿原市新沢109号
・珠文鏡/5c
御所市巨勢山境谷2号
・獣形鏡/5c
橿原市新沢109号
・獣形鏡/5c
五条市近内4号
・乳文鏡/5c
橿原市寺口和田4号
・珠文鏡/5c
香芝市長谷山古墳
・五鈴鏡/5c
橿原市新沢115号
・内行花文鏡/5c
橿原市新沢120号

・獣面鏡/5c
葛城市寺口和田1号

・神獣鏡/5c
橿原市新沢115号

・神獣鏡/5c
葛城市寺口和田1号




 D2-4-03鉄器生産の技術 (葛城氏・物部氏 共に渡来豪族)

  5世紀には、鉄器生産が盛んになる。これは、古墳に鉄素材の鉄鋌と鍛冶具の副葬が目立つようになることからわかる。更に、南郷遺跡群や
  布留遺跡のような冶集落では、朝鮮半島系の土器が多く出土していて、材料・道具ともに、技術者も朝鮮半島からやってきたと考えられる。

  南郷や布留の集落は、有力豪族 (葛城・物部) の本拠地に当たり、このような技術と製品を管理することによって、その経済力と政治的な地位を
  確保した。


   南郷遺跡群 葛城氏の拠点集落
    金剛山・葛城山一帯は葛城氏の所有する渡来人の巨大集落が30か所もあり、それぞれ、渡来人の特技を生かした産業が盛んでした。
    葛城氏は半島南部の小国家連合の伽耶(伽羅)の金官国の出身である。彼らに与えられた土地は山林で、葛城という名から想像すると、
    葛の根が絡むそれこそジャングルのような困難な土地であり、水田開発も不向きな土地であったのかもしれません。


   布留遺跡 物部氏の拠点遺跡 布留遺跡weblio 初期大和政権 布留遺跡 布留遺跡
    初期纏向遺跡の土器は庄内式。古墳時代に入った第二次纏向遺跡の土器は布留式でした。物部氏と関係があるのかもしれません。


考察
 庄内式土器から、纏向、邪馬台国が見えてきた。

  庄内式土器の庄内遺跡が「なに氏」なのか調べる中で、おもしろい論文を見つけました。http://tsukudaosamu.com/pdf/2-4.pdf (つくだおさむ)
  佃収氏は、古代史の研究者であり多数の著書がある。「第7章 遺跡からの証言

  論文内で、「p153最下 最も古い纏向型前方後円墳の出現と同時に庄内式土器が出現する。」と言っている。
  私は、第二期纏向遺跡の宮都の布留(式土器)遺跡の中心が物部氏なら、第一期の庄内式の中心者は誰なのかが知りたいわけである。

  論文はp156、弥生土器第5様式後半期(弥生後期後半)に大和盆地西半の遺跡は希薄となり、東南部に平野と東縁辺に集中していく。
  そして母集落が廃絶を始める。弥生終末期の纏向1~3式(庄内式期)には、12例中10例が崩壊する。
  しかるに、纏向地域には、極めて大きな集落が、それまで空白だった地域に出現する。

  つまり、大和盆地周辺で弥生人狩りをして、纏向に強制移住させて、巨大集落をつくらせたと考えられる。

  p160大和盆地で弥生集落が消滅し、全く別の空白地域に巨大集落が出現するのは、政治的、軍事的、宗教的権力による再編である。
  p161これら、弥生文化を破壊し、全く異質な文化が出現することは、新しい渡来集団によって新しい社会(纏向遺跡)が築かれたのである。

  (※これは、南米のインカ帝国だったかが、スペイン人によって占領され、宗教を奪われ、異質な信仰に改宗させられたのと同じである。)


  先日、2019.5.10BS161「諸説あり!邪馬台国SP」で、まず、日本人学者が唱える、近畿説、九州説をしっかり検証したうえで、
  中国人学者による、文献の検証、中国式の解釈の仕方、による邪馬台国の位置や、経過を検証した。

  中国文献に精通した中国人文献学者の解釈はさすがに日本の学者とは一枚上手で、目からうろこでした。結論を述べると、
  邪馬台国は、最初、北部九州にあり、それが畿内へ移動したというのだ。(つまり、2か所にあったことになる)

  すると、突然、沢山の弥生人を強制連行して纏向遺跡を作らせ、青銅器祭器を破壊し、巨大墳丘墓を建設させた、纏向政権の出現。
  この纏向で起こったことは、中国人学者が解釈した邪馬台国説と全く同じであった。



 鍛冶遺跡の出土物 南郷遺跡群

鍛冶工房の様子
工人の住まい
下茶屋カマ田遺跡(南郷)

鍛冶工具/6c
天理市ホリノヲ 2号墳
鍛冶工具/5c
出土地不明

鉄鋌/中期5c
宇陀市高山1号墳

南郷遺跡の鍛冶関連
遺物
中期5c
御所市南郷遺跡群
フイゴ羽口
鉄滓

鹿角片

ガラス滓・ガラス小玉
鍛造剥片

銅滓
鉄器生産の技術
上に記述
朝鮮半島と日本の鉄鋌 南郷で作った刀





 D2-4-04甲冑と武器・武具



 D2-4-04a朝鮮半島と日本の甲冑
  乗馬の風習が広まっていた高句麗では、乗馬に適した挂甲主に使用されていた。南部の伽耶地域に見られる短甲の中には、日本列島の
  出土品に共通するつくりの甲冑を含む。日本列島では、渡来人の鍛冶技術をもとに、冑と短甲の組み合わせが5世紀を通じて作られ続けた。

  冑と短甲の組み合わせとは、挂甲 (乗馬に適した、よりフレキシブルで動きやすい鎧) を作らず (歩兵用ばかり作った) といっている。


奈良市佐紀盾列
(さきたてなみ)古墳群東群
朝鮮半島と日本の甲冑 日本出土の甲冑 朝鮮半島と日本の甲冑
上に記述
「高句麗」集安 三室塚
5~6世紀の甲冑出土古墳
5~6世紀の甲冑出土古墳 朝鮮半島出土の甲冑 朝鮮半島出土の甲冑
 
 D2-4-04d甲冑と武器
  5世紀の短甲は、小さな三角形や細長い帯状に切断した鉄板の端に孔を開けて、革紐でとじ合わせる方法から、鋲で留めるものに変化する。
  同時に、鉄板の形や大きさに規格品が目立つようになる。
  これらは、鋭くなった鉄鏃から身を守るためと、量産しやすくするための工夫であり、当時の先端技術が生かされた。

甲冑と武器
上に記述
甲冑の変遷 古墳時代の甲冑変遷図
引用古墳時代の猪名川流域
鉄製農具の改良
下に記述
鑿のみ

 D2-4-04b甲冑

 橿原市新沢古墳群  古墳時代前期~後期の群集墳 墳丘数約600基 橿原市北越智町・川西町
  

短甲/中期5c
橿原市新沢508号墳

短甲/中期5c
葛城市兵家12号墳

鉄刀/中期5c
橿原市新沢109号墳

頸鎧/中期5c
葛城市兵家12号墳

眉庇付冑/中期5c
葛城市兵家12号墳
眉庇付冑
古墳時代中期5c
橿原市新沢139号墳

短甲
古墳時代中期5c
橿原市新沢139号墳
 D2-4-04c

短甲/中期5c
橿原市新沢115号墳

鉄鏃/中期5c
橿原市新沢109号墳

衝角付冑/中期5c
橿原市新沢281号墳

挂甲の小札こざね
中期5c
橿原市新沢109号墳

※この挂甲は半島製か国産か

挂甲※複雑で製作困難だったのかな


 鉄製農具の改良
  5世紀には農具も改良された。鋤や鍬の先端に付ける鉄の刃先が、長方形の鉄板の両端を折り返しただけの物から、U字形の本格的な刃先に
  変わる。この刃先を付ける木製の部分は、ナスビ形をしたものがあり、上端に柄を連結して鍬として使用された。

  このように威力を高めた農耕具で、開墾が進められ耕作地の拡大が図られた。同時に、収穫具の鎌の先がまっすぐなものから、
  使いやすい曲がったものに変わる。ともに朝鮮半島から伝えられた新式の農具である。


U字形刃先/中期5c
橿原市新沢322号墳

U字形刃先/中期5c
橿原市新沢178号墳

木製鍬/中期5c
天理和爾

鎌/中期5c
葛城市兵家古墳

刃先/中期5c
葛城市兵家2号墳

U字形刃先/中期5c
葛城市兵家2号墳

鉄斧/中期5c
五条市山古墳


  和爾氏とは 本拠地は滋賀県大津市和爾今宿820-9という?
   古代の豪族であり、現代にも和仁・丸などの名前で続く氏族である。
   5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。引用wiki和仁氏
   渡来人が大量に押し寄せた時期であるのだが、半島のどこからの渡来か、又は、畿内のいずれの渡来氏族の系統かなどは書かれていない。


  五條市塚山古墳 方墳 5世紀中葉~後半 五條市出屋敷町
   方墳(一辺24m、高さ5m)葺石一部あり。埴輪あり(円筒埴輪と家形、盾形、短甲などの形象埴輪)
   緑泥片岩製の箱式石棺で小口部(北側)に板石で囲んだ小さな副室が付設されている。
   鉄製武器、短甲、冑、刀剣、工具類
 




 D2-4-05乗馬の風習のはじまり



  日本列島に乗馬の風習が広まったのは5世紀のことで、使われた馬具は伽耶のものによく似ている。
  馬と同時に飼育の知識を持った人や、馬具をつくる人も含めて、集団の移住が伴ったのだろう。
  権力者にとっては、金メッキの金具を付けた飾り馬をもつことが権威の象徴と考えられていた。


 D2-4-05a馬の飾り

 馬具のふるさと
伽耶の馬具に比べると、5世紀後半以前は洛東江の下流地域、以後は中流域に似たものがある。これは、伽耶の政治の中心地の移動に対応する。
※伽耶の王都が移り変わったところと言っている。
  
馬の飾り方 乗馬の風習の始まり
上に記述
馬具のふるさと
上に記述
伽耶と日本の馬具
鋲を作る 鋲を作る 金銅板を被せる
 D2-4-05b
鐙の木を曲げる木型
説明がないが、
木を煮て柔らかくし、型にはめて冷ました。
木製鞍
中期5世紀
宇陀市谷遺跡は、磐余の地に、安倍氏の本拠地にあたります。

木芯鉄板張輪鐙
中期5世紀
奈良市5号墳

鐙(桑の木で復元)

木芯鉄板張輪鐙
中期5世紀
奈良市ウワナベ5号墳

鉄製轡
中期5世紀
宇陀市後出3号墳

 D2-4-05c馬を飾る金具 ●古墳中期 5世紀 ●御所市石光山8号墳

剣菱形杏葉

鞍の飾り金具

馬を飾る金具
 



 D2-4-06陶質土器と初期の須恵器


  日本列島では朝鮮半島の陶質土器が、5世紀前半から中葉の古墳に副葬される例があるが、土器の数はあまり多くなく、古墳の例も限られている。

  5世紀中葉には西日本を中心に須恵器生産が始まる。古墳に多くの須恵器が副葬されるようになるのは、近畿で横穴式石室が取り入れられる、
  5世紀後半以降のことである。

 D2-4-06a
糖質土器と初期の
須恵器
陶質土器と初期の
須恵器

 国産の陶質土器(須恵器)
須恵器 (国産品)
大阪 大庭寺遺跡
兵庫 宮山古墳
福岡 古寺10号墳

大阪 陶邑TK73号窯
大阪 大庭寺TG232号窯の灰原
陶質土器と初期の
須恵器
上に記述
 5世紀の主な古墳と
初期の須恵器窯
5世紀中葉

 半島産の陶質土器
陶質土器
伽耶系・新羅系・百済系
伽耶の土器


 須恵器 焼き物の技術革新
 大量の燃料を必要とする須恵器生産は、良質の粘土と専用の窯、そして専門の工人集団を成長させた。
 最初の須恵器に似た土器は朝鮮半島の南西部の全羅道と伽耶にある。これらの地域から来た工人を中心にして、大規模な生産を始めた例が、
 大阪南部(陶邑)窯跡群である。

須恵器
焼き物の技術革新

叩き板とあて具(模様付)
須恵器のふるさと
伽耶系土器

大阪 大庭寺遺跡出土
福岡 池の上・古寺墳墓群
全羅道系土器

大阪 陶邑窯跡群
須恵器の窯

香芝市平野1号窯跡
 D2-4-06b須恵器

・陶質土器 壺/中期5c
橿原市下明寺遺跡
橿原市新沢281号
・須恵器 高坏/中期5c
橿原市新沢281号

須恵器 壺/中期5c
橿原市新沢139号

須恵器/中期5c
・葛城市寺口忍海E-21号墳
・H-9号墳


須恵器/中期5c
・葛城市寺口忍海E-21号墳

器台・壺

土師器と須恵器
 




 D2-4-07横穴式石室の始まり




  朝鮮半島で横穴石室を早くから採用していたのは高句麗であり、その影響で漢城 (ソウル付近) を都にした百済に採用される。
  この石室構造に近いのが、北部九州の横穴式石室である。
  近畿の横穴式石室は、475年頃に熊津 (公州) に都を遷したのちの百済地域 (南部の全羅道を含む) の石室に、その系譜が求められる。

 D2-4-07a横穴式石室
横穴式石室のはじまり


 列島の横穴式石室

百済の影響を受けた北部九州・近畿の石室
福岡 老司古墳3号石室
4c

福岡 鋤崎古墳4c
福岡 丸隅山古墳5c
大阪 高井田山古墳5c後半
奈良 宮山塚古墳5c末 
 横穴式石室のはじまり
上に記述
5世紀の横穴式石室 


 半島の横穴式石室

百済の芳夷洞古墳群
ソウル芳荑洞古墳群

ソウル芳荑洞1号墳

公州 宋山里5号墳


 初期の横穴式石室

 横穴式石室の始まり 新しい埋葬法
  近畿で 横穴式石室が本格的に取り入れられるのは、5世紀後半からで、同時に鉄釘で組み立てられる木棺も使われ始める。
  大和では葛城山麓の群集墳のなかに、初期の横穴式石室が集中する。
  前方後円墳では市尾墓山古墳の様に、家形石棺を治めるために長方形の石室が作られた。


初期の横穴式石室
初期の横穴式石室
橿原市新沢221号墳

上に記述
横穴式石室内の須恵器
・棺内・棺上(新庄町寺口忍海E-12号墳)
・横穴式石室内の袖部(寺口忍海H-32号墳)


大和の大型横穴式石室の変遷 500年~550~600年 600年~650年~
 D2-4-07b

須恵器 坏/中期5c
御所市巨勢山タケノ口16号墳

・土師器 壺
・須恵器 高坏と坏
中期5c橿原市新沢221号墳

・馬具
・鉄釘

鉄釘は前述のように木棺を組み立てるために使われた

・木芯鉄板張輪鐙
中期5c橿原市新沢221号墳

 D2-4-07d市尾墓山古墳 副葬品 ●古墳時代後期6世紀 ●高取町市尾墓山古墳 横穴式石室の副葬品

須恵器 器台

須恵器 高坏

須恵器
坏・子持壺・ハソウ

ガラス小玉

花弁形杏葉
 



 D3-0古墳のまつり



  古墳は亡き支配者を葬るための墓であると同時に、後継支配者の権威を示すための政治的な意味を持つ。
  そのため、古墳に立てる埴輪は、時期とともにその種類も変わる。

  埋葬の中心になる墳丘頂上部では、円筒埴輪や各種の器財埴輪・家形埴輪が方形に取り囲む。これらは、葬られた人を守る意味が強い。
  そして、5世紀後半に新たに加わる人物と動物の埴輪は、葬送と引き継ぎ (権力継承) の儀礼がおこなわれた様子を再現している。

 器財埴輪と家形埴輪
  器財埴輪は、権威の象徴のキヌガサ (貴人に挿しかける日傘) などと、甲冑などの武具の埴輪に分けられる。
  キヌガサ形埴輪の中では、佐紀陵山古墳の例が最も大きくリアルに作られている。(下に掲示)

  武具の中では、盾と靫 (ゆぎ) が長い期間作られ続け、5世紀には甲冑も加わり、ともに古墳を守る意味を持つ。
  家形埴輪は、屋根の形によって、入母屋寄棟切妻に分かれ、宮山古墳のような大型古墳では、これらを同時に並べて、亡き王の居館を再現して
  いる。

 円筒埴輪の変遷
  弥生時代の葬送用の器台から変化した円筒埴輪は、透孔の形が三角から長方形、そして円形中心へと変わる。
  表面に残る細かなハケ目は、埴輪を作る時に、板の工具で整えた痕跡で、その方向 (縦・横) や動き方を比べることによって年代の手掛かりとなる。
  時期が下がると伴に、製作工程の簡略化 (手抜き) が進む。

  埴輪の変遷 埴輪の変遷 埴輪の変遷 埴輪のハケ目
  埴輪の作り方 埴輪の作り方 埴輪の作り方 埴輪の作り方

 D3-01-1埴輪と木製品
古墳のまつり
上に記述
器財埴輪と家形埴輪
上に記述
佐紀陵山古墳
キヌガサ形埴輪
王墓頂部に安置した
円筒埴輪の変遷
5c~6c
上に記述
キヌガサ形埴輪
前期4c
奈良市佐紀陵山古墳
朝顔形埴輪
前期4c
奈良市マエ塚古墳
蓋(キヌガサ)形埴輪
不退寺裏山古墳
寄棟 家形埴輪 入母屋 家形埴輪
中期5c奈良市歌姫横穴
切妻 家形埴輪
中期5c
橿原市新沢281号墳
鰭付円筒埴輪
中期5c
奈良市ウワナベ5号墳
纏向石塚古墳の柱材 纏向石塚古墳の柱材
下に記述

 纏向石塚古墳の柱材
  最古の前方後円墳の一つである纏向石塚古墳では、くびれ部から前方部の南側周溝濠で柱穴および多数の柱材・建築部材が検出されている。
  今回展示したのは1976年の第3次調査において前方部南側の周濠から出土した柱材や建築部材である。

  この中の最も太い建築部材は、直径22cm長さ256cm、先端部はU字に抉られ、別材と組合すための加工がなされている。
  表面には縦方向に丁寧に削られた痕跡が残る。最も短い柱材は、周濠内に掘られた柱穴に残存していたもので、下半部にほぞ孔を有している。

  赤色顔料が付着していた柱材もあり、葬送儀礼に関わる古墳周辺の構築物が想定される。
  弧文円盤はこの柱材が検出された地点に近接するくびれ部南側周濠から出土しており、柱材との関連が指摘されている。

 




 D3-2四条古墳群の埴輪・木製品 古墳時代中期前半~後期前半(5世紀前半から6世紀中頃) 奈良県橿原市四条町



 D3-02-1埴輪と木製品
  墳丘の外表を飾るのは埴輪だけではない。これを強く印象付けたのは、四条古墳の発掘調査である。人物などの形象埴輪と共に、
  各種の木製品が出土した
    四条古墳群 橿原市四条町に12基ほどあった古墳群。破壊された埋没古墳多数の木製品が出土した

  同じことは、石見遺跡 (古墳) の調査でもわかっていた。木製品には、葬送儀礼に使用されたものと、埴輪と同じように古墳の周囲に並べたもの
  とに分けられる。

 四条古墳の発掘調査
  畝傍山の北東にある、5世紀後半の全長38mの造り出し付き方墳。墳丘はすでに削られていたが、周濠の中に倒れ込んだ状態で、
  各種の人物・動物埴輪と木製品が残っていた。特に木製品の多さが注目され、埴輪のように立てた鳥と笠・「盾形」の他に、

  手に持つさしば・刀・弓などを模したものと、容器・簡単な建築部材などが出土した。

埴輪と木製品 四条古墳の発掘調査
埴輪・木製品の状況
(北西隅周溝内)
木製品の出土状況
(南東隅周溝内)
四条古墳/埴輪と木製品の出土位置 四条古墳
儀礼の一場面
古墳時代の人々
 D3-02-2四条古墳の埴輪
弓を持つ男 冠の男
入れ墨の男 盛装した男
力士
 D3-02-3四条古墳の木製品
儀仗形木製品
さしば形木製品
盾形木製品 幡竿形木製品 鳥形木製品 笠形木製品 儀仗形木製品
 D3-02-4四条古墳の埴輪
四条古墳の埴輪
古墳中期 5世紀
猪埴輪 犬埴輪 鹿埴輪 馬埴輪 鶏埴輪 儀杖 形埴輪
 



 D3-03石見遺跡の埴輪と木製品 ●古墳時代後期 6世紀 ●三宅町石見遺跡 奈良県磯城郡三宅町

 D3-03-1

 埴輪の男と女
  男と女の表現の大きな違いは髪形。男女共に、全身像と上半身像があり、身分差が表れている。

 横穴式石室と埴輪
  平群地域の前方後円墳の勢野茶臼山古墳では、6世紀中頃の横穴式石室の入口に埴輪を立てていた。
  石室の入口を石を積んで閉じた後に、家を中心に巫女・キヌガサ・盾・大刀などの埴輪を立て、人物を中心とする埴輪群像を必要最小限に
  まとめている。

 巫女の埴輪東と西
  近畿の副葬は袂が大きくふくらむ意須比(おすひ)がずっと続くが、関東では衣服と装身具の種類が多く、詳しく表現されている。


入れ墨の男
入れ墨の男 岩見遺跡
埴輪の出土位置
埴輪の男と女 横穴式石室と埴輪 巫女の埴輪
鹿埴輪
椅子に座る男 椅子に座る男 馬埴輪 馬埴輪の装飾 キヌガサ形埴輪
鳥形木製品


 D3-04横穴式石室と埴輪
 D3-04-1
巫女埴輪
後期6c
平群町烏土塚古墳
家形埴輪
後期6c三郷町勢野茶臼山古墳
屋根上に鰹木が載る
寄棟
巫女埴輪
後期6c三郷町勢野茶臼山古墳
大刀形埴輪
後期6c三郷町勢野茶臼山古墳
盾形埴輪
後期6c三郷町勢野茶臼山古墳
 




 D4-0ヤマト王権の展開 5世紀の古墳


倭の五王(5世紀初頭から末葉まで中国王朝に朝貢して東アジアで優位な立場を得ようとした大王)を中心とした活発な対外交流により、5世紀には、多くの新しい文物や文化が列島に流入した。
それは、横穴式石室、乗馬の風習、金銅製品、須恵器生産など、様々な分野に及んだ。

これらは当時の支配者が望んで取り入れたものであり、社会の仕組みを大きく変える事になった。
広い地域にわたる群集墳の成立や、支配者層の古墳の変化は、その表れである。

 D4-1ヤマト王権の展開
 D4-1-01群集墳の成立 大宇陀町 後出3号墳
大宇陀町 後出3号墳
   
高山1号墳
三角板横矧板併用革綴短甲 よこはぎいた

後出7号墳
三角板鋲留短甲

後出3号墳
三角板横矧板併用鋲留短甲

・五獣形鏡
 /宇陀市後出3号墳
・内行花文鏡/宇陀市野山古墳群野山支群2号
・四獣鏡/同9号墳
古墳中期5c

・五獣形鏡
 /宇陀市後出3号墳

・内行花文鏡/宇陀市野山古墳群野山支群2号

・四獣鏡/同9号墳
古墳中期5c

・内行花文鏡/宇陀市野山古墳群池殿奥支群4
・方格渦文鏡/宇陀市高山1号墳
・乳文鏡/宇陀市高山1号墳
中期5世紀

・内行花文鏡/宇陀市野山古墳群池殿奥支群4

・方格渦文鏡/宇陀市高山1号墳

・乳文鏡/宇陀市高山1号墳
中期5世紀
  ・石釧/古墳中期5c
・勾玉/中期5c
宇陀市野山古墳群
シメン坂支群1号墳 
  玉類/中期5世紀
宇陀市野山古墳群


 D4-1-02群集墳の成立 

  ひとつの丘陵や尾根などの定められた範囲に、多くの小規模な古墳が密集して作られる。これを群集墳と呼んでいる。

  大和では、葛城山麓(葛城氏)や宇陀(安倍氏)などの地域で、5世紀から群集墳が造られる。
  これらは、小規模な円墳が多く、同じ時期の前方後円墳と比べると、外見では見劣りがする。

  しかし、副葬品として、鏡や武器・武具が納められ、内容では、決して引けを取らない。
  これまで古墳を作ることの許されなかった人々が、様々な新しい文化や文物を積極的に取り入れた結果である。

ヤマト王権の展開
上に記述
群集墳の成立
上に記述
武器・武具の副葬
後出古墳群(うしろで)
武器・武具の出土-1
後出古墳群
3号墳遺物出土状況
7号墳遺物出土状況
武器・武具の出土-2
野山古墳群

野山支群9号墳埋葬施設
池殿奥支群5号墳遺物出土状況
兵家(ひょうげ)古墳群
5号墳埋葬施設
6号墳出土施設
1号墳出土施設
 D4-1-03
鉄鏃
中期5c 後出2号墳
鉄鏃
中期5c 後出18号
須恵器
中期5c 後出古墳群

坏、身・蓋
高坏
須恵器 壺
古墳中期5c
宇陀市後出古墳群
 


 D4-2群集墳の成立 葛城市兵家古墳群 古墳中期 5世紀

 D4-2-1

・五獣形鏡
・方格規矩鏡
葛城市兵家1号墳
古墳中期5世紀

・捩文鏡
・四獣鏡
中期5c兵家5・6号墳

鉄斧
中期5c兵家古墳群

石製合子/中期5c
葛城市寺口和田1号墳

石製紡錘車/中期5c
葛城市兵家6号墳

玉類/中期5c
葛城市兵家6号墳

玉類/中期5c
葛城市兵家6号墳

石製刀子
古墳中期5c
葛城市兵家6号墳

鋳造鉄斧
古墳中期5c
葛城市兵家6号墳

須恵器
古墳中期5c
葛城市兵家古墳群
 





 D4-3大王墓の変革





  3世紀後半から、ヤマト王権との同盟、あるいは従属の証として、作られ続けた前方後円墳は、6世紀後半から末に終わりをむかえる
  変わって大形の円墳、方墳が支配者層の墓として採用される。こういった動きは大和だけではなく、列島各地でほぼ同じ時期に起こっている。

  ヤマト王権による古墳に表現された支配体制に変わって律令国家として結実する新しい国づくりへの出発点として、その意義は大きい。

 
 






 D5-0金銅製冠と鼓







 D5-0-1藤ノ木古墳 円墳 古墳時代後期6世紀第4四半期 径50m高9m墳丘裾に円筒埴輪が取り巻く 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺2丁目

未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性2人が合葬されていた。
横穴式石室は、現墳丘裾に羨道の入り口(羨門)があり、その羨道を少し進むと両袖式の玄室に至る。

この玄室は円墳の中心部に設けられている。
石室規模は、全長14m弱、玄室の長さは西壁側で約6.0m、東壁側で約5.7m、玄室の幅は約2.4〜2.7m、高さ約4.2〜4.4m、羨道の長さは約8.3m、羨道幅約1.8〜2.1mである。

石室の床には礫が敷かれ、その下を排水溝が、玄室中央から羨道を通って墳丘裾へと敷かれている。

石棺は、玄室の奥の方に安置されていた。
石材は二上山の白色凝灰岩で造られており、石棺の内や外は、赤色顔料(水銀朱)で塗られている。
棺の大きさは、約235×130×97cmであり、蓋は約230×130cmで、厚さが約52-55cmであり、縄掛突起がついている。
棺は幅、高さともに西側より東側の方がやや大きく、平面は台形を呈する。 引用wiki藤ノ木古墳


冠と筒形品 金銅製冠 金銅製冠 金銅製筒形品
 

 D5藤ノ木古墳の時代

  藤ノ木古墳の作られた6世紀後半には、朝鮮半島で新羅によって伽耶が滅ぼされた。それまで伽耶を通じて大陸文化に接していた日本列島の
  大王家や有力豪族達は、新たな窓口を百済ないし新羅に求めた。そのため、藤ノ木古墳の金銅製馬具のように、それまでとは系譜の異なる
  新しい文物がもたらされることになった。

 D5-1藤ノ木古墳  6世紀後半

  法隆寺の西にある、径約68mの大形円墳である。6世紀後半の横穴式石室に、朱塗りの家形石棺があり、館内に2人の男性が葬られていた。
  石棺の裏には、3組の馬具と挂甲があり、棺内には、金属とガラスの玉を中心とする装身具と、玉纏大刀などの飾り大刀と剣、

  そして、冠・履(くつ)・大帯・筒形品・半筒形品の金銅製品が納められていた。
  東アジア屈指の金銅製馬具と豪華な玉纏大刀、各種の金銅製品を添えられた2人は、有力豪族ないし大王の若くして亡くなった近親者だろう。


 ※2体の埋葬は、発見当初は兄弟だと言われていた。なぜ?どうしてそんな発想になるのかな。成人女性と女児の時は、親子だと言われた。
 兄が死んだら弟は大事な後継ぎだから、殉死したりできないだろう。 母が死んだら子供が又はその逆で殉死するのか。
 いや、両方一度に死んだんだ。暗殺など政変で殺されたなら、そんな丁寧には葬らん。馬鹿だねー。なんでこうなるの。

 藤ノ木は、従僕が殉死した。成人と子供は、子供が死んだので召使が殉死したのだ。馬鹿でもわかる話だろう。

 D5-1-1panel
 金銅製馬具
  藤ノ木古墳の馬具の中では、龍・鳳凰・鬼神・象・パルメット(唐草文)などで飾られた鞍金具が最も注目されている。高度な金工技術によって
  作られたこれらの馬具の製作地を考える時に、馬への装着方法・飾り方を復元して比較するのも手掛かりになる。

  鞍と尻尾の間の飾り方に注目すると、中国北朝新羅の馬具に似た例がある。

藤ノ木古墳の時代
上に記述
藤ノ木古墳
上に記述
金銅製馬具
上に記述
鞍金具の文様
上に記述

 D5-1-2馬具
龍文飾り金具 龍文飾り金具
円形飾り金具
心葉形鏡板付轡
円形飾り金具 帯先金具
 鞍金具 前輪  鞍金具 後輪しずわ        
鞍金具の文様 後輪 鞍金具の文様(後輪)
パルメット(唐草文)
鬼神
象が大変リアルで江戸時代に描かれたものとは雲泥です。
写実的で見たことある人の絵のような精緻さです。
アジアゾウを見たのでしようか。
 D5-1-3馬具2
馬具 歩遥と歩遥付飾り金具 歩遥 歩揺付飾り金具 棘葉形杏葉
きょくようけいぎょうよう

 D5-1-4金銅製履
石棺内の副葬品と葬られた2人
①2人の被葬者の棺内想定図
②人骨出土状況
③棺内遺物出土状況 金銅製履 金銅製冠 金銅製筒形品


 D5-1-5石棺内の金銅製品

 藤ノ木古墳の飾り大刀
  6振りの刀剣のうち、朝鮮半島製の円頭大刀以外は日本列島で作られた。金銅製の魚佩を伴い、鞘を金銅板とガラス玉で飾る玉纏大刀は、
  特に豪華な作りの儀式用の大刀で、袋に入れて棺内に納められていた様子が復元できた。

石棺内の 金銅製品 藤ノ木古墳の飾り大刀
玉纏大刀の出土状況
棺内での剣・玉・鏡の
配置状況
 D5-1-6飾り大刀と剣を作る
藤ノ木古墳の飾り大刀・剣 大刀表面の装飾 飾り大刀・剣を作る
剣の調査→刀鍛冶工房

大刀・剣の柄の組み立て
大刀・剣の木部が完成
工房風景→魚佩の彫金

剣外装の透し彫り板の彫金
剣の外装の組み立て
 D5-1-7飾り大刀と剣
飾り大刀、飾り剣古墳時代後期 6世紀
斑鳩町 藤ノ木古墳
飾り剣
墳時代後期 6世紀
藤ノ木古墳

  飾り大刀 装飾部品

不明

不明
入子菱文綾(綾織) 亀甲文経錦 六色の平絹の帯
 


 D5-2 6世紀の金工
  6世紀を代表する金工品には、馬具と飾り大刀がある。金メッキと象嵌の技術を使って装飾性豊かな製品が作られている。
  金メッキした薄い銅板を鉄板に被せる鉄地金銅張り(てつじ こんどうばり)の技法は、主に馬具に多く用いられた。

  この時期の象嵌は、鉄に鏨彫りをして金ないし銀を嵌め込む線象嵌で、刀の刀身や柄頭に施す例がある。この他にも、金属製の空玉(うつろだま)※
  と耳環、そして、藤ノ木古墳のような冠や履の金銅製品がある。

  ※空ろ玉:中が空洞になった金属製の玉・古代のアクセサリー。金や銀でできた耳飾りなど。引用日本神話&古代史ミニ用語辞典


 D5-2-1金工

 D5-2-01a飾り大刀

  刀の柄頭を飾る風習は、特に6世紀に盛んになる。その形は、楔形・環頭・円頭・頭椎(かぶつち)などに分類できる。中でも、例の多い環頭大刀と
  円頭大刀は、朝鮮半島からの輸入品を基に列島での生産が始まる。特に環頭大刀は、6世紀を通して製作された主要な飾り大刀である。
6世紀の金工 飾り大刀

金銅装頭椎大刀
金銅装単龍環頭大刀柄頭
金銅装双龍環頭大刀柄頭
象嵌文様のある円頭大刀 柄頭


金銅装頭椎大刀

金銅装単龍環頭大刀柄頭

金銅装双龍環頭大刀柄頭

象嵌文様のある円頭大刀 柄頭


 象嵌の技術
象嵌の技術 ①毛彫りタガネで線彫り
②なめくりタガネで溝を拡張
③銀線を嵌め込む
④ならしタガネでならす
⑤砥石で研磨して仕上げる 
 D5-2-01b
環頭大刀 柄頭 古墳後期 6c 広陵町安倍山4号墳
環頭大刀 柄頭 古墳後期 6c 天理市龍王山C-3号墳
環頭大刀 柄頭 古墳後期 6c 大淀町越部古墳

 D5-2-01c龍文のある鉄刀
龍文のある鉄刀
古墳後期6世紀
橿原市
新沢327号墳
 D5-2-01d素環頭大刀
素環頭大刀
古墳後期6c
下市町岡峯古墳

日本最古の唐草文様環頭大刀を出土
素環頭大刀 柄頭
古墳後期6c
下市町岡峯古墳
 D5-2-01e金銅装飾大刀
金銅装飾大刀
古墳後期6世紀中頃
平群町鳥土塚古墳
平郡氏一族の墓でないか。
鉄刀は錆たが、金製の飾り金具が当時の豪華さを物語る
 



 D5-2-6馬具


 D5-2-06a杏葉の変遷と製作

 鏡板と杏葉の変遷
  6世紀の飾り馬具には、様々な形の金具がある。いずれも、最初は輸入品の馬具をモデルにして作られたものである。その後も、
  装飾を加えたり文様を省略しながら、列島内での馬具の生産が盛んになった。同時に、金色に輝く馬具で馬を飾ることも広く普及する。

鏡板と杏葉の変遷
400年頃、剣菱形杏葉
 鏡板付轡だけだが、
500年頃から様々な装飾具があふれる
杏葉
①文様の転写・点打ち
②透かし彫り
③薄肉彫り・みがき
④毛彫り

鉄板・銅板・
縁金と銅板の間に文様板を重ねる
縁金・固定鋲・飾り鋲
肉彫り(ししぼり)
①?すきタガネ
②平すきタガネ
③けぼりタガネ
 D5-2-06b

f字形鏡板 (エフ字)
古墳時代後期6世紀
葛城氏芝塚2号墳

壺鐙つぼあぶみ

雲珠・辻金具
古墳後期 6世紀
旧平野町三里古墳

鐘形杏葉

雲珠・辻金具/後期6c
平群町三里古墳

鐘形杏葉/後期6c
平群町三里古墳

鐘形鏡板

鞍金具 前輪/6c
天理市東大寺山6号墳
 D5-2-06c展示室全景
 






 D6さまざまな棺




  古墳時代の棺は、その材質によって木棺・石棺・埴輪棺・陶棺に分かれる。

  この時代を通じて使われた木棺は刳抜式組合式があり、形は、前期に多い割竹形と、中期以降の箱形がある。

  木棺鉄釘を使用するのは横穴式石室が近畿に普及する5世紀後半からのことであり、新しい埋葬方法と同時に取り入れられた

   ※釘がなかったために刳り抜き式木棺や、板を周りに立てて囲っただけの木棺だったんですね。
    すると、石囲い式石棺というのがあるので、これは、板囲式木棺をまねた構造でした。

  石棺には、箱式長持形家形の違いがある。
  その主な石材の産地は、熊本県有明海南部の宇土半島付近(阿蘇石) と、兵庫県加古川付近 (竜山石)、二上山麓があげられる。

 D6-1
様々な棺
上に記述

刳抜式 (割竹形) 木棺
木棺の種類
組合式木棺
鉄釘使用の木棺

木棺
古墳中期5世紀
御所市宮山古墳前方部

 近畿の陶棺
  近畿の陶棺は、その表面を飾る突帯の特徴によって、南河内タイプと北大和タイプに分けられる。まず、6世紀中葉に南河内タイプが成立し、
  少し遅れて北大和タイプが奈良県北部で集中的に作られ、これが大和以外でも使用されるようになる。

  ※この格子状の突帯は、もうどなたもご存知のように、崖地などを補強するためのマス目構造(補強)と、軽量化をはかったものですね。
  この時代にすでにこんな知恵があったんですね。
  南河内タイプの裾模様はトラス構造になっています。荷重が一番かかりますからね。でも、リンクの中では区別がつかない。

近畿の陶棺 土師質陶棺の分布
 南河内タイプ
  (6世紀中葉から後半
 北大和タイプ
  (6世紀後半から7世紀前半)
陶棺
古墳後期6世紀
奈良市歌姫1号横穴

 家形石棺の形式変化 引用家形石棺の形の変遷
  型式変化の特徴は、縄掛突起が次第に下に下がり、蓋石の頂部が平たくなっているということだそうです。リンク参照ください。
家形石棺の形の変化
 
西暦500~600年まで
6c初頭~7c初頭
家形石棺 (組合式)
 
古墳後期6c當麻町擽山古墳
 
くぬぎやまこふん

 ※陶棺にしても家形石棺にしても、製作や運搬、使用などに便利なように変化しただろうと思います。