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目次
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第3展示室 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
E飛鳥時代 |
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E1古代の宮都 宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉である。宮室と、天皇の住まいを意味し、都城は、それを中心とした一定の空間を示している。 古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもあった。 飛鳥時代になると、我が国は「律令国家」と呼ばれる新しい国作りを目指す。 そのため、古代の宮都の変遷には、古代国家の形成過程が反映されている。 |
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E1-1飛鳥の宮 「日本書紀」によると、592年、33推古天皇は豊浦宮で即位する。飛鳥時代の幕開けである。 (豊浦宮:甘樫丘西隣) この後、約100年間、36孝徳天皇の難波宮、38天智天皇の大津宮の時期を除いて、宮都は飛鳥・藤原地域に集中する。 (難波宮:大坂城南隣) (大津宮:琵琶湖の西南岸、大津市役所付近) (飛鳥:甘樫丘東隣) (藤原:甘樫丘から来た約3.6km) 大化の改新、壬申の乱などの舞台となり、聖徳太子・蘇我馬子・38天智天皇・40天武天皇・41持統天皇が、新しい国づくりをめざし活躍した場所 でもあった。(大化の改新:乙巳の変、飛鳥板蓋宮) (壬申の乱:大海人皇子のクーデター、近江宮) |
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E1-1-1飛鳥京出土遺物 (Ⅰ期)
飛鳥京出土遺物(Ⅱ期~Ⅲ期)
資料 飛鳥~奈良時代の宮都の変遷
日本の首都 (引用wiki飛鳥京) (引用日本の首都遍歴)
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E1-1-2飛鳥京の遺物 ※土管 飛鳥地方では、土管とされている。 大津市歴史博物館では、牛角把手が付いており、オンドルの煙突 (渡来人の住居用) とされる。 しかし、出雲を中心にした山陰地方では、山陰型甑形土器と呼ばれ、謎の大型土器とされている。
古代の宮都
飛鳥の木簡 木の札に文字を記したものを木簡と言う。木簡には命令の伝達や報告を記した文書木簡や、荷物に付けた荷札木簡などがある。 この木簡は、飛鳥京跡の外郭隣接地で出土した削り屑木簡である。「辛巳年」とは、天武天皇10(681)年を意味する。 「大津皇子」は40天武天皇の皇子を指す。天武天皇に関わる木簡が出土したことは、この宮殿が、飛鳥浄御原宮である可能性をさらに強めた。
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E1-1-3飛鳥宮模型
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E1-1-3a |
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E1-1-3b エビノコ郭(飛鳥浄御原宮の施設の一部) 西側に5間×2間の門がある長方形の区画である。内部には9間×5間のエビノコ大殿と、脇殿がおそらく2棟存在する。区画の南側には、 朝堂が存在したと推定される最近の研究では、天武天皇の飛鳥浄御原宮の段階に新たに作られたという意見が有力である。 おそらく、のちの大極殿的な性格を持っていたと考えられる。 飛鳥の宮 -飛鳥浄御原宮 明日香村岡にある宮殿遺跡で、「飛鳥京跡」と呼ばれている。昭和34年以来の発掘調査により、複数の宮殿遺跡が重複している事が明らかとなった。 ここに復元したのは、その上層の宮殿遺跡である。 木棺の出土や発掘調査の進展により、天武天皇と持統天皇の飛鳥浄御原宮であることが、ほぼ確定した。内郭、エビノコ郭、外郭とからなっている。 その構造は、前期難波宮や大津宮、藤原宮とは大きく異なり、どうしてこのような宮殿がつくられたのかという、新たな問題を提起している。
内郭 南北197m東西152-158mの逆台形をした区画で、北部・中央部は石敷き、南部はバラス敷きで舗装される。 南から5間×2間の門、7間×4間の正殿、正殿の両脇には回廊風の区画施設を挟んで、10間×2間の南北棟の長大な建物がある。 おそらく、飛鳥浄御原宮の時には、天皇の住まいである内裏の性格を持っていたと推定される。
古代の宮都 元々政治は、大王の居館で行われていた。古代の宮都の変遷は、大王の居館から公的な儀式空間が独立していく過程でもあった。大まかにみると 内裏は、天皇が日常生活を送る空間。 大極殿は、天皇が公的儀式を行う場。 朝堂は、日常の政務を行った場所であった。 前期難波宮で、内裏前殿と朝堂の成立。(下図,宮都構造変遷図参照) 飛鳥浄御原宮、藤原宮での大極殿の成立。 平城宮での二つの朝堂空間の成立。 平安宮での内裏の分離と、豊楽院 (ぶらくいん) の成立に大きな意義がある。
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E1-2藤原京と平城京 (藤原京:奈良盆地南部、橿原駅付近、 平城京:奈良盆地北部、奈良駅付近) 7世紀末から8世紀前半にかけて宮都は、飛鳥~藤原京、平城京へと遷された。 平城京では、瓦葺の宮殿が採用され、役所がその周囲を取り巻いた。 宮の周囲には、役人を集住させるための方形区画の街並(条坊)が作られた。都を中心とした列島各地域との交流も活発となり、市も設けられ、 平城京では手工業の発達も認められる。古代都市の誕生であり、律令国家の成立をも意味している。 |
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E1-2-1藤原宮と平城宮 藤原宮の木簡 己亥年(699)上挟国阿波評松里(かずさのくにあわのこおりまつのさと) (のちの安房国安房郡 現:千葉県南部) から藤原宮に贈られた 荷札木簡である。 701年の大宝律令の制定までは「郡こおり」ではなく「評こおり」の表記を使用していたことを示し、「郡評論争」に決着をつけた木簡として有名。
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E1-2-2藤原京と平城京
藤原宮の土器 ●飛鳥時代7-8c 平城宮の土器 ●奈良時代8c 条坊制のひろがり 藤原京・平城京では、宮の周囲に碁盤の目のように一辺530mの区画が整然と並んでいた。これを条坊制と呼ぶ。 中国の唐長安城の制度を取り入れたものである。役人は身分に応じて、宅地を支給され、都に住むことを強制された。 藤原京のひろがり 1966年から始まった藤原宮の調査で、藤原京の範囲が明らかにされた(岸俊男説)。しかも最近の調査で、その周囲からも条坊や遺物が多数 見つかり、京の範囲は、その造営過程も含めて、今も揺れ動いている。
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E1-2-3都びとの生活-長屋王- 長屋王を支えた人々 長屋王は、高市皇子の長子で、左大臣正二位、現在の総理大臣に相当する地位にいた超一級の貴族である。 その大邸宅が平城京左京三条二坊から見つかり、4万点にも及ぶ多量の木簡が出土した。 木簡には、奈良盆地南部を始めとして、河内などの畿内各所からの米や野菜などにつけた荷札が沢山あった。 長屋王の生活を支えた経済基盤を知る上で興味深い。 長屋王wiki 長屋王は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。 私見 政治闘争 飛鳥池工房遺跡(現、万葉文化館北入口)から西を見ると甘樫丘は手が届くほどのところにある。 こんな狭い所であっちこっちと宮都を移動し、あの小さな丘に屋敷を構えたとか、何とか、、色々難癖をつけては大義にして殺戮する。 これまでもいくつもの豪族が政治闘争に敗れて消えて行ったが、蘇我氏の場合は、暗殺や攻め滅ぼすだけの理由が見いだせず、 中大兄皇子の権力強奪の理由を、藤原氏(旧中臣氏)をして、記紀に虚構を書き記し、墓まであばいて自らを正当化しようとした。 中臣氏は物部氏と組んだ排仏派であり、崇仏派の蘇我氏と争って失脚した物部の残党の逆襲に過ぎなかったと思われる。 現代の日本人的感覚からいうと、なんと残虐で陰湿なと思う。しかし、韓ドラの歴史ものを見ていると、実に残虐で、これと全く同じである。 地位と権力に執着して、嫌らしい陰謀を巡らせ、残虐に人を殺すという精神構造を、全ての韓ドラが描くのは、韓国の日常なのだろうか。 いずれにしろ、当時の貴族は、半島からやってきた渡来人とその子孫ばかりであるから、半島の思考様式そのままである。 激しい権謀術数と、陰謀渦巻く、政治闘争の宮廷。何もなくても難癖をつけて蹴落とし、殺そうという、そういう時代と人々の意識でした。 ヤマトの政治が安定するまでには、まだまだ大変な山坂や関門が待っています。 |
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E1-2-3a長屋王邸 |
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E1-2-5古代の手工業 |
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E1-2-5a奈良三彩の復元 奈良三彩は唐三彩の影響を受けて、奈良時代に成立した白色、緑色、黄色の釉薬をかけた焼き物である。 正倉院に残る「造仏所作物帳案」は、733年に興福寺西近藤を作った時の記録である。 その中に瓷杯(じはい=奈良三彩)を製作したときの材料の記録もある。それに基づいて奈良三彩の復元をおこなった。 奈良三彩の製作工程
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E1-2-5b奈良三彩 |
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E1-2-5c鍛冶 |
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E1-2-5d瓦 |
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E1-2-6古代の交流 藤原京、平城京が成立すると、列島各地と都との交流は、にわかに活発となった。 交流が国家による強制的なものであれ、民衆の自主的なものであれ、その背後に活発に往来する人々の姿があった事を忘れてはならない。 |
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E1-2-6a
木簡の旅 阿伎勝伊刀古麻呂と大宅女は、当時の都の藤原京の住人。 ここに展示した木簡(過所木簡=パスポート)は出身地の近江国蒲生郡阿伎里(滋賀県近江八幡市から蒲生郡竜王町にかけての地域)へ 田作りのために帰り、再び都の左京小治町へ向かう時の身分証明書となったもの。 このことから近江と大和の間にいくつかの関所があったことや、都の住人となっても出身地との繋がりを保っていたことがわかる。 ※それよりも、江戸時代のような通行人への監視体制や、使用人の身分を都の権力者が管理掌握していたことを示している。奴婢制度か!
荷札木簡 律令国家の税金には、租庸調等があった。この木簡は、若狭国(福井県)の三方郡竹田里から平城京に送られた調に付けられた木簡。 若狭国の調は塩で、正丁だと三斗(現:一斗二升)を納める必要があった。また、調を都へ運ぶのも自弁であった。 |
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E1-2-07古代のいのり 藤原京や平城京といった都市が成立し、多くの人々が集まって生活するようになると、複雑な人間関係が生じ、疫病が流行するようになった。 そういった穢れを取り除くため、様々な祈りの道具が登場した。 |
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E1-2-07a祈りの道具 |
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E1-2-07b占い |
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E1-2-07c祈り
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E1-2-07d |
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E1-2-07eいのりの道具 人形や人面墨書土器は、人についた穢れを祓うため、溝や川に流したものである。 土馬は水神への祈願に用いられ、祈りが終わると壊すことが多く、また、疫病や祟り神の乗り物という意見もある。 斎串は、外からの悪い病気などが入り込むのを遮る結界としての役割を果たした。 ミニチュア竈(かまど)は、竈神の信仰に使われたといわれる。(粘土で作った「もの」をカマドのそばに置くという信仰) その他に、祈りの道具として、木製の馬形・鳥形・船形・金属製の鏡・鈴などあった。 |
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E2-1仏教文化と寺院の建立 仏教は日本人にとって最も身近な宗教のひとつであろう。この教えは、現在の日本人の生活に多くの影響を与えており、また、日常さりげなく 用いている言葉の中にも仏教用語が数多く使われている。 飛鳥・奈良時代の日本は国を挙げて仏教を信仰していた。それは、仏教とは、国を守る教えであり、そして、その信仰と共に中国や朝鮮半島から 最新の文化や技術・芸術などが日本にもたらされた。 |
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E2-1-01 仏教伝来 ―なぜ仏教を受け入れたのか― 6世紀の東アジアの国々の多くが、仏教を信仰していた。その信仰によって新しい思想や文化・技術がうまれ、国の枠を越えた大きな文化圏が 造り出された。日本でもその進んだ文化を積極的に取り入れるため、仏教を受け入れようとする蘇我氏などの氏族が現れた。 そして、それを拒む物部氏らとの戦いに勝利した蘇我馬子らは、日本で最初の伽藍である飛鳥寺を建立(6c末~7c初頭)した。
初期寺院の広がり(日本最初の寺院、飛鳥寺、6世紀末~7世紀初頭建立) 日本で最初の本格的な寺院である飛鳥寺を建てるため、蘇我馬子が百済から多くの技術者を呼び寄せたと「日本書紀」に記されている。 このことは飛鳥寺から出土した軒丸瓦が、百済の寺院跡から出土する瓦に非常によく類似していることから裏づけられる。 また、7世紀前半に建てられた複数の寺院跡から、飛鳥寺の軒丸瓦と同じ文様を持つ瓦や、同じ型を用いて作られた瓦が出土している。 このような瓦の分布から、瓦造りという従来、日本になかった新しい技術がどのように広がったかということを知ることができる。 初期の寺(瓦)つくり 寺という全く新しい建物を建てるために、蘇我馬子は百済から多くの技術者を呼び寄せた。 彼らは日本の工人にその技術を教え、その工人たちも他のものに技術を伝えた。この技術の広がり方を、瓦から追うことができる。
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E2-2広まる寺づくり 飛鳥・奈良時代の政治や文化の中心であった大和には、国家や有力氏族によって、およそ150もの寺が建てられた。 この数は、日本で最も多く、当時の仏教信仰がいかに盛んであったかが伺える。 |
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E2-2-01 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
E2-2-01a古代寺院の軒丸瓦 |
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E2-2-01b広まる寺造り 伽藍配置の変遷 伽藍配置には、仏教思想が強く反映されている。金堂は像を安置する建物であり、塔は釈迦の教え、つまり法を表す建物、 そして講堂は僧の勉学のための建物であった。
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E2-2-01c各地の軒瓦・軒丸瓦 撮影禁止多数 |
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E2-2-02堂内を飾る 寺は、仏の世界を表している。特に、仏像が安置された金堂は、華やかな仏の世界を表現するために、様々な装飾が施された。 発掘調査でしばしば出土する塼仏もその一つで、つくられた当初は色が塗られたり、金箔が貼られ、壁一面を飾ることもあった。 |
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E2-2-02a | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
E2-2-02b①
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E2-2-02c② |
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E2-2-02d |
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E2-2-03屋根を飾る |
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E2-3東大寺を造る 東大寺建立の背景 728年創建 仏教の力によって国を守るという思想は、40天武天皇以降、歴代の天皇に引き継がれ、聖武天皇の時代、その思想をもとに東大寺の造営が 開始された。 この工事は従来の寺院建築の規模を遥かに越えた国家の巨大プロジェクトであり、必要な資材や労働者が全国から集められた。 その主なものには、陸奥の金、長門の銅、近江や伊賀の木材がある。 |
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E2-3-01 |
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E2-3-01 |
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E3-1飛鳥時代の古墳 (592-710) 飛鳥時代になると、墳丘全面に石を貼り付けた古墳や、八角形の墳丘が登場する。石室には切石積石室(きりいしづみ)や横口式石郭、 磚積石室などが採用され、漆塗りの荘厳な棺が納められた。その技術には、版築や切石、漆喰といった寺院建築の技術が大幅に導入された。 そして、少ないながらも正倉院に見られるような豪華な品々が添えられた。 |
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E3-1-01石室 古墳から火葬墓へ
※古墳時代の終焉 この問題について1週間ほど作文を試みましたが断念しました。全削除です。 仏教伝来538、蘇我氏による物部氏の討伐(中臣氏の凋落)587、最初の寺院建立6世紀末、7世紀初頭に冠位十二階性603、 半島情勢の緊迫化、大王になりたかった中大兄皇子と蘇我氏を討って復権を図りたかった中臣氏による乙巳の変645、 (蘇我氏は国際派?百済から新文化を導入していただけ。中臣氏が所管していた当時の神社とは現在とは随分違うもの) (中大兄皇子は善人みたいに言われるけれど、自分の子供を天皇に据えるために沢山の皇族や身内を殺しまくった恐ろしい人物) 続く大化の改新646による天皇を中心とする中央集権体制の確立へ。身分制度の確実化のための墳墓造営の規制が薄葬令646。 これらについて論じていました。しかし、まとまりを欠き、掲載を断念しました。 また、どこかで掲載できる場があれば、もう少し勉強して、まとめてから掲載したいと思います。「なぜ古墳時代は終焉したのか」
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E3-1-02終末期古墳
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E3-1-03 装飾と副葬品 高松塚古墳出土 ●7~8世紀 ●明日香村高松塚古墳 |
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E3-2火葬の始まり 700年 (天武天皇4) 僧道昭は、遺言により火葬にふされた。我が国における火葬の始まりである。 702年 (大宝2) には、持統天皇も火葬され、天武天皇と合葬された。こういった火葬は、 仏教思想とは別に、当時、新羅で行われた火葬や薄葬思想の影響が強い。 また、火葬は、広い階層の人々に定着することはなく、天皇に従った役人の間で、一種の流行のように採用された。 |
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E3-2-01太安万侶墓 |
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E3-2-05骨臓器
古代宮都と火葬墓 文字彫刻の世界
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F中世 |
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F1中世びとのくらし 考古学でいう中世とは、通常平安時代の終わり (11世紀中頃) から江戸時代の直前 (16世紀末) までの間を指す。 この時代の、多くの文献や絵画資料が今に残されており、これらは当時の人々の生活の様子と共に喜怒哀楽の感情まで伝えてくれる。 一方、具体的な生活の場の発掘調査によって、中世びとの暮らしの知恵に接することができる。 |
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F1-00くらす | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
F1-00-1 都が奈良を去ったあと 都が京都に遷ったのちも、奈良は南都と呼ばれ繁栄を続ける。 これは、奈良の地に寺社が残ったためであり、寺社は天皇家や藤原氏の信仰をあつめ、おおいに栄えた。 農村の風景 中世の奈良盆地は、広大な農業地帯であった。その生産力は、南都の繁栄を支える原動力になった。 発掘された中世の館 鎌倉時代も終わりになると、戦乱の時代となる。奈良盆地の各地には、防御のために大きな濠をもつ村や屋敷が作られるようになった。
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F1-00-2平安~鎌倉時代 |
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F1-00-3 |
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庶民の暮らし |
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F1-01たべる |
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F1-02うつわ 中世の食卓-3 捨てられた多くの土器は何を語るのか 中世の遺跡を発掘すると、溝などから数百点の土器がまとまって完全なまま出土することがある。 一見無駄遣いに見えるが、これは、村の人々の結束を強めるための祭や宴会などに一度だけ使って捨てられたものである。 |
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F1-03あそぶ |
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F1-03-01panel 大人の遊び ―博奕に溺れた者の運命― 囲碁・将棋・双六などの大人の遊びは、お金を賭けた賭博であった。双六で負けて裸にされながらも、なお双六盤から離れようとしない男の姿が、 絵巻物に描かれている。 子どもの遊び ―子を思う親の気持ち― 医療が未発達な中世では、親はまじないによって子どもの健やかな成長を願った。子供の遊び道具にも、子どもが病気に掛らないようにという まじないの意味が込められていたのである。 例えば、コマは西アジアの魔物、胡魔であり、子どもにとり付く悪いものを追い払うという意味があった。
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F1-03-02将棋 将棋駒 この駒は、11世紀後半頃に埋められたゴミ捨て穴から、多量の瓦や土器、木製品と伴に出土した。 共に出土した題箋軸に「天喜六年」(1058)の文字が見えることから、この頃の駒と考えられる。 現在までのところ日本最古の将棋の駒であり、日本における将棋史を考える上で大変興味深い遺物である。 |
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F1-03-03茶・香の道具
喫茶の始まり 喫茶の流行と共に、茶道具の生産も盛んになった。奈良もその生産地の一つとしてよく知られていた。 |
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F1-03-04製茶の道具 |
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F1-04あきなう 他地域でも使われた大和特産の土器 中世には、全国に様々な焼き物産地が生まれた。奈良でも瓦質土器と呼ばれる黒色の土器が作られた。 この中でも、火鉢や香炉、茶道具の風炉などは、大和の特産品として全国に広く流通した。
他地域でも使われた大和特産の土器 中世には、全国に様々な焼き物の山地が生まれた。奈良でも瓦質土器と呼ばれる黒色の土器が作られた。 この中でも、火鉢や香炉、茶道具の風炉などは、大和の特産品として全国に幅広く流通した。
大和で使われた他地域の土器 12世紀中頃に前後して、現在でも焼き物の名産地として名高い瀬戸や常滑などの地域で大規模な生産が開始された。 それらの製品の多くは高級品であったが、大和にも多数持ち込まれ使用されている。
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F1-05ほうむる 日本中世は気候変動の時代。 参考藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した 気候変動と災害史料の関係の検討 -「大飢饉」の磁器を中心に-
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F1-06いのる |
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F1-06-1中世人のいのり 貴族のいのり 中世は社会不安に揺れた時代であった。貴族は来世の平安を願い、仏教の経典を入れた鏡筒を信仰の対象とされていた山の地中に埋めた。 大峰山からは、藤原道長が埋めた鏡筒が発見されている。 庶民のいのり 貴族と同様、庶民もまた自らの幸せを祈った。当時の庶民は様々な所に祈りの場を設けた。斑鳩仏塚古墳では、横穴式石室を再利用して、 仏教信仰の場に使われていた。 |
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F1-06-2仏塚から出土した仏教信仰にかかわる遺物 ●鎌倉~室町 13-16c ●斑鳩町
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F1-06-3信仰の品々
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