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 西日本の縄文2 01    2018.06.03

  橿原考古学研究所付属博物館  奈良県橿原市畝傍町50-2 0744-24-1185月休撮影可
   第3展示室 飛鳥時代~中世

     ※2019.06.13只今リニューアル工事中 再開日時不明

   第1展示室
   第2展示室
   第3展示室


 交通  近鉄線 畝傍御陵駅から4分 (290m)  橿原神宮前駅から13分 (1.1km)

 見所  近畿地方最大で最高権威の博物館。 大和の先史・古代遺物の展示。

 
 目次


第3展示室

E飛鳥時代

E1古代の宮都
E1-1飛鳥の宮
E1-1-1出土遺物
Ⅰ~Ⅲ期
資料 古代宮都の変遷
E1-1-2飛鳥京の遺物
E1-1-3飛鳥宮模型
E1-1-3bエビノコ郭
 飛鳥浄御原宮遺跡

E1-2藤原京と平城京
E1-2-1藤原宮と平城宮
E1-2-2藤原京と平城京
 瓦・土器
 条坊制の広がり
E1-2-3都びとの生活-長屋王-
私見 政治闘争
E1-2-3a長屋王邸

E1-2-5古代の手工業
E1-2-5a奈良三彩
E1-2-5c鍛冶
E1-2-5d瓦

E1-2-6古代の交流
 木簡の旅
E1-2-07古代の祈り
E1-2-07a祈りの道具

E2-1仏教文化と寺院の建立
E2-1-01仏教伝来
 初期寺院の広がり
E2-2広まる寺づくり
E2-2-01a古代寺院の軒丸瓦
E2-2-01b伽藍配置の変遷
E2-2-02堂内を飾る
E2-2-03屋根を飾る

E2-3東大寺を造る

E3-1飛鳥時代の古墳
E3-1-01古墳から火葬墓へ
E3-1-02終末期古墳
E3-1-03 装飾と副葬品
 高松塚古墳

E3-2火葬の始まり
E3-2-01太安万侶墓
 古代宮都と火葬墓
 文字彫刻の世界

F中世

F1中世びとのくらし
F1-00くらす
F1-00-1都が奈良を去ったあと
F1-00-2
 平安~鎌倉時代の暮らし

 庶民の暮らし
F1-01たべる
F1-02うつわ
F1-03あそぶ
F1-03-02将棋
F1-03-03茶・香の道具
F1-04あきなう
F1-05ほうむる
F1-06いのる
 
  第3展示室 




 E飛鳥時代




 E1古代の宮都
  宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉である。宮室と、天皇の住まいを意味し、都城は、それを中心とした一定の空間を示している。
  古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもあった。

  飛鳥時代になると、我が国は「律令国家」と呼ばれる新しい国作りを目指す。
  そのため、古代の宮都の変遷には、古代国家の形成過程が反映されている


 E1-1飛鳥の宮
  「日本書紀」によると、592年、33推古天皇は豊浦宮即位する。飛鳥時代の幕開けである。 (豊浦宮:甘樫丘西隣)
  この後、約100年間、36孝徳天皇の難波宮38天智天皇の大津宮の時期を除いて、宮都は飛鳥藤原地域に集中する。
    (難波宮:大坂城南隣) (大津宮:琵琶湖の西南岸、大津市役所付近) (飛鳥:甘樫丘東隣) (藤原:甘樫丘から来た約3.6km) 

  大化の改新壬申の乱などの舞台となり、聖徳太子・蘇我馬子・38天智天皇・40天武天皇・41持統天皇が、新しい国づくりをめざし活躍した場所
  でもあった。(大化の改新:乙巳の変、飛鳥板蓋宮) (壬申の乱:大海人皇子のクーデター、近江宮)

  E1-1-1飛鳥京出土遺物 (Ⅰ期)
第3展示室
飛鳥・奈良時代
古代の宮都 飛鳥全景
 
墨書土器
平安時代 9世紀
明日香村雷丘東方遺跡
 
無文銀銭、海老錠
飛鳥7c
明日香村飛鳥京跡
 
・墨書土器/奈良8c
 平城京左京二条5坊北方
・刻字土器/飛鳥7c
 明日香村飛鳥京跡

・円面硯、・転用硯
 飛鳥7c
明日香村飛鳥京跡
エビノコ郭正殿模型
飛鳥時代7c飛鳥京
宮殿の柱
飛鳥時代7c飛鳥京
飛鳥京跡
内郭東一本柱塀
エビノコの意味を調査しても
全く分かりませんでした。


 飛鳥京出土遺物(Ⅱ期~Ⅲ期)
飛鳥京跡出土遺物 飛鳥京跡出土木簡
飛鳥時代 7世紀
明日香村飛鳥京跡

文献考古学担当の
仕事ですね
飛鳥京出土土器
Ⅱ期遺構の
須恵器、土師器

Ⅲ期遺構の土師器

Ⅲ期遺構造営時の須恵器、土師器

Ⅲ期遺構の須恵器


 資料 飛鳥~奈良時代の宮都の変遷



飛鳥京 (引用wiki飛鳥京
Ⅰ期 飛鳥岡本宮 (630-636) 34舒明天皇及び37斉明天皇
Ⅱ期 飛鳥板蓋宮 (643-645,655) 35皇極天皇 乙巳の変
Ⅲ期 後飛鳥岡本宮 (656-660) 37斉明女帝、皇極女帝、41持統女帝 壬申の乱
  飛鳥浄御原宮 (672-694) 40天武天皇

   日本の首都 (引用wiki飛鳥京)  (引用日本の首都遍歴
前の首都 飛鳥京 次の首都
難波高津宮or纏向遺跡  豊浦宮・小墾田宮・岡本宮・板蓋宮 等
592-645年 
難波宮(難波長柄豊埼宮)
645-655 
難波宮(難波長柄豊埼宮)
645-655
板蓋宮・川原宮・後岡本宮 等
655-667年
近江大津宮
667-672
近江大津宮
667-672
飛鳥浄御原宮
672-694年
藤原京→平城京
694-710年



 E1-1-2飛鳥京の遺物  
 土管
  飛鳥地方では、土管とされている。
  大津市歴史博物館では、牛角把手が付いており、オンドルの煙突 (渡来人の住居用) とされる。
  しかし、出雲を中心にした山陰地方では山陰型甑形土器と呼ばれ、謎の大型土器とされている。

土管

飛鳥7c
吉野町宮滝遺跡
土馬

飛鳥7c
明日香村島庄遺跡
嶋宮で使われた土器
須恵器 飛鳥7c
明日香村石舞台古墳
嶋宮 明日香村島庄
     石舞台古墳のそば

 古代の宮都
古代の宮都
上に記述E1
飛鳥の宮上に記述E1-1 飛鳥周辺の主な遺跡 奥山廃寺・安倍山田道
小墾田宮跡(雷丘東方遺跡)
甘樫丘・石神遺跡・飛鳥寺(飛鳥大仏)
川原寺・飛鳥京跡・橘寺(東橘遺跡)
天武持統合葬陵・嶋宮跡(島庄遺跡)
石舞台古墳
飛鳥時代の宮都の変遷

 飛鳥の木簡
    木の札に文字を記したものを木簡と言う。木簡には命令の伝達や報告を記した文書木簡や、荷物に付けた荷札木簡などがある。
  この木簡は、飛鳥京跡の外郭隣接地で出土した削り屑木簡である。「辛巳年」とは、天武天皇10(681)年を意味する。

  「大津皇子」は40天武天皇の皇子を指す。天武天皇に関わる木簡が出土したことは、この宮殿が、飛鳥浄御原宮である可能性をさらに強めた。

飛鳥の木簡

上に記述
木簡

飛鳥京跡 7c飛鳥時代
  古代の苑池

島庄遺跡(嶋宮)全景
宮滝遺跡(吉野宮)全景
宮滝遺跡
 吉野郡吉野町宮滝は、
  縄文時代 早期、後期、晩期
  弥生時代 中期
  飛鳥・奈良時代
 の複合遺跡である。

 交通の便の良い所とされている。
 
 E1-1-3飛鳥宮模型
 E1-1-3a

  E1-1-3b
 エビノコ郭(飛鳥浄御原宮の施設の一部)
  西側に5間×2間の門がある長方形の区画である。内部には9間×5間のエビノコ大殿と、脇殿がおそらく2棟存在する。区画の南側には、
  朝堂が存在したと推定される最近の研究では、天武天皇の飛鳥浄御原宮の段階に新たに作られたという意見が有力である。
  おそらく、のちの大極殿的な性格を持っていたと考えられる。

 飛鳥の宮 -飛鳥浄御原宮
  明日香村岡にある宮殿遺跡で、「飛鳥京跡」と呼ばれている。昭和34年以来の発掘調査により、複数の宮殿遺跡が重複している事が明らかとなった。
  ここに復元したのは、その上層の宮殿遺跡である。

  木棺の出土や発掘調査の進展により、天武天皇と持統天皇の飛鳥浄御原宮であることが、ほぼ確定した。内郭、エビノコ郭、外郭とからなっている。
  その構造は、前期難波宮や大津宮、藤原宮とは大きく異なり、どうしてこのような宮殿がつくられたのかという、新たな問題を提起している。

エビノコ大殿検出状況 エビノコ大殿検出状況 エビノコ郭 宮殿模型の解説 飛鳥の宮
-飛鳥浄御原宮

ピンボケ


 内郭
  南北197m東西152-158mの逆台形をした区画で、北部・中央部は石敷き、南部はバラス敷きで舗装される。
  南から5間×2間の門、7間×4間の正殿、正殿の両脇には回廊風の区画施設を挟んで、10間×2間の南北棟の長大な建物がある。
  おそらく、飛鳥浄御原宮の時には、天皇の住まいである内裏の性格を持っていたと推定される。


ピンボケ
内郭南門 内郭 内郭前殿 遺跡検出状況 内郭前殿


 古代の宮都

  元々政治は、大王の居館で行われていた。古代の宮都の変遷は、大王の居館から公的な儀式空間が独立していく過程でもあった。大まかにみると
    内裏は、天皇が日常生活を送る空間。
    大極殿は、天皇が公的儀式を行う場。
    朝堂は、日常の政務を行った場所であった。

    前期難波宮で、内裏前殿と朝堂の成立。(下図,宮都構造変遷図参照)
    飛鳥浄御原宮、藤原宮での大極殿の成立。
    平城宮での二つの朝堂空間の成立。
  平安宮での内裏の分離と、豊楽院 (ぶらくいん) の成立に大きな意義がある。


検出状況
古代宮都の変遷 古代宮都の位置 ①飛鳥板蓋宮
②難波宮
③飛鳥板蓋宮
 (飛鳥浄御原宮)
④藤原京
⑤⑥平城京
⑦長岡京
⑧平安京
古代宮都構造の変遷
8世紀後半
 
 

 E1-2藤原京平城京 (藤原京:奈良盆地南部、橿原駅付近、 平城京:奈良盆地北部、奈良駅付近)
 7世紀末から8世紀前半にかけて宮都は、飛鳥~藤原京、平城京へと遷された。

 平城京では、瓦葺の宮殿が採用され、役所がその周囲を取り巻いた。
 宮の周囲には、役人を集住させるための方形区画の街並(条坊)が作られた。都を中心とした列島各地域との交流も活発となり、市も設けられ、
 平城京では手工業の発達も認められる。古代都市の誕生であり、律令国家の成立をも意味している。

 
 E1-2-1藤原宮と平城宮
藤原京 藤原宮 平城京 平城宮


 藤原宮の木簡
  己亥年(699)上挟国阿波評松里(かずさのくにあわのこおりまつのさと) (のちの安房国安房郡 現:千葉県南部) から藤原宮に贈られた
  荷札木簡である。
  701年の大宝律令の制定までは「郡こおり」ではなく「評こおり」の表記を使用していたことを示し、「郡評論争」に決着をつけた木簡として有名。

藤原京平城京
上に記述
藤原宮
藤原宮復元図
平城宮
奈良時代前半、後半
藤原宮の木簡
 

 E1-2-2藤原京と平城京
・軒丸瓦/飛鳥7-8c藤原京藤原宮跡
・軒平瓦/飛鳥7-8c藤原京藤原宮跡

・鬼瓦/奈良時代8c/平城京跡

・軒丸瓦/奈良8c平城宮跡
・軒平瓦/奈良-8c平城宮跡

   
金銅製飾金具/7-8c
飛鳥時代
 
石帯
銅製帯金具7-8c飛鳥
藤原京右京六条・七条四坊
石帯/奈良8c
藤原宮跡(右)
大安寺跡(左)

木製くつ
奈良時代8c
平城京跡

唐三彩
・(左)奈良時代8c
桜井市安倍寺跡
・(左)7-8c
藤原京右京二条山坊
・琥珀製飾品
奈良時代8c
平城京左京三条四坊


 藤原宮の土器 ●飛鳥時代7-8c
 平城宮の土器 ●奈良時代8c
藤原宮の土器
須恵器

土師器
平城宮の土器
墨書土器/飛鳥7-8c
藤原宮跡
 様々な硯
飛鳥・奈良時代7-8c
藤原宮・平城宮

木簡
飛鳥・奈良時代7-8c
藤原宮・平城宮

土師器


 条坊制のひろがり
  藤原京・平城京では、宮の周囲に碁盤の目のように一辺530mの区画が整然と並んでいた。これを条坊制と呼ぶ。
  中国の唐長安城の制度を取り入れたものである。役人は身分に応じて、宅地を支給され、都に住むことを強制された。

 藤原京のひろがり
  1966年から始まった藤原宮の調査で、藤原京の範囲が明らかにされた(岸俊男説)。しかも最近の調査で、その周囲からも条坊や遺物が多数
  見つかり、京の範囲は、その造営過程も含めて、今も揺れ動いている。

古代宮都と古道 上ツ道・中ツ道・下ツ道が、直線で平城京と藤原京を結んでいたとは。

何となく神さびた田舎道を思い描いていました。
これはもう、主街道でした。

 神錆びるのは、千年後のことですね
条坊制の成立

平城京復元模型
藤原京のひろがり

藤原京復元模型
ピンボケ
 


 E1-2-3都びとの生活-長屋王-

 長屋王を支えた人々
  長屋王は、高市皇子の長子で、左大臣正二位、現在の総理大臣に相当する地位にいた超一級の貴族である
  その大邸宅が平城京左京三条二坊から見つかり、4万点にも及ぶ多量の木簡が出土した。

  木簡には、奈良盆地南部を始めとして、河内などの畿内各所からの米や野菜などにつけた荷札が沢山あった。
  長屋王の生活を支えた経済基盤を知る上で興味深い。

 長屋王wiki
  長屋王は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。
  皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。



 私見 政治闘争

  飛鳥池工房遺跡(現、万葉文化館北入口)から西を見ると甘樫丘は手が届くほどのところにある。
  こんな狭い所であっちこっちと宮都を移動し、あの小さな丘に屋敷を構えたとか、何とか、、色々難癖をつけては大義にして殺戮する。

  これまでもいくつもの豪族が政治闘争に敗れて消えて行ったが、蘇我氏の場合は、暗殺や攻め滅ぼすだけの理由が見いだせず、
  中大兄皇子の権力強奪の理由を、藤原氏(旧中臣氏)をして、記紀に虚構を書き記し、墓まであばいて自らを正当化しようとした。

  中臣氏は物部氏と組んだ排仏派であり、崇仏派の蘇我氏と争って失脚した物部の残党の逆襲に過ぎなかったと思われる。

  現代の日本人的感覚からいうと、なんと残虐で陰湿なと思う。しかし、韓ドラの歴史ものを見ていると、実に残虐で、これと全く同じである。
  地位と権力に執着して、嫌らしい陰謀を巡らせ、残虐に人を殺すという精神構造を、全ての韓ドラが描くのは、韓国の日常なのだろうか。

  いずれにしろ、当時の貴族は、半島からやってきた渡来人とその子孫ばかりであるから、半島の思考様式そのままである。

  激しい権謀術数と、陰謀渦巻く、政治闘争の宮廷。何もなくても難癖をつけて蹴落とし、殺そうという、そういう時代と人々の意識でした。
  ヤマトの政治が安定するまでには、まだまだ大変な山坂や関門が待っています。

 E1-2-3a長屋王邸
長屋王を支えた人々
上に記述
長屋王邸 長屋王邸から出土した木簡 (撮影禁止)  長屋王邸出土の木簡

転載「常説展示図録
「大和の考古学」」
橿原考古学研究所附属博物館

奈良三彩(復元)
荷札木簡
木櫃/奈良時代8c
天理市武蔵遺跡
 ←長屋王が氷室を2つ作ったときの木簡
  





 E1-2-5古代の手工業





 E1-2-5a奈良三彩の復元

  奈良三彩は唐三彩の影響を受けて、奈良時代に成立した白色、緑色、黄色の釉薬をかけた焼き物である。
  正倉院に残る「造仏所作物帳案」は、733年に興福寺西近藤を作った時の記録である。
  その中に瓷杯(じはい=奈良三彩)を製作したときの材料の記録もある。それに基づいて奈良三彩の復元をおこなった。

 奈良三彩の製作工程
①粘土調整
②ロクロの上で粘土紐を巻き上げる。
③ロクロを使って形を整える。
④素焼き(1000~1100℃)
⑤釉薬調合
⑥透明、緑、黄色の釉薬を塗り分ける。
 薬は酸化鉛と珪石の混合物(鉛ガラス)に、酸化銅を加えたものが緑釉となり、
 酸化鉄を加えたものが黄釉となる。
⑦半地下式の薪窯で本焼成(約850℃で5~6時間)
⑧釉薬が溶け、三彩は完成する。
 

手工業生産
・瓦・須恵器窯
・金属工房他
奈良三彩復元 奈良三彩の釉薬 内山瓦窯
藤原宮や多くの寺院の屋根瓦を生産した
 E1-2-5b奈良三彩 
古代の手工業 奈良三彩の製作 奈良三彩 8c
奈良三彩の製作工程
粘土→成形→素焼き

施釉→焼成
奈良三彩製品
奈良時代 8c

小壺、蓋、蓋
小壺
 平城京左京六条二坊

 桜井市大福遺跡

 奈良市大安寺旧境内

托、小壺、脚付皿

 平城京左京四条
小壺
 橿原市東竹田遺跡
脚付皿
 奈良市大安寺旧境内
 E1-2-5c鍛冶
・鉄滓の付いた須恵器
・鉄滓
・ガラス滓
・フイゴの羽口
飛鳥時代7-8世紀
橿原市四条大田中遺跡
・漆付着の土器/飛鳥7c飛鳥京跡
・漆付着の土器/飛鳥7-8c藤原京跡
・ヘラ/飛鳥7-8c橿原市紀寺跡
・和同開珎の鋳型/飛鳥8c
 E1-2-5d

軒瓦/飛鳥7-8c
大和郡山市内山瓦窯跡

平瓦/飛鳥7-8c
・粘土板桶づくり
・粘土板紐桶づくり
大和郡山市
内山瓦窯跡
平瓦の製法
・粘土板桶づくり
  木製瓦型の湾曲面を内にして
  桶の様に組み、剥離面に麻布を
  巻いておく。
  粘土板を張り、叩き成形して
  切り離す。
 
・粘土板紐桶づくり
  上記の様に組んだ瓦型に
  粘土紐を巻き付けて成形し
  切り分けて切り離す。
  (粘土紐の跡が残る)

・ 布綴目(読み?ぬのとじめ?)
・「美濃」刻印須恵器
奈良時代8c 奈良市尾山代遺跡

桶巻き時に麻布を剥離材に利用するため、布目が残る
 

 E1-2-6古代の交流
  藤原京、平城京が成立すると、列島各地と都との交流は、にわかに活発となった。
  交流が国家による強制的なものであれ、民衆の自主的なものであれ、その背後に活発に往来する人々の姿があった事を忘れてはならない。


 E1-2-6a

古代の交流 古代の交流
各地から都へ
須恵器の生産地
  静岡県・愛知県・大阪府・岡山県・福岡県

塩の生産地
  愛知県・三重県・福井県・京都府・兵庫県・

鉄の生産地
  宮城県・福島県・茨城県・埼玉県・滋賀県・京都府・岡山県・福岡県・熊本県 

古代の交流
都から各地へ
平城宮・京で使われた軒瓦出土地
宮城県・栃木県・長野県・静岡県・愛知県・三重県・奈良・京都府・大阪府・兵庫県・岡山県・広島県・愛媛県・福岡県

奈良三彩の出土地
宮城県・福島県・群馬県・栃木県・茨城県・埼玉県・東京都・神奈川県・長野県・静岡県・愛知県・岐阜県・三重県
滋賀県・奈良・京都府・大阪府・和歌山県・兵庫県・岡山県・広島県・香川県・福岡県・佐賀県

都で使われた土器
宮城県・福島県・群馬県・埼玉県・東京都・茨城県・千葉県・神奈川県・長野県・石川県・静岡県・愛知県・岐阜県
三重県・滋賀県・奈良・京都府・大阪府・和歌山県・兵庫県・岡山県・広島県・香川県・福岡県・佐賀県



 木簡の旅
  阿伎勝伊刀古麻呂と大宅女は、当時の都の藤原京の住人。

  ここに展示した木簡(過所木簡=パスポート)は出身地の近江国蒲生郡阿伎里(滋賀県近江八幡市から蒲生郡竜王町にかけての地域)へ
  田作りのために帰り、再び都の左京小治町へ向かう時の身分証明書となったもの。

  このことから近江と大和の間にいくつかの関所があったことや、都の住人となっても出身地との繋がりを保っていたことがわかる。

  ※それよりも、江戸時代のような通行人への監視体制や、使用人の身分を都の権力者が管理掌握していたことを示している。奴婢制度か!


1.過所木簡を発行

2.伊刀古麻呂と大宅女出立
3.大和に到着し過所木簡を折る

過所木簡/飛鳥7-8c
平城宮下層



 荷札木簡
  律令国家の税金には、租庸調等があった。この木簡は、若狭国(福井県)の三方郡竹田里から平城京に送られた調に付けられた木簡。
  若狭国の調は塩で、正丁だと三斗(現:一斗二升)を納める必要があった。また、調を都へ運ぶのも自弁であった。

荷札木簡
上に記述

製塩土器/奈良時代8c
平城京左京六条二坊
 




 E1-2-07古代のいのり



  藤原京や平城京といった都市が成立し、多くの人々が集まって生活するようになると、複雑な人間関係が生じ、疫病が流行するようになった。
  そういった穢れを取り除くため、様々な祈りの道具が登場した。

 E1-2-07a祈りの道具
古代のいのり
上に記述

仏頭

線刻土器

人面墨書土器

描画木片

土馬・木偶

鬼瓦

絵画お面
 E1-2-07b占い

木簡/飛鳥7-8c
藤原京右京九条四坊
占い木簡
・ミニチュア土器・土馬
飛鳥時代7-8c
藤原京右京五条四坊

飛鳥時代7-8c
・素文鏡・海獣葡萄鏡
 藤原京右京五条四坊
・海獣葡萄鏡・素文鏡
 桜井市大福遺跡

・金属製人形/飛鳥    7-8c藤原京跡
・金属製鈴/飛鳥7-8c
 藤原京右京五条四坊
 E1-2-07c祈り

 飛鳥7-8c
・斎串(藤原京)
・木製人形(橿原遺跡)

・斎串(奈良8c)
 大和郡山市稗田遺跡

・木製人形・ 木製大刀
・木製馬形・木製鳥形
奈良8c稗田遺跡

墨書人面土器
奈良時代 8世紀
大和郡山市稗田遺
墨書人面土器 墨書人面土器
 E1-2-07d
藤原京~平城京の
まつり
藤原京のまつり
飛鳥7-8c
・木製舟形
・木製馬形
・木製人形
・木製鳥形
・木製大刀
平城京のまつり
奈良時代8c

・土馬
・ミニチュアカマド

・土馬
奈良時代 8世紀
平城京左京九条一坊
・ミニチュアカマド
奈良8世紀
大和郡山市稗田遺跡
奈良時代にも一人釜飯一人鍋が流行ったのかな(笑)

 E1-2-07eいのりの道具

  人形や人面墨書土器は、人についた穢れを祓うため、溝や川に流したものである。
  土馬は水神への祈願に用いられ、祈りが終わると壊すことが多く、また、疫病や祟り神の乗り物という意見もある。

  斎串は、外からの悪い病気などが入り込むのを遮る結界としての役割を果たした。
  ミニチュア竈(かまど)は竈神の信仰に使われたといわれる。(粘土で作った「もの」をカマドのそばに置くという信仰)

  その他に、祈りの道具として、木製の馬形・鳥形・船形・金属製の鏡・鈴などあった。

いのりの道具
上に記述
土馬

 都の中や周囲の溝で、厄払いと称してこんなまじない道具を沢山流されたら、汚れがついているから誰も触れないし、どんどんよどみに溜まる一方
 だったようです。都建設時には清い水が流れていた溝や川も、だれも掃除をしないから、すぐに汚物やごみが溜まって悪臭を放つドブやドブ川に
 変わってしまい、衛衛生環境はすこぶる悪かったでしょう。

   


 E2-1仏教文化と寺院の建立
  仏教は日本人にとって最も身近な宗教のひとつであろう。この教えは、現在の日本人の生活に多くの影響を与えており、また、日常さりげなく
  用いている言葉の中にも仏教用語が数多く使われている。
 
 飛鳥・奈良時代の日本は国を挙げて仏教を信仰していた。それは、仏教とは、国を守る教えであり、そして、その信仰と共に中国や朝鮮半島から
 最新の文化や技術・芸術などが日本にもたらされた。
  E2-1-01
 仏教伝来 ―なぜ仏教を受け入れたのか―
  6世紀の東アジアの国々の多くが、仏教を信仰していた。その信仰によって新しい思想や文化・技術がうまれ、国の枠を越えた大きな文化圏が
  造り出された。日本でもその進んだ文化を積極的に取り入れるため、仏教を受け入れようとする蘇我氏などの氏族が現れた。

  そして、それを拒む物部氏らとの戦いに勝利した蘇我馬子らは、日本で最初の伽藍である飛鳥寺を建立(6c末~7c初頭)した。


百済観音像
飛鳥寺の創建軒丸瓦
(百済系)
素弁八弁蓮華文軒丸瓦 飛鳥7c橿原市 軽寺跡
素弁八弁蓮華文軒丸瓦 飛鳥7c明日香村 奥山久米寺跡

有稜素弁七弁蓮華文軒丸瓦 飛鳥7c明日香村 坂田寺跡

有軸素弁八弁蓮華文軒丸瓦(高句麗系) 飛鳥7c明日香村 豊浦寺跡

素弁八弁蓮華文軒丸瓦 飛鳥6c韓国 東南里廃寺
仏教文化と寺院の建立
上に記述
仏教伝来
なぜ仏教を受け入れたのか
上に記述
仏教伝来の道
ピンボケ



 初期寺院の広がり(日本最初の寺院、飛鳥寺、6世紀末~7世紀初頭建立)

  日本で最初の本格的な寺院である飛鳥寺を建てるため、蘇我馬子が百済から多くの技術者を呼び寄せたと「日本書紀」に記されている。
  このことは飛鳥寺から出土した軒丸瓦が、百済の寺院跡から出土する瓦に非常によく類似していることから裏づけられる。

  また、7世紀前半に建てられた複数の寺院跡から、飛鳥寺の軒丸瓦と同じ文様を持つ瓦や、同じ型を用いて作られた瓦が出土している。
  このような瓦の分布から、瓦造りという従来、日本になかった新しい技術がどのように広がったかということを知ることができる。

 初期の寺(瓦)つくり
  寺という全く新しい建物を建てるために、蘇我馬子は百済から多くの技術者を呼び寄せた。
  彼らは日本の工人にその技術を教え、その工人たちも他のものに技術を伝えた。この技術の広がり方を、瓦から追うことができる。

初期の寺づくり
飛鳥白鳳時代
592-710
百済から4人の工人(飛鳥寺瓦窯の瓦職人)→飛鳥寺用瓦製造

増瓦窯→飛鳥寺  →豊浦寺
↓斑鳩寺周辺瓦窯→法隆寺

平野山瓦窯(枚方市・八幡市)→四天王寺

隼上り瓦窯(宇治市)→豊浦寺

幡枝瓦窯(京都市北野)→北野廃寺


法隆寺の瓦(複製) 法隆寺の瓦 軒先に葺く瓦の文様は、通常、瓦当范(がとうはん)と呼ばれる木型の中に粘土を詰め込んでつける。

一つの范からは全く同じ文様を持った瓦を多量に作ることができ、また、文様の磨滅の度合いから、瓦の作られた順番もわかる。
広まる寺造り
下に記述
 

 E2-2広まる寺づくり
  飛鳥・奈良時代の政治や文化の中心であった大和には、国家や有力氏族によって、およそ150もの寺が建てられた。
  この数は、日本で最も多く、当時の仏教信仰がいかに盛んであったかが伺える。
 E2-2-01
 E2-2-01a古代寺院の軒丸瓦
古代寺院の軒瓦丸瓦 軒丸瓦
・複弁七弁蓮華文軒丸瓦
・四重弧文軒平瓦
  飛鳥7c御所市朝妻廃寺

・複弁六弁蓮華文軒丸瓦
・葡萄唐草文軒平瓦
  奈良8c葛城市欅守寺跡

・短弁九弁蓮華文軒丸瓦
  飛鳥7c桜井市安倍寺跡

・単弁八弁蓮華文軒丸瓦
・忍冬唐草文軒平瓦
  飛鳥7c奈良市山村廃寺

・単弁八弁蓮華文軒丸瓦
  飛鳥7c橿原市田中廃寺

・単弁八弁蓮華文軒丸瓦
  飛鳥7c橿原市大窪寺跡

・複弁八弁蓮華文軒丸瓦
  飛鳥7c御所市巨勢寺跡

・単弁八弁蓮華文軒丸瓦
  飛鳥7c宇陀市小附廃寺

 E2-2-01b広まる寺造り

 伽藍配置の変遷
  伽藍配置には、仏教思想が強く反映されている。金堂は像を安置する建物であり、塔は釈迦の教え、つまり法を表す建物、
  そして講堂は僧の勉学のための建物であった。
広まる寺造り
上に記述
伽藍配置の変遷 6世紀後半
 飛鳥寺(588年建立) 山門から、一塔を三金堂が囲み、回廊奥に講堂 (蘇我氏)
7世紀
 山田寺(642年) 山門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ、大陸式 (蘇我氏)
 川原寺(660年) 山門、一塔と一金堂が並列し奥に金堂が一つ、その奥に講堂 (持統天皇)
 本薬師寺(682年) 山門、二塔並立、奥に一金堂、その奥に講堂
8世紀前半
 大安寺(729年) 外に二塔並立、山門が3つ、回廊で繋がった門と金堂、奥に講堂、複雑な回廊

平城京の寺院
藤原京の寺院
平城京
711-794建立
 唐招提寺
 大安寺
 興福寺
 東大寺
藤原京
650までに建立
 大窪寺
 田中廃寺
 軽寺跡
 豊浦寺跡
 飛鳥寺跡
651-710建立
 本薬師寺跡
 紀寺跡
飛鳥・奈良時代の
古代寺院 
650までに建立
 法隆寺
 片岡王寺跡
 坂田寺
 巨瀬寺
651-710建立
 当麻寺
 只塚廃寺
 地光寺跡
 朝妻廃寺
651-710建立
 川原寺
 山村廃寺
 楢池廃寺
 粟原寺跡
 小附廃寺
711-794建立

 掃守寺跡
 岡寺
 竜門寺

平瓦の裏面に残る布の痕跡
 
 ほぼ同じ大きさと形を持つ瓦を、効率よく多量に作るために、瓦造りには型が使われた。
 その型には、3~4枚の瓦を一度にまとめて作れる円形の桶形のものなどがあるが、
 型から粘土を離すために、型には布が巻き付けられた。その布の痕跡が瓦に残っている。

※私は、瓦型の湾曲した板を3~4枚組み合わせて樽形に組み、麻布を巻き付けた上に板状や紐状の粘土を巻き付け、
 成形後型板ごと切り分けて外し、そのまま日干しにした。こんな木製瓦型が何百枚もあったと思います。

 E2-2-01c各地の軒瓦・軒丸瓦 撮影禁止多数


坂田寺式軒丸瓦
7c明日香村
山田寺式軒瓦
7c桜井市

片岡王寺式軒丸瓦
7c王寺町

紀寺式軒丸瓦
7c明日香村

本薬師寺式軒瓦
7c橿原市
      


 E2-2-02堂内を飾る
  寺は、仏の世界を表している。特に、仏像が安置された金堂は、華やかな仏の世界を表現するために、様々な装飾が施された。
  発掘調査でしばしば出土する塼仏もその一つで、つくられた当初は色が塗られたり、金箔が貼られ、壁一面を飾ることもあった。
 E2-2-02a
コーナー全景 下の写真の順番

 E2-2-02b
堂内を飾る
上に記述

東大寺戒壇院四天王像

壁一面に貼られた塼仏三重県夏見廃寺

塼仏
 E2-2-02c

・大型独尊塼仏/飛鳥7c明日香村紀寺跡
・連座塼仏7c葛城市只塚廃寺

大型多尊塼仏
飛鳥7c葛城市当麻寺

・火頭三尊塼仏
奈良時代8c奈良市阿弥陀寺
・連立塼仏
・大型独尊塼仏
紀寺跡7c第3四半期
 E2-2-02d
大仏の手と耳たぶ
撮影禁止

塑像仏下半身
三尊塼仏
天女

飛鳥時代 7c
明日香村川原寺

方形三尊塼仏

塑像天部下半身

・石造菩薩立像
・石造仏頭

・塑像天部胸甲
・塑像天部腹甲
飛鳥時代 7c
明日香村川原寺

塑像鰭袖(はたそで)
鳳凰文塼 
奈良時代8c明日香村/岡寺
         
 
 E2-2-03屋根を飾る

奈良市 山村廃寺出土
石製九輪

石製九輪 飛鳥7c
奈良市山村廃寺
屋根を飾った様々な瓦
軒瓦/飛鳥7c明日香村紀寺

丸瓦/飛鳥7c明日香村紀寺跡

平瓦/飛鳥7c明日香村紀寺跡

鬼面文隅木蓋瓦/飛鳥7c明日香村紀寺跡

垂木先瓦/飛鳥7c
桜井市粟原寺跡
・鬼面文軒丸瓦/飛鳥7c葛城市地光寺跡

・垂木先瓦/飛鳥時代
7世紀/天理市奈良池廃寺
・鬼面文隅木蓋瓦
飛鳥時代 7世紀
明日香村 紀寺跡

鬼板
飛鳥時代 7世紀
明日香村 紀寺跡
橿原市丈六遺跡

釘・鎹(かすがい)
奈良時代 8世紀
吉野町竜門寺跡
 




 E2-3東大寺を造る  東大寺建立の背景 728年創建



  仏教の力によって国を守るという思想は、40天武天皇以降、歴代の天皇に引き継がれ、聖武天皇の時代、その思想をもとに東大寺の造営が
  開始された。

  この工事は従来の寺院建築の規模を遥かに越えた国家の巨大プロジェクトであり、必要な資材や労働者が全国から集められた。
  その主なものには、陸奥の金、長門の銅、近江や伊賀の木材がある。
 E2-3-01
東大寺大仏 東大寺をつくる
上に記述
大仏の材料を産出した国々
鋳造に用いられた金属
金440kg、錫8.5t
銅499t、水銀2.5t
金:黄金山産金遺跡
   宮城県
銅:長登銅山/山口県

東大寺戒壇院付近で検出された鋳造遺構

大仏をつくる
①実物大の塑像を作る
②鋳型を作る

③塑像を削る。(銅を流す隙間を作る)
④鋳造する。(鋳型として銅を流し込む8回に分けて行った)

⑤大仏が完成する。
まわりの盛り土や鋳型を外す。
内部の木製支柱はそのまま残している。

 E2-3-01
古代の顔料
孔雀石(青)御所市朝町
弁柄原料(丹)津軽半島
水銀鉱山(辰砂)宇陀市古市場大沢

水銀鉱山(辰砂・鶏冠石)
三重県多気郡多気町丹生

人名刻印のある瓦


鬼瓦/飛鳥時代8世紀
奈良市興福寺
平城京内の主要寺院の瓦
唐招提寺の軒丸瓦
大安寺の軒瓦
興福寺の軒瓦

奈良時代8世紀
各寺院出土
太安万侶墓 模型
奈良時代8世紀
奈良市太安万侶墓
太安万侶墓
 

 E3-1飛鳥時代の古墳 (592-710)
  飛鳥時代になると、墳丘全面に石を貼り付けた古墳や、八角形の墳丘が登場する。石室には切石積石室(きりいしづみ)や横口式石郭、
  磚積石室などが採用され、漆塗りの荘厳な棺が納められた。その技術には、版築や切石、漆喰といった寺院建築の技術が大幅に導入された。

  そして、少ないながらも正倉院に見られるような豪華な品々が添えられた。

 E3-1-01石室
 古墳から火葬墓へ
仏教伝来は6世紀中期538or552年、最初の寺院建立は飛鳥寺で6世紀末から7世紀初頭である。
  前方後円墳は、西日本では6世紀後半になると、東日本では7世紀初頭には、作られなくなる。
  この頃、庶民による群集墳が一斉に作られ始める。)

7世紀後半になると、古墳が作られることは極めて少なくなる。中国や朝鮮半島からの新しい文化の流入や、様々な政治改革の中で、古墳づくりそのものの意義が低下した。ヤマト政権による古い支配体制に変わって、律令国家と呼ばれる新しい支配体制が成立したことを意味する。

  この体制のもとで、新たに薄葬思想が伝わり、火葬が流行する。

 ※古墳時代の終焉
  この問題について1週間ほど作文を試みましたが断念しました。全削除です。

  仏教伝来538、蘇我氏による物部氏の討伐(中臣氏の凋落)587、最初の寺院建立6世紀末、7世紀初頭に冠位十二階性603、

  半島情勢の緊迫化、大王になりたかった中大兄皇子と蘇我氏を討って復権を図りたかった中臣氏による乙巳の変645、

  (蘇我氏は国際派?百済から新文化を導入していただけ。中臣氏が所管していた当時の神社とは現在とは随分違うもの)
  (中大兄皇子は善人みたいに言われるけれど、自分の子供を天皇に据えるために沢山の皇族や身内を殺しまくった恐ろしい人物)

  続く大化の改新646による天皇を中心とする中央集権体制の確立へ。身分制度の確実化のための墳墓造営の規制が薄葬令646。

  これらについて論じていました。しかし、まとまりを欠き、掲載を断念しました。
  また、どこかで掲載できる場があれば、もう少し勉強して、まとめてから掲載したいと思います。「なぜ古墳時代は終焉したのか」

古墳から火葬墓へ 飛鳥時代の古墳 様々な石室
横口式石槨 香芝市 平野塚穴山古墳
明日香村 高松塚古墳
竜田御坊山古墳
磚積石室 桜井市 舞谷4号墳
 漆塗りの棺

飛鳥時代 7世紀
香芝市平野塚穴山古墳
 


 七宝飾金具
  牽牛子塚古墳から出土した七宝飾金具を復元したものである。銅板を亀甲形に切り抜き、縁を折り曲げる。
  そして、銅線で花形文様を作り七宝を施す。七宝には緑色と茶色、茶色と緑色、茶色と茶色、緑色、緑色の4パターンの組み合わせがある。
  箱状のものに取り付けたのであろうか。わが国最古の七宝である。

 ※牽牛子塚古墳 八角墳 7c中葉から8c初頭 高市郡明日香村

古代宮都と飛鳥時代の古墳
當麻町
明日香村
奈良市
明日香村
鳥谷口古墳
牽牛子塚古墳
石のカラト古墳
マルコ山古墳
七宝飾金具
牽牛子塚古墳
 E3-1-02終末期古墳

高取町 束明神古墳
漆塗陶棺飛鳥時代7c
斑鳩町竜田御坊山古墳

・金銅製棺飾金具
・金環
 桜井市舞谷4号墳7c

・三彩有蓋円面硯
・ガラス管
飛鳥時代7c 斑鳩町竜田御坊山古

琥珀製枕(復元品)
飛鳥時代7c
斑鳩町竜田御坊山古墳
・金銅製棺飾金具
・琥珀製枕

飛鳥時代7c
斑鳩町竜田御坊山古墳
   ボウジ1号墳出土 ボウジ1号墳出土の
土器

 須恵器、土師器

生駒郡三郷町信貴南畑
 鳥谷口古墳出土 鳥谷口古墳出土の土器

土師器、須恵器

奈良県葛城市染野
 
平野塚穴山古墳
金環  飛鳥時代 7世紀
香芝市平野塚穴山古墳

漆塗り籠棺
飛鳥時代 7世紀
香芝市平野塚穴山古墳

乾漆棺

牽牛子塚古墳出土品
(けんごしづか)7c
夾紵棺(きょうちょ)

明日香村牽牛子塚古墳

須恵器/飛鳥7c香芝市平野塚穴山古墳

七宝飾り金具
金銅製八花形飾金具

七宝飾り金具





 E3-1-03 装飾と副葬品  高松塚古墳出土 ●7~8世紀 ●明日香村高松塚古墳




明日香村 高松塚古墳壁画 西壁女子群像
高松塚古墳出土品
7-8世紀
明日香村高松塚古墳
大刀金物の名称 大刀金物
冑金
留鋲
俵鋲
山形金物
石突
露金物
大刀金物
高松塚古墳出土品
金銅透金具
円形飾金具
棺座金具
銅釘

海獣葡萄鏡
 


 E3-2火葬の始まり
  700年 (天武天皇4) 僧道昭は、遺言により火葬にふされた。我が国における火葬の始まりである。
  702年 (大宝2) には、持統天皇も火葬され、天武天皇と合葬された。こういった火葬は、
  仏教思想とは別に、当時、新羅で行われた火葬や薄葬思想の影響が強い。

  また、火葬は、広い階層の人々に定着することはなく、天皇に従った役人の間で、一種の流行のように採用された。

 E3-2-01太安万侶墓
天理市白川火葬墓 火葬の始まり
上に記述
太安萬侶の墓 太安万侶の住まい
小治田安萬侶墓墓誌の復元製作
墓誌銘 太安万侶墓誌8c
太安万侶没年養老7年
真珠 8世紀
太安万侶墓誌
撮禁になってました
木櫃
奈良時代 8世紀
奈良市小冶田安萬侶墓

 E3-2-05骨臓器

石製骨臓器
奈良時代8世紀
桜井市忍坂古墓

石製骨臓器
奈良時代 8世紀
香芝市穴虫古墓

奈良三彩 壺
奈良時代 8世紀
奈良市佐保山古墓

骨臓器 奈良8c
葛城市火野谷山古墓

骨臓器 平安9c
天理市白川古墓


 古代宮都と火葬墓

 文字彫刻の世界
文字を銅板に刻む技術は、6世紀後半に朝鮮半島から伝わった。タガネを使って一刀彫りのように文字を線彫りする技術である。
朝鮮半島では、中国とのかかわりから消滅するが、わが国では独自に発展を遂げる。奈良時代には筆で書かれた文字を忠実に表現できるまでになった。

古代宮都と火葬墓 文字彫刻の世界
ピンボケ

「鳥辺山谷に煙の燃え立たば はかなく見えしわれと知らなむ」更級日記、平安時代中期の和歌である。しかし、この時もなお火葬は高貴な人々の
 弔いであった。つづく、中世においては、飢饉や戦乱のうち続く中、庶民の死体は野ざらしとされ、あるいは、捨て場に風葬されていた。
 京都の有名な寺も、鎌倉の寺も、もとは風葬場に立てられたものだった。

 



 F中世 



 F1中世びとのくらし
  考古学でいう中世とは、通常平安時代の終わり (11世紀中頃) から江戸時代の直前 (16世紀末) までの間を指す。
  この時代の、多くの文献や絵画資料が今に残されており、これらは当時の人々の生活の様子と共に喜怒哀楽の感情まで伝えてくれる。

  一方、具体的な生活の場の発掘調査によって、中世びとの暮らしの知恵に接することができる。

 F1-00くらす

 F1-00-1
 都が奈良を去ったあと
  都が京都に遷ったのちも、奈良は南都と呼ばれ繁栄を続ける。
  これは、奈良の地に寺社が残ったためであり、寺社は天皇家や藤原氏の信仰をあつめ、おおいに栄えた。

 農村の風景
  中世の奈良盆地は、広大な農業地帯であった。その生産力は、南都の繁栄を支える原動力になった。

 発掘された中世の館
  鎌倉時代も終わりになると、戦乱の時代となる。奈良盆地の各地には、防御のために大きな濠をもつ村や屋敷が作られるようになった。

くらし
中世人の暮らし 中世びとの暮らし
上に記述
中世の人々

南都と農村-1
都が奈良を去ったあと
現在の奈良市
春日大社一の鳥居の様子
南都と農村-2
農村の風景
耕作の跡
13-14世紀頃の箸尾のムラ(広陵町)
南都と農村-3
発掘された中世の館
田原本町十六面薬王寺遺跡
大和郡山市若槻遺跡
中世の食卓-2
色々な用途で使われた器
ピンボケ
中世の食卓-1
食卓を飾った器
ピンボケ
 F1-00-2平安~鎌倉時代
・瓦器皿跡
・土師器皿
・瓦器碗

平安時代 11c
田原本町十六面・薬王寺遺

・伯牙弾琴鏡/平安10c広陵町池上木棺墓
・八稜鏡/平安9c宇陀市大王山遺跡群


・平安時代12c平城京左京三条六坊七坪
・鎌倉時代13c興福寺旧境内

傘 (受け骨のロクロ)

●鎌倉時代 13世紀
●大和高田市田中垣内遺跡

和傘 (番傘) の各部の名称がこれほど詳しく載っている文献は、おそらくこれだけでしょう。
下駄
・鎌倉時代14c広陵町寺戸東遺跡
・平安時代12c平城京左京三条六坊七坪
・鎌倉時代13c大和高田市田中垣内遺跡
 F1-00-3

・火箸/室町16c奈良市阪原門前遺跡
・しゃもじ/鎌倉13c興福寺旧境内
・銅印/平安11c広陵町箸尾遺跡
様々な用途に使われた器
・瓦質土器火鉢
・瓦質土器すり鉢
室町16c田原本町十六面・薬王寺遺跡

つるべ/鎌倉13c
奈良市興福寺惣寿院

・煮炊き用土釜/平安11c纏向遺跡
・骨壺に使われた土釜/室町16c奈良市多聞城

曲物(おけ)/平安12c
橿原市弁天塚墳丘周辺
 



  庶民の暮らし



 F1-01たべる
たべる
箸、漆碗/
室町時代 16c
奈良市阪原門遺跡
日常食器 輸入された土器
青磁碗/鎌倉13c橿原市大乗・東堀池遺跡
白磁碗/平安12c天理市森本寺遺跡
10世紀の土器
緑釉陶器碗
灰釉陶器、黒色土器碗
11世紀中頃の土器
桜井市纏向遺跡
 

 F1-02うつわ
 中世の食卓-3
  捨てられた多くの土器は何を語るのか
   中世の遺跡を発掘すると、溝などから数百点の土器がまとまって完全なまま出土することがある。
   一見無駄遣いに見えるが、これは、村の人々の結束を強めるための祭や宴会などに一度だけ使って捨てられたものである。

器の変遷 大工の様子
間違い
大工道具
間違い
器の変遷
13c後半 12c中頃

14c中頃 13c後半

溝に捨てられた
多量の土器
鎌倉13c大和郡山市田中垣内遺跡
中世の食卓-3
捨てられた多くの土器は何を語るのか

 F1-03あそぶ

 F1-03-01panel

 大人の遊び ―博奕に溺れた者の運命―
  囲碁・将棋・双六などの大人の遊びは、お金を賭けた賭博であった。双六で負けて裸にされながらも、なお双六盤から離れようとしない男の姿が、
  絵巻物に描かれている。

 子どもの遊び ―子を思う親の気持ち―
  医療が未発達な中世では、親はまじないによって子どもの健やかな成長を願った。子供の遊び道具にも、子どもが病気に掛らないようにという
  まじないの意味が込められていたのである。
  例えば、コマは西アジアの魔物、胡魔であり、子どもにとり付く悪いものを追い払うという意味があった。

あそぶ あそぶ
国宝「鳥獣戯画」高山寺
大人の遊び
・双六で負け素っ裸にされた男「東北院職人歌合せ」
・双六に興じる「鳥獣人物戯画」
子供の遊び
・こままわし
打毬だきゅう

 F1-03-02将棋
 将棋駒
  この駒は、11世紀後半頃に埋められたゴミ捨て穴から、多量の瓦や土器、木製品と伴に出土した。
  共に出土した題箋軸に「天喜六年」(1058)の文字が見えることから、この頃の駒と考えられる。
  現在までのところ日本最古の将棋の駒であり、日本における将棋史を考える上で大変興味深い遺物である。

将棋駒
・題箋軸
・習書木簡
平安11c興福寺旧境内

将棋駒/平安時代
11c興福寺旧境内

打毬の毬
室町16c奈良市阪原門前遺跡
鎌倉13c奈良市興福寺旧境内

硯 ピンボケ
 F1-03-03茶・香の道具
・瓦質土器香炉/室町
・灰釉香炉
室町時代 16c
田原本町十六面・薬王寺遺跡
香の焚き方
香の原料 白檀
香炉の灰中によくおこした炭火を入れ、
火箸で3mm程の火窓を作り、
その上に銀葉(雲母の剥片)を置き、
香木をのせる。

 喫茶の始まり
  喫茶の流行と共に、茶道具の生産も盛んになった。奈良もその生産地の一つとしてよく知られていた。

・天目茶碗
 室町時代16世紀
 三郷町立野城跡

・天目茶碗×2
 室町時代16世紀
 田原本町十六面・
 薬王寺遺跡


風炉
室町時代15世紀
宇陀市〇〇寺遺跡
茶釜
室町時代16世紀
田原本町十六面・
 薬王寺遺跡
 大和産瓦質土器の分布
ピンボケ
 F1-03-04製茶の道具

茶臼/室町 16c
平群町信貴畑
石臼 石臼
室町時代 16世紀
天理市菅田遺跡


 F1-03-04戯画皿
・戯画皿 鎌倉時代13c田原本町十六面・薬王寺遺跡

・戯画皿 鎌倉時代13c奈良市元興寺
 ・戯画皿 平安時代12c
奈良市興福寺世尊院

 F1-04あきなう

 他地域でも使われた大和特産の土器
  中世には、全国に様々な焼き物産地が生まれた。奈良でも瓦質土器と呼ばれる黒色の土器が作られた。
  この中でも、火鉢や香炉、茶道具の風炉などは、大和の特産品として全国に広く流通した。

あきなう 大和へ持ち運ばれた土器
ピンボケ
大和へ持ち運ばれた土器
近畿―信楽
東海―瀬戸・常滑
六古窯
瀬戸・常滑・信楽(多出)
越前・丹波・備前(少出)

六古窯外
(多出)加賀・尾北・猿投・渥美・伊賀・神出・魚住・備前亀山
(少出)勝間田・十瓶山



  他地域でも使われた大和特産の土器
  中世には、全国に様々な焼き物の山地が生まれた。奈良でも瓦質土器と呼ばれる黒色の土器が作られた。
  この中でも、火鉢や香炉、茶道具の風炉などは、大和の特産品として全国に幅広く流通した。

大和特産の土器
瓦質土器

土釜/室町16c田原本町十六面・薬王寺
・方形火鉢/室町15c宇陀市灌頂寺遺跡 
・香炉/室町16c
・華瓶/室町16c田原本町十六面・薬王寺

・火鉢
他地域でも使われた
大和特産の土器



 大和で使われた他地域の土器
  12世紀中頃に前後して、現在でも焼き物の名産地として名高い瀬戸や常滑などの地域で大規模な生産が開始された。
  それらの製品の多くは高級品であったが、大和にも多数持ち込まれ使用されている。

大和出土の
他地域の土器
大和で使われた他地域の土器  中国産の陶磁器
・白磁坏/鎌倉13c葛城市首子遺跡群
・白磁四耳壷/平安12c宇陀市キトラ遺跡

信楽焼/室町15c宇陀市大王山遺跡群
瀬戸・美濃窯の陶器
・灰釉皿/室町16c田原本町十六面・薬王寺遺跡
・灰釉四耳壷/室町15c宇陀市大王山遺跡群

常滑焼/室町15c宇陀市野山遺跡


 F1-05ほうむる

  日本中世は気候変動の時代。
   参考藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した 気候変動と災害史料の関係の検討 -「大飢饉」の磁器を中心に-


国宝一遍上人絵伝
一遍上人入滅
中世の墓餓鬼草子
土饅頭&行き倒れ・
亡者・野ざらし
古墳墳丘の写真
ピンボケ
 様々な骨臓器 ・土壙墓に埋納の鏡
  平安12c宇陀市野山遺跡
・東播磨系須恵器 甕
・こね鉢/鎌倉14c平群町
  久安寺モッテン遺跡
・瓦質土鍋/室町15c宇陀市谷畑遺跡
・深鉢形土器/室町16c 奈良市多聞城 
  ・瓦質土鍋/室町15c宇陀市谷畑遺跡
・瓦質深鉢形土器/室町16c奈良市多聞城
・瀬戸・美濃窯系陶器壺/鎌倉14c谷畑遺跡
  ・信楽焼甕/室町16c宇陀市大王山遺跡群
・常滑甕/鎌倉14c宇陀市キトラ遺跡
・瓦質土器火鉢/室町16c宇陀市谷畑遺跡
古代の卒塔婆


 F1-06いのる


 F1-06-1中世人のいのり

 貴族のいのり
  中世は社会不安に揺れた時代であった。貴族は来世の平安を願い、仏教の経典を入れた鏡筒を信仰の対象とされていた山の地中に埋めた。
  大峰山からは、藤原道長が埋めた鏡筒が発見されている。

 庶民のいのり
  貴族と同様、庶民もまた自らの幸せを祈った。当時の庶民は様々な所に祈りの場を設けた。斑鳩仏塚古墳では、横穴式石室を再利用して、
  仏教信仰の場に使われていた。
いのる
中世人のいのり-1
貴族のいのり

天川村金峯山寺
中世人のいのり-2
庶民のいのり

斑鳩仏塚古墳全景
仏教信仰の場として石室内を利用した

 F1-06-2仏塚から出土した仏教信仰にかかわる遺物 ●鎌倉~室町 13-16c ●斑鳩町
仏塚から出土した仏教信仰にかかわる遺物
この配置が当時の荘厳(しょうごん)の仕方

土師皿

香炉

金銅仏、塑像片
華瓶、瀬戸華瓶
瓦器碗
瓦器碗
 F1-06-3信仰の品々
信仰の品々
円筒形泥塔 奈良時代
京都府八幡市
美濃山廃寺

偏平宝塔形泥塔
鎌倉時代 鳥取県東伯郡琴浦町伝智積寺

経軸 鎌倉13c
奈良市興福寺旧境内
経軸ってなんだ。
・お経を巻く軸
・掛け軸のようにお経を吊り下げる。
・経典・経文とは全く無関係な、高層の肖像画

いったい何?

・宝塔形泥塔/平安-鎌倉
 北葛城郡広陵町箸尾
 磯城郡田原本町宮古
・五輪塔形泥塔/平安-鎌倉
 山口県山陽小野田市安養寺
・偏平宝塔形泥塔/室町-江戸
 奈良市 十輪院
・宝篋印塔形泥塔/鎌倉時代
 三重県松阪市立野町(伝)

懸仏/室町時代16c
八王子神社
懸仏は、
神道と仏教が融合して生まれたもの。