西日本の縄文 30 2016.04.18と05.14に再取材 古代出雲歴史博物館2 第2展示室 島根県出雲市大社町杵築東99−4 0853-53-8600 第3火曜日休館 撮影可 第2展示室―総合展示一覧 (旧石器~近代までの展示) (1)しまねの夜明け(~旧石器時代) (2)しまねの旧石器人と縄文人(旧石器~縄文時代) (3)邪馬台国時代のしまね(弥生時代) (4)大和朝廷と出雲・隠岐(古墳~奈良時代) これ以降は割愛しています (5)尼子氏と益田氏と石見銀山(平安~安土桃山時代) (6)近世しまねのブランド戦略(江戸時代) (7)日本の面影 しまね(明治時代~) 第1展示室―テーマ別展示 (弥生時代~古墳時代までの展示) 既出「古代出雲歴史博物館1」 第3展示室はビデオシアター「出雲神話回廊」です 交通 出雲市駅前②乗り場よりバス (バスは30分に1本) 「正門前」下車。バス停より徒歩5分 (通常、出雲大社まで行くのに一畑電車は使わない。レトロな電車で楽しいが) 見所 山陰地方最大の考古博物館。地域色豊かな展示が工夫されている。 注意 展示資料は膨大です。 各室とも、撮影だけに3時間半。計7時間余りかかりました。つまり、一日がかりで閲覧する量です。 ビデオ資料を含めるともっとかかります。
お詫び 本ページの中には沢山の誤植等があると思われます。しかし、それを訂正することは現在不可能となっています。ご容赦願います。 |
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00外観
第1展示室は、出雲大社関連の膨大な資料~古墳時代まで 第2展示室は、旧石器~中世。テーマ別展示 第3展示室は、映像展示 |
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島根の人々の生活と交流 20後期旧石器時代 前半 |
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21原田遺跡の石器 後期旧石器時代前半~後半 3万5千年~2万年前 奥出雲町 転載 原田遺跡 日本旧石器学会
21旧石器時代前半3万5千年~3万年前の石器 奥出雲町・原田遺跡で出土した石器群です。 約2万5千年前の噴火で堆積した火山灰よりも下から発見されたもので、 確実にその年代よりも古いことが判る、島根県最古の石器群です。
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・原田遺跡では、AT火山灰の下の第7層、AT火山灰 (2.5万年前) と三瓶浮布火山灰 (1.6万年前) に挟まれた第5層、三瓶浮布火山灰の上の 第2~第3層より、旧石器時代の遺物や遺構が見つかった。さらに第7層は上下2層に分かれる。 ・第7層の下層からは、台形様石器や局部磨製石斧、石斧製作用の砥石などが出土している。隠岐産黒曜石多用しているのも特徴である。 また、石器の集中部が(ブロック)が環状にめぐる部分もある。後期旧石器時代でも、古い時期の石器群と考えられる。 ・第5層は角錐状石器を中心とした石器群で、礫群や炭が集中した部分が多く見られるのも特徴である。 ・第2~第3層は、安山岩製の多くのスクレイパーに少量の小型ナイフ形石器が伴うのが特徴である。 ・火山灰に挟まれて、新古のはっきりわかる石器群が4群に分かれて出てきており、中国地方の後期旧石器時代の石器の移り変わりを知るために 重要な資料である。また、土抗、礫群、炭集中部など、人間の行動の痕跡が調査されており、当時の人間活動を知る重要な遺跡でもある。 (丹羽野 裕)(写真提供 島根県埋蔵文化財調査センター) 引用 日本旧石器学会 原田遺跡 |
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30島根の夜明け 31年表・人類の誕生と進化 約600万年前、アフリカ大陸に住んでいた霊長類が2足歩行し、最初の人類「猿人」が誕生し、自由になった両手で道具を作り始めました。 約180万年前、私たちと体格の似た「原人」が現れ、ユーラシア大陸に広がっていきました。 約50万年前、 ネアンデルタール人に代表される「旧人」が現れます。 約20万年前、 現生人類と同じ「新人」が登場しました。 |
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33石器の移り変わり およそ250万年前、人類は石器を使い始めました。 始めは。石の端を打ち砕いた簡単なものでしたが、やがて石を広い範囲で打ち割って、整った石器を作るようになりました。(前期旧石器時代) 約20万年前に、ふちに鋭い刃を持った薄い破片をうまく剥ぎ取って、石器を作る技術が生まれます。(中期旧石器時代) 更に、3万5千年前から、形や大きさの同じ剥片を次々と剥ぎ取っていく技法が生み出され、 短冊状に整えた石の破片から様々な石器が作られるようになった。(後期旧石器時代) |
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34人類の誕生と拡散※1 現生人類の誕生 現生人類は、20万年前にアフリカで、原人・旧人とは別種から進化し、長期間旧人と共存した。 やがてユーラシア~アメリカ大陸にと、全世界に拡散した。彼らは、フランスのラスコー洞窟のように芸術的な絵を描くこともできた。 ※2島根の人類活動の始まり 日本列島の人類活動は、主に後期旧石器時代であるが、中期旧石器時代の石器が存在する可能性があります。 それは1970年代に恩田清らに採取されたメノウや玉髄です。評価は未定ですが肯定的な意見も出て、4万年以上前の痕跡かもしれません。 中期旧石器時代遺跡 35砂原遺跡 出雲市多伎町砂原 砂原遺跡は、上に11万年前の三瓶木次(さんべきすき)火山灰層がかぶり、下に約12万8000年前に形成された砂礫層があり、 12万年前から7万年前の石器とされる。 調査団長の松藤和人・同志社大教授(旧石器考古学) 石片を観察した稲田孝司・岡山大名誉教授が、接合資料がなく、剥離面が不明瞭などと、石器と認定するのを保留。 引用転載島根県砂原遺跡の12万年前の初歩的「石器」は日本列島の人類史を遡らせるか
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40後期旧石器時代 |
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41 1-3ナイフ形石器 |
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42 4-9湧別技法の石器群 1万8000年前 細石刃 後期旧石器時代終末期には、カミソリのような切れ味を持つ石器(細石刃)が作られました。 なかには、北海道・東北地方の技術 (湧別技法) によるものも見つかっています。 |
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50縄文時代 |
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51舟のオール 松江市 夫手遺跡 |
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53 11-18縄文時代の様々な道具 石器 尖頭器は、槍の穂先。石の錘は網に付けるおもり。磨石や石皿は木の実などを潰して粉にする道具。石匙はナイフとして用いられました。 |
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54 19-22縄文時代はじめの土器 草創期―前期 島根県内最古の土器は、草創期(約1万年前)の土器片。漆の入った前期の土器も見つかっており、漆を接着剤や塗料として用いたようです。 |
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55 23-28縄文人の穀物栽培 3000年前 縄文時代の終わり頃には穀物の栽培が始まり、開墾や収獲のための道具が作られ、稲モミの痕がついた土器、 ヒエのプラントオパール(植物細胞の化石)がついた土器も見つかっています。 |
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56 29-35アクセサリーと祈りの道具 当時は石や土で装身具を作った。祭祀・信仰の道具で知られる土偶は小型で乳房を持つものが多い。男性器を模した石棒。人を模した石器も 作られました。 |
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57 36-38謎の石器と網の錘 |
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60縄文時代の各地との交流 |
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62交流地図
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65 1-4 16-17持ち込まれた土偶と地元の土偶 ・関東から運ばれた土器 |
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66 5-8-10運ばれた石器材料と玉製品 黒曜石やサヌカイト(安山岩)は切れ味のよい石器材料。黒曜石は隠岐島や大分県姫島産。サヌカイトは香川県金山から運ばれていました。 |
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双耳壺 下に登場する、縄文時代の双耳壺は、全国の博物館を回ってきた私ですが、見たことありません。通常は弥生以降です。 しかも、出雲在地の土器とされています。が、同形の壺が三重県津市から出土していました。そちらでも在地土器とされています。 要するに、どちらの館員も類例がないので、在地土器とするしかなかったのでしょう。 土器文様は磨消縄文で、亀ヶ岡式の文様です。 つまり、縄文後晩期の影響を受けた地域で多く製作され、日本海ルートを通じて遠隔地に流通し、出雲と、津市にもたどり着いたようです。 69 19-26地元の土器と九州産の土器
三重県津市の双耳壺 20双耳壺の脚注がありません。また、一般に双耳壺は弥生以降のもので縄文には珍しいものです。 しかし、三重県津市芸濃町の芸濃郷土資料館に同系資料がありました。亀ヶ岡から交易で入手したのでしょうか。
2016.6.9(木)に芸濃郷土資料館に連絡し、津市生涯学習課文化財担当で、土器の発掘者から電話をいただき、大変詳しくお話を伺いました。 出雲に同形があると知らず、在地土器になっていました。従って、土器の原産地は未推定。 文様形式から4000年前と推定。 他に磨り消し縄文の深鉢が出土。しかし、ここから出雲に運んだとは考えられず、やはり日本海ルートで亀ヶ岡から南下し、 富山から東海経由か、敦賀から琵琶湖南を周って津地方へ。(このルートで同系統の土偶が出土している) 出雲へはそのまま舟で一直線だったのでないか。なるほど日本海沿岸には磨消縄文の土器が沢山分布して、宝物のように扱われていた。 要するに新しいことは何も聞き出せませんでした。 胎土だけでも調べてくれたら何かわかるかもしれないですね。これからです。 |
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70三瓶火山灰と縄文遺跡 |
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71三瓶火山灰に覆われた遺跡 埋没林の調査では人類活動の痕跡はありませんでした。 しかし、三瓶山の東を流れる神戸川沿いでは、三瓶火山灰に覆われた縄文遺跡がいくつも発見されています。 この地域では1万年ほど前から人々が暮らしていました。彼らの中には狩猟で森に入り、小豆原の巨大杉を見上げた人もいたかもしれません。 |
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72埋没林が語るもの - 出雲平野の形成- 小豆原のスギ林を埋没させた三瓶山の大噴火によって、火山泥流や土石流が繰り返し発生しました。 そのため神戸川が堰き止められ、大洪水を引き起こしました。 当時、宍道湖は日本海と繋がっていて、海が入り込んでいました。 大洪水による大量の土砂は、神戸川を下って沿岸部を埋め立て、平野を広げたのです。
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73縄文の丸木舟 杉の丸太をくりぬいた舟。洪水の堰止湖で使われていた。
縄文時代の丸木舟は、 アマゾンの川舟のように細長い。 当時はもっと大きい胴回りの木材は沢山あったが、利用しなかった。 (弥生以降になると輸送力のある巨大な丸木舟や、構造船が作られるようになった。宍道湖では近代まで大型丸木舟が使われていた。) この原因は、道具です。 いくら磨製石斧でも、切り倒し、えぐることは大変な重労働です。 鉄斧や鉄鋸の出現によって、大型・巨木の丸木舟や構造船の制作が可能となりました。 |
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80島根の旧石器人と縄文人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
81年表 |
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島根の旧石器人と縄文人 後期旧石器時代は氷河期にあたり、寒冷な気候でした。この時期は地形も環境も今とは異なり、人々は移動しながら生活していました。 やがて氷河期が終わり、気候が温暖になって植物が豊かに育つようになると、人々は定住して暮らすようになりました。 海や森の恵みをバランスよく利用した縄文時代の始まりです。 82移動する人と技術 -旧石器時代- 移動しながら生活していた旧石器時代。移動には大きく2つの種類がありました。 狩りや採集をしながら一定の範囲を回り歩く日常的な移動と、 何百キロも旅をする移民的な移動です。 石材の移動や石器のかたち、作り方の違いを手掛かりに、旧石器人のダイナミックな交流の姿が明らかになりつつあります。 寒冷な気候と島根の旧石器人 後期旧石器時代は気候が寒冷で、海水面が今よりおよそ100mも低かった時期もありました。 そのため、宍道湖や中海は、当時大きな谷であり、川が東西に流れていたようです。 この時代の遺跡は、この大きな谷を見下ろす丘から多く発見されています。 旧石器人たちは谷の獣を捕え、沢筋の植物を採取しながら暮らしていました。 |
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83後期旧石器時代後半期の石器文化圏区分 ①北海道・東北アジア文化圏 ②北陸・東北文化圏 (・東山型ナイフ形石器文化地域圏 ・杉久保型ナイフ形石器文化地域圏) ③関東・東海文化圏 (・切出型石器文化地域圏 ・東海型ナイフ形石器文化地域圏) ④近畿・中国・四国文化圏 (・山陰石器文化地域圏 ・国府型ナイフ形石器文化地域圏 ・西部瀬戸内石器文化地域圏) ⑤九州文化圏 (・九州型ナイフ形石器文化圏 ・狸谷型ナイフ形石器文化地域圏) ⑥南西諸島文化圏 (敲磨器文化圏) 後期旧石器時代後半期の石器文化圏 山陰地方の特色は明確ではありませんが、九州北部や北陸地方と共通した要素が多いようです。 その一方で、瀬戸内地方に特有の技術で作られた石器も出土しており、中国山地を越えて人々が往来していたことがわかります。 石材の移動 石材の移動を探ると、人々の活動や交流の様子がわかってきます。 隠岐の黒曜石や玉造温泉周辺で採れるメノウや玉髄は、中国山地や瀬戸内地方へも運ばれました。 逆に瀬戸内地方産とみられる安山岩が島根に持ち込まれています。 旧石器人の行動範囲は創造以上に広かったようです。 また、東北産とみられる頁岩も島根に持ち込まれています。 日常の生活領域を越えた、移民のような人の移動もあったのかもしれません。 旧石器時代の地域性
東北地方からの移民 湧別技法と呼ばれる細石刃をつくる技術があります。 これは北海道・東北地方に特有のものですが、この技術で作られた石器が松江市玉湯町で見つかっています。 また、岡山県では、松江市玉湯町周辺で採れる石材を湧別技法で加工した石器が見つかっています。 東北地方からの移民が、山陰の石材産地を基点に、西日本に広がったのでしょう。 小さな石器が1万8千年前の人々のダイナミックな移動を物語っています。
※細石刃文化の分布 三系統の細石刃文化の分布図として知られていますが、これは簡略図にすぎません。 例えば、湧別技法の細石刃は日本海側を西進し中国地方に及び、そして度々、近畿・瀬戸内・四国にまで遠征しています。 細石刃文化の詳しい分布については、「東北の縄文 高畑郷土資料館」掲載は (2017年の4月頃掲載予定) をご覧ください。 |
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各地の細石刃文化(細石刃文化期(14,300~12,000年前)) ・北海道の細石刃核は、 湧別技法として知られる白滝型・札骨(さつこつ)型・峠下(とうげした)型・蘭越(らんこし)型、忍路子(おしょろこ)型、幌加(ほろか)型、 射的山型 (しゃてきやま) 、紅葉山型 (もみじやま) などに類別される。この湧別技法やその影響を受けた細石刃剥離技術は、 津軽海峡を越えて山形県、新潟県、茨城県など東北地方の北半分まで拡がっており、荒屋(あらや)型彫器を伴って検出される。 ・西北九州を中心に、福井型と呼ばれる細石刃核が存在する。 この石核には、縄文時代の草創期の土器である豆粒文土器、隆起線文土器、爪形文土器などを伴う。 ・南九州を中心に、 畦原(うねはら)型が知られる。 ・関東・中部地方から九州までの広い地域には、野岳・休場型細石刃核が、広がっており、円錐形、半円錐形、角柱状などの形をしている。 ・宮崎平野、大野川流域から近畿南部、東海を経て中部南半分、南関東まで、船野型細石刃核が広く分布している。 ○日本列島の細石刃文化は、 北東日本の楔形細石刃と 南西日本の野岳・休場型や船野型細石刃 の二つの分布圏に分かれる。 前者はシベリアから北海道を経由して本州へ、 後者は中国黄河中・下流から九州を経由して本州へ及んだらしい。 この文化段階で、北方から相当数本州へやってきた可能性が否定できず、後期旧石器人がそのまま縄文人になったわけではないと想像できる。 引用抜粋Wikipedia細石器 ※一説によると、列島在住の旧石器人1500人のところに、7000人の細石器文化人がやってきたという。 細石刃文化人が入ってくると、在地のナイフ形石器文化が消滅していることから、殲滅されたか、在地人が細石刃文化人になったかである。 |
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84移動から定住へ -縄文時代- 長かった氷河時代が終わり、気候が暖かくなってくると、土器を使用し自然の恵みを採取して暮らす縄文時代が始まります。 縄文人たちは豊かな自然環境の下、定住生活を営むようになり、ムラが発生します。 森や海の恵みによって、生活環境が安定していた縄文時代は、およそ1万年にわたって続きました。 自然環境の変化 今から1万数千年前、気候の温暖化が始まり、氷河が解けて海水面が、現在より1~2m程上がりました。 中海や宍道湖の周りの低地には海水が入り込み、「古宍道湖湾」と呼ばれる大きな入り江になっていました。 縄文人たちは、この入り江を舞台に活発な活動を繰り広げていました。
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85集落と定住 |
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86生業と祈り 集落と生業 気候が温暖になり、山々にはシイやカシなどの堅果類が増えました。それまでは食べられなかった木の実も、土器を使って 煮炊きをすることで、貴重な食料になりました。 縄文人達は森で狩りをし、木の実を採り、海や川、湖で漁をして暮らしました。 人々は定住してムラをつくり、縄文時代の後期にはヒエやアワなどの穀物を作り始めました。 縄文人の祈り 自然と共に生きた縄文人は、土偶や石棒など様々な祭祀用の道具を作りました。自然に対する信仰の表れなのかもしれません。 村には墓地も作られ、墓の上には石をドーナツ状に並べた「配石遺構」もあります。 まさに縄文人の「斎場」(まつりの場)と言うべきものです。 こうした遺構の近くにある集落は、縄文人の定住生活の証と言えます。 |
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87縄文時代の壮大な交流 道具が語る縄文人の壮大な交流 車も飛行機もなかった時代、縄文人は遠く離れた場所から、どうやって石材など必要なものを手に入れたのでしょうか。 黒曜石はガラス質の石で、石器の材料として幅広く使われました。黒曜石は、海を越えた隠岐島から運んでくる場合が多かったようです。 また、他の地域で作られた土器が持ち込まれることもありました。 縄文人たちは石材などの必需品を求めて、他地域の人々と活発に交流していたようです。 |
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100弥生時代 |
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101弥生土器 弥生人の顔 縄文の土偶と異なり、面長な顔の表現が特徴です。 頭頂部の鶏冠状の高まりは鳥装のシャーマンの表現かもしれません。
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102道具
貝輪 ゴホウラ貝は奄美諸島など南西諸島で獲れる大型の貝です。南西諸島から北部九州を介して島根県まで運ばれました。 参照沖縄県立埋蔵文化財センター |
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104祭祀具と石斧 |
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107骨格製小道具 |
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108奥出雲の弥生土器
余計なことだが 亀嵩(かめだけ)の地名は、松本清張の推理小説で有名となった。 |
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110解説パネル |
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112邪馬台国時代の島根 |
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113遺跡分布 今から2500年程前には、大陸や朝鮮半島に起源を持つ農耕文化が島根にも流入してきます。 弥生文化は大陸から渡ってきた人々に加え、従来からこの地に住み、農耕文化を受け入れた縄文人達によって担われました。 また、大陸から渡ってきた弥生人にはいくつかのグループがあり、多様な文化がもたらされました。 稲作文化の伝来 弥生時代前期の島根には、大陸・朝鮮半島系の品々が九州北部を経由してもたらされました。 また、南西諸島に生息する貝で作られた装飾品も九州北部を経由してもたらされています。 島根の弥生時代の文化は、交流した各地の文化と在来の縄文文化とがうまく合わさって形成されたのです。 北部九州の影響力 上記のように、 大陸・半島からの全ての物流は、北部九州が握っていました。列島への鉄の供給量も、様々な文物の流通量も全てです。 これによって北部九州は絶大な権力と富を掌握していました。 これがやがて畿内政権によって徹底的に殲滅される原因となりました。
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114鉄器と社会変革 弥生時代中期には、鉄器が広く使われるようになりました。それまでの石器中心の社会から、鉄が安定して流通する社会へと移り変わりました。 山陰地方は、北陸地方・近畿地方・東日本へ鉄素材を流通させる拠点となり、日本列島の中でも重要な地域として成長していきました。 |
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120弥生時代の道具 |
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122武器 |
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124台付き装飾壺 弥生時代後期の山陰に多く見られる土器で、時期や分布が特徴的です。 胴部を刺突文や連続渦巻き文で装飾します。渦文は銅鐸にも使われています。
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126 11-19鉄器
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128 20-22鉄を使った農具2世紀-3世紀 弥生時代にはまだ、鉄は大陸から輸入していた貴重品でした。 鉄製の刃先を農具や工具に取り付けるようになって、仕事の能率が、ぐんと向上しました。
※ナスビ型鍬は、西日本では弥生III 期頃、岡山県の吉備地方でナスビを縦割りにしたような形状をもつ曲柄鍬(ナスビ形曲柄鍬)が創出され、 弥生終末期に大阪府の河内平野に定着する。さらに古墳前期には東海系曲柄鍬と拮抗して全国に伝播する。 転載鍬の機能に関する基礎的研究 - 愛知県埋蔵文化財センターP54 |
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130古墳時代 古墳時代の概要
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131組み合わせの箱 |
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133AD300古墳時代前期の土器 3-4世紀 古墳時代前期には、山陰地方特有の、薄くて軽い精緻な土器が尽きられます。この技術は西日本各地の土器作りに影響を与えました。 山陰特有の大形土器 (山陰型甑形土器) 弥生時代末から古墳時代初めの一時期に、山陰地方で広くみられる土器。形はコシキですが、必要以上に大きいことから、 「燻製作り」説や「煙突」説などもあります。 山陰型甑(コシキ)形土器は、(4世紀) ・上にいう山陰特有の大形土器。用途不明。のことですが、滋賀県大津市歴史博物館では、オンドルの煙突とされています。 カマドと一緒に発掘される例や、大津市穴太遺跡 (あのう) 発掘された中の一点の内部に煤が付着していたことから、煙突とされています。 発見場所は琵琶湖の西岸、大津市内で、古来帰化人が多く住んでいた集落跡とされています。※石垣建設で有名な「穴太衆」の居所です。 ・その他に、 奈良県御所市下茶屋カマ田遺跡 (橿原考古学研究所所蔵) から出土しています。 ここ(河内=かわち)は、5世紀ヤマトの葛城氏が支配する地域で、百済系渡来集団の大居城地が確認されている。 渡来人・先進技術の受け入れ窓口として鉄器生産・窯業・ガラス生産など手工業に携わった一般者の居所。 引用橿原考古学研究所5世紀のヤマト ・または、鍛冶に関わる渡来人を親方層とする工人集団の居所。とする説明もある。 ・熊本大学の「百済土製煙筒試論」は、韓国の金圭東氏の論文を翻訳したものです。 論文では扶余のオンドルの煙突との共通点を考究したものもあります。 ただ、残念なのは、「双耳壺」のところでもあったように、古代出雲歴史博物館も大津市歴史博物館も互いの情報は全く知らないことです。 そして、出雲では4世紀、河内では5世紀である点も異なります。カマドに乗せるには大きすぎ、煤もついてない煙突様の土筒は何でしょう。 大津市歴史博物館の掲載は、年内か平成29年1月頃と思います。 |
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135 AD400頃の土器 古墳時代中期以降、登り窯を用いた須恵器陶工が朝鮮半島から大挙移住しました。 硬く保水性が高い須恵器は、貯蔵や供膳用などとして生産されるようになりました。 |
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日本に仏教が伝来した時代 飛鳥-奈良時代 136 AD500年頃の土器 しまね特有の台所セット 7世紀 移動式カマド・甕かめ・コシキ・土製支脚 土製支脚は、 五徳のことで、鍋や釜を乗せるもの。様々な形態があり、飛鳥~奈良時代にかけて使用したのは、出雲を中心とした山陰海岸部のみでした 大量生産される須恵器 6-7世紀 須恵器は松江市大井町で生産した。製品は出雲を中心に広く流通した。
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137 AD700頃の土器 -地方色が強い土器づくり-(8世紀) 奈良時代になると、中央集権的な律令に基づいて物事が全国共通に行われ、土器も画一化していきました。 一方出雲では地方色が強い土器が作られました
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160大和朝廷と出雲・隠岐 (古墳~奈良時代) 古墳時代から奈良時代にかけて、中央集権体制が確立し、島根と古代国家の中心となる近畿地方との交流は急速に拡大します。 その結果、地域の特色や人々の暮らしにも変化が現れました。 ここでは、人々の日常生活に深くかかわる食文化から、暮らしの変化の様子を眺めてみましょう。 |
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162土器から見た暮らしの変化 土器は、現在の皿や椀などの食器と、鍋や炊飯器などの調理具の役割を持つもので、人々の暮らしに密着したものでした。 古墳時代前期 (3世紀後半~4世紀) には、穀物を煮て食べていたようですが※ 6世紀には甑(蒸し器)が日常的に使われるようになって、穀物を蒸して食べるようになりました。 5世紀に、登り窯を使って硬い須恵器を作る技術が朝鮮半島から伝わり、島根でも生産が始まります。 椀や皿以外にも、水や酒などの液体を溜めておく容器が須恵器で作られました。 ※低温素焼き土器である土師器で穀物を煮ると、泥が溶け出して、泥ご飯になります。 山陰の土器 古墳時代初期には山陰地方の独自性が強い精緻な土器がつくられるようになります。 素焼きの土器としては極限まで薄い作りとなり、厚さ3㎜以下の土器もあります。(この土器は土師器で、ロクロは不使用らしい) 古墳時代の始まりと土器 古墳時代が始まると、それまで地域色があった土器は、近畿地方の土器の影響を受けて全国的に似通ったデザインになっていきます。 山陰地方でも近畿の影響を受けますが、比較的遅くまで地域色を残しています。
土器生産への影響力と地域色 影響を与えた地域 近畿中央部、伊勢湾岸地域 地元色が薄まった地域 九州北部、北陸地域、南関東地域、 地元色が残った地域 吉備地域、山陰地域、 各地の特徴的土器 南関東地域 東海や近畿の影響をうけて地元色が薄くなる 北陸地域 近畿や山陰の影響を受け、地元色が薄くなる 伊勢湾岸地域 この地域の土器は東日本に大きな影響を与える 近畿中央部 この地域の土器は全国に影響を与える 吉備地域 弥生時代以来の地元色が残る 山陰地域 弥生時代以来の地元色が残る 九州北部 近畿や山陰の影響を受け地元色が薄くなる |
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163朝鮮半島との交流 5世紀になると、朝鮮半島の技術で作られた土器 (韓式系土器) が点々と見られるようになります。 新技術をたずさえた渡来人が島根にもやってきたようです。 煮炊きの変化 6世紀後半頃から山陰地方では、移動式かまどや、土製支脚を鍋の支えとして (炉で) 煮炊きしたりしました。 全国に広まった造り付けかまどは、島根では山間部で流行しましたが、海岸部ではあまり使われませんでした。 須恵器の広がり 5世紀中頃から、「登り窯」という朝鮮半島系の新技術で作られた須恵器が普及します。 須恵器は盛り付けや貯蔵などに使われました。 律令時代の到来と土器 7世紀(飛鳥時代)には、食器の大変革がありました。 古墳時代に盛行した丸い蓋と椀に替わって、つまみのある蓋と平らな底をもつ椀が登場します。 これは、大陸から持ち込まれた金属器を真似て作られたものです。
カマドの登場 ・炉は、旧石器時代から古墳時代前期まで続くが、カマドが、古墳時代中期に現れる。 引用「Wikipedia竪穴住居」 ・移動式かまどは (置きかまど) は朝鮮半島古代伽耶地方で紀元前後くらいに出現した。 日本へは3~4Cの古墳時代に造りつけカマドと一緒に九州に伝わったのが最初である。引用「群馬県埋蔵文化財調査事業団の講演に行く」 ・4世紀に九州北部のごく一部で使われ初め、6世紀以降に全国に普及していきます。 引用「刑部(おしかべ)遺跡 総社市刑部 - 岡山県」 ・古墳時代中期になると北側や東側の壁にカマドを設ける住居が出現する。カマドは時代が下るごとに発達し、「壁」の外へ向かって張り出して いくようになるが、実際には竪穴住居の堀りくぼめた部分が狭まってそのぶんカマドが発達していると考えられている。 ・このような住居は関東・中部地方以北では平安時代まで続くが、東海地方では一部残しつつも、近畿においては飛鳥時代から掘立柱建物に 移行していき、鎌倉時代以降は、関東で竪穴状遺構として一部名残をのこすものの全面的に消失する。 引用「Wikipedia竪穴住居」 |
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隠岐国の様子 164隠岐国の成立 隠岐は日本海と深くかかわってきた地域です。(原文のままです) 7世紀には、隠岐の海産物が大和朝廷から重要視されました。これにより、隠岐では横穴墓を作るのにも海産物が採れる海を望む場所が 選ばれました。 8世紀になると、税制や地方行政組織と言った社会の仕組みも、海産物の貢納を中心に組み立てられました。 大和朝廷とのかかわりによって、隠岐の社会も大きく変化したのです。 律令国家と隠岐 奈良時代になると隠岐国が置かれ、海部郡を中心に隠岐国全域からワカメ・アワビ・イカ・サザエなどの海産物が 盛んに都に送られるようになりました。 その海産物に付けられた木の荷札 (木簡) が、都から数多く見つかっており、隠岐の海産物が都に住む天皇や貴族にとって 重要な食材だったことがわかります。 ※隠岐国の歴史は写真欄の下に記述 隠岐国・郡・郷と木簡に見る海産物 木簡に書かれた地名や人名を見ると、隠岐の中でも、特に海部郡の海部・阿墨部 (漁民) が中心になって海産物が納められたことがわかります。 海を望む横穴墓 古墳時代には、隠岐にも古墳が造られました。 更に、7世紀になると、海を望む崖に多くの横穴墓が造られるようになりました。 その横穴墓では、農耕具やアワビの貝殻、近畿地方で作られた土器などが見つかっています。 これらの横穴墓は、海産物を納めることで大和朝廷と結びついた人々が造ったものと考えられます。 ※隠岐国の歴史 隠岐国の設置は7世紀 引用Wikipedia隠岐国 隠岐諸島の歴史 後期旧石器時代から石器材料としての黒曜石を採取する場所だった。 縄文早期・前期(7000年前)の石器製作跡と推定される遺跡が島内各地から出土している。隠岐の黒曜石は能登半島~朝鮮半島まで分布する。 弥生時代後期から水稲栽培を開始。 古墳は島内に200基が分布。 隠岐島には四隅突出型墳丘墓もある。 7世紀に大和政権から、海産物の重要性から隠岐国として分国される。 8世紀以降、半島や渤海国との交易の中継地として、歴史記録に登場するようになる。 引用Wikipedia隠岐の歴史 |
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170隠岐国の遺跡 |
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173 1-3隠岐で作られた土器 |
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174 6-9隠岐の古墳・横穴墓出土品 隠岐の横穴墓・古墳は、奈良時代まで使われました。この時代には副葬されることの少ない工具類や玉類が豊富にみられるほか、 貴重な銅椀・帯金具なども見つかっている。 |
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175 10-11 15隠岐に持ち込まれた金属器 |
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176 12-14地名土器 |
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この後、中世などありますが割愛しています。 |
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200王墓誕生 四隅突出型墳丘墓 ―弥生時代― 1世紀 (弥生時代後期) になると、山陰地方は他の地域よりも早く青銅の祭りを行わなくなります。 その後しばらくして、各地の王(首長)を埋葬するための墳丘墓が大型になったことから、王の権力が強くなったと考えられます。 弥生時代の墓は地域ごとに特色ある形をしています。 山陰地方では四隅が飛び出した「四隅突出型墳丘墓」が造られました。 四隅突出型墳丘墓への道のり 四隅突出型墳丘墓は、 弥生時代前期に九州西部で造られた支石墓が起源だと考えられています。 ↑この考えは一部学者の主張です。古代出雲歴史博物館ではこの少数意見を紹介しています ①島根では支石墓の影響を受け、木棺墓の上をひとかかえ程もある石で覆った配石墓が、 出雲市大社町や松江市加島町などの海岸部で造られるようになります。 ②弥生時代中期には墳丘の周りに石を貼った方形貼り石墓に発展します。 この墳墓は、島根だけでなく京都府北部の丹後地方など、日本海の西部地域で広く作られるようになりました。 ※四隅突出型墳丘墓の起源が、支石墓との主張は、この博物館特有です。他には誰も言ってません。 ③やがて、方形貼石墓が巨大化し、墓上儀式のための、四隅を参道として利用し、やがて、より昇降しやすくするために突出したものです。 このために、四隅突出型墳丘墓と呼ばれるようになりました。 王墓への発展 島根では、2世紀後半には一辺が50mもある巨大な四隅突出型墳丘墓が造られるようになります。 ↑西谷3号墓(出雲弥生の森博物館に掲載) この時期に造られた墳丘墓では、岡山県の楯築墳丘墓に次いで大きい、国内でも最大級のものです。 大陸や朝鮮半島から運ばれる鉄や先進的な品々の流通をおさえた各地の王(首長)の権力がピークに達したことを反映しています。 地域別築造時期の比較 四隅突出型墳丘墓は山陰地域や中国山地一帯で造られますが、同じ時期に一斉に造られたわけではありません。 出雲地域では鳥取県や中国山地一帯で四隅突出型墳丘墓が造られなくなった後期後半に大型墳墓が出現します。 弥生時代後期~終末期の有力者の墓 弥生時代後期後半~終末期(2世紀~3世紀初め)には、日本各地で全長が30~80mに及ぶ大型の墳墓が造られています。 地域ごとに形の異なる墳墓を作っていますが、島根や北陸の一部では四隅突出型墳丘墓がみられます。
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201解説パネル |
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210お墓の祭りに用いたもの 鼓形器台・壺・石杵・注口土器・低脚杯がセット |
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213ジオラマ ※1西谷3号墓は、 平成22年開館の「出雲弥生の森博物館」の西谷3号墓の1/10模型です。 今から1800年前に亡くなった出雲王のために、地元の人たちが、吉備や、北陸からの参列者を迎えて葬儀の準備をしている場面を 想像力豊かに再現したものです。また、博物館のすぐ隣の西谷墳墓群史跡公園では、復元された3号墓を見ることができます。 ※2「よすみ」の埋葬思想は、 方形墳丘墓が発展したため、一族の墓地として、次々と追葬がなされ、合計8体ほどの墓壙があったそうです。 つまり、大王一人の墓で、殉死を伴う埋葬としての前方後円墳とは違う埋葬思想です。 ※3四隅突出墓の形成過程 写真左下の「四隅突出墓への道のり」の写真図で、四隅のない方形貼り石墓と、四隅が少し出た隅石がある写真で説明される。 最初は踏み石程度が、やがて、参道として成長していった。そこからでしか、墳丘に上がれなかったから便宜的に突出したのです。 ※4「四隅突出型墳丘墓」誕生直前の墓 方形貼り石墓です。弥生時代の中頃には日本海沿岸で、西は益田市から東は京都府丹後半島まで造られました。 まだ、四隅が突出せず長方形の墳丘墓であることが共通しています。 ※5最初に発掘された四隅突出型墳丘墓 1968-1969年にかけて発掘されたもので、発掘当時は地方色豊かな「古墳」と考えられていました。 後に同じような墳墓が山陰各地で発見されたことから、「四隅突出型墳丘墓」の第1号の発見例として著名になった墳丘墓です。 |
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230神秘の輝き 古代出雲の玉作り -古墳時代- 今も昔も、人はアクセサリーで身体を飾ります。 古代には勾玉などの玉類が盛んに作られ、装飾品としてだけでなく、その神秘的な輝きから祭祀具や権威の象徴として扱われています。 出雲は「玉」を弥生時代から盛んに生産しており、奈良時代の文献にも、全国で唯一、記されています。 特に、古墳時代後期からは全国最大規模の生産地となりました。 出雲の玉作り遺跡 出雲の玉作り遺跡は、現在のところ約100遺跡がしられ、弥生時代から平安時代にかけて盛んに玉作りがおこなわれたことがわかっています。 今も「メノウ細工」が行われている松江市玉湯町には、玉の原材料となる良質な碧玉、メノウ、水晶を産出する花仙山(標高199m) があります。 その周辺には50箇所以上の玉作り遺跡が集中し、まさに出雲の玉作りの中心地でした。 玉作りの始まり -弥生時代- 出雲では弥生時代前期に玉作りが始まりました。西川津遺跡 (松江市) は日本最古の玉作り遺跡の1つです。 ここでは、緑色凝灰岩を材料として、石に溝を入れ、打ち割って管玉を生産していました。 弥生時代中期の布田遺跡(松江市)でも、同じ石材・技法による玉作りが確認されているので、弥生時代の前~中期をとおして 緑色凝灰岩を材料として管玉が造られていたことがわかります。 玉作りの変化 弥生時代後期になると、石材や製品、制作技術に変化が現れます。 平所遺跡(松江市)の玉作工房跡からは、緑色凝灰岩製の管玉と共に、 碧玉の管玉や、水晶製の丸玉や算盤玉の未成品が大量に出土しました。 これ等は原石を打ち欠く新しい技術で製作されています。この技術や石材は古墳時代へ受け継がれました。 また、様々な鉄製の工具も見つかっており、鉄器の普及が大きな意味を持っていたようです。 墓に副葬される玉 弥生時代の玉は権力者の墓に副葬されました。 出雲でも弥生時代前~中期の墳墓から、多数の玉類が見つかっています。 弥生時代後期の王墓である西谷3号墓 (出雲市) からも、碧玉製の管玉が多量に出土しましたが、花仙山産ではないようです。 花仙山の碧玉が本格的に使われ始めるのは、次の時代になってからです。 |
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231解説パネル |
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232復元工房 |
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233弥生時代最古の玉作り 製作工程 |
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235古墳時代前期~中期の玉作り |
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236 1-3玉 |
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237 7-10玉の原石4 |
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238 11-13古墳時代中期の玉作り この時期になると、平野の各地で玉作りが行われるようになり、 当時の工房跡からは、花仙山産の碧玉・メノウ・水晶や滑石製の玉の未成品が多数出土します。 |
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240古墳時代後期の玉作り |
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241 1 |
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242 5太刀の柄飾り 三輪玉 奈良-平安時代の玉作り※2 この頃には玉の集中体制が整ったようで、多くの工房跡が花仙山周辺に見つかっています。 水晶製の玉・大型の管玉が多くなり、勾玉は形が「コ」の字状に変化しました。 奈良時代になると、穴のない碁石状の玉類が作られました。
※三輪玉とは 古墳時代に大刀(たち)に綴じつけた装飾品。 上面に大小3個のふくらみが並び,下面は平らに作る。中央に丸玉を置き左右に半截玉をそえた形と説明することもできるが, その中心線は一方に偏し,かつ湾曲している。 長さは3~5cmをふつうとし,金銅製品は上面のみの形を中空に作り,碧玉および水晶製品は充実して孔がない。 着装には両端にある2ヵ所のくびれに糸をかけて綴じつけるものである。 三輪玉という名称は,その形とは無関係に,奈良県三輪山から出土した例があるという理由で,明治期の考古学者が用いた仮称にすぎない。 転載コトバンク三輪玉 |
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247出雲の玉作りの独自性 古墳時代前期になると、 出雲の玉作りに花仙山産の碧玉・メノウ・水晶が本格的に使われ、独特な形の勾玉や管玉が造られます。 一方、全国の主な古墳では、玉類の他に、腕輪の形をした石製品が副葬されるようになります。 出雲でも、石製品の製作にかかわっていたようですが、その製作の中心は北陸地方でした。 独特な形をした出雲の玉は、近畿地方を中心に、各地の首長たちの古墳に副葬されました。 玉作りの拡大と独占 ―古墳時代中・後期― 古墳時代中期になると、 出雲では玉作り遺跡の数が急激に増えていきます。 その分布は出雲全域に拡大し、地域毎に使われる石材や制作技術が異なるようになります。 古墳時代後期になると、 副葬品として金銅製品が用いられるようになり、玉類は首長の古墳から消えていきます。 これと同時に全国の玉生産は衰えていきますが、出雲だけは例外で、玉生産の最盛期を迎えるのです。 文献に見られる玉作り―奈良・平安時代― 奈良時代以降になると、 もはや出雲でしか玉作りは行われません。 この時期の玉作りでは、勾玉・管玉に代わって、水晶や碧玉でできた碁石状の玉が主流になります。 古代における玉の使われ方は不明な点も多いのですが、古代の文献には出雲の玉に関する記述が登場します。 そこでは、特にヤマト朝廷での祭儀に用いる玉とされており、その重要性をうかがうことができます。 各地へ運ばれた出雲の玉 地元の花仙山の碧玉を使っていることが、出雲の玉作りの大きな特色です。 近年、石材の理化学的分析によって、出土した玉類の原産地の特定がなされています。 また、作りかけの玉の石材や、製作技術、組成など、考古学的な視点から出雲産の玉類を見分けることも行われています。 このような研究によって、出雲の玉類が流通したルートや供給先が解明される日も遠くはないでしょう。 花仙山産の玉の分布 石材の分析により、花仙山の碧玉で作られた玉類は、全国の古墳に副葬されたことが明らかになりつつあります。 また、玉の材料として、各地の玉作り工房にも運ばれています。 |
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260鉄の炎 島根のたたら たたらとは、日本独自に発達した伝統的な鉄作りの技術です。土で築いた炉の中で、木炭を燃やして砂鉄を溶かし、鉄を作ります。 たたらの技術は1400年以上前から発達を始め、明治時代にかけて最も盛んになりました。 この頃、島根のたたらで作られた鉄の量が、全国で作られた鉄の半分以上を占めたこともあります。なぜ島根ではたたらが盛んだったのでしょうか。 中国地方の砂鉄分布と地形 中国山地には風化花崗岩地帯が広がっていて、砂鉄が多くとれます。 たたらでは、山陰地方に主に分布する真砂 (まさ) 砂鉄のほか、赤目 (あこめ) 砂鉄も使われました。 ※真砂砂鉄は黒雲母花崗岩を母岩とし、鉄含有率1~2% 赤目砂鉄は閃緑岩を母岩とし鉄含有率6~9% 砂鉄には、山を削った土を水で流す、鉄穴 (かんな) 流しによる山砂鉄、斐伊川や高津川などの川沿いで採る川砂鉄、 海岸部で採る浜砂鉄がありました。 ※鉄穴流しは、風化花崗岩の多い山中にダムを造り水を溜め、 山の中で少しずつ土砂と共に水路(木樋)に流し込み流路に従って自然分離させる、(山砂鉄) これを一気に崩して大洪水を起こさせ、川に流れ込み比重差で川の中州に堆積した砂鉄を集める方法や、(川砂鉄) 海まで流れて行ってしまった砂鉄を海岸で黒い縞模様を集める(浜砂鉄)。 これは、昭和30年代まで行われていました。子どもの頃、テレビで流されていました。 鉄穴流しが盛んに行われたために地形がすっかり変わった地域もあります。 また、鉄作りをしていた地域は山地が多く、たたらで使う木炭が得られる森林も豊富でした。 弥生時代の鉄作り 弥生時代には、鉄素材を熱して加工し、簡単な鉄製品を作る鍛冶を行っていますが、まだ、鉄を作る技術は持っていませんでした。 今から2500年前頃の弥生時代前期には、朝鮮半島から九州北部へ鉄製品が持ち込まれました。 島根でも1800年前頃の弥生時代終わり頃に鍛冶が行われていたことが、柳Ⅱ遺跡 (安来市)・上野Ⅱ遺跡 (松江市)・平田遺跡 (雲南市)等 各地の遺蹟の調査で明らかになっています。 古墳時代から平安時代の鉄作り 島根では、羽森Ⅱ遺跡 (雲南市)・今佐屋山Ⅰ遺跡 (邑南町) で6世紀後半の製鉄炉が見つかっており、全国的にも最古級のものです。 作られた鉄は、豪族の大刀や農業や漁業の道具になりました。 また、奈良時代に編纂された「出雲国風土記-仁多郡」の記述には、「鉄があり、様々な道具を作るのに便利」とあり、 現在の奥出雲町一帯が、鉄作りの盛んな地域として知られていたことがわかります。 鎌倉時代から戦国時代の鉄作り 鎌倉時代以降、島根の各地で鉄作りが盛んになった。この時代、炉や地下構造が大きくなってより多くの鉄を作ることができました。 この鉄は不純物が多く、道具に直接加工できなかったため、品質を整える製錬鍛冶炉が登場します。 この炉は江戸時代の大鍛冶炉と同じ役割を持つため、この頃から鉄作りの作業が細かく分かれたと考えられます。 鉄で作られた日本刀は、日本の主な輸出品の1つとなりました。 江戸時代の鉄作り 江戸時代、天秤ふいごの登場によって「高殿たたら」が成立し、島根は全国でも主要な鉄の生産地となりました。 1回のたたら操業を3日間で行う「3日押し」では、真砂砂鉄を原料にして鉧(けら)が、4日間で行う「四日押し」では赤目砂鉄原料にして 銑が作られました。 鉧は鋼・歩鉧・銑に分けられ、鋼はそのまま道具に加工されます。 歩鉧と銑は大火事場で品質を整える作業が行われたのち、鋼や包丁鉄に変えられ、いろいろな道具の材料になりました。 出雲・石見の鉄づくりの特色 松江藩では、鉄作りを行う鉄師を9人に限定したり、たたらや鍛冶場から税金を取ったり、鉄師を厳しく統制しました。 その一方、炭を作る山(鉄山てつざん)の独占を許すなど手厚く保護し、たたらを主要な産業に育てたのです。 鉄師は大規模にたたらを経営しました。たたらの建物や働く人々の家がある地域は山内(さんない)と呼ばれました。 浜田藩・津和野藩や幕府領の各地でも、同じく山内での鉄作りが行われましたが、小規模な鉄師も数多くみられました。 製鉄技術の交流 江戸時代から明治時代、中国地方はたたらの最先端技術を持っていました。松江藩には加賀国(石川県)から、 鉄作りを学ぶために役人を派遣したいとの文書も届いています。 石見地方の人々は、萩藩(山口県)でたたらの経営者や技術者となったり、遠く、九州や東北へ技術者として出かけて行ったりしました。 萩藩のたたらへ井野村(浜田市)から砂鉄が運ばれたり、日本海を行き買う舟で大坂や北陸地方へ売られていくなど、物流も活発でした。 |
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270鉄生産の進化 ※1原始的な鉄器の生産 鉄器の生産が始まったのは、弥生時代のことです。 朝鮮半島の鉄素材を炉で加熱し、鏨(たがね)で切って製品の形を作り、それを砥石で磨き仕上げました。 鉄を半溶融状態にできないため、鉄素材の切り屑である裁断片が再利用されずに残るのが特徴です。 ※2本格的な鉄生産の始まり 古墳時代になると、ふいごを使う鍛冶炉が登場し、高温で整形した鉄製品が作られます。 ふいごには、羽口(送風管)が付けられ、炉内には鍛冶滓が生じます。 古志本郷遺跡の羽口は、4世紀代のもので、日本列島の中でも、早い段階でこの技術が伝わったことがわかります。 |
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273製鉄遺物
※1中世の鉄生産 平安時代終わり頃には、島根県や広島県西部で、製鉄炉の大型化が進み、鉄の量産化が進められました。 また、鉄の成分調整をする製錬鍛冶炉が登場するなど、鉄生産の体制も整えられました。 近世たたら製鉄は、中世の製鉄技術を基にして発展したものです。 ※2近世のたたら製鉄 たたら製鉄は、わが国独自に発展した砂鉄製錬法です。 江戸時代には、山を切り崩す鉄流し (かんなながし) により砂鉄の大量採取が可能となりました。 高殿(製鉄場)では銑(ずく)・鋼はがね・鉧けらが生産され、銑と鉧は大鍛冶場で割鉄(鉄の延べ板)に仕上げられました。 |
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274製鉄炉 |
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以下に (5)尼子氏と益田氏と石見銀山(平安~安土桃山時代) ・尼子・益田・銀山 ・荘園と開発の時代 ・中世都市の成立と往来 (6)金製のしまねブランド戦略(江戸時代) ・各地の領主と市場港 (7)日本の面影 しまね(明治~) などがありますが、全て割愛しています。 |