[戻る][TOP]


  西日本の縄文  30    2016.04.18と05.14に再取材

   古代出雲歴史博物館2 第2展示室   島根県出雲市大社町杵築東99−4  0853-53-8600 第3火曜日休館 撮影可

      第2展示室―総合展示一覧  (旧石器~近代までの展示)
               (1)しまねの夜明け(~旧石器時代)
               (2)しまねの旧石器人と縄文人(旧石器~縄文時代)
               (3)邪馬台国時代のしまね(弥生時代)
               (4)大和朝廷と出雲・隠岐(古墳~奈良時代)
              これ以降は割愛しています
               (5)尼子氏と益田氏と石見銀山(平安~安土桃山時代)  
               (6)近世しまねのブランド戦略(江戸時代)
               (7)日本の面影 しまね(明治時代~)



      第1展示室―テーマ別展示  (弥生時代~古墳時代までの展示)  既出「古代出雲歴史博物館1」
      第3展示室はビデオシアター「出雲神話回廊」です


 交通 出雲市駅前②乗り場よりバス (バスは30分に1本) 「正門前」下車。バス停より徒歩5分
      (通常、出雲大社まで行くのに一畑電車は使わない。レトロな電車で楽しいが)

 見所 山陰地方最大の考古博物館。地域色豊かな展示が工夫されている。

 注意 展示資料は膨大です。 各室とも、撮影だけに3時間半。計7時間余りかかりました。つまり、一日がかりで閲覧する量です。
      ビデオ資料を含めるともっとかかります。

 ご案内  ・展示方法は、
  ①先に、出土物を展示し、②キャプションはひとまとめで提示する。③次に、パネルで大規模な量の解説を掲示する。
  従って、実物と解説を別々に見ることになり、正直、わけわかんなくなりますよ。(笑) よく覚えていてくださいね。
・館の管理運営は民間会社に委託されており、大変丁寧です。また、各所に立っている女性は高度な専門知識を持った解説員です。
 質問すると初歩から高度に専門的な段階まで答えてくれます。素晴らしいです!

  お詫び 本ページの中には沢山の誤植等があると思われます。しかし、それを訂正することは現在不可能となっています。ご容赦願います。



次 
 
00外観
10島根の人々の生活と交流
20後期旧石器時代 前半
21原田遺跡の石器
21旧石器時代前半
 3.5万~3万年前の石器
30島根の夜明け
31年表・人類の誕生と進化
33石器の移り変わり
34人類の誕生と拡散
 島根の人類活動の始まり
 中期旧石器時代遺跡
35砂原遺跡

40後期旧石器時代 後半
41 1-3ナイフ形石器
42 4-9湧別技法の石器群 1.8万年前
 細石刃 

50縄文時代
51舟のオール
53縄文時代の様々な道具 石器
54縄文時代はじめの土器
55縄文人の穀物栽培 3000年前
56アクセサリーと祈りの道具
57謎の石器と網の錘

60縄文時代の各地との交流
62交流地図
65持ち込まれた土製品
66運ばれた石器材料と玉製品
 双耳壺
69地元の土器と九州産の土器
 三重県津市の双耳壺

70三瓶火山灰と縄文遺跡
71三瓶火山灰に覆われた遺跡
72埋没林が語るもの-出雲平野の形成-
73縄文の丸木舟

80島根の旧石器人と縄文人
81年表
82移動する人と技術 -旧石器時代-
 寒冷な気候と島根の旧石器人

83旧石器時代の地域性

 後期旧石器時代後半期の石器文化圏
 石材の移動
 旧石器時代の地域性
 東北地方からの移民

 各地の細石刃文化

84移動から定住へ -縄文時代-
 自然環境の変化

85集落と定住
86生業と祈り
 集落と生業
 縄文人の祈り

87縄文時代の壮大な交流


100弥生時代
101弥生土器 弥生人の顔
102道具
     貝輪
104祭祀具と石斧
107骨格製小道具
108奥出雲の弥生土器

110解説パネル
112邪馬台国時代の島根
113遺跡分布
 稲作文化の伝来
 北部九州の影響力
114鉄器と社会変革

120弥生時代の道具
122武器
124台付き装飾壺
126鉄器
128鉄を使った農具
 ナスビ型鍬

130古墳時代
 古墳時代の概要

131組み合わせの箱
133 AD300古墳時代前期の土器
 山陰型甑形土器
135 AD400頃の土器

 日本に仏教が伝来した時代
136 AD500年頃の土器
 -しまね特有の台所セット-
137 AD700頃の土器
 -地方色が強い土器づくり-

160大和朝廷と出雲・隠岐
162土器から見た暮らしの変化
 山陰の土器
 古墳時代の始まりと土器
 土器生産への影響力と地域色

163朝鮮島との交流
 煮炊きの変化
 須恵器の広がり
 律令時代の到来と土器
 かまどの登場

 隠岐国の様子
164隠岐国の成立
 律令国家と隠岐
 隠岐国・郡・郷と木簡に見る海産物
 海を望む横穴墓

 隠岐国の歴史
 隠岐諸島の歴史

170隠岐国の遺跡
173隠岐で作られた土器
174隠岐の古墳・横穴墓出土品
175隠岐に持ち込まれた金属器
176地名土器



200王墓誕生 四隅突出型墳丘墓-弥生時代-
 四隅突出型墳丘墓への道のり
 王墓への発展
 地域別築造時期の比較
 弥生時代後期~終末期の有力者の墓

201解説パネル
210お墓の祭りに用いたもの
213ジオラマ
 西谷3号墓
 「よすみ」の埋葬思想
 四隅突出墓の形成過程
 「四隅突出型墳丘墓」誕生直前

230神秘の輝き
 古代出雲の玉作り-古墳時代-
 出雲の玉作り遺跡
 玉作りの始まり -弥生時代-
 玉作りの変化
  墓に副葬される玉

231解説パネル
232復元工房
233弥生時代最古の玉作り 製作工程
  弥生時代後期の玉作り

235古墳時代前期~中期の玉作り
236玉
237玉の原石4
238古墳時代中期の玉作り
240古墳時代後期の玉作り
241
242太刀の柄飾り
 三輪玉とは
 奈良-平安時代の玉作り

247出雲の玉作りの独自性
 玉作りの拡大と独占
 文献に見られる玉作り
 -奈良・平安時代-
 各地へ運ばれた出雲の玉
 花仙山産の玉の分析

260鉄の炎 島根のたたら
261解説パネル
270鉄生産の進化
 原始的な鉄器の生産
 本格的な鉄生産の始まり
273製鉄遺物
 中世の鉄生産
 世のたたら製鉄
274製鉄炉
 00外観
古代出雲歴史博物館出雲大社周囲はかつて全て田んぼでした。西側を宅地に売ってしまったので 神社の環境保護に東側を買収し、博物館にした。早めに手を打ったようです。 とにかく広大な土地です
全て巨大でした。
出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱中央の展示が直径1mを越える柱3本を鉄輪でまとめた古代の柱 常設展示第2室島根の人々の生活と交流
旧石器~近代までの展示

  第1展示室は、出雲大社関連の膨大な資料~古墳時代まで
  第2展示室は、旧石器~中世。テーマ別展示
  第3展示室は、映像展示


  島根の人々の生活と交流

 20後期旧石器時代 前半

 21原田遺跡の石器 後期旧石器時代前半~後半 3万5千年~2万年前 奥出雲町  転載 原田遺跡 日本旧石器学会

遺跡概要  29000年前のAT層下の第7層、AT火山灰と19000年前の三瓶浮布火山灰に挟まれた5層、三瓶浮布火山灰の上の2~3層より、        
旧石器時代の遺物や遺構が見つかった。 さらに7層は上下2層に分かれる。
7層の下層、 からは、台形様石器局部磨製石斧石斧製作用砥石などが出土している。隠岐産黒曜石を多用しているのも特徴である。
また、石器の集中部(ブロック)が環状にめぐる部分もある。(旧石器時代の集落跡) 後期旧石器時代でも、古い時期の石器群と考えられる。
5層は、 角錐状石器を中心とした石器群で、礫群や炭が集中した部分が多く見られるのも特徴である。
2~3層は、 安山岩製の多くのスクレイパーに少量の小型ナイフ形石器を伴うのが特徴である。
中国地方の後期旧石器時代の石器の移り変わりを知るために重要な資料である。
また、(旧石器時代の集落跡である)土抗礫群炭集中部など、人間の行動の痕跡が調査されている。
   
また、 原田遺跡 - 島根県では以下のように述べている   転載原田遺跡 - 島根県
主な遺構 墓の可能性のある穴1基  石器集中地点(石器製作跡) 10箇所以上
礫群 (調理施設跡=石蒸し調理) 15基  炭化物の集中地点 (炉跡か=テント・居住址) 4か所
主な遺物 24,000~30,000年前の石斧3点
16,000~24,000年前のナイフ形石器3点
14,000~16,000年前のナイフ形石器6点 
他、2000点以上の石器が出土 使用石材は、安山岩・黒曜石・水晶・メノウなど多彩



 21旧石器時代前半3万5千年~3万年前の石器

     奥出雲町・原田遺跡で出土した石器群です。 約2万5千年前の噴火で堆積した火山灰よりも下から発見されたもので、
     確実にその年代よりも古いことが判る、島根県最古の石器群です。

島根県最古の石器
3万年前
台形様石器
3万年前
石斧
3万年前
石核
3万年前
石核
3万年前
石斧
3万年前
砥石
3万年前
第7層出土最古の石器
3.5万~3万年前 学会
or3万~2.4万年前
旧石器学会原田遺跡

台形様石器・局部磨製石斧・石斧製作用の砥石等隠岐産黒曜石を多用
第5層
旧石器学会年代記述なし
or2.4万~1.6万年前

角錐状石器群・石器集中区(住居跡)
第2~4層
旧石器学会年代記述なし
or1.6万~1.4万年前

安山岩製の多くのスクレイパーに少量の小型ナイフ形石器

  ・原田遺跡では、AT火山灰の下の第7層、AT火山灰 (2.5万年前) と三瓶浮布火山灰 (1.6万年前) に挟まれた第5層、三瓶浮布火山灰の上の
   第2~第3層より、旧石器時代の遺物や遺構が見つかった。さらに第7層は上下2層に分かれる。

  ・第7層の下層からは、台形様石器や局部磨製石斧、石斧製作用の砥石などが出土している。隠岐産黒曜石多用しているのも特徴である。
   また、石器の集中部が(ブロック)が環状にめぐる部分もある。後期旧石器時代でも、古い時期の石器群と考えられる。

  ・第5層は角錐状石器を中心とした石器群で、礫群や炭が集中した部分が多く見られるのも特徴である。

  ・第2~第3層は、安山岩製の多くのスクレイパーに少量の小型ナイフ形石器が伴うのが特徴である。

  ・火山灰に挟まれて、新古のはっきりわかる石器群が4群に分かれて出てきており、中国地方の後期旧石器時代の石器の移り変わりを知るために
   重要な資料である。また、土抗、礫群、炭集中部など、人間の行動の痕跡が調査されており、当時の人間活動を知る重要な遺跡でもある。

                 (丹羽野 裕)(写真提供 島根県埋蔵文化財調査センター)    引用 日本旧石器学会 原田遺跡




 30島根の夜明け
  31年表・人類の誕生と進化

   約600万年前、アフリカ大陸に住んでいた霊長類が2足歩行し、最初の人類「猿人」が誕生し、自由になった両手で道具を作り始めました。
   約180万年前、私たちと体格の似た「原人」が現れ、ユーラシア大陸に広がっていきました。
   約50万年前、 ネアンデルタール人に代表される「旧人」が現れます。
   約20万年前、 現生人類と同じ「新人」が登場しました。

島根の夜明け~旧石器 後期旧石器時代まで 中石器~縄文時代
人類の誕生 人類の進化と石器の変遷


 33石器の移り変わり
   およそ250万年前、人類は石器を使い始めました。
   始めは。石の端を打ち砕いた簡単なものでしたが、やがて石を広い範囲で打ち割って、整った石器を作るようになりました。(前期旧石器時代)

   約20万年前に、ふちに鋭い刃を持った薄い破片をうまく剥ぎ取って、石器を作る技術が生まれます。(中期旧石器時代)

   更に、3万5千年前から、形や大きさの同じ剥片を次々と剥ぎ取っていく技法が生み出され、
   短冊状に整えた石の破片から様々な石器が作られるようになった。(後期旧石器時代)

石器の移り変わり 礫石器-250万年前 猿人
握斧・削器等-50万年前
            原人
尖頭器・剥片石器-
 10万年 中期石器時代
↓に記述

(前期旧石器時代)
握斧50万年前     
礫石器100~200万年前

(後期旧石器時代)
石斧3万年
(中期旧石器時代)  
尖頭器・剥片石器7万年
(後期旧石器時代)
埋め込まれた細石刃・細石刃・細石核
ナイフ形石器・石斧3万年
(後期旧石器時代)
埋め込まれた細石刃・細石刃・細石核
石刃・石刃石核・石槍・ナイフ形石器・石斧3万年

石刃・石刃石核・石槍
石斧・ナイフ形石器・石槍・石刃石器・石刃-
  後期旧石器時代
  3.5万年前


 34人類の誕生と拡散※1
  現生人類の誕生
    現生人類は、20万年前にアフリカで、原人・旧人とは別種から進化し、長期間旧人と共存した。
    やがてユーラシア~アメリカ大陸にと、全世界に拡散した。彼らは、フランスのラスコー洞窟のように芸術的な絵を描くこともできた。

 ※2島根の人類活動の始まり
    日本列島の人類活動は、主に後期旧石器時代であるが、中期旧石器時代の石器が存在する可能性があります。
    それは1970年代に恩田清らに採取されたメノウや玉髄です。評価は未定ですが肯定的な意見も出て、4万年以上前の痕跡かもしれません。

現生人類の誕生※1上に記述 ラスコー洞窟壁画現生人類は芸術性も高く知能が高かった 島根の人類活動の始まりはいつか※2上に記述 人類の移動経路大昔の冒険家の思いつきを、正しいとしている。ベーリング海峡は船で渡り、ニューギニアから南米へは舟だ。アフリカから丸木舟で二週間で南米に到着する。 絶滅した旧石器時代の動物 旧石器時代のけものウマ・オーロックス・バイソン・ナウマンゾウ・ヘラジカ・ニホンムカシジカ・ヒグマ・ヤベオオツノシカ




  中期旧石器時代遺跡
 35砂原遺跡 出雲市多伎町砂原

  砂原遺跡は、上に11万年前の三瓶木次(さんべきすき)火山灰層がかぶり、下に約12万8000年前に形成された砂礫層があり、
   12万年前から7万年前の石器とされる。  調査団長の松藤和人・同志社大教授(旧石器考古学)
                                                                            
    石片を観察した稲田孝司・岡山大名誉教授が、接合資料がなく、剥離面が不明瞭などと、石器と認定するのを保留。
        引用転載島根県砂原遺跡の12万年前の初歩的「石器」は日本列島の人類史を遡らせるか

砂原遺跡の位置 玉髄製剥片砂原遺跡で最初に見つかった玉髄製剥片 尖頭スクレイパー砂原遺跡Ⅵb層出土の
尖頭スクレイパー
石器
板津発見の石器
           転載「旧石器が語る「砂原遺跡」 山陰文化ライブラリー」
 捏造事件以来、日本の旧石器学会は
 金取遺跡など以外に前・中期旧石器
 時代とは

 なかなか認めないですね。
     本買って損しました。




 40後期旧石器時代

  41 1-3ナイフ形石器
島根の後期旧石器 台形様石器
3.5万~2.6万年前
後期旧石器時代前半
1邑南町堀田上遺跡
隠岐島東舟遺跡
松江市宮ノ前遺跡
ナイフ形石器
2邑南町堀田上遺跡/浜田市岩塚Ⅱ遺跡/松江市堤平遺跡福富1遺跡巌谷遺跡古曽志平廻遺跡等
削器・掻器・彫器
2.6万~1.8万年前
後期旧石器時代後半
3安来市カンボウ遺跡
松江市面白谷遺跡


  42 4-9湧別技法の石器群 1万8000年前

  細石刃  後期旧石器時代終末期には、カミソリのような切れ味を持つ石器(細石刃)が作られました。
          なかには、北海道・東北地方の技術 (湧別技法) によるものも見つかっています。

島根出土湧別技法石器
東北地方の石器群

6,4,8,9
島根県出土細石刃
細石核・削片1.8万年前4松江市正源寺遺跡
・杉谷遺跡

6細石核隠岐島東舟遺跡
8細石刃松江市正源寺・杉谷遺跡
9細石核・削片
東北地方の石器群
9細石核・削片(湧別技法)
新潟県月岡遺跡
長岡市立科学館
山陰地方の石器群
8細石刃
松江市正源寺・杉谷遺跡



 50縄文時代 

  51舟のオール 松江市 夫手遺跡 
縄文時代の舟のオール
6000年前縄文前期初頭
舟のオール(櫂かい)
6000年前 前期初頭松江市夫手遺跡
夫手遺跡(前期初頭) からは

漆容器、として使われた土器が出土している。
 この地が生産地だったと推定されている。

木製櫂は、4本出土。杉製、長さ76-88㎝
 柄は全て途中で折れていた。
 宍道湖や中海周辺を往来していたようだ。

  53 11-18縄文時代の様々な道具 石器

    尖頭器は、槍の穂先。石の錘は網に付けるおもり。磨石や石皿は木の実などを潰して粉にする道具。石匙はナイフとして用いられました。
縄文時代の様々な道具
11尖頭器/1.3万年前
縄文草創期
松江市宮ノ前・福富1・野津原Ⅱ・益田市

14石匙5千-6千年前
12石鏃6千年前
縄文前期

12石鏃/6千年前/飯南町板屋3・下山遺跡
縄文前期

13石錘/6千年前
飯南町下山遺跡 前期

15石斧/飯南町板屋3遺跡
環状石斧・彫器・磨製石斧
縄文前期遺跡から完形の環状石斧が出土

16石皿・磨石・敲石

18炭化した栃の実
11-13狩猟・漁撈具
   6000-13000年前

14-18生業道具
   5000-6000年前

環状石斧の使用用途は何でしょう。
縄文前期武器があったのか、儀式用なのか。



  54 19-22縄文時代はじめの土器 草創期―前期

  島根県内最古の土器は、草創期(約1万年前)の土器片。漆の入った前期の土器も見つかっており、漆を接着剤や塗料として用いたようです。

縄文時代初めの土器 草創期
19草創期の土器片
1万1千年前
早期
20早期の土器片
9千年前
前期
21深鉢 前期
前期/6千-7千年前
前期
21前期 深鉢
前期/6千-7千年前
前期
22漆の容器
前期/6千-7千年前


  55 23-28縄文人の穀物栽培 3000年前

  縄文時代の終わり頃には穀物の栽培が始まり、開墾や収獲のための道具が作られ、稲モミの痕がついた土器、
  ヒエのプラントオパール(植物細胞の化石)がついた土器も見つかっています。

縄文人の穀物栽培
縄文晩期 3000年前

23石包丁
24石鎌

25石鍬・石杵

27稲モミの跡が残る土器

27モミ痕跡

28プラントオパールが検出された土器

  この頃、3000年前、縄文晩期、には、山陰では既に稲作栽培が行われていた。この時すでに西日本には大量の大陸・半島人が流入し、
  既に農耕を開始していた。


  56 29-35アクセサリーと祈りの道具
  当時は石や土で装身具を作った。祭祀・信仰の道具で知られる土偶は小型で乳房を持つものが多い。男性器を模した石棒。人を模した石器も
  作られました。
アクセサリーと祈りの道具
3000-9000年前

29イヤリング
9千-3千年前

29イヤリング
9千-3千年前

30ペンダント
9千-3千年前

31土偶 4千-3千年前

31土偶 4千-3千年前

31土偶 4千-3千年前

31土偶 4千-3千年前

33岩偶

35石棒 4千-3千年前

34岩偶
32土偶

  57 36-38謎の石器と網の錘
謎の石器と網の錘
37線刻礫
吉賀町浜子遺跡

37線刻礫

36刀状石器
吉賀町浜子遺跡

38石の錘
9千-3千年前
松江市寺ノ脇遺跡


 60縄文時代の各地との交流
  62交流地図
交流地図
土器:東北・関東・大分・熊本・朝鮮半島
石器材料:香川県・隠岐島・大分県
東北地方-土偶
隠岐産-黒曜石
曽畑式土器(米子市鮒ヶ口遺跡)
加曽利B式土器(茨城県椎塚貝塚)・ 後期
安行式土器(茨城県小松貝塚)・ 晩期
曽畑式土器(福岡県柿原野田遺跡・)前期
轟式土器(大分県かわじ池遺跡)・前期
孔列土器(京畿道河南市美沙里)・晩期
轟式土器(松江市島根大学構内遺跡)
阿高式土器(熊本県黒橋貝塚)・中期

曽畑式土器(福岡県柿原野田遺跡・)前期

轟式土器(大分県かわじ池遺跡)・前期
大分県姫島産黒曜石
香川県高松産サヌカイト
東北から土偶
しゃがむ土偶 黒曜石の露頭
/隠岐島町久見
香川県高松産サヌカイト
この鋭利なものが何かわかりません 大分県姫島黒曜石 この小さなものが何かわかりません
姫島産黒曜石
しゃがむ土偶(次頁に有)
 上岡遺跡
 福島県飯坂市東湯野
縄文後・晩期(4千-2.5千)
竪穴住居・水さらし場・漆塗り耳飾り・土偶

土偶には乳房・妊娠・立膝座位・腕組み。
 座位での出産か子をあやす姿と言われる。

  65 1-4 16-17持ち込まれた土偶と地元の土偶 ・関東から運ばれた土器

東北地方の土偶/しゃがむ土偶/福島県上岡遺跡
4000-3600年前 後期

1土偶 飯南町下山遺跡
2土偶 隣を復元した品

4000-3600年前 後期

 参考屈折土偶  参考

17安行式土器・晩期
飯南町板屋3遺跡

16加曽利B式・後期
飯南町神原1遺跡
3600-3000年前 晩期

3土偶 飯南町下山遺跡
4000-3600年前 後期

  ・安行式土器 埼玉県岩槻市真福寺にある縄文時代後期末から晩期前半の遺跡

  ・加曽利B式  千葉市若葉区桜木8丁目 加曽利貝塚B地点より出土の縄文後期後半の土器。 加曽利E式は縄文中期後半です。
     二つの土器には密接な関係があります。


  66 5-8-10運ばれた石器材料と玉製品

  黒曜石やサヌカイト(安山岩)は切れ味のよい石器材料。黒曜石は隠岐島や大分県姫島産。サヌカイトは香川県金山から運ばれていました。
遠くから運ばれた石器の材料
5サヌカイト片と原石
4000年前飯南町下山・
板屋3遺跡

10姫島産黒曜石

8隠岐島産黒曜石
6千-3千年前
奥出雲町家の後2遺跡
縄文時代の玉類
12勾玉・管玉
4千-3千年前
奥出雲町川平1遺跡





 双耳壺
  下に登場する、縄文時代の双耳壺は、全国の博物館を回ってきた私ですが、見たことありません。通常は弥生以降です。
  しかも、出雲在地の土器とされています。が、同形の壺が三重県津市から出土していました。そちらでも在地土器とされています。

  要するに、どちらの館員も類例がないので、在地土器とするしかなかったのでしょう。
  土器文様は磨消縄文で、亀ヶ岡式の文様です。

  つまり、縄文後晩期の影響を受けた地域で多く製作され、日本海ルートを通じて遠隔地に流通し、出雲と、津市にもたどり着いたようです。


  69 19-26地元の土器と九州産の土器
地元の土器と九州産の
土器

19深鉢 飯南町板屋3遺跡 4700-4000年前

19深鉢 飯南町板屋3遺跡 4700-4000年前

19深鉢 飯南町板屋3遺跡 4700-4000年前
双耳壺
20双耳壺 邑南町築廻遺跡4700-4000年前

21双耳壺 邑南町築廻遺跡4700-4000年前

20双耳壺 邑南町築廻遺跡4700-4000年前

21双耳壺
邑南町築廻遺跡4700-4000年前

九州の土器
25阿高式土器・中期
26並木式土器・中期
5000年前

九州の土器
23轟式土器・前期  
24曽畑式土器・前期
7千-6千年前
朝鮮半島のそっくり土器   朝鮮半島の土器
18孔列土器・晩期
飯南町板屋3遺跡
  3千年前
 朝鮮半島の土器そっくり

 そっくりとは当地の胎土で作られたとのことでしょうか


 三重県津市の双耳壺

  20双耳壺の脚注がありません。また、一般に双耳壺は弥生以降のもので縄文には珍しいものです。
   しかし、三重県津市芸濃町の芸濃郷土資料館に同系資料がありました。亀ヶ岡から交易で入手したのでしょうか。

4000年前縄文後期初頭
磨消縄文
雲林院青木遺跡出土
「広報津」2013.2月号17頁

掲載文より抜粋転載

壺の口の部分は欠けていますが、肩の張った胴部がほぼ完全な形で残っており、胴部に付けられた一対の瘤状の突起(耳)には、これを刺し貫くようにして縦方向の穴が開けられています。

文様は磨消縄文で、へらなどで刻んだ太い線で四つの渦巻き文を描き出し、線と線の間にびっしりと縄目を付けた部分と
縄目を付けない部分を交互に配して文様を完成させています。また、興味深いことに、底面にも、なぜか文様が施されています。

この壺は土坑墓の底から出土したものです。口の部分を意図的に打ち欠いて取り払い、(副葬品と考えられます。)

   転載「広報津」2013.2月号17ページ

 2016.6.9(木)に芸濃郷土資料館に連絡し、津市生涯学習課文化財担当で、土器の発掘者から電話をいただき、大変詳しくお話を伺いました。

  出雲に同形があると知らず、在地土器になっていました。従って、土器の原産地は未推定。 文様形式から4000年前と推定。

   他に磨り消し縄文の深鉢が出土。しかし、ここから出雲に運んだとは考えられず、やはり日本海ルートで亀ヶ岡から南下し、
   富山から東海経由か、敦賀から琵琶湖南を周って津地方へ。(このルートで同系統の土偶が出土している)

   出雲へはそのまま舟で一直線だったのでないか。なるほど日本海沿岸には磨消縄文の土器が沢山分布して、宝物のように扱われていた。

  要するに新しいことは何も聞き出せませんでした。 胎土だけでも調べてくれたら何かわかるかもしれないですね。これからです。





 70三瓶火山灰と縄文遺跡 
 71三瓶火山灰に覆われた遺跡
   埋没林の調査では人類活動の痕跡はありませんでした。
   しかし、三瓶山の東を流れる神戸川沿いでは、三瓶火山灰に覆われた縄文遺跡がいくつも発見されています。

   この地域では1万年ほど前から人々が暮らしていました。彼らの中には狩猟で森に入り、小豆原の巨大杉を見上げた人もいたかもしれません。

三瓶火山灰の降灰年代 三瓶山周辺遺跡
土偶3600年前
竪穴住居4700年前
三瓶山の噴火で埋まった縄文杉
三瓶小豆原埋没林 
輪切り標本 大田市三瓶小豆原地区3600年前
 縄文後期

 72埋没林が語るもの - 出雲平野の形成-
   小豆原のスギ林を埋没させた三瓶山大噴火によって、火山泥流や土石流が繰り返し発生しました。
   そのため神戸川が堰き止められ、大洪水を引き起こしました。 当時、宍道湖は日本海と繋がっていて、海が入り込んでいました。

   大洪水による大量の土砂は、神戸川を下って沿岸部を埋め立て、平野を広げたのです。

埋没林が語るもの
縄文~弥生の出雲平野の遺跡分布 この埋没林は「三瓶小豆原埋没林公園」として現地に保存され、国の天然記念物に指定されました。
まさに縄文時代の姿で直立する巨大杉林として蘇りました
出雲平野から望む三瓶山三瓶火山の活動により形成された出雲平野は、後に古代出雲の文化が栄える舞台となりました。 三田谷Ⅰ遺跡の埋没林
暦年校正4000年前神戸川下流の遺跡からも3600年程前の大洪水による土砂に覆われ埋没林が発見されました。
蘇った埋没林
(小豆原埋没林公園)

  73縄文の丸木舟 杉の丸太をくりぬいた舟。洪水の堰止湖で使われていた
出雲市三田谷Ⅰ遺跡
出雲市上塩冶
縄文後期3600年前 長さ5.5m幅44~60cm
深さ15.1㎝
山陰地方で出土した丸木舟

 縄文時代の丸木舟は、
   アマゾンの川舟のように細長い。 当時はもっと大きい胴回りの木材は沢山あったが、利用しなかった。
   (弥生以降になると輸送力のある巨大な丸木舟や、構造船が作られるようになった。宍道湖では近代まで大型丸木舟が使われていた。)

   この原因は、道具です。 いくら磨製石斧でも、切り倒し、えぐることは大変な重労働です。
   鉄斧や鉄鋸の出現によって、大型・巨木の丸木舟や構造船の制作が可能となりました。







 
 80島根の旧石器人と縄文人 
  81年表

600万年―7万年前

10万年-2500年前

 島根の旧石器人と縄文人

  後期旧石器時代は氷河期にあたり、寒冷な気候でした。この時期は地形も環境も今とは異なり、人々は移動しながら生活していました。
  やがて氷河期が終わり、気候が温暖になって植物が豊かに育つようになると、人々は定住して暮らすようになりました。
  海や森の恵みをバランスよく利用した縄文時代の始まりです。



 82移動する人と技術 -旧石器時代-
   移動しながら生活していた旧石器時代。移動には大きく2つの種類がありました。
   狩りや採集をしながら一定の範囲を回り歩く日常的な移動と、 何百キロも旅をする移民的な移動です。

   石材の移動や石器のかたち、作り方の違いを手掛かりに、旧石器人のダイナミックな交流の姿が明らかになりつつあります。

  寒冷な気候と島根の旧石器人
   後期旧石器時代は気候が寒冷で、海水面が今よりおよそ100mも低かった時期もありました。
   そのため、宍道湖や中海は、当時大きな谷であり、川が東西に流れていたようです。

   この時代の遺跡は、この大きな谷を見下ろす丘から多く発見されています。
   旧石器人たちは谷の獣を捕え、沢筋の植物を採取しながら暮らしていました。

島根の旧石器人と縄文人 後期旧石器代 移動する人と技術
寒冷な気候と島根の旧石器人
調理施設
奥出雲町原田遺跡
隠岐島の
後期旧石器時代の地形と遺蹟分布
本州側の
後期旧石器時代の地形と遺蹟分布


  83後期旧石器時代後半期の石器文化圏区分
    ①北海道・東北アジア文化圏 
    ②北陸・東北文化圏 (・東山型ナイフ形石器文化地域圏 ・杉久保型ナイフ形石器文化地域圏)

    ③関東・東海文化圏 (・切出型石器文化地域圏 ・東海型ナイフ形石器文化地域圏)
    ④近畿・中国・四国文化圏 (・山陰石器文化地域圏 ・国府型ナイフ形石器文化地域圏 ・西部瀬戸内石器文化地域圏)

    ⑤九州文化圏 (・九州型ナイフ形石器文化圏  ・狸谷型ナイフ形石器文化地域圏)
    ⑥南西諸島文化圏 (敲磨器文化圏)

  後期旧石器時代後半期の石器文化圏
       山陰地方の特色は明確ではありませんが、九州北部や北陸地方と共通した要素が多いようです。 
       その一方で、瀬戸内地方に特有の技術で作られた石器も出土しており、中国山地を越えて人々が往来していたことがわかります。

  石材の移動
    石材の移動を探ると、人々の活動や交流の様子がわかってきます。
    隠岐の黒曜石や玉造温泉周辺で採れるメノウや玉髄は、中国山地や瀬戸内地方へも運ばれました。

    逆に瀬戸内地方産とみられる安山岩が島根に持ち込まれています。
    旧石器人の行動範囲は創造以上に広かったようです。

    また、東北産とみられる頁岩も島根に持ち込まれています。 日常の生活領域を越えた、移民のような人の移動もあったのかもしれません。

  旧石器時代の地域性
   後期旧石器時代 前半期 (3万5千年前~) には、 台形様石器と呼ばれる小型の石器が多く作られ、同様の石器が日本列島各地で見つかっています。
後半期 (2万6千年前~) になると 石器に地域色が表れます。例えば、ナイフ形石器は地域によって作り方が異なります。
終末期 (1万8千年前~) には、 細石刃というカミソリの刃のような石器を木の棒に取り付けて使うようになります。
この細石刃の作り方は、東日本と西日本で異なっていました。


  東北地方からの移民
    湧別技法と呼ばれる細石刃をつくる技術があります。 

    これは北海道・東北地方に特有のものですが、この技術で作られた石器が松江市玉湯町で見つかっています。
    また、岡山県では、松江市玉湯町周辺で採れる石材を湧別技法で加工した石器が見つかっています。

    東北地方からの移民が、山陰の石材産地を基点に、西日本に広がったのでしょう。
    小さな石器が1万8千年前の人々のダイナミックな移動を物語っています。

後期旧石器時代後半の
石器文化圏
後期旧石器時代後半期の石器文化上に記述 後期旧石器時代の
石材産地
石材の移動上に記述
旧石器時代の地域性
湧別技法による細石刃の作り方
東北地方からの移民上に記述 湧別技法の広がり 細石刃文化の分布三系統の細石刃文化と教えられていたが 引用転載細石刃文化

 細石刃文化の分布
    三系統の細石刃文化の分布図として知られていますが、これは簡略図にすぎません。
    例えば、湧別技法の細石刃は日本海側を西進し中国地方に及び、そして度々、近畿・瀬戸内・四国にまで遠征しています。

    細石刃文化の詳しい分布については、「東北の縄文 高畑郷土資料館」掲載は (2017年の4月頃掲載予定) をご覧ください。


 各地の細石刃文化(細石刃文化期(14,300~12,000年前))

   ・北海道の細石刃核は、
      湧別技法として知られる白滝型・札骨(さつこつ)型・峠下(とうげした)型・蘭越(らんこし)型、忍路子(おしょろこ)型、幌加(ほろか)型、
      射的山型 (しゃてきやま) 、紅葉山型 (もみじやま) などに類別される。この湧別技法やその影響を受けた細石刃剥離技術は、
      津軽海峡を越えて山形県、新潟県、茨城県など東北地方の北半分まで拡がっており、荒屋(あらや)型彫器を伴って検出される。

   ・西北九州を中心に、福井型と呼ばれる細石刃核が存在する。
                 この石核には、縄文時代草創期土器である豆粒文土器隆起線文土器、爪形文土器などを伴う。
   ・南九州を中心に、  畦原(うねはら)型が知られる。

   ・関東・中部地方から九州までの広い地域には、野岳・休場型細石刃核が、広がっており、円錐形、半円錐形、角柱状などの形をしている。

   ・宮崎平野、大野川流域から近畿南部、東海を経て中部南半分、南関東まで、船野型細石刃核が広く分布している。



  ○日本列島の細石刃文化は、
    北東日本楔形細石刃と
    南西日本の野岳・休場型や船野型細石刃 の二つの分布圏に分かれる。

     前者はシベリアから北海道を経由して本州へ、
     後者は中国黄河中・下流から九州を経由して本州へ及んだらしい。

    この文化段階で、北方から相当数本州へやってきた可能性が否定できず、後期旧石器人がそのまま縄文人になったわけではないと想像できる。
                                      引用抜粋Wikipedia細石器

    ※一説によると列島在住の旧石器人1500人のところに、7000人の細石器文化人がやってきたという。
     細石刃文化人が入ってくると、在地のナイフ形石器文化が消滅していることから、殲滅されたか、在地人が細石刃文化人になったかである。







  84移動から定住へ -縄文時代-

    長かった氷河時代が終わり、気候が暖かくなってくると、土器を使用し自然の恵みを採取して暮らす縄文時代が始まります。
    縄文人たちは豊かな自然環境の下、定住生活を営むようになり、ムラが発生します。

    森や海の恵みによって、生活環境が安定していた縄文時代は、およそ1万年にわたって続きました。

   自然環境の変化
    今から1万数千年前、気候の温暖化が始まり、氷河が解けて海水面が、現在より1~2m程上がりました。
    中海や宍道湖の周りの低地には海水が入り込み、「古宍道湖湾」と呼ばれる大きな入り江になっていました。

    縄文人たちは、この入り江を舞台に活発な活動を繰り広げていました。

移動から定住へ上に記述 自然環境の変化上に記述 掘り出された貝塚
松江市佐太講武貝塚
縄文前期ヤマトシジミ
1m厚
中海沿岸の洞窟遺跡
松江市崎ヶ鼻洞窟遺跡海蝕洞窟・縄文前期~
土器石器・人骨・動物・魚介骨・貝類
縄文時代前期の地形と遺跡分布 宍道湖周辺弓ヶ浜は江の川・大山等の土砂が海流で運ばれ
江戸時代の終末頃に現在の姿になった。古代には細縄のようだった。
隠岐島陸続きだった道は、100mの深さの海に閉ざされた。隠岐には縄文人が陸封されたことになる。



 85集落と定住
  86生業と祈り

  集落と生業
     気候が温暖になり、山々にはシイやカシなどの堅果類が増えました。それまでは食べられなかった木の実も、土器を使って
     煮炊きをすることで、貴重な食料になりました。
     縄文人達は森で狩りをし、木の実を採り、海や川、湖で漁をして暮らしました。
     人々は定住してムラをつくり、縄文時代の後期にはヒエやアワなどの穀物を作り始めました。

  縄文人の祈り
     自然と共に生きた縄文人は、土偶や石棒など様々な祭祀用の道具を作りました。自然に対する信仰の表れなのかもしれません。
     村には墓地も作られ、墓の上には石をドーナツ状に並べた「配石遺構」もあります。

     まさに縄文人の「斎場」(まつりの場)と言うべきものです。
     こうした遺構の近くにある集落は、縄文人の定住生活の証と言えます。

集落と生業 竪穴住居
(飯南町貝谷遺跡)
落し穴
(飯南町蒲原1遺跡)
縄文人の祈り 配石遺構
(益田市水田ノ上遺跡)
集石墓(飯南町貝谷遺跡)

 87縄文時代の壮大な交流

   道具が語る縄文人の壮大な交流
     車も飛行機もなかった時代、縄文人は遠く離れた場所から、どうやって石材など必要なものを手に入れたのでしょうか。

     黒曜石はガラス質の石で、石器の材料として幅広く使われました。黒曜石は、海を越えた隠岐島から運んでくる場合が多かったようです。
     また、他の地域で作られた土器が持ち込まれることもありました。

     縄文人たちは石材などの必需品を求めて、他地域の人々と活発に交流していたようです。

道具が語る縄文人の
壮大な交流
道具が語る縄文人の壮大な交流上に記述 土偶後期に屈折像土偶が
福島県上岡遺跡から
運ばれてきた
関東の土器後期に加曽利B式
注口土器や
茨城県椎塚貝塚
晩期に安行式注口土器
茨城県小松貝塚
から運ばれた
九州の土器前期に曽畑式土器(福岡県柿原野田遺跡)や、
前期に轟式土器(大分県かわじ池遺跡)が、
中期に阿高式土器(熊本県黒橋貝塚)
が持ち込まれた
石器材料の移動
隠岐産黒曜石
島根県隠岐島
金山産サヌカイト
香川県
姫島産黒曜石
大分県
朝鮮半島の土器
晩期に孔列土器(京畿道河南市美沙里遺跡)

姫島産黒曜石
大分県姫島
 人の移動
 旧石器より食糧や石器材料を求めて遊動した。

 縄文海進では水没した関東平野から多くの縄文人が甲斐や信州に移住。

 寒冷化した後・晩期には多くの人々が東北から南下した。これによって
多くの東北の文化、方形住居・大型複式炉などが南下した。

 北陸からは日本海伝いや東海経由で山陰・関西・和歌山・瀬戸内地方・四国・九州まで移住し、

 また、逆に、移住先の産物を持って里帰りして、
 各地の特産を出身地にもたらしている。


 更に、縄文晩期・弥生早期には、気候寒冷化と大陸・半島の戦乱を避けて、多くの移住者が流、

 新たな文化・産物が持ち込まれた。





 100弥生時代




 101弥生土器 弥生人の顔
    縄文の土偶と異なり、面長な顔の表現が特徴です。
    頭頂部の鶏冠状の高まりは鳥装のシャーマンの表現かもしれません。
弥生人の顔 人面付土器松江市西川津遺跡 弥生時代
紀元前5世紀―前3世紀
  102道具
初期の弥生土器と朝鮮系土器 1弥生土器(壺・甕)
紀元前5-前3世紀
1弥生土器(壺・甕)
紀元前5-前3世紀
4朝鮮半島系無文土器
紀元前2-後1世紀
5ゴホウラ製貝輪
イタボガキ製貝輪
紀元前2-前1世紀
南の海からの贈り物5ゴホウラ製貝輪
イタボガキ製貝輪
紀元前2-前1世紀

 貝輪
  ゴホウラ貝は奄美諸島など南西諸島で獲れる大型の貝です。南西諸島から北部九州を介して島根県まで運ばれました。
    参照沖縄県立埋蔵文化財センター


  104祭祀具と石斧
祭りで用いた黒塗りの土器 黒塗り土器6祭祀具の黒塗り土器
紀元前2-前1世紀
松江市西川津遺跡
土笛土笛は、弥生時代前期に日本海沿岸の各地で使われた楽器。
特に松江市西川津・タテチョウ遺跡から
50点以上出土している
土笛土笛  松江市西川津タテチョウ遺跡
紀元前5-3世紀
木材加工用石器朝鮮半島の技術で作られた弥生の磨製石器は、よく研ぎ磨かれていると共に、切る・削る用途に応じて、様々な形のものがあります。 大陸系磨製石器大陸系磨製石器
松江市西川津遺跡
紀元前5-前1世紀

  107骨格製小道具
骨などで作った小道具現在では金属で作られる針や釣針。弥生時代には動物の骨や角を使って、緻密な加工技術で製作していました。
10刺突具
松江市西川追跡
紀元前5-前1世紀
11骨製釣針 12牙玉
    松江市西川追跡
紀元前5-前1世紀
13骨製耳栓 14骨製弓筈
松江市西川追跡
紀元前5-前1世紀

  108奥出雲の弥生土器
奥出雲の弥生土器奥出雲町
亀嵩鹿谷遺跡
弥生時代の集落と水田耕作の様子 17壺・18甕
紀元前2世紀-前1世紀
壺全体の形状と口縁の模様。胴上部櫛目文は 遠くユーラシアの技術である

 余計なことだが 亀嵩(かめだけ)の地名は、松本清張の推理小説で有名となった。



 110解説パネル
  112邪馬台国時代の島根
邪馬台国時代の島根
後期旧石器-古墳

古墳-平安



 113遺跡分布
   今から2500年程前には、大陸や朝鮮半島に起源を持つ農耕文化が島根にも流入してきます。
   弥生文化は大陸から渡ってきた人々に加え、従来からこの地に住み、農耕文化を受け入れた縄文人達によって担われました。

   また、大陸から渡ってきた弥生人にはいくつかのグループがあり、多様な文化がもたらされました。

  稲作文化の伝来
   弥生時代前期の島根には、大陸・朝鮮半島系の品々が九州北部を経由してもたらされました。
   また、南西諸島に生息する貝で作られた装飾品も九州北部を経由してもたらされています。

   島根の弥生時代の文化は、交流した各地の文化と在来の縄文文化とがうまく合わさって形成されたのです。


  北部九州の影響力
   上記のように、 大陸・半島からの全ての物流は、北部九州が握っていました。列島への鉄の供給量も、様々な文物の流通量も全てです。
   これによって北部九州は絶大な権力と富を掌握していました。 これがやがて畿内政権によって徹底的に殲滅される原因となりました。

邪馬台国時代の島根 稲作文化の伝来 弥生時代前期の遺跡分布弥生遺跡は海岸沿いに多いですが、山間部にも河川沿いに見られます
弥生前期石器群
西川津遺跡

磨製石器群
西川津遺跡

土笛 西川津遺跡

 114鉄器と社会変革
   弥生時代中期には、鉄器が広く使われるようになりました。それまでの石器中心の社会から、鉄が安定して流通する社会へと移り変わりました。
   山陰地方は、北陸地方・近畿地方・東日本へ鉄素材を流通させる拠点となり、日本列島の中でも重要な地域として成長していきました。

鉄器と社会変革:県内では弥生中期から鉄器が使用されました。 弥生時代の鉄器出土分布県内各地から弥生後期の鉄製品が出土しています 県内出土後期の鉄鏃 後期の板状鉄素材・鉄鏃

 120弥生時代の道具

  122武器
中国の弩を真似た弥生人
9弩形木製品2-3世紀
出雲市姫原西遺跡
弩の使い方
木製の楯出雲市五反配遺跡
弥生~古墳 (2-4世紀)
 木製の楯
県内で見つかった中で、
最も保存状態が良い楯。
 この博物館を建てる前に発掘調査したところ、川や田圃の痕と共に、沢山の木製品が出土しました。
弩の使い方
 弩は古代中国で使われた機械式の弓。展示品は弩の本体(臂ヒ・ひじ)で、日本で最初の出土品です。

 作りが細かく、漆が塗られていることから、祭祀用の弩形木製品とも考えられます。
 弩は日本では奈良・平安時代まで使われていました。

 124台付き装飾壺
   弥生時代後期の山陰に多く見られる土器で、時期や分布が特徴的です。
   胴部を刺突文や連続渦巻き文で装飾します。渦文は銅鐸にも使われています。

山陰の特徴を示す土器 台付き装飾壺白石大谷Ⅰ遺跡、
青木遺跡
弥生時代 (2世紀) 飛び鉋(とびかんな)のような規則的な連続模様が美しい スタンプ紋様か ロクロはまだありませんでした。

  126 11-19鉄器
次第に広まった鉄器
弥生時代
紀元前1世紀-1世紀
この時期は鉄の流通初期です。およそ紀元0年頃より東アジアで鉄生産が高まります。 11・12鋳造鉄斧
16鋤先
17鍬先
13・14・15板状鉄斧
 18鎌 19槍鉋
 11・12の鋳造鉄斧はもろくて実用に供さない。
鍛造しないと粘りが出ないと思います。

参考論文
弥生時代における鋳造鉄斧の流通について 広島大学

1. 弥生時代の初期鉄器

弥生時代鋳造鉄器の意味をめぐって

 128 20-22鉄を使った農具2世紀-3世紀

  弥生時代にはまだ、鉄は大陸から輸入していた貴重品でした。
  鉄製の刃先を農具や工具に取り付けるようになって、仕事の能率が、ぐんと向上しました。
鉄を使った農耕具
2世紀-3世紀

20加工用鉄斧
21伐採用鉄斧
22鉄刃付きナスビ形鍬

21伐採用鉄斧
22鉄刃付きナスビ形鍬

22鉄刃付きナスビ形鍬
出雲市姫原西遺跡

21伐採用鉄斧
鳥取市桂見遺跡

20加工用鉄斧
出雲市姫原西遺跡

 ナスビ型鍬は、西日本では弥生III 期頃、岡山県の吉備地方でナスビを縦割りにしたような形状をもつ曲柄鍬(ナスビ形曲柄鍬)が創出され、
   弥生終末期に大阪府の河内平野に定着する。さらに古墳前期には東海系曲柄鍬と拮抗して全国に伝播する。
               転載鍬の機能に関する基礎的研究 - 愛知県埋蔵文化財センターP54





 130古墳時代




 古墳時代の概要
3世紀半ば過ぎから 7世紀末頃までの 約400年間を指すことが多い
3世紀半ば過ぎから 6世紀末までは 前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた、前方後円墳の時代です
6世紀末から 7世紀末までは 円墳が沢山作られました。


 古墳時代 出現期 3世紀半ば~3世紀後半 古墳の形式が定まっていない
       
前期 3世紀後半~4世紀末 特殊壺形土器・器台型土器を伴う墳丘墓が出現。円墳、四隅突種型墳丘墓からの方墳。
その後、奈良盆地に大王陵級の前方後円墳の建設が集中した。
       
       竪穴石室。円筒埴輪・器財埴輪・家形埴輪が作られる。副葬品に鏡・玉・剣・石製品や鉄製農耕具
       
中期 5世紀初頭~5世紀末 5世紀初頭 大型前方後円墳の建設地が河内平野に移動。巨大化した人物埴輪が出現
5世紀半ば 大型古墳の竪穴式石室が狭長から幅広になり、長持ち型石棺を納めるようになった
各地に大型古墳が出現し、副葬品に馬具・甲冑・刀など軍事的なものが増加
 
5世紀後半 北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が増加。北部九州では石人・石馬が登場
阪南部で須恵器の生産が始まり、曲刃鎌・U字形鋤先・鍬先が出現
      5世紀終末 畿内に群集墳が出現。大型古墳に家形石棺が取り入れられる
        南東九州・北部九州に地下横穴墓が造られ始め、装飾古墳が出現し始めた
         
  後期 6世紀前半~6世紀末 6世紀前半 西日本の古墳に横穴式石室盛行。関東にも横穴式石室。北部九州では石人・石馬が衰退
      6世紀後半 北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪関西で衰退し関東で盛行。西日本群集墳盛行
         
  終末期 6世紀末~7世紀末 6世紀末 までに前方後円墳が作られなくなり、方墳・円墳が築造された時代を終末期と呼ぶ
         転載Wikipedia古墳時代



  131組み合わせの箱
組み合わせの箱
出雲市 山持遺跡
弥生時代後期~古墳時代前期
2世紀-3世紀
 底板に溝を設けて側板を組み合わせており、更に外側から木釘で固定しています。
 木釘と溝による精密な固定方法は、鉄製工具の使用をうかがわせるものです。

弥生時代の青谷上寺地遺跡では高度な木工技術指物大工の技が
多数認められ、半島から熟練の職人が多数渡来していたことがわかる。 古墳時代の全展示



 133AD300古墳時代前期の土器 3-4世紀
   古墳時代前期には、山陰地方特有の、薄くて軽い精緻な土器が尽きられます。この技術は西日本各地の土器作りに影響を与えました。

  山陰特有の大形土器 (山陰型甑形土器)
   弥生時代末から古墳時代初めの一時期に、山陰地方で広くみられる土器。形はコシキですが、必要以上に大きいことから、
   「燻製作り」説や「煙突」説などもあります。


  山陰型甑(コシキ)形土器は、(4世紀)
   ・上にいう山陰特有の大形土器。用途不明。のことですが、滋賀県大津市歴史博物館では、オンドルの煙突とされています。
    カマドと一緒に発掘される例や、大津市穴太遺跡 (あのう) 発掘された中の一点の内部に煤が付着していたことから、煙突とされています。

    発見場所は琵琶湖の西岸、大津市内で、古来帰化人が多く住んでいた集落跡とされています。※石垣建設で有名な「穴太衆」の居所です。

   ・その他に、
    奈良県御所市下茶屋カマ田遺跡 (橿原考古学研究所所蔵) から出土しています。

    ここ(河内=かわち)は、5世紀ヤマトの葛城氏が支配する地域で、百済系渡来集団の大居城地が確認されている。
    渡来人・先進技術の受け入れ窓口として鉄器生産・窯業・ガラス生産など手工業に携わった一般者の居所。
                  引用橿原考古学研究所5世紀のヤマト

   ・または、鍛冶に関わる渡来人を親方層とする工人集団の居所。とする説明もある。


   ・熊本大学の「百済土製煙筒試論」は、韓国の金圭東氏の論文を翻訳したものです。
    論文では扶余のオンドルの煙突との共通点を考究したものもあります。

    ただ、残念なのは、「双耳壺」のところでもあったように、古代出雲歴史博物館も大津市歴史博物館も互いの情報は全く知らないことです。
    そして、出雲では4世紀、河内では5世紀である点も異なります。カマドに乗せるには大きすぎ、煤もついてない煙突様の土筒は何でしょう。

    大津市歴史博物館の掲載は、年内か平成29年1月頃と思います。

古墳時代の土器 この頃、山陰地方特有の、薄くて軽い精緻な土器が作られます。

この技術は西日本各地の土器作りに影響を与えます。
山陰特有の大形土器


2近畿型土器甕 6・8鼓形器台 7山陰型甕 9壺 4・5高坏 12鉢 13小型器台 14・15小型丸底壺
4・5高坏 10・11低脚杯 12鉢 1山陰型甕 2近畿型甕 11甑形土器 山陰型 甑形土器 11甑形土器
安来市竹ヶ崎遺跡
古墳時代(3-4世紀)

 弥生時代から古墳時代初期に、山陰特有の土器
異様に大きい甑形で、燻製器や煙突等の説もあります、
山陰型甑形土器
 滋賀県大津市歴史博物館では、オンドルの煙突とされている。
 これを山陰型甑形土器と呼ぶことも知られていなかった。

  135 AD400頃の土器 古墳時代中期以降、登り窯を用いた須恵器陶工が朝鮮半島から大挙移住しました。
                硬く保水性が高い須恵器は、貯蔵や供膳用などとして生産されるようになりました。
土師器(日常用)と須恵器古墳時代 5世紀 1甑 2・3・4甕 5・6坏 7~10高坏
11坏身 12杯蓋 14不明15長口壺 16長頸壺 1甑 2・4甕


 日本に仏教が伝来した時代 飛鳥-奈良時代

 136 AD500年頃の土器
    しまね特有の台所セット 7世紀 移動式カマド・甕かめ・コシキ・土製支脚
    土製支脚は、
     五徳のことで、鍋や釜を乗せるもの。様々な形態があり、飛鳥~奈良時代にかけて使用したのは、出雲を中心とした山陰海岸部のみでした

    大量生産される須恵器 6-7世紀  須恵器は松江市大井町で生産した。製品は出雲を中心に広く流通した。

島根特有の台所セット
7世紀
土製支脚は、五徳で、鍋や釜を乗せるもの。
様々な形態があり、飛鳥~奈良時代にかけて使用したのは、出雲を中心とした山陰海岸部のみでした
大量生産される須恵器
6-7世紀

須恵器は松江市大井町で生産した。製品は出雲を中心に広く流通した。

1移動式かまど 2甕
3土製支脚(五徳)
3五徳 4甕
5甑 5甑 甑こしき 6・8はそう 9・10長頸壺11・12提瓶ていへい 10長頸壺 11提瓶 13高坏 15土師器の杯 16杯身 17杯蓋

 137 AD700頃の土器 -地方色が強い土器づくり-(8世紀)
   奈良時代になると、中央集権的な律令に基づいて物事が全国共通に行われ、土器も画一化していきました。
   一方出雲では地方色が強い土器が作られました
地方色が強い土器作り
奈良時代になると、中央集権的な律令に基づいて物事が全国共通に行われ、土器も画一化していきました。
一方出雲では地方色が強い土器が作られました
15土師器 杯 16杯身 17杯蓋 18 杯身19杯蓋 20杯身 21杯蓋 18杯身 19杯蓋 20杯身 21杯蓋 6はそう 10長頚壺 11提瓶 12提瓶 2甕
12提瓶  4短頸壺
5鉄鉢形鉢
6土師器皿 8杯蓋
7・9・10杯身 11高坏
本州日本海側唯一土器
統一新羅土器奈良時代 8世紀
統一新羅土器江津市古八幡付近遺跡奈良時代 8世紀








 160大和朝廷と出雲・隠岐 (古墳~奈良時代)
    古墳時代から奈良時代にかけて、中央集権体制が確立し、島根と古代国家の中心となる近畿地方との交流は急速に拡大します。
    その結果、地域の特色や人々の暮らしにも変化が現れました。

    ここでは、人々の日常生活に深くかかわる食文化から、暮らしの変化の様子を眺めてみましょう。


 162土器から見た暮らしの変化

  土器は、現在の皿や椀などの食器と、鍋や炊飯器などの調理具の役割を持つもので、人々の暮らしに密着したものでした。

  古墳時代前期 (3世紀後半~4世紀) には、穀物を煮て食べていたようですが
  6世紀には甑(蒸し器)が日常的に使われるようになって、穀物を蒸して食べるようになりました。

  5世紀に、登り窯を使って硬い須恵器を作る技術が朝鮮半島から伝わり、島根でも生産が始まります。
        椀や皿以外にも、水や酒などの液体を溜めておく容器が須恵器で作られました。

        低温素焼き土器である土師器で穀物を煮ると、泥が溶け出して、泥ご飯になります。


  山陰の土器
    古墳時代初期には山陰地方の独自性が強い精緻な土器がつくられるようになります。
    素焼きの土器としては極限まで薄い作りとなり、厚さ3㎜以下の土器もあります。(この土器は土師器で、ロクロは不使用らしい)

  古墳時代の始まりと土器
    古墳時代が始まると、それまで地域色があった土器は、近畿地方の土器の影響を受けて全国的に似通ったデザインになっていきます。
    山陰地方でも近畿の影響を受けますが、比較的遅くまで地域色を残しています。

土器から見た暮らしの変化 山陰の土器 古墳時代の始まりと土器 各地の特徴的土器 各地の特徴的土器

 土器生産への影響力と地域色
    影響を与えた地域     近畿中央部、伊勢湾岸地域
    地元色が薄まった地域  九州北部、北陸地域、南関東地域、
    地元色が残った地域   吉備地域、山陰地域、

 各地の特徴的土器
    南関東地域   東海や近畿の影響をうけて地元色が薄くなる
    北陸地域     近畿や山陰の影響を受け、地元色が薄くなる

    伊勢湾岸地域 この地域の土器は東日本に大きな影響を与える
    近畿中央部   この地域の土器は全国に影響を与える

    吉備地域    弥生時代以来の地元色が残る
    山陰地域    弥生時代以来の地元色が残る

    九州北部     近畿や山陰の影響を受け地元色が薄くなる  




 163朝鮮半島との交流
     5世紀になると、朝鮮半島の技術で作られた土器 (韓式系土器) が点々と見られるようになります。
     新技術をたずさえた渡来人が島根にもやってきたようです。

   煮炊きの変化
     6世紀後半頃から山陰地方では、移動式かまどや、土製支脚を鍋の支えとして (炉で) 煮炊きしたりしました。
     全国に広まった造り付けかまどは、島根では山間部で流行しましたが、海岸部ではあまり使われませんでした。

   須恵器の広がり
     5世紀中頃から、「登り窯」という朝鮮半島系の新技術で作られた須恵器が普及します。
     須恵器は盛り付けや貯蔵などに使われました。

   律令時代の到来と土器
     7世紀(飛鳥時代)には、食器の大変革がありました。
     古墳時代に盛行した丸い蓋と椀に替わって、つまみのある蓋と平らな底をもつ椀が登場します。
     これは、大陸から持ち込まれた金属器を真似て作られたものです。


朝鮮半島との交流 朝鮮半島との交流移動式カマド・甕・こしきの使用想像図 煮炊きの変化 移動式かまど・土製支脚と造りつけかまど 須恵器の広がり 律令時代の土器 杯身と杯蓋の変化

 カマドの登場
  ・炉は、旧石器時代から古墳時代前期まで続くが、カマドが、古墳時代中期に現れる。  引用「Wikipedia竪穴住居

  ・移動式かまどは (置きかまど) は朝鮮半島古代伽耶地方で紀元前後くらいに出現した。
   日本へは3~4Cの古墳時代に造りつけカマドと一緒に九州に伝わったのが最初である。引用「群馬県埋蔵文化財調査事業団の講演に行く

  ・4世紀に九州北部のごく一部で使われ初め、6世紀以降に全国に普及していきます。  引用「刑部(おしかべ)遺跡 総社市刑部 - 岡山県


  ・古墳時代中期になると北側や東側の壁にカマドを設ける住居が出現する。カマドは時代が下るごとに発達し、「壁」の外へ向かって張り出して
   いくようになるが、実際には竪穴住居の堀りくぼめた部分が狭まってそのぶんカマドが発達していると考えられている。

  ・このような住居は関東・中部地方以北では平安時代まで続くが、東海地方では一部残しつつも、近畿においては飛鳥時代から掘立柱建物に
   移行していき、鎌倉時代以降は、関東で竪穴状遺構として一部名残をのこすものの全面的に消失する。 引用「Wikipedia竪穴住居





 隠岐国の様子


 164隠岐国の成立
     隠岐は日本海と深くかかわってきた地域です。(原文のままです)
     7世紀には、隠岐の海産物が大和朝廷から重要視されました。これにより、隠岐では横穴墓を作るのにも海産物が採れる海を望む場所が
     選ばれました。

     8世紀になると、税制や地方行政組織と言った社会の仕組みも、海産物の貢納を中心に組み立てられました。
     大和朝廷とのかかわりによって、隠岐の社会も大きく変化したのです。

   律令国家と隠岐
     奈良時代になると隠岐国が置かれ、海部郡を中心に隠岐国全域からワカメ・アワビ・イカ・サザエなどの海産物が
     盛んに都に送られるようになりました。

     その海産物に付けられた木の荷札 (木簡) が、都から数多く見つかっており、隠岐の海産物が都に住む天皇や貴族にとって
     重要な食材だったことがわかります。
       ※隠岐国の歴史は写真欄の下に記述

   隠岐国・郡・郷と木簡に見る海産物
     木簡に書かれた地名や人名を見ると、隠岐の中でも、特に海部郡の海部・阿墨部 (漁民) が中心になって海産物が納められたことがわかります。

   海を望む横穴墓
     古墳時代には、隠岐にも古墳が造られました。 更に、7世紀になると、海を望む崖に多くの横穴墓が造られるようになりました。
     その横穴墓では、農耕具やアワビの貝殻、近畿地方で作られた土器などが見つかっています。

     これらの横穴墓は、海産物を納めることで大和朝廷と結びついた人々が造ったものと考えられます。

隠岐国の成立 隠岐国の成立 近畿地方の土器が出土した遺跡 凡例 近畿地方の土器
律令国家と隠岐
隠岐国・郡・郷と木簡に見る海産物アマ族・アズミ族が重要な位置を占めていたことがわかった。 海産物政権の中枢や皇室の重鎮宅からも出土する
超高級食材だったようだ
平城京における隠岐国木棺の出土場所 海を望む横穴墓 隠岐の横穴墓の分布 来居横穴墓(西ノ島町)7世紀の隠岐の横穴墓は海岸部の平地毎に、海を意識して造られます。

 ※隠岐国の歴史
    隠岐国の設置は7世紀  引用Wikipedia隠岐国

  隠岐諸島の歴史
    後期旧石器時代から石器材料としての黒曜石を採取する場所だった。
    縄文早期・前期(7000年前)の石器製作跡と推定される遺跡が島内各地から出土している。隠岐の黒曜石は能登半島~朝鮮半島まで分布する。

    弥生時代後期から水稲栽培を開始。
    古墳は島内に200基が分布。 隠岐島には四隅突出型墳丘墓もある。

    7世紀に大和政権から、海産物の重要性から隠岐国として分国される。
    8世紀以降、半島や渤海国との交易の中継地として、歴史記録に登場するようになる。 引用Wikipedia隠岐の歴史




 170隠岐国の遺跡 
  173 1-3隠岐で作られた土器
隠岐で作られた土器
6世紀
誤植です。実物は176で掲載しています。
隠岐の土器1坏 2高坏 隠岐の土器3手づくね土器 近畿の土器隠岐の土器は、古墳時代になると独自な形を持つようになる。
高坏も杯も底が深く丸みを帯びているのが特徴です。
近畿の土器4知夫村 高津久1・2号横穴墓
古墳時代 7世紀

 174 6-9隠岐の古墳・横穴墓出土品
      隠岐の横穴墓・古墳は、奈良時代まで使われました。この時代には副葬されることの少ない工具類や玉類が豊富にみられるほか、
      貴重な銅椀・帯金具なども見つかっている。
隠岐の古墳・横穴墓出土品

古墳時代 7世紀
8あわび貝 6のこぎり
7鉄製鋤先
9勾玉・切子玉など

  175 10-11 15隠岐に持ち込まれた金属器
隠岐に持ち込まれた金属器 隠岐の島町大座2号墳
奈良時代 8世紀
15和同開珎 11銅椀 10帯金具

  176 12-14地名土器
 土器の底に尖った道具で隠岐の古い地名が刻み込まれています。
「海」は海部郡・海部郷(海士町)
「三田」は智夫里郡御田郷(西ノ島町)を示します

左:三田 右:海
12線刻土器「海」
海士町今浦5号横穴墓
古墳時代 7世紀
13線刻土器「三田」
西ノ島町兵庫遺跡
奈良時代 8世紀
隠岐の旧地名 都に送られた荷札14荷物木簡
奈良県平城京遺跡
奈良時代 8世紀



     この後、中世などありますが割愛しています。








 200王墓誕生 四隅突出型墳丘墓 ―弥生時代―



       1世紀 (弥生時代後期) になると、山陰地方は他の地域よりも早く青銅の祭りを行わなくなります。
       その後しばらくして、各地の王(首長)を埋葬するための墳丘墓が大型になったことから、王の権力が強くなったと考えられます。

       弥生時代の墓は地域ごとに特色ある形をしています。 山陰地方では四隅が飛び出した「四隅突出型墳丘墓」が造られました。

  四隅突出型墳丘墓への道のり

   四隅突出型墳丘墓は
      弥生時代前期に九州西部で造られた支石墓が起源だと考えられています。
        ↑この考えは一部学者の主張です。古代出雲歴史博物館ではこの少数意見を紹介しています

    ①島根では支石墓の影響を受け、木棺墓の上をひとかかえ程もある石で覆った配石墓が、
     出雲市大社町や松江市加島町などの海岸部で造られるようになります。

    ②弥生時代中期には墳丘の周りに石を貼った方形貼り石墓に発展します。
     この墳墓は、島根だけでなく京都府北部の丹後地方など、日本海の西部地域で広く作られるようになりました。

   ※四隅突出型墳丘墓の起源が、支石墓との主張は、この博物館特有です。他には誰も言ってません。

    ③やがて、方形貼石墓が巨大化し、墓上儀式のための、四隅を参道として利用し、やがて、より昇降しやすくするために突出したものです。
     このために、四隅突出型墳丘墓と呼ばれるようになりました。


  王墓への発展
    島根では、2世紀後半には一辺が50mもある巨大な四隅突出型墳丘墓が造られるようになります。
      ↑西谷3号墓(出雲弥生の森博物館に掲載)
    この時期に造られた墳丘墓では、岡山県の楯築墳丘墓に次いで大きい、国内でも最大級のものです。

    大陸や朝鮮半島から運ばれる鉄や先進的な品々の流通をおさえた各地の王(首長)の権力がピークに達したことを反映しています。

  地域別築造時期の比較
    四隅突出型墳丘墓は山陰地域や中国山地一帯で造られますが、同じ時期に一斉に造られたわけではありません。
    出雲地域では鳥取県や中国山地一帯で四隅突出型墳丘墓が造られなくなった後期後半に大型墳墓が出現します。

  弥生時代後期~終末期の有力者の墓
    弥生時代後期後半~終末期(2世紀~3世紀初め)には、日本各地で全長が30~80mに及ぶ大型の墳墓が造られています。
    地域ごとに形の異なる墳墓を作っていますが、島根や北陸の一部では四隅突出型墳丘墓がみられます。



  201解説パネル
王墓誕生-四隅突出型墳丘墓 弥生の王墓 四隅突出型墳丘墓
への道のり
中野美保遺跡1号墓
平野中央部に造られた小型墳墓
王墓への発展 宮山4号墓安来市
弥生後期末に造られた四隅突出型墳丘墓
「よすみ」築造の
地域・時期・形状弥生中期広島県三次市から始まった
地域別築造時期の比較 弥生時代後期~終末期の有力者の墓 弥生後期~終末期の王墓各地に様々な形状が発生したことがわかる

  210お墓の祭りに用いたもの 鼓形器台・壺・石杵・注口土器・低脚杯がセット
お墓の祭りに用いたもの 墓前で飲食を伴う祭りをしたようです。
 この時期の出雲の墳丘墓ではしばしば出土する土器セットです。
1~3弥生時代3世紀
4~5弥生時代2世紀
1鼓形器台
山陰特有の器台
1鼓形器台 2壺 4注口土器
5低脚杯(山陰特有)
お墓に副葬された玉類松江市沢下6号墓
弥生時代3世紀
弥生時代中期のお墓の遺物
弥生時代紀元前1世紀当時、鉄や銅等の金属は、大陸から輸入された貴重品でした。
波来浜遺跡の貼石墓には、金属製の鏃などが副葬されていました。
6方形貼石墓供献土器 7銅製と鉄製の鏃 お墓に副葬された玉類
8翡翠製勾玉と碧玉製管玉
大型壺
祭りで使われた土器
1北部九州系壺
2中部瀬戸内系壺
3山陰系土器
出雲市青木遺跡
弥生時代2世紀
4大型壺弥生3世紀


  213ジオラマ
出雲平野の四隅突出型墳丘墓の分布 西谷3号墓の模型※1 西谷3号墳 突出部分(参道) 埋葬施設 追葬がなされている。※2 四隅突出墓の
形成過程※3
四隅突出型墳丘墓
誕生直前の墓
四隅突出型墳丘墓
誕生直前の墓※4方形貼り石
墓弥生時代
紀元前1世紀
最初に発掘された
「よすみ」※5弥生時代1世紀
邑南町順庵原1号墓

1968-69年に発掘。

当初地方色と考えられたが、後に山陰各地で多数発見され、
「四隅突出型墳丘墓」と名づけられた。

 ※1西谷3号墓は、
     平成22年開館の「出雲弥生の森博物館」の西谷3号墓の1/10模型です。
     今から1800年前に亡くなった出雲王のために、地元の人たちが、吉備や、北陸からの参列者を迎えて葬儀の準備をしている場面を
     想像力豊かに再現したものです。また、博物館のすぐ隣の西谷墳墓群史跡公園では、復元された3号墓を見ることができます。

 ※2「よすみ」の埋葬思想は、
     方形墳丘墓が発展したため、一族の墓地として、次々と追葬がなされ、合計8体ほどの墓壙があったそうです。
     つまり、大王一人の墓で、殉死を伴う埋葬としての前方後円墳とは違う埋葬思想です。

 ※3四隅突出墓の形成過程
     写真左下の「四隅突出墓への道のり」の写真図で、四隅のない方形貼り石墓と、四隅が少し出た隅石がある写真で説明される。
     最初は踏み石程度が、やがて、参道として成長していった。そこからでしか、墳丘に上がれなかったから便宜的に突出したのです。

 ※4「四隅突出型墳丘墓」誕生直前の墓
      方形貼り石墓です。弥生時代の中頃には日本海沿岸で、西は益田市から東は京都府丹後半島まで造られました。
      まだ、四隅が突出せず長方形の墳丘墓であることが共通しています。

 ※5最初に発掘された四隅突出型墳丘墓
      1968-1969年にかけて発掘されたもので、発掘当時は地方色豊かな「古墳」と考えられていました。
      後に同じような墳墓が山陰各地で発見されたことから、「四隅突出型墳丘墓」の第1号の発見例として著名になった墳丘墓です。

 







 230神秘の輝き 古代出雲の玉作り -古墳時代-
    今も昔も、人はアクセサリーで身体を飾ります。
    古代には勾玉などの玉類が盛んに作られ、装飾品としてだけでなく、その神秘的な輝きから祭祀具や権威の象徴として扱われています。

    出雲は「玉」を弥生時代から盛んに生産しており、奈良時代の文献にも、全国で唯一、記されています。
    特に、古墳時代後期からは全国最大規模の生産地となりました。

  出雲の玉作り遺跡
    出雲の玉作り遺跡は、現在のところ約100遺跡がしられ、弥生時代から平安時代にかけて盛んに玉作りがおこなわれたことがわかっています。

    今も「メノウ細工」が行われている松江市玉湯町には、玉の原材料となる良質な碧玉、メノウ、水晶を産出する花仙山(標高199m) があります。
    その周辺には50箇所以上の玉作り遺跡が集中し、まさに出雲の玉作りの中心地でした。

  玉作りの始まり -弥生時代-
    出雲では弥生時代前期に玉作りが始まりました。西川津遺跡 (松江市) は日本最古の玉作り遺跡の1つです。
    ここでは、緑色凝灰岩を材料として、石に溝を入れ、打ち割って管玉を生産していました。

    弥生時代中期の布田遺跡(松江市)でも、同じ石材・技法による玉作りが確認されているので、弥生時代の前~中期をとおして
    緑色凝灰岩を材料として管玉が造られていたことがわかります。

  玉作りの変化
    弥生時代後期になると、石材や製品、制作技術に変化が現れます。 平所遺跡(松江市)の玉作工房跡からは、緑色凝灰岩製の管玉と共に、
    碧玉の管玉や、水晶製の丸玉や算盤玉の未成品が大量に出土しました。

    これ等は原石を打ち欠く新しい技術で製作されています。この技術や石材は古墳時代へ受け継がれました。
    また、様々な鉄製の工具も見つかっており、鉄器の普及が大きな意味を持っていたようです。

  墓に副葬される玉
    弥生時代の玉は権力者の墓に副葬されました。 出雲でも弥生時代前~中期の墳墓から、多数の玉類が見つかっています。
    弥生時代後期の王墓である西谷3号墓 (出雲市) からも、碧玉製の管玉が多量に出土しましたが、花仙山産ではないようです。

    花仙山の碧玉が本格的に使われ始めるのは、次の時代になってからです。


  231解説パネル
神秘の輝き 古代出雲の玉作り 古墳時代 出雲の玉作り 出雲の玉作り遺跡 玉作り遺跡の分布 玉作りの始まり 北陸地方の管玉作り
玉作りの変化 墓に副葬される玉 弥生時代の玉作り遺跡と玉が副葬された墓 隠岐島地域
大城遺跡墳丘墓
四隅突出型墳丘墓
出雲-松江地域
弥生時代の玉作り遺跡と玉が副葬された墓石見地域 出雲の管玉作り 半島の加工技術では
一本づつ切り離してから穿孔するようです。
台湾先住民の管玉造りは、現代の鉛筆作り同様
溝を入れ穿孔し、
何本も連なったまま完成に近づけ、最後に切断し磨きます。

  232復元工房
玉作りの様子を復元安来市大原遺跡
古墳時代5世紀
一辺8mの玉造工房の復元模型です。
工房跡からは
碧玉・メノウの石屑が100kg以上も出土した。 玉を磨いたり、穿孔したりしていたと考えられます。



  233弥生時代最古の玉作り 製作工程
弥生時代最古の玉作り 玉未成品と工具松江市西川津遺跡
紀元前3世紀
他地域の玉造 玉未成品と工具福井県下屋敷遺跡
弥生時代1世紀
石鋸 石ドリル 管玉の首飾り
半分に割れた管玉 弥生時代後期の玉作り松江市平所遺跡
弥生時代3世紀
玉の未成品と工具 弥生時代の玉類
4・5管玉 6勾玉
弥生時代
紀元前3世紀-紀元3世紀

 弥生時代後期の玉作り  松江市平所遺跡は、弥生時代最古の玉造遺跡の一つです。

    緑色凝灰岩の原石に、石製工具で溝を入れ、打ち割って小型の管玉を作っていました。
    後期に入ると、平所遺跡工房跡の出土品のように、碧玉製管玉や水晶製の玉製の玉も作るようになりました。




  235古墳時代前期~中期の玉作り
   236 1-3
古墳時代前期の玉作り
4世紀

1勾玉・管玉・ガラス玉

3・2勾玉・管玉・ガラス玉
古墳時代前期・中期の
玉作り

5古墳時代前期の勾玉
4世紀 
 6古墳時代中期の
  勾玉・管玉・ガラス玉
  5世紀

   237 7-10玉の原石4
玉の原石古墳時代5世紀
7ヒスイ富山県宮崎海岸 
8メノウ松江市大角山遺跡

9碧玉 松江市福富1遺跡
古墳時代5世紀

10滑石 松江市福富1遺跡
古墳時代5世紀



  238 11-13古墳時代中期の玉作り
         この時期になると、平野の各地で玉作りが行われるようになり、 
         当時の工房跡からは、花仙山産の碧玉・メノウ・水晶や滑石製の玉の未成品が多数出土します。

古墳時代中期の玉作り遺物 玉の未成品と工具碧玉・メノウ・水晶や滑石製の玉 玉髄
砥石と玉未成品 古墳時代中期の玉類
15子持ち勾玉・臼玉
古墳時代5セ鋤
滑石製




  240古墳時代後期の玉作り
   241 1
古墳時代後期の玉作り
6-7世紀
1玉の未成品と砥石古墳時代後期6-7世紀 古墳時代後期の玉類
6-7世紀
2・3・4勾玉・管玉など

4勾玉・管玉

3勾玉・管玉

2勾玉・管玉



 242 5太刀の柄飾り 三輪玉

  奈良-平安時代の玉作り※2
    この頃には玉の集中体制が整ったようで、多くの工房跡が花仙山周辺に見つかっています。

    水晶製の玉・大型の管玉が多くなり、勾玉は形が「コ」の字状に変化しました。
    奈良時代になると、穴のない碁石状の玉類が作られました。

太刀の柄飾り
古墳時代 7世紀
5三輪玉
5三輪玉
 古墳時代7世紀
奈良-平安時代の玉作り
※26・7碁石状の玉の未成品と砥石
※2 6・7碁石状玉の未成品 6碁石状玉の未成品と砥石

 三輪玉とは
    古墳時代に大刀(たち)に綴じつけた装飾品。
    上面に大小3個のふくらみが並び,下面は平らに作る。中央に丸玉を置き左右に半截玉をそえた形と説明することもできるが,
    その中心線は一方に偏し,かつ湾曲している。

    長さは3~5cmをふつうとし,金銅製品は上面のみの形を中空に作り,碧玉および水晶製品は充実して孔がない。
    着装には両端にある2ヵ所のくびれに糸をかけて綴じつけるものである。

    三輪玉という名称は,その形とは無関係に,奈良県三輪山から出土した例があるという理由で,明治期の考古学者が用いた仮称にすぎない。
                                                      転載コトバンク三輪玉

   243 7
玉を磨いた筋砥石松江市出雲国府跡
奈良時代8世紀
玉の原石 花仙山の碧玉古墳時代の玉材料 緑色凝灰岩の原石弥生時代の玉材料 筋砥石は石の表面の筋から命名した   緑色凝灰岩は主に弥生時代、
 碧玉は主に古墳時代に
 玉の原料として利用されました。

  筋砥石は玉磨き用の砥石と考えられており、
 石の表面にいくつもの筋があることから
 その名が付きました。





 247出雲の玉作りの独自性

  古墳時代前期になると、
     出雲の玉作りに花仙山産の碧玉・メノウ・水晶が本格的に使われ、独特な形の勾玉や管玉が造られます。
     一方、全国の主な古墳では、玉類の他に、腕輪の形をした石製品が副葬されるようになります。

     出雲でも、石製品の製作にかかわっていたようですが、その製作の中心は北陸地方でした。

     独特な形をした出雲の玉は、近畿地方を中心に、各地の首長たちの古墳に副葬されました。

  玉作りの拡大と独占 ―古墳時代中・後期―
    古墳時代中期になると、
      出雲では玉作り遺跡の数が急激に増えていきます。
      その分布は出雲全域に拡大し、地域毎に使われる石材や制作技術が異なるようになります。

    古墳時代後期になると、
      副葬品として金銅製品が用いられるようになり、玉類は首長の古墳から消えていきます。
      これと同時に全国の玉生産は衰えていきますが、出雲だけは例外で、玉生産の最盛期を迎えるのです。


  文献に見られる玉作り―奈良・平安時代―

    奈良時代以降になると、
      もはや出雲でしか玉作りは行われません。
      この時期の玉作りでは、勾玉・管玉に代わって、水晶や碧玉でできた碁石状の玉が主流になります。

      古代における玉の使われ方は不明な点も多いのですが、古代の文献には出雲の玉に関する記述が登場します。
      そこでは、特にヤマト朝廷での祭儀に用いる玉とされており、その重要性をうかがうことができます。


  各地へ運ばれた出雲の玉
      地元の花仙山の碧玉を使っていることが、出雲の玉作りの大きな特色です。
      近年、石材の理化学的分析によって、出土した玉類の原産地の特定がなされています。

      また、作りかけの玉の石材や、製作技術、組成など、考古学的な視点から出雲産の玉類を見分けることも行われています。
      このような研究によって、出雲の玉類が流通したルートや供給先が解明される日も遠くはないでしょう。

  花仙山産の玉の分布
      石材の分析により、花仙山の碧玉で作られた玉類は、全国の古墳に副葬されたことが明らかになりつつあります。
      また、玉の材料として、各地の玉作り工房にも運ばれています。
 
出雲の玉作りの独自性 出雲玉作りの独自性どこと比べて独自だと言っているのでしょうか 古墳時代前期の玉作り遺跡 玉作りの拡大と独占 古墳時代中・後期の
玉作り遺跡
文献に見られる玉作り
奈良・平安時代の
玉作り遺跡
玉が副葬された古墳 古墳時代の玉工房跡安来市大原遺跡 古墳時代の出雲の玉作 各地に運ばれた出雲の玉 各地へ運ばれた出雲の玉
 





 260鉄の炎 島根のたたら

   たたらとは、日本独自に発達した伝統的な鉄作りの技術です。土で築いた炉の中で、木炭を燃やして砂鉄を溶かし、鉄を作ります。
   たたらの技術は1400年以上前から発達を始め、明治時代にかけて最も盛んになりました。

   この頃、島根のたたらで作られた鉄の量が、全国で作られた鉄の半分以上を占めたこともあります。なぜ島根ではたたらが盛んだったのでしょうか。


 中国地方の砂鉄分布と地形
   中国山地には風化花崗岩地帯が広がっていて、砂鉄が多くとれます。
   たたらでは、山陰地方に主に分布する真砂 (まさ) 砂鉄のほか、赤目 (あこめ) 砂鉄も使われました。

      ※真砂砂鉄は黒雲母花崗岩を母岩とし、鉄含有率1~2%  赤目砂鉄は閃緑岩を母岩とし鉄含有率6~9%

   砂鉄には、山を削った土を水で流す、鉄穴 (かんな) 流しによる山砂鉄、斐伊川や高津川などの川沿いで採る川砂鉄
   海岸部で採る浜砂鉄がありました。

     ※鉄穴流しは、風化花崗岩の多い山中にダムを造り水を溜め、
      山の中で少しずつ土砂と共に水路(木樋)に流し込み流路に従って自然分離させる、(山砂鉄)

      これを一気に崩して大洪水を起こさせ、川に流れ込み比重差で川の中州に堆積した砂鉄を集める方法や、(川砂鉄)
      海まで流れて行ってしまった砂鉄を海岸で黒い縞模様を集める(浜砂鉄)。

      これは、昭和30年代まで行われていました。子どもの頃、テレビで流されていました。


   鉄穴流しが盛んに行われたために地形がすっかり変わった地域もあります。
   また、鉄作りをしていた地域は山地が多く、たたらで使う木炭が得られる森林も豊富でした。

 弥生時代の鉄作り
   弥生時代には、鉄素材を熱して加工し、簡単な鉄製品を作る鍛冶を行っていますが、まだ、鉄を作る技術は持っていませんでした。
   今から2500年前頃の弥生時代前期には、朝鮮半島から九州北部へ鉄製品が持ち込まれました。

   島根でも1800年前頃の弥生時代終わり頃に鍛冶が行われていたことが、柳Ⅱ遺跡 (安来市)・上野Ⅱ遺跡 (松江市)・平田遺跡 (雲南市)等
   各地の遺蹟の調査で明らかになっています。

 古墳時代から平安時代の鉄作り
   島根では、羽森Ⅱ遺跡 (雲南市)・今佐屋山Ⅰ遺跡 (邑南町) で6世紀後半の製鉄炉が見つかっており、全国的にも最古級のものです。
   作られた鉄は、豪族の大刀や農業や漁業の道具になりました。

   また、奈良時代に編纂された「出雲国風土記-仁多郡」の記述には、「鉄があり、様々な道具を作るのに便利」とあり、
   現在の奥出雲町一帯が、鉄作りの盛んな地域として知られていたことがわかります。
 
 鎌倉時代から戦国時代の鉄作り
   鎌倉時代以降、島根の各地で鉄作りが盛んになった。この時代、炉や地下構造が大きくなってより多くの鉄を作ることができました。
   この鉄は不純物が多く、道具に直接加工できなかったため、品質を整える製錬鍛冶炉が登場します。

   この炉は江戸時代の大鍛冶炉と同じ役割を持つため、この頃から鉄作りの作業が細かく分かれたと考えられます。
   鉄で作られた日本刀は、日本の主な輸出品の1つとなりました。

 江戸時代の鉄作り
   江戸時代、天秤ふいごの登場によって「高殿たたら」が成立し、島根は全国でも主要な鉄の生産地となりました。
   1回のたたら操業を3日間で行う「3日押し」では、真砂砂鉄を原料にして(けら)が、4日間で行う「四日押し」では赤目砂鉄原料にして
   が作られました。

   は鋼・歩鉧・銑に分けられ、鋼はそのまま道具に加工されます。
   歩鉧と銑は大火事場で品質を整える作業が行われたのち、鋼や包丁鉄に変えられ、いろいろな道具の材料になりました。

 出雲・石見の鉄づくりの特色
   松江藩では、鉄作りを行う鉄師を9人に限定したり、たたらや鍛冶場から税金を取ったり、鉄師を厳しく統制しました。
   その一方、炭を作る山(鉄山てつざん)の独占を許すなど手厚く保護し、たたらを主要な産業に育てたのです。

   鉄師は大規模にたたらを経営しました。たたらの建物や働く人々の家がある地域は山内(さんない)と呼ばれました。
   浜田藩・津和野藩や幕府領の各地でも、同じく山内での鉄作りが行われましたが、小規模な鉄師も数多くみられました。

 製鉄技術の交流
   江戸時代から明治時代、中国地方はたたらの最先端技術を持っていました。松江藩には加賀国(石川県)から、
   鉄作りを学ぶために役人を派遣したいとの文書も届いています。

   石見地方の人々は、萩藩(山口県)でたたらの経営者や技術者となったり、遠く、九州や東北へ技術者として出かけて行ったりしました。
   萩藩のたたらへ井野村(浜田市)から砂鉄が運ばれたり、日本海を行き買う舟で大坂や北陸地方へ売られていくなど、物流も活発でした。

  261解説パネル
鉄の炎 島根のたたら 島根のたたら 中国地方の砂鉄分布と地形 日本列島の砂鉄分布 弥生時代の鉄作り 古墳時代から平安時代の鉄作り
鉄製品の素材
鍛冶工房跡
古墳時代の製鉄炉跡
奈良時代の鍛冶工房
鎌倉時代から戦国時代の鉄作り 製錬鍛冶炉跡 古墳~室町時代の鉄作り遺跡の分布 高殿たたらで鉄ができるまで
江戸時代の鉄作り
出雲・石見の鉄づくりの特色

鉄師の分布と鉄の輸送経路
製鉄技術の交流 江戸時代の鉄づくり遺跡の分布 山内(鉄作工房)のイメージ 高殿たたらで鉄ができるまで(大型図表)

  270鉄生産の進化
原始的な鉄器の生産※1松江市上野Ⅱ遺跡
弥生時代2~3世紀

1鉄素材 2鏃未成品
3斧未成品 4鉄裁断片
5たがね 6敲石 7砥石
本格的な鉄生産の始まり
※2出雲市 古志本郷遺跡
古墳時代 4世紀

1ふいご羽口
2椀形鍛冶滓
『風土記』所載の鉄器生産
※3雲南市鉄穴内遺跡
奈良時代8世紀

1ふいごの羽口
2椀形鍛冶滓 3鉄素材
4鉄鋏かなはし 5たがね
6砥石 7巡方 8鍬・鋤先
9U字形鉄製品

 ※1原始的な鉄器の生産
     鉄器の生産が始まったのは、弥生時代のことです。

     朝鮮半島の鉄素材を炉で加熱し、鏨(たがね)で切って製品の形を作り、それを砥石で磨き仕上げました。
     鉄を半溶融状態にできないため、鉄素材の切り屑である裁断片が再利用されずに残るのが特徴です。

 ※2本格的な鉄生産の始まり
     古墳時代になると、ふいごを使う鍛冶炉が登場し、高温で整形した鉄製品が作られます。
     ふいごには、羽口(送風管)が付けられ、炉内には鍛冶滓が生じます。
     古志本郷遺跡の羽口は、4世紀代のもので、日本列島の中でも、早い段階でこの技術が伝わったことがわかります。


  273製鉄遺物
中世の鉄生産中世製鉄炉想像図 製鉄炉炉壁雲南市 大志戸Ⅱ遺跡
室町時代16世紀
中世の鉄生産※1 製錬鍛冶羽口飯南町板屋Ⅲ遺跡
平安時代12世紀
近世のたたら製鉄※2
1羽口 2銑鉄 3蝋燭立て
4割鉄

 ※1中世の鉄生産
     平安時代終わり頃には、島根県や広島県西部で、製鉄炉の大型化が進み、鉄の量産化が進められました。
     また、鉄の成分調整をする製錬鍛冶炉が登場するなど、鉄生産の体制も整えられました。
     近世たたら製鉄は、中世の製鉄技術を基にして発展したものです。

 ※2近世のたたら製鉄
     たたら製鉄は、わが国独自に発展した砂鉄製錬法です。
     江戸時代には、山を切り崩す鉄流し (かんなながし) により砂鉄の大量採取が可能となりました。
     高殿(製鉄場)では銑(ずく)・鋼はがね・鉧けらが生産され、銑と鉧は大鍛冶場で割鉄(鉄の延べ板)に仕上げられました。


  274製鉄炉
古代の製鉄炉邑南町 今佐屋山遺跡 古墳時代6世紀 中世の製鉄炉邑南町 タタラ山第1遺跡 室町時代14~15世紀 近世・近代の製鉄炉江津市 価谷鈩跡 天秤ふいご明治時代19世紀
天秤ふいごの
実物大復元品

  以下に (5)尼子氏と益田氏と石見銀山(平安~安土桃山時代)
         ・尼子・益田・銀山
         ・荘園と開発の時代
         ・中世都市の成立と往来
      (6)金製のしまねブランド戦略(江戸時代)
         ・各地の領主と市場港
      (7)日本の面影 しまね(明治~)

  などがありますが、全て割愛しています。