疑問 ・琵琶湖湖西岸地域には、膨大な数の古墳が存在し、裕福で強権を持った渡来人とその集落がありました。彼らは短期間にいかに蓄財し権力 を得たのか。 ・大土地所有者でもないのに古墳造りの人員をどう集めたのか。 ・そして、彼らの円墳は半島の王陵そのものなのではなかったのか。 |
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200渡来した人々の足跡 -ミニチュアカマドの展示- 大津市錦織から坂本までの地域では、古墳時代後期 (6c-7c) に渡来人や渡来文化の痕跡が色濃く残されています。 これは、発掘調査によって当時の日本列島では一般的でない、渡来系の特徴のある遺構や遺物が見つかっていることからもわかります。 また、古代の文献記録をひも解くと、近江に居住していた氏族の3割近くが渡来系の出自であったとされています。 地域展示では、これらの遺物や遺構に焦点を当て、大津に渡来した人々の足跡をたどりたいと思います。 特に大津市内の古墳から沢山見つかっているミニチュア炊飯具形土器や、カンザシなどの副葬品と、集落跡から多数検出されている 大壁建物に焦点を当てて紹介します。 |
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201タイトル |
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210近江の首長墓と渡来文化 大津市の湖西南部地域に於いて、渡来人の活動が活発になるよりも前段階の古墳時代中期の頃、倭国の中央政権だけでなく、 近江の首長たちも東アジアと活発に交流をしていました。 近江の首長墳には、この時期に新たに日本列島に広がった騎馬文化や、朝鮮半島との交流がわかる品々が副葬品として納められています。 その中から、 古墳時代中期、5世紀中頃の騎馬文化の広がりを示す馬具が出土した新開1号墳、 古墳時代後期、6世紀前半頃の渡来人の活動が活発になった頃の伽耶系の金銅製冠等きらびやかな副葬品が出土した鴨稲荷山古墳を紹介 します。 |
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211新開1号墳 滋賀県栗東市安養寺 円墳 古墳時代中期 湖東地方 組合式木棺(木棺直葬) 墳径35.0m 遺跡ウォーカー |
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212新開1号墳は、 直径35mの円墳で頂上に南北2つの埋葬施設が造られ、 棺内からは多数の武器、甲冑、馬具などの副葬品が出土しました。 5世紀中頃の古墳です。北側の埋葬室(北棺)は、鏡、櫛、玉類などの装身具、鉄刀、鉄剣、鉄製刀子が副葬されていました。 南側は少し大きく、棺内には多数の武器と甲冑が納められていました。また、南棺の外からは、鉄製と青銅製の馬具が出土しています。 この馬具は、朝鮮半島で作られたものです。 重要文化財 馬具 南棺の外側に納められていた副葬品です。馬具一式がほぼそろって出土しました。 鞍、轡、鐙、帯金具、飾りの三環鈴、馬鐸 などです。 轡は、鉄地に金銅の透かし彫りで、一対の龍が絵が描かれています。 この馬具は、列島に騎馬文化がやってきた初期段階にあたるもので、朝鮮半島で作られたものです。 |
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遺跡ウォーカーによる鴨稲荷山古墳の膨大な記述 鴨稲荷山古墳 6世紀前半 古墳時代後期 湖西地方 滋賀県高島市高島町鴨 前方後円墳 周濠あり 総長約60メートル墳長45m、 後円径約24m・高5m以上、前方幅約24m・長約20m、葺石なし、墳丘半壊。墳丘の資料はいずれも地割から推定 埴輪(円筒埴輪V式)、(石棺内部)倭製内行花文鏡1+水晶製切子玉28+玉髄製切子玉14+コハク製棗玉12+金製耳環および垂下飾1対 +金銅製冠1+金銅製沓1足+金銅製雙魚形佩飾2+銀製金具1+金銅製三輪玉形飾具7+金銅製半円形小飾具6+金銅製半筒形飾具 および雑金具5+鹿角装大刀2+金銅装双龍環頭大刀1+ 鹿角装短刀1+短刀1+鉄製石突2+斧2+鹿角製柄刀子8、 (石棺外石室)金銅製鞍飾具1具分+鉄製輪鐙1+銅鈴3+鉄地金銅張飾板付鉄製轡1+鉄地金銅張杏葉6+鉄地金銅張雲珠6+鉄製小環 およびカコ4+須恵器(器台2+壺2+有蓋台付壺1+高杯1+ハソウ1+蓋杯1)。 歴博報56、内行花文鏡(銘文なし、完形15.6cm、 1902年発見、1922年発掘、京大文学部考古学研究室蔵)、伴出、金製耳飾+切子玉+棗玉+金銅製冠+金銅製双魚佩+金銅製半筒形 +鹿角装刀子+鉄斧+刀+短刀+鉄石突+金銅製鞍+鐙+轡+杏葉+雲珠+銅鈴+須恵器(器舌+壺+有蓋舌付壺+高杯)。 212鴨稲荷山古墳は、 L40mの前方後円墳とみられる6世紀前半の古墳です。後円部の横穴式石室の中には家形石棺が納められていました。 石棺は、外側に、弁柄、内側に朱が塗られ、石棺内からは、金銅製冠、飾履、金製垂飾付耳飾などの装身具、水晶や瑪瑙製玉類、 双鳳環頭大刀をはじめとする武具など、豊富な副葬品が見つかりました。 また、棺外にも馬具や須恵器が副葬されています。 金銅製冠や履(くつ)は朝鮮半島伽耶のものと考えられており、高度な金工品の技術によって作られていました。 金銅製冠 ゆるやかな山形をした2枚の金銅板をつないで、中央には蝶形の金具を取り付けています。 点を打ち込むことで、表面全体に亀甲文様を表し、縁近くは波形の文様が施されています。 楕円形や魚の形をした飾りは、歩くと揺れ動くように付けられています。この高度な制作技術や系譜は、朝鮮半島から伝わったものです。 金銅製飾履 被葬者に履かせる履で、サイズは28pですが、履の裏側にも飾りがあり、履いて歩くものではなく、副葬品として作られたものでしょう。 全体の文様や揺れ動く飾りは、冠と同じつくりで、冠と同じく、朝鮮半島のもので、5世紀から6世紀の副葬品として20例あまり確認されている。 金製垂飾付耳飾 金製の輪に飾りを垂れ下げている耳飾りです。5世紀以降、リング状の金属製の耳飾(金環・銀環)が朝鮮半島から伝わり、 一般的な装身具として広く普及していきます。 古墳被葬者の耳の位置から多く出土しますが、金銅製のものは出土例が少なく、朝鮮半島からの移入品とみられます。 鴨稲荷山古墳の耳飾りは、ガラス玉をつけ、先端には2連の四翼形飾りを付けています。 金銅製双鳳環頭大刀 は、 今回展示なしでした。発掘品は東京国立博物館が持ち去ったようです。他の複製品は安土城考古博物館にあり。重要なので調べました。 ・重要で珍しい点は「双鳳」 二つの鳳の頭が向き合う造形。普通は単頭です。鳳は玉を咥える。龍は舌を出す。口を閉じた龍や鳳もあるようです。 双鳳環頭大刀の写真 リンク1 リンク2 山田2号墳の単鳳環頭大刀 (篠山市の水井氏による) ・水井氏によると、「単竜・単鳳環頭大刀は中・四国に多く分布し、双竜・双鳳環頭大刀は山陰地方に多く分布している」ということでした。 また、中・四国に配られていた単竜・単鳳環頭大刀が、後に、山陰地方に双竜・双鳳環頭大刀が配られるようになったのが6世紀初めとあるので、 ・ヤマト政権は5世紀末までに中・四国を平定し、次に、ヤマトと山陰への通路に当たる要所にこれらを配って帰属させたようです。 山陰地方に当たる高島市の豪族である三尾 (みお) 氏もまた、これにしたがっていたようです。 ・つまり、山陰地方には、より価値の高いものを配って帰属させました。それほど山陰は半島と密接で近く重要で、中・四国は北九州に抑えられて いたから。
金銅製履・飾履は、日本各地から出ている。 藤ノ木古墳、下芝谷津遺跡(高崎市)、熊本県江田船山古墳、群馬県保渡田古墳群、一須賀古墳群(大阪河内)や国立扶余博物館 など 直弧文大刀 このほかに、直弧文が描かれた飾り大刀が出土している。それが近くの安曇川にかかる「天皇橋」の高欄にはめ込まれているという。 引用国内最古の大壁建物が出土した天神畑遺跡 近辺にあり。 |
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考察1 鴨稲荷山古墳の被葬者は、 @6世紀前半 古墳時代後期 付近に盤踞した三尾氏の族長の墓とされる 盤踞=ばんきょ(居座る/根を張る=外来者の意味?) 副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることがわかった 膨大で、絢爛豪華な副葬品は、新羅王と関係する、渡来人の里であろう。(本町歴史クラブ) また、近隣の天神畑遺跡の大壁建物は渡来人の祭祀遺跡であると考えられる。(Don Pancho) 白髭神社は全国にあり、高島市の白髭神社がその本社とされているが朝鮮半島から渡来した人たちが建てた神社が多い。 近江(滋賀県)は朝鮮半島から多くの渡来人が定住した地であり、白髭神社は元来渡来神を祀った神社だった(日本の旅) 三尾氏は、 滋賀県北部から福井県嶺南に分散して集落を営み、居住した渡来人で、大土地所有の豪族でないので、古墳渡来人かもしれません。 三尾氏と三国氏『福井県史』 二つの三尾氏 5世紀のヤマト政権と三尾氏 三尾氏が古代史上注目されるのは、継体天皇に二人の后妃 (越前・近江の各集落から) を出している唯一の豪族だからです A半島の王族と同じ副葬品を有することができるほどの財力と権力をもち、なおかつ入手することができる、被葬者三尾氏は渡来人であった。 ・すると、彼らも兵力を半島から率いてやってきて、都と若狭を結ぶ幹線道路の一部を土地収奪して占拠し、通行税でも取っていたのだろうか。 それとも、半島=百済・新羅との交易で莫大な富をほしいままにしたのだろうか。はたまた、初めから超裕福な王族だったのだろうか。 要するに、渡来人たちは、どのようにして列島に来て土地をぶんどり、あれほどの富を蓄え、優雅な暮らしができたのか、である。 ・しかし、Wikipedia鴨稲荷山古墳被葬者では、 被葬者(推定)三尾君首長、または、豪華すぎる副葬品から、第26代継体天皇の皇子かも。 ともある。 ・また、当地で生まれたとされる継体天皇(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに[2]、 出土した副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳である[1]。ともいっている。 すなわち、被葬者は、朝鮮半島出身の超権力・超財力者。そういうことでありましょう。 |
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考察2 継体天皇26とは、(在位507-531) 謎に包まれた大王で、これまでとは大きくかけ離れた血縁の出自であったことは間違いない。 継体天皇は、父・彦主人王が、福井県三国の振媛を妃とし、滋賀県高島市三尾に住み、間もなく死去。妃は生まれた子を連れ福井県高向に帰った。 50年を高向で過ごし、58歳で即位(507)したとある。 引用継体大王と越の国・福井県 (継体大王の生い立ち) @それまでの大王は、各豪族から血縁関係なく出されていたが、直前までの雄略天皇※は仁徳王統であったが断絶。(理由) ※雄略天皇 (458?-479?)は自分の地位を狙いそうな全ての係累を殺して後継ぎを残さず、後継者をも指名せず、大王の後継に空白を作った。 また、粛清を恐れて名前を変え、地方に隠れ住んでいた息子たちは、豪族に暗殺された。後に立った大王もかなり無縁な人々だった。 従って、王統も、臣下も大混乱をきたし、28年近くの長い間、事実上権力の混乱状態だった。 ※雄略天皇は妻の実家である吉備氏・葛城氏を滅亡させた。これによりできた権力の隙間に、大伴氏※・東漢氏・物部氏※が台頭してきた。 中央集権制を築いた大王で、自分の係累を全て粛清。後継指名をせず没した。 死後、残った子供も大伴氏や東漢氏らの豪族に暗殺され皇位継承争いが勃発した。 ※物部氏は、縄文渡来人。神武東征以前に河内に上陸し、後発の神武勢力と共にヤマト政権の樹立に尽くした古株の豪族。引用物部氏考 ※大伴氏は高句麗系渡来人 。神武東征に伴って九州からやってきた。ヤマト政権樹立に戦った古い豪族。 引用大伴氏考 ※東漢氏は応神期の古墳渡来人。五世紀初頭に楽浪郡から渡来した。新興豪族。政権のテクノクラートだった。 ※ここがポイント 雄略天皇によって、旧勢力は一掃され、テクノクラートも新メンバーが台頭して、旧勢力と無関係で、自分たちの意のままになる大王が望 まれた。 そこで、渡来人の里から応神大王の五世(の孫)だとして、選ばれたが、皇室に入るのに19年もかかる。つまり反対勢力が亡くなってから入れた。 しかし、これ以降の皇室は、継体王統の血縁主義となった。つまり、超強大な権力を入手した天皇だった。 百済系の曽我氏は、継体天皇の身内系豪族で、皇位につくとともに台頭を始め、仏教伝来問題で地位を固め絶大な権力を手にした。 A出自がわからない。記紀は後から都合良く神話化しながら作られたものなので、応神大王の第5世の孫というが実のところはわからない。 この時代にあって、五代も下り、しかもその孫 とは、七代も下るではないか。ホントにありかな? 参考 継体天皇の正体 謎多き継体天皇と新興豪族蘇我氏: 日本史探求 継体天皇出自考 継体大王はどこから来たのか 継体大王と越の国・福井県 (継体大王の生い立ち) 謎の大王族 継体天皇 「実在と系譜が確実な最初の天皇」継体天皇はなぜ天皇になれたのか 王朝交替説 - Wikipedia Bいずれにしてもこの時代の人々は半島に強い関わりを持ち、おそらく言葉も話せる人々が多く、半島に近親の係累もある人々だったでしょう。 半島に出兵したとしても里帰りのようなもの。自分たちが逃げて来た所を取り返すため、程度の感覚だったに違いない。 つまり、この時代、誰しもが渡来人。天皇も、豪族も庶民もみんなみんな渡来人だった。 そして、ここで、弥生系渡来人の大王(仁徳王統)から、古墳系渡来人の大王(継体王統)に替わったということのようです。 |
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以下、展示より 220古墳の中の渡来文化 |
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221大津の古墳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
225渡来人とは 原始から古代にかけて列島に移住した人々のことです。 渡来人はそれぞれの祖国の文化や技術をもたらし、列島の歴史文化に大きな影響を与えました。 大津市坂本から錦織では、これまでの発掘調査で,渡来系の特徴を持った古墳や建物跡などが多数見つかっています。 少なくとも6世紀以降 古墳時代後期のこの地域には、大勢の渡来人が棲んでいたようです。 考察 ※友人に嵯峨山、恩師に土師(はぜ)、後輩に畑、遠い親戚に秦、父の友人に和仁、近所に小間さん、錦織を含めて、もっと沢山。地名にも巨摩 現代に続く、古代の渡来系名門の名字や集落地域の名前だったんですね。はじめて知りました。(嵯峨山=半島の地名。国内は因んで付けたもの) ※大津京の遷都 (7世紀後半) 飛鳥時代後半 (白鳳時代) 転載大津京 663年の白村江の戦いの後,667年3月中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都します。そして翌年1月に天智天皇として即位しました。 遷都の理由は諸説あります。白村江の戦いで敗戦しているため唐・新羅連合軍に攻め込まれたときのため。 飛鳥の有力豪族との関係。 琵琶湖西岸には大友皇子が養育された大友郷があり6世紀後半頃から大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいた。などです。 天智天皇は天皇中心の中央集権国家を目指しましたが,遷都5年でこの世を去り,この後に起こった壬申の乱によって都は再び飛鳥に戻されました。 ※つまり、この時まで、琵琶湖西岸の湖西地域の渡来人は、天皇の出自と絶大な関わりのある、ホームグラウンドであったようです。 考察終わり ミニチュア炊飯具形土器 は渡来系遺物で、古墳時代後期 (6c-7c) の古墳に副葬されています。 大津市坂本の錦織の古墳群で特に出土例が多く、他にも大阪を中心に近畿圏で見つかっている土器です。 煮炊き用土器のカマド、カマ、コシキ、ナベ、の4点セットを組み合わせたもので、カマドに釜と甑を載せ、カマドの前にナベを添えて副葬した。 その作りや形は様々で、古墳毎に違っています。※その都度作ったのでしょう。 |
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考察 弥生時代には、 商品作物コメを栽培するために広大な農地を獲得し、多数の農奴を抱える権力者が発生し、やがて大型墳丘墓を築造しました。琵琶湖湖東地域です。 米は朝鮮人商人によって交易され、宝物・贅沢品・武器・鉄製品と交換され、権力者の蓄財・戦争の扇動・引き金・農業生産力の向上、に つながりました。 が、農奴が潤うことも生活が楽になることもありませんでした。 これが貨幣経済と違うところです。 貨幣経済であれば、それはやがて売買というシステムを生み、下層民にも利益を回さなければ商売が成り立ちません。 宝物との交易は、置いておくだけ、見せびらかすだけの、非生産的なものでした。骨董品集めと同じです。だから石室に副葬して処分されたのかも しれません。 3世紀半ばの西暦250年頃まで邪馬台国の時代でした。248年頃卑弥呼死亡。 3世紀半ばここまでを弥生時代。それ以後7世紀末までを古墳時代という。 邪馬台国の時代にヤマト政権が確立したということは邪馬台国=ヤマト政権? 卑弥呼の持衰 ※卑弥呼が殺されたのは持衰(じさい)だったというはなし。 248年、皆既日食が起こり、太陽が欠けながら沈んでいった。この不吉を解消するため、祈祷師卑弥呼が持衰した。 249年、皆既日食が起こり、欠けた太陽が満ちながら登って来たので、吉兆として、壱与を祈祷師女王として国を立て直した。といわれる。 |
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考察 古墳時代の大和政権と渡来人 古墳時代前期、西暦250〜350年 (3世紀中期〜4世紀中期) 、の間にヤマト政権が全国を掌握し、大和朝廷が成立しました。 大和朝廷は、大王(おおきみ・・・のちの天皇)を中心とした豪族の連合政権から始まった。 古墳時代中期、5〜6世紀に、氏・姓にもとづく政治→氏姓制度という支配体制を確立した。 氏姓制度は、 古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて 朝廷より氏(ウヂ=血族グループの名) と、姓(カバネ=朝廷内での地位を現す称号) の名を授与され、その特権的地位を世襲した制度。 古墳時代後期、6〜7世紀。 5世紀半ば頃から渡来人の遺跡が多く見受けられるようになり、以後、後期にかけて古墳渡来人の活動が非常に活発になる。 |
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考察 渡来人のまとめ
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展示より 226大津の渡来人遺跡 |
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227太鼓塚3号墳 大通寺43号墳 小型土師器 太鼓塚3号墳 大津市 古墳時代後期 ミニチュア炊飯具形土器と共に出土した小型高杯5点と小型脚付壷8点で須恵器を真似て作ったようです。 大阪府一須加古墳群では須恵器小型脚付壷が出土しています。 大津市内では小型土器が副葬される例はなく、ミニチュア炊飯具と共に埋葬儀礼に使われたと考えられます。 ミニチュア炊飯具形土器 太鼓塚3号墳 大津市 古墳時代後期 古墳では小型の土師器とカマド、カマ、コシキ、ナベが玄室入口近くの壁に沿って置かれていた。カマド高さ10.2cm裾の直径11.7cmで特に小型の ものです。 |
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228大通寺3号墳 6世紀中葉 土師器組合式装飾付器台 大通寺43号墳 大津市 古墳時代後期 円筒形の台座の上に、ドーナツ状の円盤を乗せ、さらに円盤の上には小型壷などを乗せている組合式器台です。 小型壷と円盤の穴の周囲には接着されていた痕跡が残っています。このような土師器の器台は他に類例がなく、 副葬品としての特殊な土器であったと考えられます。また、43号からはミニチュアカマドの破片も出土しています。 土師器カマド・カマ・コシキ 大通寺3号墳 大津市 古墳時代後期 移動式カマド、釜、甑の3点セットです。6世紀初め頃の古墳の石室の中に、死者のための副葬品として納められていました。 大津市域の他の古墳からもカマドなどの炊飯具形土器が出土しますが、それらはミニチュアサイズに作られています。 しかし、大通寺3号・5号墳にはほぼ実用的な大きさのカマドが納められていました。 大通寺3号墳の玄室は長さ4.1m幅5.1mの横長の長方形をしており、中には4棺埋葬されていました。 玄室内には、多数の須恵器や馬具なども副葬されていました。 |
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229大通寺37号墳 釧は、 古代の腕飾りで、古墳時代後期の古墳にられる銅や銀製品は、渡来人の装身具でした。 大津市大谷遺跡からは、外側に細かい刻みを付けたものや、金銅製かんざしも出土しました。 大津市内からは、 外側に刻み目のついた銅製釧で、 大阪や奈良からは、薄い板状の銀製品を丸めて作った銀の釧や指輪が、刻みをつけて出土。 馬具 剣菱形杏葉 大通寺37号墳 大津市 古墳時代後期 大津市内の渡来系古墳群は、ミニチュア炊飯具形土器や、釵子かんざしや釧などのアクセサリーを副葬する一方で、 馬具や武具などの武人を連想させる遺物はありません。その中で、37号墳殻は馬具の装飾品の一つである剣菱形杏葉がみつかりました。 鉄地に金銅張りを施すものでした。大通寺3号墳でも同様の杏葉を含む馬具が出土しています。 鉄鏃・鉄製刀子・鉄製鍬先 大通寺38号墳 大津市 古墳時代後期 大通寺38号墳では床面の敷石に作りつけられた組合式石棺がありました。 副葬品として、石棺の横から鉄鏃が、内から鉄製刀子が出土しており、土器などと共に、U字形の鉄製鋤先も見つかっています。 鉄製の武器や農耕具が納められ、棺も特殊であることから、他の古墳とは異なる立場の被葬者の姿が考えられます。 |
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250河内の古墳 |
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251平尾山古墳群 大阪府柏原市 古墳時代後期 大阪府と奈良県の境にあたる生駒山地の南端、柏原市の東山一帯に広がる8つの群集墳 (平野・大県支群、太平寺支群、安堂支群、高井田支群、 雁多尾畑支群 (かりんどばた)、本堂支群、青谷支群)の総称で、東西4km南北3kmの範囲に約1400基の古墳が築かれています。 この中で、平野・大県支群10-1号墳、20-3号墳の2基では、ミニチュア炊飯具形土器が出土しています。 また、平尾山古墳群内では、釵子と見られる金銅製品や銀製品の出土例が比較的多く、約12例が確認されています。 ミニチュア炊飯具形土器 平野・大県10-1号墳 大阪府柏原市 古墳時代後期 古墳からはミニチュア炊飯具や金銅製釵子、銀製指輪など渡来系遺物がまとまって出土しています。 玄室内の奥壁側に、須恵器の子持ち器台と杯蓋、短頸壷、ミニチュア炊飯具が置かれていました。 カマドは、カマと一体になって作られているもので、高さは9.8cmと小型です。 両側の把手は外れている物もありますが、カマド、コシキ、ナベのそれぞれについていました。 また、小ぶりの甕と平底の鉢もセットになっています。 |
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252一須賀古墳群 大阪府南河内郡河南町・太子町 6世紀前半から7世紀前半までの約100年間に造営された大阪平野の南東部に広がる大規模な古墳群で、1.5km四方に約260基が築かれて います。その副葬品には、渡来系の遺物が多く、金銅製冠や飾履、金製垂飾付耳飾などの装身具、単龍環頭大刀、韓式系の土器などが出土した 古墳もあります。 ミニチュア炊飯具形土器を副葬する古墳は、20基以上みられ、古墳ごとに炊飯具の形や大きさは違っています。釵子も4基の古墳から出土して います。この他にも、副葬のため特殊な土器がみられます。 ミニチュア炊飯具形土器 一須賀古墳群 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期 古墳群では20基以上から出土しています。ミニチュア炊飯具を納める古墳は、その他の副葬品の猟が豊富なものが多く、 古墳群の中でも中心的な古墳から出土しているのではないかとも考えられています。 各古墳に納められたカマドは個体差が大きいため、カマド作りの企画は特になく、同じ風習を持つ人々がそれぞれで作っていたと思われます。 また、119号墳では渡来系のアクセサリーである銀製釵子、WA11号墳では、韓式系土器も出土しており、 ミニチュア炊飯具と共に複数の渡来敬意物が確認できます。 装飾付短頸壺 一須賀16号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期 古墳群からは副葬品として、沢山の須恵器や土師器が出土していますが、通常あまりみられない特徴的な形のものがいくつか含まれています。 16号墳出土の単頸壷は両側に短い把手の装飾が付いています。また、これの蓋には、2つの耳のような形のつまみが付いており、 珍しい形の須恵器です。 韓式系土器 一須賀古墳群 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期 韓式系土器は、三国時代の朝鮮半島南部の土器と製作技法が同じで、表面に叩き板の痕跡が残る赤褐色の軟質の土器です。 通常は集落跡などから出土し、古墳の副葬品としての例は珍しいものです。 WA11号墳からは土器の表面に平行も洋画みられる平底の鉢が、WA21号墳と27号墳からは表面に縄目模様がつく甕が見つかっています。 土師器装飾付器台 一須賀古墳群 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期 韓式系土器は、三国時代の朝鮮半島南部の土器と製作技法が同じで、表面に叩き板の痕跡が残る赤褐色の軟質の土器です。 通常は集落跡などから出土し、古墳の副葬品としての例は珍しいものです。 WA11号墳からは土器の表面に平行も洋画みられる平底の鉢が、WA21号墳と27号墳からは表面に縄目模様がつく甕が見つかっています。 平底長首壺 一須賀B12号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期 一須賀古墳群からは副葬品として、沢山の数奇や土師器が出土していますが、通常あまり見られない特徴的な形のものがいくつか含まれています。 土師器の壷は、丸みのある体部に短い口縁部が、まっすぐか外側へ反りながら付けられたものが多いですが、 B12号墳では、平底で長い頸がつく壷が2点出土しています。 須恵器 脚付小型壺 一須賀I18号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期 古墳群群からは副葬品として、沢山の須恵器や土師器が出土していますが、通常あまりみられない特徴的な形のものがいくつか含まれています。 I18号墳からは、須恵器の脚付小型壷が1点出土しました。この形は、大津市・太鼓塚3号墳から出土した土師器の脚付小型壷ともよく似ています。 装飾付短頚壺 一須賀16号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期 古墳群群からは副葬品として、沢山の須恵器や土師器が出土していますが、通常あまりみられない特徴的な形のものがいくつか含まれています。 16号墳出土の短頸壷は両側に短い把手の装飾が付いています。また、これの蓋には、2つの耳のような形のつまみが付いており、珍しい形の 須恵器です。 |
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260大和の古墳 |
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261稲荷西2号墳 桜井公園2号墳 奈良県桜井市大字谷 5世紀末〜6世紀初頭 桜井市安倍山丘陵上に作られた古墳の一つです。5世紀末〜6世紀初頭に築かれた横穴式石室で、ミニチュア炊飯具形土器と銀製釵子を 副葬品として納めている古墳の中では、初期段階の例とし注目できます。 炊飯具は、コシキとナベのみが確認されています。また、須恵器にも台の付いた小型の壷が見られます。 装身具として、銀製の釵子は長19.5cmと大きく、コの字形をしているものです。これらの副葬品は桜井市の指定文化財となっています。 |
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262風呂坊古墳群 桜井公園2号墳 奈良県桜井市大字安部 6世紀中頃〜6世紀末 古墳群は安倍山丘陵南端付近にあり、6世紀中頃から末にかけて造営されました。周辺には古墳時代後期から終末期の古墳が沢山分布しています。 近年に調査された風呂坊4号墳から、ミニチュアカマドが出土しており、5号墳からは外側に刻み目がつけられた銀製釧や指輪が出土しています。 また、金銅製の小型の釵子と見られるピンセット状の金銅製品が出土しています。 1〜3号墳の調査時には、どの石室に納められたかは不明ですが、脚部を空洞につくった釵子とみられる金銅製品が出土しています。 |
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264オイダ山古墳 古墳時代後期 釵子 (かんざし) 渡来人のアクセサリー 副葬品の、釵子とみられる銀製品や金銅製品は、中国や朝鮮半島にその源流があり、渡来系のアクセサリーと考えられています。 このうちコの字形をした双脚の釵子は、近江、大和、河内で、ほぼ同じ形のものが確認できます。 平成27年度の大津市・穴太野添古墳群の調査で出土した釵子は、全体はコの字形をして、脚は棒状に作られ、頭部は平坦な菱形をしています。 ほぼ同じ形状のものが一須賀I19号墳の銀製釵子です。また、平野・大県17-1号墳や稲荷西2号墳からも大きさの異なる同系のものが確認 できます。 これらは、日本列島内での渡来人のつながりを考える上で重要な資料です。 また、金銅製釵子にもコの字のものがあり、銀製とほぼ同じ形状のものと、脚部分が中空に作られている物が見られます。 風呂坊古墳群出土例のように、かなり大型で先端も太く、実際に髪飾りとしての使用は考えにくい例もあります。 |
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266太鼓塚26号墳出土遺物 大津市 古墳時代後期 形状は直径8mの円墳で、玄室は長さ2.9m幅2.85mとほぼ正方形をしていました。玄室全体と羨道にかけての床面には石が敷かれています。 発掘調査の時点で、横穴石室はすでに半分以上が壊されており、天井部分は不明です。石室の玄室奥壁側から沢山の土器が出土しました。 須恵器は様々な種類の器があり、奥壁に沿って器台、はそう、提瓶、短脚高杯、長脚高杯、杯身、杯蓋、壷、甕などが置かれていました。 今回は出土状況を元に須恵器の置かれていた場所を再現しています。また、玄関中央からは、ミニチュア炊飯具形土器が出土しています。 |
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280集落の中の渡来文化 -大壁建物- -韓式土器- -オンドル遺構- |
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281穴太遺跡 滋賀県大津市穴不太一・二丁目ほか古墳時代後期 縄文〜平安の遺構や遺物が見つかっています。 特に古墳時代の大壁建物が多数検出されており、朝鮮半島由来の床暖房施設オンドル遺構も見つかっています。 ミニチュア炊飯具を副葬する渡来系古墳群が沢山作られた同時期に、渡来系の人々の集落が広がっていいました。 大壁建物とは、 溝を方形に巡らした中に細い柱材を立て並べ、これを壁の中に塗りこめて壁を建てるという構造の建物です。 韓国の遺蹟でも類例が見られ、渡来人と関わる建物と考えられています。 大壁建物1に関連する出土遺物 穴太遺跡 滋賀県大津市 7世紀前半 棟持柱近くの床面から、須恵器杯身1、滑石製紡錘車1、入口付近の溝から木製斎串2、貼り床粘土内から木簡状の板1が出土しました。 これは建物の建築に伴う地鎮祭の道具であったと考えられます。 これは、大津市内南滋賀遺跡や滋賀里遺跡などの大壁建物でも同じです。 大壁建物とは、 方形の溝の中に細い柱材を竪並べ、これを内側に塗りこめて土壁を立ち上げ、屋根を壁で受けるという構造の、古墳時代の建物です。 朝鮮半島でも多数見つかっており、渡来人の技術によるものと考えられています。 住居か、何かの施設であったのかはわかっていません。大津市内の例では、溝内の柱に使われた木材までがよく残っています。 建替えの行われた大壁建物 穴太遺跡の調査では、3棟の大壁建物の溝が重なって見つかり、7世紀前半頃の短い期間に建替えが行なわれていました。 最初の大壁建物1は、平面規模8.6×7.2m程で南北の溝の中央で棟持柱も確認され、南東側の溝中央から張り出した部分は入り口でした。 次に、南に6.5メートル程ずらして立替えられた建物2は、周溝内の柱材が良好な状態で残っており、30〜60cm間隔で直径10〜15cm程の細材を 立て並べていた様子が分かりました。溝の外側でも柱列が見つかっており、建物を囲う柵であったと考えられています。 更に位置をずらして大壁建物3が建てられています。 韓式系土器 甑(こしき) 南市東遺跡 滋賀県高島市 古墳時代中期 この甑は、湖西北部の高島市の南市東遺跡という集跡落遺跡から出土の5世紀中頃の土器です。 三国時代の朝鮮半島南部地域で作られた土器によく似た特徴があり、韓式系土器と呼ばれています。 滋賀県内では、湖西北部の高島市や湖東地域を中心に5世紀代の遺跡から韓式系軟質土器が出土しており、 5世紀には渡来人が近江の各地にいたことが分かります。しかし、大津市内では韓式土器は確認されていません。 大津市域に渡来人が住み始めるのは、6世紀以降のようです。 鳥足文土器 大壁建物やオンドル状遺構など、朝鮮半島に由来する建物跡が沢山検出されている大津市域ですが、韓式系土器はほとんど見つかっていません。 その中で、中畑田遺跡や太鼓塚遺跡からは、鳥足文の叩き目がみられる、朝鮮半島系の土器片が見つかっています。今後更に発見があるかも。 穴太遺跡のオンドル オンドルは床下に作ったトンネル内に火を焚いて煙を通し、建物全体を暖める暖房施設です。中国東北部や朝鮮半島で用いられます。 遺跡では、石を組んで作り、支脚石を据え付けたカマドに長い煙道を持っています。内部は火を受けた様子も見られ、半島の出土例と一致します。 気候の違いから列島には定着しなかったようで、オンドル遺構はまさしく渡来人の文化といえます。 オンドルに関する出土遺物 穴太遺跡 滋賀県大津市 7世紀前半 須恵器の杯身は、オンドル焚口の中に埋まった状態で出土しました。ほぼ完形のものです。 土師器の長胴甕は、光景25.5cm高さ48.2cmでオンドルの煙道の脇に横倒しで出土しました。オンドル造りの盛り土に意図的に埋められたもの です。
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291大和出土 下茶屋カマ田遺跡/奈良 5世紀 この地域には数多くの渡来人の大集落があった。引用5そこは葛城氏の支配地だった ※葛城氏は、在地系豪族といわれていますが弥生渡来人です。その実態については未取材で不明です。奈良・大阪の関連博物館を参照して下さい。 かまどの煙突?筒型土製品 円筒形やハの字形に裾が広がる形をしていて、内側に煤が付いているものも見られます。 使用法がはっきりしない土製品でしたが、カマドと共に出土する例も確認され、煙突として使用されたものと考えられています。 住居の中の作り付けカマドは渡来文化の一つですが、古墳時代には国内にも定着していきます。 一方で、カマドの煙を外に出すために、筒型土製品を用いて煙突とすることは、あまり広まらず、 渡来系の人々の生活様式のままであったようです。※ ※意味不明なフレーズですが、 後から来た、裕福古墳渡来人=貴人の住居建物では、屋根を燻さず、新しい住居様式で、オンドルなどを用いて煙突で煙を外に排出したが、 先住の弥生渡来人は竪穴住居に住み、茅葺屋根を守るために住居内に煙を充満させて燻す方法を続け、煙突は使わず、広まらなかった。と、 そういう意味ではないでしょうか。 筒型土製品 下茶屋カマ田遺跡 奈良県御所市 古墳時代後期 古墳時代の巨大集落である奈良県・南郷遺跡群内では渡来系の遺構・遺物も多数確認されています。 その中の下茶屋カマ田遺跡では、2つの筒型土製品が出土しました。円筒形のものを、底が広がる形のものに重ねて使用したと考えられています。 6世紀中頃の須恵器の大甕と共に土坑に納められた状態で出土しました。 ※大甕と2本の煙突だけが穴を掘って埋められていた。なぜ?
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292大津出土 筒型土製品 坂本里坊遺跡 滋賀県大津市 古墳時代後期 6世紀前半 煙突の可能性のある筒型土製品は、大津市内から4例ほど確認されています。 坂本里坊遺跡の出土例は、古墳時代の遺物を含む遺構面から出土したものです。 上から下側に向かってハの字に広がる形で、上部には突帯が めぐっています。 下茶屋カマ田遺跡の出土例のように、筒と組み合わせるためのものと見られます。 把手は三方向についています。 筒型土製品 穴太遺跡南川原地区 滋賀県大津市 7世紀中頃 古墳時代末 煙突の可能性のある筒型土製品は大津市内から4例ほど確認されている。 穴太遺跡の南川原地区の出土例は、7世紀中頃の小溝内から出土したものです。 これは、内側に煤が付いていることも確認できました。 上に突帯がついており、他の筒型土製品と組み合わせて使用していたものと考えられます。 ※ここで盛んに"突帯"と言われていますが、これは、鍔(つば) と言います。 帽子のつばと同じです。表現がおかしいと思います。
結論 大津の筒型土製品は、6世紀前半の高さ40cm余りの円筒土製品で、たいへん小さく、大和や出雲のものとは程遠い感があります。 大津のものは、論文にある、扶余の寺院のものに似ていると思います。 つまり、大津のものは煙筒で、大和・出雲のものとは別のものかもしれません。 |
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295山陰型甑形土器2c後半-4cは、弥生時代後期から古墳時代初頭の一時期だけ山陰の各地を中心に出現した、用途不明の土器です。 山陰型甑形土器の解説 転載引用「なぞの弥生土器・大型甑形土器」広島県教育事業団埋蔵文化財調査室広島考古学講座第6回 山田繁樹著 論文の削除を恐れて抜粋して転載します。 1.大型甑形土器とは 弥生時代後期から古墳時代初頭の集落遺跡から出土しますが、古墳時代中期の竪穴住居跡から出土する甑と同様に、 底がなく把手が外面に付いている形が似ていることから、そう呼ばれている素焼き土器です。 2..分布状況 75%が島根・鳥取から出土しています。 中四国では山口・徳島・香川・高知を除く。 九州では福岡で出土。 北陸では石川県。近畿では三重・和歌山を除く。から出土。 3.用途 @広口部を上にして使用する。(不安定) 甑としての使用には対応する土器が出ていない。 A広口部を下にして使用する。(安定) 燻製を作る。火力の調整。麻を蒸す。蒸留酒を造る。 B儀式に使用する。 集落内の限られた住居跡から出土。 破砕して埋納する例もあり、仮器として祭祀に使用か。 まとめ 使用用途不明。 |
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296百済土製煙筒試論 引用転載百済土製煙筒試論 金圭東著 杉井健訳 論文は削除されますので抜粋して紹介します。 論文要旨で (高句麗で発達した温突(オンドル)を)、
論文は韓国 扶余の陵寺やその近辺の施設 出土の煙筒 (煙突) の復元と分類を主としている。
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考察 円筒状土製品のまとめ 山陰型甑形土器は、
大和の筒型土製品は、
大津の円筒土製品は、古墳時代後期 、これは、内部に煤が着いていますので煙突でしょう。論文にあったものと瓜二つです。 最後に一言、
付録 これはオンドルの煙突と考えられています。 @普通は石造りの堅牢なものです。 A土器の内側に煤が付いていません。 Bカマドの煙突は激しい火熱を受けるため、消耗が激しくたちまち熱で壊れこのような再生は不可能。 煙突と考える理由 @大津から出土したものの内一つだけの内側に煤が付いていた。 Aオンドルの遺構が多く見つかっている。オンドルの遺構発掘状況 Bかまど(クドゥ)の使用が始まっているので、かまどの煙突かもしれません。 山陰型甑に関する文献 「謎の弥生土器・大型甑形土器」(山陰型甑形土器の研究) 山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた(愛媛県に分布) 山陰型甑形土器 - 兵庫県立考古博物館(兵庫県内の分布) 煙突説に関する文献 百済土製煙筒試論 - 熊本大学学術リポジトリ (扶余のオンドルの煙突に関する論文の翻訳 (リンクは削除されます) |
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300三井寺 |
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301三井寺 |
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303タマムシ 三井寺の坂道で、玉虫をみつけました。ただ、車に轢かれていたので持ち帰りました。以前、奈良で玉虫厨子についてるのを見ました。 本物は初めてです。 それより、玉虫は日本ではほぼ絶滅状態であると思っていました。 車に轢かれるほどいるなんて思っても見ないことです。 |