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  西日本の縄文  38-1    2016.09.02

 大津市歴史博物館2  賀県大津市御陵町2-2  077-521-2100  月曜休館 撮影禁止


 発掘された日本列島2016
  地域展 "渡来した人々の足跡"-大津の古墳群と集落跡-

趣旨 文化庁主催 ゛発掘された日本列島2016゛ に合わせて行われた "地域展"です。

見所 ・琵琶湖・河内・大和地域の渡来人の独特な副葬品・ミニチュアカマドに着目したものです。

   ・特に、併設展示された"煙突"は、出雲特有とされる山陰型甑、と言われる謎の土製品
    です。大津では煙突、出雲では甑、と呼ばれることがわかり、調べてみました。
鴨稲荷山古墳出土の飾履
滋賀県高島町歴史民俗資料館所蔵

      ・同様の発見は、古代出雲歴博にて展示中の、縄文時代の双耳壺は、三重県津市から同形のものが出土しており、
       これもまた、私にとっての資料の新発見でした。

 考察 渡来人の各時代における活動のまとめと、弥生渡来人を滅ぼして大和政権を掌握した古墳渡来人の活動をまとめた。

 感想 ・加茂稲荷山古墳出土の死装束としての黄金の瓔珞をつけた冠と、黄金の沓が、展示され、撮影できました。
     ・煙突とされた山陰型甑の発見も私にとって意味がありました。

 交通 JR大津京駅下車、京阪電車乗り換え「別所」下車徒歩5分 三井寺の隣

 残念 常設展(撮影禁止)には、大型の神子柴型尖頭器がいくつも並んでいました。他ではあまり見ることのない貴重な展示
      でした。

 
ポスター

渡来した人々の足跡

 疑問 ・琵琶湖湖西岸地域には、膨大な数の古墳が存在し、裕福で強権を持った渡来人とその集落がありました。彼らは短期間にいかに蓄財し権力
       を得たのか。
      ・大土地所有者でもないのに古墳造りの人員をどう集めたのか。
      ・そして、彼らの円墳は半島の王陵そのものなのではなかったのか。



 
200渡来した人々の足跡
201タイトル

210近江の首長墓と渡来文化
211新開1号墳
212新開1号墳
 最古級の馬具
 新開1号墳の被葬者

212鴨稲荷山古墳
  金銅製冠
  金銅製履・飾履

  直弧文大刀

 考察
  鴨稲荷山古墳の被葬者は
  継体天皇とは

220古墳の中の渡来文化
221大津の古墳
225渡来人とは
  ミニチュア炊飯具
  渡来人の痕跡

考察
 弥生時代には
 卑弥呼の持衰

 古墳時代の大和政権と渡来人
 古墳前期 連合政権 
 古墳中期 氏姓制度
 古墳後期 渡来人激増

 渡来人のまとめ
 渡来人の渡来時期と活動
 縄文渡来人
 弥生渡来人
 古墳渡来人
 ヤマト政権の樹立
 大和政権と渡来人
 秦氏と漢氏
 先進文化の担い手
 8世紀以降

 縄文渡来人は
 弥生渡来人は
 古墳渡来人は

 古墳・墳丘墓建設と渡来人
 弥生時代の墓制
 弥生墳丘墓
 墓制の統一

 古墳の移り変わり
 穴太衆の起源

226大津の渡来人遺跡

ミニチュア炊飯具
227太鼓塚3号墳
228大通寺3号墳

馬具・釧・鉄製品
229大通寺37号墳

250河内の古墳

ミニチュア炊飯具 
251平尾山古墳群

韓式土器
252一須賀古墳群

260大和の古墳

ミニチュア炊飯具
261稲荷西2号墳
262風呂坊古墳群

釵子 (かんざし)
264オイダ山古墳
266太鼓塚26号墳出土遺物


280集落の中の渡来文化
281穴太遺跡
  大壁建物
  オンドル遺構


謎の筒形土製品
290かまどの煙突?
291大和出土
  大和の筒形土製品は
292大津出土
  大津の筒形土製品は

295山陰型甑形土器
296百済土製煙筒試論

円筒状土製品のまとめ


300三井寺
301三井寺
303タマムシ

 200渡来した人々の足跡 -ミニチュアカマドの展示-

     大津市錦織から坂本までの地域では、古墳時代後期 (6c-7c) に渡来人や渡来文化の痕跡が色濃く残されています。
    これは、発掘調査によって当時の日本列島では一般的でない、渡来系の特徴のある遺構や遺物が見つかっていることからもわかります。

    また、古代の文献記録をひも解くと、近江に居住していた氏族の3割近くが渡来系の出自であったとされています。
    地域展示では、これらの遺物や遺構に焦点を当て、大津に渡来した人々の足跡をたどりたいと思います。

     特に大津市内の古墳から沢山見つかっているミニチュア炊飯具形土器や、カンザシなどの副葬品と、集落跡から多数検出されている
    大壁建物に焦点を当てて紹介します。

  201タイトル
大津に渡来した人々の足跡


 210近江の首長墓と渡来文化
  大津市の湖西南部地域に於いて、渡来人の活動が活発になるよりも前段階の古墳時代中期の頃、倭国の中央政権だけでなく
  近江の首長たちも東アジアと活発に交流をしていました

  近江の首長墳には、この時期に新たに日本列島に広がった騎馬文化や、朝鮮半島との交流がわかる品々が副葬品として納められています。

  その中から、
  古墳時代中期、5世紀中頃の騎馬文化の広がりを示す馬具が出土した新開1号墳
  古墳時代後期、6世紀前半頃の渡来人の活動が活発になった頃の伽耶系の金銅製冠等きらびやかな副葬品が出土した鴨稲荷山古墳を紹介
  します。



  211新開1号墳 滋賀県栗東市安養寺 円墳 古墳時代中期 湖東地方 組合式木棺(木棺直葬) 墳径35.0m  遺跡ウォーカー
全景 近江の首長墓と
渡来文化



 212新開1号墳は、
   直径35mの円墳で頂上に南北2つの埋葬施設が造られ、  棺内からは多数の武器、甲冑、馬具などの副葬品が出土しました。
   5世紀中頃の古墳です。北側の埋葬室(北棺)は、鏡、櫛、玉類などの装身具、鉄刀、鉄剣、鉄製刀子が副葬されていました。

   南側は少し大きく、棺内には多数の武器と甲冑が納められていました。また、南棺の外からは、鉄製と青銅製の馬具が出土しています。
   この馬具は、朝鮮半島で作られたものです。

 重要文化財 馬具 南棺の外側に納められていた副葬品です。馬具一式がほぼそろって出土しました。 鞍、轡、鐙、帯金具、飾りの三環鈴、馬鐸
   などです。
   轡は、鉄地に金銅の透かし彫りで、一対の龍が絵が描かれています。

   この馬具は、列島に騎馬文化がやってきた初期段階にあたるもので、朝鮮半島で作られたものです。

馬具等 新開1号墳 副葬品出土の様子 新開1号墳出土品 重要文化財 馬具
金銅製帯金具・鉄製辻金具・青銅製馬鐸
鉄地金銅透彫鏡板付轡 鉄製鞍 前輪 鉄製辻金具・青銅製馬鐸 鉄製鞍 前輪・金銅製帯金具 鉄製鞍 後輪・金銅製帯金具 青銅製三環鈴
馬具を装着した馬
馬具の装着復元

 新開1号墳の被葬者
   5世紀中頃、古墳時代中期渡来人の活動が活発になる以前の、琵琶湖東岸の首長 (弥生渡来人) の円墳です。
   湖東の肥沃で広大な農地を抱え、コメ交易でコメを売ったり、土地収奪の戦争などで莫大な富を築いた者だったのでしょう。




  遺跡ウォーカーによる鴨稲荷山古墳の膨大な記述

 鴨稲荷山古墳
   6世紀前半 古墳時代後期 湖西地方 滋賀県高島市高島町鴨 前方後円墳 周濠あり 総長約60メートル墳長45m、
   後円径約24m・高5m以上、前方幅約24m・長約20m、葺石なし、墳丘半壊。墳丘の資料はいずれも地割から推定

   埴輪(円筒埴輪V式)、(石棺内部)倭製内行花文鏡1+水晶製切子玉28+玉髄製切子玉14+コハク製棗玉12+金製耳環および垂下飾1対
   +金銅製冠1+金銅製沓1足+金銅製雙魚形佩飾2+銀製金具1+金銅製三輪玉形飾具7+金銅製半円形小飾具6+金銅製半筒形飾具
   および雑金具5+鹿角装大刀2+金銅装双龍環頭大刀1+ 鹿角装短刀1+短刀1+鉄製石突2+斧2+鹿角製柄刀子8、
   (石棺外石室)金銅製鞍飾具1具分+鉄製輪鐙1+銅鈴3+鉄地金銅張飾板付鉄製轡1+鉄地金銅張杏葉6+鉄地金銅張雲珠6+鉄製小環
   およびカコ4+須恵器(器台2+壺2+有蓋台付壺1+高杯1+ハソウ1+蓋杯1)。 歴博報56、内行花文鏡(銘文なし、完形15.6cm、
   1902年発見、1922年発掘、京大文学部考古学研究室蔵)、伴出、金製耳飾+切子玉+棗玉+金銅製冠+金銅製双魚佩+金銅製半筒形
   +鹿角装刀子+鉄斧+刀+短刀+鉄石突+金銅製鞍+鐙+轡+杏葉+雲珠+銅鈴+須恵器(器舌+壺+有蓋舌付壺+高杯)。



 212鴨稲荷山古墳は、
   L40mの前方後円墳とみられる6世紀前半の古墳です。後円部の横穴式石室の中には家形石棺が納められていました。
   石棺は、外側に、弁柄、内側に朱が塗られ、石棺内からは、金銅製冠、飾履、金製垂飾付耳飾などの装身具、水晶や瑪瑙製玉類

  双鳳環頭大刀をはじめとする武具など、豊富な副葬品が見つかりました。 また、棺外にも馬具や須恵器が副葬されています。
   金銅製冠や履(くつ)は朝鮮半島伽耶のものと考えられており、高度な金工品の技術によって作られていました。

  金銅製冠  ゆるやかな山形をした2枚の金銅板をつないで、中央には蝶形の金具を取り付けています。
   点を打ち込むことで、表面全体に亀甲文様を表し、縁近くは波形の文様が施されています。

   楕円形や魚の形をした飾りは、歩くと揺れ動くように付けられています。この高度な制作技術や系譜は、朝鮮半島から伝わったものです。

  金銅製飾履
   被葬者に履かせる履で、サイズは28pですが、履の裏側にも飾りがあり、履いて歩くものではなく、副葬品として作られたものでしょう。
   全体の文様や揺れ動く飾りは、冠と同じつくりで、冠と同じく、朝鮮半島のもので、5世紀から6世紀の副葬品として20例あまり確認されている。

  金製垂飾付耳飾
   金製の輪に飾りを垂れ下げている耳飾りです。5世紀以降、リング状の金属製の耳飾(金環・銀環)が朝鮮半島から伝わり、
   一般的な装身具として広く普及していきます。

   古墳被葬者の耳の位置から多く出土しますが、金銅製のものは出土例が少なく、朝鮮半島からの移入品とみられます。
   鴨稲荷山古墳の耳飾りは、ガラス玉をつけ、先端には2連の四翼形飾りを付けています。


  金銅製双鳳環頭大刀 は、
   今回展示なしでした。発掘品は東京国立博物館が持ち去ったようです。他の複製品は安土城考古博物館にあり。重要なので調べました。

   ・重要で珍しい点は「双鳳」 二つの鳳の頭が向き合う造形。普通は単頭です。鳳は玉を咥える。龍は舌を出す。口を閉じた龍やもあるようです。

    双鳳環頭大刀の写真  リンク1 リンク2  山田2号墳の単鳳環頭大刀 (篠山市の水井氏による)

   ・水井氏によると、「単竜・単鳳環頭大刀は中・四国に多く分布し、双竜・双鳳環頭大刀は山陰地方に多く分布している」ということでした。
    また、中・四国に配られていた単竜・単鳳環頭大刀が、後に、山陰地方に双竜・双鳳環頭大刀が配られるようになったのが6世紀初めとあるので、

   ・ヤマト政権は5世紀末までに中・四国を平定し、次に、ヤマトと山陰への通路に当たる要所にこれらを配って帰属させたようです。
    山陰地方に当たる高島市の豪族である三尾 (みお) 氏もまた、これにしたがっていたようです。

   ・つまり、山陰地方には、より価値の高いものを配って帰属させました。それほど山陰は半島と密接で近く重要で、中・四国は北九州に抑えられて
    いたから。

加茂稲荷山古墳 破壊された前方後円墳の封土を除いた石室内部こんなに小さくなっても石室内部は盗掘されなかったんですね。 石棺内遺物配置図 金銅製冠 鴨稲荷山古墳出土品
金銅製冠古墳時代後期 金銅製冠
金銅製飾履古墳時代後期 金銅製飾履下に鏡があり、靴底が 写っています
金製垂飾付耳飾古墳時代後期 垂飾付耳飾 馬具杏葉 須恵器杯の蓋・身

 金銅製履・飾履は、日本各地から出ている。
   藤ノ木古墳下芝谷津遺跡(高崎市)熊本県江田船山古墳群馬県保渡田古墳群一須賀古墳群(大阪河内)や国立扶余博物館 など

 直弧文大刀
   このほかに、直弧文が描かれた飾り大刀が出土している。それが近くの安曇川にかかる「天皇橋」の高欄にはめ込まれているという。
      引用国内最古の大壁建物が出土した天神畑遺跡 近辺にあり。

 
 考察1

 鴨稲荷山古墳の被葬者は、

  @6世紀前半 古墳時代後期
     付近に盤踞した三尾氏の族長の墓とされる  盤踞=ばんきょ(居座る/根を張る=外来者の意味?)
     副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることがわかった

     膨大で、絢爛豪華な副葬品は、新羅王と関係する、渡来人の里であろう。(本町歴史クラブ)
     また、近隣の天神畑遺跡の大壁建物は渡来人の祭祀遺跡であると考えられる。(Don Pancho)

     白髭神社は全国にあり、高島市の白髭神社がその本社とされているが朝鮮半島から渡来した人たちが建てた神社が多い。
     近江(滋賀県)は朝鮮半島から多くの渡来人が定住した地であり、白髭神社は元来渡来神を祀った神社だった(日本の旅)


   三尾氏は、
     滋賀県北部から福井県嶺南に分散して集落を営み、居住した渡来人で、大土地所有の豪族でないので、古墳渡来人かもしれません。
     三尾氏と三国氏『福井県史』     二つの三尾氏   5世紀のヤマト政権と三尾氏

     三尾氏が古代史上注目されるのは、継体天皇に二人の后妃 (越前・近江の各集落から) を出している唯一の豪族だからです


  A半島の王族と同じ副葬品を有することができるほどの財力と権力をもち、なおかつ入手することができる、被葬者三尾氏は渡来人であった。

     ・すると、彼らも兵力を半島から率いてやってきて、都と若狭を結ぶ幹線道路の一部を土地収奪して占拠し、通行税でも取っていたのだろうか。
      それとも、半島=百済・新羅との交易で莫大な富をほしいままにしたのだろうか。はたまた、初めから超裕福な王族だったのだろうか。

      要するに、渡来人たちは、どのようにして列島に来て土地をぶんどり、あれほどの富を蓄え、優雅な暮らしができたのか、である。

     ・しかし、Wikipedia鴨稲荷山古墳被葬者では、 被葬者(推定)三尾君首長、または、豪華すぎる副葬品から、第26代継体天皇の皇子かも。
      ともある。

     ・また、当地で生まれたとされる継体天皇(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに[2]
      出土した副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳である[1]。ともいっている。 

    すなわち、被葬者は、朝鮮半島出身の超権力・超財力者。そういうことでありましょう。



 考察2

 継体天皇26とは、(在位507-531) 謎に包まれた大王で、これまでとは大きくかけ離れた血縁の出自であったことは間違いない。

  継体天皇は、父・彦主人王が、福井県三国の振媛を妃とし、滋賀県高島市三尾に住み、間もなく死去。妃は生まれた子を連れ福井県高向に帰った。
    50年を高向で過ごし、58歳で即位(507)したとある。   引用継体大王と越の国・福井県 (継体大王の生い立ち)


  @それまでの大王は、各豪族から血縁関係なく出されていたが、直前までの雄略天皇※は仁徳王統であったが断絶。(理由)

   ※雄略天皇 (458?-479?)は自分の地位を狙いそうな全ての係累を殺して後継ぎを残さず、後継者をも指名せず、大王の後継に空白を作った。
     また、粛清を恐れて名前を変え、地方に隠れ住んでいた息子たちは、豪族に暗殺された。後に立った大王もかなり無縁な人々だった。

    従って、王統も、臣下も大混乱をきたし、28年近くの長い間、事実上権力の混乱状態だった。


    ※雄略天皇は妻の実家である吉備氏葛城氏を滅亡させた。これによりできた権力の隙間に、大伴氏※・東漢氏物部氏※が台頭してきた。
    中央集権制を築いた大王で、自分の係累を全て粛清。後継指名をせず没した。
    死後、残った子供も大伴氏や東漢氏らの豪族に暗殺され皇位継承争いが勃発した。

    ※物部氏は、縄文渡来人。神武東征以前に河内に上陸し、後発の神武勢力と共にヤマト政権の樹立に尽くした古株の豪族。引用物部氏考
    ※大伴氏高句麗系渡来人 。神武東征に伴って九州からやってきた。ヤマト政権樹立に戦った古い豪族。         引用大伴氏考

    ※東漢氏は応神期の古墳渡来人。五世紀初頭に楽浪郡から渡来した。新興豪族。政権のテクノクラートだった。


    ※ここがポイント
     雄略天皇によって、旧勢力は一掃され、テクノクラートも新メンバーが台頭して、旧勢力と無関係で、自分たちの意のままになる大王が望
     まれた。

    そこで、渡来人の里から応神大王の五世(の孫)だとして、選ばれたが、皇室に入るのに19年もかかる。つまり反対勢力が亡くなってから入れた。
     しかし、これ以降の皇室は、継体王統の血縁主義となった。つまり、超強大な権力を入手した天皇だった。

    百済系の曽我氏は、継体天皇の身内系豪族で、皇位につくとともに台頭を始め、仏教伝来問題で地位を固め絶大な権力を手にした。



  A出自がわからない。記紀は後から都合良く神話化しながら作られたものなので、応神大王の第5世の孫というが実のところはわからない。
    この時代にあって、五代も下り、しかもその孫 とは、七代も下るではないか。ホントにありかな?

    参考 継体天皇の正体           謎多き継体天皇と新興豪族蘇我氏: 日本史探求    継体天皇出自考
        継体大王はどこから来たのか   継体大王と越の国・福井県 (継体大王の生い立ち)   謎の大王族 継体天皇
       「実在と系譜が確実な最初の天皇」継体天皇はなぜ天皇になれたのか             王朝交替説 - Wikipedia


  Bいずれにしてもこの時代の人々は半島に強い関わりを持ち、おそらく言葉も話せる人々が多く、半島に近親の係累もある人々だったでしょう。
   半島に出兵したとしても里帰りのようなもの。自分たちが逃げて来た所を取り返すため、程度の感覚だったに違いない。

   つまり、この時代、誰しもが渡来人。天皇も、豪族も庶民もみんなみんな渡来人だった。

   そして、ここで、弥生系渡来人の大王(仁徳王統)から、古墳系渡来人の大王(継体王統)に替わったということのようです。



 以下、展示より



 220古墳の中の渡来文化




  221大津の古墳


 225渡来人とは
   原始から古代にかけて列島に移住した人々のことです。
    渡来人はそれぞれの祖国の文化や技術をもたらし、列島の歴史文化に大きな影響を与えました。

   大津市坂本から錦織では、これまでの発掘調査で,渡来系の特徴を持った古墳や建物跡などが多数見つかっています。
   少なくとも6世紀以降 古墳時代後期のこの地域には、大勢の渡来人が棲んでいたようです。

 考察
   ※友人に嵯峨山、恩師に土師(はぜ)、後輩に畑、遠い親戚に秦、父の友人に和仁、近所に小間さん、錦織を含めて、もっと沢山。地名にも巨摩
   現代に続く、古代の渡来系名門の名字や集落地域の名前だったんですね。はじめて知りました。(嵯峨山=半島の地名。国内は因んで付けたもの)


   ※大津京の遷都 (7世紀後半) 飛鳥時代後半 (白鳳時代) 転載大津京
     663年の白村江の戦いの後,667年3月中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都します。そして翌年1月に天智天皇として即位しました。

   遷都の理由は諸説あります。白村江の戦いで敗戦しているため唐・新羅連合軍に攻め込まれたときのため。 飛鳥の有力豪族との関係。
   琵琶湖西岸には大友皇子が養育された大友郷があり6世紀後半頃から大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいた。などです。

   天智天皇は天皇中心の中央集権国家を目指しましたが,遷都5年でこの世を去り,この後に起こった壬申の乱によって都は再び飛鳥に戻されました。

   ※つまり、この時まで、琵琶湖西岸の湖西地域の渡来人は、天皇の出自と絶大な関わりのある、ホームグラウンドであったようです。
 考察終わり


 ミニチュア炊飯具形土器 は渡来系遺物で、古墳時代後期 (6c-7c) の古墳に副葬されています。
  大津市坂本の錦織の古墳群で特に出土例が多く、他にも大阪を中心に近畿圏で見つかっている土器です。

  煮炊き用土器のカマド、カマ、コシキ、ナベ、の4点セットを組み合わせたもので、カマドに釜と甑を載せ、カマドの前にナベを添えて副葬した。
  その作りや形は様々で、古墳毎に違っています。※その都度作ったのでしょう。


ミニチュアカマド
大津出土
渡来人とは ミニチュア炊飯具形土器 カマド各部の名称 カマド・カマ・コシキとナベ
カマド・カマ・コシキとナベ 大津市内の渡来系古墳群と関連遺跡の分布 大津市内の古墳は
ほとんどが古墳期渡来人のものでした。

 考察

 渡来人の痕跡
  古墳時代後期には、琵琶湖湖西地域、若狭街道は全て渡来人に土地収奪されていたようです。確か「韓国神社」とかあったし、今もそのようですね。
  日本全国に近年まで韓国や高句麗など由来の地名や神社がたくさんあったが、韓国内での反日運動の影響で地元の人が改名してしまっている。


 考察

  弥生時代には
  商品作物コメを栽培するために広大な農地を獲得し、多数の農奴を抱える権力者が発生し、やがて大型墳丘墓を築造しました。琵琶湖湖東地域です。

  米は朝鮮人商人によって交易され、宝物・贅沢品・武器・鉄製品と交換され、権力者の蓄財・戦争の扇動・引き金・農業生産力の向上、に
  つながりました。
  が、農奴が潤うことも生活が楽になることもありませんでした。 これが貨幣経済と違うところです。

  貨幣経済であれば、それはやがて売買というシステムを生み、下層民にも利益を回さなければ商売が成り立ちません。
  宝物との交易は、置いておくだけ、見せびらかすだけの、非生産的なものでした。骨董品集めと同じです。だから石室に副葬して処分されたのかも
  しれません。


  3世紀半ばの西暦250年頃まで邪馬台国の時代でした。248年頃卑弥呼死亡。
  3世紀半ばここまでを弥生時代。それ以後7世紀末までを古墳時代という。

 邪馬台国の時代にヤマト政権が確立したということは邪馬台国=ヤマト政権?


 卑弥呼の持衰
   ※卑弥呼が殺されたのは持衰(じさい)だったというはなし。
   248年、皆既日食が起こり、太陽が欠けながら沈んでいった。この不吉を解消するため、祈祷師卑弥呼が持衰した。
   249年、皆既日食が起こり、欠けた太陽が満ちながら登って来たので、吉兆として、壱与を祈祷師女王として国を立て直した。といわれる。


 考察

 古墳時代の大和政権と渡来人

 古墳時代前期、西暦250〜350年 (3世紀中期〜4世紀中期) 、の間にヤマト政権が全国を掌握し、大和朝廷が成立しました。
    大和朝廷は、大王(おおきみ・・・のちの天皇)を中心とした豪族の連合政権から始まった。

 古墳時代中期、5〜6世紀に、氏・姓にもとづく政治→氏姓制度という支配体制を確立した。

   氏姓制度
     古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて
     朝廷より(ウヂ=血族グループの名) と、姓(カバネ=朝廷内での地位を現す称号) の名を授与され、その特権的地位を世襲した制度


 古墳時代後期、6〜7世紀。
   5世紀半ば頃から渡来人の遺跡が多く見受けられるようになり、以後、後期にかけて古墳渡来人の活動が非常に活発になる。


 考察

  渡来人のまとめ

       渡来人の渡来時期と活動          引用コトバンク Wikipedia 朝鮮半島からの渡来時期 飛鳥の扉

  縄文渡来人
 紀元前9世紀

弥生渡来人
 紀元前5世紀
 紀元前3〜2世紀
 紀元前3世紀

 2世紀末〜3世紀初め
 卑弥呼と対外関係  
古墳渡来人
 4世紀半〜5世紀半 
 4世紀末〜5世紀初頭
 5世紀半〜7世紀初め
 5世紀後半
 5世紀後半〜6世紀
 今来才伎いまきのてひと
 7世紀中葉
考察
 3世紀半ば、
   ヤマト政権の樹立
 大和政権と渡来人
 秦氏と漢氏
 先進文化の担い手
 8世紀以降
考察
 縄文渡来人は
 弥生渡来人は
 古墳渡来人は

考察
 古墳・墳丘墓建設と渡来人
 弥生時代の墓制
 弥生墳丘墓
 墓制の統一

 古墳の移り変わり
 穴太衆の起源
疑問
縄文渡来人 
 紀元前9世紀
  半島人商人のプロデュースする貝交易船西北九州の縄文・半島の混血集団が操船する船で沖縄への定期航路を開設していた。
  つまり、これ以前に長崎県長崎半島・五島列島・天草諸島に半島人が渡来し、混血民族となっていた。

  気候の寒冷化に伴い、東アジアで畑作牧畜民が南に拡大し、中国大陸を圧迫して長江流域からの渡来民(稲作漁労民)が渡来し、
  半島からも渡来民が来て早期の稲作農耕突帯文土器などの痕跡を残している。
弥生渡来人
 紀元前5世紀 2500年前
  春秋・戦国時代の戦乱から逃れるため多くの人々が南下、渡来し、大規模な稲作農耕が開始された。
  この頃以降の人々が弥生文化を形成し、弥生時代を作ったのである。
 紀元前3〜2世紀 弥生前期
  漢の武帝が朝鮮北部を植民地にしたため、難民が南下し、朝鮮南部の住民が列島に押し出され大量移民を始めた。
  半島が混乱すると、人々は列島に移民するのが普通であったようだ。
 紀元前3世紀 2200年前 秦の始皇帝の臣下徐福が女、子供3000人と共にやってきた。    
 2世紀末〜3世紀始め 弥生後期 黄巾の乱で弱体化した漢で遼東太守が蜂起し、高句麗などを討ち楽浪郡南方に帯方郡を置いた204年。
   この動きによって難民が渡来した。

  この時期、弥生末期〜古墳初頭に山陰中心に分布する山陰型甑形土器は高句麗難民が持ち込んだ温突の煙突かもしれない。

  この頃、倭国大乱 (2c後半-2c末) 渡来民の移動拡大による在地縄文系集団との摩擦などと言われているが、
  戦乱の地から来た人々。もともと、土地争い水争い、収穫物の略奪等、頻繁だったため、弥生前期から武器武具が出土するのである。

  最近の研究では、2世紀の東アジアでは干ばつと大雨が繰り返す気候変動の時代であり、倭国大乱の以前からモノ取り合戦があった。

  高地性集落・環濠集落の起源は半島にあり、弥生時代のサバイバル状態は、半島から持ち込まれ、弥生時代の最初からあったものだ。
  それが土地争い、やがて領土拡張戦争へと拡大し、いったん始まった混乱は、行き着くところまでいかないと終わらなかった。
 卑弥呼と対外関係
  卑弥呼(ひめみこ) 175-247or248年 伊都国の出身で呪術を専門とする王族の姫。この頃から長く政治は呪術だった
  3世紀前半( 238年) 魏に難升米らを派遣し親魏倭王の金印銅鏡100枚を下賜された。
  この頃、列島はもう渡来人で満たされており、先住縄文人などは、ほぼ社会の隅に追いやられていた。
  この頃には弥生渡来人が列島の主となり、土着民となった。後から来る者も、同じ半島人であるのに、別民族であるかのように扱う。

  弥生渡来人は、すっかり倭人となってしまったかのようだ。


 弥生時代終末期
   長く続いた弥生の戦乱は、各地の勢力が、戦争、連合、隷従などの形でまとまり始め、

   邪馬台国で知られるように、列島は諸国統一の時代に入り、とりあえず、連合国家を形成して戦乱を鎮めようとしていた。
   最終の力くらべは、あまりに大きくなりすぎたため、大豪族同志が最終戦争をするわけにいかなくなっていたのだ。

 3世紀の半ば
   要するに列島は、弥生人=朝鮮半島人の新国家にまとまろうとし、弥生渡来系半島人のヤマト政権が国土をほぼ掌握したのだ。

古墳渡来人
 4世紀半ば〜5世紀半ば 古墳時代 

   中国大陸での、五胡十六国の乱世に高句麗が復活、百済・新羅が建国し、楽浪郡・帯方郡を奪還し中国の植民地支配が終了。
   このため、朝鮮半島に土着していた中国人が大挙して列島にやってきた。帰る所がなかったのである。

 5世紀には高句麗が南下し、圧迫された百済人が渡来した。

 4世紀
   倭国は百済の要請を受けて半島に出兵し大敗した。その為、戦術や文化の向上を急務とし、朝鮮半島からあらゆる技術者を招聘した
   ゆえに、いろいろな特殊技能を持った人々が集団で移住してきたと考えられる。
 4世紀末〜5世紀初頭
   広開土王の時代  高句麗を中興し領土を拡大した。半島では戦乱を避け、集団で列島に移住するのが常識だった。

    この渡来人が残したものは、韓式土器で、出土最多は大阪府河内・奈良県・岡山県・福岡県・長崎県の順。これは、
    この時期の渡来人の大半を倭王権と関係が深い要地に計画的に定着させたことを物語っている。

    韓式土器の須恵器は大阪府陶村が、須恵器生産の一大センターになった。また、カマドでの煮炊きの調理法を持ち込んだ。

 5世紀初頭には、馬・馬具や、乗馬の風習が急速に広まった。甲冑に鋲留め技術・耳飾・バックルの金メッキ技術などが伝わった。

    この時期 (5世紀初頭) には、漢氏(あやし)秦氏西文氏(かわちのふみ)などが渡来

    漢氏=楽浪郡から渡来 秦氏=新羅系渡来人  西文氏=百済系渡来人
 5世後半〜7世紀始め 古墳時代後期 475年百済一時的に滅亡。多くの渡来民があった。政治的亡命や戦争難民。              
 5世紀後半に
    百済・伽耶から多数の渡来。大和の葛城・飛鳥、河内・難波に住んだ。高度な技術者は今来漢人(いまきのあやひと)と称し
    王権の庇護下に置かれた。彼らによって、須恵器は泉南地域で、鉄器生産は大和葛城と中河内で集中して行なわれた。   
  5世紀後半〜6世紀
    雄略・欽明期 百済・加羅(任那)から今来の才伎(いまきのてひと)といわれる先進技術をもった人々が移住してきた。

    当時朝鮮半島南部は朝鮮諸国が大和政権も巻き込んで抗争しており、その戦地となった地域の人々が首長級豪族に率いられて
    集団的に渡来したものとみられている。

 今来の才伎(いまきのてひと)    リンクHPは削除のおそれあり。抜粋して転載します。


 「近つ飛鳥博物館10周年特別展」今来才伎(いまきのてひと)展


  今来才伎とは、『日本書紀』の雄略天皇7年の記事にみられるように「新たに百済から献上された手工業技術者たち」という意味だそうだ。
彼らは単なる渡来人ではなく、高度の学芸的な知識や技術をもって当時の政権に仕え、5世紀から7世紀にかけておおいに活躍した。

  記紀が編纂された8世紀の初め頃は、5世紀後半の雄略天皇の時代を、我が国の古代史で一つのエポックをなした時代と認識していたようだ。
事実、それ以前の豪族連合政権が、雄略朝には、大王を中心とした専制君主政権に変わっている

渡来人に対する見方もそうであり、雄略朝より前に渡来した人々は「今来」(いまき)に対して古渡(ふるわたり)と呼ばれた。


 古渡の渡来氏族としては、
   応神朝に弓月君にひきつられて朝鮮から渡来したとされる秦(はた)氏や、
   阿知使主(あちのおみ)とその子・都加使主(つかのおみ)に率いられて渡来したとされる東漢(やまとのあや)氏、
   あるいは王仁(わに)を始祖とする西文(かわちのふみ)氏などがある。

 一方、今来才伎としては、『日本書紀』は雄略7年に
   陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、晝部(えかき)、錦部(にしごり)、訳語部(をさ)などの職掌を冠した新漢(いまきのあや)の
   人名を列挙している。
   彼らは須恵器作り、馬具作り、画工、錦織り、通訳を専門とする技術集団の長だったと思われる。

  
 7世紀中葉 飛鳥・奈良時代
   660年百済、668年高句麗滅亡。 これに伴い、王族・貴族をはじめとして多くの人々が亡命した。
   なかには日本の政府の高官となる者もいた。

   律令政府は大量の難民・移住者を各地に分散させて安住の地を与えた。  
   これによって各地に、百済・新羅・高句麗という村名・字名・郡名が生まれた。 (この時期律令国家になっていた渡来官僚の指導下で)


考察


3世紀半ば、ヤマト政権の成立

  弥生時代に大繁栄した、九州北部、出雲、吉備、よりも目立たなかったヤマト中心に、倭国大乱が、連合政権樹立により終焉を迎える。
 次に政権内のチキンレースで敗退した博多や出雲、勝ち残った吉備、葛城。やがて、連合政権から、大王が生まれ、やがて専制政治が始まる。


  ・それがなぜ、目立たなかった大和だったのか。
  ・政権成立後に、記紀にある、神武東征で、九州宮崎の勢力が政権を奪取して成り代って、も、連合政権が続くってどういうことなんだろう。

 分からないことも沢山あるが、3世紀後半に大和政権が確立し、全国に命令を発するようになり、古墳時代、初期大和政権時代に入る。

 邪馬台国が魏に朝貢したのが266年。僅かな時間をおいてヤマトが成立したのは、邪馬台国の連合政権が、ヤマトになったのでしょう。
 ここに、弥生時代に朝鮮半島からやってきた渡来人が、統一国家を持つことができたのです。

 半島でも大陸でも同じだが、国という、一つの集団として、まとまると、とたんに排他的となり、同じ出自の人々であっても他国の人となる。

 従って彼らはヤマト人という国家意識を持ち、他と自らを区別することができるようになった。後に来たものを外国人あつかいするようになる。

大和政権と渡来人  転載コトバンク

  渡来の歴史のうち、特に5c前半と5c後半の渡来人の活動は、日本の古代国家形成史、社会発達史のうえでたいへん大きな意義をもつ。

  この時期の渡来人がもたらした武器・農具などの鉄器鋳造技術の革新、新たな土器製作・機織(はたお)り技術の伝播は、
  大和政権の政治力・軍事力・生産力の発展に寄与し、かつ交通網の発達や交易圏の拡大にも役だった

  また中国・朝鮮系の乾田系農業技術や雑穀栽培などは当時の社会を根本から変質させるような大画期となった。

  5世紀後半から顕著になる大王権力の専制化や大和政権の地方支配の伸長も、このような渡来人の技術を掌握することで可能となった
  この時期の渡来人は秦氏・漢氏に総括されて大和政権の組織に編成されていった。[菊地照夫]
 

秦氏と漢氏  転載コトバンク

 秦氏は、応神朝に「百二十県(あがた)の百姓(ひゃくせい)」3〜4万人を率いて渡来した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とするという伝承をもつが、
  その出身は、朝鮮慶尚北道の蔚珍(ウルチン)地方の小国の豪族であったと推定される。

  本拠を山背(やましろ)に構え、その地に灌漑施設を設けて開発し、農業・養蚕・機織りを行い、いわば殖産的な豪族として繁栄した。

 秦氏は、
  雄略朝頃から大和政権に官人として仕え他面伴造(とものみやつこ)として
  地方の「秦の民」とよばれる新羅(しらぎ)系の渡来人を部(べ)に編成して支配し、
  その生産物を貢納して一族の蔵部(くらべ)に管掌させ、6世紀には大和政権の財政の一翼を担う地位についた。



 漢氏は、応神朝に「党類(ともがら)十七県」を率いて渡来した阿知使主(あちのおみ)を祖とすると伝えるが、
  実際は慶尚南道の安羅(あら)(安邪(あや))の首長をしていた一族が集団で日本列島へ移住したものとみられる。

  大和の高市(たけち)郡檜前(ひのくま)の地に住み、のちに人口が増えて改めて諸国に分散した。
  8世紀後半の記録には、高市郡は漢氏で満ち、他姓のものは「十中に一、二」にすぎないと記している。

 漢氏は、
  雄略朝ころから錦部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)、飛鳥衣縫(あすかのきぬぬい)、飽波(あくなみ)、金作(かなつくり)
  韓鍛冶(からのかぬち)などの

  百済系の手工業者集団、それも製鉄や武器や織物の生産に従事する新来の渡来人を率いる大和政権の官人となった



 このような大和政権による秦氏、漢氏の官人化は、行政機構としてのトモ制 (宮廷の各種の職務を世襲的に分掌する制度)、地方支配の方式としての部民(べみん)制の成立の端緒となり、大和政権の政治組織創出の画期となった。[菊地照夫]
 

先進文化の担い手(文字の使用・僧・遣隋使) 転載コトバンク

 渡来人の活動は文化の面でも重要である。文字の使用開始は未開から文明への大きな画期となるが、
 日本に文字を伝えたのは5世紀前半の渡来人 (王仁わに) で、
 大和政権の対外交渉の活発化のなかで外交文書作成 などは彼ら (漢氏)の重要な職掌であった。

 5世紀後半の時期には仏教が百済から伝来するが、初期の仏教を担った人々は漢氏などの渡来人で、また奈良時代に活躍した
 道昭(どうしょう)、行基(ぎょうき)といった僧の出身も渡来系の氏族であった。

 芸術面においては飛鳥(あすか)時代の代表的な仏師鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利(とり)仏師)は渡来系の出身である。

 そのほか儒教・暦法・医術・墨・紙などの知識・技術を朝鮮からの渡来人がもたらし、さらに高向玄理(たかむこのくろまろ)僧旻(みん)など
 渡来人の子孫が、

 7世紀遣隋使(けんずいし)に従って隋に留学し、中国の先進文化導入に多大な尽力を果たしていることも見逃せない。[菊地照夫]
 

8世紀以降  転載コトバンク

 律令国家の完成に伴い支配者層の間に中華思想が高まるなかで、朝鮮諸国は「中華」に対する「諸蕃」と位置づけられ、
 前代の渡来者の後裔(こうえい)は「帰化」した人々とみなされるようになり、氏族名・姓(かばね)などによって日本在来の氏族と区別された。

 しかし現実の政治・社会・日常生活のなかでは、すでに彼らは日本人に同化していた。
 9世紀初頭に編集された京・畿内(きない)に居住する氏族のリストである『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、

 日本在来の氏族を「神別」「皇別」に分類するのに対し、
 渡来系氏族を「諸蕃」の項に一括しているが、

 その氏族数は全体の3分の1以上にも及んでおり、いかに多くの渡来系の人々が存在していたかを知ることができる。[菊地照夫]
 

考察
     渡来人の歴史のまとめ


 縄文渡来人は、
  列島に少しずつ浸透して未開人の縄文人と折り合いをつけながら小規模な農耕を始め、やがて後に続く、大陸半島人の大量流入に
  先鞭をつけ、縄文時代を終わらせるという役目を担った。 

 弥生渡来人は、

  長年にわたって無秩序に入植し、植民地化した小さなコミュニティが、コメの生産に成功し、コメ交易等で経済力・武力を持ち、
  やがて成長をはじめ、列島は不安定な状況が続いていった。

  しかし、そこに大陸と結んでいた北部九州が、後漢の没落で権威を失い、争いに蓋が取れて総かがりのトップ争いとなり、
  やがていくつかの豪族に集約されることとなった。(30余)

  大と小なら小競り合いで済むのだが、巨大豪族の総力戦はたとえ勝っても消耗した隙に別の敵に襲われれば、ひとたまりもない。
  そこで連合してまとまることで武力戦争を回避し、すなわち政治闘争に進展していった

  このような中で、北部九州や出雲がたちまち没落し、吉備や葛城などが力を持ち、ヤマト政権はほぼ国内を掌握した。 

 古墳渡来人は、
  権力や武力はあるが、政治力のない、三等国のヤマト政権に対し、経済・軍事・外交などのブレーンとして政権中枢に関わっていた
   と、同時に、先進的な技術や知識によって国内の経済・産業を掌握し、自己の氏族の経済力・軍事力を高めていた。

  ヤマト政権の半島への干渉、出兵と敗戦で衰え始めた弥生渡来系の大豪族である吉備・葛城を排除失脚させ
  これら古墳渡来系実力派のテクノクラートがヤマト政権を掌握し、古墳渡来系が継体天皇の即位によって政権を奪取した

  これによって、確実に、東アジア型の近代国家へと変貌したと考えられる。 


 ※テクノクラートとは、高度な科学技術の専門知識と政策能力を持ち、なおかつ、国家の政策決定に関与できる上級職の技術官僚(技官)のこと。     (technocrat)     高級技術官僚とも呼ばれる。  引用テクノクラートとは - Weblio辞書
 




 考察

古墳・墳丘墓建設と渡来人

    参考弥生時代の墓の変遷 - 吉野ヶ里歴史公園 弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達 -九大 Library
       弥生時代の墓制 - Wikipedia(転載) (一部付け加え)



 第一段階、村近くに集団墓・共同墓地地。  第二段階、集団墓地の中に不均等が出現。  第三段階、集団内の特定の墓域が区画される。
 九州に多い甕棺墓・支石墓や、西日本に多い箱式石棺墓(内陸地方にも分布)や木棺墓。 弥生後期に広がったのが、墳丘墓である。

  墳丘墓
    方形周溝墓は埋葬地の周囲に溝を巡らし、区画したものであるが、やがて大型化し、東北地方南部にまで達した。

  大型墳丘墓 弥生後期の瀬戸内地方にみられる。
    吉備の盾築墳丘墓・播磨の養久山5号墳などは、参道を二つ持つ構造で、一方から上がって埋葬し、他方へ下りる。

    (後戻りしない。死者の魂を連れ帰らない為。同様に前方後円墳も、一方から上がりぐるり回って同じ道を通らない。四隅でも同じです。
    弥生の墳丘墓は各地で多様なものが造られたが、四隅突出型墳丘墓などは、山陰から北陸まで分布し、墓作り職人の存在が考えられる

    盾築墳丘墓は双方中円 養久山5号墳は双方中方です。吉備を中心に中円、中方の墳丘墓がたくさんあります。



 弥生墳丘墓 - Wikipedia(転載) 弥生時代の盛り土をした墓のこと

  弥生前期出現の 方形周溝墓円形周溝墓(共に平地)、方形台状墓(丘陵上)に、後期に円形台状墓(no sample)が加わる。

    首長墓の出現と展開は、地方色の顕著な現れ。各地の首長層の成長と、地域・地方での政治的結合(首長連合)の形成過程であった。

  弥生前期〜中期
    西日本の各地に各種の墳丘墓が拡がるが、墳丘規模に大きな格差はない。
    方形周溝墓は畿内から近江、伊勢湾沿岸の東海西部に定着し、西は播磨から東は関東・北陸の西部まで拡散する。

    円形周溝墓は瀬戸内中部に出現し、播磨に拡がり、その後は徐々に東に拡がる。
    方形台状墓は近畿北部・北陸・東海の一部に出現する。

  弥生中期後葉〜後期前半
    墳丘規模に格差が広がり、首長・地域有力者の墓と推定される、墳長20m以上の大型墓が出現する。
    中国地方北部や山陰、近畿北部に地域的特色を有する墳丘墓が築造されだした。

    この時期から鉄器使用が本格化し始める。 朝鮮半島南部で産出する鉄素材の流通機構の移行・再編が地方レベルまでおよび、
    首長層の政治的連合や同盟が、これまで以上に推進したと考えられる

  弥生時代後期後半〜終末期
    一部の墳丘墓で突出部が発達し、首長墓専用の墳形が成立する。
    一方では他の墳丘墓が小型化し、さらに最下層墓が密集型土抗墓となっていく。

   共同体の階層分化が急速に進行し、共同体村落の環濠集落が解体の道をたどる。各地には核となる墳丘墓が現れて※1地域が連合し、

   さらに地方が連合し、それらの段階で共通の墳丘墓型式を採用することにより他地方との区別を明確化していった※2と推定する[4

  引用終了
    ※1環濠解体・地域の核となる墳丘墓出現期は、銅鐸・青銅器信仰を排斥し、祖先崇拝・首長墓崇拝を強制された時代でした。
    ※2各地域連合を示す各地域の墳丘墓形式に対して、ヤマト政権は前方後円墳形式を採用し、古墳時代の幕開けとなる。




考察

 墓制の統一

 弥生時代後期から始まる各地の政権の連合は、墓制の統一という呪術や宗教の統合という重要な精神面の統一をも行った。
   これを実現するには、墳丘墓築造専門集団。墓前祭祀・埋葬祭祀の専門的司祭。石工。土器職人など、多種多様の職人が必要である。

   これらは連合の結束を示し、なおかつ、支配民の尊崇を受けるためにも大変重要で、この専門集団の地位は大変高かったものとみられます。
   したがってこれらは、巨大事業としての開墾、灌漑、領土獲得戦争、などと共に、墳墓築造事業として専門家集団にゆだねられたのでしょう。


   発掘時、被葬者の埋葬人骨がその形体(ぎょうたい)を保っていることから、墳墓は生前に建設を始め、死亡前に完成されていたようです。
   当時の墳墓は墳丘墓。土盛りの上に遺体を埋める。庶民より大きい墓を造る。その一点に尽きました。


 古墳時代になると
    最終勝者、ヤマト政権型墳丘墓である前方後円墳が大半を占めるようになります。この形を禁じられた出雲では前方後方墳でした。

    古墳は地位によって大きさが規格化され、正確な縮図に基づいて作られ、東北地方から鹿児島まで中央から派遣された技術者集団によって
    墳墓築造から、埴輪作り、儀式など、全てを指導したと思われます。



考察

古墳の移り変わり

 古墳時代前期
    3世紀後半には西日本各地に様々な墳丘墓が造られます。 奈良では、3世紀半ばに前方後円墳の、箸墓古墳が築造されます。
    本格的な古墳時代は4世紀からです。

    初期の古墳では、丘陵や山稜を利用した、崩れない土盛りの墳丘を成功させ、しかし、石室は竪穴式という、意外と単純なものでした。

 古墳時代中期後葉(五世紀後半)になると、 中国式の横穴式石室が現れ、家形石棺が登場します。(これは死生観が変化したからでしょう)
    横穴式石室は、初期には、朝鮮式石積み。持ち送り式石積みで、薄い板状石片を積んで石室を作っていました。

    その後、巨大な石を運び、積む専門的技術集団がこれに加わり、西日本では古墳と言えば巨石を積んだ横穴式石室を想像します。

    一般に横穴式石室の出現期を古墳後期と言っているが、装飾古墳は4c-7cであるので、巨石石室は早くからあったもののようです。
           横穴式石室は、日本列島では4世紀末期に北部九州ではじめて出現しました。横穴式石室豆知識

 この技術革新には
    野面積みの技術が使われており、渡来集団、穴太衆の石積み技術が日本中の石室を劇的に進歩させたものと思われます。

    しかし、巨石石室文化は、北部九州から始まっており、多数の石工集団が、半島にはない野面積み技術を北部九州で開発し、
    全国の土木工事や古墳築造にかかわっていったのではないかと思われます。

    本来、巨石工事は護岸工事や港湾工事の技術であり、砂地の北部九州での港湾づくりには不可欠な技術であったと想像します。
        従って、元々半島にあった土木工事の技術であったのかもしれません。


 穴太衆と古墳石積み に言及した文献
    安土城、穴太積み、古墳(「穴太積み」の起源は古墳にあるらしい) 
    穴太衆の石垣 (6〜7世紀の古墳群の石室には、穴太積と極似する野面積が用いられており)

    ぶらり近江のみち (穴太衆は、横穴式古墳の石室づくりに習熟していた渡来人の子孫であり )
    穴太衆 - Wikipedia (古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。)
    穴太衆 石積みの極意と家訓 - kakunist ページ! (古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。)

 穴太積の起源 
   比叡山系と琵琶湖にはさまれた大津市北部には、南北約4.5km東西約1km四方の細長い地帯に約2千を超す古墳がある。
   そのほとんどが6世紀から7世紀にかけて、朝鮮からの渡来人により築かれた古墳時代後期の群集墳といわれている。引用ぶらり近江のみち

 疑問
  渡来人はなぜ財力と権力を持ち、狭小な土地に住みながらも2000もの古墳を築造することができたのか。↑

  古墳渡来人の蓄財と、高い地位や権力をどのようにして得たのかは、後期は、わかったが、初期の方法はわかりませんでした。


 展示より






 226大津の渡来人遺跡


 227太鼓塚3号墳 大通寺43号墳

 小型土師器 太鼓塚3号墳 大津市 古墳時代後期

   ミニチュア炊飯具形土器と共に出土した小型高杯5点と小型脚付壷8点で須恵器を真似て作ったようです。
   大阪府一須加古墳群では須恵器小型脚付壷が出土しています。

   大津市内では小型土器が副葬される例はなく、ミニチュア炊飯具と共に埋葬儀礼に使われたと考えられます。

 ミニチュア炊飯具形土器  太鼓塚3号墳 大津市 古墳時代後期
   古墳では小型の土師器とカマド、カマ、コシキ、ナベが玄室入口近くの壁に沿って置かれていた。カマド高さ10.2cm裾の直径11.7cmで特に小型の
   ものです。

太鼓塚3号墳
土師器のミニチュア土器
小型高坏・脚付小型壺・コシキ・カマ・ナベ
小型土師器
ミニチュア炊飯具形土器
大通寺43号墳
組合式装飾付器台
土師器組合式装飾付器台
土師器組合式装飾付器台

 228大通寺3号墳 6世紀中葉

 土師器組合式装飾付器台  大通寺43号墳 大津市 古墳時代後期

   円筒形の台座の上に、ドーナツ状の円盤を乗せ、さらに円盤の上には小型壷などを乗せている組合式器台です。
   小型壷と円盤の穴の周囲には接着されていた痕跡が残っています。このような土師器の器台は他に類例がなく、

   副葬品としての特殊な土器であったと考えられます。また、43号からはミニチュアカマドの破片も出土しています。

 土師器カマド・カマ・コシキ 大通寺3号墳 大津市 古墳時代後期
   移動式カマド、釜、甑の3点セットです。6世紀初め頃の古墳の石室の中に、死者のための副葬品として納められていました。

   大津市域の他の古墳からもカマドなどの炊飯具形土器が出土しますが、それらはミニチュアサイズに作られています。
   しかし、大通寺3号・5号墳にはほぼ実用的な大きさのカマドが納められていました。

   大通寺3号墳の玄室は長さ4.1m幅5.1mの横長の長方形をしており、中には4棺埋葬されていました。
   玄室内には、多数の須恵器や馬具なども副葬されていました。

横穴石室の遺物出土 土師器カマド・カマ・コシキ 出土遺物 実用カマド・カマ×2 実用コシキ
カマド・カマ 上実用カマド・ナベ・コシキ
下ミニチュアコシキ・カマド
カマド・カマ・コシキ

 229大通寺37号墳

 は、
   古代の腕飾りで、古墳時代後期の古墳にられる銅や銀製品は、渡来人の装身具でした。
   大津市大谷遺跡からは、外側に細かい刻みを付けたものや、金銅製かんざしも出土しました。

   大津市内からは、  外側に刻み目のついた銅製釧で、
   大阪や奈良からは、薄い板状の銀製品を丸めて作った銀の釧や指輪が、刻みをつけて出土。

 馬具 剣菱形杏葉 大通寺37号墳 大津市 古墳時代後期
   大津市内の渡来系古墳群は、ミニチュア炊飯具形土器や、釵子かんざしや釧などのアクセサリーを副葬する一方で、
   馬具や武具などの武人を連想させる遺物はありません。その中で、37号墳殻は馬具の装飾品の一つである剣菱形杏葉がみつかりました。

   鉄地に金銅張りを施すものでした。大通寺3号墳でも同様の杏葉を含む馬具が出土しています。

 鉄鏃・鉄製刀子・鉄製鍬先 大通寺38号墳 大津市 古墳時代後期
   大通寺38号墳では床面の敷石に作りつけられた組合式石棺がありました。

   副葬品として、石棺の横から鉄鏃が、内から鉄製刀子が出土しており、土器などと共に、U字形の鉄製鋤先も見つかっています。
   鉄製の武器や農耕具が納められ、棺も特殊であることから、他の古墳とは異なる立場の被葬者の姿が考えられます。

釧(クシロ) 馬具 剣菱形杏葉
剣菱形杏葉 鉄鏃・鉄製刀子・鉄製鍬先
鉄鏃・鉄製刀子・鉄製鍬先 鉄鏃 金銅製かんざし
金製耳環
鉄製品 鋤先・刀子・鏃 大通寺38号墳
横穴式石室と
組合式石棺





 250河内の古墳


 251平尾山古墳群 大阪府柏原市 古墳時代後期

  大阪府と奈良県の境にあたる生駒山地の南端、柏原市の東山一帯に広がる8つの群集墳 (平野・大県支群、太平寺支群、安堂支群、高井田支群、
  雁多尾畑支群 (かりんどばた)、本堂支群、青谷支群)の総称で、東西4km南北3kmの範囲に約1400基の古墳が築かれています。

    この中で、平野・大県支群10-1号墳、20-3号墳の2基では、ミニチュア炊飯具形土器が出土しています。
    また、平尾山古墳群内では、釵子と見られる金銅製品や銀製品の出土例が比較的多く、約12例が確認されています。

  ミニチュア炊飯具形土器 平野・大県10-1号墳 大阪府柏原市 古墳時代後期

    古墳からはミニチュア炊飯具や金銅製釵子、銀製指輪など渡来系遺物がまとまって出土しています。
    玄室内の奥壁側に、須恵器の子持ち器台と杯蓋、短頸壷、ミニチュア炊飯具が置かれていました。

    カマドは、カマと一体になって作られているもので、高さは9.8cmと小型です。
    両側の把手は外れている物もありますが、カマド、コシキ、ナベのそれぞれについていました。 
    また、小ぶりの甕と平底の鉢もセットになっています。

平尾山古墳群 ミニチュア炊飯具形土器
ミニチュア炊飯具 須恵器 子持ち器台 銀製・金製耳環 銀製指輪 須恵器 高坏
土師器 蓋
はそう 平瓶

 252一須賀古墳群  大阪府南河内郡河南町・太子町

   6世紀前半から7世紀前半までの約100年間に造営された大阪平野の南東部に広がる大規模な古墳群で、1.5km四方に約260基が築かれて
   います。その副葬品には、渡来系の遺物が多く、金銅製冠や飾履、金製垂飾付耳飾などの装身具、単龍環頭大刀、韓式系の土器などが出土した
   古墳もあります。

   ミニチュア炊飯具形土器を副葬する古墳は、20基以上みられ、古墳ごとに炊飯具の形や大きさは違っています。釵子も4基の古墳から出土して
   います。この他にも、副葬のため特殊な土器がみられます。

 ミニチュア炊飯具形土器  一須賀古墳群 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期

   古墳群では20基以上から出土しています。ミニチュア炊飯具を納める古墳は、その他の副葬品の猟が豊富なものが多く、
   古墳群の中でも中心的な古墳から出土しているのではないかとも考えられています。

   各古墳に納められたカマドは個体差が大きいため、カマド作りの企画は特になく、同じ風習を持つ人々がそれぞれで作っていたと思われます。

   また、119号墳では渡来系のアクセサリーである銀製釵子、WA11号墳では、韓式系土器も出土しており、
   ミニチュア炊飯具と共に複数の渡来敬意物が確認できます。

 装飾付短頸壺 一須賀16号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期

   古墳群からは副葬品として、沢山の須恵器や土師器が出土していますが、通常あまりみられない特徴的な形のものがいくつか含まれています。
   16号墳出土の単頸壷は両側に短い把手の装飾が付いています。また、これの蓋には、2つの耳のような形のつまみが付いており、
   珍しい形の須恵器です。

 韓式系土器 一須賀古墳群 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期
   韓式系土器は、三国時代の朝鮮半島南部の土器と製作技法が同じで、表面に叩き板の痕跡が残る赤褐色の軟質の土器です。

   通常は集落跡などから出土し、古墳の副葬品としての例は珍しいものです。
   WA11号墳からは土器の表面に平行も洋画みられる平底の鉢が、WA21号墳と27号墳からは表面に縄目模様がつく甕が見つかっています。

 土師器装飾付器台  一須賀古墳群 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期
   韓式系土器は、三国時代の朝鮮半島南部の土器と製作技法が同じで、表面に叩き板の痕跡が残る赤褐色の軟質の土器です。

   通常は集落跡などから出土し、古墳の副葬品としての例は珍しいものです。
   WA11号墳からは土器の表面に平行も洋画みられる平底の鉢が、WA21号墳と27号墳からは表面に縄目模様がつく甕が見つかっています。

 平底長首壺  一須賀B12号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期
   一須賀古墳群からは副葬品として、沢山の数奇や土師器が出土していますが、通常あまり見られない特徴的な形のものがいくつか含まれています。

   土師器の壷は、丸みのある体部に短い口縁部が、まっすぐか外側へ反りながら付けられたものが多いですが、
   B12号墳では、平底で長い頸がつく壷が2点出土しています。

 須恵器 脚付小型壺 一須賀I18号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期

   古墳群群からは副葬品として、沢山の須恵器や土師器が出土していますが、通常あまりみられない特徴的な形のものがいくつか含まれています。
   I18号墳からは、須恵器の脚付小型壷が1点出土しました。この形は、大津市・太鼓塚3号墳から出土した土師器の脚付小型壷ともよく似ています。

 装飾付短頚壺 一須賀16号墳 大阪府南河内郡河南町・太子町 古墳時代後期
   古墳群群からは副葬品として、沢山の須恵器や土師器が出土していますが、通常あまりみられない特徴的な形のものがいくつか含まれています。
   16号墳出土の短頸壷は両側に短い把手の装飾が付いています。また、これの蓋には、2つの耳のような形のつまみが付いており、珍しい形の
   須恵器です。

一須賀古墳群 一須賀古墳5号墳
横穴石室内の遺物出土
ミニチュア炊飯具形土器 ミニチュア炊飯具形土器 ミニチュア炊飯具形土器
韓式系土器古墳時代後期/三国時代の半島南部の土器 装飾付短頸壺
韓式系土器
土師器装飾付器台
平底長首壺
土師器装飾付器台 土師器装飾付器台
平底長首壺
金製・銀製耳環 ガラス小玉 環付六花形棺金具 須恵器 脚付小型壺/装飾付短頚壺 須恵器 脚付小型壺/装飾付短頚壺 一須賀古墳群と周辺の
古墳分布






  260大和の古墳

   261稲荷西2号墳  桜井公園2号墳  奈良県桜井市大字谷 5世紀末〜6世紀初頭

      桜井市安倍山丘陵上に作られた古墳の一つです。5世紀末〜6世紀初頭に築かれた横穴式石室で、ミニチュア炊飯具形土器と銀製釵子を
      副葬品として納めている古墳の中では、初期段階の例とし注目できます。

      炊飯具は、コシキとナベのみが確認されています。また、須恵器にも台の付いた小型の壷が見られます。
      装身具として、銀製の釵子は長19.5cmと大きく、コの字形をしているものです。これらの副葬品は桜井市の指定文化財となっています。

稲荷西2号墳 銀製釧・ミニ炊飯具
広口壺・脚付短頚壺
ミニカマド

  262風呂坊古墳群  桜井公園2号墳  奈良県桜井市大字安部 6世紀中頃〜6世紀末

  古墳群は安倍山丘陵南端付近にあり、6世紀中頃から末にかけて造営されました。周辺には古墳時代後期から終末期の古墳が沢山分布しています。
  近年に調査された風呂坊4号墳から、ミニチュアカマドが出土しており、5号墳からは外側に刻み目がつけられた銀製釧や指輪が出土しています。

  また、金銅製の小型の釵子と見られるピンセット状の金銅製品が出土しています。
  1〜3号墳の調査時には、どの石室に納められたかは不明ですが、脚部を空洞につくった釵子とみられる金銅製品が出土しています。

風呂坊古墳群 ミニカマド・クチナシ玉 銀製指輪・銀製釧
土器・馬具・装身具 土器・装身具・棺の釘

  264オイダ山古墳 古墳時代後期

 釵子 (かんざし) 渡来人のアクセサリー
   副葬品の、釵子とみられる銀製品や金銅製品は、中国や朝鮮半島にその源流があり、渡来系のアクセサリーと考えられています。
   このうちコの字形をした双脚の釵子は、近江、大和、河内で、ほぼ同じ形のものが確認できます。

   平成27年度の大津市・穴太野添古墳群の調査で出土した釵子は、全体はコの字形をして、脚は棒状に作られ、頭部は平坦な菱形をしています。
   ほぼ同じ形状のものが一須賀I19号墳の銀製釵子です。また、平野・大県17-1号墳や稲荷西2号墳からも大きさの異なる同系のものが確認
   できます。

   これらは、日本列島内での渡来人のつながりを考える上で重要な資料です。

   また、金銅製釵子にもコの字のものがあり、銀製とほぼ同じ形状のものと、脚部分が中空に作られている物が見られます。
   風呂坊古墳群出土例のように、かなり大型で先端も太く、実際に髪飾りとしての使用は考えにくい例もあります。

オイダ山古墳出土品 カンザシ
金銅製カンザシ
銀製カンザシ
なぜこんなに大量のかんざしが副葬されたのか
もしかして、かんざし長者?
カンザシ カンザシ


 266太鼓塚26号墳出土遺物  大津市 古墳時代後期

  形状は直径8mの円墳で、玄室は長さ2.9m幅2.85mとほぼ正方形をしていました。玄室全体と羨道にかけての床面には石が敷かれています。
  発掘調査の時点で、横穴石室はすでに半分以上が壊されており、天井部分は不明です。石室の玄室奥壁側から沢山の土器が出土しました。

  須恵器は様々な種類の器があり、奥壁に沿って器台、はそう、提瓶、短脚高杯、長脚高杯、杯身、杯蓋、壷、甕などが置かれていました。
  今回は出土状況を元に須恵器の置かれていた場所を再現しています。また、玄関中央からは、ミニチュア炊飯具形土器が出土しています。

太鼓塚26号墳出土遺物 壺、器台、はそう、提瓶
長脚高坏
杯蓋、杯身、短脚高坏
短脚高坏





 280集落の中の渡来文化 -大壁建物- -韓式土器- -オンドル遺構-





 281穴太遺跡  滋賀県大津市穴不太一・二丁目ほか古墳時代後期  縄文〜平安の遺構や遺物が見つかっています。

   特に古墳時代の大壁建物が多数検出されており、朝鮮半島由来の床暖房施設オンドル遺構も見つかっています。
   ミニチュア炊飯具を副葬する渡来系古墳群が沢山作られた同時期に、渡来系の人々の集落が広がっていいました。

 大壁建物とは、
   溝を方形に巡らした中に細い柱材を立て並べ、これを壁の中に塗りこめて壁を建てるという構造の建物です。
   韓国の遺蹟でも類例が見られ、渡来人と関わる建物と考えられています。

 大壁建物1に関連する出土遺物 穴太遺跡  滋賀県大津市  7世紀前半
   棟持柱近くの床面から、須恵器杯身1、滑石製紡錘車1、入口付近の溝から木製斎串2、貼り床粘土内から木簡状の板1が出土しました。
   これは建物の建築に伴う地鎮祭の道具であったと考えられます。 これは、大津市内南滋賀遺跡や滋賀里遺跡などの大壁建物でも同じです。

 大壁建物とは
   方形の溝の中に細い柱材を竪並べ、これを内側に塗りこめて土壁を立ち上げ、屋根を壁で受けるという構造の、古墳時代の建物です。

   朝鮮半島でも多数見つかっており、渡来人の技術によるものと考えられています。
   住居か、何かの施設であったのかはわかっていません。大津市内の例では、溝内の柱に使われた木材までがよく残っています。

 建替えの行われた大壁建物
   穴太遺跡の調査では、3棟の大壁建物の溝が重なって見つかり、7世紀前半頃の短い期間に建替えが行なわれていました。
   最初の大壁建物1は、平面規模8.6×7.2m程で南北の溝の中央で棟持柱も確認され、南東側の溝中央から張り出した部分は入り口でした。

   次に、南に6.5メートル程ずらして立替えられた建物2は、周溝内の柱材が良好な状態で残っており、30〜60cm間隔で直径10〜15cm程の細材を
   立て並べていた様子が分かりました。溝の外側でも柱列が見つかっており、建物を囲う柵であったと考えられています。

   更に位置をずらして大壁建物3が建てられています。

 韓式系土器 甑(こしき)  南市東遺跡 滋賀県高島市 古墳時代中期

   この甑は、湖西北部の高島市の南市東遺跡という集跡落遺跡から出土の5世紀中頃の土器です。
   三国時代の朝鮮半島南部地域で作られた土器によく似た特徴があり、韓式系土器と呼ばれています。

   滋賀県内では、湖西北部の高島市や湖東地域を中心に5世紀代の遺跡から韓式系軟質土器が出土しており、
   5世紀には渡来人が近江の各地にいたことが分かります。しかし、大津市内では韓式土器は確認されていません。

   大津市域に渡来人が住み始めるのは、6世紀以降のようです。

 鳥足文土器
   大壁建物やオンドル状遺構など、朝鮮半島に由来する建物跡が沢山検出されている大津市域ですが、韓式系土器はほとんど見つかっていません。
   その中で、中畑田遺跡や太鼓塚遺跡からは、鳥足文の叩き目がみられる、朝鮮半島系の土器片が見つかっています。今後更に発見があるかも。

 穴太遺跡のオンドル
   オンドルは床下に作ったトンネル内に火を焚いて煙を通し、建物全体を暖める暖房施設です。中国東北部や朝鮮半島で用いられます。

   遺跡では、石を組んで作り、支脚石を据え付けたカマドに長い煙道を持っています。内部は火を受けた様子も見られ、半島の出土例と一致します。
   気候の違いから列島には定着しなかったようで、オンドル遺構はまさしく渡来人の文化といえます。

  オンドルに関する出土遺物 穴太遺跡 滋賀県大津市 7世紀前半
   須恵器の杯身は、オンドル焚口の中に埋まった状態で出土しました。ほぼ完形のものです。
   土師器の長胴甕は、光景25.5cm高さ48.2cmでオンドルの煙道の脇に横倒しで出土しました。オンドル造りの盛り土に意図的に埋められたもの
   です。


穴太遺跡の大壁建物巨大な王族級の居館
掘立柱建物
穴太遺跡 大壁建物のミニチュア 南滋賀遺跡の大壁建物 南滋賀遺跡の大壁建物
南滋賀遺跡の大壁建物 穴太遺跡のオンドル遺構 大壁建物1に関連する出土遺物 大壁建物とは 建替えの行われた
大壁建物
須恵器杯身1、
滑石製紡錘車1、
木製斎串2、
木簡状の板1
移動式かまど 移動式かまど 韓式系土器 甑こしき 韓式系土器 甑(こしき) 鳥足文土器
鳥足文土器 鳥足文土器
長胴甕
杯身 穴太遺跡のオンドル オンドルに関する出土遺物











  謎の筒型土製品

 290かまどの煙突? 
山陰形甑形土器

弥生時代後期〜
古墳時代前期
2世紀末〜4世紀
出雲市

主に山陰地方を
中心に分布
  筒型土製品

古墳時代後期
6世紀後半

奈良県御所市
渡来人集落
筒型土製品

古墳時代後期
6世紀前半

滋賀県大津市
高さ40cm余り 
渡来人集落




 291大和出土 下茶屋カマ田遺跡/奈良  5世紀 この地域には数多くの渡来人の大集落があった。引用5そこは葛城氏の支配地だった

  葛城氏は、在地系豪族といわれていますが弥生渡来人です。その実態については未取材で不明です。奈良・大阪の関連博物館を参照して下さい。


 かまどの煙突?筒型土製品
   円筒形やハの字形に裾が広がる形をしていて、内側に煤が付いているものも見られます。

   使用法がはっきりしない土製品でしたが、カマドと共に出土する例も確認され、煙突として使用されたものと考えられています。
   住居の中の作り付けカマドは渡来文化の一つですが、古墳時代には国内にも定着していきます。

   一方で、カマドの煙を外に出すために、筒型土製品を用いて煙突とすることは、あまり広まらず、
   渡来系の人々の生活様式のままであったようです。

  意味不明なフレーズですが、
    後から来た、裕福古墳渡来人=貴人の住居建物では、屋根を燻さず、新しい住居様式で、オンドルなどを用いて煙突で煙を外に排出したが、
    先住の弥生渡来人は竪穴住居に住み、茅葺屋根を守るために住居内に煙を充満させて燻す方法を続け、煙突は使わず、広まらなかった。と、
    そういう意味ではないでしょうか。


 筒型土製品  下茶屋カマ田遺跡 奈良県御所市  古墳時代後期

    古墳時代の巨大集落である奈良県・南郷遺跡群内では渡来系の遺構・遺物も多数確認されています。
    その中の下茶屋カマ田遺跡では、2つの筒型土製品が出土しました。円筒形のものを、底が広がる形のものに重ねて使用したと考えられています。

    6世紀中頃の須恵器の大甕と共に土坑に納められた状態で出土しました。 大甕と2本の煙突だけが穴を掘って埋められていた。なぜ?

かまどの煙突?
筒形土製品

下茶屋カマ田遺跡/奈良
筒型土製品
下茶屋カマ田遺跡/奈良

下茶屋カマ田遺跡/奈良

二つをつないだところ
煙突下側の接続部
二つ繋ぐと最上部に雨よけの帽子が必要になる。三段組のようです。
算盤形紡錘車 算盤形紡錘車 大和出土のものは大型で牛角形把手付きである。
 ただし、
牛角把手が逆向きです。
本当に合っていますか。

 大和の筒型土製品は、

 6世紀中頃、三点セットの組み物としてつくられた、大型の土製品です。
 下段の製品には牛角把手が付いており、移動式のようです。

 出雲の山陰型甑形土器とよく似ています。
    

算盤形紡錘車  下茶屋カマ田遺跡 奈良県御所市  古墳時代後期

紡錘車は糸を紡ぐコマを回す錘です。陶製の算盤形紡錘車は、三国時代の朝鮮半島の、特に新羅・伽耶を中心とする地域で見られます。

王陵から小規模な墳墓にまで納められていて、特に女性への副葬品として 使われていました。下茶屋カマ田遺跡に渡来人がいた証です。 





 292大津出土

 筒型土製品
   坂本里坊遺跡 滋賀県大津市 古墳時代後期 6世紀前半 煙突の可能性のある筒型土製品は、大津市内から4例ほど確認されています。

   坂本里坊遺跡の出土例は、古墳時代の遺物を含む遺構面から出土したものです。 上から下側に向かってハの字に広がる形で、上部には突帯が
   めぐっています。 下茶屋カマ田遺跡の出土例のように、筒と組み合わせるためのものと見られます。 把手は三方向についています。

 筒型土製品
   穴太遺跡南川原地区 滋賀県大津市 7世紀中頃 古墳時代末 煙突の可能性のある筒型土製品は大津市内から4例ほど確認されている。

   穴太遺跡の南川原地区の出土例は、7世紀中頃の小溝内から出土したものです。 これは、内側に煤が付いていることも確認できました。
   上に突帯がついており、他の筒型土製品と組み合わせて使用していたものと考えられます。


   ここで盛んに"突帯"と言われていますが、これは、鍔(つば) と言います。 帽子のつばと同じです。表現がおかしいと思います。


坂本里坊遺跡
この1点だけ煤が付いている

穴太遺跡
穴太遺跡の一点だけ煤が付いているが、火熱を受け続けた痕跡はあまりありません。
坂本里坊遺跡
筒型土製品
坂本里坊遺跡出土品
筒型土製品
筒型土製品
火熱を受け続けたものがこんなにきれいには残らない 土だけでこんなに薄い仕上げ  大津出土のものは全て背が低く大和のものとは別のもののようです。 百済土製煙筒試論
 この論文を見ると煙突説もあり得ると思えます。

 結論
  大津の筒型土製品は、6世紀前半の高さ40cm余りの円筒土製品で、たいへん小さく、大和や出雲のものとは程遠い感があります。

   大津のものは、論文にある、扶余の寺院のものに似ていると思います。
   つまり、大津のものは煙筒で、大和・出雲のものとは別のものかもしれません。





 295山陰型甑形土器2c後半-4cは、弥生時代後期から古墳時代初頭の一時期だけ山陰の各地を中心に出現した、用途不明の土器です。

  山陰型甑形土器の解説 転載引用「なぞの弥生土器・大型甑形土器」広島県教育事業団埋蔵文化財調査室広島考古学講座第6回 山田繁樹著
       論文の削除を恐れて抜粋して転載します。

  1.大型甑形土器とは
     弥生時代後期から古墳時代初頭の集落遺跡から出土しますが、古墳時代中期の竪穴住居跡から出土する甑と同様に、
     底がなく把手が外面に付いている形が似ていることから、そう呼ばれている素焼き土器です。

  2..分布状況
     75%が島根・鳥取から出土しています。 中四国では山口・徳島・香川・高知を除く。 九州では福岡で出土。
     北陸では石川県。近畿では三重・和歌山を除く。から出土。

  3.用途
     @広口部を上にして使用する。(不安定) 甑としての使用には対応する土器が出ていない。
     A広口部を下にして使用する。(安定)  燻製を作る。火力の調整。麻を蒸す。蒸留酒を造る。
     B儀式に使用する。            集落内の限られた住居跡から出土。  破砕して埋納する例もあり、仮器として祭祀に使用か。

   まとめ 使用用途不明。

大型甑形土器とは 山陰型甑形土器の分布 中国地方 西日本




 296百済土製煙筒試論  引用転載百済土製煙筒試論 金圭東著 杉井健訳 論文は削除されますので抜粋して紹介します。

  論文要旨で (高句麗で発達した温突(オンドル)を)、

高句麗文化を百済が受容する過程で百済に伝わったとしている。 高句麗(紀元前37-668) 百済(346-660)
山陰に円筒土製品が出現するのは弥生時代後期〜古墳時代初頭(300-400)です。

時代が大きく変わる直前に出現したこの土製品は、それを日常使用する人々が山陰をはじめとする地域へ大量移民してきたからのようです。

もしかすると、彼らが弥生時代の戦乱を終息に導く強大な軍事力を持った人々だったのかもと思いましたが、
ヤマトで円筒土製品が出現するのは古墳時代後期、5世紀以降からですから、関係ないようです。

そうなると、弥生時代と古墳時代の違い。その間に何があったから区分されたのかが知りたいです。
答え:@ヤマト政権が成立した。A高句麗が大敗して渡来人が押し寄せた。んん!これが答えか。答えになってない。


  論文は韓国 扶余陵寺やその近辺の施設 出土の煙筒 (煙突) の復元と分類を主としている。
・対象は、オンドル以前にクドゥ(ル)という炊事・暖房施設があり、それを研究対象とした。関西ではかまどをクドと言います。
 クドゥルは炊事のためのカマド、熱を蓄えて伝達する煙道、煙を排出する煙筒からなる施設である。

・扶余地域を中心に出土している土製煙筒は、@中空となった中空球形部の中央や下部に鍔が巡る蓋部と、A円筒形の身部で構成される。
 内面には大部分で煤の付着が認められ、灰黒色を帯びるものが多い。

・組み合わせた土製煙筒の高さは、150〜200cmだったと推定される。

 結論 この論文では、高句麗、百済、扶余の煙筒の構造を知ることができた。これらの遺物には内側に煤が付着していた



組合式煙筒の蓋部 組合型煙筒の身部1 組合型煙筒の身部2 蓋・身の類型的分類 組合型煙筒復元模式図

 考察

 円筒状土製品のまとめ

 山陰型甑形土器は、
出現期が弥生時代後期から古墳時代初頭 と言う事で、古墳時代後期に出現した大和や大津から出土したものとは、
200年とか400年とかの時間差があり、少し違うのではないかと思われます。
ただし、時代の変わり目に出現したということは、同一の文化を持った大量の渡来人が来た事は間違いなく、
それは、百済建国時期にもあたり、難民の大量流入もありえることでしょう。

しかし、決定的なことは、山陰型甑形土器には内側に煤が付着していない。
煙突として長期間火熱を受けると土器はボロボロになってしまいます。しかし、その様子は見受けられません。


 大和の筒型土製品は、
奈良県御所市 古墳時代後期 の葛城氏の領地から出土したことで当然半島人の生活や生業に関わる物でしょう。
一部では、大鍛冶の煙突とも言われています。が、高熱を受ける場所では、石製の煙突が耐久性があったことでしょう。

出現期が高句麗・百済が滅亡する前後にも当たり、論文の煙突に当たるのかもしれませんが、煤が付いていません。


 大津の円筒土製品は、古墳時代後期 、これは、内部に煤が着いていますので煙突でしょう。論文にあったものと瓜二つです。
   最後に一言、
この時代も庶民は竪穴住居に住んでいましたが、貴人はオンドルのある家に住んでいました。
石や泥を使って防火対策をして床暖房を作る進んだ技術を持っていて、石を積めば簡単に堅牢な煙突ができるのに

わざわざ、脆弱な手間のかかる土製の煙突を選ぶだろうかと、思います。


 付録
   これはオンドルの煙突と考えられています。
    @普通は石造りの堅牢なものです。 A土器の内側に煤が付いていません。
    Bカマドの煙突は激しい火熱を受けるため、消耗が激しくたちまち熱で壊れこのような再生は不可能。

  煙突と考える理由
    @大津から出土したものの内一つだけの内側に煤が付いていた。 Aオンドルの遺構が多く見つかっている。オンドルの遺構発掘状況
    Bかまど(クドゥ)の使用が始まっているので、かまどの煙突かもしれません。

  山陰型甑に関する文献
   「謎の弥生土器・大型甑形土器」(山陰型甑形土器の研究)
   山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた(愛媛県に分布)
   山陰型甑形土器 - 兵庫県立考古博物館(兵庫県内の分布)   

   煙突説に関する文献 百済土製煙筒試論 - 熊本大学学術リポジトリ (扶余のオンドルの煙突に関する論文の翻訳 (リンクは削除されます)


 300三井寺
  301三井寺
博物館出口 琵琶湖のパノラマが
美しい
三井寺の梵鐘で有名な三井寺 拝観料が高くて入れなかった 何があるんだろうね 別所駅構内通常すれ違いは駅構内でやるが 複線であるとはいえ、駅の外でやっていた

 303タマムシ
  三井寺の坂道で、玉虫をみつけました。ただ、車に轢かれていたので持ち帰りました。以前、奈良で玉虫厨子についてるのを見ました。
  本物は初めてです。
  それより、玉虫は日本ではほぼ絶滅状態であると思っていました。 車に轢かれるほどいるなんて思っても見ないことです。

玉虫ですから光を反射して写真が撮りにくい 腹側も玉虫になっていて、美しい  東北地方で、山ほどいる
カメムシが、もし、タマムシ
だったら、すごいでしょうね。

何千億匹といますからね。(笑)