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  明日香の考古学01    2018.06.03

  橿原考古学研究所付属博物館  奈良県橿原市畝傍町50-2 0744-24-1185月休撮影可
   第1展示室 旧石器~弥生

   第1展示室
   第2展示室
   第3展示室


 交通  近鉄線 畝傍御陵駅から4分 (290m)  橿原神宮前駅から13分 (1.1km)

 見所  近畿地方最大で最高権威の博物館。 大和の先史・古代遺物の展示。
      何もかもが素晴らしい、見飽きぬものばかりの貴重な品々でした。

 見学の動機
  「橿原考古学研究所創立八十周年記念特別展
    古代の輝き ―日本考古学と橿考研八十年の軌跡Ⅰ―」に合わせて見学

    秋にも第Ⅱ回が行われましたが、撮禁のものは何も記憶できませんでした。

 
 目次


01神武天皇陵

02博物館 外観
03展示庭園
10入口展示1
12玄関ホール展示
 飛鳥京苑池
13飛鳥京跡苑池出土
 の石造物
14博物館概要
15エノキ切株
16入口展示2
18出口展示
橿原考古学研究所 建物


第1展示室
A 旧石器時代
A1狩人の時代 人類の登場
A1-1人類の登場
A1-1-01シガゾウ
A1-1-02人類の登場
 火山灰層と年代
A1-1-03ナイフ形石器
 二上山北麓の旧石器
A1-1-04石の道具
A1-1-05石器作りの技術
A1-2サヌカイトの山
 二上山北麓遺跡群
A1-2-01panel

考察 二上山の火山活動
大和三山の成因

考察 奈良盆地の形成
   奈良盆地の地形

A1-2-03瀬戸内技法
A1-2-04石器作り
 
B 縄文時代
B1定住への歩み
B1-1槍・弓矢・土器の発明
B1-2狩のムラ

B1-2-1縄文の谷 草創期
B1-2-2草創期の土器
 早期の土器・石器 
B1-2-03前期の土器と石器
B1-2-05中期末~後期
B1-2-06後期の土器
B1-2-07土壙墓と人骨

B2豊かな狩猟採集民の文化
B2-1森の民のくらし
B2-1-1豊かな狩猟採集民の文化
 捕獲された動物
 狩猟の道具
B2-1-2縄文人の食物カロリー
B2-1-3森の民の装い
B2-1-4縄文の土製食器
B2-1-5 ドングリの加工法

B2-2森の民の墓
B2-2-02土器棺墓
B2-3祭りの道具
B2-3-01土偶
B2-3-02ミニチュア土器
B2-3-03不思議な道具
 4.3kaイベント
考察 東北縄文人と
   九州弥生人の交流  
B2-3-04石棒

B2-4遠隔地との交易
考察 交易と移住
B2-4-01遠隔地との交渉
B2-4-02交易
 漆の利用
考察 赤漆の製造

B2-4-03海との交易
B2-4-04石材の交易
B2-4-05装身具の交易
B2-4-06各地の土器
B2-4-07関東系の文様
 
弥生時代
C1稲作伝来
C1-1稲作のひろがり
C1-1-01panel
 水稲農耕の広がり
 稲作の伝播
C1-1-02突帯文土器
 私見 突帯文土器
C1-1-03稲たばと炭化米
C1-1-04弥生土器
 縄文の名残「大和形甕」
C1-1-05新たな道具(農耕具)
C1-1-06新たな道具(加工具)

C2田と森の融合
C2-1稲と森の知恵
C2-1-01弥生の狩猟
C2-1-05木製品
C2-1-5a木器の製作
C2-1-10b生活用具の製作
C2-1-10c装身具
C2-1-10d石製農具と縄
C2-1-10f織物の製作
C2-1-15土器
 
C3神の宿る器
C3-1青銅の神
C3-1-1銅鐸
C3-1-2青銅製品の分布
C3-1-3銅鐸の鋳造

C3-2神祭りの記憶
C3-2-01土器絵画
C3-2-02神祭りの再現
 私見 船と高殿
C3-2-03絵画土器

C3-3祖霊の世界
C3-3-01墓地
C3-3-02弥生の王墓
 子どもの墓

C4クニへのあゆみ
C4-1戦乱のムラ
C4-1-01防御施設を持つムラ
C4-1-02武器・武具
C4-2マツリゴトの統一

C4-2-1纏向遺跡の成立
C4-2-2纏向に運ばれた土器

C4-2-2aa祭祀と王権
C4-2-2b運ばれた各地の土器
 

 01神武天皇陵   神武天皇 畝傍山東北陵 明治時代
畝傍御陵前駅 畝傍山 神武天皇陵
幕末の文久2年に神武天皇陵に決定され

明治~昭和の間に天皇陵に造られたという

引用画像で見る「神武天皇陵」でっち上げの経緯 - 読む・考える・書く

皇紀2600年に合わせて植林や

全国から古木を移植したという

まぁ、樹木は全て新しいものばかりでした。
明治時代に選定され、整備された古墳です。当時、周囲に他の古墳があったかも不明となっています。と、聞かされました。

つまり、
明治時代に、周辺にあった小古墳などを整理して、畝傍山の麓に神武天皇陵を、新たに築造したということです。ですから造営年代は明治です。

 02橿原考古学研究所附属博物館 外観

高校時代の愛読書、堀辰雄の奈良らしい世界観のような光景でした。
関西でも大和らしい建築。明治以降でしょう。
古代の輝き-日本考古学と橿原考研80年の軌跡1-展を見に行きました。

橿考研博物館

 03展示庭園
組合式石棺
1号 (前方後円墳) 6世紀後半
        桜井市穴師

前方後円墳であった1号墳の、後円部の横穴石室内に収められていた、緑色凝灰岩製組合せの箱形石棺で、石室内から金銅製勾玉、金環、環頭大刀、鉄鏃、挂甲、馬具、土器などが出土した。

組合式石棺 深谷1号墳 7世紀中頃 桜井市忍阪

榛原石の板石を精巧に組み合わせた石棺で、小型の円墳内の横穴式石室に納められていた。棺内から多数の人骨が出土した。

横口式石棺 (底板)
横口式石棺 (底板) 7世紀 明日香村野口

天武・持統合葬陵と鬼ノ俎・鬼ノ雪隠古墳との中間あたりから検出され、個人の住宅の庭石に使用されていたもの。板石の加工から竜田御坊山3号墳の石槨底板に類似するものと考えられる。
   

修羅石 この石は昭和53年9月3日藤井寺市船橋河原で朝日新聞社・朝日放送とが行った復元修羅の牽引実験に使用した巨石でその重量14トン。
実験に協力の石工から寄贈を受け、ここに保存して我が国の古代土木技術研究の資料とする。昭和56年中秋 


 復元石槨
昭和59年5月高取町佐田で発掘調査した束明神古墳実物大石槨模型である。

切石積の石核は飛鳥時代古墳構造の中でも特色あるもので、その構築技術を明らかにするため、
同質の凝灰岩により製作した。尚、天井と入口部分は推定復元による。

この復元研究に当たり読売テレビ放送の協力を受け、、製作には打谷石材、大谷石材商会の
尽力を得た。 昭和59年10月3日 


 10入口展示1


 12玄関ホール展示
玄関ホール  ここには、
 飛鳥京苑池の、流水施設、石槽と、
 弥生時代の開拓の跡、エノキの巨木の切株が展示されていました。


 飛鳥京苑池
 飛鳥京
6世紀末から7世紀後半までの、飛鳥板蓋宮跡を中心とする都市遺跡。宮殿と朝廷の諸施設、祭祀施設、生産施設、流通施設。
川原寺、飛鳥寺、飛鳥池工房、苑池、水落施設等。

 飛鳥京苑池
明日香村村岡にある苑池遺構。伝飛鳥板蓋宮跡の西北に隣接する。東西約36m南北約52m、付属の掘立柱建物跡等を含めると、東西約80m南北230m以上とみられる、中国都城の文化の影響を受けた庭園跡。

飛鳥京跡苑池遺構 国内最古の宮廷庭園遺跡 飛鳥京跡苑池 史跡名勝飛鳥京跡苑池 発掘調査飛鳥京跡苑池 


飛鳥京跡苑池全景 飛鳥京苑池の位置
石造物の出土位置
飛鳥京苑池の位置と
石造物の出土位置
飛鳥京の位置と苑池の位置 石造物の位置 石造物と出土位置
飛鳥苑池の航空写真 苑池遺構 西辺護岸と流水施設
上面写真
苑池全景
張り出し・島状石積み
石造物石槽

回遊式庭園の一部
苑池主要部分の写真

 13飛鳥京跡苑池から出土した石造物

  -流水施設- 高さ165cm最大幅125cm重さ2.5t。石英閃緑岩製。
   石材を裾広がりに成形し、頭部には横方向の穴を貫通させています。孔は径9cmで、頭部の前後で3cmの高低差をつけて前下がりになっています。
   南池に立てられており、1916年 (大正5) に出土した別の2点と、この石造物が直線で並んで水を流す仕組みになっていました。

  -石槽- 長径270cm短系206cm厚さ55cm重さ3.6t容量約350ℓ
   扁平な石材の内部を深さ41cmに刳り抜いています。内面は平滑に成形され、周縁、平坦面、底面はほぼ水平です。
   底面の隅には径4cmの水抜き孔が開けられています。流水施設として系統で水を送って溜めたものと考えられます。

飛鳥京跡苑池から出土した石造物 流水施設
穴には銅管が貫通した
飛鳥京苑池 南池
流水施設 飛鳥時代
石槽
飛鳥京苑池 南池
石槽 飛鳥時代

 14博物館概要 (抜粋)
昭和15(1940) 大和国史館として開館。昭和23 (1948) 大和歴史館。と改名し、昭和55(1980)橿原考古学研究所付属博物館となる。
国宝1件、重要文化財10件を含む約10万点を所蔵保管し、その内約1万点を常設展示しています
当館を気軽にご利用いただき、奈良の歴史、ひいては日本の歴史を振り返る機会にしていただければ幸いです。

ようこそ橿原考古学研究所附属博物館へ
(橿考博沿革 未記述)
橿原公苑と橿考研の歩み 絵葉書から見た橿原道場
絵葉書から見た橿原道場

大和・橿原神宮外苑
橿原道場(武道場)

野外公堂(円形競技場)紫光館(休憩施設・講演会場)

大和国史館
  (研究所・博物館)
八紘寮(宿舎)
橿原文庫(図書館)
橿原公苑と橿考研今昔 橿考研の昔 博物館周辺の今 橿原道場の由来
同志社大生の見学。猛烈なスピードで解説されたが誰もメモせず。
何しに来たの?


 15エノキ切株 ●弥生時代前期 前4世紀(約2500年前) ●御所市中西遺跡 2010年発見。 ●直径約80cm地上から80cmで伐採。

  ・切株には石おのによる切断痕跡や表面を焼きながら作業を進めた様子が伺える。弥生人による森林開発を具体的に示す貴重な考古資料です。
   根張りは5m四方に及ぶ大きなものです。

  ・切株は根と共に発掘調査後、約3年をかけて保存処理しました。その方法はポリエチレングリコール (PEG) の含浸法です。
   森と人との関わりを学ぶ実物資料として希少であり、展示を通じて弥生人の営みや、弥生時代の息吹を感じてほしいと考えています。

  大神神社御用達の大正楼 弥生前期のエノキ切り株を特別展示 奈良・橿考研

弥生前期の森林(埋没)と
水田
中西遺跡・秋津遺跡
エノキ切株/弥生前期
前4世紀/御所市中西遺跡
エノキ切株

 ※中西遺跡は、弥生前期の大規模開拓の遺跡で、広大な水田が切り開かれました。詳細は以下のリンクをご覧ください。
    大規模な農耕祭祀が行われたようで、宗教都市というのは言い過ぎでしょうが、多くの遺物が出ているようです。

 弥生前期最大の水田跡 奈良・御所の中西遺跡 :日本経済新聞  【秋津・中西遺跡】浮かび上がる初期ヤマト政権の計画的「宗教都市」産経
 

御所市 中西遺跡:弥生前期最大の水田跡2千枚 高い計画性と技術

  

御所市 中西遺跡 奈良歴史散歩

  

御所市中西遺跡の弥生時代水田遺構 - 飛鳥・ヤマトを歩き


 

御所市 中西遺跡第 26 次調査 - 奈良県立橿原考古学研究所

  

6. 中西遺跡 | 奈良県立橿原考古学研究所

  

奈良県御所市室 中西遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所


 

奈良県御所市室 中西遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所

  巨勢山古墳群こせやまこふんぐん

 



 16入口展示2
展示室入口前には、奈良盆地周辺遺跡分布を示す立体地図模型、非展示の男性土偶などの写真、復元超大型円筒埴輪や
大型掘立柱建物模型、復元三角縁四神四獣鏡を展示

奈良盆地周辺遺跡分布
ジオラマ地域
奈良地方遺跡ジオラマ
ジオラマ地域地図


 男性土偶/観音寺本馬遺跡 01 02 03 04
 縄文晩期(約3千年前)の多数の土壙墓から 壮年男性の全身に近い骨や、大量の人骨が 見つかった。
  男性土偶

観音寺本馬遺跡
翡翠製管玉

中西遺跡・秋津遺跡 
ノコギリクワガタ 

中西遺跡・秋津遺跡

 大型円筒埴輪 (復元)
  桜井市メスリ山古墳 01 02 03 製作奈良芸術短期大学 2005年
   


 極楽寺ヒビキ遺跡大型掘立柱建物復元模

  御所市極楽寺ヒビキ遺跡では、古墳時代中期中頃 (5世紀中頃) の大型掘立柱建物が検出された。

  両岸に石垣を積んだ塀に囲まれた約2000㎡の区画内の西側で確認されたもので、建物の東側は広場である。柱は全て腐朽し、痕跡だけを残すのみ
  だが、5間×5間の建物本体の面積は220㎡(67坪)に達し、日本列島屈指の規模を誇る。東側と南側にはL字形に曲がる合計12間分の塀(柵)が巡る。

  縁部は通有の円柱だが、身舎部は2間×2間の特異な板状柱で、柱痕跡が赤い土に置き換わっていた。

  近くに、葛城地域最大の前方後円墳である室宮山古墳(墳長238m)があり、その後円部墳長から直弧文を施した板状柱を持つ大型家型埴輪
  出土している (第2展示室展示中)。柱間や板状柱の特徴などが共通することから、この家型埴輪をもとに建物の復元模型が製作された。

極楽寺ヒビキ遺跡の大型掘立柱建物復元模型 極楽寺ヒビキ遺跡平面図 掘立柱建物復元模型


 三角縁吾作四神四獣(四号鏡) 直径20cm
  黒塚古墳三角縁神獣鏡の1枚を複製して、現代の製作技術で復元したものです。砂型に流し込んで作ったものですが、実際は真土(粘土)を使った
  鋳型に流し込んでいたと考えられます。銅74%錫20%鉛・亜鉛がそれぞれ3%という古代の青銅鏡に比較的近い成分比での復元を行っています。

  鏡背には4体の神像と、4体の獣形が描かれ、その外側に反時計回りで
  「吾作明竟甚大工 上有王喬以赤松 獅子天鹿其粦龍 点火名好世無装雙」の銘文が刻まれています。

  リンク 洛陽で発見された三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡33系

三角縁四神神獣鏡 三角縁四神神獣鏡
 

 18出口展示  第3展示室の出口には、巨木を刳り抜いた井戸枠、が展示されて、度肝を抜かれます。

 横田洞垣内遺跡の一木刳り抜き井戸
  大和郡山市横田町小字堂垣内に所在する横田堂垣内遺跡で、奈良時代の大きな井戸が確認されました。
  掘り方の規模は長径6.2m短径5.7m深さ3.3mでその中央にヒノキの一木を刳り抜いた井戸枠が据えられていました。長さ3.1m直径1.0m。

  これまでに県内で確認された奈良時代の一木刳り抜き井戸枠の中では、斑鳩町法起寺7次調査に次ぐ極めて大きいものです。
  井戸枠の外面には手斧の加工痕が明瞭です。一方内面は比較的平滑な仕上げです。

  井戸枠下方2ヶ所には方形の孔が穿たれており、そこには外面から別材がはめ込まれています。この別材には「下」の墨書がありました。
  位置は井戸枠の上下と一致しており、井戸設置時あるいは、加工時に必要とされたものと考えられます。

井戸枠 横田洞垣内遺跡の一木刳り抜き井戸
←上、下→
木の末、木の元
墨書「下」
水に浸かっていた方は腐らなかった。
手斧(チョウナ)による加工

木の上下を正しく使っていた。


 益田池の樋管
  この樋管は昭和35年、橿原市池尻町で高取川の河川改修工事中に発見された、益田池の樋菅である。長さ5.5m幅1.2mの檜の大木を刳抜いて
  用いている。

  益田池は弘仁13年(822)畿内に大旱魃が起きた際、藤原縄主、紀末等、真円律師が中心になり築造した。
  池は高取川の水量を池尻町で長さ200m幅30m高さ8mの堤防で堰き止めたもので、その範囲は鳥屋町南妙法寺町見瀬町にまたがっていた。

  総面積400.50㎡、貯水量約140万tと推定される。

益田池の樋管
長5.5m幅1.2m大木刳り抜き
 益田池822(弘仁13)畿内の大旱魃に際し築造。
高取川を長200m幅30m高8mの堤防で堰き止めた。貯水量140万トン
 



 橿原考古学研究所 建物

 橿原考古学研究所 2018.06.03テレビによく登場される偉い先生方が、たくさんおられる研究所です。
何とも言えない、畏敬の念を感じていました。近寄り難いオーラを発する権威の先生方と思っております。
確かにそうですが、その先生方が、博物館でボランティアガイドをされていました。感動しました。

2019.4.18に明日香村へ行きましたら、知らずにもっと偉い方に、気安く話しかけて、いろいろお教えいただきました。
バカですねぇ、私は。少し落ち着いてよく見て考えれば、どんな人と話しているか、わかりそうなものを。反省しました。 
 





第1展示室




  橿考研のような高名な研究所の先生は、すごく偉い方々と、一種畏れ多い気持ちになります。
  ところが、この日、そういった沢山の偉い先生方が、解説をするために大勢で展示室に出ておられました。大変驚くと共に、感激しました。

 




 A 旧石器時代



 A1狩人の時代 人類の登場
 A1-1人類の登場


 A1-1-01シガゾウ
  「シガゾウ牙」が、日本地質学会により平成28年に「(奈良)県の石」として選定されました。

 ◆奈良県の化石 前期更新世動物化石 (主要産地:奈良県北葛城郡広陵町河合町 (馬見丘陵))

   馬見丘陵では開墾や宅地開発に伴い、アケボノゾウの臼歯が1点、種類不明の長鼻類の切歯 (牙) が4点、ならびにシカマシフゾウの角が
   1点発掘されている。アケボノゾウ (象) とシカマシフゾウ (鹿) は、ともに日本の前期更新世 (258万-180万年前) を代表する哺乳類である。

   アケボノゾウは肩高2m足らずの小さなゾウで、類似の種は大陸で見つかっていない。
   その先祖が大陸から渡来した後、日本列島が島嶼化したため、列島固有種となったと考えられる。


 洪積世前期に生きていたシガゾウ
  シガゾウはさして大きくないマンモスの仲間である。本来は温帯性の物であったが、気候の寒冷化に適応して東アジアに広がった。
  洪積世前期~中期初め (約150万年~40万年前) の頃に生息した。丁度その時期は、人類がアフリカから他の大陸に広がった時期に当たる。

シガゾウ牙
●洪積世前~中期
●河合町穴闇

最近、撮影禁止になったので邪馬台国大研究から拝借しました
洪積世前期に生きていたシガゾウ


 A1-1-02人類の登場

  三郷町勢野峯ノ阪遺跡下層石器群は、炭素同位体 (C14) による年代測定法によって、2万5千年前の石器であることがわかった。
  (せやみねのさか、奈良県生駒郡三郷町大字勢野字峯ノ阪 )

  礫を分割して石核の素材とする技術は、この時期の列島に広く発見されているが、近畿では更に発展して、瀬戸内技法と呼ばれる
  翼の形をした剥片を量産する技術へつながっていく。

  勢野峯ノ阪遺跡下層石器群は展示されていません。博物館のHPのみの展示です。



 火山灰層と年代 -旧石器・縄文の年代決定法-

  旧石器時代の年代決定には、自然科学の方法を応用する。その種類には、炭素同位体法フィッショントラック法などがある。
  これらの方法で年代が明らかになった火山灰は、その広範囲な広がりから、全国の石器の年代を比較する鍵として役立っている。

 フィッショントラック法
  自然界にある鉱物矢天然ガラスには、微量のウラン同位体 (U238) がある。ウラン同位体は、自ら核分裂して飛び散る際に周囲に傷をつける。
  例えば、火山灰中の火山ガラスにウラン238がつけた傷を数え、核分裂が進行する単位時間当たりの割合によって計算すれば、火山ガラスの
  古さを知ることができる。

人類の登場 火山灰層と年代
旧石器・縄文の年代決定
代表的な標識火山灰層
標識火山灰層名 形成年代
(約万年前)
発生火山名
 姶良丹沢火山灰  2.1~2.4  姶良カルデラ
 十和田八戸軽石  1~1.3  十和田カルデラ
 阿蘇4火山灰  7  阿蘇カルデラ
 大山倉吉軽石   4.6  大山 
 箱根東京軽石  4.9  箱根カルデラ 
 御岳第Ⅰ軽石  7~9  御岳山 
 ※御岳山✖⇒御嶽山〇
 奈良県のAT層 近畿のAT層がこんなに
浅い所に、あったとは知らなかった 。地下150cm程か
   


 A1-1-03ナイフ形石器

約2万年前の日本列島と動物群 動物群
マンモス・ヘラジカ
ニホンムカシジカ
ヤギュウ・ヒグマ
オオカミ・ヤチネズミ
ナウマンゾウ
ナキウサギ
ナイフ形石器の地域相
 東北・北海道
関東~九州 北海道:石刃技法
東北-北陸:
   東山型ナイフ形石器
   杉久保型ナイフ形石器
東北-近畿太平洋側:
   茂呂型ナイフ形石器
近畿-中・四国:
   瀬戸内技法
   国府型ナイフ形石器
九州:剥片尖頭器
黒曜石産地
 白滝-北海道
 和田峠-長野
 隠岐-島根
 姫島-大分
 腰岳-佐賀
サヌカイト産地
 二上山-奈良
 国分台-香川
 冠山-山口



 二上山北麓の旧石器 ●後期旧石器 前1,8000年前 ●香芝市二上山北麓遺跡群


二上山北麓の旧石器

石器作りの技術
石の道具
●後期旧石器
●香芝市二上山北麓遺跡群
握槌形石器
Hand Axe
 


 A1-1-04石の道具 ●後期旧石器 前18,000年頃  ●香芝市二上山北麓遺跡群

石の道具
彫器楔形石器

・掻器、・削器、

チョッピングトゥール
 (両刃礫石器)
 前期旧石器から使用
・国府型ナイフ形石器
チョッパー(片刃礫石器)
石の道具
後期旧石器
二上山北麓遺跡群



 ※チョッピング・トゥール (コトバンク)
両刃礫石器(チョッピング・トゥール)と
片刃礫石器(チョッパー)は、共に東南アジアにおける石器製作の伝統 (南方の文化) で、周口店で出土している。叩き潰す、叩き切る石器。

握槌形石器(ハンドアックス)(=握槌文化)は西方の文化(アフリカ・ヨーロッパ・西アジア=アシュール文化)である。
 旧石器時代の両面加工石器で握槌は、柄をつけずに手で直接握って使ったという想定の命名であろうか。その一部が柄につけて使われたことは,
 刃に残る使用痕跡の研究から判明している(ロシアのコスチョンキ)。引用コトバンク

二上山で両方の文化型の石器が出土したということは、両方の文化を併せ持つ人々がいたということか。

※チョッパーやチョッピングトゥールは100万年前のアフリカオルドバイ文化に始まっている。そんなに古い石器が100万年間も使い続けられたことも驚きである。


 ※楔形石器 
  楔形石器 ColBaseでは、南インド産、前期旧石器時代、約60万年前の石器とある。

vol 39 二上山サヌカイト打製石斧 - 石器ラプソディー

 では、
  使用目的は「くさび」だと言っている。


 ※彫器 は、木や骨に溝を彫る加工具である。


 ※長い長い旧石器時代の間に獲得した石器類が、100万年もの間、原人新人の枠を超えて使い続けられ、アフリカ起源、東南アジア起源、
  インド起源の、発生時代も地域もバラバラなものが、二上山から全て出てくるのは、まるで旧石器の正倉院のようです。



 A1-1-05石器作りの技術 ●後期旧石器 前18,000年頃(2万年前)  ●香芝市二上山北麓遺跡群

石器作りの技術
後期旧石器2万年前
二上山北麓遺跡群
縦長剥片
縦長剥片石核
横長剥片石核
(瀬戸内技法)
 


 A1-2サヌカイトの山
二上山の火山活動でできた火山岩に、サヌカイトと呼ばれる安山岩の一種がある。黒いガラスのようなこの石は、石器作りに最適であった。
旧石器人は、サヌカイトの岩盤に向けて穴を掘ったり、礫となって流出したサヌカイトの堆積層を掘削して原石を入手した。
二上山北麓には、無尽蔵のサヌカイトに腕を振るった旧石器人の石器製作遺跡が集中している。

 ※二上山のサヌカイトは瀬戸内産のものに比べて厚手である。
薄いものでは製作できる石器の多様性が乏しいが、ここでは、思う形のものが製作可能である。
また、信州をはじめとする本州産の黒曜石原産地は埋蔵量が少なく、産地を支配する集団に独占されていたが、二上山の露頭は
大変大きく広く、露頭を独占支配する集団もいなかったと考えられる。と聞いている。


 二上山北麓遺跡群 (引用:橿考研)
遺跡群の中の、桜ヶ丘第1地点では、遺跡からはナイフ形石器や削器などの旧石器時代の石器が出土したが、一般の遺跡と比較して完成された石器は少なく、石器の素材の段階の剥片、石核、製作途中で生じる砕片、加えて石器製作の道具であるハンマーなどが多数出土していて、ここがサヌカイトの原産地にある遺跡としての特徴を示すものであった。※石器製作遺跡であったと言っている。

遺跡群内のその他の遺跡については言及がないので、これは二上山博物館で確かめるしかありません。(撮影可・公開禁止

 A1-2-01panel
サヌカイトの山
上に記述
サヌカイトの山 二上山のサヌカイト
大露頭

段丘上のサヌカイトの
採掘坑
香芝市鶴峯荘遺跡
 
二上山北麓の遺跡分布 二上山北麓の遺跡
桜ヶ丘第1地点
鶴峯荘第1地点
二上山の火山岩類  


 研究

 二上山の火山活動
二上山は
  
新第三紀後期の火山活動で形成された火山。約2000万年前の噴火で形成され、1400万年前頃に最終活動を終えた。
その後、約100万年前に、東西圧力で隆起した金剛山地(花崗岩塊)の北端となった。
大和三山 畝傍山は第三紀の火山であり、耳成山も第三紀約1000万から数百万年前の火山である。

天の香具山は
  吉野竜門山塊 (竜門山地) の末端で、マグマが地下の深所で冷え固まった花崗岩が隆起したもので、
  金剛山金剛山葛城山
  生駒山地生駒山
  笠置山地三輪山などと同様の成因 (約100万年前に隆起した) である。
 A1-2-02map 
二上山 地形図 二上山 航空写真 大和三山 位置図 奈良盆地を囲む山地広大な平坦地があったところに、花崗岩の山地が隆起してきた 奈良盆地
東西圧力で盆地の基底岩盤は割れて断層帯になり沈下し続けている
近畿地方の地形
引用wiki紀伊山地

 研究

 奈良盆地の形成
奈良県には地学を扱った博物館がなく、唯一、「参考資料(奈良盆地東縁断層帯)地形のでき方」のみがそれを知る手掛かりでした。
誠に申し訳ありませんが、これを拝借して奈良県の地形について理解を深めたいと思います。
①約1800万年前
基盤岩山地の低平化
列島は平坦だった
大陸から分離を始める
②約1600万年前
藤原層群の堆積
前期中新世~中期中新世初頭の海成層
桜井地域の地質
③約1500万年前
地獄谷累層の堆積
浸食を受けた藤原層上に堆積した河川堆積物桜井地域の地質
④約1500~250万年前
高樋断層の発生
約1千万年前東西圧縮強まり、大和高原の隆起、奈良盆地の沈降が始まる。
⑤約100~250万年前
大阪層群最下部の堆積130万年前海成層大阪層群堆積。
奈良盆地原形成立。海進は少なく河川や扇状地堆積物が充填する。大和高原の隆起は続き断層が発達する。
⑤約100~250万年前
西に生駒・金剛山地があり古琵琶湖の流路に大和湖があり、大和川は中央構造線に沿って紀ノ川となっていた。
⑥約30~50万年前
大阪層群最下部層・最上部層の堆積
約85万年前以降東西圧縮による断層が地塊化促進。大和高原の隆起と大和盆地の沈降。
⑥100万年以降 ⑦約25~1万年前
現在の段丘となる地層の堆積
東西圧力・隆起・沈降継続。奈良盆地は淡水湖となり、現大和川から大阪平野へ流れていた。
断層活動は続き、地形は変位し続ける。
⑦約1万年前の地質図

広大な沖積平野が広がる
⑧現在の地質状況
何度もの大きな断層活動によって地層がたわんでいる。



 奈良盆地の地形
「防災基礎講座:地域災害環境編 47.奈良盆地」では、現在の地学的現状を知ることが出来ます。
奈良盆地は地下深部で形成した花崗岩の山塊に囲まれ、大和川は、唯一の堆積岩層を浸食して西流する。
奈良盆地の基盤は圧縮によって深く沈み、軟弱な海成層大阪層群が底部を深く充填している。
  盆地頭部は断層崖、
西部は隆起花崗岩塊、南部には古火山や浸食残丘が多くみられ、その先は中央構造線に繋がっている。
北部には低い丘陵を挟んで京都盆地が広がっている。


完新世初頭の大和盆地大阪平野京都盆地、海没し、周囲の山地から流入した土砂で埋め立てられてきた。

縄文時代(6000年前)には大和盆地は大和湖であり、、
古墳時代の5世紀頃には低湿地が目立つ広大な平野となっていた。
大和川は北流しているめ、湿地の乾燥化は南部、明日香村付近から始まっていたと思われる。
この頃の奈良盆地は広大な湿地が乾燥化し始めていたのである。

「あきつしま」は「秋津洲」や「蜻蛉島」と書かれるのは、このような黎明期の日本国・大和盆地南端の宮都、の様相を伝えているような気がします。
あちこちに湿地や水溜りがあり、トンボが飛び交い、イモリや亀・鷺などの小動物が豊かで、水田耕作には便利ですが、大きな都市をつくるには最適とは言えない環境だったかもしれません。

狭小な明日香村の地に開かれた宮都は、その後次第に拡大する都市機能・政治機能と共に政治的理由で、より広い、また、新しい新環境を求めて移動し続け、最後には、平城京・平安京へと発展していった。 宮都の変遷 古代宮都の地図

 

 A1-2-03瀬戸内技法

  約2万年前には、材料となる石 (石核) の形を割り整え、形の定まった石のかけら (剥片) を連続して作る技術が工夫された。

  近畿地方では、横長の剥片を作る技術が発達して、瀬戸内技法が確立された。石核の加工から、ナイフ形石器の製作までを一連に進行させる、
  世界に例を見ないナイフ形石器の量産技術である。

製作行程 第1工程
原石を打ち欠いて
盤状石核を作り
盤状剥片を作る
第2工程 ①盤状剥片を石核として
 翼状剥片を切り出す

②盤状石核を打ち欠いて
 盤状剥片を切り出し、

 盤状剥片を石核に加工して
 翼状剥片を切り出す
第3工程
翼状剥片を成形して国府型ナイフ形石器にする


 二上山産サヌカイトの使用と国府型ナイフの広がり
  列島の旧石器人が石器作りに使用した石材は、サヌカイト・黒曜石・硬質頁岩・チャート等があり、地域ごとに違っている。

  しかし、旧石器人には、異なる地域の石材に対する順応性もあったようだ。遠く旅した近畿中部~瀬戸内の旧石器人が、
  各地の石材で試みた国府型ナイフ形石器が発見されている。


 二上山産サヌカイトと国分台産サヌカイトの違い
  二上山のサヌカイトは、剥片に剥離すると、分厚い剥片ができ、石器としての多様性がある。国分台のものは薄いので、できる石器が限定される。

二上山産サヌカイトの使用と国府型ナイフの広がり 二上山産サヌカイトの使用と国府型ナイフの広がり 石材の地域相
 北海道
 東北日本海側
 東北太平洋側
 関東
 信州・伊豆
 北陸
 東海
 近畿・中四国
 中国地方
 九州西半分
 九州東半分
 北部九州
黒曜石
頁岩
流紋岩
黒曜石など雑多
信黒曜石
流紋岩
チャート
サヌカイト
黒曜石
黒曜石
堆積岩
サヌカイト
 国府型ナイフの出土地
 山形県
 新潟県
 関東
 関東
 佐賀県
 大分県
越中山遺跡
御淵上
殿山
柏ヶ谷長ヲサ
船塚
赤城

 サヌカイト原産地
  奈良県:二上山
  香川県:国府台
  広島県:冠山
  佐賀県:鬼の鼻山




  石器の切れ味
   いまみる石器は白く風化していて、何も切れそうにない。しかし、もとは黒いガラス質であり、剃刀のような切れ味があった。
   復元した石器で物を実際に切り、その鋭さを実験した。

 二上山サヌカイトの
使用地域
 東:伊勢湾
 西:和歌山、明石
 北:丹波、琵琶湖 
     天然ガラスの
鋭利な切れ味
 

 A1-2-04石器作り
 A1-2-05瀬戸内技法

 A1-2-05b1石器作りの材料

 A1-2-05b1瀬戸内技法 ●後期旧石器時代 前18,000年頃 ●香芝市二上山北麓遺跡群

第1工程 原材料
盤状剥片石核   盤状剥片   材料      
③盤状剥片石核を
作る
②盤状剥片を剥がし ①原石を打ち欠いて 材料 ・白滝産黒曜石
・和田峠産黒曜石
・和田峠産黒曜石
・国府台産サヌカイト

  A1-2-05c2-3

第3工程 第2工程
国府型ナイフ形石器   翼状剥片   翼状剥片石核 盤状剥片石核 
⑥翼状剥片から国府型ナイフ形石器を
成形する
⑤翼状剥片石核から、翼状剥片を
打ち剥がす
④盤状剥片石核から、翼状剥片石核を打ち剥がす

 


 A1-2-05h瀬戸内技法の復元


  瀬戸内技法の復元

左:国府型ナイフ形石器   右:翼状剥片   翼状剥片石核   盤状剥片   盤状剥片石核
第3工程 第2工程 第1工程 
 ④翼状剥片から国府型ナイフ形石器を作る  ③翼状剥片石核から
翼状剥片を作る
①原石から盤状剥片石核を作る
②盤状剥片石核から翼状剥片石核を作る
 





 B 縄文時代






 B1定住への歩み

 B1-1槍・弓矢・土器の発明
 B1-1-01槍・弓矢・土器の発明
土器の発生と槍・弓矢 (華北)土城里 矢柄研磨
(沿海州)チェルトヴィ・ヴォロタ 矢柄研磨、
      尖頭器、剥片石器、有孔円盤

(極東)
ガーシャ12,96±120BP・土器片・尖頭器・石鏃
(シベリア)グロマトゥーハ、土器
(北海道)
網走 尖頭器、石鏃
東釧路 矢柄研磨
美利河Ⅰ 尖頭器
(東北)
表舘 土器
松沢 矢柄研磨
弓張平 尖頭器


  (北陸)
中町 矢柄研磨
小石屋洞穴 土器
鳥浜 土器9,370±120BP
(関東)
前田耕地 大型尖頭器・石鏃
上野 土器
(東海)
柳又 石鏃
椛の湖 矢柄研磨
酒吞ジュリンナ 石鏃・尖頭器・矢柄研磨
  (近畿)
桐山和田 尖頭器・石鏃
武者ヶ谷 土器
(中国・四国)
福島 矢柄研磨
馬渡岩陰 土器
上黒岩 矢柄研磨・石鏃12,165±600BP
(九州)
泉福寺洞穴 尖頭器・石鏃
堂地西 土器


弓矢 土器
北朝鮮
 土城里
ロシア
 チェルトヴィ・ヴォロタ
北海道
 東釧路 6,000-5,000BP
山形県
 松沢
新潟県
 仲町
岐阜県
 椛の湖 草創期
愛知県
 酒呑ジュリンナ9,000BP
広島県
 福島
愛媛県
 上黒岩12,165±600BP
朝鮮半島
 壬佛里
 新岩里
ロシア
 グロマトゥーハ 15,000BP
 ガーシャ 12,960±120BP
青森県
 表館12,000BP
長野県
 小石屋洞窟
東京都
 上野

福井県
 鳥浜 9,370±120BP
京都府
 武者ヶ谷
広島県
 馬渡岩陰 12,000-5,000BP
長崎県
 泉福寺洞穴 13,000-12,000
宮崎県
 堂地西 草創期
ロシア
 チェルトヴィ・ヴォロタ
 7700BP
 ガーシャ 12,960±120BP
北海道
 タチカルシュナイ
 美利河Ⅰ 20,000-10,000BP
山形県
 弓張平
新潟県
 小瀬ヶ沢洞窟 9,000BP
東京
 前田耕地 13,000BP
岐阜県
 柳又
愛知県
 酒呑ジュリンナ 9,000BP
長崎県
 泉福寺洞穴 12,000-13,000BP
 

 B1-1-02
 定住への歩み
  約1万5千年前を境に氷期は去り、気候は温暖化し始めた。狩猟の対象となる動物相が変化したのに合わせ、石器も変化を見せた。
  ナイフ形石器の小型化や石槍・細石刃などの様々な技術革新が行われ、ついに弓矢と土器が発明された。

  新たな環境への適応は、地球上の各地域によって違った。
  西アジアのように栽培農業へ進んだ地域に対し、常緑広葉樹・落葉広葉樹の森に覆われた日本では、森の豊かさが狩猟採集社会を発展させた。


 槍・弓矢・土器の発明
  環日本海地域の細石刃・尖頭器文化が、新たに石鏃を作り始める頃、列島に土器が発生する。これが世界最古の土器である。

  奈良県東部の山間にある北野ウチカタビロ遺跡桐山和田遺跡からは、有舌尖頭器・石鏃・矢柄研磨器・磨製石斧と共に、
  隆起線文土器と呼ばれる最古の土器の一種が出土した。 (縄文草創期)



 県下最古の土器は隆起線文土器であり、細い粘土紐を口の周りに数段巡らす特徴を持つ。縄目の施文はまだ行われていない。
  しかし、縄文草創期の土器は数少なく、石鏃は形態上の時期区分が難しい。

 有舌尖頭器分布
  その点で有舌尖頭器 (茎のある槍先) は、この時期に特有なものであり、表面採集での発見例も多い。
  当時の縄文人の活動範囲を知る上でも重要な資料となっている。

定住への歩み 槍・弓矢・土器の発明 有舌尖頭器の分布 有舌尖頭器の分布 近畿地方の狭い範囲や隣接した地域でも、多様な形状に分化している理由は、

①作り手の巧緻性や技術 
②長期の定住による方言の発生(地域的文化の発生) 
③異民族・別部族 など想像できるが、
やはり、作り手の個性と、使用対象動物に合わせたのではないでしょうか。
 B1-1-03有舌尖頭器
有舌尖頭器の登場
縄文草創期
前10,000~前8,000年

・香芝市二上山桜ヶ丘第1地点
・香芝市鶴峯荘遺跡
・田原本町保津宮古遺跡
桜井市朝倉

・宇陀市高田垣内遺跡
三郷町勢野バラタニ遺跡
草創期の石器
前10,000~前8,000年
山添村桐山和田遺跡

・スクレイパー
有溝砥石
矢柄研磨器

・石鏃
・尖頭器
前10,000~前8,000年
山添村桐山和田遺跡
 

 B1-2狩のムラ
  縄文時代後期 (約4,000年前) より以前の遺跡は、県下では山間部に集中している。木津川水系の各河川が作る谷や、吉野川水系の
  谷に広がった縄文遺跡は、安定した食用植物と動物・魚類によって、豊かな生活が保障されていた。

  同じ頃の奈良盆地は、沼沢地から乾燥した平野へと変化しているところであった。
  住居に不向きな盆地中央を避け、縁辺部の扇状地に遺跡が散在している。


 B1-2-1縄文の谷 草創期

  ※山添村は、隆起し続ける大和高原の山中にある山村
   当時の大和盆地は広大な湿地だった。きっと吸血昆虫や毒蛇が多く居住困難の地ではなかったでしょうか。

縄文の谷
山添村大川遺跡
集石炉・押型文土器
山添村広瀬遺跡
土器・住居址
  草創期の主要遺跡
兵庫県 伊府遺跡
京都府 武者ヶ谷遺跡
福井県 鳥浜貝塚
三重県 菰野町西江野
奈良県 桐山和田遺跡
奈良県 鶴峯荘第1地点
三重県 石神遺跡
和歌山 藤並地区遺跡
狩りのムラ
上に記述
縄文時代の主要遺跡の分布


 B1-2-2草創期の土器  ●前1万~前8千年 (12,000-10,000年前)  ●山添村桐山和田遺跡

草創期の土器
●前1万~前8千年
●山添村桐山和田遺跡
隆起線文土器

ここまで拡大して
うっすらと模様が見えます




 早期の土器・石器   ●前8千年~前4千年 (10,000-8,000年前)  ●山添村大川遺跡

早期の土器と石器
●前8千年~前4千年
山添村大川遺跡 
尖底土器 
押型文
 
押型文土器
 
磨石・石錘・磨製石斧・削器・石錐・石鏃

磨石、石錘

磨製石斧

石錐、削器

石鏃
縄目の文様

  B1-2-03前期の土器と石器

   前期の深鉢形土器2点は撮影禁止。石器は展示無し。
 
引用「大和の考古学」


 B1-2-05
 中期末~後期の土器  ●前2,000~前1,000年 (4,000-3,000年前) 
深鉢形土器
御所市下茶屋遺跡
・山添村広瀬遺跡
中期末~後期
前2000~前1000年

山添村広瀬遺跡
後期 前2千~前1千年

御所市下茶屋遺跡
中期末 前2000年

御所市下茶屋遺跡
後期 前2千~前1千年

山添村広瀬遺跡
後期 前2千~前1千年


 B1-2-06
 後期の土器  ●前2,000~前1,000年 (4,000-3,000年前)  ●山添村広瀬遺跡



深鉢
山添村広瀬遺跡

浅鉢
明日香村飛鳥京跡下層

深鉢
山添村広瀬遺跡

浅鉢
明日香村飛鳥京跡下層

浅鉢
明日香村飛鳥京跡下層


 B1-2-07
 土壙墓と人骨  ●縄文晩期 前1,000~前400年 (3,000-2400年前)  ●橿原市・御所市観音寺本馬遺跡

   観音寺本馬遺跡 (橿原市・御所市) で発掘された縄文晩期の (約3,000年前) の土坑墓と呼ばれるお墓です。
   この土壙墓からは、埋葬状態をよく示す人骨が出土しました。
   そこで発掘現場から遺構ごと切り取って持ち帰り(遺構全ての意味)、保存処理を行いました。

 埋葬状態と特徴
   出土した状態から、1体分の人骨が、手足を折り曲げた屈葬・仰臥で埋葬されています。
   人骨の特徴から、20~60歳 (比較的若い可能性がある) 男性であることがわかりました。
   また、推定身長は165cmで、縄文人の平均身長 (158cm前後) に比べると背の高い人物だったといえます。

  縄文人と比べると、大変な高身長です。縄文晩期、3000年~2400年前ですから、半島からやってきたプレ弥生人かと見まごうほどです
    縄文人と、弥生人や混血弥生人は、骨格を見ればわかるので、そのような指摘がないので、縄文人のようです

 奈良県では、縄文時代の人骨の出土例が極めて少ないことから、当時の埋葬方法と縄文人の特徴を知るうえで、大変貴重な資料です。

土坑墓
●縄文晩期 前1,000~前400年 ●橿原市・御所市観音寺本馬遺跡
土坑墓と人骨 屈葬人骨の解説 土壙墓と屈葬人骨
小さく畳んだ屈葬
穴掘りが楽だった。
埋葬人骨

 ※観音寺本馬遺跡出土の其の他の遺物・遺構
   土偶・石棒  土壙墓の四隅に杭  クリ園跡  環状杭列  遺跡概要  発掘調査報告 発掘調査報告

 




 B2豊かな狩猟採集民の文化  橿原遺跡





 B2-1森の民のくらし 橿原遺跡 縄文晩期  約3000年前

  森の豊かさは、安定した食用植物に支えられている。縄文人は、その豊かさを季節ごとに利用すべく心得ていた。
  生活圏の中に、狩猟採集のための一時的なムラを持ちながら、中心となるムラで継続して暮らす定住へ進んだ。
  定住化に従って、木の実をつける木の管理や簡単な栽培農耕も始まったらしい。

  橿原遺跡から多数出土した打製石斧は、木の伐採・加工用の斧とみるには弱々しい。
  あるいは根菜類の掘り起しや、または畑作植物の栽培に使われたものと考えられる。


 橿原遺跡は現:橿考研からスポーツ施設にかけての一帯、十万坪から、昭和初期に発掘された膨大な遺跡です。
   橿原遺跡 橿原遺跡Hi-Ho 橿原遺跡 橿原遺跡wiki 橿原遺跡 橿原遺跡 橿原遺跡コトバンク


 B2-1-1豊かな狩猟採集民の文化
  温暖化し始めた気候は、約5,000年前に現在の平均気温より約2℃高くなって頂点に達した。

  縄文海進と呼ばれる海水面の上昇が、大陸から日本列島を切り離し、氷河期に広大な平野であった日本海沿岸や瀬戸内海は、
  暖流が流れ込むことで各種の魚介類の生息地(大陸棚)となった。

  その一方で、山野は樹種の豊かな照葉樹の森に覆われた。
  新しい森は多数の種類の木の実や食用植物を育て、また、獣の生活を守り、水が運び出す栄養分によって、沿岸の魚介類を育んだ。



晩期前1000~前400年
橿原市橿原遺跡
豊かな狩猟採集民の文化


 捕獲された動物   ●晩期前1000~前400年 ●橿原市橿原遺跡

捕獲された動物
●晩期前1000~前400年
●橿原市橿原遺跡

シカ骨

兎・ムササビ・猪
穴熊・狸・カモシカ

鴨・犬・テン
スッポン・猿・熊

 狩猟の道具

無茎鏃 有茎鏃  根ばさみ
矢柄と石鏃のジョイント
矢柄に鏃を装着するための部品
  骨格鏃 
ゆはず
 
弓の両端、弦を掛ける部分
ヤス
 
軽石製ウキ 石錘


 B2-1-2縄文人の食物カロリー
  アフリカ南部のカラハリ砂漠周辺に住む狩猟採集民は、一日平均 2,140kcal (現代人の目標値2,400kcal) を摂取している。
  食物の中心は木の実であり、狩猟する男性より採集を行う女性の食糧確保量の方が多い。

  縄文時代の食用植物の種類と量を考えれば、、縄文人は現代人と大差ないカロリーを得ていたと考えられる。

  ※人間は基本的にある程度の栄養源を得なければ生きていけない。それは縄文人も現代人も基本同じであり、摂取が著しく違うはずがない。
   もし著しく違った人たちは、それは飢餓と言い、やがて死に絶えたのでしょう。

森の民のくらし
上に記述
縄文人の食物カロリー 縄文人の食物カロリー
上に記述
カラハリ砂漠周辺の狩猟採集民の消費カロリーと労働

 B2-1-3森の民の装い ●晩期 前1000~前400年 ●橿原市橿原遺跡
森の民の装い
有孔円盤、腰飾
森の民の装い
土製装身具
耳環(耳栓型)、
指輪など
土製・牙製装身具
土製の胸飾り
内側:土製
外側:牙製

耳環
晩期 前1000-前400年
橿原遺跡
耳飾
後期 前3000~2000年
御所市玉手遺跡
土製腕輪
晩期 前1000-前400年
橿原遺跡
土製腕輪はこの地域特有のもののようです。
漆彩色して使用されました。
橿原市立博物館でも、土製と木製の同型の腕輪がありました。

全国では見たことがありません。
ネット検索でも不検出でした。

後に、岐阜市歴史博物館で見かけました。
分布圏が近かった様です。名古屋にもあるのかな


 B2-1-4縄文の土製食器 ●晩期 前1000~前400年 ●橿原市橿原遺跡

   縄文時代の個人用食器などはこれまで見た例がありません。大変貴重な遺物だと思います。

縄文食器 深鉢
(茶碗・どんぶり)

浅鉢
(お皿・小鉢・小皿)

石鍬

石鍬の復元/晩期
橿原遺跡
縄文食器としての深鉢・浅鉢は、現代の個人用の茶碗や皿、小鉢と同じ形状です。
  このような遺物は初めてみました。大変貴重だと思います。一般的には、この役目を木器で作られたとされていました。
現代に繋がる個人用食器の出現は、奈良時代以降とされています。それを遡ること1500年も前にすでに出現していました。
驚きであり、大発見です。


・石皿
 後期 前2千-前1千年
 宇陀市岩崎遺跡

・石皿と磨石
 晩期 前千-前400年
 橿原遺跡  

橿原遺跡 - Wikipedia


橿原市/橿原遺跡 出土品


橿原市/橿原遺跡


奈良県橿原遺跡出土品 文化遺産オンライン


「奈良県橿原遺跡出土品」とは何? Weblio辞書



石皿と磨石/晩期
葛城市竹内遺跡
この石皿は堅果類の破砕等に適した特殊な形状です。

皿状土器
スプーン状土器
※これは珍しい
よく似た破片はどこかで出土していましたが。

  スプーン状土器の出土は、それが食器として使われていたということで、取り分け用には、
    アイヌ民具の木さじ(パラパスイ)などや、ひしゃく、しゃもじなどが使われていたのでしょう。

    参照白老アイヌ民族博物館 二風谷アイヌ文化博物館



石鍬/晩期/橿原遺跡
石鍬

食料獲得の必需品

石鍬

石鍬

橿原遺跡付近、畝傍御陵前駅から神武天皇陵へ御陵から橿原神宮前駅へと歩きました。明治の御陵築造に伴って辺りは削平され、
  苦もなく歩けましたが、きっと、緩斜面に存在した遺跡だったのでしょう。

膨大な量の石鍬が出土し、貝殻が出ていないことから、水棲動物や貝類の捕獲には遠く、平地にこの山だけがぴょこんと飛び出した、独標となった死火山、畝傍山の麓で、土に働きかけて食物を得ていたのでしょう。


 B2-1-5 ドングリの加工法
  木の実の中には、苦いアクを抜かなければ食べられないドングリなどもあった。縄文人達は、水の湧く穴にドングリを貯蔵したり、敲いたうえで
  水にさらすなどして、アクを抜く方法を考えた。 写真は近年まで吉野地方で行われていた、ドングリの加工法である。


コナラ・アラカシ・カヤ

クヌギ・スダジイ・シラカシ

トチ・マテバシイ・ハシバミ
ドングリの加工法
上に記述
①ドングリを砕く
②袋にで水さらしでアクを抜く
③灰の上澄み液に浸けてアクを抜く
④調理する
 ※縄文のアンギン編の袋では編み目が粗いので、砕いたドングリを入れると 全て流れてしまう。
  ドングリに水をかけると鬼皮(外皮)が自然に破れるので、それを緻密なアンギン袋か、編みカゴに入れて長く水晒ししたと思います。
  それをしている地域では、約一週間の水晒しということでした。

 





 B2-2森の民の墓   ●大淀町越部ハサマ遺跡の墓群




  自然と一体化した縄文人の生活空間の捉え方は、稲作以降の私たちとは大きな違いがある。死者のための空間は、その端的な例である。

  墓地と祭礼の広場を中心に置き、その外周に住居を配した岩手県西田遺跡と比較すれば、円を描く大淀町越部ハサマ遺跡の墓群は、
  ムラの中心部であることが想像できる。縄文人は墓地をムラの中心に据え、死者を取り巻いて日々を生きていた。


  ※ひねくれた文章表現です。墓地はムラの中心にありそれを取り巻いて住居をもうけて生活していた。と、簡単に言えばよい。

 B2-2-01
森の民の墓 観音寺本馬遺跡 観音寺本馬遺
上記観音寺本馬遺跡のリンク参照
B1-2-07
遺跡見取り図
土坑墓1,2、土器棺墓
森の民の墓
上に記述
祭の道具
次項に記述


 B2-2-02土器棺墓 縄文晩期 前1000~前400年

  縄文土器をお棺に利用した子供のお墓です。この土器棺墓には、4歳前後の子供の骨 (頭蓋骨・手足の骨等) が納められていました。
  これまで子供のお墓と考えられてきた土器棺墓ですが、子どもの骨は残りにくく、その様子はよくわかりませんでした。

  この土器棺墓からは、一度埋葬した遺体の骨を、再び整えて埋葬している様子を知ることができます。

土器棺墓
晩期
観音寺本馬遺跡
土器棺墓
上に記述
土器棺埋設の様子
晩期
大淀町ハサマ遺跡

手足の骨の上に頭骨が載せてある。西欧カタコンベの埋葬も同じ。

墓の副葬品/晩期
大淀町ハサマ遺跡

 ※墓の副葬品
 子どもの土器棺墓には、再生を願う親心からか、適度な大きさの石が入っていることがある。どのような意味かは、いろいろと想像できます。

 私の子供の頃には、よく生まれ変わりという言葉を聞きました。あの子はひい爺さんの、、、何々がよく似ているとか、、、。
 嬰児や幼児の死体や、胎盤を土間に埋めたりという習慣があったようだし、日本人にとって死後再生の観念は最近まであったのでしょう。

 




 B2-3祭りの道具


  豊穣な大地に育まれた人々は、自然に宿る神に祈るため、様々な祭器を作り出した。

  女性を形どる土偶は、裸体のものや入墨・衣服を表現したもの、消化器官とみえる管が体部を貫通しているものがあるが、
  いずれも打ち壊された状態で出土する。

  石を加工して作られる祭器には、何を象徴したものか不明な御物石器や石冠、性器をシンボル化した石棒などがある。



  (かたどるは、象るor模る と書くようです。原文はB2-2-01にあります。)

  ※消化管と思しき貫通孔がある土偶には、きっとミルク飲み人形のように、儀式の際に、何かを流し込んで、
   土くれから命が宿ったような幻想か、まじないかを演出したのかもしれません。
祭の道具

 B2-3-01土偶  ●晩期 前1000-前400年 ●橿原市橿原遺跡

土偶
土偶の足

反対方向から撮影
土偶体部(文様)
土偶頭部/坪井遺跡
晩期/前千~前400年遮光器土偶」との
説明を聞きました

土偶体部(消化器官)
土偶体部
晩期/前千~前400年
橿原市橿原遺跡
中空土偶 胴部
晩期/前千~前400年
橿原市橿原遺跡

土偶/晩期
前千~前400年
葛城市竹内遺跡

土偶/後期 前千年
桜井市大福遺跡

 ※土偶がどのように出土したのか明記されていませんが、展示の流れと、このように大量にまとまっての出土は、伊勢堂岱遺跡の様に、
  墓地遺跡から出土した場合など、特定の祭祀場からが多いようです。ここでは墓地遺跡出土のようです。

  すると、墓地祭祀として、土偶とミニチュア土器が共献されていたということになります。関西でこんなに沢山の土偶は見たことない。


 B2-3-02ミニチュア土器 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡
ミニチュア土器 ミニチュア土器
 縄文晩期
 前1000~前400年
橿原遺跡

 左:穴があり、
 右:二本足がある。
何を表現したものか

ミニチュア土器
祭祀に用いた



 B2-3-03不思議な道具 橿原遺跡 後期 (前2000-前1000年)、  晩期 (前1000-前400年)
 
  御物石器、石冠、冠型土製品 動物型土製品、スタンプ状土製品

御物石器の分布 岐阜県の山岳地帯
分布の中心
御物石器と祭器
御物石器/晩期
奈良市大森町
橿原市橿原遺跡

 不思議な道具
前列:石冠形土製品/晩期
次列:石冠/晩期

・石冠/晩期
・石冠形土製品/晩期
 晩期/橿原遺跡

 不思議な道具
前列:石冠形土製品
次列:石冠

不思議な道具
前列:石冠形土製品
次列:石冠

動物型土製品/晩期
橿原遺跡

イノシシ型土製品
晩期 前1000-前400年
橿原遺跡

スタンプ状土製品
後期 前2千-千年
御所市玉手遺跡

御物石器 (岐阜・富山が分布の中心の石製品です。)
  石冠 (中部地方西部の晩期に多いとされるが、東日本を中心に広く分布しているように思います。)
  石冠形土製品 (どこか、東北地方の出土物の臭いがしますが、今のところ橿原遺跡特有の遺物かと思います。これまで見たことない。)
  動物型土製品 (東日本に多い遺物だと思います。)
  スタンプ状土製品 (東日本に多い遺物だと思います。)
  どうも東日本の縄文文化の臭いがします。4.3kaイベントによって東日本から移動してきた人々が影響を与えたのかもしれません。


 4.3kaイベント=縄文中期後葉以降の寒冷化
  

KAKEN — 研究課題をさがす | 完新世の気候変動と縄紋文化の変化 ...

 

完新世の気候変動と縄紋文化の変化:八ケ岳だより:So-netブログ

 

福田正宏 - 研究者 - researchmap


  歴史生態学から見た長期的な文化変化と人為的生態システム : 縄文時代 

関東甲信越地方における中期/後期変動期―4.3kaイベント ... - 早稲田大学


  

第 2 部 先史~古代の人々の集住 に関する地域密着 ... - 東北芸術工科大学





 考察
 NHK「英雄たちの選択」2019.4.24「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー」(リンクは3カ月間のみ有効)の中で、

 福岡市福岡(板付)空港そばの雀居(ささい)遺跡(縄文晩期終末期から弥生時代終末期)から、大量の弥生時代の木製品に混じって
 青森県津軽地方の、縄文晩期土器、漆彩色の亀ヶ岡式と、太平洋側の青森県是川縄文館所蔵の縄文晩期の独特な意匠の籃胎漆器が出土した。

 また、是川縄文館の国宝合掌土偶(座産=屈折像土偶、後期後半約3500年前)の型式が、足を省略進化しながら、大阪から座産土偶出土した。

 私たちは、以前より、縄文後期・晩期には東北や北陸から沢山の人々が西日本(九州までも)へ移住をしていたことや、
 亀ヶ岡式土器は日本全国へ海運によって運ばれており、日本海航路はもとより、太平洋周りでも遮光器土偶と共に大交易をおこなっていた。
 ということを調べてきた。

 番組では、前者は縄文人が弥生稲作農耕村へ視察に出かけたのだろうと言う。紀元前10世紀頃に始まった北部九州の稲作だが、その頃には、
 東北はもちろん縄文晩期で、亀ヶ岡式土器の最盛期、この時、東北縄文人と弥生弥生文化が出合ったのか、交易によって持ち込まれたのか、
 である。

 後者は、青森縄文人が近畿地方まで移住しており、その速度も滋賀県までの速度と大阪までの形式変化の様子から、移動速度や経過時間が
 分かるほど詳しくあとづけされていた。


 結論
  橿原遺跡の東日本から東北的な出土物は、やはり、人々の激しい移動があったことを示すものでした。

 
 ※御所市玉手遺跡は県内最古の水田跡で、弥生人の「あしあと」が残る、弥生時代前期の遺跡のようです。

 御所市玉手地区 県内最古級の水田跡 玉手遺跡-全国遺跡報告総覧 奈良県御所市玉手遺跡や、弥生水田と人の足跡ハッキリと
 縄文時代の暮らしを知る 御所玉手遺跡などの出土品展示 奈良 ふるさと御所 文化財探訪 -考古学・古代史編-
 御所市文化財調査報告書 奈良県御所市の中西・秋津遺跡 (現地公開見て歩き127) 邪馬台国と大和

 


 B2-3-04石棒  石棒、石刀 橿原遺跡 縄文晩期
石刀●晩期/前千-前400
●橿原遺跡

石刀/橿原遺跡/晩期

石刀/橿原遺跡/晩期
前千-前400
石刀/橿原遺跡/晩期
前千-前400
石刀
葛城市竹内遺跡/晩期
前千-前400
石棒
最奥:橿原遺跡/晩期
前千-前400
手前:宇陀市岩崎遺跡
 後期 前2千-前千
石棒
晩期 前2千-前千
葛城市竹内遺跡
石棒
後期:前2千-前千
広陵町箸尾遺跡
石棒
橿原遺跡/晩期
石棒
最奥:宇陀市岩崎遺跡
 後期 前2千-前千
手前:橿原遺跡/晩期
前千-前400
 






 B2-4遠隔地との交易




 考察
  ※交易と移住の違いを考えてみた
   交易は、現地で出土するものがそのまま遠隔地で出土すること。
   移住は、本来の地域から離れるに従って、製品が形式変化を起こすこと。

    青森県合掌土偶滋賀県赤野井浜遺跡晩期前半)→大阪の足の省略された土偶につながる(ネット上に見つからず)

     島根には赤野井浜遺跡同様の屈折像土偶があった。


 B2-4-01遠隔地との交渉

  自然を知り尽くした縄文人は、各地域に特産品と言えるものがあることに気付いた。
  ヒスイや、接着剤に使うアスファルト等の鉱物資源にとどまらず、貝や魚等の海産物も加工して交易された。

  橿原遺跡から出土した海生動物骨 (クジラ・スズキ等) は、大阪湾岸から紀伊半島沿岸地域との交渉を、
  また、東北・北陸・中部地域の縄文土器文様やヒスイ製品の出土は、畿内から東へ伸びる交易路があったことを教えている。

近畿に運ばれた物産
・糸魚川のヒスイ加工品
 蛇紋岩の石斧
・飛騨の呪術具
・亀ヶ岡様式の壺(亀ヶ岡遺跡)
・東北の土偶
 (西津軽郡森田村 床舞遺跡)

各地の交易の様子を表した図です。

漁に使われた銛と釣針
宮城県里浜遺跡
千葉県余山遺跡


 B2-4-02交易
遠隔地との交渉
上に記述
橿原遺跡の石器石材原産地 中央構造線
  三波川帯-蛇紋岩
  和泉層群秩父帯-絹雲母緑泥岩石墨を含む片岩 (緑泥岩-打製石鍬)
丹波帯-頁岩粘板岩ホルンフェルス (粘板岩-石刀・石棒)
奈良火山地帯
    -流紋岩質溶結凝灰岩 (凝灰岩-凹石)
    -点紋片岩紅簾石 (紅簾石-石棒)
  二上山-サヌカイト (石斧・削器・)

その他結晶片岩-打製石斧、緑色岩-磨製石斧・石棒など



 漆の利用
  縄文前期 (約6000年前) から始まる日本の漆加工は、中国長江流域と古さを競っている。(※この地域から技術集団が来たということかな)

  しかも、縄文漆器は、漆の木の管理→漆の精製や添加する顔料の採取・調整→漆を塗布する素地作りと塑形剤による整形→漆の塗布と乾燥
  といった多数の行程を踏まえて生産されている。漆器作りの基礎技術は、縄文時代にすでに完成していた。

漆の利用
漆の技術は縄文時代に始まった 玉川大学

縄文時代から「漆」の技術があった日本


縄文時代からあった?漆の歴史 | 歴人マガジン


縄文の漆 / 漆の未来 - 特集


【JOMON2】漆(うるし)文化=ジャパンのルーツ - 古代史日和


縄文人の謎・ロマン 縄文時代の“漆工芸技術”の粋とは! - 近畿地方の古墳 ...


漆の考古学 - 東 日出夫 urushi-art.net Top Page


図説福井県史 古代1 変わる縄文時代像(1)


図説福井県史 古代1 変わる縄文時代像(2)


縄文時代の漆(うるし)と室瀬和美 ブログ 1000回 – 太古につながる生活者 ...




考察 赤漆の製造

※赤漆
 縄文時代に栽培されていたエゴマは、胡麻と違って食べてもおいしくないものですが、エゴマ油ベンガラを漆に混ぜると赤漆になるという。

 エゴマ油
  しそ科のエゴマを膨大な量栽培して種を採り、蒸してエゴマ油を搾る。
  ※縄文人は赤漆を作る前からエゴマ油を絞っていたことになるが、なぜ、油絞りを思いついたのか、エゴマを何に使っていたのか。疑問。

 ベンガラ
  あの真っ赤なベンガラを得るためには良質の原料と熟練した技術者が必要に思われ、それなりの産地があるのかと考えますが、
  これまで一度も出合ったことはありません。どこで、どのようにして作られていたのでしょう。

  文献には「鉄分の多い土を焼いて作る」とありますが、赤土を焼いて得られる酸化鉄などほんの少々でそれなりの鉄鉱石産地などが想定され
  ますが、そのようなものの交易の痕跡は見たことがありません。

  ベンガラの使用は、9,500年前の鹿児島県上野原遺跡の土器、6,000年前の福井県三方町の鳥浜遺跡の弁柄櫛、
  5,500年前の青森県三内丸山遺跡の土器、など古くから使われています。しかし、あの真っ赤はそう手軽にできるものではなさそうです。
     引用

ベンガラ(弁柄、紅柄) : 古代史探訪


  北海道嶋木遺跡では20000年前の赤色顔料の付いた台石が出土。海外では17000年前のラスコーやアルタミラの壁画に使われていました。

  別の文献では、湿地の植物の根の周りにつく、鉄バクテリアによって作られた水酸化鉄(褐鉄鉱)のパイプ状ベンガラが入手しやすいとある。
     引用塩基性岩・アスファルト・鉄バクテリア鉱物利用に関する研究~縄文人の ...


  wikiでベンガラの作り方を見てみよう。
   1.鉄鉱石を砕く。.2.硫黄分を除く。3.不純物を沈殿させ、「緑礬」(ろくは)という結晶を作る。4.朴の葉に緑礬を盛る。
   5.松の薪で2日間、700度で焼き続ける。6.水洗いして石臼で粉にする。7.これを3度繰り返す。8.粉の中の酸を水に溶け出させる。

   9.弁柄の成分が沈殿。10.上澄みを捨て、水を入れる。11.これを10回から100回繰り返す。12.板に塗りのばし天日干し。して出来上がる。
   その他、赤土ベンガラ・丹土ベンガラ・赤泥ベンガラ・パイプ状ベンガラ・鉄丹ベンガラ・ローハベンガラがある。

   ※大島紬の泥はこのような鉄分を多く含むために染まるのだと言われています。

   いずれにしても、ベンガラはそう簡単に作れはしないようです。


   参考文献
    ➀縄文の赤(津軽半島赤根沢に鉄石英の有名な産地あり)
    ②縄文の森から№5(鉄バクテリアの生成物を使用)
    ③ベンガラの歴史と材料の科学的研究(銅山の福産物硫化鉄の利用)
    縄文人見習の糸魚川発(赤土原料の実験) この文献が最も参考になるかと思います。 
    ⑤縄文人と色



  ※縄文人の知恵を知れば知るほど驚きます。いつも。だから、縄文は面白い。撮影させてもらい、こんなこと書きこんでネットにあげても、
  無視していただいているからこそ、こんなことが調べられると感謝しています。


 B2-4-03海との交易 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡

クジラ・フグ
 死んで打ち上げられた鯨を骨付きで切り取って交易するとは、徹底的に食べたようだ。

フグは美味だがあたる。経験深い漁師が毒部位を外して交易したか。

エイ・タイ
 エイはすぐに強烈なアンモニア臭のする魚。それをどのように加工して交易したのか。よく食べたものだ。

タイはコメント不用の高級魚

 B2-4-04石材の交易

紅簾石製石棒
橿原遺跡/晩期
前1000~前400年

凝灰岩製凹石
サヌカイト製削器
粘板岩製石棒

晩期/橿原遺跡
前1000~前400年

緑泥片岩製石鍬
結晶片岩製石斧
緑色岩製石斧

晩期/橿原遺跡
前1000~前400年

 B2-4-05装身具の交易 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡
ヒスイ製玉 黒曜石の装身具 漆塗り腕輪 木製

ヒスイ製玉黒曜石
黒曜石が道具としてでなく、面取りした、装身具として交易されていたことに注目です。 

縄文晩期の頃には、何らかの理由で
宝石的価値の方に関心がもたれたのか、
道具として加工ができないほどの物しか出土しなかったのだろうか。

漆塗り腕輪 木製
縄文晩期、紀元前10世紀には、既に沖縄の海で半島人商人によって、腕輪用貝の採取と加工が始まっていた。

木を半円に加工したり、焼き物で作った半円形に漆で彩色した腕輪が、畿内から岐阜だけで流行したんだな。


 B2-4-06各地の土器 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡

遥かなる東方との交流
●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡

瀬戸内系の文様
晩期/橿原遺跡

中部系の文様
晩期/橿原遺跡

関東系の文様
晩期/橿原遺跡

東北系の文様
晩期/葛城市竹内遺跡

東北系の文様
晩期/広陵町箸尾遺跡

 B2-4-07関東系の文様 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡
 なぜ関東系土器がこれほど完形に復元できるほど多量に残存しているのだろうか。関東から何を入れて運んだのだろうか。
 これほど完璧な残存は、何か特別な関係があったのではないかと思われる。

寒冷化の縄文晩期に大量の関東人が、奈良に移住してきたのだろうか。
 
 





 C弥生時代



 C1稲作伝来
 C1-1稲作のひろがり 
  耕地を開き、水利を管理する組織・技術力を併せ持つ水稲農耕は、縄文時代晩期後半に列島西部の沿岸地域に到来した。
  定着期間の後に、水稲農耕は本州北端まで一気に広がっていく。

  奈良盆地での弥生時代の始まりは、縄文ムラのはずれに移住してきた弥生ムラが、縄文人との交流の中で、縄文ムラを弥生ムラに変化させながら
  進んでいった。


  ※一気に青森まで広がった裏には、東北地方から西日本や九州にまで来ていた東北・北陸の移住者の存在や、その里帰りがあったのだろうか。
 C1-1-01panel
稲作の広がり

上に記述
縄文突帯文土器以前の遺跡

縄文晩期、突帯文以前
縄文人達が、それぞれの猟場・採集場の縄張りを持って、

1万年続いた伝統的な暮らしを守っていたことがわかる。
縄文突帯文土器期弥生前期前半土器の遺跡
プレ稲作文化としての
突帯文土器文化が半島から持ち込まれ、

畿内の縄文人の生活を大変革させた。

その中で、適合した集落が、次の水田稲作文化にも生き残り、弥生前期へと発展していった。
弥生前期後半から中期初頭までの土器の遺跡
弥生前期前半と中期初頭の遺跡を比較すると、消長があるのは、

入植後百年で始まる集落間戦争で淘汰されたのか。
弥生寒冷期で淘汰されたか。
 
赤米、長粒米
原種に近い米
 籾圧痕土器
突帯文土器は縄文時代と言うなら、なぜ籾殻圧痕があるのだろう。

弥生早期の半島人の流入を示すのだろう
       



 水稲農耕の広がり
水稲農耕の広がり

大嘴子遺跡の景観

彭頭山遺跡の景観

河姆渡遺跡の景観
東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 大嘴子遺跡 (遼東半島の付け根にあり、徐福などが関連しているようです。遼寧省大連市)
  佐賀の徐福さん 「徐福のふるさと」佐賀と連雲港  熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System
  東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から  2018年の「徐福と弥生の稲作 佐賀大学名誉教授:和佐野喜久生
  KAKEN — 研究課題をさがす | 中国の古代稲・稲作農耕文化に関する遺伝  いまいち信用できない内容 ::ねおちは蜜の味
  稲作は日本のどこに伝えられたんですか?

 彭頭山遺跡(中国の長江中流、湖南省北西部における新石器時代の文化である)
  現在の所最古の水田遺構が彭頭山文化前期にあたる約8000年前の 長江流域における世界最古の稲作農業  彭頭山遺跡(ほうとうざんいせき)とは - コトバンク
  栽培体系の形成と伝播・拡散から見た先史中国の稲作 と地域社会  謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。  彭頭山文化 - Wikipedia
  彭頭山文化  人類誕生6 - Yahoo!ジオシティーズ  中国文明:先史⑤ 新石器時代 その3 前期新石器時代
  
 河姆渡遺跡
  河姆渡遺跡 世界史の窓
  
  
  

水稲農耕のひろがり
彭頭山遺跡
河姆渡遺跡
大嘴子遺跡
松菊里遺跡
菜畑遺跡
紀元前6,500年頃
紀元前4,800年頃
紀元前1,200年頃
紀元前700年頃
紀元前930年頃
私見
 半島の西に広がる中国大陸は、殆どが乾燥した荒れ地(放牧地)で、その外側に乾燥畑作地帯が広がっていた。 3千年前の寒冷化で乾燥地が広がり、遊牧民が南下侵略した。

 それに押されて畑作牧畜民も南下拡大し、極東アジアは飢餓と戦乱が支配する地となり、中国王朝は倒れ、押し出された大陸・半島人は安全な土地を求めて列島を目指した。

 寒冷な半島から、温暖な列島に渡ると、畑作物 (陸稲) よりも稲作農耕に適していることがわかり、当時始まったばかりの商品作物生産としての水田稲作農耕が列島で爆発的に大流行することとなった。


 稲作の伝播
稲作の伝播 水稲農耕
第一次波及
北部九州・近隣
  菜畑曲がり田板付
  夏井ヶ浜、延行/山口
出雲 石台
吉備 百間川
香川 林・坊城
畿内 口酒井・牟礼
第二次波及
九州 熊本・宮崎へ
日本海側 亀ヶ岡・松石橋へ
四国 高知県田村へ
瀬戸内側 広島湾・吉備から中国山地内陸部へ

畿内→北部近畿・東海→岐阜→新潟→仙台→山形
畿内→北部近畿・東海→関東→

水稲稲作第1次波及 第2次波及 そして最北の青森へ 南方から来た稲が直接青森で栽培されたのでなく、
沿海州周りの寒冷馴化した稲であるとも言われている。


別伝播経路か、特別に持ってきたか、のどちらか。

菜畑遺跡の水田/博多

菜畑遺跡 - Wikipedia


菜畑遺跡/唐津市
菜畑遺跡・末盧館
菜畑遺跡コトバンク
菜畑遺跡-縄文時代の稲作・水田跡
日本最古の水田跡
菜畑遺跡 日本大百科全書
 『菜畑遺跡』唐津・虹の松原
板付遺跡出土の壺・甕  

板付遺跡 - Wikipedia


板付遺跡福岡市の文化財


板付遺跡弥生館

板付遺跡コトバンク


板付遺跡見所チェック
板付遺跡弥生人の足跡
列島最初の農村 板付遺跡
砂沢遺跡の水田/青森 

砂沢遺跡 - Wikipedia


砂沢遺跡出土品-弘前市

砂沢遺跡-コトバンク


弘前市砂沢遺跡(弥生時代)

青森県砂沢遺跡出土品


砂沢遺跡青森potetial view


砂沢遺跡-世界の歴史map
砂沢遺跡と垂柳遺跡
砂沢遺跡-くぐる鳥居は
松石橋遺跡出土の壺/青森'(太平洋側)  松石橋遺跡:遺跡ウォーカー 田村遺跡の水田/高知 「田村遺跡」埋文
田村遺跡コトバンク
田村遺跡群土佐の歴史散歩

田村遺跡南国市観光
田村遺跡
日本最大の弥生遺跡
居徳遺跡と田村遺跡
山賀遺跡出土の壺 /
難波
山賀遺跡大阪府文化財c
山賀遺跡の最新調査成果
難波の鯉の物語
大阪府の新羅神社
大阪河内・弥生時代 遺跡集
池島遺跡の水田/難波
池島・福万寺遺跡-Wiki
池島・福万寺遺跡現地資料
池島・福万寺遺跡Ⅱ発掘調査
池島・福万寺遺跡発掘調査
池島・福万寺遺跡弥生前期村

発掘情報(池島・福万寺遺跡)


池島・福万寺遺跡の水田跡にコウノトリ
池島・福万寺遺跡 弥生前期~中期初めの洪水跡
       
 



 C1-1-02突帯文土器 縄文晩期 前4~前3c

 私見 突帯文土器
  籾殻圧痕を持ち、北部九州から西日本一帯に僅か200年で波及した突帯文土器は、硬直化した学会の中で縄文晩期とされていた時期に発見され、
  学会の権威を保つため、縄文土器とされている。しかし、誰がどう見ても、それまでの縄文土器とは異質であり、籾殻圧痕は弥生文化の到来を
  告げるものでありましょう。

  どう見ても縄文土器の延長線上にはなく、縄文人が作ったものとは考えられない。

大壺をもつ縄文土器
縄文晩期 前4-前3c
桜井市松之本遺跡

突帯文深鉢

突帯文深鉢

突帯文壺

突帯文深鉢


 C1-1-03稲たばと炭化米 弥生前期 前3~前2c 弥生中期1c 

弥生の米
左:炭化した稲束
唐古・鍵遺跡
右:炭化米
弥生中期 1c
天理市清水風遺跡

炭化米
弥生前期 前3-前2c
田原本町唐古・鍵遺跡

甕・蓋
弥生前期 前3-前2c
唐古・鍵遺跡

壺・高坏
弥生前期 前3-前2c
唐古・鍵遺跡
 



 C1-1-04弥生土器 弥生前期

 弥生人の土器
弥生人の土器
弥生前期 前3-前2c
田原本町唐古・鍵遺跡

高坏・壺/前期 前3-前2c/
唐古・鍵遺跡/桜井市東新堂遺跡

 縄文土器の名残「大和形甕」
縄文土器の名残
大和形甕/中期 前2-前1c/
桜井市大福遺跡

大和形甕/中期 前2-前1c/
桜井市大福遺跡

大和形甕

 縄文のなごり「大和形甕」
 山城の庄内式甕をめぐる二、三の問題 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター  初期弥生文化の成立抜刷 水稲農耕と突帯文土器 - 国立歴史民俗博物館
 土器の器種について - 横浜市歴史博物館 岡山県古代吉備文化財センター 古代吉備を探る 摂津・河内・大和の弥生甕 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ-国立歴史民俗
 八王子古宮式と近江湖南型甕 - 愛知県埋蔵文化財センター 畿内から東海の古式土師器―伊賀を中心とした土器交流 - 天理大学
 川入・中撫川遺跡の庄内吉備型甕|岡山市|学び・生涯学習|遺跡・埋蔵 ..  畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開 - J-Stage




 C1-1-05新たな道具(農耕具)  ●弥生前期 前3-前2c ●田原本町唐古・鍵遺跡

新たな道具(農耕具)
狭鍬…田原本町多遺跡
広鍬…田原本町唐古・鍵遺跡

 
・広鍬未成品…唐古鍵遺跡
・狭鍬…田原本町多遺跡

・広鍬未成品
  …唐古鍵遺跡

狭鍬・広鍬 復元品
 
 C1-1-06新たな道具(加工具)  ●弥生前期 前3-前2c ●田原本町唐古・鍵遺跡

初期の穂摘み具
石包丁
弥生前期 前3-前2c
橿原市坪井遺跡
・田原本町唐古・鍵遺跡
石包丁
弥生中期 前1-後1c
石包丁
 橿原市新沢一遺跡
大形石包丁
 御所市鴨郡波遺跡
石斧
弥生前期/前3-前2c
片刃石斧
柱状片刃石斧
扁平片刃石斧
唐古・鍵

片刃石斧

偏平片刃石斧
 
柱状片刃石斧
  



 C2田と森の融合
  水稲農耕の広がりによって、縄文人もまた弥生人になった。縄文の技術と新来の技術とが融合して、列島独自の水稲農耕社会が出来上がった。
  各種の生活資材の調達や、食糧の確保についての縄文人の知識が、始まったばかりの脆弱な水稲農業社会を支えた。


 C2-1稲と森の知恵
  縄文人は、水稲農耕に伴う新たな労働を、季節ごとの集中労働に振り分けることで受け入れ、弥生人になることができた。

  いまだ生活は、食用植物の採集や狩猟によって支えられていたし、新来の土木具・農工具や容器の生産にも、森林の管理・伐採についての
  縄文の知識が生きていた。ただし、水稲農耕が伴ってきた機織や井戸掘りによって、男女の分担する労働の種類は増えていった。


 C2-1-01弥生の狩猟
手網枠/中期1c
唐古・鍵
田と森の融合
上に記述
稲と森の知恵
上に記述
イノシシ下顎骨
解体痕 弥生の狩猟
猪牙製垂飾/中期 前1c
橿原市坪井遺跡

鹿下顎骨/前期 前3-前2c/唐古・鍵遺跡

鹿角の加工/前期 前3-前2c/唐古・鍵遺跡

・弓/前期 前3-前2c唐古・鍵
・小石刀/中期 1c天理市清水風遺跡
・小石刀/前期 前3-前2c/唐古・鍵

石鏃・削器
前期 前3-前2c
唐古・鍵遺跡

石鏃
期 前3-前2c
唐古・鍵遺跡

石錘
前期 前3-前2c
唐古・鍵遺跡

オニグルミモモウリ
 







 C2-1-05木製品  弥生時代






 C2-1-5a木器の製作

 木材の水漬け貯蔵
  木器の製作では、作るものの形に合わせて様々な工夫が行われた。樹種の選択や木目取りである。
  写真のように加工途中の木材を水漬けするのも、形の歪みを抑える工夫の一つである。

唐古・鍵遺跡のドングリ貯蔵穴
発芽防止とアク抜きのため水の湧く穴に貯蔵
木材の水漬け貯蔵


  弥生の木工、木の伐採

鉄鑿のみ/鴨都波遺跡
鉄斧/六条山
唐古・鍵遺跡/弥生後期2c
宇陀郡大王山遺跡2-3c


  弥生の木工、農具の製作

大形蛤刃石斧
中期1c橿原市新沢一
前期 前3-前2c唐古・鍵

弥生の木工
農具の製作

泥除け未成品(3連)
後期1-2c
・石斧柄/中期1c唐古
・手斧柄/後期2c大福

杵/後期1- 2c
唐古・鍵遺跡

木包丁/後期2c唐古
広鍬/後期2c大福

/前期 前3-前2c
田原本町多遺跡

 C2-1-10b生活用具の製作
生活用具 容器・食器の製作
ほぞ穴付き板
弥生後期2c唐古・鍵

梯子/弥生前期 前3-前2c
田原本町多遺跡

・匙/前3-前2c・中期 前1c
・火錐臼/後期2c
唐古・鍵遺跡/前期


杓子未成品/中期1c
唐古・鍵

容器
 ・中期 前2-前1c大福
 ・後期 2c大福
容器未成品/後期2c/
 橿原市中曽司遺跡

四脚容器/後期1-2c
唐古・鍵遺跡

ボール状容器
弥生前期 前3c-2c唐古・鍵

高坏
中期1c唐古・鍵遺跡
中期 前2-前1c大福遺跡
中期1c唐古・鍵

 C2-1-10c装身具

管玉/中期1c
御所市鴨都波遺跡
勾玉
前期 前3-前2c
唐古・鍵遺跡

 C2-1-10d石製農具と縄

石錐/新沢一遺跡
石包丁/坪井遺跡
前3-後2

石包丁未成品
・前期 前3-前2c
・中期 前1c/坪井

石包丁原石
石包丁未成品
中期 前1c坪井遺跡

耳成山の流紋岩
紀ノ川の緑泥片岩

縄/中期 前1c
橿原市坪井遺跡

削痕

 C2-1-10f織物の製作

土製紡錘車
石製紡錘車/前3-後2
唐古・鍵

槌の子・砧
弥生後期2c唐古・鍵
 




 C2-1-15土器



 下に掲げる土器が、日常生活用土器とは思えない。何かしらの祭祀具等ではないでしょうか。

 C2-1-15土器b
土器づくり
弥生中期の土器

水差し形土器
中期 前1c新沢一遺跡

流水文のある台付壺
中期 前1c大福遺跡
                                  
 C2-1-15土器c 
タタキ板状木製品
弥生後期2c唐古・鍵

二重口縁壺
弥生後期2c唐古・鍵

籠目のある土器
弥生後期2c
大和郡山市 白土遺跡

記号文のある長頸壷
弥生後期2c唐古・鍵

記号文のある長頸壷
拡大写真

 籠目のある土器 安城市埋文に「桜皮巻き小型壺」があります。この土器とそっくりです。
                                                                                                                                                                                                                         
 





 C3神の宿る器 



 

 C3-1青銅の神
  近畿地方に広がった青銅器文化の初めには、銅鐸と共に武器もあった。 しかし、弥生人の生業の中で農業の割合が次第に高くなり、
  社会が地域ごとにまとまりを強めるにつれ、銅鐸は大きくなり、霊力を増していった。

  その形の変化は、吊り鳴らすことに支障が出るほどに飾り立てた吊り下げ部によく現れている。この銅鐸の大形化が鋳造技術を発展させた。
  石製の鋳型から、より、自由に大形のものが鋳造できる土製鋳型への変化である。


 C3-1-1銅鐸

  撮影禁止を含む銅鐸は大変撮りづらく、どうしてもロングショットのみになってしまい、結局ピンボケになってしまいます。
  まことにピンボケですみません。

銅鐸の変遷
吊り手の変化
青銅の神

上に記述

銅鐸/弥生後期2c
奈良出土 
辰馬考古資料館
纏向銅鐸
弥生後期2c
桜井市纏向遺跡

名柄銅鐸
多紐細文鎮
銅鐸形土製品
ピンボケ
         

 C3-1-2青銅製品の分布

青銅製品の分布 青銅器の原料 青銅器の原料

青銅は銅・鉛・錫の合金である。その原料をどこから入手したかについて
自然科学による各鉱物の特徴づけから、中国や朝鮮半島北部・列島の候補地がある。しかも、原材料の形にも二種類が想定されている。

例えば銅では大陸で製錬し製品となったものを素材とする考えと、列島に産出する自然銅を利用したとする考えである。

 C3-1-3銅鐸の鋳造  ●弥生時代後期2世紀 ●田原本町唐古・鍵遺跡
銅鐸の鋳型
銅鐸鋳型外枠

復元銅鐸18kg
鋳型復元品
銅鐸原料の比率
銅15.6kg
錫すず1.3kg
鉛1.1kg
復元銅鐸
 
 






 C3-2神祭りの記憶
神祭の記憶





  弥生時代中期は、土器絵画が花開いた時代である。絵画には、人物・鹿・建物・舟といった一つの画題を描くものや、中には多くの画題を土器に
  巡らせて、物語を構成しているものがある。描き方はピカソを思い浮かべてもらえばよい。画題の様々な視点からの特徴が、
  一つ絵の中に織り込まれている。

  神の言葉を伝える鳥装の巫女や、神の警護のためか、または神意を占う模擬戦の戦士の絵があるところからみて、絵画土器を用いたマツリの中心に、
  銅鐸があったとみても不思議ではない。


 土器絵画 舟の旅立ち
  物語は船による旅立ちから始まる。ゴンドラ状の船には、立って櫂を漕ぐ人がいたり、多数の乗員を載せているものもあった。

  中には、艫(とも)に小さな人物を描いた例もある。神に選ばれた子どもであろうか、それとも「魏志」の東夷伝倭人条にみる
  「持蓑じすい・航海の安全を祈る者」であろうか。船の行く先は鳥(サギ)のいる世界である。それは神の世界であったかもしれない。

 C3-2-01土器絵画
神祭の記憶
上に記述
土器絵画 船の旅立ち
中期1c 清水風遺跡

楼観/中期1c
唐古・鍵遺跡

船と高床建物/中期1c
天理市清水風遺跡

楼観/中期1c
唐古・鍵遺跡

渦巻き文のある土器
後期2c新沢一遺跡

船1c
舟に乗る司祭
1c唐古鍵

水棲昆虫
弥生後期2世紀
唐古・鍵遺跡

水棲昆虫
弥生後期2世紀
唐古・鍵遺跡

船を漕ぐ人/中期1c
唐古・鍵


 土器絵画 高殿への到着 上ノ山遺跡 弥生後期2世紀

  船は高床建物の下に到着し、建物の梯子を二人の人物が登る。銅鐸絵画が男性を丸頭に表現することから、この二人は男性である。

  建物の中には何があるのだろうか。唐古・鍵清水風遺跡の高床建物の絵画では、棟先に半月を描く飾りがあるもの、棟先から綱を引いたものや、
  棟持ちに飾りを取り付けたものなどがある。


鳥/弥生後期2c
橿原市上ノ山遺跡
 
渦巻文 魚
上ノ山遺跡
土器絵画
高殿への到着

上に記述
上ノ山遺跡
 
高床建物
高殿への到着
上ノ山遺跡

高床建物
弥生時代中期1c
天理市清水風遺跡

高床建物

高床建物
弥生時代中期1c
田原本町唐古・鍵遺跡

 C3-2-02神祭りの再現

  土器絵画をミニチュアジオラマに具現化したもので、弥生時代の風俗や習俗がよくわかるようにされています。

 C3-2-03土器絵画と建物
此岸から彼岸へ漕ぎ出だす
高殿への到着

銅鐸祭祀

鳥装の巫女

羽根飾りの戦士
私見 船と高殿
 壺に描かれた沢山の漕ぎ手を載せた舟は、死者の魂を運ぶ舟。また、
 死者をあの世に運ぶのは、鳥 (サギ) で、シャマンはサギの姿をして死者の魂を導くとされる。

 鳥にせよ,舟にせよ、
 死者が到達するのは天空にある高殿で、そのために、土器絵画に登場してくるという。

 これは、古代の出雲大社が、それを具体化させたものである。
 鹿や水棲昆虫などは、豊穣を祈願したものであるという。
   図引用 田和山幻想 稲吉角田遺跡の土器絵画 <イワクラ学で解く弥生絵画の謎>

 C3-2-03絵画土器

 土器絵画 高殿と鹿

   高床建物の周りには鹿が群れている。鹿は神と繋がるものでありながら、しかし、弓によって射られる、捕獲の対象である。
   神を呼びさますためには、鹿を捧げることが必要だと考えられていたのだろうか。
   弥生人もまた、再生かる鹿の角に霊力を感じていたのならば、それは縄文時代の伝統に繋がっている。

土器絵画 高殿と鹿
上に記述
清水風遺跡中期1c
高殿と鹿 高床建物と鹿
清水風遺跡中期1c
高床建物と鹿
清水風遺跡中期1c



 土器絵画

 羽飾りの戦士
  二人の戦士が立っている。手には盾と戈を持っている。高床建物の横に立つ姿以外に、銅鐸に描かれた例がある。高床建物を警護し、
  もしくは銅鐸に邪気が近づかないよう守るための戦士であろうん。それとも、盾を向い合せ、神意を占うために戦う姿であろうか。
羽飾りの戦士
上に記述
鹿・魚・戦士・高床建物
清水風遺跡


 竪穴住居と高床建物
建物絵画は広口壷の肩部から胴部にかけて平屋式、入母屋式、竪穴住居が描かれています。残存する部分片だけでも6棟が描かれていました。
家屋全体の線は先の鋭利な工具によって描き、屋根は格子状に表現されています。おそらく当時の”ムラ”の様子が土器全体に描かれていたのでしょう。
土器絵画
竪穴住居と高床建物

弥生中期 1世紀
橿原市中曽司遺跡


 鳥装の戦士 清水風遺跡 弥生時代中期後半と弥生時代後期前半の二次期

特筆すべき資料として、多量に出土した絵画土器と前漢鏡の破片があげられる。絵画土器の出土数は唐古・鍵遺跡に次ぐ全国2番目の出土量を誇っており、鹿・魚・人物・船・建物・矢などが描かれている。個別に描かれた絵だけでなく、連続して描かれた絵画土器も発見された。これはほぼ完全な形に復元された壺の胴部上半に、矢を打ち込まれた鹿、魚と簗(やな)、戈(か)と盾(たて)を持った鳥装(ちょうそう)の人物2人、高床建物が連続するように描かれていた。弥生時代の絵画土器の内容を理解するうえで大変貴重な資料である。鳥装の人物(シャーマン)を描いた土器はほかにもあり、当館で常設展示している。 引用清水風遺跡

 鳥装の戦士

●弥生時代中期1c
●田原本町清水風遺跡
   


 土器絵画 鳥装の巫女 田原本町清水風遺跡 弥生中期1世紀

  翼のような袖と、くちばしを取り付けたかぶりものを頭に付けた巫女が、台地を踏みしめて立ち、両手を上げて神の言葉を伝えている。
  胸には若い鹿が描かれる。その横に立つ二人の人物は、左が三角で右が丸い頭をしている。

  銅鐸絵画に従えば、、左が女性で右が男性となる。男女一対の首長か、鳥装の巫女を補佐する者であろうか。

鳥装の巫女
土器絵画 鳥装の巫女

上に記述
清水風遺跡
卜骨


 鳥装の人物 橿原市坪井遺跡 弥生中期1世紀

鳥装の人物

橿原市坪井遺跡
弥生中期1世紀
神祭の記憶
 


 C3-3祖霊の世界
  水田を作るようになった人々は、死者の空間を生活の場の外に写した。つまり墓地は、ムラ近くの耕作地などに有効利用できない場所に
  作られるようになった。墓の形には地域によって違いがある。

  近畿地方では、周囲を溝で区切り方形に盛り土した、方形周溝墓と呼ばれる墓が主流である。
  死者は、コウヤマキ製 (芳香を放つ、水に強い、腐りにくい) の組合木棺 (くみあわせもっかん) に入れて葬られた。

 C3-3-01墓地
祖霊の世界
上に記述
群集する人々の墓
奈良市柏木遺跡方形周溝墓群
供献土器
中期1c
吉野町宮滝遺跡
棺と供献土器 土器棺
弥生中期1c
桜井市大福遺跡
・小児用壺棺/中期/
  新沢一遺跡

・供献土器/中期1c/
  吉野町宮滝遺跡
宮滝遺跡のリンク

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 C3-3-02弥生の王墓

  成人の墓には地域色が生まれた。弥生時代になると、その違いはよりはっきりした。
  北部九州甕棺墓近畿方形周溝墓日本海沿岸西部方形貼石墓、がその例である。

  こうした成人墓の群の中には、ひときわ大きなものがある。小地域の中心となるムラの墓地にみられることから、恐らく幾つかのムラの
  中心となった人物の墓であろう。北部九州では、奴国王墓伊都国王墓と推定される大型の墳墓も確認されている。

弥生の王墓 近畿の方形周溝墓
瓜生堂遺跡(大阪)
九州の墳丘を持つ
甕棺墓
吉野ヶ里遺跡(佐賀)
西日本西部の
方形貼石墓
宗祐池西遺跡(広島)
ムラと墓地
唐古・鍵遺跡(奈良)


 子どもの墓
  子どもが亡くなったときは、特別な扱いがされた。大人の葬られる墓地にではなく、集落のはずれに葬ることがあった。
  大きな甕を棺とし、鉢や高坏で蓋をしたものが発見されている。

 動物の墓
  弥生時代の人も猟犬を飼っていた。その犬を埋葬した例が発見されている。大福遺跡から出土した長頸壷の中には、一旦埋葬した犬の骨を
  壺に納めて再度埋葬していた。骨の多い胴体や足先の小さな骨が入れられていた。

子どもの墓
子どもの墓/後期2c
桜井市大福遺跡
これでは見えません。

リンクの下の方を見て下さい。
子どもの墓
上に記述
犬の墓/後期2c/桜井市大福遺跡

犬の再葬骨
犬の棺(長頸壷)

後期2c/
桜井市大福遺跡
動物の墓
上に記述
 






 C4クニへのあゆみ


  唐古鍵遺跡地図



 C4-1戦乱のムラ
  唐古・鍵遺跡は近畿最大の環濠集落である。 唐古・鍵遺跡の、環濠復元図

  弥生時代中期初めには、長径約500m短径400mの楕円形に幅10m深さ2m以上をはかる大環濠が完成した。

  後にその外に幅5mの濠をいく筋も加え、防御の効果をより高めていく。この大環濠の掘削量は、全長120mの前方後円墳の体積に等しい。
  古墳時代のはるか以前に、既に大規模な土木作業を可能とする、労働の確保と組織化が果たされていた。この力が戦争に向けられたのである。


 C4-1-01防御施設を持つムラ


   水城(みずき)=環濠集落
   高城(たかき)=高地性集落
クニへの歩み 防御施設を持つムラ 水城/唐古・鍵遺跡
高城 (たかき)
天理市東大寺山遺跡
戦乱のムラ
上に記述

水城みずき
環濠集落
唐古・鍵遺跡の東南部を守る環濠群


 高城 (高地性集落)は、
  耕作地から離れた丘陵や尾根上に、一時的に築かれた集落である。見張り台的なものが多い中で、東大寺山は大規模なものであり、尾根上に
  あって外周に空濠を巡らしている。盆地の集落の一つが戦争から身を守るため、弥生時代後期中頃に一時的に移動してきたものである。
高城 高地性集落
かつての天理市東大寺山周辺の丘陵




 C4-1-02武器・武具


 C4-1-02a武器
石鏃

石鏃/中期/前1-後1c
唐古・鍵遺跡
新沢一遺跡

石鏃/中期/前1-後1c
桜井市大福遺跡
天理市平等坊・岩
御所市鴨都波遺跡


磨製石鏃/中期 前1c新沢一遺跡
銅鏃/中-後期1-2c桜井市大福

銅鏃/後期2c桜井市纏向遺跡
銅鏃/後期2c御所市鴨郡波遺跡

銅鏃/中-後期1-2c橿原市藤原宮下層
銅鏃/中期1-2c宇陀市高塚遺跡
鉄鏃

鉄鏃/後期2c
宇陀市大王山遺跡
斑鳩町三井岡原遺跡
 C4-1-02b剣・矛・戈
剣・矛・戈 銅剣

中期1c
田原本町多遺跡
石矛

中期1c
橿原市新沢一遺跡
 左の石矛の右にある銅矛は撮禁です

磨製石剣
中期 前1c~後1c
橿原市新沢一遺跡
写真右側の磨製石剣を撮影忘れています
磨製石剣、石剣
中期 前1c~後1c
天理市平等坊・岩室遺跡
石剣、磨製石剣

・石剣/中期前1c~後1c
 御所市鴨都波遺跡
・磨製石剣/中期1c
 天理市清水風遺跡
石剣

前期 前3-前2c唐古・鍵遺跡
中期-後期1c-2c大福遺跡
中期 前1c-後1c新沢一遺跡
環状石斧

中期/前1c
 御所市鴨都波遺跡
 







 C4-2マツリゴトの統一 纏向遺跡  地図






 戦乱の終わり
  弥生時代後期の終わりに高地性集落は姿を消し、平野の環濠集落では濠が埋まっていく。戦争の危機は過ぎ去ったらしい。
  この時に纏向遺跡が成立する。人工の水路網を持ち、掘立柱建物群からなるこの遺跡は、先の戦争の危機を終わらせた首長達が築いたものだ。

  纏向遺跡周辺に、巨大な前方後円墳が築かれるまでには尚少し時間があるが、ここから新たな社会の仕組みが始まったとみて、古墳時代に含める。




 
 
 
 
 
私見
マツリゴトの統一によって、青銅器祭祀の銅鐸・銅剣・銅矛はそれを崇拝することを禁じられ、破壊を命じられ、焚火に投じて粉々に打ち割られた。
信仰を守り、信仰の対象の破壊を恐れた人々は人里離れた山中や、村の人知れぬ場所に隠し(埋納)しました。(まるで隠れキリシタン)

庶民は、変わって権力者の巨大墳墓を作るよう要求され、畿内から来た指導者の指示に従って来る日も来る日も土運びに土固めと重労働を要求され、
さらにその作らされた墳墓を崇拝するよう要求された。
これまで銅鐸を置く台だった特殊器台には、代わって特殊壺が置かれ、新たな祭祀、権力者のための祭祀が作られました。


 C4-2-1纏向遺跡の成立

箸墓古墳へ延びる纏向大溝

纏向大溝の護岸
纏向大溝の断面

纏向遺跡には、初瀬川へ繋がる水路網が作られていた
マツリゴトの統一

上に記述
マツリの道具
古墳時代前期3c
纏向遺跡辻土坑4
木製品

古墳時代前期3c
纏向遺跡辻土坑4
小型器台

古墳時代前期3c
纏向遺跡辻土坑4
紡織具

古墳時代前期3c
纏向遺跡辻土坑4


 C4-2-2纏向に持ち運ばれた土器 古墳時代前期
 C4-2-2a
纏向に運ばれた外来系土器

山陰系 北陸系
吉備系 近江系 尾張系 駿河系
中河内系


山陰の土器
 古墳前期3c纏向遺跡
北陸~山陰の土器
 古墳前期3c
  纏向辻土坑4
山陰の土器 
古墳前期3c纏向遺跡
北陸~山陰の土器 
古墳前期3c纏向辻土坑4
 

近江の土器/古墳前期3c纏向遺跡
北陸の土器/古墳前期3c纏向遺跡
近江の土器
古墳前期3c纏向遺跡
北陸の土器
古墳前期3c纏向遺跡 

吉備の土器/古墳前期3c
纏向遺跡
河内の土器/古墳前期3c
纏向遺跡 
吉備の土器
古墳前期3c纏向遺跡
河内の土器
古墳前期3c纏向遺跡
尾張の土器
古墳前期3c纏向遺跡


 C4-2-2aa
 祭祀と王権
  纏向遺跡は、大規模な水路や館などを組み合わせて造営された遺跡である。
  この遺跡の西半の中心部に近い桜井市からは、祭祀品の廃棄坑が発掘された。そのうちの一つからは、他地域の土器や木製高坏・箕・

  鳥船形木製品・船形木製品・機織り具など多種多様な遺物が出土した。
  近隣の太田地区には掘立柱建物群があり、多数の地域を統括した王権による祭礼が始まったとみることができる。

祭祀と王権
や各種の木製品
多数の土器
纏向遺跡太田地区の
建物群


 C4-2-2b運ばれた各地の土器  古墳前期 三世紀 桜井市纏向遺跡

有頭棒
古墳前期3世紀 桜井市纏向遺跡辻土坑4
腰掛
古墳前期3世紀 桜井市纏向遺跡辻土坑4


 運ばれた各地の土器  古墳前期 三世紀 桜井市纏向遺跡
運ばれた各地の土器

古墳前期 3世紀
 桜井市纏向遺跡
 九州の土器
西部瀬戸内の土器

辻土坑4 
 山陰の土器

左手前:器台
右後方:支脚
尾張の土器
吉備の土器
駿河の土器