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目次
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01神武天皇陵 神武天皇 畝傍山東北陵 明治時代
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02橿原考古学研究所附属博物館 外観
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03展示庭園
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10入口展示1 |
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12玄関ホール展示
飛鳥京苑池 飛鳥京
飛鳥京苑池
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13飛鳥京跡苑池から出土した石造物 -流水施設- 高さ165cm最大幅125cm重さ2.5t。石英閃緑岩製。 石材を裾広がりに成形し、頭部には横方向の穴を貫通させています。孔は径9cmで、頭部の前後で3cmの高低差をつけて前下がりになっています。 南池に立てられており、1916年 (大正5) に出土した別の2点と、この石造物が直線で並んで水を流す仕組みになっていました。 -石槽- 長径270cm短系206cm厚さ55cm重さ3.6t容量約350ℓ 扁平な石材の内部を深さ41cmに刳り抜いています。内面は平滑に成形され、周縁、平坦面、底面はほぼ水平です。 底面の隅には径4cmの水抜き孔が開けられています。流水施設として系統で水を送って溜めたものと考えられます。 |
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14博物館概要 (抜粋)
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15エノキ切株 ●弥生時代前期 前4世紀(約2500年前) ●御所市中西遺跡 2010年発見。 ●直径約80cm地上から80cmで伐採。 ・切株には石おのによる切断痕跡や表面を焼きながら作業を進めた様子が伺える。弥生人による森林開発を具体的に示す貴重な考古資料です。 根張りは5m四方に及ぶ大きなものです。 ・切株は根と共に発掘調査後、約3年をかけて保存処理しました。その方法はポリエチレングリコール (PEG) の含浸法です。 森と人との関わりを学ぶ実物資料として希少であり、展示を通じて弥生人の営みや、弥生時代の息吹を感じてほしいと考えています。 大神神社御用達の大正楼 弥生前期のエノキ切り株を特別展示 奈良・橿考研
※中西遺跡は、弥生前期の大規模開拓の遺跡で、広大な水田が切り開かれました。詳細は以下のリンクをご覧ください。 大規模な農耕祭祀が行われたようで、宗教都市というのは言い過ぎでしょうが、多くの遺物が出ているようです。 弥生前期最大の水田跡 奈良・御所の中西遺跡 :日本経済新聞 【秋津・中西遺跡】浮かび上がる初期ヤマト政権の計画的「宗教都市」産経 御所市 中西遺跡:弥生前期最大の水田跡2千枚 高い計画性と技術御所市 中西遺跡 奈良歴史散歩御所市中西遺跡の弥生時代水田遺構 - 飛鳥・ヤマトを歩き御所市 中西遺跡第 26 次調査 - 奈良県立橿原考古学研究所6. 中西遺跡 | 奈良県立橿原考古学研究所奈良県御所市室 中西遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所奈良県御所市室 中西遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所巨勢山古墳群こせやまこふんぐん |
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16入口展示2
男性土偶/観音寺本馬遺跡 01 02 03 04 縄文晩期(約3千年前)の多数の土壙墓から 壮年男性の全身に近い骨や、大量の人骨が 見つかった。
大型円筒埴輪 (復元) 桜井市メスリ山古墳 01 02 03 製作奈良芸術短期大学 2005年 極楽寺ヒビキ遺跡の大型掘立柱建物復元模型 御所市極楽寺ヒビキ遺跡では、古墳時代中期中頃 (5世紀中頃) の大型掘立柱建物が検出された。 両岸に石垣を積んだ塀に囲まれた約2000㎡の区画内の西側で確認されたもので、建物の東側は広場である。柱は全て腐朽し、痕跡だけを残すのみ だが、5間×5間の建物本体の面積は220㎡(67坪)に達し、日本列島屈指の規模を誇る。東側と南側にはL字形に曲がる合計12間分の塀(柵)が巡る。 縁部は通有の円柱だが、身舎部は2間×2間の特異な板状柱で、柱痕跡が赤い土に置き換わっていた。 近くに、葛城地域最大の前方後円墳である室宮山古墳(墳長238m)があり、その後円部墳長から直弧文を施した板状柱を持つ大型家型埴輪が 出土している (第2展示室展示中)。柱間や板状柱の特徴などが共通することから、この家型埴輪をもとに建物の復元模型が製作された。 三角縁吾作四神四獣鏡(四号鏡) 直径20cm 黒塚古墳の三角縁神獣鏡の1枚を複製して、現代の製作技術で復元したものです。砂型に流し込んで作ったものですが、実際は真土(粘土)を使った 鋳型に流し込んでいたと考えられます。銅74%錫20%鉛・亜鉛がそれぞれ3%という古代の青銅鏡に比較的近い成分比での復元を行っています。 鏡背には4体の神像と、4体の獣形が描かれ、その外側に反時計回りで 「吾作明竟甚大工 上有王喬以赤松 獅子天鹿其粦龍 点火名好世無装雙」の銘文が刻まれています。 リンク 洛陽で発見された三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡33系
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18出口展示 第3展示室の出口には、巨木を刳り抜いた井戸枠、が展示されて、度肝を抜かれます。 |
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横田洞垣内遺跡の一木刳り抜き井戸 大和郡山市横田町小字堂垣内に所在する横田堂垣内遺跡で、奈良時代の大きな井戸が確認されました。 掘り方の規模は長径6.2m短径5.7m深さ3.3mでその中央にヒノキの一木を刳り抜いた井戸枠が据えられていました。長さ3.1m直径1.0m。 これまでに県内で確認された奈良時代の一木刳り抜き井戸枠の中では、斑鳩町法起寺7次調査に次ぐ極めて大きいものです。 井戸枠の外面には手斧の加工痕が明瞭です。一方内面は比較的平滑な仕上げです。 井戸枠下方2ヶ所には方形の孔が穿たれており、そこには外面から別材がはめ込まれています。この別材には「下」の墨書がありました。 位置は井戸枠の上下と一致しており、井戸設置時あるいは、加工時に必要とされたものと考えられます。
益田池の樋管 この樋管は昭和35年、橿原市池尻町で高取川の河川改修工事中に発見された、益田池の樋菅である。長さ5.5m幅1.2mの檜の大木を刳抜いて 用いている。 益田池は弘仁13年(822)畿内に大旱魃が起きた際、藤原縄主、紀末等、真円律師が中心になり築造した。 池は高取川の水量を池尻町で長さ200m幅30m高さ8mの堤防で堰き止めたもので、その範囲は鳥屋町、南妙法寺町、見瀬町にまたがっていた。 総面積400.50㎡、貯水量約140万tと推定される。
橿原考古学研究所 建物 |
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第1展示室 橿考研のような高名な研究所の先生は、すごく偉い方々と、一種畏れ多い気持ちになります。 ところが、この日、そういった沢山の偉い先生方が、解説をするために大勢で展示室に出ておられました。大変驚くと共に、感激しました。 |
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A 旧石器時代 |
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A1狩人の時代 人類の登場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
A1-1人類の登場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
A1-1-01シガゾウ 「シガゾウ牙」が、日本地質学会により平成28年に「(奈良)県の石」として選定されました。 ◆奈良県の化石 前期更新世動物化石 (主要産地:奈良県北葛城郡広陵町~河合町 (馬見丘陵)) 馬見丘陵では開墾や宅地開発に伴い、アケボノゾウの臼歯が1点、種類不明の長鼻類の切歯 (牙) が4点、ならびにシカマシフゾウの角が 1点発掘されている。アケボノゾウ (象) とシカマシフゾウ (鹿) は、ともに日本の前期更新世 (258万-180万年前) を代表する哺乳類である。 アケボノゾウは肩高2m足らずの小さなゾウで、類似の種は大陸で見つかっていない。 その先祖が大陸から渡来した後、日本列島が島嶼化したため、列島固有種となったと考えられる。 洪積世前期に生きていたシガゾウ シガゾウはさして大きくないマンモスの仲間である。本来は温帯性の物であったが、気候の寒冷化に適応して東アジアに広がった。 洪積世前期~中期初め (約150万年~40万年前) の頃に生息した。丁度その時期は、人類がアフリカから他の大陸に広がった時期に当たる。
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A1-1-02人類の登場 三郷町勢野峯ノ阪遺跡下層石器群は、炭素同位体 (C14) による年代測定法によって、2万5千年前の石器であることがわかった。 (せやみねのさか、奈良県生駒郡三郷町大字勢野字峯ノ阪 ) 礫を分割して石核の素材とする技術は、この時期の列島に広く発見されているが、近畿では更に発展して、瀬戸内技法と呼ばれる 翼の形をした剥片を量産する技術へつながっていく。 ※勢野峯ノ阪遺跡下層石器群は展示されていません。博物館のHPのみの展示です。 火山灰層と年代 -旧石器・縄文の年代決定法- 旧石器時代の年代決定には、自然科学の方法を応用する。その種類には、炭素同位体法・フィッショントラック法などがある。 これらの方法で年代が明らかになった火山灰は、その広範囲な広がりから、全国の石器の年代を比較する鍵として役立っている。 フィッショントラック法 自然界にある鉱物矢天然ガラスには、微量のウラン同位体 (U238) がある。ウラン同位体は、自ら核分裂して飛び散る際に周囲に傷をつける。 例えば、火山灰中の火山ガラスにウラン238がつけた傷を数え、核分裂が進行する単位時間当たりの割合によって計算すれば、火山ガラスの 古さを知ることができる。 |
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A1-1-03ナイフ形石器
二上山北麓の旧石器 ●後期旧石器 前1,8000年前 ●香芝市二上山北麓遺跡群 |
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A1-1-04石の道具 ●後期旧石器 前18,000年頃 ●香芝市二上山北麓遺跡群
※チョッピング・トゥール (コトバンク)
※楔形石器 楔形石器 ColBaseでは、南インド産、前期旧石器時代、約60万年前の石器とある。 vol 39 二上山サヌカイト打製石斧 - 石器ラプソディーでは、使用目的は「くさび」だと言っている。 ※彫器 は、木や骨に溝を彫る加工具である。 ※長い長い旧石器時代の間に獲得した石器類が、100万年もの間、原人新人の枠を超えて使い続けられ、アフリカ起源、東南アジア起源、 インド起源の、発生時代も地域もバラバラなものが、二上山から全て出てくるのは、まるで旧石器の正倉院のようです。 |
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A1-1-05石器作りの技術 ●後期旧石器 前18,000年頃(2万年前) ●香芝市二上山北麓遺跡群 |
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A1-2サヌカイトの山
※二上山のサヌカイトは瀬戸内産のものに比べて厚手である。
二上山北麓遺跡群 (引用:橿考研)
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A1-2-01panel |
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研究 ※二上山の火山活動
研究 奈良盆地の形成
奈良盆地の地形
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A1-2-03瀬戸内技法 約2万年前には、材料となる石 (石核) の形を割り整え、形の定まった石のかけら (剥片) を連続して作る技術が工夫された。 近畿地方では、横長の剥片を作る技術が発達して、瀬戸内技法が確立された。石核の加工から、ナイフ形石器の製作までを一連に進行させる、 世界に例を見ないナイフ形石器の量産技術である。
二上山産サヌカイトの使用と国府型ナイフの広がり 列島の旧石器人が石器作りに使用した石材は、サヌカイト・黒曜石・硬質頁岩・チャート等があり、地域ごとに違っている。 しかし、旧石器人には、異なる地域の石材に対する順応性もあったようだ。遠く旅した近畿中部~瀬戸内の旧石器人が、 各地の石材で試みた国府型ナイフ形石器が発見されている。 ※二上山産サヌカイトと国分台産サヌカイトの違い 二上山のサヌカイトは、剥片に剥離すると、分厚い剥片ができ、石器としての多様性がある。国分台のものは薄いので、できる石器が限定される。
石器の切れ味 いまみる石器は白く風化していて、何も切れそうにない。しかし、もとは黒いガラス質であり、剃刀のような切れ味があった。 復元した石器で物を実際に切り、その鋭さを実験した。 |
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A1-2-04石器作り |
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A1-2-05瀬戸内技法 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
A1-2-05b1石器作りの材料 |
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A1-2-05b1瀬戸内技法 ●後期旧石器時代 前18,000年頃 ●香芝市二上山北麓遺跡群
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A1-2-05c2-3
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A1-2-05h瀬戸内技法の復元 |
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瀬戸内技法の復元 |
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B 縄文時代 |
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B1定住への歩み |
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B1-1槍・弓矢・土器の発明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
B1-1-01槍・弓矢・土器の発明
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B1-1-02 定住への歩み 約1万5千年前を境に氷期は去り、気候は温暖化し始めた。狩猟の対象となる動物相が変化したのに合わせ、石器も変化を見せた。 ナイフ形石器の小型化や石槍・細石刃などの様々な技術革新が行われ、ついに弓矢と土器が発明された。 新たな環境への適応は、地球上の各地域によって違った。 西アジアのように栽培農業へ進んだ地域に対し、常緑広葉樹・落葉広葉樹の森に覆われた日本では、森の豊かさが狩猟採集社会を発展させた。 槍・弓矢・土器の発明 環日本海地域の細石刃・尖頭器文化が、新たに石鏃を作り始める頃、列島に土器が発生する。これが世界最古の土器である。 奈良県東部の山間にある北野ウチカタビロ遺跡や桐山和田遺跡からは、有舌尖頭器・石鏃・矢柄研磨器・磨製石斧と共に、 隆起線文土器と呼ばれる最古の土器の一種が出土した。 (縄文草創期) 県下最古の土器は隆起線文土器であり、細い粘土紐を口の周りに数段巡らす特徴を持つ。縄目の施文はまだ行われていない。 しかし、縄文草創期の土器は数少なく、石鏃は形態上の時期区分が難しい。 有舌尖頭器の分布 その点で有舌尖頭器 (茎のある槍先) は、この時期に特有なものであり、表面採集での発見例も多い。 当時の縄文人の活動範囲を知る上でも重要な資料となっている。 |
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B1-1-03有舌尖頭器 |
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B1-2狩のムラ 縄文時代後期 (約4,000年前) より以前の遺跡は、県下では山間部に集中している。木津川水系の各河川が作る谷や、吉野川水系の 谷に広がった縄文遺跡は、安定した食用植物と動物・魚類によって、豊かな生活が保障されていた。 同じ頃の奈良盆地は、沼沢地から乾燥した平野へと変化しているところであった。 住居に不向きな盆地中央を避け、縁辺部の扇状地に遺跡が散在している。 |
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B1-2-1縄文の谷 草創期 ※山添村は、隆起し続ける大和高原の山中にある山村。 当時の大和盆地は広大な湿地だった。きっと吸血昆虫や毒蛇が多く居住困難の地ではなかったでしょうか。 |
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B1-2-2草創期の土器 ●前1万~前8千年 (12,000-10,000年前) ●山添村桐山和田遺跡
早期の土器・石器 ●前8千年~前4千年 (10,000-8,000年前) ●山添村大川遺跡
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B1-2-05 中期末~後期の土器 ●前2,000~前1,000年 (4,000-3,000年前)
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B1-2-06 後期の土器 ●前2,000~前1,000年 (4,000-3,000年前) ●山添村広瀬遺跡
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B1-2-07 土壙墓と人骨 ●縄文晩期 前1,000~前400年 (3,000-2400年前) ●橿原市・御所市観音寺本馬遺跡 観音寺本馬遺跡 (橿原市・御所市) で発掘された縄文晩期の (約3,000年前) の土坑墓と呼ばれるお墓です。 この土壙墓からは、埋葬状態をよく示す人骨が出土しました。 そこで発掘現場から遺構ごと切り取って持ち帰り(遺構全ての意味)、保存処理を行いました。 埋葬状態と特徴 出土した状態から、1体分の人骨が、手足を折り曲げた屈葬・仰臥で埋葬されています。 人骨の特徴から、20~60歳 (比較的若い可能性がある) 男性であることがわかりました。 また、推定身長は165cmで、縄文人の平均身長 (158cm前後) に比べると背の高い人物だったといえます。 ※縄文人と比べると、大変な高身長です。縄文晩期、3000年~2400年前ですから、半島からやってきたプレ弥生人かと見まごうほどです。 縄文人と、弥生人や混血弥生人は、骨格を見ればわかるので、そのような指摘がないので、縄文人のようです。 奈良県では、縄文時代の人骨の出土例が極めて少ないことから、当時の埋葬方法と縄文人の特徴を知るうえで、大変貴重な資料です。 |
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B2豊かな狩猟採集民の文化 橿原遺跡 |
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B2-1森の民のくらし 橿原遺跡 縄文晩期 約3000年前 森の豊かさは、安定した食用植物に支えられている。縄文人は、その豊かさを季節ごとに利用すべく心得ていた。 生活圏の中に、狩猟採集のための一時的なムラを持ちながら、中心となるムラで継続して暮らす定住へ進んだ。 定住化に従って、木の実をつける木の管理や簡単な栽培農耕も始まったらしい。 橿原遺跡から多数出土した打製石斧は、木の伐採・加工用の斧とみるには弱々しい。 あるいは根菜類の掘り起しや、または畑作植物の栽培に使われたものと考えられる。 ※橿原遺跡は、現:橿考研からスポーツ施設にかけての一帯、十万坪から、昭和初期に発掘された膨大な遺跡です。 橿原遺跡 橿原遺跡Hi-Ho 橿原遺跡 橿原遺跡wiki 橿原遺跡 橿原遺跡 橿原遺跡コトバンク |
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B2-1-1豊かな狩猟採集民の文化 温暖化し始めた気候は、約5,000年前に現在の平均気温より約2℃高くなって頂点に達した。 縄文海進と呼ばれる海水面の上昇が、大陸から日本列島を切り離し、氷河期に広大な平野であった日本海沿岸や瀬戸内海は、 暖流が流れ込むことで各種の魚介類の生息地(大陸棚)となった。 その一方で、山野は樹種の豊かな照葉樹の森に覆われた。 新しい森は多数の種類の木の実や食用植物を育て、また、獣の生活を守り、水が運び出す栄養分によって、沿岸の魚介類を育んだ。
捕獲された動物 ●晩期前1000~前400年 ●橿原市橿原遺跡
狩猟の道具
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B2-1-2縄文人の食物カロリー アフリカ南部のカラハリ砂漠周辺に住む狩猟採集民は、一日平均 2,140kcal (現代人の目標値2,400kcal) を摂取している。 食物の中心は木の実であり、狩猟する男性より採集を行う女性の食糧確保量の方が多い。 縄文時代の食用植物の種類と量を考えれば、、縄文人は現代人と大差ないカロリーを得ていたと考えられる。 ※人間は基本的にある程度の栄養源を得なければ生きていけない。それは縄文人も現代人も基本同じであり、摂取が著しく違うはずがない。 もし著しく違った人たちは、それは飢餓と言い、やがて死に絶えたのでしょう。 |
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B2-1-3森の民の装い ●晩期 前1000~前400年 ●橿原市橿原遺跡
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B2-1-4縄文の土製食器 ●晩期 前1000~前400年 ●橿原市橿原遺跡 縄文時代の個人用食器などはこれまで見た例がありません。大変貴重な遺物だと思います。
※スプーン状土器の出土は、それが食器として使われていたということで、取り分け用には、 アイヌ民具の木さじ(パラパスイ)などや、ひしゃく、しゃもじなどが使われていたのでしょう。 参照白老アイヌ民族博物館 二風谷アイヌ文化博物館
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B2-1-5 ドングリの加工法 木の実の中には、苦いアクを抜かなければ食べられないドングリなどもあった。縄文人達は、水の湧く穴にドングリを貯蔵したり、敲いたうえで 水にさらすなどして、アクを抜く方法を考えた。 写真は近年まで吉野地方で行われていた、ドングリの加工法である。 |
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B2-2森の民の墓 ●大淀町越部ハサマ遺跡の墓群 自然と一体化した縄文人の生活空間の捉え方は、稲作以降の私たちとは大きな違いがある。死者のための空間は、その端的な例である。 墓地と祭礼の広場を中心に置き、その外周に住居を配した岩手県西田遺跡と比較すれば、円を描く大淀町越部ハサマ遺跡の墓群は、 ムラの中心部であることが想像できる。縄文人は墓地をムラの中心に据え、死者を取り巻いて日々を生きていた。 ※ひねくれた文章表現です。墓地はムラの中心にありそれを取り巻いて住居をもうけて生活していた。と、簡単に言えばよい。 |
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B2-2-01墓 |
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B2-2-02土器棺墓 縄文晩期 前1000~前400年 縄文土器をお棺に利用した子供のお墓です。この土器棺墓には、4歳前後の子供の骨 (頭蓋骨・手足の骨等) が納められていました。 これまで子供のお墓と考えられてきた土器棺墓ですが、子どもの骨は残りにくく、その様子はよくわかりませんでした。 この土器棺墓からは、一度埋葬した遺体の骨を、再び整えて埋葬している様子を知ることができます。 |
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B2-3祭りの道具 豊穣な大地に育まれた人々は、自然に宿る神に祈るため、様々な祭器を作り出した。 女性を形どる土偶は、裸体のものや入墨・衣服を表現したもの、消化器官とみえる管が体部を貫通しているものがあるが、 いずれも打ち壊された状態で出土する。 石を加工して作られる祭器には、何を象徴したものか不明な御物石器や石冠、性器をシンボル化した石棒などがある。
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B2-3-01土偶 ●晩期 前1000-前400年 ●橿原市橿原遺跡
※土偶がどのように出土したのか明記されていませんが、展示の流れと、このように大量にまとまっての出土は、伊勢堂岱遺跡の様に、 墓地遺跡から出土した場合など、特定の祭祀場からが多いようです。ここでは墓地遺跡出土のようです。 すると、墓地祭祀として、土偶とミニチュア土器が共献されていたということになります。関西でこんなに沢山の土偶は見たことない。 |
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B2-3-02ミニチュア土器 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡 |
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B2-3-03不思議な道具 橿原遺跡 後期 (前2000-前1000年)、 晩期 (前1000-前400年) 御物石器、石冠、冠型土製品 動物型土製品、スタンプ状土製品
4.3kaイベント=縄文中期後葉以降の寒冷化 KAKEN — 研究課題をさがす | 完新世の気候変動と縄紋文化の変化 ...完新世の気候変動と縄紋文化の変化:八ケ岳だより:So-netブログ福田正宏 - 研究者 - researchmap歴史生態学から見た長期的な文化変化と人為的生態システム : 縄文時代 関東甲信越地方における中期/後期変動期―4.3kaイベント ... - 早稲田大学第 2 部 先史~古代の人々の集住 に関する地域密着 ... - 東北芸術工科大学考察 NHK「英雄たちの選択」2019.4.24「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー」(リンクは3カ月間のみ有効)の中で、 福岡市福岡(板付)空港そばの雀居(ささい)遺跡(縄文晩期終末期から弥生時代終末期)から、大量の弥生時代の木製品に混じって 青森県津軽地方の、縄文晩期土器、漆彩色の亀ヶ岡式と、太平洋側の青森県是川縄文館所蔵の縄文晩期の独特な意匠の籃胎漆器が出土した。 また、是川縄文館の国宝合掌土偶(座産=屈折像土偶、後期後半約3500年前)の型式が、足を省略進化しながら、大阪から座産土偶出土した。 私たちは、以前より、縄文後期・晩期には東北や北陸から沢山の人々が西日本(九州までも)へ移住をしていたことや、 亀ヶ岡式土器は日本全国へ海運によって運ばれており、日本海航路はもとより、太平洋周りでも遮光器土偶と共に大交易をおこなっていた。 ということを調べてきた。 番組では、前者は縄文人が弥生稲作農耕村へ視察に出かけたのだろうと言う。紀元前10世紀頃に始まった北部九州の稲作だが、その頃には、 東北はもちろん縄文晩期で、亀ヶ岡式土器の最盛期、この時、東北縄文人と弥生弥生文化が出合ったのか、交易によって持ち込まれたのか、 である。 後者は、青森縄文人が近畿地方まで移住しており、その速度も滋賀県までの速度と大阪までの形式変化の様子から、移動速度や経過時間が 分かるほど詳しくあとづけされていた。 結論 橿原遺跡の東日本から東北的な出土物は、やはり、人々の激しい移動があったことを示すものでした。 |
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※御所市玉手遺跡は県内最古の水田跡で、弥生人の「あしあと」が残る、弥生時代前期の遺跡のようです。 御所市玉手地区 県内最古級の水田跡 玉手遺跡-全国遺跡報告総覧 奈良県御所市玉手遺跡や、弥生水田と人の足跡ハッキリと 縄文時代の暮らしを知る 御所玉手遺跡などの出土品展示 奈良 ふるさと御所 文化財探訪 -考古学・古代史編- 御所市文化財調査報告書 奈良県御所市の中西・秋津遺跡 (現地公開見て歩き127) 邪馬台国と大和 |
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B2-3-04石棒 石棒、石刀 橿原遺跡 縄文晩期
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B2-4遠隔地との交易 考察 ※交易と移住の違いを考えてみた 交易は、現地で出土するものがそのまま遠隔地で出土すること。 移住は、本来の地域から離れるに従って、製品が形式変化を起こすこと。 青森県合掌土偶→滋賀県赤野井浜遺跡(晩期前半)→大阪の足の省略された土偶につながる(ネット上に見つからず) 島根には赤野井浜遺跡同様の屈折像土偶があった。 |
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B2-4-01遠隔地との交渉 自然を知り尽くした縄文人は、各地域に特産品と言えるものがあることに気付いた。 ヒスイや、接着剤に使うアスファルト等の鉱物資源にとどまらず、貝や魚等の海産物も加工して交易された。 橿原遺跡から出土した海生動物骨 (クジラ・スズキ等) は、大阪湾岸から紀伊半島沿岸地域との交渉を、 また、東北・北陸・中部地域の縄文土器文様やヒスイ製品の出土は、畿内から東へ伸びる交易路があったことを教えている。 |
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B2-4-02交易
漆の利用 縄文前期 (約6000年前) から始まる日本の漆加工は、中国長江流域と古さを競っている。(※この地域から技術集団が来たということかな) しかも、縄文漆器は、漆の木の管理→漆の精製や添加する顔料の採取・調整→漆を塗布する素地作りと塑形剤による整形→漆の塗布と乾燥 といった多数の行程を踏まえて生産されている。漆器作りの基礎技術は、縄文時代にすでに完成していた。
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B2-4-03海との交易 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡 |
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B2-4-04石材の交易 |
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B2-4-05装身具の交易 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡 |
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B2-4-06各地の土器 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡
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B2-4-07関東系の文様 ●縄文晩期 前1000~前400年 ●橿原遺跡 |
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C弥生時代 |
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C1稲作伝来 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
C1-1稲作のひろがり 耕地を開き、水利を管理する組織・技術力を併せ持つ水稲農耕は、縄文時代晩期後半に列島西部の沿岸地域に到来した。 定着期間の後に、水稲農耕は本州北端まで一気に広がっていく。 奈良盆地での弥生時代の始まりは、縄文ムラのはずれに移住してきた弥生ムラが、縄文人との交流の中で、縄文ムラを弥生ムラに変化させながら 進んでいった。 ※一気に青森まで広がった裏には、東北地方から西日本や九州にまで来ていた東北・北陸の移住者の存在や、その里帰りがあったのだろうか。 |
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C1-1-01panel 水稲農耕の広がり
大嘴子遺跡 (遼東半島の付け根にあり、徐福などが関連しているようです。遼寧省大連市) 佐賀の徐福さん 「徐福のふるさと」佐賀と連雲港 熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から 2018年の「徐福と弥生の稲作 佐賀大学名誉教授:和佐野喜久生 KAKEN — 研究課題をさがす | 中国の古代稲・稲作農耕文化に関する遺伝 いまいち信用できない内容 ::ねおちは蜜の味 稲作は日本のどこに伝えられたんですか? 彭頭山遺跡(中国の長江中流、湖南省北西部における新石器時代の文化である) 現在の所最古の水田遺構が彭頭山文化前期にあたる約8000年前の 長江流域における世界最古の稲作農業 彭頭山遺跡(ほうとうざんいせき)とは - コトバンク 栽培体系の形成と伝播・拡散から見た先史中国の稲作 と地域社会 謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。 彭頭山文化 - Wikipedia 彭頭山文化 人類誕生6 - Yahoo!ジオシティーズ 中国文明:先史⑤ 新石器時代 その3 前期新石器時代 河姆渡遺跡 河姆渡遺跡 世界史の窓
稲作の伝播
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C1-1-02突帯文土器 縄文晩期 前4~前3c 私見 突帯文土器 籾殻圧痕を持ち、北部九州から西日本一帯に僅か200年で波及した突帯文土器は、硬直化した学会の中で縄文晩期とされていた時期に発見され、 学会の権威を保つため、縄文土器とされている。しかし、誰がどう見ても、それまでの縄文土器とは異質であり、籾殻圧痕は弥生文化の到来を 告げるものでありましょう。 どう見ても縄文土器の延長線上にはなく、縄文人が作ったものとは考えられない。
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C1-1-03稲たばと炭化米 弥生前期 前3~前2c 弥生中期1c
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C1-1-04弥生土器 弥生前期 弥生人の土器
縄文土器の名残「大和形甕」
縄文のなごり「大和形甕」 山城の庄内式甕をめぐる二、三の問題 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター 初期弥生文化の成立抜刷 水稲農耕と突帯文土器 - 国立歴史民俗博物館 土器の器種について - 横浜市歴史博物館 岡山県古代吉備文化財センター 古代吉備を探る 摂津・河内・大和の弥生甕 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ-国立歴史民俗 八王子古宮式と近江湖南型甕 - 愛知県埋蔵文化財センター 畿内から東海の古式土師器―伊賀を中心とした土器交流 - 天理大学 川入・中撫川遺跡の庄内吉備型甕|岡山市|学び・生涯学習|遺跡・埋蔵 .. 畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開 - J-Stage |
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C1-1-05新たな道具(農耕具) ●弥生前期 前3-前2c ●田原本町唐古・鍵遺跡 |
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C1-1-06新たな道具(加工具) ●弥生前期 前3-前2c ●田原本町唐古・鍵遺跡 |
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C2田と森の融合 水稲農耕の広がりによって、縄文人もまた弥生人になった。縄文の技術と新来の技術とが融合して、列島独自の水稲農耕社会が出来上がった。 各種の生活資材の調達や、食糧の確保についての縄文人の知識が、始まったばかりの脆弱な水稲農業社会を支えた。 |
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C2-1稲と森の知恵 縄文人は、水稲農耕に伴う新たな労働を、季節ごとの集中労働に振り分けることで受け入れ、弥生人になることができた。 いまだ生活は、食用植物の採集や狩猟によって支えられていたし、新来の土木具・農工具や容器の生産にも、森林の管理・伐採についての 縄文の知識が生きていた。ただし、水稲農耕が伴ってきた機織や井戸掘りによって、男女の分担する労働の種類は増えていった。 |
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C2-1-01弥生の狩猟 |
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C2-1-05木製品 弥生時代 |
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C2-1-5a木器の製作 木材の水漬け貯蔵 木器の製作では、作るものの形に合わせて様々な工夫が行われた。樹種の選択や木目取りである。 写真のように加工途中の木材を水漬けするのも、形の歪みを抑える工夫の一つである。
弥生の木工、木の伐採
弥生の木工、農具の製作 |
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C2-1-10b生活用具の製作
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C2-1-10c装身具 |
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C2-1-10d石製農具と縄 |
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C2-1-10f織物の製作 |
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C2-1-15土器 下に掲げる土器が、日常生活用土器とは思えない。何かしらの祭祀具等ではないでしょうか。 |
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C2-1-15土器b |
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C2-1-15土器c |
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C3神の宿る器 |
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C3-1青銅の神 近畿地方に広がった青銅器文化の初めには、銅鐸と共に武器もあった。 しかし、弥生人の生業の中で農業の割合が次第に高くなり、 社会が地域ごとにまとまりを強めるにつれ、銅鐸は大きくなり、霊力を増していった。 その形の変化は、吊り鳴らすことに支障が出るほどに飾り立てた吊り下げ部によく現れている。この銅鐸の大形化が鋳造技術を発展させた。 石製の鋳型から、より、自由に大形のものが鋳造できる土製鋳型への変化である。 |
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C3-1-1銅鐸 撮影禁止を含む銅鐸は大変撮りづらく、どうしてもロングショットのみになってしまい、結局ピンボケになってしまいます。 まことにピンボケですみません。 |
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C3-1-2青銅製品の分布 |
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C3-1-3銅鐸の鋳造 ●弥生時代後期2世紀 ●田原本町唐古・鍵遺跡 |
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C3-2神祭りの記憶
弥生時代中期は、土器絵画が花開いた時代である。絵画には、人物・鹿・建物・舟といった一つの画題を描くものや、中には多くの画題を土器に 巡らせて、物語を構成しているものがある。描き方はピカソを思い浮かべてもらえばよい。画題の様々な視点からの特徴が、 一つ絵の中に織り込まれている。 神の言葉を伝える鳥装の巫女や、神の警護のためか、または神意を占う模擬戦の戦士の絵があるところからみて、絵画土器を用いたマツリの中心に、 銅鐸があったとみても不思議ではない。 土器絵画 舟の旅立ち 物語は船による旅立ちから始まる。ゴンドラ状の船には、立って櫂を漕ぐ人がいたり、多数の乗員を載せているものもあった。 中には、艫(とも)に小さな人物を描いた例もある。神に選ばれた子どもであろうか、それとも「魏志」の東夷伝倭人条にみる 「持蓑じすい・航海の安全を祈る者」であろうか。船の行く先は鳥(サギ)のいる世界である。それは神の世界であったかもしれない。 |
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C3-2-01土器絵画
土器絵画 高殿への到着 上ノ山遺跡 弥生後期2世紀 船は高床建物の下に到着し、建物の梯子を二人の人物が登る。銅鐸絵画が男性を丸頭に表現することから、この二人は男性である。 建物の中には何があるのだろうか。唐古・鍵、清水風遺跡の高床建物の絵画では、棟先に半月を描く飾りがあるもの、棟先から綱を引いたものや、 棟持ちに飾りを取り付けたものなどがある。
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C3-2-02神祭りの再現 土器絵画をミニチュアジオラマに具現化したもので、弥生時代の風俗や習俗がよくわかるようにされています。 |
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C3-2-03土器絵画と建物
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C3-2-03絵画土器 土器絵画 高殿と鹿 高床建物の周りには鹿が群れている。鹿は神と繋がるものでありながら、しかし、弓によって射られる、捕獲の対象である。 神を呼びさますためには、鹿を捧げることが必要だと考えられていたのだろうか。 弥生人もまた、再生かる鹿の角に霊力を感じていたのならば、それは縄文時代の伝統に繋がっている。
土器絵画 羽飾りの戦士 二人の戦士が立っている。手には盾と戈を持っている。高床建物の横に立つ姿以外に、銅鐸に描かれた例がある。高床建物を警護し、 もしくは銅鐸に邪気が近づかないよう守るための戦士であろうん。それとも、盾を向い合せ、神意を占うために戦う姿であろうか。
竪穴住居と高床建物
鳥装の戦士 清水風遺跡 弥生時代中期後半と弥生時代後期前半の二次期
土器絵画 鳥装の巫女 田原本町清水風遺跡 弥生中期1世紀 翼のような袖と、くちばしを取り付けたかぶりものを頭に付けた巫女が、台地を踏みしめて立ち、両手を上げて神の言葉を伝えている。 胸には若い鹿が描かれる。その横に立つ二人の人物は、左が三角で右が丸い頭をしている。 銅鐸絵画に従えば、、左が女性で右が男性となる。男女一対の首長か、鳥装の巫女を補佐する者であろうか。 |
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C3-3祖霊の世界 水田を作るようになった人々は、死者の空間を生活の場の外に写した。つまり墓地は、ムラ近くの耕作地などに有効利用できない場所に 作られるようになった。墓の形には地域によって違いがある。 近畿地方では、周囲を溝で区切り方形に盛り土した、方形周溝墓と呼ばれる墓が主流である。 死者は、コウヤマキ製 (芳香を放つ、水に強い、腐りにくい) の組合木棺 (くみあわせもっかん) に入れて葬られた。 |
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C3-3-01墓地 |
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C3-3-02弥生の王墓 成人の墓には地域色が生まれた。弥生時代になると、その違いはよりはっきりした。 北部九州の甕棺墓、近畿の方形周溝墓、日本海沿岸西部の方形貼石墓、がその例である。 こうした成人墓の群の中には、ひときわ大きなものがある。小地域の中心となるムラの墓地にみられることから、恐らく幾つかのムラの 中心となった人物の墓であろう。北部九州では、奴国王墓や伊都国王墓と推定される大型の墳墓も確認されている。
子どもの墓 子どもが亡くなったときは、特別な扱いがされた。大人の葬られる墓地にではなく、集落のはずれに葬ることがあった。 大きな甕を棺とし、鉢や高坏で蓋をしたものが発見されている。 動物の墓 弥生時代の人も猟犬を飼っていた。その犬を埋葬した例が発見されている。大福遺跡から出土した長頸壷の中には、一旦埋葬した犬の骨を 壺に納めて再度埋葬していた。骨の多い胴体や足先の小さな骨が入れられていた。
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C4クニへのあゆみ 唐古鍵遺跡地図 |
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C4-1戦乱のムラ 唐古・鍵遺跡は近畿最大の環濠集落である。 唐古・鍵遺跡の、環濠復元図 弥生時代中期初めには、長径約500m短径400mの楕円形に幅10m深さ2m以上をはかる大環濠が完成した。 後にその外に幅5mの濠をいく筋も加え、防御の効果をより高めていく。この大環濠の掘削量は、全長120mの前方後円墳の体積に等しい。 古墳時代のはるか以前に、既に大規模な土木作業を可能とする、労働の確保と組織化が果たされていた。この力が戦争に向けられたのである。 |
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C4-1-01防御施設を持つムラ 水城(みずき)=環濠集落 高城(たかき)=高地性集落
※高城 (高地性集落)は、 耕作地から離れた丘陵や尾根上に、一時的に築かれた集落である。見張り台的なものが多い中で、東大寺山は大規模なものであり、尾根上に あって外周に空濠を巡らしている。盆地の集落の一つが戦争から身を守るため、弥生時代後期中頃に一時的に移動してきたものである。
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C4-1-02武器・武具 |
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C4-1-02a武器
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C4-1-02b剣・矛・戈
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C4-2マツリゴトの統一 纏向遺跡 地図 戦乱の終わり 弥生時代後期の終わりに高地性集落は姿を消し、平野の環濠集落では濠が埋まっていく。戦争の危機は過ぎ去ったらしい。 この時に纏向遺跡が成立する。人工の水路網を持ち、掘立柱建物群からなるこの遺跡は、先の戦争の危機を終わらせた首長達が築いたものだ。 纏向遺跡周辺に、巨大な前方後円墳が築かれるまでには尚少し時間があるが、ここから新たな社会の仕組みが始まったとみて、古墳時代に含める。
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C4-2-1纏向遺跡の成立 |
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C4-2-2纏向に持ち運ばれた土器 古墳時代前期 |
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C4-2-2a
C4-2-2aa
祭祀と王権 纏向遺跡は、大規模な水路や館などを組み合わせて造営された遺跡である。 この遺跡の西半の中心部に近い桜井市からは、祭祀品の廃棄坑が発掘された。そのうちの一つからは、他地域の土器や木製高坏・箕・ 鳥船形木製品・船形木製品・機織り具など多種多様な遺物が出土した。 近隣の太田地区には掘立柱建物群があり、多数の地域を統括した王権による祭礼が始まったとみることができる。
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C4-2-2b運ばれた各地の土器 古墳前期 三世紀 桜井市纏向遺跡
運ばれた各地の土器 古墳前期 三世紀 桜井市纏向遺跡 |
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