縄文を旅する3 北の縄文 北東北~南北海道旅13 2013.10.09(水)
白老アイヌ民族博物館 北海道白老郡白老町若草町2-3-4 0144-82-3914 通年開館 休館日年末年始
白老アイヌ民族博物館は2018.3.31に閉館しました。長く国と協議していた博物館に、2020.04.24に生まれ変わるようです。
この館で最もよかったのは、右下の、宗教観・世界観を表した大壁画でした。縄文人の世界観を彷彿とさせるものでした。
2020年の開館には、ぜひ皆さんに登館していただきたいと思います。新しい展示に期待しています。
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交通 |
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レンタカーまたは白老駅から徒歩15分 レンタカーを使うと二風谷アイヌ民族資料館もその周辺の博物館もたくさん一日で見られます。 |
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見所 |
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今に残る縄文文化と文物 アイヌ文化をよく見ることでその中に縄文文化の片鱗が見えてくる。 |
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縄文文化はこのようなものではなかったかと思える。 |
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舞踊、家屋、アイヌの精神世界、祭祀具、織機などがよく収集説明されている |
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目
次 |
00ポロトコタン
アイヌ犬
10伝統芸能館
20チセ (家屋) 展示館
40アイヌ民族博物館
41アイヌ民族の概要
42アイヌ民族の精神世界
50熊の霊送り
60神々の姿
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70獲物を捕る
71狩猟
73山菜採り
80海の幸
90コタンと森
100漁労
150農耕
160料理
甘味樹液
食用植物 |
170機織り
180着物や装身具
190すまいと道具
191住まいの道具
193家屋
195誕生
200その他の文化
201成長
203死 |
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北方民族の世界観・宗教観 |
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00ポロトコタン
「民俗文化伝承の里」アイヌ文化を伝える場です |
ポロトコタン(湖畔の集落)
は気温が安定し、水産物が期待できる安住の地 |
博物館だけでなくアイヌ文化伝承の複合施設として運用されている |
体験館、伝統文化伝承館、ミュージアムショップetc |
平日なのに随分と沢山の人が来ていました。私は学生の頃と二度目です |
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この建物の裏にアイヌ犬(北海道犬)が飼われています。南方系遺伝子を持つこの犬は、縄文人とともに南方からやって来ました。
台湾小数民族の犬も同系統の犬ですが、「体毛は短く首は長く」、これは熱帯地域馴化。
北海道犬は寒冷地馴化で体毛が面積当たり二倍にも密生しているそうです。 |
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10伝統芸能館
舞踊を見るのは初めて。 |
アイヌ文化と現代北海道のかかわりを説明中 |
衣装や舞台装置に縄文を探しました鮭の燻製はここで作ったそうです |
炉の四隅に柱がある。岐阜県で同様の炉有。一隅に神聖な柱が有。縄文似 |
花ござ・イナウと行器
海人も共通の刺青。
50年前兵庫県でこの刺青 |
の女性に会った。アイヌ村から、和人の大きな旧家に嫁いだおばあさんだった。 |
煙で燻蒸している。煙出しはあるのに寒くない。不思議だ。 |
台湾少数民族も口唇周辺に入れ墨をします。旧石器から続く文化ですね。 |
自然や動物の形態を模写したような舞踊。
素朴で原初的です。 |
縄文の楽器トンコリ演奏 |
太鼓です。縄文遺跡からはこんな簡単な楽器がなぜか出土していない。 |
高度な縄文の楽器トンコリが出土している。口琴は世界中から出土 |
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口琴・太鼓などが、縄文遺跡から全く出土しないのはなぜでしょう。縄文人も使っていたはず。弓や木胎漆器は出てくるのに。なぜ残らなかったのだろう。 |
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口琴は人類が出アフリカ後、チグリスユーフラテス川付近で発明した原始楽器ではないかと思います。 |
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20チセ (家屋) 展示館
入り口が二重構造なのは冷気遮断、暖房の目的で寒冷地では不可欠。 |
本気で寒冷地の北海道でこんな炉一つで暖は取れない。どうしたのか。 |
窓はないから真っ暗で暖房と明かりの炉は重要だったでしょう。 |
樹皮衣の繊維見本 |
ゴザを作るものだが、
縄文のアンギン編み機
北海道でもこれで布作り? |
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弥生時代に持ち込まれた原始機(げんしばた)腰で引っ張りながら上体で |
機織りをする重労働。
※炉の四隅の一本だけが神聖。縄文と同じ。 |
やかんは縄文の沖縄では炉に吊り下げて使用した。他の地域ではどうだったのか。 |
アットゥシの左にはよく煙でススけているが地模様のある陣羽織がある |
北方民族が使う鉤銛
草の壁だけで本当に過ごしていたんですかね冬を |
樹皮衣アットゥシの作り方
素材はオヒョウの樹皮
図鑑は葉や花だけ掲載し樹木全体を載せない。
だから、どんな木かちっともわからん。 |
樹皮衣は防水効果があり大変便利と近年まで日本中で使われたという。※ |
アットウシを織る |
ポロト湖 |
秋の迫るポロトコタン |
※樹皮衣は防水力が強く
明治以降日本全国の漁師から引き合いがあり、
アイヌの重要な交易品でした。
販売品・現金収入品 |
それまでは、蓑傘・油紙
で、防水力はなく濡れる
漁師にとっては大変重宝したそうです |
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40アイヌ民族博物館
41アイヌ民族の概要 アイヌ民族の権利宣言 だと思います。
アイヌ民族と最も血縁的に近いのは琉球人で、次いで本州の和人です。
つまり、非常に早い段階の、アジア人が分化する以前の人々が、南方からシナ陸塊を北上し、アムール川に行き当った人々です。 |
※1末尾に全文掲載 |
アムール川バイカル湖周辺で民族を形成した。
彼らは南方民族である。後期モンゴロイドとは別。後に列島に南下してきた小竹貝塚人等は中東から大陸横断をした人々。 |
彼ら同様にこの周辺では多くの民族が形成された。 |
彫りの深いアイヌの容貌は前期モンゴロイドに共通する特徴で、琉球人や台湾先住民にもみられる。
これは、コーカソイドも同じです。 |
旧石器~縄文~続縄文と連綿と古代文化を受け継いできた民族集団で、
その文化は超超古代文化を継承しており、縄文文化を探求する者にとっては得難い学習材である。 |
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42アイヌ民族の精神世界 これを調べようとすると、ネット上には、クソくだらねーゲームソフトのキャラがいっぱい出てきて何もわからなくなっている。
世界の中心にカムイモシリ
(天上の神の国)があり、
太陽の神(トカプチュプカムイ)
月の神(クンネチュプカムイ)
魂を司るラマッカラカムイ
これらが超自然界の最高神である。 |
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そして、大地の神、魚、鹿の神。集落の神シマフクロウ(コタンコロカムイ)
その他自然界にはあらゆるところに万物の神々がいる。 |
これは全ては神の御心のままにと、
唯一神を唱えようと多神であろうと、
現代とあまり変わらないように思える
縄文の信仰とはこのような、素朴系だったのでしょう |
クンネチュプカムイ・コタンコロカムイ・
ラマッカラカムイ |
身の回りの様々な神とアイヌ語 |
シリコロカムイ大地を司る神。
その他様々なアイヌ語の名詞 |
アイヌ語辞典で名前は分かるが、言語として会話を成立させることはもう出来ない。 |
コタンコロカムイムラの神シマフクロウ |
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50熊の霊送り
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縄文時代に全国で飼い猪の霊送りがされてきた(北海道でも)。弥生以降、本州から仔猪が入手困難となり、飼い熊祭りとなったとも言われている。
弥生時代は、北海道では続縄文時代という。 |
自然の恵みに感謝して魂を送り、再びの恵みを願う祭祀である。本来は
シマフクロウの霊送りだったが、続縄文時代のニブヒ族の信仰を取り込んだ |
シマフクロウの霊送り |
霊送りの熊は子熊から飼い慣らしたものを使い、
儀式にのっとって絞め
祭りを行う。
諏訪神社の縄文祭祀・御頭祭(狩猟祭)とは意味・趣の違う祭祀である。 |
少数民族ニブヒの宗教に屈服したアイヌは、、宗教的精神を取り込まれた。 |
行器 |
木地鉢が全て縦長なのはロクロがなかったせいでしょう。 全て手彫で仕上げられている。 |
酒絞りの道具発酵した穀物を入れた袋を絞ったのでしょう |
ゴザを止める串は今日でも全国で使われている |
何十年か前に再現された最後のイヨマンテの貴重なカラー写真です |
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宝刀 鎌倉時代の国宝級
交易で入手した貴重品 |
干し鮭 と 子供用団子 |
花矢の儀式
花矢に殺傷能力はなく、
熊に向けて射て
熊を暴れさせ=遊ばせるための道具 |
花矢 |
酒造り酒造り 栽培したアワやヒエを麹と混ぜて発酵
→コモで巻いて暖かく※ |
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ネットに木地鉢きじばちと言う言葉がない。うどんやそばをこねるものだが、今や木鉢と言うらしい。 |
熊送りでは、飼い熊はみんなで丸太で絞殺すのが慣わしてある。
誰が殺したかは分からなくするためです。 |
※酒造り
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熊の霊送りの10日ほど前から取り掛かり、アワやヒエと麹を混ぜた材料を大きな樽に仕込んだ後、樽をゴザで包み、それを炉の傍に置いて保温します。
その間悪い神が近付かないように、小さな木幣と削りかけをつけ、樽の上に着物をかけておきます。 |
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60神々の姿
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神々の住む世界では、神々は人間と同じ姿をしていますが、人間の世界ではそれぞれの神がその役割によって、様々な形に姿を変えています。
その姿は、動物、植物、地形、自然現象など、地上のあらゆるものとなって人間の眼に映り、それによって人間は神の存在を知りました。 |
神々と人々
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アイヌ民族は生活のいたるところに精霊の存在を感じ取っていました。人間の存在は精霊によって守られ、人間界に存在する全てのものに精霊が宿り、五感で感じる現象の多くも、精霊によって生じると考えていました。
精霊のうち、特に尊敬するもの・おそろしいものは、そうした気持ちを込めてカムイ「神」と呼びました。 |
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そのため、この世界には多くの神が存在し、自然現象や動植物をはじめ、人間の作り出す器物などにも神が宿り、それらの神々との関わり合いで、人間の生活が営まれ、平穏無事に暮らせるものも、災害に合うのも、神の力によるものと考えられていました。 |
神への祈り
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人間から神への感謝や祈願を伝えることは、祈りによって行われました。祈り言葉は、普段とは違った、格式ばった口調で、神に振り向いてもらえるよう、美しく飾った言葉で唱えられました。神事の手順にも、意味や厳格な決まりがありました。 |
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日常生活の中でも、仕事の初めや来客の際などに簡単な祈りを行い、季節の節目には家族や近隣の人々が集まって盛大な神事を行いました。 |
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70獲物を捕る
71山の幸
仕掛け弓
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春から秋口にかけて熊を獲る時は、もっぱら仕掛け弓用いました。熊の通り道に設置し、本体の一端に結んだ紐を前方に張っておくと、
紐に触れた瞬間に毒矢が飛び出す仕掛けです。仕掛けた場所が他人に分かるように、周りに木を縛ったり、木に傷をつけるなど目印をします。 |
毒
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矢や槍の先にはトリカブトの根を乾燥させて石で潰し、水や唾液や他の有毒性植物などと混ぜ合わせて作った毒が塗られます。
毒にはこのほか赤エイの背びれについている刺し針からも作りました。この調合は個人や家庭ごとに異なり秘密とされていました。 |
獲物をとる
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アイヌ民族は食料を山猟、海漁、川漁、山菜採取、農耕、交易などによって得ていました。
狩猟、漁労では、一年を通して様々な獲物が獲れました。一部の地方を除き、獲物を追って移動することのなかったアイヌ民族は、
それぞれの集落が自分たちの猟場を持ち、その中で厳格な決まりを守って狩猟を行いました。
捕えた動物は食用となり、また、毛皮やクマの胆はなどは大切な商品となりました。 |
獲物を獲る狩猟は積雪で山野の行動がしやすくなる冬~春先に行うものです。 |
仕掛け弓・毒トリカブト毒の仕掛け弓で年中クマを狩る。 |
矢 弓 矢筒 |
テン捕り用仕掛け弓 |
草の履物わらじ |
アザラシ皮の靴も |
鮭皮のブーツもあった |
仕掛け弓 |
獲物を獲る各部族の猟場があり、侵犯することで度々戦争が起こった。 |
春山での熊猟
北越雪譜によると
山猟師はクマの冬眠穴を知っており、 |
春先に山に入って
穴の前に杭を立てて出られなくしたり、
弓を仕掛けたり、
上から重石が落ちる仕掛けをしたり、
して、クマを捕えていた。
とある。 |
ジオラマでもクマ穴を弓で狙っている。
マタギ猟も基本的に同じで、縄文から続く方法。
北海道アイヌ、東北マタギ、北陸の山猟師に共通するのは偶然ではない |
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73山菜採り
山の幸
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人々は野山から多くの生活の糧を得ていました。中でも食料は、山でエゾシカやヒグマなどを狩猟したり、ウバユリ等の植物を四季を通じて採り、
これらが減ると生活が危ぶまれるほど、山の幸は重要なものでした。 |
ウバユリ採りの唱えごと
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高支庁の様似地方では、オオウバユリ堀りの後、でんぷん採りに必要な麟茎部だけを集め、最後に残った不用な茎葉を辺りにまきちらしながら
大声で「オオウバユリの野原が生えますように」と唱えました。その他の植物も同じでした。こうして、植物が再生することを願いました。 |
ヤブマメ採りの歌
害獣の多いところでは声を出しながら採取することで危険を防いだのでしょう |
採集場所が藪の中だったために、大きな背負いカゴは見られない。 |
山の幸山の幸はエゾシカやヒグマの狩猟や、オオウバユリの根やエゾテンナンショウなどの植物を採取した |
オオウバユリの根を掘り起こすところ |
ウバユリ採りの唱えごと鱗茎の話をすると鼻の中に匂いがよみがえってきた。(笑)私は大嫌いです |
クワと山ブドウの採取 |
同一反復でした |
でんぷん質のユリ根を乾燥して保存食にしたもの |
山ブドウ
小さいので酒にした方が効率は良いが |
ウバユリの根掘り |
イケマまじないにつかう
ヤブマメ入れ |
谷地蕗ヤチブキの根掘り
エゾリユウキンカのこと |
編み袋
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編み袋と背負縄※この背負縄は現在も広く東南アジアで使われており旧石器時代から使われていたものと考えられます |
背負縄
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熱帯地域や東南アジア、そして南米のジャングルで見かけられるね額で支える背負い紐が北の果てにあった。
縄文遺跡から出土しているかもしれない |
ここでは土器が出てこない。刃物も、槍先も、 |
クワの実や山ブドウは広く日本中で食べられたものだが、採取して時間が経つと
自然発酵して酒になる。 |
※編み袋と背負い縄
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編み袋はシナの木の内皮やヤマブドウの皮で作り、大小様々あります。
野山で採る植物や、農作物の運搬、あるいは保存食料を収納しておく為に使われました。
また、背負い縄は編み袋を背負う際に用いられますが、縄の平たい部分を額に当てて縄の両端を編み袋の口に縛って背負いました。 |
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80海の幸
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海にはメカジキ、マンボウ、マグロなどの魚や、クジラ、アザラシなどの海獣が多くいたので、海用の船を操り、結氷する地方では氷上を歩いて沖漁をしていました。
秋から春にかけては、昆布屋貝類を海岸で採ったり。産卵に来るニシンやイワシをとりました。 |
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90コタンと森
シマフクロウの歌詞 |
村の周囲は自然にあふれていた。 |
ワシ、キタキツネ |
熊、フクロウ |
ワタリガラス、エゾシカ |
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100漁撈
シリカプ漁(メカジキ漁)
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白老は古くからシリカプ(メカジキ)漁の盛んなところでした。
毎年7月から8月にかけ、お気を回遊する体長3m-5m程の大型を僅か2-3人がイタオマチプ(板綴り船)に乗り、手投げのキテ(銛)で突きます。
この漁は子供の頃から海に遊び、海と共に育った白老の人々の最も勇猛果敢な一面を表すものと言えます。 |
川の幸
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秋から冬にかけて獲れるサケをはじめ、春にはウグイ、夏にはサクラマスなどが海から川へのぼります。
これらは須玖に食べるほか、開いて干したり、焼き干しにして保存食にもされました。
また、ヤマベやアメマス、イトウ、カワカジカなどあらゆる川魚が食料とされました。
イトウやサケなどの大型の魚は、川をはいで靴や衣服の材料にもしました。 |
ポロト湖から直接海猟に出たのでしょうか。海岸砂州に出来た村と湖 |
シリカプ漁メカジキ漁が盛んな村だったと。干物で交易したのかな。直前の海がよい漁場になった。好条件があった。 |
川漁 船がちょっと違う
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川の幸鮭・ウグイ・サクラマス・イトウ
大形魚は皮を衣服や靴に加工 |
貝拾いかな
→なづち棒は獲った鮭を締めるための叩き棒 |
鉤銛・マス獲り用矢
なづち棒 |
たいまつ
なづち棒は獲った鮭を締めるための叩き棒 |
丸木舟の作り方 |
鉤銛は北方系で、現代も使用中の漁具
やはり鉄器の普及以後でしょうか |
マレク
回転式鉤銛とあります |
チプ丸木舟 |
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150農耕
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アイヌ社会では日本史でいう中世の頃に農耕が展開し、近世(江戸時代)にはあまり行われなくなりました。
しかし、農作物は生活の中で重要な意味を持っており、特に穀物は酒や団子といった神事の際の重要な供物に使われます。
また、鎌や杵、臼、箕(み)などの農具にかかわる信仰や、農耕を主題とした芸能も多く残されています。 |
農耕
中世に多く近世には廃れた農耕。交易で手に入れやすくなった |
粟アワの穂を刈る。 |
鍬の刃に足を掛け背で土を起こす様子と
普通に畝作りの様子 |
杵 鍬 |
鍬
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穂摘具ピパは貝殻
貝殻で穂摘みをしていた |
杵
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160料理
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アイヌ民族には多くの料理がありましたが、最も多くつくられたのは、山菜や魚、仁万などを入れた「オハウ」と言われるスープでした。
その他にも、お粥にウバユリの乾燥したものを入れたり、いろいろな材料をゆっくり煮込んだ料理などが多く食べられました。 |
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台湾先住民の料理には調味料がなかった。焼くか煮るかで、素材そのままの味だった。恐ろしくマズイ。
一般的に超古代食は無味だと考えられていたが、アイヌの食卓を見ると、縄文の食卓は美味しかったのかもしれないと思う。
塩はすぐそばの海から。甘味は木の樹液・メープルシロップだった。(後出) |
料理鉄鍋での煮込み料理
アイヌでは塩や甘味の調味料があった。 |
魚の潮汁、干鮭、干スケトウダラ |
臼 |
木製皿、木製の箕みぃ
(通常は竹製です)
こね鉢(耳付き木地鉢) |
すり鉢(取っ手付き)
何かの手違いで画質悪化文字不明 |
切株のまな板(中華風)、
皿付きまな板
すりこぎ、鉄鍋 |
食べる
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アイヌ料理の食材は、春から秋にかけて収穫した動植物を保存加工したものと、その時々の旬の食材でした。
アイヌ料理には、通常の生活に必要な栄養摂取に加え、冬の寒さらまけない体づくりの要素があります。
動物や魚の油を多くとることと、生や天日乾燥した緑色の山菜を多く用いることなどが料理の特徴でした。 |
食事の用具
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食事は囲炉裏を囲むようにして、家族で食べました。食器は本州の椀と、自製の木器類です。
肉や魚は木皿に盛って、ナイフで切り取りながら食べました。
このことから、料理を山盛りにすることを「イタチキジ イサム カネ=盆をつかむところもないほど」と表現します。
箸とさじの両方を使い、お椀は手に持って食べる文化です。樺太地方では、ナイフと匙を合わせたような木製のヘラも使いました。 |
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170はたおり アットゥシの材料 wikipedia
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アイヌ民族には古くから機織りの技術が伝わっていました。
材料はオヒョウやイラクサ、ツルウメモドキなどの植物繊維を用い、たて糸によこ糸を交互に通してヘラで締めて布にし、織り上がるにつれて前に進む技法。 |
はたおりアイヌのアットゥシ作り
樹皮衣作りは17世紀後半に記録があり、18世紀には交易品となった。 |
アイヌは交易で衣類入手
原始機と製糸・撚糸を教えた人がいた。和人か? |
昔ながらのアンギン編みで寒冷地でも衣服ができたのか。 |
たて糸を巻き取る知識がなく、長く伸ばしたままで織った。 |
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機織り技術の導入により、自分たち流のデザインや模様を付けられるようになり、文化が一層発展した。 |
刺子刺繍の技術は、古来から北方民族が持っており、華麗な刺繍の衣装が見受けられる。
自家用の毛皮を交易に出す代わりに、樹皮繊維の機織りを教えられたのかもしれない。 |
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180着物や装身具
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儀式には美しく刺繍をした着物を着ましたが、この着物の模様は地方によってそれぞれ特徴があり、母から娘へと受け継がれていきました。
大切な儀式のときには、女は首飾りや耳飾り、腕飾りなどを付け、鉢巻きをし、男は幣冠をかぶったりしました。 |
着物や装身具刺繍模様は母系伝承。
地域と個人による特色
儀式首・耳・腕飾り。鉢巻幣冠は、沖縄・台湾も同じ。縄文から受け継がれた風習か |
簡単な機織り具一式 |
マエカケ前掛け前垂れ |
織物用小道具 |
マキリ守り刀や鉢巻 |
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イヤリングとバッグ
正装した貴族 |
イヤリング=ニンカリ
60年代に流行ったような大きさ |
首飾り=タマサイ
垂飾=シドキ(霊力の強い魔除け) |
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幣冠 |
左のは煙草入れ?
右はマキリ
中央は宝刀と刀掛け |
装う
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着物には日常用と儀式用があります。
日常用は模様の入らない、樹皮製の厚司や、本州から交易によって入手した木綿布で作った着物などが用いられました。
儀式用にはそれらの厚司、木綿衣などに美しく刺繍した着物や樺太(サハリン)を経て大陸から入ってきた絹製の着物が用いられました。
寒冷地に生活するアイヌ民族にとって、寒さから身を守ることが衣服の重要な役割でした。
そのためには、冬季間に獲った獣の皮や鳥の羽根、魚の皮などの着物を作り、寒さをしのぐ工夫をしていました。 |
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正装 |
装う |
平服は樹皮衣や和人の木綿の着物。祭祀の時は、
山丹交易を通して中国清との交易によって得られた絹物を着たという。 |
獣の皮や鳥の羽、魚の皮で作った衣服で寒さをしのいだ。という |
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190すまいと道具
191住まいの道具
住まい・道具・宝物家屋の形・配置は地方によって全て同じだった。昔はどこでも家具は少ない |
耳付き木地鉢 |
儀礼用矢筒 |
敷物 |
炉かぎ ほうき |
脚付き行器(ほかい)
食物を外に持ち運ぶ容器 |
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193家屋 なぜか、家屋と火が引っ付いているので区別できなくてごめんね
火寒冷地では「火」は命を繋ぐ欠かせないもの。
火を神として崇めた。 |
左 灰ならし
右 ひばし |
アイヌ民族の家屋は地方によって建て方が決まっている。 |
家の周辺家周囲の祭壇・食料庫・熊檻・便所ゴミ捨て場の位置も決まっていた。
前庭は作業場でした |
各地の家家の形は地方色がある
玄関に土間の有無や
張り出しの有無。屋根・壁の高さ。材料の芦・ススキ・笹・樹皮の違いがある |
笹葺き住居 |
樺太の竪穴住居 |
草葺住居 |
樹皮葺き住居 |
家と周辺施設 |
家の模型 |
アシソル便所寒冷地では大切な施設 |
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195誕生
ゆりかご誕生 子供のゆりかご |
誕生ごめん なんにもみえへんね |
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ゆりかごやおんぶ紐や |
子ども用弓 |
はたきコマや
貝馬 後に空き缶馬
輪突き |
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200その他の文化
201成長 アイヌの通過儀礼として残っていたのは適齢期の女性の口や手への入れ墨だけのようです。 参考19世紀中葉以前におけるアイヌの通過儀礼
子供たちの世界手伝いは成人の訓練 |
輪突き |
棒高跳び |
成長日常が神との共存 |
文身 入れ墨 |
熊の肝を形にはめる道具 |
漁具の殴り棒です |
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203死
死人が死ぬと、その魂は死後の世界へ行き、現世同様の暮らしをすると考え、死後の世界へ必要なものを一緒に葬りました。 |
この考え方は縄文人も同じで、権力者は権力の象徴を副葬した |
脚絆・下着・墓標・死体を包む紐など |
鎌はコンニチも使用する魔除けかな |
女性・男性用墓標
縄文庶民の土壙墓にも最初立っていたのでしょう |
各地の墓標の違い |
野辺の送りと火葬かな |
とすると、これが
「なおらい」
というのかな
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骨あげの道具かなぁ |
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※1
アイヌ民族の概要
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アイヌ民族は、東北地方の北部から北海道、樺太(サハリン)南部、千島列島にかけて、古くから暮らしてきた先住民族です。
アイヌモシリ (アイヌ民族の土地) の豊かな自然を基盤として、狩猟・漁労を中心とした生活を営む一方、本州や大陸の諸民族と活発な交易をしていました。
また、アイヌ語やイヨマンテ (熊の霊送りの儀式)、口伝えの物語など独自の文化を持ち、その人口は江戸時代後期 (1807年) で26256人と記録されています。
今も各地に残るアイヌ語地名や遺跡などからも、先住民族としての歴史の一端を知ることができます。
しかし、明治に入ると、アイヌモシリは一方的に日本の領土にくみこまれました。
和人が大挙して入植し、また樺太・千島からの強制移住などにより、アイヌ民族は土地や資源といった生活の基盤を失い、壊滅的な打撃をこうむりました。
アイヌ語や伝統文化は否定され、その多くを失いました。今では話す言葉も暮らしぶりもほかの日本国民と替わりません。
しかし近年、アイヌ民族の伝統と誇りを回復しようとする動きが各地で高まっています。
アイヌ民族の代表が国会や国連の場でも積極的に発言し、先住民族としての地位と権利の回復が議論されるようになっています。
そうした動きを受けて、2007年には国連総会で「先住民権利宣言」が採択されました。
現在、アイヌ民族は、分かっているだけでも北海道に約24000人、東京に約2700人など、全国に生活の場が広がっています。
良き隣人として、民族同士が共生する社会の実現を目指して、多くの人々が様々な努力を続けています。 |
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