2014年の特別展「大交流時代ー鹿乗川流域遺跡群と古墳出現前夜の土器交流」の図録では、先史時代の東アジアとの交易や、 国内における物流などを詳細にまとめた素晴らしい冊子でした。 ただ、その「交易地図」の写真が、不鮮明ながら写っています。何かの参考になるかと存じます。 |
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01外観 この大変立派な博物館は、一個の人面文土器が発掘されたことをきっかけに建てられたものです。 |
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弥生時代 |
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100東海の人面文と安城の人面文 ごあいさつ 昭和52年(1977)安城市東町の亀塚遺跡第2次調査で、人面を描いた壺型土器が発見されました。 人面は瞳のない目、耳飾りなどの精緻な表現で描かれており、その中でも目から頬にかけて描かれている弧線は、 「魏志倭人伝」の「男子無大小黥面文身」と一致し、和人の習俗を表すきっかけとなり、国の重要文化財に指定されました。 今回の地域展で、東海地方の人面文と人面文壺形土器が出土した亀塚遺跡を含む鹿乗川流域遺跡群(かのりがわ)について紹介します。 お断り これまで、黥面文身を、「げいめんもんしん」だと思っていましたら「ぶんしん」だそうです。 でも、「紋身」が正しい記述だからと思っていました。 ネット上でも紋身と入れると刺青だとか出てきます。「文身」は誤植だろうと思っていましたら、なんと、1kmほど離れた所に「文身」と書いた 店がありました。「紋身」→「文身」に表記が変わったようです。しかし、「ぶんしん」と入れても「文身」は出てきません。きっとやはり誤謬でしょう。 |
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101会場入り口 |
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おことわり 安城市歴史博物館-地域展- 「東海の人面文と安城の人面文」展は、全4章からなっていますが、 そのうち、東海の貴重な人面文を集めた、第1章、第2章は、撮影禁止でした。 従って、ここに撮影・掲載した第3,4章は、全て、安城市歴史博物館のものばかりです。つまり、元々撮影可の常設展示のものです。 |
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130第3章 安城の人面文土器 (弥生時代・亀塚遺跡の土器) 人面文壺型土器と亀塚遺跡 1・2次調査では、野外炉や杭列、が出土するも、住居址は未検出。 遺跡からは、人面文壺形土器をはじめ多数の線刻土器、外来系土器、銅鏃、竪櫛、鳥形土器など豊富で多様な遺物を検出。 特に線刻土器については鹿乗川流域遺跡群の中でも突出して多く、人面文壺形土器と併せて国重要文化財となりました。 |
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133亀塚遺跡 |
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135 亀塚遺跡出土品 |
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136亀塚遺跡出土品 |
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137亀塚遺跡出土品 |
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138亀塚遺跡の外来系土器 |
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集落が長く継続していること、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、多数の外来系土器を含む大量の土器や木製威儀具をはじめとした、 特殊遺物が出土していることから三河を代表する遺跡群の一つとされています。 南群の遺跡 (弥生中期〜古墳時代) 木製品の生産遺跡 南群は、姫下・寄島・下懸・五反田・加美・惣作遺跡の6遺跡からなります。 北群の遺跡同様、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて最盛期を迎えます。 南群の遺跡からは多くの木製品が出土しています。未成品や原材料もあり、木製品の生産がおこなわれていたことが指摘されています。 また、上位階層者の存在を示す威儀具など特殊な木製品も各遺跡から出土しています。 姫下遺跡では、古墳時代前期の近畿布留式土器の影響を強く受けた土器群が出土しています。周辺の遺跡にはない特徴として注目されます。 また、付近には古墳時代前期の築造と考えられている全長約66mの前方後円墳の姫小川古墳があり、姫下遺跡は姫小川古墳の築造と 密接に関わりがあると考えられています。 |
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141寄島遺跡出土物
木製品 台輪 高床式建物の床を支える台輪と思われます。2枚1組で直径60cm程の柱を挟むものですが、その柱は未検出です。 これが台輪であれば、大型掘立柱建物の存在が想定されます。 鹿乗川流域遺跡群では、姫下遺跡、北群の宮下遺跡でも同様の木製品が出土しています。 ※南群の遺跡は木製品製造工房ですから、巨大台輪は他所の大型掘立柱建物の建設のために作られたのかもしれません。 千木 格式高い掘立柱建物の屋根につけられた千木です。同様の千木は姫下遺跡や下懸遺跡でも出土しています。
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145姫小川古墳
下懸遺跡
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北群の遺跡 (弥生前期〜) 北群は、亀塚遺跡以北の遺跡を指します。調査が行われてきましたが、遺跡範囲と当時の集落範囲が一致しないため、複数の遺跡をまとめて 8つの区域に分けて理解されています。集落は弥生時代前期から継続的に営まれていました。 ただ、弥生末期から古墳時代にかけての土器が大量に出土することから、この時期に最盛期を迎えたと考えられます。 北群には、古墳時代前期に築造されたと考えられる全長68.2mの前方後円墳、二子古墳があります。 147鹿乗川流域遺跡群 北群 |
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146姫下遺跡 古墳時代前期 姫下遺跡では、古墳時代前期の畿内系土器群が出土しています。周辺の遺跡には見られない特徴で、姫下型土器群と称されます。
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148外来系土器と地域間の交流 弥生時代終末期から古墳時代にかけて各地域の拠点的な集落では、他地域の土器 (外来系土器) が多く出土することがわかっています。 この動きは日本列島規模で、本来の土器分布を越えて流出流入を確認することができます。 土器の交流とは、土器を介した人々の交流を表してます。その背景や実態は様々で、土器そのものの移動だけでなく、土器をつくる人の移動や 遠隔地の土器の特徴をまねて作るなどが考えられます。 土器の地域色や製作技法、胎土のこまかな研究を進めることによって当時の社会背景に迫るきっかけとなります。 鹿乗川流域遺跡群では、外来系土器が、ここ、東海地域の中でも特に際立って、多く出土しています。 中でも、台地上の環濠集落であるところの、 本神遺跡から畿内X様式系の叩き甕が、 中狭間遺跡では北陸系土器が、 姫下遺跡では畿内布留系土器が まとまって出土しており、遺跡ごとにその時期や、地域、器種は異なっている点も指摘されています。 考察 各地からの移民 この現象は、各地に入植した半島系移民が、更に二次的な移住としてやって来たようです。 しかし、こんな狭い地域に、全国各地からやって来たのは、それほど当時の移民の定着は不安定で流動的だったのでしょうか。 それとも、各地域の支配者が計画的に植民をして支配地域を拡張しようとしていたのでしょうか。 それとも単に、同時、この乾燥台地の麓が、未開拓だったからだけなのでしょうか。それとも、他の魅力があったのでしようか。 |
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149地域による土器の違い 引用「博物館ニュース2014.1月号91 |
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151鹿乗川流域遺跡群から出土した外来系土器
ポイント解説
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152
ポイント解説
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153
ポイント解説
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190人面文壺形土器 |
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193人面文壺形土器 亀塚遺跡 弥生終末期 壺形土器の体部に卵形の輪郭、瞳のない目、ヒゲまたはイレズミのような線刻が見られます。 耳には耳飾りと思われる飾りが描かれています。非常に精緻で残りも良く、弥生時代の習俗をあらわす第一級の資料です。 |
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195線刻土器
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197 用途不明木材 同様の木製品に類例がなく、用途不明。端部に鋸歯文を施し、更に黒漆が塗られている。 団扇形木製品 中国に起源があり、獣毛や鳥の羽を2枚の板に挟んで祭祀の際に使用したと考えられています。 畿内を中心に分布しますが、これは畿内のものとは細部の形態等が異なることから、 鹿乗川流域遺跡群で製作された可能性が高いと考えられています。 ※貴人の存在を裏付 |
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198塚下遺跡
きぬがさ(衣笠、蓋) 「貴人に差し掛ける日傘である、大傘」の、上に取り付けて、飾りを付ける道具。 大傘は、寺院・神社や、葵祭・時代祭などの行列などで使われている。 |
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199弥生時代の鳥と農耕祭祀 弥生時代には鳥は絵画のモチーフとして多く扱われています。 鳥は穀霊(稲魂いなだま)や死者の魂を運ぶ特殊な存在として稲作農耕文化の伝来と共に神聖視されていたことが想定されています。 弥生時代から古墳時代前期の農耕祭祀と鳥との関連をうかがわせる資料として線刻土器や 鳥形木製品、鳥形土器といったものがあります。鳥形製品は、中国地方東部から東海地方にかけて分布します。 鳥形木製品は、棒に挿して使用したと考えられています。古代朝鮮で行われていた農耕の祭りの際に 祭祀場に並べられた「鳥竿」に取り付けられたという説や、墓や住居の場の境界に意識的に並べられたのではないかという説もあります。 鳥形土器は、液体を入れる容器であり、こちらも農耕祭祀の場で使用された道具の一つではないかと考えられています。 |
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特別展 東海の人面文と安城の人面文 を終わります。 |
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300安城市埋蔵文化財センター |
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310平成28年度 安城市内遺跡発掘調査報告展 | |||||||||||||||||||||||||||||||
311長先遺跡
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312桜皮巻き小型壺形土器 |
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313長先遺跡 縄文中期後葉 長先遺跡は、油ヶ淵に注ぐ朝鮮川の左岸、碧海台地上に位置します。 過去に、縄文時代から鎌倉時代までの遺物が採集されたことから、遺跡の存在が知られていました。 しかし、これまでの調査では、遺物がほとんど出土せず、明確な遺構も見つかっていません。 今回、開発計画に伴う調査の結果、弥生中期後葉約2100年前 の土器が出土する方形周溝墓群を確認しました。 一辺6m前後ですが、それぞれ大きさや形状が異なることから、全てが同時に造られたのでなく、築造時期にはやや時間差があるようです。 朝鮮川流域に於いて、初めてこのような墓地が確認されました。 旧北浦(油ヶ淵)周辺の集落様相や、鹿乗川流域遺跡遺跡群をはじめとする諸遺跡との関連を考える上で興味深い成果を得ることができました。 方形周溝墓群 弥生時代の墳墓形式の一つ。正方形または、長方形に溝を巡らし、内側に高さ1m程の低い墳丘がある。 墳丘は後世の削平により失われ、発掘調査時には溝のみ見つかることが多い。 調査で確認した方形周溝墓のうち、5、6基は四隅が切れた形状でした。1基は「コ」字形、もう1基は三隅が切れた長方形でした。 愛知県内で確認されている方形周溝墓は、四隅が切れたものから、そうでないものへと変化すると考えられています。 今回の調査で確認した方形周溝墓群は、四隅が切れたものと、そうでないものが混在することから 方形周溝墓が変化していく時期に作られたものと考えられます。 313 |
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314安城市内出土土器
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320桜井城跡 戦国時代 |
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321桜井城跡 |
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322桜井城跡 戦国時代 調査で絵図にないV字型の大型溝を確認。幅4-5m深1.4-2m東西に70m延び、南へ屈曲。溝から戦国期 (約500年前) の鍋・すり鉢・天目茶碗等出土。 その上層からは近世以降の陶磁器や瓦類が出土した。土層断面から、近世以降に溝が掘りなおされ、再利用されていた。 また、古代の竪穴建物跡などが複数検出。この一帯に古代から人々が住みついていたことがわかりました。
箱鞴 (はこふいご) 調査区全体で、鍛冶関連遺物が出土しました。平成27年度の調査でも、鉄滓などが出土しています。 鍛冶遺構は確認できませんでしたが、付近で野鍛冶などを行っていたと考えられます。 ※野鍛冶とは、野原で小規模な鍛冶を行っているのではなく、農具・漁具・山林刃物などを扱う者を野鍛冶・農鍛冶と呼んだ。 製鉄をするものを大鍛冶、刀(かたな)鍛冶は小鍛冶。といった。 Wiki鍛冶屋 |
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330 姫小川古墳 (前方後円墳 古墳前期 約1700年前) |
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段築 古墳の築造方法の一つ。墳丘の基底部を、盛り、叩き締めて平坦部を作り、そこから更に墳丘を盛り上げます。墳丘完成後には、段状に見えます。 段築 - 土木学会 |
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332姫小川古墳 (4世紀前半の初期段階) 姫小川古墳は、碧海台地の東縁部に築造された、古墳時代前期 (約1700年前) の前方後円墳で、古井町〜小川町の「桜井古墳群」の一つです。 調査では、墳丘長約66m、葺石がなく、一部に周溝がありました。三河における古墳の出現を考える上で非常に重要な古墳です。 古墳東側に広がる姫下遺跡などには、古墳を造営した集落があったと考えられています。 埴輪 桜井古墳群では、姫小川古墳の北約250mにある獅子塚古墳で埴輪が出土します。それまで桜井古墳では埴輪が未発見であったため、 大きな発見となりました。今回、姫小川古墳でも埴輪が見つかり、再び話題になりました。 埴輪の出土は、古墳の築造時期を知る上で重要です。この埴輪片は、三河で埴輪が作られ始めた時期 (初期) のものと考えられます。 また、壺形埴輪の破片である可能性が指摘されています。
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333中世の遺物 姫小川城跡
姫遺跡では、火葬施設や柱穴、山茶碗 (日常生活用陶器) などが出土し、古代の、竪穴建物跡も見つかっている。 ※五輪塔の水輪だけが出土しているのは、きっと漬物石にでもしていたのでしょうか。(笑) 五輪塔の漬物石や、丸く加工した河原石の墓石、などを拾ってきて、お店の風鎮にするなどよく見かける話です。 知ってか、知らずでか、、、変なことやっている人がいるのだ。 |
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345坂戸・三本木遺跡 弥生時代後期 |
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347坂戸・三本木遺跡 弥生時代後期 遺跡は、安城市東部、鹿乗川流域に広がる弥生時代後期から古墳前期を中心とした遺跡の北端に位置し、弥生土器が出土している。 土層堆積状況から、調査区中央部では、旧河川ないし、弥生中期に鹿乗川の氾濫原となり、それが治まった後、調査区東部分に、 弥生後期から古墳前期の集落が形成されました。また、銅鐸形土製品が2点出土したことから、旧河川付近で祭祀を行っていたとみられます。 |
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348中期前葉から後期の土器 |
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350弥生土器 |
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351安城の先史時代年表 |
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353弥生土器 後期〜終末期 |
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354銅鐸形土製品 弥生中期末〜後期 銅鐸の模倣製品。安城市では初めて出土。鈕孔や舞の型持ち孔、鰭も省略せず本物に忠実に似せられている。 ※模倣銅鐸が、近畿式か三遠式かですが、脚注では言及していません。どちらか、、私は三遠式だと思いますが。わかりませんよね。
銅鐸鋳造技術 型持ち 「片持ち」とは、鋳造の時の中型を支える道具です。これにより、器壁が薄く、中が空洞になるように作ることができます。 型持ちが当てられる部分には青銅が回らず、鋳上がるとその部分だけ孔が開いたようになります。これを、「型持ち孔」といいます。 |
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安城市埋蔵文化財センターの展示を終了します。 |