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 中部地方の縄文1 23  2017.05.12-22

    南牧村美術民俗資料館 長野県南佐久郡南牧村野辺山79-3  0267-98-3288 
     (みなみまきむら)     月曜休館(7・8月は無休) 撮影可

 交通  ・JR野辺山駅 (JR最高地点駅駅舎) 隣接、徒歩2分
       ・レンタカー

 見所  ・この博物館は、日本で最初に発見された旧石器時代の細石刃、矢出川遺跡の展示館です。
       その細石刃は、ここと、明治大学博物館とに展示されています。

 博物館案内
      ・付近には、八ヶ岳連峰南麓の縄文王国北杜市から、山麓東縁を北上し、
       佐久平に至る地域の先史時代文化を見ることができます。 

 2018.07.29 中世196で、矢出原の戦闘の時期について訂正しました。 
 

  注意  近隣の群馬県南牧村(なんもくむら)に南牧村民俗資料館がありますが、そこには考古資料はありません。カーナビも間違えるかも。

  お断り ・この館では展示物が時間軸に沿って並べられていません。 そこで、勝手に時間軸近くに再配置しました。
       ・館内の解説文は、達筆な手書きです。 ただ、私にはとても読みにくいので、これを全て文字化することは残念ながら出来かねます。

 
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次 

01野辺山観光
01旧小淵沢駅
02清里駅
03JR最高地点
04平沢峠
05野辺山宇宙電波観測所
06野辺山駅
07ドライブ

09南牧村美術資料館外観

10旧石器時代

11矢出川遺跡
資料 国史跡矢出川遺跡とは

12細石刃
14矢出川遺跡群
15矢出川遺跡の石器

20矢出川遺跡の細石刃
22細石刃
23石鏃
24各種の利器

26南牧村遺跡分布図
   野辺山の旧石器

30南牧村の文化財
31南牧村の文化財1
 論文抜粋「中ッ原遺跡の黒曜石」
32南牧村の文化財2
 考察 矢出原の戦闘

40旧石器時代の矢出川
41矢出川遺跡周辺の変遷
50矢出川人の暮らし

70矢出川遺跡

73野辺山における旧石器の変化
 重要参考資料
  野辺山高原の旧石器時代区分

 資料 湧別技法と矢出川技法

74矢出川遺跡
 まとめ 矢出川遺跡の細石刃文化

75黒耀石について
76石器石材と石器
77尖頭器・ナイフ形石器・細石刃

  旧石器の主な道具史
  打製石斧と磨製石斧

80縄文時代

81打製石斧と磨製石斧

111志なの入り遺跡の人骨
  出土人骨について
  志なの入り遺跡スケッチ

160土器
163縄文土器

164長野県東部の
   土器編年・気候・くらし



170弥生時代

171弥生時代のくらし
172土器の模様を分けてみよう

190古墳―平安時代

191古墳時代

  古代の交通路
  古代の暮らし

  須恵器


192平安時代

192天然ダム崩壊の被害
  八ヶ岳の山崩れと南牧湖
  仁和4年の信濃国大災害


195中世

196中世の暮らし
  野辺山原出土の鉄鏃

 考察
  武田氏の信濃攻略と
  野辺山原の戦闘年代

  室町と戦国時代の鉄鏃


 01野辺山観光  学生時代の思い出の地です。
   1970年代、国鉄の始めた「DISCOVER JAPAN」のmovementにのって、沢山の若者が押し寄せた観光地でした。


  01小淵沢駅
旧小淵沢駅ホーム
かつて、ここから小海線に乗って
八ヶ岳高原に向けて出発しました。 古い駅舎は郷愁を誘います。いい感じです。 只今の待ち列車は
 特急スーパーあずさ5号
 八ヶ岳高原列車1号です。

私はここからレンタカーで回ります。
本当は、小海線に乗りたいのです。
"いい日旅立ち"なんかを♫しながら
小淵沢駅の旧駅舎はこれが見納めでした。この日は2017..5.12
2017.05.18工事開始、
2017.07.03新駅舎開業

2017.11.24に知らずに訪れた私は度肝を抜かれました。

  記述2018.03.11

  02清里駅
駅周辺は今も観光客が 絶えないようです。
ペンションなどで成功か
駅に上るスロープは最近のもの ここにも蒸気機関車が
観光客誘致に願いを込めて。
ここで撮った写真は
行方不明
今日の旅程 ここから転載しました

  03JR最高地点

まだ残雪の残る八ヶ岳っていいですね。 カラマツ林ってなんでだか好きです。秋に渓流に流れる落ち葉が最高
JR路線最高地点
ここでも何枚も写真撮ったのに、なぜか消えちまった。
これ一枚しか残ってない。

なんで?

あとで気付いたが、野辺山駅にJR最高地点駅の標識があったんです。
撮っておくべきでした。

  04平沢峠
平沢峠
八ヶ岳が美しく一望できる展望台です

縄文人たちには、本当に住みやすい土地だったんですね。

  05野辺山宇宙電波観測所
広大な荒れ地に膨大な量のカラマツが植林され、それを防雪林に直線道路 八ヶ岳の残雪と白マルチが美しい。 まるで工業製品のように野菜を作るんだ。 電柱がなければ
好きな構図
国立天文台45年前来た時と変わっている 大アンテナが一つだったのが今はいっぱい。
ばらばら向いてた小アンテナ群が、急に同じ方を向きぐるりと天を仰いで一斉に動いたのを覚えている。 人工衛星を追跡したんだ。
今回は、まったく動かなかった。高高度静止衛星か
矢出川遺跡日本最初の細石刃が出土した最重要な旧石器居住跡です 八ヶ岳遠望八ヶ岳は美しい 国立天文台、
野辺山宇宙電波観測所

 ※野辺山宇宙電波観測所は、私が小学5年頃、初めて日米間の宇宙中継 (ケネディ大統領暗殺の日) が行われた時、その電波を受信していたのは
  ここでした。いまだにその時のことはよく覚えています。早朝から起きて5時頃でしたが見守っていましたから。

  それ以前にも何度かテストの衛星放送があったと記憶しています。しかし、この時は衝撃的で特に強調されて報道されます。


  06野辺山駅  野辺山と清里はいつも旅の若者でいっぱいでした。だから負けないように、両駅とも機関車があるのです。
           しかし今、野辺山は完全にブームから外れ斜陽でした。新しい観光ムーブメントを起こさなければ、ますます落ちてしまう。

SLと メルヘンチックな駅舎と 東京からは想像できない衝撃的な風景 これが若者をひきつけました。
  07ドライブ ここまでのお気に入りの写真
その景色は今も変わらないのに 人の心はあっという間にうつろって、 それはあなたの心にも

 ・日本の観光地に光を与えたのは国鉄の「ディスカバージャパン」、ブームの終わりは、長期間安く旅行できる「周遊券」の廃止。
  廃止の原因は、九州で、周遊券の目的外使用を行ったためでした。

 ・今回ドライブした行程は、学生の時に友人と歩いた道のりです。私はヘトヘトでしたが、友人は凄く元気でした。高低差400mの上り坂でした。








 09南牧村美術資料館 外観





すいません、先ほどの野辺山駅徒歩2分にある南牧村美術資料館です。

みなみまきむら、です。

なんもくむら、は群馬県です。くどいようですが。

 私、八ヶ岳高原は大好きなんですよ。
  



 10旧石器時代





  11矢出川遺跡 (やでがわ)  鏃が出るんです。古戦場でした。

     日本で初めて、細石刃が出土した遺跡です。野辺山宇宙電波研究所の傍です。

国史跡矢出川遺跡とは
 
 資料
 国史跡矢出川遺跡とは

 場所 南牧村野辺山二ツ山、野辺山駅から南方凡そ1kmで眼下に矢出川と三沢川の合流点を臨む台地の縁にあり、標高1340mです。
 履歴 国史跡に指定 平成7年指定

 矢出川遺跡の経緯
  昭和28年12月28日日本で初めて細石刃が発見され、その後、全国で続々と細石刃が確認され、日本の至る所に分布していることがわかりました。

 矢出川遺跡は、細石刃文化14000年前尖頭器文化16000年前ナイフ形石器文化22000~24000年前、の石器も見つかっています。

 気候
   矢出川に石器文化が興った頃は、氷河期にあたります。
   2.4~2.2万年前のナイフ形石器から1.4万年前の細石刃文化の矢出川はその時代に当たります。

   2万年前の野辺山は平均気温が0.7℃とされ、現在の樺太とほぼ同じだったと思われます。(今の平均気温は7℃前後)
   1.4万年前の細石刃文化のころは2℃ほどだった。

    こんな寒冷な山間地に、1万年間も人が住み続け、新しい文化を持ちこみながら、維持していたことは、驚愕に値する。
    年間平均気温、東京17.1℃(2013年その後観測点移動)  大阪16.9℃


 石器の移り変わり
   遺跡は、ナイフ形石器文化、尖頭器文化の時代を経て、細石器文化に入って、ナイフ・ポイント(尖頭器)などは出土しなくなります。
   細石器と共に発見されるのは、物を削る削器スクレイパー、木を伐採する礫器で、皮なめし用のサイドスクレイパーも発見されています。

 遺物の出土量
   細石刃の出土量は日本最多です。これほど出土するのは、細石刃生産のための石核もしくは、
   石核原材料の補給基地としての拠点的な処ではなかったか。

   おそらく黒耀石の原産地 (八ヶ岳) を結ぶ補給基地だったのではないか、又は、何かの理由で
   多量の石器がストックされたのではないかと思われます。とにかく膨大な量を出土しています。

   矢出川細石器人は、西日本型細石刃文化人で、後に北方から来た細石器人ではない。
   従って、黒曜石や細石刃を新潟や関東へ運ぼうとしたのではない。参考文献
黒曜石原産地と矢出川を結ぶ


 細石刃の使われ方
   細石刃は植刃器に装着され、組み合わせて使用しました。細石器が現代機械文明の母体ともいわれるのは、
   長い人類の歴史を経て、いくつかの部品を集めて一つの道具を作るという工夫は、この細石器こそが、組み合わせ道具の出発点であるからです。

 旧石器人の足取り
   旧石器人の住居跡が見つからないのは、定住生活の習慣がなく、矢出川でも数週間のテント生活のように、あちこち渡り歩いていたようで、
   静岡県の遺跡でも、相模原の遺跡でも、八ヶ岳産の黒耀石の石器が多数見つかっています。そして、冬の間は暖かい地方で生活したと思います。

 矢出川の立地について
   南牧村の原野、矢出川は、動植物の宝庫で、特に鹿は秩父と八ヶ岳の回遊路になっていたので、狩りには最高の場所でした。
   植物は日本でも有数のハシバミの生い茂る原野で今も残っています。

   その他にチョウセンゴヨウコケモモ等、食するものは多くありました。
   また、ここは現在の佐久方面と甲府方面の峠道としての交通の要所にもなっていました。それに何といっても石材が豊富でした。


  12細石刃
矢出川遺跡からは、
 1遺跡としては驚く程の、2000点以上の細石刃が出土しており、その為に、
 地域の拠点集落ではないかと考えられています。

 移動生活が基本の旧石器時代にあって、2000以上もの石刃を作っておく
 必要はないからで、必要に応じて石核から剥がせば、その方が運びやすい。 
  13
矢出川石器群
矢出川遺跡群 矢出川遺跡群

・矢出川に沿って190ヶ所にもわたり
 発見された遺跡で、
・尖頭器、細石器、刃器、彫器など
  多種にわたり作られた。 
矢出川石器群
剥片・石刃・細石器

  14矢出川遺跡群

 日本最初の細石器発見
  大正の頃からこの地方にあって考古の研究家であり、この地方一帯の遺跡に精通し、多くの遺物取集を行っていた由井茂也氏
  昭和28年12月末、芹沢長介教授(明大)と岡本教授(立教大)が訪れ、同氏採集の石器が、これまで日本には無いと思われていた変わった石器

  があるのに気付き、同氏の案内で、辺り一面雪に覆われた野辺山高原の矢出川近くで予想点を掘り返したところ、目的の石器が多数見つかった。
  その後の研究により、矢出川石器と言えば細石刃の代名詞の如く有名になった。現在その地域は国史跡になっている。

細石核・細石刃 尖頭器1万数千年前に使用された石槍 水晶石器隣の川上村が水晶産地 日本最初の細石器発見昭和28年に細石刃が確認され、発見に至った。 遺跡全景・試掘・発掘の様子 年表

  15矢出川遺跡の石器

矢出川遺跡 ・昭和28年に発見された日本最初の細石刃文化遺跡である。

・あまり破壊されずに残された日本でもまれな大遺跡群である。 

※発見が少し遅ければブルでナラされて畑になっていたでしょう。そんな遺跡は野辺山にワンサカ
矢出川石器群
剥片・石刃・細石器
矢出川石器群
剥片・石刃・細石器
 

 20矢出川遺跡の細石刃
  21panel
先土器時代年表 先土器時代
・群馬県岩宿遺跡
・川上村柏垂遺跡
・南牧村平沢等の尖頭器
・矢出川遺跡の細石刃
約3万年前
約2万年前
約1万数千年前
約1万4千年前

 山梨県から野辺山高原を通る道は、大昔からの交通路だったようだ。

高原・平原は目標物がなく、迷いやすい危険な場所。命取り。


石器出土地図 石器は沢沿いばかりでなく、
高原の平原地域からも出土しており、
狩猟時に遺失した石器類が多いと
思われる。
石器の使い方 で皮に孔をあける
礫器で木を切る
彫刻器で溝を彫る
ナイフ形石器で肉を切る
掻器で肉を削り取る

敲石で石器を作る
尖頭器を着けた槍
抉入石器で木を削る
抉入石器

引用
掻器・石錐・抉入石器

  22細石刃 矢出川遺跡の細石刃など(14000年前) カミソリの刃のような鋭い石器である。

細石刃マイクロブレード 長さ1-4cm
幅4-8mm程の極めて小さな石刃。
骨や木の柄に溝を彫り、
そこにはめ込んで使った。
槍や銛として使われた。
石核
(剥片を剥がし取った残りの母岩)

水晶母岩
(水晶から石器を取った母岩)

最も古い仲間の石槍石器
広瀬出土

  23石鏃

石鏃
小型-鳥・兎etc小動物用
大型-鹿・熊etc中型獣用
石匙/ナイフの代わり石製の万能ナイフ

  24各種の利器

錐・掻器・・礫器
錐(ドリル)


・剥片または、石器の一部を尖らせたり、細い突起を作り出したもの。

・錐として使われた。
掻器


石器を掻き取る道具
(石器を母岩から剥がす道具)
には、骨、歯牙、水晶等が使われた。

 母体となる石材に圧力を加えて掻き取り、さらに細部を加工したものを磨くなどの複雑な生産工程が行われた。
単に打ち割るのでなく、圧力で、剥ぎ取る、掻き取るのだ。

 掻器
   皮の脂肪掻き取り具 
礫器


・河原石や角礫に粗い刃をつけた石器。
・木を切ったりする道具。
・削ったり、剝いだりした万能石器。 
尖頭器(ポイント)


・尖頭器ポイントは、広い意味では先を尖らせた石器をいう。 
・狭い意味では槍先形、木葉形のものをいう。
・両面加工、反面加工、片面加工のものがある。
・石槍として使われた。 
 


 26南牧村遺跡分布図

 野辺山の旧石器
  細石刃は、日本で最初に野辺山で発見されました。

  1953年川上村馬場平遺跡での「尖頭器」の発見、同年暮れ、野辺山矢出川遺跡での「細石刃」の発見が契機となり、四十余年の歳月を経た今、
  たくさんの旧石器がこの八ヶ岳山麓で発見され、「旧石器のふるさと」ともいわれています。

  野辺山の旧石器は、後期旧石器時代の後半にあたる約2万年~1万年前のものである

  石器は、ナイフ形石器(3~1.6万年前)⇒尖頭器(1.6~1.4万年前)細石刃(1.4~1.2万年前)の順に変化したとみられるが、
  それぞれの石器が野辺山から発見されている。

  当時は氷河期にあたり、1.8万年前の年平均気温が今より8℃低く、1.4万年前で今より4℃低い寒冷な気候で、野辺山は想像を越えた寒さであった。
  ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヘラジカ・ウマ・ヤギュウなどが生息した時代である。

南牧村遺跡分布図
旧石器時代
野辺山の旧石器 剥片類 矢出川石器の色々
剥片・石刃・石核
矢出川石器の色々
剥片・石刃・石核
石器の母石 黒耀石
和田峠付近から出土
 



 30南牧村の文化財

  31南牧村の文化財1
南牧村の文化財
平沢パイロット遺跡
出土の水晶石器
水晶原産地は川上村/旧石器
ここの特徴は水晶の原石を多く使用しています。原産地は近くの川上村です。
このように水晶の石器が多量に出土するのは全国的にも珍しい。

平沢パイロットとは、
パイロット農場のことで、開拓事業に先駆けて入植し、事業展開の展望を見極める事業。
中ッ原遺跡群第 5 遺跡 B 地点

1.5~0.6万年前
細石刃期の遺跡
この遺跡が貴重なのは、

日本の大遺跡群で使われていた西南日本の
技術(矢出川型)とは違う技術、を使っていたことです。

北海道・東北にかけて使われていた、荒屋型彫刻型石器という特徴的な石器が見つかりました。このことから、北の地方から南下してきた人たちが残した遺跡と思われます。


 論文抜粋 と 考察

  中ッ原遺跡群第 5 遺跡 B 地点 及び 第 1 遺跡 G 地点にお ける 削片系細石刃石器群の産地推定  堤 隆・望月明彦

 南牧村野辺山高原に所在する中ッ原遺跡群第5 遺跡B 地点と中ッ原遺跡群第1 遺跡G 地点の二つの削片系細石刃石器群について,
 エネルギー分散蛍光エックス 線分析法(EDX)によって産地推定を行った。

 中ッ原5B 地点では,①下呂石と,②和田エリア,③諏訪エリア,④蓼科エリア,⑤NK群の黒曜石が認められた.一方,
 中ッ原1G 地点では,④蓼科エリア,⑤NK群の黒曜石のみが認められた.両遺跡では,産出地点未発見のNK群黒曜石が高い割合で認められた
   が,一方で近接する
   矢出川遺跡に一定量存在する神津島エリアの黒曜石は認められなかった.(※なんと矢出川には伊豆諸島からも黒曜石が運ばれていた。)


  ※論文を読み進めると、旧石器時代の人口5000人余りの時代に、この野辺山高原に、各地の文化人がやって来て其々の痕跡を残している。
   矢出川遺跡群は稜柱形細石刃技術、中ッ原遺跡群は削片系細石刃技術の文化人でした。

  ・NK群の黒曜石の謎
   中ッ原遺跡群で多様されたNK群の黒曜石原産地は、野辺山高原近くで未発見の原産地であろう。
   仁和3(887)年の東・南海地震で大崩壊を起こした、蓼科エリアの東、北八ヶ岳の土砂の下敷きになっているのではないかと推定する。

  ・矢出川遺跡群と中ッ原遺跡群の違い
    矢出川では、太平洋側の神津島産黒曜石が3割を占めるのに対して、中ッ原では全くない。
    矢出川技法 = 稜柱形細石刃は、前半期に展開する技法。
    湧別技法 = 削片系細石刃後半期に展開する技法である。

  ・中ッ原5Bと中ッ原1G集団とは、5Bが先、1Gがあとに形成され、、同系統の別集団であって、同一集団が戻って来たのではないかとも言う。


 考察
  ※日本で最初に発見された細石刃遺跡、西日本系 (矢出川技法) の矢出川遺跡群の、わずか3km離れた所に、もう一つ別の細石刃文化、
  北日本系 (湧別技法) 細石刃文化の中ッ原遺跡群があった。

  ・湧別技法文化人は日本海側を南下して信州エリアの黒曜石に辿りついたが、西日本系は、列島を西から、南からやってきたため、
   神津島の黒曜石、二上山のサヌカイト、岐阜県の下呂石など、他地域から多様な石器を入手するルートを持っていた。

  ・湧別技法細石器人については、鏡野郷土博物館 沖縄写真通信
   彼らは北方から日本海沿いに南下したため、日本海側の情報しかもっていなかった。





  南牧村の文化財 (続き)

志なの入り遺跡/洞窟遺跡

縄文早期~前期の間
使用された遺跡
土器・石器・人骨・獣骨
昭和46年道路工事中に発見された洞窟遺跡です。

縄文早期~前期までの人々が生活したことを示す、
土器・石器・獣骨・人骨が出土した。

洞窟の前の沢は、千曲川右岸へ降りる手前のヌタ場であったようです。
よしのかしら遺跡
出土石器
 縄文前期後半
縄文前期後半

(約5500~5000年前)
石鏃・石匙・石錐
・スクレイパー等々、

おびただしい数の石器が出土しています。
中ノ沢遺跡出土
土製品 
壺・浅鉢・耳飾り 

矢出川南遺跡出土
弥生時代前期末土器
矢出原の鉄鏃 矢出原では、鉄鏃を始め、刀、古銭が発見されていますが、
このように数多く出土する例はあまりありません。

文献に「武田軍、小笠原長時を信濃平沢に於いて破る」とあるので、、
この戦いが大門峠に近い矢出原で行われたのであろうか。

鉄鏃100本以上、古銭102枚が発見されています。

当時、鉄は貴重品だったのですが、矢出原では回収されず戦いのままだったのでしょうか。きっとあまりにもむごたらしくて回収できなかったのでは?

 考察 矢出原の戦闘

 武田軍が、信濃平沢に攻め入って勝利した資料は、Wikipedia小笠原長時によれば、甲斐の武田信玄が国内統一を果たして信濃攻略を開始し、

   ①天文14年に伊那へ出兵し高遠城・福与城・龍ヶ崎城(辰野町)を陥落させ、小笠原長時は敗退。 (武田氏は伊那を占領) しかし、小笠原長時は、
   ②天文17年には、小県郡上田原で勝利し、更に諏訪郡奪還へと侵攻するが、塩尻峠の戦いで敗退し、その後、負け戦が続き、
   ③天文19年には、本拠林城 (松本市) も失い没落した。ただし、安土桃山時代に復活し、江戸時代に藩を設け、小笠原流作法の家元となった。

   ①の戦場は伊那である。②は上田盆地。③は松本平での戦闘である。
   ただし、①の戦いでは伊那 (南信) だけでなく、上田盆地の (西信) も奪われていたことになる。

   つまり、山梨県から信濃攻略を行った際、西進する伊那攻略と、北進する上田攻略が同時に行われ、小笠原氏を敗退させた矢出原の戦いは
   天文14年の事と類推できる。天文17年の戦いは武田の敗戦であり、天文19年は松本平の戦いである。

  下の196中世の暮らし「考察 武田氏の信濃攻略と野辺山原の戦闘年代」、の下の方に、も少し詳しく触れています。




  32南牧村の文化財2
矢出川遺跡
日本初の細石刃発見
旧石器末の狩猟具、小石片を植刃器にうめ、
槍先に用いた。

海ノ口城跡標高1254m
海尻城跡標高1303m

三軒家-お助け茶屋跡
平賀源心の胴塚
三軒家は
江戸幕府が旅人の
安全を図るため、
住まわせた集落。
現廃村

ナウマンゾウの歯
約30万年から15万年前
発見地:海ノ口








 


 40旧石器時代の矢出川


 41矢出川遺跡周辺の変遷

  矢出川遺跡
   南牧村の歴史の中で最も特徴的で有名なのが矢出川遺跡です。
   細石器とは2~3cm程の小さな細石刃などの石器で、それを細い木や骨の両側あるいは片側だけに細い溝を掘って、
   その中に樹脂や天然ゴムを詰め、細石刃を並べて植え込みました。

   すると、のこぎりの歯のようになり、「のこぎり」になったり、「鎌」としても使えました。
   刃が欠けたり鈍くなったら、その部分だけを取り換えて使用しました。

  旧石器時代の野辺山高原の様子
   1万年程前の高原は、川の水は枯れることなく、鮭やイワナ、山野には豊富な木の実や獣がいて、大型獣は湿原に追い込み、
   食料採集には恵まれていた。

   高原一帯から多くの石器が見つかるのは、相当数の原始人が、或いは長年にわたり住んでいたものと思われる。
   そのころの人々の知能は、現代人とあまり変わらないといえる。

  矢出川遺跡周辺の変遷
   野辺山には以前にはあちこちにジュクッタミと呼ばれる湿地があった。そこがシカなど動物の水飲み場となり、また、ぬた場となった。
   台地の上の湿地の多くは畑地となって残っていないが、矢出川や三沢川の近くには、まだ湿原がある。

   そこには他の地域には見られない貴重な植生が保存され、また、石器時代以来の古い自然の景観をそのまま残している。
   尾瀬や八島ヶ原の湿原程大きくないが、人里に近く、こんな湿原があるということは、専門家の間でも驚きと言われている。

   また、湿原の中には、更新世末期から現代に至る植物化石層(泥炭層)が発見され、矢出川細石器文化人の生命活動の歴史と合わせて、
   当時の自然環境の復元が可能である。 まさに歴史と自然のふれあいの接点がここにあり、極めて重要である。

矢出川遺跡 旧石器時代の
野辺山高原の様子
矢出川遺跡周辺の変遷 オオツノシカを狩る
先史時代人



 50矢出川人の暮らし
矢出川人の暮らし
今から100万年ほど前から八ヶ岳火山が噴火をはじめ、長い年月の間に噴出した火山灰などによって現在の広い野辺山高原が作られました。

そこへ13,000年ほど前の先土器時代と呼ばれる頃、矢出川に細石器を持った人々が住み着いた。
この人達は、細石器や尖頭器などの石器を使って鹿・兎・鳥などを獲り、野辺山に多いハシバミの実、更に千曲川を遡る鮭や川魚などを食べて暮らしていました。

この寒い高原や川上村等の高地に住んだのは、動物が多くて食べ物が手に入りやすかったためです。
 


 70矢出川遺跡  
  72
土屋忠芳氏寄贈資料
このような賢者によって遺跡や遺物が守られてきました
矢出川遺跡ナイフ形石器
2万年前
矢出川遺跡群
ナイフ形石器
2万年前
ナイフ形石器/2万年前 水晶製石器?剥片?記述はありませんが
中ッ原第6遺跡約2万年前
矢出川遺跡石器ブロック
平沢からも出ているようですが、ここは矢出川かな?
南牧村遺跡分布図
特定の地域に密集
野辺山の旧石器遺跡
この川筋鮭の魚場?
 野辺山の
  旧石器時代遺跡 100個所以上の遺跡発見
・水晶製石器の
  平沢パイロット遺跡
・尖頭器の柏垂遺跡
・細石刃の矢出川遺跡
野辺山の位置 野辺山周辺の遺跡 ・周辺の遺跡は非常に近接していた。狩猟範囲の最低限度に近い。

・が、文化は違っており、時期が違うか、又は、交流が少なかったといえる。
平沢パイロット遺跡尖頭器/16000年前 平沢パイロット遺跡尖頭器/16000年前 柏垂遺跡尖頭器/16000年前




  73野辺山における旧石器の変化

    2万2000年前から1万2000年前までの1万年間の旧石器の変遷をたどると、およそ、
    ナイフ形石器、尖頭器、細石刃の順で変遷した。 細石刃が終わる頃、列島に土器が出現し、縄文文化が始まる。


野辺山に於ける旧石器の変化

  後期旧石器Ⅴ~Ⅳ
Ⅴ期12000~
  土器・有舌尖頭器
  打製石斧と土器で、
  煮沸による植物食開始

Ⅳ期14000~12000年前
  細石刃文化登場
  打製石斧登場
  植物食開始
後期旧石器Ⅲ
Ⅲ期16000~14000年前
尖頭器盛行期

※遺跡毎の差異は、製作者の個人差か、無交流による伝統の違いか

後期旧石器Ⅱ~Ⅰ
Ⅰ期22000~20000年前
   ナイフ形石器
   横長剥片石器
Ⅱ期前半20000~19000年前
   縦長剥片ナイフ
Ⅱ期後半19000~18000年前
   尖頭器の登場
横長剥片石器は
 瀬戸内技法


 重要参考資料

  野辺山高原の旧石器時代区分 転載 八ヶ岳山麓の旧石器 Top Page

   野辺山高原の後期旧石器は、九州鹿児島湾の姶良カルデラの噴火によるAT火山灰(約2.5万年前)層より上層で発見されています。
   2.2万年前から1.2万年前までの1万年間の石器の変遷をたどると、次のような野辺山編年(堤1993)の組み立てが可能になります。

 野辺山第Ⅴ期 (1.2~1万年前)
  大形尖頭器・有茎尖頭器・局部磨製石斧などをもち、最古の土器を伴う時期。
      立石A遺跡など。
 野辺山第Ⅳ期 (1.4~1.2万年前)
  前半 矢出川技法※などによる稜柱形細石刃石核などがみられる時期。
      矢出川第Ⅰ遺跡など。
  後半 湧別技法など北の系譜をひく削片系細石刃石核がみられる時期。
      中ッ原第5遺跡B地点・中ッ原第1遺跡G地点など。
 野辺山第Ⅲ期 (1.6~1.4万年前)
      ナイフ形石器に代わり尖頭器が主体をなす時期
      柏垂遺跡。東森遺跡など。
 野辺山第Ⅱ期 (2~1.6万年前)

  後半 小形化・幾何形化したナイフ形石器や小形尖頭器が見られる時期
      西の腰B遺跡などがこの時期のもの。
   前半 発達した石刃技法とそれを素材とした優美なナイフ形石器
      見られる時期
      三沢遺跡や丘の公園第2遺跡がこの時期のもの。
 野辺山第Ⅰ期 (2.2~2万年前)
   横剥ぎ技法による切出形ナイフ形石器や角錐状石器などが見られる時期
   矢出川第Ⅰ遺跡・丸山遺跡などがこの時期のもの。

 ※尚、この編年の年代観は加速器質量分析法など新しいC14年代測定法やその暦年換算などによって、さらに2-3千年程度古くなる可能性があります。
      このページが見つからなければ、上の (73の) 年表の意味が分かりませんでした。

  いやはや、八ヶ岳にはいろんな人がいる。開拓農家、カメラマン、ナチュラリスト、別荘の金持ち、美人モデル、考古学者、、、、
  これだけの錚々たる面々が集まれば、八ヶ岳地域にとって、もっと凄いことができそうなんだけれど。

 石刃技法  細石刃を作る技法です。

  湧別技法
   北海道や東日本では大型の槍のような形に整えたものを準備段階として作り,
   その後に平坦な打ち欠く面を作って細石刃を剥ぎ取る、湧別技法が一般的です。
湧別技法の製作 湧別技法のプロセス
引用縄文と古代文明を探求しよう

引用日本人の源流を探して
  矢出川技法
   西日本では比較的小さな剥片や小礫を使い,最初に細石刃を剥ぎ取る平坦な打ち欠く面を決め,
   その後、細石刃核の形を整える、矢出川技法が広く分布する。矢出川技法により作られたものは
   野岳・休場型細石刃核と呼ばれています

    転載かごしま考古ガイダンス 第22回 上野原縄文の森

  最初に、西日本経由の細石刃文化人が西からやってきて、矢出川遺跡を作った。(半円錐形細石器核)
半円錐形細石器核
引用細石器
    その後、中ツ原遺跡群第5遺跡B地点では、北海道を南下し、日本海沿いに下ってきた湧別技法の細石刃文化人がやってきて、住んだ。






  74矢出川遺跡 (国指定史跡) 館の東南1.6kmにある遺跡です。
    ・2万~1万4千年前の旧石器遺跡
    ・ナイフ形石器・尖頭器・細石器出土 (日本で初めて細石器が発見された遺跡、日本最大規模の細石器遺跡)

矢出川遺跡の特徴 矢出川遺跡の看板 矢出川遺跡と細石刃のあれこれ
深い研究。41に掲載
矢出川遺跡 日本で最初に発見された細石刃

 矢出川遺跡と細石刃のあれこれ
  南牧村の歴史の中で最も特徴的で有名なのが矢出川遺跡です。細石器とは2~3cm程の小さな細石刃などの石器で、それを細い木や骨の
  両側あるいは片側だけに細い溝を掘って、その中に樹脂や天然ゴムを詰め、細石刃を並べて植え込みました。

  すると、鋸歯の様になり、「のこぎり」になったり、「鎌」としても使えました。刃が欠けたり鈍くなったら、その部分だけを取り換えて使用しました。

 矢出川遺跡の石器
  矢出川発見の石器には、細石刃・細石刃石核の他、ナイフ形石器・尖頭器・削器・掻器・石斧・礫器、その他膨大な剥片類・石核等がある。
  これらは全て同時代に共存していた石器ではなく、矢出川遺跡に於いて、次代の異なる人々が暮らしていたことを示す証拠です。

  ナイフ形石器の時代、尖頭器の時代、そして細石器の時代である。その中に圧倒的な数を占めるのが細石刃時代の人々が残した石器であった。

日本の細石刃文化遺跡
14,000年前

北海道から九州まで1000ヶ所の細石刃遺跡
(現在1792ヶ所)
日本初発見の細石刃14,000年前
日本初発見の細石刃14,000年前
植刃器

鹿角に細石刃を埋め込んだナイフ
細石刃/14000年前
矢出川遺跡


 おさらい

 矢出川遺跡の細石刃文化
  ・細石刃文化には3種類あり、バイカル湖文化センターから黄河文化センター経由で、
     西から半島を通じてもたらされた①西日本型と、
     樺太・北海道経由でやってきた②湧別技法の細石刃、そして
     最後にシベリアから大陸東岸を南下してきた③九州型がある。

   ①西日本型細石刃の特徴は 半円錐形細石刃核
   ②湧別技法細石刃の特徴は クサビ形細石刃核
   ③九州型細石刃の特徴は クサビ形細石刃核

  ・矢出川遺跡 - 日本旧石器学会によると、
    細石刃石器群は矢出川技法等と呼ばれる半円錐形細石刃石核を含むもので、
    後期旧石器時代の最終末期に位置づけられる。とある。

  ・すると、矢出川遺跡の細石刃は西日本型であることがわかりましたが、
    図3の柏垂遺跡(川上村)の細石刃核は、図2の湧別技法の石核に似ていると思います。

  ・前出の八ヶ岳山麓の旧石器では、中ッ原遺跡群第 5遺跡B地点:野辺山第Ⅳ期後半から
    荒屋型彫器が出土しています。湧別技法細石文化人が見逃すはずはなかったようです。
    しかし、矢出川で大量の細石刃を製造したのは西日本型の人々。

  ・実に近接した地域に多種多様な人々が、交流せずに(時代が違う)生活していたようです。
   ただし、両方ともその後すぐに消えてしまったのですが。
 
 74a
図1細石刃文化の東西差日本人の基層集団 図2細石刃文化期
国立博物館日本人はるかな旅展 
図3野辺山に於ける 
旧石器の変化




 75黒耀石について
   溶岩が急速冷却されたときにできる天然ガラスで、割れ口が鋭く加工しやすいため切れ味の良い石器材料として利用されました。
   マグマの成分によって、できるときと、できないときがあります。

   我が国の黒曜石産地の中で、特に信州の霧ヶ峰から八ヶ岳の地域は良質のものが大量に採れる本州最大の産地でした。

   信州産黒耀石は、約3万年前から県内・関東・中部地方の広い範囲に運ばれ利用されました。
   縄文時代になるとさらに遠くまで運ばれるようになり、青森県三内丸山遺跡では石鏃として見つかっています。

   道もろくにない時代に沢山の黒耀石が遠い道のりを運ばれていた事実は、驚くべきことであり、価値ある品として大切に扱われたようです。

矢出川に運ばれてきた石 黒曜石について
細石刃核/14000年前 細石刃核/14000年前 細石刃核/14000年前 1万4000年前の遺跡には
和田峠や八ヶ岳の他に、

遥か太平洋沖の神津島産黒耀石
岐阜の下呂石

が持ち込まれたことがわかっています。


  76石器石材と石器
     旧石器の石材・・・切れ味のいい緻密な石材が使われた

黒耀石原石
八ヶ岳産(霧ヶ峰)・
和田峠産

黒耀石・・和田峠産
水晶原石・・野辺山周辺産
(川上村産)

緑色チャート 石核
野辺山周辺産
旧石器の機能
ナイフ形石器:槍先・ナイフ
尖頭器:槍先        
細石刃:槍先・
ナイフの替え刃

細石刃

掻器:皮なめし
  77尖頭器・ナイフ形石器・細石刃
尖頭器の復元 氷河期の植生と動物相 旧石器の主な道具 矢出川遺跡の狩猟
ハケ・立石地区
ナイフ形石器・槍先形尖頭器・石刃・細石刃・掻器・削器
梨ノ木平地区
ナイフ形石器・槍先型尖頭器・石刃(水晶)・削器
矢出川遺跡
細石核・ナイフ形石器・槍先形尖頭器・削器
・細石刃
青木ヶ原第1地点
槍先形尖頭器・ナイフ形石器・石刃・削器
柏垂遺跡
ナイフ形石器・石錐・削器・槍先型尖頭器
旧石器の主な道具

ナイフ形石器3~1.6万年
 ナイフ状の刃の石器
 ナイフや槍先として使用

尖頭器1.6-1.4万年前
 木の葉形石器も槍先としても使用

細石器1.1-1.2万年前
 カミソリのような石器
 ナイフや槍として使用

ハケ・立石地区

ナイフ形石器・槍先形尖頭器・石刃・細石刃・掻器・削器
梨ノ木平地区

ナイフ形石器・槍先型尖頭器・石刃(水晶)・削器
矢出川遺跡

細石核・ナイフ形石器
・槍先形尖頭器・削器
・細石刃
青木ヶ原第1地点

槍先形尖頭器・ナイフ形石器・石刃・削器
柏垂遺跡

ナイフ形石器・石錐・削器
・槍先型尖頭器

  旧石器の主な道具
ナイフ形石器 
尖頭器 
細石器 
3~1.6万年前
1.6-1.4万年前
1.1-1.2万年前
 ナイフ状の刃の石器
 木の葉形石器
 カミソリの刃ような石器 
ナイフや槍先として使用
槍先としても使用
ナイフや槍として使用






 80縄文時代


 


 81打製石斧と磨製石斧
  考古学では、土を掘る道具が打製石斧。木を伐る道具を磨製石斧と言います。

  実際に打製石斧に柄を付けて耕してみると、本当に使い心地がいい鍬です。縄文人はこれを使って竪穴を掘ったり畑も耕したでしょう。
  磨製石斧は、全体を砥石で磨き、特に刃部は丁寧に鋭い刃を研ぎ出しています。これで木を伐採すると、直径10cmで10分ほどで伐ることができます。

打製石斧と磨製石斧
仮に竹で再現されている

打製石斧・磨製石斧

(打製と言うがかなり磨製に近い)

ナイフ形石器
(砥石ではないか)

槍先形尖頭器
磨製石斧か?
打製石斧と磨製石斧
 

  111志なの入り遺跡の人骨 縄文早期
  昭和46年11月、役場の東にあたる志なの入りの南斜面で林道を作っていたところ、岩穴の様な所から人の骨や土器を発見しました。
  教育委員会では文化庁や県に届け、昭和47年8月に信州大学に発掘調査をお願いしました。

  岩穴の一部は崩れていましたが、土の中から女の人の骨や、土器、石器、獣骨などが沢山見つかりました。
  岩穴は、入口が南に開いていて、東西8mと長く、背をかがめれば住めるくらいのトンネルになっていました。

  人骨や土器が発見されたところには、白い灰や焼けた土、動物の骨などがあり、平らな石が2個置いてありました。
  この穴は、今から8000年ぐらい前に人々が鹿や猪などの獣を求めて猟をしていた時に、泊まったり、ある季節の間住んでいたものでしょう。

  野山の実を採ったり、川の魚を捕ったりした頃の人々が利用していたのではないかと考えられます。
  発掘された土器を見ると縄文時代から弥生時代まであるので、長い間に渡って利用されていたものと考えられるし、人の骨からは、ここが
  お墓にもなっていたのではないかとも考えられます。

  遺跡から出土したもの
      土器  縄文土器、すじの入ったもの、竹で線を付けたものなど42点
      石器  黒曜石やチャートで作った石鏃、皮はぎ、石錐など31点
      獣骨  ニホンジカ、ホンドテン、ヒキガエル、鳥の骨



 志なの入遺跡 -   転載 信州の文化財 - 財団法人 八十二文化財団

  縄文時代早期末葉~前期末葉の遺跡で、土器(条痕文諸磯式等)、石器(石鏃・石匙等)、獣骨(ニホンジカ・ホンドテン等)と人骨が出土した。
  人骨は2体分。1体は身長144センチメートル程の中年女性で頭蓋骨・肩甲骨以外の部位が確認された。もう1体は遺存していた骨が少ないため
  詳細は不明である。現在、遺跡は林道工事により失われており、記念碑を残すにとどめる。

  林道造成工事中に発見された凝灰角礫岩の中にできたトンネル状の洞穴遺跡である。長期間定住した遺跡ではなく、
  短期間かつ間歇的に洞穴が利用されていたことが推察される。 

志なの入り遺跡 遺跡から出土したもの 縄文時代 縄文遺跡分布図




 出土人骨について

   人骨は2体分あり、1体は身長144センチメートルほどの中年女性で頭蓋骨・肩甲骨以外の部位が確認された。
   もう1体は遺存していた骨が少ないため詳細は不明である。現在、遺跡は林道工事により失われており、記念碑を残すにとどめる。

縄文時代
草創期・早期・中期
草創期:12000年前、
   土器を作り始める
早期:北相木村栃原遺跡
   8千~9千年前
   志なの入遺跡から早期
   土器出土
中期:川上村大深山遺跡
   4500年前。南牧村各地   の遺跡もほぼ同時期。
   土器・石斧・石鏃・石匙
   ・耳飾・石皿出土
志なの入り遺跡
人骨
人骨残存部位 堆積した火山泥流に河川によって穿たれた洞窟の中で落盤事故によって保存された縄文人骨。

強酸性の火山灰の中でよく残っていたなと思います。

(※泥によって真空パックされたようです?)

出土人骨は二体分



 志なの入り遺跡スケッチ
  千曲川に注ぐ小支谷である志なの入沢に面し、表面比高約18mの火山泥流の中に穿たれたトンネル状の洞窟遺跡で、床面比高は約15mである。

 志なの入り遺跡説明
  遺跡名  まきば
  時代 縄文~奈良~平安
  経緯 県営農地開発事業による畑地。標高1420mの高地で土器を採集した。縄文前期~中期、平安時代もあり、長期間の居住がわかる。
  器種 縄文前期の諸磯式、 中期の梨久保式土器。 敲石、黒曜石剥片、
    奈良~平安の、須恵器・坏 (内黒)、甕等 

志なの入り遺跡 志なの入り遺跡
正面スケッチ
志なの入り遺跡説明 遺跡全景が、
ちょっと見えん



  160土器
  163縄文土器
後期土器/複製 中期土器/複製 早期土器・中期土器
複製
中期土器/複製
中期4500年前/中の沢遺跡


  164長野県東部の土器編年と気候・生活
草創期15000年前
須坂市石小屋洞穴
北相木村栃原岩陰
◎寒暖を繰り返しながら氷河期が終末をむかえる。

・弓矢の使用始まる
・土器の使用始まる。
早期11000年前
岡谷市樋沢
北相木村栃原岩陰
御代田町塚田
小海町中原
◎次第に温暖な気候となる
・竪穴住居址が一般化。
・漁撈具、貝塚が出現、本格的な水産資源の利用が始まる。
・植物採集加工具が増加する。
  前期7000年前
中期5500年前
御代田町塚田
小海町中原
御代田町下御堂
佐久市栗毛坂 
小海町穴沢
御代田町川原田
臼田大奈良
前期◎気候が温暖で、縄文海進のピークに達する。
・大規模集落や集団墓地が出現する。
・木材の利用が高まる。
・様々な土器の器形が出現する。

中期◎後半やや寒冷に向かう
・中部,関東,東北等で遺跡が急増
・大規模集落増加
・植物採取,加工具が生産具の主体と
 なる。
後期4000年前
晩期3300年前 佐久市吹付
北相木村坂上
南牧村中ノ沢

山ノ内町佐野
2800年前
・中部、関東等の内陸部で遺跡減少
東日本太平洋沿岸で漁撈が発達する
・東日本で
  呪術的・祭祀的遺構遺物が増加
◎寒冷な気候となる
東日本中心の亀ヶ岡土器群
 西日本には突帯文土器が分布
東日本ではサケ・マスの河川漁業
 が発達する
・西日本の一部で稲作が始まる

 




 170弥生時代




 171弥生時代のくらし
  今から約2300年前、大陸から稲作と金属と弥生式土器を持った人々がやってきました。そのコメ作りが2000年前には佐久まで伝わった来ました。
  イネは、湿地でなければ作れなかったので、人々は野沢平のまわりや、佐久市長土居付近で稲作を始め、ムラを作って暮らし始めました。

  秋になると石包丁で稲の穂刈りをして倉庫に蓄えました。人々は南牧村から佐久平へ移りましたが、時には野辺山などに動物を獲りに来ました。
  家は土を掘って作った竪穴式住居が多くつくられ、高床式倉庫も作られました。

前期弥生式土器 弥生時代の遺跡 集落イメージ
弥生時代の暮らし



  172土器の模様を分けてみよう

     長野市松代町松原遺跡は、地下5mの縄文前期中頃(約5500年前)から室町時代までの集落遺跡が重なった遺跡です。
     ここから見つかった土器を、文様の違いによって時代順に分けてみましょう。
  173
  174
    縄文時代前期
      中頃、後半
前期中頃
 半截竹管で描いた口縁 周囲の菱型文と胴の羽 状縄文が特徴

前期後半
 山形の口が大きく開く。貼り付けた粘土紐の上から
半割竹管を押している
     縄文前期
    終末期、中期初頭
前期終末期
 半割竹管を押し当てて引いたり、所々彫刻する

中期初頭
 粘土を貼り付けて盛り上げた文様が現れ、隙間なく半割竹管文で埋め尽くす
     弥生中期
   甕型土器、壺型土器
甕型土器
 口の広い煮炊き用。櫛歯を斜めに引いた羽状の地味な文様が特徴

壺型土器
 口が狭い貯え用。甕より装飾的でヘラで文様を描き縄文も付ける
     弥生後期
 甕型土器、壺・高坏型土器
甕型土器
 ○○○枕に引いた胴の文様、水平に押し当てて引いた頸の文様が特徴

壺・高坏型土器
 焼くと赤くなる鉄分を含んだ粘土を塗る。壺の頸には描き、赤くしない
  古墳前期  平安時代
    の土器  の土器
古墳時代の土器
 文様は全く見られない

平安時代の土器
 カマドにかける丸底の甕や、ロクロで作った坏など
 





 190古墳―平安時代



  191古墳時代

 古代の交通路
  原始時代から関東地方に住んでいた人々は、小県郡和田峠付近で産出する黒耀石が、尖頭器・石槍、鏃、細石器等を作るのに便利だったため、
  関東各地から野辺山高原を越えて和田峠におもむきました

   ※高原は道に迷いやすく危険です。江戸時代には、迷い人救済の為の茶屋や、村が作られたほどです。


 古代の暮らし

  古墳時代や奈良・平安時代になると水田が多くなりましたが、南牧村には水田はありませんでした。佐久平では古墳が造営されています。
  平安時代の中頃からは畑に麦・粟・蕎麦などが盛んに作られるようになり、南牧村や川上村にも畑作りをして暮らす人が住むようになりました。

  着物は麻で作られ、家はまだ昔と同じ竪穴式住居でした。

  佐久には望月牧などの牧場が作られ、馬を飼うようになりました。また、お寺やお宮が作られ、
  道も整備されて官道の東山道には駅 (うまや) もおかれるようになりました。平安末期には、佐久に根井氏や平賀氏という武士が生まれました。

佐久平の年表
古代の交通路 古代の暮らし 須恵器碗8c・高坏7c・壺6c

 須恵器
  須恵器は、土師器と共に古代における最も主要な窯業形態の一つである。周知のように、
  土師器が、酸化焔焼成による赤い素焼きの焼き物であるのに対し、
  須恵器は、還元焔焼成による灰色をした硬質の焼き物である。

  「延喜式」には各国から朝貢された須恵器に対して、「陶器」の文字が当てられており、「倭名類聚抄」には瓦器一伝陶器 陶訓須恵毛能と記され、
  平安時代には「スエモノ」と呼ばれていたことが知られている。





  192平安時代


平安時代
年表
延喜13(794)

仁和4(888



寛弘8(1011) 

平安末期

平安京遷都

巨大地震により八ヶ岳が大崩落し大岩屑なだれ発生。
南牧村海ノ口、海尻に堰止湖できる。
松原湖ができ、小海にも湖ができる。

南牧湖の深山で決壊し南牧湖は干潟(平地)となる。

南牧村・川上村・相木村の開拓始まる。
この頃の土師器が、平沢・海尻・野辺山から出る。

南牧村から佐久平の

古い神社のようです

  なだれ=雪崩 と表記しています。


 192天然ダム崩壊の被害を報じる新聞
   八ヶ岳は何十万年もの昔から何度も巨大な山体崩壊を起こし、広範囲に被害を及ぼしてきている。
   最も大きいものは、西側に崩壊した山体が甲府盆地まで流れ下り、一帯を岩屑で埋めたことである。(その大量の岩屑は現在も残っている。)

   また、八ヶ岳東側に崩落した山体が千曲川を堰き止め、海ノ口、海尻といった地名にあるように、巨大な天然ダムを形成していたものが、
   崩壊し、巨大な岩石や岩屑が、大量の水と一緒に一挙に流れ下り、佐久平一帯までの広範囲に大災害をもたらした。

岩屑雪崩の天然ダム
崩壊の被害判明
仁和3年の大災害を今伝える記事。いつ起こるかわからない八ヶ岳です
八ヶ岳の山崩れと
南牧湖
現在の松原湖 仁和4年の大災害
翌年にもまた襲った
崩壊土砂の堰止湖の
松原湖
天狗岳から稲子岳にかけての東壁崩壊跡

八ヶ岳の岩屑雪崩はいつ起こるかわからない恐怖ですね。
いまもです。

 八ヶ岳の山崩れと南牧湖
   西暦887年8月22日(仁和3年7月30日)関西方面で巨大地震が発生し、大災害が起こりました。この地震は南海・東南海連動型地震の
   可能性があり、北八ヶ岳の天狗岳、稲子岳等を大崩壊させた可能性が指摘されています。

   この崩壊によって大岩がなだれ、大量の岩屑が大月川に沿ってなだれ下りました。岩屑雪崩は海尻で千曲川を堰き止めて巨大ダム湖を作りました。

   この巨大ダム湖は、888年6月20日に決壊し、溜っていた水は大洪水となって下流の集落を襲いました。
   上部が決壊した後に下部が残り、規模が縮小したダム湖が残りました。

   それが南牧湖です。南牧湖の上流端付近が海ノ口、ダムの付近が海尻と呼ばれ、その後120年余り存続したと考えられています。
   その間に湖底に土砂が堆積し、再びダムが決壊した後には、平坦な湖底が残されました。これが現在の海ノ口~海尻に至る低地です。


 仁和4年の信濃国大災害
   翌年の888年6月20日(和暦5月8日)、今度は信濃国で山崩れと洪水が起きます。当時の資料からは、洪水が6郡を一挙に襲ったと窺われます。
   千曲川流域の、佐久・小県・更級・埴科・水内・高井の各郡が被害を受けたと推定されます。

   この災害は、八ヶ岳の土砂崩れが千曲川を堰き止め、それが一気に決壊したことによって引き起こされたようです。







 195中世





  196中世の暮らし (鎌倉時代~戦国時代まで)
   平安時代にできた荘園(私有地)は、佐久では伴野庄と大井庄がありました。南牧村の海ノ口平沢はこの伴野庄に入っていました。

   伴野庄は京都大徳寺の所有で、大徳寺の建設などに伴野庄のムラの人々は交代で京都に食料持参で働きに行っておりました。
   この頃になると、伴野市 (いち) などの市場が各地に造られ、コメや麻などが売買されました。

   武士では伴野氏大井氏相木氏などが有力者となり、戦国時代には戦いが各地で行われ、山城が作られました。
   南牧村にある城もこの頃のものです。  海尻城  海ノ口城


 野辺山原出土の鉄鏃
  野辺山原の南、矢出原では、昔から多くの鉄鏃が発見され、近くの人たちが拾って所有するものが100本に達しており、矢出原の語源です。
  これだけ多くの発見は、ここで激戦が行われたに違いありません。

  武田家の記録「王代記」に文明9年(1477)信州乱入、相木家のために敗れるとあり、
  武田軍が平沢峠を越えて佐久に侵入したのに対し、相木方がこれを打ち破ったという戦いが、この地で行われたものと思われます。



 ※考察 武田氏の信濃攻略と野辺山原の戦闘年代を考える

  上記の、「野辺山原の鉄鏃」の説明では、武田家の文明9 (1477) 年は、「室町時代中期にあたり、」
  文明9年4月12日 甲斐武田氏の兵、佐久郡に攻め入り、同郡大井氏配下の地侍集団相木中衆に敗れる。引用(山梨県&長野県戦国時代詳細年表)


 更に「王代記」とは、「もと山梨市の窪八幡神社の別当上之坊普賢寺に伝わったもので、同寺住僧らが代々書き継いだものとされている。
  冒頭には「王代記」とあり、その下に大永四年 (1525) 卯月九日に書くとの注記がある。」引用wikipedia

  この、大永年間は1521-1527であり、50年程も年代がずれています。  (我が家は大永3年からです。(笑))
  昔のことを聞き書きで記録したのかもしれません。


 戦闘はいつ行われたのか

  上の31では小笠原長時との戦闘天文14 (1545)年 とあり、196では相木中衆との戦い文明9 (1477) 年とある。

  どちらかなのか、両方なのか、もしかしたら出土した古銭や鉄鏃の鑑定からわかるのかもしれません。
  しかし、

  武田信玄の佐久攻めは何度も繰り返しており、ネット検索で出てきたところでは、天文5(1536)年平賀源心攻め(見て歩く甲斐武田氏)
  天文12(1543)年、相木城城主相木昌朝武田信玄に降伏、1562年第4次・川中島の戦い(相木市兵衛)などなど、

  武田氏の信濃攻略は頻繁にあったということで、矢出原の戦闘がいつかは、私にはわからないですね。失礼しました。




中世の暮らし
上に記述
中世年表
野辺山出土の鉄鏃
刀・古銭これら対人用鉄鏃は
不毛の地野辺山を巡って
戦争をしたあかしです。
狩場や、山菜取り場を巡っての争いでしょうか。
それとも、領地としての確保を狙ったのでしょうか。
これら戦国時代の鉄鏃 には、いろんな意匠があったんてすね 野辺山原出土鉄鏃
ピンボケ
鉄鏃の種類と名称
ピンボケ
殺傷力の強い鉄鏃 野辺山高原出土の鉄鏃
上に記述