注意 近隣の群馬県南牧村(なんもくむら)に南牧村民俗資料館がありますが、そこには考古資料はありません。カーナビも間違えるかも。 お断り ・この館では展示物が時間軸に沿って並べられていません。 そこで、勝手に時間軸近くに再配置しました。 ・館内の解説文は、達筆な手書きです。 ただ、私にはとても読みにくいので、これを全て文字化することは残念ながら出来かねます。 |
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01野辺山観光 学生時代の思い出の地です。 1970年代、国鉄の始めた「DISCOVER JAPAN」のmovementにのって、沢山の若者が押し寄せた観光地でした。 |
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01小淵沢駅
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02清里駅
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03JR最高地点 |
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04平沢峠 |
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05野辺山宇宙電波観測所 ※野辺山宇宙電波観測所は、私が小学5年頃、初めて日米間の宇宙中継 (ケネディ大統領暗殺の日) が行われた時、その電波を受信していたのは ここでした。いまだにその時のことはよく覚えています。早朝から起きて5時頃でしたが見守っていましたから。 それ以前にも何度かテストの衛星放送があったと記憶しています。しかし、この時は衝撃的で特に強調されて報道されます。 |
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06野辺山駅 野辺山と清里はいつも旅の若者でいっぱいでした。だから負けないように、両駅とも機関車があるのです。 しかし今、野辺山は完全にブームから外れ斜陽でした。新しい観光ムーブメントを起こさなければ、ますます落ちてしまう。 |
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07ドライブ ここまでのお気に入りの写真 |
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09南牧村美術資料館 外観 |
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10旧石器時代 |
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11矢出川遺跡 (やでがわ) 鏃が出るんです。古戦場でした。 日本で初めて、細石刃が出土した遺跡です。野辺山宇宙電波研究所の傍です。 |
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資料 国史跡矢出川遺跡とは 場所 南牧村野辺山二ツ山、野辺山駅から南方凡そ1kmで眼下に矢出川と三沢川の合流点を臨む台地の縁にあり、標高1340mです。 履歴 国史跡に指定 平成7年指定 矢出川遺跡の経緯 昭和28年12月28日日本で初めて細石刃が発見され、その後、全国で続々と細石刃が確認され、日本の至る所に分布していることがわかりました。 矢出川遺跡は、細石刃文化14000年前、尖頭器文化16000年前、ナイフ形石器文化22000~24000年前、の石器も見つかっています。 気候 矢出川に石器文化が興った頃は、氷河期にあたります。 2.4~2.2万年前のナイフ形石器から1.4万年前の細石刃文化の矢出川はその時代に当たります。 2万年前の野辺山は平均気温が0.7℃とされ、現在の樺太とほぼ同じだったと思われます。(今の平均気温は7℃前後※) 1.4万年前の細石刃文化のころは2℃ほどだった。 ※こんな寒冷な山間地に、1万年間も人が住み続け、新しい文化を持ちこみながら、維持していたことは、驚愕に値する。 ※年間平均気温、東京17.1℃(2013年その後観測点移動) 大阪16.9℃ 石器の移り変わり 遺跡は、ナイフ形石器文化、尖頭器文化の時代を経て、細石器文化に入って、ナイフ・ポイント(尖頭器)などは出土しなくなります。 細石器と共に発見されるのは、物を削る削器スクレイパー、木を伐採する礫器で、皮なめし用のサイドスクレイパーも発見されています。
細石刃の使われ方 細石刃は植刃器に装着され、組み合わせて使用しました。細石器が現代機械文明の母体ともいわれるのは、 長い人類の歴史を経て、いくつかの部品を集めて一つの道具を作るという工夫は、この細石器こそが、組み合わせ道具の出発点であるからです。 旧石器人の足取り 旧石器人の住居跡が見つからないのは、定住生活の習慣がなく、矢出川でも数週間のテント生活のように、あちこち渡り歩いていたようで、 静岡県の遺跡でも、相模原の遺跡でも、八ヶ岳産の黒耀石の石器が多数見つかっています。そして、冬の間は暖かい地方で生活したと思います。 矢出川の立地について 南牧村の原野、矢出川は、動植物の宝庫で、特に鹿は秩父と八ヶ岳の回遊路になっていたので、狩りには最高の場所でした。 植物は日本でも有数のハシバミの生い茂る原野で今も残っています。実 その他にチョウセンゴヨウやコケモモ等、食するものは多くありました。 また、ここは現在の佐久方面と甲府方面の峠道としての交通の要所にもなっていました。それに何といっても石材が豊富でした。 |
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12細石刃
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13 |
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14矢出川遺跡群 日本最初の細石器発見 大正の頃からこの地方にあって考古の研究家であり、この地方一帯の遺跡に精通し、多くの遺物取集を行っていた由井茂也氏が 昭和28年12月末、芹沢長介教授(明大)と岡本教授(立教大)が訪れ、同氏採集の石器が、これまで日本には無いと思われていた変わった石器 があるのに気付き、同氏の案内で、辺り一面雪に覆われた野辺山高原の矢出川近くで予想点を掘り返したところ、目的の石器が多数見つかった。 その後の研究により、矢出川石器と言えば細石刃の代名詞の如く有名になった。現在その地域は国史跡になっている。 |
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15矢出川遺跡の石器 |
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20矢出川遺跡の細石刃 |
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21panel
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22細石刃 矢出川遺跡の細石刃など(14000年前) カミソリの刃のような鋭い石器である。 |
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23石鏃 |
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24各種の利器
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26南牧村遺跡分布図 野辺山の旧石器 細石刃は、日本で最初に野辺山で発見されました。 1953年川上村馬場平遺跡での「尖頭器」の発見、同年暮れ、野辺山矢出川遺跡での「細石刃」の発見が契機となり、四十余年の歳月を経た今、 たくさんの旧石器がこの八ヶ岳山麓で発見され、「旧石器のふるさと」ともいわれています。 野辺山の旧石器は、後期旧石器時代の後半にあたる約2万年~1万年前のものである。 石器は、ナイフ形石器(3~1.6万年前)⇒尖頭器(1.6~1.4万年前)⇒細石刃(1.4~1.2万年前)の順に変化したとみられるが、 それぞれの石器が野辺山から発見されている。 当時は氷河期にあたり、1.8万年前の年平均気温が今より8℃低く、1.4万年前で今より4℃低い寒冷な気候で、野辺山は想像を越えた寒さであった。 ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヘラジカ・ウマ・ヤギュウなどが生息した時代である。 |
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30南牧村の文化財 |
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31南牧村の文化財1
論文抜粋 と 考察 中ッ原遺跡群第 5 遺跡 B 地点 及び 第 1 遺跡 G 地点にお ける 削片系細石刃石器群の産地推定 堤 隆・望月明彦 南牧村野辺山高原に所在する中ッ原遺跡群第5 遺跡B 地点と中ッ原遺跡群第1 遺跡G 地点の二つの削片系細石刃石器群について, エネルギー分散蛍光エックス 線分析法(EDX)によって産地推定を行った。 中ッ原5B 地点では,①下呂石と,②和田エリア,③諏訪エリア,④蓼科エリア,⑤NK群の黒曜石が認められた.一方, 中ッ原1G 地点では,④蓼科エリア,⑤NK群の黒曜石のみが認められた.両遺跡では,産出地点未発見のNK群黒曜石が高い割合で認められた が,一方で近接する 矢出川遺跡に一定量存在する神津島エリアの黒曜石は認められなかった.(※なんと矢出川には伊豆諸島からも黒曜石が運ばれていた。) ※論文を読み進めると、旧石器時代の人口5000人余りの時代に、この野辺山高原に、各地の文化人がやって来て其々の痕跡を残している。 矢出川遺跡群は稜柱形細石刃技術、中ッ原遺跡群は削片系細石刃技術の文化人でした。 ・NK群の黒曜石の謎 中ッ原遺跡群で多様されたNK群の黒曜石原産地は、野辺山高原近くで未発見の原産地であろう。 仁和3(887)年の東・南海地震で大崩壊を起こした、蓼科エリアの東、北八ヶ岳の土砂の下敷きになっているのではないかと推定する。 ・矢出川遺跡群と中ッ原遺跡群の違い 矢出川では、太平洋側の神津島産黒曜石が3割を占めるのに対して、中ッ原では全くない。 矢出川技法 = 稜柱形細石刃は、前半期に展開する技法。 湧別技法 = 削片系細石刃は後半期に展開する技法である。 ・中ッ原5Bと中ッ原1G集団とは、5Bが先、1Gがあとに形成され、、同系統の別集団であって、同一集団が戻って来たのではないかとも言う。 考察 ※日本で最初に発見された細石刃遺跡、西日本系 (矢出川技法) の矢出川遺跡群の、わずか3km離れた所に、もう一つ別の細石刃文化、 北日本系 (湧別技法) 細石刃文化の中ッ原遺跡群があった。 ・湧別技法文化人は日本海側を南下して信州エリアの黒曜石に辿りついたが、西日本系は、列島を西から、南からやってきたため、 神津島の黒曜石、二上山のサヌカイト、岐阜県の下呂石など、他地域から多様な石器を入手するルートを持っていた。 ・湧別技法細石器人については、鏡野郷土博物館 沖縄写真通信 彼らは北方から日本海沿いに南下したため、日本海側の情報しかもっていなかった。 南牧村の文化財 (続き) 考察 矢出原の戦闘 ※武田軍が、信濃平沢に攻め入って勝利した資料は、Wikipedia小笠原長時によれば、甲斐の武田信玄が国内統一を果たして信濃攻略を開始し、 ①天文14年に伊那へ出兵し高遠城・福与城・龍ヶ崎城(辰野町)を陥落させ、小笠原長時は敗退。 (武田氏は伊那を占領) しかし、小笠原長時は、 ②天文17年には、小県郡上田原で勝利し、更に諏訪郡奪還へと侵攻するが、塩尻峠の戦いで敗退し、その後、負け戦が続き、 ③天文19年には、本拠林城 (松本市) も失い没落した。ただし、安土桃山時代に復活し、江戸時代に藩を設け、小笠原流作法の家元となった。 ①の戦場は伊那である。②は上田盆地。③は松本平での戦闘である。 ただし、①の戦いでは伊那 (南信) だけでなく、上田盆地の (西信) も奪われていたことになる。 つまり、山梨県から信濃攻略を行った際、西進する伊那攻略と、北進する上田攻略が同時に行われ、小笠原氏を敗退させた矢出原の戦いは 天文14年の事と類推できる。天文17年の戦いは武田の敗戦であり、天文19年は松本平の戦いである。 ※ 下の196の中世の暮らし「考察 武田氏の信濃攻略と野辺山原の戦闘年代」、の下の方に、も少し詳しく触れています。 |
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32南牧村の文化財2 |
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40旧石器時代の矢出川 |
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41矢出川遺跡周辺の変遷 矢出川遺跡 南牧村の歴史の中で最も特徴的で有名なのが矢出川遺跡です。 細石器とは2~3cm程の小さな細石刃などの石器で、それを細い木や骨の両側あるいは片側だけに細い溝を掘って、 その中に樹脂や天然ゴムを詰め、細石刃を並べて植え込みました。 すると、のこぎりの歯のようになり、「のこぎり」になったり、「鎌」としても使えました。 刃が欠けたり鈍くなったら、その部分だけを取り換えて使用しました。 旧石器時代の野辺山高原の様子 1万年程前の高原は、川の水は枯れることなく、鮭やイワナ、山野には豊富な木の実や獣がいて、大型獣は湿原に追い込み、 食料採集には恵まれていた。 高原一帯から多くの石器が見つかるのは、相当数の原始人が、或いは長年にわたり住んでいたものと思われる。 そのころの人々の知能は、現代人とあまり変わらないといえる。 矢出川遺跡周辺の変遷 野辺山には以前にはあちこちにジュクッタミと呼ばれる湿地があった。そこがシカなど動物の水飲み場となり、また、ぬた場となった。 台地の上の湿地の多くは畑地となって残っていないが、矢出川や三沢川の近くには、まだ湿原がある。 そこには他の地域には見られない貴重な植生が保存され、また、石器時代以来の古い自然の景観をそのまま残している。 尾瀬や八島ヶ原の湿原程大きくないが、人里に近く、こんな湿原があるということは、専門家の間でも驚きと言われている。 また、湿原の中には、更新世末期から現代に至る植物化石層(泥炭層)が発見され、矢出川細石器文化人の生命活動の歴史と合わせて、 当時の自然環境の復元が可能である。 まさに歴史と自然のふれあいの接点がここにあり、極めて重要である。 |
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50矢出川人の暮らし
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70矢出川遺跡 |
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72
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73野辺山における旧石器の変化 2万2000年前から1万2000年前までの1万年間の旧石器の変遷をたどると、およそ、 ナイフ形石器、尖頭器、細石刃の順で変遷した。 細石刃が終わる頃、列島に土器が出現し、縄文文化が始まる。
重要参考資料 野辺山高原の旧石器時代区分 転載 八ヶ岳山麓の旧石器 Top Page 野辺山高原の後期旧石器は、九州鹿児島湾の姶良カルデラの噴火によるAT火山灰(約2.5万年前)層より上層で発見されています。 2.2万年前から1.2万年前までの1万年間の石器の変遷をたどると、次のような野辺山編年(堤1993)の組み立てが可能になります。
※尚、この編年の年代観は加速器質量分析法など新しいC14年代測定法やその暦年換算などによって、さらに2-3千年程度古くなる可能性があります。 このページが見つからなければ、上の (73の) 年表の意味が分かりませんでした。 いやはや、八ヶ岳にはいろんな人がいる。開拓農家、カメラマン、ナチュラリスト、別荘の金持ち、美人モデル、考古学者、、、、 これだけの錚々たる面々が集まれば、八ヶ岳地域にとって、もっと凄いことができそうなんだけれど。 |
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74矢出川遺跡 (国指定史跡) 館の東南1.6kmにある遺跡です。 ・2万~1万4千年前の旧石器遺跡 ・ナイフ形石器・尖頭器・細石器出土 (日本で初めて細石器が発見された遺跡、日本最大規模の細石器遺跡)
矢出川遺跡と細石刃のあれこれ 南牧村の歴史の中で最も特徴的で有名なのが矢出川遺跡です。細石器とは2~3cm程の小さな細石刃などの石器で、それを細い木や骨の 両側あるいは片側だけに細い溝を掘って、その中に樹脂や天然ゴムを詰め、細石刃を並べて植え込みました。 すると、鋸歯の様になり、「のこぎり」になったり、「鎌」としても使えました。刃が欠けたり鈍くなったら、その部分だけを取り換えて使用しました。 矢出川遺跡の石器 矢出川発見の石器には、細石刃・細石刃石核の他、ナイフ形石器・尖頭器・削器・掻器・石斧・礫器、その他膨大な剥片類・石核等がある。 これらは全て同時代に共存していた石器ではなく、矢出川遺跡に於いて、次代の異なる人々が暮らしていたことを示す証拠です。 ナイフ形石器の時代、尖頭器の時代、そして細石器の時代である。その中に圧倒的な数を占めるのが細石刃時代の人々が残した石器であった。 |
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75黒耀石について 溶岩が急速冷却されたときにできる天然ガラスで、割れ口が鋭く加工しやすいため切れ味の良い石器材料として利用されました。 マグマの成分によって、できるときと、できないときがあります。 我が国の黒曜石産地の中で、特に信州の霧ヶ峰から八ヶ岳の地域は良質のものが大量に採れる本州最大の産地でした。 信州産黒耀石は、約3万年前から県内・関東・中部地方の広い範囲に運ばれ利用されました。 縄文時代になるとさらに遠くまで運ばれるようになり、青森県三内丸山遺跡では石鏃として見つかっています。 道もろくにない時代に沢山の黒耀石が遠い道のりを運ばれていた事実は、驚くべきことであり、価値ある品として大切に扱われたようです。 |
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76石器石材と石器 旧石器の石材・・・切れ味のいい緻密な石材が使われた |
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77尖頭器・ナイフ形石器・細石刃
旧石器の主な道具※
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80縄文時代 |
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81打製石斧と磨製石斧 考古学では、土を掘る道具が打製石斧。木を伐る道具を磨製石斧と言います。 実際に打製石斧に柄を付けて耕してみると、本当に使い心地がいい鍬です。縄文人はこれを使って竪穴を掘ったり畑も耕したでしょう。 磨製石斧は、全体を砥石で磨き、特に刃部は丁寧に鋭い刃を研ぎ出しています。これで木を伐採すると、直径10cmで10分ほどで伐ることができます。 |
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111志なの入り遺跡の人骨 縄文早期 昭和46年11月、役場の東にあたる志なの入りの南斜面で林道を作っていたところ、岩穴の様な所から人の骨や土器を発見しました。 教育委員会では文化庁や県に届け、昭和47年8月に信州大学に発掘調査をお願いしました。 岩穴の一部は崩れていましたが、土の中から女の人の骨や、土器、石器、獣骨などが沢山見つかりました。 岩穴は、入口が南に開いていて、東西8mと長く、背をかがめれば住めるくらいのトンネルになっていました。 人骨や土器が発見されたところには、白い灰や焼けた土、動物の骨などがあり、平らな石が2個置いてありました。 この穴は、今から8000年ぐらい前に人々が鹿や猪などの獣を求めて猟をしていた時に、泊まったり、ある季節の間住んでいたものでしょう。 野山の実を採ったり、川の魚を捕ったりした頃の人々が利用していたのではないかと考えられます。 発掘された土器を見ると縄文時代から弥生時代まであるので、長い間に渡って利用されていたものと考えられるし、人の骨からは、ここが お墓にもなっていたのではないかとも考えられます。 遺跡から出土したもの 土器 縄文土器、すじの入ったもの、竹で線を付けたものなど42点 石器 黒曜石やチャートで作った石鏃、皮はぎ、石錐など31点 獣骨 ニホンジカ、ホンドテン、ヒキガエル、鳥の骨 志なの入遺跡 - 転載 信州の文化財 - 財団法人 八十二文化財団 縄文時代早期末葉~前期末葉の遺跡で、土器(条痕文・諸磯式等)、石器(石鏃・石匙等)、獣骨(ニホンジカ・ホンドテン等)と人骨が出土した。 人骨は2体分。1体は身長144センチメートル程の中年女性で頭蓋骨・肩甲骨以外の部位が確認された。もう1体は遺存していた骨が少ないため 詳細は不明である。現在、遺跡は林道工事により失われており、記念碑を残すにとどめる。 林道造成工事中に発見された凝灰角礫岩の中にできたトンネル状の洞穴遺跡である。長期間定住した遺跡ではなく、 短期間かつ間歇的に洞穴が利用されていたことが推察される。
出土人骨について 人骨は2体分あり、1体は身長144センチメートルほどの中年女性で頭蓋骨・肩甲骨以外の部位が確認された。 もう1体は遺存していた骨が少ないため詳細は不明である。現在、遺跡は林道工事により失われており、記念碑を残すにとどめる。 志なの入り遺跡スケッチ 千曲川に注ぐ小支谷である志なの入沢に面し、表面比高約18mの火山泥流の中に穿たれたトンネル状の洞窟遺跡で、床面比高は約15mである。 志なの入り遺跡説明
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160土器 |
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163縄文土器 |
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164長野県東部の土器編年と気候・生活 |
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170弥生時代 |
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171弥生時代のくらし 今から約2300年前、大陸から稲作と金属と弥生式土器を持った人々がやってきました。そのコメ作りが2000年前には佐久まで伝わった来ました。 イネは、湿地でなければ作れなかったので、人々は野沢平のまわりや、佐久市長土居付近で稲作を始め、ムラを作って暮らし始めました。 秋になると石包丁で稲の穂刈りをして倉庫に蓄えました。人々は南牧村から佐久平へ移りましたが、時には野辺山などに動物を獲りに来ました。 家は土を掘って作った竪穴式住居が多くつくられ、高床式倉庫も作られました。 |
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172土器の模様を分けてみよう 長野市松代町の松原遺跡は、地下5mの縄文前期中頃(約5500年前)から室町時代までの集落遺跡が重なった遺跡です。 ここから見つかった土器を、文様の違いによって時代順に分けてみましょう。 |
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173 |
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174 |
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190古墳―平安時代 |
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191古墳時代 古代の交通路 原始時代から関東地方に住んでいた人々は、小県郡和田峠付近で産出する黒耀石が、尖頭器・石槍、鏃、細石器等を作るのに便利だったため、 関東各地から野辺山高原を越えて和田峠におもむきました。 ※高原は道に迷いやすく危険です。江戸時代には、迷い人救済の為の茶屋や、村が作られたほどです。 古代の暮らし 古墳時代や奈良・平安時代になると水田が多くなりましたが、南牧村には水田はありませんでした。佐久平では古墳が造営されています。 平安時代の中頃からは畑に麦・粟・蕎麦などが盛んに作られるようになり、南牧村や川上村にも畑作りをして暮らす人が住むようになりました。 着物は麻で作られ、家はまだ昔と同じ竪穴式住居でした。 佐久には望月牧などの牧場が作られ、馬を飼うようになりました。また、お寺やお宮が作られ、 道も整備されて官道の東山道には駅 (うまや) もおかれるようになりました。平安末期には、佐久に根井氏や平賀氏という武士が生まれました。 |
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192平安時代
なだれ=雪崩 と表記しています。 192天然ダム崩壊の被害を報じる新聞 八ヶ岳は何十万年もの昔から何度も巨大な山体崩壊を起こし、広範囲に被害を及ぼしてきている。 最も大きいものは、西側に崩壊した山体が甲府盆地まで流れ下り、一帯を岩屑で埋めたことである。(その大量の岩屑は現在も残っている。) また、八ヶ岳東側に崩落した山体が千曲川を堰き止め、海ノ口、海尻といった地名にあるように、巨大な天然ダムを形成していたものが、 崩壊し、巨大な岩石や岩屑が、大量の水と一緒に一挙に流れ下り、佐久平一帯までの広範囲に大災害をもたらした。
八ヶ岳の山崩れと南牧湖 西暦887年8月22日(仁和3年7月30日)関西方面で巨大地震が発生し、大災害が起こりました。この地震は南海・東南海連動型地震の 可能性があり、北八ヶ岳の天狗岳、稲子岳等を大崩壊させた可能性が指摘されています。 この崩壊によって大岩がなだれ、大量の岩屑が大月川に沿ってなだれ下りました。岩屑雪崩は海尻で千曲川を堰き止めて巨大ダム湖を作りました。 この巨大ダム湖は、888年6月20日に決壊し、溜っていた水は大洪水となって下流の集落を襲いました。 上部が決壊した後に下部が残り、規模が縮小したダム湖が残りました。 それが南牧湖です。南牧湖の上流端付近が海ノ口、ダムの付近が海尻と呼ばれ、その後120年余り存続したと考えられています。 その間に湖底に土砂が堆積し、再びダムが決壊した後には、平坦な湖底が残されました。これが現在の海ノ口~海尻に至る低地です。 仁和4年の信濃国大災害 翌年の888年6月20日(和暦5月8日)、今度は信濃国で山崩れと洪水が起きます。当時の資料からは、洪水が6郡を一挙に襲ったと窺われます。 千曲川流域の、佐久・小県・更級・埴科・水内・高井の各郡が被害を受けたと推定されます。 この災害は、八ヶ岳の土砂崩れが千曲川を堰き止め、それが一気に決壊したことによって引き起こされたようです。 |
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195中世 |
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196中世の暮らし (鎌倉時代~戦国時代まで) 平安時代にできた荘園(私有地)は、佐久では伴野庄と大井庄がありました。南牧村の海ノ口や平沢はこの伴野庄に入っていました。 伴野庄は京都大徳寺の所有で、大徳寺の建設などに伴野庄のムラの人々は交代で京都に食料持参で働きに行っておりました。 この頃になると、伴野市 (いち) などの市場が各地に造られ、コメや麻などが売買されました。 武士では伴野氏、大井氏、相木氏などが有力者となり、戦国時代には戦いが各地で行われ、山城が作られました。 南牧村にある城もこの頃のものです。 海尻城 海ノ口城 野辺山原出土の鉄鏃 野辺山原の南、矢出原では、昔から多くの鉄鏃が発見され、近くの人たちが拾って所有するものが100本に達しており、矢出原の語源です。 これだけ多くの発見は、ここで激戦が行われたに違いありません。 武田家の記録「王代記」に文明9年(1477)信州乱入、相木家のために敗れるとあり、 武田軍が平沢峠を越えて佐久に侵入したのに対し、相木方がこれを打ち破ったという戦いが、この地で行われたものと思われます。 ※考察 武田氏の信濃攻略と野辺山原の戦闘年代を考える 上記の、「野辺山原の鉄鏃」の説明では、武田家の文明9 (1477) 年は、「室町時代中期にあたり、」 文明9年4月12日 甲斐武田氏の兵、佐久郡に攻め入り、同郡大井氏配下の地侍集団相木中衆に敗れる。引用(山梨県&長野県戦国時代詳細年表) 更に「王代記」とは、「もと山梨市の窪八幡神社の別当上之坊普賢寺に伝わったもので、同寺住僧らが代々書き継いだものとされている。 冒頭には「王代記」とあり、その下に大永四年 (1525) 卯月九日に書くとの注記がある。」引用wikipedia この、大永年間は1521-1527であり、50年程も年代がずれています。 (我が家は大永3年からです。(笑)) 昔のことを聞き書きで記録したのかもしれません。 戦闘はいつ行われたのか 上の31では小笠原長時との戦闘天文14 (1545)年 とあり、196では相木中衆との戦い文明9 (1477) 年とある。 どちらかなのか、両方なのか、もしかしたら出土した古銭や鉄鏃の鑑定からわかるのかもしれません。 しかし、 武田信玄の佐久攻めは何度も繰り返しており、ネット検索で出てきたところでは、天文5(1536)年平賀源心攻め(見て歩く甲斐武田氏) 天文12(1543)年、相木城城主相木昌朝武田信玄に降伏、1562年第4次・川中島の戦い(相木市兵衛)などなど、 武田氏の信濃攻略は頻繁にあったということで、矢出原の戦闘がいつかは、私にはわからないですね。失礼しました。 |