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はじめに
この博物館は大分の仏教文化を中心に展示しています。
特に「熊野摩崖仏の展示」最後の「富貴寺大堂の復元展示」は素晴らしいものです。
また、ケベス祭りについては713に展示、720に考察しています。 |
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目次
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05外観
10熊野摩崖仏
15館内図と案内
20鏝絵
40常設展示
50Ⅰ生死いのり
100太古の祈り
100旧石器時代
102岩偶
※研究 結晶片岩製岩偶
103石器
※研究 西日本の細石刃核
110縄文時代
110縄文人のいのり
113土偶
114石刀・石剣
120縄文人の暮らし
121石原貝塚
123枌洞穴遺跡
130縄文人の食卓
150弥生時代
150弥生人の祈り
151弥生土器
160弥生祭祀のシンボル
163銅鐸
164銅鏡
165巴形銅器 |
170古墳時代
170古墳時代の祈り
171小部遺跡の製塩土器
172赤塚古墳
175免ヶ平古墳
177壺棺
178割竹形木棺
180鬼塚古墳の装飾
183シラハゲ古墳
184角房方形周溝墓群
185赤塚方形周溝墓群
191鑑堂古墳
200宇佐のあけぼの
203鶴見古墳
205上ノ原横穴墓群
206横穴墓の世界
300Ⅱ豊の古代仏教文化
301豊の信仰風土
310古代の世界
320豊の古代寺院
330渡来系の人々と信仰
335天福寺奥院の木彫仏
340宇佐の古代寺院
341虚空蔵寺の伽藍
350法鏡寺廃寺
360小倉ノ池廃寺と四日市廃寺
370豊前豊後の瓦窯跡
380虚空蔵寺の三重塔
383平安・鎌倉時代
385貿易と陶磁器
※資料 日宋貿易
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400Ⅲ宇佐八幡の文化
※資料 宇佐八幡宮考
410八幡神の成立
411宇佐弥勒寺建立縁起
415東大寺八幡縁起絵巻
417八幡社の広がり
420八幡神と神仏習合
※研究 八坂神社
430宇佐宮弥勒寺
440宇佐神宮本殿
470八幡神と宇佐
475四季のまつり
483田染荘小崎の農村景観
490京博の逸品
495
※考察 祭祀青銅器の埋納
500Ⅳ六郷山の文化
510寺院と石造文化財
511国東半島の成立
520六郷山の成立と広がり
527経塚出土
530惣山 屋山寺
540山岳信仰と銅板経
※考察 埋納経の商業化
550中世の六郷山
555法会と住僧
560くにさきの仏たち
570峰入り
580修正鬼会の世界
590くにさきの石造物 |
600Ⅴ広がる仏教文化
601山岳寺院の発達
604北部九州の経塚
605山岳寺院の開基伝承
606末法思想と埋納経
612摩崖仏の広がり
613臼杵摩崖仏
615鎌倉仏教の隆盛
616禅宗と浄土信仰
618大分の平安仏
620信仰とくらし
623身近な神仏
625現世利益
630霊場
633琵琶法師
634祭と行事
640歳時記
700Ⅵ信仰とくらし
710日本遺産関連展示
711鬼が仏になった里
「くにさき」
713ケベス面
715修正会
717農業遺産
※考察 ケベス祭りを考える
900富貴寺の世界
910宇佐風土記の丘
912大分県の古墳
914赤塚古墳 |
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5外観・館内図
外観 |
館内図
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順路 |
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熊野摩崖仏 |
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鏝絵 |
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Ⅰ生死いのり |
-3万年~6世紀 |
Ⅱ豊の古代仏教文化 |
7世紀~8世紀 |
Ⅲ宇佐八幡の文化 |
8世紀~19世紀 |
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Ⅳ六郷山の文化 |
9~20世紀 |
Ⅴ広がる仏教文化 |
8~19世紀 |
Ⅵ信仰とくらし |
19~20世紀 |
富貴寺の世界 |
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宇佐風土記の丘 |
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入口展示 |
10熊野摩崖仏
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※六郷満山に実在する岸壁に掘られた石仏です。豊後高田市田染平野2546-3
豊後高田市観光協会の解説によると、(以下引用)
平安時代末期の作と言われている「大日如来(約6.7m)」と「不動明王(約8m)」の磨崖仏があり、国指定の重要文化財となっております。国内最古にして最大級の磨崖仏です。また、鳥居から熊野磨崖仏まで続く100段もの石段は、昔、鬼が築いたと伝えられています。
また、約10年に一度行われる六郷満山の伝統行事である峰入りの荒行は、この不動明王の前を出発点とし、護摩をたいて行程150km、約10日間の行に入ります。
※博物館の解説はありませんが、六郷満山の出発点であり、この館の国東仏教遺跡閲覧の出発点でもあるという意味でしょうか。立派な仏像です。 |
熊野摩崖仏曼荼羅
この曼荼羅は、摩崖仏の頭上にあるもののようですが、下におろして見やすく展示してあります。
この解説文は下にあります。
左:熊野摩崖仏曼荼羅 |
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右:熊野摩崖石仏 |
密教で、仏の悟りの境地である宇宙の真理を表す方法として、仏・ 菩薩 ぼさつ などを体系的に配列して図示したもの。
胎蔵界曼荼羅 ・金剛界曼荼羅 ・四種曼荼羅などがある。コトバンク
仏教の宇宙観などといわれてもさっぱりわからない。
わからないのが密教。 |
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11熊野摩崖仏曼荼羅(熊野摩崖仏の頭上にある曼荼羅の解説文)
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大日如来頭上の3面の種子曼荼羅は、向かって左が九会形式の金剛界曼荼羅、右が中台八葉形式の胎蔵界曼荼羅を、中央が八稜鏡形式の理趣経曼荼羅を表していると思われる。左右の曼陀羅の中央大日種子は両者入替り、また中央の曼荼羅にしても、その種子から判断して、おそらく不動曼荼羅とみられる。あるいは大日如来の化身として、修験道において最も尊ばれた不動明王が、金胎両部の諸仏を従えた姿を表しているとも考えられる。しかし、その構成は不明な点が多い。いずれにせよ、その背景には、熊野修験に代表されるような修験道的な思想が、強く反映していると思われる。
曼荼羅(マンダラ:mandara)とは
サンスクリット(梵)語で「円」「全体」「集合」などを意味し、悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式で諸仏・菩薩などを網羅して描いた図です。 ちなみに、「まだらの模様」の“まだら”の語源とも言われています。
種子(しゅし・しゅじ)とは
密教で仏・菩薩を表す梵字。解説板の右側にあるのが、大日如来の頭上にある曼荼羅を部分展示したもので、仏・菩薩が梵字で表されています。 |
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熊野摩崖石仏
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熊野摩崖石仏については、安貞2年(1228)の記録に、「本尊不動尊、五丈石身、深山、真明如来の自作」・「本尊大日、五丈石身、深山、同尊種子岩切顕給也」とあり、
不動・大日の両像が少なくとも鎌倉初期の頃までには存在していたことが明らかである。
大日如来は、螺髪を刻むなど像容の点から、むしろ通常の如来形を示しており、これは新仏教である天台密教が、その教義を流布させるために、なじみやすい旧仏教の如来諸仏をその主尊である大日如来に見立てたためとも考えられる。
大日如来が、大粒の螺髪など、大陸系の摩崖仏を思わせるような大づくりで明解な像容を示しているのに対して、
不動明王の方は、省略的でむしろ柔和な相貌をしており、両者の間には時代的な隔たりがみられる。
いずれにせよ、国東半島における熊野修験発祥の地に、天台密教の主尊である大日如来と修験道の本地不動明王が並んで刻まれるのは象徴的である。 |
熊野摩崖仏曼荼羅
上に記述 |
上に記述 |
熊野摩崖石仏 |
不動明王と
大日如来像 |
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15館内案内図
館内案内図
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摩崖仏の右手の光景
左:鏝絵
中:常設
右:売店
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常設展示案内
常設展示案内 |
記述順に
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信仰とくらし: 日々のくらしの中に生きる庶民のいのり
広がる仏教文化:国宝臼杵石仏と特色ある大分の仏教文化
六郷山の文化: 国東半島に花開いた天大寺院の文化
富貴寺の世界: 800年の時を超えて蘇った華麗な浄土世界
生死いのり: 考古遺物が語る祖先の暮らしといのり
豊の古代仏教文化:豊の国の信仰風土と古代寺院
宇佐八幡の文化:神と仏が巧みに融合した八幡の世界
展望ロビー: 風土記の丘から周防灘まで視界広々展望コーナー (※未取材) |
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ようこそ博物館へ
ようこそ博物館へ |
ようこそ博物館へ
平常展では、「豊の国・大分の歴史と文化再発見」として、季節ごとに展示替えを行い、大分県の歴史と文化の魅力を紹介いたします。
展示室は、「くらしといのり」を主なテーマに、上のパネルにあるように、6つのスペースと富貴寺大堂(国宝・大分県豊後高田市)の創建当時の様子を体感できる実物大復元模型があります。
現代に伝わった文化財とともに、複製や模型、ジオラマなどにより、先人たちの足跡をご覧いただきます。 |
Ⅰ生・死・いのり(紀元前約3万年~6世紀)
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旧石器時代から古墳時代の暮らしを紹介しています。
博物館が建つ「宇佐風土記の丘」にある、6つの大きな古墳から発掘された鏡などを展示しています。 |
Ⅱ豊の古代仏教文化(7~8世紀)
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飛鳥・奈良時代の仏教文化を紹介しています。
塑像三尊仏(国重要文化財)をはじめ、古の人々にとって、「異文化」であった仏教との交流を生み出した文化財を展示しています。 |
Ⅲ宇佐八幡の文化(8~19世紀)
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おもに、奈良時代から江戸時代までの八幡神の歴史と文化を紹介しています。
宇佐神宮の歴史などを一覧できるよう、宇佐神宮の本殿の模型や孔雀文聲(国宝)の複製などを展示しています。 |
Ⅳ六郷山の文化(9~20世紀)
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平安時代から現代にかけての六郷山寺院(国東半島にある天台宗寺院群)の歴史を紹介しています。
国東半島に伝わった仏像や伝統行事である修正鬼会(しゅうじょうおにえ)のお面などを展示しています。 |
Ⅴ広がる仏教文化(8~19世紀)
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奈良時代から江戸時代にかけての大分の仏教文化を紹介しています。
大分の仏教文化の豊かさを伝える仏像や絵画を展示しています。 |
Ⅵ信仰とくらし(19~20世紀)
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江戸時代から現代までの人々の「いのりとくらし」を紹介しています。
昔の暮らしを体感できる後藤家住宅の実物大模型とともに、先人たちが使った、様々な道具を展示しています。 |
館内案内図
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摩崖仏の右手の光景
左:鏝絵
中:常設
右:売店
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常設展示案内 |
ようこそ博物館へ |
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20鏝絵
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○鏝絵は左官が母屋や土蔵の壁に描いたレリーフ状の絵柄で、漆喰彫刻などとも呼ばれます。
江戸末期に伊豆で生まれた入江長八によって始められたといわれ、その後全国に広まりました。
大分では明治時代に盛んに作られ、現在約700の鏝絵が確認されています。
○鏝絵の絵柄は、七福神や干支、鶴亀などが多く、庶民の招福除災の願いが込められています。
※伊豆の長八 |
鏝絵 |
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鏝絵の分布
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杵築市山香町「高砂」 |
日田市天瀬町「戌」 |
杵築市山香町「亥」
宇佐市院内町
「富士山にカキツバタ」
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宇佐市安心院町
「外法の梯子剃り」
九重町「船」
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牛若丸と弁慶 |
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壁飾鏝絵招き猫 別府市 近代
別府の旅館の壁を飾っていたもので、、もとは2匹が対になっていました。通常、鏝絵は漆喰で作られますが、この鏝絵はセメント製。
新しい材料を使用した点に、温泉観光地として発展した別府の姿が垣間見えます。
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戸袋鏝絵 鯛廻し恵比寿 宇佐市院内町 近代
恵比寿が〇ならぬ鯛を廻しているユニークな絵柄で、作者は安心院・院内で活躍した左官・・・ |
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戸袋鏝絵 富士山に花菱 宇佐市院内町 近代
一富士二鷹といわれるように、富士山・・・ |
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戸袋鏝絵 山葡萄 中津市耶馬渓町 近代
葡萄は実沢山であることから、子孫繁栄の願いが込められたものと考えられます。
葡萄の絵柄は珍しいですが、技法にも特徴があり、本物の葉を使って模様を型押ししています。 |
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戸袋鏝絵 松に鷹 中津市耶馬渓町 近代
鷹は力強い絵柄なので、魔よけの意味があると考えられます。
また、一富士二鷹とあるように縁起物でもあり、松の木と描かれることが多いようです。 |
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戸袋鏝絵 「龍」 中津市耶馬渓町 近代
耶馬渓町の民家の戸袋を飾っていた鏝絵。
龍は水の神の化身で、一般には豊饒の雨をもたらすものとされるが、ここでは建造物に描かれているので、火事よけの意味もあったと考えられる。 |
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30大分県内の市町村合併
58市町村→18市町村
平成の大合併による |
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平成16年12月31日
58町(11市36町11村) |
平成18年4月1日
18市町村(14市3町1村) |
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31博物館展示関連地図:展示物の出土地が一覧です
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40常設展示
富貴寺大堂 |
常設展示室中央に建つ、富貴寺大堂。
この中に平安の六郷満山仏教文化が復元展示されています。 |
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50Ⅰ生死いのり
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先史時代から営まれてきた人々のくらしの様子を 生・死・いのり というキーワードから展示しています。 |
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100太古の祈り
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◎数百万年前に現れた、人の遠い祖先。
限りなく続く絶望と希望の日々を経て、人は「祈る」ことを覚えました。
◎人は聖なる言葉をもって、神の名を呼び、幸福を願ってきました。
「祈り」こそ、石の道具や火の使用にもまして、人と動物を分かつものです。 |
死へのおそれ
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死者を葬るという行為は人間だけのもので、旧石器時代にさかのぼります。
縄文時代になると、地域・時代によって様々な埋葬が行われるようになります。
手足を折り曲げるようにして埋葬する屈葬や伸展葬などは土葬ですが、火葬をした骨を入れる埋甕葬などもあります。 |
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太古の祈り |
死への恐れ
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この背景の絵はものすごい力作ですね。感動 |
それと、画家が描いたこの作品を勇気をもって使われたプロデューサーにも敬意を表します。 |
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100旧石器時代
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101オオツノジカの下顎骨 豊後大野市犬飼町宇津尾木遺跡 旧石器時代(約3万年前)
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宇津尾木川の岸から、一中学生によって発見されたものです。
旧石器時代には盛んに捕獲された大型獣ですが、第四氷期の終わりとともに絶滅しました。 |
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オオツノジカの下顎骨 |
オオツノジカ・ナウマンゾウはもう少し寒冷地からの出土かと思っていました。
大分県からナウマンゾウ動物群が出土するとは驚きです。
3万年前は九州も寒冷だったようですね。
ヤベオオツノシカについて
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102岩偶 豊後大野市清川町 岩戸遺跡 旧石器時代(約2万年前)
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昭和42年に発見された日本最古のこけし形岩偶です。結晶片岩製で、頭部とみなされる個所に目・鼻・口が表現されています。
旧石器人の精神文化をうかがわせる貴重な資料です。 |
※研究 結晶片岩製岩偶
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結晶片岩は、三波川変成帯から産出する。主な愛媛県新居浜市南部であるが、地質帯はそのまま西へ伸び佐多岬半島を越えて大分県佐賀関半島に続いている。つまり、この石偶は、佐賀関の結晶片岩を使用したと思われる。
このことは、他所から持ち込まれたのではなく、地元に産出する、磨けばとても硬くて美しい結晶片岩を好んで採取し、細長く打ち割り、長い時間をかけて削りだしたものである。移動生活であった旧石器人が移動の間も重い未完成品を携えてあるき、長い時間をかけて完成させた。
旧石器時代の石棒は
豊後大野市 岩戸遺跡 2万8千年前
千葉県 升形遺跡(ますがた) 2万4千年前
佐久市香坂山遺跡 3万7千~3万7500年前
が、ネット検索できる資料である。佐久市の石棒は筒状に加工された石片である。千葉県のものは確認すらできない。
豊後大野市のものは石棒・張り型である。コケシ形として岩偶としてある。確かに女の子のおもちゃなのだろう。
佐久市のものは、千葉・大分のものより1万年も古い3万年7千前以上のものである。
同時代のシベリアにはビーナス像が。ドイツからも3万5000年前のビーナスが出土している。
日本での出土例が少なく、南北のどちらからこの文化人が来たかは不明だが、きっと、バイカル湖文化センターから南回りと北回りで伝わったのではないだろうか。しかし、こんな硬い石を石しか道具の無いところでよく加工したものである。製作者の性別は不明だが、凄い執念である。 |
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103尖頭器
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有茎剥片尖頭器 |
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三稜尖頭器
大分市 庄ノ原遺跡
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三稜尖頭器は、三つの稜があること以外よくわからない。
ただ、この尖頭器は九州でよく見かけ、屋久島からも出土しているので、朝鮮半島経由で持ち込まれたものではないだろうか。
つまり、先ほどの石棒を含め、半島経由の石器が以下も展示されていると考える。 |
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104ナイフ形石器
ナイフ形石器
大分市 庄ノ原遺跡
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105細石刃 西日本型の細石刃核・細石刃でしょう。 細石刃文化期14,300~12,000年前とされている。
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※研究 西日本の細石刃核 2023.10.09大形改変・追記
西北九州に置ける削片系楔形細石刃核 引用九州島の「細石器文化」p18※同時に開いて図を参照のこと
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九州島における細石刃石器群の時間的位置づけでは,位牌塔型,茶園型,野岳・休場型などの稜柱系細石刃核がほぼ単純に組成する遺跡・石器群が最古段階と理解されており,その時期については長崎県茶園遺跡Ⅴ層15,450±190B.P (補正年代) ・熊本県河原第3遺跡Ⅵ層14,660±70B.P (同)の放射性炭素年代(芝2010)から約1,6-1,5万年前とされる。
北海道の細石刃石器群の出現は, 2万年前頃,シベリアからの削片系細石刃技法の伝播によるものと考えられており,さらに,九州島とは一衣帯水の
韓半島における細石刃石器群の始まりは, 2,5へ2,4万年前にまで遡るような見解も見られる。
…(西九州における)細石刃核は,技術形態的な特徴から福井型・唐津型それに野岳型の三者が認められる。
(佐賀県原遺跡B地点の)舟底形の体形を呈し,側面からの横打調整で打面が全体的に傾斜する楔形の細石刃核は「福井型」である。(長崎福井洞穴)
同じような楔形でより調整が整った両面体の舟底状で,背縁と作業面がほぼ平行し,残核が縦型を呈する細石刃核は削片系の「唐津型」 (石ケ元型)細石刃核と判断できる
同P20 九州島における細石刃石器群が, l,6~1,5万年前の野岳・休場型から楔形の唐津型・福井型へと細石刃生産が変遷すると言う編年観と無関係とは思われないのである。 として、野岳・休場型から西北九州型が分化し、野岳休場型→・福井型→・唐津型へと分化し混在しているとしている。
(そして、そのことから)韓半島で削片系細石刃石器群が盛行した時期(2万数千年前)および楔形細石刃核が華北へ拡散する第1回目の時期から判断すると,西北九州の楔形細石刃核の出現が1,8万年前の前後が推測されるのである。
※結論
西九州の細石刃は、2万数千年前に盛行していた韓半島から、1.8万年前頃に伝播し、1.6~1.5万年前に福井型・唐津型に分化し、
更に東へと拡散し、14300年前には静岡県休場遺跡に到達していた。ということらしい。
「野岳(13000)・休場型(14300)」は、静岡から西へ逆流した錯覚を覚えるが、九州が古く、旧型野岳(休場型)→・福井型→・唐津型と知るべきである。
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野岳・休場型細石刃核
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野岳遺跡 長崎県大村市東野岳町 約1万3000年前(引用「「玖島城址及び城下町武家屋敷街跡」調査報告書」)
郡岳と鉢巻山の間の山麓台地(標高約260~280m)にある遺跡。寛文3年(1663)に造成された野岳湖を中心に分布。昭和34年(1959)に採集された細石核が注目され、旧石器時代から縄文時代にかけての代表的な遺跡として知られたが、これまでの発掘調査では良好な包含層の確認にいたっていない。細石核は半円錐形を呈するものが多く、野岳型細石核と称されるが、近年では静岡県沼津市の休場やすみば遺跡のものと類似することから野岳・休場型といわれる。 引用「コトバンク」 引用「大村の原始時代」
休場遺跡 静岡県沼津市足高441 約1万4300年前 (引用「コトバンク」)
静岡県沼津市足高字尾上に所在する旧石器時代の集落遺跡。
愛鷹山南麓の緩やかに広がる丘陵地に位置し、休場はその地点の俗称である。
昭和36年頃に当時の中・高校生によって細石刃や細石核が出土することが知られていた。
1964年(昭和39)の秋に明治大学考古学研究室などにより調査され、細刃器、細石核を主体として、ナイフ形石器、彫器、削器状石器などが発見された。
出土した石器や石片の数は4412点で、細石刃や細石刃核のほかに削器や大型剝片石器などがある。
日本における細石刃文化は円錐形細石核と舟底形細石核を主体とする文化の2つに大別されるが、この遺跡は円錐形細石刃核の典型で、石囲い炉は竪穴住居が定着する以前のものとしてはほかに例がなく、当時の生活様式を知るうえできわめて重要なことから、1979年(昭和54)に先土器時代の遺跡としては全国で初めて国の史跡に指定された。
また、遺構として大小2基の炉跡が発見され注目を集めた。
その1号炉とされたものは長径約180cm、短径約100cmあり、また2号炉は径約50cmと小形である。
それぞれ15~40cmほどの川原石を長円ないしは半円形に並べたもので、往時はそれぞれ多少掘りくぼめてあったものとされている。
また、炉は風向きを考慮してつくられていたようで、その南東側が開口している。
2基の炉のうち主体的に使用されたのは1号炉であったと考えられ、そこから多くの木炭片が採集された。
その放射性炭素(C-14)の測定結果から約1万4300年前という年代が得られている。1979年1月に国の史跡に指定された。
※14300年の数字が我が国の細石刃文化の始まりとされている。 |
以下引用「細石刃」Wikipedia
日本の細石刃文化は
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日本列島の細石刃文化は、
北東日本の楔形細石刃と
南西日本の野岳・休場型や船野型細石刃の二つの分布圏に分かれる。
前者はシベリアから北海道を経由して本州へ、
後者は中国黄河中・下流から九州を経由して本州へ及んだらしい。
この文化段階で、北方から相当数本州へやってきた可能性が否定できず、後期旧石器人がそのまま縄文人になったわけではないと想像できる |
西日本の細石刃文化 (バイカル化湖文化センターから黄河文化センター経由)
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福井型は、西北九州を中心に存在する。この石核には、縄文時代の草創期の土器である豆粒文土器、隆起線文土器、爪形文土器などを伴う。
畦原型(うねはら)は南九州を中心に分布する。
野岳・休場型細石刃核は、関東・中部地方から九州までの広い地域に広がっており、円錐形、半円錐形、角柱状などの形をしている。
船野型細石刃核も宮崎平野、大分県大野川流域から近畿南部、東海を経て中部南半分、南関東まで広く分布している。 |
北海道の細石刃文化 (バイカル湖文化センターからシベリア経由)
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北海道の細石刃文化は2万年前からと言われている。
北海道の細石刃核は、
湧別技法として知られる白滝型・札骨型・峠下型・蘭越型、忍路子型、幌加型、射的山型、紅葉山型などに類別される。
この湧別技法やその影響を受けた細石刃剥離技術は、津軽海峡を越えて
山形県、新潟県、茨城県など東北地方の北半分まで拡がっており、荒屋型彫器を伴って検出される。
※北海道型細石刃技法は、日本海側を南下し、鳥取・島根から岡山県にまで達している。 |
考察 九州の細石刃技法
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黄河文化センター経由で半島からやって来た西日本型細石刃技法は、14300年前の静岡県沼津市休場遺跡が最古とされている。
しかし、九州島の「細石器文化P20、九州島では、1.8万年前に半島から伝播し、西九州では細石刃石器技法が1.6~1.5万年前に野岳型から、唐津型や福井型に変化したと言っている。 |
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110 縄文時代
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110縄文人のいのり
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◎土器と弓矢、漁労具など様々な道具の発明によって、縄文人の生活は飛躍的に豊かなものとなりました。
身を飾る装身具や複雑な文様を持つ縄文土器が発達し、集落も長期にわたって維持されるものが増えていきました。
◎人生の節目として成人の祝いや葬儀で行われた抜歯の風習など、呪術的な儀礼や信仰も盛んだったようです。
◎縄文人の精神文化は、これまで考えられていた以上に複雑で内容豊かなものであったことがわかってきました。 |
再生・豊饒のいのり
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縄文人の精神文化を象徴するものとして、土偶や石棒・石刀などがあります。
土偶は母なる女性を象徴し、生命の再生や豊饒を祈ったものと考えられます。
石棒・石刀は男性の力強い活力を象徴し、子孫繁栄や狩りの対象となる鳥獣の増殖を願ったものでしょう。
これらの儀式用の石器や土偶は、東日本の縄文文化に系譜がたどられ、大分県では縄文時代後期に現れます。
※縄文中期後半からの寒冷化で東日本から多くの人々が西日本・九州に移住し、東日本の縄文文化を持ち込んだ。 |
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113土偶
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人物や動物をかたどったやきもので、縄文時代の草創期から現れます。
大分では後期から晩期に盛行し、乳房や腹部を誇張した妊婦の像が大半です。多産や災難除けなどを願って使われたものと考えられています。 |
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114石刀・石剣
石刀
豊後大野市 晩期
石剣
豊後大野市 縄文期
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120縄文人の暮らし
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縄文人は本格的な農耕を知らず、木の実や山菜、魚介類、鳥獣を日々の食べ物としていました。
しかしながら、一日中食べ物を求めて森や浜辺をうろついていた原始的な人たちではありません。
独創的な形と文様の「縄文土器」、見事な出来栄えの「編かご」、精巧な漁具などに、彼らの精神の深さと技術の高さを見ることができます。 |
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121石原貝塚 宇佐市
石原貝塚に見る土の埋まりかた
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上の展示(下写真②③④の貝塚写真の事)は石原貝塚の土層の剥ぎ取りです。貝や石などの土が順に埋まった様子を表しています。
貝層の間の礫層は洪水の時に堆積したと考えます。
土層観察から石原貝塚は、今から約4,000年前(縄文後期)から約1,500年前(古墳時代)まで長い年月をかけて造られた貝塚であることがわかりました。
貝塚は貝だけでなく、人骨、動物骨、土器、木の実などいろいろなものが埋まっており、当時の食生活、自然環境を知るために大変貴重な資料となります。 |
九州北半部の貝塚
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海に囲まれた日本は、古くから海産資源に恵まれています。
縄文時代の人々は海産資源を食べていたことが、日本各地で見つかる「貝塚」からわかります。
九州でも多くの貝塚が、海岸近くで見つかっています。九州北半部にある貝塚の位置を地図上で見ると、海岸近くに多く分布しています。
特に多いのは有明海沿岸です。
大分では豊後高田市と杵築市周辺に貝塚が集中しています。こうした地域は広い干潟が見られるところで、現在でも有名な潮干狩りの場所として知られる場所と一致します。
現在の海岸から離れた所にも、縄文時代の貝塚が多くあります。これは、貝塚の近くまで海水の満ち引きのある干潟であったことを物語っています。 |
貝塚はタイムカプセル
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貝塚は縄文時代や弥生時代の人々が貝を採って食べ、残りの貝殻を棄てた場所です。
発掘調査から、貝殻が多く含まれる部分の周りは、貝に含まれるカルシウム成分が溶け出して、土壌が弱アルカリ性になっている場合があります。
こうした貝塚から見つかるのはハマグリ、カキ、ケガキ、サザエ、レイシ、スガイなどがあります。
貝塚はゴミ捨て場のような役割もあるため、貝だけでなく、例えば、鹿の角で作った釣針、魚の骨、貝輪、イノシシ、シカや小動物の骨、ドングリ、そして墓に埋葬されていたと思われる人骨も見つかります。
縄文人・弥生人がどんな食料を食べ、どんな道具を使っていたかなど、日常生活の様子がわかります。
貝塚は縄文人・弥生人の生活がつまったタイムカプセルといえます。 |
縄文人の暮らし |
石原貝塚 |
貝塚剥ぎ取り土層
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石原貝塚に見る土の埋まり方
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九州北半部の貝塚
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貝塚はタイムカプセル
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123枌洞穴遺跡(へぎどうけつ)中津市本耶馬渓町 縄文時代
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※枌洞穴遺跡は中津市本耶馬溪松にあり、出土品は中津市中津市歴史博物館に展示されています。
ここでは、成人と幼年の人骨が出土し、展示されています。 |
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枌洞穴出土品
本耶馬渓町 |
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貝器 |
骨針 |
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刺突具
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貝の小玉
(貝ビーズ) |
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貝の大玉
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124
腕輪 |
腕輪
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腕輪
腕輪は対になって
二つで一組であるハズ |
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垂飾
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左:サメの歯
光沢のある鮫歯は垂飾 |
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管玉
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玉
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128石組炉 縄文後期 飯田二反田遺跡 宇佐市安心院町
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飯田二反田遺跡2号住居跡の床面中央部に設けられています。
川原石を用い、径40cm程度の炉を組んでいます。石の表面は熱を受けて変色しています。 |
石組炉 |
石組炉 |
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※石組炉
とても使いにくそうな炉です。
住居廃棄で炉の石を抜き取った跡の様な、
周囲からの土圧で石が立ち上がったような、
不思議な石組の炉です。 |
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130縄文人の食卓 |
131縄文人・弥生人のカレンダー
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縄文人・弥生人の年間カレンダーを見ると、潮干狩りは春から初夏、魚とりは夏から秋、ドングリの採集は秋、シカの捕獲は冬に行われていました。
弥生人は、これらに加えて、季節ごとに米作りの作業を行っていたと考えられています。
では、縄文人・弥生人の一年間の行動は、どのようにして分かったのでしょうか。
イノシシやシカは成長とともに歯が順番に出てきます。現代のイノシシやシカの出産月が5月~6月であることと、生えている歯から、胴部の脂肪季節が推定できます。また、貝は、貝殻の断面にある成長線の粗密から、貝の採集季節がわかります。
こうしてイノシシやシカ、貝などの成長状況から、縄文人や弥生人が狩りをした時期がわかり、一年間の行動を知ることができます。 |
縄文人のカレンダー
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自然とともに生きた縄文人は春・夏・秋・冬の食べ物をよく知っており、季節ごとに計画的な食料採集を行いました。
潮干狩りは現在と同じで、春に行い、狩りは、角や毛皮もとれる冬に行ったようです。
シカやイノシシは肉だけでなく、角は道具、毛皮は衣類に加工したのでしょう。
最近の研究では、簡単な栽培もしていたことがわかってきました。 |
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132貯蔵穴 龍頭遺跡 大分県速見郡山香町大字野原 縄文時代後期
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龍頭遺跡から、60基を超える縄文時代後期のドングリピット(貯蔵穴)が検出されています。
ドングリピットとは、地下水位の高い場所にフラスコ状の穴を掘り、ドングリを貯蔵するものです。
龍頭遺跡では、大量のイチイガシとともに、運搬・貯蔵に使用した網袋が出土しています。
ドングリは縄文人の主食の一つであり、大地の恵みをいかに保存していくか、その工夫を示す遺構として注目されます。 |
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133縄文人の食卓
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縄文人の食卓を観察すると、中央に石で囲んだ炉(いろり)があります。
ここが食事場所の一つで、一家団欒の場であったと思われます。
炉では、火を焚き、土器を据え、貝や動物などを土器に入れて、煮炊きを行ったのでしょう。
土器の表面には、吹きこぼれに由来する炭がついていることもあります。
貝殻は海から離れた山間部の洞穴遺跡からも少量見つかることがあり、塩分を採るための保存食料として運ばれた可能性があります。
保存食といえば、杵築市山香町の龍頭遺跡で秋に収穫されたイチイガシが貯蔵穴から見つかっています。
また、冬に捕まえたシカやイノシシの肉も一部は干し肉として、保存したのでしょう。
縄文人の食卓から、食料の獲得が不安定な時代にあって、上手に貯蔵・保存処理を行いながら、飢えをしのぐリスク回避の知恵がうかがえます。 |
縄文人の食卓2
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獣 |
(シカ・イノシシ・ノウサギ・タヌキなど) |
貝 |
(海岸部:サザエ・ハマグリ・ウミニナ・マガキ・バカガイ・タマキガイなど)
(山間部:カワニナ) |
魚 |
(海岸部:マダイ・クロダイ・アジ・スズキ)
(山間部:コイ・フナ) |
堅果類 |
・そのまま食べることができるもの イチイガシ、シイ、クリ
・あく抜きが必要なもの カシ、トチ |
海岸部の魚介類は、山間部の遺跡でも見つかっていることから、干物(保存食)や塩付けにしたものが交易品として運ばれたのでしょう。
※縄文時代の製塩土器は縄文後期から出土するようになるので、後期の龍頭遺跡では塩漬けがあったかもしれない。
しかし、当時の塩は貴重だし、塩漬けといっても、今のように無造作に、ザブザブと使えたのでしょうか。
台湾少数民族(山の民)は、近代まで、ほとんど調味料なしで食材を食べていた。
されにしても食材、特に魚介類の保存にはどのような方法を採っていたのでしょうか。 |
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140調理道具 |
141
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台石と磨石
飯田二反田遺跡 |
縄文人の食卓想像図
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石の炉で貝を煮、その周りで魚や肉を焼いていたことが想像されます。 |
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143編袋とイチイガシ 杵築市山香町 龍頭遺跡 縄文後期
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150 弥生時代
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150弥生人の祈り
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◎紀元前300~400年頃、大陸から稲作とともに、鉄や青銅の道具、織物などの新しい文化がもたらされました。
本格的な農耕社会の出現です。
人口は急激に増え、政治的なまとまとりを基にして、地域の統合が進んだようです。
◎ムラやクニの首長がとり行う大規模な祭りでは、銅矛や銅鐸が「祭器」として用いられました。
弥生人は、ムラやクニの繁栄や戦勝などを祈って、これらの青銅祭器を神に奉納したものと考えられます。 |
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151弥生土器 宇佐市 台ノ原遺跡 弥生前期
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弥生時代の土器は、貯蔵のための壺や煮炊きに使う甕、飲食用の高坏、葬儀に用いる甕棺など、用途によって器種の使い分けがはっきりしてきます。 |
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160弥生祭祀のシンボル |
161祭器
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弥生時代の西日本は、銅矛や銅鐸などを祭器とする、共通の価値観を持つ社会でした。
後期中頃(2世紀)になると、特色のある祭式や墓制を共有する地域社会が成立してきます。
広型銅矛の祭祀が行われた北部九州、
銅鐸祭祀の近畿や東海地方、
特種器台や四隅突出型墳丘墓が盛行した中国・山陰地方などです。
こうした地域の政治と祭祀を統合し、次の古墳時代を開いたのは、大和を中心とする近畿地方の連合勢力です。 |
弥生祭祀のシンボル
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特殊器台
広形銅矛 |
四隅突出型墳丘墓
近畿式銅鐸 |
三遠式銅鐸 |
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162
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特殊器台
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四隅突出型墳丘墓
特殊器台 |
四隅突出型墳丘墓 |
近畿式銅鐸 |
広形銅矛
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近畿式銅鐸
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三遠式銅鐸 |
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163銅鐸
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164銅鏡
中国鏡片
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弥生時代の北部九州では、中国製の完全な鏡がお墓に副葬されていました。しかしながらその周辺では、鏡の破片のみが流通していたようで、大分でも穴をあけてペンダンに再利用した鏡片が沢山出土しています。 |
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165巴形銅器 大分市 雄城台遺跡 弥生後期
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半球状の体部に扁平な鉤状の支脚をつけた青銅製の飾り金具です。鉤には邪霊を払う力が備わっていると考えられています。
佐賀県や福岡県を中心に分布するものです。 |
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170 古墳時代
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170古墳時代の祈り
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◎三世紀の終わり頃、大規模な前方後円墳が創り出されます。
以後七世紀に至るまで、沖縄と北海道を除く列島各地に数十万基もの古墳が築かれます。
支配者が大きな墳墓を営むことは世界共通の現象ですが、我が国の場合はその数が多く、きわめて特異です。
◎古墳を築き、そこで葬送の祭祀を催すことは、政治的にも重要な意味が込められていました。
しかしながら、人々が死者に手向けた敬虔な祈りは、今と変わらぬものであったことでしょう。 |
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171小部遺跡出土品 宇佐市 小部遺跡 古墳時代前期
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小部遺跡は、周囲約200mの環濠の中に方形区画と大型掘立建物が見つかり、豪族居館と考えられています。
吉備(岡山県)系土器などの瀬戸内や機内との交流をうかがわせる資料が見つかってます。 |
小部遺跡出土品 |
小部遺跡出土品 |
碗
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鉢
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高坏
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甕
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壺
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製塩土器と土錘
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172赤塚古墳 川部・高森古墳群 大分県宇佐市大字高森字京塚(大分県立歴史博物館)
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赤塚古墳は、3世紀後半に造られた全長57mの前方後円墳で、当館入り口の正面に位置します。
埋葬施設は箱式石棺で、1921(大正10)に発掘調査されました。
石棺の中からは5面の三角縁神獣鏡、碧玉製の管玉、刀などが見つかっています。
この鏡5面は、国の重要文化財に指定され京都国立博物館に所蔵されています。
赤塚古墳の周囲には周溝墓や円墳など多くの埋葬施設があります。
これらの墓は、赤塚古墳に葬られた人の一族や配下の人々の墓と考えられます。 |
三角縁神獣・盤龍鏡 赤塚古墳 古墳時代前期前半
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大正10年、赤塚古墳の主体部である箱式石棺から掘り出された五面の鏡です。大型で三角の縁を持ち、鏡背には厚肉彫りの神像や獣神、龍虎が配されています。邪馬台国の女王卑弥呼に、魏から下賜された鏡の一部ともいわれています。 |
三角縁神獣・盤龍鏡
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三角縁神獣・盤龍鏡
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三角縁天王日月銘
獣文帯三神三獣鏡
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三角縁波紋帯盤龍鏡
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三角縁天王日月銘・獣紋帯三神三獣鏡
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三角縁唐草文帯二神二獣鏡
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175免ヶ平古墳めんがひら 大分県宇佐市川部 4世紀前半 古墳時代前期
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免ヶ平古墳は、4世紀前半に造られた全長51mの前方後円墳で、川部・高森古墳群の最も南側に位置します。
主体部の埋葬施設には竪穴式石槨と組合式石棺の2つがあり、昭和47年(1972)~昭和63年に3回の発掘調査が行われました。
竪穴式石槨からは、日本製の仿製三角縁神獣鏡や中国製斜縁神獣鏡を始めとして、大刀などの鉄製武器や農耕具、装身具が見つかっています。
組合式石棺からは女性の人骨とともに、斜縁神獣鏡や石釧などの装身具がみつかりました。
これらの出土品は古墳時代前期の九州における古墳の副葬品や畿内政権とのつながりを示すものとして
、平成26年8月21日に国指定重要文化財に指定されています。
※ここの書き方は大変わかりにくい書き方です。この記述は175~178までの写真について解説しています。
➀首長墓である竪穴式石槨には、割竹形木棺(古墳時代初期の埋葬法)が埋葬され、
仿製三角縁神獣鏡・中国製斜縁神獣鏡・大刀などの鉄製武器・農耕具・装身具などが副葬されていた。175・176・78
②追葬墓である組合式石棺には、女性骨が出土し、斜縁神獣鏡・石釧・装身具などが副葬されていた。175 |
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免ヶ平古墳
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免ヶ平古墳 |
免ヶ平古墳出土
一括遺物
宇佐市 古墳時代
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石釧 |
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仿製三角縁神獣鏡
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舶載斜縁二神二獣鏡
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176
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刀子 |
鉄製槍・剣 |
鉄製大刀 |
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ガラス小玉 |
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ガラス小玉 |
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勾玉 |
管玉 |
碧玉製管玉 |
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177壺棺 子供用壺棺 免ヶ平古墳 4世紀頃1700年前 免ヶ平古墳造営時期頃の埋葬
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この壺棺は 免ヶ平古墳の南側で見つかりました。
普段の生活で使用していた壺を利用した子供用のお墓です。底の部分はわざと打ち欠いていました。
口の部分には大きな石を5個載せていました。木などで蓋をした後、上に乗せたものと思われます。
この壺棺は、4世紀頃(約1700年前)に作られました。 |
壺棺
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壺棺出土状況
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二重口縁壺 |
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展示遺物出土位置一覧赤:縄文、青:弥生 |
赤矢印=後円部墳頂 |
後円部から竪穴式石室と箱式石棺の2つの埋葬施設が確認されました。 |
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178割竹形木棺 免ヶ平古墳 古墳時代前期
木棺内副葬品配置
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免ヶ平古墳では、主体部として竪穴式石室と箱式石棺を用いていました。
竪穴式石室の中には粘土床ねんどしょうが残っており、割竹形木棺が置かれていたことがわかります。
竪穴式石室と箱式石棺の2つの主体部からは、三角縁神獣鏡のほか、数々の副葬品が出土しており、葬られた人物と畿内政権との密接な関係が想定されます。
※割竹形木棺 全国子供考古学教室(弥生時代後期に瀬戸内で使われ始め、古墳時代前期に瀬戸内、関西で流行する.) コトバンク(古墳時代前半期 (4~5世紀)
割竹形木棺は古墳時代初期の埋葬法で、次世代の天皇に変わると、次の埋葬法に変わった。 |
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180鬼塚古墳の装飾 玖珠町小田 古墳時代後期古墳 6世紀後半 円墳(直径21m高さ4m) |
181装飾石室
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鬼塚古墳は玖珠川の南側に開けた扇状地上にある古墳です。古墳は前室と玄室の2つの部屋を持つ複室構造です。
装飾は、玄室の左側壁や奥壁など4か所に見られます。この写真は奥壁の装飾の様子を写したものです。
中央下に大きな3重の同心円文が描かれ、右下にも2重の同心円文、右上と右下、左上にも円文が描かれています。
その周囲には図柄の不明瞭な模様が描かれています。
また、上の石にも円文が描かれ、その下に船を描いたと思われる弧状の模様が描かれています。
古墳は6世紀後半(約1400年前)頃に造られました。玖珠地域を支配した首長の墓と考えられます。 |
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鬼塚古墳石室内部
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鬼塚古墳の装飾 |
鬼塚古墳の位置
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鬼塚古墳奥壁 |
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182大原古墳(消滅) 5c後半~6c(約1500年前) 杵築市山香野町野原 古墳中期末~後期初頭
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大原古墳は山香町にあった5世紀後半~6世紀代(約1500年前)の古墳で、1961年に学校建設によって発見されました。
「山香町誌」などによれば、古墳はすでに壊されていたようで、弥生時代の住居跡などが確認されました。
溝からは須恵器や埴輪が出土しました。
※「溝」って何のことだろうね。古墳周囲の溝かな? |
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183シラハゲ古墳 6世紀末 杵築市大字溝井 資料:杵築市の歴史的風致形成の背景
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横穴式石室を主体部に持つ古墳です。装身具や鉄族、金銅獅噛環頭大刀の刀装具の他に6世紀末の須恵器も出土しています。 |
シラハゲ古墳出土物 |
シラハゲ古墳 |
玉類
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耳環
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鉄鏃
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刀装具
獅子噛環頭大刀塚頭
だと思いますけど |
刀装具
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大刀
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184角房方形周溝墓群出土遺物 古墳時代中期~後期 宇佐市
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表記のような遺跡はなく、角房古墳周辺にある方形周溝墓の意味としてとらえ、
終末期古墳としての円墳に移行する以前の庶民の墓は弥生時代の方形周溝墓が受け継がれていたものと考えることにした。
従って、以下の展示は庶民や、角房古墳の被葬者の配下の墓としてとらえる。
刀剣・刀装具以外は墓前祭祀(埋葬時)の供え物であり、そのまま打ち捨てられたものである。
角房古墳については、資料「墳丘からの眺め」を参照のこと。
前方後円墳、墳長46m後円部直径30m前方部長さ・幅共に18m、周溝(空濠)幅7.4~12m、葺石あり |
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剣
角房古墳周辺方形周溝墓群
鉄素材。両刃。 |
刀装具
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土師器埦 |
小型丸底壺と器台 |
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185
赤塚方形周溝墓群 宇佐市高森800 古墳時代前期 3世紀
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川部・高森古墳群では、3世紀の赤塚古墳から6世紀の鶴見古墳にいたるまで6基の前方後円墳が営まれています。
宇佐平野の支配者の墳墓地です。この墓域の中には、小石室・石棺などを主体部に持つ方形周溝墓・円墳も数多く確認されています。
前方後円墳に葬られた支配者と、それを盟主と仰ぐ人々との間の主従関係が反映されているようです。 |
赤塚方形周溝墓群 |
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赤塚方形周溝墓群 |
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赤塚方形周溝墓群
出土遺物 |
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二重口縁壺 |
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191鑑堂古墳(消滅)豊後高田市 古墳の詳細不明
神人車馬龍虎画像鏡
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この鏡は、3世紀前半頃の後漢~三国時代に制作されました。
鑑堂古墳は石室や石棺の様子から古墳時代前期末から中期(4c末~5c頃)と推定され、そのころ鏡も埋められたと思われます。 |
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193古稲荷古墳 宇佐市法鏡寺629 3世紀初頭(詳細不明ですが、鏡の製作年代のこと)
斜縁六獣鏡 宇佐市法鏡寺字中野原 古稲荷石棺
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斜縁六獣鏡は銅製で、縁の部分が傾斜しています。鏡は6匹の獣が見られる鏡背面と、顔を写す鏡面(裏側の面)があります。
鏡背面には「吾作明鏡三商大吉長宜子孫」と読める銘文があり、「吾作明鏡」は、「私はよい鏡を造った」で、「長宜子孫」は、「子孫の末長い繁栄を願う意味」です。中国の三国時代(3世紀)に作られた鏡です。
箱書は帆足万里の門弟、熊埜御堂眞哉の書。それによると、明治19年(1886)に古稲荷の石棺で出土したことが記されています。
時代:弥生時代終末~古墳時代初頭 |
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200宇佐のあけぼの
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201宇佐の曙
『日本書紀』
神武天皇即位前紀
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日本書紀は藤原氏の作品。
祖先の中臣氏は、神武東征の時、
宇佐の娘と神武のこの間に子ができ、これが中臣氏、藤原氏の祖先だと言っている。 |
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203鶴見古墳 6世紀前半 宇佐市高森 宇佐風土記の丘(宇佐市市川部133)
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鶴見古墳出土遺物
宇佐市
6世紀前半 |
土師器高坏
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須恵器坏身・蓋
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ハソウ |
ガラス玉 |
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須恵器 |
器台
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脚付壺
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長頸壺 |
須恵器 甕 |
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205上ノ原横穴墓群 中津市相原2865 上ノ原横穴墓群
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耳環(じかん) 中津市 上ノ原横穴墓
耳たぶに孔をあけてつけたアクセサリーです。これは銅線などを円形に曲げ、金メッキした豪華な耳環です。
耳環は、古墳時代も終わりに近づいた6世紀~7世紀に流行しました。
時代:古墳時代後期(6世紀前半)
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銀象嵌を施した刀装具付の太刀 中津市 上ノ原横穴59号墓
手を守る鍔(つば)の部分に、銀の象嵌を施した太刀です。
見えにくい部分にも、装飾をつけた持ち主の好みがわかります。
時代:古墳時代後期(6世紀前半) |
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首飾(くびかざり) 中津市 上ノ原横穴墓
メノウの勾玉、水晶の切子玉、ガラスの小玉、碧玉の管玉などを組み合わせて作った首飾りと、
ガラスの小玉だけで作った首飾りもあります。
6世紀前後になると、こうした玉類の製作が盛んになります。
時代:古墳時代後期(6世紀前半) |
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206横穴墓の世界
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古墳時代の後期になると、横穴式石室を持つ小さな円墳や丘を掘り込んだ横穴墓が数多く造られるようになります。
豊の地域は九州で最も横穴墓が発達したところであり、古いものは5世紀後半にさかのぼります。
三光村上ノ原では80基あまりの横穴墓がほとんど完全な状態で発掘され、古代の信仰・風俗・家族制度などの研究が大いに進みました。 |
横穴墓(おうけつぼ・よこあなぼ) 中津市 上ノ原35号横穴墓
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横穴墓は、急傾斜な斜面や崖に横から掘った穴を墓とした家族墓です。
入口は死者が葬られた後に、閉塞石(へいそくせき)という戸でふさがれます。新たに家族が亡くなると戸を開け、葬られます(追葬)。
上ノ原35号横穴墓では、最初の埋葬が5世紀後半に行われ、その後次々に埋葬されていきます。最後の埋葬は6世紀後半に埋葬されています。 |
35号横穴墓
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35号横穴墓には、少なくとも7体が葬られており、家長とその血縁者が葬られた家族墓と考えられています。その内訳は、成人および熟年男性が6体。小児が1体です。
最初に葬られたのは5世紀後半の1号人骨で、その後次々に追葬されてゆきます。6世紀後半の6号人骨を最後に、墓の利用は途絶えたようです。
ここには、世代を重ね100年以上も続く安定した家族ま姿があります。 |
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207横穴墓
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208横穴墓
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300Ⅱ豊の古代仏教文化
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301豊の信仰風土
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◎古代には九州の東北部は「豊の国」と呼ばれていまし呼ばれていました。
『豊後風土記』によると「豊」の名称は、豊富な農産物に由来するといわれます。
◎大分県の下毛・宇佐郡を含む福岡県側の「豊前」と、大分県側の「豊後」に別れたのは、七世紀の終わり頃とされます。
「豊の国」の特に豊前側には朝鮮半島や中国大陸に近いという地理的条件から、道教をはじめ様々な信仰が持ち込まれていたことが考えられます。 |
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303仏教の受容と豊
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『日本書紀』は、古くから「豊の国」に病気を直す不思議な力を持った人がいたことを伝えています。
それは「豊国奇巫とよくにのあやきしかんなぎ」とか「豊国法師ほっし」と呼ばれた人たちで、道教や仏教とともにもたらされた優れた医薬に通じていたものと見られます。その中から7世紀の終わり頃には優れた医術によって国家の褒賞を受ける法蓮ほうれんが出現し、宇佐の仏教界をもリードしていきます。 |
蔵骨器 宇佐市山本出土 11世紀
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火葬骨を入れて埋葬するための壺。地方でも早くから火葬が行われていたことがわかります。 |
蔵骨器 |
仏教の受容と豊 |
宇佐市一鬼手いちきで
出土 8世紀後半
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宇佐市山本出土
11世紀 |
火葬骨の容器 |
宇佐市山本出土
11世紀 |
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310古代の世界 |
311
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312 750年前後の世界
750年前後の世界
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Europeキリスト教圏
Africaイスラム教圏
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玄奘三蔵
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仏教圏
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義浄
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313豊の古代仏教年表
豊の古代仏教年表 |
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522-594
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588-622
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618-685
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670-710
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699-743
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710-752
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315 750年前後の世界
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7世紀から8世紀にかけての世界の宗教分布をみると、ヨーロッパから西アジアにかけての地域にキリスト教とイスラム教とが広がり、
アジア各地にはインドで興った仏教が広く分布しています。アジアの東端にある日本でも中国や朝鮮半島の影響を受けて、奈良時代には「鎮護国家」の考えのもとに総国分寺として東大寺が、また国ごとに国分寺が建てられました。 |
木造百万小塔 陀羅尼付 奈良時代
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滅罪と鎮護国家の功徳のために称徳天皇の発願により百万基を製作。宝亀元年(770)東大寺など十大寺に分置しました。
現在は法隆寺にのみ伝来します。付属の陀羅尼は現存する日本最古の印刷物といわれています。 |
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750年前後の世界
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木造百万小塔
付陀羅尼 奈良時代 |
木造百万小塔
陀羅尼付 |
木造百万小塔 |
陀羅尼
(陀羅尼経) |
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320豊の古代寺院
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◎日本に仏教が伝わった六世紀の中頃から、約100年の間はもっぱら都を中心とした地域で、造寺・造仏が盛んに行われていました。
◎仏教文化の地方への広がりは瓦などを出土する、寺院跡の存在によって確認され、七世紀の後半になると西日本の各地に寺院が出現します。
◎「豊の国」では寺院跡や窯跡などの古瓦を出土する遺跡は現在30ヶ所が知られており、その分布は特に豊前側において濃密となっています。 |
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321
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323豊の古代寺院photo
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豊前国分寺 |
相原廃寺 |
豊後国分寺 |
椿市廃寺 |
菩提廃寺 |
天台寺跡 |
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豊の古代寺院跡map
豊の古代寺院跡 |
肥前・筑前 |
豊前・豊後 |
宇佐・六郷満山付近 |
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325豊の古代寺院
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豊の国の古代寺院は現在19ヵ寺が知られています。
豊前側では企救・田河・京都仲津・築城・上毛・下毛・宇佐の各郡で、
豊後側では大分・国前両郡で寺院跡や窯跡以外で古瓦が発見されています。
その分布はほぼ1郡1ヵ寺を基本とし、地方豪族の郡司層の造寺をうかがわせます。
豊の寺院で用いられた軒瓦は、寺院相互に大変共通性があり、お互いに融通しあっていたことがわかります。 |
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豊の寺院と古瓦 |
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大宰府系の瓦A
老司式軒瓦
上坂廃寺出土
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新羅系の瓦A
唐草文〇〇弁八弁蓮華文軒丸瓦
唐草文軒平瓦
天台寺跡出土
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百済系の瓦
単弁八弁蓮華文軒丸瓦
畿内系の瓦
重弧文軒平瓦
椿市廃寺出土
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大宰府系の鬼瓦
大宰府出土
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大宰府系の瓦B
鴻臚館式軒瓦
弥勒寺跡出土
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新羅系の瓦
唐草文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦
唐草文野紀平瓦
垂水廃寺出土 |
高句麗系の瓦
単弁六弁蓮華文軒丸瓦
天台寺跡出土
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宇佐系瓦
複弁七弁蓮華文軒丸瓦
法隆寺系忍冬唐草文軒瓦
豊前国分寺
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330渡来系の人々と信仰
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正倉院に残る「大宝戸籍」の中に豊前国の仲津郡丁里・上三毛郡塔里・同郡加自久也里の戸籍の一部があります。
そこには、渡来系の人をさすといわれる塔勝とうのすぐり、川邊勝かわべのすぐり、丁勝ちょうのすぐり、狭度勝さどのすぐりなどの勝姓すぐりのかばねのほか秦部はたべの名前が多く記載されています。また、田川郡の香春郷かわらごうに新羅の国の神が渡って来て住んでいたという「豊前風土記」の記事は、渡来系の人々の信仰をうかがわせます。 |
渡来系の人々と信仰 |
渡来系の人々と信仰 |
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仲津郡の渡来系姓名
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戸籍に残る渡来系人
勝姓・秦姓
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引用「豊前国風土記」
豊前國風土記にいわく。
田河ノ郡 河原の郷郡の東北にあり 此の郷の中に河あり 鮎あり。
その源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直ぐに、ま西を指して流れ下りて、眞漏川につどい会えり。
この河の瀬、清し。因りて清河原の村となづけき。今、鹿春の郷というは、よこなまれるなり。
昔、新羅の國の神、自ら渡り来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神という。
又、郷の北に峯あり。頂きに沼あり。めぐり三十六歩ばかりなり。黄楊(つげ)の樹 生い、また、龍骨あり。
第二峯(つぎの峯)には、銅ならびに黄楊・龍骨などあり。
第三峯(その次の峯)には龍骨有り。
引用「逆さ読み「風土記」
地名起源伝承なのですが、新羅から神が海を渡ってきたという伝承が書かれているので取り上げました。
非常に清らかな川があったので「清河原」、それが訛って「鹿春」になったとあります。「清い」が脱落しているところを見ると、「清河原」説はあまり信憑性がないようにも見えますね。
また新羅から来た神は、その河原に住んだので「鹿春の神」と呼ばれたと言います。しかしこれも普通は神の名前に因んで地名が付くのが普通のように思えるのですが?
新羅から海を渡って来た神、ということで私がすぐに思い出せるのは、三井寺の鎮守神「新羅善神」です。
勿論全く関係のない伝承であるとは思いますが、やはり古代日本では大陸から神がやってきたという伝承はちらほらと各地に点在していたのではないかと思います。
異国の神に対する信仰はそれこそ異国の民が持ち込んだものかもしれません。しかしそれを許容するためにはやはり信仰的な素地があったはずです。
註によると福岡県の「香春神社」ということになっていますが、祭神は辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命。しっかりと三つの峰も存在しているようです。
特に「辛国息長大姫大目命」というのは奇妙な名称ですね。「息長」とは普通神功皇后或はその父、さらには応神天皇第二子から続く息長氏の事を指すはずですが、頭に「辛国」と付いています。これと同名の神は大分県姫島の比売語曽社にも祭られているようです。
比売語曽社の方は天日槍やツヌガアラヒト伝承との関わりを指摘されていますが、どちらかといえばこちらから攻めたほうがわかりやすそうではありますね。卵生神話や箱舟漂流型との関わりが考えられます。中略
※渡来した半島人が各地で持ち込んだ神を祀ることはほとんどで、つい最近まで新羅神社や韓国神社など、そのものずばりの名前が多くあったが、しばらく前に、その名前を変更するようになった。 |
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335天福寺奥院の木彫仏
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大分県宇佐市黒地区の天福寺奥院には、奈良時代に作られた塑像三尊仏(国指定重文)が安置されていました。
この他、奈良時代末(8世紀)から平安時代初期(9世紀)に作られたとみられる像など、70躯を超える木彫仏が伝わっています。
奈良時代末から平安時代初期の木彫仏は、国内でも現存例が多くありません。
こうした木彫仏が遺されていることは、宇佐地域が九州でも早くから仏教が伝わった地域であったことを示しています。
この天福寺奥院の木彫仏をはじめ、大分県内には実に様々な仏像が伝わっています。その豊かさの一端をご覧ください。 |
天福寺塑像三尊仏
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天福寺奥の院の小堂には、如来坐像1躯と菩薩立像2躯からなる8世紀後半の塑像(粘土製)の三尊仏が伝わってます。
十字に組んだ心木に荒縄を巻き、スサまじりの粘土を盛り付け、精製された土で表面の仕上げを行っています。
三尊は頭部や手足を失っていますが、その高度な技法と写実的な作ぶりは、8世紀後半の天平彫刻の特徴を示し、宇佐の古代仏教の質の高さを伝えています。 |
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天福寺奥院の木彫仏 |
天福寺奥院
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天福寺奥院
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天福寺塑像三尊仏 |
天福寺奥院 |
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340宇佐の古代寺院
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◎豊前の南端に位置する宇佐・中津地域でも七世紀の終わり頃に虚空蔵寺・相原廃寺の二ヵ寺が創建されました。
その後、宇佐では法鏡寺廃寺・小倉ノ池廃寺、そして宇佐宮の弥勒寺が建てられます。
また、下毛地区には塔熊廃寺が造られ、この地域の仏教受容の機運は意異常なまでの高まりを見せます。
◎この背景には法蓮に代表される僧たちの活動があったからにほかなりません。 |
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341虚空蔵寺の伽藍 宇佐市山本
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虚空蔵寺跡では三重塔跡が礎石とともにほぼ残っており、その東側に約23m×16mの金堂基壇、北側に30m×18mの大規模な講堂基壇があることがわかっています。また、南側で、は中門跡が発見されています。この配置は法隆寺式伽藍配置と呼ばれています。 |
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343虚空蔵寺と法蓮
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宇佐市山本にある虚空蔵寺は、7世紀末頃に創建された宇佐地方では最も古い寺院跡です。
法隆寺式伽藍配置をとり、軒瓦文様に法隆寺や川原寺の文様を用い、南法華寺(壷阪寺)と同じ型から造られた塼仏を使うなど都の先進文化を取り入れています。
鎌倉時代にできた宇佐宮の『託宣集』に記載された、法蓮が山本の地で虚空蔵菩薩を祀っていたという寺はこの寺と考えられます。
※奈良の古代寺院の瓦を焼いた瓦職人は、その瓦型を持って九州にまで分散し、同じ型を使い、また、真似て複製し、いろいろな瓦型で造った瓦をまぜこぜで平気で各寺院に使ったようです。すると、宮大工と瓦職人は同じチームだった。また、寺院の規格も同じだった。 |
忍冬唐草文軒平瓦 法隆寺 7世紀
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虚空蔵寺の軒平瓦のモデルとなった瓦。 西院伽藍創建時に用いられたもので流麗で緊張感あふれる独創的な唐草文が特徴です。 |
面違鋸歯文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦 川原寺 7世紀
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虚空蔵寺の軒丸瓦のモデルとなった軒丸瓦。川原寺は天智天皇が建てた官寺で、始めて複弁蓮華文の軒丸瓦が使われました。立体感のある花弁が特徴です。 |
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左:忍冬唐草文軒平瓦
法隆寺 7世紀
右:面違鋸歯文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦
川原寺 7世紀
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塼仏
左:虚空蔵寺 8c
右:南法華寺 8c
(奈良県壷阪寺) |
左:虚空蔵寺 8c
右:南法華寺 8c
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塼仏 虚空蔵寺 8c
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忍冬唐草文軒平瓦Ⅰ類
法隆寺
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面違鋸歯文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦
7~8c
面違鋸歯文縁複弁七弁蓮華文軒丸瓦8c
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複弁八弁蓮華文軒丸瓦
8c
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縄目叩き平瓦
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縄目叩き平瓦 |
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345軒平瓦
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唐草文軒平瓦 7~8c
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冬忍唐草文軒平瓦Ⅲ類
8c
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350法鏡寺廃寺 宇佐市法鏡寺171
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法鏡寺廃寺では二つの中心建物の跡がわかっています。
一つは南北11m東西14.6mの基壇跡(第一遺構)で、もう一つはその北側の礎石が残る南北17m東西30mの大規模な基壇跡(第二遺構)です。
二つの基壇の配置は一見法隆寺式伽藍配置を思わせますが、同時に存在したかどうか疑わしい点も多く、最初は第一遺構のお堂だけであったことも考えられます。 |
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351
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353廃寺出土物
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土製螺髪とは、寺院完成後には、仏師が手っ取り早く粘土で仏像を造り、適当に装飾して須弥壇に安置したようです。
すると、青銅仏や木像仏などはよほど経済力と権力のあるパトロンのもとの寺院でなければ手に入れることはできなかったようだ。 |
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土製螺髪 8c |
土製螺髪 8c |
塼せん |
鉄鉢形土器 8c |
施釉陶器 |
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357法鏡寺瓦
法鏡寺廃寺と華厳
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法鏡寺廃寺は宇佐市法鏡寺にある八世紀の寺院跡で、これまでに二つの基壇遺構が確認されています。
創建時の軒瓦は、豊前地方に多い単弁文の瓦と虚空蔵寺の法隆寺系冬忍唐草文瓦をそのまま用いた軒瓦の組み合わせです。
法鏡寺廃寺は、『託宣集』に記載された郡瀬(こおのせ今の法鏡寺)で華厳という僧が如意輪観音を祭っていたという寺に当たるとみられます。 |
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法鏡寺廃寺と華厳 |
冬忍唐草文軒平瓦Ⅰ類
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複弁七弁蓮華文軒丸瓦
単弁八弁蓮華文軒丸瓦
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熨斗瓦
竹状模骨の丸瓦
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複弁六弁蓮華文軒丸瓦
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熨斗瓦のしがわら |
格子叩き平瓦 |
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359
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法鏡寺廃寺出土瓦によって構成した瓦屋根の模型。
丸瓦と平瓦を用いる吹き方を本瓦葺といいます。 |
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複弁六弁蓮華文軒丸瓦
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冬忍唐草文軒平瓦Ⅳ類 |
平瓦 |
面戸瓦 |
熨斗瓦 |
屋根瓦 |
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360小倉ノ池廃寺と四日市廃寺
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小倉ノ池廃寺は、宇佐市上元重にある小倉ノ池の一角に渇水期になると姿を表す基壇遺構です。
周辺から法鏡寺廃寺と同じ軒瓦が出土します。
宇佐市石田にある四日市廃寺は虚空蔵寺と同じ軒瓦を出土する遺跡です。
最近の調査で、瓦塔や硯、役人が用いるベルト金具が発見され、寺院ではなく仏堂をもつ郡の役所跡と推定されるようになりました。 |
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361小倉ノ池廃寺の伽藍
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小倉ノ池廃寺については、正面が17.5m奥行12m程の基壇遺構が知られています。
基壇上には現在9個の礎石が残っており、それらの配置から14.5m×9mの庇のつくお堂であったことがわかります。
江戸時代の終わり頃に著された「太宰管内志」によれば、「七堂伽藍」があったとしていますが、今のところこの建物以外に遺構はなく、仏像を安置する一堂のみの寺であったとみられます。 |
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小倉ノ池廃寺と四日市廃寺 |
小倉ノ池廃寺の伽藍
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小倉ノ池廃寺の伽藍
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小倉ノ池廃寺 |
小倉ノ池廃寺
基壇見取図
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362四日市廃寺の遺構
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四日市廃寺は虚空蔵寺と同じ軒瓦が出土することで早くから注目されていました。
近年の調査によって大宰府の老司式軒平瓦や円面硯、さらに巡方や蛇尾などのベルト金具が出土し、また小規模な掘立柱建物から瓦塔が
発見されました。
しかし、寺院に特有の基壇遺構はいまだに発見されていません。
これらを総合すると、四日市廃寺は寺院跡というよりはむしろ群の役所に関係する遺跡の可能性が高間なってきました。 |
四日市廃寺の遺構 |
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四日市廃寺の遺構 |
瓦塔
老司式式軒平瓦
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365四日市廃寺出土物
四日市廃寺出土物 |
面違鋸歯文複弁七弁蓮華文軒丸瓦 8c |
唐草文軒平瓦
老司式ろうじしき |
瓦塔 8c
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370豊前豊後の瓦窯跡 |
371
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豊前豊後の瓦窯跡 |
切寄窯跡郡 |
虚空蔵寺1郷窯跡 |
船迫、堂がへり窯跡群 |
主な窯跡群 |
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373瓦の生産
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日本の瓦葺建物の歴史は仏教寺院の出現とともに始まります。
初期には朝鮮半島の百済から瓦博士が来日し製作にあたりました。七世紀末には宇佐地方でも瓦窯が出現します。
寺院の屋根を複には大量の瓦が必要で、また瓦には平瓦・丸瓦のほか、文様のある軒瓦・鬼瓦など多様な種類があります。
それらを一つひとつ手作りし、登り窯で焼き上げるためには大変な労力を必要としました。 |
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375瓦工房ジオラマ
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瓦工房
瓦造り |
窯下の小屋 |
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乾燥場 |
巻き桶と洗濯物 |
粘土をこねる |
焚き付け |
登窯(あな窯) |
窯内部の透視模型 |
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焚き物小屋 |
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380虚空蔵寺の三重塔 |
381塔全景
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383京都のかわらけを模倣した土師器
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京焼きを模倣した土師器
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模倣かわらけの土師器
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在地系土師器
15c末~16c前葉
京都系土師器
16c前葉~後葉
京都産土師器
16c |
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384辻平遺跡の陶磁器 宇佐市辻平
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辻平遺跡は宇佐神宮北側台地上の遺跡です。発掘調査の結果、中世墓が見つかりました。
墓から12世紀~13世紀代の内面に劃花文のある龍泉窯系の青磁碗が見つかっています。 |
藤田遺跡の青磁碗破片 宇佐市藤田
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藤田遺跡は11世紀から14世紀に営まれた遺跡です。
場所は宇佐神宮西側の直視街道沿いにあり、壮大な建物跡が質の高い大量の陶磁器とともに見つかりました。
そのため宇佐神宮大宮司邸の跡ではないかという意見もあります。 |
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辻平遺跡の陶磁器
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遺跡位置 |
龍泉窯系青磁碗
辻平遺跡
12c後半~13c前半
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景徳鎮窯青白磁合子
白遺跡 12c代 |
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青磁碗破片
藤田遺跡 12c-13c代 |
藤田遺跡の青磁碗破片
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385 平安・鎌倉時代
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385平安・鎌倉の貿易と陶磁器
平安・鎌倉の青磁と白磁 ~異国の輝き~
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日本で初めて作られた焼き物は、16,000年前の縄文時代草創期にさかのぼります。
その後、近世までの間に土器や須恵器、陶器が作られますが、日本では磁器だけは作られませんでした。
中国では後漢~西晋時代から、磁器がつくられるようになり、8世紀中頃以降、中国の青磁・白磁が日本へ輸出されます。
美しい釉薬のかかった青磁や白磁を目にした日本の人々は、その輝きに驚いたことでしょう。
11世紀後半には、輸入された中国の龍泉窯系や同安窯系の青磁、定窯・邢窯系の白磁が日本で流通します。
これらは貴重品で、貴族・武士などの上流階層の人々が主に用いました。 |
平安時代・鎌倉時代の貿易
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奈良時代、朝廷が中国の唐に送った遣唐使は、仏教や学問を学び、中国の本や陶磁器など珍しいものを持ち帰りました。
その後、中国との貿易はありましたが、遣唐使の停止によって、貿易は禁止されました。
平安時代末の1133年、平忠盛は中国の宋と貿易を行います。その後、民間貿易がますます盛んになり、鎌倉時代に続きます。
鎌倉時代になると、幕府は民間貿易を正式に認めるとともに、幕府から「御分唐船ごぶんとうせん」という民間の貿易船を派遣します。
貿易は中国の南宋時代末期まで行われ、南宋が滅びると、貿易は再び民間船が行います。
中国から日本に輸入したものは、絹織物や陶磁器・宋銭で、日本からは金や硫黄、日本刀などが輸出されました。 |
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平安・鎌倉の青磁と白磁
~異国の輝き~ |
平安時代・鎌倉時代の貿易
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中国の主要磁器生産地
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中国磁器の生産と流通時期
この表は大変貴重です。このように的確にまとめられた表は始めてみました。
中国磁器の生産と流通時期
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※資料 日宋貿易
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日宋貿易の輸入品:銅銭・陶磁器・香料など 輸出品:砂金(宮城-岩手産)・硫黄(薩摩硫黄島産)・刀剣など。
※東大寺大仏建立時に東北地方の蝦夷の地から献上された大量の砂金でキンキラの巨大大仏ができたが、
その後半世紀、強欲な大和政権が、その金の生産地を攻略しようと、蝦夷敵視政策を行い、敵でも何でもない人々を退治しようと
征夷大将軍なるものを任命し、天皇の皇太子を責任者とする侵略組軍を送り、戦争を仕掛けてこれらの土地を奪い取った。
源義経が身を寄せていた奥州藤原氏はこの砂金を扱う一族だった。かねうりきちじ |
高森城遺跡の陶磁器
高森城遺跡の陶磁器
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高森城遺跡の陶磁器
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定窯・邢窯系白磁碗
高森城遺跡 12c
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定窯・邢窯系白磁碗
土師器小皿
高森城遺跡 12c |
御幡遺跡の陶磁器
御幡遺跡の陶磁器 |
御幡遺跡の陶磁器 |
龍泉窯系青磁碗
御幡遺跡
12c後半-13c前半
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龍泉窯系青磁碗
御幡遺跡13c前半
鎬連弁文
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386宋銭
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日本で初めて貨幣が鋳造されたのは西暦683年頃です。その後、和同開珎・皇朝十二銭などが鋳造されますが、鋳造された貨幣の量が少なかったのか、日本の広い範囲に流通しませんでした。
宋銭は平安時代末期の12世紀中頃から、北宋との民間貿易で、仏具などの材料として輸入されていました。
ところが宋銭本来の使い方に目を付けた平家は、大量に輸入・流通させ、政権の財政基盤としました。
この宋銭の導入により、物の売買を貨幣で行うことになるなど、経済活動を一変させました。
当時、宋銭は朝鮮半島や中央アジア・東南アジア・ペルシャでも流通していたようで、「世界通貨」的な貨幣でした。 |
守江~大内間で見つかった宋銭 鎌倉~室町 (13~16c)杵築市
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15点の宋銭は杵築市の守江から大内間の道路工事現場で、は自室土器の皿4点とともに見つかりました。
宋銭は物の売買に用いられますが、銭を貯める備蓄目的の埋蔵や地鎮祭に伴って埋められたりしました。
この宋銭は土師質土器の皿とともに見つかっているので、地鎮祭の可能性が高いと思われます。 |
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宋銭 |
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守江~大内間で見つかった宋銭 鎌倉~室町
(13~16c)杵築市 |
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元符通寶
北宋 初鋳976(太平興国元)年 |
皇宋通寶
北宋 初鋳1039(寶元2)年
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紹定通寶
北宋 初鋳1228(紹定元)年
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凞寧元寶
北宋 初鋳1068(凞寧元)年
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太平通寶
北宋 初鋳976(太平興国元)年
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387虚空蔵寺1号窯跡出土瓦 8世紀 宇佐市山本
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虚空蔵寺に使われた最も古い冬忍唐草文野紀平瓦Ⅰ類などを焼いた窯跡。虚空蔵寺窯跡群では4基の窯跡が発見されています。 |
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縄目叩き平瓦
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面違鋸歯文縁複弁七弁蓮華文軒丸瓦
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冬忍唐草文野紀平瓦Ⅰ類 |
瓦器 |
把手付き甕 |
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389吉久遺跡出土品(きっきゅういせき) 鎌倉時代前期(13世紀) 大分県宇佐市
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吉久遺跡は伊呂波川東岸の台地上にある屋敷群の遺跡で、地元の有力者である萩原氏の城跡と言われています。
発掘調査で溝に囲まれた3区画分の屋敷跡や井戸・掘立柱建物跡・鍛冶遺構・墓が見つかっており、古代から中世の墓は約30基を数えます。
中世墓には中国産の陶磁器や土器、湖州鏡、鉄器などを副葬する木棺墓があります。
陶磁器の一部や湖州鏡市12世紀代に中国で生産された輸入品で、大切に使用されていた品物が、副葬品として埋められたことがわかっています。 |
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豊前の古代寺院
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吉久遺跡出土品
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遺跡位置図
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白磁四耳壺
白磁合子
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白磁碗
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青磁碗
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湖州鏡 |
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400Ⅲ宇佐八幡の文化
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国家神として崇拝を浅め、長く広範な人々に信仰された、八幡神の歴史を展示します。 |
※資料 宇佐八幡宮考
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※東大寺の大仏建立に際して宇佐八幡神のみが賛意を表し、建立の契機となったことで有名だが、宇佐八幡神とは何だったのかについてはこの博物館でも触れられていない。
八幡神は付近の山上にあった巨石信仰で、いわゆる縄文以来の磐座の神である。
巨石信仰は、有名な和歌山県ゴトビキ岩(熊野速玉大社御神体)を始め、全国に点在する。
縄文人を駆逐して列島を支配した半島人も、この縄文の信仰にとらわれ、現在のように社殿などない時代には、巨石・巨木などの自然神を直接礼拝していた。現在は建物をおがんでいる?(笑) 本殿ではなく、拝殿を拝んでいる。(大笑)
山上から平地に社殿を移したことで、信仰対象が岩から形のない神へと便宜的に変化したようだ。
この神様は、時流に乗ってなかなかうまく立ち回る神様でした。この神を司る辛島氏と大神氏の見事な処世術が読み取れます。 |
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410八幡神の成立
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◎六世紀に宇佐の地に現れたという八幡神は、辛島氏と大神氏おおがしによって祀られる神でした。
しかし、養老四年(720年)の大和朝廷による隼人服属の戦いの時に、「神軍」を率いて参加し、
戦いを勝利に導いた守護神としてみなされるようになりました。
◎その後、藤原広嗣の乱の鎮圧や、東大寺大仏の建立の援助を通して、一地方の神であった八幡神は、
国家の守護神となっていきました。 |
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411八幡宇佐宮弥勒寺建立縁起 石清水八幡宮所蔵
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この記録は、宇佐宮や弥勒寺の由緒を記したものです。
原本は承和11年(844)に作られたもので、八幡神の由緒を語る縁起類として、最も古いものの1つです。 |
隼人出兵と放生会
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宇佐宮では、毎年10月に放生会(ほうじょうえ)(仲秋際)が行われます。
『託宣集』などによれば、この祭礼は養老年間に反乱を起こし、討たれた隼人の霊を鎮めるための祭礼といわれます。
放生会は生き物を解き放つことによって功徳を積む仏教行事で、宇佐宮では蜷(にな) を海に放ちます。
この祭礼は、八幡神と隼人出兵とが深いかかわりを持つことを今に伝える行事と言えます。
※カワニナを海に投げ入れると死んでしまうが、それをわかっての行事。隼人族が二度と復活しないことを願う意図なのでしょうね。 |
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412放生会
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神輿行幸
川でタニシを採り、 |
蜷流し神事
ワザワザ海に流す |
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現在は汽水域になっているが、千年前は海岸。
なぜこんな事をするのだろう。 |
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413八幡縁起絵巻上巻 江戸時代
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八幡神の由来を描いたものです。ここには、神功皇后による朝鮮半島出兵など、八幡神登場以前のことが描かれています。
はっきりとした色遣いと細かな部分まで詳しく描く技法は、「奈良絵本」に通じるものがあります。 |
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414八幡神の成立と広がり
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571(欣明32)宇佐の地に八幡神が示現す(山から降りた)
702(大宝2)隼人の反乱
710(和銅3)平城京へ都が移る
713(和銅6)隼人の反乱。日向国から大隅国分立
720(養老4)隼人大反乱。八幡神対隼人戦参戦
738(天平10)弥勒神宮寺建立
740(天平12)藤原広嗣の乱(隼人主力)に参戦
747(天平19)八幡神、大仏建立を援助
749奈良にのぼる。752大仏開眼会 |
八幡神示現
東大寺縁起絵巻より |
738-752
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749-769
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八幡神の入京
東大寺縁起絵巻 |
769-1023
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1022-1333
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蒙古襲来絵詞 |
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415東大寺八幡縁起絵巻
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現品は天文4年(1535)に作成されました。展示している場面は、東大寺大仏の完成を受けて、宇佐を出発した八幡神が東大寺に到着した様子を描いてた部分です。この「八幡神入京」は、八幡神が宇佐地方から全国的な神へと成長したことを示す出来事でした。 |
大仏と八幡神とみやこ
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奈良時代に、東大寺大仏建立に際して援助をおこなった八幡神は、国家の守護神として敬われるようになりました。
その功として、天平勝宝元年(749)、奈良の都に上った八幡神は、皇族に与えられる一品いちぼんという最高位を授けられました。
皇族と同じ地位についたことで、平安時代になると、八幡神を応神天皇と見る説が生まれてきました。 |
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417八幡社の広がり
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八幡信仰は、平安遷都による石清水八幡宮の建立や、八幡神が清和源氏の氏神(鶴岡八幡宮)とされたこともあって、全国に拡大しました。
この図は、全国の八幡宮の数を都道府県別に示したものです。 |
八幡宮の広がり |
石清水八幡宮 |
鶴岡八幡宮
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筥崎八幡宮はこざき
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石清水八幡宮
貞観元年(859)朝廷を守護することを託宣した八幡神の言葉に従って建てられた。 |
鶴岡八幡宮
源氏の氏神とされた八幡神を康平6年(1063)に源頼義が鎌倉由比郷に迎えたことに始まる。 |
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鳥取4・宮崎16は少ないが、その理由が知りたいものです。 |
源頼朝は「戦の神」として、八幡神と、諏訪神社を信奉した。 |
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八幡宇佐宮御神領大鏡
八幡宇佐宮御神領大鏡 |
八幡宇佐宮御神領大鏡 |
この記録は、宇佐宮の荘園について、その面積や成立の経緯などを記したものです。
現品は鎌倉時代始めに作成されました。
当時の宇佐宮荘園の全体像と各々の荘園の歴史を知るうえで貴重な記録です。
※各地の荘園が台頭してきた地方豪族や武士などによって奪われていくため、自分たちの所領であることを証拠立てるための資料として書き記されたもののようです。 |
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420八幡神と神仏習合
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◎八世紀前半に宇佐の地で活躍した僧法蓮そうほうれんは、宇佐の放生会を始めたと 伝えられ、弥勒神宮寺の初代別当になりました。
このように、宇佐宮では早くから神・仏が融合したとみられ、ここに八幡神の大きな特徴があります。
◎そして、平安時代になると、八幡神は僧侶の姿として表現されるようになりました。 |
鎮疫祭(蘭陵王舞)
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現在、毎年2月13日に宇佐宮で行われている鎮疫祭ちんえきさいは、無病息災をいのる神事で、江戸時代までは心経会と呼ばれていました。
これは、弥勒寺境内にあった八坂社で行われた仏教行事でした。 |
※研究 八坂神社
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八坂神社:牛頭天王を祀る災難除けの神社。
京都八坂神社は、
天平6(734)年の畿内七道地震の被害から、地震除けのために建立された。現代ではそれを記述から疫病除けと勘違いしている。
天平7(735)年に始まった天然痘の大流行のみを注視していたためである。
別名祇園社と言い、日本各地に「祇園さん」がある。京都祇園祭は当初は地震鎮めの祭、のちに疫病退散が合わさったようだ。
ちなみに、八坂神社の牛頭天王は兵庫県姫路市の広峰神社から分祀されたものである(牛頭天王祭祀の総社)。
牛頭天王は牛・角のある神で印度ヒンドゥー教の神である。
これは、蘇民将来神と同様の神らしく、おそらく同時期にもたらされた信仰であろう。
蘇民祭は、真冬にふんどし一つの男たちが蘇民袋に入った木片を奪い合う祭で有名だが、この祭は岡山県西大寺などの西日本だけではなく、福島県会津柳津町や岩手県など全国各地で現在も行われている。この信仰が拡がったのは、奈良時代に流行りだした天然痘に由来するものだろう。
天然痘は北海道のアイヌ文化にも大きな影響を与え、この絶対の死をもたらす恐怖に対してアイヌ文化や人の移動が大きくゆがめられていた。
現代のコロナ禍以上の大災害であり、4人に1人の死者を出した。
まあ、そんなに疲弊した状況で天皇が東大寺大仏殿を建立しようと言うのだから、全宗教界が反対するのは当たり前。
しかも、資金も材料も、みんなお前ら持ちだって、、それだ国家安泰を図るって、、ちっとムシがよすぎやしないか、、
にもかかわらず、宇佐神社だけが賛成するという、ま、現代の社会(会社)にもいる、嫌なゴマすりヤローだったのだろう。(((大爆笑))) |
八幡大菩薩の誕生
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八幡神は、8世紀の終わり頃には「八幡大菩薩」の名で呼ばれるようになりました。ここに、神と仏教が融合する神仏習合の状況がより明確に示されることとなりました。 こうした八幡神と仏教の結びつきは、弥勒神宮寺の建立、あるいは心経会(現:鎮疫祭)などにうかがうことができます。
※{八幡大菩薩}が神仏習合とは、八幡=やわた神、 大菩薩=仏教のほとけ。 このような造語を考える、神仏習合を勧める天才がいたんだ。
伝統的な自然崇拝(神道。神道を担当する氏族までいたが)と、仏教という二つの宗教対立(それぞれに氏族がついて勢力を持っていた) を上手くまとめて対立を治める方法を考えたtechnocratが当時もいたんですね。 |
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八幡神と神仏習合 |
八幡神と神仏習合 |
鎮疫祭(蘭陵王舞)
ちんえきさい
らんりょうおうのまい
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八幡大菩薩の誕生 |
宇佐宮祭礼絵巻
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宇佐宮の夏越祭の行列を描いた絵巻で、江戸時代半ばに宮司を務めた到津公著いとうづきみあきが詞書を記しています。
行列の先頭には僧侶たちの姿があり、宇佐宮における神仏習合の様子を知ることができます。 |
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430宇佐宮弥勒寺
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431弥勒寺伽藍
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『託宣集』などによれば、
神亀2(725)年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、東方の日足の地に弥勒禅院を建立しています。
そして、天平9(737)年には宇佐宮社殿の西に移し、天平10(738)年に金堂・講堂を建立して弥勒寺が創建されました。
この事業には聖武天皇の大きな援助がありました。初代の別当(長官)には虚空蔵寺の法蓮がなったとも伝えています。
以後、弥勒寺は宇佐宮とともに、神仏習合の輝かしい歴史を続けることになります。 引用「八幡大神ゆかりの伝承」
その後、大仏建立(詔勅:天平15年743 建立天平17年745~天平勝宝4年752)
を援助して得た莫大な封戸を基に大規模な整備を行い、国分寺にも匹敵する壮大な伽藍となりました。
弥勒寺の特徴は金堂と講堂が南北に並び立つ所にあります。軒瓦には大宰府の鴻臚館式のものが使われました。 |
弥勒寺伽藍 |
弥勒寺の伽藍
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弥勒寺の伽藍
下に記述 |
平面図
当初の伽藍配
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指図(建築図面)
大内氏復興の伽藍配
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講堂基壇と南側溝 |
弥勒寺の伽藍
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上図左は発掘調査の結果を基に作図した弥勒寺の伽藍配置図です。
弥勒寺の講堂・金堂・三重塔などの中心伽藍は、勅使道につながる東西大門を結ぶ参道より南側に位置しています。
そこは山裾を造成したところで、伽藍の規模に比較して非常に狭いことが注意されます。
上図右は応永年間の大内氏による復興時の指図(建築図面)です。
平安後期の最盛期の建物配置に輪蔵・千歳松ノ三重塔など新しく加わった建物が見られます。 |
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432応永壺図
※大内氏による復興時の鳥観図
※建物があっち向き、こっち向きで、ちょっと見づらい
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433弥勒神宮寺の瓦
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※畿内で始まった造寺は次第に各地に広がり、寺院建築に伴う建築・装飾・造仏を始め、高度な技術が持ち込まれた。
その中で、瓦の文様デザインも大変高度であるため、個々の寺院に合わせたものを造らず、大寺の意匠を流用した。
この時、基準になるのが物差しである。天平尺(てんぴょうしゃく)は中国唐の尺をそのまま用い、1尺は曲尺の9寸7分8厘(約29.6cm)だった。
って、この表現。わかる人は大工さんだけ・・・ |
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冬忍唐草文軒平瓦8c |
複弁八弁蓮華文軒丸瓦 8c |
複弁六弁蓮華文軒丸瓦8c |
複弁七弁蓮華文軒丸瓦8c |
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435
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複弁八弁蓮華文軒丸瓦8c
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唐草文軒平瓦
鴻臚館式 8c |
鬼瓦 8c
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436弥勒寺遺物
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:下駄16c
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:櫛16c
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木製坏
木製皿
16c
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ものさし 16世紀
曲げ物の底板16c
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桶 |
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437
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土師器小皿
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土師器皿
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奈良三彩 8c
ピンボケ |
延喜通寶 10c |
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塩壺 8c
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青磁碗
12-13c |
「弥勒寺」ヘラ描き土器
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滑石製温石 |
左:土師器埦
右:須恵器坏・蓋
8c
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440宇佐神宮本殿 |
441宇佐宮ならびに弥勒寺造営年表
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712-838
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741-1201
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1009-1524
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1247-1868
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1522-1933
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445宇佐神宮本殿
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八幡神が小椋山の現在の地に鎮座したのは、神亀2年(725)のことと言われています。
宇佐神宮本殿は三つの社殿から成っていますが、もともとは第一殿のみで徐々に整備され現在の姿になりました。
前後二棟で構成された本殿の建築様式を「八幡造」と呼んでいます。
現在の本殿(国宝)は安静6年(1859)~文久元年(1861)にかけて建てられたものです。 |
八幡神像の成立
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自然を依り代とし、姿を表さなかった我国の神々も、仏教との結びつきのなかで神像に表されるようになりました。
この点でも、八幡神は先駆的役割を果たしました。
京都東寺の八幡三神像は、平安初期に空海によって造営された同寺の鎮守八幡宮のもので、八幡神像の最も早い例です(東寺が最早)。
宇佐宮では、『託宣集』に仁寿2年(852)、若宮が建立され神像5躯(く)が安置されたとあるのが最初です。 |
僧形八幡神像(そうぎょう)
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応神天皇・神功皇后・比売神からなる八幡三神のうち、応神天皇は頭を丸めた僧侶の姿に表されています。
これも八幡神における仏教との結びつきの結果ということができます。
具体的には、延暦年間(782-806)に仏格である菩薩号が与えられたこと。
貞観2年(860)の石清水八幡宮をはじめ、中央に八幡神を安置したのが僧侶たちであったことが大きくかかわっていたと考えられます。 |
八幡神像の成立 |
僧形八幡神像 |
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450孔雀文聲(くじゃくもん けい)
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聲は法会などで打ち鳴らされる仏具です。
この聲には、石清水八幡宮(京都府)の田中祐清が承元3年(1209)に弥勒寺金堂に奉納したことを示す銘文があります。
これによって、越の由来を明確に知ることができ、原品は国宝に指定されています。 |
宇佐神宮に残る金剛力士像
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神宮には、江戸時代まで、 大きな寺院―弥勒寺―がありました。
その山門に立っていた金剛力士像は、 在りし日の寺院の威容を伝えています。 |
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460宇佐神宮境内
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この模型は、応永年間の大内氏による復興時に作成された、「宇佐宮古図」を立体的に表現したものです。
ここに表現されている建物は、平安時代末期の建物配置をもとに復興の姿を描いたものとみられます。
社殿と仏堂が建ち並ぶ壮大な姿に、神仏習合の考えが具体的に示されています。 |
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470八幡神と宇佐
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◎奈良時代以後、国家神として朝廷や武士から敬われた八幡神が宇佐の地に鎮座したことは、現在に至るまで、
周辺地域の社会や文化に様々な影響を与えました。勅使街道と呼ばれる交通路が整備され、門前町は大いに発展しました。
◎また、八幡神は宇佐周辺の人々にとっては地域の鎮守であり、今も宇佐宮では、周辺の人々と共に行う祭礼が見られます。 |
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471巡行する神
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宇佐宮固有の神事である行幸会は、6年ごとに新しく造る御験みしるしが、宇佐宮とゆかりの深い八箇社(はちかしゃ)をめぐる神事でした。
その形は、9世紀初め頃に定まったと言います。
宇佐市郡を中心に分布する八箇社を新しい御験がめぐるこの神事は、八幡神の古くからの信仰範囲を表すものと言えます。 |
行幸会
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行幸会は薦神社三角池のマコモで八幡神の御験(みしるし)を新しく造り、宇佐宮とゆかりの深い社をめぐる神事です。
古い御験は、最後の奈多社から海に流されました。
行幸とは本来天皇が宮殿の外へ赴くことを意味しており、八幡神が応神天皇であるという考えから、この名称が用いられたと思われます。 |
宇佐町のようす
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宇佐宮は、四方を丘陵に囲まれた地にあります。
宇佐宮の西部や北部には神職団や商人などが、南部の宮迫みやざこには僧侶が住んでいました。
「宮中ぐうちゅう」とも称されるこの地は、各地の荘園からの仏師が集まる、中世においては九州でも有数の都市でした。 |
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473宇佐宮寺御造営幷御神事法会再興之日記 室町時代
うさぐうじ ごぞうえい ならびに ごしんじほうえ さいこう のにっき
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これは、室町時代の宇佐宮および弥勒寺の復興に関する記録です。
ここには正長2年(1429)に実施された行幸会のことや宇佐宮末社の1つ妻垣社の再興についての記述があります。 |
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475四季のまつり
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現在、宇佐神宮では年間二十数回もの祭礼が行われています。祭礼には八幡社独自の仏教色の濃い鎮疫祭や仲秋祭(放生会)のほか、
豊作祈願の御田植祭りや豊作を感謝する新嘗祭、半年ごとに穢れを払う大祓式など大小様々な祭礼があります。これらの祭礼の多くは、宇佐の人々の生活に溶け込んでいます。 |
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477茅の輪
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茅の輪
茅で作った輪で、6月晦日の大祓いのときには、神社の境内などに大きな茅の輪が置かれます。
茅の輪をくぐったり、身に付けたりすると、災厄を免れるとか身体が清められるなどと言います。
「蘇民将来」にもてなされた素戔嗚尊が、「蘇民将来」の家族に茅の輪をつけさせたことで災厄を逃れさせたと言う言い伝えがあります。
※蘇民将来という家族が、素戔嗚を泊めてもてなしたため、素戔嗚がこの家族を災厄から守るために茅の輪を持たせたという神話による。
奈良時代に、天然痘から身を守るためにこのような厄除けが行われた。現在でも茅の輪の茅を持ち帰ると厄除けと信じられ、輪から抜く人もいる。
※茅の輪の厄除けは、「ユダヤの過ぎ越しの祭りの戸口に子羊の血を塗る」によく似ている。茅の輪の場合は素戔嗚が厄除神である。酷似した話だ。
蘇民将来と素戔嗚 蘇民将来と牛頭天王 蘇民将来とイスラエル 蘇民将来の意味 蘇民将来とユダヤ |
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四季のまつり
上に記述 |
茅の輪 |
茅の輪
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神能女面 江戸初期 |
鎮疫祭五色幣小 |
富くじ
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護符
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解縄串
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480神のいるムラ
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◎八幡神は、宇佐宮をはじめとする 八幡宮の荘園では、鎮守としてまつられました。
また、清和源氏の守護神ともされたことから、鎌倉時代、武士が地頭となった各地の荘園では、八幡神がまつられました。
こうして八幡神は全国各地に広がりました。
◎一方で、八幡神への崇敬は、蒙古襲来をきっかけに高まり、武士などに横領されていた領地を八幡神の下に返還することも行われました。 |
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481
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483田染荘小崎の農村景観
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田染小崎地区の景観は、大分県立歴史博物館の調査によって、およそ700年前の姿を受け継いでいることがわかりました。
古からの景観は、平成22年に文化財保護法に基づき「重要な文化的景観」に選定されました。また、地形の微妙な高低を生かした
、一つ一つ特徴のある水田のかたち、水を引くシステムなどは、日本の農業の歴史を知るうえで貴重な歴史遺産です。 |
中世のムラ
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九州各地に広がっていた宇佐宮の荘園には八幡神が鎮守としてまつられました。荘園にくらす人々にとって、鎮守八幡は五穀豊饒・無病息災を祈る場であり、生活と密接にかかわっていました。
宇佐宮領田染荘にも、八幡神を祀る元宮・二宮・三宮があり、今もかつての荘域全体を神輿がめぐる十月祭が三社合同で行われています。 |
田染荘
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田染荘は、宇佐宮の荘園のうち本御荘十八箇荘の1つ。模型の舞台となった小崎は、宇佐宮の神官であった田染氏の本拠地となったところです。
また、鎌倉時代の古文書に見える地名がいまだに残されている所でもあり、当時のムラの姿を復元することができます。 |
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487田染村絵図の世界 世界農業遺産関連展示 宇佐国東の農業と文化
世界農業遺産と文化財 ★江戸時代のムラを描いた絵図★
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大分県豊後高田市田染小崎地区は、鎌倉時代からの風景をとどめている所です。
今回、宇佐・国東が「世界農業遺産」に認定されたことを記念して、
江戸時代の田染小崎地区の姿を視覚的に伝える文化財である「田染組村絵図」を紹介いたします。 |
田染村絵図 [たしぶぐみ むらえず] 天保7(1836)年
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江戸時代、現在の豊後高田市田染地区には14ヵ村あり、それらは「田染組」としてまとめられていました。
これらの絵図は、元禄2(1689)年に田染組の村ごとに作成された絵図を、天保7年(1836)に写したものです。
茶色は水田を、黄色は畑を表しています。
文化財保護法に基づく「国重要文化財的景観」に選定された田染小崎地区を描いた絵図をみると、集落の周りに水田と畑が広がっています。
この絵図に表現された風景の枠組みが、過去から大きく変化していないことがわかります。【豊後高田市】 |
田染村絵図の世界
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世界農業遺産と文化財
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世界農業遺産と文化財
江戸時代のムラを描いた絵図
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田染小崎地区 |
田染村絵図
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小崎村絵図をよむ
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小崎村絵図 |
大曲村絵図
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大曲村 |
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間戸村絵図 |
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間戸村 |
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490京博の逸品 (国立京都博物館)
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ごあいさつ
弥生時代にマツリの道具として珍重された青銅器は、本来金色や銀色に輝き見る人々を魅了していました。
大分県からは、銅剣や銅矛などの武器の形をした青銅器が見つかっています。
しかし、それらの中には、県外の博物館などの所蔵資料が少なからずあります。
その中で京都国立博物館が所蔵する大分県出土の銅剣・銅矛が、約40年ぶりに里帰りをしました。
これは、令和2年度京都国立博物館考古資料相互活用促進事業の協力によるものです。
同事業は、京都国立博物館(京博)所蔵の考古資料を、広く資料出土地で公開することなどを目的としています。
本特集展示は、上記事業の趣旨を鑑み、6月~9月に開催した企画展「青銅の燦めき―京博所蔵の銅剣・銅矛里帰り展―」に引き続き、
多くの方に大分県ゆかりの貴重な資料を観覧する機会を広く提供することを目的としています。
展示では里帰りした銅剣・銅矛の魅力や見どころに加えて、大分の銅剣・銅矛・銅戈について紹介しています。
最後になりましたが、京都国立博物館をはじめ、本展の開催に多大なご協力を賜りました皆様に厚く御礼申し上げます。
令和2年11月
大分県立歴史博物館 |
令和2年度特集展示
491京博所蔵の銅剣・銅矛里帰り展
銅剣・銅矛・銅戈
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武器の形をした青銅器は、刃や柄の付け方で剣・矛・戈に分類されます。
剣は両側に刃があり、茎(なかご)に柄をさして使いますが、剣身と柄を合わせて青銅で作ったもの(佐賀県吉野ケ里遺跡出土例)もあります。
矛は槍状の刃部の下が袋状になっていて、柄を差し込んで使います。
袋部には耳が付いていて、細長い布を通すための孔が開いていますが、新しくなると孔が塞がります。
戈は剣状の刃部に対して垂直に柄を付けるものです。
いずれも次第に大型化して、武器から祭器としての性格が強くなっていくと考えられています。 |
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ごあいさつ |
持ち帰り用リーフレット |
京博所蔵の銅剣・銅矛 |
京博の逸品 |
銅剣・銅矛・銅戈 |
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492京都国立博物館の逸品
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京都国立博物館は、東京国立博物館など全国にある4館のうちの一つです。(東京・京都・奈良・北九州)
明治時代に日本各地の寺社等で文化財の調査が行われ、京都・奈良に文化財が集中していることから、それらの収蔵保管施設整備が必要とされ、明治30(1897)に帝国京都博物館都市て開館しました。その後、京都帝室博物館、恩賜京都博物館などを経て昭和22(1947)年に現在の名称となりました。
明治古都館(旧本館)と正門が国指定重要文化財に指定され、その間には有名なロダンが製作した「考える人」が設置されています。
京都国立博物館には、平安時代から江戸時代の京都の歴史や文化を示す文化財を中心に、館蔵品と寄託品を併せて14,000件を超える資料が収蔵されています。その中には国宝・国指定重要文化財約900点が含まれています。
大分県に関係する資料もあり、今回展示をしている銅剣・銅矛は、大分の弥生時代を代表する資料で、昭和62年に大分県立芸術会館(現:大分県埋蔵文化財センターの所在地)の「豊の国創世記展」で展示して以来、約40年ぶりの里帰りです。
これら以外にも、大分ゆかりの文化財として、宇佐風土記の丘にある赤塚古墳から出土した三角縁神獣鏡(国重文)などが所蔵されています。 |
坊主山遺跡
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末広川と熊崎川にはさまれた臼杵平野の西側の丘陵端にある坊主山の山腹から昭和27年(1952)に広形銅矛が7本出土しました。
出土した状況は不明ですが、賀川光夫氏が発見者から聞き取った内容によると、幅80cm長さ120cm深さ80cmの黒色土のつまった穴から、
7本の銅矛が切先をそろえて、刃を重ねた状態で埋納されていたと想定されています。
広形銅矛は、弥生時代後期に北部九州を中心に四国の西側まで分布する祭器です。
九州の東側に位置し、海を挟んで四国が見える丘陵で発見されたこの資料は、広形銅矛の祭祀の広がりを考えるうえで、貴重な資料です。 |
広形銅矛
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京都国立博物館の逸品
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京都国立博物館
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坊主山遺跡 |
臼杵市坊主山遺跡
銅矛出土推定地 |
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広形銅矛
臼杵市坊主山遺跡 |
広形銅矛 |
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493中細形銅剣
浜遺跡 中細形銅剣 大分市大在浜一丁目
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大分市浜遺跡
銅剣出土推定地 |
大野川と丹生川に挟まれた河口付近の海浜部の砂浜から、昭和32年(1957)に
中細形銅剣が4本出土しました。
水田化工事に伴い出土したもので、詳しい出土状況は不明です。
後の聞き取り調査から、幅200cm長さ200cmの穴に、4本の銅剣が切っ先をそろえて、
埋納されていたと想定されています。
中細形銅剣は、弥生時代中期後半~後期前半に北部九州を中心に分布する祭器です。
大分県内で銅剣の出土例はあまり多くなく、さらに県内の銅剣出土としては最も多い4本であることから、北部九州と大分のつながりを考える上で貴重な資料です。 |
大分市清水ヶ迫 平形銅剣 大分市大字丹生
大分市清水ヶ迫 |
丹生川左岸の台地にある通称清水ヶ迫谷から、昭和20(1945)年9月に銅剣が発見されました。
坂ノ市が熊本藩領であったことから、加藤清正の槍と伝えられてきました。
発見場所は、周囲から20mほど高い丘陵の南西に面した傾斜地です。
昭和35年の佐藤暁らによる現地調査から、傾斜地を幅42.5cm長さ56cm深さ27.5cmほど削り、
中央に銅剣を、その左右に弥生土器の壺と甕を置いていたと想定されています。
平形銅剣は、弥生時代中期~後期に瀬戸内海を中心に分布します。
本資料は剣身中央の突起の刳形くりがたや鎬しのぎから古い形式とされ、平形銅剣の祭祀の広がりを考えるうえで貴重な資料です。 |
中細形銅剣
大分市浜遺跡
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中細形銅剣
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平形銅剣
大分市清水ヶ迫 |
平形銅剣
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495おおいたの銅剣・銅矛・銅戈
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ピンボケ |
切寄遺跡きりより |
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切寄遺跡 銅矛 宇佐市安心院町大字鳥越
深見川支流の竜王川左岸の台地上に位置します。昭和54(1979)に、安士院町立竜王小学校の整備中に2口の銅矛が発見されました。
銅矛の出土状況や遺構の詳細は不明ですが、銅矛にサビで付着した砂の状態から、少なくとも銅矛2口の刃を互い違いにして埋納していたと考えられています。
なお、残りの1本は宇佐市教育委員会が所蔵し、宇佐市安心院支所で展示をしています。 |
小向野遺跡こむくの |
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小向野遺跡 広形銅矛 宇佐市大字小向野
寄藻川二よさて形成された沖積地の微高地で、水田の圃場整備中に
広形銅矛2本発見されました。
出土状況は不明ですが、集落に近接して埋納された可能性も考えられています。
銅矛はいずれも切先付近の幅が最も広く、関部まぶちに向かってすぼまりながら、また開く形状をしています。
なお、袋部を欠損しているため、復元を行っています。 |
坊主山青銅器埋納関連年表
大分の関係年表 |
※考察 祭祀青銅器の埋納
坊主山銅矛埋納遺跡は弥生時代後期である。荒神谷遺跡に埋納された青銅器は弥生中期から後期の作とされている。
倭国大乱の前後、軍事的緊張が高まっていた頃に青銅祭祀製品が一斉に埋納された。
多くの青銅祭器は、焼いて細かく叩き壊され、鋳潰されて、木製楯の災厄除けの巴形銅器や、三環鈴などといった新しい青銅製品の登場の材料にされたものとされている。
しかし、一方で何百年続いた青銅器祭祀を禁止・没収・破壊できるのは、支配者が強大な権力と武力を持ち、代替えの祭祀を強制できたからだ。青銅器崇拝中で育った人間が、突然、首長から、首長と首長の一族を崇拝しろ。我が墓地を礼拝しろと、九州でも山陰でも別々の支配者が一斉に同じことを言い出すだろうか。これは、あらかじめ祖先崇拝、大王崇拝の宗教観を持った人々が権力を持ったために起こった宗教革新ではないだろうか。
つまり、この権力者とは、半島や大陸の新たな宗教観と支配思想を持った人々ではないのだろうか。 |
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500Ⅳ六郷山の文化
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国東半島には、独特の仏教文化が花開きました。ここではその成立展開を紹介します。 |
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510国東半島の六郷山寺院と石造文化財
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瀬戸内海に突き出た国東半島は、放射状に延びた尾根と谷によって形作られています。
古来この地には六郷山と呼ばれる山岳仏教が花開き、本山・中山・末山(ほんやま・なかやま・すえやま)という三山体制による寺院組織が形成されていました。
国東半島は石造文化の宝庫でもあります。国東塔をはじめ、六郷山の中で生み出された多種多様な石造物が、国東の自然に溶け込むように存在しています。 |
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511国東半島の成立
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520六郷山の成立と広がり
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◎六郷山とは、
国東六郷の地に平安時代・中世を通して現代にいたるまで、営々と続いてきた山岳仏教の寺院と、その衆徒を中心とした仏教文化の総称です。
◎現存遺物などから、
奈良時代末~平安時代初期頃に初めて寺院の開山があり、平安時代を通して徐々にその形を整えていきました。
そしてその盛期は、国東半島全域が 本山・中山・末山の三山組織に再編される 平安後期にあったと考えられます。
※六郷とは、国東半島の律令で定められた6つの郷(村)、武蔵(むさし)・来縄(くなわ)・国東(くにさき)・田染(たしぶ)・安岐(あき)・伊美(いみ)を指す。
六郷満山とはこの地域に仏教寺院が沢山あることを意味しています。
六郷山とは国東半島を形成している両子山群を意味しますが、宗教的には国東半島の仏教寺院をさします。 |
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521六郷山の萌芽
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『託宣集』(宇佐神宮の記録文書)によれば、六郷山は養老2年(718)に仁聞菩薩が開き、
弟子の覚満(かくまん)が来縄郷(くなわ、国東六郷の一つ)(現:豊後高田市)で薬王菩薩を、また、
弟子の躰能(たいのう)が六郷山で薬師如来を祀ったと伝えます。これは養老2年には、すでに寺院が存在したことをうかがわせます。
この2寺院にあたるものとして、豊後高田氏の大字守地区から鼎地区にかけて所在する薬王寺遺跡と智恩寺遺跡があり、
いずれも8~9世紀の古瓦を出土する寺院跡として注目されます。 |
六郷山の萌芽 |
カワラガマ遺跡出土瓦
丸瓦・平瓦
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522智恩寺と薬王寺
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豊後高田市西部、桂川下流域は古墳や条里遺構、寺院跡など国東半島では最も多く古代遺跡が集中する地域です。
六郷山 本山本寺(もとやまほんじ)の一つ、智恩寺の境内からは六郷山寺院としては最古の9世紀代の軒瓦が出土しています。
また、薬王寺遺跡からは、カワラガマ遺跡で焼かれた8~9世紀代の古瓦が出土しています。
いずれも初期六郷山寺院にかかわる遺跡として注目されています。
※本山本寺とは:六郷山65ヶ寺を3つのグループに分け、それぞれのグループを統括する中心寺院が8ヶ寺あった。例:真木大堂 本山(もとやま)本寺8ヶ寺、中山(なかやま)本寺10ヶ寺、末山(すえやま)本寺10ヶ寺の28ヶ寺の本寺のほかに、37ヶ寺の末寺、合計65ヶ寺で構成されていました。
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智恩寺と薬王寺 |
智恩寺・薬王寺
カワラガマ遺跡の地図
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智恩寺 |
カワラガマ遺跡
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智恩寺と薬王寺
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523廃寺瓦 豊後高田市
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薬王寺遺跡出土瓦
奈良-平安 8-9c
単弁七弁軒丸瓦
唐草文軒平瓦
単弁十四弁軒丸瓦 |
智恩寺出土瓦
平安初期 9c
面戸瓦・平瓦
単弁八弁軒丸瓦
単弁六弁軒丸瓦 |
梵鐘鋳型
智恩寺出土 |
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524六郷山の広がり 11~12世紀
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平安時代の六郷山は不明な点が多いのですが、津波戸山経塚(つわとさん)をはじめ、11~12世紀の経塚が国東半島に多く分布していることから見て、この頃には六郷山寺院が国東全体に広がっていたことがわかります。
12世紀以後、六郷山諸寺院は、比叡山無動寺の末寺となり、天台系の山岳寺院として、本・中・末の三山体制の下、急速に組織化していきました。 |
六郷山別当下文 鎌倉時代・建仁2年(1202) 別当:長官
ろくごうさん べっとう くだしぶみ
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観西(かんぜい)による私領の知行を認めた文書。六郷山の本寺にあたる比叡山から出されたものです。文書前面に延暦寺政所の印が捺されていて、六郷山寺院と比叡山とのつながりを具体的に示す文書です。
※観西が誰なのかがわからない。ググっても不明。比叡山の別当観西が許可したのか、六郷山の僧侶観西が私領を申請したのか?
文書の最後にある署名は「別当伝○○○○」は観西とは読めない。ただ、比叡山が私領を許可したことだけわかる。 |
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525山の寺と谷の寺
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六郷山寺院はその立地条件によって
山の斜面に縦に営まれる場合(山型)と、
谷筋に沿って横に長く配置される場合(谷型)とがあります。
その伽藍は、本堂・講堂など中心施設のほか、住職の住む院主坊、僧侶達の住坊、行場である岩屋、鎮守の六所権現社などから構成されます。 |
山の寺と谷の寺 |
谷の寺 天念寺
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谷の寺 天念寺 |
天念寺の景観 |
山の寺と谷の寺 |
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山の寺 岩戸寺 |
山麓 登り口 |
中心施設 |
奥之院 |
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527経塚出土 経断簡 伝豊後高田市西叡山出土 平安後期・大治5年(1130)
きょうづかしゅつど きょうだんかん 断簡=切れ切れになった書き物 から 経文の断片
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今は所在不明の銅製経筒とともに六郷山本山本寺の一つ高山寺の経塚から出土したと伝えられます。
末尾の奥書により、大治5年(1130)に天台僧良胤(りょういん)が書写したことがわかっています。
※僧侶が書写した経文を、有力者が買って経塚に埋納したのか。 |
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経塚出土 経断簡 |
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陶製経筒
伝国東出土
平安後期 12c
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銅製経筒
伝国東出土
平安初期 12c
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銅製経筒
伝国東出土
平安初期 12c |
経塚出土 経断簡
伝豊後高田市西叡山出土 平安後期・大治5年(1130)
天台 僧良胤 書写
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530惣山 屋山寺 惣山=信仰の山全体の統括者
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◎十二世紀、六郷山はその寺領を延暦寺に寄進するなど、比叡山を中心とする天台宗の傘の下に入ることによって一大画期を迎えます。
この時期、惣山として六郷山を統括したのが屋山寺(ややまじ、現長安寺)であり、六郷山は同寺を頂点とする強固な寺院組織を形成しました。
◎今も長安時に伝わる太郎天・二童子像や銅板法華経などの寺宝は、その繁栄ぶりと惣山としての格式の高さをよく物語っています。 |
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531屋山寺と長安寺
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豊後高田市東部の都甲谷(とこうだに)の最奥部、その名の通り屋根型をした屋山ややまの六合目ほどに、平安時代から中世にかけて惣山として六郷山を統括した長安寺があります。また、屋山の頂上には中世後半、この地域の地頭であり、六郷山をも支配した吉弘氏の詰城であった屋山城跡があります。 |
中世の屋山寺
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長安寺(屋山寺)は12世紀末に焼き打ちに会いましたが、鎌倉時代の始め、僧応仁によって再建されます。
中世の長安時も、名実とも六郷山を統括する寺院であったようです。
しかし、中世後半になると六郷山執行職しぎょうしきを都甲氏とごうしとそれに続く吉弘氏が占有し、屋山寺の実質的な支配権は武士の手に移っていきました。
※源平合戦の時(1185)、平家方についていた、宇佐神宮や六郷満山を統括していた長安寺を、寿永2年(1183)に緒方惟栄が焼き討ちした。
これは、源氏方があらかじめ平家の逃亡先の北部九州を占領し、平家方の逃亡先を潰すための行動だった。 引用「都甲谷の歴史 六郷満山と吉弘氏」 |
※11世紀以降武士の台頭により、武士が領地を獲得するために、六郷満山の支配寺院である屋山寺に放火して寺院支配体制を崩壊させようとしたようだ。
それが、都甲氏、その後、なり変わったのが吉弘氏だ。
これは、源氏と平家の対立を利用して、自らを源氏方として、当時の政権側・藤原氏側・平家側であった有力寺社の荘園を奪うためのマヌーバにすぎなかった。
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533屋山寺ジオラマ
大きな寺領を持ち、周囲の田畑や集落は |
全てこの寺院の所有物なのでしょう。 |
大工屋敷や産屋などもある。 |
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山の尾根筋は開削され |
大量の経筒などが埋納されている。 |
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中世以降の山城も、案外このような場所を利用して築城されたのかも知れないと感じます。 |
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540山岳信仰と銅板経
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銅板経は銅板の表裏に法華経28品の経文を彫り付けたもので、銅板の箱に入れられ、経塚に埋納されます。
注目されるのは、長安寺銅板経と全く同じものが豊前の山岳寺院である求菩提山・英彦山でも相前後して造られていることです。
九州北東部の各々の地域で盛んであった山岳仏教が、想像以上に横のつながりをもっていたことがわかります。 |
※考察 埋納経の商業化
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※全く同じ銅板経が六郷山・求菩提山・英彦山の経塚に埋納されているので、これらが横のつながりを持っていたのだろうということなのですが、私は、
これらの銅板経は金工職人に作らせたもので、おそらくこのような市販品を、有力者が寺院の勧めで買って埋納したのでしょう。
考えてみますと、全国的な大ブームの経塚ブームは、困窮する寺院経営の立て直しと、新しい商業主義の台頭のように思います。
埋納するスポンサーが銅製の経筒を造ったり、陶器製の経筒を焼いたりすることはなく、最もよく知られているのが、藤原道長が厳島に奉納した金泥・銀泥で書かれた経文だが、当然職人に書かせたものである。
寺院の勧めによって富裕者や権力者が、おそらく一度ではなく何度も業者を雇って埋納し、寺院に莫大な寄進をしたのでしょう。
富裕者に繰り返し埋納と寄進を求めるには、一つには以前よりもよいものができた。二つには、祖父の死後三年に当たるので、などが適当な理由付け。
そのためには、経筒の中に入れる経文。紙か銅板か。墨で書くか金泥で書くか。経筒は銅製か陶磁器か。陶磁器の中に銅筒を入れるか。などと、誰でも考える単純な商業行為が思い浮かびます。 |
三つの銅板経
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長安寺銅板経は、その銘文によって保延7年(1141)、六郷山と石清水八幡が銅を出し合って、屋山に埋納するために製作されたことがわかります。
作者は「紀重永」とあります。注目されるのは、長安寺のものとまったく同じ形式でしかも同一作者の手になる銅板経が、福岡県求菩提山で発見され、また現存はしませんが、英彦山からも出土していることです。北部九州の山岳修験の中心地である三者が密接な繋がりをもっていたことをうかがわせます。 |
考察 紀重永
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銅板経製作者として紀重永、また、太郎天像の胎内銘には紀季次の名がある。紀氏は紀州の名門であり、石清水八幡宮の別当と共に名を連ねる貴人である。紀重永は銅板経製作の職人ではなく、発注責任者である。奈良の大仏を造ったのは聖武天皇である。聖武天皇は造仏の職人でないことは明白です。 |
求菩提山銅板経筥(国玉神社)
くぼてさん どうばんきょう ばこ くにたまじんじゃ
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求菩提山出土の銅板経は、銘文によって康治元年(1142)、僧頼厳が大勧進となって、宇佐宮の御馬所検校(馬所の役人)であった紀重永に製作させたことがわかります。
頼厳は求菩提山を再興し、宇佐ともゆかりの深かった人物です。 |
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541
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山岳信仰と銅板経 |
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三つの銅板経 |
長安寺銅板経の筥板 |
求菩提山銅板経筥
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542
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銅板法華経・同筥板
豊後高田市屋山出土
平安後期・保延7年(1141)
長安寺蔵 |
銅板法華経 |
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543銅筥どうばこ
銅筥 |
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544太郎天像の意味
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長安寺(屋山寺)の六所権現(6つの神社と言っても小さなやしろの総称)に伝えられた太郎天および二童子像は、その胎内銘によって大治5年(1130)屋山寺を初めとする六郷山僧侶達、宇佐氏・藤原氏・紀氏ほか在俗の人々などほぼ100名に上る結縁によって造立されたことがわかります。
また、「屋山太郎惣大行事」と呼ばれたこの像が、実は密教の重要な護法王が姿を変えて現れたものであることが記されています。
※太郎天像は密教の護法王が顕現したものとして造立された像である。
全てが宇佐神宮の荘園だった国東半島に、宇佐氏以外に藤原氏、紀氏が在地有力者として、名を連ねている。
きっと、宇佐神宮の荘園を奪い取った武士が、都の有力者の藤原氏、紀氏に寄進して自らは地頭になり、奪い返せないようにしたのでしょう。 |
太郎天像の意味 |
太郎天及び二童子立像
平安後期・大治5(1130)
長安寺蔵 |
太郎天及び二童子立像
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550中世の六郷山
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◎十二世紀始めに、比叡山の末寺となった六郷山寺院は、緒方惟栄(おがたこれよし)の乱入などによっていったん衰退します。
しかし、十三世紀前半になると、鎌倉幕府の「祈祷所」となり、六郷山寺院をまとめる執行(しぎょう)という役職も造られ、組織が強化されました。
◎中世の六郷山寺院は、国東半島の山や里を開発し、経済基盤となる領地を広げていきました。
※緒方惟栄は、平家と主従関係を結びながら、頼朝が挙兵すると、寝返り、同じような寝返り組を集めて平氏方を襲撃して暴れた・・・者。 |
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551中世六郷山の組織と法会
六郷山組織略図
六郷山組織略図 |
六郷山別当
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執行(しぎょう)
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本山・中山・末山
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権別当
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院主 |
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(比叡山の高僧侶)
(別当代行、現地統括者)
(もとやま・なかやま・まつやま)
(ごんのべっとう)
(いんじゅ) |
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553六郷山寺院とムラ
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豊後高田市長岩屋地区は、六郷山寺院の1つ長岩屋(天念寺)を中心としたムラです。今も屋号などに、長岩屋に属していた坊や住僧の屋敷地の名前が残っていて、谷全体が長岩屋境内地とされたことが わかります。
室町時代の記録には、この地区の一般住人もすべて長岩屋の住僧とされ、様々な義務が付されていたことが記されています。
ここに中世六郷山寺院によるムラの支配の一例を見ることができます。 |
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上に記述 |
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龍門岩屋 |
僧房名 |
おびただしい僧房があった
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七郎ヶ迫五輪塔群
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長岩屋の風景
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555法会と住僧
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中世の六郷山寺院は本山・中山・末山の3つのグループに分けられ、院主を代表とする各寺院には、様々な身分の人々がいました。
各寺院では一年を通して、多彩な法会が行われました。
春をことほぐ修正会(正月・1月の年頭の法要)や一年の懺悔を行う仏名会(12月中旬の懺悔の法要)などのほかに、蒙古襲来の時に行われた「異国降伏祈祷」といったいわば臨時の法会もありました。 |
六郷山諸勤行幷書道役祭等目録写
六郷山諸勤行幷諸堂役祭等目録写
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六郷山諸勤行幷書道役祭等目録写
江戸時代寛文9(1669) |
六郷山諸勤行幷書道役祭等目録写
江戸時代寛文9(1669) 原品:豊後高田市長安寺蔵
六郷山寺院で、1年間に行われた法会を記したものです。
奥書から、安貞2年(1228)に作成されたものを寛文9年(1669)に書写したことがわかります。 |
夷住僧 行源 解状案
夷住僧行源解状案 |
夷住僧 行源 解状案
平安時代・長承4(1135) |
夷住僧行源解状案 |
夷住僧 行源 解状案
平安時代・長承4(1135) 複製
余瀬文書のうちの1つ、夷岩屋の僧侶 行源が、自ら開発した土地の所有権を申請した文書で、
六郷山寺院の記録の中で、最も古い時代のものです。 |
長岩屋 住僧 置文案
長岩屋住僧置文案 |
長岩屋住僧置文案
室町時代永享9(1437) |
長岩屋 住僧 置文案
室町時代永享9(1437)
この文書は、廃絶していた屋敷を再興するために作成されたものです。
前半には、再興にあたって参考とした、応永25年(1418)の長岩屋の屋敷を書き上げた史料が引用されていて、当時の屋敷の状況がわかります。 |
六郷山とムラ
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古代末から中世にかけて、国東半島の山や里の開発に六郷山寺院が果たした役割は大きいものがあり、
中世の六郷山寺院は、国東半島各地に領地を持つ一大勢力となりました。 |
六郷山とムラ |
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560くにさきの仏たち
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◎平安から鎌倉時代にかけて、六郷山文化の花開いた国東半島には、「六郷山仏所(仏像仏具制作工房)」とでも呼ぶべき仏師集団がいて、
独特な作ぶりの仏像を数多く残しています。
作品の数から判断して、そのピークは11~12世紀にあったと考えられます。
◎国東の仏像は、富貴寺や真木大堂諸仏のように、都の仏師が造った寄木造の洗練されたものと、
在地の仏師が造った一木造りの地方色豊かなものとが、同時期に造立されたところに特色があります。 |
撮影禁止は千手観音。私は4体全てと勘違い
平安時代10世紀
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くにさきの仏たち |
阿弥陀如来立像 |
木造如来形立像
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千手観音菩薩立像
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不動明王立像
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570峰入り
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◎峰入りは山岳練行の行事です。六郷山はもともと行者の修行の場として開かれていましたが、
中世には熊野や英彦山の修験が入り山岳修験的性格を強めました。
近世になり、低迷する六郷山の復興のために行われたのがこの峰入りです。
◎元禄から嘉永年間まで153年間続きましたが、江戸末期からは長い間途絶えていました。
この峰入りが再び行われるようになったのは、昭和34年のことです。 |
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峰入り
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※最初は
僧の修行として
次に修験者と言われる山伏としての行。
修験者とはどのような人々だったのでしょう。 |
峰入りの順路
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峰入り護符 |
護摩木 |
峰入り衣装
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580修正鬼会の世界
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◎六郷山の代表的な行事修正鬼会(しゅじょうおにえ)は、新しい年の招福除災を目的とした行事です。
これは、日本古来の正月行事が仏教化した修正月会(しゅう しょうがつ え)と節分の追儺(ついな)の行事が結びついたものです。
◎修正月会は、前年の収穫を感謝して、新年の豊作を祈る農耕儀礼で、追儺は悪疫をもたらす悪鬼(あっき)を追い払う行事です。
しかし、修正鬼会に登場する鬼たちは決して悪鬼ではなく、福を招く鬼と考えられています。 |
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581修正鬼会とは 引用Wikipedia
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修正鬼会は、大分県国東半島にある六郷満山の寺院で旧正月に行われる火祭り。
修正鬼会は国東半島では仏の化身とされる鬼が人々に幸せを届ける旧正月の法会。
たいまつを持った鬼が暴れますが、その炎には法力が込められ、たいまつで背や尻を打たれる”御加持”で無病息災・五穀豊穣などのご利益が得られます。 1300年の伝統を持つとされ、古代の所作を今に伝えることから国の重要無形民俗文化財にもなっています。 |
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582鬼会面について
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修正鬼会は、寺院の正月行事である「修正会」と、悪い鬼を追い払う「追儺」が融合した行事です。「鈴鬼」と「荒鬼」の2種類の鬼が登場しますが、これらは悪鬼ではなく、幸福を招く鬼です。
鈴鬼面
人間の顔に近い大きさ、容貌の面で、男女一組です。仏の慈悲を表すと言われています。
荒鬼面
大きく荒々しい風貌の面には、荒鬼面、災払鬼面、鎮鬼面の3種類があります。
寺院によって、2鬼である場合と3鬼の場合があります。現在修正鬼会を実施している寺院では、成仏寺が3鬼、天念寺が2鬼です。
これらの鬼は怒りの力で人々を救う仏である愛染明王や不動明王、あるいは六郷山を開いたとされる仁聞、弥勒寺の僧侶であった法蓮の化身とも言われています。
同じ役割の面でも、寺院により姿かたちが大きく異なりますが、これは制作年代の違いや、神楽面、能面など、他の芸能の面による影響と考えられます。 |
御囃子楽器一式 (鬼柄に使われるお囃子の楽器)
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583鬼会面と法具
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修正鬼会の面には、男女の鈴鬼面と、荒々しい災払鬼、鎮鬼、荒鬼の面があります。鬼会面は多くの六郷山寺院に伝わっていますが、その形は寺ごとにかなりの違いがあります。
修正鬼会の法具には、長さ4メートル以上のオオダイ(大松明)を始め大小様々なたいまつ、僧侶や鈴鬼が持つ香水棒などがあります。 |
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鬼会面と法具 |
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修正鬼会護符 |
十二ヅミ餅(成仏寺)
鈴鬼のガラガラ |
午王杖
天念寺
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584鬼面
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災払鬼面(長安寺)
荒鬼面(長安寺)
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鈴鬼男女面
千灯寺
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追儺男女面
富貴寺 |
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災払鬼面(千灯寺) |
鈴鬼女面(長安寺)
鈴鬼男面(長安寺)
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香水棒(天然寺)
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小松明(天然寺)
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587鬼会
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荒鬼面
災払鬼面
鎮鬼面
成仏寺
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災払鬼面
荒鬼面
岩戸寺
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鈴鬼男面
鈴鬼女面
岩戸寺 |
鈴鬼男面
鈴鬼女面
成仏寺 |
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鬼鎮め松明
岩戸寺
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香水棒・小松明
岩戸寺
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香水棒・小松明
岩戸寺
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阿闍梨松明
岩戸寺
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589 |
※展示では、仏教祭祀はここで終了します。
しかし、六郷満山には、まだまだ沢山の秘密があり、琵琶法師や、謎のケベス祭もある。
633に琵琶法師についての掲載があります。
713では、もっとも有名なケベス祭についての展示と、720で私見を述べています。
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590くにさきの石造物
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◎国東は石造物の宝庫です。
独特な形をした国東塔を始め、宝篋印塔や五輪塔、板碑など、その種類は多種多様です。
◎中世には仏教が民衆に広まり、人々は現世利益や極楽往生を願い、多くの石造物を造りました。
それらは、六郷山僧侶たちの手になると考えられ、その技術的な伝統は、国東の石工たちに今も受け継がれています。 |
宝篋印塔 引用Wikipedia
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宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。
宝篋印塔とは「宝篋印陀羅尼」(呪文)を内に収めた供養塔をいう。 鎌倉中期以降各地に造立された。 塔形は基本的には方形の階段状の基壇・方形の塔身・笠・屋頂に相輪を載せ、塔身の四面に古くは梵字を刻んだ。
相輪の最上部が宝珠で、江戸時代の塔にはとがったものが多く見られる。 |
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600Ⅴ広がる仏教文化
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大分県は石造文化財が豊富にある全国有数の地域です。こうした石造文化財を中心に、大分県の仏教文化を浮き彫りにします。 |
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601山岳寺院の発達
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◎平安遷都(794)はあらたな仏教想像の機運をも促しました。
最澄と空海が唐からもたらした天台・真言の両密教は、山野に分け入り修行を主とする、山岳仏教を生み出していきました。
◎平安時代、豊前・豊後に広がった山岳仏教は、英彦山や求菩提山くぼてさん、国東六郷山などの霊寺・霊窟を形成し、
あるいは大分・大野川流域の摩崖仏文化を生み出すこととなりました。 |
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602稲積山脊柱塔婆と頼厳伝説
いなづみやま せきちゅうとうば と らいごんでんせつ
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宇佐市南部にある稲積山は、古来山岳信仰の山として知られています。山頂には、豊前山岳修験道の中心地である求菩提山を中興した頼厳を供養した石柱塔婆があります。
そして、この山の北麓にある妙楽寺は、康治2年(1143)に頼厳が開き、入滅したところと伝えられています。
また、境内には、後世この頼厳を供養した板碑があります。 |
稲積山石柱塔婆と頼厳伝説
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頼厳を供養した板碑
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頼厳を供養した板碑
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妙楽寺板碑
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603山岳寺院の広がり
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伝承の中の山岳寺院は、その多くが奈良時代の創建を伝えています。
県北から国東半島にかけては、宇佐八幡宮とも関わりのある仁聞菩薩や僧法蓮、県中南部では百済僧の日羅や炭焼長者伝説にかかわる蓮城法師を開基に仰ぐ傾向があります。
そのほか、兵庫一条寺と同じ法道仙人の開基と伝え、仙人請来という同型の観音菩薩像が伝来する耶馬渓羅漢寺のように、その創立に中央との関わりが推定される寺院もあります。 |
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604北部九州の経塚
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九州における経塚は、福岡・佐賀・大分の北部3県に集中し、いずれも平安後期に天台系の山岳仏教が浸透した地域にあたります。
このうち、豊前・豊後の経塚は、永保3(1083)の津波戸山(つわどさん)経塚をはじめ、長安寺や求菩提山・彦山の銅板法華経から知られるように、
それら経塚の造営が、宇佐八幡宮の影響下で行われたことをうかがわせます。 |
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605山岳寺院の開基伝承
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山岳仏教が盛んになった平安時代、県内においても、国東半島の六郷山をはじめ、各地に霊山・霊寺が開かれました。
これらの山岳寺院の多くは、開山年代、開基者を実際よりも古くしている点が注目されます。
このことは、仏教が国家の保護の手を離れた平安時代、各寺院が自立の必要から自らの縁起を形作っていったことと深く関わっていると考えられます。 |
右端に撮影禁止マークがあり、うまく撮影できてない |
山岳寺院の開基伝承 |
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606末法思想と埋納経
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法華経などの経典を銅製や陶製の容器(経筒)に入れ、土中に埋納したものを経塚と言い、11~12世紀の世情不安を背景に、仏教の消滅を恐れる
末法思想の広がりとともに流行しました。
県内各地で造営された経塚は、不明な点の多い大分の平安仏教のあり方の一端をよく伝えています。 |
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607
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経筒
伝中津市三光大日寺
経塚出土
平安時代(11-12c)
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銅製経筒 平安時代
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陶製経筒
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鉄製経筒断片 |
長銅壺
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四耳壺
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610岩屋に祀る仏たち
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平安時代、山中に営まれた寺院は、一般に簡素な小堂や岩陰に本尊を安置した信仰の場であったと考えられます。
宇佐市天福寺奥の院の岩屋には、塑像三尊仏以外に60数体にのぼる木彫仏群が伝わっています。
記録によれば、この岩屋は古くは不動堂と呼ばれ、少なくとも平安時代の永久元年(1113)には、現在のような不動明王を本尊とする石窟寺院として存在していたと考えられます。 |
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611
岩屋に祀る仏たち |
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宝塔
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宝篋印塔 |
宝篋印塔
南北朝時代
正平25(1370) |
臼杵摩崖仏 |
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612石造文化の伝統
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◎大分県は、石造物の宝庫と言われています。 摩崖仏は、その数の多さ、規模の大きさからも国内随一を誇り、
大分の地に天台宗の山岳仏教が発展した、 平安後期から鎌倉時代に造立の画期があります。 (摩崖仏は平安後期~鎌倉)
◎そして、民衆の様々な信仰を反映した 石塔・石碑などは、仏教が多様化し 裾野を広げた鎌倉時代以降の中世に集中し、
その伝統は現代に生きています。 (石塔・石碑は鎌倉以降の中世) |
摩崖仏の広がり
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大分県の摩崖仏は、国東半島、大分市、臼杵市および大野川流域に集中しています。
これらはいずれも、摩崖仏が造立された平安時代から中世にかけて、天台系の仏教文化が浸透し、
また、荘園の支配関係などを通じた在地の勢力と中央との結びつきが強かった地域です。
さらには、これらの地域に、阿蘇火山灰の堆積層である溶結凝灰岩など、
摩崖仏を彫刻するのに適した岩層が広く分布していることと無関係ではありません。 |
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613臼杵摩崖仏
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臼杵摩崖仏(大分県臼杵市)は、東九州を代表する石仏群です。
このうち、ホキ石仏第1群・第2群には、いくつかの龕(がん、くぼんだ所)があり、各々に石仏が彫られています。
展示しているホキ石仏第2群第1龕の阿弥陀三尊像は、立体的で、彫り方もきわめて細かな像です。
臼杵摩崖仏を代表する石仏の1つです。 |
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614石塔類
石幢 室町時代・明応2年(1493)
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六角の龕部(がんぶ)に六地蔵の姿を彫刻しています。明応2年に「慶庵梁公」という法名の人物が、
自らの極楽往生を願って建立したことが記されてています。 |
中世石造物とその信仰
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仏教が庶民に広がった中世、人々は講衆と呼ばれる信仰集団を形成し、多人数で石造物を造ることもありました。
経典供養のための宝塔や宝篋印塔を初め、極楽往生など多様な信仰を表した板碑、地獄落ちからの救済を願った石幢や石殿(せきどうせきでん)、
多くは墓塔として用いられた五輪塔など、様々な目的に応じて多種類の石造物が造立されました。 |
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石幢(せきどう)
室町時代 明応2(1493) |
石幢
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石造五輪塔
鎌倉時代・正元元年1259 |
角柱塔婆
南北朝時・貞和4(1348)
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平山氏供養塔
江戸時代
一字一石塔
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中世石造物とその信仰
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左1:平山氏供養塔
左2:角柱塔婆
左3:石造五輪塔
中央のっぽ:石幢
右3体:五輪塔 |
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615鎌倉仏教の隆盛
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◎鎌倉幕府による武家政権の誕生は、 それまでの貴族中心の仏教に変革をもたらしました。
仏教は新たな社会構造に対応して多様に分化し、その裾野を広げました。
◎平安時代の浄土教をさらに民衆化した浄土宗や浄土真宗・時宗、 民衆の救済と戒律の復興を目指した律宗。 (総本山唐招提寺)
武家の気風にあったものとして新たにもたらされた禅宗など、 様々な宗派が並び立った所に鎌倉仏教の特色があります。 |
仏教の改革
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鎌倉後期、奈良西大寺を中興した叡尊は、仏教の改革と民衆の救済を目指しました。その仏教の原点に立ち戻ろうという思想は、仏教の創始者である釈迦や我国仏教の祖である聖徳太子に対する信仰を再生させました。
叡尊の教えは、各地の寺院の再興を通して全国に広まり、大分では宇佐大楽寺をはじめ大分金剛宝戒寺、日田永興寺などが西大寺派の律宗寺院として中興されています。 |
大楽寺の後醍醐天皇の綸旨(りんじ)
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宇佐市の大楽寺は、元弘3年(1333)に後醍醐天皇の勅願を得て、宇佐大宮司 到津公連が創建しました。
開山の道密上人は、奈良西大寺の叡尊の弟子にあたります。
この文書は大楽寺の末寺であった宝光明寺の門前を流れる駅館川での殺生禁断を命じたものです。
これは五戒の内の不殺生戒に基づいたもので、戒律の復興を目指した叡尊の思想の反映と見ることができます。 |
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616禅宗と浄土信仰
武家と禅宗
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主に武士層の信仰によって発展した禅宗は、大きくは栄西に始まる臨済宗と道元による曹洞宗の二つの流れがあります。
大分では、
豊後守護大友氏が鎌倉末期に、東福寺派の直翁智侃(じきおうちかん)を招いて府内(現大分市)に万寿寺を創建し、臨済宗が広がりました。
一方曹洞宗は、南保家区長末期に、国東半島を拠点とする豪族田原氏が、無著妙融を開山として、泉福寺(国東町)を開いたことに始まります。、 |
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武家と禅宗 |
放牛光林像
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放牛光林像 |
大応国師像 |
大応国師像 |
浄土信仰の広がり
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平安時代を通じて貴族を中心に広がりを見せた浄土信仰は、
鎌倉時代になると法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗など民衆の救済を目指したいくつかの宗派を形成しました。
大分では時宗が、二祖他阿真教の出身地ということもあって、鎌倉末頃は広まったようです。
浄土宗と浄土真宗は、室町時代も後半になって本格的に普及しました。 |
浄土信仰の広がり |
方便法身像 |
方便法身像 |
浄土真宗の本尊である阿弥陀如来を絵で表したものです。
時代が新しくなるにつれ、
頭光(ずこう:背後に放射状に放たれた光明)の本数が増える特徴があります。 |
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618大分の平安仏
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◎平安時代、それまでの国家の仏教から、個人の悟りや幸福を目的とした密教が主流になっていく中、
有力な貴族や地方豪族たちによって、 盛んに寺や仏像が造られるようになりました。
◎県北の国東半島や大分市域、日田地方などに数多く乗る平安仏は、
地域の豪族達の信仰によって造られたものです。
これらの仏像は、中央の影響を受けながらも、地方色豊かな作ぶりを示しています。 |
大分の平安仏
上に記述 |
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阿弥陀如来座添え |
阿弥陀如来坐像
江戸時代17c |
阿弥陀如来坐像 江戸時代 17世紀
寄木造の阿弥陀如来坐像に、台座・光背も完備し、本格的な京仏師の作になる仏像です。
像底に銘文があり、寛文年間(1661~73)に豊前中津の浄土私有寺院の本尊として造立されたことがわかります。 |
不動明王座像 平安時代11c 大分市金剛宝戒寺蔵 撮禁
不動明王座像
平安時代11c
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両眼を見開き、前歯をあらわに見せるのは、真言宗系の不動明王の特徴です。
奈良時代の創建になる金剛宝戒寺の平安時代の様子を伝える唯一の資料です。 |
兜跋毘沙門天立像 重要文化財 平安時代11c 日田市永興寺蔵 撮禁
とばつ びしゃもんてん りゅうぞう
兜跋毘沙門天立像
平安時代11c |
直立して両足を地天に支えられた姿の毘沙門天を特に兜跋毘沙門天と言い、王城鎮護の仏として信仰されます。この像は、永興寺を創建したとされる豪族大蔵永弘が造立したと伝えられています。 |
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620信仰とくらし
様々な神仏への祈りの姿をもとに、大分の人々の暮らしを眺めていきましょう。
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621
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623身近な神仏
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◎大きな神社や寺院だけではなく 人々は身近な所にも神仏を見出しました。
里には近隣の家々や個人で祀られる神仏があり、 山や海などは他界とつながる 聖なる場所と考えられました。
ムラやマチには、もっぱら占いや呪まじない、祓はらいを行う人々もいて、 神仏と頻繁に接触していました。
◎こうした身近な神仏に対して 人々は色々な形で祈りの心を表しました。
そこに人々の日々の願いが込められています。 |
庶民と神仏
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神仏は古来様々な形で表されてきました。
広く人々に親しまれてきた身近な神仏(稲荷や大黒、庚申など)も姿かたちを描いたもの、神仏の名を刻んだものなど多彩です。
時には、神仏の威徳、霊力を象徴的な造形で表すこともあります。夫婦和合、子孫繁栄を願うサイノカミ(陰陽石)などがその好例です。 |
サイノ神 豊後高田市(旧真玉町)臼野泊
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道祖神などとも呼ばれます。本来は外から入り込む災厄を防ぐ神で、ムラの境などにまつられます。
性器には神秘的な力が宿ると考えられ、それをかたどった石や木が神体とされました。 |
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625神仏の力を具現したもの
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おふだ |
寺社で頒布する護符で、神棚や仏壇に納めたり、門口や柱などに取り付けて神仏の加護を願うもの。
火難、虫除けから開運、家内安全を祈るものまで多種にわたる。御札は、祈祷のための読経の回数を書き付けた巻数(かんず)が、そのもとであるといわれている。神に一夜の宿を提供したので、子孫に災いがなかったという神話に由来する、「蘇民(そみん)将来之子孫也」という御札をはる地域も広い。中世以降、紀伊熊野神社の御師をはじめ、有力寺社の御師や先達(せんだつ)が全国を回って御札を広め、その効用を説いた。ことに神札は、御神体として扱われるほどのものになっている。節分時によく目にするヤイカガシや竹の先に籠(かご)をつけて立てたメカゴ、村境に注連縄(しめなわ)を張って大草鞋(わらじ)をつるした辻(つじ)切り、玄関口に針千本という棘(とげ)のある魚や蜂(はち)の巣をつけた門守りなどは、悪霊除けとして伝えられた伝統的な風習であるが、しだいにその役目を御札に譲りつつある。
引用コトバンク 通販 |
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627
穴空き石 豊後高田市田染
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耳の病気や難聴で悩む人が、穴の空いた石にあやかり、耳の穴がよく通ってきこえるようにと願って奉納したものです。
同じ願い事に火吹き竹を使うところもあります。 |
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穴空き石
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穴空き石 |
祈願用乳房
(ヌーブラ) |
生目神社奉納布
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絵馬など
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巡礼帷子・札入れ |
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巡礼朱印帳 |
御幣
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630 |
631県内主要霊場
県内主要霊場 |
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御許山 |
津波戸山
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霊場だらけの大分県
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求菩提山 |
九重連山
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羅漢寺
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632主要霊場位置図
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633琵琶法師
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盲僧は、琵琶を弾き祈祷や占いをする僧で、土用経、荒神祓い、地鎮祭などを行いました。
九州の盲僧には常楽院放流と玄清法流れという二つの大きな流派がありますが、国東の盲僧は福岡にある成就院を本拠とする玄清法流です。
国東半島では、江戸時代に4~50人を数えていましたが、現在では一人もいなくなってしまいました。 |
神仏との交流
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人々はごく身近な神仏を祀るのとは別に、遠くの神社や霊場を参詣することもありました。四国八十八ヵ所や西国三十三か所の巡礼が有名です。
県内にもそれらにならった霊場が各地に設けられました。こうした場所で人々は神仏と交流しました。
国東では盲僧が折に触れて家々を訪れることもありました。ここでも人々は神仏と交流できたのです。 |
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国東の盲僧 |
盲僧 |
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神仏との交流
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筑前琵琶
盲僧の笹琵琶
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筑前琵琶
盲僧の護符
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634祭と行事
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◎大分県内には四季を通じて 様々な祭礼行事があります。
日田・臼杵・中津の祇園など 町をあげての盛大な祭もありますが、 百手祭ももてまつりのように集落単位で行われる小さな祭もあります。
◎そこには、豊作祈願や疫病除けなど日々の願いが込められています。
今より娯楽の少ない頃には、年に何回かの祭は、人々にとって何よりの楽しみでもあったのです。 |
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635四季の歳時記
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637
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638
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640歳時記 |
641日々のまつり
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◎神社や寺院で祭礼や法会が行われる一方で、 各家庭でも季節ごとに様々な祭が行われます。 こうした日は、普段とは違う「ハレの日」でした。
この日は仕事も休み、神仏を祀ることに専念します。
晴れがましい気持ちでハレ着を着て、ハレの料理を食べ、神仏と交わります。
◎このことによって、人々はまた明日からの活力を得るのです。
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日々の祭り |
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お正月の遊び |
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羽子板の歴史 |
羽子板の歴史 |
羽子板・押絵羽子板 |
羽子板
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押絵羽子板
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642正月の遊び
正月の遊び
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凧
凧の歴史
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羽根つき |
カルタ |
カルタ |
カルタの歴史 |
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643
凧 |
コマ |
コマの歴史 |
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けんかごま |
けんかごま |
貝コマ |
ベーゴマ |
うなりゴマ |
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644盆の供養
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盆は、正月と並ぶ重要な年中行事で、故人を供養する行事です。
その名前は「盂蘭盆」という仏教用語に由来しますが、もともとは日本古来の先祖祭りです。
現在見られるような、故人や先祖の供養という形になったのは、寺檀制度が整った江戸時代頃だといわれています。
期日は本来7月15日ですが、月遅れの8月に行うところも多くあります。盆には、提灯や灯籠を飾り、盆迎えや盆参り、盆踊りなどを行います。
特に、初盆の家では、盛大に供養が行われ、親戚や近所の人たちなど、多くの人が集まって故人を偲びます。 |
精霊船
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川や海に供物を流して先祖を送る精霊流しに用いる船です。牛馬に見立てたナスやキュウリなどの野菜、果物、菓子などを乗せて流します。
供物を送ることにより、盆に迎えた先祖の霊が帰っていくとされます。 |
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645人の一生
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◎人の一生にはいくつもの節目があり、 この時様々な儀礼が行われます。
誕生や成長の祝い、結婚の祝い、そして葬送。
◎年中行事や昔ながらの生活が、 次第に姿を消しつつある中で、人生にかかわる儀礼はまだまだ盛んに行われています。
もちろん内容は昔と比べて様変わりしていますが、人生の大事な時期に何か特別なことをしようという心持ちは今も昔も同じだと言えます。 |
お盆の行事
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正月と並んで盆にも数多くの行事があります。先祖の霊を招いてまつる行事で、仏教の影響を強く受けています。
盆には、精霊棚を作って精霊をまつったり、様々な方法で精霊送りをするなど多くの行事が見られます。
本来は旧暦7月15日を中心に行われる秋の行事ですが、現在では月遅れの8月に行う所も多くなっています。 |
御殿灯籠
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無形民俗文化財 / 九州
初盆を迎える家は8月12日夜までに墓参りを済ませると,翌13日に仏間などに豪華絢爛かつ巨大な燈籠を飾る。 この燈籠は,据え燈籠,御殿燈籠などと呼ばれる。 引用google |
銭太鼓
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フグの皮を張った太古で、中に小銭が釣りつけられていて、チャラチャラという音がします。
姫島では毎年8月に盆おとりが行われますが、その中の「銭太鼓」という踊りで用いられます。 |
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人の一生 |
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御殿灯籠
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御殿灯籠 |
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地蔵流し札
:県南海岸部で春の彼岸海難者の供養に流すおふだ |
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初盆うちわ
初盆に来た人に礼として渡すうちわ |
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銭太鼓
フグ皮の太鼓。中に小銭が取り付けられチャラチャラ鳴る。姫島8月の盆踊り銭太鼓踊りで使用 |
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盆の行事
上に記述 |
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646
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死者の宮殿。台湾やインドシナの葬送儀礼に近い。 |
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700Ⅵ信仰とくらし
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701国重要文化財 後藤家住宅
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野津原町荷尾杵にある後藤家住宅は、元庄屋の家で、18世紀後半に建てられました。
寄棟づくり、茅葺で、北側から土間、板の間、ヒロマ、座敷が並びます。ヒロマの後ろに2つのナイショ(寝所)、座敷の後ろにはナンドがあります。
こうした間取りは大分県各地にみられるものです。
この模型は、後藤家のうち土間とソロ間の一部、そしてナイショ一部屋を再現したものです。 |
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703日々の営み
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◎人々の日々の営みの中に 様々な祈りがあります。
正月には年神様を迎えてまつり、生命力の更新と豊作を祈ります。
また、盆には祖先の霊を迎えてまつります。
◎こうした特別な日でなくとも、神棚や仏壇はもちろん、台所のかまどや便所に至るまで、
人々は神仏がいるものとして日々祈っていたのです。 |
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710日本遺産関連展示
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711鬼が仏になった里「くにさき」
1 日本遺産とは?
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地域において、世代を超えて受け継がれている有形・無形の文化財を共通のストーリーの下にパッケージ化し、そのストーリーを我が国の文化・伝統を語るものとして文化庁が「日本遺産(Japan
Heleritage)」に認定する制度です。
大分県では、「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」(日田市、水戸市、足利市、備前市)、「やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻の道をゆく」(中津市・玖珠町)に次いで、平成30年5月24日に、3件目として「鬼が仏になった里「くにさき」」が認定されました。 |
2 鬼が仏になった里「くにさき」
【場所】 豊後高田市・国東市
【ストーリー概要】
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「くにさき」の寺には鬼がいる。一般に恐ろしいものの象徴である鬼だが、「くにさき」の鬼は人々に幸せを届けてくれる。
おどろおどろしい岩峰の洞穴に棲む「鬼」は不思議な法力を持つとされ、鬼に憧がれる僧侶たちによって「仏(不動明王)」と重ねられていった。
「くにさき」の岩峰につくられた寺院や岩屋を巡れば、様々な表情の鬼面や優しい不動明王と出会え、「くにさき」の鬼に祈る文化を体験できる。
修正鬼会の晩、共に笑い、踊り、酒を酌み交わす―。「くにさき」では、人と鬼とが長年の友のように繋がれる。
修正鬼会については平常展「500六郷山の文化」で詳しく展示をしていますので、ぜひご覧ください。 |
鬼が仏になった里
「くにさき」 |
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鬼が仏になった里
「くにさき」 |
鬼が仏になった里
「くにさき」
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峯入りと熊野摩崖仏 |
修正会 天念寺 |
人々は鬼を恐れたりしない
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五辻不動 |
修正鬼会 天念寺
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ケベス祭 |
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713ケベス面
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シオカキで身を清めたケベスドンが面をつけ、神職が背中に「勝」をなぞり、一叩きするとケベスがのり移る。
※あの有名なケベス祭りです。この面は鬼の面の壊れたもの?ケベスってエベス様?何人もの有名な学者がこの祭りを見学した。
この面は日本人には大きくて、顔に付けると片目しか見えないそうです。
:ケベス祭りは火祭りです。
東大寺二月堂の火祭りは明らかにゾロアスター教にかかわる祭とされている。その根源は若狭神宮寺あります。
しかし、六郷山では冬の修正鬼会で火祭りが行われますが、旧暦9月14日、現10月14日に行われるケベス祭はちょっと意味が違うようです。
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715修正会
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香水棒
牛王杖(サンジョウ・トシノカズ)
祭壇上に供え「米華」の時に撒いたり、地元の人に配る。いただいた人にはご利益があるといわれている。
タイマツ
鬼役とタイレシが持つ。鬼役はこのタイマツで、参拝者の肩などを叩き、無病息災の加持を行う。
「タイレシ」の名称について
国東地方に伝わる「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」で松明を持つ人のことを松明衆(たいれし)と言う。
「修正鬼会」では、仏の化身で幸福を招く鬼を松明衆が村中に案内して回り、五穀豊穣と無病息災を祈願します。 引用「秀渓会」 |
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香水棒
天念寺修正会で夜の勤行や立役に使用。 |
牛王杖
サンジョウ・トシノカズ |
祭壇上に供え、
「米華」の時に撒いたり、
地元の人に配る。
頂くと御利益があるという。 |
タイマツ
鬼役と松明衆が持つ。
鬼役はこのタイマツで参拝者の肩などを叩き無病息災の加持を行う。 |
タイマツ |
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717農業遺産
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農家矩
この『農家矩』は、現愛知県出身の官僚・農業史家であった織田完之が著した書籍です。
農家のための実用書として、栽培技術をまとめたもので、当時使用されていた農具なども描かれてます。 |
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720※考察 ケベス祭りを考える
ケベス祭は奇祭である。ケベスが何者なのか、起源も、名前の由緒・由来もわからない。祭礼の内容も意味不明である。
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ケベス祭のあらまし
引用 大分遺産 ケベス祭
ケベス祭は奇祭である。ケベスが何者なのか、起源も、名前の由緒・由来もわからない。祭礼の内容も意味不明である。
国東市国見町の櫛来社(明治に改名された)(本名:岩倉八幡は磐座八幡と書き、巨石信仰の社)の祭礼である。
10月14日(本来は旧暦9月14日に行われ9月祭と呼ばれていた)に奉納される。
10の集落の氏子から20数名がケベス(蹴火子)役とトウバ(当場)役となり、別火・物忌み・精進潔斎して、社殿から十数mの海岸で身を浄めることから始まる。
社殿広場は周囲を屋根のある回廊で囲まれ、広場中央にはシダの束が積み上げられている。
祭りには神官と二十数名の白装束で杖を持った若者がトウバとして参加する。
社殿では神官がケベス面に祝詞を上げ神霊を面に迎える。白装束の「ケベスどん」が面を着け、神官が「勝」の呪文をその背に書き、気合を入れると杖を持ったケベスどんが神そのものとなる。
境内に山積みのシダに火が放たれ、太鼓や笛、鉦の楽子による練楽が四拍子で奏でられ、ケベスや神官などの行列が境内を回る。
そのうちケベスが火をうかがうようになり、機を見て火に突進しようとする。これをトウバの若者たちが遮り、攻防が続く。赤く燃える火と白装束。杖を持ったケベスとトウバの力比べが続き祭り気分を盛り上げる。
そしてついに9度目の突進でケベスが火を獲得する。燃え盛る火を掻きまぜてまき散らすと、今度はトウバも一緒になり、火のついたシダ束を持って境内を駆け巡り、参拝者にも容赦なく火の粉を浴びせ、尻を叩く。尻をたたかれ、追われて逃げ惑う人々。無病息災を祈願する、火による「祓い清め(浄め)」の儀式である。
由来を、
火を扱う鍛冶神でもある宇佐八幡が近くの海岸に寄りついたとか、神功皇后の三韓遠征の際に火を焚いて潔斎したという伝承もあります |
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半島渡来人祭祀説 引用「古代史ウォーカー 岩倉社ケベス祭の語源話」
このブログはコピーライトが掛かっているので引用できません。お読みください。
その中では以下の
①製鉄起源
朝鮮語で 「製鉄」+「フイゴ」+「手」、「チョペス」が「ケベス」になった
②渡来人名説
「きべしゅう」が「ケベス」に似ているから |
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ケベス異民俗説
研究ノート ケベス考
「ケベス」の祭りを行う人々トウバは「火を混ぜない」と言う。その年のトウバの人々は精進潔斎を行い、
他の家の火を用いたもの食べず、子供は学校にも自家製の弁当のみならず、水筒までを持参すると言われている。他家の火を用いた飲食を拒否すること実に異常としか言いようがない。「ケベス」において、火を神聖なものとする事は、まさに全てを超えた絶対的なものである。何故か……
(※古来からの祭祀で別火(べっか)は私の周囲でも祭礼時に行われる普通のことと思います。)
「ケベス」の火は通常の火ではない。「ケベス」を祀る部族の火は、他部族を圧倒する力を持った超能力的な火なのである。
故に他部族にその火を盗まれることを畏れるのである。
異様な面をつけた祭事の「ケベス役」は、神聖な火を盗みに来た他部族の神である。彼らは部族をあげて木槍の武装を整えて防戦に努める。だが遂に火は盗まれた。その火を持ち帰った里人は、この神聖な火、即ち当時最高度の技術を得て、更に他の部族に盗まれることを恐れて、彼を神と祭り、一致団結してこの「ケベス」の祭りを始めたのではないだろうか。
先に述べたように、現在の御祭神は八幡社であるけれど、本来の御祭神は今これを訪ぬべくもない。強いて言えば「ケベスの神」であろう。
古代「えびす」とは異民族を指す言葉であった。国東半島では「えべす」と発音する。
「ケペス」は「ケェペス」であろう。「エペス」→「クエペス」→「エベス」となったのではなかろうか。
(※ここでは「ケベス」が「えびす」になったっと言っています。) |
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その他、ケベス祭について調べたリンクです。
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起源や意味を考えるのはとてもむつかしい。 方向を変えてみよう。
基本に立ち返ってみよう
宇佐神社は渡来人で鍛冶技術を持った辛島氏と大岩を信奉する宇佐氏によって磐座信仰から古代神道に変わった信仰である。
そして、秦氏によって、八幡神(やわた=ヤーベ)を祀るようになった。
ユダヤ教・キリスト教の影響が強い信仰であり、ヤーベ以外にもこれらの影響を残しているのかもしれない。それを考えてみる。 |
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現場リポート
※引用「辛酸なめ子の大分カルチャーツーリズム「神の印象が変わった」」
※このブログの考察は大変優れています。ぜひ全文をご一読ください。
『「ケベスさま」と親しまれる仮面姿の存在が、境内に焚かれた神火を守る白衣の集団・トウバから火を奪おうと試みます。幾度かの小競り合いを繰り返し、ついにケベスが火を奪うと、まるでその狂気が伝染したかのようにトウバたちがいっせいに境内を駆け回る。そして、祭りを見に来た観客たちに火の玉を手に襲いかかる……そんなクレイジーな祭りです。』
古代宗教拝火教の影響を受けたユダヤ教・キリスト教の中にある拝火教的な側面ではないか。
過ぎ越しの祭りの子羊の血といい、子羊を生贄にする儀式と言い、ユダヤ教・キリスト教ののユダヤ人・秦氏の祭なのだろう。
ケベス面の打ち壊された西洋人の顔。白い衣装をまとった子羊役。これらが(当時はいなかった)羊を生贄にする代わりに、生贄の子羊によって守られた火を面男が手に入れるまでの闘い、火を手に入れた後の子羊の焼かれる様子をあらわした後半とに分かれた動作で、ユダヤ教キリスト教の祭を再現したものではないだろうか。 |
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引用「燃える。なれ」 ケベスとはヘブライ語で子羊という意味の言葉であり、子羊は神への生贄となる動物であると。
ユダヤ教とキリスト教においては、生贄の動物を祭壇で焼いて神に捧げる燔祭(はんさい)という儀式があるらしく…
つまり、子羊であるケベスは生贄であり、火の粉を浴びせられる人々もまた生贄となる。火の粉を浴びる=信仰の証であるのだと。 |
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燔祭 引用コトバンク
(「燔」はあぶり焼く意)
①古代ユダヤ教で、神への捧げ物として雄牛・羊などの動物を石造りの祭壇で丸焼きにして供えたこと。また、その焼いた供え物。
②古代ユダヤ教における最も古く、かつ重要とされた儀式。いけにえの動物を祭壇上で焼き、神にささげた。
③旧約聖書『レビ記』でモーセが定めた供犠の1つ。供物を必要とし,雄牛,羊,やぎ,鳩のみが用いられた。その目的は神の崇敬と賛美,神への感謝,祈願,贖罪の4つに大別され,供物が供壇で焼尽され,神のみに捧げられ,供犠中最も高貴なものとされた。
④動物犠牲の一種。奉献された犠牲動物は完全に祭壇で焼かれるため、特別に神聖な捧げ物とされる。その一部なりとも祭司なり奉献者の食用に供してはならない。犠牲獣としては雄牛、ヤギ、羊、鳩などが使われ、いずれも健全なものであることを要した。エルサレム神殿では毎日朝と午後、さらに安息日、新月の日に、個人的には祭司の聖別、ハンセン病患者や産婦の清めなどに際して捧げられた。
ユダヤ教においては、欠くことのできない、重要な贖罪の儀式であった。 |
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※考察 私の結論として
ユダヤ人秦氏の影響下にある宇佐神宮である。ユダヤ教・キリスト教側に立って考えてみる。
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①ケベスとはヘブライ語である。日本語にはヘブライ語が沢山混じっており、これは偶然の一致ではないと思える。なぜなら、
②9月14日はユダヤ教の新年である。
③ユダヤ教・キリスト教では、祭壇の火で子羊を生贄にする儀式があり、これは、毎日午前と午後に行われていたという。
④10の集落を選んで祭の当番とする。
イスラエル王国は紀元前722年に滅亡し、10の支族は東へ逃れた。近年シルクロードの各地で10支族の末裔を探す調査が行われた。
やがて5世紀に秦氏として弓月君と共に半島から列島にやって来た人々は列島各地に分散居住して高い文化を展開した。
宗教や儀式もその一つである。日本に来て解放された秦氏は自らの宗教心を八幡信仰と稲荷信仰に置き換え、定着させた。
ケベス祭もその一つかもしれない。
ヘブライ語で「ケベス祭」は子羊祭。ケベス面は子羊の生贄祭りの主催者が被る面。
つまり、お面を被って司祭になり変わった人が、火の回りを跳ねる子羊役のトウバを生贄にする。
しかし、長い年月の間に、この儀式に様々な別の祭りや、他の民間信仰が溶け込み、現在のケベス祭になったのではないか。
当時は存在しなかった子羊を白衣装の人で代行し、新年の祭として9月14日に行うようになったのではないだろうか。
国を失ってから1300年。やっとたどり着いた安住の地で、秘かに、曲がりなりにも、守って来た自分たちの信仰を残したかったのではないだろうか。EuropeAsiaの祭祀は、不殺生の仏教文化の日本では受け入れられないものと理解し、生贄の儀式をこのような火祭りに変え、やがて様々な行事の模倣が加わったが、それでもケベス面、子羊衣装、そして、何よりも大切な音楽は残されたのだろう。(こういったところは構造主義哲学が解明すべきかもしれない。)
観客に火の粉を浴びせたり(奈良二月堂のお水取り=韃靼の儀式、ゾロアスター教)、信者を叩いたり(多くの伝統行事に残っている)などは、その後に付け加わった模倣だろう。
と、思いました。 |
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付録 |
検索の中で 秦氏の文献が見つかったので引用させていただきます。
このブログは、大変詳しく秦氏について調べられています。 私はここで、特に宗教と壬申の乱以後の消えた秦氏に注目しました。
特に秦河勝については、その終焉の地赤穂市は車で2時間ほどなので高速をぶっ飛ばして行ってみたいと思っています。
流浪の1300年を経てやっと安住の地を見つけた秦氏も、おそらく5世代もすればすっかりアジア人の顔になっていたでしょう。 |
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引用「山城の国風土記」
過去記事「201.日が昇る国「日高見国」はどこにあったか」では常陸国風土記・信太郡を取り上げ、秦氏の氏族の一部が常陸国(茨城県方面)に存在していたことを示した。本記事では「山城国風土記」に記された秦氏を取りあげる。次の順にて紹介していく。
・山城国風土記
・鳥部里(とりべのさと)の条 (鳥辺山 谷に煙の燃えたたば はかなく見えし われと知らなむ)の古代の火葬場があったところかな
・伊奈利社の条
・稲荷神社の創建
・いなりとインリ説
・秦伊侶具
・ユダヤ人の肌の色
・秦氏と壬申の乱
■山城国風土記
「風土記」は713年に元明天皇が諸国に編纂を命じたとされている。山城国風土記では平安京へ遷都する以前の山城国の風土、文化、地理などが記されている。
■鳥部里(とりべのさと)の条
山城国風土記の逸文にて鳥部里の記録が残る。
鳥部というは、秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)、餅を的とするに、鳥となり、飛び去り居る。そのところの森を鳥部という。
そして次の条「伊奈利社」でこの飛び去った鳥が、今度は山の峰に止まる。
■伊奈利社の条
伊奈利(いなり)というは秦中家忌寸等が遠つ祖、伊呂具の秦公、稲梁(いね)を積み冨裕(とみ)をたもつ。すなわち、餅を的となせば、白き鳥となり、飛び翔り山の峰に居る。(以下略)。
■稲荷神社の創建
伏見稲荷大社は、711年(和銅四年)、秦氏による創建とされる。上記、万葉仮名の「伊奈利」がやがて「稲荷」へと変化したとされる。稲荷神社発祥の根拠は山城国風土記に示されており、秦氏による創建である。
伏見稲荷大社を扱ったサイト→ kyoto-stories.com
■いなりとインリ説
イエス・キリストが十字架にかけられた際のインリ(INRI:IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM)に由来するのではないかとする説もある。その英語の意味は、ユダヤ人の王、ナザレのイエス。これが秦氏がキリスト教、ネストリウス派だったのではないかとする説の根拠の一角である。なおネストリウス派はイエスの死後すぐ成立したわけではなく、徐々に教えがまとまっていった。
■秦伊侶具
秦伊侶具は山城国風土記の逸文で登場する人物。はたのいろぐと読む。この漢字を反対から読むと「黒い肌」と読むことの可能。
「新撰姓氏録」の「山城国諸蕃・漢・秦忌寸」では次のような記述があり、「秦」と「肌」と関連があることを示している。
彼らが織った絹織物は柔らかくて滑らかな「肌」のようだったため、応神天皇は彼らに「肌」と同じ発音の「波多」という姓を賜った
■ユダヤ人の肌の色
ユダヤ人は基本はアラビア人。個人差はあるが、皮膚の浅黒い、有色人種。ただし白人との混血も多く、古代ユダヤ人は、トルコ系ヒッタイトとの混血が多かったとされる。欧米のユダヤ人の場合は白人となるため、人種、言語、文化が異なってくる。
■秦氏と壬申の乱
壬申の乱は古代最大の内乱。奈良、大阪、滋賀にまたがる大規模な戦いであった。この結果により近江朝は敗れ、大海人皇子(おおままのみこ、のちの天武天皇)軍が勝利する。秦氏は672年の壬申の乱後、表舞台から消えたとされる。その後、おそらく各地で神社などを建設していく。
■感想
日本人のダジャレ好き的な文化は古来の秘め事や風刺に起因していると感じることがある。
<参考> 秦伊侶具 - Wikipedia |
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900富貴寺の世界
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◎十二世紀後半に創建された富貴寺大堂は、六郷山寺院の中では特異な存在です。
阿弥陀堂形式の建築、
浄土図をはじめとする壁画、
定朝じょうちょう様式の仏像などは、当時盛んであった浄土信仰に基づいたものです。
◎それらは、建立者の宇佐八幡大宮司が極楽往生を願い、中央の仏教文化を熱心に受け入れたことをうかがわせます。 |
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901
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903大堂の壁画
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大堂の壁画は、浄土教の主題によって描かれていますが、四天柱してんちゅうに見られるように密教の要素も混じっています。
仏後壁の極楽浄土の図をはじめ各図は伝統的仏画の影響を受けながらも、平安貴族の日常に題材を取るなど、、新しい独自の表現も見られます。
この壁画は少なくとも5、6人の絵仏師の共同制作になるものと考えられます。 |
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910宇佐風土記の丘
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※私はこの広大な敷地を見て、ここが風土記の丘だと思っていました。しかし、下③の案内図では、ここは、ほんの一角にすぎず、
本当の風土記の丘は、この反対方向にあることがわかりました。大失敗です。 |
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911宇佐風土記の丘案内図
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912大分県の古墳
大分県の前方後円墳の広がり(抜粋)
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古墳は、土を盛り上げて造った有力者のお墓です。特にに前方後円墳は、上から見ると、長方形と円形がくっついた形のお墓で、3世紀中頃、今の奈良県に初めて作られました。
その後もヤマト政権の中心とも言われる奈良や大阪で、200~300mの長さを有する前方後円墳が作られました。このことから、前方後円墳は、古墳時代の大和政権を象徴するお墓とされています。
そのため、ヤマト政権との結びつきを強めた地方で、前方後円墳が作られるようになりますが、これは日本が1つの「クニ」になっていく過程を示していると思われます。
大分県内では、海岸部や川沿いで展望の良い場所に前方後円墳が作られています。 |
太古の昔、宇佐は九州屈指の聖域!
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宇佐平野を南から北へ流れる駅館川(やっかんがわ)東岸の台地上に、3世紀後半から6世紀につくられた前方後円墳6基を含む、
数多くの古墳からなる川部・高森古墳群があります。
宇佐風土記の丘は、この川部・高森古墳群を未来に継承していくために整備された史跡公園です。
この場所は、宇佐平野を見渡す丘にあり、長い間宇佐地域の有力者たちが眠る聖域でした。
特に、今から1700年前(3世紀後半)に造られた赤塚古墳は、前方後円墳であることから、宇佐地域が九州で最も早く、ヤマト政権との結び付きを深めたことを示しています。その後、6世紀中頃の鶴見古墳まで、6基の前方後円墳が造られています。
古代日本では、地域の有力者が国造(くにのみやつこ)に任命されました。
「古事記」には、宇佐国造として「宇沙都比売(うさつひこ・うさつひめ)」がみえます。
宇佐国造が、川部・高森古墳群に葬られた可能性もあり、宇佐地域がヤマト政権にとって重要な場所であったことを示しています。
だからこそ7,8世紀に、仏教文化や八幡神の文化が宇佐の地において盛んになったのです。 |
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大分県図
宇佐市を指している |
風土記丘主体部 |
風土記丘つけたり部 |
大分県の前方後円墳の広がり
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太古の昔、宇佐は九州屈指の聖域
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913
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914赤塚古墳
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赤塚古墳は3世紀後半に築造された宇佐地域の豪族のお墓で、前方後円墳としては九州で一番古いとされています。
1921(大正10年)に赤塚古墳の頂上が掘られ、人を埋葬していた石棺の中から、
三角縁神獣鏡5面、碧玉製のアクセサリー(管玉)や鉄で作った刀が見つかっています。
特に三角縁神獣鏡(京都国立博物館蔵)は古墳時代の初めの大和政権が地方豪族に分け与えたものと言われており、
赤塚古墳の鏡には京都府の椿井大塚山古墳から出土した鏡と同じ鋳型で造られた鏡が含まれていました。
この銅鏡と、古墳の平面形が古墳時代の王権が存在した奈良、大阪にある前方後円墳と同じ形であることから、
古墳に埋葬された豪族は大和政権との深い結び付きのあったことがわかります。
なお周辺調査の結果、赤塚古墳は全長57.5mで、周囲に8.5m~11mの溝(空壕)がめぐっていることがわかりました。
向かって右側の高い部分が口縁部で、埋葬された場所です。
左側の低い部分は前方部といいます。 |
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