北陸の縄文と観光2 04 2015.10.08(木)
南砺市埋蔵文化財センター 富山県南砺市高瀬736 0763-82-5050 火曜休館 撮影可
(旧井波歴史民俗資料館)
交通 砺波駅からレンタカー ニコレン砺波駅前店
見所 富山県の旧石器~縄文草創期の重要な、立野ヶ原遺跡群をはじめとする、膨大な量の展示物。
縄文資料館の多い富山で、決して外せない博物館です。
時代 旧石器~縄文
特記記事 旧石器時代を巡る文化の変遷
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目
次 |
01外観
10旧石器時代
13南砺地方と先土器時代(抜粋)
南砺地方と先土器時代(全文)
14旧石器時代とは
立野ヶ原石器群とは
日本海を巡る旧石器時代の交流
1.環日本海諸地域への人類の進出
2.日本海側に分布する旧石器
(1)米ヶ森技法
i)米ヶ森遺跡
(2)立野ヶ原石器群
3.瀬戸内系石器の分布
4.南砺市 立美遺跡 が物語るもの
5.マンモスハンターの末裔たち
まとめとして
富山県の旧石器
17立美遺跡
尖頭器について
17後期旧石器時代後半
刃部磨製石斧
編集不能の石器
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20縄文時代
21南砺地方と縄文時代
22松原遺跡
両頭尖頭器とは
24石器
朝日不動堂遺跡大型住居
28男根形祭祀具等
29御物石器
御物石器と石鋸形石器
-高瀬神社の石器-
32縄文の生活・土器作り
36西原遺跡
40土器
41縄文中期~後期
45イノシシ型注口土器等
47縄文後期前半 田尻遺跡
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50土器
51赤尾遺跡 前期末~晩期
52矢張下島遺跡 後・晩期
54安居五百歩遺跡 後期
56土偶
57吊り手香炉形土器
58竹林遺跡の土偶 |
この博物館で学んだこと
・旧石器時代の本格的な始まり
・環日本海の旧石器文化の変遷
・米ヶ森技法とその文化人
・ナイフ形石器と文化人
・立野ヶ原の石器文化
・瀬戸内系石器文化の拡大
・槍先形尖頭器文化人の流入
・細石刃文化人の流入
・各種石器群の実態
・大型槍先形尖頭器文化の拡大
・両頭尖頭器
・御物石器
・後・晩期の祭祀的背景
・後晩期の他文化の流入 |
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01外観
南砺市埋文 |
田んぼと民家の風景の中に
突然りっぱな建物が出現します。
南砺市は立野ヶ原遺蹟群で有名なところですが、センター自体は、国史跡「高瀬遺跡」の展示館です。
高瀬遺跡は砺波地方の奈良~平安にかけての人々の生活様式を知る痕跡の遺跡です。 |
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南砺市埋文は立野ヶ原遺跡群の すぐそばにありました。
しかし、発掘遺物はどれほど展示されているのでしょうか。 |
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10旧石器時代 |
13南砺地方と先土器時代※1(抜粋)
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先土器時代の遺跡は、立野ヶ原(城端町~福光町)で、鉄石英(赤石・黄石)やメノウを材料に石器が出土する。また、長野産黒曜石もあり当時交流があった。
石器は赤土層から出土し、礫層・赤土層には火山灰層もあり、更新世の火山降下物でした。これにより、約一万年間の人々の生活がたどられています。
石器の作り方も1万年間に大きく変化しており、重要な研究対象です。 |
南砺地方と先土器時代※1
洪積世=更新世 258~1万年前
沖積世=完新世
1万年前~現代 |
更新世に地峡を渡って沢山の動物が来た
最も古い遺跡3万年前
先土器時代という |
上に記述 |
南砺地方と先土器時代※1(全文 上に抜粋がある)
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「洪積世」とは、約200万年前に始まるドナウ寒冷期以降、4回の氷期と3階の間氷期が繰り返し地球を包み込んだ時代と言われている。
地形も火山活動や氷河の形成によって大きく変化し、日本列島の生成にも大きな影響を与えました。
洪積世は人類が猿人(アウストラロピテクス アフリカヌス)として誕生し、(洪積世=更新世)
原人(ピテカントロプス エレクトス、シナントロプスペキネンシス)・旧人(ネアンデルタール人)・新人(クロマニヨン人)と進化した時代でもあります。 |
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激しかった火山活動も落ち着き、現代に続く「沖積世」に入ります。 (沖積世=完新世)
人類の区分としては、洪積世を「旧石器時代」 沖積世の最初の頃を「新石器時代」とよび、その間に「中石器時代」を儲ける場合もあります。(ヨーロッパ) |
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洪積世の日本列島は、ユーラシア大陸と陸続きであったようです。 |
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有名なマンモス・ナウマン象・オオツノシカ・バイソンの一種であるハナイズミモリウシ・モウコウマなど、今は絶滅した動物化石が各地で発見されています。
この動物たちは自然が作った陸橋を渡って半島状であった日本にたどり着き、その動物を追って遂に人類も日本に姿を現すことになります。 |
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今から約3万年前のものと推定(C14年代測定)され、洪積世の最後に位置付けられています。
従って、その遺跡を残した人々は新人段階に進化した人々と言うことになります。
この時代を日本では「先土器時代」と呼んでいます。まだ土器をつくることを知らない時代で、人々はもっぱら石器や骨の道具を用いて動物を狩り、
その肉を焼いたり、焼き石で蒸して食べていたと想像されます。 |
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先土器時代の南砺地方を代表する遺跡群は、城端町~福光町にかけて拡がる「立野ヶ原台地」で発見されています。 |
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ここの礫層の中に含まれる鉄石英(赤石・黄石)やメノウを材料に多くの石器を作っています。
中には遠く、長野県から運ばれてきた黒曜石を用いて作った石器もあり、当時既に交流があったことがわかります。 |
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赤土層には火山灰が含まれていますが、これは洪積世の火山活動による降下物と推定されます。
これによって石器が洪積世に造られ、その時代は先土器時代に属することがわかります。
更に、赤土層の下から見つかる石器が古く、上から見つかる石器が新しいこともわかります。 |
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立野ヶ原では約1万年間にわたる人々の生活の跡が辿られています。 |
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石器の作り方も1万年の間に大きく変化しており、重要な研究材料となっています。
ある意味ではちっぽけな石器を使うことによって、たくましく生きた祖先の姿を垣間見ることができます。
石器には石器によって狩られた動物たち、狩る男たち・調理する女たち、そして一家の団らんなど。歴史の一コマが映し出されています。
これが南砺地方における人類のあけぼのを示す貴重な遺品であり、歴史資料なのです。 (本文終了) |
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14旧石器時代とは※2 (およそ2・3万年前~1.3万年前)
大型動物や人が、北海道の地峡を通って列島にやってきた。 土器はなく、石・木・骨・皮などの素材を用いて道具を作り、狩猟採集のため、
短期間で移動する生活でした。
石器剥がしの技術は最も優れた水準に達し、擦って作る、新石器の技術によって石器づくりが向上しました。
富山の旧石器時代前葉には、米ヶ森技法の石器技術に斧形石器を加えた、立野ヶ原石器群が拡がっていました。
ラスコー洞窟壁画 |
旧石器時代とは※2 |
ウワダイラL遺跡
後期旧石器時代前半
立野ヶ原遺跡群
小型ナイフ形石器を主体とした文化 |
ウワダイラL遺跡
発掘風景 |
立野ヶ原遺跡群とは、
約5万年前中国河北省から見つかった石器とよく似た石器剥離技術が、北方経由で3万7千~8千年前に列島に渡り、
秋田県を中心に拡大し、富山県立野ヶ原で石斧を伴う技法として発展したものである。
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2万5000年~2万年前には、シベリア・サハリン・北海道が完全に一体だった。旧石器の研究では、この辺りを古サハリン・北海道半島と呼んでいる。また、本州・四国・九州も完全につながっていて、これを古本州島と言う。
この時代、北海道までケナガマンモスが、また、古本州島にはナウマンゾウ、ヘラジカ、オオツノジカ、バイソン、ヒグマが南下していた。
朝鮮半島では約57~53万年前の遺跡が、日本列島では、約9万年前の遠野市金取遺跡、約12万年前の出雲市砂原遺跡が一番古いとされている。
しかし、確実に日本列島に人が渡ってきたのは3万7千~3万8千年前で、この段階では北海道から九州まで、日本各地に遺跡が見られるようになる。 |
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岩宿遺跡発見の頃の旧石器遺跡には、上市町 眼目新丸山遺跡(さっかしんまるやまいせき)。山形県高瀬山遺跡。
富山県旧小杉町の中山中遺跡は 4万年を超える可能性がある。
立山町白岩藪ノ上遺跡出土の石斧(約3万3000~3万年前)は、旧石器時代にはないと言われていた局部磨製石斧だった。Wikipe |
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後期旧石器時代の石器はⅠ~Ⅷに分類。
南砺市西原C遺跡出土の石器は第Ⅰ期(3万7000年前)に当たる、非常に本格的な石を割る技術が見られる。
それは、後期旧石器時代前葉、秋田県を中心とする東北地方日本海側で見られる特徴的な剥片剥離技法で、
秋田県協和町米ヶ森遺跡出土の石器群の分析から復元されたことから、「米ヶ森技法」と呼ばれる。 (下図参照)
大きな石から2cm前後の小さな破片を3~4個、多いときには10個ぐらい割り出して、それを刃先が鋭利になるように加工していく。
(米ヶ森型台形石器)
米ヶ森技法の石器は、中国地方から北海道南部の日本海側に分布している。 |
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米ヶ森技法で端部整形石器を製作し、斧形石器を組成する石器群が最初に発見された、南砺市の
立野ヶ原遺跡群(ウワダイラL遺跡、ウワダイラI遺跡、西原C遺跡)にちなみ、立野ヶ原石器群と呼んでいる。
米ヶ森技法・立野ヶ原石器群は、青森を除く、富山・新潟・山形・秋田・岩手・群馬・島根・北海道で発見されている。
また、岡山は島根県の県境、長野県は野尻湖、福島は猪苗代湖の北、岩手は北上山地の西側と、日本海側に属している。
分布にかなりの地域性が見られることが特徴である。(米ヶ森技法の遺跡参照) |
※ |
立野ヶ原石器群は台形剥片の末端部に整形加工を施した石器(立野ヶ原型ナイフ形石器と呼称)と刃部磨製斧形石器を特徴的に組成する。 |
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立野ヶ原型ナイフ形石器は形態的には米ヶ森型台形石器とほとんど同一です。 引用 「後期旧石器時代初頭における日本海沿岸地域の研究 |
米ヶ森技法の行程 |
小型台形様石器の剥離技術
米ヶ森遺跡第1期です
転載後期旧石器時代初頭における
日本海沿岸地域の研究 |
立野ヶ原遺跡群の剥離技術
Ⅰ類大型剥片を素材
Ⅱ類打面を転位させ、
残核がサイコロ状を呈する剥離技術 |
Ⅰ類は 大型剥片を石核素材とした
米ヶ森技法的な剥離技術 |
西原C遺跡出土石器ペン先形石器 |
写真1~3はⅠ類の
石器 |
つまり、米ヶ森技法・立野ヶ原型石器です |
米ヶ森技法の遺跡 |
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近畿・瀬戸内地域の石器材料に適したサヌカイト(安山岩)は、奈良県二上山と香川県国府台に産出する。
そのため、この地域の旧石器~弥生期の石器は、ほとんどサヌカイト製である。真っ黒な石だが、2万年程で風化して表面が灰色になる。 |
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また、岩石の構造上、横に長く割れる性質を持っていて、
約2万8000年前頃にこの性質を生かした瀬戸内技法と呼ばれる石器製作技術でナイフ形石器が作られた。
その後、瀬戸内技法を持つ集団は九州から東北地方まで拡散するが、東日本では日本海側のルートで北上している。
産地から遠い北陸や東北地方では、頁岩などが使われるようになる。
富山市直坂Ⅱ遺跡出土の石器は、瀬戸内技法が在地化したものである。(25000~23000年前)
ただし、北陸地方に頁岩が出るかどうかは疑問で、石そのものは山形から運ばれてきた可能性がある。
(山形まで材料採取に行ったのか、山形に住んでいて、富山まで再度南下してきたのか)
(立野ヶ原では近接した集落で、瀬戸内系技法と縦長剥片技法が近接して暮らしていた) |
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直坂Ⅱ遺跡瀬戸内技法の石器 |
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南砺市 立美遺跡 から出土した石器は、青森県の深浦産でした。直線距離で500㎞。同様に静岡県沼津市丸尾北遺跡では700㎞離れていた。
深浦産黒曜石は旧石器時代終末期~縄文時代草創期まで、約1万9000~1万3000年前までの遺跡に限って遠隔地で出土する場合がある。 |
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そのほとんどが槍先形石器などの単品のみである。
しかし、立美遺跡では1500点以上出土した石器の85%が深浦産の黒曜岩であるという点が非常に
特徴的であり、その表面に細かな傷が多く見えるのは、長距離を運んできた証拠だろう。
(石屑がなく完成品を持ち運んだ。1300点もの完成品を何人で運んだのか。
他に食糧や狩猟具・生活道具もあったはず。この大規模な移民は総勢何人だったのか。) |
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立美遺跡の石器
深浦産黒曜石 |
深浦産黒曜石の分布 |
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細石刃は、石刃という細長い石のかけらをもっと細かくしたもので、長さ2~3cm、幅2.5mmぐらいの細かな石のかけらを組み合わせて使用する。
約2万5000年前、シベリアのマンモスが古サハリン・北海道半島へ南下し、それを追って湧別技法(縦割りを繰り返しながら細石刃を量産する技法)の
細石刃を使っていたマンモスハンターがシベリアから北海道へやって来たと思われる。
その後、 マンモスハンターの末裔たちが日本海側をさらに南下し、中国地方まで到達した。
北陸や中国地方日本海側で出土する細石刃核には東北で産出する珪質頁岩が使用されており、東北地方で石材を得て、南や西へ旅立ったことが分かる。 |
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湧別技法は
シベリアから中国北部、朝鮮半島、サハリンなどの環日本海域に広く見られ、
寒冷地の集団の特徴をよく表していることから北方系細石刃核とも呼ばれている。
ケナガマンモスはシベリアから古サハリン・北海道半島までは南下したが、津軽海峡を越えることはできなかった。
ハンター達は古本州島に拡散していったが、丁度その頃古本州島では40万年以上に渡って繁栄していたナウマンゾウが絶滅し、最大の食料源である大型動物が徐々に減少して、列島の人類は最初の危機を迎えることになる。
(引用終)
引用「日本海の旧石器考古学―日本海を巡る旧石器時代の交流― |
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まとめとして
富山県の旧石器 全文転載富山県の旧石器<5>
旧石器時代の遺跡は全国で約3,000箇所あり、富山県では約l50箇所が確認されています。
後期旧石器時代とよぱれる約3万年前から1万5千年前の遺跡が大半で、
後期旧石器時代前半 (35000~29000年前) では富山県は日本の他地域と比べて特異な文化が広がっていました。
立野ケ原石器群とよばれる小型のナイフ形石器を主体とした文化で、
福光町のウワダイラI遺跡やウワダイラL遣跡、立山町の白岩藪ノ上遺 跡などで良好な資料が発掘されています。
後期旧石器時代後半 (29000~15000年前) になると、東日本の石器群と西日本の石器群が重なってみられるようになります。
前者は石刃石器群 とよばれ、縦に長い剥片(石刃)が剥ぎ取られて、ナイフ形石器や掻器(エンド・スクレイパ-)などの石器が製作される
もので、大沢野町の直坂Ⅰ遺跡や福光町の鉄砲谷遺跡が該当します。
後者は 瀬戸内系石器群とよばれ、横に長い翼状の剥片が 剥ぎ取られて、ナイフ形石器(国府型ナイフ形石器)が製作され、
大沢野町の直坂Ⅱ遺跡や小杉町の新造池A遺跡などで発掘されています。
後期旧石器時代の終未である1万5千年ぐらい前には、狩猟用の槍先である木葉形の尖頭器が日本列島に広まります。
富山県では福光町の立美遺跡などで黒曜石の優美なものが発掘されています。
同内容を記載した参考文献 Wiki日本列島の旧石器時代 日本人の源流を探して 05.細石刃文化の流入と展開
旧石器時代の遺跡分布
●は立野ヶ原石器群 |
各種石器群
立野ヶ原石器群
石刃石器群
瀬戸内系石器群
尖頭器石器群 |
各種石器 |
ナイフ形石器
木や皮を切ったり削ったりする
尖頭器
槍先で獲物を突く
掻器
皮なめし具
錐状石器
皮に穴を開けたりする
彫器
木などに溝を彫る |
現在の気候区分 |
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17立美遺跡 福光町 後期旧石器時代後葉(15000年前) または17000~16000年前ともいう
6500㎞離れた青森県深浦産の黒曜石が、出土石器の9割を占める。形跡から、青森で作られ、皮袋に入れて持ち運ばれたものだった。
同様に深浦産黒曜石が静岡県内でも発見されたことから、北方民族が深浦産黒曜石製石器を携えて南下してきたことがわかる。
彼らは、木葉形尖頭器文化※1の北方民族だった。
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富山の旧石器の流れ |
旧石器時代の激しい石器の進化は、次々と北方民族が南下してきた証である |
立美遺跡の石器
深浦産黒曜石 |
尖頭器について ※1
日本では、尖頭器( 槍先形尖頭器)は旧石器時代のナイフ形石器の盛行期( 約2万年前から約1万5千年前まで)に出現している。
その起源はナイフ形石器の発展形とも、別の 大陸文化ともいわれる。
ナイフ形石器は、後期旧石器時代末葉に衰退していくが、代わって槍先形尖頭器は著しく発達し、量的にもめざましく増加する。
槍先形尖頭器は、 細石器が多用された時期 ※には一時的に減少傾向をみせるが、縄文土器が出現する前後に最盛期をむかえる。
※細石刃文化期 (14300~12000年前)
そこで、 細石器段階以前を初期尖頭器、 以降を発達期の尖頭器と呼ぶこともあるが、両者の差異はかなり顕著である。
前者は一般的に比較的小形のものが多く、調整も周辺部調整、片面調整、両面調整と多様であるのに対し、
後者は長大なものが加わり、大半が両面調整のものへと定式化されていく。また 後者には有舌(有茎)尖頭器[2]がともなうようになる。
縄文時代の槍先形尖頭器は上述の発達期尖頭器の後半部にあたる。
尖頭器の分類には、形態による分類(木葉形、半月形、有舌、有肩など)がある。 富山の年表を参照 引用Wikipedia尖頭器
17 後期旧石器時代後半 およそ2・3万年前~13000年前 南砺市埋文展示目録を参照
立美遺跡青森県 深浦産黒曜石製
錐・掻器(福光町)
他に尖頭器・削器も展示
南砺市埋文展示目録 |
刃部磨製石斧※1
安居五百歩遺跡
尖頭器 堂山遺跡 福野 |
彫器・削片・剥片・石刃 才川七的場遺跡 福光 |
掻器・彫器
才川七的場遺跡 福光 |
掻器 院瀬見遺跡 井波
ナイフ形石器/安居五百歩遺跡 |
ナイフ形石器 堂山遺跡
安居五百歩遺跡 福野 |
※1刃部磨製石斧は、 局部磨製石斧、または、「刃部磨製石器」、または、「刃部磨製礫器」 とよぶ。 引用石斧 - Wikipedia
編集不能の石器
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上の写真、『17後期旧石器時代後半』の2番目の写真の間に左の石器が挟まっていました。
石槍
昭和63年2月18日 南砺市指定文化財 考古資料(福光)
昭和33年10月東殿地内の権現堂河畔で、土地改良事業実施中に発掘されたものである。
キャプションには
この石槍は、およそ4000~3500年前に使用されたものとしては破損も少なく考古学上大変貴重なものである。
市指定文化財 尖頭器 とあります。
(それでは時代が違うではないか。なんで、後期旧石器時代に紛れていた。)
それで、編集不能としました。
旧石器時代の石器に挟まっているので旧石器遺物かと思いきや、石槍(縄文時代の呼称)とあり説明も縄文後期とあります。
しかし、どう見ても見事な旧石器時代末~縄文草創期のものに見える。
キャプションの上には写真1番の立美遺跡の青森県産黒曜石です。
わけがわからないのでこの芸術品はそのままにしておきます。
その後、
問題が解明しました。2016.06.23記述
次回掲載の石川県能美市立博物館にこれと瓜二つのものがありました。(石川県能美市金剛寺町採集)
これと全く同じものは、同一製作者による連作と思われます。 縄文草創期となっていました。
同一製作者の製品か、製作者本人が、直線で44㎞離れたところまで行ったことがわかりました。(リンクは地図)
今なら歩いて1日程ですが道路がなかったので数日かかったでしょう。交易か、移動か、ですね。
2019.01.22記述
この石器は、柳刃とか、神子柴形、とか言われる、後期旧石器じだい終末期から縄文草創期初頭にかけての尖頭器ですね。
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20縄文時代
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21南砺地方と縄文時代
南砺地方と縄文時代
縄文土器の焼成温度は
600~700℃。食生活が向上した |
先土器生活に土器と弓矢・装身具・呪術用石器や土偶・仮面・太鼓が登場。竪穴住居や集落の形成。呪術と祭りの生活。 |
南砺では山の縄文生活で、
狩猟具の石鏃・石匙(石ヒ)・石槍
伐採・土堀に石斧。調理・保存に土器を使用。
交流は土器文様と石材で判る
東海の土器や長野・岐阜の文物が運び込まれ、川筋を利用した交流がなされた。 |
南砺の遺跡は河岸段丘にあり、石錘・魚網でのサケマスの漁獲が生活の糧であり保存食にした。 |
縄文生活は計画的に行われ、保存食・保存穴などを管理した。
編み物・漆器・丸木舟など木工品も作られ、翡翠などの硬い石も装身具に加工された。 |
工芸水準が高く、
土器文様や土器の突起は日本独自に発達した。
犬を家畜化していた。 |
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22松原遺跡
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24石器
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28男根形祭祀具等
堂山遺跡 福野/矢張下島遺跡 利賀/院瀬見薬師遺跡 |
石冠
独鈷石(縄文晩期)
磨製石斧(弥生) |
石棒・石の器/カツオブシ型石器/十字筋入り石/男根型石器
安居五百歩遺跡 |
十字筋入り石は漁網用石錘と思われます
石皿は、
火起こしに使う火皿と思われます
その他は呪術具でしょう |
石剣・石棒 |
矢張下島遺跡 利賀 |
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29御物石器
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32縄文の生活・土器作り
小林達雄氏の
縄文カレンダー |
縄文の食生活石皿・磨石と山菜・堅果類 |
漁網と石錘安居五百歩遺跡 |
土器作りこねる |
形を作る |
模様を付ける |
焼く |
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36西原遺跡
縄文時代中期~後期の集落遺跡である。 11棟の竪穴自由居が広範囲にわたって発見された。
出土土器は中期後葉のものが最も多く、遺跡はこの頃に最盛期を迎えている。
その他には、磨製石斧・打製石斧・石皿・石匙・石棒等の石器も多く出土している。
西原遺跡縄文中期~後期 |
上に記述 |
矢張下島遺跡早期末土器片/6000
年前/早期土器片8000年前(押形文) |
前期土器片/羽状縄文/5000年前 |
安居五百歩遺跡土器
西原遺跡竪穴住居
西原遺跡の石組み炉 |
穴に埋められた
縄文土器
複式石組み炉
矢張下島遺跡 |
石組み炉と土器
注口土器
田尻遺跡 |
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40土器 |
41縄文中期 中期中葉は天神山式土器 中期後葉は串田新式土器 参照富山県の土器形式
西原遺跡/中期中葉/深鉢
天神山式土器/
4500年前 |
竹林遺跡/有孔鍔付土器(太鼓)/中期/4500年前 |
矢張下島遺跡/中期後葉
串田新式土器
4500~4000年前 |
安居五百歩遺跡/
後期前半/4000~3500年前
後期初頭/3500年前
気屋式土器 |
土器片と底部(木の葉文・網代圧痕)
安居五百歩遺跡/後期前半 気屋式土器 |
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45イノシシ型注口土器等
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47縄文後期前半 田尻遺跡
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縄文後期前半/深鉢/
田尻遺跡/3000年前※ |
縄文後期前半/深鉢/
田尻遺跡/3000年前※ |
縄文後期前半/浅鉢/
田尻遺跡/3000年前 |
縄文後期前半/浅鉢/
田尻遺跡/3000年前※ |
有孔鍔付土器/利賀/
矢張下島遺跡※ |
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50土器・石器 |
51東赤尾遺跡(前期末~晩期)
東赤尾遺跡 |
打製石斧・縄文中期土器
縄文中期土器
土器片(前期末~晩期)
石錘・石棒・有孔鍔付土器
独鈷石・石鏃・熊の牙(垂飾)・三角とう土製品 |
巨大な打製石斧・磨製石斧 |
ミニチュア土器と皿(網代圧痕)
メンコ型土器 |
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52矢張下島遺跡 後・晩期
晩期/注口土器 |
晩期/深鉢 |
後・晩期/深鉢
2800年前 |
晩期/鉢 |
後期/鉢 |
晩期/鉢 |
晩期/鉢 |
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54安居五百歩遺跡 後期 |
56土偶
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57吊り手香炉形土器
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香炉形土器片 |
獣面突起/西原遺跡 |
獣面突起/西原遺跡 |
獣面突起/西原遺跡 |
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58竹林遺跡の土偶
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高さ9.5cm幅5.7cm。
やや突き出したような膨らみのある腹部。
短い足の妊婦をかたどった立像の土偶で、
頭部・胸部は欠損。
全面に細い竹管文様が施され縄文中期
(4000~5000年前)の特色を表している。 |
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小二又遺跡 土偶 |
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