しかし、神子柴型尖頭器と呼ばれる大型尖頭器がいくつも並んでいました。他ではあまり見ることのない貴重な展示でした。 |
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赤字は、注目遺跡 |
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00発掘された日本列島2016 |
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01外観
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02 |
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10旧石器時代 |
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11北中島西原遺跡 旧石器時代 約30,000年前 熊本県上益城郡山都町北中島 遺跡の概要 九州ナイフ形石器文化第Ⅲ期後半~九州ナイフ形石器文化第Ⅳ期 引用現地説明会~北中島西原遺跡 標高520mの丘陵上で、ナイフ形石器と呼ばれる狩猟具や、焼けた石を集めて調理 (蒸し焼き・湯沸し) などを行った礫群が多数見つかりました。 約3万年前の鹿児島県の錦江湾での大噴火による火山灰の直下で見つかったことから、これを遡る時期の遺跡と考えられています。 石器の製作時に出る石屑が接合した「接合資料」の多さは、この場所で活発な狩猟具製作が行われた証拠です。 約110㎞離れた佐賀県腰岳の黒曜石も使用されていることから、この遺跡は広域を移動する旧石器時代の狩猟民が残したキャンプ跡でした。 |
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20縄文時代 |
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21星ヶ塔黒曜石原産地遺跡 縄文時代前期・晩期 約5700年前・約3000年前 長野県諏訪郡下諏訪町下諏訪星ヶ塔山/東俣 遺跡の概要 長野県中央部の霧ヶ峰の北西山麓、星ヶ塔山の東斜面 (標高1500m) に広がる縄文時代前期と晩期の黒曜石採掘跡です。 約35000㎡の範囲に193箇所もの採掘坑が未だに埋まりきらずに窪んだ状態で残っています。 縄文時代前期以降、東北から東海・北陸地方までの極めて広い範囲に供給されていたことが自然科学的な産地推定分析により明らかになって います。 晩期には一回で少なくとも100kgの黒曜石が採掘されていたと試算されています。星ヶ塔産黒曜石は、北海道・東北から 東海・北陸の広い範囲に流通しており、その背景にこうした活発な採掘活動があったことがわかりました。 ※和田峠や霧ヶ峰周辺で採掘された黒曜石の広がり。現時点で北は青森県の三内丸山遺跡から西は奈良県の桜ヶ丘遺跡まで見つかっている =黒耀石体験ミュージアム提供】 引用黒曜石遺跡と縄文文化を世界遺産へ⑦ 長和町の明治大学黒耀石研究 |
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22館崎遺跡 縄文時代前期-中期 約5000-4500年前 北海道福島町館崎 遺跡の概要 縄文時代前期末葉から中期中葉にかけて営まれた遺跡です。 竪穴建物61棟、土坑147基などが発見されました。大量の遺物が出土しており、その数量は土器91万点、石器類43万点に上ります。 高さ37㎝の国内最大級の大型岩偶や、55点の滑石製の玦状耳飾などが出土しました。 また、直線距離にして620㎞も離れた長野県星ヶ塔産の黒曜石製の石鏃が北海道で初めて出土しました。 縄文文化におけるダイナミックな交易・交流を物語ります。 土器 縄文前期末頃の円筒下層d式に分類される土器が最も多く出土しています。 円筒形で平底の土器で、植物の繊維を粘土に混ぜているのが特徴です。 引用館崎遺跡 以前こんな記述をしていました 館崎遺跡の人々は、アムール川流域の石刃鏃文化(7千年前)と、東北北部の円筒下層式土器文化(縄文前期6千-5千年前)を持っていた。 彼らは石刃鏃文化をもって南下してきた北方民族で、円筒下層式土器文化を松前の地で獲得したのだ。 黒曜石製鏃 発見された信州霧が峰星ケ塔産黒曜石は、製品で持ち込まれたとも、信州縄文人が松前半島まで移動したとも考えられています。 円筒土器 縄文前期末~中期前半の遺跡からは、円筒下層式土器が出土しています。十和田カルデラの降灰地に適した土器だったようです。
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23六反田南遺跡 縄文時代中期 約4500年前 新潟県糸魚川市大和川字六反田
多様な形式の土器 出土した土器は 富山県側に分布する土器と似た文様をしていますが、それに加えて長野県や新潟県中部、東北の影響が認められる土器もあります。 様々な地域の特徴を持つ土器が見られることから、各地との活発な交流がうかがえます。 石器製作工房跡 石器も多数出土しており、磨製石斧とその製作途中のものが2000点にも及びます。 (石器製作工房跡) 石器を作る工具や砥石も多数出土しており、つくられた石器は六反田南遺跡で使われただけでなく、各地に供給されたと考えられます。 石器製作工房遺跡の遺物 |
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25六反田南遺跡の縄文土器 縄文時代中期 約4500年前 新潟県糸魚川市大和川字六反田 以下転載①縄文土器(六反田南遺跡)大津市立歴史博物館 日本を代表する縄文土器といえば火焔型土器です。不安定に見えるほど上半分が大きな器形と、火が燃えあがるような口縁部。 火焔型土器は縄文時代中期、新潟県の信濃川上・中流域を中心に分布します。 この時期にもう二つ、造形的に優れた縄文土器が存在します。 一つは、長野県北部から群馬県にかけて分布する焼町(やけまち)土器。様々な突起と細くて力強い隆起文によって描かれる複雑な曲線文が 特徴です。 そしてもう一つ、石川県・富山県から新潟県西部にかけて分布する、この六反田南遺跡からも出土している上山田(かみやまだ)・天神山式土器 です。 この土器は、竹管や貝殻によって細かく刻まれた隆起文が渦を巻いたり、複雑に絡み合ったりします。縄文人が何をモチーフにしてこの文様を描い たか。 そして、土器という円筒状の丸い側面に、どうやって計画的に美しく描いたか。縄文土器には失敗作がないだけに、縄文人の技術の高さや文様への 特別な意識を垣間見ることができます。 (文化庁記念物課 文化財調査官 水ノ江和同) 六反田南遺跡の土器形式 縄文時代中期 約4500年前 遺跡の位置 遺跡は新潟県南部糸魚川市大和川字六反田 遺跡の時代 縄文時代中期 土器形式 地理的に多方面の土器が集まりやすいので、多様な土器が混在しています。 引用「大津市歴史博物館」六反田遺跡
※上山田・天神山式土器は、正しくは天神山式土器 (魚津市天神山遺跡を標準遺跡とする 魚津歴史民俗博物館) 上山田式土器は石川県かほく市の上山田貝塚出土です。名前を冠していますが、本来別と考えるべきです。 参考土器形式の写真
考察 六反田南遺跡の土器 六反田南遺跡は①石器製作工房であり、②北陸・信州・新潟の土器が多数出土する。きわめて特異な遺跡です。 これは、石器を入手するために、各地から多くの人々がやって来たためであると思われます。 |
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40弥生時代 |
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41史跡安満遺跡 弥生時代前期~後期 約2500年~1900年前 高槻市八丁畷町 八丁畷町12−1 1928年の調査で多量の弥生時代の石器や土器が出土し、これらの出土品から弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で 学史上著名な遺跡である。 引用 遺跡の概要 大阪府北部に位置する弥生時代の大規模集落遺跡です。 環濠を巡らす居住域や墓域などの存在が古くから知られていました。 今回、新たに弥生時代前期の水田や前期から後期の墓域、中期~後期の灌漑施設が発見されました。 前期の水田は畔で小さく区分けされた「小区画水田」と呼ばれるものです。 北から南へと緩やかに傾斜する地形に合わせて造られており、傾斜が大きい場所では幅を短く、平坦なところでは広く区画して、 水を張りやすくする工夫がされています。 水田は前期の洪水で埋まってしまいましたが、そうして形成された高まりは前期末以降に墓域として利用されるようになります。 更に中期以降には高まりの辺縁に新しく水田域が広げられるなど、遺跡が時期と共に変化していく様子が具体的に明らかとなりました。 |
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46松帆銅鐸 弥生時代前期末~中期 約2200年前 兵庫県南淡路市 松帆銅鐸に新たな発見 遺跡の概要 南淡路市内の石材製造販売工場にあった砂山から7個の銅鐸が発見されました。 こうした経緯から、銅鐸が本来どこに埋まっていたのかは調査中ですが、X線CTスキャンなどの科学調査により、多くのことが明らかになりました。 7個の銅鐸のうち6個は、2個を一組として大きな銅鐸の中に「入れ子」状態で埋納されていました。 さらに入れ子銅鐸同士の間には、銅鐸を吊るして鳴らすための、青銅製の舌が残っていました。 舌が一緒に発見されるのは珍しいことです。 7個の銅鐸はいずれも古い形式のもので、これ等がまとまって出土するのは非常に稀です。 松帆地区ではこれまでにも8個の銅鐸や14本の銅剣が発見されており、青銅器を埋納する特別な場所であったことを示しています。 |
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47岸田遺跡 弥生時代前期末~古墳時代中期 約2200年前~1600年前 福岡県福岡市 奴国前史 早良の青銅器と弥生墳墓 岸田遺跡 弥生時代中期の墓60基、中から青銅や鉄製の剣、矛 福岡市岸田遺跡の年代表記の疑問 遺跡の概要 福岡市西部に広がる佐原平野の最南部に位置する弥生時代の大規模な集落遺跡です。 丘陵上では弥生時代前期から後期までの様々な墓が、沖積平野では弥生前期末から古墳時代中期までの住居域が見つかりました。 丘陵上で見つかった墓は78基に上ります。 その中でも弥生時代前期から中期の甕棺墓4基と木棺墓1基から銅剣5、銅矛3、把頭飾1(銅剣の柄の先につける飾り)が出土しました。 弥生時代前期末から中期初頭は九州北部の各平野に、後に「クニ」と呼ばれるような地域的なまとまりが形成される時期です。 岸田遺跡から発見された多くの青銅器からは、青銅器と共に葬られた人々の社会的な力を推し量ることができます。 |
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48河原口坊中遺跡 弥生時代中期~後期 2100~1750年前 神奈川県海老名市河原口 遺跡の概要 弥生時代中期~後期を中心とした大規模な集落跡で、神奈川県の中心を流れる相模川左岸の自然堤防上に立地します。 約500棟もの竪穴建物を発見し、神奈川県内で3例目となる小銅鐸が出土しました。 集落の中には、弥生時代中期~古墳時代前期にかけて川が流れていました。 弥生時代後期にこの川の中に竹状の素材を組み上げて配置した漁労用の施設「しがらみ」が造られました。 袋状に配置している部分があり、魚を誘い込んで捕獲していたことがわかります。 卜骨(ぼっこつ)は、弥生時代に中国大陸から日本列島に伝わった占い利用された道具です。 シカやイノシシの肩甲骨などが用いられ、焼けた棒を点状に押し付けて、色の変化やヒビの入り方などから、吉凶を判断しました。 「魏志倭人伝」には「骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」との記述があります。 板状鉄斧 鉄器は弥生時代に使用が始まりました。鉄は「くろがね」と呼ばれるように漆黒色で、その輝きは石にはない異質のものとして人々の目に 映ったことでしょう。 弥生時代に鉄を生産する技術はありませんでした。しがたって、鉄器あるいは鉄素材は朝鮮半島のどこかで入手し、北部九州や近畿などを経由し 関東・東北まで流通させる広域のネットワークが出来上がっていたと考えられています。 この鉄斧は、はるばる1200キロを超える旅をしてたどり着いてきたのです。これをみた時、人々は素晴らしい道具を入手した喜びと、 想像もつかない「彼の地」に思いを馳せたことでしょう。鉄斧は全長28.5センチ、幅3.4センチ、厚さ1.3センチです。30センチに迫る大きさは 関東初とのことですが、西日本を含めても最大級です。 ほとんど錆びていないことから、両刃で非常に鋭利に研がれていることを皆さんの目で直に観察していただけます。 弥生時代の人々を魅了したであろう鉄斧を見ながら、その社会に想いをめぐらせてみませんか。 (文化庁記念物課 主任文化財調査官 禰冝田佳男) 引用②板状鉄斧大津市立博物館
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60古墳時代 |
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61乙訓古墳群 古墳時代前期~終末期 約1750~1350年前 京都府京都市・向日市・長岡京市・大山崎町 遺跡の概要 京都府南部の桂川右岸には、古墳時代約400年間を通じて古墳が築造されました。これを乙訓古墳群と呼んでいます。 かつては37基以上の前方古墳など大型古墳がありました。現在11基が史跡に指定されています。 古墳時代前期には 五塚原古墳・寺戸大塚古墳など、100m前後の大型前方後円(方)墳が継続して造られます。 古墳時代中期になると、古墳群中最大となる墳長120mの恵解山古墳が築造されました。 古墳時代後期・終末期には、豊富な副葬品を出土した物集女塚古墳や、巨石を用いた大型横穴式石室を持つ今里大塚古墳が築造されます。 古墳時代を通じて古墳の規模や、作られる地域の変化から古墳時代の政治的変化を物語っています。 |
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62甲立古墳 古墳時代前期 約1600年前 広島県安芸高田市 遺跡概要 平成20年に広島県中央北部の菊山山腹から新たな前方後円墳が発見されました。 墳長77.5m前方部は2段・後円部は3段に造られ、墳丘斜面に葺石と墳丘平坦面には二歩を持つ、古墳時代前期末の古墳です。 後円部の墳頂では、外縁部に貼馬約1mに渡って石が敷かれ、さらにそのの内側には埴輪列が円形に配置されていました。 後円部の中心には埋葬施設があり、電気探査の結果、竪穴式石室か、礫槨である可能性が想定されています。 後円部墳頂部の南東部分には長さ6.2m幅3.0mにわたる石敷区画があり、その中心には5点の家形埴輪が一列に並んでいました。 他にもさまざまな形象埴輪が出土しており、大和政権との関係や埴輪祭祀を考える上で重要な成果が得られました。 家形埴輪 前方後円墳の墳頂部)に立て並べられた5基の家形埴輪のひとつ。高さは68.3センチで、高床式の建物を表します。注目すべき点は、 これらの家形埴輪は墳頂部に石を敷いて作った区画に整然と並んでいたことで、古墳での祭祀(さいし)の実態を物語っています。 踊る人物や武人など、ついついユーモラスな人々の姿に目が行きがちな埴輪ですが、そうした人物をかたどる埴輪は古墳時代の後半に現れた ものです。 最初の埴輪は円筒埴輪という筒形のもので、壺などを載せる台を表現しています。 やがて有力者の権威を示す道具などをかたどった形象埴輪が出現し、家形埴輪もそうした流れの中で現れます。埴輪の変遷は、古墳で行われた 儀礼や祭祀の変化とともにあったという訳です。 では、なぜ、家形の埴輪なのでしょうか。亡き有力者の生前の生活の場を示すのでしょうか,それとも、死後の魂が宿る場なのでしょうか。 まだまだ答えは分かっていませんが、当時の人たちが古墳をどういうものと考えていたのかを知るヒントがここにはありそうです。 (文化庁記念物課 文部科学技官 川畑 純) 転載③家形埴輪(史跡甲立古墳) 大津市立歴史博物館 家形埴輪 家形埴輪は、古墳の後円部墳頂に立て並べられていた5個の家形埴輪のうち、最も良好に復元できたものです。 切妻屋根と8本の角柱からなる高床建物が表現されています。家形埴輪が配置された場所の周囲には丁寧な石敷も施されており, 墳丘上で行われた当時の葬送儀礼の情景をよく伝える貴重な資料です 転載文化庁文化財部記念物課 |
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80 |
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100復興のための文化力 |
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101タイトル |
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115津軽石大森遺跡24 縄文時代前期 約6000年前 奈良・平安時代 1300~1100年前 岩手県宮古市津軽石大森 遺跡の概要 岩手県沿岸中央部の、標高8~12mの緩斜面上に立地する遺跡です。 縄文時代前期と奈良時代・平安時代の大集落の姿が明らかになりました。 縄文時代前期には同じ場所に繰り返し竪穴建物が立てられ、その合計は80棟以上に及びます。 奈良時代以降に再び大集落が造られました。 奈良時代の建物には竈かまどが造り付けられていました。 平安時代には掘っ立て柱建物となり、時代が変わるにつれた集落や建物の様子も変わっていきます。 同じ場所でも時代により移り変わっていく集落の様子が明らかになるなど、重要な成果を得る事ができました。 |
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120中沢遺跡25 縄文時代前期 6000年前 宮城県石巻市北村中沢 遺跡の概要 仙台湾に面した丘陵の先端部に位置する縄文時代の遺跡です。 主に縄文時代前期を中心として、多くの竪穴建物などが見つかりました。高台に造られた拠点的な集落です。 丘陵の頂部からは、多くの建物が見つかっています。竪穴建物は何度も建て替えられ、最大で高さ15m幅6mの大型のものがあります。 掘立柱建物も5棟い序見つかっており、最大で長さ20m幅7mの大型のものもあります。 丘陵の斜面からは大量の土器や石器、玦状耳飾や石剣、線刻礫などが出土しました。 また、火を焚いた痕跡が見つかり、焼け面からは獣や魚の骨が出土しました。 大型建物とともに当時の生活の一端が伺える重要な発見です。
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130内山遺跡26 縄文時代中期~後期 約4500~4000年前 宮城県女川町内山 遺跡の概要 縄文時代の集落遺跡です。遺跡は海岸から約700m離れた標高約40mの丘陵上にあり、眼下には女川湾が広がっている。 丘陵上の平坦部からは、掘立柱建物や竪穴建物、炉、貯蔵穴、土坑などがみつかり、縄文中期から後期の集落があったことがわかりました。 斜面部分には土器や石器の捨て場があり、その一部では小規模な貝塚も発見されました。 貝塚からはカやハマグリなどの貝類や、鹿・猪などの動物骨が出土しており、当時の食生活や暮らしの様子が生き生きと浮かび上がります。 |
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135谷原遺跡27 縄文時代後期 約4000年前 宮城県山元町谷原 山元町歴史民族資料館 遺跡の概要 阿武隈山地東麓から流れる川沿いの平坦地に立地する縄文時代後期前葉の遺跡です。 多数の掘立柱建物が環状に配置されて居住域を構成する環状集落の姿が明らかになりました。 環状に配置された建物の内側には遺構が少なく、広場として使われていたと見られます。 居住域の外側には土器が埋められた土坑や貯蔵穴のほか、ゴミ捨て場がありました。.縄文時代の集落構造がよく分かる重要な事例です。 |
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140高橋遺跡28 縄文時代後期~晩期 約3500年前 福島県楢葉町 縄文時代の集落遺跡です。太平洋に面した平坦な段丘上で、縄文時代後期から晩期の拠点的な集落が姿を現しました。 特に注目される遺構として、大型柱穴群があります。 直径1-1.5m,深さ1m以上の大型の穴を掘り、中央には直径50cmにもなる立派な柱を据えていました。 掘立柱建物や木柱列などを構成していたと考えられます。 男性土偶 10点以上の土偶が出土しましたが、全国的にも類例が少ない男性土偶がありました。通常女性ですが、なぜ男性なのでしょう。 土偶の意味を考える上でもたいへん注目されます。 |
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150復興の歴史を掘る |
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151趣旨 |
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152玉津田中遺跡32 弥生時代中期~終末期 約2100~1750年前 兵庫県神戸市 遺跡の概要 近年も集中豪雨によって各地で洪水被害が発生しています。 本格的な水田稲作が開始された弥生時代は、日本列島において水と人との戦いが本格的に始まった時代といえます。 玉津田中遺跡にはそうした洪水とそこからの再興が繰り返されてきた歴史が残されています。 約2500年前以来、水田を開発しては洪水に襲われるということが何度も繰り返されました。 更に約2100年前頃には、かつてない大規模な洪水が発生し、厚さ1mにも達する土砂がムラを襲い尽くしました。 人々は高台にムラを移転し、生活を続けました。 厚い土砂に覆われた水田が再び本格的に開発されるのは、それから約200年後のことになります。再開発にはおよそ100年近い年月が必要でした。 洪水の発生から長い年月をかけて、人々はかつての生活を取り戻すことができたのです。 |
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153有馬条里遺跡33 古墳時代後期 1500年前 群馬県渋川市 遺跡の概要 群馬県の榛名山は、6世紀に2度の大噴火を起こしました。 その火山灰と泥流は当時の人々の暮らしを覆い尽くしましたが、 噴火前後の様子を見ることで、人々が火山災害をどのように克服し高を知ることができます。 古墳時代初頭の3世紀には台地上の開墾が進み、畑地が造られましたが、6世紀初頭の最初の噴火により埋まってしまいました。 その後、6世紀中頃には新たに水路が掘られ、新しく水田が造られました。 復興に要した年月は不明ですが、次の噴火までの20~30年の間に成し遂げられていました。 6世紀中ごろには2度目の噴火が発生し、水田は軽石と泥流により埋まってしまいます。それでも6世紀後半には、再び水田が造られ集落は復興 しました。2度にわたる災害を乗り越え、形を変えながらもたくましく生活を続けていったのです。 |
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154小郡官衙遺跡群34 飛鳥~奈良時代 約1400~1200年前 福岡県小郡市 遺跡の概要 天武7(678)年、筑紫の国穂.を中心に震度6以上と考えられる大地震が発生しました。 筑後国御原郡の古代役所である史跡小郡官衙遺跡群にはそうした地震の痕跡が残されています。 |
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155横野山王原遺跡36 江戸時代中期 300年前 神奈川県秦野市 遺跡の概要 宝永4(1707)年の富士山の大噴火により、静岡県東部から神奈川県にかけて大量の火山灰が降り積もり、甚大な被害をもたらしました。 神奈川県西部の横野山王原遺跡にも約45cmの降灰が確認されました。 今回の発掘調査により「天地返し」と呼ばれる復旧作業を確認しました。それは、降灰と元の耕作土を入れ替えることです。 発掘調査により、掘り下げられた溝の下に火山灰が埋められた様子を確認しました。 全て手詐欺用で行なわれた天地返しにより、大量の火山灰は除去され、畑地が復興されました。噴火翌年の文書から、僅か1年後に再生された ことが分かりました。人々の生活再建に向かう強い熱意と、粘り強い努力に驚かされました。 |
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156桐木耳取遺跡30 旧石器時代 約3万年前 鹿児島県曽於市 遺跡の概要 約3万年前、鹿児島県錦江湾で火山の大爆発が発生しました。過去12万年間でも最大規模とされています。 遺跡は壊滅的な被害をもたらした火砕流堆積物の少し上の地層で発見されました。 当時の南九州の人々は大きな被害を受けましたが、しばらく後には100基以上の礫群と共に剥片尖頭器などの石器を残しました。 これらは火山災害を乗り越え、人々が再び南九州で生活を始めたことを物語っています。 桐木耳取遺跡を含む発掘調査報告書 ※以下の資料では後期旧石器時代初頭の台形様石器から、石刃技法を用いた石器が登場し、更に九州特有の石器が出現するなど、 噴火後の降灰地での新たな入植者が多数いたことを物語っていると思われる。 |
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福島の縄文前期の土器形式は、前期大木式、浮島・興津式である。 前期大木式 ここでは前期大木式、興津式系ではないか。
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