[戻る][TOP]


 北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて14  2014.05.23(金)

  魚津歴史民俗博物館 郷土館 富山県魚津市小川寺1070-1 0765-31-7045 月曜と休日の翌日 12/01〜3/31休館


時代   紀元前40008000年頃(縄文時代初期)、西布施の長引野台地にある桜峠から始まる。この遺跡からは、「押型文土器」が出土。
  上野地区の早月上野遺跡では、国内最大規模の縄文中期の[環状集落]が見つかっている。

交通   レンタカーかタクシー ナビは地下トンネル内で停止するので、道路脇の看板を見逃さず山の上に登ること。
  駐車場は館の入り口に2台ほどと、地下に何台か止められるようだ。また、資料館の駐車場も利用可能。
     
見所   常に東と西の文化の交差する辺りにある、富山県東部の縄文文化
  魚津市は古代杉の巨木が生い茂っていた原生林でした。現在も奥山に行くと杉巨木の森林があるようです。
また、埋没林博物館では当時海岸まで生えていた巨木の根が水中保存されています。
     
失敗   @ナビ頼みで道に迷った。案内板に注意すること
  A同じところに博物館が3館ある。
一番最初の博物館が考古で、(歴史民俗博物館 郷土館)
  その上の方に近世。  (歴史民俗博物館 資料館)
  そして、もう一館、民俗がある。    (旧沢崎家住宅)
    建物の写真をよく見ておいてください。

   特記記事  ・旧石器時代の石器文化  ・世界最古の土器  ・縄文人のルーツ

   追加加筆  2017.02.09




01外観 歴史民俗博物館
03旧石器時代の石器文化
  分布限界(中央)






訂正 2015年
訂正2017年
修正2019.01.23

 世界最古の土器
 現在発見されている最古の土器は
 日本列島北部からシベリア極東地域
 土器制作技術を持った集団
 結論

 縄文人のルーツ 最新情報
 ハプログループ
 交雑

 旧石器時代からの大量の人の流入と
 遺伝子型

02富山県東部の
 旧石器時代

 縄文時代
05縄文の道具
07縄文土器
  早期の土器
08中期の土器
  土器の編年
09後期の土器
11呪術と祭祀

 弥生時代
12弥生の農具
 古墳時代
21立山曼荼羅
 縄文時代
31縄文の交易
51富山の先史年表
55竪穴住居  



 01外観 歴史民俗博物館  ここはとってもわかりにくい。看板を頼りに最初に見える建物が旧称「吉田記念郷土館」魚津歴史民俗博物館(考古)です。
ピンの所へ行きます 魚津歴史民俗博物館
郷土館 郷土の成功者が寄贈したこれが考古館です
こちらは、中世展示物の
歴史民俗資料館ここは違いますが駐車場を使っても構いません
ここは、考古展示物の
歴史民俗博物館ここが目的地
もう一館、旧田沢家住宅
入り口はこんなです
見えないよね(笑)があります。
 


 03旧石器時代の石器文化   引用 日本人の源流を探して

  石器文化の発生と
    発達流布の系統
南方(華北)型石刃石器 3.5万〜3万年前
ナイフ形石器 3万〜2万年前
半円錐形(華北型)細石刃石器 1.3万年西日本

・北インドのホモサピエンスがバイカル湖周辺に移住。1.3万年前
クサビ型細石刃石器を持って、
 北海道から東日本にそして、東日本のナイフ形石器の石刃石器文化をクサビ型の石器文化に変革。引用古代史file
 ナイフ形石器文化の分布  3万年前頃、華北型石器文化である、ナイフ形石器文化人が日本全土に広がる。

 それ以前の重量石器(石核石器)から剥片石器にとってかわる。

 しかし、基本的には人が入れ替わったということですね。引用 黒潮文化圏石斧の広がり
 細石刃文化の東西差 1.3万年前頃、
西から、半円錐形細石刃石器。
北から、クサビ型細石刃石器、文化人が大量流入

 氷期の終了温暖化に伴う人類の彷徨
 石器文化と土器の関係 細石刃文化の後に
 御子柴系尖頭器の無文土器を伴う細石刃文化が一斉に始まる。すると、

土器文化は、
 東アジアのどこかで細石刃文化に無文土器文化が出会ったか、
 細石刃文化の中で生まれたかです。 
 旧石器文化の編年  ⇒しかし、同じ細石刃文化でも、
 有土器文化集団と
 無土器文化集団とでは
  全く文化レベルの違う集団だったことでしょう。
 東アジアの石器文化の
  分布と推移

 新石器時代の系譜です


3.5〜1.4万年前 ナイフ形石器文化
1.6万年前 台形石器
1.4万年前 細石刃文化

  細石刃は1.8万年前誕生

 2015.07.23追記
   分布限界(中央)   旧石器文化の分布限界が同じようなところで限界となっていることについて

・日本海側は親不知断崖。(断崖と山岳で、動物がそれ以上進めない。通行不能。人間は舟で進めたと思います。)
・太平洋側は茨城県大洗 (利根川の氾濫原の為か。 想像するに、広大な泥沼が広がっていたのではないか。ツツガムシ病などの汚染地帯だった。)
・内陸は中央高地です。 (動物食性の問題かな。冷涼な気候と植物分布の限界だった。)

  これらの理由から、彼らが追っていた動物の分布の、南限・北限だったリ、通行の難所だったりしたのでしょう。 下にジミに同じ文書あり。




  世界最古の土器

 現在発見されている最古の土器
暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡で見つかっている。
暦年代1万8000〜1万7000年前にさかのぼる土器が、江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡で見つかっている。

このことから、最古の土器は、長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万〜1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。

 日本列島北部からシベリア極東地域においても
1万6500年前にさかのぼる土器が、ロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、更には青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡等から発見されている。    ※ガーシャ遺跡とフーミ遺跡はアムール川流域の遺跡  参考アムール下流域における土器出現期の研究

土器は 2万〜1万8000年前の最終氷期最盛期後半に中国南部において出現し、
  1万6500年前には日本列島北部から沿海州において土器づくりが始まった。  沿海州から北方ルートでもたらされた。

 土器制作技術を持った集団
小柄で短頭の港川人やワジャク人に代表される「森の民」であった。
港川人・ワジャク人はスンダランドの人々である。


結論  海南島に近い中国南部で2万年前、最終氷期の最寒冷期に、スンダランド系民族によって発明され、当時発達した森林環境地帯をたどりながら
   沿海州から北方経由で列島にもたらされた。
    引用長江流域における世界最古の稲作農業 - ARDEC 2002年



 



 縄文人のルーツ 最新情報

 ハプログループ
縄文人の父系遺伝子によるハプログループはD1b(旧称 D2 )です。

現在の出現頻度は、アイヌ人、琉球人、本土日本人の順で、日本列島固有の遺伝子です。
  3.5万年前頃発生した集団です。  ※5万年前に分岐したともいわれる。

日本列島に最初に移住し縄文人を形成したのは、東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団の子孫だという。
  引用やはりアイヌ人と琉球人の方が本土人よりも遺伝的に近かった 2012/12

従ってD1bグループは一時期、東南〜東アジアに薄く分布しやがて、南西諸島から北海道までの日本列島に陸封されました。
他は絶滅したのでしょうか。

    
 交雑
その後、
  縄文人は 3千年前北東アジア系の寒冷地適応した新モンゴロイドO2b1aが朝鮮半島から列島に大量に流入し、九州北部、山陰、関西を中心に交雑が進んだ。
  アイヌ人は 7世紀に東北地方太平洋側で交易を担っていた古墳文化人・弥生人の末裔が石狩低地に進出し、交雑してこれを取り込み、
  9世紀頃に北方民族ニブフC2とトビニタイ文化を形成しながら交雑して取り込んだ。
 
  琉球人は 9〜11世紀頃、南西諸島最大の朝鮮式陶器製造基地となっていた喜界島に大量に移住してグスク文化を築いた本土和人O2b1aが、
    11〜12世紀に沖縄諸島各地に大挙移住し大規模な交雑が起こった。

アイヌ人に比べ、琉球人への本土和人の交雑は大量だったため、D遺伝子の出現率はアイヌより少なくなった。


 旧石器時代からの大量の人の流入と遺伝子型

3.5万年前以降突然大挙してやってきた新人型旧石器人は、それ以前の旧人型旧石器人の骨器中心の文化に較べ、多様な石器文化を持ってきた。
それ以降、新人型旧石器人は、新しい石器文化を発明しては旧文化人を押しのけて勢力を拡大し、次々と列島にやってきた。
一つの石器文化の担い手は、次の石器文化の担い手にとって代わり、文化の消滅はその民族の絶滅を意味するとするならば
  食糧獲得競争に敗れた人々は死に絶えたのかもしれない。つまり、D1bの列島以外の人々は大陸で死滅したことになる。
 
  国立民族学博物館助教授の文化人類学者、小山修三氏の推定によれば、ナイフ形石器文化を支 えた人々の数は、約2万5000年前頃に最大に達し、
そのころで、日本列島の人口は、全体で約3000人程度であったであろうという。 引用邪馬台国人口論 - 邪馬台国の会

寒冷気候から極寒の氷河期へ。そして、温暖化。縄文海進。
刻々変化する環境に対応した新しい狩猟技術や道具が開発され、それによって食糧獲得競争に打ち勝ち、増殖した民族がやってくると、
それまでいた住民は飢え死にを余儀なくされただろう。
・  ともあれ、次々とやってきた旧石器人・縄文人は、全てハプログループD1bであった。
  南の琉球列島を伝ってきた人々も、 北から土器文化を持ってきた人々も、 西から半島経由でナウマンゾウを追ってきた人々も、全てD1bだった。
このことから東南アジアから東アジア沿海州にかけて、ハプロD1bが一時期薄く分布していたといえる。

気候が安定し、移住者が少なくなくると、(決して途絶えてなく、刀子・三足土器・漆文化・オサンニ式釣り針などが流入していた)
列島はD1bで満たされた。

しかし、その後一万年余りの間に、新しいハプログループが次々と起こり、新しい文化を持って食糧獲得競争に打ち勝ち、
ために、東南アジアからも、大陸・沿海州・シベリアからもハプロD1bは消滅した。
 他のハプログループDは
ハプロDのチベット人は、ヒマラヤ山脈を北側から越えてきた人々だと言われている。理由は食糧獲得競争に敗れてのことでしょう。
また、アンダマン諸島のDグループは少数民族のひしめき合う諸島の中で、アフリカ型人種の原形を保ったままの形で絶滅から逃れたようです。
   彼らのD型はD1bではなくもっと原種に近いDや、D1aなどです。


 2015/07/18追加  上記は間違いである。そんな純粋性は確保できるわけがない。

 Y遺伝子ハプログループから見ると列島はD1bで満たされていたことになるが

 母系遺伝子から見ると、南方系M7a 北方系N9bを中心としたグループが混在していることになる。

 縄文人は決して単一グループではないことを、結論のないまま認識しておきたい。

 2017/02/09追加  Y染色体遺伝子でみると
 旧石器 (ナイフ形石器文化) 人のDNAはNで、各地に僅かに残っています。細石刃文化人はC3。縄文人はD2です。

     詳しくは、沖縄写真通信「鏡野郷土博物館」 に載せてます。

2017.2.9追加
日本人のY染色体遺伝子 
引用DNAで見る日本人
    遺伝子の情報




   
   引用国立科学博物館便り(15
   
    引用勝手に僻地散歩-ミトコンドリアDNA D4 N9b M7a 東北縄文人 ( 1 )






 02富山県東部の旧石器時代
     北陸は東からのシベリア型文化と、西からの華北型文化の交わる所でした。
     展示のナイフ形石器は、東日本の東山型ナイフ形石器です。彼らは東北地方から、北方系動物を追ってきました。

   魚津の歴史・文化は、後期旧石器時代後半(約2万4千年〜1万3千年前)より、
     上中島台地の上野地区(早月上野遺跡)や、 野方台地の石垣平(石垣平A遺跡)に始まる。

   引用歴史と文化が薫るまちづくり事業 最終報告書(案) - 富山県

旧石器時代

赤土の中の文化
15,000年前の狩猟 ナウマンゾウ狩り   石刃 ナイフ形石器石刃 黒部市田家遺跡
剥片石刃 石垣平B遺跡
      15,000年前
 ナイフ形石器も細石刃石器も似たようなところで分布領域が終わっています。

・日本海側は親不知断崖。(断崖と山岳で通行不能)
・太平洋側は茨城県大洗 (利根川の氾濫原の為か)
・内陸は中央高地です。 (動物食性の問題かな)

これらの理由から、彼らが追っていた動物の分布の
、南限・北限だったリ、通行の難所だったのでしょう。

   富山県の旧石器時代 @ A B C D E   日本海の旧石器考古学―日本海をめぐる旧石器時代の交流







  縄文時代

 05縄文の道具  早月上野遺跡 縄文時代 中期〜晩期
                天神山遺跡 縄文時代 中期 (博物館周辺) 出土の石器

縄文時代の道具早月上野遺跡中期〜晩期の集落跡
天神山遺跡中期の集落
弓矢・斧・土掘り具・手斧ちょうな 縄文の山野をイメージ 凹基無茎石鏃 石匙、石槍、石錐縄文石器の種類
木葉形尖頭器と有舌尖頭器
打製石斧(土掘り具)
骨針、磨製石斧
おの、のみ、ちょうな
軽石製うき、石錘 石皿、擦石、叩石、凹石  木葉形・有舌尖頭器は北方系と言われるがどちらも同時に出土することあり。
 引用
  全国に流布。
  送られてきた尖頭器
尖頭器
1.約3万年以前の尖頭器
2.最終氷期最寒冷期以後の槍先形尖頭器
3.縄文時代の石槍
制作時期で呼び名を変えている

 早月上野遺跡報告書 富山県魚津市早月上野遺跡9.pdf  富山県魚津市早月上野遺跡11.pdf  早月上野遺跡発掘調査報告-第二分冊.pdf
 天神山遺跡報告書   天神山遺跡発掘調査報告.pdf
 桜峠遺跡報告書    桜峠遺跡調査報告書(上).pdf    桜峠遺跡調査報告書(下).pdf



 07縄文土器

 早期の土器
  桜峠遺跡(約7,000〜6,000年前)の回転式押形文土器 出土  引用
  「押形文系土器」は西日本の土器のようです。ちなみに、東日本では沈線文土器」だそうです。引用

縄文土器 魚津の縄文土器 魚津の縄文土器右から早期・中期・晩期 早期の土器回転押形文土器 桜峠遺跡縄文中期のキャプションが有るが分類は早期 桜峠 回転押形文土器

  桜峠の「押形文土器」は破片だったので尖底・平底の区別がつかず、パネルには尖底で復元し、下に口縁・胴部のみで復元してある。

  「回転押形文」は、棒の周りに模様を彫り、土器に押し付けて回転しながら連続模様を描く方法。
     円筒印章に似ている シュメール メソポタミアなどで使用



 08中期の土器   富山県の土器 引用 早月上野遺跡
    早月上野遺跡からは5,500年前頃の直径280mの大規模環状集落が出土  引用
      中期〜晩期の遺構。土器・祭祀用石棒が出土。
      中心の広場を墓域が囲み、その周囲の住居域に住居が点在した




  08土器の編年

中期初頭 新保式
中期前葉 新崎式
中葉 天神山式・古府式・古串田新式
後葉 串田新式
 中期前葉の新崎式、中期後葉の串田新式、前田式は量的にはやや少ない。
 前田式では微隆起線文の土器の胴部破片が数点みられる。
後期 気屋式、加曽利BI式三十稲場式
  井の口I式、井の口H式 量的に少ない
晩期後葉 下野式
 北陸系土器は新保・新崎式土器で、東北南部の大木式土器などが
 新潟県の火焔土器の成立に大きな影響を与えたといわれている
富山の土器編年 引用富山の縄文土器   火炎土器に影響した土器引用縄文と古代文明を探究しよう



  土器形式名は上記08右の形式名に相当します。 出土遺跡は上記07の2番目の写真に記入されています。

中期の土器
有孔鍔付土器
 土器に詳しくないので
型式がわかりません。
市内出土の縄文土器

 遺跡名と型式名が似ています
有孔鍔付土器
 長野県から山梨県の中央高地で縄文時代前期末期から中期終末にかけて特徴的に見られ、中期に盛行し関東地方へ拡大

 09後期の土器

後期 気屋式加曽利BI式、井の口I式、井の口H式 量的には少ない
晩期後葉 野式

加曾利式浅鉢 加曾利式浅鉢


 11呪術と祭祀
 
縄文の装いと祭祀
悪霊除けの装飾

翡翠大珠・翡翠小玉・翡翠玉・翡翠大珠・翡翠管玉・垂玉・耳飾り
ヒスイの原石魔除けとしての装飾品
耳・口・鼻から悪霊が入らぬよう光るもので払う
石棒のふしぎな出土状況 呪術・祭祀具 石棒について石棒は手に持って破壊(残虐)行為をした道具
土偶について 縄文人の変わった
石製品後・晩期の北陸・飛騨を中心に石刀石剣・石冠・独鈷石・御物石器等非実用の異形石器

土偶・石冠・滑車型耳飾
石冠・滑車型耳飾
土製耳飾・滑車型耳飾
土偶・石冠 石棒×4石刀・石剣・環状石斧・石冠・独鈷石

石棒・環状石斧・独鈷石
石棒×4石刀・石剣・環状石斧・石冠・独鈷石 呪術・祭祀具

 環状石斧は真ん中に棒を通して交戦する武器

 独鈷石は中央を中割の棒に挟んで縛り、両頭石斧としての武器
独鈷石
 やがて形状が祭祀用に変化し御物石器となる。

石棒は 露骨に男性器だが、石刀石剣も男性器のである。

 子孫繁栄のどんな儀式をしたのでしょうか。
土偶祭祀
 動物や山菜が沢山採れるように祈る祭りでは、
産み、増やす象徴として

 妊婦をかたどった人形を神に捧げて精霊の力を宿し、豊穣を願う場所へ分割して持って行って埋めた。
 この南方系祭祀が縄文から弥生を貫いて、

「記紀」の中に書かれているということは、

似たような信仰が長い間列島に生きていました。

  環状石斧・両頭石斧はいったいどこから持ち込まれたのでしょう。
   両頭石斧は縄文時代後半から東日本でみられるようになる。引用山形県立博物館「日本の石斧展」
   環状石斧は根棒頭石斧ともいわれる。弥生時代の武器とされる。

   これらは東日本に多いことから、大陸から直接。半島から海岸伝いに北陸へ。北方から。なのでしょうか。シベリアからという意見もある。

   環状石斧などは世界中に分布している。




  弥生時代




 12弥生の農具 木製農具

魚津市佐伯遺跡
飢餓から逃れ、海を越して来た稲作民は
越のクニの低湿地を見て狂喜乱舞したに違いない
方形周溝墓の副葬品
尖底の壺。穿孔を開けたものもある。小鉢
弥生後期

珠洲市博物館には穴開き土器が沢山ある。見れなかったけど。
今でも、出棺の時に本人使用の茶碗を壊す風習もある。壊して送るともいう
・死者へのお供え用土器の穴は、あの世の道具。
・縄文の土器棺にあいた穴は霊魂の通り道。






  古墳時代 1700〜1400年前




 21立山曼荼羅
   立山開山の縁起。地獄極楽絵図。 普通の曼荼羅は仏教の奥義が描かれていると思ったが・・


館山買い残の伝説 古墳の時代半島植民が押し寄せた弥生時代。その国々を占領支配しに来た古墳時代 古墳は支配者が誰かをわからせるモニュメント 勾玉 土師器、須恵器の壺、高坏 瓦、杯、壺



 31縄文の交易
   大光寺遺跡 縄文中期 (4,200年前)の住居跡1棟、前期〜中期の土器・石器出土。 富山県魚津市大光寺
   新潟県の火焔土器 東北地方の大木式土器 中央高地(長野県)に分布する土器が発見され、各地から人々がやってきた。

古府式土器 大光寺遺跡の火焔土器
火焔土器 大木式土器 大木式土器 大木式土器 翡翠原石 黒曜石と石鏃
磨製石斧 黒曜石

 51富山の先史年表 
旧石器時代 早月上野遺跡 出土 掻器
縄文時代 桜峠 山下遺跡 天神山遺跡 大光寺遺跡
早月上野遺跡 石冠 注口土器
伯遺跡 土偶  
弥生時代   石垣遺跡 印田遺跡  

 55竪穴住居  模型
竪穴住居