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  西日本の縄文  23    2016.03.30-2

   鏡野郷土博物館  岡山県苫田郡鏡野町竹田663-7 0868-54-7722  月曜・休日休館 撮影可


交通
見所 西日本の旧石器時代遺跡の中で、研究内容が公開されている遺跡であり、西日本の旧石器の実態を明らかにした最も重要な遺跡です。
中国地方第一級。恩原高原の旧石器時代遺跡です。  特集記事では、私が知らなかった、旧石器時代の実像を書き連ねました。
 
  注意  館には、重要な旧石器遺物はほとんどなく、また、解説のパネルもありません。
    全て、2つの大学と一施設が持ち去り、後には何一つ残さず、展示のための資料提供もほぼなされていません。禿鷹。

 特集記事 恩原旧石器時代遺跡の実態  参考鏡野町発掘調査報告書



次 
 
00外観
恩原遺跡と恩原遺跡群
恩原高原
恩原遺跡群
5つの文化層
@礫混じり粘土層(R層)
@)台形石器
A)石刃素材ナイフ形石器
Aオドリ層(O層)
5種類のナイフ形石器
・東山型
・杉久保型
・茂呂型
・国府型
・九州型
Bソフトローム層(S層)
C漸移層(М層)
D縄文時代文化層 (黒ボク層)
恩原の古環境 

10旧石器時代

11後期旧石器時代 後期
13後期旧石器時代 終末期
 赤色玉髄
 恩原遺跡は旧石器時代の中心
恩原遺跡群の時代的特徴
14砂川型ナイフ形石器
 @礫混じり粘土層(R層)
15旧石器柴代の環状集落
 Aオドリ層(O層)
 Bソフトローム層(S層)
旧石器時代の交通路
 @中国山地尾根筋交通路
 A南北谷筋交通路
 B日本海沿岸交通路
湧別技法細石刃石器群の発見
 C漸移層(М層)
  気候難民の南下
  瀬戸内技法旧石器人の北上
  移動ルート
  植民集団の遊動と新たな植民

  湧別技法
  細石刃文化人の実態
  細石刃文化人C3
  縄文人の登場
  D2遺伝子の由来



20縄文時代

22竹田遺跡
23パネル
24石器・土器
26町内の遺跡から 祭祀具

30弥生時代
31
 葡萄田頭遺跡
 九番丁場遺跡
33町内の遺跡から
35九番丁場・葡萄田頭遺跡
37竹田遺跡
38薬師前遺跡

40古墳時代
41
50赤迫遺跡
51東花穴古墳群
52赤峪古墳 古墳時代前期
55古墳時代後期
57古墳時代後期
58竹田5号墳中央北棺
59長浜2号墳
 
60陶棺 長浜2号墳
80ジオラマ
 
 00外観
ペスタロッチ館 町村合併による補助金で立派な箱ものを建設。 西欧の教育者だそうな
この町とは関係ないだろうに
館内にある郷土館
上斎原村奥津町富村を鏡野町が吸収合併した
豊富な森林資源にあふれる豊かな町で、木材の集散地である。 中国地方には広大な山林を原資として多角的な産業経営をする分限者が多い。  広大な土地を所有し、他人の土地を通らなくても、隣の県まで行けるなど
よく聞く話である。
 
 
 資料


 恩原高原と恩原遺跡群

 恩原高原は、岡山県北部の旧上斎原村にある標高900m〜1000m前後の高原です。台地の頂面は3×0.5q。

  第三紀(6430万年前〜260万年前)の、広大な溶岩台地が、部分的に浸食を受けて分断されたメサ地形です。主岩石は安山岩である。
  同様の地形 (溶岩台地の続き) は西方に高清水高原津黒高原蒜山高原と続いている。 引用「岡山21恩原高原のメサ

  ※第三紀は列島が大陸から切り離されるなど活発な地殻変動・火山活動の時期でした。

  ※この台地は急峻な谷に遮られ麓からは見えず、頂上に登って初めて見ることができる、コナンドイルの「失われた世界」のような場所です。
  当時、この地には、ナウマンゾウやオオツノシカなどが寒冷な気候を求めてやってきた、最良の狩場だったようです。

  3万年以上前の恩原高原は、現在の北海道北部のような寒冷な気候でした。そして、やがて1万8000年前まで続く最寒冷期がやってきます。



 恩原遺跡群 標高730mの地域に10箇所の旧石器〜縄文の遺跡が確認されている。 
   以下引用「恩原遺跡群」(鏡野郷土博物館)と恩原遺跡 日本旧石器学会

 5つの文化層 (最下層から準に)


 @礫混じり粘土層(R層) 3万3000〜2万8000年前 (AT層より下)  石器・石屑が大量出土。 この層は、2つの文化層に分かれる。

  @)台形石器の時代(R下層文化) 後期旧石器時代初頭 (3万3000〜3万年前)
  A)石刃素材ナイフ形石器文化初頭の文化(R上層文化) (2万8000年前)からは 石組炉。砂礫堆 (炭化物+砂利) が42箇所

   ※発掘時に一つの時代として発掘したため、@)の時代への分析はこれ以上は不可能となっている。


 Aオドリ層(O層) (大山火砕流堆積物層) 2万7000年前 基部を細長く作り出したナイフ形石器※1が特徴

  石器の9割が黄土色の玉髄製 石器製作跡(石器ブロック)や焚火跡発見。
  移動生活の中の短期的居住址(キャンプサイト)と考えられている。


  資料1 ナイフ形石器の型式と特徴     転載Wikipediaナイフ形石器
  
型式名  特 徴  分布域
東日本型 
東山型 石刃の基部を加工 東北地方から北海道網走郡津別町まで分布
杉久保型 縦型石刃の先端部及び基部への刃潰し加工 主に中部地方北部から東北地方にかけて分布
茂呂(もろ)型 縦型石刃の側縁と反対側基部への刃潰し加工 主に関東、中部地方南部、東海に分布
西日本型 
国府(こう)型 横型石刃(翼状剥片)の一側縁への刃潰し加工 主に瀬戸内、関西、中国、四国に分布、山形県朝日町まで分布
大阪府藤井寺市国府遺跡で最初に確認されたのでこの名称で呼ばれる。石材は二上山のサヌカイト。
同様の製作技術が瀬戸内地方の遺跡からも見つかっているので、それらは瀬戸内技法[2]と名付けられた。
九州型 基本的に茂呂型と同じであるが小型 九州に分布
     東日本型・西日本型・九州型のうち、基部への加工東山型のみである。
     本来、ここで見つかるものは、西日本型の横長剥片石器でなければならない。
     ここでは、中国山地の、フコウ原遺跡型のナイフ形石器でした。(西日本型横長剥片石器)

 
 Bソフトローム層(S層) (風化火山灰土壌) 2万5000〜2万年前

  横長剥片素材のナイフ形石器 (瀬戸内地方との交流 瀬戸内技法) と
  石刃素材のナイフ形石器(山陰との交流 石刃技法)※2 が出土した。


   石器素材として、サヌカイト (硬質安山岩・香川県坂出市) 玉髄 (島根県花仙山) 黒曜石 (隠岐島)
   石材原産地の三地域との交流・技術伝承等の広範な往来を証明する。隠岐島には海退陸化で舟でなく歩いて採りに行った。

資料2
 後期旧石器時代後半になると遊動的な生活は一層進み、小規模単位の生活跡(遺跡)を多数残しているが、

  東日本などからは石刃技法と呼ばれる方法によって作られた石器と石刃素材のナイフ形石器・彫刻刀形石器・エンドスクレイパーが、
  瀬戸内海・近畿地方を中心とする地域からは、瀬戸内技法による石器と国府型ナイフ形石器が多く見つかっている

 つまり、山陰地方には東日本からの石刃技法文化人が流れ込んでいたのだ。  抜粋後期旧石器時代とは!「遊動」する人びと


   ざんい
 C漸移層(М層)
   1万8000〜1万6000年前 湧別技法の細石刃文化※4 (東・北日本の特徴的石刃技法)
   東北地方から日本海側を南下してきた集団の移民だった。

   旧石器時代の山陰地方には日本海沿岸の交通を通じて、東・北日本・北海道・その先の北方ユーラシアとの繋がりがあったことが判った。




資料3
 ↓は、1万5000年前の、サヌカイト製ナイフ形石器 と、1万3000年前の細石刃の写真。
古代吉備文化センター遺跡紹介コーナー

 リンク写真内の、記述年代は暦年校正していないため実際は
 1万8000年前の、サヌカイト製ナイフ形石器 と、1万6000年前の細石刃の写真。となります。

 恩原高原と言う、登ってみないと見つけられない遠い山奥の山頂の高原に、頻繁に人が棲み変わるのは、
 それほど激しく人が遊動していたという証拠でしょうか。


資料4
 湧別技法の広がり (←リンクHP内の地図参照)

 湧別技法は、北海道、東北日本海側、関東地方、北陸地方内陸部、若狭湾〜大山周辺まで
 この経路を通って北方系湧別技法文化人が拡散・遊動してきたのです。

 3万5000年前からの北方旧石器人の遊動経路も、このような経路であったようです。親不知断崖は海退でありませんでした。

 
  D縄文時代文化層 (黒ボク層)

   早期(9500〜6500年前)
   前期(6500〜5000年前)
   後期(4000〜3000年前)
   の三時期の土器や、石鏃・石錘・磨石が出土

資料5
 恩原の古環境
  3万2000年前頃人が現れた。
  2万9000年前姶良カルデラの火山灰に15cm覆われた。動植物は壊滅的大被害。
  2万8000〜1万1000年前の海退で140〜80m海面低下。瀬戸内・隠岐島と陸続きになった。サヌカイト・黒曜石の入手が容易になった。





 10旧石器時代



  恩原遺跡の特徴は、西日本 (茂呂・国府文化圏) にありながら 東日本 (杉久保・東山型)の文化圏に所属する極めて特異な地域である。


  11後期旧石器時代 後期

内容は上に記述
水晶は恩原湖周辺 
または鳥取県大山産
玉髄は島根県花仙山
黒曜石は隠岐島産 
DATA
黄土色玉髄製ナイフ形石器は 2万7000年前
Aオドリ層期
黒曜石の石核は2万5000〜2万年前B期
水晶製ナイフ形石器
玉髄製ナイフ形石器
2万7000年前
Aオドリ層期
※1
ナイフ形石器
鋭い縁辺を一部に残し、側縁に急斜度な加工を施した石器。地方によって形や製法に特徴がある。
刺す・切る道具
・恩原湖周辺は水晶谷と言われる水晶の産地

・鳥取県大山の水晶産地は、恩原高原からまっすぐ西へ進むと突き当りにある。遺蹟周囲や、目と鼻の先にあるので、水晶製石器が91%。豊富だ。
※1遺跡発見のきっかけとなった石器。
 恩原湖周辺に旧石器遺跡の存在を実証した

サヌカイトは香川県五色台産
2万5000〜2万年前
Bソフトローム層期


  13後期旧石器時代 終末期
彫器原形 赤色玉髄製
荒屋型彫器の原形
彫器 頁岩製 木や骨に溝を彫る
石刃 安山岩=サヌカイト
細石刃文化期14500-12000年前の石器 荒屋型彫器はシベリアに起源を持つ石器。
楔形細石刃核に伴出
削器 安山岩製サヌカイト
削器 玉髄製スクレイパー
細石刃 黒曜石製    
石屑 安山岩・黒曜石・水晶

 赤色玉髄は、
  玉髄原石を火の中に入れると赤い色に変わります。同じことがヒスイでも起こります。

 恩原遺跡は旧石器時代
  がメインであるにもかかわらず、たったこれだけの資料しかない。それも屈辱的な借用と言う形である。
  発掘に当たった岡山大学・岡山理科大・古代吉備文化財センターがすべて持ち去ってしまった。二度と世に出ないでしょう。





 恩原遺跡群の時代的特徴


14砂川型ナイフ形石器

  恩原遺跡で最も資料数が豊富なのは、最古の、@礫混じり粘土層(R層) 3万3000〜2万8000年前 である。

  石器が5255点出土した。が、それらは、
  砂川型石刃技法によるナイフ形石器744点出土が主体となっている。
  埼玉県所沢市嵐山町砂川遺跡出土石器と、恩原遺跡のナイフ形石器はそっくりであり、(写真⇒)
  砂川文化と同時期に恩原でも同様の石刃技法が使われていたということである。

  この石刃技法はシベリア経由のもので、同じ特徴を持っている。
  安山岩や玉髄製石刃技法石刃素材ナイフ形石器は、一時期、山陰・中国地方に栄えた。

  ただし、水晶製石器は、4318点で圧倒的多数を占め、ナイフ形石器が特徴的石器とは言えない。

   ※同じ石刃技法を持った人々が、短時間で遊動してきたと言える。
砂川型石刃
引用文化財オンライン
埼玉県砂川遺跡出土品
恩原遺跡ナイフ形石器
「旧石器人の遊動と植民」
稲田孝司から転載



 15旧石器時代の環状集落跡(環状ブロック) 全国に数十例あり、いずれも約三万年前以前に遡る

   発掘現場の地面に、石器ブロックと呼ばれる円形の石器屑の散らばりがみられ、一軒分の広さになる。
   それを全て図面に記載すると環状になる。この環状ブロックが集落のまとまりである。

   縄文とは違い柱穴などないので、集落でなくブロックと呼んでいる。
   このことから、旧石器〜縄文まで、大きな環状の集落が続いたと考えられる。 旧石器人の遊動と植民」稲田孝司から転載

@礫混じり粘土層
下層の環状ブロック

3万3000〜3万年前
@礫混じり粘土層上層2万8000年前 他地域の環状ブロック
群馬県 下触牛伏遺跡 外縁長径50m中央にもブロックが分布する
栃木県 上林遺跡 長径80mの楕円形
長野県 日向林遺跡 長径30m
岡山県 蒜山高原中山西遺跡 長径11m(水晶製台形石器を伴出)
 旧石器人の遊動と植民」稲田孝司から転載
 

 Aオドリ層(O層) (2万7000年前)では、
    石器の91%が黄土色玉髄製(島根県花仙山産)で、その他安山岩・水晶・黒曜石を少量含む。
    編年指標のナイフ形石器は、縦長剥片で二側加工し、基部を細長く作り出す独特な形、フコウ原型ナイフ形石器※1である。

    人々は、安山岩・黒曜石などの石材産地を遊動し、石器を現地で作りながら10人前後で生活していた。
    従って、短期間だけ居住したキャンプサイトであると考えられる。

    姶良カルデラの15cmもの降灰後、更に、大山火砕流の襲撃を受け、自然が十分回復しないため
    定住や、安定した食糧確保が困難な時期だったのでしょうか。 


   資料1フコウ原型ナイフ形石器 最初に発見された津黒高原付近の遺跡名「フコウ原」をとって、フコウ原のナイフ形石器と名付けた
     岡山県真庭市蒜山別所フコウ原



  Bソフトローム層(S層) 2万5000〜2万年前

    石器の97%が安山岩・玉髄・水晶の三種で、ナイフ形石器・掻器・スクレイパー・石核が多量に出土。

    集団の激しい移動は少ないが、石材の採取には、数人を派遣したり、時には集団全体が移動したようだ。


資料

 旧石器時代の交通路には
  @中国山地尾根筋交通路 (AT火山灰降下以前)

   扇ノ山付近の火山地帯(良好な狩場)〜恩原遺跡津黒高原蒜山遺跡群冠高原(安山岩産地)
   この道から枝分かれした道もできたようだ。

   この道を通じて縦長剥片素材のナイフ形石器や台形石器が、関東・中部から九州まで伝播する道であった。
   (10〜30qおきに高原や遺跡群が連続する。尾根筋は、準平原同様で、大変なだらかで歩きやすい。)

  A南北谷筋交通路 (AT火山灰降下以後に発達した) 川筋や河床を通り道にした。
   この時期、瀬戸内産サヌカイトの量が急増する。

  B日本海沿岸交通路 (右図)  転載「旧石器人の遊動と植民」
旧石器人の移動ルート


  湧別技法細石刃石器群の発見

 C漸移層(М層) 1万8千〜1万6千年前

  気候難民の南下 (寒冷化による)
   2万年前頃には寒冷過ぎた気候のため、シベリアから動物が南下し、それを追って、沢山の細石刃文化人が北海道に南下していた。

  気候難民の南下 (温暖化による)
   最終氷期が終わり、温暖化で永久凍土が溶け、大地が・動物が・人が泥に沈んで生活手段を奪われた北方民族が、画期的な新発明の
   石器剥離技術をもって、(3〜4万年前に発明された技法)、北海道〜東北〜日本海側〜中国地方まで南下・拡散した。

   参考クサビ形細石刃文化人の大量流入
恩原遺跡の石器
湧別技法による石核剥離
湧別技法クサビ形石核 湧別技法集団の植民と遊動
図は、
シリーズ「遺跡に学ぶ」(新泉社)No25の
「石槍革命・・・八風山遺跡群」(2006年3月、須藤隆司)
による湧別技法の広がりを示した図である



  瀬戸内技法旧石器人の北上
   細石刃文化以前のナイフ形石器文化期に、瀬戸内技法の瀬戸内旧石器人が
   日本海側ルートを通り、北陸→新潟→山形県鶴岡市越中山K遺跡まで移動した事実がで発見された。小気候変動等で移民したのでしょうか。

   (最後まで瀬戸内技法で石器を製作した集団。最初は石材を西日本や北陸まで採りに行って。最後はわざと横長に割って。作っていた。
    土着旧石器人は縦長剥片を作っていたのだが、接触することがなかったのか、頑固でやり方を換えなかったのか、どちらかですね。)

  移動ルート
   湧別技法の北方民族は、この逆コースをたどったのでしょう。
   当時既にこのような、列島を縦断する、大規模な交通網が、交易のためにあったようです。
   彼ら細石刃文化人は、遊動ではなく、最初から、植民・移民のために南下してきたのです。


  植民集団の遊動と新たな植民
   湧別技法集団は、一旦山陰地方に棲み付き、隠岐島(黒曜石)や花仙山(玉髄)産地を遊動し、南西日本の円錐形細石刃石器文化人とも
   接触し、その後に恩原へやってきたようだ。

   植民拠点に棲み付き、増殖し、さらにそこから次々と植民拠点を広げていくやり方で西日本各地に広がっていった。

   移動ルート
    山陰地方→中国山地→山陽・瀬戸内地方→四国全体
    細石刃の石材としては、高知チャート 香川サヌカイト などである

    転載「旧石器人の遊動と植民」 参考国府系石器群の広域展開現象

 

 湧別技法
   楔型剥片技術はシベリアのバイカル湖周辺で2万3000〜2万年前にできた技術で、日本では湧別技法とよばれています。
   (西ユーラシアで発生し、アルタイ地方に4万年前に到達し、3万年前東シベリアへ波及したとも言われている。)


 細石刃文化人の実態
   4万年前インド北部からバイカル湖に来た集団が、3万年前北方モンゴロイドとなった。彼らは変異してY染色体遺伝子C3となる。
   2万5000年前最寒冷期に動物の南下と共にサハリン経由で北海道に渡来し、1万8000年前本州に南下を開始しました。

   彼らはそれまでのナイフ形石器文化人NO*(古旧石器人)をたちまち駆逐して列島に拡散していきました。
   大変な速さで増殖し、圧倒的な力で拠点を形成しては、そこから拡散分離増殖していきました。ために、列島に1800箇所もの遺跡があります。


  細石刃文化人 Y遺伝子型C3ブリヤート人です。彼らの古代遺跡からも細石刃が出土しています。

   氷河期終了期にシベリア型細石刃文化人が南下し、列島のナイフ形石器文化人を殺戮しながら急速な勢いで列島を蹂躙した。
   このため、それまでのナイフ形石器文化は跡形もなく消えてしまった。

   彼らのDNA型C3は、その後の日本人を特徴づける遺伝子となっています。
   このDNAを持つ民族はシベリアのブリヤート族で、彼らが旧石器時代終末期に列島に拡がり、縄文人の一部となったのです。



  縄文人の登場は、
   1万6500年前頃までにシベリアからサハリン経由で、御子柴型石斧土器弓矢を持ったD2の集団が縄文時代をもたらしました。
   彼らもたちまち列島に拡散し、種子島まで到達しました。

   大型動物用狩猟具の細石刃は、たちまち列島に残っていた大型獣を滅ぼし尽くして弱っていたC3集団は、D2にあっさり同化されたようです。


 D2遺伝子の由来
  D2の来た道
   D2は東南アジアから温暖化によって繁茂した大陸の照葉樹林帯をつたって北上し、途中で土器文化と接触し (2万年前頃)、

   沿海州(1,8000年前頃と言われている) からアムール川 (16,500年前) 沿いに南下し、北海道に至ったといわれています。

   青森県津軽半島の太平山元遺跡の無文土器16,500年前

   1万4000年前津軽海峡ができるまで北海道と本州は地続きでした。

 D2の発生 
  アフリカを出たホモサピエンスは、、
    @パプアニューギニア人・Aヨーロッパ人・Bアジア人の祖形に分かれた、そのアジア人の祖形がD2の縄文人です。

  その後アジア人は 東アジア人(モンゴロイド) と東南アジア人 (オーストラロイド) に分離しました。遺伝子型も異なりました。

  だから、原種に近いので彫りが深く、ヨーロッパ人・パプアニューギニア人とよく似ているのです。

     引用日本人の源流を探して Y染色体から日本人の故郷を探る
     引用縄文と古代文明を探究しよう 「日本人の起源」を識る〜2.前縄文時代の解明(狩猟・移動の民C3)  
     引用NHKサイエンスZERO「日本人のルーツ発見!核DNA解析が解き明かす縄文人 」
     引用「先史日本を復元する―1 遊動する旧石器人」稲田孝司






 20縄文時代


  縄文時代は今から約1,3000年前に始まりました。
  縄文時代の人々の生業は、シカやイノシシを捕まえる狩猟、魚や貝をとる漁撈、クリやドングリなどを集める採集でした。

  縄文文化の徳地陽は、煮炊きに使う土器の製作、狩猟用の弓矢の使用、木の切り倒しや加工に使う磨製石斧の発達、
  一年を通じて同じ場所で暮らす定住生活の始まりなどです。

  最近では、クリ・ウリ・アズキなどの栽培が始まったことも分かっています。


  21恩原遺跡


恩原では13000年前に始まると言う。 恩原遺跡の土器・石器 凹み石・磨製石斧(流紋岩・蛇紋岩)・石鏃(安山岩・黒曜石)・石錘(流紋岩・泥岩) 押形文土器
流紋岩・蛇紋岩の岩脈が近隣にあるようです
(岡山県和気町城山)
黒曜石(隠岐島)サヌカイト(香川県)この時期だと舟で採取に行ったでしょうか 流紋岩は中国山地脊梁部に普遍的に分布




  これ以降の各時代の遺跡は、旧鏡野町 (南部) 出土のものです。
  平成の合併によって、北端の上斎原村その南の富村東部の奥津町 が合併しました。

  恩原遺跡 (旧石器〜縄文) は北部の上斎原村のものです。

 

 22竹田遺跡 8000年前縄文早期中葉の集落遺跡。

  約8,000年前の縄文早期中葉の集落跡です。二重の杭列が楕円形に並ぶ住居跡6棟と、多数の杭穴、炉跡1箇所を検出。
  しかし、6棟の住居が同時に存在したのではありません。数人の小家族が一定期間ここで生活し、住居を建て替えた跡です。

  発見された遺物は、押型文土器・石鏃・皮はぎ・叩き石・磨り石、石器材料用サヌカイト・黒曜石などです。


  23パネル

 縄文時代の交易
  縄文時代の代表的な交易品に、石器材料の黒曜石とサヌカイトがあります。

  西日本の黒曜石産地には、島根県隠岐、大分県姫島、佐賀県腰岳、
  サヌカイトの産地には、香川県五色台・金山や大阪・奈良県境の二上山などがあります。

  竹田(縄文)遺跡出土の黒曜石やサヌカイトは、四国や隠岐から交易によって運ばれて来ました。

竹田遺跡の住居跡 町内の縄文遺跡分布 縄文時代の交易黒曜石は隠岐島産
サヌカイトは香川産
竹田遺跡(縄文)上に記述 4号住居址二列の杭穴は二重に屋根をかけたのでしょうか 住居中央に柱穴があるのにドーム型は変だ。普通の竪穴住居だった。
押形文土器 早期
古墳下より発見
白い内側が杭跡 岡山の山中での縄文カレンダーにクジラって 子どもたちの社会科学習のため、適当に持ってきた資料はダメですね。 鹿児島県上野原遺跡のドーム型住居は、縄文人に制作不能な、現代人の妄想です。

 それに、二重の杭穴や中央の柱穴と一致しない。

  24石器・土器

スクレイパー
サヌカイト片
黒曜石剥片・チャート剥片・水晶 押形文土器 亀甲模様が多いですね くっきりが好きだったようです
石鏃 サヌカイト製



  28町内の遺跡から 祭祀具

土器片 六番丁場遺跡
縄文後期

土器片 公儀屋敷遺跡 後期
乳棒状石斧 石刀
石刀
新町・横田遺跡 晩期
見事な造形です
 乳棒状石斧
は弥生時代の特徴的石斧ものです。
 混じっていたのでしょうか。
 誤りでしょうか。(*^_^*)





 30弥生時代



  日本列島での灌漑を伴う本格的な水稲農耕の開始が弥生時代の始まりです。
  弥生文化の特徴は、水田稲作。金属器の使用。織機による布作りなどです。銅鐸・銅剣・銅矛を用いた祭祀も行われました。

  土地や水の奪い合いによる戦争が始まり、防御機能を持った、環濠集落や高地性集落が営まれたのもこの時代です。
  鉄器の普及による生産力の向上で、米交易によって莫大な富を蓄え、大規模な弥生墳丘墓に埋葬される首長が現れました。


  31鏡野の弥生時代

 葡萄田頭遺跡
  中期後葉〜後期前葉 竪穴住居跡16棟、掘立柱建物5棟。 段状遺構と呼ばれる遺構や貯蔵穴と思しき土坑も多数みつかる。
  出土遺物は、土器・鉄鏃・鉄斧・石鏃・石斧・石皿などです。

  集落から北に50m程離れた墓地跡から、木棺墓や壺を棺にした土器棺が出土した。

上に記述 老婆ばかり?
鏡野の弥生遺跡
葡萄田頭遺跡住居
中・後期住居跡
葡萄田頭遺跡中期後葉〜後期前葉

 九番丁場遺跡
  縄文早期〜中世までの遺構・遺物が見つかった複合遺跡です。弥生時代の遺構は、竪穴住居6棟、溝4条、土坑12基です。

  中でも、後期前葉の7号住居跡は県下最大級の大型住居跡です。
  この住居跡からは、ガラス製管玉・人形土製品・玉材料などが出土しました。

  大型住居の機能はわかりませんが、大規模集落跡から発見される傾向にあります。

九番丁場遺跡住居跡直径12mの大型建物 九番丁場遺跡 弥生住居
葡萄田頭遺跡

竹田遺跡5号住居
泥葺屋根の焼失住居
  33町内の遺跡から
石包丁 鏡野町内出土 石斧 鏡野町内出土 葡萄田頭遺跡中期〜後期 高坏形土器 5号住居跡
把手付土器 7号住居跡
甕形土器 1号溝 把手付土器 7号住居跡
石鏃・鉄鏃・鉄斧・石斧・磨石・石皿
葡萄田頭遺跡
中期〜後期

  35九番丁場遺跡・葡萄田頭遺跡

人形土製品
碧玉(管玉材料)
管玉(ガラス)

九番丁場遺跡7号住居跡
壺形土器・高坏形土器 高坏形土器 葡萄田頭遺跡出土
土器棺 弥生時代後期

  37竹田遺跡弥生時代中期〜後期

人形土製品・槍鉋・手づくね土器 鉢形土器・器台形土器・高坏形土器
竹田遺跡 弥生後期

壺形土器 後期

器台形土器 後期
土器棺 8号墳丘墓
弥生後期

  38薬師前遺跡

台付鉢形土器・高坏形土器・器台形土器
15号土坑出土
壺形土器と鼓形器台
甕形土器
14号土坑出土
甕形土器 甕は口が細いので煮炊きには不適当かと思います 左:弥生土器の甕



 40古墳時代



 41古墳の出現に先立ち、近畿地方を中心に広域政治連合が形成され、前方後円墳はこれに加わった首長の墓として、3世紀後半に作られた。
   これが古墳時代のはじまりです。

  5世紀頃になると、大陸や半島との交易により、大陸の文物が伝わり、乗馬の風習や須恵器作りなどが始まりました。
   (コメ交易で莫大な蓄財をした首長たちが、金ピカに飾った高級ペットを輸入し、引いて見せて回り、権力財力を誇示した。
   今も昔も金持ちのやることは一緒)

  6世紀には、竪穴式に替わって横穴式石室が普及し、有力者が小円墳の密集した群集墳を営むようになった。
   氏姓制度・国造制・部民制が成立したのもこの頃です。
上に記述 郷観音山古墳 墳丘図前方部が撥形に開く最古の前方後円墳。L43m
隆起斜道の存在。
赤峪古墳 墳丘図緩隅角(ゆるすみかど)と言われる前方部を持つ
前方後円墳


 50古墳時代前期

 東花穴古墳群
   4世紀の方墳6基の古墳群。うち2基は2段築成です。埋葬施設に箱形木棺を埋めた墓壙や箱式石棺。子供用土器棺・小型箱式石棺発見。
   副葬品には、槍・短剣・銅族・鉄鏃・鉋・刀子。
   51
赤迫古墳後円部
埋葬施設
東花穴古墳群※1 大開遺跡方形住居跡 東花穴古墳群 高坏形土器 大開古墳
古墳時代前期
甕形土器 大開古墳
古墳後期
古墳時代住居一辺6m
器台形土器 古墳前期
鉄斧 勾玉(ガラス)


 52赤峪古墳 古墳時代前期

盤龍鏡・板状鉄器・鉄斧(手斧) 蛭鎌・勾玉・小玉(ガラス) 東花穴古墳 前期土器棺 鉋・鉄鎌・鉋
鉄鏃
短剣・短剣
槍・短剣
内行花文鏡
土居妙見山古墳
古墳前期

内行花文鏡 古墳中期
内行花文鏡
竹田妙見山古墳
古墳前期
小玉(ガラス)、管玉


 55古墳時代後期

 ツルギ古墳出土の鉄製鍛冶具
  7世紀後半の横穴式石室墳から出土しました。発見された鍛冶具は、鉄を鍛える鉄槌、熱く焼けた鉄を挟むカナ鉄鉗、金工用ノミのタガネです。

  総社市千引かなくろ谷遺跡での製鉄炉跡の発見により、6世紀後半には、製鉄が行われていたことが知られていますが、ツルギ古墳出土の
  鍛冶具により、7世紀後半には美作で鉄器の生産が行われていたことがわかります。


横穴式石室の登場
古墳後期
法明寺古墳石室 6世紀末 古墳時代遺跡マップ ツルギ古墳出土
鉄製鍛冶具
塚谷五輪埴輪散布地円筒埴輪
古墳時代後期
↑全長8.5m・玄室高2.5m
奥壁は二段に造り、奥壁に向かって左側に袖部

をもつ、片袖式石室


 57古墳時代後期

塚谷五輪埴輪散布地人物埴輪
古墳時代後期
沢田王子塚古墳
古墳時代後期
はそう・提瓶(ていへい) 平瓶・蓋杯 ツルギ古墳出土鉄器金槌・鏨(たがね)、
金鉗(かなはし)

鍛冶集団の首長の墓


 58竹田5号墳中央北棺 竹田墳墓群 古墳時代前期
  4世紀に築造された竹田5号墳の埋葬施設です。この古墳からは、中央北棺のほかに3基の箱式石棺が発見されました。

  中央北棺には、津山市大谷を中心に算出する流紋岩質角礫凝灰岩が棺材に用いられています。また、中央北棺から検出された人骨の
  出土状態により、鼓形器台と言われる土器を枕にした壮年の女性と、自然石を枕にした12・13才の子供が、頭位を逆にして、

  同時に埋葬されていたことが分かりました。

  ※決して母子だなんて思わないでくださいね。これは、殉死ですね。奴婢の子供を道連れにしたんですね。きっと。
  
壮年女性の正葬墓で、
逆位の子供は稚児奴隷の殉死のようです。
これが子供の枕 おばさんの枕



 59長浜2号墳 古墳時代後期 6世紀末〜7世紀初頭

鉄鏃・鉤状鉄器・耳環 はそう・平瓶・平瓶 台付長頸壺・はそう・はそう 無蓋高坏・無蓋高坏 杯身・杯蓋


 60陶棺 長浜2号墳 古墳時代後期

遠く吉備で作られた土器棺を、ろくな道もないのに壊さずに運んだ苦労が伺える。 櫛書き波状文と円形竹管文を施した,亀甲形陶棺で、有名です。 古墳は直径18m高さ1.6mの円墳。横穴式石室 吉備では、この頃には完全に製陶技術が完成していたのでしょうか。↓ 彩色があったと思うのですが、資料を撮影していませんでした。 って、資料があったのかな
こんな大きさなら陶器製のバスタブもできますね ↑いや、半島で熟練、完成した陶器技術者がやって来ていたので、
 吉備の陶器技術は
最初から完成していたのです。
 そのまま現代に引き継がれています。


 80ジオラマ
鏡野町のジオラマ