[戻る][TOP]


 北海道の縄文 №30 2022.06.12-2
  
  端野(たんの)歴史民俗資料館 北見市端野町二区471-5
  0157-56-2560 開館期間5月1日~11月7日月曜休館 撮影可

交通 ・JR端野駅から1.5km徒歩20分 ・レンタカー
近隣観光地 ・知床観光、網走周辺、阿寒・屈斜路・摩周湖周辺
・知床や三湖(阿寒~摩周)、網走・サロマ湖などは隣接の絶景Point。
拠点を決めて、車で巡ります。特に、早朝の摩周湖は絶景で、
摩周湖YHはとても便利な宿でした。
近隣博物館 知床周辺・網走周辺・白滝周辺
宿泊情報 知床・サロマ湖・三湖周辺は高額(3万)、網走には手頃もあり(5千)。
私の場合摩周湖ユースホステルが最高でした。易くて清潔親切。便利。

  
 
目次
01外観
100館内展示
110協和広瀬遺跡
111二号住居出土土器

112石棒
 積石のある墓
 5本の石棒
※考察積石のある墓
石棒 北川サヨさんの畑
※考察石棒と協和広瀬遺跡


113三号住居出土土器
130一号住居炭化材と道具

150上口遺跡の発掘 1万年前

北川さん家の弁柄磨製石斧
 またこんな場所に放置した

200吉田遺跡 1万年前
210石器
211石器使用痕

253御殿山式 後期
256中野式 前期
 細岡式 後期

300端野の蝶

 
 
 01外観
端野歴史民俗資料館
端野歴史民俗資料館は、左のLinkのように結構多めの民俗資料が中心に展示されており、考古資料は大変少ないです。それでも、いつもなら、全ての写真を撮って帰ってくるのですが、ここを訪問する前に、全国版TV報道で、大量の戦死者の肖像画があることを知っていて、是非それだけは避けたいと願っていました。にもかかわらず、展示室を開けてくださった館員が、「これも撮って帰ってください」とその大量の肖像画群を引き出してきたのです。「うわー!」と驚いて、「それは、早く仕舞ってください!」というのにもかかわらず、出したままにして行ってしまったのです。私は、大急ぎで考古資料だけ撮って出てきました。

 だいたい大量の兵隊姿の肖像画(戦没者)を、誰が作成したのでしょうか。軍国時代ではそのような肖像画を描く人もいたのでしょう。
普通これらの肖像画は描かれた本人の家族に手渡されるもののはずですが、なぜか、一ヶ所に残っていたようです。
しかし、戦後になり、製作者もなくなり、世間の価値観も変わり、世代も変わって、大量の戦没者の肖像画の処置に困り、置いておく場所も限られ、ゴミに出すのもはばかられる。
寺院や神社に預けようとしても断られ、最終的に、こんな資料館に、何かの権力を使って無理やりねじ込んだのかもしれません。

 よく、座敷に葬式で使った、死んだ人の写真が捨てられず、額に入れたまま鴨居に沢山掲げられている家を見ます。あれって、泊まって夜中に見るとじつに気持ち悪い。何かの灯りがあると額縁のガラスが光ってなんとも言えず不気味である。家族にとってはどうか知らないが、まぁ、家族もふだんは座敷に寝泊まりしないから知らないだろうが、他人には、ただただ気持ち悪いものである。

 そういえば、子供の頃一度だけ父の実家に泊りに行ったことがある。眠ろうとする真夜中に、叔父や叔母(父の弟や嫁)にその息子たちが、私たち小学生の兄弟(私は低学年)が眠る寸前の座敷にやって来て、グタグタ言いながら、大きな仏壇を開け、中から骨壺と写真を引っ張り出して、「これはおばあちゃんの骨や(そんな人は私たち兄弟は見たこともない、知りもしない他人である)、今夜一晩一緒に寝てくれ。」といって、骨壺の蓋まで開けて、家族でケタケタ笑いながら引き上げて行った。深夜一時間余り、強烈な緊張と恐怖(その時の緊張は今もしっかり記憶している)で、私達兄弟とも固まっていたが、そのうち、兄がクソッ!締めとくぞ!と言いながら、骨壺の蓋を締めて写真と共に仏壇の中に押し込み、仏壇の扉を締めた。翌朝様子を見に来た叔父は、あれっ閉まっとるやないか。などと私たちの方をチラ見した。
 厭味ったらしく、強欲で、ろくでもない親戚家族だった。

 死者の大量の肖像画など、私は見たいとは思わない。それが見たいのは、描かれた人に関係する人や知り合いだけだっただろう。
突っ込みどころ満載の文章です。炎上するかな。

 100館内展示

 110協和広瀬遺跡 擦文時代
遺跡名:
遺跡詳細:
遺構:
遺物:
協和7遺跡 (旧称・広瀬遺跡)
擦文時代の集落遺跡
竪穴住居3棟
土器・土製品・木器  引用「広瀬遺跡」

 111中段 2号住居出土土器
協和広瀬遺跡の出土品

上・中段:2号竪穴住居のもの(左)
上・中段:3号竪穴住居のもの(右)
  下段:1号竪穴住居のもの

 112石棒 中段
積石のある墓
Ⅳ-24 5本の石棒
 まず, 第24図をご覧ください。 いずれも石を磨製で,細長い棒にしあげ、棒の末端に,模様をきざみこんでいます。
このような棒を石 棒と呼んでいます。

 第24図 端野町端野1区北川さんの畑で発見された石棒
第24図

左に記述

 さて、この石棒は、 北見市端野区の北川さよさんの畑を、 昭和42年に開田する土木工事の際出土したものです。
残念ながら、 どのような様子で発見されたのか、詳しいことはわかりません。 ただ、ブルドーザーを運転していた工事の人に聞きますと、1メートルほどの大きな石があり、それを取り除いたところ、その下から現れたということです。

 大きな石は、庭石にいいというので、北見市へ運ばれていったという話でしたので、私たちは、ほうぼうを問い合わせて、その石を見つけ出しました。やはり、大きな板石で、 ブルドーザーの運転手さんの言葉は、嘘ではなかったのです。

 5本の石棒と一緒に発見されたものに、ほかに磨製石斧が1個あります。 縄文時代に普通に見かける石斧なのですが、表面をよく見ると、赤色のベニガラが付いています。なぜなのでしょうか。
石棒について

 ところで、石の下にあったのは、石棒 石斧ばかりだけではなかったのではないでしょうか。なにしろ、相手はいっぺんに多量の土を動かしてしまうブルドーザーのことですから、たとえ、 小さなものがあったとしても、注意されることなく泥の下になってしまったのではないでしょうか。 5本の石棒のうち、2本までが、 途中で折れています。 おそらく、 ブルドーザーの排土板で押された後から、 運転手さんが気づき、取り上げてくれたものと思います。

 石棒の長さは、 最も長いものが55センチ、 最も短いもので45センチです。 ほかに、50センチのものが2本の都合4本あります。 残りの1本は半分ほどしかないもので、 現在、 33センチを測ります。このうち、半分のものと、55センチのものの一端に、黒いシミがついています。 ちょうどスミが塗られているようですが、実は漆の塗られた跡なのです。 でも、全面に塗られたのではなく、紐状にシミの跡がついています。

 慶応大学考古学研究室で所蔵している、 青森県亀ヶ岡の泥炭層から発見された石棒には、樹皮の紐が、 その頭部に巻かれています。 ひょっとすると、 北川遺跡の石棒の頭部にも、樹皮の紐が巻かれ、 漆が塗られていたのかもしれません。 もっとも、なぜ、そのようにするのかは、わかりません。

 このような石棒の意味については、いろいろな説があります。縄文時代の人びとのリーダーの地位を示すものではないかという説もあります。しかし、 十分な検討がこれから必要だと思います。

※考察 積石のある墓とは
 もうお気づきだと思いますが、5本の石棒やベンガラ付着石斧(後出)は、土壙墓の中に副葬されたもので、埋葬・埋納後の墓坑の上には巨大な板石が置かれていました。この、板石の上の墓の形状はわかっていませんが、墓の上に大石が積まれた積石墓として、上に書かれています。

※この石棒の年代がどこにも書かれていないのです。通常は縄文時代が一般的です。しかし、協和広瀬遺跡で紹介され、それが擦文時代とあるのです。そこで、その流れから縄文時代ではなく擦文時代と仮定します。すると。

 この墓は、擦文時代(7~13世紀)(飛鳥~鎌倉時代後半)に造営されたもので、すでに大陸では積石墓が出現しており、福岡県相島では4~7世紀に半島からの渡来集団による積石墓群が構築されていました。
 大陸の積石墓

 これらの埋納物や墓型式から、いわれるように有力者の墓坑であり、有力者を示す威信財であったのか、それとも、有力なShaman・呪術師・宗教的職能者であったのかはわからない。
 しかし、別の遺跡で、この擦文時代(オホーツク文化期)に大陸からやって来て交易をつかさどっていた有力女性の墓とその副葬品が発見されていることから、大陸の積石墓文化圏からやってきた支配的な権力者の墓だったと考えることもできなくはありません。但し、石棒です。

 それでは北海道の石棒出現時期を見てみましょう。
北海道の石棒 
 北海道では縄文後晩期に石棒が沢山出土しているようです。それは道南地方に多いようです。(端野は道東の末端)
千歳市キウス周堤墓(縄文後期・約3200年前両頭石棒・573mm710g)
千歳市美々4遺跡(縄文後・晩期、石棒群30~50cm)
  ※余談ですが、
    美々4遺跡からは有名な「びびちゃん」と呼ばれる動物型土製品が発見されており、それが、その他の魚形石器と同じく
   ルアーであることがわかりました。ロウニンアジなど大きな魚は海面に浮かぶ水鳥を襲って丸呑みにします
   川では鯉やナマズが水を呑みに来たり水浴びするハトを丸呑みにするのを見かけました。
函館市立博物館(縄文晩期)
恵庭市柏木B遺跡環状土籬(縄文後期後葉・石棒12点・玉類140点)
函館市垣ノ島遺跡縄文早期前半から後期末葉まで、約9,000~3,000年前)

結論
➀などと見てくると、道南・石狩地方では、縄文後晩期に、端野町協和広瀬遺跡と同等の石棒文化が盛行しており、
 特に美々4遺跡の石棒群と似ており、協和広瀬遺跡の石棒は縄文後晩期のものと思われます。
②積石のある墓については、周堤墓の中に、積石のある墓があり、周堤墓のつくられたその時代は縄文後・晩期であることから、
 やはり、どちらも縄文時代後晩期のものと考えられます。
 ※縄文後晩期には周堤墓から御殿山墳墓群などに見られる積石墓へ移行していった。
③展示場所が狭かったため、脚注が混乱したようです。

※この時代は全道から東北南部・新潟県まで、また、サハリンから千島列島までの、広範囲の交易が行なわれ、人・物・文化が移動しました。これによって、千歳市美々4遺跡と同等の埋葬儀礼や副葬品が、北海道の東端まで、運ばれ、伝播したようです。

※下にこの記述以前の推論があります。

積石のある墓 石棒について

 石棒 北川サヨさんの畑出土

 ※考察 石棒と協和広瀬遺跡(協和7遺跡=広瀬遺跡=広瀬さんの所有地の遺跡=竪穴住居跡が3ヶ所)は擦文時代

 協和広瀬遺跡は擦文時代の集落遺跡。竪穴住居が3棟検出されている。
しかし、その棚に北川サヨさんの所有地から出た、石棒が置かれているので、困っています。

 北海道の石棒は、縄文時代後期・晩期に多くつくられています。 また、ベンガラ付着磨製石斧後晩期の島根県に出土例があります。
 北川遺跡の石棒は、やはり、縄文後晩期につくられ、儀式用・威信財・呪術具などとして使用され、そのような所有者の死去によって宝物として副葬され、権威を示すために大きな板石を蓋石として被せたものではないでしょうか。

 島根県のベンガラ付着磨製石斧と北見市端野町のベンガラ付着磨製石斧は一見全く無関係に見えます。しかし、以前、東北地方の座産土偶が島根県で見つかったこと、それが舟で運ばれたこと、津軽半島先端の宇鉄遺跡ベンガラ鉱山から他の工字文土器なども運ばれたことを述べました。また、北海道道東から同じく宇鉄遺跡にベンガラの供給を受けていたことも述べました。 私は、島根と端野町のベンガラ石斧は無関係ではなく、そのような流行が津軽半島一円であったのかもしれません。

 また、石棒の一部には漆塗装の痕跡がある。津軽半島宇鉄遺跡から噴火湾を渡ると石狩低地が拡がっている。その恵庭市カリンバ遺跡や千歳市付近には赤漆の櫛が有名である。千歳市で磨製石棒が出土しているので、この付近でつくられた石棒が赤漆で装飾されていたのかもしれないし、赤漆が北見市端野町まで運ばれたのかもしれない。ただ、固まりやすい接着剤のような漆を遠距離の運搬には適さない。やはり、漆塗り製品を運んだのではないか。
もし、漆を運んだのなら、ベンガラ付着石斧にも漆と混ぜて赤漆にして塗装したでしょう。粉末ベンガラや重いけど固形物石棒2本の方が運びやすかったと思われます。

結論:やはり、石棒と協和広瀬遺跡とは無関係で、長い間に脚注がなくなり、擦文遺物と同じ棚に置いたために混乱が生じたようです。
 北川遺跡の石棒は縄文後晩期
 協和広瀬遺跡は擦文時代。とは無関係。と結論付けます。


 113土器 中段3号住居

広瀬遺跡 擦文時代
 協和東15号線の広瀬さんの所有地に3個の竪穴があります。
1個を発掘したところ図(図はなくなっている)のような擦文時代の最終末〜アイヌ時代の接点である木器を主体にした竪穴でした。
火事にあっており、 炭化材が多量に出土しました。

擦文土器
今から約700年前のもの。 へらの様なもので擦った跡があるのでこのように呼ばれる。

擦文土器
広瀬遺跡
擦文土器
広瀬遺跡
広瀬遺跡

 115上段 2号竪穴住居 擦文土器

擦文土器
 

 130下段 1号竪穴住居 (協和広瀬遺跡 擦文時代)

屋根の炭化材
右: 角材の上にヨシがのっている。
中・左: 板材と角材が丸太材の他に作られていた。

※考察 擦文時代の角材や板材の製造
 擦文住居に板材と角材が使われていた。擦文時代(飛鳥時代~鎌倉後期)には、北海道最果ての地の一般住居にも角材や板材が使われている。
 石器や木器を使って木材を割ったり、木製のくさびを打ち込んで板材を剥いだりしたのか、鉄器を使って丸太から辺材を落とし、芯材だけにして、角材をつくったり、鉄のクサビで丸太を割って板材にしたのだろうか。
 狩猟具など道具類には黒曜石が多く使われているので、鉄の流入量は乏しかったのかもしれないし、消耗品としての石器

屋根の炭化材

木器
左:箱形の一部分
右:椀形の一部分
中:皿型の一部分
箱形の一部
左:皿形の一部
右:椀形の一部
 140炭化木材・土器片
炭化木材・土器片 上の記述から焼失住居として擦文時代かと思われます。

 石器  ※この石器は常識的に擦文時代ではなく、縄文草創期か旧石器終末期と思われます。
     出土遺物の少なさと、展示場所の狭さから、あまり、詳しくない人が押し込んだものと思われます。
石鏃・石槍
S41.5.31採集 マル山
ナイフ・掻器・石鏃
・石槍など
 150

 151北川石斧
石棒と共に出土した
ベンガラ付着の磨製石斧
1区の北川さん(石棒出土地)のところから、 石棒とともに発見されたものです。 みがかれた刃の部分に使用痕が見られます。
ベニガラが付着しています。
※ベンガラで装飾された、儀式用の磨製石斧。
北川石斧 磨製の石斧
弁柄付着石斧
 

 154
上口遺跡の発掘 1万年前(北海道の旧石器時代

 上口遺跡は端野2区の上口さんの畑の中にあります。
小さな柄のある石槍が発見されています。 大変に美しいもので、立川ポイント(立川尖頭器)と呼ばれています。 今から1万年ほど前に、 端野町に生活していた人たちによって、残されたものです。 この人たちは、シカやクマなどを狩り、サケやマスなどをとって食糧としていました。 人びとは、火山灰の中に掘りこんだ竪穴住居に生活の場がありました。 しかし、土器を作ることを知りませんでした。

※立川遺跡の尖頭器立川ポイント 立川ポイント 北海道蘭越町立川

上に記述
 155上口遺跡の出土遺物 1万年前
  
 ※石棒弁柄石斧の北川遺跡(縄文後晩期)と、
       旧石器・縄文草創期の上口遺跡と、
       擦文時代遺跡の協和・広瀬遺跡とのごちゃ混ぜはここまでです。



 200吉田遺跡 1万年前(北海道の旧石器時代

吉田遺跡の発掘
 吉田遺跡は、川向の吉田さんの畑の中にあります。 端野町がひと目で見渡せる高い丘の上です。 ここでも、 1万年前の狩りと漁をしていた人たちの生活の場が発見されました。 火山灰の中に、赤く焼けた炉のあとが見つかりました。
 そして、 動物の皮をなめすエンドスクレイパーという石の道具が、 たくさん出土しました。 人びとは、 あかあかと燃える炉を囲んで、シカの皮をなめしていたのです。 その日の豊猟を祝いながら......

※動物の解体と皮革加工場跡。当時は真ん中に川が流れていなかったかもしれない。

吉田遺跡の発掘 吉田遺跡

 210石器
 211使用痕
エンド・スクレイパーの使用痕
この道具の刃のところには、使用のあとを残しています。
左40倍、 右500倍です。

スクレイパー
 搔器,削器と訳される。剝片に細かな調整を加えて刃部を作り出したもの
エンド・スクレイパー
 細長い剝片の短辺の一つに刃を持つもの
サイド・スクレイパー
 長辺の一つに刃をもつもの  引用「コトバンク」

エンドスクレイパーの使用痕 エンドスクレイパー 左:40倍画像 右:500倍画像
 212
石核など
道具を作るために細長い石刃 (右上3点)がはがされた残り (右下2点)。
左下3点は細石核。
左上3点は細石核からはがされた細石刃。

キリ・ノミなど
キリ・ノミという道具を十勝石でなく、白い流紋岩を使うクセがあります。

石核など
脚注無しだが、右3点はサイドスクレイパーorナイフではないか
キリ・ノミなど
 213
片刃の石斧
カモのくちばしのような形をしています。
丸木舟を作るのに都合の良い道具です。

エンド・スクレイパー(削器)
この道具は、普通、右肩下がりに刃がついていますが、 吉田遺跡では反対です。(※この石器の使用者は左利きだったかも)

エンド・スクレイパー(掻器)
動物の皮をなめす道具です。 なめされた皮は人々の衣服となるわけです。

片刃石斧
丸木舟彫り
上に記述
エンド・スクレイパー
上に記述
エンド・スクレイパー
上に記述
 230
 231
石斧と石槍
発掘調査をする前に、地主の吉田さんに拾われ、 寄贈を受けた、 貴重な資料です。

石器を作る道具
石の表面にネズミの歯あとのようなキズがあります。
十勝石の道具を作るときに使いました。

磨製石斧
北海道の無土器時代では初めての、 非常に貴重なものです。 木材の加工の道具。

石斧と石槍
上に記述
石器をつくる道具
上に記述
磨製石斧
上に記述
 235
いろいろな石槍
大型・小型の石槍が発見されました。
右上のものが柄のある立川ポイントです。
いろいろな石槍

石刃の道具
石刃はそのまま肉切りのナイフになりますし、 加工されて別の道具にもなります。
石刃の道具

石核
縦に長い石のかけら (石刃) をはがした元の石のかたまり。 特殊な技術です。

剥片の道具
形の整わない十勝石のかけらも、 十分に、道具として使われました。
石核 剥片の道具
 250
 251
石鏃 削器 磨石

 253
 縄文後期 御殿山式土 約3500~3000年前
静内御殿山遺跡は、苫小牧付近の後晩期の配石を伴う大規模な墳墓群である。 御殿山式土器は、道央・道南で流行していた。
御殿山式土器の写真 静内御殿山墳墓群出土遺物

御殿山式土器
縄文後期
ピット1
(意味不明)
 255
石槍 石錐・磨製石斧
掻器
掻器 石錐・磨製石斧

 256前期・後期土器

静内中野式土器:縄文前期。砲弾形尖底土器。分厚い胎土には大量の繊維または撚糸を含んでいる。文様は荒い斜行縄文が主体。
細岡式土器縄文中期末~後期。北筒式系の新しい部類に属する。口の部分は分厚い粘土帯が巡らされている。


縄文前期静内中野式

縄文後期細岡式
 

 300端野の蝶類