北陸の縄文と観光2 03 2015.10.08(木) 氷見市立博物館 03 氷見市本町4−9 0766-74-8231 月曜休館 撮影可 交通 高岡駅から氷見線で氷見駅下車 (1時間に2本) 徒歩10分 氷見市博物館そばの市民会館前からJR高岡駅に帰るバスが多数あります。JRとバスをうまく乗り継いで待ち時間を少なくしましょう。 見所 大境洞窟遺跡の出土物。 朝日下層式土器。 バスケット形の上山田式土器 時代 縄文時代中期中葉 |
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00高山~高岡
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01高岡駅⇒富山駅 新幹線後の富山駅の変貌を見に行きました。 |
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富山駅→高岡駅→(氷見線)→氷見駅 02国定公園「雨晴海岸」 |
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03博物館外観 |
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05入口展示 |
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10縄文時代 |
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12大境洞窟住居遺跡 遺跡の概要 潮流や波の浸食による海蝕洞窟。大正7年、洞窟内の社殿改築の際に、多数の人骨や大きな石棒が出土し、日本で初めて調査された。 1918年に縄文中期から近世に続く6層の遺物が発見された。多数の土器や石器が出土し、弥生時代を中心に20体以上の人骨も発見された。 この発掘によって、縄文文化と弥生文化の新旧が明らかになったほか、弥生人骨の発見で、弥生期の抜歯の風習や顔面装飾 (頭骨に赤い塗料のついたもの)に注目が集まりました。国指定史跡となっています。引用富山観光ナビ 遺跡の詳細 ・縄文中期~弥生、古墳~近世までの遺物を含む上下6層の文化層が確認された。 ・1918年(大正7)の発掘により、縄文土器と弥生土器の順序が初めて層位的に区別され、相対年代の差が確認された。 (縄文土器と弥生土器が時間の前後だと確認。それまでは民族の違いだとされていた。) ・縄文中期の大型石棒や石庖丁。 ・20体以上の弥生人骨や、弥生人の抜歯の風習。顔面装飾(頭骨に赤い塗料のついたもの)が注目を集めた。引用コトバンク大境洞窟住居跡 大境洞窟の土層 (の解説は、現地案内板が正しく、氷見市観光案内サイトは('16.02.23時点で)間違っています。今後修正されるでしょう。) ○洞窟の誕生:6000年前(縄文前期) 海水面が現在より5m高く、石灰質シルトの断崖に、波浪によって海蝕洞が形成された。
引用全国遺跡報告総覧国指定史跡大境洞窟住居跡最終ページ 参照大境洞窟住居跡 大境洞窟
※北陸の大型彫刻石棒
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13土器説明パネル 旧石器時代~縄文時代
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14土器 館内照明が、対象の後ろから照らしたり、下から照らしたりして、肝心の対象物が見えず、何が何だか分からなくなっているものもあります。
※1土器口縁部に付けられていた装飾把手で、動物の頭部を表現している。左側資料の目の部分は赤く着色されている。 ※2推定口径26cmのこの土器の口縁部には、二段階にわたって細かな粘土紐のリングが貼り付けられている。 土器全体にこの模様が施されていたとすると、280個のリングが必要となる。 |
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16縄文と弥生 旧石器時代に続く新石器時代は、西洋では農業・牧畜を行う文化です。 しかし、縄文時代は農耕はなく、狩猟・採集・漁労の生活で、一見旧石器時代と変わりない。そこで、土器・弓矢の使用をもって旧石器時代と 区別している。つまり、世界に例を見ない文化で、新石器時代とも旧石器時代とも呼べず、縄文時代としか呼べない。 縄文人の生活 -自然と共に生きた時代- およそ5000年前、朝日山に続く丘陵の麓に縄文人の集落があった。 前面には布勢湖(ふせのうみ)から流れ出る吐川(はき)、更に砂丘の向こうには有磯海(ありそうみ)が広がっていた。 男たちは丸木舟で海に漕ぎいで、山野に分け入り獲物を求めた。女子供達は木の実や球根の採取にいそしんだ。 豊かな自然の中での暮らしがあった。 弥生人の生活 -自然に働きかける時代- 紀元1世紀頃、布勢湖と有磯海に挟まれた砂丘西側の田んぼで、稲の獲り入れが行われていた。 若い女性が大きな田下駄をはき、泥にまみれ石包丁で稲の穂首を摘み取っている。 男たちはカゴに入れられた穂摘みを、高床倉庫へ運び込んでいる。 村中総出の仕事だ。 西から伝わった米作りによって、定住するムラへと変わった。 朝日貝塚 -縄文人のむらと捨場- 縄文時代は、むらのまわりを食べかすの捨場とした。 特に海辺に近いむらでは、食糧とした貝の殻が沢山捨てられている。 そのため貝層の下には住居や墓が埋もれていることがある。 貝殻のカルシウム分が骨や角を保存してくれるため、朝日貝塚では、シカ、イノシシ、タイ、マグロなどの骨が発見され、 当時の生活の一端を物語っている。 |
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18朝日貝塚出土縄文遺物 -石器・骨器-
※細い石棒 後期半ば以降の北海道・東北では直径2~3cmのほっそりした小型の石棒が発達する。両頭式を原則とし、頭部を彫刻文様で飾る。 細く華奢なつくりで、折れた状態で発見されるのが普通だが、北海道石狩平野を中心に発達した周堤墓の墓坑では完形品を副葬しており、 この種の石棒と葬送儀礼の関連を考えさせる。 晩期には、このほっそりした小型の類が関東・中部で継承されるが、 ここでも完形品はほとんどなく、短く折れ、かつ火熱によって変色し、砕けたものが多い。 転載Wikipedia石棒 |
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30弥生時代 -農耕に伴う土器 「壺・甕・高坏」- 狩猟・漁撈・採集が生活の中心であった時代と、水稲耕作を中心とする時代では、土器の使われ方が大きく違う。 弥生時代には、米を煮たり、蒸すための「甕」や、米や水を蓄える「壺」が作られ、 そして、食生活の豊かさを示す各種の食物を盛り付ける「高坏」も生み出された。 |
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「氷見及び周辺地域の漁撈用具」展 この日特別展の準備中で、メインの展示物を見せていただきました。 40舟 -漁船と丸木舟- 丸木舟 平安時代の遺跡から出土した井戸の木枠(井戸側)が、平安時代の丸木舟の破船(廃船)を転用したものでした。 基本的に縄文・弥生と同じ作りの丸木舟でしょう。 道具は石器から鉄器に替わり、大きな材を利用でき、巨大な丸木舟になっています。 2016.04.18に古代出雲歴史博物館では、近代の丸木舟が展示されていて、超古代の伝統がまだ続いていたことに驚きました。
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50農具 湿地・湿田の多い富山湾周辺の発達した農具 |