北部九州の縄文 №22 2020.11.16
吉野ヶ里歴史公園 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
(吉野ヶ里遺跡22 0952-55-9333 12/31・1/1休園 撮影可
092-501-1144 第3火曜休館・撮影可
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交通 |
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JR吉野ヶ里公園駅徒歩10分
駅と公園正面ゲート間に無料バスあり。
駅の観光案内所に無料レンタサイクルありますが、歩いていける。
園内は無料バスが巡回しています。遠くまであるいても大丈夫です。遠くへ行くにはバスを利用しましょう。 |
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備考 |
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手荷物は、公園内に無料ロッカーあり。駅のは高額有料ロッカー。 |
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駅⇔公園間の無料バスは電車とリンクしており、お帰りはバス時刻表を参照して便利に利用しましょう。 |
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目次
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01外観
100展示館
120吉野ヶ里遺跡
130旧石器~弥生
133縄文土器
135弥生石器・土器
140縄文と弥生の時代区分
150稲作の始まり
153縄文末~弥生初頭土器
160ムラの発展と戦い
170環壕内出土物
180戦いの始まり
190首無し人骨
193磨製石剣
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200新技術と首長出現
203青銅器鋳造遺構
231朝鮮半島の文化
235青銅器工房遺物
240首長の出現
251遺構配置図
310甕棺
320装身具
「貝の道」
323貝輪
330弥生の衣服
350祭祀土器
400古墳時代
420古代 |
430企画展「ミニチュア土器」
432鐸形土製品
440ミニチュア製品と祭祀
460中世の吉野ヶ里
500祭祀具
501九州初の銅鐸
510木製祭祀具
513前漢鏡
520邪馬台国と吉野ヶ里
523各地の土器
530倉と市
540環壕の堆積地層
543環濠・土壙墓
550環壕内出土土器 |
600南内郭
615王の家
700北内郭・北墳丘墓・中のムラ
720北墳丘墓
721甕棺墓列
770北墳丘墓壁面展示
790中のムラと倉庫群
800北内郭
810主催殿
900倉と市
910国の倉と市
1000南の村
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01外観
歴史公園正面入口
(東入口) |
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公園全体案内図 |
公園全体 |
歴史公園センター
センターの覆い屋根は
採光用の窓があり |
渡り廊下や建物に見えまずか覆い屋根です |
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03園内図(無料パンフレットより)
公園全図
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公園南半部
公園正面入口より |
公園北半部
広い公園だが、北墳丘までしか行かない |
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公園南半部の見どころ
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10入場 |
11夢の浮橋
田手川を環壕の一部に利用していた。すると |
ここは当時の入口ではなかったのでしょう。 |
南内郭のからめ手で
侵入されるとひとたまりもなく制圧される。 |
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12環壕入り口
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米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになりました。人々は自分たちの集落を守るため、集落の入口など特に重要な区域には、とがった木の枝や幹でバリケードを築き、より厳重に守っていました。これを逆茂木と呼んでいます。 |
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逆茂木 |
植杭の穴
とっても大きな杭 |
遺構図 |
逆茂木の復元 |
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100展示館
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101外観
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120吉野ヶ里遺跡
―弥生時代の吉野ヶ里―
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佐賀県の東部に位置する吉野ヶ里遺跡は、稲作農耕の開始以来、日本列島の社会に古代国家成立の前提となる原始国家が形成される過程を、
遺跡の変遷から捉えることのできる遺跡です。
直径40mに及ぶ弥生時代中期の墳丘墓、それを取り込む後期の環壕集落は、他に例を見ない巨大なもので、物見櫓や高床倉庫と考えられる掘立柱建物群跡、そして幾重にも巡らされた大小の環壕跡、竪穴住居群など、「魏志倭人伝」に記された世界を彷彿とさせる遺跡ともいえます。
昭和57年に始まる確認調査、同61年からの本格的な発掘調査の結果、把頭飾付有柄細形銅剣(はとうしょくつきゆうへいほそがたどうけん)を含む銅剣8本と79個のガラス製管玉が発見された墳丘墓や、国内最古の青銅器鋳造関連遺構、遺物では、銅戈・銅鏡に加え、九州で初めて銅鐸も出土しました。
発見された様々な出土遺物の中には、青銅製素環頭付鉄刀子や蝶番(ちょうつがい)のように国内で唯一の遺物や、頭骨のない人骨や、
絹・毛髪・高度な技術を伝える鉄製品や木製品など、希少な遺物も多く見られます。
発掘調査は現在も続けられており、副葬された国内最古の鉄鎌の出土や、前漢鏡を持ち36個の貝輪を装着した女性人骨の発見など、
新たな情報を提供し続けています。 |
考古学調査と吉野ヶ里の発見
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吉野ヶ里の名が、松尾禎作らによって初めて学術雑誌に掲載されるのは、大正14年のことです。
昭和9年には、七田忠志が論文「佐賀県戦場ヶ谷出土弥生式有紋土器に就いて」を『史前学雑誌』に発表し、
次いで三友国五郎が「佐賀県における合甕遺跡地」を『考古学雑誌』に、さらに七田が「其の後の佐賀県戦場が谷遺跡」と吉野ヶ里遺跡に就いて」を
『史前学雑誌』に発表しました。
これにより、吉野ヶ里の名が初めて中央の学術雑誌に紹介されることになりました。 |
昭和30年~40年代の発掘調査
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戦後、日本考古学協会や大学の研究機関が主体となり、学術研究を目的とした発掘調査が進められました。
昭和35年に刊行された『日本農耕文化の生成』には、吉野ヶ里丘陵北方に位置する三津永田遺跡についての報告がなされています。
1960年代後半以降、高度経済成長を背景に、発掘調査は開発に伴う記録保存の調査が主流になっていきます。
このような調査は、学術調査とは性格が異なりますが、広範囲にわたる調査であるため、考古学の資料を増大させることになりました。 |
吉野ヶ里遺跡の調査と保存
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1986年、工業団地造成計画に伴う本格的な発掘調査が開始され、弥生時代中期の甕棺墓軍や後期の環壕跡、国内初となる巴形銅器の鋳型、物見櫓と考えられる建物跡などが次々に発見されました。
1989年2月には、それまでの発掘成果が大きく報道され、邪馬台国への憧憬とも相俟(あいま)って、遺跡が一躍脚光を浴びるようになりました。
3月には墳丘墓の発掘調査が実施施さ、甕棺から有柄銅剣やガラス勾玉が出土し、遺跡の重要性から吉野ヶ里遺跡の保存が決まりました。 |
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吉野ヶ里遺跡-弥生時代の吉野ヶ里-
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昭和30-40年代の
発掘調査
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吉野ヶ里遺跡の
調査と保存
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吉野ヶ里遺跡の発展
弥生時代前期
(約2400-2150年前)
(BC4-BC2)
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弥生時代中期
(約2150-2000年前)
(BC2-AD1) |
弥生時代後期
(約2000-1750年前)
(AD1-AD3) |
吉野ケ里歴史公園 |
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130旧石器・縄文 |
131後期旧石器時代
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133縄文土器
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孔列文土器 |
東北朝鮮に由来するらしい前期前半無文土器。欣岩里式などに代表される。 口縁部の下に円孔が開けられていることが特徴。器形は単純な逆円錐形で、底部は狭い平底である。
日本列島では中の文化の縄文晩期・南の文化の貝塚文化中期に並行する |
阿高系土器
あだか
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縄文時代中期後葉の九州地方を中心に分布する土器。厚手で赤褐色の砲弾形深鉢を主体とし、太凹線によって幾何学的な文様を描きます。粘土の中に銀色の滑石粒が混入されている。
この土器文化人は沖縄島に移住したため、沖縄島でも、滑石を含む土器が術度している。 |
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135弥生石器・土器
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史前学雑誌 |
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論文中で発表された吉野ヶ里段丘遺跡分布図
(甕棺の包含地などが詳細に記録されている) |
史前学雑誌 第6巻第2号
昭和9年3月号
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畑には土器や石器がゴロゴロ
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これらの遺物は戦前に七田忠志氏によって表面採取されたものです。
戦前までは畑地の耕作や道路の建設などに伴って出土した、大量の土器片が散布していました。
道路の切通の崖部分や畑の段の部分では多くの甕棺が露出しており、内部には人骨が残っているものもありました。
また、農道には砂利の代わりに甕棺やその他の土器・石器の破片が敷き詰められていたと言います。
七田氏は高校教師をしながら研究を続け、その成果を学会誌や研究誌に発表していました。 |
器台
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畑には石器や土器がゴロゴロ
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甕棺片
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石斧 |
太型蛤刃石斧 |
柱状片刃石斧
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140縄文と弥生の時代区分
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縄文・弥生の時代区分は、研究者によって諸説あり、学問上の問題として現在進行的な課題と言えます。
一例として、縄文土器が作られ、使われていた時代・文化を『縄文時代・文化』、弥生土器が作られ、使われていた時代・文化を『弥生時代・文化』、とした区別方法があります。
また、縄文時代の生活様式の狩猟や漁労を中心とし、それによって培われた時代・文化を『縄文時代・文化』、その後の水稲稲作が、大陸から伝わり、発展して行き、それによって培われた時代・文化を『弥生時代・文化』とする考え方などがあります。他にも様々な、研究や考え方があります。
稲作に関する遺物・遺構が縄文時代の晩期後半(終わり頃)に当たる時期の遺跡からも見つかっています。
また、稲作農耕は日本全体に一斉に伝播したわけではないので、地域によっては、土器変革に重きを置いた区分方法をとる地域もあります。
弥生人と呼ばれる大陸からの渡来系(渡来人と縄文人の混血を含む)の人々の出現に伴い、文化の発展が促されていきました。 |
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吉野ヶ里遺跡発掘調査状況図
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吉野ヶ里遺跡の地形と長作配置図
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縄文と弥生の時代区分
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150稲作の始まりムラの始まり ~縄文晩期末~弥生前期初頭~ BC5世紀頃 |
151
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今から約2,400年前、朝鮮半島南部から北部に稲作農耕が伝わりました。
唐津市菜畠遺跡や福岡市板付遺跡では、初期の水田跡の水田や農耕具が発見されています。
狩猟・採集といった食料の「獲得」が中心の縄文時代から、稲作農耕による食料の「生産」が本格的に始まった弥生時代への転換は、
経済的・社会的な一大画期でした。
佐賀平野の各地でも、この頃から人々が生活していた痕跡が見つかっています。
吉野ヶ里では、丘陵南部の田手一本黒木地区から環壕と見られる壕の一部が検出され、
縄文時代晩期後半~弥生時代前期初頭の土器や三角形石包丁などが出土しています。
この他にも、丘陵の各所で少数の竪穴住居跡や貯蔵穴(穴倉)などが検出されていることから、
この頃に吉野ヶ里遺跡の最初期のムラが誕生したと考えられます。 |
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稲作の始まりムラの始まり |
吉野ケ里最古の環濠跡
(初期の環濠跡)
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お米はどこから来たの 日本の稲作の始まり
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稲作はインド東北部のアッサム地方から中国南西部の雲南地方で始まったという説と、中国長江の中・下流で始まったという説があります。
現在では長江下流域の河姆渡遺跡から約7000年前の水田跡が発見されたため、こちらの説が有力になっています。
日本へは紀元前4世紀頃に、朝鮮半島から北部九州へ伝えられたと考えられます。
現在日本で見つかっている最古の水田跡は、福岡県の板付遺跡や唐津の菜畑遺跡があります。
これらは縄文時代晩期後半にまでさかのぼると考えられます。
吉野ヶ里遺跡からは、水田の跡は見つかっていません。しかし、土の分析をした結果イネの花粉がが多量に見つかる場所がありました。
また、石包丁、鍬、鋤などのコメ作りのための道具が見つかることからも、吉野ヶ里で稲作を行っていたことがわかります。 |
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153縄文時代晩期末~弥生時代前期初頭頃の土器 (←これって、弥生早期の意味ですね。)
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155もみ殻圧痕土器
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※注意
・この土器は、弥生時代の籾殻が土器に付着した痕跡を示しております。
・文字は、当時の発掘で見つかった場所、日付を示しております。 |
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160ムラの発展と戦いの始まり ~弥生時代前期~ (BC4c~BC2c) |
161
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農耕の開始により、人々の生活は稲作を中心したものになりました。
前期にはコメ作りのための新しい道具、田圃を耕す木製の鍬・鋤や収穫のための石包丁、木工具の石斧などがひととおり出そろっています。
道具の他にも、稲作に関わる祭りなどを受け入れて、人々の世界観なども変化したと考えられます。
また、食料生産が安定したことにより、人口が増加したようです。吉野ヶ里でも、前期の初めの頃の住居は数少ないのですが、前期の終わり頃になると丘陵のほとんどの地区で多数の住居が見られるようになります。
吉野ヶ里丘陵の南部では、前期後半に南北160m以上、東西約140mという3ha規模の範囲が壕で囲まれています。
壕の断面はV字形をしており、幅3.8~5.0mです。
この環壕集落は同時代のものと比べて大規模なもので、吉野ヶ里が前期の段階からこの地域の中心的な集落であったことがわかります。 |
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ムラの発展と戦いの始まり
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前期の環壕と集落
南から
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前期の環壕
東から
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165石器
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石包丁 |
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石錐
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石鎌
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太形蛤刃石斧 |
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石斧装着の様子 |
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砥石
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170環壕内出土物 |
171イノシシの骨?ブタの骨?
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現在、私たちが目にする豚とは、野生種のイノシシを時間をかけて家畜化したものです。ではいつから豚が飼われるようになったのでしょうか。
これまでは、朝鮮半島から日本へ稲作が伝わった際、農耕文化に伴う家畜飼育は伝わらなかったと考えられてきました。
しかし1989年に弥生時代の下郡桑苗遺跡(大分県)から発見された獣骨が、分析の結果ブタと判断され、弥生時代に豚飼育が行われていた可能性があることがわかりました。
日本では家畜化される途中の形態を持ったイノシシの骨は出土していません。また最近ではDNA分析の結果から、弥生時代の遺跡から出土したイノシシ類の中に中国大陸系統の遺伝子を持つものがいることがわかりました。このことから、すでに家畜化された豚が中国大陸から持ち込まれたと考えられます。
日本では豚とみられる骨が出土した遺跡はとても少ないことから、全ての地域でブタ飼育が行われていたわけではないようです。
また、牛や馬が伝わらず、なぜ豚だけが伝わったのか、野生のイノシシが多く生息する日本列島でどれほどブタを飼う必要があったのか、どのような方法で豚飼育が行われていたのか、と言う点についても議論が必要です。
吉野ヶ里遺跡から出土したイノシシ類の上顎骨や頭蓋骨は、形態分析の結果、ブタの特徴を持つと判断されています。吉野ヶ里遺跡でもブタを飼われていたのかもしれません。 |
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環壕に捨てられた
貝殻や獣骨 |
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環壕内の土器出土状況 |
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イノシシの骨?
ブタの骨? |
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173
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スクレイパー |
イノシシ下顎骨
弥生中期
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イノシシ骨 頭蓋骨
右が後頭部で犬の咬み跡が見られる |
ニホンジカ
中手骨・踵骨
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犬、脛骨
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175
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180戦いの始まり |
181
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弥生時代の前期後半から中期中頃には、農業生産が安定し、人口が増え、集落も増加していきました。その結果、水田開発のための土地や水、貯蔵された穀物をめぐる争いが起こり、やがてそれが組織的な戦いに発展したと考えられています。
吉野ヶ里遺跡からは、打製石鏃や磨製石鏃・木鏃・銅鏃・鉄鏃・骨鏃に加え、石剣や石戈、銅剣や銅戈、鉄剣など、様々な武器が多数出土しています。また、集落を守るために環壕や土塁が作られ、集落の拡大と共に環壕も大規模なものになっていきました。
さらに、これまで約3500基の墳墓が発掘され、350体以上の人骨が発見されました。この中には頭骨のない男性の人骨や、材質の異なる10本の鏃を射込間れた男性の人骨、傷ついた人骨、剣・鏃の刺さった人骨などが確認されました。 |
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戦いの始まり
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打製石鏃
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打製石鏃
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磨製石鏃 |
打製石鏃 |
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183腹部に10本の矢を鋳込まれた男
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190吉野ヶ里の首無し人骨の謎
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弥生時代の埋葬遺跡では、石、青銅で作った鏃や剣などの武器が直接骨に刺さった人骨、棺内に数多くの武器を伴う人骨、頸から頭部を欠く人骨などが出土することがあります。
これらは当時の戦いによる犠牲者と考えられており、弥生時代の初めから紀元前後までの400年間で、九州地方を中心に100体を超える例が報告されています。
吉野ヶ里遺跡のSJ-329号人骨(写真1)は、全身の骨が残存しているにもかかわらず、頭蓋と上部頸椎(第1・第2頸椎)が全く残っていません。
当初どのような理由でこの人骨の頭部がないのかが話題となりましたが、全身の骨を調べた結果、右鎖骨の内側後面(図1、写真2)と右橈骨(とうこつ)の下位前面(図1、写真3)に傷跡があることが わかりました。右橈骨の傷は前から、右鎖骨後面の傷は前か背後から下方に向けて刺されて生じたもので、
この際、筋肉はもちろんのこと比較的太い血管も損傷を受けたものと考えられます。
このことから、この被葬者は戦いで傷つけられ死亡した後、頭部を取り去られた可能性が高く、さらに傷の位置、程度、状態から見て、
戦いに短剣などの小型で鋭利な金属が使用されたものと推測されます。 |
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191
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首無し人骨の謎 |
受傷部位
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首無し人骨の謎
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右鎖骨
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右橈骨
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写真1
首無し人骨出土状況
壮年後半~熟年前半 |
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193磨製石剣
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200新たな技術の導入と首長の出現 ~弥生中期~ (BC2c~AD1c)
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中期になると、佐賀や福岡などの北部九州では銅剣などの青銅器が副葬されるようになります。
副葬品を持つような人物は、集団を様々な面で統率したリーダーのような存在だったと考えられます。
吉野ヶ里では、丘陵南部の中期初頭の甕棺から細形銅剣が出土しており、これが有力者の最初の墓だと考えられています。
また、中期前半に作られた墳丘墓からは14基の甕棺が出土し、計8本の銅剣やガラス玉が副葬されていました。
これは墳丘墓に埋葬された人々が地域の有力者であったことを示しています。
吉野ヶ里全体では、約3500基以上の弥生時代の墓が発掘されています。
特に、北方の志波屋地区では、南北に約600m続く甕棺墓列が作られており、庶民の墓であったと考えられています。
また、吉野ヶ里では鋳型や鋳造道具が出土していることから、この地で銅剣などの青銅器を製作していたことがわかります。
さらに、環壕の可能性がある壕が確認され、竪穴住居跡や貯蔵穴、掘立柱建物跡などの数も増加することは、吉野ヶ里が
さらに大規模な集落へと発展したことを物語っています。 |
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201
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新たな技術の導入と首長の出現
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吉野ヶ里最古の銅剣
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田手二本黒木地区の
青銅器鋳造遺構 |
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203青銅器鋳造遺構
青銅器ができるまで
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青銅とは、銅や鈴などを混ぜ合わせた合金のことです。溶かした金属を鋳型に流し込み、形からはずして仕上げます。
製品の形を作る鋳型、金属を溶かすために火力を強める送風装置(鞴フイゴ)、金属を溶かす容器(坩堝)、磨いて仕上げるための砥石などが使われます。青銅器が完成するまでには、様々な工程があり、適した道具や装置が用いられました。 |
青銅器ができるまで
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高熱を受けた土器
弥生中期 |
四面鋳型
紀元前2世紀
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四面鋳型
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210頭骨のない人骨出土状況 吉野ヶ里遺跡(志波屋四の坪地区)
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230 |
231朝鮮半島の文化
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233蝶番(ちょうつがい)
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この蝶番は弥生時代中期前半(約2100年前)の甕棺墓から発見されたもので、国内最古です。
蝶番は木棺の蓋などを開閉するためのもので、甕棺墓には使用しません。
おそらく葬具等のセットとして中国か朝鮮半島から下賜されるか、交易で入手したものが再分配され、大切に副葬されたと思われます。 |
青銅製素環頭付鉄刀子
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この刀子は、弥生時代中期初頭の青銅器工房跡から発見されました。
青銅の環を持つことと棟が湾曲していることが特徴で、青銅の環をもつ刀子は国内唯一のものです。
この刀子と類似したものは、中国河南省や洛陽で出土しており、中国との関係が注目されます。 |
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235青銅器工房遺物
朝鮮半島系無文土器
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朝鮮半島の土器と非常に似ているものが青銅器工房と考えられる遺構の周辺から出土した。
この集落で行われていた青銅器鋳造に朝鮮半島の人々が深く関わっていたと考えられる。 |
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甕
朝鮮半島系無文土器
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朝鮮半島系無文土器
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小さな牛角把手がついている。装飾か |
朝鮮半島系無文土器 |
朝鮮半島系無文土器 |
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240首長の出現
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弥生時代には農耕の発展に伴い貧富の差が生まれ、それが身分の差につながったと考えられています。
このような過程で、農耕などの共同労働を指導したり、民衆の利害関係を調整する人物が現れ、やがて集団の統率者となりました。
首長の誕生です。
吉野ヶ里でも弥生時代中期になると、首長クラスの人たちを葬ったと思われる巨大な墳丘墓が築かれます。
その規模は南北約40m、東西約27m以上で、現存する高さは2.5m弥生時代当時の高さは4.5m以上と推定されています。
この墳丘墓からは、弥生時代中期前半から中頃にかけての14基の黒く塗られた大型の成人用甕棺が発見され、
このうち8基の甕棺からは合計8本の銅剣や79個のガラス製管玉が出土しています。
また、墳丘墓の東側では、南北約50mの大型の土光が確認されました。
この土坑に、弥生時代中期後半から後期にかけて祭祀土器が継続して棄てられていたことから、墳丘墓への埋葬を終えた後も、
長い間、祖霊祭祀が続けられていたことが分かります。 |
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首長の出現 |
首長たちが葬られた
巨大な墳丘墓
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※農耕の指導者長老職が、作物の交易によって富裕者となり、権力を持ち、世襲制となり、生産と同時に戦争の指導も行うことになり、なおさら、権力と冨が集中し、世代が゛進めば、絶大支配者となったのだろう。
ただし、2代も世襲すれば、ゆるがせない地位となったのだろう。 |
把頭飾付有柄細形銅剣とガラス製管玉
(はとうしょく ゆうへい ほそがたどうけん)
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柄・把頭飾まで鋳造された銅剣は、国内での出土例が4例のみで、出土状況が明らかなものとしては、吉野ヶ里遺跡出土の有柄銅剣が国内唯一のものです。
この把頭飾付き有柄細形銅剣は、墳丘墓内の甕棺に副葬されたもので、甕棺内部は鮮やかな水銀朱に染まり、銅剣には絹織物が付着していました。
また、この甕棺からはコバルトブルーのガラス製管玉79個も発見されました。
この管玉は組み合わせや出土状況から、胸飾りまたは頭飾り(王冠)であったと思われます。
ガラスは、鉛バリウムガラスで巻き技法が用いられており、中国長沙産の原料を用い、北部九州または朝鮮半島で作成されたと考えられます。 |
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銅剣レプリカ |
把頭飾付有柄細形銅剣とガラス製管玉
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有柄 |
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墳丘墓から出土した銅剣の配置図
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250 |
251遺構配置図
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吉野ヶ里遺跡復元図
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柚比本村遺跡(鳥栖市)
遺構配置図 |
吉野ヶ里遺跡
遺構配置図 |
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253ガラス製管玉 ※ガラス製管玉の製造法
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300 |
310甕棺 |
311成人用甕棺
完全規格化された甕棺が並んでいる。 |
専門の職人が輪積み法で有用な規格を編みだして、製造した。 |
まだまだ手づくの特注品が多い中で、規格化することで埋葬が |
楽になることがわかった。近代産業に通じるような気がします。 |
まるで、自動車工場でずらりと並んだ同型の新車を見ているようだ |
どこかの館で様々な甕棺を見たことがある。 |
甕棺の埋葬法 |
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313成人用と小児用甕棺
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315甕棺は語る
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成人を埋葬する大型の甕棺は弥生時代の北部九州を中心に見られる、独特な埋葬方法です。
甕棺は甕の型式から年代を導くことができ、また、密閉して埋葬されるため、人骨や副葬品が残りやすく、多くの情報を提供してくれます。
吉野ヶ里ではこれまでに3100基以上の甕棺墓が発掘されており、350体以上の人骨か゛出土しています。
なかには多数の貝製腕輪を付けた人骨や、戦争の犠牲者と考えられる人骨もあります。
甕棺には副葬品として青銅製の鏡や剣、鉄製品、装身具としてガラス製管玉が残っていました。
また衣服と考えられる絹や朝の布片も発見されています。
吉野ヶ里ではこの大量の甕棺を焼いた場所や、作り置きしていた場所は確認されていません。
また、大型甕棺製作には専門の工人がいたという説もありますが、詳しいことはわかっておらず、多くの謎を残しています。 |
甕棺の変化 |
前期末~中期初頭
前期末BC2c金海式
・大型甕棺墓成立
・青銅製武器剣・矛・戈の副葬始まる
中期初頭Bc1c城ノ越式
・吉野ヶ里最古の銅剣が副葬される |
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中期前葉~中期末葉
中期前葉後半BC1c汲田式
・北墳丘墓8基の甕棺墓に銅剣副葬
中期中葉BC1c須玖式
・甕棺墓の列埋葬が始まる
中期末葉AD1c立岩式
・前漢鏡が副葬され始める
・鉄製武器や工具類が副葬され始める |
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後期前葉~後期後半
後期前葉AD1c桜馬場式
・甕棺墓減少し、土壙墓・石棺墓増加始まる
後期後半AD2三津式
・後漢鏡の副葬始まる |
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※中国大陸との強い関係が見られる。が、初期は朝鮮半島南岸の金海式なので、半島人に間違いない。
半島との交易によって富を築き、中国鏡を入手している。
長大な甕棺墓列
(※吉野ケ里を守るために沢山の戦死者を出していたことがわかる。それほど侵略と防衛が頻繁に行われたのか。)
(職業軍人という階級が存在し、農民を徴発して戦争し、農民の死体よりも職業軍人の死体の方が手厚く葬られたのか。)
(そんなことをしていたら、いくら子供を産んでも働き手が減少し、集落は女ばかりになって衰退してしまう。他の集落から兵隊を集めていたのかな。)
甕棺墓列
志波屋四の坪地区 |
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成人と小児の人骨出土状況
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土壙墓 |
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石棺墓 |
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320装身具 |
321貝輪
華やかな装い
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弥生人の身を飾った装身具の素材には、ガラスや石、貝、金属があります。
吉野ヶ里遺跡からは墳丘墓出土のガラス製管玉のほか、北陸地方を原産地とするヒスイ製勾玉、
奄美諸島以南に生息するイモガイやゴホウラ貝を加工して作られた貝輪など、様々な装飾品が発見されています。
弥生時代中期前半の竪穴住居跡から発見された一対のリング状の青銅製品は、指輪やイヤリングと推定されますが、イヤリングだとすれば、
弥生時代のものとしては国内唯一となり、いずれにしても希少性の高い遺物と言えます。
このように吉野ヶ里からは様々な種類の装飾品が出土しており、弥生人の身を飾る風習がとても豊かで華やかだったことがうかがえます。 |
「貝の道」
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この貝製腕輪は、奄美諸島以南の海にしか生息していない大型の巻貝で作られています。
これらの貝を入手するために弥生人は自ら南島におもむき、島々を結んだ運搬ルート「貝の道」を開設しました。
南島から「貝の道」を使って運ばれた貝は、南九州の中継地でいったん水揚げされ、その後各地に運ばれていきました。
弥生時代中期頃には南島で貝輪作りの粗加工が行われ、効率よく供給できるシステムができました。
では、南島からはるか北部九州にまで運ばれた貝は何と取引されたのでしょうか。
当時の南島では、漁労・狩猟・採集を生業の中心として生活を送っており、九州の稲作を中心とした文化とは別の文化をもっていました。
南島では弥生文化の遺物が数多く出土し、中でも弥生土器が最も多く、その他に青銅製品、鉄製品、ガラス製品、翡翠製品などがあります。
このことから当時、貝と交換されたものは土器に入れられた米や酒が一般的で、時としてその他の貴重品が加わったと考えられます。
弥生時代に盛行した南島貿易は、古墳時代終末期に至るまで継続したと考えられます。
南海産の貝は、遠方から運ばれてきた貴重品として、それを持つ者の身分の差を示しました。
弥生人にとってこれらの貝は時代を彩る装飾品として欠かせないものだったのでしょう。 |
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323貝輪
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324
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325日本最古の髪の毛
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吉野ヶ里丘陵の甕棺墓(後期初頭 約2000年前)から出土しました。
髪を耳のあたりで麻ひものようなもので束ね、古墳時代の男性埴輪に見られるような「みずら」の形に結っていました。 |
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326耳飾り又は指輪 紀元前2c~1c
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弥生中期の環壕集落内の竪穴住居跡から2個出土した。環状青銅製品。
耳飾りまたは指輪と推定される。耳飾りであれば弥生時代のものとしては国内初出土。径2.6cm |
玉製品
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青銅器鋳造工房跡~出土した玉(弥生中期)
(左2点:碧玉製管玉、中央2点:ガラス製小玉、右:ヒスイ製勾玉) |
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327勾玉
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329ガラス製小玉・碧玉製管玉 紀元前3~1世紀
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330貝紫
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331弥生の衣服
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弥生時代の衣服の素材には、上層人の衣装に絹が、庶民の衣装には麻が使われていたと考えられます。
吉野ヶ里遺跡からは、弥生中期から後期初めの甕棺墓11基の棺内から、
人骨や銅製・貝製の腕輪、銅剣などに付着して、多量の絹や大麻の布片が発見されました。
分析の結果、絹は中国を原産とした日本産の絹糸で、数種類の織り方を持つことが判明しました。(※既に国内で養蚕をしていた!)
また、絹糸の中には植物の日本茜による草木染や、巻貝の染色体を用いた
貝紫染めが確認され、吉野ヶ里の弥生人が高度な染色文化を持っていたことがわかりました。 (※染色文化?=デザイン力、染色技術?=専門工人) |
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333紡錘車
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土製紡錘車
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石製紡錘車 |
石製紡錘車未製品 |
撚糸作業
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334縫い目のある絹織物
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弥生時代中期の甕棺墓に埋葬された人骨に付着していた絹織物から、2枚の絹布が縫い合わされた部分が確認されました。
布の方向を違えていますが、緯糸(よこいと)はほつれやすいため折り曲げてまつり(纏り)、別の布の経糸(たていと)の端に縫いつけています。
これは、後世の衣服の袖と身頃の縫い合わせ方と同じです。
この発見により、『魏志倭人伝』の「倭人の衣装は幅広い布をただ束ねるだけで、縫うことはない」とする記述の曖昧さが明らかになりました。
※中国・半島製衣服ではなく、国産原糸で織り・仕立てた衣服だから、上層人の衣服は縫っているということですね。
しかし、下層人の衣服はどうだろうか。
中国からついて来た見届け人は野蛮人倭人を印象付けるために、見下げた視点で常に評価していたはず。
下層人の衣服を書いたのかもしれない。ただ、現代において貫頭衣という言葉が独り歩きしているのも事実である。
当時は貫頭衣であっても二枚の布を縫わなければ作れない。中南米のポンチョを想像してはいけない。あれは幅広の布に穴をあけた。
倭国では幅広の布は作れなかった。 |
縫い目のある絹織物
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朱が付着した甕棺片
把頭飾付有柄細形銅剣とガラス製ぐ他玉が出土した甕棺の一部とそれに付着した朱。
※って、なんでここで登場するかね |
縫い合わせの方法
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縫い合わせた絹布 |
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336貝紫の染色実験
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➀イボニシのパーフル腺 |
③磨り潰して貝の体液や水で溶く |
④筆で模様を描いたり全体を染色液に浸す
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⑤紫外線に当てて発色させる
⑥緑・黄から紫に変化 |
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337
貝紫の染色糸 |
僅かな染色腺から同一色に染めるには熟練が必要かな |
同一色ないと布が織れない。 |
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338染色腺を持つ貝
※当然のように、というか、嬉しそうに、紡錘車だけを展示しているのではなく、その先に、なにを紡いで、糸に、布にし、何で染色していたか。
まで、わかるということは素晴らしいことだ。大抵は紡錘車だけ。その先は何もわからない。
こんなことがわかるのは、甕棺墓が盛行していたおかげですね。甕棺職人ありがとう。ですね。
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340弥生の装束 |
341貫頭衣 庶民の衣装
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この衣装は出土した布片に基づき織り上げ、『魏志倭人伝』の記載を参考にしています。
二枚の麻布を簡単に縫い合わせただけのもので、染色の痕跡は見つかっていません。
また、上層人が身に着けていたような管玉や勾玉などの装飾品はほとんど身に着けていなかったようです。 |
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342上層人の衣装
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この衣装は出土した絹織物を詳細に分析し、日本の歴史書『古事記』や古墳時代の埴輪、飛鳥・奈良時代の壁画、
中国や朝鮮半島の絵や像などを参考に復元しています。
男性の上衣からは経糸が日本茜で、緯糸は巻貝の内臓(パープル腺)からとった貝紫で染色されています。
女性の上衣は経糸ともに日本茜で染色されています。
帯は経糸に五倍子※、緯糸に藍・黄(黄蘖きはだと藍を合わせる)・紫(茜と藍を合わせる)・茜で染色されています。
※五倍子:洛陽小高木「ヌルデ」の若芽や若葉にできた「虫こぶ」から作られた黄赤色の染料。超超貴重品ですね。金塊ほどの値打ち。 |
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350祭祀土器 ※これらの祭祀土器は、主に墓場で使われるものですね。
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400古墳時代
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410古墳時代の吉野ヶ里
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弥生時代の拠点的集落であった吉野ヶ里遺跡は、
古墳時代初め(3世紀後半頃)になると、集落全体を取り囲む外壕や北内郭・南内郭の壕が全て埋没し、環壕集落としての機能を失います。
古墳時代初めになると、南内郭の跡地に前方後方墳や方形周溝墓が作られます。中には、全長40mに及ぶ九州最大規模の前方後方墳も含まれます。埋葬施設は、後世の削平により残っていませんでしたが、首長クラスの墓だったと考えられます。これらの古墳に葬られた人物が、吉野ヶ里遺跡に居住していた有力者かどうかは、解明されていない謎の一つです。
古墳時代初めの集落は、遺跡北方の志波屋四の坪地区、志波屋六の坪地区、吉野ヶ里丘陵地区Ⅱ区などに展開していますが、規模は大きくありません。
また、西側に隣接する神埼市馬郡・枝町遺跡では、集落と墳墓を区画する溝跡が見つかっており、集落の中心部が移っていく様子が認められます。
続く古墳時代前期から中期(4~5世紀)の集落・墓地は低調ですが、
古墳時代後期(6世紀頃)になると再び集落が形成されるようになります。
古墳時代後期の竪穴住居には、屋内の壁際にカマドを設置したものが多く見られます。このカマドの出現は、渡来人の影響により生活様式が変化したことを示しています。この時期の墳墓としては、遺跡北方の山麓部に横穴式石室を持つ古墳が見られますが、吉野ヶ里遺跡では北内郭の西方で土壙墓12基程度からなる集団墓地が確認されています。また、志波屋四の坪地区では、後期の土壙墓内から木製の馬鞍が出土しており、他の集落との違いを表しています。 |
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411
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413カマドのある住居跡
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415木製馬鞍
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飾り馬 |
木製馬鞍
前輪まえわ |
木製馬鞍
後輪しずわ |
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420古代
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421古代の吉野ヶ里
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奈良時代の地誌『肥前国風土記』によれば、肥前国には11の郡があり、吉野ヶ里遺跡が所在する神埼郡には、
「郷九所・里二十六・駅一所・熢(とぶひ)一所・寺一所の記載が見られます。」 ※熢=のろし台
神埼郡は他の郡に比べて、条里制の地割が良好に残っている地域です。
これまで発掘調査により、奈良時代の官道跡や役所跡(官衙)と考えられる建物跡や寺院跡が発見されており、奈良・平安時代における神埼郡一帯の行政施設の様相が判明しつつあります。
志波屋四の坪地区では、大宰府と肥前国庁(佐賀県大和町久池井)を結ぶ官道(切通し)が発見されています。
官道の周辺には、多数の掘立柱建物が規則正しく配置された区画が見られ、木簡や墨書土器、硯といった遺物が出土していることから、
駅家など官衙に関連する施設が存在していたと考えられます。
遺跡北東部の大曲一の坪地区では、奈良時代の寺跡である辛上寺跡があり、塔の中心には柱を支える礎石が残っています。
発掘調査の結果、門跡や金堂とみられる四面庇建物跡、塔の基壇、僧房と考えられる新旧二基の掘立柱建物が発見されました。
また、築地塀の痕跡から寺域の範囲は一辺が約100mと考えられます。
これらの建物の存在から、吉野ヶ里遺跡一帯は、奈良・平安時代に置ける神埼郡の中心部であったことが分かります。 |
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422
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高坏(須恵器)
箆書土器
鳥が描かれた土器 |
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壺(須恵器) |
鉢(須恵器) |
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723
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724木簡
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429製鉄遺物
鉄滓
鞴の羽口
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430企画展「ミニチュア土器」
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431
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「ミニチュア」とは小型模型のことで、現在も多くの人々が日常的に目にしています。食べ物や生き物、文房具といった身近なものから、ドールハウスのような日常とは、切り離されたものまで様々なものがリアルに、またはデフォルメして作られています。
このような「ミニチュア」製品は、縄文時代から存在し、これらはミニチュア土器と呼ばれ、主に鉢や壺など日常を使われた土器などを模したものが作られており、北海道から沖縄まで各地の遺跡から出土しています。
また、同じく「ミニチュア」製品として銅鐸を模したとされる鐸形土製品も各地でで出土しています。ミニチュア土器に比べて出土量は少ないものの、銅鐸と同じように表面に絵が描かれたものも見られます。
今回のテーマである鐸形土製品やミニチュア土器は、吉野ヶ里遺跡でも出土しており、どのようなものがあるのかを、周辺遺跡で出土した資料と合わせて紹介します。 |
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432鐸形土製品
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銅鐸を模したといわれる鐸形土製品ですが、どのような目的で作られたかはまだはっきりとはわかっていません。
吉野ヶ里遺跡から出土した鐸形土製品に紋様はありませんが、神埼市内の川寄吉原遺跡から出土した鐸形土製品には、武器と盾を持つ人物とその両脇に動物のようなものが描かれています。また、
同じく神埼市内の詫田西分遺跡や川寄若宮遺跡、利田柳遺跡、的五本松遺跡などからも出土しており、
詫田西分遺跡から出土したものは、紐の形や胴に開けられた孔、側縁の鰭などから銅鐸との関係が注目されています。 |
川寄吉原遺跡出土鐸形土製品
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掘立柱建物の柱穴から出土したもので、7.2cmほどが残っています。鈕のない扁平な釣鐘形で、上部に2つの穴(舞孔)が見られます。
身の片側中央に銅鐸に見られるような武器(戈)と盾を持ち、頭に羽飾りを付けた人物像やイノシシと考えられる動物が描かれています。 |
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433鐸形土製品
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434吉野ヶ里遺跡出土の鐸形土製品 志波屋四の坪地区他
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素朴な形ですが、上部に紐を通す穴があいていることや、舌(音を出すための棒)を連想させる土製品も出土していることから、
銅鐸をまねて作られたものと考えられます。 |
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吉野ヶ里遺跡出土
鐸形土製品 |
鐸形土製品 |
舌部 |
鐘部 |
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435柚比本村遺跡出土鐸形土製品
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銅部分に細い線で描かれた「眼」の様な紋様と右目の飢えには細い線が斜めに描かれ、左目の右側には梯子状のものが描かれています。
「眼」の様な文様については、「邪視文」又は「壁邪文」と呼ばれる魔除けの文様ではないかと考えられます。 |
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柚比本村遺跡
鐸形土製品 |
壁邪文の鐸 |
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魔除けの絵が描かれているのは、土鐸は魔除けだったのだろうか。 |
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的五本黒木遺跡出土鐸形土製品(ゆくわごほんくろき)
弥生時代の鐸形土製品は、その多くが方形や楕円形ですが、
ここから出土した鐸形土製品は五角形と珍しい形をしています。 |
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437ミニチュア土器
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…前略…代表的なものは、甕や鉢、壺、高坏などで、手びねりで作られた土器のため比較的作りが荒い物が多いようですが、中には祭祀土器と同じように粘土の中の小石や砂などを丁寧に取り除いて作られたものも見られます。また、古墳時代になると、手に入れにくかった鏡や勾玉を模したものもみられるようになります。 |
ミニチュア土器
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吉野ヶ里全体では100点以上出土しており、口径105cm~10.0cm程度の手のひらに乗る大きさのもので、祭祀土坑や住居跡などから出土しています。通常のものを小型化したような比較的しっかりした作りの物から、手でこねて作ったものの、中には子供が真似て作ったような稚拙な作りの物まで見ることができます。 |
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440ミニチュア製品と祭祀 |
441
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ミニチュア製品は縄文時代から見られ、その多くは祭祀土坑と言われる祭祀に関わる遺構から出土していますが、鐸形土製品は井戸の中から見つかったもの(宅谷遺跡)や掘立柱建物跡から見つかったもの(川寄吉原遺跡・利田柳遺跡)、包含層から見つかったもの(川寄若宮遺跡)と様々です。
吉野ヶ里遺跡では土坑や溝などから見つかりました。
祭祀土坑の多くは甕棺や古墳などの墳墓の近くで見つかっており、儀式後に破棄したものと考えられています。
また、墳墓以外では、川の近くや井戸など水辺や水に関わる場所でも見つかっています。
また、時代が下ると土器や土製品だけでなく、石製品や木製品、鉄製品などにも見られるようになります。 |
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443祭祀土器
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甕棺などの墳墓の祭祀に使ったと考えられるもので、壺、甕、秦、高坏、器台、蓋などがあります。
日常土器よりも生成された粘土が使われ、とても丁寧に作られています。
また、全体を細かく磨き、丹などで赤く塗った土器(赤色磨研土器)も見られます。 |
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450大甕
8.弥生後期前半(1~2セスキ頃) 吉野ヶ里遺跡 志波屋四の坪地区
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口径57.0cm、器高101.9cmの大型甕。器形は倒卵形をなし、口縁部゜は断面「く」の字に立ち上がる。底部は平底で、胴部との境目は不明瞭。
口縁下に断面三角形の撮突帯が1条、胴部断面台形の突帯が1条巡る。器面の調整は、内外面ともにハケメが施される。遺構は石蓋の単棺である。 |
6.弥生時代中期後半 吉野ヶ里遺跡 志波屋四の坪地区 下甕
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口径72.3cm器高107.4cmの大型甕。器形は砲弾型で、胴部から口縁部に向かってややすぼまる。口縁は外側に傾斜し、断面は内側に長く延びる。
器面の調整は、外面をハケメ後にナデ消されている。外面に黒塗りを施した痕跡が残る。 |
3.弥生時代前期末 佐賀県大和町 東山田一本杉遺跡 下甕
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口径64.6cm、器高83.4cmの大型甕。胴部下半にやや膨らみがあり、胴部上半直行し、口縁部は外反する。
口縁部の単部の上下に刻み目が施される。沈線は口縁下に3条、胴部に2条が巡る。
器面の調整はナデで、内外面ともにナデ工具の痕跡が残る。胴部下位に2ヶ所の穿孔が施されている。 |
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出土状況 |
実測図 |
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460中世の吉野ヶ里 ―東妙寺と妙法寺―
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中世(鎌倉~室町時代)の吉野ヶ里遺跡では、主に遺跡南端部の丘陵上や、遺跡東部の丘陵裾部に溝跡や掘立柱建物群が展開しています。
遺跡南端の田手川西岸部の発掘調査では、直線的な区画溝や掘立柱建物群が確認され、瓦や輸入陶磁器などが多数出土しました。調査地点は、東妙寺に伝わる絵図(東妙寺幷妙法寺境内絵図)に描かれた妙法寺が存在していた場所の近くと考えられます。
田手川を挟んだ東岸に現存する東妙寺は、弘安年間(1278~1288年間)、元寇(文永・弘安の役)の際に異国降伏を祈願して、後宇多天皇の勅命で建立されました。一方妙法寺は東妙寺よりも40年以上前に創建されたと言われる尼寺で、絵図には壮大な七堂伽藍が描かれていますが、戦火により焼失したと伝えられており、現存していません。
発掘された遺構や遺物は妙法寺に関連するものと考えられ、溝跡や掘立柱建物跡などからは、土師器や瓦器、常滑の片口捏鉢、備前の擂鉢などの国産陶器、大和地方産の瓦質火鉢(奈良火鉢)、中国製の青磁や白磁などが出土しています。さらに、溝の中から、土師器の皿や中国銭とともに、完形のベトナム産白磁鉢が出土しており、特に注目されます。 |
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中世の吉野ヶ里 |
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常滑の甕、磁器
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ベトナム産白磁鉢出土溝跡出土土師器小鉢
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妙法寺跡出土瓦 |
中国銭 |
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500祭祀具 |
501九州初の銅鐸
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平成10年11月、吉野ヶ里遺跡の北部に位置する大曲一の坪地区の発掘調査で、九州初の銅鐸が出土しました。
銅鐸は弥生時代後期に埋没した谷に掘られた小穴の中に、下向きに埋納されていました。
この銅鐸は、形態や文様の特徴などから、これまで中国地方で4点出土している「福田型」と呼ばれる銅鐸です。
詳細な調査・分析を行った結果、島根県の木幡家に代々伝わる銅鐸と同じ鋳型で鋳造された銅鐸であることが判明しました。
「福田型銅鐸」とは、鐸身の部分に横帯文をもち、目・鼻・水鳥といった特徴的な文様が描かれる小型の銅鐸です。
これまで、佐賀県鳥栖市の安永田遺跡、本行遺跡、福岡市の赤穂ノ浦遺跡で、福田型銅鐸の鋳型の破片が出土しており、
九州で作られた銅鐸ではないか考えられていました。
九州初出土となった吉野ヶ里遺跡の銅鐸は、これまで銅鐸文化圏外と考えられていた九州においても銅鐸が鋳造されていたことや、銅鐸を用いた祭祀が行われていたことを証明する重要な資料です。 |
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510鳥形木製品 |
511
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512船形木製品
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舟形木製品 |
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ゴンドラ形の船の絵
鳥の格好をした人物がゴンドラ形の船を漕いでいる絵画はアジアの稲作地帯に分布していた |
中国広西省漢墓
中国雲南省寒山遺跡
銅鼓絵画 漢代
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鳥取県稲吉角田遺跡
土器絵画
弥生時代(漢代)
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船形木製品ゴンドラ型の船 |
船型木製品
大きく反りあがるゴンドラの形をしている |
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武器形木製品
祭で模擬戦に用いた
鳥形木製品 詫田西分遺跡出土
鳥形木製品 |
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513前漢鏡
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前漢鏡「久不相見、長毋相忘。久しくあいまみえず、長くあいわすることなからん」
前漢鏡には「久不相見、長毋相忘」(長く会わなくても、お互い忘れないようにしましょう)の銘が見られます。
同じ形、同じ銘文を持つ銅鏡は、中国雲南省の前漢時代の墓(石塞山7号墓)から出土したのが知られている程度で、非常に珍しいものです。
この前漢鏡は、弥生時代中期後半(約2050年前)の甕棺墓から発見され、この甕棺墓に埋葬された女性は、右腕に25個の縦型、左腕に11個の横型のイモガイ製腕輪を身に付けており、女性司祭者と考えられます。 |
※被葬者は、中国の辺境、雲南省からはるばる何千キロも旅をして、これまた、シナ陸塊の辺縁の辺境、吉野ケ里までやってきたということか。
雲南でもかなりな地位にあり、別レに際して銅鏡をつくり、別離の辞を刻み込んで、海路大陸の縁を縫うように航海してたどり着いたんだな。
凄い決意ですね。2000年近く前に、雲南からやってくるとは。道は、海路が最も早い。そんなところの司祭をよく見つけたな。
それと、やはり、近世の琉球王朝まで、そうだったが、司祭は卑弥呼をはじめ、女性が最も信頼されたのかもしれない。
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515ミニチュア土器
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520邪馬台国と吉野ヶ里
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吉野ヶ里の集落を囲む外環壕の内側には、さらに壕をめぐらした北内閣と南内郭と呼ばれる閉鎖的な空間があります。
この北内郭と南内郭には、環壕が外側へ突出する部分が見られ、そこからは物見櫓跡が見つかっています。
北内閣の唯一の出入口は、その閉鎖性を高めるためにかぎ型に折れ曲がっています。
また、その内部にある約12.5m四方の大型建物跡は、歴代首長を埋葬した墳丘墓を意識して築かれており、祭事・政治の中心的な役割を担ったものと考えられます。
魏志倭人伝には邪馬台国について「宮室・楼観・城柵を厳かに設け常に人在りて守衛する」とあります。吉野ヶ里遺跡は、北内郭あるいはその中にある大型建物跡は「宮室」、環壕突出部の物見櫓は「楼観」、環壕と土塁などの痕跡は「城柵」という邪馬台国の姿を彷彿とさせます。 |
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521
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523各地の土器 (瀬戸内航路の海運が発達して、遠くから物を運べるようになった。)
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免田式土器
肥後地域(熊本県)
コマかそろばん玉のような首の長い土器が有名 |
筑前型庄内甕
筑前地域(福岡県)
庄内式土器は大阪豊中が原産地 |
甕
吉備(岡山県)
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525
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手焙り形土器
近江系(在地製作) |
鼓形器台
山陰地域 |
器台
瀬戸内型
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台付壺
畿内北部地域
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有段高坏
地域不明
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530倉と市(高床倉庫群)
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原文:収租賦邸閣国国有市交易有無 「そ(租)ふ(賦)をおさむるに、ていかく(邸閣)あり、くにぐににいち(市)あり、うむ(有無)を交易す」
「邸閣」とは租税などを納めておく倉庫のことだと考えられます。
吉野ヶ里遺跡では倉庫と考えられる高床の建物が沢山見つかっている場所があります。
その東側にはさらに壕で囲まれた大きな高床倉庫があり、まさに「邸閣」と言えるような建物です。
また、この倉庫群のなかには「市」と考えられる広場もあります。 |
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531
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533青銅製品
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小型仿製鏡
弥生時代後期 |
小型仿製鏡
弥生時代後期
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中国鏡破片
弥生時代後期
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後漢鏡
後漢時代の破鏡
鈕・縁の一部 |
銅戈 |
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535
貨銭
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巴形銅器
魔除けの形 |
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盾に装着する |
不明青銅器鋳型
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巴形銅器鋳型
弥生後期
環濠の中から土器や他の鋳型と共に出土 |
巴形銅器のモチーフとなった水字貝 |
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540環壕の堆積地層 |
541宮室楼観
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宮室楼観云々
原文:宮室楼観状柵厳設常有人持兵守衛
(きゅうしつろうかん、じょうさくを おごそかにもうけ つねにひとあり へいをじしてしゅえいす)
宮殿・物見櫓・城柵などを厳重に設けられ、常に兵器をもった人々がこれを警備していた。
これは卑弥呼が住んでいる場所の記述の一部です。北内郭には、宮殿と考えられる大型建物や壕が張り出した部分の内側には物見櫓と考えられる建物が発見されています。
壕は二重になっており、入口はかぎ型に折れ曲がったつくりをしていて、内部は厳重に守られています。 |
環濠の堆積地層 |
吉野ヶ里の中枢機能
北内郭 |
北内郭 |
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発掘当時の南内郭 |
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543環濠・土壙墓
環濠剥ぎ取り土層
幅6.3m 深さ2.7m
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環濠内の様子 |
土坑墓 |
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547環濠や土壙墓の出土物
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鉄剣
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刀子
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ヤリガンナ |
鉄製鋤先 |
鉄鎌 |
鉄斧 |
復元鉄斧 |
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550環壕内出土土器 |
551土器
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553甕 煮炊き容器
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555壺 保存容器
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600南内郭
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601南の「守り」
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南内閣の南側の「守り」は、兵士が待機します。また、中に入れない人々が待っています。門には正門と脇門があり、正門は監視を厳重にするために櫓門になっています。 |
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602櫓門
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櫓の上には四方に盾が置かれ、兵士が出入りする人たちを見張っています。 |
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603南内郭
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吉野ヶ里の2つの中心区域のうち、南側にあるものを南内郭と呼んでいます。壕と柵で厳重に囲まれ、中には物見櫓も設けられています。
こうした特別の空間であることから吉野ヶ里の指導者たちの生活の場であると考えられています。 |
南内郭の門
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南内閣には、南の正門、北の脇門があります。正門の両脇には、物見櫓がそびえています。 |
南内郭
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南内郭は吉野ヶ里の「国」の「大人」達が暮らしながら「国」の政治を執り行っていた場所と考えられています。
要所に物見櫓があり、広場を中心に「王」や「大人」の竪穴住居や煮炊屋、集会の館があります。
「大人」達の中で最高権力者が「王」と考えられています。 |
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604物見櫓
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物見櫓の上には四方に盾が置かれ、兵士が周囲を見張っています。 |
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605「大人」の妻の家
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ここは軍事や土木康嗣を取り仕切る「大人」の妻の家です。中では母親が櫛で娘の髪を梳いています。 |
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606「大人」の家
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ここは軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の妻の家です。中では、道具の出来具合を見ています。 |
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「大人」の家 |
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柳行李
重要な物を入れておく
封泥されている |
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靫
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よろい |
楯
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白絹笥
吉野ケ里では養蚕をしていた。絹の機織りも行い、貴人の衣服を作っていた。 |
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610 |
611 |
612 |
613「大人」の妻の家
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ここは祭祀・儀礼を取り仕切る「大人」の妻の家です。中では妊娠の儀礼が行われています。 |
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614「大人」の家
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ここは祭祀・儀礼を取り仕切る「大人」と家族の家です。中では祭の相談をしています。 |
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615王の家
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ここは「王」と家族が暮らしている家です。「王」の力を示す品々が枕元に置かれています。 |
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617「王」の娘夫婦の家
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619煮炊屋
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煮炊屋は食事を作る建物です。ここで作られた食事は「王」や「大人」達の家へと運ばれます。 |
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621「王」の妻の家
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ここは「王」の妻の家です。外で機織をすることもあります。 |
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624櫓
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625「大人」の家
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ここは外交を取り仕切る「大人」とその家族の家です。中では「大人」がよその「国」の使者から話を聞いています。 |
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626集会の家
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ここは「王」や「大人」田近゛集まり、儀式や話し合いをする建物です。 |
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627「大人」の家
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ここは裁定を取り仕切る「大人」と家族の家です。入口にいる兵士から報告を受けています。 |
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700北内郭・北墳丘墓・中のムラ
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環濠集落の最も北にあるこの地域は、吉野ヶ里の「国」のまつりごと(祭りや政治)の中心であったと考えられています。
北に歴代の王の墓があり、その南にまつりごとを行う北内郭、北内郭の西側に特別な倉庫群と北内郭の行事を帆補佐する人たちが住む、中のムラがあります。 |
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北内郭・北墳丘墓・中のムラ |
北内郭・北墳丘墓・中のムラ
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701環壕
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703養蚕・機織
養蚕の家
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祭りや儀式で使う、絹織物の糸を生み出す大切な蚕を大事に育てる家です。 |
織物の家
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司祭者に仕え、中の村で暮らす女性たちが糸を紡ぎ、祭りや儀式で使う絹織物を織る家です。 |
養蚕の家
養蚕の家 |
養蚕模式図 |
絵の十倍、二十倍の飼養が必要 |
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織物の家
織物の家 |
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機織り場は炭火しか使えない。燃え火は煙が出て布が汚れ、室内に煤が付くと、白い布を織ることはできない。 |
繭から糸をとる場所
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繭を煮て、はずれてきた糸を何本かまとめて一本の糸にする。
きっと、戸外で繭を煮ながらやったのでしょう。 |
養蚕のようす
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704中の村(機織りの家)展示物解説文
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蚕 蚕の卵は、1ミリ程度の小さなものです。孵化したばかりの幼虫は、体長3ミリ程度で、黒くけが生えているため、蟻蚕(ぎさん)または毛蚕(けご)と呼ばれています。
蚕は孵化してから25日程度で繭を作りますが、その間に4回脱皮し、体長は6~7cm程度にまでなります。ここでは、2回目の脱皮を終えた2cm程度、3回目の脱皮を終えた4cm程度、そして4回目の脱皮を終え、繭を作る直前の7cm程度の蚕を展示しています。
桑の葉 蚕の餌となる葉っぱです。これを食べて蚕はどんどん大きくなります。
蚕箔さんぱく 蚕と桑の葉を入れておくためのカゴです。
蚕棚 介護の入った蚕箔を並べておくための棚です。
ムシロ ゴザのことです。蚕箔の中、蚕棚の下、機織りの下、ベッドの上などいろんなところに使われています。
まゆ座 蚕がさなぎになる(繭を作る)ときの小屋のようなものです。
ほうき 蚕の糞を掃除するときに使います。
まゆ 蚕はまゆ座の中で糸を吐いて、長さ4cm程度の繭をつくります。
本来、蚕は繭を作ってから3日程度でさなぎになり、さらに12日程度で成虫(蛾)になりますが、ここでは成虫になる前に糸が取り出されます。
おけ 繭を入れて煮るための器です。煮て柔らかくなったところで、まゆから糸が取り出されます。
くるへき 繭から取り出した糸を巻き取ったり、染色を済ませた糸を巻き取っていくための道具です。回転させて使います。
紡錘車 繭から取り出した糸に撚りをかけるための道具です。これを回転させることで撚りがかかり、糸が丈夫になります。
かせ 紡いだ糸を巻き取ったり、糸の束を作るための道具です。束を作ることによって、人がもつれるの防いだり、糸に色付け(染色し)やすくすることができます。
たたり 染色を済ませた糸の束をかけるための糸掛けです。これに掛けた糸を、くるへきで巻き取って行きます。
経台へだい 整経台とも言い、織物を作る際に必要な経糸を一定の長さでたくさん用意するための道具です。
柄杓ひしゃく 水を汲むための道具です。
絹糸 繭から取られた糸は、紡錘車によって撚りがかけられ、かせによって束にされた状態で染色され、織物用の絹糸となります。
機織り 繭からできた絹糸を使って織物(布)を作るための道具です。ここで作られた絹織物は、吉野ヶ里でも身分の高い人々の服などに使われていたと考えられます。 |
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ササラ
煮た繭から糸を引き上げる道具 |
中のムラ(機織の家)
展示解説
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くるへき |
紡錘車 |
たたり |
経台(へだい) |
かせ |
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711酒造り
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女性たちがその年に収穫された米を蒸して祭りや儀式で使う酒を作る家です。 |
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712道具の倉
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713稲穂の倉
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その年に初めて収穫した、秋の祭で特別にお供えする稲穂を収める倉です。 |
供物倉
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祭りや儀式のときにお供えする食物などを収める倉です。 |
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715高床倉庫
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北内郭のすぐ外側に配置されていることから、この倉庫群には、北内郭と深く関係のある祭祀の道具や宝物などの品々が納められていたとされています。 |
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717織物の倉
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720北墳丘墓
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721甕棺墓列
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甕棺とは棺おけのことで、弥生時代の北部九州だけに見られる特色的なものです。
吉野ヶ里では、長さ600mにもわたって2列に埋葬された甕棺墓列をはじめ、丘陵の各所に沢山の墓地が設けられています。 |
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723祀堂
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歴代の王の祖霊へお供えを捧げ、お祈りをする建物です。 |
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730北墳丘墓
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弥生時代の中頃、吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられています。
中からは14基の甕棺が見つかっており、一般の墓とは違い、ガラス製の管玉や青銅の剣など、貴重な副葬品が納められていました。
北墳丘墓に葬られている人々の身分の高さを示しています。 |
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731墓道
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北墳丘墓にお参りするための専用の道と考えられています。この道は外環壕の外から延びており、吉野ヶ里集落だけでなく、周辺集落を含めたこの地域ノ「クニ」全体の人々が北墳丘墓にお参りするための道であったと考えられています。 |
北墳丘墓 |
発掘当時の写真
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・ガラス製管玉
・有柄細方銅剣 |
墓道 |
発掘当時の写真 |
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733立柱
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祖霊の宿る柱とは、北墳丘墓を守る祖先の霊が宿ると考えられています。
北墳丘墓は、弥生時代後半にはお墓ではなく、祖先の霊をまつる祭壇として人々のの信仰の中心となります。 |
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祖霊の宿る柱 |
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筒形器台
墓地の入口に必ず立っているものです |
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735北墳丘墓
2100年前の王の威光
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今からおよそ2100年前、この地に葬られた人々がいました。その人々は、吉野ヶ里集落の歴代の王だと考えられています。
永い眠りから覚めた彼らが語りかける当時の世界をご紹介します。なお、正面の発掘状況の展示のうち、遺構面と甕棺は本物を展示しています。 |
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740北墳丘墓 見学通路展示
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741 2100前のこの地に 吉野ヶ里遺跡北墳丘墓
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今からおよそ2100年前、弥生時代中期(紀元前2c~紀元後1c頃)吉野ヶ里遺跡北側の標高約25mの段丘上に巨大な墳丘墓が築かれました。
この墳丘墓は、南北約40m、東西27m、盛土の高さ4.5mの平面隅丸長方形であったと考えられています。
この墳丘墓からは、成人用甕棺が14基発掘され、その多くから身分を示すと考えられる銅剣や管玉が発見されました。
そのため、この北墳丘墓は、弥生時代中期の吉野ヶ里遺跡の歴代の王または首長と考えられる人々が葬られていたと考えられており、
吉野ヶ里遺跡の中でも弥生の「クニ」社会を裏付ける最重要遺構の一つとなっています。 |
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2100年前のこの地に
吉野ヶ里遺跡北墳丘墓 |
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北墳丘墓発掘 |
2100年前のこの地に
吉野ヶ里遺跡北墳丘墓 |
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墳丘墓模型 |
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742甕棺墓に埋葬された弥生人 -吉野ヶ里遺跡の墓地と埋葬-
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縄文時代には、人が亡くなると地面に穴を掘って、直接遺体を埋めていました(土壙墓)が、弥生時代になると、石棺や木棺や甕棺(素焼きの棺)などに遺体を納めて埋葬することが始まりました。
北墳丘墓では、御大型甕棺を二個合わせて、そこに大人の遺体を納めるという葬法(大型合口甕棺)が用いられた甕棺が14基出土しています。
これら甕棺による埋葬法は、現在のところ日本では佐賀県や福岡県を中心とする北部九州でしか発見されていない特徴的な方法です。 こうして組み合わされた甕棺の大きさは、長さ2mにもなります。
(※東アジアでは、;弥生人同様に移民した人々が他国の土と混じることを嫌って甕棺に埋葬しています。甕棺墓は日本だけではありません。) |
甕棺墓に埋葬された弥生人 |
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甕棺墓 |
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甕棺に埋葬された
弥生人 |
土壙墓
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箱式石棺墓
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木棺墓
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甕棺墓
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墓壙の序列
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墓壙の序列
王墓・甕棺墓・木棺墓・石棺墓 |
墳丘墓>>>甕棺墓>>木棺墓>>石棺墓 多分このあとに>>>>>>土壙墓でしょう。 |
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土壙墓<<<< |
<<箱式石棺墓<< |
<<木棺墓<< |
<<甕棺墓<< |
<<<<墳丘墓 |
甕棺墓の埋葬
1.墳丘頂部から2m程穴を掘り、さらに掘り下げた穴から横穴を掘る。
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2.掘った横穴に甕棺を一つ据える。
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3.甕棺の中に使者を埋葬します。
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4.もう片方の甕棺で蓋をします。 |
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5.甕棺の継ぎ目を粘土で塞ぐ。 |
6穴を埋め戻す。 |
7使者に祈りを捧げる。 |
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743社会の階層分化を示すもの 集団墓地と墳丘墓
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吉野ヶ里遺跡の中には、墳丘墓の他に列状に甕棺が埋葬されていた墓地(甕棺墓列)が見つかっています。
しかし、北墳丘墓の甕棺は、甕棺墓列のものと比べてサイズが大きいこと、銅剣や勾玉など数々の副葬品を伴っていたこと等から、
身分の高い人物を埋葬した墓であると考えられています。
また、北墳丘墓では14基の甕棺が発掘されたのに対し、甕棺墓列の場合、同じ面積で比較すると100基以上の甕棺が見つかっています。さらに、
北墳丘墓の近くにも列墓が見つかっていますが、その分布を見ると、北墳丘墓の周りには空白があり、北墳丘墓が隔絶されていることが分かります。
このように一般の人々が埋葬されていたと見られる列埋葬とは際立った違いを見せる大型墳丘墓(北墳丘墓)の出現は、この時代の社会が大きく二つに階層分化していたこと、つまり、首長・祭事者といった特定身分によって統括・指導される政治社会(クニ)が成立していたことを裏付けています。 |
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社会の階層文化を示すもの
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列葬墓(甕棺墓列)
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列葬墓の範囲
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甕棺墓列模型 |
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北墳丘墓の甕棺位置
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甕棺墓裂 |
黒く塗られたのは
王墓の甕棺
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744技術と汗の結晶 吉野ヶ里墳丘墓の埋葬技術
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北墳丘墓の築造には当時としては非常に高度な技術が用いられています。、
少しずつ土を盛っては突き固めるという工程を繰り返す工法で、丁寧かつ丈夫に造られています。
このような築造技術は、中国から伝来したものと考えられ、日本では古墳(古墳時代終末期)にも採用される方法ですが、
北墳丘墓においてこの技術が見られることから、大陸の技術をもつ人が弥生時代中期に、すでに関わっていた可能性が考えられます。
現代のように機械がない時代には、技術と共に多くの人手が不可欠であり、それだけ求心力のある人物のお墓であった事がうかがえます。
この築造技術を示す版築の跡は、遺構面の見学通路から見ることができます。
※古墳時代末期に列島で一般化する技術が、吉野ケ里では弥生中期に既に使われていた。500~600年ほど早かったのでしょうか。凄いことです。 |
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745墳丘墓くらべ 各地の墳丘墓
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弥生時代の墳丘を持つ墓は、古墳時代の古墳と区別して「墳丘墓」と呼ばれています。
墳丘墓という墓の形式は、弥生時代前期末に畿内を中心に方形周溝墓と呼ばれる低墳丘墓が出現し始め、
北部九州でも墳丘や溝で区画された墓が弥生時代中期には出現しています。
弥生時代中期後半以降には、方形周溝墓は畿内から東海、北陸に順次広がりを見せ、
山陰地方では四隅突出型墳丘墓などの異なる形の墳丘墓が現れますが、
吉野ヶ里の北墳丘墓は、まだ類例の少ない弥生中期の初めに国内では他の地域の墳丘墓よりもはるかに大きい規模で築造されています。
やがて古墳時代に入ると、墓の形式が前方後円墳に代表される全国共通の形式に変わり、ひとつの勢力に統括されて行きますが、
この弥生時代には、勢力を持った集団が各地に存在していたことがうかがえます。
※弥生時代の墳墓は、このような墳墓形態に加えて、副葬品の有無、特定個人墓の性格の強弱等、地域や時代により特色が見られます。
これらは、各社会の仕組みや古墳時代へ至る歴史展開を物語る資料の一つとして研究され続けています。 |
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北墳丘墓 |
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墳丘墓くらべ |
各地の墳丘墓 |
各地の墳丘墓 |
方形周溝墓
大阪府加美遺跡Y-1号墳 |
四隅突出型墳丘墓
島根県宮山4号墳
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弥生墳丘墓
岡山県楯築遺跡
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前方後円墳
奈良県箸墓古墳 |
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吉野ヶ里北墳丘墓
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四隅突出型墳丘墓
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方形周溝墓
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弥生墳丘墓
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前方後円墳
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750北墳丘墓の発掘と保存整備
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発掘
当初から覆屋を設けて発掘したようです
窃盗防止です |
吉野ケ里が現地説明会を行った時、
報道が、あそこに剣がある、というので撮影しようとすると、もう、何もなくなっていました。報道されています。
出土物がどんどん持ち去られたのです。 |
北墳丘墓の発掘
北墳丘墓の発掘 |
北墳丘墓 |
発掘調査 |
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発掘結果の記録 |
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753遺構展示
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755北墳丘墓の整備
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室内環境への取り組み
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調査
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実験
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施工
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室内環境への取り組み
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757遺構展示
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760北墳丘墓の歴史
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我々が住んでいる街や村が年々姿を変えるように、北墳丘墓が造られたこの地も時代と共に役割を変え、歴史を刻んできました。
北墳丘墓が築造されてから2000年以上経った今、再びこの地に墳丘墓が蘇る事で、新たな役割と 歴史が生まれたことになります。
弥生時代前期 |
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背振山地裾野の丘陵地で集落が営まれる。 |
弥生時代中期前半 |
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墳丘墓が築造され、被葬者と共に有柄銅剣やガラスぐ他玉などが副葬される。 |
弥生時代後期 |
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外環壕が掘削され初め、大規模な環濠集落が成立する。 |
↓ |
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中世(戦国期) |
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丘陵全体に山締めが築かれ、北墳丘墓の周囲に防衛のため溝が掘られ、墳丘上に櫓が組まれる。 |
↓ |
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昭和29年 |
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開墾が行われる。その際に甕棺や銅剣が出土する。 |
↓ |
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平成元年3月2日 |
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佐賀県教委により北墳丘墓の発掘が開始される。その日のうちに有柄銅剣・ガラス管玉が出土する。 |
平成元年3月7日 |
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香月熊雄佐賀県知事が史跡指定を国に働き掛け、史跡を保存しかつようすることを表明。 |
平成2年5月 |
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史跡指定 |
平成3年5月 |
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特別史跡指定 |
平成4年10月 |
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「国営吉野ケ里歴史公園」の設置が閣議決定される。 |
平成13年4月21日 |
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国営・県営吉野ヶ里歴史公園第1期開園 |
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北墳丘墓の歴史 |
弥生前期 |
弥生中期 |
弥生後期 |
中世(戦国期)
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壁面展示
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770彩り鮮やかな装飾品 ガラス製管玉・銅剣再現品 |
771
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佐賀県
唐津市宇木鶴崎遺跡
有柄銅剣出土
唐津市柏崎遺跡
触角式柄頭銅剣
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772彩り鮮やかな装飾品
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北墳丘墓から出土した甕棺のうち、銅剣が1本ずつ埋葬されていたものが8基出土しています。
そのうち1基は有柄細形銅剣と共に見事なコバルトブルーのガラス管玉が79個分副葬されていました。
中国東北地方や韓国の王墓級の遺跡からも同様のガラス管玉が発掘されていますが、その数は、いずれの遺跡も1個~8個以下で、79個という
北墳丘墓のガラス管玉の数は、驚くべきものです。
このガラス管玉は、出土状況や大小の玉の組み合わせから、胸飾りまたは頭飾りであったのではないかと考えられています。
また、剣の柄や把頭飾り部分まで、銅製である有柄銅剣は、国内では4例目の出土で、いずれも西日本でしか発掘されていない珍しいものです。
吉野ヶ里遺跡では約3000基以上の甕棺墓が確認されていますが、副葬品の豪華さでは北墳丘墓のものが他をはるかに圧倒しており、
まさに王墓の風格が感じられるものです。 |
彩り鮮やかな装飾品 |
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有柄細方銅剣 |
ガラス管玉79個 |
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773死者に対する思い 甕棺墓の埋葬模型
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とりわけ豪華な副葬品が出土した1002号甕棺をモデルに、当時の棺の内部を復元しています。
北墳丘墓では、このように内側が水銀朱で真っ赤に染まっている甕棺がいくつも見つかっています。
中には埋葬された頭蓋骨や副葬品の銅剣にまで塗られたように朱が付着している例もありました。
水銀朱は辰砂、朱砂、丹などとも言い、科学的には硫化水銀(HgS)という強い殺菌作用をもつ物質です。
これは、中国では古くから不老不死の象徴として珍重されていたもので、
弥生時代の日本にも既にそうした思想が入っていた可能性が高いと考えられています。
魏志倭人伝には、倭人「朱丹を以ってその身体に塗る」習慣があったと記されています。
副葬品は生前の身分の証という意味だけでなく、その副葬品が表す地位を伴ったまま墳丘墓に埋葬され、死後もなおその身分を保持して、
その社会を導くものと考えられていたようです。
※銅剣の鞘はは、鳥栖市柚羋本村比本村遺跡出土の玉飾り漆さやを参考に復元。 |
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使者に対する思い |
朱を以ってその体に塗る
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出土した絹片 |
1002郷甕棺墓再現 |
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775墓地から祭祀の対象に 集落構造と北墳丘墓
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弥生時代中期に造られた墳丘墓は、のちに祭祀空間として扱われるようになります。
弥生時代後期後半から終末期の吉野ヶ里の集落構造を見ると、一番北にある祖先の霊を祀る北墳丘墓と、
一番南にある暦に関する祭を行ったとされる祭壇とを結んだ線上にに、祠堂と北内郭内にある主祭殿(祭の中心施設)とが
きれいに並んでいることがわかります。さらに南軸約60km先に行くと雲仙岳に当たります。
当時の祭の中心施設と考えられている主祭殿は、この軸線上に建てられていることから、北墳丘墓はクニの社会基盤を構成する重要な施設になっていたことがうかがえます。
また、墳丘墓前には、祖先の霊が宿る宗教的シンボルと考えられる立柱、墓道、祠堂(お祈りの場)が設けられていたことがわかっています。
墓道からは、祭祀に使われた筒型器台や高坏などの祭祀用の土器が多数出土しており、この場所が吉野ヶ里の祭祀には特別な場所であったことがうかがえます。
ここで行われた祭事は、祖霊の託宣・神託によって社会が導かれるという当時の精神生活を表した興味深い事象と言えます。
※北内郭に関しては、この聖なる軸線の他、その形が左右対称であり、
その中心線が太陽の運行線(夏至の日野でと当時の日没を結ぶ線)にあっているといわれています。 |
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墓地祭祀具 |
墓地から祭祀の対象に
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墓地祭祀具 |
類似事例
鳥栖市柚比本村遺跡
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吉野ヶ里から雲仙岳 |
北墳丘墓と雲仙岳を結ぶ
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北墳丘墓・北内郭・祭壇の直線性 |
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夏至の日の出ライン
聖山と北墳丘墓Line
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777死後も社会を導く王たち 当時の祭祀の様子を再現
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北内郭の祭祀 |
祭祀想像図 |
埋葬風景模型 |
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祭祀風景模型 |
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埋葬祭祀想像図 |
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780北墳丘墓発掘の成果 発掘報告書
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓
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墳丘墓とは
弥生人たちは亡くなったら平らなところに墓穴を掘って次々と埋葬されますが、身分の高い人たちは、人力で土を積み上げて作られた小山の
ような「墳丘墓」と呼ばれる大きな墓に埋葬されました。
次の古墳時代には前方後円墳など「古墳」と呼ばれる大きな墓が造られますが、弥生時代の墳丘墓はその起源ではないかと考えられています。
吉野ヶ里の墳丘墓は、弥生時代中期前半(紀元前2世紀)に造られ、
中期前半から中期中頃(紀元前1世紀初め)までの吉野ヶ里の歴代の王(首長)を埋葬したものと考えられています。
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墳丘の発掘調査
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は、地元では「城」と呼ばれていたため、戦国時代の山城の一部ではないかと考えられていました。
1989(平成元)年2月の確認のための調査で、人口の盛り土の中から甕棺が現れ、弥生時代の墳丘墓であることが判明しました。
墳丘墓の本格的な発掘は3月2日に決まりましたが、大きな素焼きの甕を用いた甕棺墓が7つ出土し、
うち5つの甕棺墓から銅剣やガラスの管玉79点布片、人骨や歯の破片などが発見されました。
また、1992(平成4年)の再調査では、新たに7基の甕棺墓が出土し、内3つの甕棺墓から銅剣などが出土しました。
2回の発掘によって、大型の成人用甕棺墓が14基発掘され、銅剣8本や多数のガラス製管玉などが出土しました。
また、墳丘の盛り土の仕方を知るための断面調査も行いました。 |
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓
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発掘前の北墳丘墓
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平成元年・平成4年
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墳丘墓の発掘調査
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北墳丘墓・立柱・祠堂・墓道
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北墳丘墓は歴代の王の墓で、西には壕を渡って走る墓道、南には祖霊の宿る立柱と歴代王の祖霊へのお供えやお祈りを捧げる祠堂があります。
ここは、吉野ヶ里集落を築き上げた祖先の霊を大切に祀る神聖な区域と考えられています。 |
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北墳丘墓を終了 |
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北墳丘墓から北内郭外側の倉庫群へ移動 |
790中のムラと倉庫群
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北内郭と南内郭の間にある地域を中のムラと呼んでいます。
ここでは、司祭者に仕える人たちが、北内郭でのまつりごと(祭祀や政治)の準備やそれに使うものを作りながら暮らしていたと考えられています。
また、倉庫群には、祭などの行事で使われる道具やお供え物、宝物などが収められていたのでしょう。 |
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800北内郭 |
801北内郭 (王の宮殿)
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吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域です。田植えや稲刈りの日取り、戦いや狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここで決定されたと考えられています。こうした事から、当時は指導者達だけが出入りできた神聖かつ特別な場所であったようです。 |
北内郭 |
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北内郭 (王の宮殿)
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発掘当時の北内郭
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地鎮のため北内郭の中に埋納した中広形銅戈
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802北内郭の建物
北内郭の発掘当時 |
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突出部と物見櫓
環濠の外に丸く張り出した突出部が4箇所あり、各突出部の内側にそれぞれ物見櫓があります。 |
主祭殿
16本もの柱を使った吉野ヶ里最大規模の高床建物です。内側にある柱で床を支える構造で、柱の配置や平面形態から楼閣のような建物と考えられています。 |
出入口
目隠しの塀があるなどして、内部が直接見えない構造になっています。 |
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803
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高床建物
直接地中に柱を建てた掘立柱建物です。その構造から格の高い建物と考えられています。 |
祭殿
内堀の外に設けられた掘立柱建物で、二方のみに壁があり、他は吹き抜けになっています。 |
斎堂
高床掘立柱建物です。床を支える柄柱が内側にあります。この柄柱は高床建物や祭殿にもあります。 |
竪穴建物床を掘り下げた半地下式の建物です。外見は屋根を伏せたように見えます。 |
方形竪穴建物跡 |
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804北内郭の発掘当時
北内郭発掘写真
この位置に左上の北内郭が拡大して建設されていました。 |
北内郭復元図 |
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806北内郭発掘当時
この位置に左上の北内郭が拡大して建設されていました。 |
北内閣の縄張りを再現しました |
北内郭
大穴の説明なし |
大穴の説明なし |
主祭殿 |
出入口→主祭殿 |
出入口外側 |
物見櫓・竪穴建物・斎堂 |
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808
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810主催殿
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吉野ヶ里の政を司る最重要施設です。ここでは指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われていたようです。発掘調査の成果や古代中国の事例などを参考に高さ16.5mで復元しています。 |
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813斎堂
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斎堂は主祭殿と東祭殿との間に位置する事から、祭りの時に身を浄めたり、祭の儀式に使う道具などが置かれていた施設と推定しています。 |
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814竪穴住居(従者の住まい)
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北内郭で唯一の竪穴住居です。これは最高司祭者の最も身近に仕え、その世話に当たる従者の住居であったと推定しています。 |
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815高床住居
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神聖な区域の中にあり、高床倉庫とは違ってほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ヶ里の最高司祭者の住まいだった、と考えられています。
最高司祭者は一般の人々の前にはほとんど姿を現わさなかったと考えられており、まさしくプライベートな空間だったと思われます。 |
最高司祭者の生活空間
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最高司祭者の生活空間は、大きくは二つに仕切られています。網代と衝立で仕切られた奥の部屋の、さらに帳(とばり)で仕切られた一番奥の部屋で日常の生活を送り、帳の前の部屋には、最高司祭者が使う日用品などが棚に置かれていたようです。また、手前の部屋には従者が控えていたと考えられており、最高司祭者の性格上、外光を取り入れる窓はなく、昼間でも中で灯りを灯していたと考えられています。 |
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860主祭殿3階
最高司祭者の神がかりの様子
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最高司祭者(巫女=ふじょ)が、祖霊からお告げを授かるために、蔓(カズラ)を頭や身体に巻き、手に小笹を持って、琴の音に合わせて神がかりしようとしています。巫女の発するお告げを聞き分け、伝える人が控えています。鏡や玉・剣は、巫女(ふじょ)が、祖霊と交信するための祭具です。 |
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870主祭殿2階 政(まつりごと)
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900倉と市
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901兵士の詰め所
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ここは、北の守り付近を警備している兵士たちが詰める建物です。中では兵士たちがそれぞれに休憩しています。 |
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902環壕と土塁
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吉野ヶ里丘陵の裾を巡るように設けられた防御のための施設です。大きな壕を掘り、その土を外側に高め(※内側に積み上げ)、土塁として敵の侵入を防いでいます。
土塁の上には木の柵を設け、城柵としていたと考えられています。こうした構造から「城=土から成る(城=土+成)」という言葉の語源となったと考えられています。 |
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903稲穂の倉
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吉野ヶ里の「国」の各地から、税として収められた稲穂を収めています。 |
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904武器の倉
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905稲籾の倉
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軍事のための備蓄や「国」の財力を示すため、籾を収めています。 |
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906原料の倉
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吉野ヶ里で製作される、哲也銅製品などの原料を収めています。 |
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弥生時代には、鉄板(鉄挺)を曲げて鉄製品を作っていました。その鉄板は、朝鮮半島や中国から輸入していたようです。 |
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原料の倉 |
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木炭 |
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鉄鉱石
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鉄挺 |
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鉄挺+銅インゴット |
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ガラス原料? |
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907貢物の倉
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中国へ使者を派遣するとき、一所に持たせる貢物を収めています。 |
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910国の倉と市(交易)
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南内郭の西側にあるこの地域は、吉野ヶ里「国」の倉と市があったと考えられています。
倉は厳重に壕と柵で区画され重要な物資を収める倉、税を収める倉、市に関わる倉などがあります。
市は、南や西の広場で開かれ、各所から沢山人が集まります。
中央には、市を管理する建物もあり、その二階では太鼓と旗で市の開催を知らせます。 |
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911市長(いちおさ)の住居
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市を治める市長は、この区域で暮らしながら市の管理をします。遠くから来た人々が挨拶に来ています。 |
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912市の倉
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市で交換するために吉野ヶ里で製作された道具類を収めています。 |
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市で交換するために吉野ヶ里で生産された食材を収めています。 |
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913市楼(しろう)
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市楼は
、ここで開催される市を管理する建物です。下の階で市に参加する許可をもらいます。上の階には市の開催を知らせる旗と太鼓が置いてあり、兵士が見張っています。 |
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914兵士の詰め所
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市を警備する兵士はここで見回りの順番が来るのを待っています。 |
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915稲籾の倉
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916市の倉
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市で取引を許された人々が差し出した貢物を収めています。 |
雑穀の倉
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吉野ヶ里「国」の各地から、税として収められた雑穀を収めています。 |
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917兵士の住居
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市を警備する兵士たちは、この区域で暮らしています。 |
兵士の倉
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この地域で暮らしている兵士たちの生活道具を収めています。 |
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1000南の村
集落
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「南のムラ」では、いくつかの家族が、畑や水田での農耕や生活に必要な道具をつくりながら暮らしていました。 |
ムラ長の一家
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「南のムラ」をまとめていたムラ長一家の敷地には、住居や倉庫以外にも大型の倉庫や集会所などの建物がありました。 |
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※南の村には農民が住んでいました。南の村の南端に「祭壇」と呼ばれるマウンドがあり、農業祭祀の場とされていました。が、撮影していません。
ネット上でもこの祭壇の写真がありません。 |
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