北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて23 2014.05.24(土) 2015.01.06再取材しました
富山市民俗民芸村 考古資料館 富山県富山市安養坊47-2 076-433-8634 休館日 年末年始
(富山市考古資料館)
交通 三つの方法があり、いずれも便利かと思います。
①富山駅観光案内所で無料レンタサイクルを借りる 降雨降雪時以外は多くの人が利用可能で行きたい所へ行けます。
※ただし、きちんとマナーを守りましょう。
②富山駅南のニコレンで予約して格安で借りる。雨天・降雪時に有効。※降雪期でも道路は除雪してあり大丈夫。
③市内周遊バスを利用する。一時間に一本ですが、観覧時間を考えると丁度良い時間です。
民俗民芸村の交通案内 「市内周遊ぐるっとバス」 「富山地鉄バス」の詳細ページ。一回200円1日フリー乗車券:大人700円。
見所 北陸最大の土偶 富山の他の地域にない土器が展示されています
小さな外観ですが驚くほどたくさんの展示物があり、わかりやすく陳列されています。素晴らしかったです。ぜひ登館してください。
素晴らしい点
富山県は各遺跡の調査報告書がネット上で公開されている。
縄文時代の土器編年 古墳時代の古墳編年など、他地域では決して公開されない資料が見れることです。
これは、石川・福井両県の多くの展示館での「一般庶民を蚊帳の外に置く」やり方とは正反対で素晴らしいことです。
誰でも考古学に興味を持ち、老後の暇つぶしができることは大事なことですね。東京の国立系博物館では写真撮影も自由です。
特集小竹貝塚 最後ですので、小竹遺跡についてわかることをまとめました
縄文中期の土器編年 貴重な資料をおかりします
前方後円墳と前方後方墳
|
目
次 |
01外観
30富山の年表
10先土器時代
20縄文時代
39縄文時代中期の土器編年
40縄文時代2
41縄文時代3 海の幸・山の幸 |
50小竹貝塚1 (特集記事)
50概要
51小竹貝塚の土器形式
縄文時代前期の土器編年
51北陸の縄文土器編年表
52小竹貝塚の土器1
53石器
54木器・骨角器・丸木舟など
56木器と丸木舟
57小竹貝塚の人骨
小竹貝塚の縄文人について
61小竹貝塚2
|
70富山市の弥生時代
72ビギニング
74稲作農耕
76弥生時代の墓制
78弥生時代後期 2世紀後半
79前方後円墳と前方後方墳
80富山市の古墳時代
82前期 前方後方墳
84中期 円墳
86後期 古墳終末期 |
90古代
91奈良時代
94平安時代 |
|
01外観
呉羽丘陵は富山の文化施設が集まるとこです。 民俗民芸村は丘陵の東側に。西側には県立埋文や北代縄文館や図書館等の文化施設がある。
また、この丘陵には旧石器~縄文~弥生~古墳などの遺跡が多数集まっているところでもある。
富山市の遺跡と地形の変遷呉羽丘陵は神通川の河岸で浸食にさらされた |
氷河期 2万年前数㎞の海退。暴れ川神通川の氾濫で三日月湖が多数出現。湿原 |
縄文海進時 6千年前広大な浅海ができ汽水域が拡大。シジミの増殖
貝塚文化が発達した |
弥生時代の寒冷期
3000年前100mの海退。
沖積平野の形成 |
古墳時代現代の地形に近づく |
古代(奈良平安)これ以降の地形は人工的に作られたものでしょう |
|
30富山の年表
|
旧石器時代
10先土器時代 立野ヶ原遺跡の参考文献2003年度 「後期旧石器時代初頭における日本海沿岸地域の研究」日本海学推進機構
北陸では1~3万年前のナイフ形石器が出土。
瀬戸内系石器文化と
東北系石器文化が立野ヶ原文化に収れんした
富山県の旧石器遺跡 |
先土器時代の文化圏 |
東北地方の縦長剥片石器文化の広がり特に北海道 |
東北~北陸への広がり
杉久保型石器文化圏
リンク
東北系は舟を使い南下寒冷な気候帯に分布した |
瀬戸内系横長剥片石器サヌカイト製石器の分布
西日本系は徒歩で東に拡散した親不知を越えず |
旧石器文化の定義生食可能な植物が少なく動物食糧を求めて移動し続けねばならなかった |
先土器時代の石器と用途 |
石器の様相進化 |
ナイフ形石器 北代中尾
杉谷 古沢A 杉谷A
茶屋町西山 追分茶屋
開ヶ丘狐谷Ⅲ |
斧形石器斧形石器 古沢 北代
寺町草山Ⅱ |
ナイフ形石器 |
ナイフ形石器八木山大野 北代 境野新
杉谷F 開ヶ丘中山 |
境野新遺跡には
瀬戸内系と東北系の石器が混住していた
※1
左端列がサヌカイトの
瀬戸内系石器 |
※2 東北系石器
二種類の文化人が同時に一か所で生活していたということです |
※3 東北系石器 |
※1
瀬戸内系 境野新遺跡
横長剥片 池多東遺跡
東北系石器 境野新遺跡
石核 彫器 彫器剥片
掻器 剥片 石刃 削器 |
※2
石核 野下
チョッパー 杉谷G
石刃 北押川 二番金草
彫器 杉谷67
剥片 杉谷H
尖頭器 杉谷A |
※3
彫器 外輪野Ⅰ
有舌尖頭器・剥片
鏡野Ⅰ 八木山大野
杉谷
剥片 杉谷 古沢A
和田峠産黒曜石
掻器 杉谷F |
|
20縄文時代 下の遮光器土偶は個人所有で寄付された。詳細不明。亀ヶ岡式土器や土偶は広範囲に流通したため富山にも運ばれたのかもしれない。
呪術具 中期 後期~晩期
入口展示遮光器土偶 晩期 |
遮光器土偶についての詳細は官報に掲載240円で見れます |
|
水橋舘町出土の
遮光器土偶 晩期 |
水橋舘町地内とあるが
辻ヶ堂となっている |
詳細不明。江戸期の盗掘によるものかも知れない |
集められた人面付土器
土偶 |
古沢遺跡
後~晩期
(旧石器~中世) |
鏡坂Ⅰ 中期前葉~中葉
5千~4.5千年
長岡八町 後期~晩期
3千~3.5千年
追分茶屋 中期前葉 |
北代 中期中葉~末
杉谷
直坂 旧石器~縄文
北陸最大の土偶は左上の貸出中です。長岡八町遺跡出土です |
御物石器 岐阜~北陸に分布 笹津出土
引用コトバンク
縄文後末~晩期 |
いのりの道具縄文時代後期~晩期の祭祀具 |
三角とう土製品※(杉谷)
笛状土製品※
(古沢、長岡八町)
縄文時代後期~晩期 |
石剣 石棒 石冠
(古沢遺跡、水橋金広・中馬場遺跡)
縄文時代後期~晩期 |
石剣 男性器を模した
祭祀具 古沢遺跡
※
石冠 祭りの道具と考え られる
古沢、水橋金広
中馬場遺跡 |
※石冠は
ここにあるのは北海道式石冠(把手付き磨石)に見えます。
しかし、ここでは男性器を模した呪術具としての石冠を指しています。
もし、北海道式ならオーパーツになるからでしょうか。 |
※笛状土製品は、普通はオカリナ型や、石に貫通孔の未成品をも言う。
今回のものは初見。
※三角壔製品にも未貫通孔が?
壔(とう)は筒の意味
穴開きと穴無しがあった |
石剣は
権威の象徴だと思っていましたが、男性器を象徴した祭祀具でした。
壔とう、つつ |
|
39縄文時代中期の土器編年と土器解説 引用民具館-砺波正倉「松原遺跡の縄文土器」
|
40縄文時代2
|
41縄文時代3 海の幸・山の幸 古沢遺跡
|
特集記事 小竹貝塚1はネット上の資料を使って全貌を明らかにし、小竹貝塚2は資料館で公開されている写真を並べています。
50小竹貝塚1
縄文時代前期中葉 (6000~5500年前) の遺跡500年間営まれた
富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所のブログでは
「約6,750~5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された」とある。
国立科学博物館ホットニュースでは
約6,800~5,500年前(縄文時代前期)の遺跡で、貝塚や住居の跡も見つかっています。
縄文土器は、北陸・近畿・関東・東北で作られる土器も見られ、中には漆塗りが施された土器も出土しています。
日本海側最大級の貝層。国内最多となる縄文時代前期埋葬人骨。県内最古となる低地に立地する竪穴建物群。
国内最古のイノシシ形土製品。県内最古の丸木舟・繊維製品。/洪水堆積層から弥生~古墳時代の遺物が出土 小竹貝塚発掘調査報告
50概要
|
51小竹貝塚の土器形式 縄文時代前期の土器編年 引用富山県埋蔵文化財センター常設展小竹貝塚
小竹貝塚の土器形式は朝日C式、福浦上層式
蜆ヶ森式です |
小竹貝塚に影響を与えた文化文物
大木4式、諸磯式獣面把手、北白川下層式
珪質頁岩、黒曜石、下呂石、横山真脇石、オオツタノハガイ |
前期の土器
極楽寺式土器(立山町)
朝日C式土器 |
前期の土器 |
前期の土器
尖底土器から平底土器への移行期
文様は羽状縄文、各種縄文、竹管文、粘土紐貼付文
前期後半から浅鉢が登場する |
極楽寺式土器
縄文時代 前期初頭
砲弾形の尖底土器が多い。口縁は平らな平口縁と波状口縁がある。
文様は羽状縄文や条痕文が施文されるものが多い |
朝日C式土器前期中葉
胴部に羽状縄文。口縁部に多段施文のコンパス文
口縁部に平行する沈線文、連続した爪形文
器形は胴上部でくびれ、口縁部が開くものが多い
平口縁と4単位波状口 |
蜆ヶ森式土器前期後葉
細粘土紐貼付の細隆起線文やシワ状微隆起線文を、口縁部と平行に数段施文し、胴部は羽状縄文が施文されるものが多い。器形は口縁部が外反し、胴は円筒形が一般的 |
福浦上層式 前期後葉口縁部に鋸歯状印刻文を施し、その下に半隆起線文を渦巻状や波状にして埋め、胴部には羽状縄文や斜縄文を施す。器形は口縁部が直線的に外へ開き円筒と胴部が膨らむものがある。平口縁と波状口縁があり口縁部に耳状突起をもつもの多い |
朝日下層式 前期末葉斜縄文を地文とする器面にソーメン状の細い粘土紐を貼付けるのを特徴とする。器形は胴が円筒形。口縁部が上部で内湾するものと、口縁上部がわずから外反するものとがある |
小竹貝塚の他の土器
福浦下層式 前期中葉
北白川下層2・3式(関西)
諸磯b式(関東) 引用 |
漆塗り土器
引用国立科学博物館ホットニュース
人骨ばかりが注目され、他は着目されてません |
|
51北陸の縄文土器編年表 引用縄文土器のAMS14C年代と較正年代 - 日本文化財科学会
北陸・中部高地・関東の土器編年表 |
縄文前期
小竹貝塚時代の編年
人口が少なく、富山・石川は同一文化だった |
縄文中期
中期に地域差が生じる
新保・新崎・国府など石川県側の文化が隆盛 |
縄文後期
気候変動で人口減少や移動で文化も減少。
同一になる。 |
縄文晩期寒冷期の北陸は人口・文化の減少 |
晩期寒冷期には
多くの北陸人が東海、
関西、瀬戸内、四国に
移住した |
|
52小竹貝塚の土器1 引用転載小竹貝塚発掘調査報告
207朝日C式~福浦下層式 前期中~後葉
494朝日C式 前期中葉
573朝日C式 (北白川下層Ⅱ) 前期中葉
666福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉 |
|
271 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
291 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
293 蜆ヶ森Ⅰ(諸磯b) 前期後葉
325 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉 |
|
194
福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
510
福浦下層式 前期後葉
559 ,638 ,655 ,776
福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉 |
|
797,811,818,823,836,福浦上層式 前期末葉 |
1463,1479
朝日C(黒浜) 前期中葉
1499
朝日Cから福浦下層 前期中~後葉
1679,2159
朝日C 前期中葉 |
|
1424
朝日C(北白川下層Ⅱa) 前期中葉
1444,1451,1458,1461
朝日C~福浦下層 前期中葉~後葉 |
|
1539 朝日C 前期中葉
1712 朝日C~福浦下層式 前期中~後葉
1717 朝日C(布目~大湊) 前期前~中葉
1733,2531
朝日C~福浦下層式 前期中~後葉
2550 福浦下層~蜆ヶ森Ⅰ式 前期後葉 |
|
1533,1565
福浦下層 (諸磯a) 前期後葉
1566 福浦下層式 前期後葉
2036 朝日C(根小屋) 前期中葉
2167,2189
福浦下層式 (諸磯a) 前期後葉
2288 朝日C~福浦下層式 前期中~後葉 |
|
1588 福浦下層式(刈羽古) 前期後葉
1602 福浦下層式(諸磯b古) 前期後葉
2263 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ(北白川下層Ⅱa)
前期後葉
2269 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ(北白川下層Ⅱc)
前期後葉
2839 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉 |
|
1663 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
1702,1983,2296
朝日C式~福浦下層式 前期中~後葉
2768 蜆ヶ森Ⅰ(刈羽新) 前期後葉
2900 蜆ヶ森Ⅱ~福浦上層式 前期末葉 |
|
2351,2358 蜆ヶ森Ⅱ式 前期末葉 2379 福浦上層 前期末葉
2894 蜆ヶ森Ⅱ 前期末葉
2913 蜆ヶ森Ⅱ(諸磯c) 前期末葉
2927 朝日C(有尾) 前期中葉
2963 福浦上層 前期末葉 |
|
漆塗り土器
赤彩土器は福浦下層式であるとの記述を見ましたが、そのHPが見つかりません。
写真は赤彩土器や塗料容器です |
赤彩土器
福浦下層式(諸磯b古~中) 前期後葉 |
蜆ヶ森Ⅰ~Ⅱ(諸磯b新~c) 前期後~末葉 |
591福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ
獣面突起 イノシシ 前期後葉
728福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ
台形状突起 前期後葉
2662はイノシシ形土製品 |
|
|
数字は小竹貝塚発掘調査報告第一分冊.の中の土器番号です。
|
ただし報告書は文書内検索ができません。
解説文、土器の図、写真、一覧表はいちいちめくってみなければなりません。頑張って見てください。 |
ネット上に北陸地方の土器や土器形式がほとんど皆無なので、検索されることを願って、写真や形式名を記載しました。
|
53石器 膨大な種類と量の石器製品が出土しています。小竹貝塚発掘調査報告には
磨製石斧・彫器 |
掻器・石鏃・石錐等 |
ヒスイ製垂飾未成品 |
装身具 玦状耳飾管状石製品等 |
骨角器 針 釣針ヤス・銛 3本組ヤス
組合せ式釣針なし北方系 |
髪飾、笄(コウガイ)、熊爪の垂飾、カンザシ |
|
54木器・骨角器・丸木舟など
丸木舟の先端の突起は何?他に例がない |
釣針に半島系オサンニ式なし 北方系 |
ヤス三叉ヤス鮭とり用
北方系漁具と思います |
髪飾り |
熊爪の装飾品 |
南方系オオツタノハガイの貝輪。南方人が居住 |
|
56木器と丸木舟
斧柄 ヤブツバキ? |
小型弓 イヌ ガヤ? |
丸木舟先端 |
小型弓は火起こし土具
ではないでしょうか。
火切弓 |
熊爪の垂飾は初めて見ました。 |
オオツタノハ貝の腕輪
伊豆諸島か九州が原産地です。
伊豆産黒曜石がないのできっと九州産。
縄文前期から既に九州と日本海側を結ぶ貝の道があったようです。 |
|
57小竹貝塚の人骨 低湿地遺跡であるため、保存状態の良い人骨が91体も出土し、それによって注目されています。 その後100体と言われています。
住居・貝塚・墓域・廃棄場住居域周辺で全て処理 |
頭骨の比率をデータベースと比較して近似データを検索していった |
小竹人のルーツ |
あくまで1個体での結果
小竹にはスンダランド起源の南方系と
それとは似付かない東南アジア系でアムール川経由の北方系がいた。
縄文人のミトコンドリアDNAは現代日本人とは全く異なる人々だった |
住居跡も出土しているが全く取り上げられることもなく、
口の端に上ることもない。
引用北代縄文館縄文時代人骨の分析 |
|
小竹貝塚の縄文人について 北方系と南方系の縄文人が狭い村で一緒に暮らしていた遺跡 全て 引用転記 Toyama Just Now
|
小竹貝塚は、約6,750~5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。
遺跡範囲は狭く、東西約150m、南北約200m。埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。
貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。
墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。 (その後約100体であることが分かった。)
そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。
死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。
身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。
女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。
国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、
小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、
東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。
縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。
人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。 |
(若い男性の死亡率の高さは戦争によるものと考えられる 私見)
|
61小竹貝塚2
小竹貝塚の遺物 |
土器(前期)
|
石器石錐 小型磨製石斧 |
石錘・石斧・磨石・石皿 |
動物遺体
イルカ骨 動物骨 骨製品 |
植物遺体 クルミ モモ |
貝類 |
クジラ骨 |
イルカ 鹿 犬(埋葬されたものと散逸したものとがある) ※ |
堅果類 貝類 |
歯牙製装飾品 釣針
刺突具ヤス 髪針 |
女性頭骨の復元 |
|
|
抜歯てなく埋葬後に壊れたもの |
|
石槍 石匙 磨製石斧
石鏃 石錐 彫器
異形石器 玦状耳飾り |
※犬は、南方系は埋葬し、北方系は食べる。ここでは両形式で出土した。
両系統人が同居していたが、食生活に違いはあったようだ。
別民族との同居通婚はよいことだったでしょう。 |
|
70富山市の弥生時代
72ビギニング
|
弥生時代前三世紀に弥生時代開始。銅鐸文化は福井まで。富山未発見 |
管玉・勾玉 |
豊田・豊田城遺跡
太形蛤刃石斧 扁平片刃石斧 石包丁 穂摘具状石器 |
弥生土器 甕 |
弥生土器
古沢A遺跡 |
呉羽野田遺跡
江代割遺跡 |
|
74稲作農耕
稲づくり未だ品質の安定しない稲穂と穂摘具石包丁 |
銅鐸絵と稲作農耕 |
江代割遺跡の弥生土器 |
器台 |
壺 器台 |
|
76弥生時代の墓制 弥生時代の墓制についての記述は大変珍しい。勉強になります。
弥生時代の墓 渡来人は木棺・甕棺葬
更に支石墓・箱式石棺墓・木棺墓など出自の墓制を行った。 |
弥生後期の墓制全国の地域墓制
半島の出自を表している
半島のどこから列島のどこに来たかがわかるはず |
底部穿孔土器(甕棺)
ちょうちょう塚 |
埋葬用の甕
二次葬ですね |
底部穿孔土器 埋葬用
杉谷A遺跡 |
朱塗長頚壺 杉谷A遺跡 |
杉谷A遺跡発掘 |
方形周溝墓の模型
杉谷A遺跡 |
|
杉谷A遺跡 方形周溝墓副葬品 |
|
銅鏃 ガラス玉
やりがんな 半島渡来品 |
素環頭太刀 刀子 |
|
土師器
葬送儀礼用穿孔土器 |
水橋金尾遺跡 |
打出遺跡 |
|
鉄器
鉄鏃 ノミ 刀子 |
砥石 |
弥生の墓
全国的には
前期~中期
・方形周溝墓
複数の被葬者の家族墓
・方形台状墓
後期
・大型墳丘墓-首長墓 |
富山平野でも
・呉羽丘陵北部に
百塚・百塚住吉遺跡
・呉羽丘陵南部
杉谷遺跡
で、方形周溝墓・方形台上墓が造営された |
その他に
円形周溝墓
四隅突出型墳丘墓
甕棺墓
石棺墓
台状墓 など |
|
|
78弥生時代後期 2世紀後半
|
80富山市の古墳時代
82前期 前方後方墳の時代
古墳時代
弥生時代の四隅突出型墳丘墓は、出雲や高句麗の墓制でその出自の支配者だった |
百塚住吉遺跡古墳群古墳時代前期には
東海地方の墓制⇒ |
富山の古墳編年 |
前方後方墳の巨大古墳が造営され、三世紀中期から戦乱と、新たな武力集団の台頭が伺える |
前方後方墳は邪馬台国と対立する狗奴国の墓制であり、滋賀県以東にあったと言われている |
日本海側地方には実に長い間半島からの渡来が続き、更にそこから東北や信州・ |
関東へと移住し、各地にその風習や食習慣、半島の国名を冠した神社などが多数あった。現在改名済 |
大塚・千坊山遺跡群羽根丘陵、婦中町にある遺跡群 |
|
この辺りに膨大な数の古墳があり、長く中心地であったようだ |
富山市の古墳時代は羽根丘陵から始まった |
|
弥生土器
富崎赤坂遺跡 |
|
|
84中期 円墳の時代
|
古墳時代中期富山県東部の白岩川流域が中心地に
稚児塚古墳の位置
円墳が主流になった。 |
これはまた、出自の違う支配者になったようだ。
交通や物資集散の経路が変わったことを示す |
土師器 古沢A遺跡 |
古沢A遺跡 境野新遺跡 |
土師器 境野新遺跡 |
土師器 壺 鉢 砥石
境野新遺跡 |
高坏 境野新遺跡 |
古墳時代中期(約1600年前)には、
全長約41mの前方後円墳である古沢塚山古墳が呉羽丘陵南部(標高86m・平野との比高58m)に築かれます。
|
この時期には境野新遺跡など、いくつかの集落が呉羽丘陵西側に営まれます。
考古学から
見た富山の歴史
古墳時代から引用 |
富山県の遺跡より引用
古墳時代
古墳が造られた時代
古墳の形
農民の暮らし
玉つくりの遺跡
窯で焼く土器 |
|
|
86古墳 後期・古墳終末期
|
古墳時代後期・終末期古墳が小型化
横穴墓が普及
同一墓壙に連続埋葬 |
横穴墓 |
副葬用の須恵器の登場 |
はそう(酒器)
坏の身と蓋 |
有蓋高坏
番神山横穴墓 |
頭蓋骨と鉄刀 |
横穴墓群の写真 |
|
|
宮崎県では高句麗の武人 (傭兵)の墓と考えられているが、
北陸ではもっと一般化して身分が中層の者までが埋葬したと言っている |
|
|
90古代
91奈良時代
奈良時代律令制の時代に入る。
呉羽丘陵で須恵器窯が生産開始 |
須恵器窯 |
上面視登り窯による高温焼成 |
側面視 |
|
栃谷南遺跡1250年前 |
平瓦、土馬 刻書土器 |
|
瓦塔 |
|
|
|
|
94平安時代
|
平安時代特権階級は邸宅に住み庶民は竪穴住居 |
権力者の邸宅 |
|
斎串いぐしや人形ひとがた等呪具の出現
豊田大塚・中吉遺跡
花ノ木C遺跡 |
日用品 土器 |
大甕 みずがめか |
|