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 北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて23   2014.05.24(土)  2015.01.06再取材しました

  富山市民俗民芸村 考古資料館 富山県富山市安養坊47-2 076-433-8634 休館日 年末年始
    (富山市考古資料館)

  交通 三つの方法があり、いずれも便利かと思います。
       ①富山駅観光案内所で無料レンタサイクルを借りる 降雨降雪時以外は多くの人が利用可能で行きたい所へ行けます。
                                       ※ただし、きちんとマナーを守りましょう。

       ②富山駅南のニコレンで予約して格安で借りる。雨天・降雪時に有効。※降雪期でも道路は除雪してあり大丈夫。

       ③市内周遊バスを利用する。一時間に一本ですが、観覧時間を考えると丁度良い時間です。
         民俗民芸村の交通案内  「市内周遊ぐるっとバス」 「富山地鉄バス」の詳細ページ。一回200円1日フリー乗車券:大人700円


  見所 北陸最大の土偶  富山の他の地域にない土器が展示されています
       小さな外観ですが驚くほどたくさんの展示物があり、わかりやすく陳列されています。素晴らしかったです。ぜひ登館してください。

  素晴らしい点
       富山県は各遺跡の調査報告書がネット上で公開されている。
       縄文時代の土器編年 古墳時代の古墳編年など、他地域では決して公開されない資料が見れることです。

       これは、石川・福井両県の多くの展示館での「一般庶民を蚊帳の外に置く」やり方とは正反対で素晴らしいことです。
       誰でも考古学に興味を持ち、老後の暇つぶしができることは大事なことですね。東京の国立系博物館では写真撮影も自由です


  特集小竹貝塚  最後ですので、小竹遺跡についてわかることをまとめました
      縄文中期の土器編年  貴重な資料をおかりします
      前方後円墳と前方後方墳



01外観
30富山の年表
10先土器時代

20縄文時代
39縄文時代中期の土器編年
40縄文時代2
41縄文時代3 海の幸・山の幸  

50小竹貝塚1 (特集記事)
50概要
51小竹貝塚の土器形式
 縄文時代前期の土器編年
51北陸の縄文土器編年表
52小竹貝塚の土器1
53石器
54木器・骨角器・丸木舟など
56木器と丸木舟
57小竹貝塚の人骨
 小竹貝塚の縄文人について


61小竹貝塚2

70富山市の弥生時代
72ビギニング
74稲作農耕
76弥生時代の墓制
78弥生時代後期 2世紀後半
79前方後円墳と前方後方墳

80富山市の古墳時代
82前期  前方後方墳
84中期  円墳
86後期  古墳終末期

90古代
91奈良時代
94平安時代


 01外観
   呉羽丘陵は富山の文化施設が集まるとこです。 民俗民芸村は丘陵の東側に。西側には県立埋文や北代縄文館や図書館等の文化施設がある。
   また、この丘陵には旧石器~縄文~弥生~古墳などの遺跡が多数集まっているところでもある。
考古資料館富山市民俗民芸村施設は全て和風建築で統一 設計の都合上入口は開けっ放し。これはあかんやろ
民俗民芸村の場所富山駅の観光案内所で自転車借りて20分もかからない 民族民芸村の地図 イラスト地図撮影不可の館もあり
引用民俗民芸村
施設一覧
 民芸館
 民芸合掌館
 陶芸館
 民俗資料館
 売薬資料館
 考古資料館
 篁牛人記念美術館
 茶室円山庵
 とやま土人形館
富山市の遺跡と地形の変遷呉羽丘陵は神通川の河岸で浸食にさらされた 氷河期 2万年前数㎞の海退。暴れ川神通川の氾濫で三日月湖が多数出現。湿原 縄文海進時 6千年前広大な浅海ができ汽水域が拡大。シジミの増殖
貝塚文化が発達した
弥生時代の寒冷期
3000年前100mの海退。
沖積平野の形成
古墳時代現代の地形に近づく 古代(奈良平安)これ以降の地形は人工的に作られたものでしょう
 30富山の年表
旧石器時代 3万年前 縄文時代 6千年前 縄文時代後期 3200年前 弥生時代 2千年前 弥生終末期 1800年前 古墳時代 1500年前
奈良時代 1300年前 平安時代 千年前 室町時代 600年前 桃山時代 400年前 先土器時代の遺跡
  
 境野新遺
 向野池形跡
 北代遺跡
 鏡坂Ⅰ遺跡
縄文時代草創期の遺跡
 八木山大野遺跡
縄文時代前期中葉遺跡
 蜆ヶ貝塚
 
 平岡
縄文時代中期の遺跡
 長山遺跡(土偶のムラ)
 開ケ丘中山遺跡
 開ケ丘狐谷Ⅲ遺跡
 鏡坂Ⅰ遺跡
 東黒牧上
 北代遺跡
縄文時代後期晩期
 古沢遺跡
 水橋荒町・辻ケ堂遺跡
 長岡八町遺跡(土偶)
 岩瀬天神遺跡





 旧石器時代

 10先土器時代  立野ヶ原遺跡の参考文献2003年度 「後期旧石器時代初頭における日本海沿岸地域の研究」日本海学推進機構
北陸では1~3万年前のナイフ形石器が出土。
瀬戸内系石器文化
東北系石器文化立野ヶ原文化収れんした
富山県の旧石器遺跡
先土器時代の文化圏 東北地方の縦長剥片石器文化の広がり特に北海道 東北~北陸への広がり
杉久保型石器文化圏
リンク
東北系は舟を使い南下寒冷な気候帯に分布した
瀬戸内系横長剥片石器サヌカイト製石器の分布
西日本系は徒歩で東に拡散した親不知を越えず
旧石器文化の定義生食可能な植物が少なく動物食糧を求めて移動し続けねばならなかった
先土器時代の石器と用途 石器の様相進化
ナイフ形石器 北代中尾
 杉谷 古沢A 杉谷A
 茶屋町西山 追分茶屋
 開ヶ丘狐谷Ⅲ
斧形石器斧形石器 古沢 北代
       寺町草山Ⅱ
ナイフ形石器 ナイフ形石器八木山大野 北代 境野新
杉谷F 開ヶ丘中山
境野新遺跡には
瀬戸内系と東北系の石器が混住していた

※1
左端列がサヌカイトの
瀬戸内系石器
※2 東北系石器
二種類の文化人が同時に一か所で生活していたということです
※3
東北系石器
※1
瀬戸内系 境野新遺跡
 横長剥片 池多東遺跡

東北系石器 境野新遺跡
石核 彫器 彫器剥片
掻器 剥片 石刃 削器
※2
石核 野下

チョッパー 杉谷G

石刃 北押川 二番金草

彫器 杉谷67

剥片 杉谷H

尖頭器 杉谷A
※3
彫器 外輪野Ⅰ

有舌尖頭器・剥片
 鏡野Ⅰ 八木山大野
 杉谷

剥片 杉谷 古沢A
  和田峠産黒曜石

掻器 杉谷F






 20縄文時代  下の遮光器土偶は個人所有で寄付された。詳細不明。亀ヶ岡式土器や土偶は広範囲に流通したため富山にも運ばれたのかもしれない。

            呪術具 中期  後期~晩期

入口展示遮光器土偶 晩期  遮光器土偶についての詳細は官報に掲載240円で見れます 水橋舘町出土の
遮光器土偶 晩期
水橋舘町地内とあるが
辻ヶ堂とな
っている
詳細不明。江戸期の盗掘によるものかも知れない
集められた人面付土器
土偶
古沢遺跡
後~晩期
(旧石器~中世)
鏡坂Ⅰ 中期前葉~中葉
      5千~4.5千年
長岡八町 後期~晩期
       3千~3.5千年
追分茶屋 中期前葉

北代 中期中葉~末
杉谷
直坂 旧石器~縄文
北陸最大の土偶は左上の貸出中です。長岡八町遺跡出土です
御物石器 岐阜~北陸に分布 笹津出土
引用コトバンク

縄文後末~晩期
いのりの道具縄文時代後期~晩期の祭祀具

三角とう土製品※(杉谷)

笛状土製品
   (古沢、長岡八町)
縄文時代後期~晩期
石剣 石棒 石冠
(古沢遺跡、水橋金広・中馬場遺跡)

縄文時代後期~晩期
石剣 男性器を模した
    祭祀具 古沢遺跡


石冠 祭りの道具と考え    られる
    古沢、水橋金広
    中馬場遺跡
※石冠は
 ここにあるのは北海道式石冠(把手付き磨石)に見えます。
 しかし、ここでは男性器を模した呪術具としての石冠を指しています。
 もし、北海道式ならオーパーツになるからでしょうか。
笛状土製品は、普通はオカリナ型や、石に貫通孔の未成品をも言う。
 今回のものは初見。

※三角壔製品にも未貫通孔が?
壔(とう)は筒の意味
穴開きと穴無しがあった
石剣は
 権威の象徴だと思っていましたが、男性器を象徴した祭祀具でした。

とう、つつ



 39縄文時代中期の土器編年と土器解説  引用民具館-砺波正倉「松原遺跡の縄文土器」
中期前葉~中葉新崎式~天神山式 中期前葉 新崎式
中期中葉 天神山式 中期中葉~後葉国府式~古串田新式 中期中葉 国府式 中期後葉 古串田新式
 民具館-砺波正倉「松原遺跡の縄文土器」は 縄文中期の富山での土器編年と、各土器形式の大変詳しい解説書です



 40縄文時代2
パネルの後ろに縄文の日常道具が展示されている 開ヶ丘狐谷Ⅲ遺跡
中期前葉後半~中葉
この吊手土器様のものは何でしょうか。報告書に載っていない。 池多南遺跡 中期前葉
開ヶ丘中山Ⅲ 追分茶屋
北押川遺跡 前期後葉
古沢遺跡 古沢A遺跡 縄文晩期
  注口土器
  環状木柱列も出土
 杉谷遺跡  土偶

吉作遺跡の紹介文に
多様な杉谷遺跡の一端が書かれています
願一読
杉谷 台付土器脚部
古沢 棒状土製品

鏡坂Ⅰ遺跡
人かカエルの手の付いた

有孔鍔付土器
中期前葉~中葉
開ヶ丘狐谷Ⅲ遺跡 水橋荒町・辻ヶ堂遺跡
(先出の遮光器土偶の出土した遺跡であると考えられます)



 41縄文時代3 海の幸・山の幸 古沢遺跡
縄文人と山の幸
古沢遺跡
植物食が食生活の大半を占めていた縄文生活の大切な食糧
堅果類の貯蔵穴
縄文時代後期3600年前
ドングリとトチの実
クルミ
 
※ 放生津潟に面した小竹・蜆ヶ森の距離は800m。他の遺跡も似たような距離にある。
海の幸 蜆ヶ森貝塚前期中葉 800m先の
小竹遺跡とほぼ同時期

ヤマトシジミの貝塚
蜆ヶ森式土器 ⇒蜆ヶ森・小竹・北代など湖沼周辺と、山麓の集落とがあり、前者の膨大な貝殻の量は
 貝加工を生業にしていたのではないかと、思わせるほどである。
 突然消滅するのは、海退により加工の立地が困難となったからかもね。
 上図と重ねると遺跡は呉羽丘陵の山裾に分布する

  放生津潟周辺の遺跡は近接し過ぎており、陸生食糧や燃料、植物材料等を入手するのに大変競合したのではないかと思います。

  シジミを煮るための燃料が大量に必要だったでしょうし、植物食料は必要不可欠です。農耕でもしない限り、入手できません。
  ムラとムラの距離は、一人の猟師が罠猟に最低必要な1㎞四方を割り込んでいます。

  平坦な潟沼周辺では木材資源の入手は困難です。どのように入手したのでしょう。
  シジミは煮て殻から外し、乾燥して保存し、また交易品にしました。各集落でシジミ加工品を作るとあっという間に周辺ははげ山になるでしょう。








  特集記事 小竹貝塚1はネット上の資料を使って全貌を明らかにし、小竹貝塚2は資料館で公開されている写真を並べています。



 50小竹貝塚1
     縄文時代前期中葉 (6000~5500年前) の遺跡500年間営まれた

     富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所のブログでは
     「約6,750~5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された」とある。

     国立科学博物館ホットニュースでは
     約6,800~5,500年前(縄文時代前期)の遺跡で、貝塚や住居の跡も見つかっています。
     縄文土器は、北陸・近畿・関東・東北で作られる土器も見られ、中には漆塗りが施された土器も出土しています。


  日本海側最大級の貝層。国内最多となる縄文時代前期埋葬人骨。県内最古となる低地に立地する竪穴建物群。
  国内最古のイノシシ形土製品。県内最古の丸木舟・繊維製品。/洪水堆積層から弥生~古墳時代の遺物が出土 小竹貝塚発掘調査報告



 50概要
小竹貝塚概要縄文時代前期後半中心
6千~5千年前
抱石葬の人骨2体
頭蓋骨出土状況もう1体は頭蓋骨だけ
重葬のため前の骨が片付けられたのでしょうか
ほぼ全て重葬の遺跡です
蜆ヶ森貝塚と同時期の
淡水産貝の貝塚  
蜆ヶ森との距離800m海獣やイルカ類などを含む海洋漁労が生業
潟の素水深1~2m
栄養豊富な汽水域
大量の魚が入ってくる
丸木舟で漁をした
遺跡の概要 食料動物の種類
猪と鹿以外は臭くて食えない(縄文人の文化力)

 縄文海進で平野が水没してできた、広大で穏やかな放生津潟の浅海は、淡水産ヤマトシジミの無尽蔵の宝庫でした。 小竹貝塚の概要 概要2



 51小竹貝塚の土器形式  縄文時代前期の土器編年     引用富山県埋蔵文化財センター常設展小竹貝塚

小竹貝塚の土器形式は朝日C式福浦上層式
蜆ヶ森式です

小竹貝塚に影響を与えた文化文物
大木4式、諸磯式獣面把手、北白川下層式
珪質頁岩、黒曜石、下呂石、横山真脇石、オオツタノハガイ

前期の土器
極楽寺式土器(立山町)
朝日C式土器

前期の土器
前期の土器
尖底土器から平底土器への移行期
文様は羽状縄文、各種縄文、竹管文、粘土紐貼付文
前期後半から浅鉢が登場する
極楽寺式土器
縄文時代 前期初頭
砲弾形の尖底土器が多い。口縁は平らな平口縁と波状口縁がある。
文様は羽状縄文や条痕文が施文されるものが多い
朝日C式土器前期中葉
胴部に羽状縄文。口縁部に多段施文のコンパス文
口縁部に平行する沈線文、連続した爪形文
器形は胴上部でくびれ、口縁部が開くものが多い
平口縁と4単位波状口
蜆ヶ森式土器前期後葉
細粘土紐貼付の細隆起線文やシワ状微隆起線文を、口縁部と平行に数段施文し、胴部は羽状縄文が施文されるものが多い。器形は口縁部が外反し、胴は円筒形が一般的
福浦上層式 前期後葉口縁部に鋸歯状印刻文を施し、その下に半隆起線文を渦巻状や波状にして埋め、胴部には羽状縄文や斜縄文を施す。器形は口縁部が直線的に外へ開き円筒と胴部が膨らむものがある。平口縁と波状口縁があり口縁部に耳状突起をもつもの多い 朝日下層式 前期末葉斜縄文を地文とする器面にソーメン状の細い粘土紐を貼付けるのを特徴とする。器形は胴が円筒形。口縁部が上部で内湾するものと、口縁上部がわずから外反するものとがある 小竹貝塚の他の土器
福浦下層式 前期中葉
北白川下2・3式(関西)
諸磯b式(関東) 引用
漆塗り土器
引用国立科学博物館ホットニュース

人骨ばかりが注目され、他は着目されてません
 

 51北陸の縄文土器編年表  引用縄文土器のAMS14C年代と較正年代 - 日本文化財科学会

北陸・中部高地・関東の土器編年表
縄文前期

 小竹貝塚時代の編年
人口が少なく、富山・石川は同一文化だった
縄文中期
中期に地域差が生じる
新保・新崎・国府など石川県側の文化が隆盛
縄文後期
気候変動で人口減少や移動で文化も減少。
同一になる。
縄文晩期寒冷期の北陸は人口・文化の減少  晩期寒冷期には
多くの北陸人が東海、
関西、瀬戸内、四国に
移住した


 52小竹貝塚の土器1   引用転載小竹貝塚発掘調査報告



207朝日C式~福浦下層式 前期中~後葉
494朝日C式 前期中葉
573朝日C式 (北白川下層Ⅱ) 前期中葉
666福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉

271 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
291 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
293 蜆ヶ森Ⅰ(諸磯b)  前期後葉
325 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉

194
 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
510
 福浦下層式 前期後葉
559 ,638 ,655 ,776
 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉


797,811,818,823,836,福浦上層式 前期末葉

1463,1479
  朝日C(黒浜) 前期中葉
1499
  朝日Cから福浦下層 前期中~後葉
1679,2159
  朝日C 前期中葉
 
1424
  朝日C(北白川下層Ⅱa)  前期中葉
1444,1451,1458,1461
  朝日C~福浦下層 前期中葉~後葉

1539  朝日C 前期中葉
1712  朝日C~福浦下層式 前期中~後葉
1717  朝日C(布目~大湊) 前期前~中葉
1733,2531
  朝日C~福浦下層式 前期中~後葉
2550  福浦下層~蜆ヶ森Ⅰ式  前期後葉

1533,1565
  福浦下層 (諸磯a) 前期後葉
1566  福浦下層式 前期後葉
2036  朝日C(根小屋) 前期中葉
2167,2189
  福浦下層式 (諸磯a) 前期後葉
2288  朝日C~福浦下層式 前期中~後葉

1588 福浦下層式(刈羽古) 前期後葉
1602 福浦下層式(諸磯b古) 前期後葉
2263 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ(北白川下層Ⅱa)
    前期後葉
2269 福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ(北白川下層Ⅱc)
    前期後葉
2839 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉

1663 蜆ヶ森Ⅰ 前期後葉
1702,1983,2296
 朝日C式~福浦下層式 前期中~後葉
2768 蜆ヶ森Ⅰ(刈羽新) 前期後葉
2900 蜆ヶ森Ⅱ~福浦上層式  前期末葉
 
2351,2358 蜆ヶ森Ⅱ式 前期末葉
2379 福浦上層 前期末葉
2894 蜆ヶ森Ⅱ 前期末葉
2913 蜆ヶ森Ⅱ(諸磯c) 前期末葉
2927 朝日C(有尾) 前期中葉
2963 福浦上層 前期末葉
 漆塗り土器

 赤彩土器は福浦下層式であるとの記述を見ましたが、そのHPが見つかりません。
 写真は赤彩土器や塗料容器です
    赤彩土器

福浦下層式(諸磯b古~中) 前期後葉

蜆ヶ森Ⅰ~Ⅱ(諸磯b新~c) 前期後~末葉

591福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ
   獣面突起 イノシシ 前期後葉
728福浦下層式~蜆ヶ森Ⅰ
   台形状突起 前期後葉
2662はイノシシ形土製品
   数字は小竹貝塚発掘調査報告第一分冊.の中の土器番号です。
 ただし報告書は文書内検索ができません。
解説文、土器の図、写真、一覧表はいちいちめくってみなければなりません。頑張って見てください。



 ネット上に北陸地方の土器や土器形式がほとんど皆無なので、検索されることを願って、写真や形式名を記載しました。 


 53石器 膨大な種類と量の石器製品が出土しています。小竹貝塚発掘調査報告には
磨製石斧・彫器 掻器・石鏃・石錐等 ヒスイ製垂飾未成品 装身具 玦状耳飾管状石製品等 骨角器 針 釣針ヤス・銛  3本組ヤス
組合せ式釣針なし北方系
髪飾、笄(コウガイ)、熊爪の垂飾、カンザシ

 54木器・骨角器・丸木舟など

丸木舟の先端の突起は何?他に例がない
釣針に半島系オサンニ式なし 北方系 ヤス三叉ヤス鮭とり用
北方系漁具と思います

髪飾り

熊爪の装飾品

南方系オオツタノハガイの貝輪。南方人が居住
 56木器と丸木舟

斧柄 ヤブツバキ?

小型弓 イヌ ガヤ?

丸木舟先端
 小型弓は火起こし土具
ではないでしょうか。
 火切弓
 熊爪の垂飾は初めて見ました。  オオツタノハ貝の腕輪
伊豆諸島か九州が原産地です。
 伊豆産黒曜石がないのできっと九州産。

 縄文前期から既に九州と日本海側を結ぶ貝の道があったようです。



 57小竹貝塚の人骨  低湿地遺跡であるため、保存状態の良い人骨が91体も出土し、それによって注目されています。 その後100体と言われています。
住居・貝塚・墓域・廃棄場住居域周辺で全て処理 頭骨の比率をデータベースと比較して近似データを検索していった 小竹人のルーツ あくまで1個体での結果
 小竹にはスンダランド起源の南方系と
 それとは似付かない東南アジア系でアムール川経由の北方系がいた。

 縄文人のミトコンドリアDNAは現代日本人とは全く異なる人々だった
住居跡も出土しているが全く取り上げられることもなく、
口の端に上ることもない。


引用北代縄文館縄文時代人骨の分析

  小竹貝塚の縄文人について   北方系と南方系の縄文人が狭い村で一緒に暮らしていた遺跡 全て 引用転記Toyama Just Now

小竹貝塚は約6,750~5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。
遺跡範囲は狭く、東西約150m、南北約200m。埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。
貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。

墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。  (その後約100体であることが分かった。)
そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。

死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。
身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。
女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。

国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、
小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、
東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。

縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。
人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。

       (若い男性の死亡率の高さは戦争によるものと考えられる  私見)


 61小竹貝塚2
小竹貝塚の遺物 土器(前期)
石器石錐 小型磨製石斧
石錘・石斧・磨石・石皿
動物遺体
イルカ骨 動物骨 骨製品
植物遺体 クルミ モモ
貝類 クジラ骨 イルカ 鹿 犬(埋葬されたものと散逸したものとがある) ※ 堅果類 貝類 歯牙製装飾品 釣針
刺突具ヤス 髪針
女性頭骨の復元
抜歯てなく埋葬後に壊れたもの 石槍 石匙 磨製石斧
石鏃 石錐 彫器
異形石器 玦状耳飾り
※犬は、南方系は埋葬し、北方系は食べる。ここでは両形式で出土した。

 両系統人が同居していたが、食生活に違いはあったようだ。
 別民族との同居通婚はよいことだったでしょう。






 70富山市の弥生時代





 72ビギニング
弥生時代前三世紀に弥生時代開始。銅鐸文化は福井まで。富山未発見
管玉・勾玉
豊田・豊田城遺跡
太形蛤刃石斧 扁平片刃石斧 石包丁 穂摘具状石器

弥生土器 甕
弥生土器
古沢A遺跡
呉羽野田遺跡
 江代割遺跡
 74稲作農耕
稲づくり未だ品質の安定しない稲穂と穂摘具石包丁
銅鐸絵と稲作農耕
江代割遺跡の弥生土器 器台 壺 器台


 76弥生時代の墓制  弥生時代の墓制についての記述は大変珍しい。勉強になります。
  弥生時代の墓 渡来人は木棺・甕棺葬
更に支石墓・箱式石棺墓・木棺墓など出自の墓制を行った。 
弥生後期の墓制全国の地域墓制
半島の出自を表している
半島のどこから列島のどこに来たかがわかるはず
底部穿孔土器(甕棺)
ちょうちょう塚
埋葬用の甕
二次葬ですね

底部穿孔土器 埋葬用
杉谷A遺跡

朱塗長頚壺 杉谷A遺跡
杉谷A遺跡発掘 方形周溝墓の模型
杉谷A遺跡
杉谷A遺跡 方形周溝墓副葬品 銅鏃 ガラス玉
やりがんな 半島渡来品
素環頭太刀 刀子  土師器
  葬送儀礼用穿孔土器
水橋金尾遺跡 打出遺跡
鉄器 
鉄鏃 ノミ 刀子
砥石 弥生の墓
 全国的には
前期~中期
方形周溝墓
 複数の被葬者の家族墓
方形台状墓
後期
大型墳丘墓-首長墓
富山平野でも
・呉羽丘陵北部に
  百塚・百塚住吉遺跡
・呉羽丘陵南部
  杉谷遺跡
で、方形周溝墓・方形台上墓が造営された
その他に
  円形周溝墓
  四隅突出型墳丘墓
  甕棺墓
  石棺墓
  台状墓
   など

 78弥生時代後期 2世紀後半
三連壺(さんれんこ)河川や水を鎮める儀式で使用 四隅突出型墳丘墓
山陰出雲と越中高志の関係
半島北部高句麗の墓制
四隅突出型墳丘墓の分布若狭を中心に半島南の勢力が支配した 杉谷四号墳の
四隅突出型墳丘墓
勅使塚古墳の
前方後方墳
古沢塚山古墳の
円墳
 北陸各地に植民した
半島人が開墾し稲作生産を上げ始め、弥生文化がたかまった頃、
 更に半島から侵略・略奪目的の武装集団がやってきて、
 次々と支配者が変わり
 そのつど中心地が変わり、墓制が変わり、
 要するに戦乱が続いた

 高地性集落だとか
 環濠集落など要塞化が  行われた
 やがて王権を主張する勢力が大和中央を支配し、脅迫や武力で支配領域を広げ、
 墓制が大和式前方後円墳に統一されていった。

 それが古墳時代
 前方後円墳が流行したのではなく、
 大和中央から各地を支配にやってきたため、前方後円墳が各地に作られた。
 つまり、前方後円墳は大和の支配の進み具合のバロメーターだった


 79前方後円墳と前方後方墳の分布  引用天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)のまとめ6 縄文体質を残す東の古墳人

前方後円墳の分布西日本中心 初期 前方後方墳の分布東日本中心 天皇制国家の源流では
 後円墳--百済・伽耶人と弥生・縄文人の混血(西の古墳人)
 後方墳--高句麗人と縄文人の混血(東の古墳人)         の墓制だという。

  半島統一をした高句麗が東日本に進出し、大和政権を挟み撃ちにしようとしたため。という。

武隈-歴史風土-古墳の分布-前方後方墳と前方後円墳では
 後方墳--高句麗-----山の中、尾根を利用。まだ低地に住める状況でなかった
 後円墳--半島南部---低地・平地。海岸線に平行に。とある。(東北の場合かも)   




 80富山市の古墳時代




 82前期  前方後方墳の時代

古墳時代
弥生時代の四隅突出型墳丘墓は、出雲や高句麗の墓制でその出自の支配者だった
百塚住吉遺跡古墳群古墳時代前期には
東海地方の墓制
富山の古墳編年 前方後方墳の巨大古墳が造営され、三世紀中期から戦乱と、新たな武力集団の台頭が伺える 前方後方墳は邪馬台国と対立する狗奴国の墓制であり、滋賀県以東にあったと言われている 日本海側地方には実に長い間半島からの渡来が続き、更にそこから東北や信州・ 関東へと移住し、各地にその風習や食習慣、半島の国名を冠した神社などが多数あった。現在改名済
大塚・千坊山遺跡群羽根丘陵、婦中町にある遺跡群 この辺りに膨大な数の古墳があり、長く中心地であったようだ 富山市の古墳時代は羽根丘陵から始まった 弥生土器
富崎赤坂遺跡
 

 84中期  円墳の時代

古墳時代中期富山県東部の白岩川流域が中心地に
稚児塚古墳の位置
円墳が主流になった。
これはまた、出自の違う支配者になったようだ。

交通や物資集散の経路が変わったことを示す
土師器 古沢A遺跡 古沢A遺跡 境野新遺跡 土師器 境野新遺跡

土師器 壺 鉢 砥石
境野新遺跡 
高坏 境野新遺跡
古墳時代中期(約1600年前)には、
 全長約41mの前方後円墳である古沢塚山古墳が呉羽丘陵南部(標高86m・平野との比高58m)に築かれます。

 この時期には境野遺跡など、いくつかの集落が呉羽丘陵西側に営まれます。

 考古学から
  見た富山の歴史
  古墳時代
から引用
富山県の遺跡より引用
 古墳時代
  古墳が造られた時代
  古墳の形
  農民の暮らし
  玉つくりの遺跡
  窯で焼く土器 

 86古墳 後期・古墳終末期
古墳時代後期・終末期古墳が小型化
横穴墓が普及
同一墓壙に連続埋葬

横穴墓
副葬用の須恵器の登場 はそう(酒器)
坏の身と蓋
有蓋高坏
番神山横穴墓
頭蓋骨と鉄刀 横穴墓群の写真  宮崎県では高句麗の武人 (傭兵)の墓と考えられているが、
 北陸ではもっと一般化して身分が中層の者までが埋葬したと言っている
 




 90古代



 91奈良時代


奈良時代律令制の時代に入る。
呉羽丘陵で須恵器窯が生産開始
須恵器窯 上面視登り窯による高温焼成 側面視 栃谷南遺跡1250年前
平瓦、土馬 刻書土器 瓦塔



 94平安時代



平安時代特権階級は邸宅に住み庶民は竪穴住居 権力者の邸宅 斎串いぐしや人形ひとがた等呪具の出現
豊田大塚・中吉遺跡
花ノ木C遺跡
日用品 土器 大甕 みずがめか