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 青森の縄文   16  2019.09.30-3

 青森市三内丸山遺跡センター 青森市大字三内丸山305 ℡017-766-8282第4月曜休撮影可
  発掘された日本列島2019   青森会場


交通 青森駅・新青森駅からバス頻発
  特徴 以前は全て無料でしたが、現在は全て有料になりました。
ボランティアガイドは団体対象だから、館内の遺跡入口で待っていると始まるので
ついていくこと。
 
目次

01外観
02出品遺跡の年表

 旧石器時代
10墨古沢遺跡
12石器
14黒曜石
15接合資料

 縄文時代
20白神山地東麓縄文遺跡群
22b鬼川辺(1)遺跡 草創期
22c川原平(4)遺跡 早期
22d水上(2)遺跡 前期
22e水上(2)遺跡 中期
22f 板状土偶 中期
22g四脚付土偶 中期
22h石製品 中期
22iヒメフナムシ圧痕土器

23a黒曜石石器 中期
23b縄文土器 中期
24砂子瀬遺跡 後期
 狩猟文土器 川原平(6)遺跡
24bキノコ形土器・鳥形土器
 大川添(3)遺跡 後期
24c大川添(4)遺跡
24e川原平(4)遺跡 晩期
25b川原平(1)遺跡 晩期
25c陰嚢付注口土器 晩期
26屈折像土偶 晩期

考察 屈折像土偶と縄文交易
 土偶 晩期
27ミニチュア土器
 漆関連遺物
28a赤色顔料と赤色土器

30エリ穴遺跡
32土製耳飾り
33人面付土版
34土偶
35石冠


 弥生時代
40郡遺跡・倍賀遺跡
42石包丁
44人形土製品

50山ノ口遺跡
52石製品
53a赤彩土器


 古墳時代
60金蔵山古墳
63家形埴輪

70行基平山頂古墳
72男女小像埴輪
73行基平山頂古墳

 古代
80青谷・横木遺跡
82木製祭祀具

90ケカチ遺跡
92役所の設備

 中世
100岩櫃城跡

 近世
110東宮遺跡

 近代
120富山城下町遺跡
122オリンピック酒杯


125特集1
 福島の復旧・復興と埋蔵文化財
130真野古墳群の周辺遺跡
131真野古墳群
133金銅製双魚佩
135石器 天神沢遺跡

140七社宮遺跡
 大堀長井屋窯跡

150郡山五番遺跡
 陳場沢窯跡群

160南沢遺跡
 梨木平遺跡
164大型石槍

170小浜代遺跡
 滝川製鉄遺跡

180代遺跡
 合張古墳
182人面突起付土器
183代遺跡

190柳町Ⅱ遺跡


 
200平成28年熊本地震
201井寺古墳

300特集2「記念物100年」展
302史跡・名勝
303天然記念物
304記念物と埋蔵文化財

321内堀4号墳:馬形埴輪
322特別史跡水城跡:鬼瓦
323史跡青谷上寺地遺跡
 卜骨・骨角器
325特別天然記念物の剝製

330次の年に向けて
333各地の取り組み

400三内丸山遺跡センタ
 地下収蔵庫
 縄文ビッグウオール
 
 01外観
三内丸山遺跡センター 特別展会場 ごあいさつ 出品遺跡一覧
 02出品遺跡の年表
出品遺跡の年表 旧石器~古墳中期 弥生~室町 平安~近代
 




  旧石器時代 約38,000~約15,000年前

■概要:日本列島における人類の歴史は、約38,000年前の後期旧石器時代に始まることが確実です。人々は遊動し狩猟しながら、簡素なテント状の住まいや岩陰などで暮していたとみられます。各地で使用する石器に違いがあり、環境の違いに応じた生活を営んでいたとみられます。

■今回展示する遺跡:千葉県墨古沢遺跡は、34,000年前の石器作りの跡である石器集中部(ブロック)が61か所、円を描くように配置されています。ブロック脇にテント状の住居があったと考えられることから、これらは「環状ブロック群」と呼ばれる大型集落と考えられます。


 10墨古沢遺跡 (すみふるさわ) 旧石器時代 約34,000年前 千葉県酒々井町
   「環状に 巡る石器は ムラの跡」
   リンク  墨古沢遺跡常設展  墨古沢遺跡パンフレット(2.4M)   墨古沢遺跡墨古沢遺跡パンフレット.pdf(2.4MBytes)
 どんな遺跡かな
千葉県のほぼ中央、印旛沼に注ぐ二つの川に挟まれた、標高35m程の台地に立地しています。遺跡の周りには湧水が豊富で、水や動物たちを目当てに集まってきた人々が営んだ旧石器時代の集落です

 詳しく見てみよう
石器作りの跡である石器集中部(ブロック)が61か所、円を描くように配置されています。ブロック脇にテント状の住居があったと考えられることから、これは「環状ブロック群」と呼ばれる大型集落と考えられます。

円の大きさは南北径70m、東西径60mにもなり、一時期に作られ旧石器時代のムラとしては日本最大級です。石器作りには遠方の石材もふんだんに利用しており、当時の人々の活動範囲・交流範囲の広さを物語ります。

 11
旧石器時代 概要 墨古沢遺跡
(ふるすみざわ)
どんな遺跡かな 遺跡遠景
詳しく見てみよう 石器分布図
詳しく見てみよう 集落のイメージ
 12石器
ナイフ形石器
台形様石器
 13
石斧調整剥片 石錐
削器
 14黒曜石
黒曜石 長野県諏訪産 栃木県高原山
長野県和田峠産 東京都神津島産 石核
 15接合資料
接合資料 頁岩 玉髄 流紋岩 ガラス質黒色安山岩
 




 
  縄文時代 約15,000~約2,800年前

■概要:土器の使用が始まり、日本列島各地でそれぞれ独自性の強い装飾性の豊かな縄文土器が作られました。
人々は穴の上を屋根で覆う竪穴建物で定住に近い生活を送り、狩猟・採集や漁撈、地域によっては簡単な栽培などを行いました。

人々の間には基本的には身分の格差はなかったと考えられています。土偶や石棒など様々な祈りのための道具の他、耳飾りやペンダントなどの装飾品があり、豊かな精神文化を持っていたことがわかります。

■今回展示する遺跡:
青森県白神山地東麓縄文遺跡群は、縄文時代初頭の草創期から、終末期の晩期まで、1万年の長きにわたって連綿と営まれた17遺跡からなります。
中期の大型建物や石棺墓、後期の環状に巡る掘立柱建物群、晩期の日時計状配石墓など、当時の生活や葬制、精神文化を示す遺構が豊富です。

長野県のエリ穴遺跡は、縄文時代後期(約4,000年前)から晩期(2,400年前)を中心とする集落です。住居域の中には墓域や祭祀施設があり、集落北端の低地に向う斜面の廃棄場からは、2,643点に及ぶ土製耳飾りをはじめとする大量の遺物が出土しました。

 



 20白神山地東麓縄文遺跡群 縄文時代草創期~晩期 約15,000~2,300年前 青森県西目屋村
   「縄文の祈りを伝える土偶たち」

 どんな遺跡かな
白神山地東麓に位置し、岩木川右岸の段丘上に立地します。発掘調査で見つかった17遺跡は、縄文時代初頭の草創期から、週末の晩期まで、連綿と営まれたものです。

 詳しく見てみよう
前期末から晩期にかけては、大規模集落がいくつかの遺跡で営まれました。 中期の大型建物や石棺墓、後期の環状に巡る掘立柱建物群、晩期の墓など、当時の生活や葬制、精神文化を示す遺構が豊富です。
今も山深い岩木川の源流域には、一万年以上の長きに渡る縄文の記憶が大地に刻まれていました。私たちの時代にもつながる豊かな森の恵みが、その背景にあったのでしょう。

 21
 22
 22a
縄文時代
上に記述
白神山地東麓縄文遺跡群 どんな遺跡かな 遺跡遠景


 22b鬼川辺(1)遺跡 草創期 青森県中津軽郡西目屋村大字砂子瀬字鬼川辺
槍先形尖頭器
草創期
掻器 草創期
隆起線文土器
草創期
 


 22c川原平(4)遺跡 早期 青森県中津軽郡西目屋村大字川原平字福岡

加工具 早期 貝殻文土器 早期
 


 22d水上(2)遺跡 前期 青森県中津軽郡西目屋村砂子瀬字水上
線刻製品
岩偶
縄文土器
 22e水上(2)遺跡 中期
異形石器 縄文土器
 22f 板状土偶 中期
板状土偶
頭部・胸部・足先に割れ、5本指の足が見える。

これは土偶の部分ではなくこのような形状の全体です
土偶 板状土偶 板状土偶
 22g四脚付土偶 中期
四脚付土偶
腰掛ける土偶7.6cm

弓状台座に上半身が表現された(妊婦)
 元の姿は、弓状の部分を両手でつかんだ姿で4脚が出ている。

※逆子の出産か?
 22h石製品 中期
蛇紋岩製磨製石斧
青色片岩製磨製石斧
不明石製品
石に大変高い装飾性
ヒスイ大珠 石製装飾品


 22i圧痕土器 ヒメフナムシの圧痕がみられる 中期

 ニホンヒメフナムシ
褐色で尾端がやや尖った森林性のフナムシ。湿った林内の、落ち葉が厚く積もった場所で見られる。

リンク先の報告では、青森県北部のヒメフナムシはチョウセンヒメフナムシとよく似ている。湿地に棲むのではなく、水中から見つかり、水棲の様相があるということでした。ニホンヒメフナムシが正しい呼び名。森林性。


ヒメフナムシの圧痕
石冠
このような幾何学模様の意匠は初見です。

これを石冠というのか三角柱状石器というべきではないのか。

今年、青森を回りましたが、こんな石器はどこにもありませんでした。

西目屋村特有の石器です。
 23
 23a黒曜石石器 中期
黒曜石石器
青森県木造・出来島産
岩手県北上川・北上折居産

異形石器 、石鏃

長野県諏訪・星ケ台産
秋田県男鹿・金ヶ崎産

石鏃×2

北海道上士幌産
北海道赤井川産

石槍(or石匙?)
、石槍(or石鏃)

山形県羽黒・櫛引産
北海道置戸産

石鏃、石槍(or石匙?)
 23b縄文土器 中期
 



 24砂子瀬遺跡(すなこせ) 後期 青森県中津軽郡西目屋村砂子瀬字宮元
 24a
石棒 石冠・動物意匠石製品

 狩猟文土器 川原平(6)遺跡 狩猟文土器 後期前葉 青森県中津軽郡西目屋村大字川原平字宮元

 24bキノコ形土器・鳥形土器 大川添(3)遺跡 後期  

西目屋村 大川添遺跡現地見学会

 青森県中津軽郡西目屋村大字川原平字大川添
キノコ形土製品
鳥形土器の蓋として使用
鳥形土器
内面に赤色顔料が入っていた
 24c大川添(4)遺跡 後期 青森県中津軽郡西目屋村大字川原平字大川添
削器 左:アスファルトが
付着した土器

左:剥片
石鏃 剥片
 24d大川添(4)遺跡 土器 後期
アスファルト入り土器
秋田県産アスファルトが充填された
瘤付土器
瘤付土器

検索結果

 瘤付土器の画像(岐阜県からも出土している。)
 


 24e川原平(4)遺跡 晩期
 25
 25a詳しく見てみよう
詳しく見てみよう 集落の全景
川原平1,4遺跡
詳しく見てみよう 日時計状の石組
 25b川原平(1)遺跡 晩期
人面付注口土器
石冠状石製品
凝灰岩製
岩版 凝灰岩製 石製品
シルト岩製 
石刀類
石刀 粘板岩製 石剣
凝灰質粘板岩製
石剣
点紋粘板岩製
石剣
上:点紋粘板岩製
下:凝灰質粘板岩製
 25c 陰嚢表現のある注口土器  晩期土器
注口土器

陰嚢表現あり
人面付注口土器

陰嚢表現あり
人面付注口土器
注口土器ピンボケ
浅鉢ピンボケ
ピンボケ

人面付香炉形土器 手焙り形土器
 
 26土偶 晩期

 屈折像土偶(座産土偶) 晩期
屈折土偶
 
 考察 屈折像土偶と縄文交易
➀屈折像土偶は、是川縄文館などの合掌土偶や福島県のしゃがむ土偶などと呼ばれる、座産を表した土偶です。
土偶が拡散して模倣を繰り返す中で、本来の表現がわからなくなり、あちこちが省略されていきます。

この土偶は、八戸や福島から白神山地に到達するまでに腕を失っていますが本来はついていたものが剥がれたようです。
容貌は八戸のものに似ていますが、作り手の造形力にも影響しています。
後・晩期の寒冷化によって東北地方太平洋側から西へ南へと人々が大移動し、関ケ原や神戸でも省略された屈折像土偶が出土しています。
この像の作者は太平洋側から西目屋村に到達するまでにあまり時間がかからなかったようです。

島根県埋蔵文化財センターの遺物の中に、
島根県のほぼ同じ地域の近接した遺跡の中から、福島県ジョーモピアの屈折像土偶か青森県是川中居遺跡の屈折像土偶にそっくりな土偶と、
白神山地遺跡群の典型である陰嚢付き注口土偶が出土していることを知りました。


これらを実際に展示している古代出雲歴史博物館では、注口土器は陰嚢が目立たないように真上から光を当て、上の方に展示していました。
展示者は陰嚢にみえることを嫌ったのでしょう。白神遺跡群のことを知らなかったようです。

この二つの遺物は損傷が少なく、ほぼ原形のままと言って良いほど丁寧に運ばれています。手に持って運んだようです。しかしなぜ、東北の別々の場所から、島根県の近接した遺跡に運ばれたのでしょう。
福島(又は是川中居)から、一旦、白神に行き、船で鳥取県大山を行き過ぎ、その向こうの火山の三瓶山の西にある深い山の中に持ち込んだのでしょうか。

同じような屈折像土偶が地上を運ばれた例もTVで見ました。これは、何世代もかかって神戸市に到着しましたが、オリジナル(是川中居)と神戸の土偶との中間がなんと関ケ原だったという。現物では運ばれず、記憶の中で省略と忘却で変化してしまっていました。

縄文後晩期に青森から丸木舟で島根まで。その島根から遮光器土偶やベンガラなどの赤色塗装された土製品が見つかっておれば、ベンガラと共に運ばれたことになるけれど、少々記憶にない。しかし、手足がへし折れてはいるけれど、この時代においてはいかにも丁寧に運ばれた様子です。注口土器も島根で使えたようです。

いったい、縄文時代とはどんな時代だったのか。とても不思議に感じます。そして、東北、特に青森の先史時代の不思議な様子は、驚くばかりです。
あんな丸木舟に、陰嚢付き注口土器を持った女と、座産土偶を持った女を乗せて日本海を南下して、嫁に行ったのでしょうか。

福島県あたりの遺跡を調べていると、縄文中期中葉以降に始まる寒冷期には、沢山の人々が南下し、北陸から近畿、中国を通って九州まで移動し、九州に土偶や石棒の文化をもたらしたり、また、西日本の土器を携えて故郷に帰ったりしている様子が見えます。地図もナビも磁石も、それどころか道路さえない時代に列島を自在に旅すること、宿も食堂もなく、野宿と草を食べながら、、、、いったいどうやって旅したのだろう。
こんなことを考えていると、本当に考古学の楽しさを感じます。

 ※白神産地の山の中に1万年間も続いた文化ですが、意外と緊密な交流を各地と持っています。
  島根県三瓶山の山中から西目屋村の注口土器、福島県のしゃがむ土偶(関東地方の土器=これは別問題)が出土しています。
  福島と青森から別々に偶然行ったのではなく、一緒に行ったようです。しかも物凄く短時間に。

  福島から西目屋経由で鰺ヶ沢か十三湖に出て、赤色顔料を交易する丸木舟で島根まで行ったのでしょうか。




 土偶 晩期

土偶

板状土偶に近い
制作者の技量かな

首・左足にアスファルトで補修した痕跡がある

左足欠損部にアスファルトが付着する
土偶

亀ヶ岡式の遮光器土偶
 遮光器土偶といえば、アレを思い浮かべますが、実際に江戸時代から盗掘された亀ヶ岡式土偶は無数にあり、
 すべてがアレと同じではなく、ブサイクなものも数多くあったのでしょう。熟練した職人の手になったもの。
 職人の美意識にもよったのでしょう。3体の亀ヶ岡式土偶は、、イロイロですね。サイゴはガチャピンか、未知との遭遇、みたいですね。

 27
 ミニチュア土器
ミニチュア土器

 漆関連遺物
漆漉布 漆液・アスファルト混合容器  赤色顔料容器

 赤漆塗り土器
漆塗り台付浅鉢 縄文土器
晩期・漆塗壺
 
 
 28
 28a赤色顔料と赤色土器
  ※赤鉄鉱は津軽半島北端の宇鉄遺跡から品質極上のものを原石のまま西目屋村まで持ち込んでいる。
赤色顔料素材
赤鉄鉱
石皿
漆塗り壺
 28b
刺突具 陸獣骨製
挟み込み式ヤス
鹿角製
火鑚臼
樹種はハリギリ
樹皮素材
ヤマザクラかカバの樹皮
彩文土器 彩文土器
 28c
漆塗耳飾 組み紐 漆塗櫛
 
 



 30エリ穴遺跡 縄文時代後期~晩期 約4,000~2,400年前 長野県松本市内田
   「耳飾り模様の理由はおしゃれだけ?」

  

エリ穴遺跡 - 全国遺跡報告総覧

  

エリ穴遺跡の学術的な発掘調査報告書を刊行しました! 松本市 ...

  

エリ穴遺跡出土品 文化遺産オンライン



 どんな遺跡かな
松本盆地の東縁に位置する縄文時代 後期(約4,000年前)~晩期(約2,400年前)を中心とする集落です。住居域の中には墓域や祭祀施設もある一方、集落北端の低地に向かう斜面は廃棄場として利用され、大量の遺物が出土しました。

 詳しく見てみよう
出土品の中でも、土製耳飾りは日本最多の2,643点に及びます。その作りなどから、様々な地域の影響を受けていることがわかります。儀礼を行うために周辺集落から持ち寄られ、使用後に廃棄場へ残したと考えられます。

他にも「顔面付分銅形土偶」や「中空動物形土製品」の作りには、広い範囲の影響が確認できます。
エリ穴遺跡の出土品からは、後進地域の縄文時代後期・晩期文化が他地域の様々な文化との交流の上に出来上がったことが窺えます。

 31
エリ穴遺跡 どんな遺跡かな 遺跡全景 詳しく見てみよう 廃棄場の状況
詳しく見てみよう 人面付土版出土状況

 32土製耳飾り
土製耳飾り
 33人面付土版
人面付土版 石刀
石棒
中空動物形土製品
人面付香炉形土器
 34土偶
山形土偶 顔面付分銅形土偶
 35石冠
石冠
 36
小部屋付楕円浅鉢
高台付
丸底
丸底としか書いてない
 



  弥生時代 約2,800~約1,750年前

■概要:中国大陸や朝鮮半島から体系的な水田稲作が伝わり、線銅器や鉄器などの金属器が使われ始めた時代です。人々は簡素な素焼きの弥生土器を使い、銅鐸や銅剣・銅矛といった青銅器を使用した祭祀を行いました。やがて社会の階層分化が進展し、各地域の社会が統合されていきました。
北海道と沖縄には稲作文化が伝わらず、それぞれ縄文文化から繋がる文化が営まれました。北海道では続縄文時代、沖縄では貝塚時代と呼ばれています。

■今回展示する遺跡:
大阪府郡遺跡・倍賀遺跡(約2200~1900年前)は周囲を環濠で囲った集落遺跡です。環濠の内側は竪穴建物が多数並ぶ生活行として、その外側は160基を超える方形周溝墓が並ぶ墓域として明瞭に区別されています。

鹿児島県の山ノ口遺跡(約2100年前)は近郊湾に面した海岸砂丘上に位置する祭祀遺跡です。海岸線に沿って、幅20m長さ60mほどの範囲に軽石を円形に並べた配石遺構9基を確認しました。配石遺構には立石を伴うものもあり、周囲には土器が並べられています。

 



 40郡遺跡・倍賀遺跡 弥生時代中期初頭~後期前半 約2,200~1,900年前 大阪府茨木市田中町7-15-1
   「環濠を 渡るとそこは 墓!墓!!墓!!!」

 どんな遺跡かな
茨城川の右岸に立地する、周囲を環濠で囲った集落遺跡です。環濠の内側は竪穴建物が多数並ぶ居住域として、その外側は多数の方形周溝墓が並ぶ墓域として、明瞭に区別されています。

 詳しく見てみよう
環濠の内側からは、青銅器の鋳造に用いられた高坏が土製品や送風管が出土しており、青銅器の生産が行われていたと見られます。
一方の環濠の外側では160基を超える方形周溝墓が見つかりました。

方形周溝墓の大きさは一辺3m~18mと様々です、隙間もなく築かれています。近隣の村人も利用する共同墓地のような場所だったのでしょう。
生活域と墓域を明瞭に区別した弥生時代のムラの景観が蘇りました。

 41
旧石器時代 郡遺跡・倍賀遺跡 どんな遺跡かな 調査区中央部
詳しく見てみよう 高坏形土製品が出土した溝(手前)と工房の可能性のある竪穴建物 詳しく見てみよう 方形周溝墓群
 42石包丁
石包丁ピンボケ
 43大型石包丁
大型石包丁
 44人形土製品
銅鐸型土製品 人形土製品
広口壺
高坏形土製品 細頸壺
 




 50山ノ口遺跡 弥生時代中期後半 約2,100年前 鹿児島県錦江町馬場
   「砂浜に 並ぶ列石 祈りの場」

 どんな遺跡かな
錦江湾に面した海岸砂丘地に上に位置する祭祀遺跡です。海岸線に沿って幅20m長さ60m程の範囲に軽石を円形に並べた配石遺構9基を確認しました。配石遺構には立石を伴うものもあり、周囲には土器が並べらています。

 詳しく見てみよう
赤い顔料が塗られた丹塗り土器や、軽石で作られた男女一対とみられる岩偶・家形などが出土しました。これらは祭祀に用いられたもので、配石遺構と共に、当時の人々の精神生活を示す重要な資料です。

 51
5山ノ口遺跡 どんな遺跡かな 調査地遠景
詳しく見てみよう 環状の配石遺構 詳しく見てみよう 調査風景
 52石製品
磨製石鏃
勾玉
軽石製品 家形
右が陰石ならこれは陽石
軽石製品(陰石) 岩偶 女
岩偶 男
岩偶 男女
 53a赤彩土器
甕(赤彩) 甕(赤彩) 細頸壺
広口壺
 53b
ジョッキ形土器


長頸壺
台付鉢 台付鉢

こんな小さいのが鉢?
台付鉢 台付鉢復元図
 
 



  古墳時代 約1,750~約1,400年前

■概要:人々の階層分化がさらに進展し、近畿を中心に広範囲に及ぶ政権が成立した時代です。
各地で権力者のための古墳が沢山作られ、墓の中には銅鏡や鉄製の武器、様々な装飾品など多くの副葬品が納められました。
古墳の上や周りには様々なものを象った埴輪が立て並べられました。日本が初期的な国家の形成に向かう段階と考えられています。
東北北部や北海道と南島には古墳文化は広がらず、それまでの文化を発展させていきました。

■今回展示する遺跡:
岡山県金蔵山古墳は墳長160mの4世紀後葉の前方後円墳です。近畿を除く西日本に4世紀までに作られた古墳としては最大規模を誇ります。
くびれ部付近で見つかった造り出しと島状遺構からは、柵形埴輪や家形埴輪、蓋形埴輪、囲形埴輪が出土しました。家形埴輪の中には首長が行った水の祭祀を表した木樋と水槽が表現されているものがあり、大型前方後円墳の埴輪祭祀の実態を示す重要な事例です。

栃木県行基平山頂古墳は、墳長さ42m以上とみられる6世紀初頭の前方後円墳です。墳丘から、人物埴輪や人面付円筒埴輪など、様々な埴輪が出土しました。人面付円筒埴輪には武器や武具が線刻や彩色によって描かれており、武人を表現したものと見られます。

 



 60 金蔵山古墳 古墳時代前期末が中期初頭 4世紀後葉 岡山県岡山市中区円山
    「はにわ樹て 水のまつりを ひた隠し」

 どんな遺跡かな
岡山市街地の東方、操山丘陵の中央に作られた墳長約160mの前方後円墳です。近畿を除く西日本に4世紀までに作られた古墳としては最大規模を誇ります。前方部の発掘調査を行い、新たにくびれ部付近で造り出しと島状遺構を発見しました。

 詳しく見てみよう
造り出しには5基以上の家形の埴輪が並べられ、その周りを柵形の埴輪が囲っています。島状遺構の上部からも柵埴輪や家形埴輪、蓋形埴輪が出土しました。これらの埴輪は亡き首長の居館を表したものかもしれません。

前方部の墳丘と島状遺構の間からは柵形埴輪と囲方埴輪、家形埴輪が出土しました。この家形埴輪には木樋と水槽が表現され、首長が行った水の祭祀の表現と考えられます。大型前方後円墳の埴輪祭祀の実態を示します。

 61
古墳時代 金蔵山古墳 どんな遺跡かな 墳丘測量図
詳しく見てみよう 造り出し部埴輪出土状況
詳しく見てみよう 墳丘と島状遺構の間の埴輪出土状況
建物内部に見られる木樋
 62金蔵山古墳
金蔵山古墳 古墳出土の竹製カゴ
島の山古墳 竹製かご
ザル形土器
食物形土製品
 63家形埴輪 (※撮影状態・アングル悪し)再撮影を計画しましたが新型コロナウイルス感染拡大のため断念しました。
全景(ピンボケ) 囲形埴輪・家形埴輪
中を覗いています

中を覗いています

家形埴輪に歯入口等が見つかりました
柵形埴輪 家形埴輪内
柱等通常の埴輪と同じ構造でした
造り出し部
出土埴輪
家形埴輪 朝顔形埴輪
囲形埴輪 円筒埴輪
 
 



 70 行基平山頂古墳 古墳時代後期 6世紀初頭 栃木県足利市本城3丁目2120
    「在りし日の 祭りを映す はにわ列」


 どんな遺跡かな
足利市中心部北西の気有料の尾根上にある、墳長42m以上とみられる前方後円墳です。雌雄位には26基からなる機神山古墳群が広がります。
人物埴輪や人面付円筒埴輪など、様々な埴輪が出土しました。

 詳しく見てみよう
墳丘は尾根の自然地形を利用して2段築成されており、墳頂部と墳丘テラス面には円筒埴輪が並べられていました。前方部には4m四方の張り出し部があり、人物や鳥形、馬形などの形象埴輪が並べられていました。
人面付円筒埴輪には武器や武具が線刻や彩色により描かれ、武人を表現したと見られます。これらは群馬県南西部の一部の古墳から出土するもので、地域を超えた強い関係が伺われます。埴輪から地域間交流の実態が見えてきました。

 71 全景なし
行基平山頂古墳 どんな遺跡かな 墳丘測量図 詳しく見てみよう 円筒埴輪出土状況
人物埴輪出土状況
 72
女子小像には赤彩による襷の表現があります。肉眼ではわかりづらいですが、ベンガラを使っていることが分かったため、蛍光X線分析により、鉄分の地図作り(マッピング)を行いました。結果、赤彩表現の詳細を知ることが出来ました。


蛍光X線で地図作り 女子小像埴輪 男子小像埴輪 ミニチュア
大刀・琴
ミニチュア
(ゆきorうつお)
ミニチュア胡籙
(ころくor やなぐい)
 73行基平山頂古墳
人面付円筒埴輪 人面付円筒埴輪
人面付円筒埴輪
女子人物像
女子人物像
鳥形埴輪
円筒埴輪
朝顔形埴輪
円筒埴輪
 
 
 



  古代 約1,400~約900年前


■概要:「日本」という国家が成立した時代です。中国の隋や唐、朝鮮半島の百済や新羅から律令制度や文書行政などの国の仕組みを学び、
飛鳥地方で中央集権的な国家が形作られました。
やがて藤原京、平城京、平安京と都の場所は移され、それぞれ飛鳥時代、奈良時代、平安時代と 呼ばれています。

仏教伝来により、各地に寺院が作られ、国や郡には地方支配のための役所が作られました。
北海道や沖縄はこうした国家の支配には組み込まれず、北海道では擦文文化と呼ばれる文化を営み、沖縄では貝塚時代が続いていました。

■今回展示する遺跡:
鳥取県青谷・横木遺跡では、8世紀頃に造られ11世紀頃に廃絶した古代山陰道と考えられる道路遺構が見つかりました。
幅6m~7mで丘陵裾に沿って直線的に作られた道路沿いに、古代道路としては初の事例となる柳の街路樹が見つかりました。

山梨県ケカチ遺跡では、仮名文字が刻まれた土師器皿が出土しました。文字は土器を焼成する前に工具等で刻まれています。
10世紀における仮名文字の使用・普及状況を裏付ける貴重な資料です。

 



 80青谷・横木遺跡 飛鳥時代~平安時代 7世紀 鳥取県鳥取市青谷町養郷
   「万葉の 美人が歩く 山陰道」 
    

青AO 谷YA 遺跡 Ⅲ - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所



 どんな遺跡かな
日本海に面する青谷平野の日置川下流域に位置しています。平成25~27年土にかけて行われた発掘調査で、古代山陰道と考えられる道路状遺構、掘立柱建物などが見つかりました。

 詳しく見てみよう
古代山陰道は7世紀後葉から8世初頭に敷設され、11世紀まで長きに渡り維持されました。幅6~7mで丘陵裾に沿って直線的に作られています。また、古代道路として初の事例となる柳の街路樹が見つかりました。

出土した木製品の整理作業中に「女子群像」の板絵が見つかりました。絵は国宝高松塚古墳壁画と同じ7世紀後葉から8世紀初頭に制作され、6名の女性が列をなし、ゆっくりと歩を進める姿が描かれています。

 81
古代 青谷・横木遺跡 どんな遺跡 古代山陰道と考えられる道路遺構 詳しく見てみよう
柳の街路樹 詳しく見てみよう 木製祭祀具出土状況
 82木製祭祀具
木簡 木棺の釈文 女子群像板絵
墨画土器 墨書土器 印益人
税稲を収納する正倉の鍵を管理する人物

印益人が近くにいた
ことを表す
 83
銅板 木トンボ
遊具なのか意味不明
人形・仏形 木製台付はそう
木製祭祀具 鳥形・馬形・刀形 斧・勾玉・琴柱・柄ぶり形
舟形 勧請板とは 勧請板とは
 
 



 90ケカチ遺跡 奈良時代~平安時代 8世紀~10世紀 山梨県甲州市塩山下於曽
   「一片の 土器に刻んだ ラブソング」

 どんな遺跡かな
重川・塩川の両河川に挟まれた標高370mの扇状地に立地します。市道建設に伴う調査で、奈良・平安時代 の竪穴建物や溝などからなる集落が見つかりました。

 詳しく見てみよう
竪穴建物群の中には一辺が8mを超える大規模な建物もあり、そこから硯と錘(おもり)が出土しました。これらの遺物は当時の役人が使う道具であったと考えられ、この建物の主は、公的な役割を担った有力者と考えられています。
  ※竪穴建物に役所があった。通常、中央から立派な駅や郡衙の建設を命じられるのに、ここではまだ、原始生活だった。

また、この大型竪穴建物からは、仮名文字が刻まれた土師器も出土しました。文字は土器を焼成する前に工具等で刻まれています。
10世紀における仮名文字の使用・普及状況を裏付ける貴重な資料です。
 91
ケカチ遺跡 どんな遺跡かな 遺跡遠景 詳しく見てみよう 遺跡全景
詳しく見てみよう 二面硯出土状況
 92役所の設備(竪穴住居出土)
二面硯
墨書土器
吉・合・門
錘(おもり)
おもり
(分銅?文鎮?)
和歌刻書土器
和歌刻書土器解読案 墨書土器
門・吉
北・西 西・南 南・南
 
 
 


  中世 約900~約400年前


■概要:新たに台頭した武家が、京都の朝廷に変わって政治権力を握った時代です。
平安時代の後半から鎌倉時代、室町時代と政治権力が移り変わっていきました。室町時代の後半には各地で戦乱の時代へ突入します。
各地に防御性の高い城館が残されており、当時の戦乱の様子を伝えています。
北海道ではアイヌ民族によるアイヌ文化が花開き、沖縄では各地に城(グスク)が作られるグスク時代へと突入しました。

■今回展示する遺跡:
群馬県岩櫃城跡は、16世紀代を中心として主に甲斐国の武田氏や信濃国の真田氏による管理・運営がなされ、江戸時代初頭には廃城となった城です。その規模は極めて大きく、技巧を凝らした防御が施されています。

 



 100岩櫃城跡 戦国時代~江戸時代初頭 15世紀~17世紀初頭 群馬県東吾妻町原町1935-2
    「埋められた 真田の城の 薬研堀」

 どんな遺跡かな
標高802mの岩櫃山から東方へ延びる尾根上に占地しています。16世紀代を中心として主に甲斐国の武田氏や信濃国の真田氏による管理・運営がなされ、江戸時代初頭には廃城となりました。

 詳しく見てみよう
岩櫃山から東へ延びる4本の尾根上に、曲輪が広域的に配置されており、その広さは群馬県内でも最大級です。
城跡は要害地区、城下町地区、新井地区、北側遺構群地区に分かれ、技巧を凝らした防御施設が築かれています。

武田氏後北条氏という有力な戦国大名の攻防の舞台となった城であり、武田、真田氏の領国支配の在り方を知る上で重要であるだけでなく、東国の戦国時代史を考えるうえでも、極めて重要な城です。

 101
中世 岩櫃城跡 どんな遺跡かな 城跡遠景
詳しく見てみよう 竪掘と土塁 詳しく見てみよう 金属工房遺構
 102出土物
岩櫃城跡赤色立体地図 鉄粒状滓
鍛造剥片
鉄粒状滓 鍛造剥片
 103
 104
鋲(びょう)
小札(こざね)
鉄砲玉 銅銭
 105
舶載磁器

白磁皿
景徳鎮窯系染付碗・皿
龍泉窯系青磁稜花皿
国産陶器
志野窯・瀬戸美濃窯
碁石

かわらけ 内耳土器・鍋 内耳土器
鍋を上から吊るし、下で火を焚いて調理をした。
把手(耳)が外にあると吊り下げ紐が燃えてしまうため、鍋の内側に把手をつけたもの。
 
  



  近世 約400~約150年前



■概要:再び全国が統一された時代です。江戸に幕府が開かれ、およそ250年間に渡る泰平の時代が訪れました。海外との交流窓口は一部に限られるとともに、日本独自の文化が発展しました。北海道ではアイヌ文化の下、各地にチャシが造られました。沖縄では統一王朝である琉球王朝による支配が行われました。

■今回展示する遺跡:群馬県東宮遺跡は、天明3年(1783)8月5日の浅間山大噴火により、発生した「天明泥流」により、埋没した集落跡です。
厚さ1m前後の天明泥流の下からは当時の建物や畑、井戸や道跡などが見つかりました。

 



 110東宮遺跡 江戸時代 1783年8月5日 群馬県吾妻郡長野原町川原畑
    「生活を 泥流ドドドと 飲み込んだ」

 どんな遺跡かな
八ッ場ダム建設工事に伴う発掘調査で天明3年(1783)8月5日の、浅間山大噴火により、発生した「天明泥流」により、埋没した集落が見つかりました。この泥流により、約1500名もの人命が失われたと言われています。

 詳しく見てみよう
幾つかの建物には、床板や囲炉裏が腐ることなく当時の位置を保ったまま残っていました。また、泥流下から数多くの下駄や草履が見つかりました。目前に迫る泥流から慌てて裸足で逃げ、避難した人もいたのでしょう。

遺跡は、現在の吾妻川河床から約30m~50mの高さにあります。泥流は、この高さにまで及び、村を埋めました。
厚さ1m前後の天明泥流の下から当時の建物や畑、井戸や道路などが見つかりました。

 111
近世 東宮遺跡 どんな遺跡かな 遺跡遠景 詳しく見てみよう 下駄出土状況
詳しく見てみよう 建物検出状況
 112東宮遺跡 江戸時代
東宮遺跡位置図
うちわ  染付皿・櫛・染付根付  染付根付       
木杓子きじゃくし 刷毛(はけ)
升(ます)
漆椀蓋
漆椀
 113


きぬた・撥鍬 (ばちぐわ) 砥石
ひつ
下駄
 
 



  近代 約150~約70年前


■概要:開国により西欧文明が流入し、江戸幕府から政権が返上され、新たに明治新政府が建てられました。様々な近代化が推し進められる一方で、北海道、沖縄も統一的な近代国家へと組み込まれていきました。

■今回展示する遺跡:千富山県富山城下町遺跡からは、昭和15年(1940)に開催予定であった幻の東京オリンピックを記念した酒杯か出土しました。この酒杯は岐阜県多治見市で作られた美濃焼であることが分かりました。正式なロゴである「OLYMPIC」ではなく「ORINPIKU」と記されています。




 120富山城下町遺跡 昭和時代 20世紀 富山県富山市一番町
    「幻の オリンピックの 記念盃」

※只今、2020.03.26/15:19。一昨日2020オリンピックの延期が発表された。日本での開催は、戦争や世界的殺人ウイルスの流行で邪魔される。
麻生財務大臣が呪われたオリンピックといったのも決して間違いではなさそうです。

 どんな遺跡かな
江戸時代は富山藩の上級藩士の武家地でした。近代以降は富山市内随一の繁華街として栄え、調査地には昭和20年まで陶器商「太田陶器店(太田商会)」が店舗を構えていました。

 詳しく見てみよう
発掘では、破片数4510点に及ぶ近代の酒杯(猪口)が出土しました。その中に昭和15年に開催予定であったものの、その後開催を辞退した幻の東京オリンピックを記念した酒杯が含まれていました。

 121
近代
富山城下町遺跡 どんな遺跡かな 遺跡全景
詳しく見てみよう
ピンボケ
多量の酒杯が出土した土坑
 122オリンピック酒杯
オリンピック酒杯 オリンピック記念盃 酒杯
オリンピック記念盃 二次被熱を受けた盃
 
 





 



125特集1 福島の復旧・復興と埋蔵文化財

※上記リンクは、「発掘された・・・2019」に合わせて作られたページです。展示では単に遺物が僅かなキャプションと共にあるだけで、
私たちには詳細はわかりません。しかし、このページでは詳細に語られています。既にこの頁は削除され、展示の詳細を知ることはできません。
福島の復旧・復旧と埋蔵文化財については当初から懸念されていた問題です。

そこで、この重要なページを最初に掲げ、(ただし、文字化はせず)、その次に本展の展示物を揚げ、より詳細に展示物を理解できるようにしました。
ご理解いただけますと幸いです。削除を求められたときは直ちに削除します。(*^^)v 。 ※ご注意。かなり文字の誤植があります。ご留意ください。




  ご覧いただく前に
   福島県の地域名には、東から、浜通り阿武隈高地中通奥羽山脈会津地方があります。 道路名ではなく地域名です。

   浜通りは太平洋岸沿いの交通路。中通りは、阿武隈山地と奥羽山脈に挟まれた阿武隈川沿いの広大な陥没平野地帯。
   会津地方は、奥羽山脈の西側に接続する山地山脈の隆起山岳地帯です。


引用「ふくしまの旅」
 上記の説明を地図に表したもの

  福島県の地形図


 県庁のHPで県を紹介するページに
 Ⓒ©が掛っているのは、ホント驚き。

 どうやって紹介するんだョ。 (笑)







  引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」




 126特集1 福島の復旧・復興と埋蔵文化財

 特集1
福島の復旧・復興と
埋蔵文化財
 
  東日本大震災から8年が経過しました。東北の沿岸各地でにぎわいを取り戻す町が増える一方、福島県には福島第一原子力発電所事故の影響により、復旧・復興については道半ばという地域があります。
福島県沿岸部は、海の道と陸の道によって各地と結ばれ、極めて個性的な文化を育んできた魅力ある地域です。
本特集では、この地域の豊かな歴史文化を多くの人に知って頂くため、縄文時代から近代まで15遺跡を紹介します。

本展示がこの地域に対する関心を高め、また福島県に生まれ育った方々にとって故郷の魅力を再確認する機会となれば幸いです。 

 古きを守る新しきわざ ※順序がでたらめになっていますが、正しい順序がわかりません。仮に➀~の番号を振ってみましたが正確ではありません
③酸素同位体と気候変動
 
中部地方における桧年輪酸素同位体比の変動との周期性の変遷 
水や旱魃の多い時期がよくわかる
年輪の中に含まれる酸素の同位体比は、過去の降水量を繁栄しているといわれます。

そこで、その変動パターンを調べることで、年代だけでなく、当時の気候変動をしることが出来ます。
最近10年ほどで急速に進んできた研究方法で、今後の成果に治雄目が集まります。
②年輪年代法 年輪年代法 考古学に用いられる年代を調べる方法の一つに「年輪年代法」があります。
同じ地域・時代に成長した木々であれば、刻まれた年輪パターンも類似することを利用し、
年代を調べる方法です。

1年単位の年代を知ることが出来る反面、樹皮(最も新しい外側の年輪)が残っていなければ木を伐採した実際の年代を知ることが出来ないこと、木は長く使われることがあるため埋まった年代がそのまま伐採された年代を表さずに誤差が生じるということに問題が残ります。
➀年輪年代法  樹種同定  樹種を知り、樹種から知る
  スギの顕微鏡写真

出土木製品に対して行われる分析に、樹種同定というものがあります。
木の三方向の断面(木口面、柾目面、板目面)の木材組織の顕微鏡観察により木の種類を調べる分析です。
木の種類がわかれば、当時の植生や道具・材料の流通が類推できるだけでなく、
当時の人々が道具に対してどういった木材゛か適していると考えていたのかなどの、
様々な歴史的解釈ができるようになります。
⑤X線分析    板状土偶にはお知りに孔があけられていますが、貫通はしておらず、その詳細は不明でした。

X線写真により、短い穴であることは確認できましたが、これをX線CTによりもう少し詳しく観察すると、棒状の道具をやや左前方に向かいながら差し込んで加工されたものであることが分かりました。
遺物の保存法  国内で行われる主な
保存処理方法
色々な処理方法
木製品の保存処理は、木製品に含まれている水分を普通の環境のもとで安定した固体に交換することを基本として処理方法が開発されてきました。

その方法として国内では表に示すような6種類の方法がありますが、それぞれ長所も短所もあり、万能な方法がないのが現状です。
④薬剤の含浸 水との闘い
  出土木材の乾燥前後の様子

日本では、木製品は水分を多く含んだ状態で残ります。
しかし、水分を含んだ木製品を博物館にそのまま展示するわけにはいきません。

かといって、何も対策を取らずに乾燥すると、収縮・干割れを起こし、形は変わってしまって資料としての価値を失ってしまいます。木製品の保存処理は水との戦いなのです。
出土木製品の保存  埋蔵文化財と博物館史料
  水分を含んだ状態で出土した木製品(東宮遺跡:団扇)

発掘で出土した埋蔵文化財は、そのままでは博物館に展示できないことが多くあります。
歴史学上での位置づけはもちろん、強度の問題、形態の問題などに対して様々な考察や保存処理・分析をされることで、
博物館で展示できるような「博物館資料」として生き始めるのです。

ここでは、青谷横木遺跡、東宮遺跡で多く展示されている出土木製品について、その内容を紹介します。
 
 



 130真野古墳群の周辺遺跡 福島県南相馬市

・天神沢遺跡 弥生中期 約2000年前
・八幡林遺跡 古墳前期 4世紀初頭
・真野古墳群 古墳中期 5~7世紀
・大六天遺跡 平安時代前半 9世紀

  引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」
 ▶真野古墳群周辺遺跡

■各時代の物資・情報の集積地

福島県浜通り地域北部にあたる南相馬市の史跡真野古墳群周辺は、阿武隈山地から流れる複数の河川が合流する陸路、水路の結節点に位置します。わずか2キロ四方に弥生時代から平安時代までの重要な遺跡が集中して見つかっており、各時代で物資や情報が集積する場所であったと考えられます。


 ▶︎天神沢遺跡

 地元の考古学研究者である竹島国基(くにもと)によって発見された遺跡です。竹島は昭和28年から精力的に遺物の採集を進め、稲作技術とともに伝わった大陸系磨製石器を含む弥生時代中期の石器を多量に採集しました。これら石器群には未製品も多く含まれることから、この遺跡は石器製作地で、周辺の集落だけでなく、仙台平野などの集落に石器を供給したと考えられます東北地方の弥生社会の交流を考える上で重要な遺跡です


 ▶︎八幡林遺跡

 平成25年に個人住宅建設に伴い発掘調査が実施され、古墳時代前期の建物跡から東北地方で初めてとなる船が描かれた土器が出土しました。土器には関東地方東部の特徴が見られることから、この時代にも海を通じて盛んな交流があったことがうかがわれます。


 史跡・真野古墳群
 古墳時代中期から後期になると、段丘上に100基以上の古墳から成る真野古墳群が現れます。
昭和24年に土取工事に伴う緊急調査がなされたA地区20号墳では、埋葬施設から 刀飾りである金銅製双魚佩(そうぎょはい)が2点出土しました。
金銅製双魚僻は全国でも奈良県藤ノ木古墳などの有力古墳から数例しか出土例がありません。
A地区20号墳の被葬者が特別な有力者であったことを示すとともに、ヤマト王権との関わりや真野古墳群の被葬者像に迫ることができる資料です
古墳配置図   昭和23年に慶應義塾大学清水潤三教授を団長とする調査団により最初の発掘調査が行われ、翌24年に土取り工事によって埋葬主体部が発見されたため再調査が行われた。この調査時に金銅製双魚佩が出土している。現在は土取りや調査の残骸として僅かに高まりが窺えるのみで往時の姿は見る影もない。

20号墳は、前方部が西に向いており、全長は28.5m、後円部径16m、前方部前端長17mを測る。周溝はあるが明確ではない。埋葬主体部は礫郭で、平面は3m×3.5m、深さは1.3m、西側に羨道状の礫敷部が取り付く。
遺物は礫郭内から直刀、鉄剣、鉄鏃、馬具、金銅製双魚佩などの金属製品のほか、土師器の壺が出土している。玉川一郎氏によれば、この土師器壺は住社式に平行するものでで6世紀中頃の所産と推定している(6)。

金銅製双魚佩は2点出土しており(甲・乙)、甲は残存長23.1㎝、最大幅10.6㎝、乙は残存長21.3㎝、最大幅10.5㎝を測る。それぞれ腹側を 向かい合わせて上部で接するほか、胸鰭、腹鰭、尾鰭で接している。魚の部分は1枚の金銅板であるが、頭部には2枚の金銅板を合わせた半円状の金具が鋲で取 り付けられている。甲の残存する尾鰭の端部には小孔が開けられている。目の孔は甲が四角形、乙が円形に打ち抜かれており、大阪府羽曳野市峯ケ塚古墳例のようにガラス玉などが嵌められていた可能性が高い。奈良県奈良市藤ノ木古墳の例では双魚佩から延びた帯が玉纏大刀に巻きついていたことから大刀の飾りとされており、本例も伴出したいずれかの直刀の飾りであったとも考えられる。

昭和58年に県指定重要文化財に指定されているが、表面に布片や撚り紐状の物質が付着していたことから袋に縫い付けてあったものと類推し、古代中国の「双魚袋」と同様のものとして指定時の名称は「金銅製双魚袋金具」となっている。ここでは旧来から呼び習わされている「金銅製双魚佩」を用いることとする。
 副葬品配置図

 ▶︎大六天遺跡
奈良・平安時代になると、相馬地域には東日本最大級の製鉄遺跡群が出現します。蝦夷(えみし)との戦いのために行方(なめかた)軍団が設置され、律令国家の東北経営を支える地域として、重要な役割を果たしました。古墳時代中期から平安時代の集落跡である大六天遺跡では、軍団の次官名である「小毅(しょうき)」と刻まれた須恵器が出土しました。行方軍団の次官がこの地域に存在したことを実証するものです。

真野古墳群周辺では東日本大震災以後、復興事業などに伴う数多くの発掘調査が実施されました。そこで得られた一つ一つの調査成果をこれら重要遺跡の資料と合わせ、東北地方の古代史を解き明かしていくことが期待されます。(川田 強)
行方団(なめかただん)は、7世紀から10世紀頃の日本で陸奥国に置かれた軍団の一つである。行方郡に置かれたと推定されるが、正確な位置は不明である。



 131真野古墳群

 ・天神沢遺跡 弥生中期 約2000年前 南相馬市鹿島区江垂字天神沢
稲作と共に伝わった大陸系磨製石器を含む弥生時代中期の石器が多量に出土しました。製作途中のものが多く含まれることから、石器作りを行った集落と考えられています。


 ・真野古墳群 古墳中期 5~7世紀 福島県南相馬市鹿島区寺内・小池
総数100基以上の古墳からなり、20号墳から出土した刀飾りの金堂製双魚佩(そうぎょはい)は全国でも数例しかない珍しいもので、被葬者はヤマト政権との関りを持つ特別な有力者であったと考えられています。 

 ・八幡林遺跡 古墳前期 4世紀初頭 福島県南相馬市鹿島区寺内字八幡林
古墳時代前期の建物から船を描いた土器片が出土しました。土器には関東地方東部の特徴が見られ、海を通じた盛んな交流があった様子が窺えます。

 ・大六天遺跡 平安時代前半 9世紀  福島県南相馬市鹿島区江垂大六天
軍団の次官名である「小毅(しょうき)」の文字が刻まれた須恵器が出土しました。律令国家が蝦夷との戦に備えて奈良時代この地域に設置した「行方軍団(なめかたぐんだん)」の存在を示す重要な資料です。

真野古墳群の周辺遺跡 天神沢遺跡 遺跡遠景 真野古墳群
上に記述
 132
古墳群周辺遺跡地図 「小毅殿」刻書土器
八幡林遺跡

古墳前期 4世紀初頭
絵画土器
大六天遺跡

平安時代前半 9世紀

 133金銅製双魚佩(そうぎょはい) 史跡真野古墳群 古墳中期 5~7世紀
双魚佩
一対(二匹)の魚の佩。

身につける。腰にまとう。おびる。はく。

大刀の柄にぶら下げる装飾
魚の背開きの干物をぶら下げた飾りである。
 135石器 天神沢遺跡 弥生中期 約2000年前
石包丁
天神沢遺跡
石包丁
弥生時代の石器 抉り入り打製石鍬
打製石鍬
太型蛤刃石斧
扁平片刃石斧
ノミ形石器
 



 140七社宮遺跡(しっちゃみや) 縄文後期~晩期 約4000~2300年前 福島県浪江町
   大堀長井屋窯跡 明治~大正 19~20世紀



   引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」

 ▶七社宮天遺跡 縄文時代の動物祭祀遺跡 縄文時代後期~晩期 約4000~2300年前
七社宮遺跡
縄文時代の動物祭祀遺構

 ▶非日常的な要素が目立つ縄文時代の遺跡

 浪江町は浜通り地域のほぼ中央に位置し、西半分が阿武隈高地東縁部の山地、東半分が丘陵・段丘・沖積地となっています。東半分で発達している河岸段丘は、山地から流れ出た請戸(うけど)川・高瀬川の両河川により形成されたもので、町内に分布する縄文時代の遺跡の多くは、それらの段丘上に立地しています。

 その一つである七社宮遺跡は、請戸川左岸の段丘上にあり、平成9年、縄文時代の動物祭祀に関する遺構や遺物が多数見つかり、注目を浴びました。

 調査区の北西角で一部を検出した動物祭祀遺構は、高さ20㎝ほどの方形マウンドの中央に双頭熊形石製品を据え、周辺に多数の礫や故意に破壊された石棒・石剣・石刀の破片、岩偶(がんぐう)脚部、鹿の骨などが配置されていました。マウンドが祭壇の役割を担い、その上で熊を中心とする動物祭祀が行われたと考えられています。
  岩偶の用語解説 – 縄文時代の遺物の一つで,凝灰岩,砂岩などでつくられた石製の人形。土偶と同じように
  信仰と関係があるものと考えられている。

 このほか、焼けた動物の骨が入った土器が埋設された土坑群や、人面装飾が付いた特殊な注口土器も出土しました。

 遺構や遺物の内容に非日常的な要素が目立つことや、それらの量の多さに反し周囲では日常的な生活に伴う建物が1棟も見つかっていないことは、この遺跡の祭祀的な性格を物語っていると考えられます。              (池田 研)



 ▶大堀長井屋窯跡 江戸時代から続く大堀相馬焼の窯跡

 ▶︎ 受け継がれる近世の窯業技術

 大堀長井屋窯跡は、近世から近代初頭にかけて大堀相馬焼を生産した窯跡です。高瀬川左岸の阿武隈丘陵から太平洋側に延びた標高38〜40mの河岸段丘平坦面に築かれています。大堀相馬焼の窯跡としては、大熊町に所在する山神(やまかみ)窯跡に続く2例目の発掘調査事例で、大堀相馬焼の生産実態や変遷を解明する重要な遺跡です。

 大堀相馬焼は日用雑器を主休とする民窯で、その歴史は元禄年間(1688〜1704年)にさかのぼります。相馬藩士の半谷休閑(はんがいきゅうかん)と下男の左馬(さま)によって始められ、江戸時代後期から幕末にかけて大堀村と周辺の村々で100基を超える窯が操業しました。

堀長井屋窯跡からは、脚部が開放する形態のものを主体として、深山焼と類似する形態のものを含む「四脚の桔梗台」が多数出土している。報告書では桔梗台の出土は、文化後半から文政期の層以降にあたるとしている。つまり大堀長井屋窯跡も19世紀のある時期から、単一の、もしくは主たる重ね積み用の窯道具として、成島系窯業同様に桔梗台を選択したとみられる。関根達人は、大堀相馬焼の桔梗台使用の開始を19世紀の中葉としているが、後進の成島系窯業の例から、大堀長井屋窯跡の報告書にあるように、19世紀の第二四半期には使用を開始している可能性は高いだろう。


 相馬藩は大堀相馬焼を保護・統制下に置き、普及と特産化、積極的な販路の拡大を図ったため、東北地方から江戸まで広い地域に製品が流通しました。明治維新後は自立した経営形態を確立して生産が続けられ、昭和53年に経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受け、技術技法の継承と後継者の確保育成に励んでいます。


 東日本大震災後、大堀相馬焼の生産地である大堀地区は一部を除き帰還困難区域となり、全ての窯元は避難を余儀なくされましたが、避難先でも各窯元が独自に経営を再開し、特有の文化が継承されています。(小泉博明)


 141七社宮遺跡(しっちゃみや) 動物祭祀遺跡
 ・七社宮遺跡(しっちゃみや) 縄文後期~晩期 約4000~2300年前 福島県双葉郡浪江町大字室原七社宮  

浪江町の歴史1(古代から昭和中期)


縄文時代後期から晩期にかけての遺跡です。祭壇状の施設の周辺から故意に破壊された石棒の破片やシカの骨などが出土しています。

 ・大堀長井屋窯跡 明治~大正19~20年前 福島県浪江町大堀字漆畑
江戸時代後期から幕末期に相馬藩が保護した大堀相馬焼を生産した窯で、標高約40mの段丘上に築かれています。


七社宮遺跡
大堀長井屋窯跡
七社宮遺跡
大堀長井屋窯跡
七社宮遺跡
動物祭祀遺構
長5.2m短3.2m高0.2m
方形マウンドを形成
 142七社宮遺跡(しっちゃみや) 縄文後期~晩期 約4000~2300年前 ピンボケ
人面装飾付注口土器
 143
七社宮遺跡 土版 双頭熊形石製品 大堀相馬焼花瓶
大堀長井屋窯跡
 明治~大正
大堀相馬焼
土瓶・碗
 



 150郡山五番遺跡 古代 7~11世紀
   陳場沢窯跡群 古代 7世紀    福島県双葉町
   (じんばざわ)


  引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」
 ▶郡山五番遺跡

▶︎寺院と港に伴う施設も検出

 郡山五番遺跡は、太平洋から直線で700㍍に位置する丘陵上に所在します。古くから布目瓦が出土していたことから、その性格を明らかにするため昭和52年から4回にわたり発掘調査を行いました。

 発掘調査の結果、規格性のある掘立柱建物10棟、竪穴建物20棟、溝などが見つかったほか、8種類の軒丸瓦、5種類の軒平瓦、須恵器、土師器(はじき)、円面硯(えんめんけん)、漆紙、塔の模型、馬具などが出土しました。

 また、郡山五番遺跡の南に隣接する堂ノ上(どうのうえ)遺跡では、昭和53年の発掘調査で寺院とみられる一辺9.5mの建物の基礎遺構が見つかりました。平成28年、中間貯蔵施設建設のため、遺跡範囲を特定するための試掘調査を行ったところ、直径30㎝の柱跡が複数見つかりました。大規模な建物は7世紀後半から8世紀のものと考えられ、古代の役所の存在をうかがわせます。

 このほか、郡山五番遺跡にほど近い細谷川河口付近の四郎田(しろうた)B遺跡からは礎石建物と掘立柱建物が見つかっています。津(港)に伴う施設と考えられ、郡衛に関連する可能性が考えられています。

 これらのことから、郡山五番遺跡と隣接する堂ノ上道跡を含めた地域は、奈良・平安時代の寺院と役所、すなわち陸奥国標葉郡衛域(むつのくにしねはぐんが)と推定されています。



 ▶陳場沢窯跡群

▶︎須恵器、円面硯、盛尾など出土

 陣場沢窯跡群は、郡山五番遺跡南西800㍍の丘陵上にあります。平成2年に双葉高校史学部の生徒が窯壁が付いたままの須恵器片を採集したことがきっかけとなり、その存在が明らかになりました。しかし、見つかった段階ですでに窯のほとんどが町道に削平されていたため、窯のたき口部分の存在が確認されただけにとどまりました。

 平成3年、開発に伴い2度の発掘調査を実施し、4基の窯跡が検出されました。窯跡は砂岩質の地山をトンネル状に掘り抜いて造られていました。もろい土質のため、1号窯跡では天井部分の崩落をスサ入り粘土(わらや草を混ぜた粘土)で補強し、再使用した痕跡も確認されました。

 各窯跡からは須恵器の甕、杯(つき)、蓋、高杯(たかつき)、円面硯や螢尾などの破片が出土しました。これらの出土遣物から、7世紀中頃から終わりにかけて窯が操業していたことが分かりました。また、円面硯や頻尾が生産されていたことから、郡待とみられる郡山五番遺跡や堂ノ上遺跡に製品を供給する官窯であったとの見方が有力です。

 このほか、窯跡の近くから木炭とともに円面硯と聾の口縁部が理納された土坑が見つかっています。これは、子供の誕生に係る胞衣(えな)儀礼の遺構ではないかと考えられています。(吉野高光)


 151
 ・郡山五番遺跡 古代 7~11世紀 福島県双葉郡双葉町郡山五番
企画性のある掘立柱建物の他、溝や大規模な建物が見つかっており、奈良~平安時代の役所である陸奥国標葉郡衙と推定されています。

 ・陳場沢窯跡群 古代 7世紀 福島県双葉郡双葉町郡山(大字)陳場沢
7世紀後半に操業していた須恵器窯です。円面硯や鴟尾(しび)が出土していることから、寺院や役所に製品を気要求する官営の窯であったと考えられています。


郡山五番遺跡
陳場沢窯跡群
郡山五番遺跡
掘立柱建物
 152陳場沢窯跡群

鴟尾、須恵器甕

須恵器蓋、円面硯
 154郡山五番遺跡

重弧文軒平瓦

木葉文軒平瓦
変形偏行唐草文軒平瓦

文字瓦「本」

八葉単弁蓮華文軒丸瓦
十三葉細弁蓮華文丸瓦
 



 160南沢遺跡 縄文時代前期~晩期 約5,500~3,500年前 福島県大熊町
   梨木平遺跡 縄文草創期~前期 約6,500~5,500年前


  引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」
 ▶南沢遺跡・梨木平遺跡
頁岩・・粘土が固まってできた水成岩。板状でやわらかく、薄くてはがれやすい。泥板岩。

▶︎遺跡の保存、遺物の救出続く 

 南沢遺跡は、阿武隈山地から伸びる丘陵の東端、太平洋岸から2キロ内陸に入った小入野(こいりの)川の右岸に立地しています。昭和50年代に行われた土地造成工事の際に多数の縄文土器が見つかり、昭和58年に確認調査が行われました。

 出土土器から、縄文時代前期から後期のおよそ2000年にわたって、縄文時代の人々の営みがあったことが分かりました。中期末から後期初頭の竪穴建物が複数見つかっており、中間貯蔵施設用地内では最大規模の縄文時代の遺跡です。「町立民俗伝承館」に保管されていた出土遺物は、震災後に文化財レスキュー事業によって救出され、「福島県文化財センター白河館」の仮設収蔵庫に保管されています。


 梨木平(なしぎだいら)遺跡は、小人野川を挟んで南沢遺跡の対岸の台地上に立地します。昭和35年ごろ、畑の耕作中に地元住民が美しい石器を発見しました。これは石槍(いしやり)という縄文時代前期の石器ですが、丁寧な作りから「押出(おんだし)型ポイント」とも呼ばれ、縄文人が特別に作った宝物ともいわれます。石材は良質の頁岩(けつがん)で、山形方面から持ち込まれた可能性があります。


 梨木平遺跡では平成29年、施設建設に伴う工事立会時に奈良時代の竪穴建物2棟が見つかったため、記録を作成しました。また、遺跡の4割は現状のまま保存することができました。(成田 裕)


 ▶中間貯蔵施設と遺跡調査~大熊町~
           

▶︎中間貯蔵施設と遺跡調査〜大熊町〜住民の帰還は貯蔵開始から30年後

 中間貯蔵施設とは、除梁による汚染土壌や廃棄物を最終処分までの間、安全かつ集中的に貯蔵する施設のことで、東京電力福島第一原子力発電所を取り囲む形で大熊町と双葉町に整備されることが決定しています。中間貯蔵施設予定地は総面積16平方キ。手元(東京ドーム340個分)に及び、このうち11平方キロ㍍が大熊町に属しています。平成30年10月、叢初の土壌分別施設が夫沢(おっとざわ)地区に完成し、汚染土壌の搬入が始まりました。

 大熊町では、いまだすべての住民が帰還していませんが、中間貯蔵施設地内に住民が帰還できるのは貯蔵開始から30年後、県外に最終処分場が完成し、土壌や廃棄物の処分が完了してからと想定されています。

▶︎中間貯蔵施設内の文化財の保存と継承

 中間貯蔵施設建設予定地内には、大熊町だけで25カ所の周知の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)があることが知られていました。環境省・福島県教育委員会・大熊町教育委員会は平成27年度から予定地内の遺跡確認調査を行い、新たに2カ所の遺跡を確認するとともに、綿密な試掘調査を行い、工事により失われてしまう遺跡では発掘調査を実施して記録を作成しました。このほか、有形・無形の文化財もたくさんあり、これらの文化財をどこまで救出し、記録を作成し、未来に伝えることができるかという課題に直面しています。

▶︎中間貯蔵施設の範囲と遺跡の分布

 大熊町の中間貯蔵施設予定地は11平方k㎡。その中に27カ所の遺跡がある。図は環境省の許可を受け、大熊町教育委員会で改変して作成。

▶︎梨木平遺跡の発掘調査

 奈良時代の竪穴建物の調査風景。調査にはヘルメットを着帽し、線量が高いため白い防護服、マスク、手袋を着用している。



 161
 ・南沢遺跡 縄文時代前期~晩期 約5,500~3,500年前 福島県双葉郡大熊町大字小入野字東大和久
縄文時代前期から晩期の土器が多数出土た。出土遺物は震災後の文化財レスキュー事業により町外に運び出され、保存活用されています。

 ・梨木平遺跡 縄文草創期~前期 約6,500~5,500年前 福島県双葉郡大熊町大字小入野字東平
南沢遺跡の対岸の台地上に位置する遺跡です。昭和35年頃に地元住民が採集した大型の石槍は儀器として山形方面から持ち込まれた可能性が指摘されています。

南沢遺跡
梨木平遺跡
梨木平遺跡竪穴建物

 162南沢遺跡

縄文土器 前期
 163南沢遺跡
縄文土器

 164梨木平遺跡

石槍
梨木平遺跡
 165
縄文土器
 166土偶
土偶 ハート形土偶
 



 170小浜代遺跡 古代 7~9世紀 福島県富岡町
   滝川製鉄遺跡 幕末 19世紀 福島県富岡町

  引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」
 ▶小浜代遺跡出


▶︎陸奥国府多賀城に系譜を持つ瓦出土

 小浜代遺跡は海岸段丘上に立地し、昭和44〜46年、平成3〜6年、平成17年に発掘調査が実施されました。7〜9世紀の建物が検出されたほか、陸奥国府多賀城に系譜 を持つ重弁六菓蓮華文軒丸瓦(じゅうべんろくようれんげもんのきまるがわら)と重弧文軒平瓦(じゅうこもんのきひらがわら)が出土しました。


 『続日本紀』 によると、この地域は718年に陸奥国から分離した石城国にあたり、724年に再び陸奥国に編入されました。石城国内には10カ所の駅家(うまや)が設置され、通信や交通の役割を担いました。小浜代遺跡は石城国の北端に位置し、石城郡衙(ぐんが)に比定されている根岸遺跡から北に40キロ離れています。

 見つかった建物は4期に分かれます。1・2期は7世紀の複数の掘立柱建物群、3期は8世紀初頭からの多賀城系譜の瓦が葺(ふ)かれた瓦葺き基壇建物、4期は8世紀前半の礎石基壇建物です。1・2期と3・4期で遺跡の性格が大きく変化したと考えられ、『続日本紀』に記される陸奥国からの分離・再編が背景にあると推測されます

 また、須恵質の猿形土製品が出土しており、猿が厩(うまや)の守り神であるという後世の厩猿(うまやざる)信仰との関連が考えられるほか、金属器を模倣した須恵質鉢など寺院に関連する遣物も出土しています。



 ▶︎滝川製鉄遺跡

▶︎鉄鉱石によるたたら製鉄の工程判明  

 富岡町西部に位置する滝川製鉄遺跡は、幕末から明治にかけて操業された上手岡鉄山の製鉄場です。古代から砂鉄を主原料として行われてきた 「たたら製鉄」を、近代に原料を鉄鉱石に変え行っていました。


 上手岡鉄山は、1853年に南部藩の佐久間長左衛門(さくまちょうぎえもん)がこの地で製鉄を行ったことが始まりとされ、その後、経営者の交代や洋式高炉の導入、鉄鉱石の採掘のみを行うなど経営の形態を変えながら昭和30年代まで存続しました。

 発掘調査では、たたら製鉄を行うためのたかどの高殿建物を支える4間×4間 (7・2㍍四方)の主柱と9間×9間 (16・2㍍四方)の側柱を検出しました。建物内部では原料置き場や鍛冶炉、小舟様遺構を持つ石組みの地下構造などが、建物外部では富岡川から取水したとみられる溝が見つかりました。これらの遺構から、鉄鉱石を焙焼した後、水車動力で臼を動かして破砕し、ふるい分けを行って鉄鉱石の粒度をそろえるという工程を復元することができ、これは明治期に記された 『磐城物産誌』の上手岡鉄山の記述とも一致します。

 洋式高炉導入直前、鉄鉱石を原料とするたたら製鉄は数カ所が知られ、滝川製鉄遺跡はその工程のほぼ全容を明らかにした貴重な遺跡です。(三瓶秀文)




 171
 ・小浜代遺跡 古代 7~9世紀 福島県双葉郡富岡町大字小浜
石城郡衙と考えられている根岸遺跡から約40km北側に位置し、7~9世紀の掘立柱建物が見つかっています。陸奥国府多賀城に系譜を持つ瓦、
須恵質の猿形土製品の他、硯など駅家や寺院に関連する遺物が出土しています。

 ・滝川製鉄遺跡 幕末 19世紀 福島県双葉郡富岡町大字上手岡字片倉
幕末から明治にかけて操業された上手岡鉄山の製鉄場です。明治期の『磐城物産誌』に記述のある製鉄法を示す炉などが見つかっています。

小浜代遺跡
滝川製鉄遺跡
高殿建物模型
 172小浜代遺跡
須恵質猿形土製品
小浜代遺跡
猿形土製品 重弧文軒平瓦
小浜代遺跡
重弁蓮華文軒丸瓦
小浜代遺跡
 173滝川製鉄遺跡
炉壁
鉄の融解が進むと炉壁は崩れ落ちる
鉄鉱石・フイゴ羽口 鉄鉱石 フイゴの羽口
 



 180代遺跡 縄文中期 約4500年前 福島県楢葉町
   (だい)
   合張古墳 古墳中期 4世紀   福島県楢葉町
   (がっぱり)

  引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」
 ▶代遺跡

▶︎ 複式炉をもつ竪穴建物検出

 代(だい)遺跡は井出(いで)川右岸の太平洋に面した標高約25㍍の河岸段丘上に立地しています。平成13〜14年度に発掘調査が行われ、縄文時代中期を中心として竪穴建物13棟、埋設土器など数多くの遺構を検出し、大規模な集落であることが判明しました。

 特に注目されるのは、縄文時代中期の東北地方南部でよく見つかる、複式炉をもつ建物です。南方200㍍の位置に隣接するいでうえのはら井出上ノ原(いでうえのはら)遺跡でも同様の建物が見つかっており、何らかの関係が推測されます。

 

沢の北側は、製鉄が主に行われたエリアで、調査区内からは(1)で紹介したような砂鉄を溶かしたカスである鉄滓の捨て場が積み重なって見つかりました。出土した鉄滓は、重量にしておよそ30トンに上ります


 ▶合張遺跡

沢の南側では、東寄りにトンネル式の木炭窯が6基並んで作られていました。作られた木炭は砂鉄を溶かす燃料として遺跡内で利用されたと考えられます。西寄りには竪形炉という半地下式の製鉄炉が3基見つかりました。このうちの一つは深さ1mほどの穴のへりを利用した福島県では珍しい炉形でした。

また、南側の台地上では長方形箱形炉という別の形式の製鉄炉の跡が見つかっていますが、この炉は、そばに鉄の刀が置かれ、鉄滓で埋め戻されていました。炉を閉じる際に何かの儀式を行ったと考えられます。

このように、今まで製鉄遺跡が多数調査されてきた相双地域でも見られなかったような知見が得られた調査となりました。今後は調査の成果をまとめる作業を行い、平成28年度中には報告書として刊行される予定です


遺物は2万点以上の縄文土器のほか、磨製石斧(せきふ)、石匙(いしさじ)土偶などが出土しました。中でも、アワビを模したと考えられる異形土器は表現がリアルな点が特筆されます。浜通り地域の縄文時代を考える上でとても重要な遺跡です。


▶︎周溝から複合口緑壷が出土

 代遺跡の西方約1キロの同じ河岸段丘上に立地する合張(がっぱり)古墳は、一辺約15㍍、高さl.2㍍の方墳です。周清から複合口縁壷などが出土したことから古墳時代前期、4世紀頃の古墳と考えられています。墳丘には4カ所の柱穴が検出され、正方形の掘立柱建物が建てられていたとみられます。埋葬施設は検出されなかったものの、浜通り地域の前期古墳の一つとして貴重な発見です。(坂本和也)



 181
 ・代遺跡 縄文中期 約4500年前
縄文時代中期の大規模な集落です。2万点以上の縄文土器、磨製石斧、石匙、土偶の他、アワビを模した異形土器も出土しています。

 ・合張古墳 古墳中期 4世紀   福島県双葉郡楢葉町大字北田字合張地内
代遺跡と同じ段丘に立地する古墳時代前期(4世紀頃)の方墳です。埋葬施設は検出されていませんが、浜通り地域では貴重な発見例です。

代遺跡
合張古墳
合張古墳全景
 182代遺跡
代遺跡 異形土器 人面状突起
人面状突起付土器片
 183合張古墳
縄文土器
代遺跡 縄文中期
土師器二重口縁壺
合張遺跡 古墳時代
 



 190柳町Ⅱ遺跡 縄文時代早期末~前期初頭 約6,500~7,000年前 福島県広野町下浅見川字柳町



浜通り地域南部の海岸平野に立地する縄文時代早期末から前期初頭の遺跡です。竪穴建物と焼土遺構の他、獣を狩るための落し穴が見つかっています。狩猟を目的としたキャンプ地のような集落であったと推定されています。

  引用文化庁「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」
 ▶柳町Ⅱ遺跡出


▶︎狩猟のキャンプ地として利用

 柳町Ⅱ遺跡は、浜通り地域南部の海岸平置しています。東日本大震災の復興伴い発掘調査が実施され、縄文時代〜前期初頭の遺跡であることが分かりました。

 発掘調査では縄文時代の竪穴建物6棟、土坑6基、焼士遺構4基と、古代の掘立柱棟、溝状遺構2条を検出しました。


南相馬市駐在では、東日本大震災復旧・復興関係の市町村の埋蔵文化財保護事業への支援も行っています。4月から6月まで、広野町の駅東側整備事業に伴い1,300㎡の本発掘調査の支援を行いました。調査の結果、縄文時代早期後半から前期初め頃(約6,500~7,000年前)の集落跡であることがわかり、竪穴住居跡6軒、縄文土器、石器など数多く見つかりました。一般的な縄文時代早期の集落跡は山奥や丘陵上に多く見られますが、柳町II遺跡は海に近く、平坦な場所に営まれていること、盛んに石器作りが行われていることなどがわかる貴重な発見でした。6月20日(土)に現地説明会が行われ、約60名の参加がありました


 6基の土坑のうち2基は深さ約1・5㍍面に1本の杭跡が確認されたことかを狩るための落とし穴として利用されたと考えられます。出土遺物の大半を占める石器は、道具作りに使用した原材料で核や石を割った際に出た剥片が多く、製作を行ったと考えられます。

 一般的な縄文時代早期の集落は見晴らし高台に営まれますが、柳町Ⅱ遺跡はい比較的平坦な場所に立地している点が珍しい事例です。集落周辺は葦などが生い茂る湿地帯とみられ、小さな丘陵を選落がつくられたとみられます。安定した場所でないことから、定住した集落で、狩猟を行うための”キャンプ地″のような集落であったと考えられます。(郡司 環)




 191

 柳町Ⅱ遺跡 縄文時代早期末~前期初頭 約6,500~7,000年前 福島県広野町下浅見川字柳町
浜通り地域南部の海岸平野に立地する縄文時代早期末から前期初頭の遺跡です。竪穴建物と焼土遺構の他、獣を狩るための落し穴が見つかっています。狩猟を目的としたキャンプ地のような集落であったと推定されています。

柳町Ⅱ遺跡 柳町Ⅱ遺跡 柳町Ⅱ遺跡全景
 192柳町Ⅱ遺跡
縄文土器
柳町Ⅱ遺跡
石鏃
石槍
石匙
 193柳町Ⅱ遺跡
スクレイパー 石斧
磨石 落し穴
 



 200平成28年熊本地震


 201井寺古墳 熊本県上益城郡嘉島町大字井寺  円墳又は前方後円墳 装飾古墳 5世紀 1500年前
井寺古墳崩落石材の取り外し
 
  平成30年12月に開始した文化庁による内部調査のための事業により、ほぼ3年ぶりに石室内部へ立ち入りできるようになり、内部状況の確認ができました。

床面には割れた石材が散乱し、石室そのものが大きく歪んでいるなど、被害が極めて深刻であることが分かりました。
地震直後の熊本城    熊本城 熊本市中央区本丸1−1 安土桃山~江戸時代

平成28(2016)年4月14・16日の2度に渡り熊本県を襲った最大深度7の地震は、多くの方々の生命・財産を奪いました。
そして。熊本のシンボルである特別史跡熊本城跡をはじめとする多くの文化財も甚大な被害を受けました。
史跡井寺古墳    史跡井寺古墳は、平成30年度に、ようやくこれから本格的な修復方法の検討に着手できる状況になりました。
今後は、装飾の劣化を防ぎつつ、いかに石室を修復するかという大きな課題に取り組んでいくことになっています。
 井寺古墳   熊本には多数の装飾古墳がありますが、これらの中にも甚大な被害を受けた古墳があります。

中でも史跡井寺古墳(嘉島町)は、前庭部の石材がずれたことにより、
石室の入口に設置された扉を圧迫し、内部への立ち入りができない状況が続いていました。
 井寺古墳玄室内部   地震発生から3年の月日が流れ、県内の至る所で復興辞儀用が進められています。
そして、復興事業に先立って行われる発掘調査も、全国からの支援により着実に進んでいます。

復興事業はまだまだ続きますが、今後も復興と埋蔵文化財保護の両立のための取り組みを継続していきます。
 
 



 300特集2 「記念物100年」展



 開催にあたって
「文化財保護法」によると「記念物」とは、わが国にとって歴史上・学術上の価値の高い遺物、芸術上・鑑賞上価値の高い名勝地、学術上価値の高い動物・植物・地質鉱物の総称で、其の中でも重要な物は文部科学大臣が「史跡」「名勝」「天然記念物」に指定することが出来るとされています。

2019年は「文化財保護法」の前身の一つである「史跡名勝天然記念物保存法」が大正8年(1919)に施工されて100年目にあたります。
「記念」という言葉には「あとの思い出として残しておくこと」(大辞林)という意味があります。つまり「記念物」とは、残したい大事なものであり、保護制度ができてからの100年、大切に守るために各地で努力が行われて現在に至っています。

ただし、例えば大阪城公園が、実は特別史跡大阪城跡に指定されていることがあまり知られていないように、だれもが知っている場所であっても、そこが「文化財保護法」で守られていることは、十分に知られているとは言えません。

そこで、「史跡名勝天然記念物保存法」100年の今、代表的な「史跡」「名勝」「天然記念物」やそれにかかわる各地の取り組みを紹介し、それらが皆さんの身近にあることを感じていただくとともに、「国民の宝」「地域の宝」として未来に受け継いで行く想いを共有したいと思います。
 301
開催にあたって



 302
 史跡
「文化財保護法」では「貝塚、古墳、都城跡、城跡、旧宅、その他の遺跡で、わが国にとって歴史上または学術上価値の高いもの」のうち重要なものとされています。
極彩色の壁画で古代史ブームを巻き起こした高松塚古墳(奈良県明日香村)、邪馬台国論争を再燃させた吉野ケ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)、近年の縄文ブームのきっかけにもなった三内丸山遺跡(青森県青森市)等はいずれも特別史跡に指定されており、我が国の歴史を知る上で欠かせない遺跡ばかりです。
一方、毎年の様に新たな史跡が指定される中、平成28年熊本地震では特別史跡熊本城跡が被災し、多くの人々が心を痛めました。現在、復旧工事が行われていますが、このように近年は災害からの復旧・復興も史跡の大きなテーマとなっています。
史跡
三内丸山遺跡 特別史跡熊本城跡

 名勝
「文化財保護法」では「庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳そのたの名勝地で我が国にとって芸術上又は鑑賞上価値の高いもの」のうち重要なものとされています。
優れた国土美の有り様を様々な形で表現する名勝はは、風致景観の鑑賞を通じてその価値を発揮する記念物です。主として人間の作意と技術によって造られた人文的なものと、主として天然の営為や素材によって生じて来た自然的なものに大別されます。

著名な風致景観に名所を見出し、また、名所の優れた風致景観に価値を見出す名勝の特徴は、史跡と天然記念物とに重複して指定されることが多いことにもうかがうことが出来ます。
日本に暮らす人々がそれぞれの土地に紡いできた思いを、名所や風景、庭園に継いでいくのが名勝です。
名勝
特別名勝 栗林公園 特別名勝 松島


 303天然記念物
「文化財保護法」では、「動物、植物及び地質鉱物でわが国にとって学術上価値の高いもの」のうち、重要なものとされています。
天然記念物は、日本列島の成り立ちを示す地質現象や、過去の生物の姿を知ることのできるかせき、日本列島の生物地理学的な特性を示す固有種等の動植物などで、日本列島がたどってきた「自然史」としての意義を持っています。

更に、人が関り、作り上げた自然、即ち巨樹、ホタルなど日本人の自然観の形成に寄与したものや、並木、家畜・家禽など、人が関わって作り上げたものなので、私たちと自然との親密さを物語る「文化史」としての意義も持っています。

天然記念物を守ることは、地域の自然とそれにまつわる文化を守ることであり、天然記念物の価値を明らかにして生かすことで、人々の自然観や地域との繋がりを育むことが出来ます。
天然記念物 特別天然記念物
昭和新山
特別天然記念物
阿寒湖のマリモ
特別天然記念物
コウノトリ

 304記念物と埋蔵文化財
埋蔵文化財は土地に埋蔵されている文化財と定義されています。史跡、名勝、天然記念物がいわば文化財の種類であるのに対し、
埋蔵文化財は土地に埋まっているという文化財の状況により区分されており、記念物とは視点が異なります。

そのため、埋蔵文化財には貝塚や古墳の様に史跡に指定される遺跡もあれば、発掘調査で見つかる庭園の様に名勝に指定される遺跡もあります。
更に、国宝や重要文化財に指定されることもある出土遺物も埋蔵文化財です。
この様に埋蔵文化財は様々な種類の文化財と接点があるのです。

記念物と埋蔵文化財 史跡保渡田古墳群
群馬県
史跡・名勝
飛鳥京跡苑池
奈良県

 305記念物とは
我が国の長い歴史の中で生まれ、育まれ、今日まで守り伝えられて来た有形、無形の文化的所産のことを「文化財」と呼びます。
記念物はこうした文化財の一つで、指定記念物としては「史跡」「名勝」「天然記念物」の三つに分けられます。
種類が多く広範囲にわたる中から重要なものを選び、更にその範囲を確定するには、様々な調査や研究が必要です。

分布調査、発掘調査、文献調査などを実施して記念物の「守るべき価値」と「守るべき範囲」を明確化した上で文部科学大臣が文化審議会に諮り、指定された記念物は、所有者または管理団体が日常的な管理を行い、現状を変更する場合は文化庁長官の許可が必要で、所有者は国、地方公共団体、法人、個人など様々ですが、国庫補助や税制上の優遇措置などで経済的負担を減らし、連携を図りながら保存・活用を行っています。

記念物とは
文化財(ピンボケ) 記念物の件数


 310クイズ
           
史跡・名勝・天然記念物アイコン
 


 321内堀4号墳:馬形埴輪 群馬県前橋市西大室 大室古墳群 
前橋市西大室町・東大室町という赤城山南麓に前方後円墳がまとまって存在しています。このうち前二子、中二子、後二子、小二子古墳の4つの古墳が史跡指定されています。
史跡指定範囲外にも、10以上の古墳が点在しています。その内の一基である内堀4号墳は、円墳で直径約20mで、馬形を始めとする形象埴輪が出土しました。史跡指定された古墳と共に大室公園として整備されます。

内堀4号墳
馬形埴輪

 322記念物を守り伝える
  ~史跡・名勝・天然記念物の今昔~
記念物を指定し、保護する最大の目的は、貴重な国民の宝を守り未来へと伝えることです。
本質てときな価値を失わせることなく、価値をわかりやすく伝えるための取り組みも重要になります。

ここでは、いくつかの「記念物の古写真と現在の姿を紹介します。
今も昔も変わらぬ姿を見せるものもあれば、往時の姿を復元したものもありますが、いずれもその歴史的・文化的価値を失うことなく、現在に至ったいることがお分かりいただけると思います。」

 特別史跡水城跡 鬼瓦 福岡県大野城市下大利3丁目
663年の白村江の戦いの後、防衛のために築かれた防御施設です。大野城に連なる丘陵端から西方に向けて丘陵を次々と結び、博多湾からの平野開口部を遮る形で、東西に延びる大土塁は、全長1.2kmに及びます。更に、博多湾側の防御全面には幅60mの巨大な濠が設けられています。

記念物を守り伝える 特別史跡水城跡 鬼瓦 鬼瓦

 323特別史跡や史跡の価値を示す遺物
記念物の価値を明らかにするためには、学術的な調査が必要になります。中でも土地に埋蔵されている文化財は、発掘調査により、その価値が明らかになります。そして、発掘調査で出土する遺物は、遺跡の時期や性格を明らかにする上で重要な情報を与えてくれます。

 史跡青谷上寺地遺跡:卜骨・骨角器 鳥取県鳥取市青谷町青谷  
弥生時代中期に最盛期を迎えた集落遺跡で、海岸部の立地と大陸との関係を示唆する出土品が多く、当時の交易拠点と考えられています。
出土物には、通常の遺跡では依存することが少ない木器・骨角器等の有機質遺物、鉄器・青銅器などの大量の金属器のほか、殺傷痕の残る人骨、頭蓋骨の中から脳が出土したことなどで大変注目されました。

特別史跡や史跡の価値を示す遺物 青谷上寺地遺跡 史跡青谷上寺地遺跡:卜骨・骨角器
骨角器(ヤス) 骨角器(釣針) 卜骨

 325特別天然記念物の剝製
 トキ
一族一種の貴重な鳥で、学名はニッポニア・ニッホン。水辺を好みドジョウやカエル等を食べる。かつては東アジア一帯に分布していたが、20世紀後半までに中国と日本を除き絶滅。日本のトキも昭和56年に野生下から姿を消した。
平成11年に人工増殖に製鋼し、平成20年から佐渡島で野生復帰が開始された。現在は約340羽が国内の野生下で生息している。

 コウノトリ
コウノトリ科の大型の鳥で、翼を広げると2mを超える。ロシア、中国、朝鮮半島、日本に分布し、水辺を好み、魚類やヘビ等の小動物を食べる。
かつては全国各地で見られたが、明治以降に激減し、昭和46年に日本のコウノトリは野生下から姿を消した。昭和63年に人工増殖に成功し、平成17年から兵庫県で野生復帰が開始された。現在は約140羽が国内の野生下で生息している。

 カモシカ
日本固有種で、鯨偶蹄目ウシ科ヤギ亜目に分類される。かつては乱獲により一時絶滅の危機に瀕したが、特別天然記念物指定により保護され個体数が増加。昭和40年以降は各地で食害も発生し対策が取られてきた。一方で、近年は四国や九州島で減少傾向にあることも報告されている。
東南アジア的要素の哺乳類相が日本にも入ることを証する遺留型動物として貴重。

トキ
コウノトリ
カモシカ
 


 330次の年に向けて
  ~記念物を生かし伝える~  ピンボケです
記念物はひとたび失われてしまうと元の姿には戻せません。そのため、将来に渡る手厚い保護が必要です。ただ、国民の宝を守るためには、多くの方々がその重要性を理解し、未来へ残し伝えて行こうとする機運を高めることが最も大事です。
そこで、本企画の最後に、行政と市民が一体となって行っている「記念物を活かす」ための取組を幾つか紹介いたします。
 331
 333各地の取り組み ピンボケです
復元された建物群 ~史跡出島和蘭商館跡(長崎県長崎市)~

出島は、日本とオランダの交流を示す史跡です。
整備事業は昭和26年から始まり、現在も続けられています。

発掘調査や文献資料、図面や模型などをもとに、復元された建物群に人々が訪れに義をっています。
市民の手でよみがえった弥生のムラ ~史跡地蔵田遺跡(秋田県秋田市)~

地蔵田遺跡では、全国に先駆けて整備の○○から市民参加を呼びかけました。

愛称の選定、竪穴建物・木柵・土器棺・土壙墓の復元などの作業に市民と生徒が携わり、
行政と連携したボランティア組織による史跡の管理運営が行われています。
イタセンパラの保全を目的とした池の整備 ~天然記念物イタセンパラ~

富山県氷見市では、イタセンパラの保全のために池を整備しました。
産卵のために必要なイシガイを地元の幼稚園児が放流するなど、イタセンパラの増殖を図っています。
中山風穴地特殊植物群落の歩道の整備
  ~天然記念物中山風穴地特殊植物群落(福島県下郷町)~

風穴から出る冷気によって山地帯に成立した亜高山帯植物群落の維持管理のために必要な管理道路を整備しています。
観光客の安全にも役立っています。
よみがえった庭園 ~名勝旧池田氏庭園(秋田県大仙市)~
 
 近代東北三大地主の池田家の邸宅に造営された庭園は、長く手入れが行き届かないままでした。

 しかし、平成16年の名勝指定遺構、保存整備事業により往時の姿を蘇らせつつあると共に
 保護に向けた様々な人々の活動が展開しています。
風光明媚な景観を維持する努力 ~名勝三保松原(静岡県静岡市)~

風光明媚な白砂青松を代表する三保の松原では、
美麗な松林を保全するために環境改善が継続的に行われました。

その多面的な価値を伝えると共に保護に向けた取り組みの総合的な拠点として、
三保松原文化創造センターが整備されました。
 


 400三内丸山遺跡センター 地下収蔵庫
 縄文ビッグウオール
この壁には、三内丸山遺跡から出土した土器片が使用されています。1列に約320個、全部で5120個にもなります。
下から上に向かって新しい時代のものになり、(約5900~4200年前)黒っぽい色が明るい色になっていくことが分かります。

縄文ビッグウオール