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日向洞窟遺跡群には、もう一つ、日向洞窟西地区があり、現在注目され、発掘中が続いています。 山形県の有名な遺跡は、①日向洞窟、②押出遺跡です。②は、うきたむ考古資料館が独占展示で撮影禁止です。 ①は高畠郷土資料館、うきたむ考古資料館、山形県立博物館の3か所で展示されています。 そこで、①山形県の旧石器・縄文の概要 ②日向洞窟・日向洞窟西地区の概要 ③押出遺跡の概要 を調べました。 日向洞窟遺跡と周辺遺跡の出土物は、山形県最南端で、標高の高い地域にあり、広大な湿地が広がっていた土地柄で、独特な文化がありました。 しかし、、展示を見るだけでは、高畠町の縄文・弥生・古墳・古代の様子がイメージ化されませんでしたので、文献から補いました。 |
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資料 001山形県の地形・地質と古環境 以下転載「旧石器から日向へ」山形県うきたむ風土記の丘考古資料館 出版情報
山形県の盆地図地図です。←新庄盆地の右(東)は「向町盆地」、 伊佐沢峡谷の左(西)は「小国盆地」で、代表的な盆地は7つあります。 ただし、向町盆地は約80万年前の噴火で形成されたカルデラです。引用カルデラの一覧 この盆地地図をはじめ、引用のページは全て©著作権が設定されています。しかし、県内を紹介するような図表に©を付けるのはおかしいと思う。 |
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資料 山形の旧石器時代 003野尻湖・上屋地遺跡 野尻湖では、4.5万年前、図にあるのと同じ石器が、偶然、発見されていました。 野尻湖の旧人はほとんど骨角器を用いていて、石器は大変数少なく、にもかかわらず、その中でも重要な石器が発見されていることに驚きます。 上屋地遺跡では、4万年前、石を打ち欠いただけの礫石器よりもかなり進歩した、石核から作りだす、斜軸尖頭器が使われていました。
考察 山形の旧石器時代と特徴 前期旧石器時代 (約200万年~約10万年前) 20数万年前、アジア大陸から列島へ動物が移動し、ナウマンゾウやオオツノシカを追って西から旧人が入り込み、 中期旧石器時代 (約10万年~3万年前) 4.5万年前には野尻湖に旧人が現れた。 (フォッサマグナ地帯を南北に移動するナウマンゾウの回遊経路があったと推定されるそうです。) 山形では4万年前、中期旧石器時代の上屋地遺跡に現れた。 上屋地遺跡 リンク01 02 彼らは古中津川湖のほとりに野牛やナウマンゾウを狩って棲み付いた。 円盤形石核から作る、斜軸尖頭器を使っていた。 後期旧石器時代 (約3万年~1.5万年前) 新人=ホモサピエンスの登場 前期(Ⅰ) 3~2.5万年前 長さが幅の倍以上の石片を石刃と呼ぶ。 懐ノ内遺跡は、「米ヶ森型台形石器」の時代、つまり、ナイフ形石器(石刃)・台形様石器・台形剥片のセットだった。(下に写真引用) 岩井沢遺跡は3~2.5万年前の石刃技法のナイフ形石器の出現期の遺蹟である。 中期(Ⅱ) 2.5~2万年前 ナイフ形石器文化の時代 (3万~1.3万年前 後期旧石器前半から細石刃文化まで共伴する) 剥片素材の石刃を加工して、槍先・ナイフ形石器・掻器・削器・彫刻刀形石器を製作した。 山形県のナイフ形石器文化は、 杉久保型、東山型、及び、国府型が一部で見られる。
後期(Ⅲ) 2万年~1.5万年前 細石刃文化の時代 細石器を使用して軽量の投げ槍を創出した。 長さ数㎝の細石刃を、骨や木の軸の両側に彫り込んだ溝に、樹脂や動物の油で固定した。足の速い動物向きの狩猟具。 東北アジアでは、ボート形(船底形)細石刃核 で細石刃を量産。 山形県でも湧別技法 (船底形細石刃核・楔形) で行われた。 山形県西置賜郡小国町の 湯の花遺跡から北海道白滝産黒曜石が出土している。 槍先形尖頭器の広がり ナイフ形石器の盛行期 (約2万年~約1.5千年前) に出現 引用Wikipedia槍先形尖頭器の出現と発達 ・ナイフ形石器は後期旧石器時代末葉に衰退し、代わって槍先形尖頭器が著しく発達し、量的にも増加する。(初期尖頭器) 初期尖頭器―小型・多様な面調整をしていた。 ・尖頭器は、細石器盛行期に一時的に減少するが、縄文土器が出現する前後に最盛期をむかえる。(発達期の尖頭器) 後者は長大で両面調整。また、有舌(有茎)尖頭器が伴う。縄文時代の槍先形尖頭器は上述の発達期尖頭器の後半部にあたる (※槍先型尖頭器は、縄文時代には石槍と呼称する)
資料 006後期旧石器時代Ⅱ期 ナイフ形石器の地域格差 引用旧石器から日向へ
資料 007後期旧石器時代Ⅲ期 細石刃文化の流入
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考察 山形の旧石器時代~縄文草創期の土器石器
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資料 グリーンタフと火山フロント 東北地方を特徴付けるものにクリーンタフ=緑色凝灰岩地帯があります。 洞窟住居と言えば、西日本では石灰岩洞窟ですが、東北では凝灰岩洞窟です。 その形成過程を紹介しています。
考察 日向洞窟の古環境 -縄文草創期の山形- 緑色凝灰岩地域の形成 ※珪質頁岩は、火山灰から形成される、石英質頁岩(堆積岩)で硬質である。
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展示 02外観
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資料 日向洞窟と周辺の遺跡群 山形県東置賜郡高畠町竹ノ森字姥が作 転載日向洞窟 - 日向洞窟の概要 - Weblio辞書 概要 高畠町の立石山(標高230m)の麓に南に開口する洞窟。本洞窟周辺に14地点(尼子洞窟群、観音岩洞窟群など)の洞窟遺跡群が存在し、 洞窟遺跡がこれだけ同じ地域に密集しているのは全国的に稀とされる。 国指定史蹟、名勝天然紀念物。 二つの洞穴と二つの岩陰からなる縄文・弥生・古墳時代にわたる遺跡である。 西より第Ⅳ岩陰、第Ⅰ洞、第Ⅱ洞、第Ⅲ岩陰とよぶ。 第Ⅰ洞穴は人口がほぼ真南に向いており、北からの強い風雪は全く受けない。洞内は、入口の高さ3m、巾5m、奥行は13mとなった。 第Ⅳ岩陰は縄文早期、第Ⅱ洞は縄文前期、第Ⅲ岩陰は縄文晩期から弥生時代遺物をそれぞれ最も多く出土した。 引用山形県立図書館「日向洞窟」】 堆積層 基盤上に5層の堆積層があり、 第1層の表土には縄文時代晩期以降の遺物(土器、石器など)、 第2層の表土には縄文時代晩期から早期の各時期の遺物、 (※第3・5層無遺物) 第4層の表土には縄文時代草創期の遺物包含されていたことが確認されました。 新潟県の小瀬ヶ沢洞窟、長崎県の福井洞窟と並んで、旧石器文化から縄文文化への発展過程を解明する上で重要な資料となった他、 人々がここで1万年以上前から住居として生活を送っていたことや、縄文草創期の存在が証明されるきっかけとなった。 主な遺物 隆起線文系土器 後続爪形文系土器 多縄文系土器 参考日向洞窟とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書 日向洞穴 大谷地 (湖) の地形と成因 引用旧石器から日向へ 大きく変わった環境と文化 日向洞窟の西に広がる大谷地は、新生代第三紀1100万年前の噴火によってできた陥没地帯による低湿地で、周囲10㎞深さ1㎞で、 湿地性植物の堆積、泥炭層の形成、周囲の山地からの凝灰岩砂礫の流入堆積などを繰り返していた。 現在では埋め立てられ、かつての噴火口である白竜湖のみが残されている。 谷地 (やち) =アイヌ語で低湿地の意味
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展示 10日向洞窟 (ひなた) 縄文時代草創期~古墳時代 洞窟は、近世以前より存在が知られ、江戸初期には「鬼穴」と呼ばれ禁足地であった。幕末以降の開拓で周囲で土器石器が見つかっていた。 昭和30年以降四次に渡る調査で、一万年にわたる複合遺跡であることがわかった。 (周辺は現在も発掘中である。) 上層から、平安・古墳・弥生の、最下層から、微隆起線文・爪形文土器等が発見され、これにより、縄文時代に「草創期」の区分が設定されました。 日向洞窟、西地区から、竪穴住居跡3棟と、おびただしい遺物が発見された。 中でも膨大な量の石器は、縄文時代の始まりの時期のものがほぼ揃っており、日向洞窟遺跡は我国考古学史上極めて重要な遺跡であった。 |
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11パネル
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日向洞窟出土品 12縄文時代 草創期・早期土器
考察 隆線文土器 粘土紐の貼り付けによって文様をつけた深鉢形土器で、縄文時代草創期(早期、土器出現期)の初めを特徴づける日本最古の土器。 (1)長崎県泉福寺洞穴出土の豆粒文土器、 (2)長崎県福井洞穴の太い隆線を口縁部に数条貼り付けた土器、 (3)長野県石小屋洞穴、東京都なすな原遺跡の細く低い微隆起線をつけた土器、 (4)山形県日向洞穴のような微隆起線とハの字状爪形文を施文した土器、の順序で変遷する。 口縁部は水平で平底または丸底、器厚5㎜くらいのもろい土器。 製作法は円板状の粘土を継ぎ合わせて成形しており、縄文土器一般の積上げ法とは違う。 九州地方の隆線文土器には細石刃が共伴し、本州、四国の隆線文土器には有舌尖頭器、スクレーパーが共伴する。 先土器時代から縄文時代への推移は複雑であったが、隆線文土器の斉一性は強く、撚糸文・押型文土器以降の地域差はまだ生まれてない ようである。 [十菱駿武] 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 ※スクレイパーは、箆・削器・掻器などと訳される。このような表現は厳密さに欠ける、あいまいな表現です。 |
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考察 日向洞窟西地区 石器製作工房址 遺跡 西地区は、日向洞窟の西150mにある、北東アジアでも当該期有数の石器製作址です。 製作址 4つの石器ブロック (石器製作建物跡、調査区外にかなり広範囲に多数広がっていると予想される) が確認され、1,678点の石器が確認されている。 石器種類 槍先尖頭器26%、石鏃33%と狩猟具が6割。 石族は同時期の東日本最多で、弓矢の重要性が高まっていた。 円刃掻器16%など加工具が40%で、特に箆形石器が安定して使われるようになりました。 石材 石材の90%が珪質頁岩ですが、ここでは採れず、離れた場所の別の河川で採取し、粗加工して (大形ブランクで) 運び込まれました。 製品 尖頭器は剥離作業の内容から、①粗く大きな剥離 ②面的な平坦剥離 ③幅10㎜程の押圧剥離 ④幅2~3㎜の押圧剥離に区分されます。 主製品は、②で完成の木の葉形の大・中形品を中心に、④で完成の柳葉形の中小型品が若干製作されました。 完成品はほぼ持ちだされました。 発掘品のうち、完成品の割合は、円刃掻器74%、石鏃42%です。 これらは居住地付近の狩猟場で使用されたようです。 引用旧石器から日向へ 大きく変わった環境と文化 |
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資料 日向洞窟西地区 押出遺跡 転載山形県押出遺跡出土品とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書 おんだし 日向洞窟西地区にある泥炭層上の低湿地 に造られた集落遺跡 (山形県東置賜郡高畠町深沼字押出) 縄文時代前期の集落跡。 (南米インカのチチカカ湖の泥炭の浮島に暮らすインディオとよく似た環境だと思います。) 遺構 約4000㎡の範囲から多数の柱根を残す、特異な建設方式の平地式住居跡35棟が出土した。 (下図・写真参照) 遺物 縄文時代前期後半の土器・石器・木製品類、動植物遺存体等や、彩漆土器等が多量に出土した。 土器 大木式の粘土紐貼付文が特徴的な深鉢形土器28、鉢形土器・台付鉢形土器・浅鉢形土器各一箇、多様な造形の小形土器23、 石器 押出ポイント (基部につまみ状の突起がある石刃) 116、石槍7 石鏃・掻器・石匙・石錐等の利器類706、 磨石・凹石・食物の焼け痕が残る石皿等加工用石器類57、石製装飾品9、小形石棒2、 木製品 赤漆櫛・盤・杓子・石斧柄・手網・箆状木製品残欠等多彩な木製品類33。 樹皮製品 樹皮製品1 (扁平な樹皮を折り曲げて左右を別の細い樹皮で縫いとった樹皮製品)、もじり網みと思われる編物残欠一括、 食物 炭化食物52 (渦巻や曲線で隆帯状の文様を付けた縄文クッキー)、いずれも当時の生活を生々しく伝えている。 この中で、赤漆櫛4 (残欠) は、我国現存最古の結歯式2、 撚り紐を漆で固めて歯をつくり出した他に例がないもの2を含む。 小形土器には、内部にべったりと生漆が付着したものもある。 箆状木製品は木剣を思わせる尖頭状の製品もあり、木製祭祀具の可能性もある。 小形石棒も、造形が整った石棒としては、縄文時代でも最も古いもののひとつである。 さらに石製装飾品は、素材に玉髄・琥珀・流紋岩製玦状耳飾残欠・管玉等で構成され、 押出遺跡の広域な物流を物語るが、特に琥珀は縄文時代本州最古の製品として貴重である。 平地式住居遺構 押出遺跡は低湿地帯に営まれた縄文前期、大木4式期の集落跡である。縄文クッキーや彩文土器の出土で知られている。 住居構造 住居構造は竪穴住居ではなく、床を掘下げない平地式の「壁立式住居」で、柱に丸太や割材の先端をとがらせて打込んだ、特異な住居跡です。 引用押出遺跡と縄文クッキー - 置賜文化フォーラム 住居跡は杭状の柱根が床面の外周に隙間なく打ち込まれた状態で検出された。 柱根の太さは5㎝~20㎝で、打込みの深さは50cmから深いもので2mに達する。 確認された住居跡は35軒とも38軒とも報告されていて、 杭の総数は4,000本にも上る。 住居の形状は円形、長方形、楕円形とさまざまで、主柱を持つ住居と持たない住居があり、 ※炉跡は住居内からは検出されていない。 (※寒冷・豪雪地で炉なしの住居はありえず、これは住居ではない。) ※2小型の住居は、1号住居の約4m×3mの長方形、17号住居の約3m×3m方形、2号住居の直径約4m円形で、いずれも中央に主柱が 1本見られる。また、最大の11号住居は長方形で、規模は長軸約10m短軸約8mである。 柱根は2重3重に巡り、床面はマウンド状に約30cmの 盛り上がりが見られる。 床面直上からはおびただしい量の建築材が見つかり、転がし根太と考えられている。 床面のマウンド状の盛り上がりは、15号、20号、30号住居 にも見られ、同様に柱根が2重3重に巡る。 宮本長二郎氏によると、柱を打ち込み立替えの度に粘土貼り床を重ねたのではないかという。) 転載斜里町埋蔵文化財センター 押出ポイント 押出遺跡型尖頭器の意味で、おんだしポイントと呼ばれるこの地域独特のナイフです。 低湿地に生えるアシやヨシ、ススキなどを刈り取るための道具です。チチカカ湖の浮島に住む原住民の暮らしとそっくりの生活をしていたようだ。 で、このおんだしポイントは忍者の道具クナイそっくりで、握り方も同じ様にして使って切りました。 12a押出遺跡 縄文前期 (大木4式期) 大変重要な意味を持つ必見の遺跡です。資料の大部分が山形県立うきたむ考古資料館に撮影禁止で展示されています。 仕方ないので公開されている資料から紹介します。 押出遺跡の住居 遺跡はアシやヨシの生い茂る湿地の泥炭層の上にできた浮島状の集落である。どのような立地条件があったのでしょうか。 チチカカ湖の原住民は生贄用人狩りから逃れてとも言われています。 押出では鮭鱒も遡上する広大な水辺の水産物に頼った生活だったので しょうか。
※磨製石斧=玉斧 玦状耳飾 彩文土器 は、 大陸由来の渡来文化であり、縄文前期の山形県最奥の不便な山中にまで、製作技術や製品が伝播していたようです。 12b 引用 押出遺跡調査報告書3
考察 押出遺跡の特徴は、湿地特有の生活様式は、淡水漁と、水鳥捕獲、葦などの利用でしょうか。すると、道具を解釈すると、 押出ポイントは葦切り道具。 箆状木製品は葦で屋根を葺くときの叩き道具。 三角スクレイパーは鳥や鮭の皮をなめす道具。 異形石器の一部は、釣り針ではないのでしょうか。必ず糸括り (くくり) の部分があります。 |
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展示 日向洞窟西地区 石器製作工房の遺跡 13草創期石器
掻器 皮なめしに使う道具です。日向洞窟から300点を越す出土数から、日向の主要な生産品だったと思われます。 削器 剥片側縁に刃を付けただけの簡単な石器であるため、形態も多様です。主に物を削る、あるいはナイフのような機能だと考えられます。 石錐 穴を開ける道具。縄文時代全期間にわたって普遍的に使用されました。 ※1半月形石器 「植刃」「断面三角形の錐」「矢柄研磨器」などと共に、縄文文化最古段階に出現する特有の石器です。 形状から半月形石器と呼ばれていますが用途や機能は不明です。日向洞窟・尼子岩陰遺跡出土。 ※2尖頭器 縄文時代の直前、旧石器時代終末期に盛んに作られた石の槍は、徐々に小型化し、縄文時代に入ると有舌尖頭器へと変化する。 そして石鏃が誕生すると考えられている。 ※3打製石斧 打製石斧は300点を数える。これも石鏃・半月形石器と共に多い出土量である。日向洞窟で作られた石器が日本各地に流通したの かもしれない。草取り、穴掘りに用いた道具で、地下茎・根菜類などの植物食が開始されたことがわかります。 ※4矢柄研磨器 二個一組で使用され、上下から挟んで矢の柄を磨く道具です。半月形石器や断面三角の錐等と同様、草創期にしか出土しない。 これまで最多の三重県菰野遺跡の11点を越える40点が、日向から出土している。 |
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14早期人骨 日向第Ⅰ洞窟出土人骨 洞窟内の地表下1mから発見。伴出土器から7000年前と推定。 成人男女の骨で、推定身長は150cm。 落盤による圧死ではなく、埋葬によるものでしょうか。しかし、他に大量の動物骨が出現しているので真相は不明ですね。 |
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15町内各遺跡の打製石斧
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16石器材料 頁岩・黒曜石 |
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20縄文時代の祭祀遺物 Panel
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21パネル |
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22祭祀遺物 周辺遺跡の出土物
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30縄文時代の生活 土器の発明は人々の生活を一変させました。 土器を使用して煮炊きすることができるようになると、固くてアクの強い植物が可食となり、また、加熱によって 食物の保存や携帯性が格段に向上しました。 生活様式の変化は身の回りの道具類、即ち石器にも大きな変化をもたらしました。 獲物を追って移動し続ける生活から、実り豊かな土地や猟場の近くに、ある程度定住するようになり、竪穴式住居が作られるようになりました。 また、食物の多様化は、道具の多様化を促し、弓矢が発明されたのもこの時代です。鏃や矢柄研磨器がそれを示しています。 木の実を加工する石皿や、漁労に用いる道具が発明されたのもこの時代です。 |
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31パネル |
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32縄文土器 |
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33前期土器片 |
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34中期-後期土器 |
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40中期-晩期土器 |
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41後期-晩期 周辺洞窟・岩陰遺跡の出土物 |
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42中期-晩期 |
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押出遺跡 43線刻土器 押出遺跡 前期 |
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50縄文石器1 押出遺跡 |
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51石箆 上方が狭く、下方が広がるほぼ左右対称の石器で、箆状石器とも呼ばれます。木や骨の切削具として、あるいは皮なめしなどの搔器として 用いられたと考えられています。地域的には東北から北海道にかけての比較的限られた地域に分布しています。 |
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周辺遺跡出土 53石槍・石錐
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54石匙 「つまみ状の作り出し」をもつ石器で、一般的なナイフとして使用されたと考えられています。 石匙にはいろいろな名称があり、江戸時代には「天狗の飯匕(めしかい)」「狐の飯匕」などと呼ばれ、現在でも「石小刀」「皮剥ぎ」などと呼ばれて います。
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Wikipedia石匙引用 石匙(いしさじ)とは - コトバンク 時期的には縦型の方が早く現れて、東北地方から北海道にかけての縄文時代早期の遺跡から多く出土し、 近畿の前期では横型が中心で、まず伊勢に現れ、前期初頭には関東地方に波及し、前期後半には東北地方北部から北海道西南部に達するが、 中期以降になると縄文文化の全域にわたって双方が優勢を占めるようになる。 石材は、東北地方では珪質頁岩関東・中部地方は珪岩・黒曜石、西日本においてはサヌカイトが多い。 これらの違いは時間差や地域性を微妙に反映し、縄文文化の内容に多様性のあることを示す遺物の一つである[1]。 エスキモーが万能ナイフに使った石器(ウル)の形状は、横型石匙と酷似しています。 |
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60縄文石器2 日向洞窟・押出遺跡 |
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61石鏃 矢の先端に付ける石製鏃で、「矢の根石」とも呼ばれています。遺跡から発見される数も多く、消耗品として盛んに作られたことでしょう。 日向洞窟遺跡からは、各時期を通して多量の石鏃が出土しています。縄文時代の石器の中で最も代表的な石器です。
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62耳環 土製耳飾 縄文中期から晩期にかけて東日本を中心としてみられる装身具の一種で、耳たぶに開けた孔に挿入して用いられます。 形や大きさはいろいろで、中には径が10㎝に近い大型のものも見られます。 玦状耳飾 中央に円形の穴があり、下端から切り込みを入れたもので、耳に付ける装身具の1つです。中国の玉である「玦」に似ていることから 玦状耳飾りと呼ばれています。主に縄文時代前期に盛行しました。 環状の輪の一部を欠いたC字形の耳飾りで、耳たぶに穴を開け装着しました。 玦は中国古典の記述に由来する名称で、中国では約7千年前に揚子江下流の河姆渡遺跡から出土している。 玦が日本に伝わったのは縄文早期末頃(約6500年前)と言われている。 |
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64石剣・石棒 石棒 長い棒状を呈する磨製、敲打製の石器で、呪術的な性格をもつ祭祀に関わる用具と考えられます。 石棒は縄文時代中期に出現しますが、この時期のものは一般的に大型のものが多く、後期・晩期と徐々に小型化抽象化してゆきます。 |
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65土版・岩版 土版・岩版共に、東日本各地より縄文時代晩期の特徴的な遺物として発見され、土偶や石棒などと並んで呪術的な色彩の濃くみられるものです。 土版岩版は、材質の違いにより、区別されますが、共に同じ機能を持つと考えられます。 |
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周辺遺跡 70石器・骨器・祭祀具・土偶 |
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71土製品・石製品・骨角器 土錘・石錘 網を用いて魚を獲る際に使用された錘です。海を持たないこの地方にあっても川沿いの遺跡から発見されており、 小規模ながらも、川や湖で当時の主要な生産活動である漁業が営まれていたことがわかります。 砥石 石器を研磨したり、骨角器や木器の整形、研磨などに使用された石器です。「研磨する」という技術は縄文時代に進歩したもので、 数多くの磨製石斧がみられるように、この時代の石器の徳地洋の一つにあげられます。 鹿の角 非常に硬いので骨角器 (釣針、銛、ヤスなど) や石器作りの道具として使われました。 |
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72漁具
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73土偶 女性を象徴的にかたどったもので、腹部を膨らませて妊娠を示すものが多く見られます。 単なる玩具などとは異なり、縄文時代を代表する呪術的、宗教的な遺物としてよく知られており、その大半は、破損した状態で発見されます。 |
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80弥生・古墳時代 |
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81パネル |
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82土師器
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資料 東北の博物館を巡って東北の弥生・古墳の様子がわかる館はありませんでした。そこで、簡単にまとめておきます。 東北地方の弥生・古墳時代
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東北の弥生文化の特徴 東北の弥生文化では、銅剣・銅鐸など青銅祭器も、激しい戦乱を物語る環濠集落や高地性集落も出現せず、 王墓のような階級の存在を思わせる 遺跡もない。 土器に弥生文化を影響されながら、縄文が多用され、弥生文化であるのに、土偶や、縄文以来の石器が使用されている。 構造主義哲学が言う通り、新たに付け加わった稲作農耕以外、縄文系弥生人の暮らしは縄文文化のまま何一つ変わらなかった。 |
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天王山式土器と縄文回帰人の拡散 弥生後期 2c~3c寒冷期に弥生稲作農耕民が撤退した。縄文系弥生人の中には、既に失われていた縄文生活に戻る動きがあった。 寒冷期には縄文生活への回帰を行い、縄文を多用する天王山式土器が生まれた。(東北~東海の広域に分布する) 天王山式は、白川市天王山遺跡を指標として、新潟など北陸北半から東海地方にかけて広範な分布を見る。 口縁部の2本の沈線の間に上下から刺突を加えた交互刺突文が特徴的で、頸部より下半部は細かい縄文や磨り消し縄文が施される。 (縄文的デザイン) この弥生後期の土器は、寒冷期の紀元2世紀~3世紀にあたる。県内の丘陵地や山間部からの発見が多い。 弥生前・中期の最上川流域低地部の遺跡立地とは対照的である。 (生活の場が広い低湿地や平野部から、狭小な山間部や畑地向きの丘陵部に移ったこと) 寒冷で稲作不能ため、仕方なく縄文の生活、山地人の暮らしに戻った証拠である。その時の土器が天王山式であった。 しかし、その範囲が、東海、信州、関東北部、新潟、東北と、東日本の広範囲に広がっているということは、狩猟動物を求めて広範囲に移動したから である。 |
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アイヌの南下 この時期、北海道から続縄文文化の後北式や北大式土器が、東北南部や北陸北部にも南下し、北からの影響が一時的に強まる。 北海道から寒冷のために南下してきた多数のアイヌが、縄文系弥生人が放棄した土地に移り住んだ。 後に、これらのアイヌはやがて大和政権との対峙で一斉に北海道に引き上げることになる。 弥生終末期から古墳前期にかけて、太平洋側の宮城県北部~岩手県南部にかけて古墳時代の集落遺跡と入り組んだ形で続縄文土器の遺跡が 分布する。 北と南(アイヌと弥生人)の境界領域の一端が窺われる。 (この時、アイヌは弥生人にマタギの狩猟技術を伝授している。東北各地に広がるアイヌ語地名もこの時のものです。) |
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東北の古墳時代 古墳時代初頭に古墳文化人による大規模な入植が行われ、古墳文化が始まった。 古墳時代 水田稲作の展開と定着 4世紀に、庄内・山形・置賜地方に水田稲作が拡大定着し、農業主体の社会に変革し、地域に首長が出現して古墳が営まれるようになった。 これは、古墳時代初頭に、北陸・東海・関東から大量の入植者が流入し、特に、扇状地の扇端を開拓して稲作農耕を行う集団の文化である。 それは4c~5cにかけて、畿内にヤマト政権が出現することを契機に、急速に頻繁な人とモノの移動があったことを物語る。 この集団によって最初の古墳が営まれ、これまでとは質的に異なった政治的社会が成立していくのである。(朝鮮半島の身分社会) |
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出羽丘陵の、盆地に臨む先端部には、5世紀後半の菅沢2号墳・大之越古墳や後期以降の谷拍古墳群・速見堂古墳群などがあり、早い時期に 地域の政治的統合が行われたとみられる。つまり、4c-5cにやってきた半島系弥生人によってこの一帯が武力支配されたということです。 これ以降、周辺にはおびただしい古墳と集落遺跡が検出されるようになります。以降は原文にてご覧ください。 原文最上川と水田稲作の受容 ・ 展開 - 東北地方整備局 著者 川崎利夫 山形県立うきたむ考古資料館館長 |
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展示 90古墳時代 |
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91須恵器は、 中国の「灰陶」に起源を持つ朝鮮半島の陶質土器にその源流が求められ、5世紀中葉頃 (400年代の半ば) に成立しました。 須恵器は、土師器が各村落内で自家消費的に作られたのに対し、専門工人の手によって集中的に生産されたもので、「ろくろ」を用い、 窯を利用して焼成する青灰色の須恵器は、縄文式土器以来の伝統を受け継ぐ素焼き土器の土師器に比べ、全く新しい焼き物であったことでしょう。 土師器と須恵器はその後長い間共存することになります。
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※※ 加茂山洞窟古墳について
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93蕨手刀 刀身から柄の部分までを一体に作られた鉄刀で、柄頭の形状が早蕨頭部の巻き方に似ていることからこの名が付けられました。 刃幅が広い片刃の実用刀で、奈良時代から平安時代にかけて作られたと考えられています。 その多くは北海道・東北・関東・中部地方で出土しており、現在約200例ほど発見されています。高畠町では安久津古墳群の安久津1号墳と、 北目愛宕山中腹から1振ずつ出土しており、この地方の豪族の物と思われます。
資料 蕨手刀 古墳時代終末期 (6c~8c)にかけて東北地方を中心に制作される。7世紀後半頃の東北地方北部の古墳の副葬品の代表例の一つである。 柄頭(つかがしら、柄の先端部)が、蕨の若芽のような形態を呈するのがデザイン的特徴である。また、柄には木を用いず、鉄の茎(なかご)に 紐や糸などを巻いて握りとしている共鉄柄(ともがねつか)である。 蕨手刀の流通 全国で200点以上、ほとんどが古墳や遺跡からの出土である。分布は北海道・東北が多く特に岩手県からの出土が70点以上と極めて多い。 甲信越地方にも例が見られ、四国九州にも若干存在する。なお、正倉院にも蕨手刀(「黒作横刀」)が保存されている。 蕨手刀の形状 初期の形状は柄と刀身が直線的であるもの(直刀)が多い。東北地方では、刃が上を向くように柄に反りを生じるようになる。 湾刀の形状に近くなったのは騎馬戦が盛んになったためと下向井龍彦は指摘している。 また新しい年代のものには柄に毛抜形の透かしの入った形状を持つものがある。 引用蕨手刀wikipedia 考察 蕨手刀の製作者 蕨手刀はペルシャのアキナケス(剣)をもとにしたという。この剣は紀元前1000年頃の刀で、平安時代の日本にも伝わっていた。長く用いられた剣で ある。 蕨手刀製作風景の図には赤鬼が作っている絵があった。これは、北廻りで逃れてきた非モンゴロイド系渡来人が捕囚され、作らされている様子です。 蕨手刀 についてのHPがほとんど消えています。なにか、問題があったのでしょうか。 鉄の品質も悪く、刀剣としての実用性もぱっとしなかったが、朝鮮半島製や、国内産模造刀とは異なる形状で、珍重されたようです。 また、実用性が低いのに日本の広範囲に広がっていることから、特別な需要や流通経路があったものとみられる。 |
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展示 94装飾品 羽山古墳出土副葬品 羽山古墳は、羽山の中腹、標高280mにある横穴式石室古墳で10数基よりなる群集墳を形成していましたが、開墾などで破壊され、唯一残った ものです。 この副葬品は、人骨、直刀、刀子、鉄鏃などの鉄製品、提瓶・平瓶・坏などの須恵器などと共に羽山古墳より出土したもので、明治27に採取されて います。 中でも、勾玉、管玉、切子玉、臼玉、小玉などの725個もの玉類は、副葬品の少ない山形県の古墳の中にあって貴重なもので、 特に勾玉は、石質、形状、作り方に時代的特徴が現れたものと言われています。
加茂山洞窟古墳 山形県立考古資料館に、洞窟古墳について尋ねたところ、横穴墓 (おうけつぼ) のことだと言われました。 しかし、加茂山洞窟古墳の写真を見ていただくと、明らかに、洞窟を安置場にした。上の羽山古墳のリンク写真とは全く違います。 「うきたむ」で、知らないことが、ネット上に答えがあるはずもなく、真相は不明です。しかし、洞窟を古墳にした墳墓が実際にあったようです。 |