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 東北の縄文1 01  2016.10.12-1

   高畠町郷土資料館 山形県東置賜郡高畠町安久津2011  0238-52-4523 月曜休館 撮影可


 時代 縄文時代 草創期~古墳時代
 見所 日向洞窟遺跡の展示館です
 交通 車

石槍と押出ポイント

 日向洞窟遺跡群には、もう一つ、日向洞窟西地区があり、現在注目され、発掘中が続いています。
 山形県の有名な遺跡は、①日向洞窟、②押出遺跡です。②は、うきたむ考古資料館が独占展示で撮影禁止です。

 ①は高畠郷土資料館、うきたむ考古資料館、山形県立博物館の3か所で展示されています。

 そこで、①山形県の旧石器・縄文の概要 ②日向洞窟・日向洞窟西地区の概要 ③押出遺跡の概要 を調べました。
 日向洞窟遺跡と周辺遺跡の出土物は、山形県最南端で、標高の高い地域にあり、広大な湿地が広がっていた土地柄で、独特な文化がありました。

 しかし、、展示を見るだけでは、高畠町の縄文・弥生・古墳・古代の様子がイメージ化されませんでしたので、文献から補いました。
 
 



 

資料
001山形県の地形地質と古環境
  山形県の旧石器時代
003野尻湖・上屋地遺跡
   山形の旧石器時代と特徴
  前期旧石器
  中期旧石器
  後期旧石器
004後期旧石器Ⅰ期
  米ヶ森型台形石器系の遺跡
006後期旧石器Ⅱ期
  ナイフ形石器の地域格差
007後期旧石器Ⅲ期
  細石刃文化の流入

 参考
 山形の旧石器~縄文草創期
    の土器石器

 日向洞窟の古環境 

02外観

 参考
 日向洞窟周辺の遺跡群
 大谷地の地形と成因

 展示
10日向洞窟
11パネル
12縄文時代 草創期・早期
   隆線文土器

 日向洞窟西地区
  押出遺跡
 
13草創期
14早期人骨
15町内各遺跡の石器
16石器材料 頁岩・黒曜石 

20縄文時代の祭祀遺物
21パネル
22祭祀遺物
30縄文時代の生活
31パネル
32土器
33前期土器片
34中期~後期土器
40中期~晩期土器
41後期~晩期
42中期~晩期
43線刻土器 押出遺跡

50縄文石器1 押出遺跡
51石箆
53石槍・石錐
54石匙

60縄文石器2
61石鏃
62耳環
64石剣・石棒
65土版・岩版

70石器・骨器・祭祀具・土偶
71土製品・石製品・骨角器
72漁具
73土偶

80弥生・古墳時代
81パネル
82土師器
 
90古墳時代
91須恵器
93蕨手刀
94装飾品
 加茂山洞窟古墳

 資料

 001山形県の地形・地質と古環境   以下転載「旧石器から日向へ」山形県うきたむ風土記の丘考古資料館  出版情報

山形の地形と気候
山脈 山形県は周囲を7つの山地・山脈で囲まれ、標高は県南が高く県北が低い。
河川 県最長の最上川は県南米沢市 (標高260m) から県北酒田市へと流れている。全長229km
1000分の1の勾配、(1km流れて1m下がるという)極めてゆったりとした流れです。
盆地 県内には8つの盆地がある。東北地方が海底から隆起し、激しい造山運動によって陥没した地域で、湖を形成したが、土砂の流入や泥炭で埋もれ、平坦な地形をなしている。
気候 寒冷・豪雪地帯である。県南の米沢盆地は県北の山形市よりも気温が低いことも多い。
古気候 後期旧石器時代の最寒冷期、中期(Ⅱ期2.5-2万年前)には、-7~8℃で、山形が現在の樺太から シベリア南部の気候で、亜寒帯針葉樹林と低湿地の草原が混在していた。
山形の盆地と河川引用 山形県の山地山脈と
気象の地域的特徴引用

 山形県の盆地図地図です。←新庄盆地の右(東)は「向町盆地」、 伊佐沢峡谷の左(西)は「小国盆地」で、代表的な盆地は7つあります。
 ただし、向町盆地は約80万年前の噴火で形成されたカルデラです。引用カルデラの一覧

 この盆地地図をはじめ、引用のページは全て©著作権が設定されています。しかし、県内を紹介するような図表に©を付けるのはおかしいと思う。

 資料


 山形の旧石器時代

 003野尻湖・上屋地遺跡

  野尻湖では、4.5万年前、図にあるのと同じ石器が、偶然、発見されていました。
  野尻湖の旧人はほとんど骨角器を用いていて、石器は大変数少なく、にもかかわらず、その中でも重要な石器が発見されていることに驚きます。

  上屋地遺跡では、4万年前、石を打ち欠いただけの礫石器よりもかなり進歩した、石核から作りだす、斜軸尖頭器が使われていました。

旧石器文化の変遷 引用URBAN KUBOTA 35 野尻湖の石器/
4.5万年前引用化石発掘現場を見学
野尻湖文化の石器と骨器
野尻湖の石器/
4.5万年前引用化石発掘現場を見学
上屋地遺跡引用旧石器から日向へ 上屋地遺跡の石器/
4万年前引用旧石器から日向へ
斜軸尖頭器
山形県南部の旧石器遺跡
上屋地・岩井沢・日向

 考察


 山形の旧石器時代と特徴

 前期旧石器時代 (約200万年~約10万年前)
   20数万年前、アジア大陸から列島へ動物が移動し、ナウマンゾウやオオツノシカを追って西から旧人が入り込み、

 中期旧石器時代 (約10万年~3万年前)
   4.5万年前には野尻湖に旧人が現れた。  (フォッサマグナ地帯を南北に移動するナウマンゾウの回遊経路があったと推定されるそうです。)
   山形では4万年、中期旧石器時代の上屋地遺跡に現れた。 上屋地遺跡 リンク01 02

   彼らは古中津川湖のほとりに野牛やナウマンゾウを狩って棲み付いた。 円盤形石核から作る、斜軸尖頭器を使っていた。


 後期旧石器時代 (約3万年~1.5万年前) 新人=ホモサピエンスの登場

  前期(Ⅰ) 3~2.5万年前  長さが幅の倍以上の石片を石刃と呼ぶ。
    懐ノ内遺跡は、「米ヶ森型台形石器」の時代、つまり、ナイフ形石器(石刃)・台形様石器・台形剥片のセットだった。(下に写真引用)
    岩井沢遺跡3~2.5万年前石刃技法のナイフ形石器の出現期の遺蹟である。

  中期(Ⅱ) 2.5~2万年前 ナイフ形石器文化の時代 (3万~1.3万年前 後期旧石器前半から細石刃文化まで共伴する)

   剥片素材の石刃を加工して、槍先・ナイフ形石器・掻器・削器・彫刻刀形石器を製作した。

   山形県のナイフ形石器文化は、 杉久保型、東山型、及び、国府型が一部で見られる。
型式名 分布地域     特 徴
東山型 東北~北海道 石刃の基部を加工
杉久保型 北信・越~越後 石刃の先端び基部の刃潰し加工 (中部地方)
茂呂型 関東・中部山岳 剥片素材の二側縁加工 (先端をのこして両側面を加工した)
国府型 瀬戸内 横型石刃の一側縁への刃潰し加工
九州型 九州 基本的に茂呂型と同じであるが小型
関東と九州が同一系統の石器であるということは、茂呂型は南方系で、南から船に乗ってやってきた人々と考えられる。

 転載ナイフ形石器 - Wikipedia

  後期(Ⅲ) 2万年~1.5万年前
   細石刃文化の時代 細石器を使用して軽量の投げ槍を創出した。
     長さ数㎝の細石刃を、骨や木の軸の両側に彫り込んだ溝に、樹脂や動物の油で固定した。足の速い動物向きの狩猟具。

     東北アジアでは、ボート形(船底形)細石刃核 で細石刃を量産。 山形県でも湧別技法 (船底形細石刃核・楔形) で行われた。
     山形県西置賜郡小国町の 湯の花遺跡から北海道白滝産黒曜石が出土している。

   槍先形尖頭器の広がり ナイフ形石器の盛行期 (約2万年~約1.5千年前) に出現 引用Wikipedia槍先形尖頭器の出現と発達

     ・ナイフ形石器は後期旧石器時代末葉に衰退し、代わって槍先形尖頭器が著しく発達し、量的にも増加する。(初期尖頭器)
      初期尖頭器―小型・多様な面調整をしていた。

     ・尖頭器は、細石器盛行期に一時的に減少するが、縄文土器が出現する前後に最盛期をむかえる。(発達期の尖頭器)
      後者は長大で両面調整。また、有舌(有茎)尖頭器が伴う。縄文時代の槍先形尖頭器は上述の発達期尖頭器の後半部にあたる
       (※槍先型尖頭器は、縄文時代には石槍と呼称する)


004後期旧石器時代Ⅰ期
    米ヶ森型台形石器系の遺跡

 米ヶ森型ナイフ形石器
   東山型と杉久保型の両方の特徴を
   併せ持つ石器です。

          引用米ヶ森遺跡
米ヶ森型台形石器石核と台形石器
転載/米ヶ森遺跡
日本旧石器学会
石器作り引用旧石器から日向へ 懐ノ内F遺跡/斜軸尖頭器 石刃と台形石器
引用旧石器から日向へ
岩井沢遺跡の石器ナイフ形石器と台形石器
引用旧石器から日向へ

資料

006後期旧石器時代Ⅱ期

      ナイフ形石器の地域格差  引用旧石器から日向へ
ナイフ形石器文化の
地域格差
石刃技法とホロカ型彫刻刀形石器
北海道
杉久保型ナイフ形石器と石刃技法東北地方 切出型ナイフ形石器
角錐状石器
東日本の太平洋側
瀬戸内技法国府型ナイフ形石器
西日本・近畿・中四国
台形石器角錐状石器剥片尖頭器
九州地方
太郎水野2遺跡
山形県金山町
後期旧石器時代Ⅱ期ナイフ形石器/彫器/掻器

動物の解体場遺跡か
(キル・サイト)
湯の花遺跡
山形県小国町
後期旧石器時代Ⅱ期ナイフ形石器/彫器/掻器

白滝産黒曜石が出土
越中山K地点
山形県鶴岡市
後期旧石器時代Ⅱ期ナイフ形/船底形/掻器/削器/鋸歯縁/翼状剥片
瀬戸内技法接合資料
西日本からの移住者
ナイフ形石器文化の分布
引用バイカル湖から押し寄せた細石器文化
①ナイフ形石器なし
②杉久保型
③茂呂型
④国府型
⑤九州型(茂呂型)

一般的な分布図だが、かなり早期のものです。
東山型がない。北方からの東山型の出現は14000年程の遅れがあります。
越中山K地点の瀬戸内技法石器の資料は

某女子大教授が独占所有して外に出さず、従って文献資料もほぼ未発表である。

身勝手な、資料の隠ぺいであると思います。

 資料

007後期旧石器時代Ⅲ期
       細石刃文化の流入
シベリア・日本の湧別技法による細石核出土の主な遺跡
湧別技法はバイカル湖の西で生まれたと判明

引用書名不明
細石刃文化の発生・分布と日本列島への伝播ルート①アムール川→黄河文化センター→列島へ伝わり蔓延。②次は沿海州沿いに九州形細石刃が到着。
③最後に、荒屋型彫器を伴った新しい文化が、樺太経由で到着した。
引用Y染色体から日本人の故郷を探る
細石刃文化の拡大と伝播

荒屋型彫器・楔形石核はバイカル湖文化センターで獲得した最新の技術だったことが分かる。
引用細石刃文化

後期旧石器時代後半の植生と細石刃文化の東西差以前はこのような大雑把な分布図を信じていました。

引用細石刃文化



湧別技法集団の植民と遊動

円錐形・角柱形細石核文化の列島に湧別技法集団が来た。先住細石刃文化人を殲滅しながら圧倒的に列島を侵略植民した
引用「旧石器人の遊動と植民」稲田孝司
細石器文化の変遷
旧型細石刃は細・太型に分化していたが、新型細石人=湧別技法人の人数と戦略的な侵入方法には勝てず絶滅した。
引用比較文化史の試み
北から最後に届いた、
荒屋型彫器の4パターン
引用荒屋遺跡報告書
荒屋型彫器木・骨に、細石刃を埋め込む、溝を彫る道具

引用荒屋遺跡報告書
山形県湯の花遺跡
後期旧石器Ⅲ期
細石刃・細石核・ボート型細石核・スポール
引用旧石器から日向へ
人の流入
1500人の列島旧石器人に北から2000人の細石器人が流入し、混乱した。
引用日本人の基礎集団

 湧別技法
 ピリカ (美利河) 技法
 ホロカ (幌加) 技法
      引用道具革命

考察

 山形の旧石器時代~縄文草創期の土器石器
中期旧石器時代 30万年前~3万年前 斜軸尖頭器 (円盤型石核から作る)   上屋地遺跡
後期旧石器時代 3万年前~1.5万年前
Ⅰ期 3万年前~2.5万年前 台形石器― 懐ノ内F遺跡  岩井沢遺跡―ナイフ形石器
Ⅱ期 2.5万年前~2万年前 ナイフ形石器群 杉久保系、瀬戸内技法、東山系、切り出し形   お仲間林遺跡
Ⅲ期 2万年前~1.5万年前 細石刃石器群―ホロカ系、剥片系  湯の花遺跡
槍先形尖頭器、石器群
     
縄文時代草創期  1.5万年前~1万年前   
(前期) Ⅰ期  1.5万年前~1.2万年前  槍先形尖頭器、石器群  日向洞窟西地区
    神子柴系石器群  ――   無文土器
中期) Ⅱ期  1.2万年前~1.1万年前  槍先形尖頭器、石器群―  隆起線文土器
(後期) Ⅲ期  1.1万年前~1万年前  縄文的石器群    ――  爪形文土器・多縄文土器


資料


  グリーンタフと火山フロント
  東北地方を特徴付けるものにクリーンタフ=緑色凝灰岩地帯があります。
   洞窟住居と言えば、西日本では石灰岩洞窟ですが、東北では凝灰岩洞窟です。 その形成過程を紹介しています。

グリーンタフ地域
引用wikipediaグリーンタフ
 新生代・新第三紀・中新世(2300~1000万年前)

活発な海底火山活動で噴出した膨大な火山灰・礫が海底に堆積し、緑色凝灰岩となり

岩脈を通過する熱水により
 熱水鉱床となり、多種多様の金属鉱床を形成した。
火山フロント(火山列)
引用新地震学セミナー
活発な火山活動の原因は火山列。

プレートの沈み込み圧力で溶解したマグマが、上昇して地表に吹き出し、線状に並んで形成する火山帯。

火山灰の堆積は、流れの少ない静かな海底で、多数の火山が猛烈な噴火を続けていたことが分かる。

東北は地殻変動が激しい地域です


 考察

 日向洞窟の古環境 -縄文草創期の山形-

  緑色凝灰岩地域の形成

     ※珪質頁岩は、火山灰から形成される石英質頁岩(堆積岩)で硬質である。
1600万年前~1040万年前 (新生代第三期新第三期中新世前期~中期) の海底火山活動によって東北から北海道の日本海側に緑色凝灰岩形成。この活動によって各種金属鉱床が形成され、中期以降は石油や亜炭が形成されました。
   
1040万年前~ 中新世中期頃 プレート圧力により出羽山地や奥羽山脈が隆起し、同時に起こった火山活動により
 530万年前~ 鮮新世前期 沢山の火山が噴火し、山は隆起し、一方で火山性陥没で各所に深い湖ができました。
260万年前~ 新生代第四期 氷河期が何度も訪れ、10余りの新しい火山が噴火し、火山性陥没と土砂の流入により7つの湖沼・低湿地が形成。
 
山形に人が住みつきました。
 
1万年前~ 第四期完新世 日向洞窟周辺には広大な湖沼と低湿地が広がっており、人々は緑色凝灰岩の洞窟に住み、岸辺の葦を刈り取り、
水辺に寄る大型獣や水鳥を狩り、珪質頁岩から石器を作って生業としていました。

 

 展示



 02外観
高畠町郷土資料館 文化財愛護マークの彫像がある。懐かしい。 発掘物中の良品が
並んでいます
高畠町立体模型 展示室大変貴重なものが公開されています

 資料


 日向洞窟と周辺の遺跡群    山形県東置賜郡高畠町竹ノ森字姥が作     転載日向洞窟 - 日向洞窟の概要 - Weblio辞書

 概要
   高畠町立石山(標高230m)の麓に南に開口する洞窟。本洞窟周辺に14地点(尼子洞窟群、観音岩洞窟群など)の洞窟遺跡群が存在し、
   洞窟遺跡がこれだけ同じ地域に密集しているのは全国的に稀とされる。 国指定史蹟、名勝天然紀念物。

     二つの洞穴と二つの岩陰からなる縄文・弥生・古墳時代にわたる遺跡である。 西より第Ⅳ岩陰、第Ⅰ洞、第Ⅱ洞、第Ⅲ岩陰とよぶ。
     第Ⅰ洞穴は人口がほぼ真南に向いており、北からの強い風雪は全く受けない。洞内は、入口の高さ3m、巾5m、奥行は13mとなった。

     第Ⅳ岩陰は縄文早期、第Ⅱ洞は縄文前期、第Ⅲ岩陰は縄文晩期から弥生時代遺物をそれぞれ最も多く出土した。
           引用山形県立図書館「日向洞窟」

 堆積層
   基盤上に5層の堆積層があり、 
      第1層の表土には縄文時代晩期以降の遺物(土器、石器など)、
      第2層の表土には縄文時代晩期から早期の各時期の遺物、 (第3・5層無遺物)
      第4層の表土には縄文時代草創期の遺物包含されていたことが確認されました。

   新潟県の小瀬ヶ沢洞窟、長崎県の福井洞窟と並んで、旧石器文化から縄文文化への発展過程を解明する上で重要な資料となった他、
   人々がここで1万年以上前から住居として生活を送っていたことや、縄文草創期の存在が証明されるきっかけとなった。

 主な遺物 隆起線文系土器  後続爪形文系土器  多縄文系土器 参考日向洞窟とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書 日向洞穴




 大谷地 (湖) の地形と成因   引用旧石器から日向へ 大きく変わった環境と文化

  日向洞窟の西に広がる大谷地は、新生代第三紀1100万年前の噴火によってできた陥没地帯による低湿地で、周囲10㎞深さ1㎞で、
  湿地性植物の堆積、泥炭層の形成、周囲の山地からの凝灰岩砂礫の流入堆積などを繰り返していた。

  現在では埋め立てられ、かつての噴火口である白竜湖のみが残されている。 谷地 (やち) =アイヌ語で低湿地の意味
大谷地と日向洞窟群 現在の高畠町洞窟群引用googlemap
 場所と名前が多少ずれています。地図か書籍かが間違っています。


 展示


 10日向洞窟 (ひなた) 縄文時代草創期~古墳時代

  洞窟は、近世以前より存在が知られ、江戸初期には「鬼穴」と呼ばれ禁足地であった。幕末以降の開拓で周囲で土器石器が見つかっていた。
  昭和30年以降四次に渡る調査で、一万年にわたる複合遺跡であることがわかった。 (周辺は現在も発掘中である。)

  上層から、平安・古墳・弥生の、最下層から、微隆起線文・爪形文土器等が発見され、これにより、縄文時代に「草創期」の区分が設定されました


  日向洞窟、西地区から、竪穴住居跡3棟と、おびただしい遺物が発見された。
  中でも膨大な量の石器は、縄文時代の始まりの時期のものがほぼ揃っており、日向洞窟遺跡は我国考古学史上極めて重要な遺跡であった。


  11パネル
展示室風景 日向洞窟(ひなた)
上に記述
縄文時代の区分小林達雄氏による

東北の縄文はもっと早くから始まるイメージだが
日向洞窟
凝灰岩の浸食洞窟
東日本に多い緑色凝灰岩
日向洞窟想像図 縄文草創期の展示


 日向洞窟出土品

  12縄文時代 草創期・早期土器
縄文草創期・早期土器
草創期土器 微隆起線文土器 微隆起線文土器 無文土器
爪形文土器
早期土器 尖底土器 草創期土器
 無文土器→
 →爪形文土器→
 →隆起線文土器→

早期土器は、
 押し形文土器
 羽状縄文土器
隆起線文は
 隆起線文→
→細隆起線文→
→微隆起線文と発展する
世界大百科辞典第2版

 考察



 隆線文土器
  粘土紐の貼り付けによって文様をつけた深鉢形土器で、縄文時代草創期(早期、土器出現期)の初めを特徴づける日本最古の土器。

  (1)長崎県泉福寺洞穴出土の豆粒文土器、
  (2)長崎県福井洞穴の太い隆線を口縁部に数条貼り付けた土器、
  (3)長野県石小屋洞穴、東京都なすな原遺跡の細く低い微隆起線をつけた土器、 
  (4)山形県日向洞穴のような微隆起線とハの字状爪形文を施文した土器、の順序で変遷する。

  口縁部は水平で平底または丸底、器厚5㎜くらいのもろい土器。
  製作法は円板状の粘土を継ぎ合わせて成形しており、縄文土器一般の積上げ法とは違う。

  九州地方の隆線文土器には細石刃が共伴し、本州、四国の隆線文土器には有舌尖頭器、スクレーパーが共伴する。

  先土器時代から縄文時代への推移は複雑であったが、隆線文土器の斉一性は強く、撚糸文・押型文土器以降の地域差はまだ生まれてない
  ようである。  [十菱駿武]  日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

  ※スクレイパーは、箆・削器・掻器などと訳される。このような表現は厳密さに欠ける、あいまいな表現です。


考察


 日向洞窟西地区

  石器製作工房址 遺跡 西地区は、日向洞窟の西150mにある、北東アジアでも当該期有数の石器製作址です。

  製作址
   4つの石器ブロック (石器製作建物跡、調査区外にかなり広範囲に多数広がっていると予想される) が確認され、1,678点の石器が確認されている。

  石器種類
   槍先尖頭器26%、石鏃33%と狩猟具が6割。 石族は同時期の東日本最多で、弓矢の重要性が高まっていた。
    円刃掻器16%など加工具が40%で、特に箆形石器が安定して使われるようになりました。

  石材
   石材の90%が珪質頁岩ですが、ここでは採れず、離れた場所の別の河川で採取し、粗加工して (大形ブランクで) 運び込まれました。

  製品
   尖頭器は剥離作業の内容から、①粗く大きな剥離 ②面的な平坦剥離 ③幅10㎜程の押圧剥離 ④幅2~3㎜の押圧剥離に区分されます。
 
   主製品は、②で完成の木の葉形の大・中形品を中心に、④で完成の柳葉形の中小型品が若干製作されました。 完成品はほぼ持ちだされました。
   発掘品のうち、完成品の割合は、円刃掻器74%、石鏃42%です。 これらは居住地付近の狩猟場で使用されたようです。

       引用旧石器から日向へ 大きく変わった環境と文化

 




 資料


 日向洞窟西地区

 押出遺跡  転載山形県押出遺跡出土品とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書
   おんだし

   日向洞窟西地区にある泥炭層上の低湿地 に造られた集落遺跡  (山形県東置賜郡高畠町深沼字押出)  縄文時代前期の集落跡。
    (南米インカのチチカカ湖の泥炭の浮島に暮らすインディオとよく似た環境だと思います。)

  遺構 約4000㎡の範囲から多数の柱根を残す、特異な建設方式の平地式住居跡35棟が出土した。 (下図・写真参照)

  遺物 縄文時代前期後半の土器・石器・木製品類、動植物遺存体等や、彩漆土器等が多量に出土した。

  土器 大木式の粘土紐貼付文が特徴的な深鉢形土器28、鉢形土器・台付鉢形土器・浅鉢形土器各一箇、多様な造形の小形土器23、

  石器 押出ポイント (基部につまみ状の突起がある石刃) 116、石槍7
      石鏃・掻器・石匙・石錐等の利器類706、 磨石・凹石・食物の焼け痕が残る石皿等加工用石器類57、石製装飾品9、小形石棒2、

  木製品 赤漆櫛・盤・杓子・石斧柄・手網箆状木製品残欠等多彩な木製品類33。

  樹皮製品 樹皮製品1 (扁平な樹皮を折り曲げて左右を別の細い樹皮で縫いとった樹皮製品)、もじり網みと思われる編物残欠一括、

  食物 炭化食物52 (渦巻や曲線で隆帯状の文様を付けた縄文クッキー)、いずれも当時の生活を生々しく伝えている。



    この中で、赤漆櫛4 (残欠) は、我国現存最古の結歯式2、 撚り紐を漆で固めて歯をつくり出した他に例がないもの2を含む。
   小形土器には、内部にべったりと生漆が付着したものもある。

   箆状木製品は木剣を思わせる尖頭状の製品もあり、木製祭祀具の可能性もある。
   小形石棒も、造形が整った石棒としては、縄文時代でも最も古いもののひとつである。

   さらに石製装飾品は、素材に玉髄・琥珀・流紋岩製玦状耳飾残欠・管玉等で構成され、
   押出遺跡の広域な物流を物語るが、特に琥珀は縄文時代本州最古の製品として貴重である。





 平地式住居遺構
   押出遺跡は低湿地帯に営まれた縄文前期、大木4式期の集落跡である。縄文クッキー彩文土器の出土で知られている。

 住居構造
  住居構造は竪穴住居ではなく、床を掘下げない平地式の「壁立式住居」で、柱に丸太や割材の先端をとがらせて打込んだ、特異な住居跡です
         引用押出遺跡と縄文クッキー - 置賜文化フォーラム

  住居跡は杭状の柱根が床面の外周に隙間なく打ち込まれた状態で検出された。

  柱根の太さは5㎝~20㎝で、打込みの深さは50cmから深いもので2mに達する。 確認された住居跡は35軒とも38軒とも報告されていて、
  杭の総数は4,000本にも上る。 住居の形状は円形、長方形、楕円形とさまざまで、主柱を持つ住居と持たない住居があり、
  炉跡は住居内からは検出されていない。

   (寒冷・豪雪地で炉なしの住居はありえず、これは住居ではない。)

   ※2小型の住居は、1号住居の約4m×3mの長方形、17号住居の約3m×3m方形、2号住居の直径約4m円形で、いずれも中央に主柱が
   1本見られる。また、最大の11号住居は長方形で、規模は長軸約10m短軸約8mである。 柱根は2重3重に巡り、床面はマウンド状に約30cmの
   盛り上がりが見られる。

   床面直上からはおびただしい量の建築材が見つかり、転がし根太と考えられている。 床面のマウンド状の盛り上がりは、15号、20号、30号住居
   にも見られ、同様に柱根が2重3重に巡る。 宮本長二郎氏によると、柱を打ち込み立替えの度に粘土貼り床を重ねたのではないかという。)
        転載斜里町埋蔵文化財センター


 押出ポイント
   押出遺跡型尖頭器の意味で、おんだしポイントと呼ばれるこの地域独特のナイフです。
   低湿地に生えるアシやヨシ、ススキなどを刈り取るための道具です。チチカカ湖の浮島に住む原住民の暮らしとそっくりの生活をしていたようだ。

   で、このおんだしポイントは忍者の道具クナイそっくりで、握り方も同じ様にして使って切りました。




 12a押出遺跡 縄文前期 (大木4式期)

  大変重要な意味を持つ必見の遺跡です。資料の大部分が山形県立うきたむ考古資料館撮影禁止で展示されています。
  仕方ないので公開されている資料から紹介します。

 押出遺跡の住居
  遺跡はアシやヨシの生い茂る湿地の泥炭層の上にできた浮島状の集落である。どのような立地条件があったのでしょうか。
  チチカカ湖の原住民は生贄用人狩りから逃れてとも言われています。 押出では鮭鱒も遡上する広大な水辺の水産物に頼った生活だったので
  しょうか。

上:白竜湖 下:遺跡発見となった人口水路 平地住居は後期晩期に多くなるが、早期には大変珍しい。なぜ、暮らしにくい湿地に住んだのか。
引用うきたむNo30
湿地の上に木材を大量に敷き、沈まないようにして、粘土と砂を交互に入れて土盤を作る。
引用押出遺跡報告書1
楕円形に二重三重に杭を打ち、間に木の枝を入れて壁を造る。
引用押出遺跡報告書1
壁。ソダと一緒に土や葦も入れたようです。
頑丈な土壁が出来上がりました。
引用押出遺跡報告書1
住居構造 模式図泥炭湿地の上に木を置いて土を盛り上げ、壁を造り、屋根を支える柱も杭にして打ちこんだようです。
押出遺跡(第5次)
うきたむにある復元住居
楕円形です
押出遺跡(第5次)
石鏃、押出ポイントx2、
磨製石斧
押出遺跡(第5次)
玦状耳飾、小型磨製石斧
押出遺跡(第5次)
クッキー状炭化物
押出遺跡(第5次)
彩文土器
押出遺跡報告書3
引用押出遺跡報告書1
粘土紐貼り付けの見事な
大木4式土器
引用押出遺跡報告書1
粘土紐貼り付けの見事な
大木4式土器
引用押出遺跡報告書1
樹皮製品、有孔木製品、
箆状木製品、
クッキー状炭化物
引用押出遺跡報告書1
漆付着土器、サルノコシカケ、ヒシの実、櫛x2
編み物
引用押出遺跡報告書1

 ※磨製石斧=玉斧 玦状耳飾 彩文土器 は、
  大陸由来の渡来文化であり、縄文前期の山形県最奥の不便な山中にまで、製作技術や製品が伝播していたようです。




  12b 引用 押出遺跡調査報告書3

石鏃 石槍 押出ポイント 石匙 石錐 三角スクレイパーこの遺跡特有の道具です
スクレイパー 箆状石器 磨製石斧 磨石・凹石・砥石 石製品・異形石器
玦状耳飾、有孔石斧(玉斧)、男根形石棒、等※
異形石器
箆状木製品 櫂状木製品 弓・手網 玦状耳飾、有孔石斧(玉斧)、男根形石棒、等※

 は、大陸由来である。すると、

 前期の男根形石器は、

どのような祭祀による祭器が伝わったのであろうか。

 考察
  押出遺跡の特徴は、湿地特有の生活様式は、淡水漁と、水鳥捕獲、葦などの利用でしょうか。すると、道具を解釈すると、
               
   押出ポイントは葦切り道具。 箆状木製品は葦で屋根を葺くときの叩き道具。
   三角スクレイパーは鳥や鮭の皮をなめす道具
   異形石器の一部は、釣り針ではないのでしょうか。必ず糸括り (くくり) の部分があります。




 展示


 日向洞窟西地区 石器製作工房の遺跡

  13草創期石器

円刃掻器・削器 円刃掻器山形県の掻器は使い易く丸みを帯びてます 削器 石錐・尖頭器・打製石斧・半月形石器・矢柄研磨器 石錐 半月形石器※1
尖頭器※2 打製石斧※3 矢柄研磨器※4 矢柄研磨器は、
  草創期の特徴的石器

  掻器 皮なめしに使う道具です。日向洞窟から300点を越す出土数から、日向の主要な生産品だったと思われます。

  削器 剥片側縁に刃を付けただけの簡単な石器であるため、形態も多様です。主に物を削る、あるいはナイフのような機能だと考えられます。

  石錐 穴を開ける道具。縄文時代全期間にわたって普遍的に使用されました。


 ※1半月形石器 「植刃」「断面三角形の錐」「矢柄研磨器」などと共に、縄文文化最古段階に出現する特有の石器です。
            形状から半月形石器と呼ばれていますが用途や機能は不明です。日向洞窟・尼子岩陰遺跡出土。


 ※2尖頭器 縄文時代の直前、旧石器時代終末期に盛んに作られた石の槍は、徐々に小型化し、縄文時代に入ると有舌尖頭器へと変化する。
        そして石鏃が誕生すると考えられている。

 ※3打製石斧 打製石斧は300点を数える。これも石鏃・半月形石器と共に多い出土量である。日向洞窟で作られた石器が日本各地に流通したの
    かもしれない。草取り、穴掘りに用いた道具で、地下茎・根菜類などの植物食が開始されたことがわかります。

 ※4矢柄研磨器 二個一組で使用され、上下から挟んで矢の柄を磨く道具です。半月形石器や断面三角の錐等と同様、草創期にしか出土しない。
          これまで最多の三重県菰野遺跡の11点を越える40点が、日向から出土している。





  14早期人骨
   日向第Ⅰ洞窟出土人骨
     洞窟内の地表下1mから発見。伴出土器から7000年前と推定。  成人男女の骨で、推定身長は150cm。
     落盤による圧死ではなく、埋葬によるものでしょうか。しかし、他に大量の動物骨が出現しているので真相は不明ですね。

日向第Ⅰ洞窟出土人骨
成人女性の腰骨・脛の骨
成人男性の大腿骨
日向洞窟出土、動物骨 イノシシ・ノネコ
・ツキノワグマ・イヌ
タヌキ・キツネ・ノウサギ・テン・鹿



  15町内各遺跡の打製石斧

打製石斧
時沢地区出土
打製石斧※1 打製石斧 打製石斧石ヶ森遺跡 分銅形石斧
川沼・和田地区出土
打製石斧日向洞窟 擦切石斧※2押出遺跡 打製石斧押出遺跡 磨製石斧※3日向洞窟・和田地区

※1打製石斧
※1打製石斧
手頃な礫や大型剥片を打ち欠いて作った土掘り具で、石鏃、磨製石斧と共に一般的な石器です。短冊型、撥型、分銅型の三形態に
分けられます。
※2擦切石斧
※2
板状の石材に、一方あるいは表裏から砥石状の工具で溝を切り、切断した石斧で、側面に溝跡が残る。
北海道、東北地方を中心に、縄文早期から前期にかけて盛んに作られました。
     
    擦切石斧に使用される日本語石材名はまだ未定であり、各地で適当に仮称を付けている。←リンクページ最下 
北日本の緑色擦切磨製石斧の石材名と製作技法・流通について」 齋藤 岳(青森県埋蔵文化財調査センター)を参照のこと
     
※3磨製石斧 粗い打撃によってある程度成形し、砥石で研磨した石斧です。当時の斧や手斧、クサビとして木材の伐採や加工などに用いられました。





  16石器材料 頁岩・黒曜石
頁岩 山形県産石器材料 黒曜石 北海道産 黒曜石 北海道産浸食・転石で小石になっているのか 貝殻状へきかい
貝殻状破片

 黒曜石 北海道や長野の原石産地が有名ですが、最近、月山山麓の羽黒山から黒盛山にかけての西斜面でも多くの産地(露頭)が発見されました。
        ここの黒曜石ができた年代は31万年から33万年前と考えられています。実に新しい岩石です。




 20縄文時代の祭祀遺物 Panel

土偶 多くは乳房や臀部が強調された女性の姿を模しており、多産や豊穣の願いが込められていると考えられています。
土偶は世界各地の農耕文化遺跡から発見されていますが、日本の縄文時代のように狩猟採集段階の文化で盛んに作られる例は世界的には
稀と言えます
また、故意に破壊された土偶も多数見つかっており、これには災厄を祓う意味が込められていると考えられています。
 
石棒 土偶が女性の姿に託して豊穣を願ったものであるのに対し、石棒は命を生み出す男性の象徴を表現し、
おそらく住居などに据え置かれ、信仰の対象としたものと考えられています。
 
      石棒は縄文中期に突然出現し、縄文晩期後半まで続きます。
縄文中期以降に大型化し、2mに達するものまで現れますが、縄文後期以降は徐々に小型化し、手に持てる程度のものになっていきます。
   
  石刀・石剣    
         「石刀」は片刃で刀身が反っているもので東北から北海道に分布し、
「石剣」は両刃で刀身が真直ぐなもので、東日本を中心に全国に分布しています。

何れも縄文後期以降のもので、その起源については諸説ありますが、有名なものとして、石棒から発展したとする「石棒由来説」と、
すでに大陸では金属製の武器・利器を使用していた時代であることから、それらを模したものとする
「大陸系金属(器)模倣説」などがあります。

また、その用途についても諸説あり、いまだはっきりとはわかってはいませんが、実用的なものではないことから祭祀に使われたものと考えられています。
       
独鈷石 密教の法具「独鈷杵」に似た形状から「独鈷石」と呼ばれています。その起源・用途は不明ですが、実用物でないことから祭祀具と考えられています。
     
  土版・岩盤    
      土版と岩盤はその材料の違いによって名称は異なりますが、用途は同じものです。
両面または片面に文様や人面を掘り入れ、住居に揚げたり、身に付けて護符や呪符にしていたと思われます。
       
  21パネル
縄文時代の祭祀遺物 縄文時代の祭祀遺物(1) 縄文時代の祭祀遺物(2) 縄文時代の祭祀遺物出土地 縄文カレンダー

  22祭祀遺物  周辺遺跡の出土物

  独鈷石 左右対称(×対象)のツルハシ状の頭部を持ち、中央に節のある一種の両頭石斧で、中央部分を柄の先につけて使用したものでしょう
 
  磨石   石皿と共に磨り潰す道具として用いられました。形や大きさは色々ですが、多くは楕円形のこぶし大で、中には凹みを持つものもあります。
 
  凹石 一部に凹みを持つ石器で、凹みの数や形、石の大きさなど色々です。中でも、多数の凹みを持つものは
  蜂の巣石、雨垂れ石とも呼ばれます。木の実を割る道具、火起こし道具などの用途が考えられています。
 
  石皿 中央を窪めた皿形石器で、石材には目の粗い石が多用されます。木の実などの粉砕や製粉器として、磨石と組み合わせて使用したものです。
使い方は、磨ったり、敲いたり、圧し潰したりしました。
 

独鈷石小郡山地区 石棒 石皿・磨石・敲石 磨り石石ヶ森遺跡 凹石石ヶ森遺跡・日向洞窟・和田地区 凹石
凹石石ヶ森遺跡・日向洞窟・和田地区 凹石日向洞窟・和田地区 石皿・磨石日向洞窟 石皿一の沢洞窟 石皿 石皿・磨石押出遺跡






 30縄文時代の生活  土器の発明は人々の生活を一変させました。
   土器を使用して煮炊きすることができるようになると、固くてアクの強い植物が可食となり、また、加熱によって
   食物の保存や携帯性が格段に向上しました。

   生活様式の変化は身の回りの道具類、即ち石器にも大きな変化をもたらしました。
   獲物を追って移動し続ける生活から、実り豊かな土地や猟場の近くに、ある程度定住するようになり、竪穴式住居が作られるようになりました。

   また、食物の多様化は、道具の多様化を促し、弓矢が発明されたのもこの時代です。鏃や矢柄研磨器がそれを示しています。
   木の実を加工する石皿や、漁労に用いる道具が発明されたのもこの時代です。
      
  31パネル
縄文時代の生活 上に記述



  32縄文土器
  33前期土器片
押出遺跡・大峰原遺跡 押出遺跡 押出遺跡 押出遺跡 大峰原遺跡 大峰原遺跡


  34中期-後期土器
台の畑遺跡 中期
深鉢
台の畑遺跡 中期片口付浅鉢 石ヶ森遺跡 後期深鉢 石ヶ森遺跡 後期深鉢 石ヶ森遺跡 後期深鉢


 40中期-晩期土器
  41後期-晩期  周辺洞窟・岩陰遺跡の出土物
神立洞窟遺跡 後期浅鉢 尼子岩陰遺跡 後期
深鉢
加茂山岩陰遺跡 後期深鉢 加茂山岩陰遺跡 後期深鉢 上平柳遺跡 晩期深鉢

  42中期-晩期
台の畑遺跡 中期浅鉢 神立洞窟遺跡 後期
亀岡出土 後期
宮下遺跡 後期
石ヶ森遺跡 後期香炉形土器
芦垣馬頭観音出土 晩期
松川出土 後期
壺・注口土器
幸町出土 晩期
注口土器



 押出遺跡


  43線刻土器  押出遺跡  前期
縄文前期 押出遺跡 5500年前の壺
底に線刻があり
底部の線刻








 50縄文石器1  押出遺跡

  51石箆
    上方が狭く、下方が広がるほぼ左右対称の石器で、箆状石器とも呼ばれます。木や骨の切削具として、あるいは皮なめしなどの搔器として
    用いられたと考えられています。地域的には東北から北海道にかけての比較的限られた地域に分布しています。

展示室中央 石箆・石槍 石箆 (いしべら)和田地区・石ヶ森遺跡・押出遺跡・日向洞窟 石箆 石箆和田地区・石ヶ森遺跡・押出遺跡 石箆日向洞窟遺跡

 周辺遺跡出土

 53石槍・石錐
石槍   石槍は、石鏃などと同様に柄を装着されて初めて「ヤリ」として成立します。この「ヤリ」は、弓矢の出現により徐々に衰退しますが
投げて、あるいは手持ちで獲物を突きさす狩猟の代表的な道具として用いられたことでしょう。
石錐 その名の通り「キリ」として用いられた石器で、金属製の錐が登場するまで穴を開ける道具として長期間にわたり用いられました。
「孔を開ける」という技術がどの時代にも必要とされたことがわかります。
 
石槍押出遺跡出 石槍 石槍押出遺跡出土 石錐

和田地区
石錐 石錐和田地区出土 日向洞窟出土
押出遺跡出土


  54石匙
   「つまみ状の作り出し」をもつ石器で、一般的なナイフとして使用されたと考えられています。
   石匙にはいろいろな名称があり、江戸時代には「天狗の飯匕(めしかい)」「狐の飯匕」などと呼ばれ、現在でも「石小刀」「皮剥ぎ」などと呼ばれて
   います。

石ヶ森遺跡/大峰原遺跡/台の畑遺跡/日向遺跡/鈴沼出土 石匙 横型石匙石ヶ森遺跡

西日本系
縦型石匙大峰原遺跡・台の畑遺跡

東日本系
中間型石匙日向遺跡・鈴沼出土 上平柳遺跡

   Wikipedia石匙引用   石匙(いしさじ)とは - コトバンク

  時期的には縦型の方が早く現れて、東北地方から北海道にかけての縄文時代早期の遺跡から多く出土し、
  近畿の前期では横型が中心で、まず伊勢に現れ、前期初頭には関東地方に波及し、前期後半には東北地方北部から北海道西南部に達するが、

  中期以降になると縄文文化の全域にわたって双方が優勢を占めるようになる。

  石材は、東北地方では珪質頁岩関東・中部地方は珪岩・黒曜石、西日本においてはサヌカイトが多い。
  これらの違いは時間差や地域性を微妙に反映し、縄文文化の内容に多様性のあることを示す遺物の一つである[1]

  エスキモーが万能ナイフに使った石器(ウル)の形状は、横型石匙と酷似しています。





 60縄文石器2 日向洞窟・押出遺跡


 61石鏃
    矢の先端に付ける石製鏃で、「矢の根石」とも呼ばれています。遺跡から発見される数も多く、消耗品として盛んに作られたことでしょう。
    日向洞窟遺跡からは、各時期を通して多量の石鏃が出土しています。縄文時代の石器の中で最も代表的な石器です。

石鏃日向洞窟・押出遺跡
弥生時代の石鏃(破片)
日向洞窟遺跡 石鏃無舌です/一部にトロトロ石器似のものもあります 石鏃 押出洞窟遺跡 石鏃形状に差異のあるものがある 弥生時代の石鏃

 62耳環

 土製耳飾
   縄文中期から晩期にかけて東日本を中心としてみられる装身具の一種で、耳たぶに開けた孔に挿入して用いられます。
   形や大きさはいろいろで、中には径が10㎝に近い大型のものも見られます。

 玦状耳飾
   中央に円形の穴があり、下端から切り込みを入れたもので、耳に付ける装身具の1つです。中国の玉である「玦」に似ていることから
   玦状耳飾りと呼ばれています。主に縄文時代前期に盛行しました。

   環状の輪の一部を欠いたC字形の耳飾りで、耳たぶに穴を開け装着しました。
   玦は中国古典の記述に由来する名称で、中国では約7千年前に揚子江下流の河姆渡遺跡から出土している。
   玦が日本に伝わったのは縄文早期末頃(約6500年前)と言われている。

土製耳飾石ヶ森遺跡出土 耳飾石ヶ森遺跡 玦状耳飾 玦状耳飾味噌根出土
・押出遺跡
・一の沢洞窟遺跡
味噌根出土
・押出遺跡
・一の沢洞窟遺跡

  64石剣・石棒

  石棒
   長い棒状を呈する磨製、敲打製の石器で、呪術的な性格をもつ祭祀に関わる用具と考えられます。
   石棒は縄文時代中期に出現しますが、この時期のものは一般的に大型のものが多く、後期・晩期と徐々に小型化抽象化してゆきます。

石棒和田地区出土
石ヶ森遺跡出土
石棒和田地区出土
石ヶ森遺跡出土
石棒和田地区出土
石ヶ森遺跡出土
石剣金原熊の前出土


  65土版・岩版
   土版・岩版共に、東日本各地より縄文時代晩期の特徴的な遺物として発見され、土偶や石棒などと並んで呪術的な色彩の濃くみられるものです。
   土版岩版は、材質の違いにより、区別されますが、共に同じ機能を持つと考えられます。

土版・岩版 岩版・土版石ヶ森遺跡 土版石ヶ森遺跡


 周辺遺跡


 70石器・骨器・祭祀具・土偶

  71土製品・石製品・骨角器

 土錘・石錘
   網を用いて魚を獲る際に使用された錘です。海を持たないこの地方にあっても川沿いの遺跡から発見されており、
   小規模ながらも、川や湖で当時の主要な生産活動である漁業が営まれていたことがわかります。

 砥石
   石器を研磨したり、骨角器や木器の整形、研磨などに使用された石器です。「研磨する」という技術は縄文時代に進歩したもので、
   数多くの磨製石斧がみられるように、この時代の石器の徳地洋の一つにあげられます。

 鹿の角 非常に硬いので骨角器 (釣針、銛、ヤスなど) や石器作りの道具として使われました。

土錘・石錘・砥石・
円盤状石製品石ヶ森・加茂山岩陰・
上平柳・金谷・石ヶ森
遺跡
土錘石ヶ森・加茂山岩陰・
上平柳遺跡
土錘・石錘 砥石・円盤状石製品金谷・石ヶ森遺跡
砥石 鹿の角 鹿角製装身具弥生時代 鹿角製装身具観音岩岩陰洞窟遺跡


 72漁具
浮子 軽石を加工して紐掛けを作ったものや、孔をうがったものがあり、浮子として利用したと考えられています。
浮子は、土錘や石錘とほぼ同じ時期に用いられており、網や釣針を使って漁をするときに使用されたものでしょう。


鹿角製漁撈具離頭銛、ヤス、釣針
宮城県沼津貝塚
浮子 浮子石ヶ森遺跡


  73土偶
   女性を象徴的にかたどったもので、腹部を膨らませて妊娠を示すものが多く見られます。
   単なる玩具などとは異なり、縄文時代を代表する呪術的、宗教的な遺物としてよく知られており、その大半は、破損した状態で発見されます。

土偶 土偶 土偶大峯原遺跡 土偶石ヶ森遺跡 土偶和田地区出土 土偶出土地不明 土偶上平柳遺跡










 80弥生・古墳時代



  81パネル

 82土師器
  稲作りが始まり、米を食生活の基盤とするようになって生まれたもので、蒸し器のことを言います。甑は鉢形を基本とした形をしており、
単独では使用できません。水の入った甕の上に載せて煮沸して初めて物を蒸すことができます。
   
弥生時代の米作りは、食用のためではなく商品作物でした。食料は雑穀で、甑は雑穀を蒸すためのものです。
また、甑は弥生時代中期に半島より持ち込まれました。国内で生まれたものではありません。
 
器台 壺や坩 (カン・つぼ=小型の壺) 、坏などを上に載せるためにつくられた土器です。器台には大型のものと小型のものがあり、
小型が一般的です。
古墳時代前期に盛んに用いられますが、中期の段階になると姿を消します。

現代米・赤米・黒米古代米は背が高い
倒れにくいように改良された
土師器坏/甑/器台 土師器坏寝鹿遺跡 河沼出土 土師器坏寝鹿遺跡
土師器 坏寝鹿遺跡 土師器 甑 土師器 甑寝鹿遺跡 土師器/坩(こつぼ)と器台地獄岩洞窟 器台

資料  東北の博物館を巡って東北の弥生・古墳の様子がわかる館はありませんでした。そこで、簡単にまとめておきます。

  東北地方の弥生・古墳時代
引用・抜粋・転載 最上川と水田稲作の受容 ・ 展開 - 東北地方整備局
著者 川崎利夫 山形県立うきたむ考古資料館館長  (抜粋要約一部加筆しています)


 弥生時代の幕開け 弥生前期

  東北地方の水田稲作は、日本海航路を通じて弥生時代初期に、津軽平野の弘前市砂沢遺跡にまで到達していた。
  同時に、各沿岸の河川・低湿地などから九州弥生人の入植が始まり、山形県では、最上川河口から朔行しながら広がって
  いった。 (遠賀川式土器の発見)

 しかし、最上川流域の水田稲作は、縄文集落に広がっていったので、
  弥生人の入植ではなく、縄文人が新しく稲作栽培を得たに過ぎず、
  縄文の文化伝統のまま、弥生農耕民へと変貌していった。
 弘前市砂沢遺跡
 酒田市生石2遺跡からは、200点余りの弥生土器・石鍬・石匙などが出土している。

  土器は、弥生前期の砂沢式土器を主体とする壺・鉢・台付鉢・甕などで、
  その中に北九州の弥生前期遠賀川系土器 (模倣土器) が見られ、籾圧痕土器や炭化米が出土している。

  その後、紀元2c~3cに寒冷化による弥生農耕民の撤退などがあったが、4c~5cには水田稲作が定着した。

庄内平野の石生2遺跡
山形盆地西南部の遺跡
 

 東北の弥生文化の特徴

 東北の弥生文化では、銅剣・銅鐸など青銅祭器も、激しい戦乱を物語る環濠集落や高地性集落も出現せず、 王墓のような階級の存在を思わせる
 遺跡もない

 土器に弥生文化を影響されながら、縄文が多用され、弥生文化であるのに、土偶や縄文以来の石器が使用されている。
 構造主義哲学が言う通り、新たに付け加わった稲作農耕以外、縄文系弥生人の暮らしは縄文文化のまま何一つ変わらなかった。

 

 天王山式土器と縄文回帰人の拡散  弥生後期

  2c~3c寒冷期に弥生稲作農耕民が撤退した。縄文系弥生人の中には、既に失われていた縄文生活に戻る動きがあった。
  寒冷期には縄文生活への回帰を行い縄文を多用する天王山式土器が生まれた。(東北~東海の広域に分布する)


  天王山式は、白川市天王山遺跡を指標として、新潟など北陸北半から東海地方にかけて広範な分布を見る。
  口縁部の2本の沈線の間に上下から刺突を加えた交互刺突文が特徴的で、頸部より下半部は細かい縄文や磨り消し縄文が施される。
  (縄文的デザイン)

  この弥生後期の土器は、寒冷期の紀元2世紀~3世紀にあたる。県内の丘陵地や山間部からの発見が多い。
  弥生前・中期の最上川流域低地部の遺跡立地とは対照的である。

  (生活の場が広い低湿地や平野部から、狭小な山間部や畑地向きの丘陵部に移ったこと)

  寒冷で稲作不能ため、仕方なく縄文の生活、山地人の暮らしに戻った証拠である。その時の土器が天王山式であった。
  しかし、その範囲が、東海、信州、関東北部、新潟、東北と、東日本の広範囲に広がっているということは、狩猟動物を求めて広範囲に移動したから
  である。

 


 アイヌの南下

  この時期、北海道から続縄文文化の後北式や北大式土器が東北南部や北陸北部にも南下し、北からの影響が一時的に強まる。

  北海道から寒冷のために南下してきた多数のアイヌが、縄文系弥生人が放棄した土地に移り住んだ。
  後に、これらのアイヌはやがて大和政権との対峙で一斉に北海道に引き上げることになる。

  弥生終末期から古墳前期にかけて、太平洋側の宮城県北部~岩手県南部にかけて古墳時代の集落遺跡と入り組んだ形で続縄文土器の遺跡が
  分布する。

  北と南(アイヌと弥生人)の境界領域の一端が窺われる。
  (この時、アイヌは弥生人にマタギの狩猟技術を伝授している。東北各地に広がるアイヌ語地名もこの時のものです。)

 



 東北の古墳時代

  古墳時代初頭に古墳文化人による大規模な入植が行われ、古墳文化が始まった。


 古墳時代 水田稲作の展開と定着

  4世紀に、庄内・山形・置賜地方に水田稲作が拡大定着し、農業主体の社会に変革し、地域に首長が出現して古墳が営まれるようになった。
  これは、古墳時代初頭に、北陸・東海・関東から大量の入植者が流入し、特に、扇状地の扇端を開拓して稲作農耕を行う集団の文化である。

  それは4c~5cにかけて、畿内にヤマト政権が出現することを契機に、急速に頻繁な人とモノの移動があったことを物語る。
  この集団によって最初の古墳が営まれ、これまでとは質的に異なった政治的社会が成立していくのである。(朝鮮半島の身分社会)



 山形盆地の古墳時代
  尾花沢・新庄盆地での4・5世紀の集落遺跡は未発見である。 

  山形盆地では、古墳時代前期 (4c-5c) の扇状地扇端部集落跡が発掘された。
  遺跡は、扇端部に分布し、最上川や須川の後背湿地を水田とし、自然堤防や微高地に集落を営んだ。
  (半島系弥生人の移住者集落)

  山形盆地の古墳時代前半期の(4-5c)の集落分布は、西南部に数多く分布する。
  そこは、南の蔵王山から山形市西部を北西に流れる最上川の支流、須川流域で、西に連なる出羽丘陵を臨む標高120mの
  低地部である。
 
山形地方気象台

  出羽丘陵の、盆地に臨む先端部には、5世紀後半菅沢2号墳大之越古墳や後期以降の谷拍古墳群・速見堂古墳群などがあり、早い時期に
  地域の政治的統合が行われたとみられる。つまり、4c-5cにやってきた半島系弥生人によってこの一帯が武力支配されたということです。

  これ以降、周辺にはおびただしい古墳と集落遺跡が検出されるようになります。以降は原文にてご覧ください。

  原文最上川と水田稲作の受容 ・ 展開 - 東北地方整備局   著者 川崎利夫 山形県立うきたむ考古資料館館長


 展示



 90古墳時代



 91須恵器は、
   中国の「灰陶」に起源を持つ朝鮮半島の陶質土器にその源流が求められ、5世紀中葉頃 (400年代の半ば) に成立しました。
   須恵器は、土師器が各村落内で自家消費的に作られたのに対し、専門工人の手によって集中的に生産されたもので、「ろくろ」を用い、

   窯を利用して焼成する青灰色の須恵器は、縄文式土器以来の伝統を受け継ぐ素焼き土器の土師器に比べ、全く新しい焼き物であったことでしょう。
   土師器と須恵器はその後長い間共存することになります。

提瓶 須恵器の器形の一種で、その名の通り水筒のように紐で吊り下げて用いた運搬用の容器です。
これは、古墳時代の最終段階である、 群集墳の終末に消滅する古墳時代を代表する古墳時代の遺物の一つと言えます。

古墳が造られた時代 古墳が造られた時代①前・中・後期 古墳が造られた時代②終末期・奈良時代 須恵器坏・壺・提瓶・坏 須恵器
須恵器 坏清水前古墳 須恵器 壺 加茂山洞窟古墳※※ 須恵器 提瓶鳥居町3号墳 提瓶 坏・坏身・坏蓋 味噌根2号墳

 ※※
 加茂山洞窟古墳について
「うきたむ考古資料館」に問い合わせましたところ、洞窟古墳というものはない横穴墓を洞窟古墳と言っているのでしょう。という説明でした。
しかし、高畠町に「大師森石窟石棺」 (古墳時代中期前葉) という遺跡があり、そこでは、洞窟の中に置かれた石棺があるそうです。

後にわかったのですが、横穴墓ではなく、実際に洞窟を古墳にしたものがあったのです。



 93蕨手刀
  刀身から柄の部分までを一体に作られた鉄刀で、柄頭の形状が早蕨頭部の巻き方に似ていることからこの名が付けられました。
  刃幅が広い片刃の実用刀で、奈良時代から平安時代にかけて作られたと考えられています。

  その多くは北海道・東北・関東・中部地方で出土しており、現在約200例ほど発見されています。高畠町では安久津古墳群の安久津1号墳と、
  北目愛宕山中腹から1振ずつ出土しており、この地方の豪族の物と思われます。


蕨手刀 愛宕山古墳
鉄製大刀 塩ノ森古墳
蕨手刀愛宕山古墳 蕨手刀愛宕山古墳 蕨手刀愛宕山古墳 蕨手刀愛宕山古墳
鉄製大刀塩ノ森古墳 鉄製大刀 塩ノ森古墳 ヘビのようにうねった刀身は、中東のアキナケス剣
そのままのようです。

フン族の大移動を契機に日本にまで逃れて来て、
捕囚された人々の工芸品です。

古墳時代に広範囲に出回った名品でもあります。
本来彼らは鉄作りの素人だったのでしょう。

粗悪な素材、粗雑な製品でしたが、

 彼らの懸命の努力は、後の東北地方の鉄製造に大きな役割を果たしました。

資料


 蕨手刀
  古墳時代終末期 (6c~8c)にかけて東北地方を中心に制作される。7世紀後半頃の東北地方北部の古墳の副葬品の代表例の一つである。
  柄頭(つかがしら、柄の先端部)が、蕨の若芽のような形態を呈するのがデザイン的特徴である。また、柄には木を用いず、鉄の茎(なかご)に
  紐や糸などを巻いて握りとしている共鉄柄(ともがねつか)である。

 蕨手刀の流通
  全国で200点以上、ほとんどが古墳や遺跡からの出土である。分布は北海道・東北が多く特に岩手県からの出土が70点以上と極めて多い。
  甲信越地方にも例が見られ、四国九州にも若干存在する。なお、正倉院にも蕨手刀(「黒作横刀」)が保存されている。

 蕨手刀の形状
  初期の形状は柄と刀身が直線的であるもの(直刀)が多い。東北地方では、刃が上を向くように柄に反りを生じるようになる。
  湾刀の形状に近くなったのは騎馬戦が盛んになったためと下向井龍彦は指摘している。
  また新しい年代のものには柄に毛抜形の透かしの入った形状を持つものがある。        引用蕨手刀wikipedia




考察


 蕨手刀の製作者
  蕨手刀はペルシャのアキナケス(剣)をもとにしたという。この剣は紀元前1000年頃の刀で、平安時代の日本にも伝わっていた。長く用いられた剣で
  ある。
  蕨手刀製作風景の図には赤鬼が作っている絵があった。これは、北廻りで逃れてきた非モンゴロイド系渡来人が捕囚され、作らされている様子です。

 蕨手刀 についてのHPがほとんど消えています。なにか、問題があったのでしょうか。
  鉄の品質も悪く、刀剣としての実用性もぱっとしなかったが、朝鮮半島製や、国内産模造刀とは異なる形状で、珍重されたようです。
  また、実用性が低いのに日本の広範囲に広がっていることから、特別な需要や流通経路があったものとみられる。


展示


 94装飾品

 羽山古墳出土副葬品
  羽山古墳は、羽山の中腹、標高280mにある横穴式石室古墳で10数基よりなる群集墳を形成していましたが、開墾などで破壊され、唯一残った
  ものです。
  この副葬品は、人骨、直刀、刀子、鉄鏃などの鉄製品、提瓶・平瓶・坏などの須恵器などと共に羽山古墳より出土したもので、明治27に採取されて
  います。

  中でも、勾玉、管玉、切子玉、臼玉、小玉などの725個もの玉類は、副葬品の少ない山形県の古墳の中にあって貴重なもので、
  特に勾玉は、石質、形状、作り方に時代的特徴が現れたものと言われています。

勾玉、管玉、切子玉、臼玉、小玉、、金環 羽山古墳出土副葬品 勾玉、管玉、切子玉、臼玉、小玉 加茂山洞窟古墳
前出の洞窟古墳です
鉄鏃加茂山洞窟古墳 勾玉・臼玉・切子玉・金環亀岡古墳
貝製品・金環・バックル加茂山洞窟古墳 鉄製大刀加茂山洞窟古墳 ↑大師森石窟石棺とは違いますし、横穴墓とも違います。

 巨岩の根元、クマの冬眠穴を利用して石室にしています。


 加茂山洞窟古墳

  山形県立考古資料館に、洞窟古墳について尋ねたところ、横穴墓 (おうけつぼ) のことだと言われました。
  しかし、加茂山洞窟古墳の写真を見ていただくと、明らかに、洞窟を安置場にした。上の羽山古墳のリンク写真とは全く違います。

  「うきたむ」で、知らないことが、ネット上に答えがあるはずもなく、真相は不明です。しかし、洞窟を古墳にした墳墓が実際にあったようです。