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   中国地方最大級の縄文遺跡

      智頭枕田遺跡展


   2018年6月2日(月)~6月30日(土)

   場所 智頭町 石谷家住宅  開館10:00~17:00  0858-75-3500(カーナビ用)
      智頭町歴史資料館  開館9:00~16:00  0858-75-3121(カーナビ用) 

   詳細  石谷家住宅1号蔵では縄文時代遺物を展示
       智頭町歴史資料館では弥生時代遺物を展示 (この時期だけ) 
       是非、両館をご覧ください。
交通案内
智頭町石谷家
岡山から特急はくと
関西から特急いなば
両方とも2時間に1本
レンタカー要予約
智頭駅・石谷家
・資料館
交通
姫路,相生,鳥取からレンタカーもあり。
 



 
 西日本の縄文2 01    2018.02.27 05.10

 智頭町歴史資料館  鳥取県八頭郡智頭町埴師54  0858-75-3121 (公民館tel) 平日開館
 智頭町埋蔵文化財センター  (併設) 080-8232-8807 9:00~16:00 (土日祝閉館) 撮影可

  智頭枕田遺跡の展示館です。
  旧土師小学校に、歴史資料館、埋文、公民館が同居しています。

   交通
  レンタカー
     
  見所   中国地方最大の縄文遺跡、智頭枕田遺跡の展示館です。
  縄文前期・中期・後期・晩期、弥生、古墳、~平安(Wikipedia)の遺跡
   
日本唯一、縄文早期の大深鉢




01外観

70パンフレット
72智頭町の原始・古代と
  主な遺跡

80発掘調査報告書抜粋
  智頭枕田遺跡
81a
Ⅰ.調査の概要
(2)歴史的環境と
 周辺の遺跡

81b資料
 智頭枕田遺跡出土の
 主な土器

82 (2)遺跡の概要
83 Ⅱ.遺構と遺物

展示室

05縄文時代
06智頭枕田遺跡
07縄文時代
 =早期=
08=中期末~
  後期初頭=
09=晩期=

10パネル
11石器・土器
13祈りの道具

20遺物展示
45早期大型深鉢

考察
 前代未聞の
 縄文早期 大形深鉢

30展示
31石囲埋甕炉
32縄文早期・中期・後期の
  土器
34土器
36中期末~後期

41展示室全景

資料 突帯文土器

43晩期突帯文土器
48平口縁深鉢土器
51波状口縁深鉢土器
54磨消縄文土器

資料 磨消縄文

57箱状山形口縁深鉢土器

60石器
65panel
66石器

100弥生時代
101弥生の道具
  北九州の土器
   (遠賀川式)

考察
 智頭への「北部九州土器」
 の伝播経路

資料 織物基礎知識
     - 夢織人

102弥生土器
103吉備型土器

104弥生土器 中期
120panel

122古墳時代
123古墳出土土器
125黒本谷古墳
127副葬品

200倉庫①
201縄文土器・石器
204塩壺

205古墳時代
216平安時代

230倉庫②
231特殊な土器
233石器
  草創期の砥石
235弥生~古墳

310第2展示室
 綾木長之助展

観光
330智頭町の冬 残雪

因幡街道の宿場町
350智頭宿
380大原宿
335平福宿

     今回のページには、編集後の追加が多くを占め、通し番号が出鱈目になっていることをお詫びします。



 智頭枕田遺跡 縄文時代早期・中期~晩期 約8000~2500年前 鳥取県智頭町
           西日本最大級の縄文集落 遺物が示す他地域との交流

   西日本最大級の集落遺跡で、特に縄文時代中期末~後期初頭にかけては、住居、貯蔵穴、掘立柱建物、配石遺構から構成されている。
   住居の形態などに東日本の要素※が見られ、注目される。
   晩期では、東日本の影響を受けた土器が出土しているなど、山陰地方の縄文文化や他地域との交流を考える上で重要である。


   ※東日本の要素とは、住居内の石囲埋甕炉は、東日本の縄文文化であること。東日本の縄文人は、度々西日本へ移住してきたようです。


 01外観
智頭町歴史資料館 旧土師小学校の校舎
入口は正面玄関でも、右校舎渡り廊下でも。
考古展示室入口
校舎二階
智頭枕田遺跡
 
 智頭枕田遺跡のwebデータ   智頭枕田遺跡 - Wikipedia  智頭枕田遺跡とは - Weblio辞書  智頭 枕田遺跡展

     鳥取県智頭町の智頭枕田遺跡 - Hi-HO   智頭枕田遺跡出土先史時代遺物   智頭枕田遺跡展

     縄文遺跡の智頭枕田遺跡が  智頭枕田遺跡で検索される  智頭枕田遺跡と西日本の縄文時代





 70智頭町埋蔵文化財センター  パンフレット

 71パンフレット紹介

智頭町埋蔵文化財
センター
智頭枕田遺跡出土
縄文土器
磨消縄文
波状口縁深鉢
箱状山形口縁
中期末~後期

箱状山形口縁
波状口縁深鉢
平口縁深鉢
中期末~後期

波状口縁深鉢
平口縁深鉢
中期末~後期
沈線文 晩期約2500年前
体験学習メニュー
土器、勾玉作り
智頭町概念図と埋文

 掘り出された原始・古代の智頭町


 72智頭町の原始・古代と主な遺跡
   智頭町には、約80ヶ所の埋蔵文化財包含地があります。町内から出土した最古の考古資料は、縄文草創期の石槍で、段山遺跡や智頭枕田遺跡
   から出土しています。

  ■縄文時代=県内最大の縄文遺跡・智頭枕田遺跡
   智頭枕田遺跡は、県東部を流れる千代川の支流、新見川と土師川との間、八頭郡智頭町の標高約180mの台地上にあります。

   縄文早期前葉 (約8000年前) にはこの地に住み、また
   中期末~後期初頭 (約4000年前) には県内最大のムラが営まれ、

   晩期末葉 (約2300年前) には、祈りや儀式を行う場として、多彩な縄文文化が展開しました。
   弥生時代と平安時代にもこの地に人が住んでいた痕跡が見つかりました。

   中期末~後期初頭の集落跡から12軒の竪穴住居跡が見つかりました。住居跡は重なったものもあり、継続的に集落が営まれた思われます。
   住居跡の形や中の炉跡、自由居の方向などは規格性が高く、集団内の結びつきの強さが窺えます。

   また、住居跡以外にも貯蔵するための施設などが見つかっており、当時の生活を知る上で貴重な発見となりました。

掘り出された原始・
古代の智頭町
智頭町の原始・古代と主な遺跡 早期の大甕・
中期末の住居跡
住居内に石囲埋甕炉
晩期の石棒
中期末の石囲埋甕炉


  ■弥生時代
   中田竹美遺跡から後期の集落跡が発見されています。その他にも、線刻土器が出土した長瀬向和遺跡をはじめ、
   弥生後期を中心に古墳時代前期初頭にかけての土器が段山遺跡、中河原古墳、高下古墳、智頭枕田遺跡他から出土しています。

  ■古墳時代
   町内の古墳の多くは6世紀後半以降に築造されたものと考えられています。確認できる墳丘は全て円墳です。
   7世紀後半に築造された黒本谷古墳は、仏教道具の銅鋺が出土しており、地方への仏教の伝播を考える上で貴重な古墳です。

  ■奈良・平安時代
   中田竹美遺跡から奈良時代の住居跡が発見されています。また、智頭枕田遺跡から緑釉・灰釉陶器等の特徴的な遺物が出土しました。
   古代智頭群と郡衙を考える上で貴重な発見となりました。

弥生時代
中田竹見遺跡住居跡
特殊器台
古墳時代・奈良時代
市瀬小茗荷谷遺跡
緑釉陶器
主な遺跡地図
町内遺跡名一覧
 




 発掘調査報告書



   80智頭枕田遺跡 発掘調査報告書 より抜粋


 
 81口絵写真

住居跡と石囲埋甕炉 石囲埋甕炉 縄文中期末~後期初頭集落跡 縄文中期末~後期初頭集落跡全景 縄文晩期遺構群

   81a

 Ⅰ.調査の概要
 (2)歴史的環境と周辺の遺跡

  智頭町出土の最古の資料は
  ①草創期 石槍 (段山遺跡)  小型石槍(市瀬小茗荷谷遺跡)
  ②早期  押型文土器 (山形文が大量出土) 早期の生活域が広がっていた。

  ③中期末~後期初頭
     竪穴住居11棟、掘立柱建物跡、配石遺構、土坑群を持つ集落跡が検出された。
     当時、中国地方で最大規模の集落で、東日本的要素が強く、文化の伝播、ヒトの移動の観点から重要な成果と言える。

  ④弥生時代
     線刻土器 (長瀬向和遺跡)など、後期を中心に古墳時代前期初頭にかけての、遺物が、段山遺跡、中河原古墳、高下古墳から。
     中田竹美遺跡からは、集落跡を検出。

  ⑤古墳時代
     町内には6世紀以降の古墳時代後期の円墳が築かれている。

  ⑥平安時代
     智頭町は主要街道沿いに位置し発展していた。
     山城については備前街道・智頭往還を見下ろせる要所に規則的に配置されていた。

 
資料
 81b智頭枕田遺跡出土の主な土器
前期 約6000年前
爪型文土器
中期末~後期
約4000年前
赤彩浅鉢

磨消縄文

擬縄文

平口縁

波状口縁

箱状口縁

箱状口縁涙滴形沈線文
(tear drops)
後期 約3500年前
無文土器
晩期 約2500年前
浮線網状文

変形工字文
沈線文
波状口縁涙滴形沈線文

   82

(2)遺跡の概要
 縄文時代
  ①早期 遺構・遺跡は舌状台地の高地部に集中し、拠点的集落が形成されていた。

  ②中期末~後期初頭 集落跡は遺跡南側土師川の崖線に展開していた。住居跡11棟 (12棟) は2期に渡る。中国地方最大級の縄文集落である。

  ③晩期~弥生前期初頭 縄文から弥生への変化、狩猟採集から稲作の受容の過程を研究出来る資料が出土した。

    遺構は、住居跡とみられる落ち込み、掘立柱建物跡、墓坑、土器棺など特徴的なものが多い。
    他地域の晩期遺跡が低湿地遺跡であるのに本遺跡は微高地に立地しており、遺跡周辺に更に遺跡が出土する可能性有。

    遺物は、大量の土器・石器が捨て場から出土。石棒などの祭祀具。他地域の土器が出土している。

    他地域の土器は
     縄文時代には、変形工字文浮線網状文※1 といった、中部・北陸・東北地方の土器が見られるが、
     弥生時代に入ると、遠賀川系 (北九州) の土器が見られる。

     これは、縄文文化と弥生文化の方向性の違い※2 を表し、時代の過渡期を研究するうえで貴重な事象である。



   ※1変形工字文=亀ヶ岡式:縄文晩期の青森県津軽半島中心、北海道・東北から、晩期後半にはほぼ全国的に広がる。
     浮線網状文=浮線文(略称):縄文後期後葉の中部高地・関東・東海東部・東北南部に分布

   ※2意味はよくわからないが、縄文後晩期の寒冷期に東北~北陸の縄文人が近畿・中国・九州まで移動したことは既出
     晩期の智頭町には、東からの移住者の定住や、日本海航路で運ばれた亀ヶ岡文化が港※3から上陸して広まったようだ。

     ここで大事なことは、移住民は故郷との間を往来していました。これも既出で、東西の土器をそれぞれへ持ち運んでいました。
     土器には保存食料が詰まっており、土器は各地の文化そのものでした。つまり、彼らは無意識に文化を拡散伝播していた。

     弥生文化はやはり、日本海航路に乗って九州からやってきたと思われます。
     筆者の「方向性の違い」の意図は、縄文文化は東から、弥生文化は西から、と言いたいようだが、、、

   ※3智頭町を流れる千代川河口は鳥取港で、港湾未発達の頃は、入り江や河口が天然の港となった。(渡し舟もあっただろう)

   既出 は、以前のどこかの館のページで出ました、という意味です。


 弥生時代 前期初頭、中期中葉、後期後葉 の遺構・遺物を検出。

  ①中期  山陰・吉備・畿内の土器が出土。三地域の交通要所であった。 住居址未検出
  ②後期  巨大な溝 (灌漑遺構) を検出も、住居址未検出。 弥生時代は安定した集落が営まれていた。※4

   ※4西日本特有の環濠集落や高地性集落は発見されず、安定した暮らしであったとしている。


 平安時代 掘立柱建物跡、柵列、溝状遺構など検出。

  82挿絵

縄文草創期

有舌尖頭器 (破片)
板状有溝砥石
早期 陥穴状遺構 中期末~後期
配石遺構

   83

 Ⅱ.遺構と遺物

 1.縄文時代
  ①草創期 有舌尖頭器、板状有溝砥石




  ②早期前葉末 (約8,000年前)
   土器
    ・山形の押型文土器多数出土。土器形式は、瀬戸内の黄島式~近畿中央の高山式期に比定される。
     黄島式の特徴は小粒の楕円文。 高山寺式は粗大化した楕円文。

    ・大形深鉢は、口径66.4cm推定器高56.8cm、口縁部に2箇所の補修口あり。
     楕円文が菱形文に近い直線的な形状。口縁は外反し、口縁裏面に斜行沈線を施す。

    ・これらの他に、繊維混入土器があり、器厚は厚く、胎土は粗雑、焼成悪くもろい。(原初的な土器製作技術)
     原初的な土器製作技術は、本来この地に居た、在地の縄文人のものでしょう。

    ・瀬戸内地方からの移住者や近畿からの移住者があったが、それ以上に山形押型文の文化を持つ人々が圧倒的に押し寄せたようです。

    彼らはどこから来たのか。智頭町に南西からは岡山県瀬戸内地方 (楕円文)。南東は兵庫県播磨地方から近畿 (楕円文)に繋がっている。
    北西からは出雲、北東へは丹後・北陸地方へと繋がる。
    木の丸棒を規則的に削って山形文を施文する。それをトーテムのようにして、施文していた集団ってどこから来たんだろう。

   遺構
     竪穴状遺構、陥穴状遺構、集石、土坑、遺物集中区 (※捨て場) 焼土などがある。
     竪穴状遺構は不整円形 (876cm×720cm) 出土土器の大半が山形文土器

     陥穴遺構は280cm×100cm深196cm底に杭穴が2つ検出 (2本の逆茂木)。形状から早期とした。
     土坑は4基で、集石土坑 (石蒸し料理の跡) である。




  ③前期 (約6,000年前)
   土器 出土数、接合資料が少なく小片である。
       ⅰ 羽状縄文土器
       ⅱ 北白川下層Ⅱb式 (縄文地に半円形突帯を貼付けし、半栽竹管を押し引きした)

       ⅲ 北白川下層Ⅲ式  (半裁竹管を押引きした)
       ⅳ 北白川下層Ⅱa式  (細い平行線内にC字状の爪型文を施し、その下部に縄文を施す。)

  縄文前期、東海西部~近畿・中国地方には北白川下層Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ式が存在する。
      北白川下層Ⅱ式期と同時期に相当する、(岡山県倉敷市) 吉備地方の磯ノ森式が取り上げられていない。あったかなかったか。
      引用北白川下層Ⅱc式・Ⅲ式土器の変遷 - [千葉大学]OPAC




  ④中期末~後期初頭
   遺構① 竪穴住居跡11、掘立柱建物、配石遺構、貯蔵穴 等、多数。建物は2~3軒を一単位とする集落だった。
    形態 570cm×468cm、深さ30cmの、やや台形隅丸方形。床面は自然硬化 (貼床:粘土を入れた"タタキ")

    炉  一辺74cmの石囲埋甕炉 (井戸尻式期 前半期)
    ピット 2本の主柱の穴は66cm

    遺物 箱状山形口縁土器 (口縁下の折り返し部に長楕円で区画し区画内部を刺突文で充填。) (口縁頂部で涙状文様を施文)等
        波状口縁土器 (渦巻き文、横位の沈線文) (口縁下に横長長楕円区画文、胴部に弧状・円形区画) (口縁下にJ字状沈線文)
        その他 (肋骨文)
                    以上中期末葉の比定

   遺構② 床は礫敷き、 炉は石囲炉86cm×68cm×深さ24cm、 
    遺物  波状口縁土器、紡錘文、J字文を多段に施文するなどの土器。 
         椀形土器。無文土器、刷毛目、二枚貝の腹縁押捺文、など。

    石器  石鏃 (サヌカイト) 

   遺構③ ・平縁無文浅鉢で内外面を赤彩する土器。
         ・箱状山形口縁の口唇に向かって縦位の沈線文を施し内一条は蕨手状。
         ・隆帯上に刻み目。 ・縦長の紡錘形文。      以上、縄文中期末葉~後期初頭に比定

         ・平縁で口頸部にE字、逆E字を施文する。

    石器  溶岩製の石皿  これらは後期初頭に比定



   遺構④ 中期末葉、北白川C式A類、 C式C類、土器出土、頁岩製磨製石斧、サヌカイト製石鏃

   遺構⑤ 後期初頭 クランク状文様。波状口縁に三日月形・J字状・銛先状の施文。 双耳壷らしき土器。
         小鉢に、横方向に2か所穿孔する逆U字状把手が付く。黒曜石製石鏃や、サヌカイト製石鏃・石匙・スクレイパー




  ⑤後期前葉  遺構  1軒のみ。石囲炉60cm四方、3本柱建物。
  ⑥後期後葉  17点の土器。成立期を含む縁帯文期(?)なんのこっちゃ




  ⑦晩期
     住居跡、土坑、ピット群が検出。廃棄場から数万点の土器・石器が出土し、中国地方最大級の規模である。
       時期は、晩期末~弥生前期初頭。
       墓壙、埋設土器、骨片が集中する土坑など、墓に関する遺構を確認。土坑・ピット群の中には掘立柱建物跡を含む。

     土器の中心は、西日本に普遍的な突帯文土器北部九州を中心とする遠賀川系土器
        信州・北陸浮線網状文土器東北変形工字文土器が混入している。

    石器の8割が石鏃・石錐・打製石斧の完成品で、理由は今後の課題である。

    突帯文土器は、朝鮮半島の土器で、晩期に九州から東海にかけて200年程の間に広がった土器形式である。
      同じく半島系土器だが、遠賀川式からが弥生式土器とされている。

    遠賀川系土器は九州~伊勢湾、東北の日本海側。
      浮線網状文は、晩期・後期に中部高地・関東・東海東部・新潟・東北南部の土器
      変形工字文土器は、東北・北海道道南の土器。




 弥生時代
  ①中期後葉~後期前葉後期後葉の2時期。
     溝状遺構2条、掘立柱建物跡、遺物集中区は大量の土器を廃棄し人頭大の礫を大量に投げ込んだ。
     土器は、特殊器台、高坏が非常に多い。石包丁は3点。


  ②後期後葉は、V字状溝が出土。土器は直口壺など数点。6本柱の掘立柱建物跡。




 平安時代 9世紀第2四半期~10世紀
   遺構 溝状遺構9条、柱穴列2か所、掘立柱建物跡2棟、土坑3
   土器 土師器の90%が坏 (高台付)、甕2のみ。その他、緑釉・灰釉陶器、内面黒色土師器、ふいごの羽口、石製模造品

   柱穴列は1.8m間隔で10基あり、門跡とされる。その他、塩焼壺、薬壺蓋などが出土し、智頭郡衙跡と推定される。


   ※坏ばかりが出土するのは、何らかの祭祀場であったのかもしれない。廃村・廃住居は、埋葬場に使われることがある。
 
 


  展示室

考古展示室入口
校舎二階



 
 05縄文時代


 
 panel


 06智頭枕田遺跡
  鳥取県東部を流れる千代川の支流、新美川・土師川にはさまれた尾根状を呈する標高180m前後の台地上に立地しています。
  2002(平成14)年と翌年にかけて智頭枕田遺跡の発掘調査が行われ、

  縄文❶早期末、❷中期末~後期初頭、❸後期中葉、❹晩期末葉~弥生前期初頭、❺弥生中期末~後期、❻平安時代、の遺構・遺物が発見され、
  特に中国地方最大規模の縄文遺跡として注目されました。

智頭枕田遺跡 智頭枕田遺跡 遺跡の位置
航空写真
発掘現場
中期末~後期初頭の
集落全景
 
 panel

 07縄文時代とは
  縄文時代とは、文字通り縄文 (式) 土器が使われた時代で、年代的には、今から約13,000年前から約2,500年前までの1万年間を言います。
  この時代は、日本で初めて土器が使われ始め、人々は竪穴住居のムラを構えて定住的な暮らしを営むようになります。

  時期は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分され、それぞれの時期、地域によって異なった特徴のある土器が使われていました。


 智頭枕田遺跡の縄文時代
  智頭枕田遺跡では、主に早期 (約8,000年前) ・中期末~後期初頭 (約4,000年前) ・晩期末 (約2,500年前) の生活跡が発見され、
  当時使われた土器が大量に出土しました。

 =早期=
  早期の土器は押型文土器と呼ばれ、智頭枕田遺跡から大量に出土しています。質・量とも鳥取県東部では最も多く、中心 (拠点的集落) であったと
  考えられます。

智頭枕田遺跡の縄文 縄文時代とは 智頭枕田遺跡の早期 早期の遺物出土状況 早期の大鉢 早期大鉢の模写図
中心線から
左:土器の表面
右:土器の裏面


   08=中期末~後期初頭=
  縄文時代中期末~後期初頭にかけての竪穴住居跡が11軒見つかりました。
  竪穴住居址群は、全てが同時期に存在したものではなく、縄文中期末~後期初頭の時間幅の中で、ある程度連続性を持って営まれたようです。

   ※11棟の建て替え跡ということで、100~200年間に、約20年で建て替えですから、常時、1~2軒程度だったのでしょうか。

中期末~後期初頭 中期集落配置図
住居跡
中期末~後期初頭の
土器
 

 09=晩期=
  縄文時代から弥生時代にかけての遺構・遺物が大量に出土しました。
  その中には、石棒などの祭祀具や、他地域の土器稲籾圧痕が付いた縄文土器など貴重な資料が見られます。

晩期 遺物出土状況 石棒 晩期の土器




10展示室内のパネル 順序不同

 11panel
埋葬
縄文人と弥生人

 縄文時代は主に一人ずつ穴を掘って埋葬する土葬で、その墓を土坑墓と呼びます。

他には木棺墓、土器棺墓など色々あります。

 枕田遺跡では縄文時代晩期の墓と考えられる土坑が検出されており、骨片が出土しています。 
   縄文人 弥生人 
 顔の形  四角 長円 
 眉間  隆起  平坦
 鼻  高い  低い
 眉・まつ毛・ひげ  濃い  薄い
 眼とまぶた  大きく二重  小さく一重
 耳たぶ  大きい  小さい
 羽  小さい  大きい
 唇  大きく厚い  小さく薄い
身長 男平均
女平均
158cm
149cm
163cm
151cm
 寿命 男30代、女20代で成人者の数倍が
子どもの頃に亡くなりました。 


浮線網状文土器
変形工字文土器
浅鉢・壺
は、口がすぼまる形の器です。

縄文時代にはあまり見られず、
弥生時代になると安定して使われるようになります。

おもな用途は貯蔵することから、農耕生活との結びつきが考えられています。

縄文時代晩期の智頭枕田遺跡では、様々な文様を施した壺が出土しています。 
 約2,500年前の縄文時代晩期の土器で、

平行沈線に区画された文様帯に2~3分岐する横長で曲線的な
浮線文が施されており、

長野県で作られたものが直接持ち込まれています。
 約2,500年前の縄文時代晩期の土器で、

沈線による精巧な模様が描かれています。変形工字文は北陸北部から中部ちほうに見られる土器です。 
浅鉢 縄文土器は、深鉢・浅鉢など、多様な器種が存在します。

縄文時代の人々は用途によって器を使い分けていたことが窺えます。

浅鉢は特に縄文時代後期以降になると、よく見られるようになります。 


網代圧痕土器
赤彩の深鉢
沈線文土器
無文土器
 約4,000年前の縄文中期末~後期初頭にあたる住居後から出土した底部の約2割に網代圧痕が見られます。

網代とは薄く裂いた竹、アシ、ヨシなどを縦横に編んだもので、枕田遺跡では多様な編み方がみられ、

その中には一部編み方が違うもの

網代圧痕を条痕でかき消した様なものも見られます。
約4,000年前の縄文時代中期末~後期初頭の土器で、

赤や黒などの色に塗彩したものが見られ、色彩を意識して作られたことが窺えます。

赤は特に好まれた色で、赤彩に使う顔料は、ベンガラや水銀朱などが知られています。

一般的にはベンガラが多く用いられたようです。 
約2,500年前縄文時代晩期の土器。
棒状の工具等を使い、沈線のみで文様を描いています。

磨消縄文に比べて地養成や文様構成を荒く仕上げるものが多いのが特徴です。 
約3,500年前の縄文後期の土器で
名前の通り文様のない土器です。

器面が荒く平滑に調整されないものです。

日常に使う機会が多いこと、それによって壊れて作り替える必要があり、
縄文時代後期になると、このような土器が増えてきます。 


石錘
 
石の重みで編みを固定し、魚を捕まえていたようです。
漁撈が盛んに行われていたことは、縄文時代の特徴陽の一つです。 
狩猟
 
逃げ足の速い獣を捕まえるため、
矢の先に石鏃を取り付け、
弓を放っていました。 
枕田遺跡からは、長楕円形の
陥穴が2基見検出した。

水場に降りてくる獣を狙ったものと考えられ、穴の底には落ちた獣を殺傷するための尖った木(逆茂木)を立てた跡がありました。
板状有溝砥石
 
約1万年前の縄文草創期の砥石で、
長さ12.6cm幅5.3cm
厚さ1.6cm
材質は安山岩 
 



 13
祈りの道具 石棒
縄文時代には、特に後・晩期になると受持やつ・宗教的な遺物・遺構が増加してきます。
その代表的な遺物に石棒 (せきぼう) や土偶 (どぐう)があります。石棒は男根状をした石製品です。
一端に頭部をもつものと、円棒のままのものがあります。

土偶は粘土で作られた素焼きの人形で、祭祀の過程でわざと壊すことがあり、多くの破損例が見つかっています。

このような道具は、狩猟や採集などの生業に直接的には用いられず、縄文時代の人々が祈りの道具として用いた「第2の道具」であると考えられています。


年表
旧石器時代 3万年前
 ・狩猟採集を行う
 ・鹿児島の姶良火山が噴火し、
  火山灰がこの地にも降る

縄文時代 1万5千年前
 ・土器づくりや弓矢の使用が始まる

弥生時代 2900年前
 ・稲作が広がる
 ・金属器が使われ始める
200年頃
 ・卑弥呼登場
古墳時代 300年頃
 ・古墳が作られ始める
 ・鉄を作り始める
550年頃 ・仏教が伝わる

古代
710年 ・奈良に都を遷す
735年 ・出雲国風土記が作られる
794年 ・京都に都を遷す

中世
1400年頃~・地方の武士や大名が成長し、激しく争う

近世
1603年 ・江戸幕府が開かれる
1868年 ・明治維新


 石器
約2,500年前の縄文晩期の、切ったり削ったりする刃部をもつ
石器です。

打製石斧は柄などは付けず手で握って使ったと思われます。
このような石斧は握斧と呼ばれます。

磨製石斧は柄に取り付けて木を伐り倒すために使われます。
石器・磨石
 
 木の実の殻を割り、堅い実を取り出した物や、

穀物などを磨り潰して
粉にするための調理道具です。

 もみ圧痕土器
智頭枕田遺跡では、縄文時代晩期の土器の内面に、稲籾のスタンプ痕が見つかりました。
考古学では、このような痕が付いた土器を「もみ圧痕土器」と呼んでいます。

もみ圧痕土器が見つかれば、土器が作られていた周辺にコメが存在したことになります。
これは、縄文時代のコメ作りを考える上で貴重な発見となりました。

山陰地方の縄文時代晩期のもみ圧痕土器は、鳥取県米子市諏訪南山崎遺跡、島根県松江市
石台遺跡などで見つかっています。また、石台遺跡からは炭化米も出土しています。


磨消縄文土器
 
縄文時代早期の深鉢
 
縄文の施文
 
 縄文中期末~後期初頭の竪穴住居址
 約4000年前の中期末~後期の住居から多量に出土しています。

磨り消し縄文は、土器の施文方法の一つで、縄文地に沈線で区画を描いた後、枠外を磨り消し文様効果をあげています。
 約8000年前の縄文早期の土器。
口径66.4cm器高56.8cmの大型で、口縁部付近に補修孔が2箇所穿孔されている。
外面は菱形に近い楕円の押し型文で、内面は斜行沈線文を施している。
 縄文土器には様々な施文具、施文法を用いて多彩な文様が施されています。
棒状の工具を使って土器に文様を描いていくものや、撚った縄を転がして縄目模様を施す縄文などです。
縄文は縄の撚り方によって沢山の種類があります。
 
 
 重要

 縄文時代区分 には、二つあり、一つは慣用化した時期区分であり、他方は、これをAMS法で測定して暦年代に補正した年代です。引用wiki縄文時代
 時代区分   慣用的時代区分   暦年補正した区分 
草創期
早期
前期
中期
後期
晩期
約1万3,000 - 1万年前
約1万 - 6,000年前
約6,000 - 5,000年前
約5,000 - 4,000年前
約4,000 - 3,000年前
約3,000 - 2,300年前
約1万5,000 - 1万2,000年前
約1万2,000 - 7,000年前
約7,000 - 5,500年前
約5,500 - 4,500年前
約4,500 - 3,300年前
約3,300 - 2,800年前
 






 20遺物展示






 21早期大型土器  この館の目玉であり、全国のどこにもない、縄文前期の大鉢です。

大鉢 大鉢
縄文時代早期
約8000年前

口径66.4cm
器高56.8cm

同種の大鉢は、吉備と出雲で出土したが、

再現するだけの破片がそろわなかった為に
全国で再現でき、かつ展示されているのはこれだけと聞く。
 
  45早期大型土器   この土器は、大型土器、深鉢、大鉢、大深鉢などと呼ばれています

押し型文がよく見える
押型文は8000年前
を象徴する土器形式である。
 
 考察

 前代未聞の縄文早期 大形深鉢
  日本中の多くの考古博物館で、この早期の大鉢について尋ねてみたが、いずれもあり得ないと返ってきた。
  他のどこであっても考えられないことであり、多くが、それは間違いであろうと答えた。

  重複するが、この大深鉢は、岡山県吉備、島根県出雲でも出土しているが、復元に足りる土器片を残したのは智頭枕田遺跡だけでした。


   縄文前期前半における半島系土器の列島での拡散
     論文、縄文前期前半期 にお ける轟 B 式土器群の 様相、では、
     前期前半期に半島系土器 (轟B式) が朝鮮半島南部と、九州から西日本で広く分布していると言っている。

     この土器は、それまでの植物繊維 (スサ) を入れた、厚手、不良焼成の土器と違い、薄手・スサなしで、その後
     九州 (轟式)、近畿 (北白川下層式)、瀬戸内 (羽島下層式)、東海 (清水ノ上式)、中部・関東 (諸磯式) などの土器型式へと繋がっていく。

     この土器は、7,300年前の鬼界カルデラの大爆発によるアカホヤ火山灰の直上から発見される。
     噴火直後に半島から大量の半島人が、漂着ではなく、明確な意思を持って列島にやってきたようである。

     つまり、7300年以前より、半島の南に暖かい土地があることがよく知られていて、どうもよく行き来していたのではないか。
     その他に、オサンニ式釣り針 (結合釣針、組み合わせ式釣り針) など、半島との密接な関係を証拠立てるものがある。

  このことから、私は、縄文前期以前から、半島からの密接な接触があったのではないかと思う。
  8000年前の智頭枕田遺跡の大深鉢も、このような経路でやってきた半島人集団が中国地方各地に分散居住し、各地で作ったと想像します。





 30展示




 31

石囲埋甕炉
縄文中期末~後期
約4000年前

炉の長軸570cm短軸468cm
竪穴住居のほぼ中央に位置します。
石囲炉


 32縄文早期・中期・後期土器

押型文土器
早期 (約8千年前)

楕円形の刻みを入れた棒を転がしてつけた文様です。
網代圧痕土器 縄文後期 (約3500年前)

薄く割いた竹・アシ・ヨシ等を縦横に編んだものです。
土器を作る時に網代の上に載せ、編み物を回転させながら製作することで底部に圧痕が残ります。
山形文土器
縄文早期 (約8千年前)

棒状工具に山の形を刻み付け文様を施します。

  浅鉢 縄文中期末~後期 (約4000年前) 
      浅い皿のような鉢で、盛り付けなどに使われたと考えられます。
赤彩浅鉢浅鉢/中期末~後期
約4000年前

 34土器
浮線網状文土器
晩期 (約2500年前)

北陸北部や中部地方に見られる文様です
壺形土器
晩期 (約2500年前)
頸部と肩部に刻目突帯を施し間に山形文と乳頭状の突帯を施している。
把手付土器
中期末~後期
約4千年前

小鉢で把手に横方向に2箇所穿孔している
小型特殊土器
中期末~後期
約4千年前
小型特殊土器
復元は別として、二つの刺突文群の口縁は、水切り、漉し器に見える
変形工字文土器
晩期 (2500年前)

北陸や中部地方に見られる土器
爪型文土器
前期 (約6千年前)
半裁竹管状工具によるC字状の爪形を横位に施します。
耳栓
晩期 (約2500年前)

耳たぶにあけた穴にはめ込む耳飾りです

 36中期末~後期
無文土器
後期 (約3500年前)

文様がない土器で器面は粗く日常的に使う
無文土器
後期 (約3500年前)
ため、壊れて作り替えることが多く、
無文土器
後期 (約3500年前)
出土する数も多いのが特徴です。
赤彩土器
中期末~後期
約4千年前
ベンガラ顔料を使用
擬縄文土器
中期末~後期
約4千年前

2枚貝の腹縁、巻貝の回転による押捺により縄文のような文様をつけています
縄文土器
撚った糸を転がして縄目模様を施します。

縄目は沢山の種類があります。

 38土器
無文土器/後期
約3500年前

文様がない土器で器面は粗く日常的に使う

ため、壊れて作り替えることが多く、
出土する数も多いのが特徴です。
円筒型土器
中期末~後期
約4千年前

磨消の区画を丁寧に磨いている
円筒土器の資料や解説はありません。

ネット上の円筒土器とは別ものです。

丸底円筒形で灰か土に埋めたのか、葬送儀礼に関する物なのか不明

特殊な土器です
沈線文土器
晩期 約2500年前
棒状工具を使い沈線
のみで文様を描いています




 41展示室全景



 資料
    突帯文土器 弥生早期

    転載 初期弥生文化の成立抜刷 水稲農耕と突帯文土器 - 国立歴史民俗博物館

突帯文土器様式の
主要遺跡と分布西日本と伊勢湾沿岸地域に多い
Ⅰ期 突帯文土器の成立と水稲稲作の開始

一条甕と二条甕の分布
Ⅱ期 西武九州系突帯文土器の東進と早期水稲農耕の伝播
一条甕と二条甕の分布

※東日本は浮線文土器
Ⅲ期 板付Ⅰ式土器の成立と前期水稲農耕の伝播 Ⅳ・Ⅴ期 前期突帯文土器の定型化と中期土器様式の成立





 43晩期 突帯文土器 約2500年前
   粘土紐を貼り付け刻み目文様を施したり肥厚にしたりします

突帯文土器 晩期
約2500年前

粘土紐を貼り付け刻み目文様を施したり肥厚にしたりします
突帯文土器 晩期
 約2500年前

粘土紐を貼り付け刻み目文様を施したり肥厚にしたりします
 46突帯文土器
突帯文土器 晩期
 約2500年前
粘土紐を貼り付け刻み目文様を施したり肥厚にしたりします

板付式土器
=遠賀川式土器

夜臼式(ゆうす)
=刻目突帯文土器
縄文晩期末=弥生早期

弥生時代は500年遡り2500年前はもうすっかり弥生時代ですが、

智頭枕田遺跡には
弥生は訪れていたか。
 47
突帯文土器 晩期
 約2500年前
粘土紐を貼り付け刻み目文様を施したり肥厚にしたりします

この土器いくら検索

しても類似が出て

来ない。不明。

←↑の土器形式不明
口縁の隆帯に上から刻目のある条痕文土器
もみ圧痕土器 もみ圧痕土器
約2500年前

突帯文土器で稲籾の
痕がついています
籾圧痕
刻目突帯文土器



  縄文土器



 48平口縁深鉢土器 縄文中期末~後期 約4000年前
平口縁深鉢土器
中期末~後期
 約4000年前
 
 50


 51波状口縁深鉢土器 縄文中期~後期 約4000年前  参考 縁帯文土器の 編年的研究  吉備の縄文貝塚  弥生時代の開始年代

波状口縁深鉢土器
縄文中期~後期
 52波状口縁深鉢土器  縄文中期末~後期 約4000年前


 54磨消縄文土器 中期末~後期 4000年前

  縄目を転がして縄文を施し、棒状工具等で沈線を区画し、枠外を磨り消します。中には区画された後で縄文を充填するものもあります。
  貝殻で縄文のような文様を付ける擬縄文もあります。

磨消縄文土器
 55磨消縄文土器 中期末~後期

 資料

 磨消縄文 引用コトバンク
  土器面に撚紐を回転させて縄文を施文し、その上に沈線を引いて区画文を描き、区画の外か内の縄文を磨り消して装飾効果をあげる方法

  この技法は縄文前期に起こり、晩期まで繰り返し用いられ、東日本では弥生土器の一部にまで残存した。
  西日本では後期後半以降用いられなくなる。このことから、磨消縄文は東日本の縄文文化のなかで生まれ発達した文化の一つである。


 57箱状山形口縁深鉢土器 中期末~後期 約4000年前

     ※この土器に関する情報が全くありません。どこかで見た感じですけど。もしかすると、呼び名が違うのかもしれません。

箱状山形口縁深鉢土器
中期末~後期
約4000年前
 58箱状山形口縁深鉢土器 中期末~後期
箱状山形口縁深鉢土器
 59箱状山形口縁深鉢土器 中期末~後期
箱状山形口縁深鉢土器

中期末~後期
約4000年前


  磨消縄文 中期末~後期 約4000年前
磨り消し縄文 中期末~後期 約4000年前  縄目を転がして縄文を施し、棒状工具等で沈線を区画し、
枠外を磨り消します。

中には区画された後で縄文を充填するものもあります。
貝殻で縄文のような文様を付ける擬縄文もあります。
 




 60石器

 61panel
石皿・磨石
木の実の殻を割り、堅い実を取り出した物や穀物等を磨り潰して
粉にするための調理道具です。
石器
約2500年前の縄文時代晩期の切ったり、削ったりする刃部をもつ石器です。
打製石斧は柄などは付けず手で握って使ったと思われます。
このような石斧は握斧と呼ばれます。
磨製石斧は柄に取り付けて気を伐り倒すために使われます。


敲石/縄文時代
 
   石器加工の為のハンマーであり、クルミなどの堅果類を割る道具です。
打撃による破損、握り部に指の形の磨滅痕が見られるものもある。
 石皿・磨石/縄文時代
 穀物や顔料を磨り潰す道具で、

 調理の必需品です
打製石斧/縄文時代 柄などは付けず、手で握って使ったと思われます。
このような石斧を握斧と呼びます。

手鎌の代わりですね
磨製石斧
縄文中期末~後期初頭


 65石器

 石棒
  縄文時代には、特に後・晩期になると呪術・宗教的な遺物や遺構が増加してきます。その代表的な遺物に石棒 (せきぼう) 土偶(どぐう)があります。

  石棒は男根状をした縄文時代の石製品です。一端に頭部をもつものと、円棒のままのものがあります。
  土偶は粘土で作られた素焼きの人形で、祭祀の過程でわざと壊すことがあり、多くの破損例が見つかっています。

  このような道具は、狩猟採集などの生業に直接的には用いられず、縄文時代の人々が祈りの道具として用いた「第2の道具」と言われています。

祈りの道具
石棒
石棒出土状況

板状有溝砥石
 
   約1万年前の縄文草創期の砥石で、
長さ12.9cm幅5.5cm厚み1.6cm、重量26.27g
安山岩でできている。

 これは何でしょう。矢柄研磨器でしょうか。
断面を見ると二つで挟んで使えたようです。
ネット情報では、

滋賀県東近江市相谷熊原遺跡
  (13000年前の土偶出土地、既出)
  の草創期遺跡から出土している。

石川県野々市市 御経塚遺跡 (縄文後期~晩期)
  などある。

狩猟
逃げ足の速い獣を捕まえるため、
矢の先に石鏃を取り付け、
弓を放っていました。
陥穴おとしあな 枕田遺跡からは、長楕円形の陥穴が2基見つかりました。
水を飲みに降りてくる獣を狙ったものと考えられ、穴の底には落ちた獣を殺傷するための尖った木(逆茂木)を立てた跡がありました。


    石の重みで網を固定し、魚を捕まえていたようです。

漁労が盛んにおこなわれることは縄文時代の特徴の一つです。


 66石器
石棒/晩期
約2500年前祭祀道具で頭部に線刻を施した精巧な物あり

中央は長さ25.5cm
板状有溝砥石
草創期/約1万年前
材質:安山岩
石匙 縄文時代
皮なめし具、携帯用ナイフ等、利用法には
利用法には諸説あり。
 石棒は6本出土したようですが、上記しか展示されていません。
 残りは鳥取県立博物館に行ったようです。


石鏃/縄文時代
一部黒曜石もありますが、サヌカイトで作られ弓矢の先端につけて狩りを行いました。
石錘/約4000年前
縄文中期末~後期漁撈のため、網に付けるおもりです
 




 100弥生時代





 101弥生の道具

刺突文土器
縄文~弥生

棒状や竹管など中が空洞の工具を使い突き刺して施文します。
土錘 弥生時代




  北九州の土器 (線刻土器) 弥生前期

北九州の土器
弥生前期
線刻土器

稲作の普及と共に九州より北上してきたと思われる土器です。
遠賀川式土器
民俗学伝承ひろいあげ辞典「遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの」では

列島の稲作は、土器の出土編年から、まず日本海ルートで出雲・越(新潟)へと早期に動く。

この流れがへと向かったようである。日本海側が早い理由として学者は対馬暖流の流れと温暖さ、さらに夏季の雨量の多さをあげている。

疑問点もあるが記紀などの史書が出雲に早期のクニがあったと言うこととは合致することになる。

太平洋ルートでは遠賀川から瀬戸内に入り吉備~近畿へと向かうルートと、豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向かうコースがある。

 考察

 智頭への「北部九州土器」の伝播 弥生前期

  土器形式名は未公表だが、遠賀川式です。
  弥生文化は船に乗って、九州北部から日本海側を北上し、あっという間に青森県まで到達し、縄文人が稲作農耕を行ったことを東北の縄文で見た。

  舟は沿岸の天然港を利用する。出雲、松江、を経て鳥取港は千代川河口の港である。ここに上陸し、川沿いに南下すれば智頭枕田遺跡である。
  また、瀬戸内海からは、備前・伊部や赤穂・相生などに上陸し、当時の街道筋に沿って北上すれば中国山地を越えて智頭枕田遺跡に到達する。

  しかし、瀬戸内からなら、途中で土器が、似た土器に変わるか、壊れてしまうだろう。やはり、ここは、日本海航路からが直接伝播経路でしょう。


 資料 引用 織物基礎知識 - 夢織人

  紡錘車
  紡錘車の出土で、何らかの繊維を取り出して、糸を紡ぎ、原始機 (げんしばた) で布を作ったが、麻や苧麻などで、絹糸ではなかったかも。

  綿花の栽培は室町時代後期から。

  養蚕の伝播は場所によって異なり、よく、蚕の神様として小箱を持った女性の絵があるが、3世紀とか5世紀とか、もっと遅いというところもある。
   しかし、 夢織人の記述では、弥生農耕と共に伝播したといっている。そういう地域もあったかもしれない。

  「弥生前期の農耕・稲作技術の伝来と同時期に、桑の葉単食種である「家養蚕」技術も伝えられ、農耕飼畜経済の発展に伴い男女の
   仕事分担化が進み、養蚕の技術も発達して女性中心の仕事となり、柔らかく、暖かい高級衣服として全国に広まっていった。」

紡錘車/弥生時代

 壊れた土器片を円形にし、中央に穿孔して棒を通し、糸を掛けて撚糸具にしました。



 102弥生土器
鉢 弥生時代
食べ物を盛り付ける器ですが、中には把手

があったり、片口のものは液体を入れたと思われます。

直口壺 弥生時代
水や酒が注ぎ易い頸の形になっています
 103吉備型土器
小型甕 弥生時代 後期になると小さな甕も出土。現代の一人釜飯のように、蒸し器として 使ったのかもしれません ※低温焼成の土師器は、溶結不十分で 負荷部分や結合の悪い部分から壊れやすい
 104弥生土器
蓋 弥生時代
蓋は弥生時代から

壺・甕に専用の蓋を用いています。木製もあります。
縄文時代にはなぜ蓋がなかったのでしょう。
木製の蓋だったのでしょうか。

保存食料が不潔になり、ネズミや昆虫などに食べられたでしょう。

必要無しとは、なんらか別の方法や考えがあったのでしょうか。


食料品・水・漬物等加工品を貯蔵する容器

衣類を鼠から守るためにも使われた。

用途は様々、形も変化に富む

図にないV字の連続文が見える

 私は寒冷地に住んだことがない。 水分が、土器全体に浸透、しみる、土師器が、凍ったら割れてしまうのかな。寒冷地の皆さん教えてください。
 素焼き土器に漬物を漬けたら、水分、塩分等が表面から浸み出し、蒸発し、土器表面に塩分と野菜汁の結晶がついて、土器はどうなっているのか。
 107
甕 弥生時代 食べ物を煮炊きする土器です。
現在の鍋・釜にあたり、直接火にかけて煤けたものが多く見られます。

しかし、大型の甕には煤の付着がないため、水甕だったと思われます。
また、亡くなった人を葬る甕棺もありました。
 高坏 弥生時代     食べ物を盛り付ける器です。
盛る食べ物によって形を変えたようです。



 108弥生時代 約2900年~1700年前

   ◎稲作が始まり、狩猟採集から農耕へ転換され、土地への定着が始まり、ムラが誕生していきました。
   ◎栽培で得た生産物である財産を巡って争いが起こり、有力者が地域のリーダーとして台頭します。こうして地域社会の成立が見られます。


  弥生時代中期 (約2000年前)
器台 弥生時代  器台 弥生時代中期 (約2000年前)

 大型で沈線文、波状文、鋸歯文等の
 様々な文様を施しており、

 祭祀用に使用したと思われます。
特殊器台 特殊器台 器台などは彩色されていたといわれ、
もっと美しいものだったのでしょう。
 120panel
 121

吉備型土器
高坏
特殊器台 (↑写真)
縄文の施文

1段の縄Lrr、Rll
2段の縄Lrr、Rll
約2000年前の弥生時代の土器
岡山県吉備地方に見られる土器で、山陰吉備畿内の土器が混じって出土しました。 
約2000年前の弥生時代の土器で、食べ物を盛り付ける器です。 
 約2000年前の弥生中期の土器で、竹管文鋸歯文凹線文等の文様に穿孔を施した豪華な作りになっており、祭祀に用いられたと思われます。  縄文土器には様々な施文具、施文法を用いて多彩な文様が施されています。
棒状の工具を使って土器に文様を描いていくものや、撚った縄を転がして縄目模様を施す縄文などです。
 

  縄文時代の竪穴住居
竪穴住居 住居跡の炉跡
炉は石囲埋甕炉
中期末~後期
竪穴住居の作り方 1.竪穴を掘る
2.柱穴を掘って主柱を立てる
 古屋はゴミ穴に使います。

3.桁を通し垂木を掛ける
4.樹皮、カヤなどで屋根を葺く




 122古墳時代




 古墳時代 約1700~1300年前

  ◎有名な前方後円墳等の古墳が作られるようになった時代で、智頭町では7世紀後半円墳が作られています。

  ◎5世紀の中頃に大陸より高い温度で土器を焼く技法が伝わり、日本での生産地は
   大阪の陶邑から始まった。そこから須恵器と呼ばれており、この時代からロクロの使用が始まりました。

古墳時代 智頭町黒本谷古墳 地図
黒本谷古墳写真


 123古墳出土土器
坏蓋・坏身
約1400年前
皿よりやや深い器で
食べ物を入れて蓋をしました
脚付碗
約1500年前
大陸より伝来したがやがて消えていった器種です。
平瓶 (ひらべ)
約1400年前液体を入れていました
平瓶 平瓶


 125 黒本谷古墳 7世紀後半築造 円墳

黒本谷古墳位置図 智頭町 広角 古墳位置 詳細

古墳出土の馬具
 
辻金具
面繋
鏡板
鉄地金銅張鏡板付轡
引手
胸繋
馬鐸
鞍金具
手綱
前輪
後輪


鉄製輪鐙
馬鈴
障泥
鉄地金銅張剣菱
鉄地金銅張杏葉
雲珠
尻繋
鈴杏葉
古墳の形態
1.円墳
2.方墳
3.前方後円墳
4.帆立貝式古墳
5.前方後方墳
6.上円下方墳
7.双方中円墳
8.双方中方墳
9.八角墳
10.双円墳
11.横穴墓
12.地下式横穴墓
13.四隅突出型墳墓

 127黒本谷古墳出土物
銅鋺 本来仏具の銅碗が古墳の副葬品として埋葬されています。
地域の有力者の証として中央政権から与えられたと思われます。
耳環・管玉
耳環
耳に着用する装身具です

管玉
装身具で、管に糸を通し、腕飾り、首飾りにします
碧玉製
 128
素環鏡板付轡といい、
 装飾のない実用的な轡のことです

  圭頭大刀
圭頭大刀
金銅製大刀で、
全国的出土例は少なく
有力者の墓であると
思われる

柄頭
 




 200倉庫1 2018.02.27時点の、埋蔵文化財センターの倉庫です

 200縄文時代
 201縄文

擬縄文 土器
 202石器
 203
 204塩壺
北九州の土器
弥生前期 線刻土器
前出より文様がより明確です。
北部九州の弥生土器にこんな文様があったのは驚きです。

遠賀川式土器
塩壺 平安時代
約1200年前
瀬戸内 (赤穂周辺)で作られた塩を運ぶための
専用容器です。

塩壺は馬に長旅をさせるときに塩をなめさせるために使われます。

そのために智頭に郡衙の付属施設である馬屋があったと考えられます。注:馬屋=厩=駅 (うまや)

 205古墳時代
 206
横瓶
古墳時代 約1400年前
俵に似ていることから俵壺とも呼ばれます。
横瓶
この土器は、模様を付けた板で表面を叩いて器面調整をします。それで模様が付きます。

その時、内側にも模様入りのあて木をしますので内側にもあて木の模様がついています。
提瓶紐を付けてぶら下げるもの。
やがて釣り手が退化する。
平瓶
古墳時代 約1400年前
液体の入れ物
 207壺
長頸壺
約1400年前
直口壺
約1400年前
 208
甕(約1500年前)
台付短頸壷
台付短頸壷
約1400年前
短頸壷
約1400年前
提瓶 約1400年前 提瓶 約1400年前 脚付長頸壷
約1300年前
 209高坏
高坏 約1300年前
 100年の間に小型になり、穿孔はなくなります 有蓋高坏 約1400年前
蓋が付いている高坏です 
 
 210
脚付碗
約1500年前大陸より伝来したが、
やがて消えていった
脚付碗・碗
約1500年前
器台 約1500年前
器を載せる事に使用
ハソウ
約1400年前
竹筒を差し込んで注ぎ口にし液体を注ぐ
 211把手付椀
把手付碗
約1500年前
 大陸より伝来したが、
やがて消えていった

マグカップのような
土器です
 212
つまみ付蓋
約1300年前
小型壺
約1400年前
 213
赤彩埦
約1300年前
坏身
約1500年前
坏身
約1500年前

 215鍛冶道具 古墳時代
羽口
フイゴに付けて火窪に風を送る
各部の名称 鉄滓 鍛冶の際に出た、不純物。
この地で鍛冶が行われた証拠。

 216平安時代
 217
有高台坏 平安時代
 
 



 230倉庫2 2015.10.20時点の、埋蔵文化財センターの倉庫です



 231
縄文/磨消縄文 突帯文土器 縄文晩期6単位波状口縁涙滴形沈線文 弥生早期/突帯文土器 弥生土器三重隆帯の特殊文様
突帯文土器

 233石棒

 石棒は6点出土し、男根状に成形された有頭のモノ、無頭のモノ、頭部に彫刻を施したモノ、石刃状のモノ等々様々な形態の石棒が見つかっている。
 精緻な細工を施した石器には、専門加工職人の存在を窺わせる。智頭枕田遺跡 - Hi-HO

石棒 草創期
板状有溝砥石

石棒

 石器

磨製・打製石斧、彫器、石錘(稀有な形状)

石鏃or剥片

剥片、石錘、石匙、片刃石器

石鏃、トロトロ石器
剥片


 235土器 弥生~古墳

口縁部に波状文と粘土粒の貼り付け

口縁部に波状文と粘土粒の貼り付け
高坏 直口壺
 237

有高台杯 平安時代

ハソウ・高杯・

脚付碗

 239土器文様
土器片
土器片文様
ろくろで区画し、続けて回しながらひごで波線を描いた。
横瓶の破片外側文様

横瓶の破片内側文様
 どこかで書きました。
横瓶の成型・器面調整時に
内側にあて木を添えて外から叩く。

その両方に異なった文様がついており、
ために、このような文様がついた。
 





 310日本初、マラソン大会優勝者  綾木長之助展

    地元出身の、日本のマラソン大会初優勝者の展覧会です。大変好評で、延長するそうです。
 311
綾木長之助展

この展覧会はとても
大人気で、

山陰テレビで放送され
沢山の問い合わせや

見学者が押しかけています。

地域の人々の誇り
偉人となっている

ようです。
 




  観光





 

  智頭町の冬


 330雪景色 
  三回目の訪問は2月27日でした。超豪雪で、超温暖化の今年でした。雪は少ないといいながら、まだまだ期待を裏切りませんでした。
  歴史館を出た後、駅前の観光案内所で板井原集落を教えてもらい行くことにしましたが、暖地に住む私は、積雪地の怖さを忘れていました。

   ※板井原集落リンク  藁ぶき屋根の民家や、板で作った道路とかがある、そうです。
 331
歴史資料館の運動場 智頭駅前に残る残雪 希少な集落板井原
ノーマルタイヤの私の車では、滑って事故る。

もし、無事下れても
雪が溶けるまで、登ってこれない。野宿か凍死

板井原トンネル

あの山の上と同じ高さのところに板井原村があった

 350因幡街道 智頭宿
   因幡街道三宿と言われる、智頭宿、大原宿、平福宿の一つである。
   鳥取と瀬戸内・近畿を結ぶ、超古代からの主要街道でした。


 351 智頭は、宿場としてよりも、山林地主の大富豪が現在も多数存在する。その中でも石谷家住宅は圧倒的な森林王の住居である。


智頭宿といわれる地区

ここも立派な富豪の住宅です

雪が載っている前栽の長持ち石の巨大なこと

栄えるものあれば、衰えるものあり

栄枯盛衰は、平家物語の昔からですね。

大正モダンでしょうか。ここ、登って写真を撮ります。
見えるのは、超山林王の石谷家住宅①



①~④
この地方では、あちこちに山林地主の大富豪が存在します。

北西の空/智頭農林高校グランドから

  島根県の超山林地主は、今でも、他人の土地を一切踏まずに、他県へ出られる。
  島根・和歌山では、山林資産を背景に、銀行からマクドナルドまで、あらゆる産業を経営する、財閥、も多い。

 
 







 380因幡街道 大原宿




    智頭枕田遺跡を経由して瀬戸内側への街道筋に当たり、おそらく縄文時代から旅する者の休み場であっただろう。
    旧大原町は、現在美作市に合併し、大原という名前すら消えてしまっています。


 381 大原町の時代から宿場町再現に取り組み、因幡街道では最も美しい宿場町となっています。
大原町旧商店街
観光案内所に駐車
向かい側にある大正建築

町屋建築↓の写真

昭和30年代の全国的な道路拡幅政策で

多くの歴史的建造物は街路面を破壊されたが
宿場町の多くは元来道幅が広かった。
因幡街道と大原宿
鳥取と姫路経由で

関西と結ぶ往還だった


呉服屋さんが、こんなに

レトロで、雰囲気あり

こりゃ、インスタ映え
大原宿本陣
巨大な本陣の地所が
長く続いている。
 382大原本陣

隔年にたった一度の
往来で

こんなに巨大な建物を維持できるほど

莫大な収益があったのか。毎日いくら使った

消防団のポンプ小屋
 383

明治150年。よく今日まで形態を保っていた

大抵は昭和30年代で潰れて消滅しました

鉄道が来ず変化がなかったことと、

何かの産業や資産を持ち、維持できたようだ
大原町脇本陣外観は復元できても
屋内は荒れているかもしれません。

旧大原町時代に

これらの街並み復元を
行いました。どこから
莫大な予算が捻出できたのだろう

  これほど主要な中継地ならば、遺跡も多数あるだろうと思うが、全くその気配もない。
  全て壊されてしまったか、まだ発見されていないのか、、。

 
 







   335平福宿  智頭宿から瀬戸内側へ向かう3宿目

 336
電車が屋敷へ これが駅だった

本当に驚きました
この景色が美しいと

よく油絵や写真になっています

各家から川に降りる階段がある。
川船が上がってきて物資の搬出入が行われる活発な商業活動の証
 と、思っていましたが、船はここまで上がってこないそうです。

洗い物用だそうです。昔は、なんでも川で洗っていたから。
  337

この辺りが旧宿場町
らしい
個人宅なので、町並みの統一も難しい 鋳物師 瓜生原家
01 02 03

縁台が作り付けてあります。商売用です。

飛騨高山式の街並み整備ですね。
  338
宿場から見える
利神城跡
再現された陣屋門 松平平福陣屋 陣屋門の復元