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智頭枕田遺跡 縄文時代早期・中期~晩期 約8000~2500年前 鳥取県智頭町 西日本最大級の縄文集落 遺物が示す他地域との交流 西日本最大級の集落遺跡で、特に縄文時代中期末~後期初頭にかけては、住居、貯蔵穴、掘立柱建物、配石遺構から構成されている。 住居の形態などに東日本の要素※が見られ、注目される。 晩期では、東日本の影響を受けた土器が出土しているなど、山陰地方の縄文文化や他地域との交流を考える上で重要である。 ※東日本の要素とは、住居内の石囲埋甕炉は、東日本の縄文文化であること。東日本の縄文人は、度々西日本へ移住してきたようです。 01外観 |
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智頭枕田遺跡のwebデータ 智頭枕田遺跡 - Wikipedia 智頭枕田遺跡とは - Weblio辞書 智頭 枕田遺跡展 鳥取県智頭町の智頭枕田遺跡 - Hi-HO 智頭枕田遺跡出土先史時代遺物 智頭枕田遺跡展 縄文遺跡の智頭枕田遺跡が 智頭枕田遺跡で検索される 智頭枕田遺跡と西日本の縄文時代 |
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70智頭町埋蔵文化財センター パンフレット 71パンフレット紹介 |
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掘り出された原始・古代の智頭町 72智頭町の原始・古代と主な遺跡 智頭町には、約80ヶ所の埋蔵文化財包含地があります。町内から出土した最古の考古資料は、縄文草創期の石槍で、段山遺跡や智頭枕田遺跡 から出土しています。 ■縄文時代=県内最大の縄文遺跡・智頭枕田遺跡 智頭枕田遺跡は、県東部を流れる千代川の支流、新見川と土師川との間、八頭郡智頭町の標高約180mの台地上にあります。 縄文早期前葉 (約8000年前) にはこの地に住み、また 中期末~後期初頭 (約4000年前) には県内最大のムラが営まれ、 晩期末葉 (約2300年前) には、祈りや儀式を行う場として、多彩な縄文文化が展開しました。 弥生時代と平安時代にもこの地に人が住んでいた痕跡が見つかりました。 中期末~後期初頭の集落跡から12軒の竪穴住居跡が見つかりました。住居跡は重なったものもあり、継続的に集落が営まれた思われます。 住居跡の形や中の炉跡、自由居の方向などは規格性が高く、集団内の結びつきの強さが窺えます。 また、住居跡以外にも貯蔵するための施設などが見つかっており、当時の生活を知る上で貴重な発見となりました。
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■弥生時代 中田竹美遺跡から後期の集落跡が発見されています。その他にも、線刻土器が出土した長瀬向和遺跡をはじめ、 弥生後期を中心に古墳時代前期初頭にかけての土器が段山遺跡、中河原古墳、高下古墳、智頭枕田遺跡他から出土しています。 ■古墳時代 町内の古墳の多くは6世紀後半以降に築造されたものと考えられています。確認できる墳丘は全て円墳です。 7世紀後半に築造された黒本谷古墳は、仏教道具の銅鋺が出土しており、地方への仏教の伝播を考える上で貴重な古墳です。 ■奈良・平安時代 中田竹美遺跡から奈良時代の住居跡が発見されています。また、智頭枕田遺跡から緑釉・灰釉陶器等の特徴的な遺物が出土しました。 古代智頭群と郡衙を考える上で貴重な発見となりました。
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発掘調査報告書 80智頭枕田遺跡 発掘調査報告書 より抜粋 |
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81口絵写真
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81a Ⅰ.調査の概要 (2)歴史的環境と周辺の遺跡 智頭町出土の最古の資料は ①草創期 石槍 (段山遺跡) 小型石槍(市瀬小茗荷谷遺跡) ②早期 押型文土器 (山形文が大量出土) 早期の生活域が広がっていた。 ③中期末~後期初頭 竪穴住居11棟、掘立柱建物跡、配石遺構、土坑群を持つ集落跡が検出された。 当時、中国地方で最大規模の集落で、東日本的要素が強く、文化の伝播、ヒトの移動の観点から重要な成果と言える。 ④弥生時代 線刻土器 (長瀬向和遺跡)など、後期を中心に古墳時代前期初頭にかけての、遺物が、段山遺跡、中河原古墳、高下古墳から。 中田竹美遺跡からは、集落跡を検出。 ⑤古墳時代 町内には6世紀以降の古墳時代後期の円墳が築かれている。 ⑥平安時代 智頭町は主要街道沿いに位置し発展していた。 山城については備前街道・智頭往還を見下ろせる要所に規則的に配置されていた。 |
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資料 81b智頭枕田遺跡出土の主な土器 |
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82 (2)遺跡の概要 縄文時代 ①早期 遺構・遺跡は舌状台地の高地部に集中し、拠点的集落が形成されていた。 ②中期末~後期初頭 集落跡は遺跡南側土師川の崖線に展開していた。住居跡11棟 (12棟) は2期に渡る。中国地方最大級の縄文集落である。 ③晩期~弥生前期初頭 縄文から弥生への変化、狩猟採集から稲作の受容の過程を研究出来る資料が出土した。 遺構は、住居跡とみられる落ち込み、掘立柱建物跡、墓坑、土器棺など特徴的なものが多い。 他地域の晩期遺跡が低湿地遺跡であるのに本遺跡は微高地に立地しており、遺跡周辺に更に遺跡が出土する可能性有。 遺物は、大量の土器・石器が捨て場から出土。石棒などの祭祀具。他地域の土器が出土している。 他地域の土器は、 縄文時代には、変形工字文、浮線網状文※1 といった、中部・北陸・東北地方の土器が見られるが、 弥生時代に入ると、遠賀川系 (北九州) の土器が見られる。 これは、縄文文化と弥生文化の方向性の違い※2 を表し、時代の過渡期を研究するうえで貴重な事象である。 ※1変形工字文=亀ヶ岡式:縄文晩期の青森県津軽半島中心、北海道・東北から、晩期後半にはほぼ全国的に広がる。 浮線網状文=浮線文(略称):縄文後期後葉の中部高地・関東・東海東部・東北南部に分布 ※2意味はよくわからないが、縄文後晩期の寒冷期に東北~北陸の縄文人が近畿・中国・九州まで移動したことは既出☆。 晩期の智頭町には、東からの移住者の定住や、日本海航路で運ばれた亀ヶ岡文化が港※3から上陸して広まったようだ。 ここで大事なことは、移住民は故郷との間を往来していました。これも既出☆で、東西の土器をそれぞれへ持ち運んでいました。 土器には保存食料が詰まっており、土器は各地の文化そのものでした。つまり、彼らは無意識に文化を拡散伝播していた。 弥生文化はやはり、日本海航路に乗って九州からやってきたと思われます。 筆者の「方向性の違い」の意図は、縄文文化は東から、弥生文化は西から、と言いたいようだが、、、 ※3智頭町を流れる千代川河口は鳥取港で、港湾未発達の頃は、入り江や河口が天然の港となった。(渡し舟もあっただろう) ☆既出 は、以前のどこかの館のページで出ました、という意味です。 弥生時代 前期初頭、中期中葉、後期後葉 の遺構・遺物を検出。 ①中期 山陰・吉備・畿内の土器が出土。三地域の交通要所であった。 住居址未検出 ②後期 巨大な溝 (灌漑遺構) を検出も、住居址未検出。 弥生時代は安定した集落が営まれていた。※4 ※4西日本特有の環濠集落や高地性集落は発見されず、安定した暮らしであったとしている。 平安時代 掘立柱建物跡、柵列、溝状遺構など検出。 |
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82挿絵
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83 Ⅱ.遺構と遺物 1.縄文時代 ①草創期 有舌尖頭器、板状有溝砥石 ②早期前葉末 (約8,000年前) 土器 ・山形の押型文土器多数出土。土器形式は、瀬戸内の黄島式~近畿中央の高山式期に比定される。 黄島式の特徴は小粒の楕円文。 高山寺式は粗大化した楕円文。 ・大形深鉢は、口径66.4cm推定器高56.8cm、口縁部に2箇所の補修口あり。 楕円文が菱形文に近い直線的な形状。口縁は外反し、口縁裏面に斜行沈線を施す。 ・これらの他に、繊維混入土器があり、器厚は厚く、胎土は粗雑、焼成悪くもろい。(原初的な土器製作技術)※ ※原初的な土器製作技術は、本来この地に居た、在地の縄文人のものでしょう。 ・瀬戸内地方からの移住者や近畿からの移住者があったが、それ以上に山形押型文の文化を持つ人々が圧倒的に押し寄せたようです。 彼らはどこから来たのか。智頭町に南西からは岡山県瀬戸内地方 (楕円文)。南東は兵庫県播磨地方から近畿 (楕円文)に繋がっている。 北西からは出雲、北東へは丹後・北陸地方へと繋がる。 木の丸棒を規則的に削って山形文を施文する。それをトーテムのようにして、施文していた集団ってどこから来たんだろう。 遺構 竪穴状遺構、陥穴状遺構、集石、土坑、遺物集中区 (※捨て場) 焼土などがある。 竪穴状遺構は不整円形 (876cm×720cm) 出土土器の大半が山形文土器。 陥穴遺構は280cm×100cm深196cm底に杭穴が2つ検出 (2本の逆茂木)。形状から早期とした。 土坑は4基で、集石土坑 (石蒸し料理の跡) である。 ③前期 (約6,000年前) 土器 出土数、接合資料が少なく小片である。 ⅰ 羽状縄文土器 ⅱ 北白川下層Ⅱb式 (縄文地に半円形突帯を貼付けし、半栽竹管を押し引きした) ⅲ 北白川下層Ⅲ式 (半裁竹管を押引きした) ⅳ 北白川下層Ⅱa式 (細い平行線内にC字状の爪型文を施し、その下部に縄文を施す。) ※縄文前期、東海西部~近畿・中国地方には北白川下層Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ式が存在する。 北白川下層Ⅱ式期と同時期に相当する、(岡山県倉敷市) 吉備地方の磯ノ森式が取り上げられていない。あったかなかったか。 引用北白川下層Ⅱc式・Ⅲ式土器の変遷 - [千葉大学]OPAC ④中期末~後期初頭 遺構① 竪穴住居跡11、掘立柱建物、配石遺構、貯蔵穴 等、多数。建物は2~3軒を一単位とする集落だった。 形態 570cm×468cm、深さ30cmの、やや台形隅丸方形。床面は自然硬化 (貼床:粘土を入れた"タタキ") 炉 一辺74cmの石囲埋甕炉 (井戸尻式期 前半期) ピット 2本の主柱の穴は66cm 遺物 箱状山形口縁土器 (口縁下の折り返し部に長楕円で区画し区画内部を刺突文で充填。) (口縁頂部で涙状文様を施文)等 波状口縁土器 (渦巻き文、横位の沈線文) (口縁下に横長長楕円区画文、胴部に弧状・円形区画) (口縁下にJ字状沈線文) その他 (肋骨文) 以上中期末葉の比定 遺構② 床は礫敷き、 炉は石囲炉86cm×68cm×深さ24cm、 遺物 波状口縁土器、紡錘文、J字文を多段に施文するなどの土器。 椀形土器。無文土器、刷毛目、二枚貝の腹縁押捺文、など。 石器 石鏃 (サヌカイト) 遺構③ ・平縁無文浅鉢で内外面を赤彩する土器。 ・箱状山形口縁の口唇に向かって縦位の沈線文を施し内一条は蕨手状。 ・隆帯上に刻み目。 ・縦長の紡錘形文。 以上、縄文中期末葉~後期初頭に比定 ・平縁で口頸部にE字、逆E字を施文する。 石器 溶岩製の石皿 これらは後期初頭に比定 遺構④ 中期末葉、北白川C式A類、 C式C類、土器出土、頁岩製磨製石斧、サヌカイト製石鏃 遺構⑤ 後期初頭 クランク状文様。波状口縁に三日月形・J字状・銛先状の施文。 双耳壷らしき土器。 小鉢に、横方向に2か所穿孔する逆U字状把手が付く。黒曜石製石鏃や、サヌカイト製石鏃・石匙・スクレイパー ⑤後期前葉 遺構 1軒のみ。石囲炉60cm四方、3本柱建物。 ⑥後期後葉 17点の土器。成立期を含む縁帯文期(?)なんのこっちゃ ⑦晩期 住居跡、土坑、ピット群が検出。廃棄場から数万点の土器・石器が出土し、中国地方最大級の規模である。 時期は、晩期末~弥生前期初頭。 墓壙、埋設土器、骨片が集中する土坑など、墓に関する遺構を確認。土坑・ピット群の中には掘立柱建物跡を含む。 土器の中心は、西日本に普遍的な突帯文土器、北部九州を中心とする遠賀川系土器、 信州・北陸の浮線網状文土器、東北の変形工字文土器が混入している。 石器の8割が石鏃・石錐・打製石斧の完成品で、理由は今後の課題である。 ※突帯文土器は、朝鮮半島の土器で、晩期に九州から東海にかけて200年程の間に広がった土器形式である。 同じく半島系土器だが、遠賀川式からが弥生式土器とされている。 ※遠賀川系土器は九州~伊勢湾、東北の日本海側。 浮線網状文は、晩期・後期に中部高地・関東・東海東部・新潟・東北南部の土器 変形工字文土器は、東北・北海道道南の土器。 弥生時代 ①中期後葉~後期前葉 と 後期後葉の2時期。 溝状遺構2条、掘立柱建物跡、遺物集中区は大量の土器を廃棄し人頭大の礫を大量に投げ込んだ。 土器は、特殊器台、高坏が非常に多い。石包丁は3点。 ②後期後葉は、V字状溝が出土。土器は直口壺など数点。6本柱の掘立柱建物跡。 平安時代 9世紀第2四半期~10世紀 遺構 溝状遺構9条、柱穴列2か所、掘立柱建物跡2棟、土坑3 土器 土師器の90%が坏 (高台付)、甕2のみ。その他、緑釉・灰釉陶器、内面黒色土師器、ふいごの羽口、石製模造品 柱穴列は1.8m間隔で10基あり、門跡とされる。その他、塩焼壺、薬壺蓋などが出土し、智頭郡衙跡と推定される。 ※坏ばかりが出土するのは、何らかの祭祀場であったのかもしれない。廃村・廃住居は、埋葬場に使われることがある。 |
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展示室
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05縄文時代 |
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panel 06智頭枕田遺跡 鳥取県東部を流れる千代川の支流、新美川・土師川にはさまれた尾根状を呈する標高180m前後の台地上に立地しています。 2002(平成14)年と翌年にかけて智頭枕田遺跡の発掘調査が行われ、 縄文❶早期末、❷中期末~後期初頭、❸後期中葉、❹晩期末葉~弥生前期初頭、❺弥生中期末~後期、❻平安時代、の遺構・遺物が発見され、 特に中国地方最大規模の縄文遺跡として注目されました。 |
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panel 07縄文時代とは 縄文時代とは、文字通り縄文 (式) 土器が使われた時代で、年代的には、今から約13,000年前から約2,500年前までの1万年間を言います。 この時代は、日本で初めて土器が使われ始め、人々は竪穴住居のムラを構えて定住的な暮らしを営むようになります。 時期は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分され、それぞれの時期、地域によって異なった特徴のある土器が使われていました。 智頭枕田遺跡の縄文時代 智頭枕田遺跡では、主に早期 (約8,000年前) ・中期末~後期初頭 (約4,000年前) ・晩期末 (約2,500年前) の生活跡が発見され、 当時使われた土器が大量に出土しました。 =早期= 早期の土器は押型文土器と呼ばれ、智頭枕田遺跡から大量に出土しています。質・量とも鳥取県東部では最も多く、中心 (拠点的集落) であったと 考えられます。 |
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08=中期末~後期初頭= 縄文時代中期末~後期初頭にかけての竪穴住居跡が11軒見つかりました。 竪穴住居址群は、全てが同時期に存在したものではなく、縄文中期末~後期初頭の時間幅の中で、ある程度連続性を持って営まれたようです。 ※11棟の建て替え跡ということで、100~200年間に、約20年で建て替えですから、常時、1~2軒程度だったのでしょうか。 |
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09=晩期= 縄文時代から弥生時代にかけての遺構・遺物が大量に出土しました。 その中には、石棒などの祭祀具や、他地域の土器、稲籾圧痕が付いた縄文土器など貴重な資料が見られます。 |
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10展示室内のパネル 順序不同 |
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11panel
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13
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重要 縄文時代区分 には、二つあり、一つは慣用化した時期区分であり、他方は、これをAMS法で測定して暦年代に補正した年代です。引用wiki縄文時代
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20遺物展示 |
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21早期大型土器 この館の目玉であり、全国のどこにもない、縄文前期の大鉢です。 |
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45早期大型土器 この土器は、大型土器、深鉢、大鉢、大深鉢などと呼ばれています
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考察 前代未聞の縄文早期 大形深鉢 日本中の多くの考古博物館で、この早期の大鉢について尋ねてみたが、いずれもあり得ないと返ってきた。 他のどこであっても考えられないことであり、多くが、それは間違いであろうと答えた。 重複するが、この大深鉢は、岡山県吉備、島根県出雲でも出土しているが、復元に足りる土器片を残したのは智頭枕田遺跡だけでした。 縄文前期前半における半島系土器の列島での拡散 論文、縄文前期前半期 にお ける轟 B 式土器群の 様相、では、 前期前半期に半島系土器 (轟B式) が朝鮮半島南部と、九州から西日本で広く分布していると言っている。 この土器は、それまでの植物繊維 (スサ) を入れた、厚手、不良焼成の土器と違い、薄手・スサなしで、その後 九州 (轟式)、近畿 (北白川下層式)、瀬戸内 (羽島下層式)、東海 (清水ノ上式)、中部・関東 (諸磯式) などの土器型式へと繋がっていく。 この土器は、7,300年前の鬼界カルデラの大爆発によるアカホヤ火山灰の直上から発見される。 噴火直後に半島から大量の半島人が、漂着ではなく、明確な意思を持って列島にやってきたようである。 つまり、7300年以前より、半島の南に暖かい土地があることがよく知られていて、どうもよく行き来していたのではないか。 その他に、オサンニ式釣り針 (結合釣針、組み合わせ式釣り針) など、半島との密接な関係を証拠立てるものがある。 このことから、私は、縄文前期以前から、半島からの密接な接触があったのではないかと思う。 8000年前の智頭枕田遺跡の大深鉢も、このような経路でやってきた半島人集団が中国地方各地に分散居住し、各地で作ったと想像します。 |
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30展示 |
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31炉 |
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32縄文早期・中期・後期土器
浅鉢 縄文中期末~後期 (約4000年前) 浅い皿のような鉢で、盛り付けなどに使われたと考えられます。 |
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34土器 |
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36中期末~後期 |
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38土器
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41展示室全景 |
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資料 突帯文土器 弥生早期 転載 初期弥生文化の成立抜刷 水稲農耕と突帯文土器 - 国立歴史民俗博物館 |
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43晩期 突帯文土器 約2500年前 粘土紐を貼り付け刻み目文様を施したり肥厚にしたりします |
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46突帯文土器 |
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縄文土器 48平口縁深鉢土器 縄文中期末~後期 約4000年前 |
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51波状口縁深鉢土器 縄文中期~後期 約4000年前 参考 縁帯文土器の 編年的研究 吉備の縄文貝塚 弥生時代の開始年代 |
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52波状口縁深鉢土器 縄文中期末~後期 約4000年前 |
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54磨消縄文土器 中期末~後期 4000年前 縄目を転がして縄文を施し、棒状工具等で沈線を区画し、枠外を磨り消します。中には区画された後で縄文を充填するものもあります。 貝殻で縄文のような文様を付ける擬縄文もあります。 |
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55磨消縄文土器 中期末~後期 資料 磨消縄文 引用コトバンク 土器面に撚紐を回転させて縄文を施文し、その上に沈線を引いて区画文を描き、区画の外か内の縄文を磨り消して装飾効果をあげる方法 この技法は縄文前期に起こり、晩期まで繰り返し用いられ、東日本では弥生土器の一部にまで残存した。 西日本では後期後半以降用いられなくなる。このことから、磨消縄文は東日本の縄文文化のなかで生まれ発達した文化の一つである。 |
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57箱状山形口縁深鉢土器 中期末~後期 約4000年前 ※この土器に関する情報が全くありません。どこかで見た感じですけど。もしかすると、呼び名が違うのかもしれません。 |
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58箱状山形口縁深鉢土器 中期末~後期 |
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59箱状山形口縁深鉢土器 中期末~後期 |
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60石器 |
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61panel
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65石器 石棒 縄文時代には、特に後・晩期になると呪術・宗教的な遺物や遺構が増加してきます。その代表的な遺物に石棒 (せきぼう) 土偶(どぐう)があります。 石棒は男根状をした縄文時代の石製品です。一端に頭部をもつものと、円棒のままのものがあります。 土偶は粘土で作られた素焼きの人形で、祭祀の過程でわざと壊すことがあり、多くの破損例が見つかっています。 このような道具は、狩猟採集などの生業に直接的には用いられず、縄文時代の人々が祈りの道具として用いた「第2の道具」と言われています。
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66石器
残りは鳥取県立博物館に行ったようです。
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100弥生時代 |
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101弥生の道具
北九州の土器 (線刻土器) 弥生前期
考察 智頭への「北部九州土器」の伝播 弥生前期 土器形式名は未公表だが、遠賀川式です。 弥生文化は船に乗って、九州北部から日本海側を北上し、あっという間に青森県まで到達し、縄文人が稲作農耕を行ったことを東北の縄文で見た。 舟は沿岸の天然港を利用する。出雲、松江、を経て鳥取港は千代川河口の港である。ここに上陸し、川沿いに南下すれば智頭枕田遺跡である。 また、瀬戸内海からは、備前・伊部や赤穂・相生などに上陸し、当時の街道筋に沿って北上すれば中国山地を越えて智頭枕田遺跡に到達する。 しかし、瀬戸内からなら、途中で土器が、似た土器に変わるか、壊れてしまうだろう。やはり、ここは、日本海航路からが直接伝播経路でしょう。 |
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資料 引用 織物基礎知識 - 夢織人 紡錘車 紡錘車の出土で、何らかの繊維を取り出して、糸を紡ぎ、原始機 (げんしばた) で布を作ったが、麻や苧麻などで、絹糸ではなかったかも。 綿花の栽培は室町時代後期から。 養蚕の伝播は場所によって異なり、よく、蚕の神様として小箱を持った女性の絵があるが、3世紀とか5世紀とか、もっと遅いというところもある。 しかし、 夢織人の記述では、弥生農耕と共に伝播したといっている。そういう地域もあったかもしれない。 「弥生前期の農耕・稲作技術の伝来と同時期に、桑の葉単食種である「家養蚕」技術も伝えられ、農耕飼畜経済の発展に伴い男女の 仕事分担化が進み、養蚕の技術も発達して女性中心の仕事となり、柔らかく、暖かい高級衣服として全国に広まっていった。」
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102弥生土器 |
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103吉備型土器 |
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104弥生土器
私は寒冷地に住んだことがない。 水分が、土器全体に浸透、しみる、土師器が、凍ったら割れてしまうのかな。寒冷地の皆さん教えてください。 素焼き土器に漬物を漬けたら、水分、塩分等が表面から浸み出し、蒸発し、土器表面に塩分と野菜汁の結晶がついて、土器はどうなっているのか。 |
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107 |
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108弥生時代 約2900年~1700年前 ◎稲作が始まり、狩猟採集から農耕へ転換され、土地への定着が始まり、ムラが誕生していきました。 ◎栽培で得た生産物である財産を巡って争いが起こり、有力者が地域のリーダーとして台頭します。こうして地域社会の成立が見られます。 弥生時代中期 (約2000年前) |
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120panel | ||||||||||||||||||||
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縄文時代の竪穴住居
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122古墳時代 古墳時代 約1700~1300年前 ◎有名な前方後円墳等の古墳が作られるようになった時代で、智頭町では7世紀後半に円墳が作られています。 ◎5世紀の中頃に大陸より高い温度で土器を焼く技法が伝わり、日本での生産地は 大阪の陶邑から始まった。そこから須恵器と呼ばれており、この時代からロクロの使用が始まりました。 |
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123古墳出土土器 |
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125 黒本谷古墳 7世紀後半築造 円墳
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127黒本谷古墳出土物 |
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128 |
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200倉庫1 2018.02.27時点の、埋蔵文化財センターの倉庫です |
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200縄文時代 | ||||||||||||||||||||
201縄文 |
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202石器 |
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203 | ||||||||||||||||||||
204塩壺 |
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205古墳時代 |
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206瓶 |
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207壺 |
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208 |
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209高坏 |
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210 |
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211把手付椀 |
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212 |
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213 |
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215鍛冶道具 古墳時代 |
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216平安時代 |
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217 |
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230倉庫2 2015.10.20時点の、埋蔵文化財センターの倉庫です |
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231 |
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233石棒 石棒は6点出土し、男根状に成形された有頭のモノ、無頭のモノ、頭部に彫刻を施したモノ、石刃状のモノ等々様々な形態の石棒が見つかっている。 精緻な細工を施した石器には、専門加工職人の存在を窺わせる。智頭枕田遺跡 - Hi-HO |
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235土器 弥生~古墳 |
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237 |
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239土器文様 |
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310日本初、マラソン大会優勝者 綾木長之助展 地元出身の、日本のマラソン大会初優勝者の展覧会です。大変好評で、延長するそうです。 |
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311 |
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観光 |
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智頭町の冬 |
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330雪景色 三回目の訪問は2月27日でした。超豪雪で、超温暖化の今年でした。雪は少ないといいながら、まだまだ期待を裏切りませんでした。 歴史館を出た後、駅前の観光案内所で板井原集落を教えてもらい行くことにしましたが、暖地に住む私は、積雪地の怖さを忘れていました。 ※板井原集落のリンク 藁ぶき屋根の民家や、板で作った道路とかがある、そうです。 |
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331
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350因幡街道 智頭宿 因幡街道三宿と言われる、智頭宿、大原宿、平福宿の一つである。 鳥取と瀬戸内・近畿を結ぶ、超古代からの主要街道でした。 |
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351 智頭は、宿場としてよりも、山林地主の大富豪が現在も多数存在する。その中でも石谷家住宅は圧倒的な森林王の住居である。 |
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380因幡街道 大原宿 智頭枕田遺跡を経由して瀬戸内側への街道筋に当たり、おそらく縄文時代から旅する者の休み場であっただろう。 旧大原町は、現在美作市に合併し、大原という名前すら消えてしまっています。 |
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381 大原町の時代から宿場町再現に取り組み、因幡街道では最も美しい宿場町となっています。 |
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382大原本陣 |
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383 |
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これほど主要な中継地ならば、遺跡も多数あるだろうと思うが、全くその気配もない。 全て壊されてしまったか、まだ発見されていないのか、、。 |
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335平福宿 智頭宿から瀬戸内側へ向かう3宿目 |
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