西日本の縄文 北陸の辺縁は何処 02 2015.09.29-2
滋賀県立琵琶湖博物館 滋賀県草津市下物町1091 077-568-4811 月曜休館臨時休館日 撮影可
交通 |
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JR琵琶湖線「草津駅」下車 駅西口バス停から「琵琶湖博物館行き」で 博物館下車 終点の一つ手前です。 |
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注意バスの便数が少ないので、帰りのバス時刻にうまく合わせること。 |
見所 |
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水中遺跡からの出土物 蔓尾崎湖底遺跡の土器、弥生、古墳期の土器 |
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地学・古生物学・植物学の勉強になります。案内の女性たちがもの凄く博学で知識が深い。舌を巻きます。試して御覧。(*^_^*) |
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動機 |
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知識の断片だらけで、うろ覚えの琵琶湖の成立過程を はっきりと知るためと、湖底遺跡の展示物を見るために訪れました。 |
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ところが、とんだ拾い物をしました。縄文前期の土偶です。 |
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注意 |
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このページでは考古展示物だけを掲載しています。 |
案内 |
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本来の展示は琵琶湖の形成や変貌、動植物等、地学・生物学・古生物学に関わる展示と、水族館・古代象・古代ワニなど子共の喜ぶ展示。 |
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また、琵琶湖クルーズの桟橋などの娯楽施設や、琵琶湖一周のウオーキング用施設。レストラン。遊歩道もあり、素晴らしい所です。
四季を通じてのリゾートです。 秋の紅葉・冬の雪景色もいいですね。是非、行ってみてください。 |
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もくじ |
01外観
02土偶
相谷土偶
100葛籠尾崎湖底遺跡
(つづらおざき こていいせき)
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105縄文時代
粟津貝塚
110弥生時代
入江内湖と松原内湖の木器 |
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01外観
リンクの外観は随分昔で、建物がすっきり見えますが、今ではご覧のとおり、樹木に覆われています。エコなのかもしれません。
からすま半島の突端にあり、昔のリゾート開発失敗の残骸のようです。はっきり言って道路建設も中断で放棄されています。
しかし、毎年夏には何万人も動員するロックコンサートが開かれています。
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裏から見ると廃墟建物が |
琵琶湖南湖を一望 |
博物館専用の桟橋から巨大なブラックバスやブルーギルが山ほど釣れます。(*^_^*)/~~~魚 |
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館内の入場券のもぎりのそばに、「縄文前期の土偶」のポスターがあり、その下に、本物がむき出しで置いてありました。
西日本の土偶は晩期のものと思っていましたから、大変驚き、じっくり見て、キャプションだけ撮影させてもらいました。
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02土偶 縄文早期 1,3000年前
相谷熊原遺跡 の 竪穴住居址から出土 板状土偶などと違い、北方系の写実的な造形でした。
シベリアでは旧石器時代から石・骨角などでヴィーナス像といわれる豊満な女性像が作られていた。
巨乳は誇張ではなく写実です。縄文系の人々はみなこのようです。弥生人が貧乳の遺伝子を持ち込んだのでしょう。(笑)
相原熊谷遺跡発掘調査報告 平成21年発見 縄文早期〜晩期にかけての遺構
※注意 土偶の展示はたまたま偶然遭遇しただけ。一点だけの特別公開でした。いつもはここにありません。
いつもは教育委員会の金庫かな。 滋賀県埋蔵文化財センター問い合わせ
こちらはレプリカです
本物を見て脚注だけ撮影 |
本物の写真です |
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ここの館員がレプリカを作成しました。材質以外はそっくりです。
現物は砂混じりで土色です。
この色はちょっと生々しいですね。(*^_^*) |
相谷土偶
高さ3.1cm・幅2.7 p・重さ14.6gを測り、乳房と腰部の括れ (くびれ) が明瞭に表現されている。
腕部・臀部(おしり)・脚部は最初から表現されていない。
また、腰部以下を平らに仕上げていることから自立が可能。頂部には小さな突起があり、穿孔が施されている。孔の深さは約2cmを測ります。
同時期の土偶には 三重県粥見井尻遺跡出土の 土偶2点 (以下「粥見井尻土偶」と表記) があり、
縄文時代草創期後半の土偶としては2遺跡・3事例目となります。
引用 東近江市永源寺相谷町 相谷熊原遺跡 発掘調査現地説明会 資料
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100葛籠尾崎湖底遺跡 湖に捧げるために投げ込んだ献供ではないかと言われている。
つづらお
現地には専門の展示館がある。
葛籠尾崎湖底遺跡資料館 滋賀県長浜市湖北町尾上162 が現地の公民館内に展示されている。
見学は、河毛駅前観光案内所に問い合わせ、公民館を開けてもらい、自転車を借りて6q程のサイクリングです。
または長浜市役所観光課へ。
素人博物館ではなく、京大の偉い専門家の先生が収集設立された専門的な博物館です。
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展示は一部で月ごとに |
展示替えするそうです。 |
なぜ全部出さないの? |
湖岸から投げ込まれた衝撃で、もろい縄文土器は壊れたのかも。
キャプションがないのでなんもわからんね。
ここは考古学は専門でないからね。 |
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105縄文時代
粟津貝塚 |
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湖辺の縄文人の暮らし 縄文時代から琵琶湖の周りには人が住んでおり、特に南湖周辺には多くの集落があった。 |
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縄文時代早期〜中期 5000年前中心 の粟津の人々は魚貝や山菜・木の実、イノシシなどをとって暮らしていた。 |
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琵琶湖南端の瀬田川近くの湖底で発見。水深2〜3mから発見の淡水産貝塚。1万年前からの住居跡。 |
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縄文カレンダー |
丸木舟・銛・縄文土器・弓 |
この土器は北陸系の土器でないか |
朝日下層式では? |
口縁部の文様が少し違うが |
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110弥生時代
入江内湖と松原内湖 から出土した弥生の木器
木製・鋤・鍬・木臼・杵・すくい玉(たもあみ) |
弥生人得意の木製品がずらり |
なぜ、木器が湖底から発見されたのでしょう |
浮いて流れる前に泥の中に沈んでいたため |
だいぶ後から水没したようです |
弥生時代の木器の名前はこちらから |
準構造船と波切板
船の先端に付けた板 |
弥生人の生活カレンダー |
舟形(ミニチュア)と
釣りの浮子 |
多くの木製品を残した琵琶湖 |
入江内湖と松原内湖 |
目盛板と木錘 (ござ編道具)
火きり臼 |
弥生の農耕と漁労 |
横槌(藁を叩く・麻の衣類を叩く)と柄振り(田を均す) |
湖と川の支配と領域
農地の水・土地争いから村の有力者は大きな力を持ち、湖上交通を支配し、水田を更に拡張した |
湖周辺の有力者の古墳 |
6世紀秦氏の渡来により |
新しい技術がもたらされ、大土木工事が行われ、未開地を農耕地にかえることができるようになった。
秦氏は須恵器をはじめ多くの専門家を連れてやってきた。 |
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