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発掘された日本列島2023 2023.11.21tsushima
発掘された日本列島2023展対馬博物館
対馬博物館地域展
長崎県対馬市厳原町今屋敷668-2
0920-53-5100
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交通 |
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福岡空港から飛行機35分。65才以上高齢者割¥9450あり |
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博多港からジェットフォイール2時間15分¥9450、フェリー4時間45分¥7580 |
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特徴 |
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常設展示の小物類が巨大な棚になっていて、鑑賞できないものが多い。 |
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帰りの船中で聞いた話。対馬はアナゴが名物。フルコースでも食べる価値ありだそう。
土産物は街中で買うこと。フェリーターミナル、空港にはない。 |
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目次
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3000地域展示1(常設展)
3020旧石器時代
3030縄文時代
3031腰高遺跡
3035志多留貝塚
3036ヌカシ遺跡
3200弥生時代
3201住吉平貝塚
3202三根遺跡
3203魏志倭人伝の対馬
3205対馬の浦々のクニ
3207浦社会の経済活動
3300古墳時代
3311新たな形の墳墓
古墳群に見る国と社会変化
3340保床山古墳
3350日本初の銀産出
3351金田城跡出土品
3400金田城 国防最前線
3403島の成り立ち
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3500縄文時代
3501縄文時代の遺跡の様相
3510JungleCaseの説明
3520佐賀貝塚概要
3540縄文時代遺物の展示棚
3550JungleCase展示物
3600弥生~古墳
3601弥生時代の遺跡の様相
3610銅矛
3700弥生~古墳時代の遺跡
3710弥生時代のジャングルケース
3800古墳~古代
3801遣唐使と遣新羅使
3810古墳・古代遺物
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4000中世
4002阿比留氏と神社
4010島主となった宗氏
4030海上貿易の中継地
4050海東諸国紀の対馬
4120伝来した仏教文物
4140制限される通交
1050倭寇
4130蒙古襲来と宗資国
4170偽を用いた通交
4200近世
4201対馬藩主とまちづくり
4210巧みな外交戦術
4241金石城跡出土物
4433栈原城跡
4501近世対馬を支えた窯業
4520対朝鮮外交の舞台裏
4540朝鮮通信使
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5000宋氏
5010宗家文庫史料の調査
5020宗武志と徳恵姫
5040対馬沖海戦
5050初の総合学術調査
5060離島振興法
2000地域展示2
(パネル展示)
2010対馬の発掘史
2016発掘事例
2030佐賀貝塚
2040矢立山遺跡
2051コフノ𨺉遺跡
2060大石原遺跡
2070水崎遺跡
2080金石城
000帰路フェリー |
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発掘された日本列島2023対馬会場
地域展示
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3000
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発掘された日本列島2023
平常展示企画展 地域展示 1 (常設展)
彼方から もたらされたモノ
常設示室
EXHIBITION OF EXCAVATIONS IN THE JAPANESE ARCHIPELAGO
※コフノサエ=コフノ𨺉
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地域展示について
「発掘された日本列島」 展には、 中核展示と地域展示という2本の柱があり ます。 文化庁が主となって構成する企画が中核展示で、各開催館が独自に
構成する企画が地域展示です。 地域展示は、開催館がその地域にある資料を 基にして組み立てるものですが、今期の 「発掘された日本列島2023」においては、
当館では 「海洋を隔てた交流」 と題してこれを企画します。
対馬は、九州と朝鮮半島、日本海と東シナ海の狭間に位置する島です。その ため、他地域との交流は海洋を隔てて行われていました。 発掘調査で出土する
資料には、外で生産、流通していたものが多く見られます。 対馬の人々が 生活を営むなかで必要に応じ入手し、 使用した結果、 残されたモノ、 また、
人と人、集団と集団、 社会と社会が相互に関係し、活動した結果、生じた痕跡 としてのモノなど、 遺物には様々な側面があります。
多様な物資や器財を対馬の人々はどこから手に入れていたのか、どのような ものを求めていたのか、なぜ対馬にもたらされたのか。 これらを探りながら、 需要と供給による経済活動で形作られてきた対馬の実像を紹介いたします。
平常展示室を舞台とした第1部では、 「彼方からもたらされたモノ」と題して、 縄文時代から近世まで、 発掘調査で出土した遺物から特に他地域からもたら されたものに焦点を当て、紹介していきます。 既存の展示資料に加え、これが 初公開となる資料を基に、 海洋を隔てて行われてきた経済活動の様子と結果 を明らかにします。
体験学習室を舞台とした第2部では、 「対馬の発掘史一島の歴史を解き明かし てきた考古学の歩みー」 と題し、各時代ごとの対馬の姿を解明してきた発掘
調査を紹介します。
皆さまには、中核展示と合わせてご覧いただくことで対馬の特色をより理解 できるものと思います。
モノヒトコトのつながるところ、対馬の魅力をお伝えできれば幸いです。 |
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3001地域展示1
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3002常設展示 |
3010
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ごあいさつ
このたび、 対馬博物館の秋の特別展として 「発掘された日本列島 2023」を
開催いたします。
この展覧会は文化庁主催の全国巡回展で、 令和5年度 (2023) は山梨県立 考古博物館と対馬博物館の2館で開催されます。 日本列島全域から出土した
各時代の多様な遺物の中で、 近年特に注目された発掘調査の成果を間近に 感じることができる貴重な機会です。
長崎県での開催は、平成29年(2017)の壱岐市立一支国博物館以来6年ぶり 3度目となります。 今年度、西日本唯一の開催場所となる対馬博物館では、 館内の全ての部屋を展示会場に設定し、 皆さまが目を見張るような貴重な 遺物を一堂に展示します。
特別展示室をはじめとした中核展示では 「我がまちが誇る遺跡」 「新発見考古 「速報」 「遺跡から読み解く多様な歴史文化」の3つのテーマに沿って、近年の
発掘や研究成果に基づいた特筆すべき遺物が全国から集められました。
また、対馬博物館が独自に企画する地域展示は「海洋を隔てた交流」をテーマ に構成した平常展示室と体験学習室が会場です。 九州と朝鮮半島、日本海と
東シナ海の狭間で海洋を隔てて様々な地域と交易し、 生業を営んできた対馬 の人々の歴史と実像に焦点を当てます。
平常展示室では「彼方からもたらされたモノ」と題し、これまでの展示資料 に加えて初公開となる 60 点の遺物とともに、 対馬の経済活動の初源と展開、 発展について解き明かします。
体験実習室では「対馬の発掘史島の歴史を解き明かしてきた考古学の歩み-」 と題して、 対馬の歴史を「掘り起こして」きた発掘調査と考古学研究の歴史
を写真などの記録で振り返ります。
この特別展を機に、考古学、 埋蔵文化財に興味を持っていただき、当館の キャッチフレーズ「モノ・ヒトコトのつながるところ」 が表す対馬の姿を知って
いただければ幸いです。
対馬博物館 館長 町田一仁
初公開の遺物については、キャプション横に青い丸印がついています。 |
入口展示
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3011テングニシ
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房総半島以南の水深10~50mの砂底に生息する 肉食性の海水生貝。 ビロード状の殻皮に覆わ れていて、殻本体は薄桃色である。
一般流通は 少ないが各地で食用として消費されている。 対馬でも食用として販売されており、居酒屋 や商店で目にすることができる。 |
對馬島誌
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昭和3年(1928)、御大典記念事業として500部 限定で刊行された対馬の郷土誌。 大正10年 (1921) 頃までに島内の各小学校で整備されて 「いた郷土誌を基に編集された。 文化8年(1811) に 「津島紀事」が成立して以来の郷土誌で、第 一編は対馬全体、第二編は町村別の内容をま とめた全二編構成 資料の表紙は後補。
対馬島誌 昭和時代 昭和3年(1928) 縦22.4cm 横14.6cm |
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3012キタタキはく製標本
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キタタキはく製標本 |
キタタキはく製標本
全高 44.0cm 全長 49.0cm
台座高3.0cm
長崎県指定文化財
東南アジアおよび朝鮮半島・対馬に分布する キタタキDryocopus javensis (Horsfield, 1821) の朝鮮半島・対馬亜種。 かつて対馬の御岳周辺 などに留鳥として生息していた日本最大のキ ツツキ。対馬では森林伐採により生息環境が 悪化したことに加え、標本などの目的で乱獲 されたこともあり、姿を消した。 |
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3013
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ツシマヒョウタンボク
腊葉標本
日本では対馬にのみ分布するスイカズラ科の 落葉低木。 朝鮮半島にも分布し中国北部にも 記録がある。 他の花が少ない12月~3月の厳冬期 に1cm程度の淡桃色の花を咲かせる。
実は球形 で赤く熟し、2つが基部で合着することから ヒョウタンボクの名がついた。 絶滅危惧IB類・ 特定第一種国内希少野生動植物種。 |
ツシマヒョウタンボク |
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ツシマヒョウタンボク
腊葉標本 |
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3014石英斑岩
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石英および長石の斑晶が多くみられる 火成岩。 対馬では古くから石材として利用 されており、城壁の石積みや屋敷の石垣・石畳 などに広くみられるほか、郷土料理の石焼でも使われている。
美津島町洲藻の白嶽は 石英斑岩の岩体からなる山であり、山頂付近 には白い岩肌が露出している。 |
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3015満山釣針
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満山釣針は、 対馬藩で大砲方の職を務めていた満山俊蔵が、 その任務の傍ら、折れにくい堅牢 な釣針を考案したことに始まる。 その釣針を つくる手製技術は代々満山家に受け継がれて
きた。 しかし、現在は製作されていない。 魚の 種類や漁法にあわせて製作され、典型的な 製品だけで35種類あるといわれる。 |
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3016
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亥の子
長さ 64.0cm 藁
旧暦十月最初の亥の日の晩、 亥の子を祝うた めに「亥の子ぶりつき」という行事が行われ る。これはその行事で使われる道具。 亥の子行 事の起源は諸説あり、様々な形態があるが、い ずれも秋の収穫を祝う農耕に結び付き、「亥の 子様」を田の神と考え、春に田畑に訪れた神を 送り返す儀式であるといわれている。 |
亥の子 |
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瓶
口径4.7 cm 胴径 50.0 cm
高 27.0 cm陶器
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3020旧石器時代
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~消えたのか、無かったのか~
約7万年前にはすでに、日本各地で人類が生活していたことが、その 痕跡から分かっています。 この時代を旧石器時代と呼びます。全国で 見つかっているこの時代の遺跡は、後期のものが多いです。
長崎県でも 約3万年前から1万4000年前までの時代に属する約360か所の遺跡が 現在までに確認され、 様々な遺構や遺物が出土しています。
ところが、ここ対馬では県内や九州各地と同じような、 縄文時代 早期末にあたる約7300年前より古い時代の遺跡や遺物は、全く見つかって いないのです。
対馬では旧石器時代に人は暮らしていなかったのでしょうか。 痕跡が ただ見つかっていないだけなのでしょうか。 それとも消えてしまった のでしょうか。
将来、 旧石器時代の資料をこのケースに展示する日が 来るかもしれません。 |
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3030縄文時代
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~波濤を越えた往来~
対馬の縄文時代の遺跡はこれまでに約30か所が確認されています。
主に浅茅湾よりも北の西海岸に分布しています。縄文時代早期末に位置づけられる上県町の越高遺跡以降、 夫婦石遺跡や志多留貝塚、峰町の佐賀貝塚、吉田遺跡、 豊玉町の住吉平貝塚、 久原遺跡、 西加藤遺跡、 ヌカシ遺跡などが各地に形成されていったことが分かっています。 いずれの遺跡からも、朝鮮半島に由来する土器が多く出土しています。
また、例えば佐賀貝塚からは、 九州本土や日本海北部、南島地方、 台湾海域などの様々な地域の遺物が混在して見つかり、広域で活発な活動を展開していたことが窺えます。 |
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3031腰高遺跡
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越高遺跡は、出土した土器のほとんどが朝鮮半島の南部で新石器時代早期に使用されていた隆起文土器である点が特徴です。
縄文時代早期末に始まり、約400年間にわたって人々が生活していたことが分かっていますが、時代が下ると貝殻で表面を整えた轟式土器 という縄文土器も含まれるようになり、朝鮮半島系の土器にも縄文土器 の特徴が現れはじめ、次第に縄文化していく様子が見て取れます。
土器とともに豊富に出土する、日本由来の黒曜石やサヌカイト製の石器は、 縄文社会との接触に よって得られたものです。
こうした遺物の有り様は、需要と供給に基づく経済活動から生じた結果 であり、ひいては越高遺跡が朝鮮半島と日本本土部との交流の拠点として 機能していたと評価できるでしょう。 |
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腰高遺跡
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越高遺跡周辺地形図 |
隆起文土器出土状況
越高遺跡から出土した石囲炉 新石器時代の朝鮮半島に系譜が辿れる |
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3032
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越高遺跡出土品
縄文時代早期末~前期前葉 7200年前~6400年前
朝鮮半島南西海岸の新石器時代早期の土器。 越高遺跡からは壺型や小さな鉢形もあるが、 ほぼ平底の深鉢形が主。 隆帯文や隆起線文 、 条 痕、短沈線、押引文、瘤状突起など多様な文様 がある。型式は朝鮮半島系だが、少なくとも一 定数の土器に対馬の土を用いていることが胎 土の分析によりわかっている。 |
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3033
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越高遺跡
越高遺跡は、 出土した土器のほとんどが朝鮮半島の南部で新石器時代早期に使用されていた隆起文土器である点が特徴です。
縄文時代早期末に始まり、約400年間にわたって人々が生活していた ことが分かっていますが、時代が下ると貝殻で表面を整えた轟式土器 という縄文土器も含まれるようになり、朝鮮半島系の土器にも縄文土器 の特徴が現れはじめ、次第に縄文化していく様子が見て取れます。
土器とともに豊富に出土する、日本由来の黒曜石やサヌカイト製の石器は、縄文社会との接触によって得られたものです。
こうした遺物の有り様は、需要と供給に基づく経済活動から生じた結果 であり、ひいては越高遺跡が朝鮮半島と日本本土部との交流の拠点として 機能していたと評価できるでしょう。 |
越高遺跡 |
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越高遺跡周辺地形図
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左:隆起文土器出土状況
右:越高遺跡出土石囲炉 新石器時代の朝鮮半島に系譜が辿れる |
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3034
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3035志多留貝塚 縄文後期
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縄文時代の交流 一対馬における経済活動の初源一
対馬で確認できる最も古い時代である縄文時代から、人々は活発に島外の地域と交流を持っていました。 浅茅湾から北に位置するいわゆる上島を中心に分布する遺跡が、 これを物語っています。
どの遺跡も特徴がありますが、 代表的な存在として取り上げるならば、上県町越高に所在する越高遺跡と、峰町佐賀に所在する佐賀貝塚でしょう。
一方は特定の地域との長期間にわたる 密接な交流を示唆する遺跡であり、一方 は多様な地域との活発な交易の展開を示 唆する遺跡であると評価できます。
島内の遺跡はどれも特徴があります が、この二つの遺跡は一定の要素を色濃く 凝縮した性格を持っています。
情報、 知識、技術、素材、道具、これ らを持ち、扱う人、 個別の集団や社会が 相互に求め、 応じる需要と供給から成り 立つ交換や提供、受領が織りなす経済活
動の結果が遺物や遺跡に現れる特徴と なっています。
後の時代に続くモノヒトコトのうねりの初源がここに見えます。
対馬という文化の形成は、ここから始まったのです。 |
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越高遺跡遠景
佐賀貝塚と遺跡前方の海 |
志多留貝塚出土品
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志多留貝塚出土品
縄文後期
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口縁部~胴部 |
胴部 |
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底部 |
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3036ヌカシ遺跡 縄文中期~後期
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ヌカシ遺跡 |
土製円盤
縄文後期
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阿高式土器
縄文後期 |
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中津式(瀬戸内海)
縄文後期 |
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剥片(削器か)
黒曜石製
縄文中期 |
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3200弥生時代 ~市糴する人々~ 市糴=① 売米(うりよね)と買米(かいよね)。 ② 米などの穀物を売買すること。
Yayoi Period (c.950BCE-250CE)-People Engaging in Trade-
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対馬の弥生時代の遺跡はこれまでに約190か所が確認されています。
浅茅湾を中心に分布しており、大半が岬など海に面した地形に築かれた埋葬址です。一方、住居跡など生活痕を残す遺跡はほとんど見つかっていません。出土する遺物は、朝鮮半島や九州本土など他地域からの搬入品、特に青銅製品の多い点が特徴です。
中でも弥生時代中期以降に福岡市から春日市一帯で作られていた広形・中広形鋼矛は、120本を 超えます。 遺構に副葬されていた各地の多様な遺物の存在は、
広域な 交流の様子を示しています。 |
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3201住吉平貝塚 縄文晩期末~弥生前期
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3202三根遺跡 弥生前期~後期
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3203
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魏志倭人伝に書かれた対馬
歴史史料に「対馬」 が初めて見えるのは、西晋 (265~316年)の陳寿が編纂した 『三国志』 (280~ 297 年の間) です。 この 「魏書」
巻三十 「烏丸鮮卑東夷伝」 に倭に関する記述があり、 その条を指して、俗に「魏志倭人伝」と呼んでいます。
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、 山島に依りて國邑をなす」 から始まる倭人について書かれた記述に続き、 朝鮮半島から海を渡って初め て到達する倭の国の一つとして
「対馬国」 が紹介されています。
始于一海千餘里至對海國其大官卑狗副卑奴母離
所居絶島方可四百餘里 土地山險多深林道路如禽徑
有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴
始めて一海を渡る、 千余里、 対馬 (海) 國に至る。 その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。 居る所絶島、方四百余里なる可し。
土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し。 千余戸有り。
良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。
【石橋道博編訳 『新訂魏志倭人伝他三編 中国正史日本伝 (1)』 岩波書店 1951】
対馬は約9割が山林で平野に乏しい地形です。 「魏志倭人伝」 の記述は実に簡にして要を得ていると言って良いでしょう。 |
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魏志倭人伝に書かれた対馬
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険しい山々 |
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楽浪系土器
(朝鮮半島北部)
瀬戸内系土器
無文土器 |
瀬戸内系土器
無文土器
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無文土器 |
無文土器 |
瀬戸内系土器 |
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楽浪系土器
(朝鮮半島北部) |
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3205
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弥生時代の対馬
一浦々にひろがるクニー
現在確認されている弥生時代の遺跡は、約 200箇所に上ります。 大部分 は墓地で、多くが海を望む岬に築かれています。
特徴として、死者を弔う際に墓に納めた副葬品における舶載 (輸入) 品の豊富さが挙げられます。 弥生時代中期後半以降から、多量で多様な舶載 青銅品を副葬するようになります。
鉄器や大陸系 土器と倭国産の土器、 青銅器等と混在しています が、半分以上を舶載品が占めます。 日本と朝鮮 半島、中国大陸の遺物がまとまって出土する様子
は 対馬では一般的です。
いっぽう、 墓地の中に、形や造りが特に際立って いるわけではありませんが、 突出した内容の舶載 品を備える墓が混じっています。 浦々に集落が あったと考えられますが、それぞれの墓地に優 越的な副葬品を備えた墓が混じることは、浦の
有力者、 「浦主」 の存在を想起させます。
当時の人々は流れが速く、波が荒い対馬海流を越えて島外から様々なモノを手に入れていました。
「船に乗りて南北に市糴す」 という 『魏志 倭人伝』 の一文は、海洋を隔てて各地と交易をする精力的な対馬の人々 の姿を簡潔で的確に表現しています。 |
弥生時代の対馬 |
椎ノ浦遺跡出土品
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弥生時代の遺跡分布図
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椎ノ浦遺跡出土品
弥生後期 |
椎ノ浦遺跡出土品
弥生後期 |
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3207浦社会の経済活動
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浦々に分布する集落は、 狭い平野に形成されています。 地理的特性上、 集落間には山林がそびえ、 車での移動に慣れた視点からは、 道路もなく 徒歩に頼る当時の生活は厳しい環境下にあるように映ります。
しかし、浦から湾にこぎ出せば 外洋は間近です。流れや風に左右 されますが自由な移動が可能です。 海は集落、 彼方の地をつなぐ優れた インフラなのです。
つまり、一見、 山で隔絶された集落は、 実は水系で結ばれているわけ です。 海は浦や集落を連ね、 朝鮮半島や壱岐、九州に通じる重要な生活・ 経済基盤と言えます。 すると、弥生時代の対馬は海洋資源だけでなく、 動植物資源も豊富で入手が容易、 他地域との交流を可能とする良好な 環境にあったと解釈できます。 この環境が人々の活発な経済活動を支え ていたのです。
生活財の獲得、 確保など生活を 支え、労力や時間の負担を軽減し、 広域的で潤滑な連絡を可能とする 水系は、対馬では単なる道や生産 活動の場ではなく、
経済や社会構造の維持に関わる必須の道具であり、 構成要素そのものでした。 「南北に市糴」 するための基盤は、島である対馬にとっては、まさしく海であった
と言えます。 |
浦社会の経済活動 |
浦社会の経済活動 |
・現代の人々が認識する対馬と外界
・当時の人々が認識する対馬と外界
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3209櫛のサエ遺跡出土品 弥生後期末
櫛のサエ遺跡 |
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3300古墳時代
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〜最果ての島の姿~
Kofun Period (c.250-7C)-Japan's Furthest Island-
これまで確認されている対馬の古墳時代の遺跡は、ほとんどが墓地 です。対馬で多く埋葬に用いられているのは箱式石棺墓で、高塚墳は 十数基しか確認されていません。 高塚墳が約270基も確認されている隣島の壱岐とは対照的です。 墓地は弥生時代から続いて営まれていたものも多く、対馬では長く箱式石棺墓を用いた埋葬様式が主流だったことが分かります。数少ない高塚墳は全て浅茅湾よりも南に分布しており、箱式石棺墓しか見つかっていない北とは異なった様相が窺えます。 |
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3310 |
3311新たな形の墳墓
一古墳群に見る国と社会変化―
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埋葬のための施設として石棺墓が伝統的に用いられているなかで、
突然に大きな盛り土を持った古墳が現れます。 美津島町の雞知にある 出居塚古墳です。 全長 40mの前方後方墳です。 この形は県内唯一で、 築造は4世紀後半から5世紀初頭に比定されています。 石棺墓が主流の 対馬において、この巨大古墳の採用は中央政権との関係が急激に変化 したことを示していると言えるでしょう。
出居塚古墳に続き造られた古墳が、 東に約1kmにある根曽古墳群です。 1・2号墳が前方後円墳で、 4号墳も前方後円墳の可能性が指摘されて います。 時期は1号墳が5世紀代、 23号墳が6世紀後半代に比定され ています。
前方後円墳と見られる1・2号墳は、 出居塚古墳と同様に中央政権との繋がり を示していると言えるでしょう。 しかも 円石で覆われた2号墳は、 前方後方墳の 可能性もあり、採集された資料からは、 古墳が5世紀につくられた可能性も考え られます。
すると、4世紀後半の築造と考えられている出居塚古墳に続き、 県内 では例のない古墳がまた、この対馬に造られたことになります。
朝鮮半島に最も近い対馬は、今で言う国境に位置しています。「国」 というものが意識され始めた古墳時代には、この島は中央政権にとって 特別な意味を持つ島だったということでしょう。 |
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3313
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コフノサエ遺跡出土品
古墳時代
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勾玉
7号遺跡出土品 |
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伽耶系把手付有台坏
遺跡内部から検出
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勾玉・耳環
10号遺跡出土
5c後半~6c前半
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切子玉
水晶製
5c後半~6c前半
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3320
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勾玉
7号遺跡出土品 |
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勾玉・耳環
10号遺跡出土
5c後半~6c前半 |
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切子玉
水晶製
5c後半~6c前半 |
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伽耶系把手付有台坏
遺跡内部から検出 |
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3330緒方浦遺跡出土
緒方浦遺跡出土
古墳時代 |
ハソウ
簑島遺跡
6c中頃~末
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須恵器
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3340保床山古墳出土品 古墳時代終末
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保床山古墳は墳丘を持った高塚墳で、対馬南 部の豆酸に所在する古墳。有蓋銅鋺 銅盤承 盤1組、土師器盤、各種須恵器、金銅装太刀が 出土している。
羨道のない横穴式石室を持つ。 7世紀前半の初葬から7世紀後半~末まで2 度の追葬がなされる。 出土遺物から畿内政権 との強い結びつきが窺える。 |
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3350
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日本初の銀産出
厳原町の西海岸に位置する佐須は、江戸時代、 対馬藩の直轄領として銀山を直営し、 厳原の府中と並ぶ繁栄を誇っていました。 「対馬国貢銀記」 などの記録によれば、 11~12世紀にも銀が採掘されていたようですが、その起源は7世紀に遡ります。
対馬の産銀について触れた最初の文献は『日本書紀』 です。 天武天皇 3年(674) 3月条に、次のように書かれています。
対馬国司守忍海造大国言さく。 銀、始めて当国に出でたり。 即ち貢上るとまうす。是に 由りて、 大国に小錦下位を授けたまふ。 凡そ銀の倭国に有ることは、 初めて此の時に出え たり。故、悉に諸の神祇に奉る。 亦周く小錦以上の大夫等に賜ふ
対馬の国司が、その治める地で銀を採り、 天皇に献上したという一文なのですが、 佐須がその産出地だと推定されています。 つまり、日本で 初めて銀を産出した地が佐須であり、
佐須鉱山なのです。
『続日本紀』 文武天皇2年(698) 12月条には、 さらに金の冶成、3年後 の大宝元年(701) 3月21日条には、 金の貢上を受けて元号を建て、
大宝 と為したと記されています。 ただし、 これは三田首五瀬という人物の 詐欺でした。 金の産出は虚構でしたが、 4 半世紀前に銀を産出した事実
が真実味を帯びさせたのでしょう。 しかし、この話は当時の日本にとって、 金や銀の採掘がいかに重要な意味、価値を持っていたかを物語っている と言えるでしょう。
国の経済基盤の確立に欠かせない貴金属の産出、 その起源に対馬は大きく関わっているのです。 |
3351金田城跡出土品 7世紀後半
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3360
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温石 |
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温石
滑石製。端部に一箇所、 両面穿孔して穴を作 る。 滑石は保温性が高く、加熱して懐中に入 れ、寒冷時に暖を取る道具として用いていた とみられる。
長崎県の西彼杵半島は広域に流 通する滑石の産出地だが、色調や質感から、こ の資料の石材とは異なっていると考えられている。 |
羽口 |
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羽口(ほくち)
鍛冶を行う際に使用する、 坩堝とふいごの羽 口。 炭化物の集中堆積や焼土痕、 鉄滓が検出さ れており、金田城跡で鍛冶行為が行われてい た可能性が示唆される。
※今までハグチと読んで・聞いていましたが、ホクチと読むそうです。
(でもワープロ機能でホクチと入れても羽口には変換はできません) |
製塩土器
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玄界灘式製塩土器。 塩を精製する際に使用す る。海水を土器で煮詰め、塩を抽出する。 粗い タタキ目を持つ甕形の土器で、 北部九州を中 心に分布する。 |
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3400金田城 |
3401金田城(かなたのき)
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国防の最前線 「金田城」
金田城跡は浅茅湾の南岸から北に突き出した城山に位置しています。 三方を海で囲まれ、頂上付近には明治時代の砲台の跡が残っています。山の 西側から北側にかけては険しい断崖であり、
城戸と呼ばれる城門跡などの 主要施設は東側に集中しています。 遺構の良好な状態と築城に至った歴史的 背景から、その重要性が評価され、 1982(昭和57)年に特別史跡に指定され
ました。
663(天智天皇2)年に朝鮮半島南西部で起こった白村江の戦いで、唐・新羅に敗れた倭(大和朝廷)は、翌年に筑紫・壱岐・対馬に防人と蜂を設置しました。
また、九州から瀬戸内海に至る各地に防衛の拠点を整え、667(天智天皇6) 年には対馬に金田城を築きました。 国防の最前線に位置する金田城は、見張り
や通信などの役割が期待されていたと考えられています。
Kaneda Fortress site, a special historical site designated by the Japanese government, stands on Mt. Joyama at the northern tip of the southern shore of Aso Bay. The fortress was erected in 667. After Japan was defeated by the allied forces of Tang and Silla at the battle of Hakusukinoe, the government reinforced its national defense to prepare for a possible invasion by the two countries. In addition to building the fortress, the government stationed border guards known as Sakimori in Tsushima and some regions, and established smoke signal stations. |
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国防の最前線 |
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黒瀬湾から見た金田城跡遠景
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金田城
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金田城跡遺構配置図
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3402
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石塁
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東南角石塁
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石塁
城山の山頂から尾根沿いには、大小様々な大きさの石を積み上げて築かれた石塁が巡っています。 石材はここで採れる石英斑岩が用いられています。 途中には門に関わる遺構がみられるほか、
東南部では 石塁の角が張り出しており、 防御機能を高める意図があったと考えられます。 |
城戸
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一ノ城戸 |
城戸
黒瀬湾に面して一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸が設けられています。
城戸は一般的に城門のことを指しますが、 一ノ城戸 のみ城門跡が見つかっていません。
一ノ城戸 には谷間に築かれた石積みが良好な 状態で残っており、前面に張り出した構造が 確認されます。
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南門
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南門の遺構 |
南門
2003(平成15)年に金田城南部の石塁付近 を調査した結果、 標高90m前後の位置に 南門の遺構が確認されました。 城門の規模は 間口3.2m、奥行きは平均1.84mあります。
床面には階段状に平石が敷かれ、4対の礎石が元の位置のまま残っています。
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ビングシ山 |
ビングシ山掘立柱建物跡
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金田城東部のビングシ山では、山頂及び跡が3棟見つかりました。
また、 鞍部の東側入口からは門礎石 が出土しました。
これを契機として鞍部を 防御するように弧状に築かれた土塁の存在 も確認されました。 |
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3403島の成り立ち
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島の成り立ちと対馬の始まり
「対馬」がその姿を現したのは、約1700万年前から1400万年前の日本海拡大期です。 約2500万年前の古第三期まで、日本列島 は大陸の一部で、日本海もその間にある湖でした。
この湖に、 約1900万年前から海が侵入し始め、水域が拡大していきます。 同時に日本の南西部が時計回りに回転し、日本列島が大陸から 分離した島弧となっていきました。この時期に、
対馬 五島構造線 と呼ばれる海底構造線の活動で五輪列島とともに隆起することで、後に「対馬」 と呼ばれる島が形成されたのです。これまで 対馬で見つかっている最も古い遺跡は約7300年前の縄文時代
のものですが、さらに古い時代の遺跡は存在するのでしょうか。 Tsushima Island emerged sometime between
17 million and 14 million years ago, when the Japanese archipelago became
separated from the Asian mainland. As a result of the movement of a submarine
tectonic line, the seafloor rose up into the Island that we now know as
Tsushima. The oldest archaeological site on the Island discovered to date
belongs to the Jomon period (0.14,000- 950 BCE), It is unknown If that
is when people first lived on Toushima. 1700-1400 |
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3405対馬の岩石
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3500縄文時代
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3501縄文時代の遺跡の様相
遺跡遠景 |
志多留貝塚(上県町志多留)
Shitaru shell mound E
縄文時代中期以降に形成された貝塚で、 志多留川の河口に所在します。 1916(大正5)年の調査を発端として、昭和に入って
4回の調査が行われてきました。 縄文時代後期に属する遺物包含層からは、 北久根山式土器や鐘崎式土器、石鏃や石斧など 各種石器が出土しています。
これらの遺物から当時の人々が 日本本土と交流していたことが分かります。 |
遺跡遠景 |
夫婦石遺跡 (上県町久原)
Meotoishi site
鹿見湾(しじみわん)の西岸北部に所在します。 八幡神社を中心とした標高0~10mの位置にあります。 1988(昭和63)年に行われた発掘
調査で、朝鮮半島でみられる櫛目文土器のほか、縄文時代前期 から中期の土器などが見つかりました。 1993(平成5)年の再調査 では、縄文時代から古墳時代までの遺物を含む土層が確認されて います。 |
遺跡遠景 |
ヌカシ遺跡 (豊玉町廻とよたままちまわり)
Nukashi site
浅茅湾(あそう)の北側に唐洲(からす)と廻(まわり)という地区があり、この中間にある浦の扇状地に所在します。 1974(昭和49)年に遺物が採集されたことをきっかけに、
発掘調査が行われました。 調査では縄文時代中期から後期の土器や、 石斧などの石器が出土し、住居跡や炉跡が見つかりました。 |
遺跡位置図
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遺跡遠景 |
越高遺跡 (上県町越高)
Koshitaka site
仁田湾の北側の海岸に立地する遺跡で、 1972(昭和47)年の遺物発見 以降、断続的に発掘調査が行われてきました。 縄文時代早期末から前期 に属するこの遺跡は、多量の朝鮮半島系土器が出土する点で全国的に
も希有です。 また、 2017 (平成29)年の調査によって、 縄文時代前期に属する朝鮮半島で使用された形式の石囲い炉が、全国で初めて発見されました。 |
発掘調査風景
長崎県教育委員会提供 |
佐賀貝塚 (峰町佐賀)
Saka shell mound
佐賀浦の奥に所在します。 1953(昭和28)年に発見されました。 1985 (昭和60)年に長崎県教育委員会と峰町教育委員会が発掘調査を行い、縄文時代中期と後期の二つの貝塚から成ることが確認されました。柱穴を持った建物跡と、土壙を用いた埋葬遺構が見つかりました。また、製作工程ごとに分類できる多量の石斧や、
貝輪等の骨角牙貝製品、並木式・阿高式系統に属する土器など、各地との広域な交流を示す遺物が出土しており、2014(平成26)年に重要文化財に指定されました。 |
遺跡遠景 |
住吉平貝塚 (豊玉町曾)
Sumiyoshibira shell mound
曽浦の西に立地します。 標高10~15mの樫郷山から発達した舌状台地 上で、1973(昭和48)年の宅地造成工事中に発見されました。 4か所に 貝塚があり、縄文時代晩期末の土器など各種遺物が出土していることから、
ここで人々が生活を営んでいたことが分かります。 |
遺跡遠景 |
西加藤遺跡 (豊玉町嵯峨)
Nishikatō site
浅茅湾の北側に位置する水崎において、 干潮時に現れる砂浜を30cmほど掘ったところに遺物包含層が存在します。 1974(昭和49)年の調査で縄文時代中期後葉から後期初頭の土器が出土しました。
また、 早期の押型文土器も見つかっています。 |
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3510JungleCase説明
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3520佐賀貝塚概要
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佐賀貝塚
佐賀貝塚は、縄文時代中期~後期にかけての遺跡で、二つの時期に形成された貝塚を構成しています。
骨角牙貝製品には北海地域の離頭、地獄針と呼ばれる台湾方面の漁労具、朝鮮半島南岸から西北九州沿岸の組合式釣針など、多様な系統と型式の漁労具が存在します。 また、 朝鮮半島に棲息するキバノロの牙や、 南海産や北海方面の貝製装身具 もあり、海を介した極めて広域な技術的交流が存在 したことを示しています。
石器のうち各製作段階が揃った石斧群は地元産の石材が大半を占めます西彼杵半島産の石材もあり、 石鏃の石材には佐賀県伊万里産や壱岐島産のものがあり、
流通の構造を考える上で興味深い資料と言えます。 縄文土器では北部九州地方の各土器型式が出土しています。
こうした遺物は、佐賀貝塚の人々が 各地に供給する石斧を製作していたこと、 西北九州を基盤としながら、 多様な遠隔地との漁労狩猟技法器の技術的な交流
や製品の交易を行っていたことなど、経済活動の実態を示しています。 |
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3523牙・貝製品 中期~後期
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佐賀貝塚出土品
縄文中期~後期
重要文化財 |
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貝輪
貝製品 |
装身具
牙製品 |
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3525縄文土器 中期
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3527磨製石斧 縄文後期
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磨製石斧
縄文後期 |
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頁岩製 未成品
左から
粗割・敲打・形割
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・頁岩製 左から
未成品・完成品
・蛇紋岩製(青黒色)
最右端 完成品
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3540縄文時代遺物の棚展示 |
3541JungleCase説明
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ジャングルジムケースの見方
みんなは、いま深~い土の中にいるんだよ・・・
土は時間がたつと、どんどん積もっていきます
上の方が新しい時代の土
下の方が古い時代の土
遺物は土といっしょに埋もれていくから、
下に方にある遺物は古くて、
上の高いところにある遺物は新しいことになるね
発掘調査は地面の下の方へ土をどんどん掘り 下げて、進めていくんだ
だから、発掘調査が進むとみんなは土の深いところに いて、そこから地面を見上げるような形になるんだ
このケースは、古い時代から新しい時代に積もっていった土の層で、 自分は掘った穴の底にいる、と思ってね!
発掘調査をする考古学者になった つもりで、ケースを眺めてみよう! |
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いろんな向きから見てみよう
展示している遺物は発掘調査で見つけたものなんだ
遺物といっても、土でできたものや石でできたもの
骨や歯でできたもの・・・いろいろあるよ
色や形、大きさも、いろんな種類のものが [たくさんあるんだ
少し離れて全体を見ると、それがわかるよ
近づいて細かいところを観察するのも面白いけど、遠くから全体を眺めてみたり、いろんな見方を試してみてね
前から見たり後ろから見たり、上から見たり下から見たり···· 近づいた! 離れたり・・・
違った向きから見ることで たくさんの発見あるよ!
形は似ているのに色や大きさが違うもの
色は似ているのに形が違うもの
ふしぎなもの かわいいもの・・・
いろんなものをくらべてみよう! |
ジャングルジムケース |
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■三根遺跡
■住吉平貝塚
■志多留貝塚
■ヌカシ遺跡
■腰高遺跡 |
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3550JungleCase |
3553
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三根遺跡 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
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3555
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三根遺跡 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
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3557
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三根遺跡 |
住吉平遺跡 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
腰高遺跡 |
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3559
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三根遺跡 |
三根遺跡 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
ヌカシ遺跡 |
腰高遺跡 |
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3561
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三根遺跡 |
三根遺跡 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
ヌカシ遺跡 |
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3563
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三根遺跡 |
三根遺跡 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
志多留貝塚 |
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ヌカシ遺跡 |
ヌカシ遺跡 |
ヌカシ遺跡 |
ヌカシ遺跡 |
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弓矢は狩猟の際に使う道具。動物に射る矢の 先端に付ける鋭利な刃物を鏃・矢尻と言う。鏃 の材料は様々で、黒曜石や粘板岩、 頁岩などの 石や、生き物の骨、角、牙などがある。
石製の鏃 は適当な大きさの破片を細かく剥離させた り、磨いて作る。骨角牙を使った鏃も、部分的 に磨くなど加工して利用する。 |
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3600弥生~古墳
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3601弥生時代の遺跡の様相
遺構出土状況 |
三根遺跡 (峰町三根 みねまちみね)
Mine site
峰町を蛇行しながら南下する三根川の下流域に所在します。 県道新設に伴い山辺(やんべ)地区 が調査され、弥生時代前期から古墳時代までの生活遺構群が見つかりました。時代の
中心は弥生前期で、竪穴式住居3棟、 総柱高床式倉庫が確認されています。 弥生土器や 朝鮮半島系無文土器、楽浪土器、鉄製遺物が出土しました。 対馬で明確な住居跡が発見されることは珍しく、弥生時代の対馬の社会を解明するための重要な遺跡と言えます。 |
遺跡遠景 |
木坂遺跡 (峰町木坂)
Kisaka site
木坂の御前浜を望む丘陵部に所在します。 発掘調査により7基の石棺墓が確認されました。
各石棺からはガラス玉や弥生土器、 瓦質土器などが出土していますが、 九州北部産の広形銅矛(ひろがた)や朝鮮半島産の青銅器類が一緒に副葬されていた点が注目されます。
棺外からも中細形銅矛(なかぼそがた)や細形銅剣が見つかるなど、各種の遺物が豊富に出土しています。 |
遺跡遠景 |
スス浦崎遺跡 (豊玉町佐志賀とよたままち さしか)
Susuurasaki site
豊玉町の南西にある、 仁位浅茅(にい あそう)湾南部の西に張り出した貝口浦(かいぐち)の岬先端部に所在します。石室を構成していたとみられる石材が散乱していましたが、確かな形は不明です。
その近くから、高坏、 短頸広口壺、 長頸壺、提瓶などの須恵器、 短頸壺と広口壺などの土師器といった日本産の遺物が出土しました。 |
遺跡遠景 (現在は消滅) |
ハロウ遺跡 (豊玉町仁位)
Harō site
豊玉町の南部で浅茅湾に注ぐ仁位川の河口部に張り出した二つの岬先端に所在しました。 一方の地点から3基の箱式石棺墓と1基の性格不明の遺構、 1基の竪穴式石室が 見つかり、もう一方の地点からは3基の箱式石棺墓が見つかりました。
小形内行花文仿製鏡、 広形銅矛、 ガラス玉などの遺物が注目されます。 |
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塔の首遺跡 (上対馬町古里ふるさと)
Tōnokubi site
上対馬町の北東端に近い西泊湾(にしどまり)を望む丘陵部に所在します。調査で4基の石棺墓が確認されました。 第2号石棺から銅釧、管玉、水晶製棗玉、ガラス玉、陶質土器など、第3号石棺から広形銅矛、銅釧、管玉、
ガラス玉、 弥生土器など、 第4号石棺から遺構出土状況方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)、ガラス玉、 鉄斧が出土しました。 日本と朝鮮半島の遺物が一緒に副葬されていたことから当時の交流を窺え、
1977(昭和52)年に史跡に指定されました。 |
遺跡近景 |
椎ノ浦遺跡 (峰町志多賀)
Shinoura site 시노우라 유적
峰町にある志越という集落の南にある椎ノ浦北側の岬先端部に所在します。5基の石棺と2基の壺棺が見つかっています。 石棺から、細形銅剣や把頭飾、鍔金具、管玉、仿製鏡、鉄鏃、ガラス玉、弥生土器、後漢鏡、刀子などが出土しました。 |
遺跡遠景 |
櫛の深遺跡 (峰町櫛)
Kushinosae site
峰町の南東で、 外洋から奥まった位置にある櫛浦の北に突き出す岬に所在します。発掘調査では2基の石棺が見つかりましたが、元々はさらに多くの遺構があったと思われます。
1号石棺からはガラス玉、 碧玉製管玉、 壺や甕などの弥生土器、 2号石棺からガラス小玉と紡錘車、弥生土器の甕が出土しました。 |
遺跡近景 |
サカドウ遺跡 (峰町三根)
Sakadō site
峰町の南西に開口する三根湾に注ぐ三根川下流で、蛇行する川の右岸に突き出した台地の先端部に所在します。 墓地の墓穴を掘る際に、 中細形銅矛、細形銅剣、触角式剣把頭飾、角形銅器、双管状銅器、笠頭形銅器、扁平環状銅器、 有孔十字形金具など、 朝鮮半島製の珍しい遺物が多く出土しました。 |
遺跡近景 長崎県教育委員会提供 |
かがり松鼻遺跡 (美津島町久須保)
Kagarimatsubana site
美津島町の東部にある久須保浦の入口南側に所在します。 石棺墓が1基、 半ば崩壊した状態で確認されました。 副葬品として、 変形細形銅剣、把頭飾、ガラス玉、弥生土器
が見つかりました。 この把頭飾は非常に珍しく、皿状の笠部の内側に浮き彫りで流麗な流雲形花紋が施されており、中国の前漢時代に洛陽を中心とする中原地方で製作された後、朝鮮半島の楽浪郡を通じてもたらされたものと考えられています。 |
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3610銅矛
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矛は武器の一種で、木の柄を根元の袋部に差 し込んで使う、 刺突具である。 日本にもたらさ れて以降、大型化した。 対馬における中広形か ら広形までの弥生時代後期に属する銅矛の出 土数は 120を超える。 十数本を超える数を一 度に埋納したり、墓に副葬するなど、独自の使 用方法が特徴である。 |
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増田山遺跡出土品
弥生時代後期
Artifacts from the Mashitayama Site
対馬は弥生時代において一地域で出土した銅矛の数は日本随一であり、埋葬址への副葬や 複数をまとめて地中に埋納するなど、 他地域 と異なる様相がある。 増田山遺跡は厳原町の 久田白子にある増田山で林道工事中に発見さ れた遺跡である。 重機による掘削の際に広形 銅矛が8個体分まとまって出土した。 |
広形銅矛 複製品
増田山遺跡出土品
広形銅矛(複製品)
さわることができる |
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さわってみよう さわってみたーい!
普段は触れることのできない展示資料
レプリカ (複製品) で重さや手触りを感じてみましょう
レプリカを作るにあたり、 資料のさまざまな部分を分析しました
1実測図作成
2重量測定 実物資料 2,562.96g(完成したレプリカは2,600.00g)
3レントゲン撮影 根元から中央の赤い線まで 空洞になっていました
4 模型作成 |
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3700弥生~古墳時代
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3701
遺跡近景 |
チゴノハナ遺跡 (峰町三根)
Chigonohana site
三根湾の南部で、北に開口する吉田浦入口に位置します。 浦の北岸に南西に張り出した岬があり、 その先端部に所在します。 2基の箱式石棺墓と1基の土壙墓が確認されています。1号石棺からは鉄剣と銀環、
ガラス玉、 須恵器、2号石棺からは鉄製刀子、ガラス玉、須恵器、土師器が出土しました。 土壙墓からは土師器、須恵器、陶質土器、 鉄器などが出土しました。 |
遺跡遠景 |
玉調遺跡 (美津島町大山)
(玉調ハナデンポ遺跡・玉調浦五次郎遺跡・玉調第2・3・4遺跡)
Tamazuke site
美津島町の東部にある玉調浦の東西沿岸に複数の遺跡が分布しています。 いずれも石棺墓を持つ墓地で、弥生時代中期から6世紀まで営まれていたと考えられます。
玉調浦五次郎遺跡では弥生時代中期の甕や壺、高坏のほか、 須恵器の坏、高坏、ハソウ、土師器の高坏、 陶質土器、銀環、 ガラス製小玉などが見つかっています。 |
遺跡遠景 |
緒方浦遺跡 (美津島町緒方)
(緒方浦第1・2・3遺跡)
Okataura site
美津島町の東部にある三浦湾の奥に、 北に開口した緒方浦があります。 その東岸に突き出す岬の三つに、それぞれ遺跡が所在します。 南から第1遺跡、
第2遺跡、第3遺跡です。 第1遺跡の1号石棺からは須恵器の魂や壺、ガラス玉、2号石棺からは須恵器長頸壺が見つかりました。 |
弥生遺跡地図 |
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遺跡近景 |
コフノ𨺉遺跡 (上対馬町唐舟志)
Kofunosae site
上対馬町の津和浦の中央に南東方向に突き出した岬があり、その先端部に所在します。
1980(昭和55)年に発見されました。岬の東側に石棺11基、西側に積石状遺構と石棺1基がありました。
ガラス製小玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、銀環、鉄斧、 須恵器、4世紀から7世紀までの陶質土器が見つかっています。 |
遺跡遠景 |
蒙古塚(トウトゴ山) 遺跡 (峰町吉田)
Mōkozuka (Tōtogoyama) site
峰町の南部を流れる吉田川の西岸に位置する低丘陵地に所在します。 かつては弥生時代から古墳時代に至る墓が存在していたようですが、 1975(昭和50)年の発掘調査では2基の石棺が確認されたのみでした。
1号石棺には素環頭太刀と笠頭形銅器、 刀子が副葬されていました。 2号石棺では棺内からガラス玉、紡錘車、 棺外から土師器、陶質土器が見つかりました。 |
遺跡近景 |
出居塚古墳 (美津島町雞知)
Deizuka site
美津島町の東に開口した雞知浦を眼下に望む丘陵先端部に所在します。 主軸を北から東にやや振り、 前方部を南に向けた全長40mの前方後方墳で、4世紀後半の造営と考えられています。
大半が破壊されていますが、 内部主体は組み合わせ式の箱式石棺と考えられています。 12本の有茎柳葉形銅鏃と管玉1点、鉄剣・鉄刀片が出土しています。 県内唯一の前方後方墳であり、対馬と大和政権との歴史的関係を示す貴重な遺跡として、2002(平成14)年に県によって史跡に指定されました。 |
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3710弥生時代のジャングルケース
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3711
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黒木南鼻遺跡
弥生後期
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石斧、石剣、石鏃 |
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鍔形銅器・把頭飾 |
変形細形銅剣 |
後漢鏡 |
仿製鏡
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ガラス玉・管玉 |
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3712
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弥生土器 |
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鉄矛、鉄剣・鉄鏃
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紡錘車・ガラス玉・管玉 |
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3713
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ガラス玉 |
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鉄刀、耳環・刀子 |
耳環
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刀子
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鉄刀 |
刀子片 |
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須恵器 |
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3714
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ガラス玉
弥生時代~古墳時代
貝口寺浦崎遺跡
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銭島(飯盛)遺跡出土品
中国前漢時代 |
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銭島((飯盛)遺跡は峰町櫛字イーモリにあったとされる。石棺があったと伝えられるが、昭和 60年の長崎県による踏査時には痕跡は確認で きず、消滅した遺跡として銭島遺跡の名で登 録されていた。遺物は鋳造鉄斧で前漢時代の もの。 基部に3条の突帯が巡る。前漢代に属する同形状の鋳造鉄斧は国内唯一。 |
鉄鏃
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須恵器 |
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3715
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3716
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3800古墳~古代
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3801
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遣唐使と遣新羅使の時代
Japanese Missions to Tang and Silla
対馬は古くから、大陸や朝鮮半島に派遣される外交使節の国内最後の寄港地でした。使節一行を乗せた船は浅茅湾(あそう)に停泊して順風を待ちました。
8世紀に入ると遣唐使の多くは対馬を経由せずに東シナ海を横断する南路を航海するようになりましたが、 朝鮮半島に渡る遣新羅使はその後も対馬を通りました。
現在伝わる最古の和歌集である 『万葉集』には、 遣新羅使が対馬で詠んだ歌も残されており、外国への旅立ちを前にした 使節の心境や対馬の情景が描写されています。
9世紀以降、外交使節の派遣を通じた国家主導の交流は衰えていき ました。 一方で、新羅や唐の商人が大陸と日本とを活発に往来するように なり、交易の時代が幕を開けました。
In ancient times, Tsushima was the final port of call within Japan by ships of Japan's diplomatic missions dispatched to countries in Northeast Asia. There are poems composed in Tsushima by mission members who were sent to Silla in the 8th century. From the beginning of the 9th century, instead of diplomatic missions sent by the government, civilian merchants became the leading players in trade with the countries in Northeast Asia.
쓰시마는 오래전부터 대륙과 한반도에 파견되는 일본 외교사절단의 국내 마지막 기항지였다. 8세기에 신라에 파견된 사절단이 쓰시마에서 읊은 시도 남아 있다. 9세기 이후에는 국가 차원의 외교활동은 줄어들었고, 대륙과 일본을 오고 가는 상인들에 의한 교역 시대가 막을 열었다. |
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3802万葉集に収められた遣新羅使の和歌
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ももふねの (百)(船) |
はつる対馬の
(泊) |
あさぢやま
(浅茅山) |
しぐれのあめに
(時雨) (雨) |
もみだひにけり |
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遣新羅使節の一員が秋の対馬の情景を詠んだ歌です。 時雨の中で浅茅山 (大山岳) の紅葉が色づく対馬に、 遣新羅使船など無数の船が停泊する 様子が詠まれています。 |
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たましける
(玉)(敷) |
きよきなぎさを
(清) (渚) |
しほみてば
(潮 満) |
あかずわれいく
(飽) (吾 行) |
かえるさにみむ
(帰) (見) |
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遣新羅大使の阿倍継麻呂が対馬から 新羅への出航を前に詠んだ歌です。
無事に帰国して再び対馬の美しい渚 を見ることを願う内容です。
ともに九州国立博物館 (福岡県立アジア文化交流センター) 所蔵 『万葉集』 巻15所収 |
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3810古墳~古代遺物
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3820 |
3821矢立山古墳群 古墳時代終末期
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矢立山古墳群は厳原町下原の地蔵壇と呼ばれ る丘上にある。 4基の古墳からなり、1号墳と2 号墳は段築方墳、3号墳は長方形の積石塚。 各 種の須恵器や土師器、太刀、
鉄刀、 鉄鏃、 銅鋺、 耳環などが出土した。 古墳の形状や銅鏡など の存在から、畿内と強い繋がり持つ者が埋葬 されていることが分かる。 |
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3822鉄刀 7世紀後半 矢立山古墳群 3号墳 石室内部出土
鉄刀 7世紀後半 矢立山古墳群 3号墳 石室内部出土
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3823
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銅鋺蓋と身 |
耳環 |
銅盤(銅製皿)
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保床山古墳出土品
古墳後期
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金銅装大刀部品 |
金銅装大刀 |
鉄刀
サイノヤマ古墳出土
7世紀後半 |
鉄刀
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3827
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4000中世
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4001
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4002
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阿比留氏と神社
The Abiru Clan and Shrines
11世紀初頭から12世紀末にかけて対馬で最も有力であったのが阿比留氏です。 阿比留氏は大宰府に属する対馬の在庁官人として勢力を伸ばしたと考えられています。
その出自については諸説あり、古くから対馬に土着していた豪族の末裔であるという説や、かずさのくに あひる上総国畔蒜郡の出身であるという説があります。
13世紀中頃以降、鎌倉幕府と結びついた宗氏が台頭し、次第に対馬を掌握するようになっていきましたが、阿比留氏は以後も命脈を保ち続け、現在でも対馬市内 で最も多い姓の一つです。
The Abiru clan ruled over Tsushima from the early 11th century to the end of the 12th century. There are various views on their origin. Although the Sō clan replaced the Abiru clan in the mid-13th century, the lineage of the Abiru family has been maintained to the present day. Today, Abiru is one of the most common family names in Tsushima.
11세기 초부터 12세기 말에 걸쳐 쓰시마를 지배하고 있었던 세력은 아비루씨 가문이었다. 그들의 출신에 관해서는 정확하게 밝혀진 바가 없다. 13세기 중엽부터는 소씨(宗氏) 가문이 쓰시마를 지배하게 되었으나 그 이후에도 아비루씨 가문은 명맥을 유지하여 현재도 쓰시마 시내에서 가장 많은 성씨 중 하나이다. |
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阿比留氏と神社
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多久頭魂神社所蔵「梵鐘」銘文
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多久頭魂神社 (厳原町豆酸)
Takuzutama Shrine
史料における阿比留氏の初出は、対馬南西端にある多久頭魂神社の梵鐘の銘文です。 この梵鐘は同社が「豆酘御寺」と呼ばれていた頃に奉懸されたものです。1008(寛弘5)年に、「正六位上権掾阿比留宿祢良家」が鋳造し、1153 (仁平3)年に「正六位上行掾阿比留宿祢良房」が鋳直した と刻まれています。 |
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海神神社拝殿
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海神神社 (峰町木坂)
Kaijin Shrine
対馬中西部にある海神神社は、 平安時代頃には上津八幡宮あるいは八幡本宮と呼ばれていました。 当時は政治と神祇が密接に結びついていたと考えられており、神社に残る古文書から在庁内の勢力を知ることができます。1195 (建久6) 年の史料の写しには阿比留氏3人、藤原氏3人、惟宗氏1人の名が見え、署名の位置などから、鎌倉時代初期までは阿比留氏が対馬在庁の最上位であったことが分かります。 |
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海神神社所蔵「正八幡宮政所下文(写)」
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正八幡宮政所下文(写)
Copy of Formal Notice from the Office of Shōhachimangū Shrines
쇼하치만구 신사 정청 발급 문서(사본)
海神神社拝殿には、 1310 (延慶3) 年の「正八幡宮政所下文」という史料の 写し(左)も伝わっています。 この史料では、人数の面ではいまだ阿比留氏が 多い状況が続いていますが、役職面では惟宗氏が 「正大宮司」に就いて おり、鎌倉時代後期には、 対馬の支配権が次第に惟宗氏(後の宗氏) へ 移りつつあったことが分かります。 |
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4010島主となった宗氏
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The Sō Clan as the Ruler ofTsushima Island
13世紀中頃以降、新たに台頭したのが宗氏です。
その出自は、 対馬の在庁官人である惟宗氏とされ、後に武士化して宗と名乗るようになりました。 宗氏は、 対馬・筑前・肥前などの守護であった鎌倉幕府有力御家人の武藤氏(後の少弐氏)との主従関係を背景に、 対馬で勢力を拡大しました。 室町時代にかけては、 少弐氏 に従い北部九州を転戦する一方、 島内勢力に対する 支配も強化していきました。
また、 朝鮮との外交や貿易 制度の整備にも力を注ぎました。
In the mid-13th century, the Sō clan, a vassal of the Mutō clan (later known as the Shōni clan) which was influential in northern Kyūshū, began to have increasing power in Tsushima. The Sō clan was eager to establish a system of diplomacy and trade with Joseon. |
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4020
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霹靂神社懸仏
鎌倉~室町時代 銅鑄造 霹靂神社所蔵
霹靂神社は、上対馬町の北東部に位置する大 増と浜久須地区の境界にある。 浜久須は舟志 湾の奥にできた集落で、入り江の南に岬が突 き出している。 神社が祀られているのはこの 岬の先端である。 拝殿の直前は海で、背後には 丘陵が迫る。 本殿は丘陵上にあり、横に3基の 箱式石棺墓からなる朝日山遺跡が残る。 |
霹靂神社懸仏
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霹靂神社懸仏
鎌倉~室町時代 銅鑄造
霹靂神社葳
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鎌倉時代 |
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室町時代 |
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懸仏とは、 神仏習合の結果、 鏡面に神像や 仏像などを立体的にあしらったもので、 社寺 に奉納された。 本品は上対馬町霹靂神社に 伝世した懸仏で、当社の懸仏は完形品及び完形
に近いものがあわせて87面ある。 ほぼ全てが 阿弥陀如来であると推測でき、構図も全て 1面1尊の独尊構成をとっている。 |
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鎌倉時代の懸仏は精巧で立体的だが、室町 時代は比較的凹凸が緩やかで丸みを帯びた 造形である。 また、室町時代の鏡板は鎌倉 時代のものに比べて薄く、縁にある擂座 という粒を3・2・3・2の数で繰り返し打つ 形式に特徴がある。いずれの時代も像は 板への打ち付け、もしくは浮彫。 |
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4030海上貿易の中継地
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A Trading Hub along Marine Routes
国家間の正式な通交が途絶えた後も、大陸と日本との間で人々 の往来は続きました。 それを示すように、 対馬の中世遺跡では、 日本本土やアジア各地から流入した様々な遺物が見つかっています。
朝鮮半島や中国大陸以外にも東南アジアで生産された陶磁器 などが確認されており、海上貿易の中継地であった対馬が幅広い 地域と直接的、あるいは間接的に交易していたことが分かります。
交易品をもたらしたのは、 対馬に寄港した貿易船だけではありませんでした。 倭寇の首領で、浅茅湾に本拠地を持つ早田氏や、佐賀など島の東側に基盤を持ち、朝鮮との貿易権益を次第に独占していった島主宗氏など、 島内の有力者たちも主体的に交易活動をしました。
At the sites of medieval structures in Tsushima, various artifacts shipped from Southeast and Northeast Asia, including Japan have been discovered. These unearthed items attest to the fact that Tsushima was a trading hub along marine routes, linking these regions both directly and indirectly.
쓰시마에는 일본 본토와 아시아 각지에서 유입된 다양한 중세 유물이 남아 있다. 중세의 유적에서는 한반도나 중국과의 교역품은 물론 동남아시아에서 제작된 도자기도 발견되었다. 이를 통해 당시의 쓰시마가 해상무역의 중계지로 번성했음을 엿볼 수 있다. |
海上貿易の中継地 |
海上貿易の中継地 |
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遺物出土状況 長崎県教育委員会提供
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大石原遺跡 (上県町佐護)
Oishibaru site
島内最大の沖積平野を流れる佐護川の中流域に立地します。 1995(平成7)年に行われた発掘調査により10棟の掘立柱建物跡が検出され、対馬では初めての中世集落跡の発見となりました。12世紀初頭までの中国大陸産の陶磁器や高麗青磁を含む多数の貿易陶磁器が出土しました。 |
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遺構出土状況
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水崎 (仮宿) 遺跡 (美津島町尾崎)
Mizusaki (Kariyado) site
浅茅湾の開口部南側の尾崎に所在します。 この一帯は早田氏の拠点として知られており、 1419 (応永26) 年の応永の外寇では朝鮮から襲撃を受けました。
出土遺物は朝鮮半島、中国大陸、 東南アジア産の貿易陶磁器が大部分を占め、その他に装飾品や中国大陸で流通していた銭貨も見つかっています。 |
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発掘調査風景
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佐賀の館跡 (峰町佐賀)
Site of Sō Family's Residence in Saka
対馬東岸に位置する佐賀には、15世紀初頭から後半にかけて対馬島主宗氏の居館が置かれました。 当時の宗氏一族の墓が残る円通寺では、境内の周辺で中国大陸や朝鮮半島産の貿易陶磁器、国産の土師器や陶器などが出土しました。
館そのものの遺構は発見されませんでしたが、 館はこの一帯に存在したと 推測されます。 |
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4040 |
4041海上貿易の中継地
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4043
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対馬の中世遺跡は11世紀後半から確認できます。
馬乗石遺跡 (厳原町豆酸)をはじめ、 大石原遺跡 (上県町佐護)、 海神神社弥勒堂跡 (峰町木坂)など中世前期の遺跡からは、各時期の高麗青磁が発見されました。
大石原遺跡では中国大陸産の陶磁器も多く出土しています。 また、海神神社には高麗製の銅鏡や美術的価値の高い青磁などが伝わっています。 |
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対馬の西海岸
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青磁碗(高麗産)
粉青沙器瓶(朝鮮産)
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青磁碗(高麗産) |
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粉青沙器瓶(朝鮮産) |
白磁碗
北宋後半代 |
高麗青磁皿
朝鮮 初期高麗青磁
12世紀前半
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高麗青磁皿
朝鮮 初期高麗青磁
12世紀前半
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白磁皿(中国産) |
青磁碗
(中国龍泉窯系)
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青磁皿
中国 同安窯
12c後半-13c前半 |
瓦器碗(国産) |
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4045
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外海に比べて波が穏やかな浅茅湾は、東アジア海域で活動していた対馬の人々の本拠地でもありました。 水崎 (仮宿) 遺跡 (美津島町尾崎)では瑪瑙製の石帯のほか、対馬の人々の広域な活動の痕跡を示す資料が出土しました。 また、大吉戸神社 (美津島町黒瀬)には高麗製の銅鏡などが伝来し、 仁位宗氏が居を構えた桜町遺跡 (豊玉町仁位)では、貿易陶磁器や国産の土師器などが見つかりました。 |
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水崎 (仮宿) 遺跡から出土した陶磁は、 朝鮮半島産が大部分を占めていることに特徴があるが、東南アジア産の陶磁が含まれていること も注目される。 東南アジアから対馬への具体
的搬入経路は不明だが、 東南アジアや琉球ま でをも含むアジア海域の広範囲の交流の中に対馬を位置づける遺物といえる。 |
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鉄絵盤 (タイ産) |
褐釉碗 (ベトナム産)
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鉄絵碗(ベトナム産)
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水崎 (仮宿) 遺跡から出土した陶磁は、 朝鮮半 島産が大部分を占めていることに特徴がある が、東南アジア産の陶磁が含まれていること も注目される。
東南アジアから対馬への具体 的搬入経路は不明だが、 東南アジアや琉球ま でをも含むアジア海域の広範囲の交流の中に 対馬を位置づける遺物といえる。 |
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瑞平通寶 渡来銭(中国)当三1234年初鋳
大元通寶 渡来銭(中国)当十パスパ文字
1310年初鋳
※モンゴル人の国「元」の貨幣。なので蒙古人の文字で書かれている。 |
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崇寧重寶 渡来銭(中国) 当十 1102年初鋳
慶元通寶 渡来銭(中国) 当三 背「六」1195年初鋳 |
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銙(か)は、 石帯に付ける飾り。 束帯装束に使われる 革帯には金属や鉱物製の鈴が複数取り付けら れるが、石製が多かったために石帯と通称す るようになった。 瑪瑙製は明や朝鮮では用い
られず、日本だけに存在した。 高位の身分にし か保持が許されないもので、所有者として対 馬でも最上級の実力者が想起される。 |
浅茅湾の遺跡
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花文象嵌八角鉢 朝鮮 粉青沙器 15世紀
印花文坏 朝鮮 粉青沙器 15世紀 |
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滑石製石鍋片 日本 12世紀
白磁皿 中国
15世紀前半
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4047
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宗氏は少弐氏や中央政権とのつながりを強固にし、対馬市佐賀や厳原に居を構えました。 これらの地域には、日本本土からのものを含む数多くの文物がもたらされました。 佐賀の館跡(峰町佐賀)、金石城跡や今屋敷家老屋敷跡 (ともに厳原町今屋敷) からは、日本本土や朝鮮半島との交流を示す陶磁器や瓦などが出土しました。 |
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対馬の東海岸 |
今屋敷家老屋敷跡出土品 室町時代~江戸時代 15~19世紀
今屋敷家老屋敷跡出土品
室町時代~江戸時代
15~19世紀 |
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白磁碗(朝鮮)
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花皿 (中国産)
褐釉輪花碗
ベトナムか 14~15c |
佐賀の館跡出土品 室町時代~江戸時代 14~18世紀
佐賀の館跡出土品
室町時代-江戸時代 14-18世紀 |
白磁碗(中国産) |
青磁坏 (中国龍泉窯系)
青磁碗 (中国同安窯系) |
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のぞいてみよう
ケースの穴をのぞき込んで、貿易陶磁器をじっくりと観察してみましょう。
大石原遺跡出土品
島の北西部にある大石原遺跡 (上県町佐護) は、 対馬で最初に見つかった中世の 集落跡で、 中国産の陶磁器をはじめとす る豊富な遺物が出土しています。
一帯を 治めた有力者の名前は伝わっていません が、貿易商往来の拠点として繁栄した当 時の姿がうかがえます。 |
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4050
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『海東諸国紀』 に描かれた対馬
Description of Tsushima in the Haedong Chegukki
『海東諸国記』は、1471 (文明3)年に成立した日本と琉球に関する書物であり、朝鮮の外交官である申叔舟 (1417~1475) が王命を受けて編纂したものです。 冒頭には「海東諸国総図」 「日本国対馬島之図」などの地図が収められており、続く本文では、歴史や地理、風俗、
外交 に関する情報が記されています。
対馬を扱った部分では、各浦の名称や戸数、朝鮮への通交者の情報も載せられています。 「沙加浦」(佐賀) の世帯数は五百余戸と記録され、浅茅湾南岸の尾崎地域は4浦合計で七百余戸にものぼる世帯があったと記録されています。
The Haedong Chegukki, records written in 1471 by Shin Suk-ju, a diplomat from Joseon, contains information on the history, geography, manners, and diplomacy of Japan and Ryūkyū (Okinawa). Regarding Tsushima, the records include many place names and the number of households. A map of Tsushima is contained in the records, together with other maps such as those of Japan and Ryūkyū. |
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「日本国対馬島之図」
「日本国対馬島之図」には、対馬の各浦の 名称が詳細に書き込まれ、航路が白線で 示されています。 また、 島の東西を分ける 山地は、「へ」のような記号を連ねて表現されて います。 南北に細長い対馬がこのように大きく 湾曲して描かれた地図は日本でほとんど 確認できず、朝鮮側の対馬に対する認識を 反映したものと考えられます。 |
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『海東諸国紀』 に
描かれた対馬 |
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日本国対馬島之図」 |
日本国対馬島之図」 |
海東諸国総図」 |
東京大学史料編纂所所蔵『海東諸国記』所収 |
「海東諸国総図」
『海東諸国紀』の「海東」とは、朝鮮から見て東の地域を指します。
日本と琉球が描かれた「海東諸国総図」では、対馬や壱岐、琉球は大きさを誇張して描かれています。 |
対馬からの通交者
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東京大学史料編纂所所蔵『海東諸国記』所収 |
対馬からの通交者
日本からの通交者の中には、朝鮮から官職を授かった者もいました。 尾崎地域の通交者として名前の見える「平茂続」もその一人です。 彼は倭寇の首領
「早田」の子として記録されています。 |
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4100青磁獅子形硯滴
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高麗時代 13世紀
幅 6.1cm 高11.4cm 磁器
対馬博物館蔵
13世紀の高麗で制作されたと推定される青磁の硯用水差し。坐した獅子を象る。
韓国西海岸南部で沈没した、元の寧波から博多に向かう貿易船の生き揚げ遺物に類例がある。
本品は対馬北西部の上県町腰高の海岸で採取されたというが、対馬への流入経路は不明。中世アジア海域の活発な交易を象徴する遺物である。 |
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4110
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大方広仏華厳経 卷第五十九
元時代14世紀
縦30.6 11.4
紙本墨刷
Flower Garland Sutra
(Skt. Avatamsaka Sutra
Jpn. Daihōkōbutsukegonkyō), vol.59
Yuan dynasty 14th century
H30.6 W 11.4 Printed on paper with ink
板木で印刷された経典のことを版経という。 10世紀の北宋で初めて作成された版経大蔵経 は高麗等に下賜され、11世紀には高麗版大蔵経が成立した。
日本では、中国や朝鮮半島で作 成された版経大蔵経を輸入した。本資料は、 版経研究で注目される現存希少な磧砂版であると伝えられている。 |
大方広仏華厳経 卷第五十九
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大方広仏華厳経 卷第五十九
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大方広仏華厳経 卷第五十九
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4120朝鮮から請来した仏教文物
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Buddhist Artifacts Introduced from Joseon
室町時代の宗氏当主の貞茂、貞盛、成職、貞国らは、朝鮮から経典や梵鐘を積極的に請来しました。このことは朝鮮の正史である 『朝鮮王朝実録』にも記されており、貞茂らの求めに応じて、朝鮮から大蔵経
(一切経)や各種経典が 贈られたことが分かります。 また、島内の寺社に残る古文書には、こうして請来された経典などを貞盛らが積極的に寄進していたことが記録されています。
Around the 15th century, many Buddhist sutras and temple bells were presented
to the Sō clan by Joseon. According to the Veritable Records of the Joseon
Dynasty, the official record of Joseon history, the Joseon dynasty presented
the Tripitaka (complete Buddhist Canon) upon the Sō clan's request.
15세기 무렵 소씨(宗氏) 가문은 조선으로부터 다수의 불교 경전과 범종 등을 하사받았다. 「조선왕조실록』을 통해서도 조선이 소씨의 요청에 따라 대장경을 보냈다는 사실을 확인할 수 있다. |
朝鮮から請来した仏教文物
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高麗版一切経
宗貞茂や貞盛らが特に積極的に請来した経典が大蔵経(一切経)です。
大蔵経 とは、あらゆる仏教経典の集大成とされる経典で、 5048巻にのぼります。
『朝鮮王朝実録』には、宗氏の求めに応じて計5部の大蔵経が贈られたことが記録されています。
多久頭魂神社に伝来する「高麗版一切経」は、 このうちの一つと考えられています。 |
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対馬に伝来した梵鐘
円通寺 (峰町佐賀) には朝鮮半島製の梵鐘が伝わっています。 細部の装飾に朝鮮の伝統的技法が用いられていますが、 鐘を吊す竜頭と呼ばれる部分は中国の様式で作られているという珍しい特徴を持ちます。 江戸時代の記録により、かつては海神神社 (峰町木坂)や八幡宮神社(厳原町中村) にも朝鮮半島製の梵鐘が懸けられていたことが判明しています。 |
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4130 和鐘と朝鮮鐘、和韓混交鐘
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本梵鐘は、朝鮮鐘の意匠を取り入れて日本で制作されました。このように、和鐘と朝鮮鐘の特徴を兼ね備えた鐘を和韓混交鐘と呼びます。
和鐘の鐘身には、 縦横に区画された帯状の袈裟襷という文様が ある一方、 朝鮮鐘は袈裟襷を設けず、上帯と下帯の間の広い空間に 乳郭や撞座、そして天人などの図柄が独立して配置されます。
また、 和鐘の龍頭は2尾の龍の頭をつないで吊り具とする 双頭になっていますが、 朝鮮鐘の龍頭は1尾の龍で構成され、 横に旗挿しと呼ばれる円筒形の突起がついています。
梵鐘のどの部分に、 和鐘と朝鮮鐘どちらの影響が色濃く現れているか観察してみましょう。 |
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梵鐘
室町時代 1469(応仁3)年
口径 75.8cm 高139.4cm 銅鑄造
対馬博物館蔵
重要文化財
宗氏10代貞国と仁位郡主家の連名で応仁3年(1469) に仁位の清玄寺に寄進された梵鐘。 朝 鮮鐘の形式を取り入れた日本製の梵鐘であ り、特に全体の美しい意匠に朝鮮鐘の影響を 見ることができる。 鐘身の前後に天人の姿と、その下には目を大きく見開き焔翼を長く伸ばして相対する2匹の龍が前後に配されている。 |
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和鐘と朝鮮鐘、和韓混交鐘
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五十川伸矢 『東アジア梵鐘生産史の研究』 (岩田書院、2016年) 3頁図1を改変
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梵鐘
室町時代
1469(応仁3)年
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4140制限される通交
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Restricted Trade
13世紀以降の朝鮮半島や中国大陸では、 倭寇と呼ばれる武装集団が略奪や私貿易、密貿易を行いました。 朝鮮は彼らを武力で征伐した一方で、 平和な通交者となる者には官職や
経済的利益を与えました。 通交者たちは朝鮮半島南岸の様々な 港に無秩序に来航したため、 15世紀前半に朝鮮は通交を制限 し始め、特定の港にのみ日本からの渡航を許可しました。
こうした通交規制と前後し、朝鮮は倭寇討伐を名目に対馬を攻撃しました。 1419 (応永26)年に起こったこの事件を「応永の外寇」と呼びます。
戦後、 朝鮮との関係を修復した対馬島主の宗貞盛は、文引と呼ばれる渡航証明書の発行を担いました。
文引制度が確立すると、 朝鮮が宗氏を通して通交者の統制を強めるとともに、宗氏は島内での権力を固めました。 |
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『海東諸国紀』に収められた三浦の図
『海東諸国紀』には、日本の船舶の渡航が許可された薺浦 (乃而浦)、 富山浦 (釜山浦)、塩浦の絵図が収められています。
三浦と総称されるこれらの港には、 客館や商館の役割を持つ倭館が置かれ、その周辺に対馬出身者をはじめとする日本人が居住 しました。 絵図には、倭館の近くに日本人の住居群や寺院が描かれています。 |
制限される交通 |
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海東諸国紀に収められた三浦の図
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熊州斎浦の図 |
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釜山浦
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塩浦 |
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4150如来坐像
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上町志多留に伝世した金銅仏。肉〇は穏やかに盛り上がり、小さな螺髪を刻む。顔は丸み を帯び、鍍金のあとが残る頬は膨らみをもつ。
左手は膝上、右手は胸前でそれぞれ第1・3指を 相捻じ、結跏趺坐する。右背面から右膝にかけ て欠失し、木造で補作される。
高麗後期の作と 考えられるが対馬への請来時期は未群。
香炉
如来坐像の像前に供えられていた香炉。火炉部と基台部は銅板による打物仕上げ。これを下垂形と節のある細長い鋳物の竿柱が繋ぎ、
馬上杯状の形となっている。 高麗後期の作と考えられるが対馬への請来時期は未詳。 |
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倭寇と呼ばれた人々
「倭寇」とは、中世に朝鮮半島や中国大陸の沿海部や一部内陸部で活動 した武装集団に対する朝鮮・中国側の呼び名です。
14世紀後半から15世紀前半にかけ、対馬や壱岐、肥前松浦地方などを 拠点とする集団が主に朝鮮半島を襲撃しましたが、朝鮮は投降者への官職授与や宗氏を通じた通交統制によって倭寇を沈静化しました。
16世紀半ば頃には、中国沿海部を中心に倭寇の活動がみられます。
中国で作られた『倭寇図巻』 などの絵巻物には、 倭寇と明軍との戦闘が 描かれています。 この時期の倭寇の実態は、中国人を主体とする密貿易集団と考えられていますが、
明軍の勝利を強調する 『倭寇図巻』では、描かれた倭寇に日本人の特徴が見受けられます。 |
倭寇と呼ばれた人々 |
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倭寇と呼ばれた人々
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倭寇図巻 |
銅鑼を叩く明軍
刀をふりかざす倭寇
矢にあたり船から落ちる倭寇 |
倭寇から過難した人々
明軍が船で倭寇と戦っている場面だよ |
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倭寇図巻(複製品)
明時代 16~17世紀
原資料 縦32cm×横523cm
原資料絹本着色を紙本著色で複製
東京大学史料編纂所蔵
16世紀半ばの倭寇の風俗を描写した絵画資 料。 明代末までに制作されたと推定される。 倭寇の出現、上陸、略奪放火、明軍との戦闘の場 面などで構成される。 |
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4160
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蒙古襲来と宗資国
The Mongol Invasions and Sō Sukekuni
13世紀後半、 元と高麗の軍が二度にわたって日本に 侵攻しました。 これを蒙古襲来といいます。
1274(文永11)年に開始された1回目の侵攻では、 対馬も甚大な被害を受けました。 対馬南西海岸の佐須浦に攻め入った軍勢を地頭代の宗資国が八十余騎で迎えて奮戦しましたが、全員が討ち死にしたといいます。
佐須一帯には、資国ら主従を祀った小茂田浜神社、資国の墳墓とも伝えられる「御首塚」や「御胴塚」 など、 蒙古襲来に関する文化財が残されています。
In the latter half of the 13th century, the allied forces of Yuan and Goryeo attacked Japan twice. Tremendous damage was inflicted on Tsushima in the battle of 1274, in which Sō Sukekuni, the deputy landlord of Tsushima, was killed. Around Sasu on the southwest coast of Tsushima, where the forces landed, there are many historical sites related to the invasions. |
蒙古襲来と宗資国 |
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小茂田浜神社大祭 |
御首塚
下原山腹に所在し、宋資国の首を葬ったと伝えられる。 |
御胴塚
下法清寺境内に所在し、宋資国の胴を葬ったと伝えられる。 |
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4170
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偽を用いた通交
Fake Missions for Unobstructed Trade
対馬島主宗氏にとって、朝鮮との通交は生命線であり、その 拡大を図ることが領国経営においても重要となっていました。 一方、 朝鮮側は通交者が増えることで輸出の負担が増すことになり、1443
(嘉吉3)年には、対馬島主が年間に派遣することができる船の数を50隻に制限する癸亥約条を締結するなど、 次第に通交を制限するようになりました。
そこで、日本から派遣されたのが「偽使」です。 実在の有力者を騙った人物が使節を派遣したり、 架空の有力者の使節を装って通交したりしていました。 このような方法が、定められた派遣船の数を超えて遣使する方法として確立しました。
特に、 文引を発給する 権限を持っていた宗氏は、 その立場を逆手にとり、積極的にこの 偽使を派遣するなど、 「偽」 を用いた外交技術を蓄積していきました。 |
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国書偽造・改竄
中世を通じて偽を用いる外交技術 を蓄積してきた宗氏は、豊臣秀吉 による朝鮮出兵を回避するため、 1590 (天正18) 年に来日した朝鮮 通信使が持参した国書を改竄しま
した。 この改竄された国書には、偽造された朝鮮国王印 (「為政以徳」印)が用いられました。 |
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偽造印
中世の宗氏が派遣した偽使は、正式な使節であることを装うための書契と呼ばれる外交文書を携えていました。 この外交文書は偽造された もので、そこに押された印も、対馬で 偽造した図書(木印)、あるいは、朝鮮 から架空の人物に支給された図書 (銅印)を押したものでした。 |
偽を用いた通交 |
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宮内庁書陵部所蔵
「朝鮮王朝李昖国書」
1590年
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偽造の手口 |
国書偽造・改竄
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偽造印 |
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4200近世 安土桃山時代~江戸時代
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4201対馬藩主とまちづくり
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Lord of Tsushima Domain and Development of Tsushima
16世紀末から17世紀初めにかけての宗氏当主である宗義智は、朝鮮 出兵とその後の国交回復交渉、 そして関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣 などが起こった激動の時期を乗り切り、 初代対馬藩主となりました。
宗氏は実高約3万石 (対馬一円、 肥前田代領など) の外様小藩ながらも、従四位下を授けられ、対馬守・侍従に任じられるのが通例となりました。
3代藩主宗義真 (在位 1657~1692) の頃には、 朝鮮貿易と銀山経営が最盛期を迎え、 まちづくりを行い、江戸幕府からも10万石格を称することを認められました。
宗氏は、 朝鮮との外交と国境警備が家役とされ、唯一の在外公館である釜山の倭館で外交交渉にあたりました。 19世紀後半になると、外国船が接近するようになったため、国境警備を担当する藩 としての役割が高まりました。
Following Japan's invasions of Joseon at the end of the 16th century, Sō Yoshitoshi, the first lord of the Tsushima domain, worked on negotiation to restore diplomatic relations with Joseon. The shogunate government ordered Tsushima domain to engage in diplomatic negotiation with Joseon and to enforce border security. The Tsushima domain had an office in Busan to conduct negotiation with Joseon. The domain came to serve an important role in enforcing border security in the latter half of the 19th century as foreign ships passed into Tsushima territorial waters and external tensions increased. |
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対馬藩主とまちづくり
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対馬藩主とまちづくり
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宋氏家系図
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家系図 |
3代藩主 宋義真
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桟原城の高麗門 |
対馬藩御船江跡 |
馬場筋通り |
大船越瀬戸の堀切 |
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4210巧みな外交戦術
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15世紀に倭寇の取り締まりに取り組んだ宗氏は朝鮮王朝と友好関係を築 き上げました。
倭寇に貿易権を認める懐柔政策に経済を圧迫された朝鮮王朝は日本から の通交者を制限するようになりましたが、宗氏は通交権を得て日朝貿易に おいて重要な地位を確立しました。
「倭寇が悪いことをしないように 貿易権を認めて、商売で利益を得られるようにしたんだよ」
「だから貿易額が 上がっちゃって 経済的に苦しく なったんだね」
朝鮮王朝が貿易制限を強める中、 宗氏は優遇され、 癸亥約条を結びます。 日朝貿易における宗氏の権力はどんどん高まっていきました。ところが、 貿易制限に不満を募らせた人々は三浦の乱を引き起こします。
乱はすぐに鎮圧されましたが、 壬申約条を結び、 宗氏も貿易を制限されるよ うになりました。
貿易の制限によって経済的な窮地に立たされた宗氏は偽造印を用いて偽 りの日本国王使を派遣し、貿易権の独占を図りました。
中世で培った外交技術は近世の対馬藩にも受け継がれていきます。
「偽造印を作ったのは日朝貿易での生き残りを 懸けた作戦だったんだね!」
「ニセモノの日本国王の 使いを出して交渉を 有利にしていたんだね」 |
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「徳有鄰」印 (複製)
室町時代 16世紀 縦6.7 横6.7 高6.5 木製
九州国立博物館蔵
重要文化財
足利将軍の外交文書に国王印として捺されて
いた印を宗氏が偽造したもの。 貿易を制限し
ていた朝鮮と通交するには宗氏は本印を用い て偽りの日本国王使を派遣することで日朝通 交権を維持した。 |
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巧みな外交戦術 |
「徳有鄰」印 (複製) |
「徳有鄰」印 (複製)
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「徳有鄰」印 (複製)
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翻弄される宗氏
宗義智は、天下統一を果たした豊臣秀吉から朝鮮国王を来日させるよう 命じられます。 困った義智は天下統一を祝う朝鮮通信使の派遣を依頼する 秀吉の国書を偽造しました。
「朝鮮国の王様に「来い」なんて言えないよね・・・・・・」
「だから国書を偽造して 「お祝いしてほしい」っていう内容に変えたんだ」
この依頼に応じて派遣された通信使は、 義智が送った秀吉名義の国書 に対する返信を持参しました。 この返信が秀吉の手に渡ると国書の偽造 が明るみに出てしまうため、義智は朝鮮国王の返信を往信の体裁に改ざんしました。
朝鮮王朝との良好な関係を願う義智の努力も空しく、文禄元年(1592)、 秀吉は朝鮮出兵を行いました。
「中世の頃から倭寇を取り締まって 通交権を認められたりして 仲良くしてたのに・・・・・」
「朝鮮国の王様のお手紙を 書き替えてまで平和を願ったけど 結局は戦争になっちゃったんだね......」ba |
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「為政以徳」印 (複製)
安土桃山時代 天正18年(1590) 縦7.2 7.3 高 4.3木製 九州国立博物館蔵
重要文化財
朝鮮国王の印を対馬藩が偽造したもの。 朝鮮国王の参洛交渉を命じられた宗義智は、豊臣 秀吉の名を騙って日本国王使を派遣した。 こ れに応じて「奉復」 と記された返信を持参した 通信使が派遣された。 偽使の派遣が露呈しないよう、国書を返信から往信の体裁に改ざん
するために作成し、使用された。 |
翻弄される宗氏 |
翻弄される宗氏 |
「為政以徳」印
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「為政以徳」印 |
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再び国交回復へ
豊臣秀吉の死後、 宗氏は再び国交回復を求めて奔走します。
朝鮮王朝の提示した国交回復の条件は日本から先に国書を送ること。 これは朝鮮王朝へ従うことを意味します。
「宗氏にとって貿易は重要な収入源だからね 将軍も国交回復には賛成だったみたいだよ」
「朝鮮王朝と貿易できないと 生活が苦しいんだよね」
初代将軍徳川家康がこの条件に応じるはずもないため、義智は家康の 国書を偽造し、江戸時代最初の朝鮮通信使である回答兼刷還使の招致に 成功しました。
「また宗氏が偽造した お手紙にお返しが きちゃったね・・・・・・」
「またバレないように 書き替えるしかないね...」
しかし、この一行が持参した国書は家康の国書に対する返信であった ため、 義智は朝鮮国王の国書を改ざんし、 往信の内容の国書が届くよう に工作しました。改ざんされた国書を2代将軍徳川秀忠が受け取り、国交 が回復しました。
「使節が来たときには 2代目になっていたんだね」
「秀忠に渡した国書は 実はあんまり似てないんだけど バレなくて良かった...............!」 |
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朝鮮国王李訟書契(複製)
朝鮮時代 万歴35年(1607)
縦60.3 横93.8
紙本墨書
京都大学総合博物館蔵
重要文化財
朝鮮国王李訟の国書を対馬藩が改作したもの。朝鮮出兵により断絶した国交を回復させ るため、初代藩主宗義智は初代将軍徳川家康 の国書を偽造した。
これに対して慶長12年 (1607) に派遣された朝鮮国王の使節は回答を 認めた国書を持参したが、先の国書偽造の隠蔽のため、対馬藩が往信の体裁に改ざんした。 |
再び国交回復へ
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朝鮮国王李訟書契
(複製)
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朝鮮国王李訟書契
(複製)
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藩存続の危機!? 柳川一件
2代藩主宗義成と対立した重臣柳川調興が、度重なる対馬藩の国書偽造を 江戸幕府に訴えました。 藩の存続が危ぶまれたものの、これまでと同様に 対馬藩に朝鮮外交を担当させた方が良いと考えた3代将軍徳川家光の裁定により、
義成は無罪、 調興は津軽に流罪となりました。
朝鮮外交は引き続き対馬藩が担うこととなりましたが、 外交文書の作成や 使節の応接のために京都五山から外交僧が派遣されることになりました。
これを「以酊庵輪番制」といいます。
「幕府の命令でお坊さんが派遣されるように なったってことは今までみたいに宗氏が 自由に外交できなくなっちゃったの!?」
「幕府が朝鮮外交を監察するようになったけど 幕府が関わることによって 朝鮮との外交に幕府の権威がついて
宗氏が担当する朝鮮外交の正当性が 認められるようになったよ」 |
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寛永十二乙亥年三月十一日於御前
義成様ト豊前対決之御座配図 (複製)
江戸時代寛永12年(1635) 縦59.2 横88.6
̇紙本墨書
長崎県対馬歴史研究センター蔵
重要文化財
Nationally Important Cultural Property
Seating chart of the presence of the third Shogun Iemitsu Tokugawa, oral proceedings by Yoshinari So and Shigeoki Yanagawa were conducted.(Replica)
Edo period 1635 (Kanei 12)
H 59.2, W 88.6 Ink on paper
Nagasaki Prefectural Research Center
for History of Tsushima Collection
江戸城本丸の大広間で行われた対馬藩の国書 改ざんに関する審理の際の席次が描かれた絵図。
宗家の有力家臣であった柳川調興が2代藩主宗義成の処分を狙って宗家による国書偽造と改ざんの実態を幕府に訴えた。この権力争いを柳川一件という。 3代将軍徳川家光により 調興が流罪となった。 |
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4215清水山城・金石城図(複製)
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清水山城・金石城図(複製)
江戸時代 17世紀
縦240.3 横160.1
紙本著色
重要文化財
長崎県対馬歴史研究センター蔵
清水山城は豊臣秀吉が朝鮮出兵を機に築いたとされる城。 金石城は厳原町今屋敷にある宗家の居館である「金石館」を指す。 清水山城と 同じく朝鮮出兵の際に要塞化が進められたと考えられる。3代藩主宗義真により櫓門などが整備されると「金石城」と称されるようになった。 |
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清水山城・金石城図(複製)
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清水山城・金石城図(複製)
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4220
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志賀窯染付山水文徳利
江戸時代
高14.4 胴径11.8
陶器
志賀窯製。志賀窯は、幕命により宗家が倭館内に設けた釜山窯を引き継ぎ、享保10年(1725) に創業された。 主に御本茶碗を焼いていたが、 寛政年間に入って染付を焼き始め、南京風の ものを作るようになった。
本徳利には、 染付で 干網のある風景、 帆掛船、雁行が描かれている。 |
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4223
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博物学の流行
博物学とは、広義には、動物、 植物、 鉱物などの 自然物の種類や性質、 分布、生態などを研究する学問のことである。 本の出版が盛んになる江戸時代には、薬膳効果での動植物の研究が進められたことを契機として多くの博物学に関する書物が出版されるようになった。
「僕が見たことあるお花かな?」
「鳥の名前はどこかで見たような・・・・・・?」 |
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大和本草
江戸時代 正徳5年(1715)
縦22.2 横16.0
紙本墨刷
貝原益軒著。黒田藩儒であり、 『養生訓』 や 『和俗童子訓』など多数の著作を残している。 「本草」とは薬用になる動植鉱物の総称であり、本書は日本人による本格的な本草書として出版された。
中国の本草書 『本草綱目」の研究と実 物の調査研究の成果であり、 教育普及を目的として漢字かな交じり文で構成された。 |
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絵本野山草
江戸時代文化3年(1806) 縦22.8 横15.7 紙本墨刷
橘保国著。 大坂の浮世絵師である父守国について狩野派の画法を学び、自らも絵師として 絵本の絵を描いた。 本書は絵の手本として、宝暦5年(1755)
に初版が出版された。 序による と、 実際に野山等で写生したものの中から厳選して収録した。 植物の説明については、 百科事典である 『和漢三才図会』
などを参照した。 |
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4230具足
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4240 |
4241
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金石城跡から出土した高麗茶碗
昭和57年に実施された金石城跡の発掘調査で、大量に出土した陶器 があります。 いわゆる 「高麗茶碗」 と呼ばれるものです。
この調査は金石城跡内に計画された厳原町民体育館建設に伴うもの でした。 出土遺物の総計は2183 点です。 陶磁器類は国産品と舶載品が 混在していますが、
計 1776 点の約30%にあたる 496点が高麗茶碗です。 非常に高い割合であることが分かります。 このような遺跡は全国でも類 を見ません。
なお、 496 点のうち332点が高台付の破片 です。ただし、腰・ 胴部を欠くものが多く、 完形品及び完形品に近いものは1点もあり ません。
全形が推定できるものもわずか4点 だけです。
高麗茶碗が金石城跡でまとまって出土し、しかも破片のみという状況 は何を物語っているのでしょう。 背景として、注文茶碗が検品された後 で良品は宗家を通して納められ、
数量や焼き上がりの確認などの報告を 目的に、 検品ではねられた茶碗の高台部分だけを対馬に持ち込むという 仕組みがあったのではないか、と考える研究者もいます。
宗家が手がけた輸出用産業製品は様々です が、高麗茶碗は、受注、製造、販売という 生産と流通の仕組みにまで迫ることができる モノのひとつと言えます。 |
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金石城跡から出土した高麗茶碗
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金石城跡出土高麗茶碗
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金石城跡発掘調查風景 昭和57年(1982)
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金石城跡
中世末から近世にかけて宗氏の居館が置かれた城です。
1528 (享禄元)年に起きた内紛で居館だった池の館を焼失した宗氏14代盛賢(後の将盛) は、 金石原の地に新しく館を建てました。以降、宗氏の居館となったこの館を、1665 (寛文5)年から約5年をかけて3代藩主義真が拡張し、城壁の造成と櫓の建築で城としての体裁を整えました。宗氏はここを金石城と称し、江戸時代を通じて用いました。 |
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4242
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李朝瓦軒平瓦
(滴水瓦)16c
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白磁碗 (朝鮮) |
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灰釉陶器碗 (対州窯)
近世 |
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4243
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金石城跡
中世末から近世にかけて宗氏の居館が置かれた城です。
1528 (享禄元)年に起きた内紛で居館だった池の館を焼失した宗氏14代盛賢(後の将盛) は、 金石原の地に新しく館を建てました。以降、宗氏の居館となったこの館を、1665 (寛文5)年から約5年をかけて3代藩主義真が拡張し、城壁の造成と櫓の建築で城としての体裁を整えました。宗氏はここを金石城と称し、江戸時代を通じて用いました。 |
厳原周辺 近世遺跡地図
厳原周辺 近世遺跡地図 |
小浦佐良山窯跡
小浦窯跡
阿須窯跡 |
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1桟原城跡
2 清水山城跡
3 中村屋形跡
4 対馬藩主宗家墓所
5金石城跡
6 池の屋形跡
7今屋敷家老屋敷跡
8 浜殿神社 |
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立甕窯跡
志賀窯跡
久田増田窯跡
御船江跡 |
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4244
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青花皿 17c中頃か
中国景徳鎮
内面外鳳に
鳥〇状文 |
明青花碗16c景徳鎮
高台内「大明成化年製」
青花皿16c景徳鎮
高台内「〇徳年製」
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肥前染付色絵鉢18c
外側に色絵で〇
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染付栗文皿(立亀窯か)
近世
雑釉陶器碗(対州窯)
近世
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4245
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染付○○荒磯文碗 |
京焼風鉄絵山水図皿
近世
青花碗 景徳鎮 |
染付角皿(肥前)
白磁大皿(漳州窯)17c |
灰釉陶器碗(対州窯)
近世 |
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4246
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4310 |
4311
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御城と下屋敷
ふたつの城
現在の厳原町の市街地には金石城跡と桟原城跡という二つの 遺跡が埋蔵文化財包蔵地として登録されています。
第三代藩主である宗義真が築城した桟原城や中世から宗氏 の居館を置いていた金石城という、二つの 「お城」を巡る 絵図や記録が宗家には遺されており、これを読み解くことで、 それぞれの 「お城」 の機能や城下町整備の様相などをうかがう ことができます。 |
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御城と下屋敷 |
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平成に復元された櫓門
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桟原城跡に残る石垣 |
厳原周辺城郭跡 |
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4313
宋義真肖像
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金石城御櫓門再建
附御広聞御普請記録 |
御城之御櫓門
焼失御再建記録 |
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御城・御屋鋪 |
江戸時代
寛文2年~享保18年
17c後半~18c前半 |
宗家に残る記録の中から、金石城と桟原城に 関する記事を抜き出して集めたもの。それ ぞれを藩が御城と下屋敷に区別して位置付け 藩の公式見解として呼び分けていたことが わかる。居城としての金石城に対し、桟原城 は藩主の日常的な生活の空間と政務を執る 屋敷として機能していた。
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4410 |
4411今屋敷家老屋敷跡
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対馬藩家老の古川氏の屋敷跡で、藩主の居館があった金石城跡の東に位置します。
これまでに、 17世紀後半に起きた大火を契機に設置を定められた屋敷前の3尺幅の溝のほか、長屋門の基礎や整地層 (整地するために持ち込まれた土の層)、
建物跡などが見つかっています。 また、 中世の 遺物包含層や16世紀以降の整地層、 遺構群も確認されて おり、この土地が長期にわたって、利用されていたことが
分かります。 |
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4413
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昭和23年(1948)に厳原町立厳原中学校用地の造成工事中に出土。 「金石城」(厳原町教育委員 1985)で実測図と拓本が紹介された。島根県 安来市広瀬町に所在する月山富田城、熊本県 八代市に所在する麦島城跡、韓国の慶尚左営跡、今屋敷の池神社から出土した軒丸瓦と同笵である。
軒平瓦は灰白色で軟質。凹面に○○を残し、〇縁に直交する継ぎ目が一条ある。凸面全面に青海波文のタタキを施し、瓦当面裏面は布目を有する。瓦当正面はおよそ半月形、重量
5,100g軒丸瓦は灰黒色で硬質。凹面は瓦当裏面まで布痕を残す。玉縁の上辺から9cm下方に釘穴が1個ある。重量 4,769g。 |
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李朝瓦軒丸瓦 |
上に記述 |
染付唐草文碗(肥前)
18c、17c、17c |
灰釉象嵌立鶴文陶器小杯(対州窯)
灰釉陶器小杯(肥前)
染付ねじ花文小杯(肥前or対州窯)
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4415軒平瓦文様
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江戸時代における大阪産の瓦は、生産を幕府御用瓦師の寺島家が主に担っていたとされ る。 享保9年(1724)に大阪で起きた妙知焼と称する大火災以降に大阪産の瓦文様は橘唐草文 に斉一化するが、これ以前の子葉に飛唐草文 を伴うものを祖型橘唐草文と呼ぶ。 県内では 長崎市内のほか金石城跡でも出土している。
軒平瓦の文様で、中心飾りに橘文を配し、左右 が二股に分かれる三葉文下部に萼を持ち、子葉唐草文を伴うものを大阪式軒平瓦と言う。 橘文が定型化する以前の祖型橘唐草文の存続 時期は17世紀後半~18世紀初頭に限定される。 本資料は搦手門西の水路からの出土で、寛文年間の城整備時のものとみられる。 |
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本葺瓦軒丸瓦 近世
本葺瓦軒丸瓦 近世
四つ目結文鬼瓦 近世 |
本葺瓦軒平瓦 |
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今屋敷家老屋敷跡
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対馬藩家老の古川氏の屋敷跡で、藩主の居館があった金石城跡の東に位置します。
これまでに、 17世紀後半に起きた大火を契機に設置を定められた屋敷前の3尺幅の溝のほか、長屋門の基礎や整地層 (整地するために持ち込まれた土の層)、 建物跡などが見つかっています。 また、 中世の 遺物包含層や16世紀以降の整地層、 遺構群も確認されて おり、この土地が長期にわたって、利用されていたことが分かります。 |
今屋敷家老屋敷跡 |
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染付人物文
(対州窯か)
18c~19c |
染付草花皿
(肥前) 17c末~18c初頭 |
染付芙蓉手龍文皿
(対州窯か)
18c19c |
染付草花虫文 (肥前) 17c後半~18c |
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4417
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焼締四耳壷
タイ(メナムノイ)
17世紀前半
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青花鉢17c初頭
中国
カクック陶器
モンスターマスク(〇鉢) |
粉青沙器碗(朝鮮)
15c~16c
白磁刻人物文角形硯滴(肥前) |
本葺瓦軒丸瓦
(刻印瓦「谷川」)
(刻印瓦「市丸」) |
李朝瓦丸瓦
16世紀 |
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4419
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硯 17c前半
江戸時代後期
赤間関硯 日本
裏面に墨書
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白磁刻人物文角形硯滴(肥前)18cか
土師器皿、
刷毛目陶器碗(肥前)
17c末~18c初頭 |
燈明皿 近世 |
擂鉢(備前)17c |
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4430 |
4431志賀窯跡
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Site of Shika Kiln
志賀窯(厳原町久田道)は対馬藩の御用窯で、江戸時代に 厳原一帯に開かれた窯の一つです。 1725 (享保10)年に 開業の許可を巡る藩庁の申し渡しがありましたが、
その後、断続的に100年以上も営まれ、 主に手本をもとにして焼く御本茶碗を生産しました。 |
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志賀窯跡 |
象嵌竹管文陶器碗
17c後半~18c前半
灰釉上字文陶器鉢
17c~18c |
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4433栈原城跡
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Site of Sajikibara Castle
3代藩主の宗義真が築いた城で、江戸時代を通じて政務の拠点として使われました。 1659 (万治2)年と1661(寛文元)年 の大火を契機に城下の整備を進めた義真が、
1660 (万治 3)年から約18年をかけて桟原に築きました。 家中では「お屋形」と称しましたが、 一般的には金石城に対して桟原城と呼ばれるようになりました。 |
李朝雑釉陶器碗
(そば茶碗)(朝鮮)16c |
桟原城跡 |
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粉青沙器碗(朝鮮)
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李朝白磁碗(朝鮮)
17世紀前半
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文字入陶器碗(対州窯)
18c後半~19c初頭 |
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4435
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三島陶器碗(対州窯)
桐文磁器碗 18c後半-19c初頭
底部の破片。一つはスタンプの型押しで文様を付けて白土を埋め込み薄い灰色の釉を掛ける。一つは淡橙色の胎土で見込みに型押しで中央に菊花文を配する。高台は竹の節高台。 |
三島陶器碗(対州窯)
桐文磁器碗
18c後半-19c初頭
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文字入陶器碗(対州窯)
18c後半-19c初頭
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見込みに「上」「中り」「梶山」「想」「勘」「中」「有」
「賀□」などの文字が墨書や鉄釉、彫り込みで 書かれたもの。志賀窯製か。 |
象嵌氷雨文陶器碗
打刷毛目陶器碗 17c末~18c前半
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青磁三足香炉
17c末~18c前半
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灰釉陶器鉢
白釉陶器碗
17c末~18c前半
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矢来文陶器碗
象嵌暦手文陶器碗
17c末~18c前半
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灰釉陶器碗
象嵌立鶴文陶器碗
17c末~18c前半
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4500 |
4501近世対馬を支えた窯業
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厳原にかつて存在していた窯として、小浦皿山窯、久田窯、志賀窯、立亀窯、阿須窯、小浦窯があります。
小浦皿山窯は、 浅川伯教が小浦の皿山に高麗青磁に似た磁器片が出土した古い窯跡があると述べた所ですが、現在、痕跡は確認できません。
付近には陶土に用いられる斜長斑岩が露頭しています。
久田窯は 「宗家文書」 明暦3年(1657) の記事が文献上の初出です。長崎で久田村の製品が朝鮮焼物と称して売られており、対策として藩が焼物の底に「久田」と刻銘する達しを出したというものです。
小浦窯は明治20年頃の開窯です。窯を興した桟原康人はその後、新志賀窯を開窯しました。
立亀窯は港近くの立亀岩の下で寛政年間初期から約半世紀、民間窯として続きました。寛政4年(1792)頃に志賀窯を経営した倉田万兵衛が開きました。19世紀後半まで営まれていたようです。
阿須窯は、志賀窯、立亀窯に代わる藩営の窯として開かれました。安政2年(1855)頃に操業を始めたと考えられています。藩主、宗義和により、国産品の振興を図って進めた殖産興業の一つが阿須の茶碗焼です。阿須窯に呼ばれた職人は伊万里に近い田代領の出身が多く、いわゆる伊万里焼の生産を中心に操業されていたと推測されます。閉窯は文久2年(1862)と見られます。
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近世対馬を支えた窯業 |
志賀窯があったと推定される地 |
窯道具
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※近世窯業は、粘土ではなく、陶石という岩石を砕いて粉末状にし、
成形して造形を作り出すもの。
複雑な構造の海底から隆起した島には、たまたまこの岩石の岩脈が走っていた。 |
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4510展示室内
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4520対朝鮮外交の舞台裏
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Behind the Scenes of Diplomacy with Joseon
室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮は日本に通信使と呼ばれる使節を送りました。16世紀末の文禄・慶長の役の後、両国の関係は一時途絶えていましたが、1607
(慶長12)年に朝鮮が派遣した使節を契機に通交が再開されました。 以後、江戸幕府への使節は将軍の代替わりなどの慶事の際に派遣され、この時を含めて
合計12回に及びました。
使節派遣が再開された背景には、 朝鮮との貿易が生命線であった対馬藩の工作がありました。 対馬藩が徳川家康の国書を偽造して朝鮮に使節の派遣を再開するよう要請すると、それに応える形で朝鮮が幕府に使節を送って国書を渡しました。
ところが、 その国書も辻褄を合わせるために対馬藩が内容を改竄してすり替えたものでした。
その後も国書の改竄は繰り返されますが、藩主宗氏とその家老である柳川氏との 権力抗争により、1635 (寛永12)年に改竄は幕府の知るところとなりました。しかし、 江戸幕府3代将軍徳川家光自らの裁定の結果、 宗氏の地位は保たれ、 対朝鮮 外交は引き続き対馬藩が担当しました。 |
対朝鮮外交の舞台裏 |
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通信使の旅程 |
通信使の旅程
総勢400~500人にのぼる通信使一行の日本最初の寄港地は対馬でした。対馬で歓迎を受けた一行は、対馬藩の案内で江戸を目指しました。道中では諸藩の厚いもてなしを受け、詩文や絵画の交換などの文化交流も行われました。
➀通信使の画員が描いたとされる釜山の風景
②通信使一行に随行し淀川を上る対馬藩の川御座船
③通信使の持参した国書が江戸城大広間で将軍に 差し出される場面 |
通信使の旅程と画員の絵
通信使画員の絵 |
釜山の風景
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通信使一行に随行し淀川を上る対馬藩の川御座舟 |
通信使の持参した国書が江戸城大広間で将軍に 差し出される場面 |
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➀通信使の画員が描いたとされる釜山の風景 |
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③通信使の持参した国書が江戸城大広間で将軍に差し出される場面
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②信使一行に随行し淀川を上る対馬藩の川御座舟
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訳官使の対馬派遣
徳川将軍家に派遣された通信使に対し、 宗家の慶弔や外交問題を処理する ために対馬に派遣された使節を訳官使と呼びます。
最大100人程度で構成され、 1629 (寛永6) 年以降、60回近く派遣されました。 絵図には厳原の府中湊に入港する訳官使船が描かれています。 |
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訳官使の悲劇
1703 (元禄16)年、 宗義真の弔問に訪れた訳官使を乗せた船が対馬北部の鰐浦沖で沈没し、使節一行が全員死亡する事故が起こりました。 犠牲者を偲び、 1991(平成3)年、鰐浦に 「朝鮮国訳官使殉難之碑」が建てられました。 |
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雨森芳洲
雨森芳洲 (1668~755) は、近江国出身の儒学者であり、対馬藩に仕えて朝鮮 との外交を担当しました。 1711 (正徳元)年と1719(享保4)年の通信使来日時に
は江戸まで同行しました。朝鮮通詞の育成に力を注いだほか、実体験をもとに日朝交流の心得を説いた『交隣提醒」を藩主に提出したことでも有名です。 |
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訳官使の対馬派遣
慶應義塾大学文学部古文書室所蔵「朝鮮船入津之図」 |
訳官使の悲劇
朝鮮国訳官使殉難之碑 |
雨森芳洲 芳洲会所蔵「雨森芳洲肖像画」(高月観音の里歴史民俗資料館画像提供) |
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4530
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対馬易地聘礼
日本と朝鮮両国の国書は原則として将軍のいる江戸で交換されましたが、 1811 (文化8)年の通信使は江戸まで 行かず、対馬で国書交換の儀式を行いました。
これを対馬易地聘礼といいます。写真は、この時にもたらされた朝鮮国書と、それに対する将軍の返書の控えです。 その後も通信使招聘は計画されますが、延期が繰り返され、
結果的にこれが最後の通信使となりました。 |
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4540 |
4541朝鮮通信使の行列
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4545
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5000宋氏
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5010宗家文庫史料の調査
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宗家文書とは、対馬藩主である宗家に伝わった史料群で、現在は
島内外の複数の機関に収蔵されています。このうち、特に万松院の境内に 置かれていた御文庫で保管されていた史料のことを宗家文庫史料と いいます。朝鮮との外交や貿易を担当した対馬藩は、対馬藩庁、倭館、江戸 藩邸などの各機関で記録を作成しました。 これらの記録は藩により徹底 した修理や保全がされていましたが、明治以降、このような体制は崩れて いきました。
戦後の新聞報道などを経て、島内外で史料の保存と活用を求める声が高まり、資料館を建設することになりました。 これを機に、 1975(昭和50)年に旧厳原町教育委員会主催で宗家文庫史料の調査が始まりました。
調査員や作業員に志願した地元の有志が研究者と共同し、この調査を 実施しました。 8万点を超える宗家文庫史料の調査は、後に県へと引き 継がれ、
約35年に及ぶ成果が 『宗家文庫史料目録』 5冊、 『対馬宗家文庫 史料絵図類等目録』、そのほか6冊にまとめられています。 |
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対馬に残された宗家文書
下図のとおり、宗家文書は本施設をはじめとして島内外の7機関で保管されています。 その中でも対馬に残された宗家文書は、明治以降、桟原城跡(厳原町桟原)、旧根緒屋敷(厳原町宮谷)を経て、昭和初期に宗家の菩提寺である万松院(厳原町西里)
の境内にあった御文庫へと移されました。 この御文庫に収められたことから、 対馬に残された宗家文書は宗家文庫史料と名付けられました。 |
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5020宗武志と徳恵姫
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宗武志と徳恵姫
1931(昭和6)年5月8日東京にて、 宗武志は、 最後の朝鮮国王であった高宗の娘、 徳恵姫と日本式の 結婚式を挙げました。 結婚後初めて対馬に来島した
際には、記念に二人並んで写真を撮影しました。 長女誕生後に徳恵の病が悪化したことなどにより、 結婚生活は長くは続きませんでしたが、 武志が徳恵に贈った詩にはその愛が綴られています。 |
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宗武志・徳恵夫妻 結婚記念菓子皿 (複写)
昭和時代 昭和6年(1931) 錫、象牙
長崎県対馬歴史研究センター蔵
夫妻の結婚を記念して配布された菓子皿。
専用のケースには錫製の菓子皿と獣角製の楊枝が5人分ずつ納められている。 夫妻の対馬 訪問に合わせて宗伯爵家が準備したものと思 われる。ケースを納めるための紙箱には、墨書
で「昭和六年御結婚御祝ノ印トシテ宗伯爵家 ヨリ下賜ノ御菓子皿」 とある。 |
宗武志と徳恵姫 |
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宗武志・徳恵夫妻
結婚記念菓子皿 (複写) |
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宗武志・徳恵夫妻 |
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5030藩から県へ
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1871 (明治4)年7月に廃藩置県が行われ、対馬は 厳原県となりましたが、わずか2か月後に佐賀県と 合併して伊万里県となり、翌年5月には長崎県に 編入されました。この年に釜山 の倭館は外務省に引き継がれ、朝鮮との外交を担っていた対馬の役割は終わりました。 |
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布令書 (複写)
明治時代 明治4年(1871)
21.3×横29.0 cmn
紙本墨剧
明治4年(1871)9月に太政官から発令された管轄替えについて伝える行政文書。布令とは法令等を一般に広く知らせることである。本布令 書からは、佐賀県庁を伊万里へ移転し、 佐賀県 が伊万里県と改称され、厳原県と合併したことが分かる。 廃藩置県によって対馬が厳原県となったわずか2か月後のことであった。 |
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5040対馬沖海戦
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日露戦争中の1905(明治38)年5月27日、対馬沖海戦(日本海海戦) において上対馬の沖合で撃沈 されたロシア帝国海軍の戦艦の乗組員が対馬に上陸
しました。対馬の人々は負傷兵たちを収容し、看護した ことで、後日ロシアから深く感謝されました。 対馬の 人々の温かい心を象徴する出来事です。 |
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珠丸の海難
対馬から福岡に向かう客船珠丸の沈没は、対馬 海峡で起きた500人以上もの犠牲者を出した海難 事故です。1945(昭和20)年10月14日午前9時頃、 珠丸は、日本海軍が設置した機雷に接触し、瞬く間に 多くの乗船者を巻き込みながら海底に消えていき ました。 これも戦争が引き起こした悲劇といえます。 |
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船体蝕雷沈没報告書 (複製)
昭和時代 昭和20年(1945)
縦25.7 x 横 18.1cm
紙、インク
九州郵船株式会社蔵
珠丸の沈没事故報告書。 終戦後、唯一対馬と本土を繋いでいた連絡船である珠丸は、昭和 20年(1945)10月8日、 比田勝にて321名、 厳原に て377名の船客を乗せ、天候回復を待って同月14日午前6時15分に厳原を出港した。 機雷を 警戒して航行したが、 同日午前9時頃、 機雷に接触して1分半ほどの間に沈没した。 |
対馬沖海戦
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殿崎に建立された
日本海海戦記念碑 |
珠丸の海難
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船体蝕雷沈没報告書 |
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5050初の総合学術調査
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1951(昭和26)年7月から8月にかけて、八つの学会 が連合し、対馬共同調査委員会を組織しました。 そして共同で大規模な対馬の自然と人文に関する
総合的調査を行いました。翌年にはさらに一つの 学会を加えて調査が続けられました。これは対馬に とって明治以降初の近代的学術調査でした。 この
調査には、後に離島振興法の成立に尽力する民俗学者宮本常一も参加しました。 |
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「人文」 第1号 (複写)
昭和時代 昭和26年(1951) 縦21.1 x 横 14.8cm
紙、インク
昭和26年(1951)に創刊された学術雑誌。第1号では、 特集 「対馬調査」と題して、対馬で行われ た総合的な学術調査とその総括となる座談会
の報告を掲載している。 この調査は、昭和25年 からの2か年で、地理学、人類学、民族学、 考古 学、民俗学、社会学、 言語学、宗教学、 心理学の
九学会が連合して行った。 |
初の総合学術調査 |
人文 第1号 |
人文 |
対馬共同調査の一幕 |
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5060
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離島振興法
長崎県と他4県による法制定運動が展開され、 1953(昭和28)年に離島振興法が成立すると、 対馬においても道路や港湾の整備が飛躍的に進め られました。
この年に全国離島振興協議会が設立され、翌年には民俗学者宮本常一が初代事務局長に就任しました。 |
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朝鮮通信使行列の再現
毎年8月に開催される対馬厳原港まつりでは、朝鮮通信使行列再現しています。 この催しは1980(昭和55)年に始まり、対馬市民や韓国の舞踊団などが参加しています。対馬で始まった行列再現は、現在では朝鮮通信使に関りのある各地域で行われています |
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庄野晃三朗氏による手記(複写) 昭和時代昭和後期
朝鮮通信使行列振興会 (当時は李朝通信使行列振興会) 初代会長、そして行列再現の立役者である庄野晃三朗氏による手記。本手記からは、現在まで続く朝鮮通信使行列再現がいか にして始まったか、 氏の熱意の強さ、そして 様々な方の協力があってこそ実現した行列再現であることを窺い知ることができる。 |
離島振興法 |
しま |
朝鮮通信使行列の再現
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庄野晃三朗氏による手記(複写) |
庄野晃三朗氏による手記(複写) |
第1回朝鮮通信使行列再現
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5070
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対馬市誕生
1999(平成11)年に合併特例法が改正され、政府によって市町村合併が推進されました。これにより、全国で多くの市町村が合併していく中、上対馬町、上県町、峰町、豊玉町、美津島町、
厳原町の6町も 合併し、 2004(平成16)年3月1日に対馬市が誕生 しました。対馬市は、壱岐市と並んで、平成の時代に 合併によって誕生した長崎県内最初の自治体です。 |
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発掘された日本列島2023対馬会場
2000地域展示
※コフノサエ=コフノ𨺉
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平常展示企画展 地域展示2 (対馬の発掘史、過去の発掘報告写真閲覧)
2010対馬の発掘史
―交流の島を解き明かしてきた 考古学の歩み―
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2012
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2014
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発掘された日本列島2023
対馬の発掘史
―島の歴史を解き明かしてきた考古学の歩み―
地域の歴史や文化を解き明かす学問のひとつに考古学があります。
対馬は国境の要衝であり、太平洋戦争終結まで全島が要塞地帯として位置づけられ、様々な規制下に置かれていました。そのため、測量や写真撮影などは禁じられ、学術調査を行うことはできませんでした。戦争が終わり、厳しい規制が解かれたことをきっかけに、昭和23年(1948) の夏に初めて学術的な調査を全島に渡って行ったのが、東亜考古学会でした。
対馬の調査は京都大学文学部教授の梅原未治が隊長となって実施され ました。この調査で、島内に所在する遺跡の全容がようやく明らかになったのです。
昭和25年(1950) 7月から8月には地理学、人類学、民族学、 考古学、民俗学、 社会学、 言語学、宗教学の八学会が対馬共同調査委員会を組織し、自然と人文に関する大規模な学術調査を実施しました。
翌年には、心理学会を加えた九学会連合で調査を行っています。
これ以後も多くの調査が行われてきました。 学術研究はもちろん、開発工事や保存整備に伴う発掘調査も各地で実施されています。 原因や目的は様々ですが、いずれもその成果によって縄文時代以降の対馬という 地域、社会の姿を明らかにしてきたのです。
この企画では、こうした発掘による調査の歴史を辿ることにより、成果 を知り、考古学という学問の持つ力、重要性について理解を深めていた だきたいと考えています。
EXHIBITION OF EXCAVATIONS IN THE JAPANESE ARCHIPELAGO |
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記録 調査・研究履歴 1
◆古代から近代まで
➀弥生時代
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◇3世紀後半 |
「魏志倭人伝」 陳寿 「三国志」 「魏志 (魏書)」 巻三十 |
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「烏丸鮮卑東夷伝」 「倭人」 条 |
②古代~近世以前
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◇『隋書』、『古事記(津島)」、 『旧事本紀」、 「日本書紀 (対馬)」等
◇「海東諸国記」 (1471) |
③近世~明治期
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◇元禄12年(1699) |
陶山訥庵 『津島紀略」 |
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◇享保8年(1723) |
藤定房 「対州編年略」 |
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◇文化6年(1809) |
平山東山 「津島紀事』 「厳原町久田ハゲノサエ出土銅矛/久根浜出土箱式石棺」 |
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◇明治10年(1877) |
「明治十年神社調」 「厳原町久根田舎所在銀山上神社所蔵 広形鋼矛・中広形銅矛・小形仿製鏡・銅斧」 |
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◇明治40年(1907) |
上県町佐護白岳遺跡:銅剣・銅釧把頭飾等を当時の佐護小学校長原友一郎が生徒とともに発掘。
ほかに弥生土器や陶質土器なども発見。 遺物は一部を原が所有し、一部を小学校に置いた。
後に鳥居龍蔵の手に渡った東京大学所蔵品を除き、現在は所在不明。遺構や出土状況は不明 |
◆近代以降
④大正~昭和初期
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◇大正2年(1913) |
谷井濟一が山城調査 |
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◇大正5年(1916) |
鳥居龍蔵が島内踏査。 朝鮮からの帰途、船で佐須奈に上陸。
浦田正雄の案内で上県町佐護白岳遺跡・同町志多留千人塚・万人塚・野田安治発見の大将軍山古墳 志多留貝塚を訪問 |
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◇大正10年(1921) |
佐護のクビル遺跡から銅矛4点と銅が発見。 後藤守一が「考古学雑誌」に「對馬國上県郡佐須奈村発掘品」として発表。
大正11年に現地を訪れて調査。 巡った各地の遺跡の結果を「對馬替見録」 で報告 |
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◇高橋健自・梅原未治が 「考古学雑誌』 『史林』誌上で対馬出土の青銅器を巡る論考
◇昭和7年(1932) 中山平次郎・ 藤田亮策が峰町三根でガヤノキ遺跡を調査 |
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記録 調査・研究履歴 2
◆終戦後の第1期本格的調査―昭和20年代後半以降―
⑤昭和30年代以前
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◇昭和20年(1945) |
終戦 |
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◇昭和23年(1948) |
東亜考古学会による島内遺跡悉皆調査 |
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◇京都大学文学部 |
教授の梅原末治を隊長とする、 島内全域に及ぶ初の遺跡実状調査 |
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◇昭和24年(1949) |
東の浜遺跡発掘調査 |
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◇昭和25・26年 (1950・51) |
九学会連合対馬共同調査委員会事業として志多留貝塚、大将軍山古墳を日本考古学協会が調査し、駒井和愛・三木雄が発掘 |
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◇昭和27~29年 (1952~54) |
曽野寿彦・増田精一が地元研究者と対馬遺跡調査会を組織し各地の遺跡を発掘 |
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◇昭和27年(1952)
◇昭和28年(1953)
◇昭和28年(1953)
◇昭和29年(1954) |
中道遺跡、皇后崎遺跡発掘調査
「対馬 玄海における絶島, 対馬の考古学的調査』刊行
志多留貝塚第3次調査
吉田遺跡発掘調査 |
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◇昭和30年代後半期 |
永留久恵・阿比留嘉博を中心とする対馬郷土研究会の手で 分布調査等を実施 |
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◇ 昭和39年(1964) |
新対馬島誌委員会編集 『新対馬島誌」刊行 |
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記録 調査・研究履歴 3
◆終戦後の第2期本格的調査 ―公共工事に伴う発掘調査/昭和40年代以降―
⑥昭和40年代以前
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◇ 昭和41年(1966) |
唐崎遺跡清掃調査 |
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◇ 昭和42年(1967) |
唐崎遺跡発掘調査 |
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◇ 昭和43・45年(1968・70) |
浅茅湾沿岸遺跡緊急調査(真珠養殖事業等開発工事のため) |
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◇ 昭和43年(1968) |
島山赤崎遺跡発掘調査 |
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◇ 昭和43年(1968) |
玉調涌五次郎遺跡発掘調査 |
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◇ 昭和45年(1970) |
小姓高遺跡発掘調査 (保存目的の緊急調査) |
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◇昭和45年(1970) |
ハロウ遺跡発掘調査 |
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◇ 昭和46年(1971) |
塔の音遺跡発掘調査 |
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◇ 昭和46年(1971) |
住吉平貝塚発掘調査 (宅地造成工事のため) |
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◇ 昭和49年(1974) |
対馬-浅茅湾とその周辺の考古学調査-」 刊行 |
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◇ 昭和49年(1974) |
恵比須山遺跡発掘調査 (河川改修工事のため) |
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◇ 昭和49年(1974) |
ヌカシ遺跡発掘調査 (耕地整理工事のため) |
⑦昭和50年代以降
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◇昭和50年(1975) |
経隈遺跡発掘調査 (公園化計画のため)、木坂遺跡発掘調査 |
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◇昭和50年(1975) |
蒙古塚 (トウトゴ山) 遺跡発掘調査 吉田遺跡発掘調査 |
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◇昭和51年(1976) |
金石城跡発掘調査 (県立対馬歴史民俗資料館建設のため) |
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◇昭和51年(1976) |
越高遺跡発掘調査、 オテカタ遺跡発掘調査 |
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◇昭和53年(1978) |
越高遺跡発掘調査 |
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◇昭和54年(1979) |
ハロウ遺跡発掘調査 |
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◇昭和55年(1980) |
峰町東沿岸地域埋蔵文化財発掘調査 |
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◇昭和56年(1981) |
金石城跡発掘調査 (枡形部) |
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◇昭和57年(1982) |
イノサエ遺跡発掘調査 (道路改良工事のため) |
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◇昭和57年(1982) |
金石城跡発掘調査 (厳原地区体育館建設のため) |
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◇昭和58年(1983) |
コフノサエ遺跡発掘調査 (海岸線道路新設計画のため) |
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◇昭和60年(1985) |
佐賀貝塚発掘調査 (遊技場用地造成工事のため) |
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◇昭和62年(1987) |
かがり松遺跡発掘調査 (保存目的の緊急調査) |
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◇昭和62年(1987) |
中道壇遺跡発掘調査 (道路改良工事のため) |
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◇昭和63年(1988) |
婦石遺跡発掘調査 (範囲確認調査) |
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記録 調査・研究履歴 4
◆終戦後の第2期本格的調査 ―公共工事に伴う発掘調査/昭和40年代以降―
⑧平成期
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◇平成元~3年 (1989~1991) |
出居塚古墳踏査 (県内古墳詳細分布調査) |
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◇平成2年(1990) |
出居塚古墳測量調査 |
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◇平成2年(1990) |
井手遺跡発掘調査 |
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◇平成3-4年
(1991-1992) |
簑島遺跡発掘調査 |
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◇平成5年(1993) |
金田城跡発掘調査 |
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◇平成5年(1993) |
チゴノハナ遺跡発掘調査(公共事業に係る分布調査) |
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◇平成5年(1993) |
夫婦石遺跡発掘調査 |
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◇平成6年(1994) |
上ガヤノキ遺跡発掘調査 (宅地造成のため) |
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◇平成6・7年
(1994・1995) |
桟原城跡発掘調査 (陸上自衛隊対馬駐屯地隊舎建設工事のため) |
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◇平成7年(1995) |
池ノ浦墳墓発掘調査 (美津島漁港修築事業のため) |
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◇平成7年(1995) |
大石原遺跡 (屋敷畑遺跡) 発掘調査 (農道敷設工事のため) |
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◇平成8-9年 (1996-1997) |
水崎遺跡発掘調査 (林道拡幅工事のため) |
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◇平成9年(1997) |
馬乗石遺跡発掘調査 (農道整備事業のため) |
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◇平成9-10年 (1997-1998) |
クワバル古墳発掘調査 (道路改良工事のため) |
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◇平成12年(2000) |
水崎 (仮宿) 遺跡発掘調査 (県緊急雇用対策事業のため) |
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◇平成11-13年 (1999-2001) |
金田城跡発掘調査 |
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◇平成12・13年 (2000-2001) |
矢立山古墳群確認調査(保存修理時のため) |
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◇平成15年(2003) |
金田城跡発掘調査 |
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◇平成9-16年(1997-2004) |
旧金石城庭園発掘調査 |
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◇平成24・25年 (2012-2013) |
今屋敷家老屋敷跡発掘調査 |
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◇平成27-30年 (2015-2018) |
夫婦石遺跡・越高遺跡発掘調査 |
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対馬の発掘史
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記録・調査・研究履歴1 |
記録・調査・研究履歴2 |
記録・調査・研究履歴3 |
記録・調査・研究履歴4 |
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2016
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事例1 佐賀貝塚
1 佐賀貝塚の発見と第1次発掘調査
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昭和28年(1953) 小島匠氏宅の床下に掘られた 「いもがま」 (サツマ イモの貯蔵穴)の土層断面に貝殻や獣骨が堆積しているのが発見された。
昭和29年(1954) 夏、 対馬遺跡調査会が貝塚の発掘調査を行った。 調査は小規模であったが、貝類、 獣骨、 石器、 土器が出土した。 この
中には土器の胎土に滑石が混じった縄文中期の阿高式土器が含まれて いる。 当時としては曲線や直線が組み合わされた文様の阿高式土器の 発見例は峰村吉田に所在する吉田遺跡
(貝塚) があった。
※対馬遺跡調査会
曽野寿彦(東京大学)・増田清一(東京国立博物館)・浦田政男・永留久恵・阿比留嘉博 |
2 第2次調査
発掘調査の契機は昭和60年(1985) 小島氏宅の跡地に遊技場建設 計画が持ち上がったことによる。 峰町教育委員会は、長崎県教育委員会
文化財課に遺跡保存の対応策について指導、助言を仰ぐこととした。 地権者との交渉を終え、峰町教育委員会が事業主体となり、 長崎県教育 委員会文化財課が調査を担当した。
調査は昭和60年4月8日から5月10日までの43日間実施された。
事例1
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佐與貝塚跡地。(現在は住宅地となり、 前方に佐賀浦を臨む)
佐到貝塚近景
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事例2 矢立山古墳群
1 調査の嚆矢
最初の発掘調査は昭和23年(1948)の東亜考古学会によるもので、以後、報告通り円墳と認識されてきた。当時既に 12 号墳ともに開口して おり、中でも2号墳は墳丘と天井石のほぼ全てを失い、
T字形を呈する石室内部がむき出しだった。
2 史跡指定
昭和51年(1976) 4月28日付けで厳原町は1・2号墳の史跡指定を 申請した。 申請後、文部省告示第 182号で史跡の指定を受け、 昭和51年 12月27日付け庁保記第65号で文化庁次長から史跡の指定について 通知された。
3 正体の解明と整備のための調査
福岡大学考古学研究室が平成9年度 (1997) に見学した際、小田富士雄、武末純一の両氏が、 12 号墳ともに方墳の可能性があるという知見を
得た。併せて損傷が目立つことから、 発掘調査と保存修理の必要性を 厳原町教育委員会に提言した。 町教委はこれを受け、保存整備事業に着手 することを決めた。 まずは実態解明と現状把握のため、平成13年(2001)に 福岡大学と共同で1号墳の発掘調査を実施した。 続いて平成14年(2002) に2号墳と3号墳を調査した。
この調査で1.2号墳が九州でも希少な方形段築であり、対馬の古墳 文化及び当時の朝鮮半島と日本との国際関係や情勢を理解するために 必要不可欠な歴史資料であることが明らかになった。
事例2
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矢立山1号(正面から)
矢立山1号( 背面から)
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事例3 金石城跡
1 昭和の調査
昭和51年(1976) に長崎県立対馬歴史民俗資料館の建設に伴い、発掘 調査が実施され、 石垣や側溝などが検出された。 昭和56年(1981) には 枡形部の発掘調査で、溝状遺構や柱穴などが見つかった。 昭和57年 (1982) 厳原地区体育館建設に伴う発掘調査では、文化8年 (1811) 最後の朝鮮通信使来島時に築造した建物遺構が発見された。
2 平成の調査
発掘された日本列島2023
平成2年度 (1990) に開始した 「心字池」 周辺公園整備事業における工事で、平成4年(1992) 2月に櫓跡で石敷き遺構が発見された。
これに起因して7月~9月にかけて厳原町教育委員会が緊急発掘調査を 行い、 東西櫓跡と石敷きなどを検出した。 続いて町教委は金石城跡と 近接の史跡を整備するため、
基本計画を策定し、これに基づいて庭園 部分の範囲確認調査を平成9~16年度に実施した。
3 史跡の追加指定と調査
対馬市は平成 23 年度 (2011) に基本計画策定委員会を設置し、博物館建設に着手した。 市教委文化財課は、かつて御台所門があった 予定地の確認調査を平成24年(2012)に実施した。
平成 25 年 (2013) には同地の土砂掘削と地下構造物解体撤去を行い、 発掘調査 を実施した。 この調査で御台所門を構成する遺構を検出した。
同年、 金石城跡本来の遺構が遺存していると推定された箇所を対象に確認調査 を行い、城の石垣背面に裏込め石を検出した。
事例3
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心字池 (旧金石城庭園) 北西部完状況
御台所門検出遺構 |
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2030佐賀貝塚
佐賀貝塚 |
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調査・土器
石斧・大珠
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骨角器・鹿笛
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柱穴群 |
二号住居跡 |
二号住居柱穴 |
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住居内北壁
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東壁
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土層と旧海浜 |
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1号人骨
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2号人骨
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3号人骨
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4号人骨と礫群
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4号人骨 |
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2040矢立山遺跡
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左:3号墳 右:2号墳 |
石室正面・前庭部 |
二段築成の状況 |
全景
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石室奥壁
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石室入口 |
2号墳 |
2号墳 |
石室前庭 |
石室奥壁
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石室羨道
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3号墳
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第2トレンチ
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第3トレンチ
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石室奥壁
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玄室入り口の遺物 |
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2051コフノ𨺉遺跡
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遺跡地図
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副葬品
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須恵器 |
勾玉・水晶玉
ガラス玉 |
須恵器片
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須恵器片 |
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遺跡周辺 |
遺跡遠景
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調査
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壺出土
7号遺構
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無蓋高坏
第10.11号遺構 |
調査前 |
遺跡近景
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南東から |
遺跡近景・調査 |
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2060大石原遺跡
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調査風景 |
調査風景 |
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調査近景 |
調査近景 |
出土状況
須恵器壺 |
遺物
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遺物
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2070水崎遺跡
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瑪瑙石帯
表裏
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装飾品? |
東南アジア産
陶磁器 |
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遺跡付近
トレンチ土葬 |
遺物・中世墓 |
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大型建物遺構
礎石 |
近世粘土充填ピットと
大型海棲獣骨 |
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2080金石城
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清水山城より厳原市
手前が金石城 |
金石城桝形 |
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桝形
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桝形
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桝形 |
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桝形部遺構 |
排水溝
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金石城にテニスコート |
北背後山地 |
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トレンチ調査 |
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遺構検出状況 |
遺構検出状況 |
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厳原中学校跡地の遺跡 |
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側溝から桶のタガ |
見学会 |
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第Ⅰ期遺構に取り付けられた第Ⅱ期遺構 |
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6000帰路フェリー 対馬 厳原港発15:25➡ 壱岐 郷ノ浦港発17:45➡博多港着 20:10 合計4:45の船旅
対馬
壱岐
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壱岐は一つの島だと思っていましたが、壱岐本島の周辺には地図にも乗らない多数の小島があり、多島海でした。しかもその小さな島が大きな橋で繋がっていたりして、不思議な景観でした。地学的には溺れ谷。対馬と同じように、海面上昇によって水没した多島海のようでした。 |
博多港岸壁
博多港着 |
豪華なクルーズ船 |
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岸壁から間近に
城郭が見えるが名前がわからない |
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