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 北関東の縄文 №1 2021.10.26

 群馬県立歴史博物館 群馬県高崎市綿貫町992-1  027-346-5522月休撮影可
  発掘された日本列島2021 群馬会場
 同時開催
  地域展示 最新群馬の発掘事情

交通 コミュニティバス ぐるりんバス時刻表
特徴 綿貫観音山古墳の埴輪群像馬列など。撮影に一日かかります。
 
 目次


100我がまちが誇る遺跡

110A千葉県市原市国分台遺跡群
111貝層剥ぎ取り 
121展示コンセプト
125土器
131市原市内の貝塚
132多様な貝類・魚類
135石器
137解体・加工された獣骨
138調理跡
151縄文人と海との関わりの始まり
155西広貝塚
167阿高式土器

※考察 阿高式土器
170天神台遺跡
173早期・前期の黒曜石の流通
176貝輪製品
179耳飾の変遷

200B瀬戸内海の水運
201瀬展示コンセプト
211洗谷貝塚の石器・土器
215大門貝塚
217御領遺跡

220御領遺跡 弥生時代
221運び込まれた弥生土器
224土器に描かれた船
225大宮遺跡
227北本庄河床遺跡

230古墳時代・古代
231水陸交通の発展と近畿
との結びつき
233松本古墳
235国成古墳とガラス玉

※考察 ガラス
237宇治島北の浜遺跡
239ザブ遺跡

250中世・近世・近代
251中世の福山
252草戸千軒街遺跡
255鞆中世遺跡
256神辺城下町遺跡

300C大内文化
301展示コンセプト
302上東遺跡
303大内氏以前の山口
西遺跡
305大内文化とは
乗福寺跡
307大内氏の特異な出自
309京都系土師器
313大内氏の経済基盤
315大内氏関連街並遺跡


400新発見考古速報
410縄文時代
420下原洞窟遺跡
423縄文土器
427下原洞穴
450デーノタメ遺跡
453クルミ型土製品
455石棒と耳飾り
459圧痕土器
500下ヶ戸貝塚
504石器・石製品
505土製耳飾
506貝環・土版
507石製装飾品
508亀形土製品
520下ヶ戸遺跡の土器
523異形台付土器
529陰嚢付注口土器
530ミミズク土偶
550古きを守る新しき技

600弥生時代
610四日市遺跡

※考察 大型建物考
613線刻絵画土器
615祭祀土器
640高崎競馬場遺跡
643人形容器
647紅白壺
670午王山遺跡
673帯状円環銅釧
675中部高地系土器
679東海系土器
・南関東系土器

700古墳時代
710志布志湾沿岸地域の古墳群
717異形鉄器・青銅鈴
730牟田部遺跡 
733九号墳石室内出土遺物
735獅噛文帯金具
750下河原崎高山古墳群
7535号墳の石棺内人骨

760古代
770薩摩遺跡

800中世
810大南遺跡
825僧形神立像
830畑間遺跡
835大量出土銭B

840近世
850京都新城・公家町遺跡
860京都左京一条三坊三町

900特集 記念物100年
-次の100年に向けて-
901史跡屋形遺跡
02赤井官衙遺跡群
903山居倉庫
905鈴木遺跡


910史跡名勝天然記念物
911史跡鈴鹿関跡
912史跡舟木遺跡
913史跡湯浅党城館跡
914史跡樫野崎灯台及び
エルトゥールル号遭難事件遺跡
915史跡下岡田官衙遺跡
921史跡久留米藩主有馬家墓所
922小部遺跡
923北谷城跡
924名勝神仙郷
925名勝知恩院方丈庭園
931名勝仁和寺御所庭園
932糸魚川市根知の
 糸魚川―静岡構造線
933天然記念物溝ノ口洞穴 
934伊平屋島のウバメガシ群落

1000地域展
 最新群馬の発掘事情
 旧石器時代
1010三ッ木東原B・C遺跡
 縄文時代草創期
1011小倉丸山砦遺跡
 古墳時代
1030遠見山古墳
1050金井下新田遺跡
1071下里見天神前遺跡
1072反丸遺跡
 古代
1080上野国分寺跡
 中世
1101岩櫃城跡
 近世
1111沼田城跡
 近
1200旧富岡製糸場
 
 00
 10行程
富士山(静岡県)
田舎者だから珍しくて仕方がない。
新潟旅行では気にならなかったが、北関東旅行では気になる 北陸新幹線あさま

東海道新幹線より窓が広くて継ぎ目がある
富士山(東京都?)

美富士は静岡側、埼玉側?って、横から見るのもいいじゃない!
関東盆地を囲む山々
高崎駅付近 関東盆地を囲み、土砂を流して関東平野にした山々が取り巻く。

新潟や東北旅行では全く気にならない風景なのに、北関東旅行ということですごく気になった。
関東平野は、フィリピン海プレートが、北西方向に列島を圧縮しているために盛り上がった海底にできた窪地に土砂が溜まってできた土地。大量の土砂を作った関東周辺の造山運動も、海底に盆地を作ったのも東西圧縮のプレート運動。

山々は盆地を二重に取り囲み奥には石灰岩らしきギザギザの山があった。妙義山だろう。3音年前の南半球の痕跡。
 11外観
県立群馬の森公園
県立近代美術館
元砲兵工廠
県立歴史博物館 四角錘の建築は底面の1/4、高さの1/2しか活かせない構造なので
当然巨大な建築になる。私なら選ばない構造。

しかし、設計者にすれば、歴史博物館ということで、それにふさわしい
ピラミッド型をイメージしたのでしょうね。
 はじめに
 発掘列島2021は、地方会場として、苫小牧市美術博物館、群馬会場でありました。
このうち、苫小牧会場では、北海道唯一の環濠集落が地域展として展示されました。しかし、取材に向かう前に緊急事態宣言で展示打ち切りとなりました。大変残念でした。しかも苫小牧美術博物館は普段撮影禁止なので永遠に撮影の機会を失いました。(前回訪問し門前払いを受けました。)
 群馬県立歴史博物館では、関東地方の古墳時代の素晴らしい展示がありました。発掘列島後に掲示しますのでぜひ楽しみにして下さい。
 


 20発掘された日本列島2021 群馬会場 2021.10.9~11.21


 23入口展示
発掘された日本列島
2021
ポスター 会場入口
埋蔵文化財センター
連絡協議会一覧
列島展を支えています
埋文連絡協議会
日本列島を発掘する
 
 

  ごあいさつ 
 我が国には四十六万ヶ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫と言えます。これは単なる過去の遺産ではありません。それぞれの土地の気候や風土に適応して地域独自の生活を営み、時代を繋いできた私たちの祖先のDNAというべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎と言えるでしょう。
 こうした遺跡を守るため、毎年およそ9千件の発掘調査が行われ、数多くの成果が日々蓄積されています。
文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目された成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成七年から「発掘された日本列島」展を開催しております。

 今年度は装いを新たに、『我がまちが誇る遺跡』と題した新規格を立ち上げます。南北に長く豊かな気候風土をもつ日本列島には、古くから多様な地域文化が花開いてきました。本企画は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の特性や魅力」に目を向け、発信するものです。記念すべき初回は、千葉県市原市、広島県福山市、山口県山口市の三つの自治体を取り上げます。
 毎年実施している『新発見考古速報』では、縄文時代から近世まで、広く注目を集めた十八遺跡を取り上げ、速報展示を行います。

 さらに、特集展示として『記念物一00年・次の一00年に向けて』の展示を行います。我が国にとって歴史上、学術上価値の高い遺跡、芸術上鑑賞価値の高い名勝地、学術上価値の高い動物・植物・地質鉱物は「記念物」と総称され、その中でも重要なものは「史跡」「名勝」「天然記念物」に指定されています。一昨年、史跡名勝天然記念物を保護するための制度である「史跡名勝天然記念物保存法」が施行されて一00年の節目の年を迎え、文化庁ではこれを記念して、「記念物一00年」事業を令和元年度から三ヵ年にわたり実施しています。最終年度となる今回は令和三年三月に新たに指定された史跡・名勝・天然記念物について紹介するとともに、将来を見据えた記念物の保護について考えます。

 今年度、本展覧会では42遺跡、約630点の出土品等を展示します。六月に開会する東京都江戸東京博物館での展示を皮切りに、苫小牧市立美術博物館、群馬県立歴史博物館を巡回します。
 多くの方々が本展覧会をご覧いただき、様々な発掘調査の成果を間近にすることで、我が国の歴史や文化の価値と多様性を感じ取り、発掘調査の意義と埋蔵文化財の保護へのご理解を一層深めていただければ幸いです。
 最後になりましたが、本展覧会の開催に当たり、御協力を賜りました関係各位に深く御礼を申し上げます。


 100我がまちが誇る遺跡

 遺跡は土地に刻まれた歴史そのものです。その地域の人々がそれぞれの時代において、どんな場所に住み、何を食べていたのか、特産品は何か、またどこの地域と交流していたのか。発掘調査の蓄積はこのような地域の歩みを解き明かすとともに、それを他地域と比較することにより、地域の特性なども明らかにします。
 「我がまちが誇る遺跡」は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の個性的な歴史」や「魅力的な遺跡」を、全国の地方公共団体の企画提案により紹介する新企画です。

 今回は縄文時代の遺跡が密集する東京湾沿岸地域の中でも、縄文時代を通じて貝塚が数多く密集する千葉県市原市、瀬戸内海の海流の分かれ目であり、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝であった広島県福山市、そして戦国大名、毛利氏以前に中国地域において最大の勢力を誇った大内氏の本拠、山口県山口市を取り上げました。
 南北に細長く起伏に富んだ日本列島には、古くから多様な地域文化が華開き、その一部は現在にも継承されています。このような個性豊かな地域文化に目を向けることは、日本の歴史や文化の魅力・面白さを「再発見」することにもつながるでしょう。そして本企画が少しでも「地域を元気にする」ことにつながれば、と考えています。

ごあいさつ
我がまちが誇る遺跡
我がまちが誇る遺跡


 110A千葉県市原市国分台遺跡群(千葉県市原市)
     -天神台遺跡にみる縄文人と海との関わりのはじまり-

縄文時代の貝塚の約3割が集まる千葉県。東京湾東岸にある市原の遺跡から、海に育まれた房総の縄文人の暮らしを紹介します。
                  (紹介文は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)

 111貝層剥ぎ取り 
炉穴内に堆積した貝層 千葉県市原市天神台遺跡
※説明はありませんが、住居跡(大きな穴)を貝殻などを捨てる穴にしたようです。


マテガイ・ハイガイ
獣骨・貝ビーズ玉・土器片
炉穴燃焼面 炉穴内に堆積した貝層
 

 120市原市国分寺台遺跡群 縄文時代後・晩期

 121展示コンセプト
縄文時代の貝塚の約3割が集まる千葉県。東京湾東岸にはかつて良好な干潟が広がり、その恩恵を受けて豊かな暮らしを営んでいた生活の証が、貝塚遺跡として県内各地に残っています。
中でも、市原市国分寺台には縄文時代後・晩期西広(さいひろ)貝塚祇園原貝塚など全国屈指の大規模貝塚が集まっていることで知られていますが、この地における縄文人と海のかかわりは、約7,000年前の早期後葉に本格化しました。
天神台遺跡は、海を見下ろす台地上に営まれた早期と前期を主体とするムラの跡です。各時期の発見された遺構や遺物の特徴を比較すると、

「縄文海進」に伴う海域環境の変化が、生活様式やムラの在り方に大きな変化をもたらした様子がうかがえます。
本企画では、このような環境のもと、積極的に海との関りを持った市原の縄文人の暮らしぶりを追い、どの様に定住化が進み、物資や情報が集まる拠点的なムラが誕生したのか、調査研究によって解明した成果を紹介します。

展示コンセプト

上に記述
市原市の紹介
市原市は千葉県のほぼ中央に位置し、市域は東京湾から養老渓谷のある山間部まで及び、
約27万人が暮しています。
市内にある遺跡の数は3,000ヵ所にのぼり、特に奈良・平安時代には国分寺や国府が築かれ、
政治・文化の中心地として栄えました。
また、そこに至るまでにも縄文時代の貝塚や弥生時代の環濠集落、2000基以上にのぼる古墳など、多くの遺跡が確認されています。
   古墳の下から見つかった縄文時代早期と前期のムラ 国分寺台の南西端には、弥生時代から古墳時代の墳墓200余基を有する諏訪台古墳群があり、
その下部から直径200m規模の縄文時代早期と前期のムラが見つかりました。
古墳の下から見つかった貝塚は、この台地に暮す人々が初めて海に繰り出した証です。

天神台遺跡では、縄文時代早期の竪穴建物や炉穴内などに堆積した大小約60ヶ所の貝層が見つかりました。

 125天神台遺跡の土器 早期~前期
縄文早期
条痕文系
縄文前期
羽状縄文系
 126

小型片口土器
 
 130
 131市原市内の貝塚

千葉県国分寺台遺跡群
海へ繰り出す
~貝塚から見つかった海の食材~
市原市内の貝塚分布
約7,000年前の「縄文海進」の最盛期、今よりも気候が温暖で海水面が上昇した市原では、国分寺台西端の崖下まで海が迫り、ハマグリやマテ貝などが採れる良好な干潟が形成されていました。
それまで、豊かな森の中で狩りや木の実の採集を生業とし、不安定な移動生活をしていた縄文人は、早期後半になって定住性を高めるとともに、初めて積極的に海へ繰り出したのです。
動物と向き合う~獣の捕獲・解体・分配、骨の利用~
解体後に廃棄された獣骨
貝や魚以外にも、シカやイノシシなどの大型獣はたんぱく源として重要でした。
狩りで捕えた獲物を、石のナイフで解体し、肉は食材として利用する一方、
毛皮や骨も道具の素材として余すことなく利用しました。

石器製作に伴う石片や切断痕のある骨・角が出土していることから、
ムラでは頻繁に石器や骨角器などの道具が作られていたと考えられます。
また、危険が伴う大型獣の狩りは、近隣のムラと共同で行われていたようです。
山の幸を食す~植物質食料の利用~
 
 市内の遺跡で見つかった炉穴出土の炭化クルミ
台地上にある遺跡では、植物質の食糧は腐りやすく、その情報を得るのは困難です。
しかし、天神台遺跡では、炉穴の焼土から炭化したクルミの殻が多数見つかり、
これらが食糧として利用されていたことが分かりました。

木の実の殻を割り、中身を磨り潰す際に使った石皿、磨石、凹石、敲石なども多数見つかっていて、
中には焼けた状態で出土したものもあります。

使えなくなった道具は、調理施設の部材に転用されることもあったようです。



 132多様な貝類・魚類
早期の貝塚は、ハマグリ・マガキ・マテガイなどの二枚貝、ウミニナ・ツメタガイ・アカニシなどの巻貝からなるため、
当時のムラの近くに比較的良好な砂泥質の干潟があったことが分かります。
また、魚骨として、マイワシ・マアジなどの小魚、クロダイ・スズキなどの大型魚が見られることから、これらの魚が群れ成す豊かな漁場だったのでしょう。
少量ですが、ウミヘビなど、今日では南方に生息する種もあり、温暖な海の様子が推定できます。
また、前期の貝塚は汽水域に生息するヤマトシジミの比率が多くなっており、付近の海域環境に変化があったことが分かります。

多様な貝類・魚類

 動物遺存体
      小型貝類
①ウミニナ②アラムシロ③ツボガイ
甲殻類(カニ)   
魚類
①カレイ類②サバ③マアジ④マイワシ⑤ボラ⑥マダイ⑦マダイ⑧キス⑨カツオ⑩ヒラメ⑪メナダ⑫クロダイ⑬コチ

⑭クロダイ⑮コチ⑯スズキ⑰エイ⑱マダラトビエイ⑲メジロザメ⑳サメ類
貝類 ①ハマグリ②ツメタガイ③アカニシ④ヤマトシジミ⑤アサリ⑥シオフキ⑦マガキ⑧オキシジミ⑨ハイガイ⑩マテガイ

 134多様な貝類・魚類
巻貝組成(早期)
総数9,078
二枚貝組成(早期)
総数446,209
枚貝組成(前期)
総数1,686
魚類組成
総数268

 135石器
剥片石器 石鏃・石匙 石錐・楔形石器
スクレイパー
石槍
 136石器
打製石斧・磨製石斧 環状石斧・石錘
凹石
軽石製品 砥石

 137解体・加工された獣骨
 連接する獣骨部位
獣骨の中には近接した部位ごとにまとまりを保って出土しているものもあり、一定程度かたまりで解体・分配されていたことが分かります。
連接する獣骨部位 解体された獣骨
イノシシ・シカ×2
加工痕のある骨・角
加工痕のある牙(雄猪)
切断痕のある鹿角

ヘラ?(シカ尺骨)
錐(シカ尺骨)
ヘラ(シカ中手・中足骨)

 送り場
獣骨が多く出土する場所はムラの中でも限られていました。
近くから埋葬された人骨が出土する場所もあり、動物や人を含む万物に宿る霊を送る特別な場所だった可能性があります。

送り場
 

 138調理跡

 炉穴
底面に火を焚いた痕跡を持つ不整形の土坑が、複数連なった状態で見つかっています。その数は約200基あり、頻繁に堀り直しされていた様子がうかがえます。土器を使った煮炊きや、獣の肉や魚などを燻製にする際に使われた調理施設と見られます。

炉穴 長軸約2m・幅50cm
片側に焼けた痕跡を持つものが一般的
炉穴の使い方のイメージ(燻製加工)

 集石遺構
14万㎡に及ぶ遺跡全体に、おびただしい量の焼け礫が見つかりました。その総数は18万点、重量にして8.6tに及びます。
土壙内に集中するものも検出されていることから、これらは屋外で肉などを蒸し焼きにするために使ったものと見られます。
こうした調理が頻繁に繰り返されたため、遺跡中に焼け礫が散在する状態になったようです。

直径約1mの範囲に200個以上の焼石が集中
加熱した石を使った調理実験。獣肉の蒸し焼き
縄文早期の土器

 139
磨石 敲石 石皿と磨石 焼け礫
※燻製炉跡
 貫通した二つの穴の燻製炉や、焼石による調理は、九州鹿児島でしか見たことがありません。
南方系のこの調理法は、茂呂系ナイフ形石器同様、丸木舟でやって来た、水没を始めたスンダランドを逃れて来た人々の痕跡でしょうか。  
 
    

 150市原市国分寺台地区の遺跡

 151市原市国分寺台遺跡群
    ~天神台遺跡にみる縄文人と海との関わりの始まり~

市原市~国分寺台地区の遺跡~
市原市歴史博物館
(愛称I'MuseumCenter)
令和4年秋開館予定!
出土した資料を多数展示します。
  上総国分尼寺「法華寺」の墨書土器 「金寺」
上総国分寺軒先瓦
 
 祇園原貝塚
まつりの土器
稲荷台遺跡
稲荷台古墳群 
   
三?台遺跡
人面付土器
稲荷台遺跡
「貞観十七年」
神門3号墳・副葬品 天神台遺跡 貝ビーズ 諏訪台古墳群
盤龍鏡
天神台遺跡
舟絵を描く土器
荒久遺跡
灰釉花文瓶
西広貝塚 貝製装身具
山倉1号墳・人物埴輪 市原歴史博物館
令和4年秋開館
 

 155西広貝塚(さいひろ)
縄文の祈りと祭り
~縄文時代後晩期
西広貝塚~
西広貝塚出土
大量の土偶
物資と情報の交流拠点であるムラでは、自然に対する畏敬の念を込めた「まつり」が行われました。
西広貝塚では、この「まつり」に使われた土偶と石棒の破片が、ムラの中央広場やはずれにある
貝層付近から大量に見つかっています。

離れた場所から同じ土偶の破片が出土しており、儀式で壊した跡に、破片を広範囲に分散させたようです。

物資と情報の交流拠点~縄文時代後晩期 西広貝塚~
南房総の砂浜に打ち上げられたタカラガイとイモガイ
タカラガイとイモガイ
天神台遺跡と同じ国分寺台地区にある西広貝塚は、東日本を代表する縄文時代後晩期の大規模な貝塚を伴うムラです。
東北や九州の特徴をもつ土器、
北陸・北関東・信州産の石器石材、
南伊豆諸島の貝材などがもたらされ、その交換財としてタカラガイやイモガイなど南房総特有の貝材を供給する交流拠点としてのムラと考えられます。

既に早・前期の天神台遺跡にその萌芽が見られ、当地の環境が縄文人にとって良い条件であったことが分かります。
装身具の変化
~貝ビーズから耳飾りへ~
大量の貝ビーズが出土した竪穴建物内の貝層
縄文時代早期の貝塚からは、1,400点余りの貝製品が見つかっています。
直径約4mm、厚さ2~3mm、素材はツノガイを中心に巻貝や二枚貝も使われていますが、共通するのは小型の「貝ビーズ」に仕上げられていることです。
ツノガイは、管状の原材料や未成品も多くあることから、ムラで加工が行われていたようです。
細かい「貝ビーズ」を多量に身に着ける習慣は、縄文時代早・前期に日本列島全域に広まっていました。
ヒト、物資、情報の交流~もたらされた土器と石材~
早期の竪穴建物
前期の竪穴建物  縄文時代早期と前期のムラは、いずれも中央にある広場状の空間を取り囲むように環状に作られています。両者の大きな違いは、早期に屋外に設けていた調理施設が前期には屋内に移った点にあります。また、地元のものとは形や文様、使用した土の特徴が異なる東海産の土器、黒曜石をはじめとする他地域からもたらされた石器石材が見つかっています。生活様式の変化はより定住性を高め、物資と情報の交流を活発にしました。
 

 161西広貝塚
西広貝塚

 162西広貝塚 ―直径150m、最大2m厚の貝層を持つ房総屈指の大貝塚―   「まつり」の道具が局所的に出土?
 ※この遺跡では、遺跡のどこからでも祭具が出土しており、まるで祭祀場のムラのようです。
西側斜面貝層 祭具が局所に出土
石棒・土偶・岩板・土板

土偶・土板・石棒
・中央広場
・東側平坦貝層

 164西広貝塚
貝輪
オオツタノハ貝製
土製耳飾 竹や細い棒だけでこんな造形ができるなんて

 165ヒスイ製玉類
大珠 小玉 未成品 原石
勾玉
 166「まつり」の道具
土偶 土偶 石棒

 167阿高式土器 千葉県市原市西広貝塚出土
縄文土器
阿高式土器あだか
表面赤彩

※考察 阿高式土器
・阿高貝塚は阿高式土器の標識遺跡である。熊本県下益城郡城南町阿高字東原にある。
・九州の縄文時代中期の土器で、太形凹線による入組文・凹点文等を施文する
・阿高式土器様式では滑石を含んで土器全体がにぶい光沢を放ち,ぬめりを帯びた手触りがある。
・ 「阿高式土器の分布」 「九州の貝塚と土器文化
よく似た土器が愛媛県詫間町から出土しています。(縄文中期後半 磨消縄文 このような文様が全国的に広がっていた)
沖縄写真通信詫間町民俗資料館・考古館

南九州の土器が千葉県市原市から出土した理由は、縄文中期の、縄文人が最も活動的だった頃に、南九州から黒潮に乗って太平洋岸を漂う人々がいたようです。そういえば、富山からは北方民族の大量移民の骨が出ているし、北海道の黒曜石がシベリアから出土したり、南海産の貝製品が利尻礼文から出土したり、第一、伊豆諸島神津島の黒曜石を採りに丸木舟で往復していたのですから不思議でもなんでもないことです。
 
 

 170天神台遺跡 縄文早期後葉~前期前葉 ~平安時代まで  千葉県印西市
 171
早期と前期の
ムラの施設配置
東海系土器
阿高式文化人同様、丸木舟で陸づたい航法で進めば必然的に房総半島にぶつかり、天神台遺跡に上陸するようです。
東海系土器
 

 173黒曜石の流通

 黒曜石の産地分析結果に見る物流の変化
天神台遺跡からは、信州や伊豆箱根(和田峠・諏訪・蓼科・天城・箱根)と神津島の黒曜石が多く出土しています。
早期は神津島産が8割以上であるのに対して前期は4割程度です。また、
前期は長野県和田峠産が半数以上を占めることが判明しています。

※和田峠の黒曜石は旧石器時代から発見され、盛んに流通していましたが、千葉県へは縄文前期になってから流通するようになりました。
以前調べた結果では、関東地方は伊豆神津島や箱根産殿結びつきが強く、信州産を受け入れない、流通にテリトリーがありました。
前期に入って信州産が増えたのには、流通への閉鎖的な態度が軟化したり、伊豆箱根産の流通を上回る利点があったのでしょう。
例えば箱根産の資源の枯渇や、神津島への航海の危険などが 考えられます。

黒曜石の産地分析結果に見る物流の変化
早期後葉
神津島産が大半
前期前葉
和田峠産50%
神津島産40%
 174早期 黒曜石
黒曜石製剥片 縄文時代早期 神津島産
栃木県高原山 伊豆箱根
 175前期 黒曜石
長野県和田峠 神津島
 176貝輪未成品
アカガイ製 サルボウガイ製

 177貝ビーズ
二枚貝製平玉 巻貝製玉 ハイガイ製 ツノガイ製玉
(管状・玉状)

 179耳飾の変遷
前期には滑石製など石製の「状耳飾」が大流行します。房総では石材不足を補うため、土製の模造品も作られました。
前期当初は「C」字形のイヤリング状でしたが、
中期に滑車形のピアス状に変化し、
後晩期には大型で華美な透かし彫り装飾を施したものが流行しました。

耳飾の変遷 耳飾の変遷 前期、玦状
中期~、滑車形
土製玦状耳飾
魚類の椎骨を表現
石製玦状耳飾
 
 
 


 200B瀬戸内海の水運(広島県福山市
     -びんごふくやま誕生ものがたり-
遥か先史時代から海上交通の要衝として栄えた福山。なぜこの地が瀬戸内海の水運の要となりえたのか、その歴史を探ります。
                  (紹介文は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)


 201瀬戸内海の水運 展示コンセプト
瀬戸内海は西日本の水運の大動脈として古くから利用されてきました。瀬戸内海の潮流はその中央に位置する福山沖で東西に別れるため、近代以前には瀬戸内海を往来する船は「鞆の浦」で潮待ちのため停泊しました。福山は海上交通の要衝として他地域と結びついて繁栄してきたのです。

さらに、福山市内を流れる芦田川は、瀬戸内海と内陸部を結ぶ水上交通にも利用されました。
そのため、水陸交通の結節点として古代には備後国の国分寺、国分尼寺が置かれ、
中世には芦田川河口に港湾遺跡である草戸千軒町遺跡が成立します。その出土遺物は大陸との活発な文物交流を示しています。そして、
江戸時代には、譜代大名の水野勝成が「西国の押さえ」として福山城を築き、現在の福山の骨格を築きました。

今回は、瀬戸内海が形成された縄文時代早期以降、人々や文物の交流の舞台、そして水運の要として発展を遂げた「びんごふくやま」の歴史をたどります。

※以前取り上げましたが、鞆の浦は「鞆」が地名「の浦」は波静かな入江と言う意味です。「鞆の浦」は「鞆港」で「神戸港」などと同じです。

瀬戸内海の水運
展示コンセプト
上に記述
まちの紹介 瀬戸内海の景勝地
鞆の浦
福山市は広島県南東部、瀬戸内海の東西のほぼ中央に位置します。
陸と海の交通の結節点という利点を活かし、他地域との交流を図ってきました。

かつては古代の備後国として発展し、「びんご」の呼び名が現在も残っています。
市内中央に座する福山城は2022年に築城400年を迎えます。

※福山城は戦後建てられたコンクリート造りの建物です。
ここは瀬戸内海の
「へそ」
 
水陸交通と遺跡の位置の変遷
 
後氷期の瀬戸内海の成立以降、瀬戸内海に東西から侵入する潮汐波は鞆の浦沖でぶつかり、
それまでと逆方向への潮の流れを生み出すようになりました。

また、干潮と、満潮の移り変わりにより1日に4度潮の流れの向きが変わることから、当地域には多くの「潮待ちの港」が誕生することになりました。
海を介して運ばれた
石材
 
洗谷貝塚の
石材集積遺構 
芦田川流域にある縄文時代の遺跡(洗谷貝塚あろうだに御領遺跡)からは、
香川県産の安山岩(サヌカイト)原石が多量の石器と共に見つかりました。
また大分県姫島産の黒曜石も出土しています。

安山岩は集積地に搬入された後、内陸部各地に流通したようです。
このように、縄文時代からすでに舟を使った交流が行われていました。


※縄文時代から東西の舟が行き交う潮待ちの港だったようです。
 

 211洗谷あろうだに貝塚の石器作り ―洗谷型剥片剥離技術―  ※縄文時代 後・晩期の土器が多いが、早・前・中期も発掘されている。
洗谷貝塚を冠して名付けられたサヌカイトを用いた縄文時代の石器作りの方法です。
①原石を輪切りにするように板状剥片を作り、
②この板状剥片の周囲を細かく打ち割って、
矢じり等の素材となる小型の剥片を生産しました。

板状剥片は内陸の遺跡でも見つかっており、洗谷貝塚等に集石されて持ち運ばれたようです。

洗谷貝塚の石器作り-洗谷型剥片剥離技術-
洗谷型剥片剥離技術による石器の生産
①剥片に剥離する
②周囲を調整剥離して小型剥片素材にする
③矢じりやナイフ等に加工する
安山岩製剥片 ①原石の剥離
②原石剥片の調整剥離
③安山岩製刃器
(ナイフ)

 213土器 洗谷貝塚
皿 磨消縄文 J字文
深鉢 磨消縄文は西日本では後期後半以降

J字文は関東地方縄文後期初頭の称名寺式の文様帯で、加曽利EⅣ式のS字文が変化したものです。
浅鉢 磨消縄文
これって
刻目突帯文浅鉢
ですね
発掘された日本列島展の展示目録は買ってません。
もし買うと同書の内容と同じことは、例え私が考えたことでも、書くことが出来ないからです。
 

 215大門貝塚  広島県福山市大門
縄文時代前期 BC4,000年頃、田井式土器や石錘などが出土 

広島県史年表(考古)

 (※田井遺跡は徳島県?)

 瀬戸内海の形成
瀬戸内海の海面は約3~2万年前の最終氷期最寒冷期には今より120mほど低く、陸地化していました。
地球規模の温暖化により、完新世初頭(約1万年前)に瀬戸内海が形成され始め、現在の景観へと変化しました。
『日本書紀』にみえる「日本武尊が吉備に至って穴海を渡り・・・」の「穴海」はその後の沖積化や埋め立てにより陸地化した汽水湖潟湖を指すのかもしれません。

瀬戸内海の形成
1万年前の瀬戸内海 大門貝塚 貝輪
安山岩製石器 刃器 石鏃・石匙・石器片 石鏃・石匙 石器片
姫島産黒曜石

 217御領遺跡 縄文後~晩期 福山市神辺町
注口土器 黒曜石製剥片 安山岩製刃器 安山岩製石鏃
注口土器 安山岩製剥片
 
 
 

 弥生時代


 220御領遺跡
 221運び込まれた弥生土器 御領遺跡
弥生時代以降、御領遺跡や大宮遺跡では四国や山陰、そして近畿などからの搬入土器が多く出土しています。
この地域には水田として利用できる平野部が少ないにもかかわらず、多くの搬入品がみられることは、瀬戸内海の海上交通の重要拠点として、
各地と交流していたためと考えられます、。

運び込まれた土器
縄文後期と現在の海岸線
御領遺跡の環濠
 223御領遺跡の土器
朱が塗られた弥生土器
鼓形器台つづみ 台付小壺形土器
壺形土器
(愛媛県東予産)
線刻付壺形土器
左と同じ土器です
線刻については下に
再度掲載しています
 224土器に描かれた船 御領遺跡
波よけ板等が描かれており、丸木舟のような刳船づくりの船底に舷側板を付けた準構造船と考えられます。また、船室を備えており、交易に用いた船のようです。この土器は、形状や土の成分から愛媛県東予産と推定されます。

※船首部に竪板と呼ばれる波よけ板が描かれており、刳り船づくり(丸木舟)を船底(竜骨)にして、周囲には舷側板を取り付けて浸水を防ぐ、準構造船と考えられます。
※屋形船が描かれた土器は、愛媛県で製作されて持ち込まれた土器です。

土器に描かれた船 土器に描かれた船

 225大宮遺跡 福山市神辺町新湯野

 227北本庄河床遺跡 福山市山手町河川敷内
吉備系壺形土器 畿内系甕形土器 甕形土器 畿内系壺
 


 230古墳時代・古代


 231水陸交通の発展と近畿との結びつき(その1)  
水陸交通の発展と近畿との結びつき(その1)
松本古墳遠景 葺石検出状況  古墳時代中期以降、瀬戸内海の潮目の西側にある松永湾沿岸部には、全長50~70m規模の前方後円墳や導入期の横穴式石室を持つ円墳が出現します。
 これらの古墳は海に面して立地していることから、瀬戸内海交易の一翼を担い、湾岸を納めた首長たちの古墳と考えられます。
水陸交通の発展と近畿との結びつき(その2)
二子塚古墳の
横穴式石室
6世紀から7世紀初め頃、芦田川中流域、後の古代山陽道の近くに
西日本における最終段階の前方後円墳である史跡二子塚古墳が築かれます。
非常に大型の横穴式石室をもち、金銅製双龍環頭大刀柄頭などの豪華な副葬品が出土しています。
また、周辺には古墳時代終末期の横口式石槨をもつ古墳が4基見られます。
どちらも大和王権からこの地が重要視されたことを示しています。
寺院をもつ港湾として発展した古代 
津のつく地名と古代・中世の遺跡の位置 
古代、陸路山陽道には官衙(役所)や寺院が建てられ、沿岸部では海路の門戸が栄えました。
 (※「海路の門戸が栄えた」とは港湾が栄えたの意味らしい。門戸と言う地名はない。)

芦田川沿いには、津宇郷つうごうに関係する官衙遺跡と見られる湯伝遺跡ゆでん遺跡等の物資集散地が点在しています。(津宇郷は尾道市福山市にまたがる沼隈郡で市が違う。)
 (※津宇郷は誤植で、地名の津之郷のこと。津之郷は水運の拠点で、ここに届いた物資を貯蔵する集散地、湯伝遺跡など、が周辺にあり、それを監督する官衙遺跡は湯伝遺跡にあったと言う意味のようです。)
深津には市(いち)が立ち、奈良津は奈良の都から国府へ向かう人の船が着く港として栄え、今もその地名が残ります。(貨物用の舟着き場と、旅客用の舟着場とは異なっていたようです。これは、現代もそうですが、いかに物資の運搬が多かったかがうかがえます。そのために旅客と物資を分けた。)
※この文は最初から一般人には意味がわかりません。

 233松本古墳 福山市神村町松本
松本古墳(県史跡)は、松永湾を望む南北に伸びる穏やかな丘陵の先端部に築かれた古墳です。
以前は直径約45mの円墳あるいは北側に造出部を持つ帆立貝式古墳の可能性が考えられていましたが、(この文は不必要ですがカサ上げにね)
近年の発掘調査によって南西部に造出部をもつ直径約65mの円墳であることが明らかになりました。

松本古墳 松本古墳墳丘形態復元図
縦型埴輪片
家形埴輪片 蓋埴輪片 円筒埴輪

 235国成古墳とガラス玉  古墳時代中期
古墳時代中期の直径約13mの円墳。昭和38年に発掘調査を行い、川原石を敷いた埋葬施設を確認しました。
副葬品として勾玉や玉類の他、珠文鏡や双孔円盤、鉄刀などが見つかりました。

このうちガラス玉8点は、蛍光X線分析によって、4~5世紀初め頃、東ローマ帝国領内で生産されたナトロンガラスであると推定されています。
東ローマ帝国から東南アジアに運ばれた後、日本に流入した可能性が考えられます。

※考察 ガラス
古代ガラスのほとんどは植物灰を混ぜたソーダガラスである。エジプトやメソポタミアなどで使用されていた。
東ローマ帝国内の地中海沿岸で製作されたのがナトロンガラス。 
インドから東南アジアで生産されたのがカリガラスである。(丹後古代の里資料館 ガラス製腕輪 出雲弥生の森博物館 勾玉)
石英と鉛丹をるつぼで溶かしたものを鉛ガラス。(出雲弥生の森博物館 腕輪)

古代ガラスに詳しい論文


国成古墳とガラス玉 埋葬施設
玉類一連 国成古墳
勾玉1・管玉1
ナトロンガラスの丸玉8
二子塚古墳
金銅製双龍環頭大刀柄頭
  

 237宇治島北の浜遺跡 福山市宇治島北の浜
神功開寶
じんぐうかいほう
奈良三彩

 239ザブ遺跡 弥生~平安時代
ザブ遺跡は弥生時代から江戸時代の長期にわたる複合遺跡で、、南は旧山陽道、北側は山地に限られた遺跡です。
みつかった平安時代の土坑から200点以上の土師質土器と緑釉陶器の碗がまとまって出土しました。
人やモノが行き来する流通や交通の拠点であったようです。

ザブ遺跡 ザブ遺跡 土器出土状況 緑釉陶器碗
灰釉陶器(高台付皿)
土師質土器碗


 湯伝遺跡 弥生~古墳時代

緑釉陶器碗
灰釉陶器皿
土師器(製塩土器) 土師器坏 フイゴの羽口
 
 


 250中世・近世・近代

 251中世の福山
瀬戸内海の水運の「へそ」から世界の「へそ」へ
芦田川の中州で見つかった草戸千軒町遺跡
中世、流通の要所は芦田川河口の草戸千軒町遺跡に移ります。
常福寺(現:明王院)の門前町として栄えました。
出土遺物には中国や朝鮮だけでなく東南アジアのものも見られ、国内外の物資が集まった様子がうかがえます。
芦田川の沖積の進展により、草戸千軒はその機能を失い、海運の要は河口の鞆の浦に移ります。
「西国鎮衛」の福山城
駅前で行われる福山城の発掘調査 江戸時代、備後に封じられた福山藩初代藩主水野勝成は、福山が山陽道と瀬戸内海の両方を掌握できる軍事的拠点であることに着目します。
そして、常興寺山に新たな城を築く決断をしました。これが「西国鎮衛」の城、福山城です。
水陸交通の拠点を押さえ、西国鎮護の要としました。
おわりに 鞆の浦の常夜灯 明治時代に鉄道が敷かれると、主要な流通は陸路に移りました。
鞆は港としての役割を終えましたが、今も往時の景観を残しています。
現在、福山市はJR西日本の駅のホームから城を間近に見ることができる街として、
今も流通と・交流の要としてあり続けています。

 252草戸千軒街遺跡  福山市草戸町芦田川河川敷内
 中世考古学の先駆けとも言われる草戸千軒町遺跡は、昭和36年(1961)~平成6(1994)に欠けて大規模発掘調査が行われました。
その結果、芦田川河口部に13世紀中頃に成立し、16世紀まで存続したことが明らかになりました。
集落の西側に広がる丘陵地帯に存在した皇室領の長和荘の年貢積出港あるいは荘園内の市場都市て成立したことが想定できます。

草戸千軒町遺跡 復元された草戸千軒町遺跡の様子
常滑焼甕 瀬戸焼
灰釉鉢
瀬戸焼
東播磨系こね鉢片
 253草戸千軒町遺跡
草戸千軒町遺跡 宋銭
瀬戸焼瓶子・白磁皿
・畿内系土師質皿
灰釉卸皿片
鉄絵壺吉州窯
竜泉窯系青磁碗
鉄絵壺吉州窯
灰釉おろし皿片 灰釉鉢片
鉄釉天目碗片
陶磁器片

 255鞆中世遺跡
鞆中世遺跡 白磁碗 青磁鉢 青磁碗
 256神辺城下町遺跡 弥生前期~  福山市神辺町大字下御領字山王前町
美濃焼(志野向付) 熙寧元宝 中国陶磁器碗
 257福山城跡 江戸時代  福山市丸の内1丁目1
汽車土瓶
姫谷焼絵皿片
汽車土瓶 保命酒(臍徳利)
軒丸瓦
鷹羽紋沢瀉紋
 
 


 300大内文化(山口県山口市)    中世文化
     -京都文化と大陸文化の融合・昇華-
中世、山口に栄華を誇った大内氏。京都や大陸から積極的に文化を受容、昇華して作り上げた「大内文化」の魅力に迫ります。
                  (紹介分は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)


 301大内文化 展示コンセプト
“山口”と言う地名から連想される歴史的事象と言えば、、幕末・明治維新を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
しかし、幕末・明治維新よりも前に、山口が日本史において栄華を誇った時代があります。それが、室町時代です。

室町時代の守護大名大内氏は、山口に本拠を置き、京都や東アジア文化を積極的に取り入れた街づくりを行いました。
大内氏のもと栄えた山口には、京都から多くの公家や文化人が訪れました。
画僧・雪舟もその一人で、史跡及び名勝常栄寺庭園を築いたと伝えられています。
山口市の中心部は、中世の大内氏による街づくりを基盤に、寺社などの建造物、伝統的な祭り、食文化などがありますが、
今回の展示では、遺跡から出土した遺物や遺構を中心に『大内文化』を創出した大内氏についてご紹介します。


 まちの紹介
山口市は、本州の西端の山口県のほぼ中央に位置し、豊かな自然と歴史が共存するまちです。
室町時代に守護大名大内氏の本拠地として発展し、“西の京”と謳われていました。
日本三名塔に揚げられる瑠璃光寺五重塔は、大内氏の歴史文化を今に伝えるシンボルです。

山口市は南北に長く、北は中国山地に、南は瀬戸内海に面しており、面積は県内最大の1,023.23㎢です。
大内氏の館が築かれた、市中央部は山口盆地に位置し、四方を山に囲まれています。
盆地内には、瀬戸内海に向けて椹野川ふしのがわ が貫流しています。

大内文化
展示コンセプト

上に記述
まちの紹介

上に記述
山口市の位置
山口市の地形と河川

 上東遺跡かみひがし (弥生時代前期末~中期前半) 山口市大字吉敷字尻高2756-1
石器や鉄器のほか、在地系の土器を中心に、北部九州や芸予地方の影響を受けた土器も出土した集落遺跡。
他地域との盛んな交流の様子がうかがえます。

上東遺跡
上に記述
石斧、板状鉄製品 砥石



 303大内氏以前の山口  室町時代以前
山口は山陰・山陽の結節点として、また、日本海を挟んで朝鮮半島も近いことから、古来より各地との活発な交流が行われていました。
中世以前は、耕作に適した沖積低地に集落が築かれましたが、大内氏の館設置により、扇状地上に位置する館周辺の都市化が進みました。

大内氏以前の山口
沖積低地に立地する
上東遺跡

 西遺跡 縄文時代後期~中世 山口市黒川大江
古墳時代中期の竪穴住居からは、土師器や初期須恵器のほか、多くの滑石製模造品が出土しています。
滑石製模造品の組み合わせから、近畿との関係が指摘されています。

西遺跡の石製模造品
西遺跡
 石製模造品    有孔円盤 盾形   剣形  
須恵器 坏蓋・坏身 ハソウ
飾磨郡因達郷 秦益人の石

飾磨郡因達郷は、現在の兵庫県姫路市。秦氏は東大寺領に関与した一族で、東大寺の荘園であった山口市小郡に派遣された可能性を示しています。文字の特徴から奈良時代中頃のものと考えられます。

※姫路の秦氏は現在も姫路市在住です。
びっくりですね。奈良時代から現代まで同じところに住んでいるとは。
東大寺関係者とある通り、現在も寺院関係者です。

 305大内文化とは
室町時代に中国地方西部から九州北部を支配した守護大名大内氏は山口に館を置き、城下町を築きました。
京都から文化を積極的に受け入れるとともに、東アジアを中心に広く国際交流を行い、多様な文物・人・習慣を受け入れ、
『大内文化』と呼ばれる独自の文化をつくりだしました。

 史跡大内氏遺跡附凌雲寺跡と大内氏関連遺跡
史跡大内氏遺跡附凌雲寺跡は、居館跡の「大内氏館跡」、大内教弘(築山殿)の別邸と伝わる「築山跡」、大内氏最後の当主、義長築城の「高嶺城跡」、大内義興の菩提寺の「凌雲寺跡」からなります。

大内文化とは 大内氏時代の
山口古図
史跡大内氏遺跡附凌雲寺跡と大内氏関連遺跡

 乗福寺跡
乗福寺跡
軒丸瓦 鳳凰文
鳳凰文
滴水瓦 龍と鳳凰
道具瓦 鷲頭 わしず 雑物 ぞうもつ
龍頭 りゅうず

 307大内氏の特異な出自
室町時代の武士が“源平藤橘”にルーツを求める中、大内氏は祖先を百済王と自称し、多々良(たたら)姓を名乗りました。
菩提寺の一つ、乗福寺跡からは多くの朝鮮系瓦が出土しました。朝鮮系瓦は、14世紀後葉に製作されたものと考えられます。
この時期、大内氏は朝鮮との通交貿易を積極的に展開しており、朝鮮王朝との関係性の深さを示すため、菩提寺を朝鮮風に荘厳化したと考えられています。

大内氏の特異な出自

 大内氏館跡
 在来系土師器と京都系土師器
在来系土師器は、ロクロ成形で作られています。
器壁が薄く、古いものは表面をなで消して仕上げますが、あたらしくなるにつれロクロ目を残したままとなります。
これに対して今京都系す土師器は、手づくね成形で作られ、ぽってりとした厚手の器です。

 ※在地系ではなく在来系。これまでの系統。という意味。それに対して京都系はわざと手び練りで作った土器。

在来系と京都系土師器
在来系土師器
耳皿、皿
ロクロ目なし(表面なで消し)
ロクロ目つき

 309京都系土師器
 京都文化の積極的導入
大内氏は京都を模したまちづくりをすすめました。
館跡で見つかった枯山水庭園は、京都大徳寺大山院庭園との類似性が指摘されており、当時の最先端の庭園様式を導入していた様子がうかがえます。このほか池泉庭園は規模の大きさから、大人数で鑑賞する庭園と考えられ、庭園の近くには、儀礼や饗宴の場である「会所」と呼ばれる建物があったと推測されています。

 大内氏のおもてなし料理
廃棄土坑から食器と共に出土した食糧残滓(魚や鳥の骨)や文献に残る宴の記録から、当時のおもてなし料理を復元しました。

京都系土師器
京都文化の積極的導入
復元された大内氏館跡の枯山水庭園
京都系土師器 大内氏のおもてなし料理

 京都系土師器 (京都土師器をまねたもの)
京都系土師器 金箔貼付皿 耳皿(箸置き)
タコ・コイ・アワビ


 大内氏のおもてなし
館跡の北東部では、蔵や台所、廃棄土坑(ごみ穴)が見つかっており、日常生活の場と考えられます。
廃棄土坑は、直径約2m、深さ約40cmの規模で、約1,500点もの土師器(から分け)が出土しました。
これらは出土状況から一度に捨てられたものと推測され、盛大な宴が催されていたことを示しています。

※自治体のゴミ回収が始まるまで、ゴミは自宅で処分していました。
腐るものは畑に捨てる。壊れた陶器や瓶は敷地内に穴を掘って埋めたり、壊れていない瓶などは縁の下にほりこんだり、最も多かったのが、
集落の人々が昔から決まった場所、川の土手の(誰かが決めたのでなく、誰かが捨て始めて、みんなもそこに捨てる、それが延々と続いている場所)に捨てていました。大雨が降ると、流されて下の方は奇麗になくなっていました。

 昔のお屋敷の端の方を掘ると、必ず壊れた陶器などが出て来ました。大内氏もカワラケなどをそのように処分したのでしょう。
儀式など、新品を一度しか使ってはならないものは、そんなふうに処分しないと、下男などが 持ち帰って使うと、意味がなくなるから。

大内氏のおもてなし 大内氏館でみつかった土師器の廃棄土坑

 311瓦質土器
すり鉢
炮烙ほうらく
これ、把手付
土師質土器鉢 瓦質土器 足鍋

 313大内氏の経済基盤
 <1>
大内氏は日明貿易や朝鮮通交を通じて文物や技術を広く取り入れ、富の基盤としました。
朝鮮半島から求めた大蔵経や、中国から手に入れた唐物を朝廷に献上することにより、政治的、経済的な影響力を大きくし、社会的な求心力を向上させました。
 <2>
大内氏関連街並遺跡は、周辺の集落遺跡と比較して、遺構・遺物ともに数量が多く、その種類も豊富です。
中には、鉄以外の金属である金・銀・銅を加工する際に用いられた遺物も含まれており、石見銀山の開発に関わっていた大内氏が、
本拠地山口でも非鉄金属生産をおこなっていたことを示しています。

 大内氏の滅亡 ~1557年
1551年家臣陶晴賢は大内義隆を滅ぼし甥の義長を擁立したが1555年毛利元就に敗れ大内義長死亡。1557大内氏滅亡。
大内氏滅亡後、館跡は大内義隆の菩提寺となりました。
毛利氏の統治になり居城が山口から離れると、山口は政治の中心都市から、町人のまちへと変化しました。
幕末に長州藩の藩庁が萩から山口に移ったことにより、再び政治の中心地となり、以後、県庁所在地となります。

大内氏の経済基盤1 京都文化と大陸文化の融合・昇華 大内氏の経済基盤2 大内氏関連街並遺跡石敷き礎石建物
大内氏の滅亡 現在の山口市
 314
土師器皿 土師器皿 内面に鉄滓・金粒付 内面に鉄滓・銀粒付
内面に鉄滓・銅粒付 羽口、坩堝るつぼ 陶器(葉茶壷) 高麗青磁(鉢)
青磁(酒会壺)
華南産 葉茶壷

 315大内氏関連街並遺跡
骨角器
耳かきor匙
廃材、用途不明
銅製品 分銅 かぎ
石製品 すずり 判子はんこ
 316
肥前磁器・肥前陶器
土師器 皿
焼塩壺
 
 


 400新発見考古速報

近年発掘された遺跡や成果がまとまった18遺跡について、速報展示します。発掘調査によって、次々と新たな史実が解きあかされていることを紹介します。
                  (紹介分は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)

 401
出品遺跡
出品遺跡の年表


 410縄文時代


 420下原洞窟遺跡 したばるどうけついせき 
種類:洞穴遺跡 
  時代:貝塚時代前1期~前3期(縄文時代前期~中期)
  住所鹿児島県大島郡天城町大字平土野2691-1 (徳之島町)

 421
下原洞穴遺跡
鹿児島県徳之島天城町
どんな遺跡? 遺跡遠景

 どんな遺跡?
奄美大島の南に浮かぶ徳之島の西部に位置する遺跡です。付近一帯は石灰岩からなる段丘が発達しており、海岸から約500m離れた標高約90mにある鍾乳洞から、人々の生活の跡が見つかりました。
くわしくみてみよう  洞窟入口から内部を臨む
 
 くわしくみてみよう
これまで奄美群島では約7000年前の「南島爪形文土器」が最古湖の土器とされていました。
下原洞穴遺跡ではこの「耳並み島爪形文土器」が出土下地層の下から、約1万5000年前の「隆起線文土器」が初めて出土しました。
くわしくみてみよう  発掘調査状況   くわしくみてみよう
隆起線文土器」は、本州最古段階の土器です。今回の発見によって、奄美群島でも本州とほぼ同年代に土器の使用が始まったことが分かりました。奄美の縄文時代の始まりを知る事のできる貴重な遺跡です。

青森県六ヶ所村でも、2000キロも離れた鹿児島県徳之島でも同じような隆起線文土器が出土するのは本当に不思議です。

 423縄文土器
 425
魚骨製装飾品 貝製品 貝鏃未成品 貝鏃
貝鏃で何を捕獲?
貝製玉類
玉を取った跡か、これが玉なのか?

 427下原洞穴
「南島爪形文土器」が出土した周辺から、磨製石鏃づくりに使用された「たたき石」と素材の粘板岩が出土しています。
洞穴内の一角が製作工房として使用された様子がうかがえます。

出土状況
敲石戸石鏃素材
石器 敲石 鑿形石器
石錐 磨製石鏃
約4千~6千年前
磨製石鏃未成品
 

 450デーノタメ遺跡 縄文時代中期~後期 約5000~3800年前 埼玉県北本市下石戸下
 
 451
デーノタメ遺跡
どんな遺跡?
遺跡付近の航空写真
 どんな遺跡?
埼玉県の中央東寄り、大宮台地の北部に位置する縄文時代中期から後期にかけての集落です。
小河川の支流に面した台地上から竪穴建物が多数見つかり、隣接する低湿地部分では、湧水を利用した水場を発見しました。
 くわしくみてみよう
遺構分布図
 
 くわしくみてみよう
中期には竪穴建物が環状に並ぶ「環状集落」が作られました。その範囲は長径210m、短径170mほどあり、関東最大級の規模です。
後期には台地の辺縁に細長く帯状に竪穴建物が並び、配置に変化が見られます。
くわしくみてみよう
水場における木組遺構検出状況
復元漆塗り土器
4800年前
 くわしくみてみよう
低湿地部の水場から、漆塗りの土器や食糧となった木の実の殻が出土しています。
当時の環境や食糧に関する情報が豊富で、集落に暮らした人々の生活の様子を知ることのできる貴重な成果が得られました

 453クルミ型土製品
オニグルミ核 クルミ塚
オニグルミ核 石器で打ち割りした痕が見られる
完形、ネズミ等の食べた後が見られる
ミニチュア土器 クルミ型土製品出土状況
クルミにどんな意味附与したのだろう
クルミ塚 ミニチュア土器 クルミ型土製品
 455石棒と耳飾り
小型石棒
土製耳飾
小さくて粗末な耳飾鹿出てないが本当は
土製玦状耳飾
木製品 杓状

儀礼の祭祀具?
木製品 尖頭状
刺突具でなく尖頭器?
 457
石製装飾品
滑石製臼玉
ヒスイ大珠 蛇紋岩製垂飾 小型磨製石斧
ダイズ属の圧痕土器 シリコンによる圧痕のレプリカ
圧痕 ※伊那谷でもあった、
わざと粘土に穀物を混ぜて焼き物をつくる。
何かの儀式用かもしれない。

 459圧痕土器
土器の表面や割れ口に見つかった小さな穴にシリコンを注入してレプリカを作成しました。
電子顕微鏡でレプリカを観察した結果、穴の正体がダイズであることが判明しました。


 縄文土器 典型的な中期土器 勝坂式土器
ダイズ圧痕 レプリカされたダイズ 別角度から
山形内の文様が違う
漆塗土器
 
 

 500下ヶ戸貝塚さげとかいづか 縄文後期~晩期 約3500~3000年前 千葉県我孫子市下ケ戸762-2

 501
下ヶ戸貝塚
どんな遺跡? 遺跡近景
 どんな遺跡?
利根川流域の台地上に立地する縄文時代後期中葉から晩期中葉の貝塚を伴う集落です。
貝塚は汽水に生息するヤマトシジミが多く含まれており、井堰近くに海水と淡水が混じり合う汽水域があったと考えられます。
詳しく見てみよう
発掘調査風景
 くわしくみてみよう
北側の台地先端部で22棟の竪穴建物を確認しており、土器をはじめとする大量の遺物が出土しました。
中でも、土製耳飾りは469点と非常に多く、全体の約8割が竪穴建物内から見つかっています。
くわしくみてみよう
ミミズク土偶出土状況
 くわしくみてみよう
異形台付土器やミニチュア土器、土偶や石剣、独鈷石といった祭祀に関わる特殊な道具が豊富に出土しています。
これらの遺物から、集落の居住の場を中心に様々な儀礼が行われていた様子が明らかになりました。
 503骨角器
骨角器 オオカミ下顎骨製垂飾
叉状角器さじょうかっき
髪針
ヤス

 504石器・石製品
石器・石製品 石器
石鏃
石錘
石製品
独鈷石
石棒
石剣
 505土製耳飾
土製耳飾
 506貝環・土版
貝輪
土版
右:人面表現がみられる
土版の人面表現

 507石製装飾品
ヒスイ製装飾品
勾玉、玉
ヒスイ大珠
滑石製装飾品

 508亀形土製品
 
 520下ヶ戸遺跡の土器  堀之内1式安行1~3a式、

 521注口土器 晩期
注口土器

 522深鉢

 523異形台付土器
 527ミニチュア土器

 529注口土器  陰嚢付

※陰嚢付注口土器
 2019年11月4日BS-TBSにっぽん歴史鑑定「古代史ミステリー ダムに眠る白神縄文人からのメッセージ」のなかで、初めて取り上げられた陰嚢付注口土器は、当時、白神山地東麓遺跡群独特のものと考えられていたが、テレビで公表されたことにより、関東から東北一円に分布することがわかった。
その形状のために、これまで、表に出すことがなかったようで、この発表以前に東北を訪れていますが、一度もであったことはありませんでした。
東北の座産土偶と、陰嚢付注口が展示されている島根県の古代出雲歴史博物館では、陰嚢が見えないように上方に吊り下げ、真上から光を当てて影にしていました。
 想像すると、博物館の中には、表に出せない造形物がまだまだあるのかもしれません。女性器をかたどった何かとか、、、
 
 

 530ミミズク土偶(千葉県・下ヶ戸貝塚)縄文時代晩期 

全長約15㎝と小型の土偶ながら、頭部に乗る船形の髷まげの立体的な表現が特徴的な優品です。頭部から右腕とそれ以外が分割された状態で見つかりました。
                  (紹介分は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)

 ミミズク土偶 安行式
極端にデフォルメされた顔の表現が鳥のみみずくに似ていたことから、「みみずく土偶」と呼ばれる。 耳には丸い耳飾りをつけ、頭部の突起は結った髪型や櫛をさしている状態を表すと考えられている。 土偶の身体表現は縄文時代の風俗をうかがう一材料となっている。文化財オンライン
 さいたま市真福寺貝塚 桐生市千網谷戸遺跡 埼玉県鴻巣市滝馬室出土 岩槻・真福寺貝塚

 531ミミズク土偶
ミミズク土偶
下ヶ戸貝塚
 

 550古きを守る新しき技
古きを守る新しき技
高崎競馬場遺跡
人形容器の三次元計測画像 人形容器の注目ポイントとして歯の表現があります。この表現を観察しやすく、かつ資料を安全に支持するために、支持具を製作しました。

その際、資料を三次元計測し、そのデーターをもとに支持具のパーツのサイズ、支持点などを考慮し、設計しました。
X線の力
志布志湾沿岸地域の古墳群
異形鉄器のエックス線写真
金属製品にとってサビは望ましいものではありませんが、サビによって資料の形が保たれることもあります。
そのため、X線写真撮影により本来の形状を見極め、内部構造を把握し、どこまでサビを除去するのか?を判断することが求められます。
サビとの闘い
志布志湾沿岸地域の古墳群
処理前の異形鉄器 金属は放置すると安定しようとしてサビが進みます。

そこで、鉄製品では脱塩処理(資料中の塩化物イオン等の除去)と、樹脂によるコーティングを行い、
資料の中にあるサビの要因を除くと共にサビを進行させる要素(水分と酸素)を遮断します。
有機質を残す
志布志湾沿岸地域の古墳群
有機質を示す実測図 金属製品と言っても、使用時に用いられる木や竹、紐などに代表されるような有機質が残存することがあります。
異形鉄器にも様々な有機質が残っており、これらの情報を失わないよう最新の注意を払って保存処理を行いました。
残存有機物の正体
志布志湾沿岸地域の古墳群
 
      マイクロスコープを用いて残存している有機質の微小部観察、同定を行いました。

結果、平織布、大型哺乳類の毛、苧麻などが認められ、樹種は特定に至らないものの、広葉樹散孔材であることが分かりました。
 


 600弥生時代


 610四日市遺跡 弥生時代中期後半 約2200年前 大分県玖珠町大字四日市 google map(光徳寺の裏山)

 611
四日市遺跡
どんな遺跡? 台地上に広がる遺跡
 どんな遺跡?
玖珠盆地の北にある丘陵上に立地する弥生時代中期後半の集落です。
平成29年までの発掘調査で150棟に達する竪穴建物と16棟の掘立柱建物、子供のお墓である小児用甕棺が見つかりました。
くわしくみてみよう
線刻土器
線刻絵画土器(部分)

シカ
矢羽根
 くわしくみてみよう 線刻土器
雄の鹿と矢羽根が描かれた線刻かいが土器が出土しています。立派な角のあるシカ葉豊饒の祈りを表現したものと考えられ、弥生人の精神文化に触れることが出来ます。また、竪穴建物殻は祭祀に使用された筒形器台も出土しています。
くわしくみてみよう
大型建物
大型掘立柱建物
 くわしくみてみよう 大型建物
台地東半分で見つかった掘立柱建物のうち、3棟は広さ116㎡に及ぶ大規模なものであり、祭殿や集会場などに使用された可能性があります。
遺跡の立地や規模を考えると、本遺跡は祭祀や交流の拠点となった集落と言えます。

※考察 大型建物考
 大きな建物が3度立て直され、その都度大きくしっかりした長方形になっています。
 これは支配者の祭殿(まつりごと=政治を行う建物)で、中国にならって宮殿の前に大きな広場を設け、兵を集めたり、配下の首長を集めたりする場所ではないでしょうか。
 お祭り騒ぎをしていた場所や、寄合をしていたわけではありません。中国・韓国の宮廷ドラマに出てくる宮殿前広場です。
 殷墟、紀元前17c~紀元前1046まで続き、最終的に気候変動のために発生した民衆の暴動によって滅んだと記憶している、で始まった
宮城の型式で、王と臣下、王と民衆、王と兵卒などの対峙を最も簡単に表現し、指揮監督命令することができる施設です。
この形式は、王級から、津々浦々の地方豪族の建物型式にまで広がり、同様の目的を持った現代の建物にも連綿と続いている。

 弥生中期の大分の山中にこの形式があったのなら、半島人が支配した(というよりは、武装占拠した土地と言うべきでしょう)では半島人の王がこのような建物と広場を造らせ、支配民を威圧し、軍隊を指揮監督していたのでしょう。
 纏向遺跡の大型建物も神殿や祭殿(この場合祭=政)、などがあったように記憶しているが。
 吉野ケ里遺跡は超大型の環濠集落で、防衛に特化した構造になっているように思えます。
 つまりこのような神殿・宮城形式の建物は見られませんでした。
 

 613線刻絵画土器(大分県・四日市遺跡)弥生時代中期

弥生時代中期後半の壺の口縁部上面に鹿が2体、同じ方向を向いて描かれています。生命力の強いシカを描くことで豊穣を祈っていたのでしょう。
                  (紹介分は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)

線刻絵画土器 矢羽根 シカ

 615祭祀土器
赤彩土器 祭祀用土器 鼓形器台
埋納状態で出土
脚付土器
脚付鉢
脚付注口土器
※脚付土器考
いつも思うけれど、安定したテーブルがある現代でも、この焼き物は不安定だのに、不安定なものだらけだった当時、この容器をどの様に立てていたのだろうか。何かに挟んで立てていたら、すぐに脚部が壊れます。東海地方の底部に小さな脚が付いた壺・鉢類も同じで、当時の生活ではこれがベストだったわけだから、扱い方が現代とは違っていたのでしょうね。例えば、グラスは手に持ったままで置かなかった。当時は料理が手づかみだったそうです。
脚付鉢は土に埋めて、安定を保つために底に脚をつけた。などかなぁ。
 しかし、下の赤彩土器の不安定さを見ると、葬送の儀式のときにどの様に土に埋めたのか。ぐりぐりと左右に動かしたぐらいでは、埋まらない。それに赤彩が取れてしまう。なんだろうなこれは?

 617赤彩土器
鹿を描く 線刻絵画土器



 619大型筒形器台
大型筒型土器

※赤彩土器考
※上記611~619に揚げられた赤彩土器は、九州では葬送儀礼、墓場から出土する土器で、特に
最後の大型筒形器台は墓地の入口に立て置かれ、何らかの役割を果たした土器です。

って、これは九州、大分県玖珠町の土器ですから、確実に葬送儀礼に伴う土器です。
しかし、そのことが線刻絵画を説明するものではありません。
弥生の土器線刻と、祭祀儀礼とは別物ののように思えますが、一方でそのような土器が保存よく出土していることから、
祭祀に欠かせない重要な意味を持っていたのだろうと思われます。
 

 640高崎競馬場遺跡 弥生時代中期後半 約2000年前  群馬県高崎市岩押町・上中居地内 

 641
高崎競馬場遺跡 高崎競馬場遺跡

どんな遺跡? 遺跡遠景
 どんな遺跡?
関東平野の北西端に位置する弥生時代中期の環濠集落です。約2haの規模をもち、環濠の直径は約160mあります。
竪穴建物や井戸など性格の異なる施設が環濠内で区域を分けて配置されています。
くわしくみてみよう
空から見た環濠
 くわしくみてみよう
環濠の南端には、半円状の空間が環濠に接して外側に作られています。
ここから建物などの施設は見つかっていませんが、付近の大型井戸から
儀式に使われた土器や焼けた獣骨が出土しており、祭祀を行う場所であった可能性が考えられます。
くわしくみてみよう 壺形土器出土状況
石斧出自状況
 くわしくみてみよう
井戸の中から美しく飾られた紅白の壺形土器が出土しました。
また、環濠から未使用の石斧が4点まとまった状態で出土しています。

これらは、神へ供えられたものとも考えられ、弥生人の信仰の一端を示す貴重な発見です。

 643人形容器ひとがたようき 
 ここに注目
前歯を表現するのが最大の特徴。耳にはピアス用の孔が空けられ、頭にはヘッドバンドか帽子のようなかぶり物が表現されている。

※弥生中期の壺形土器の一部です。
※私には容器には見えないが、縄文時代の土偶ではなく、弥生時代はヒトガタをつけた容器(私の知っている限りは遺骨入れ=土偶付土器)
が登場するので、人形容器とされているようだ。
容器と言えば水漏れしないものが固定観念だが、これは、液体ではないものを入れるため、目や口が開いていても良いのだろう。

人形容器
ここに注目
上に記述

 645石斧
太型蛤刃石斧
抉入柱状片刃石斧

 ※「抉り入り柱状片刃石斧」は、石斧を保持するために、わざと抉りを入れたようですが、どの様な装着例が想起されますか

 647紅白壺 約2000年前

赤と白の土器は首の部分で交叉して置いてあった。偶然落ちたのでもなく、意図的に投げ込んだのでもない。井戸の底で儀式を行ったようです。
紅い壺は北関東系赤彩土器 (佐久考古6号-紅い土器を追う-全国遺跡報告総覧)。
白いのは信州北部の栗林式土器(北陸系)

栗林式土器は白く箱清水式土器は赤い  この頃の土器分布について

赤彩壺
 白い壺

 

 670午王山遺跡ごぼうやまいせき 弥生時代中期~後期 約2300~1900年前 埼玉県和光市新倉3丁目11-35
 671
午王山遺跡
どんな遺跡? 遺跡遠景  どんな遺跡? 多重環濠集落

埼玉県南部の武蔵野台地北東端、荒川を望む標高24~25mの丘陵上に位置する
弥生時代中期から後期の集落です。
150棟以上の竪穴建物が見つかり、後期には集落の周りに環濠が造られていました。
くわしくみてみよう  多重環濠   くわしくみてみよう
3条見つかった壕は、集落を囲むようにほぼ平行に掘削された2条の環濠と
傾斜地を分断する位置に掘削されたもう1条からなります。

このように集落の周りに複数の壕を巡らせる集落は西日本に多く、関東では稀です。
くわしくみてみよう  環濠の堆積土から出土した東海系土器
 くわしくみてみよう
南関東・北関東・東海の各地域の特徴を備えた土器や、東海に多い銅鐸型土製品が出土しています。

関東の南北をつなぐ拠点としての役割を担った集落と考えられ、弥生文化の交流の実態を考える上で重要な遺跡です。
 673帯状円環銅釧
帯状円環銅釧 腕に装着した状態で術度した帯状円環銅釧
 675中部高地系土器
中部高地系土器
岩鼻式
東日本における弥生時代後期の環濠集落の分布と土器文化圏
岩鼻式甕 岩鼻式甕 岩鼻式甕
岩鼻式壺
 677銅鐸型土製品
銅鐸型土製品、土鈴
 679
 東海系土器
東海系(下戸塚式)

 南関東系土器
南関東系(久ヶ原式)
 


 700古墳時代


 710志布志湾沿岸地域の古墳群 古墳時代前期~中期 4世紀~5世紀 鹿児島県肝付町・東串良町・大崎町・鹿屋市
 711
どんな遺跡?   唐仁古墳群空撮 古墳群位置図   どんな遺跡?
鹿児島湾東部、大隅半島の志布志湾沿岸にある4世紀から5世紀にかけて作られた日本最南端の古墳群です。
史跡唐仁とうじん古墳群、史跡横瀬古墳、施設塚崎古墳群などからなります。
史跡塚崎古墳群
史跡塚崎古墳群空撮
 史跡塚崎古墳群は、 (鹿児島県大隅半島)
日本列島最南端の前方後円墳(51号墳・墳長71m)を含む59基からなる古墳群です。

5基の前方後円墳は
、いずれも4世紀代に築造されたと考えられ、この時期にはすでにヤマト王権の影響がこの地に及んでいたことが分かります。
史跡横瀬古墳
 
 史跡横瀬古墳空撮
 史跡横瀬古墳は、
5世紀中頃の前方後円墳で、墳長約137mあります。
鹿児島県内では唐仁大塚古墳に次ぐ規模です。

墳丘の周囲には二重に巡る濠が確認されました。
南西諸島と近畿との交流を掌握した首長の墓とも考えられています。
史跡唐仁古墳群
唐仁1号墳 史跡唐仁古墳群は、
5世紀初めに築造された墳長140mの唐仁大塚古墳をはじめとする130基以上の古墳からなる鹿児島県最大の古墳群です。

塚崎古墳群の後に造られた首長墓と考えられ、大塚古墳、役所塚古墳、薬師堂塚古墳といった3代の首長墓系譜を辿ることが出来ます。
立小野堀遺跡
町田堀遺跡 
 立小野堀遺跡空撮
穴は全て地下式横穴墓
立小野堀遺跡と町田堀遺跡 は、
たちおのぼり  まちだぼり

大隅半島の中央、串良川右岸にある5世紀を中心とする遺跡です。近年の発掘調査で、立小野堀遺跡で、190基、町田堀遺跡で92基の地下式横穴墓が見つかりました。

狭い範囲にこれほど多くの地下式横穴墓が見つかることは珍しく、特徴的です。

 713塚崎古墳群
塚崎古墳群 史跡塚崎古墳群 壺形埴輪 25号墳
小型丸底壺 31号墳
壺形埴輪 25号墳 須恵器甕41号墳
 715唐仁古墳群
史跡唐仁古墳群 土師器 椀、高坏
19号墳
円筒埴輪
史跡横瀬古墳


 志布志湾沿岸地域の古墳群
  クロップマーク…地質の違いによって生育が異なる作物が地費用に作りだす模様。
  「作物痕」とも呼ばれ、埋没した以降の上にしばしばこうした模様が現れる。
志布志湾沿岸地域の古墳群 クロップマークの解説 クロップマークの実際

 717異形鉄器 町田堀遺跡
異形鉄器
町田堀遺跡

 718青銅鈴 立小野堀遺跡
青銅鈴 126郷地下式横穴墓
90号地下式横穴墓

 719土師器 立小野堀遺跡
土師器 高坏
立小野堀遺跡


 


 730牟田部遺跡 古墳時代後期 5世紀末~6世紀中葉 佐賀県多久市南多久町牟田

 731

どんな遺跡? 遺跡遠景 どんな遺跡?
佐賀県中央部、聖岳の北東にある丘陵上に立地する古墳時代中期~後期の古墳群です。
前方後円墳屋円墳など14基で構成され、平成29・30年度にこのうち4基について発掘調査を行いました。
くわしくみてみよう  9号墳の横穴式石室
 
くわしくみてみよう
9号墳は、5世紀末に築造された墳長18.5mの小型の前方後円墳です。
横穴式石室から、刀や鏃などの鉄製品や玉類の他、
全国でも珍しい獅噛文帯金具など、
首長クラスの古墳に匹敵する豪華な副葬品が見つかっています。
くわしくみてみよう
獅噛文帯金具等出土状況
獅噛文帯金具は、獅子のような獣の顔をあしらった小型の金具で、帯に付ける飾りの一種です。
これまで朝鮮半島と国内で10数例しか発見されておらず、
朝鮮半島と北部九州の交流を物語る重要な資料です。
 733九号墳石室内出土遺物
鉄刀 刀子
須恵器
ハソウ

 734管玉・勾玉
勾玉
管玉


 馬具 三環鈴と鈴杏葉
三環鈴 鈴杏葉すずぎょうよう 三環鈴と鈴杏葉の出土状況
※三環鈴は馬具だそうです。
 奈良県天河神社伽耶の三環鈴(五十鈴いすず)は馬具だったのか。だったら乗馬の神様とか、でなく、、なぜ芸能の神様なの?
 きっと、三環鈴を見た人が、鈴だから神舞に使うものと思い、弁財天なんてつけちゃって、弁天様=芸能の神ってなったんだろうか、、

 以前、甲子園球場で女性マネージャーがグランドに入ったら、お偉い人が、激怒して、球場は神聖なものだ。マウンドには神様が宿っている。
 それを、マスコミも誰も、その通りですと言って反論せず、高校は平謝りに謝った。
 野球の神様って、どこの神様なんだ。アメリカの神様か?一体、いつから日本の神様が憑依したんだ。出鱈目をいうな。馬鹿じゃないの。
 野球の神様なんているわけないだろう。神様なんて、いるわけもない。勝手にこじつけて遊んでいるだけだ。妄想だろう。って思った。

 735獅噛文帯金具
装着復元図 獅噛文帯金具
獅噛文帯金具
 

 750下河原崎高山古墳群  墳時代終末期 7世紀 茨城県つくば市下河原崎字三夜山449-2番地ほか

 751
下河原崎高山古墳群
どんな遺跡? 古墳群全景 どんな遺跡?

西谷田川左岸の台地上に立地する11基からなる古墳時代終末期の古墳群です。
本古墳群の中でも最大規模の前方後円墳である5号墳(墳長40m墳丘高3.5m)の調査で、
3ヶ所の埋葬施設が見つかりました。
くわしくみてみよう
 
5号墳全景
 
くわしくみてみよう
ふたつの埋葬施設は、後円部の南側にあります。
一方は石棺が完全に抜き取られていました。
が、もう一方は未盗掘の状態を保っていました。

未盗掘の石棺では、7世紀前半から8世紀前半にかけて埋葬が行われました。
くわしくみてみよう
 
    くわしくみてみよう
未盗掘の石棺から銅製の鋺や大刀などの服装品と多数の人骨が見つかりました。
人骨は21体以上確認されており、乳幼児から成人まで幅広い年齢が含まれています。

DNA分析から血縁関係が判明したものもあり、貴重な成果が上がっています。
 7535号墳の石棺内人骨
下河原崎高山古墳群5号墳の石棺内人骨 人骨
21体の追葬が確認されている
板石を合わせ並べた箱式石棺から、21体分の人骨が出土した王族の墓である。
DNA鑑定でユーラシア大陸からの渡来人の骨も見つかったそうです。
銀装大刀 大刀 銅鋺

 755須恵器
坏蓋・身 平瓶 平瓶 土師器皿
フラスコ形長頸瓶
 757甕


 
 


 760古代


 770薩摩遺跡 奈良時代末~鎌倉時代 8世紀末~13世紀初頭 奈良県高取町薩摩
 771
どんな遺跡? 溜池と付属する堤
溜池の導水管
「ゆる」がみえる
どんな遺跡?
奈良盆地の南縁部に位置する遺跡です。
国道の建設に伴い、発掘調査を実施しました。
8世紀末から9世紀初頭の耕地開発に伴って作られた灌漑用の溜池が見つかっています。
くわしくみてみよう 堤の断面
盤築工法で突き固められた堤が見える
くわしくみてみよう
溜池は谷の出口を塞ぐように堤を築いて作られました。
堤には水を通すための樋(ひ=とい)が埋められ、少なくとも3回ほどの回収が行われていたようです。
出土した樋は保存状態がよく、全体の構造がよくわかります。
くわしくみてみよう 3期の木樋と取水部
くわしくみてみよう
水田へ水を送る水路など周辺の調査も進み
時期ごとの溜池の構造の変遷が分かりました。

在地の首長による耕地開発の面積や灌漑の範囲も判明し、
地域社会が成長していく過程を知る貴重な成果が得られました。

 772
鉛釉陶器壺(復元品)
鉛釉陶器壺
 773
須恵器 坏・坏・壺 土師器


埦・甕
 774
古式土師器
堤の下層から出土
器台
丸底土器
 灌漑工事をするときに、土地の神霊に捧げた儀式の土器のようです。
 775

池と取水施設の模式図
池の模式図 堤は余水吐けを設け、水位を一定に保つ。
堤の下流には放水路が延び、耕地へと続く。
取水施設の模式図


 ため池出土木簡
木簡の内容は「田領でんりょう」(群の役人)に対して「この池を造り終わった。そこで神があらわれ、これに応えた」と報告するものです。
裏面には、「波多里長檜前村主(はたのさとおさひのくまのすぐり)が(池の造営を)元々おこなったが、今は□□遅卿の二人がおこなう」とあります。

波多里長(薩摩遺跡周辺地域の有力者)である檜前村主が池の造営を指揮し、その完成を田領に報告したことが読み取れます。

ため池出土木簡
※なぜこの木棺が溜池に埋められ、その後長い間利用されたのにもかかわらず、現代まで残ったのかが知りたいです。
 


 800中世


 810大南遺跡 室町~戦国時代 15世紀~16世紀 山形県米沢市浅川
 811

どんな遺跡? 屋敷跡全景 どんな遺跡?
山形県米沢市の北東部を流れる天王川右岸の自然堤防上に立地する、
15世紀から16世紀の在地領主の屋敷跡です。

この時期は伊達氏が福島県北部から置賜盆地に進出した時期にあたり、
この館の主も伊達氏と関わりのあった人物と考えられます。
くわしくみてみよう   主屋全景 くわしくみてみよう
東西60~84m、南北約110mの範囲を方形に囲む区画溝は部分的に途切れており、
その部分は枡形虎口ますがたこぐちのような出入口と推測されます。

また、掘立柱建物のうち、主屋とみられる最大の建物は桁行12.6m、梁行8.6mであり、四面に庇を持っています。
くわしくみてみよう   僧形神立像出土状況
くわしくみてみよう
区画溝からは内耳土鍋のほか、瀬戸美濃産の陶器や、中国から輸入された青磁・白磁など遠方から搬入された品々も出土しています。
これらの出土品から、伊達氏と関わりのあった在地領主の豊かな経済力がうかがえます。

 813陶磁器
陶器 卸目付大皿 青磁
碗、大盤?

 814漆器

椀・椀

椀・椀
椀・柄杓

 815内耳鍋・大皿
土師質土器
内耳鍋
白木地大皿

 816木製馬
 
 821木製品
木簡
木簡記述内容 把手・部材・横櫛

 823石製品
錘、紡錘車 手押木ておしぎ 手押木と紡錘車は糸を紡ぐ時に使う道具
印「寶」
連歯下駄

 825僧形神立像(山形県・大南遺跡) 室町時代

全長20㎝で、(当初は仏像と思われていましたが)、頭部が円頂で額には白毫びゃくごうが無く、耳は福耳状に表現されています。また岩座風の台座を伴います。当時の神仏習合の様子を伝える一品です。
                  (紹介分は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)

僧形神立像 ※そういえば、九州の宗像大社の神が神仏習合で仏姿に現わされた像がありました。
この像とよく似ています。案外、このような神を現わした像が全国に普及していたのかもしれません。
 

 830畑間遺跡 室町時代後期 1450年頃 愛知県東海市太田町畑間
   銭甕の出土遺跡
 831
どんな遺跡?
銭甕の出土
遺跡全景
どんな遺跡?
愛知県東海市の標高3~4mの微高地上に立地する15世紀の集落遺跡です。

発掘調査で確認された土地を区画するための多数の溝の一つから、
大量の銭が詰められた壺が2点出土しました。
くわしくみてみよう  大量出土銭A  大量出土銭B くわしくみてみよう
銭が詰められた壺は、古瀬戸の三耳壺と常滑焼で、2点とも口縁部が打ち欠かれていました。

これらの出土位置は7m程しか離れておらず、二つは別々にではなく、セットで埋められたと考えられます。
くわしくみてみよう    くわしくみてみよう
壺中には4196枚もの銅銭が緡状(さしじょう)(97舞の銭を紐で束ねた状態)で入っていました。

大量出土銭の性格は備蓄や貯蓄、地鎮などが考えられますが、その答えはまだ出ていません。
ただ、出土した銭の種類や量の検討から、中世の貨幣流通に迫ることができる貴重な発見と言えます。
 833
大量出土銭A
大量出土銭B 山茶碗 陶器壺 山茶碗
カメの蓋に使われたものでしょう。

 835大量出土銭B 銭貨リスト(数量巡)
 837
緡銭さしぜに
古銭
 


 840近世

 

 850京都新城公家町遺跡 安土桃山~江戸時代 1597~1867年 京都府京都市中京区寺町通三条上る天性寺前町539
 公家町の金箔瓦
 851
どんな遺跡?
公家町の金箔瓦
調査区の状態 どんな遺跡?
京都新城は豊臣秀吉が京都御所の東南に、その生涯で最後に築いた城郭です。

現在の仙洞御所の敷地にあること以外、実態がわかりませんでしたが、
発掘調査により、京都新城の物と見られる石垣と塀が見つかりました。
くわしくみてみよう  石垣表面
 
くわしくみてみよう
石垣を構成する石は大半が自然石で、最大4段、高さ1.6m程が残っていました。

聚楽第や初期の伏見城の石垣の特徴とも一致し、また、堀からは金箔も出土していることから
秀吉の関与が裏付けられます。
くわしくみてみよう   石垣俯瞰 くわしくみてみよう
秀吉の死後、京都新城は正妻の高台院(ねね)の屋敷となり、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに際し、堀や塀を破壊したことが文献に記されています。

その際に崩されたとみられる石垣の石も確認しました。
秀吉が築いた最後の城を物語る貴重な発見です。

 853金箔瓦
金箔瓦
軒平瓦
軒丸瓦
鬼瓦・道具瓦
 855土師器
土師器 皿・飾り瓦 土師器・染付碗
 

 860京都左京一条三坊三町 江戸時代後期 19世紀

 861
どんな遺跡? 洛中絵図
どんな遺跡?
京都御所の西側に位置する近世後期の遺跡です。
17世紀後半頃に描かれた「洛中絵図」によると、御所の周りを公家屋敷が囲い、
その周りに町屋が広がっていました。
この町屋とみられる部分から様々な遺構が見つかっています。
くわしくみてみよう 遺跡全景 くわしくみてみよう
石で作られた地境を始め、井戸やかまど、トイレなど都市の生活に関連する様々な遺構が
見つかっています。
漆喰で造られた暗渠状の溝は、中に溜った泥やごみを回収するための集水桝が取り付けられた排水施設だったようです。
くわしくみてみよう    くわしくみてみよう
菊文の描かれた器など一般には流通しないものが見つかっています。
この器は天皇が使用するものですが、毎月新品と換えられ、
古いものは女官らに下賜されることもありました。

これらはそうした下賜品であったと考えられます。
朝廷と町人の暮らしの関係を物語る調査結果です。

 863染付茶碗
焼土塊 焼土塊
 
 
 


 900特集 記念物100年 -次の100年に向けて-

記念物は、我が国にとって歴史上・学術上価値の高い遺跡、観賞上価値の高い名勝地、学術上価値の高い動物・植物・地質鉱物の総称で、その中でも重要なものは文化財保護法により「史跡」「名勝」「天然記念物」に指定されています。全国各地に所在するこれら記念物をテーマに地方公共団体が実施している様々な取組を展示し、記念物の多様な魅力を発信します。
                  (紹介分は全て江戸東京博物館のガイド資料から拝借しています。)

特集 記念物100年
-次の100年に向けて-
展示内容


 901史跡屋形遺跡  縄文時代中期末から後期初頭(約4000年前~3800年前) 岩手県釜石市唐丹町字屋形地内
   貝塚遺跡
遺跡全景
貝塚から出土した骨角器や貝製品 貝塚からは岩礁性の魚介類が多く出土しており、人々は内湾での採集・漁撈を生業としながら暮らしていたようです。
また、伊豆諸島以南で採れる貝類のオオツタノハや日本海側で産出する黒曜石等の遠隔地からの搬入品も見られ、他地域との交流の様子をうかがうことができます。
  貝層の堆積状況  三陸海岸南部の海岸段丘上に立地する縄文時代の集落遺跡です。
東日本大震災後の復興事業に伴う発掘調査で、竪穴建物や貯蔵穴と共に、
三陸海岸で希少な縄文時代中期末から後期初頭を主体とする貝塚が見つかりました。
    遺跡の存在が知られたことで、市民は貝塚から出土した貝や釣針を見て、
海と共に歩んだ故郷の歴史を誇らしげに話すようになりました。

今後、遺跡を総合的に学べる場所として、見学路や案内板設置等の整備を進め、
主に体験学習を通じて公開・活用を行う予定です。

 902赤井官衙遺跡群(赤井官衙遺跡・矢本横穴)  飛鳥時代中頃 約1300年前

   赤井官衙遺跡 宮城県東松島市赤井川前四 飛鳥~平安時代
   矢本横穴墓群 宮城県東松島市矢本上沢目4 飛鳥~奈良時代 7世紀中葉~9世紀初頭
関東からの移住者を中心とした集落の形成,それを基にした郡家(ぐうけ)ないし城柵の造営といった変遷をたどることができるとともに,蝦夷(えみし)の居住域内における官衙(かんが)の実態や郡司をはじめとする官人の出自をたどることができる。律令国家成立期の東北経営を理解する上で重要な遺跡。 引用文化財オンライン


赤井官衙遺跡の建物群
倉庫跡の検出状況
柱穴が整然と並ぶ
※租税倉庫跡
陸奥国牡鹿郡家跡と考えられる赤井官衙遺跡と、その南西に位置する墓である矢本横穴からなります。
赤井官衙遺跡では
7世紀中葉に関東(※千葉県上総地方)から大規模な移住があり、
7世紀末には居宅の区画と倉庫院の区画からなる官衙(役所)が成立します。
矢本横穴は赤井官衙遺跡と同時期に造営された横穴墓群で、
「大舎人おおとねり」と書かれた墨書土器などの出土遺物から
牡鹿郡家に勤めた官人らの墓と考えられます。

赤井官衙遺跡群は、蝦夷の居住域内に置ける官衙の成立過程とその実態を示しています。

 903山居倉庫 さんきょそうこ 明治時代 山形県酒田市山居町1丁目1-8
山居倉庫外観全景
倉庫内に積載された俵(大正期) 明治26年(1893)に酒田米穀取引所の付属倉庫として
(※旧庄内藩主酒井家によって、最上川と新井田川に挟まれた中州、通称「山居島」に)建てられ、
庄内米を保管・取引した大規模な施設です。

江戸時代以来の技術をもとにした倉庫建築と、米穀保管に適した燻蒸方法開発による
品質の維持、保管方法等の改善により、山居倉庫の米券は明治期に最も有名なものでした。
    山居倉庫は米券倉庫から農業倉庫へ変化し、現在は米穀保管倉庫として使用されています。

明治26年に創建された倉庫6棟を含む、大正5年までに建築された12棟の倉庫などが現存し、
我が国における近現代の米穀流通の歴史を今に伝えています。

 905鈴木遺跡  後期旧石器時代縄文時代近世  東京都小平市鈴木町1丁目487-1
    旧石器時代= 3万5千年前~1万5千年前
礫群の検出状況
大量の焼き石料理跡の礫群
旧石器時代の住居跡
遺跡空撮 現生人類が日本列島に居住し始めた約3万8千年前から、
後期旧石器時代最終末期(約1万6千年前)に至るまで連続した居住痕跡が残る遺跡です。

遺跡は武蔵野台地のほぼ中央部、石神井川の最上部に位置し、旧河川の先端部を取り囲むように(※馬蹄形に)展開します。(線で囲んだ範囲)

※旧石器人の居住痕跡や大量の遺物、北方からやって来た新しい旧石器人の証である黒曜石を伴うなど、これまでの旧石器遺跡にはない、画期的な遺跡の発見です。
黒曜石製ナイフ形石器の出土状況
現在までに確認されている石器製作跡は約200ヶ所、調理場跡と考えられる礫群は約300ヶ所、
出土した遺物は12万点以上にのぼります。

遺物には関東平野周辺からもたらされた黒曜石が多数含まれており、
旧石器時代人達にとって本遺跡が拠点的な居住地であったことを示しています。
 
 


 910史跡名勝天然記念物


 911史跡鈴鹿関跡 すずかのせきあと 奈良時代 三重県亀山市関町新所1510
築地塀の基礎部分
鈴鹿関を南西から望む
伊勢国鈴鹿関は、奈良時代に美濃国不破関ふわのせき、越前の愛発関あらちのせきとともに三関さんげんとされた関所で、律令によって最も重要視された交通管理施設です。

その位置は、大和国、伊賀国と伊勢国を画する布引山地ぬのびきから平野へと入っていく
山麓部にあたります。
築地塀基礎の高まりと瓦溜り
これまでの調査により、関宿の北方の観音山から鈴鹿川までの間を結ぶ総延長約650m以上の
築地塀の存在が想定されました。

発掘調査により、観音山とその南麓で8世紀中頃と考えられる瓦葺築地塀が見つかり、
これまで不明であった鈴鹿関の位置の特定に至りました。

 912史跡舟木遺跡 弥生時代後期  兵庫県淡路市舟木
遺跡全景
大型竪穴建物 舟木遺跡は淡路島北部の丘陵上に立地する、弥生時代後期から終末期(1~3世紀前半)
にかけての集落遺跡です。

これまで4棟の鍛冶工房を含む20棟の竪穴建物が発見され、大規模な鉄器生産が行われていたことが分かっています。
後漢鏡片や九州産のヤリガンナ等の出土遺物から、山間地にありながら、海を介した広域的な交流を行っていたようです。

北部九州近畿を中心とする勢力関係大きく転換した時代(弥生後期)にあって、
瀬戸内海を介した交易や鉄器生産を担った拠点集落と位置づけられます。


 913史跡湯浅党城館跡 ゆあさとうじょうかんあと (湯浅城跡・藤並館跡)  和歌山県有田郡湯浅町・有田川町

   湯浅党とは 湯浅氏を中心とする中世武士団の名称。
   湯浅城跡 湯浅氏の本拠 和歌山県有田郡有田川町熊井247 12世紀中頃1143年平安時代後期に築城

   藤並館跡(藤並城)  湯浅氏の一門である藤波氏の居城 
                鎌倉時代に築城  和歌山県有田郡有田川町下津野370

湯浅城遠景
湯浅城の構造 平安時代末期から南北朝期の紀伊国において大きな勢力を誇った、湯浅一族を中核とする武士団「湯浅党」の城館跡です。

湯浅氏の本拠である湯浅城跡、婚姻で結びついた藤波氏の本拠地である藤並館等の発掘調査を
有田市・湯浅町・有田川町の3市町が連携して実施しました。
発掘調査の結果、湯浅城の築城時期が13世紀に遡ることが確認され、湯浅氏や藤波氏の手によるものと言う可能性が高まりました。

湯浅党の本拠地に造られたこれらの城館跡は、我が国の中世前期の武士団のあり方を知る上で貴重な存在です。

 914史跡樫野崎灯台及びエルトゥールル号遭難事件遺跡 若山健東牟婁郡串本町
樫野崎遠景
船甲羅 紀伊大島の東端にある樫野崎灯台とその周辺海域で発生したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の遭難事件に関する遺跡です。

明治23年(1890)9月16日に樫野崎沖でエルトゥールル号が台風により遭難し、
沖合の「船甲羅」で座礁しました。
樫野崎灯台官舎 事件後、地域住民により遺体や遺品が回収され、犠牲者は「遭難者墓地」に埋葬されました。

我が国の近代初期の灯台である樫野崎灯台のもとで起きたエルトゥールル号遭難事件は、
近代の大規模かつ国際的な海南事件であるとともに、日本とトルコとの国際交流の礎となっています。

 915史跡下岡田官衙遺跡 奈良時代 8世紀中頃  広島県安芸郡府中町城ヶ丘18-1
発掘調査
瓦葺礎石建物全景
広島湾北東部の山塊から派生する丘陵先端に立地する官衙遺跡です。

昭和30年代に2棟の瓦葺礎石建物や井戸などと共に瓦や木簡などが出土したことで、
早くから安芸駅家跡との関連が指摘されてきました。
近年の発掘調査等により、下岡田官衙は、8世紀中頃には2棟の瓦葺礎石建物を中心とした計画的な配置となることが明らかになりました。

山陽道沿線では、この時期以降に瓦葺の駅家が整備それますが、
本遺跡も山陽道駅路に沿った陸海交通に要衝に立地する安芸駅家の可能性が高いと考えられます。

 921史跡久留米藩主有馬家墓所 福岡県久留米市
梅林院霊屋  元和7年(1621)久留米藩21万石の大名として入封した有馬家歴代の墓所で、梅林寺境内北側の小高い裏山に営まれています。
埋葬されたのは、初代豊氏、2代忠頼、7代頼徸、10代頼永の歴代藩主とその一族らです。
  三代有馬頼利の三重塔
 墓所には五輪塔や位牌を納めた霊屋、歴代藩主の三層塔をはじめ、藩主子息らの層塔や五輪塔が造立されました。
霊屋形式の霊廟を伴うのは2代までで、3代遺構の藩主は霊屋を伴わず、大型の三層塔が造られました。
近世大名家墓所の成り立ちのわかる貴重な事例です。

 922小部遺跡  古墳時代前期 集落遺跡 3世紀後半~4世紀 大分県宇佐市大字荒木
  大型掘立柱建物跡が豪族居館に変化
遺跡全景
大型掘立柱建物の検出状況
周防灘を望む宇佐平野西側の低位段丘上に立地する古墳時代前期の集落遺跡です。

前期初頭に環濠集落が成立し、前期前半には環濠内部のほぼ中央に設けられた方形区画に
大型掘立柱建物が立てられ、居館へと変遷します。

※環濠集落が豪族居館に変遷したということか、、
居館とほぼ同時期に築造された、近隣の前方後円墳(赤塚古墳)の被葬者が居館の居住者との見解もあります。

小部遺跡は、古墳時代前期における居館の出現から廃絶までの変遷過程が明らかになったことに加え、古墳と居館の関係性が想定できる点でも重要です。
 
 923北谷城跡 13世紀後半~16世紀前半  沖縄県中頭郡北谷町大村なかがみぐんちゃたんちょう ちゃたんじょうあとorちゃたんぐすくあと
遺跡全景
城門付近の石垣
北谷城跡は、沖縄本島西海岸沿いにある東西500m、南北約165m、標高44mを最高所とする
丘陵に築かれたグスク時代の城跡です。

城跡は5つの曲輪(くるわ)と2つの平場からなり、各曲輪は主に琉球石灰岩を用いた石垣の城壁で囲まれていました。
三の曲輪 発掘調査によって曲輪が造成された13世紀後半以降の、曲輪や石垣の様相と変遷が明らかにされました。
北谷城跡は、中山地域における北方の要として琉球王国の成立過程の一端を解明できる拠点的な城と言えます。
米軍基地内で、1982年以降細々と続けられてきた発掘調査と地域住民による文化財保存継承活動が今回の史跡指定に結びつきました。

基地返還後の町のシンボルとして史跡の意義を次世代へ確実に伝えるため、今後発掘調査の見学会や体験学習等を通して遺跡が身近に感じられる取り組みを行います。

 924名勝神仙郷   神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300-361
観山亭からの景観
南側の滝  強羅は 早雲山の山体崩壊による火砕流が形成した扇状地で、近代に発展した別荘地です。
名勝神仙郷は、この地域の標高約600~620mの斜面に、世界救世教の創始者である岡田重吉が「地上天国のひな型」として造営した庭園です。
   苔庭  園内には、「観山亭」や茶室「山月庵」、美術館などが建てられ、露出する巨大な岩石を活かした「石楽園」、「山月庵」周辺の「竹庭」や「苔庭」などが造られました。
神仙郷は、強羅に独特の立地条件を活かしつつ、「地上天国」を表現した庭園で、その意匠は独創性に優れています。
     

 925名勝知恩院方丈庭園
     
     


 931名勝仁和寺御所庭園    京都府京都市右京区御室大内33
  書院庭園北池  京都盆地の東山の一部を構成する華頂山の中腹に位置する、浄土宗総本山知恩院境内にあります。史料からは寛永19年(1642)に、現在の庭園の原型がつくられたと考えられており、
遅くとも18世紀末にはほぼ現在の地割になっていたようです。
   書院庭園南池と集会堂  庭園には2つの池泉があり、それが大方丈と小方丈の建物の縁先で繋がり、庭園と建築が空間的に調和しています。
屈曲した石組護岸、豪壮な滝石組、巨大な岩島や景石、池中の石灯籠などが特徴的です。
江戸時代につくられた往時の姿を方丈建築と一体によく伝えています。


 932糸魚川市根知の糸魚川―静岡構造線 新潟県糸魚川市
糸魚川根知の断層露頭
露頭の岩相 糸魚川構造線は、新潟県糸魚川市から静岡県静岡市に至る長さ250kmに及ぶ日本列島を東北日本と西南日本に二分する大断層です。
断層を境に西側が比較的古い時代、東側が新第三紀や第四紀の地質帯となります。
縞状の断層破砕帯 糸魚川市根知では、古生代ペルム紀の舞鶴帯に属する変斑レイ岩及び砂岩・泥岩と、
新生代第三紀中新世の安山岩や砂岩が接します。
両者の形成年差は2億年以上で、糸魚川静岡構造線の中で最大です。
断層運動によって形成された幅約10m以上の断層破砕帯を観察できます。




 933天然記念物溝ノ口洞穴    鹿児島県曽於市財部町下財部4907 そおし たからべちょう しもたからべ
   水によって浸食された火砕流下の洞穴
溝ノ口洞穴
   溝ノ口洞穴 溝ノ口洞穴は、入戸火砕流堆積物中に形成された洞穴です。入口の幅14.6m、高さ6.4m、全長209.5mで
、火砕流堆積物中に形成された洞穴としては国内最大級の規模を誇ります。
洞窟入口では、最下部の大隅降下軽石層の上位に非溶結部と溶結部が交互に重なる様子が観察できます。
 洞穴壁面にみられる吹き抜けパイプ
洞穴の形成はシラス台地中の地下水と密接に関係しています。
地下水は火砕流堆積物下位の非溶結部を優先的に浸食し、繰り返された炮烙により、洞穴が成長したと考えられます。
このように、その規模だけでなく、火砕流堆積物の溶結作用や浸食作用を示す学術的価値が高い洞穴です。




 934伊平屋島のウバメガシ群落
虎頭岩のウバメガシ
ウバメガシ ウバメガシはコナラ属の常緑広葉樹で、伊平屋島のウバメガシ群落は日本の分布南限地帯に位置する良好な時世です。

虎頭岩頂部ではウバメガシの純林が見られ、群落高2m程度の風衝低木林となっています。
トベラ-ウバメガシ群落ながら周囲には亜熱帯性の植物を多く含む特徴がみられます。
虎頭岩南西斜面の
ウバメガシ
沖縄のウバメガシは、前期更新世までに琉球弧を渡って大陸から日本に移入した集団であり、他地域集団とは長い期間隔離された残存集団である可能性があります。

大陸から日本への移入プロセスを明らかにする貴重な存在なのです。

 935全国史跡整備市町村協議会の概要
河後森城跡
愛媛県松野町
足利学校跡
栃木県足利市
大山寺旧境内
鳥取県大山町
武蔵国府跡
東京都府中市
常呂遺跡
北海道北見市
津軽氏城跡・種里・堀越・弘前の各城跡
福智町埋文センター
福岡県福智町
武田氏館跡
山梨県甲府市
久留部官衙遺跡
三重県四日市市
重要文化財的景観
新上五島町崎浦の五島石集落景観
長崎県新上五島町
見沼通船堀
さいたま市
 史跡等の買い上げと整備・活用
山中城跡
静岡県三島市
山中城跡
静岡県三島市
北大東島燐鉱山遺跡
沖縄県北大東島
名勝及び史跡
三徳山
鳥取県三朝町
天然記念物
三瓶小豆原埋没林
島根県大田市
丸亀城跡
香川県丸亀市
 
 
 

 
   発掘された日本列島2021地域展示


 1000地域展示 最新群馬の発掘事情

 日本は毎年数多くの発掘調査が高い頻度で行われている、世界でもきわめて稀な国の一つです。
群馬県も例外ではなく、令和2年度には本調査だけでも110件あまりの発掘調査が実施されました。
調査の対象も旧石器時代から近現代まで全ての時代に渡り、地域の歴史に力強く迫るような成果が続出しています。

 今回の地域展示では、近年の発掘調査の中から、興味深い内容を備えた遺跡を紹介します。
古墳時代の榛名山の噴火で被災した、地域の拠点施設が発見された金井下新田遺跡を始め、
とりわけ目覚ましい成果のあった遺跡や、継続して発掘調査を行うことにより遺跡の全容が明らかになって来た遺跡など、
パネル展示も含めて10の遺跡を取り上げました。

いずれの遺跡からも「群馬らしさ」を感じ取ることができる所です。
出土品や調査写真から、群馬県地域に暮らした人々に思いを馳せてみてください。

 1001
最新群馬の発掘情報
最新群馬の発掘事情
上に記述

 展示遺跡位置図
展示遺跡位置図

旧石器時代
➀三ツ木東原BC(藤岡市)
縄文時代
②小倉丸山砦遺跡(桐生市)
古墳時代
③遠見山古墳(前橋市)
④金井下新田遺跡(渋川市)
⑤下里見天神前遺跡(高崎市)
古墳時代
⑥反丸遺跡(太田市)
古代
⑦上野国分寺遺跡(高崎市・前橋市)
中世
⑧岩櫃城跡(東吾妻町)
近世
⑨沼田城跡(沼田市)
近現代
⑩旧富岡製糸場(富岡市)
 

  旧石器時代

 1010三ッ木東原B遺跡三ツ木東原C遺跡 約3万1千年前 【群馬県藤岡市三ツ木

 遺跡概要
 藤岡市西部、藤岡歴史館の北側に隣接する毛野国白石丘陵公園内に位置しています。
河岸段丘上の北側斜面に立地し、2つの遺跡は約230m離れています。
 発掘調査の成果
■姶良丹沢火山灰(AT、約2万9千年前)の下の暗褐色粘土層から石器が出土しました。この粘土層は光ルミネッセンス年代測定法により、
 約3万1千年前と言う結果が得られています。
■両遺跡から複数の石器集中部が見つかり、三ツ木東原B遺跡では、ナイフ形石器や台形様石器などがまとまって出土しました。
 群馬県西部における旧石器時代前半期の貴重な資料群となっています。

B遺跡:旧石器時代、縄文時代、古墳時代、 古墳~平安時代
C遺跡:旧石器時代、縄文時代、平安時代~中世

三ツ木東原B・同C 遺跡概要 3.1万年前の石器層
最下層大変深い層
浅間板鼻黄色軽石
(As-YP)
浅間大窪沢軽石群
(As-OK)(Group)
浅間板鼻褐色軽石群
(As-BP Group)
浅間室田軽石
(As-MP)
姶良丹沢火山灰(AT)
石器包含層

石器集中区 B遺跡
石器に黒曜石がなく、C遺跡より古い
※石器ブロックからわかること
使用石器によって石器ブロックが違う。
・時期によって使用石器が異なった。
・石器を製作する度に位置を変えている。
 石器片が散らばる場所を避けている。
 石器製作小屋は壊さず保存して石器片から
 身を守り、次年以降にも分かるようにした。
石器集中区 C遺跡

※石器ブロックの形成者
新しい石器材料黒曜石の石器ブロックは以前の石器ブロックとは離れている。在地の人でなく、別の集団かも知れない。。

 1013石器 三ツ木東原B遺跡
接合資料
三ツ木東原B
後期旧石器時代前半
台石
三ツ木東原B
後期旧石器時代前半
敲石
三ツ木東原C
後期旧石器時代前半
接合資料
三ツ木東原C
後期旧石器時代前半
 1015
二次加工のある剥片
石刃
三ツ木東原B
後期旧石器時代前半
二次加工のある剥片
石刃
ナイフ形石器
三ツ木東原B
後期旧石器時代前半

柄を付けて石槍として使いました
台形様石器
三ツ木東原B
後期旧石器時代前半

 1016ナイフ形石器
ナイフ形石器
三ツ木東原C
後期旧石器時代前半
 
 

  縄文時代


 縄文時代草創期

 1011小倉丸山砦遺跡 【桐生市川内町】 縄文草創期後半の遺跡。多縄文系土器が2千点以上。

 遺跡概要
渡良瀬川左岸の標高約140~142mの所にあります。
西側には渡良瀬川の小支流である小倉川が南流、本遺跡がある台地が西側に張り出したことから、これに沿うように西に流れを変えています。
遺跡名の通り、中世城館跡として広く知られており、平成25(2013)年度の発掘調査で、縄文時代草創期の遺物が多数発見されました。
 調査の結果
■2つの調査区から、縄文時代草創期後半(約1万1千年前)の多縄文系土器が2千点以上出土しました。
 出土状況から、この時期のまとまった遺物として非常に貴重な発見です。
■土器に伴って、丁寧に加工を施した有舌尖頭器のほか、石鏃、礫器などが出土しました。

遺跡を東から望む
矢印が遺跡地
1区遺跡出土状況
2区有舌尖頭器出土状況

  縄文時代草創期

 1017小倉丸山砦遺跡  桐生市川内町 縄文時代草創期後半

 石器
木葉形薄型尖頭器
小倉丸山砦遺跡
桐生市川内町
縄文時代草創期後半
木葉形薄型尖頭器 石鏃
磨石
小倉丸山砦遺跡
縄文時代草創期後半
 1018縄文土器
縄文土器
小倉丸山砦遺跡
桐生市川内町
草創期後半~早期前半
爪形文土器
多縄文系土器
 1019礫器
小倉丸山砦遺跡
桐生市川内町
縄文草創期後半
 

  古墳時代


 1030遠見山古墳 5世紀後半 【前橋市総社町1386-2】
   とのみやま
 1031遺跡概要
前橋市西部の総社地区を中心として、利根川西岸に分布する総社古墳群の一つです。周辺には、山王廃寺や上野国分寺・国分尼寺、上野国府など古代の重要な遺跡が集まっています。
 発掘調査の成果
■墳丘長87.5mの前方後円墳で、前方部北側には造出部を持つと推定されています。
 墳丘の高さは前方部5.2m、後円部5.6m、周囲には現地表面から2.5~3mの深さの周堀が巡っています。

■墳丘斜面には川原石の葺石を丹念に施しており、1.5m程の間隔で施工単位を示すと見られる縦方向の石列が確認されました。
■後円部の墳丘基壇では埴輪列が確認され、墳は夕には埴輪列が巡って板と考えられます。
■造り出し部の上方では高坏を中心とした土器群がまとまって出土し、祭祀儀礼を行ったと推定されます。
■周堀内に堆積した火山灰の年代や出土した土器、埴輪から古墳の築造年代は5世紀後半と考えられます。

遠見山古墳 くびれ部 葺石 後円部基壇
埴輪列
遠見山古墳測量図
前方部
祭祀跡遺物出土状況
 1032
遠見山古墳と周辺の遺跡
古墳群 国府・廃寺跡

 1033三ツ寺型高坏ってなあに 巨大な高坏です。

 1036土師器 赤彩土器 遠見山古墳 前橋市総社町 5世紀後半
土師器高坏
三ツ寺型高坏
遠見山古墳
前橋市総社町
5世紀後半
土師器高坏
土師器埦
遠見山古墳
前橋市総社町
5世紀後半
土師器壺
遠見山古墳
前橋市総社町
5世紀後半
 1037円筒埴輪
円筒埴輪
円筒埴輪
朝顔形埴輪
朝顔形埴輪 朝顔形埴輪
 

 1050金井下新田遺跡 古墳時代  【渋川市金井1837】

 1051遺跡概要
 榛名山東麓に形成された金井扇状地に立地しています。「甲よろいを着た古墳人」が発見された金井東裏遺跡と隣接し、
これらの遺跡はまとめて「金井遺跡群」と呼ばれています。
 6世紀初頭に噴火した榛名二ツ岳渋川テフラ(Hr-FA)に埋没することから、発掘調査により、古墳時代の新知見が得られています。
 発掘調査の成果
■「十代の古墳人」、「勾玉の古墳人」が「金井馬」と共に火砕流に被災した状態で発見されました。
 金井遺跡群で計6名の被災古墳人が確認されたことになります。
■古墳時代の拠点施設である「囲い状遺構」が発見されました。高さ3mの網代垣あじろがきに囲まれ、内部には大型竪穴建物や高床建物が
 計画的に設置されていましたが、榛名山噴火前に解体されていることが確認されました。
■囲い状遺構の周囲には祭祀遺構があり、どの様にして残されたのか具体的に分かりました。

金井下新田遺跡 金井下新田遺跡 榛名山北東麓に立地する金井遺跡群 金井下新田遺跡
祭祀遺構の土器術度状況(4区1号祭祀遺構) 十代の古墳人と2頭の金井馬
(1区5号竪穴建物)
勾玉の古墳人
(1区6号竪穴建物)
火砕流でなぎ倒された網代垣
網代垣の復元模式図
 1053
青銅製小型倭鏡
金井下新田遺跡
渋川市金井
5c後半~6c初頭
つまみに有機質のものが残っています。
材質不明
囲状遺構南西隅から出土した小型倭鏡と石製模造品
石製模造品
金井下新田遺跡
渋川市金井
5c後半-6c初頭
石製模造品 鎌形
斧形・剣形・有孔円板
石製模造品(剣形) 金井下新田遺跡
渋川市金井
5c後半-6c初頭
石製模造品(剣形) 金井下新田遺跡
渋川市金井
5c後半-6c初頭

 鉄製品 金井下新田遺跡 渋川市金井 5c後半-6c初頭
臼玉が付着しています
ヤリガンナ・鉄鏃

 1057土師器  金井下新田遺跡 渋川市金井 5c後半-6c初頭
高坏  
須恵器 ハソウ 土師器 坩かん 小型甕 土師器 甕 土師器 壺 
 

 1071下里見天神前遺跡  【高崎市下里見町】  主な時代 縄文 古墳 奈良・平安・中世

 遺跡概要
 遺跡は北側を東に向かって流れる烏川の河岸段丘上に立地しています。5区3号墳と呼ばれる古墳から埴輪がまとまって発見されました。
古墳全体を発掘したわけではありませんが、周溝外側で直径20m程の円墳と推定されます。埋葬施設は横穴式石室と考えられます。
 発掘調査の成果
■墳丘上に並べられた埴輪の他に、周溝内にまとめて置かれた未使用の埴輪が多数見つかりました
■未使用のまま置かれた埴輪は、馬形埴輪1体、人物埴輪1体、朝顔形埴輪4点、円筒埴輪17点ありましたが、古墳に建てられた痕跡はなく、
 しばらくのざらしだったようです。このほかに須恵器提瓶と直口壺も1点ずつ置かれていました。
■墳丘上に並べられた埴輪と、未使用のまま集められた埴輪は、大きさや厚さ、粘土、作るときに使った工具が違っていることが分かりました。

下里見天神前遺跡 遺跡全景
矢印が未使用埴輪出土地点
5区5号墳 墳丘と周溝
未使用の埴輪
未使用埴輪の出土状態


 

 1072反丸遺跡 【太田市吉沢町】
 
 遺跡概要
西の八王子丘陵と東野渡良瀬川に挟まれた細長い微高地に立地しています。
発掘調査は、昭和57・58(1982-83)年に群馬県教委、平成29~令和2(2017-20)年度にかけて太田市教委が行いました。
※古墳時代の建物跡400棟以上。遺物収納場900箱以上。
 発掘調査の成果
■これまでの調査で、古墳時代の竪穴建物跡が400軒以上発見されました。時期別では4世紀のものは少なく、次第に数が増え、6世紀に最も多くなっています。集落の中心部では、同じ、場所で何度も建て替えられています。また、一辺が11m以上の超大型の建物も見つかっています。
■臼玉など石製模造品を作った工房跡が見つかりました。工房と言っても、通常の竪穴建物と変わらない「住居兼工房」です。製作途中の未成品や製作道具の台石が出土しました。
■祭祀(マツリ)の道具と考えられている土製模造品も発見されました。勾玉、土玉、鏡形などで、土製模造品の多くがかまどの中や周辺から出土しました。※これって、かまどを閉じる時の祭祀だろうか。それとも、かまどの中で焼成し、失敗作は周囲に捨てたから、こんな出土だったのか。

反丸遺跡 遺跡全景 超大型建物跡 製作途中の臼玉と台石
紹介動画
  

  古代


 1080上野国分寺跡こうずけこく 【高崎市東国分町・引間町・前橋市元総社町】

 1081
 遺跡概要
榛名山東南麓、牛池川と染谷川に挟まれた低い台地上に立地しています。同じ台地の南東1kmのところには、上野国府があったと推定されています。
天平13(741)年に聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出し、国ごとに僧寺と尼寺が造られました。
群馬県教委が史跡整備のために昭和55~63年度に発掘調査を行い(第1期)、その後、再整備による発掘調査を平成24~令和元年度に実施しました。
 発掘調査の成果
■重要施設の金堂と注文、回廊が新しく発見され、従来、金堂と考えられてきた建物は講堂と分かりました。
■第1期調査で性格がわからなかった掘立柱建物を鐘楼と推定できました。
■以上により、これまで考えられていた伽藍配置が大きく修正されることになりました。

上野国分寺遺跡
遺跡概要 上野国分寺跡から榛名山を望む
金堂北東角の固く突き固められた土層
修正された伽藍配置 推定復元図
 1085上野国分寺跡遺物 上野国分寺跡 高崎市東国分町・引間町・前橋市元総社町 奈良~平安時代
須恵器碗(燈明皿) 平瓦(文字瓦)「富」
右小片:「吉井」地名
熨斗瓦「勢」勢田郡
軒平瓦 軒丸瓦
左:創建期
軒平・丸瓦 丸瓦・平瓦(文字瓦)
国名・郡名・人名
軒丸瓦
 

  中世


 1100城址


 1101岩櫃城跡 【吾妻郡吾妻町大字原町・郷原】
 遺跡概要
岩櫃山(標高802m)の東麓に広がる山城です。
城の存在が文献資料で初めて確認されるのは、永禄7(1564)年の北条氏康書状です。以降、武田氏とその家臣の真田氏により維持され、
慶長20(1615)年に廃城となったと考えられています。昭和61(1986)年から発掘調査が行われ、令和元年(2019)年に国の史跡に指定されました。
 発掘調査の成果
■城の外縁部では、上幅が極端に広く、底がすぼまる形の薬研堀(竪堀たてぼり)と呼ばれる堀が見つかり、総延長150m以上ありました。
■人為的に埋めた「破城」の痕跡が確認でき、一緒に出土した陶器の年代から文献資料に見られる廃城の時期と重なることが分かりました。
■出土した土器から長野及び山梨県地域との交流の深さがうかがえます。
■本丸から発見された坩堝を分析した結果、内側表面から金のほか銅、亜鉛などの金属粒子が持つかり、複数の金属を加工していた実態が明らかになりました。

岩櫃城跡 岩櫃城跡
岩櫃城跡俯瞰
岩櫃城跡とその周辺
堀切土層から人為的に埋めたことがわかる
「破城」

 1102出土品 岩櫃城跡 戦国~安土桃山時代 吾妻郡東吾妻町原町・郷原
金粒子付着の坩堝

内側に金の粒子
鉄製品 小札こざね
 1103
銅製品 鋲 銅塊か
銅製品 鉄砲玉
 1104
鉄滓
鉄滓(碗型)
鉛製品 鉄砲玉
 1105
風炉ふろ 砥石
碁石か 硯か
 
 1106
磁器 染付皿 磁器 白磁皿 磁器 稜花皿
陶器 皿
かわらけ
内耳土器
 

  近世

  安土桃山・江戸時代

 1111沼田城跡 【沼田市西倉内町】

 遺跡概要
 沼田台地の北西端、利根川と薄根川の合流点に面した台地辺縁に立地します。
初めてこの場所に城郭を築いたのは、鎌倉時代から利根沼田地域の有力豪族であった沼田氏です。
戦国時代末期、利根沼田地域は越後上杉氏、相模北条氏、甲斐武田氏の三者の勢力がぶつかる最前線となり、
最終的に甲斐武田氏勢力の真田氏の属城となりました。

 天正11(1583)年、真田信幸によって整備が始まり、その後、店主や大手桝形が築かれ、17世紀初頭にはおおよそ完成しました。
天和元(1681)年、真田信直(信利)の代に役目怠慢の理由から改易されると、翌年、城は全て破却され、堀も埋められました。
 発掘調査の成果
■本丸堀跡から、天和2(1682)年の破城時に投棄されたと考えられる多量の瓦が出土しました。
■本丸内の調査で、瓦が集中した地層の直下からは掘立柱建物の柱穴を確認しました。この建物跡は「上野国沼田倉内城絵図」(みなかみ町猿ヶ京区有文書)に描かれている十人番所と考えられます。
■本丸堀の南側で、本丸堀よりも古い堀跡を発見しました。
■地中レーダー探査を行い、絵図面から想定される堀跡の一部を検出しました。

現在の沼田城跡 本丸堀に投棄された多量の瓦
確認された柱穴

 1113沼田城跡出土物 沼田城跡 江戸時代 沼田市西倉内町
硯、かわらけ(燈明皿)
中国陶磁器 染付皿 国産磁器 染付丸碗
焼塩壺
金箔付着漆膜
鉄釘
軒丸瓦
 1114
軒平瓦 鯱瓦しゃちがわら 鯱瓦
地中レーダー探査結果

赤が堀跡

堀底の形状
本丸堀と古い堀 真田の沼田城以前に規模の小さい城があったようですね。
 

  近代


 1200旧富岡製糸場 【富岡市富岡】

 1201 遺跡概要
 明治5(1872)年に設立された、日本で最初の官営模範器械製糸工場です。
その後、民間に払い下げられ、三井家(明治26~)、原合名会社(明治35年~)片倉工業株式会社(昭和14年~)へと経営主体が移りながら、
昭和62(1987)年まで115年間操業を続けました。
平成17年(2005)年に国の史跡に指定され、平成26(2014)年には世界遺産(文化)に登録されました。
 発掘調査の成果
■地上の構造物だけでなく、地中に埋まっている遺構の存在を確かめました。
官営期の燥繭所そうけんじょ、原期の北乾燥場や蚕種製造所さんしゅせいぞうしょに関わる遺構などを確認しました。
■煉瓦や瓦など建造物の建築材料や生糸生産に関わる道具のほか、工女の日常生活に関わる道具など、明治から昭和期までの様々なモノが見つかりました。出土品の中には、官営期の工女の暮らしぶりを彷彿とさせる物があります。

旧富岡製糸場 旧富岡製糸場全景 北乾燥場跡 まかない用食器の出土状況
版画富岡製糸場之図
 1203遺物 旧富岡製糸場 明治時代~ 富岡市富岡
目皿 繰糸鍋の内側に入れて使いました
集緒器しゅうちょき
小さな穴に蚕の糸を通して使う
糸鉤いとかぎ
 1205
繰糸鍋 煮繭鍋しゃけんなべ
 1207
耐火煉瓦 普通煉瓦 手抜き成型の普通煉瓦
軒桟瓦。桟瓦
 1211

1磁器 段重箱
2磁器 鬢付油壷
びんづけあぶら
3磁器 紅皿
4挿し櫛
 1213

5硯、6燈明皿 7銭貨
8一銭銅貨
 1215

9魚骨 10土瓶 11飯埦
12皿
富岡日記