[戻る][TOP]


 四国の考古博物館1 10  2019.03.09-1
  
 詫間町民俗資料館・考古館  香川県三豊市詫間町詫間1328-10 0875-83-6858月祝休 撮影可


 
交通 JR詫間駅から1.7km徒歩25分
見所 讃岐西部の考古資料。川之江市考古館は撮影禁止です。
 



10外観

20旧石器時代
21石器を作る
 サヌカイト
 重量石器

100縄文時代
102東風浜遺跡

103大浜遺跡
110縄文土器・石器
130土器の発明
140柄をつけた石器
160縄文後期土器
170土偶と土匙


300弥生時代
310紫雲出山遺跡
312紫雲出遺跡出土物
320弥生土器
322紫雲出山遺跡出土土器
323暮らし
330分銅型土製品・貝輪

350戦争・大型石鏃
360石斧

410紫雲出山遺跡のあらまし
411紫雲出と魏志倭人伝の「投馬国」
412紫雲出山遺跡出土の道具
考察―紫雲出山遺跡の人々

415食べ物を加工する

420蟻の首遺跡 後期
 蟻の首遺跡の小壺
430弥生の遺跡
440紫雲出遺跡と弥生時代の戦争
441戦い
442日本の高地性集落
443石鏃は何に使われていたか
450北谷遺跡
452北谷遺跡の土器・石器



500古墳時代
502古岡山古墳
503矢ノ岡古墳の石釧
504詫間町の古墳マップ
505詫間町の古墳
506吉吾鼻古墳
507土師器
508須恵器

521詫間町の遺跡
522船越遺跡

710サヌカイト
711サヌカイトの分布・生成
712サヌカイト原石
720ため池から
722不動の滝遺跡出土物
724金鳥遺跡出土物


750中世
751橘城跡出土品
752各地からの土器
753戦国時代の山城

754古代

754藤原宮造営の瓦生産地

780各時代の遺跡地図

900詫間町と近辺の風景
 

 10外観


右の平屋:民俗資料館
左の二階家:考古館
屋外展示 箱式石棺 古岡山古墳の箱式石棺
考古館 この建物、変なんです。中に入ると右手に扉もなしにトイレになってる。

この建物は元々トイレで、それをちょっと改造して考古館にしたんじゃないか。

大便なんかすると館内に臭いにおいが充満するね。
詫間町古代遺跡
ジオラマ
 
 三豊市の詫間町は瀬戸内海に突き出た半島の町です。

産業は昔から製塩業をほんの一部で行っていた。今はゴルフ場に転身。
詫間町の位置 三豊市庄内半島 の付け根、北側にある詫間町です。
弥生時代のような頻繁な瀬戸内海航路の往来もないはずの縄文時代に、なぜこんな狭い地域に遺跡が集中したのでしょうか。
しかも、遺跡が砂丘上にあるという不思議。その反対は不便な山頂上に遺跡群がある。

旧石器時代は、瀬戸内低地で大河が西へ流れる地域、次第に海が侵入して縄文一万年となり、現在に近い海岸線に居住するようになるが、四国の地形から、西に突き出た半島には人々が集中する理由があったのかもしれない。
  ※重要なこと 以下の展示は、上記ジオラマの範囲の中、瀬戸内海に突き出た小さな狭い半島の中、でのみ起こっていた考古学的事実です。

 




 20旧石器時代


 21石器をつくる
石器製作技法  剥片をつくる  石核石器を作る   ②   
  黒曜石のような石は、他の石で打つと鋭い鋭角を作って欠ける。これだけでも一寸した小刀の代用くらい立派にできるほどである。 上(左)の方法を繰り返してゆくと両側に刃型ができて小刀が出来上がる。  固い磨製石器の先を利用すると更に細かい仕事ができる  ・固い棒の先を尖らせて石に充てて木槌で打つと思い通りに石を割ることが出来る。 
・弾力性のある鹿角で敲くと思い通りにに割れやすい。
石のみを使って割る方法もある。 


 サヌカイト
  サヌカイトは、讃岐の石という意味で叩くとカンカンなるところから、別名カンカン石とも言われる。
  この石で石鏃や石槍を作って猟をした。
サヌカイト
サヌカイト=安山岩
岩ガラスの性質をもつ
旧石器時代の石器
ナイフ形石器
尖頭器

ナイフ形石器

掻器

尖頭器の先端

石核石器

重量石器※

? 砥石✖尖頭器✖
磨製石斧✖石棒✖

重量石器 は、3万年前の宮崎県山田遺跡(延岡市)から出土している。倉敷考古館でも、瀬戸内海から重量石器としてハンドアックス
  出土(出海?)し、南方系石器と書いている。野尻湖ナウマンゾウ博物館 でも、図表の中で、中期旧石器時代からの石器として位置づけている。

  Wikiでは、「砂岩や玄武岩のような礫状のものを材料とした重量のある大型石器と、黒曜石やサヌカイトなどのような緻密な材料の石の剥片を
         材料とした軽量の小型石器に分けことも多い」とあるので、
  一般的にあまり取り上げられないが、後期旧石器時代においても、重量石器によるチカラワザは、やはりあったのでしょうし、なければ困ると思う。
 




 100縄文時代


 101panel
縄文集落想像図 縄文時代 土器づくり想像図 縄文遺跡の出土物
 



 102東風浜遺跡 三豊市詫間町粟島東風浜 縄文中期~古墳時代
  砂州の中から現れた縄文~古墳時代遺跡

 1東風浜とは(読み:こちはま)
粟島東風浜集落は、北に阿島、南に山崎という二つの山を結ぶ砂州の上にある。
この砂州は、山地から流出した土砂の堆積や、潮流、季節風によって海底から運ばれた土砂が隆起作用によって発達し、
阿島を陸繋(トンボロ)したもので長さ約300m、幅約250mもの大きな砂州である。

 2発掘について
この砂州に縄文文化が埋もれていることが知られたのは昭和27年5月で、昭和30年8月7日より2日間、県、地元、学校などが協力し、発掘調査が行われた。

 3出土品
すぐ近くにある西浜遺跡の遺物が縄文後期に限られていて単純であるが、
東風浜遺跡は縄文中期から古墳時代に至る各時代を含む長期に渡る遺物を埋蔵している。

 〇石器
出土した石器の種類も多く、石斧、叩石、石錘、石匙、無数の石鏃が発見された。

疑問
※この時代は縄文海進の頃であり、猟場は海を渡った四国の内陸に行かなければならないはずだが、どうしてこんなところに狩猟具が沢山揃っていたのだろう。

 〇土器
発掘された土器は全般に破片が多く、完形に近いものは見つからなかった。

出土した土器の特徴を述べると、まず、弧状線突帯文土器縄文中期の土器、瀬戸内縄文の特徴的土器)がある。これは縄文をつけている土器の表面に、細紐を貼り付けたような突帯文を弧状線にモールの様につけ、その上に竹管で三日月状文を連続的に押し付けて文様とした深鉢形の土器である。

このモールが垂れているような美しい特殊な文様は、仁尾町南草木式縄文人の一族が移住してきたかと思われるほどよく似た点がある、縄文中期の土器である。

また、量的には、一番多く出土した、磨消縄文土器がある。
これは、縄文地に描いた渦文の所々を指で、縄目を磨り消して、沈線の美を浮き上がらせようと技巧を凝らしたものである。
これは岡山県の中津式と同類であることから、中国地方との往来が考えられ、縄文後期に属するものである。

  ※岡山県と密接な往来があったようなので、この半島の役割は、岡山・香川から対岸を目指しながらも西に流される舟が、最後に引っかかる
   地域だったのかもしれない。ここを外れれば、かなり航路を外れてしまう

※南草木式縄文人 香川県三豊市仁尾町南草木 南草木貝塚人のことである。 引用南草木貝塚の基本情報
 香川県三豊市の仁尾町南草木地区にある南草木遺跡は、三崎半島にあり、香川県下最大級の縄文貝塚として、知られています。ここ南草木、小蔦島の二箇所に貝塚が残されています。
  南草木貝塚は、弥生時代の竪穴式住居や、縄文時代の貝塚が発見されています。矢じり、皮剥ぎ器といった生活用具に加え、竪穴式住居跡が検出されました。
  小蔦島貝塚は、瀬戸内地方で最も古い貝塚といわれています。県の指定史跡となっています。詫間駅からバスで15分、徒歩で10分のところにあります。

 〇縄文の暮らし
石器や土器と共に、3~4千年のむかしから土に埋もれていたものに、二枚貝、巻貝、魚骨、鹿角や骨がある。彼らの主食は貝類、魚類、獣肉などであったと考えられる。二枚貝や巻貝は熱い湯で煮て、中身を抜き、大きい巻貝、にし、さざえなどはつぼ焼きにしたらしく、貝を砕いた形跡はなかった。

漁は丸木舟か筏に乗って網で獲り、または獣骨で作った釣針でつり、あるいは骨角製の銛で突いて獲ったようである。

しかし、粟島では、網漁が多かったらしく、石錘が多く残っている。当時は鹿も多かったらしく、これを食し、角や骨で道具を作ったためか、鹿の角や骨が多く出土している。

仁尾町小蔦島の貝塚からも、多くの鹿の骨角が出土しているが、角が多い所から牡(オス)を(選択的に)捕っていたと思われる。

次にこの時代の衣服であるが、植物繊維を編んだ布や、獣の皮を利用したようである。
この時代に作られたと推察される土偶を見てみると、その当時の着物の形がほぼ想像できる。
形は上衣と下衣に分かれ、上服は洋服の様に細い袖がつき、着丈は腰の下までになっており、下衣は今のズボンと同じようであった。

家は竪穴式といわれるもので、3~4坪、その中に平均5~7人の家族が住んでいたようです。

東風浜遺跡
上に記述

上に記述

上に記述
 



 103大浜遺跡 三豊市詫間町大浜甲1633番地1 縄文後期

     紫雲出山山頂遺跡群 「紫雲出山遺跡館というのがありました(今、見つかりました。) 車が必要です。

 1場 所
遺跡は大浜小学校運動場の南半分と、それに続く南縁一帯である。小学校とその北隣の船越八幡境内には、大松によって森がつくられている。
近くの山に登ってこの森を見ると、丁度三日月の形をしているところから、昔からこの地域の人々は三日月森と呼んでいる。

この森は、長さ南北約300m、幅東西約90mの大砂州を覆っている。この森の中の神社にも学校にも遺跡がある。
砂州の北半分(神社境内)には薬師遺跡や方墳などがあり、南半分の学校用地は、それよりもずっと古い縄文土器の散布地となっている。

 2発 掘
この地が縄文遺跡であると気付き始めたのは昭和35年頃のことである。
大浜小学校が穴を掘っていたところ無文土器が出てきた。これが縄文土器であると判明したのは約1年後である。
その後、地元の研究家によって縄文土器の発掘が進められた。

 3出土品
この遺跡から出土した土器の多くは中津式と呼ばれる縄文後期のものである。
また、土器と一緒に石錘が多く出土した。これは漁撈を生業とする人々が住んでいたあかしである。

特筆すべきことは、土偶が3個も発見されたことである。土偶とは女性をかたどった土の人形で、素焼きの土器である。
原始の人々が信仰的に生産を祈り繁殖を願った象徴であろう。
土偶は縄文後期、晩期の遺跡から出土し、中期以前の遺跡からは出土しないのである。

この船越土偶は、三個とも運動場の中央部から発見された。大きさは、Ⓐ7.2cm Ⓑ6.4cm Ⓒ2.8cmで、
3個とも粗い粘土で作られ、ようやく人体であることが知れる程度であった。

象徴的な表現で、左右均斉の立像であり、女性を表現している。

このような土偶は、原始的信仰に繋がる人形として、興味が尽きないが、
土偶が作られた縄文後期の頃から、信仰心や宗教心というものが、原始の人々の心に芽生えて行ったと推測されるのである。

森林に包まれた、この砂州はトンボロであり、神域でもある。そして、この神域の起源と古代人の
 (一行判読不能)
き、はなはだ興味深いものがある。また、縄文土器の分布は学校用地だけでなく、東の方の人家の一部にまで伸びているようである。

 3その他の遺跡
町内の縄文土器遺跡は、前述の他に、箱浦遺跡、香田遺跡、蟻の首遺跡などがあるが、町内の縄文遺跡のほとんどが青松白砂の海岸にあったと想像されることである。
香田遺跡・蟻の首遺跡については、詫間町史P60や詫間町文化財誌第一集P6に記述してあるので省略するが、その後の調査事項をまとめ、次に記載してみよう。

大浜遺跡 大浜遺跡
上に記述

上に記述

上に記述
 
 110縄文土器

浅鉢形土器

ひっかいた文様が
船元式土器に似る
縄文中期土器

縄文を施文後、竹管の背文のような描画
把手付深鉢形土器

中期土器のようです
深鉢形土器 ※対岸の岡山文化圏の土器が多いようです。

中期土器が多いのは
東風浜遺跡
 120
出土貝類 磨石・石皿 磨り石・石皿 磨り石・石皿 磨製石斧・彫器・石匙


 130土器の発明

縄文土器の作り方

補修口でないのに穿孔されている

竹菅文の土器文様

まるで弥生の蒸し器(甑こしき)のような穴があけてある
縄文土器戸弥生・古墳土器が混在している
東風浜遺跡
 

 140石器

 柄をつけた石器
新石器時代に入ると石器に木や石で柄をつけて使用するようになった。柄のつけ方も様々で、石器が道具として一歩進んだわけである。

柄をつけた石器 石斧
大浜に必要だがばかりとは言えない石器
石錘
東風浜・大浜に共通痛する石器

 160縄文後期土器 大浜遺跡
縄文土器
後期 大浜遺跡
 165土器の名称 その基準

甕・壺・深鉢・浅鉢
皿・高坏
 

 170土偶と土匙 大浜遺跡出土
土偶と土匙
大浜遺跡出土
土偶 土偶とスプーン 大浜遺跡 土偶
大浜遺跡出土
〇〇型土偶

大浜遺跡出土
土器片
須田中尾瀬遺跡
ドングリ貯蔵穴

ピット内のドングリ
土偶を使う 狩猟の際、猛獣に噛まれた足の傷を、
土偶を打ち欠くことによって直そうとする縄文人
 




 300弥生時代



 310紫雲出山遺跡(しうで)

 発掘調査の経緯
紫雲出山遺跡は、昭和30(1955)年に京都大学考古学研究室によって発掘調査され、今年で60年が経ちます。(2015年記述か)
60年前の調査では、貝塚列石と共に多くの弥生土器や石器が出土しました。調査報告書は「紫雲出」として公表され有名な遺跡となりました。

山頂に遺跡館を建設することになった昭和63年の調査では、竪穴住居・掘立柱建物が発見され、遺跡館の横に復元されました。
平成24年の調査では、炉跡ピットを検出し、何らかの建物跡と確認しました。

平成25・26年と継続調査したところ、少しずつですが、山頂にいた人々の痕跡が明らかになりつつあります。

 海岸線に面した、ある種の高地性集落と考えられます。こんな所でも海賊が横行していたようです。

桜やアジサイの名所としても有名な紫雲出山。多くの人がその絶景を楽しむ観光地に、昔は人が住んでいました。
高い所にあるため、移動や食料の調達など不便であったにもかかわらず…

なぜ、不便な山頂に人々が住んでいたかはまだ謎です。
しかし、ここに展示している出土品は、間違いなく当時の人々があの山頂に棲んでいた証です。

弥生時代 弥生時代 紫雲出山遺跡の位置 発掘調査の経緯
上に記述

 311紫雲出遺跡  平成28年度発掘調査報告

住居、土器焼成穴を確認した
竪穴建物を発見
住居南端から
磨石・砥石出土

山頂の紫雲出遺跡群発掘現場位置図(黒)
土坑を発見
生の土器捨て穴だっ
 312紫雲出遺跡出土物
紫雲出遺跡出土物 竪穴建物出土
弥生土器
(甕=鍋) (壺=貯蔵)
(高坏・鉢=盛り付け)

表面が剥がれてしまった土器
土坑出土土器
砥石
磨石
石包丁
石鏃
 
 320弥生土器
 321
赤米種・白米種 弥生土器
型式不明
甕形土器
フイゴの羽口が混在


 322紫雲出山遺跡出土土器

 展示土器
ここに展示している出土品は、昭和30~33年の調査で出土しました。土器は、壺・甕・高坏といった、平地で出土する一般的なものです。
 壺…水や穀物を貯蔵する容器
 甕…コメなどを蒸したり煮炊きしたりする容器
 高坏…食べ物などを盛り付けるための容器

壺と甕の底部には、意図的に穴を開けているものもあります。穴によって土器本来の目的は失われます。何のために穴を開けたのでしょうか? 

紫雲出山山頂遺跡 展示土器の説明 土器の種類と穿孔土器 壺、甕
浅鉢、浅鉢
高坏形土器、甕形土器
壺形土器の口縁 壺形土器の口縁部
 

 323暮らし

 稲のとり入れ
石包丁で摘み取った稲穂を、籠や壺・田舟などに入れて運び、むしろの上で干す。(※稲穂は壺には入らんやろ。稲籾にすれば入るが。)
干した稲穂は立臼たてうす)と竪杵(たてぎね)で籾殻を取る。

 工具づくり
弥生人はそれぞれの特技を生かし、金属器をつくる技術に優れた者は祭器などの青銅器を作り、土器づくりに優れた者は土器を焼き、石器作りに優れた者は石器を作るなどして、分業で生活用具を作った。また、この頃、地機を利用して布も織られた。

稲のとり入れ 工具づくり
鉢形土器 高坏形土器 高坏形土器
脚注は混乱していると思います
 
  330分銅型土製品・紡錘車・貝製腕輪
原始機 (げんしばた) Linkは弥生時代の原始機ですが、

左の原始機は、開口具を吊るして開閉を楽にするよう進化しています。

これを地機と言います。
縦糸の切り替えは足指に付けた紐を引くことによって楽に行えます。

5世紀の渡来文化大量流入時に伝わりました。

原始機・地機・高機
紡錘車 繊維を撚り合わせて長い糸をつくる。
重さによって糸の閉まり具合が違う。
分銅形土製品
魔除け・お守りのようなものに使われた
分銅形土製品
呪術具。吉備に多い。
紡錘車
孔に棒を通し、繊維を糸に紡ぐ、糸に撚りを掛けて、棒に巻き取るのに使う。
貝製腕輪
ベンケイガイ


 350戦争
  獣を捕らえるための軽い矢尻から、人の体を深く貫く重い矢尻へ。弥生人は、殺傷のための武器を作り出した。
狩りの道具、武器に変わる 大型石鏃
平基式・凹基式

凸基無茎式
凸基無茎式
凸基有茎式
石の矢尻(打製)
石の矢尻(打製)
紀元前1~紀元後1世紀
紫雲出山遺跡
 360石斧
縦斧の種類と活用法
横斧の種類と活用法
磨製石斧
 
 400


 410紫雲出山遺跡のあらまし

昭和22年、地元の郷土史家前田雄三氏によって発見され、本町出身の田村実造(京都大学名誉教授)の紹介で、京都大学の小林行雄教授により発掘されました。

その結果、今から約2000年前(弥生時代中期)に人々が生活していたことがわかった。
生活に使われていた土器め鉄製品、石鏃や石の短剣・木材の伐採や加工のための石斧、貝製の腕輪、食料のヒエなども検出された。

特に、ここは眺めがよく、多くの石鏃が検出したので、守りやすく戦いの見張りに適した集落として作られたものではないかと注目されている。

 ※やはり戦闘に備えた高地性集落でした。

昭和63年、香川大学の丹羽佑一先生の指導による調査で半地下構造の家の跡(竪穴住居)と二階建ての倉庫(高床倉庫)が見つかりました。
この遺跡の隣には、竪穴住居と高床倉庫を〇し移して当時のままに復元している。また、本町庁舎横の考古資料館にはここで見つけられた土器などを展示している。
 
 411
 紫雲出と魏志倭人伝の「投馬国
今から1700年以上も昔、女王卑弥呼の邪馬台国は九州にあったとする説と奈良にあったとする説が有力です。
奈良にあったとする古代史の直木孝次郎三は『投馬国は瀬戸内海の南岸が自然で音の類似から詫間町付近はどうか』(「倭国の誕生」日本の歴史・小学館1983年)と書いています。

魏志倭人伝を忠実に読むと、投馬国は太平洋の中にあったことになってしまいます。「南」は「東」、「一月」は「一日」の間違いとか、色々な修正案があります。しかし、奈良にあったとすれば、家の数が5万もあったという「投馬国」は九州と奈良の中間にあったことになり、宅間投馬説も生まれてくるのです。投馬国の候補地としては他に、出雲(島根)、鞆の浦(広島)、鞆(岡山)、但馬(兵庫)があがっています。
 中略
観音寺出身の国立民族学博物館名誉教授、小山修三さんは、「九州と畿内を繋ぐ瀬戸内海は、物資と文化のハイウエー。水運の要を担っていた讃岐が投馬国だった可能性は捨てきれません」と話しています。(香川読売1999年)

紫雲出遺跡のあらまし

上に記述
紫雲出と魏志倭人伝の
「投馬国」

上に記述
  讃岐地域の高地性集落と
讃岐Ⅰ式製塩土器出土遺跡
(弥生中期後半) 

手島沖海上がりの日向産の壺。弥生中期後半
(約2,100年前) 

紫雲出山遺跡の貝輪・釣針
弥生中期後半
(約2,100年前) 

紫雲出遺跡出土の鉄製品
弥生中期後半
(約2,100年前) 
復元建物
高床倉庫跡・竪穴住居跡
時代と共に土器様式も変わる



 412紫雲出山遺跡出土の道具

短剣 短剣 石包丁
鉄製品 鉄鋌 鉄鋌 鉄製刀子


 考察―紫雲出山遺跡の人々
紫雲出遺跡は、防御性高地性集落である。
弥生特有の大型石鏃が多数出土して、戦闘準備がされていた。にもかかわらず、その他の武器が見当たらない。

石製短剣は、接近戦での組み討ちで最後に相手に突き刺す使う武器であり、こんなもの一回ぶつかれば折れてしまう、つまり祭祀具である。

遺跡出土鉄製品は鉄鋌と鉄製刀子で、武器ではない。彼らは丸越しだったわけではなく、手持ち武器は埋納したりせず、最後まで、リサイクルしながら使い切ったようだ。それが鉄製だったかは不明であるが、消耗品の石鏃は、石製で十分だったのでしょう。彼らは鍛冶の技術を持っていなかった。

つまり、弥生時代のここの住人は、狭い海峡を通る舟を見張っていて、襲っていたんじゃないかと想像される。その時入手した鉄鋌は使う技術がなくてだから出土したのではないかと考える。私はここが弥生時代には海賊越智海賊(伊予)、河野海賊(伊予)、三島村上海賊(伊予)、多賀谷海賊(安芸)などの先祖、
確か、宗像一族などの村ではなかったかと思うのです。

   越智海賊、河野海賊、三島村上海賊、九鬼海賊、松浦党、多賀谷海賊、宗像海賊

 415食べ物を加工する
草や木の実を食べなければ生きていけない状況が生じたとき…ときに気まぐれに使ったかもしれないちっぽけな二種の石臼が役立った。
それは、単純な道具であり、それだけではつまらぬ石ころに過ぎないが、その果たした役割は大きかった。
それは後に人類の食料革命をもたらし、新しい文明への歩みを可能にする。

粉の文化のスタートがここにあり、現代はまさにその線上にある。

たたき石 食べ物を加工する
磨臼と磨石
突き臼と敲き石
磨臼と磨石
突き臼と敲き石
紫雲出山遺跡の貝殻・魚骨
ズガイ・マダイ
ヘソマキ・サザエ・マダイ
サルボウ・レイシ・クロダイ
サリ・オオノガイ・スズキ

 


 420蟻の首遺跡 縄文時代後期

 縄文式土器祭具について
1 出土地 詫間町大字宅間699番地 林氏宅内庭
2 発掘年月 昭和40年3月
3 土器の様子 
  縄文時代後期のもので、縄文式土器の中では県下でも珍しい、ほぼ完全な形である。
広口の小壺で、祭具として使用されていたものであろう。底部は高さ5mm程の上げ底を持ち、胴部の長径(左右)11cm短径(上下)6cm、頚部は中央上方に直立し、高さ2mm、無文の広口をそなえている。
器壁は1cm以内で、前面に磨消縄文という施文がある。また、壺の肩部の内側に3本に切断している細い沈線が施され、それで肩部の内側の周りを3つに区分している。
胴部の磨消縄文もこの3本の沈線を基準にして、3組の磨消縄文によって、その前面を覆っている。更に、その一組について観察を進めると、縄文は横に長い(約6cm)U字形をなし、その幅は4mm~8mmで八条に施され、各条の間に3mm程度の幅に磨り消され、その右に続いて右巻きの直径4、5cm程の渦文(磨消縄文)が、やや派手に描かれている。
   
4 原料土及び製法
   胎土(原料の粘土)は手近にある硬質のローム土を精選して採取し、これに細かい長石の砂粒を混合して完全に練り上げ成形してから陰干しにし、おそらく猪油などで練った油粘土のようなもの物で上塗りし、これに施文し、焼いたのであろう。
5 生活環境
蟻の首一帯は、遠浅の海岸だったと語り継がれている。新川などが運んだと思われる土砂が堆積発達した砂州上で漁撈に励み、縄文文化人が営んだ遺跡に残された生活文化財の一つと見たいのである。

土器に施された磨消縄文の模様をじっくり眺めていると、脳裏には、その時代の美しい海辺が浮かび上がってくる。
岬あり、島のある海の公園に、ねっとりとした油が流れているような潮すじ、それは、磨り消した渦巻き状の模様の部分であり、それに隣接する地味な縄文部分は潮が淀んでいる面に小波が立っているところに相当し、両者が交互に配されて美しい縞模様を描き出している。

静かな宅間の海に、たゆとう籃潮の風光を、優れた縄文人の見事な表現力によって、それがいかんなく表現されているように感得され、敬虔なおもいに馳せられる次第である。

蟻の首遺跡
縄文式土器祭具について
上に記述
    蟻の首遺跡
縄文土器小壺 
下に記述
   

 蟻の首遺跡「縄文土器小壺」
  蟻の首遺跡は、三豊市詫間町に所在する縄文時代後期の遺跡である。昭和43年にほぼ完形に近い縄文土器の小壺が出土したことから注目されたが、遺跡の内容については不明である。
小壺は口径6cm胴部径11cm高さ6cmで、胴の部分に「磨消縄文」と呼ばれる文様が描かれている。(中略)

ここで紹介する小壺に描かれた文様は、縄を棒に巻いて表面を転がして縄目をつけ、棒状のもので模様を描き、一部の縄目をなで消していることから磨消縄文と呼ばれ、この時期に好んで描かれたものである。
文様は何かを描くという目的のものではなく抽象的であるが、縄文土器の文様の多様性や装飾性から、現代では縄文人の精神世界を繁栄したものとして注目されている。

蟻の首遺跡がどのような遺跡であったかは不明で、出土した小壺が生活用品が特別な用途(例えば祭祀)を持ったものかも特定できないが、一つの土器から、その時代の人や生活に思いをはせるのも考古学の楽しみの一つである。

 

 430弥生の遺跡

 431
弥生中期初め頃の遺跡
弥生中期中頃の遺跡
弥生中期終わり頃の遺跡
魚を釣る
弓矢
糸を紡ぐ

右手で糸車の大きなはずみ車を回すと小さな、つむ(紡錘・スピンドル)が何度も回転し、
左手に持った綿の繊維から順次絡まった繊維が巻き取られて行く。
初心者は繊維の出が多かったり、少なかったりして悪い糸となるが、熟練者は同じ量の繊維で均等な糸となる。

巻き取ったつむに紡輪を差し込んで吊り下げると糸に撚りがかかる。
稲穂を摘み取る
穂摘み具の窪んだ部分に紐を掛けて指を通し、刃の部分で稲穂を摘み取る。
木を伐る・加工する 木でできた柄に組み合わせた斧で、木を伐り、加工します。
用途によって形が異なり、木を伐るためのものを伐採斧、加工するためのものを加工斧と呼んでいます。

なお加工斧の大部分は、徳島県吉野川付近で作られたものが持ち込まれています。
 


 440紫雲出遺跡と弥生時代の戦争

稲を作り米を食べることが、日本の生活の基本になったのは、およそ、2600~1700年前の弥生時代だった。
かつて学会では、この時代を平和で穏やかな農耕生活が営まれた時代として捉えられていた。

瀬戸内から大阪湾にかけての沿岸や島の高い丘上には、弥生時代の高地性集落遺跡が少なくない。
水田稲作の生活の場としては、低い土地が最も適しているはずだが、高い丘の上に棲んだのはなぜか。

中国の魏志倭人伝(三国志 魏書東夷伝倭人の條)は、西暦2世紀の後半に、倭国、つまり西日本が乱れたと記している。
この倭国乱の記述に対応するような戦いがあったのか。それとも水田では支えきれないほど人口が増えたため、丘陵上にまで耕地を広げ、
山畑を作ったのか。

この謎を解く目的で、京都大学の小林行雄をはじめとする人々が、
この紫雲出山の頂にある弥生時代の遺跡を発掘調査したのは、1955年~57年のことである。
その結果、各種の土器、実った穂を摘み取る石包丁、糸を紡ぐためのおもり(紡輪)など、低地のムラあとに見られるものと同じ種類の生活遺物が
数多く見出された。石鏃や短剣など、石の武器も豊富だった。

それは、この地の恵まれた眺望とともに、「紫雲出山」が戦いに供えた村だった。」との解釈を導いた。このようにして、その調査は、
「弥生時代こそが日本で戦争の始まった時代だった。」といい、現在における考古学会共通の認識への一つの出発点となったのである。

土地争い、水争い、蓄えの奪いあい、政治的統合へ向けての武力衝突・・・・
農耕社会の誕生は、集団と集団のぶつかり合って殺し合うという意味での戦争を導くことになったのです。
1988年、香川大学の丹羽祐一さんを指導者とする発掘調査によって、この山頂で弥生時代の家や倉の跡の存在が初めて明らかにされた。

それによって、ここ紫雲出山遺跡が、名実ともに紀元前1~紀元後1世紀頃の「高地性集落」の代表の位置にまで高められたことは、まことに喜ばしい。
   奈良国立文化研究所 佐原 真


 441戦い
稲作と鉄器の使用が、さらによりよい耕作地を求めて、他の集団と土地争いを起こすようになった。
優れた指導者のもと、集団の強者たちは、弓矢・剣・槍などを武器に勇敢にたたかったであろう。

 神への祈り
銅鐸に向かって神のお告げを着行使する司祭。

紫雲出と弥生時代の
戦争
戦い
上に記述
神への祈り
上に記述

 442日本の高地性集落

 高地性集落遺跡の出土品
高地性集落は平野や海を一望にできる立地などから、一般的には弥生の戦乱時の軍事的監視、・通信・防御施設と考えられている。
出土品には石鏃・骨鏃・鉄鏃・投弾などの武器の占める比重が大きく、軍事施設と考えるの妥当であろう。
武器の他には消耗品だけではなく、打製石包丁・土錘などの生産的なもの、巴形銅器・分銅形土製品などの祭祀的なものも出土している。

高地性集落は、畿内Ⅳ式~Ⅴ様式初めに集中して存在するものとⅤ様式後半のものがあり、前者はかつて「倭国大乱」と結びつけて考えられていたが、弥生の年代観からいえば、「倭国大乱」以前の地域的覇権を巡る争乱を反映したものといえる。

 紫雲出山遺跡
  1世紀 香川県三豊郡詫間町
瀬戸内海燧灘に突出した三埼半島の最高部にある代表的高地性集落である。標高344mの頂部に、畿内第Ⅲ~第Ⅳ様式の間に営まれた集落で、小規模貝塚も伴う。石包丁30点など稲作に関わるものも出土しているが、321点という多数の石鏃や石槍は、狩猟具としてだけでなく、凸基有茎式の長い鏃などは、武器として準備されたものとされる。生活臭の強い高地性集落であるが、瀬戸内海航行の見張り所等の役目が考えられている。

  ※やはり海賊のムラだったようだ。

日本の高地性集落

高地性集落遺跡の
出土品
紫雲出山遺跡 石鏃
大型対人用の殺傷能力の高い石鏃

 443石鏃は何に使われていたか

 大型石鏃 弥生時代の石鏃について
いったい、石鏃ほどメジャーな考古資料というものも珍しいのではないでしょうか。日本全国どこの歴史民俗資料館や博物館へ行っても、
おおよそ石鏃を展示していないところは皆無ではないかと思えるほど、石鏃は日本の国中どこでも見ることのできる代表的な石製品といえるでしょう。
しかし、どこでもみられる石鏃ではありますが、案外知られていないことも多いようです。

石鏃が日本列島に出現するのは縄文時代で、大体弥生時代まで使用されたようです。(もちろん、多少の例外はありますが)
大きく分けて打製と磨製がありますが、ほとんどは打製ものです。

また、形について、あるいはその大きさ等について、色々細かく分類されています。しかし、忘れてはならないことは、元来、石鏃は狩猟具であって、武器ではなかったということです。弓を用いて殺傷した対象はあくまで食料であって、人ではなかったのです。

ところが、弥生時代中期に石鏃はその性格を大きく変えました。

畿内や中部瀬戸内地域を中心に見てみると、それまでの石鏃の長さは3cm未満、重さ2g未満で、形態は凹基式・平基式と呼ばれるものです。ところが、前期の末には石鏃の大型化が始まり、更に中期に入ると凸基式や有茎式と呼ばれる、矢柄を取り付ける部分が突出したものが畿南中心に出現します。これらの型式については佐原真氏の次のような記述があります。

「凸基式群の石鏃は、おそらく傷つけるというよりは、深く突き刺さることを目的とするものである。この場合、その重量は射程距離を大きくし、貫徹力を更に効果的なものとするであろう。」
このように、弥生時代中期に出現する新しい形の石鏃は、従来の石鏃とは明らかに機能の上で異なるもので、この変化は、石鏃が武器としての性格をおびた証拠と考えられています。


 玉津田中遺跡出土の石鏃
さて、玉津田中遺跡第3次調査で出土した石鏃についてみてみましよう。この調査で出土した石鏃はいずれもサヌカイト製で、計6点ですが、大きさにかなりの差があります。
1は全長2.1cm0.8gなのに対し、2は全長3.2cm、2.0gです。3は平基式で全長2.9cm1.4g、5は有茎式で前長6.3cm、6.8gです。
6は先端が破損していますが、凸基Ⅱ式と考えられ、残存長3.2cm、2.2gで、本来は全長が3.5cm程度と推定されます。
7は凸基式Ⅰ式で、全長2.4cm1.2gです。これらの中で3cm未満、重さ2g未満の狩猟用石鏃といえるものは1・3・7です。一方それよりも大きい戦闘用石鏃は、2・5・6です。

大型石鏃 大型石鏃
弥生時代の石鏃について
玉津田中遺跡出土の石鏃 戦闘用石鏃
 


 450北谷遺跡

 第二節 弥生の遺跡
町内にある弥生の遺跡では、紫雲出山遺跡、名部戸の北谷遺跡、粟島の東風浜遺跡などが、早くから知られている。

特に紫雲出山遺跡は大規模な発掘調査が行われ、紫雲出(町文化財保護委員会昭和39年発刊)によって、学界に発表され全国的に有名になった。
この遺跡はスケールの大きいこと、出土品が豊富で、完全に近いものが多かったこと、しかも、高地における数少ない弥生文化の遺跡として、特に学会の注目を浴びたのである。

 一、北谷遺跡
 1北谷遺跡とは
詫間町名部戸と、仁尾町との町界の小川に沿って2kmばかりのボルト前谷家がある。この辺りに弥生集落の北谷遺跡がある。
獲物に恵まれ、狩猟生活も縄文時代に引き続いて行われ、鹿の角なども発掘された。土器石器などの出土品も豊富な2500年前の遺跡である。
 2発掘について
昭和28年頃の開墾に伴って土器・石器が発見された。
 ○土器
縄文晩期から弥生中期の土器が多く、壺、甕、高坏などが多く、本県では珍しい弥生治雄記の櫛目文のはっきりした土器が数多く出土した。
 ○石器
多数の石鏃、石槍、石包丁、凹石(製作工具の一種)などが出土。その他、獣骨が見られ、北谷の弥生人の米作りより縄文人と同じように狩猟生活を主としていたことが想像される。

 451
北谷遺跡 第2節弥生の遺跡
北谷遺跡
第2節弥生の遺跡 仁尾町家の浦 発掘について
北谷遺跡出土土器

 452北谷遺跡の土器(名部戸)
昭和28年頃みかん畑開墾時に、
 土器は縄文晩期から弥生中期の土器、櫛目文土器、
 石器、多数の石鏃、石槍、石包丁、凹石(製作工具)などが出土 獣骨も・・・
米作りよりも縄文人と同じように雁の生活を主にしていたのだろうか。

弥生前期の土器? 櫛目文土器 甕形土器の口縁部 甕形土器の口縁部
甕形土器の口縁部 土器底部・皿・鉢など 左:櫛目文土器
右:前出対人用石鏃
櫛目文土器は朝鮮半島の土器である。

沿海州からウラル山脈まで遡る土器と考えています。
 453
石包丁、石槍、石匙 石槍
石包丁
石匙

磨石・敲石?
土錘
管状土錘が普通だが
両側に溝をつけた
土錘捩じった2本のロープの間に挟み込む土錘は珍しい
 




 500古墳時代



 501
古墳時代 石包丁で収穫 石包丁 古墳時代



 502三、古岡山古墳  随分大きな円墳です。古墳時代後期のものかと思いますが、ピンボケでほぼわかりません。
1.場所 天満部落、権限目池の北方の墓地のある丘を言う。
2.発掘 昭和22・23年頃須恵器発見。25年に発掘。
4.出土品
  土器 弥生式土器(高坏、壺、亀の破片)、須恵器(横瓶、平瓶、蓋付坏×3、高坏) 金属器(小刀子など鉄片、金メッキの耳環)

5.石棺 主墳には石室石棺があったと伝う。 昭和25年発掘の陪墳は、直接石棺を土治雄に埋めたもので、石を組み合わせた箱式石棺である。
 6.古墳から学ぶもの
この古墳はかなり長く使用されたもので、その証拠に、弥生土器と、古墳期の土器が出土している。
その間に、道具は石器から鉄器へ、土器はロクロを回し、より高熱で焼いた土器に進歩した。
倍墳(殉死者の墓)は大変丁寧に作られており、現在もいくつかの倍墳が地下に眠っていると考えられている。



高坏、壺形土器
古岡山古墳
古岡山古墳
組石石棺(箱式棺)
古岡山古墳
古岡山古墳
石棺
古墳から学ぶもの
土師器と須恵器
弥生土器と古墳土器

 503矢ノ岡古墳の石釧 古墳時代前期

矢ノ岡古墳の石釧 石釧 石釧 碧玉製矢ノ岡古墳
横瓶・平瓶、堤瓶

 504詫間町の古墳マップ

瀬戸内航路の往来が盛んになると、漁撈ではなく、水先案内や海運、風待ち、潮待ち、停泊港、通行税の取り立てなどや、
航行に際しての安全を祈るための、岩上祭祀、岩陰祭祀などの安全祈願の祭祀が各所で行われた。

それに伴って富み栄えるものが増え、数多くの古墳が築造された。

詫間町の古墳マップ 詫間町古墳一覧
判読不能

 505詫間町の古墳

 吉吾鼻古墳 詫間町積 船越八幡神社 市指定史跡 昭和62年2月2日
積地区の東部にある吉吾鼻古墳一帯は、5世紀~7世紀にかけての墓域であったと推定され、7世紀初頭の坏や鉄鏃、刀子釣針などが出土しており、現在確認される円墳と石棺以外にも数基の石棺類があったと思われる。一辺約7.7m高さ1.5mの方墳で、立地や墳形から古墳時代中期のものと思われる。その東方9mのところに長さ2.5m幅0.6mの箱式石棺があり、ここから鉄剣や、勾玉・小玉などの装身具が出土している。

吉吾鼻古墳
(きちごこふん)
吉吾鼻古墳 組み合わせ箱式石棺 吉吾鼻古墳 古墳とは別に、区画溝を挟んで造られた箱式石棺は従者の殉死だろうか。
蟻の山古墳 木村古墳 コブシ古墳  


 506吉吾鼻古墳
市指定史跡である吉吾古墳は、詫間町荘内半島の積に 所在します。古墳の東傍に「箱式石棺」と 呼ばれる埋葬施設が1基露出しています。

発掘調査の結果①古墳は円墳 であ。②直径約10m ③出土した須恵器から、古墳時代後半(6世紀ごろ)に築造されたことなどがわかり ました。

そのほか、古墳と箱式石棺の間は9mほど離れて いますが、その中間部分に両者を区画する溝があることも わかりました。また、箱式石棺の長さは、約2.9mと市内で は最大規模であることがわかりました。

詫間町には志々島と本村中周辺に箱式石棺があります。規模は前者が約 2.3m、後者が約1.9mです。高瀬町にある矢ノ岡古墳の石 棺が約1.6mですので、規模が大きいのが詫間町の特徴と いえそうです。

吉吾古墳からは詫間湾が見渡せ、粟島・瀬戸大橋などを 一望することができます。また、記録では釣針が石棺内か ら出土したという記録もありますので、ここに眠る人物は瀬戸内海をフィールドに活躍していたことが推測で きます。


吉吾鼻出土石器
石鏃・掻器など

 507土師器
土師器は、弥生式土器の流れを受けた素焼きの土器で古墳時代から、それ以後に渡って長く使われてきたが弥生土器との間に、はっきりとした区別は難しく、若干の相違が認められる程度である。
 1.不安定な丸底の形に作られている。
 2.緻密な粘土を用いて薄手に作られている。
 3.文様などほとんど用いていない。

鉄片 土師器 てづくね土器
コブシ古墳出土物 詫間町大浜から鴨の越に至る剣道の右手にある。(頂部41m)
組合式石棺が露出
地元住民によって祠が建てられている。

 508須恵器
須恵器は、大陸系技術により作られ始めた素焼きの土器であるが、やがて日本化されて奈良・平安時代へと及んだ。
古墳時代後期には、古墳の副葬品として通有するものとなった。

良質の粘土で大量生産し、登窯を使い高温の還元焔で焼き薄墨色を呈する。
古墳時代の須恵器の器種には、坏・高坏・壺・ハソウ・瓶・器台などがセットする場合が多い。

須恵器
碗、甕




高坏

坏の蓋
 

 520古墳時代

 521詫間町の遺跡
詫間町衛星画像 詫間町航空写真 詫間町の遺跡 詫間町粟島、志々島

 522船越遺跡

製塩土器 製塩土器 製塩土器 製塩土器
壺形土器
壺形土器・深鉢土器

深鉢形土器、甕形土器
 523船越遺跡の小児用壺棺土器 4世紀
小児用壺棺と蓋
4世紀頃、土師器

壺棺の蓋

壺棺
 
 700

 710サヌカイト


 711サヌカイトの分布・生成
香川県の北部にある五色台及びその付近の山頂には、古来から讃岐の名石「カンカン石」として親しまれてきたサヌカイトが産出する。
和名を「讃岐岩」といい、叩くと金属音を発し、心地よい余韻を残して響く。江戸時代頃から「聲石けいせき」とも呼び親しまれた。

サヌカイトは、この五色台や屋島をはじめとする香川県北部地域に広く分布する古銅輝石安山岩の一種で、瀬戸内地域に起こった火山活動によってマグマが地表に流出し、冷え固まってできた、岩石である。

与島西方遺跡出土石器 サヌカイトの分布・生成
上に記述
瀬戸内火山岩類の分布
瀬戸内火山岩類サヌカイトは広範囲に分布している。驚き。
原石の移動
-原産地から遺跡へ-
詫間町坂地のすぐそば
 712サヌカイト原石
 


 720ため池から
香川県は雨が少なく、古代から灌漑用ため池が多く作られた (瀬戸内海式気候) 。溜池を改修すると、多量の歴史的遺物が出土することがある。
その最もよい例が、奈良県明日香村の飛鳥池工房である。

奈良万葉文化館を建設しようと、適地がなく、溜池を買い上げて工事を始めたところ、官営工房跡が見つかった。名付けて飛鳥池工房である。
文献では知られていたが遺跡地不明であった。たまたま溜池の中に保存されていて、膨大な古代の遺物が発見され、富本銭も見つかり、一気に飛鳥時代の一端が明らかとなった。

香川県に何千とある古代から続く溜池の底からは、古代以前の遺跡も沢山埋蔵されているのです。


 721
ため池の歴史 香川県には沢山の溜池があります。池の数は全国3位、密度は全国1位です。香川県は雨が少なく山が急峻なので、せっかく降った雨もすぐに海に流れていました。そこで先人たちは溜池を造り、水を蓄えたのです。
身近にある溜池の歴史は意外と浅く、多くは江戸時代以降に作られ、水漏れや決壊の度に治されてきました。
特に近年は地震や号などの自然災害が多発し、防災対策で池の改修工事が急がれており、その時に遺物や遺構が現れて、発掘調査につながることがあります。
 奥池からひょっこり
不動の滝遺跡
豊中町岡本)弥生中期
土器石器散布地から住居跡、建物の壁跡が見つかった
奥池はカントリーパークで有名な七宝山山麓の不動の滝近くにあります。辺りは不動の滝遺跡と行って、土器・石器が畑から見つかっていました。
住居跡は炭粒や焼けた土を含んだ炉跡を中心にして5本の柱で屋根を支えていたようです。
掘立柱建物跡は、4つの柱穴が等間隔に一列に並んでおり、建物壁の一辺とわかりました。

発掘調査で見つかる穴々は、穴の大きさや並び方、内容物などをよく観察すると、それぞれ炉や柱穴といった用途が見えてきます。

金鳥池からひょっこり
金鳥池窯跡
(豊中町上高野)
金鳥池は妙音寺という香川県で一番古い寺の隣にある。昭和15年に作られた新しい池です。
妙音寺周辺では昔から古瓦が沢山見つかっており、池の堤防部分に「川原を焼いた窯跡が残っているかもしれない」戸研究者の間で言われてきました。

池の改修工事に伴って水を抜くと、大きな平たい石とそこから楕円を描くように伸びる壊れた土壁のようなものが現れました。底を掘ると、土が焼けたあとや瓦の破片、ロストル(火力を割れる畔のようなもの)などが見つかり、窯跡とわかりました。

 遺跡の年代が分かるわけ
私たちの暮らしの中には家電やファッションなど、様々な分野で定番湯流行スタイル(型)というものがあり、これらは時代や地域によって異なります。
考古学では遺跡から見つかった遺物の文様や形の僅かな違いを頼りに、遺跡の年代を推定します。

金鳥池出土の軒平瓦の文様は、善通寺と道音寺(豊中町笠田)の瓦の唐草文様と似ていることから、奈良時代~平安時代のものと考えられます。

 722不動の滝遺跡出土物 弥生中期
弥生土器 壺


液体やコメなどを貯めていた土器。口の周りや胴などにヘラや貝などで模様が描かれている。粘土の帯を貼り付けるものもある。
弥生時代中期
弥生土器 甕、鉢

ものを煮るために使われたり、水をためていたりしたとされるどき。飾りはほとんどない。蓋のつまみ部分も出土している。
   弥生中期


食べ物などを盛り付ける器として使われた土器。表面に浅い線や粘土の帯が見られる。
   弥生中期
弥生土器 壺


柱穴の中から大きな石に押し潰されたように状態で検出。復元すると完形に近く、口の周りや首に模様が見られる。
石鏃・石包丁・砥石・磨石
不動の滝遺跡
石包丁(弥生中期)
不動の滝遺跡
石鏃(弥生中期)
不動の滝遺跡
砥石(弥生中期)
不動の滝遺跡

砥石
石や骨などから道具を作る時等に研いだり、磨いたりするための道具。
磨石(弥生中期)
不動の滝遺跡

磨石すりいし
ものを砕いたり磨り潰したりする道具。



 724金鳥遺跡出土物 奈良~平安時代

妙音寺の金鳥池から見つかった瓦(下部)中期 平瓦・丸瓦 平瓦・丸瓦
奈良~平安
軒丸瓦 軒丸瓦
 





 750中世




 751橘城跡出土品
三豊市の中世城館跡 小さな城館(やぐら)が沢山あった。細かく地取りをして小競り合いを繰り返していたようです。 出土品 

 五鈷杵
真言宗などの密教で使われた仏具である。古代インドの神が使用していたとされる武器をかたどったものでいわれている。

五鈷杵(ごこしょ) 五鈷杵
五鈷杵・青銅製銅碗 青銅製鋺
 752各地からの土器


肥前系(佐賀県周辺)の陶胎染付(とうたいそめつけ)、陶器に絵付けしたものである。


唐津焼の碗。内側に碗を重ねて焼いた丸い痕跡が確認できる。


石製硯。中央が窪んでおり、よく使われたことが分かる。墨が付着している。
銃弾
青銅製、火縄銃用の銃弾。

肥前系土器

備前焼(岡山県南東部)の壺である。


 753戦国時代の山城 


財田町のなぞ 財田町のなぞ 財田の橘城出土品に混じった火縄銃の玉。

戦国時代の山城、橘城
橘城は財田上と中地区の境の通称城山の山頂にある「山城」です。
山城とは天守閣を持たない、戦の時に使われるもので、普段は山の麓の館で生活していたようです。

山の上には城の区域を表す曲輪や、城を加工土の壁である土塁、入口である虎口など、山城であった痕跡が良く残っています。

平成25年(2013)の発掘調査では、建物の柱跡が見つかり、火縄銃の弾や石の硯、椀や酒などが出土しました。それ以前にも、青銅製の仏具が見つかっています。
橘城出は、簡素な作りの碗が沢山出土しており、城内で食事をとっていたと思われる。底には糸で切り離した跡が見える。 
財田町財田上
橘城跡
すり鉢・支脚 すり鉢
器の内面にすりおろすための溝が入っている。現在のものに比べると溝の数が少ない。
 
釜の脚
煮炊きのために使われた釜を支える脚である。本来は釜の底の外側に、三本ついている。
 


 古代


 754藤原宮造営に瓦を送った生産地
藤原宮をつくるために200万枚もの瓦が必要でした。そのため、奈良以外の地域からも瓦が運ばれました。🔴は藤原京瓦生産地域。

 吉宗瓦釜は其の中で一番遠くにある窯です
瓦は船に積まれて瀬戸内海を渡り、大阪からは革を渡ってはるばる藤原京まで運ばれたと考えられています。

単弁八葉蓮華文軒丸瓦
豊中町の妙音寺に送っていた瓦。宗吉瓦窯では妙音寺の瓦も生産していたと考えられている。
軒丸瓦・軒平瓦 藤原宮に瓦を送った
生産地
上に記述
藤原宮を造るために200慢枚もの瓦が必要でした。そのため、奈良以外の地域からも瓦が運ばれました。「�」印は、藤原宮の瓦を生産した地域です。

宗吉瓦窯(むねよしがよう、香川県)はその中で一番遠くにある窯です。
川原は船に積まれて瀬戸内海を渡り、大阪からは革を遡ってはるばる藤原宮迄運ばれたと考えられています。

藤原京に送った瓦
藤原京と吉宗窯で同じ傷の瓦型で作られました。
奈良の藤原宮に送っていた瓦。
藤原宮と宗吉瓦窯で同じ型傷を持つ瓦が見つかったことから、
同じ型で作られていたことが分かった。
軒丸瓦

吉宗瓦の里展示館
説明
 宗吉かわらの里展示館
宗吉かわらの里展示館」は、三野町吉津の山条山(通称トンギリ山)の麓にある。瓦の歴史を紹介した展示館です。
大正時代に、ここで瓦や焼けた土が発見されたことから、瓦を焼いた窯跡があることが分かり、平成の大規模な発掘調査で24基もの窯があることが確認され、多くの瓦が出土しました。

宗吉瓦窯跡は日本で初めての瓦葺宮殿(藤原宮)に瓦を送った最も遠い瓦窯であること、最大規模の窯跡をもつこと、窯跡の数の多さなどから非常に貴重な遺跡であることが判明し、現在は国史跡に指定されています。
 



 780各時代の遺跡地図




旧石器の瀬戸内低地には沢山の獣がおり、今も網に遺物が掛る。

ナウマンゾウ牙は大変多く、その他土器石器も上がります。
旧石器時代遺跡 縄文時代遺跡
弥生時代遺跡 代表的古墳の分布
 
 900詫間町と近辺
製麺所 製麺所とはうどん屋
うどん県に行ったがうどんを食べずに終わった。

讃岐うどんはとても固いそうで、たべたくはなし。食べたこともない。
美野津湾
宅間大橋の上から

見えるのは塩田跡にできた工場群やゴルフ場
旧塩田
今は田んぼのよう。
3月撮影だがもう

代掻きが終わっている。早場米か二期作か。

瀬戸内海は穏やかだが古代の海上交通は、船が小さく帆船のため天候によって風待ちや

転覆座礁があり、更に至る所に海賊が通行料として財物を盗って金に換えていた。

四国は何本もの構造線が東西に走っている。複雑な地形で滑り面が右に見え、

滑り面の先に、滑り落ちて飛んで堆積した低い山塊が右に見える。

香川県にはこんな豪邸もあるのね。
すんごいねー

香川県は日照り旱魃水不足以外はあまり自然災害を聞かないが、住みやすい土地なのかな。