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  西日本の縄文  20    2015.11.28-1

  倉敷考古館  倉敷市中央1丁目3-13      086-422-1542    月・火休館  撮影可


交通 倉敷駅から徒歩10分 美観地区の中心
趣旨 このページはきっと、掲載中止のお叱りが入ると思います。それまでの短期間の掲載です。
    たとえ、叱られても、絶対に紹介するべき重要な館です。
多くの皆さんにこの館の重要性を知っていただくとともに、もっと丁寧な閲覧を願っています
      
見所 倉敷考古館は西日本最大・最重要の旧石器・縄文の博物館です。
遺跡数の少ない西日本にあって
偶然にも鷲羽山とその峰続きの島々に先史人が多くの遺跡を残し、散逸破壊を免れた数多くの遺物が保存されています。

兵庫県の場合など、「40年も前のものはもう廃棄ですよ。」などと、馬鹿なことをやっているところと違い、しっかりと保管展示されています。

古いままの展示
を守っているため、かつての考古学の様子もわかり、また、模様替えと称してしまい込んだり、することなく、多くが見られます。
私のような浅学のものでも、僅かながらにでも、西日本の旧石器、縄文、弥生古墳期の様子が見えてくる気がします。

今後ともこのスタイルを守って展示を続けていただきたいことと、 一部の皆さんにしか知られていないこの考古館の価値を広く知って頂きたい
と思います。


膨大な考古資料
一般の博物館では展示されない資料も、展示されています。 散逸・遺棄を防ぎ研究のため蒐集されたようです。
1951年開館のこの館に、私は1960年代初頭の、小学生の頃にバス旅行で訪れたようです。入口展示の陶棺をずっと覚えていました。

西日本では旧石器・縄文遺跡が少ないにもかかわらず、ここには大量の遺物が、散逸廃棄を免れ、集積されています。
また、博物館ではほんの僅かしか展示しないが、ここでは持てるもの多くを展示してあります。

キャプションは一部手直しがあるものの開館当初のままで、古い考古学の様子も伺えます。
ただ、60年以上もの経年変化は否めず、石器や土器に風化が見られます。しかし、それでもこの館の魅力は豊富な資料。

長い間居ましたら、専門家の見学者も何組か来ました。ほとんどチラ見で、細部も見ず、写真も撮らず、ただ、さぁ~っと見て帰っていきました。
ただ、偉そうに専門用語で話して周囲を威圧しながらでした。 さて、彼らは何を見たのでしょう。


西日本で最も旧石器・縄文資料が集積された展示をご覧いただきたいと思います。
これ以上の遺物を求めようとすると、それは、全て岡山大学・岡山理科大・古代吉備文化財センターの収蔵庫に眠っています。
おそらく二度と日の目を見ることはないでしょう。
    

       


次 

01外観
03入口展示
 千足古墳 直弧文 石障
10旧石器.時代
11瀬戸内の旧石器時代
12縦長刃器・ナイフ形石器
14細石刃・槍先形石器・石槍
-旧石器から縄文へ-

細石刃とその伴出石器・土器

20縄文時代
21骨角器・貝器
30石器・人骨
31叩石・石錘・石鏃・石匙
37人骨写真
39食糧
瀬戸内地方の土器形式
40土器片
41早期・前期
43中期
45後期・晩期

50復元土器
52早期・前期・中期
54中期
55後期
56晩期 

60弥生時代
61弥生土器
62年表・前期
66中期・後期
70その他の道具
72金属器
74石器
76土製品
78弥生-古墳期の土器

80古墳時代
81弥生-古墳期の土器
82金属器
84土器
86土器棺・埴輪
87金属器
89陶棺・埴輪
91その他
92銅鏡
100古代
101古墳-古代 陶棺・陶筒
 01外観
倉敷考古館倉敷美観地区の土蔵風外観の博物館です 和装体験かと思いきや 結婚式の参列者でした ここは高級料亭です 大原美術館 11月下旬で紅葉の始まりでした 秋咲のヒマラヤザクラです。珍しい。




 03入口展示
陶棺岡山南部に特徴的な遺物です 古墳時代から陶芸が発達していたようです 造山・千足・両宮山・小盛山古墳の解説 小盛山古墳/県下最大の円墳R100m 両宮山古墳/前方後円
L190m周濠有/備前国最大
造山古墳5c前方後円
L350m全国4位/頂部に刳抜き長持形石棺有り
千足古墳
箭田大塚古墳(やた) 備中国分尼寺址の金堂址の礎石 箭田大塚古墳 コーモリ塚古墳石室 コーモリ塚・国分尼寺址・箭田大塚の解説 展示館一階(全三階)
鉄筋コンクリート造り

 千足古墳

  5c前方後円墳L70m横穴式石室。 石室の構造と直弧文石障 (せきしょう)は、(九州産砂岩製幅162高53厚13)、九州の古墳に酷似しており、
  榊山古墳発見の、朝鮮製馬形帯鉤と共に、当時、吉備の豪族が朝鮮や九州と関係が深かったことを物語る。

  参考資料 直弧文 02  石障 02  千足古墳

  千足古墳の石障は九州から舟を使って運ばれたようですね。半島母国の同じ氏族だったか、九州からの征服者か。




 10旧石器.時代

  11瀬戸内の旧石器時代
鷲羽山とその先に続く島々に旧石器以降の遺跡が点在する 海底から引き揚げられたナウマンゾウの臼歯。
これ、以外に多い
水没を免れた遺跡群 遺跡年表  1万8000年前の最寒冷期には瀬戸内海はなく、広い平原が広がり、鹿やナウマンゾウを追う旧石器人がいた。
 丘陵の最上端に暮らし(現在の島々) 狩猟した。

 6000年前の最温暖期には100m近く上昇し、岡山平野は広く海に飲み込まれていた。
  12縦長刃器・ナイフ形石器

縦長刃器と石核遺跡毎に形状多少異なる 縦長刃器と石核 ナイフ形石器 ナイフ形石器 瀬戸内地方の石器編年
敲打器→縦長刃器→,国府型ナイフ形石器→宮田山型ナイフ形石器→井島I型石器→井島Ⅱ型石器へ変遷
  言い換えると
握斧縦長剥片尖頭器ナイフ形石器(横長剥片)→細石刃へ変遷

   引用羽佐島遺跡1

瀬戸内では、重量石器のハンドアックスが登場し、次に縦長剥片石器が出て、尖頭器が出現。次に国府形ナイフ形石器(横長剥片石器)が登場したようです。
重量石器は南方系。縦長剥片石器は北方ユーラシア系。尖頭器も北方系。で、やっと瀬戸内型横長剥片石器の半島系が出土。

私は、ナウマンゾウハンターが半島から来ていて(骨角器を使用か)、そこに南方系、次に日本海沿岸経由の北方系、やがて在地化した横長剥片石器人。
さらに、氷期の終わりに細石刃文化人が北方かやってきたと考えていた。 ちょっと違っているかな。あっているかな。

ハンドアックスは大型獣の解体用です。獲物が中小型獣にかわると小型ナイフで済みます。


  旧石器から縄文へ

  14細石刃・槍先形石器・石槍
  
   細石刃とその伴出石器・土器
細石刃と細石刃核
に伴出した石器
右の鷲羽山遺跡の細石刃はサヌカイトか?
左の長崎県佐世保市福井洞窟のは大分県姫島の黒曜石である。 鷲羽山が古く福井が新しい
長崎県福井洞窟の
船底型細石核と隆起線文土器 (半島型)
引用Wikipedia福井洞窟

矢柄研磨器       
   倉敷市船穂町福島
石槍と槍先形石器
倉敷市出土

これら尖頭器は細石刃より古い
まるで次々削り取った様に規則正しくきれいに核から割り取られた小さい石刃は、木や骨にはめ込んで用いられた。この石器は東アジア大陸北東部で用いられており我国ではこの種の石器が用いられだして、間もなく土器の使用も始まった。 矢柄研磨器日本で初めて土器や弓矢の使用が始まった頃に用いられた砥石状のもので矢の柄を整形したものと考えられている。

縄文時代のはじまりです
 16500年ほど前、サハリン経由で南下した人々は、それまでとは違う容貌をしていました。

 南方系の彼らは、弓矢土器御子柴型石斧を持っていたといわれる。




 20縄文時代
  21骨角器・貝器
亀形土製品・土製耳飾・土偶・矢筈・骨製装身具・骨鏃・土版・鹿角釣針・銛
骨製品の装身具・鏃・矢筈・銛
貝輪(イタボガキ製・ベンケイガイ製)・角製耳飾
模作貝輪

※1
鹿角製品・骨製刺突具(前期)・鹿角製装身具(前期)・骨製装身具・管玉(国府遺跡) 角製耳飾・垂玉・双孔石製品・鹿角垂飾
ベンケイ貝製貝模作品

※2
亀形土製品・土製耳飾・土偶・土版・鹿角製品・鹿角製釣針(後期) 骨製刺突具(前期)・鹿角製装身具(前期)
※3

貝輪・骨角器・鹿角製腰飾・角製耳飾・錘玉・双孔石製品・鹿角垂飾

※4

※4


※1 里木貝塚出土の多くの貝輪はサルボウ貝製。出土人骨の女性が、右手にはめていたのはベンケイ貝製。左手はイタボガキ製。
   
 参考品は、渥美半島太平洋岸で採取したベンケイ貝と、それで模作した貝輪。(愛知県田原市吉胡貝塚資料館増山禎之氏作製、提供)
 イタボガキは水深3~7mの、ベンケイ貝も水深3~20mの、海底に生息する貝で、アマが潜水して収獲する貝です。縄文人は男女共、潜水が得意でした。
   
※2 縄文時代の人々は、日常的に、石や骨の道具を用い、身近な貝や骨で装身具を作りました。里木貝塚でもこうした品々が夛数発見されている。
石匙は万能ナイフであろう。石鏃では、猪や鹿を射止めている。石錘は網のおもりであり、この網で大きな鯛やすずきを取っていたことであろう。
石斧の用途も広い。貝輪の未成品もかなりある。
発掘で発見された十数体の人骨の中で、女性が両腕に貝輪をはめていた。
 
※3 今から7000~8000年前から2200年位前までの数千年間、我国は、獣を追い魚をとり、木の実・草の根を食べる縄文時代人の生活の場だった。
具と言えば石や骨で作ったものだけ。 しかし、同じ石でも石器に適する石を選び、巧みに作られた石鏃やナイフや槍は、現代人に真似のできないものである。
天然アスファルトを産する地方では、それを利用し、漆を利用し、朱を利用する。人々の小さい生活の知恵は積み重ねられていったのである。
   
※4  縄文時代人も身近な材料で身を飾る。貝殻・角・骨・牙・石、焼きもので腕輪、耳飾、腰飾りなどを作っている。
性別で装飾品が異なる時もある。
上に展示している5個の貝輪を左右の手にはめ、鹿角製耳飾りを付けたのは女性。鹿角で枝の出たような腰飾りは男性が付けていた。

  30石器・人骨
   31叩石・石錘・石鏃・石匙

叩石・石鏃・石錘・石錐

石鏃・石錘・石匙

石斧・石錘

石斧・石匙
石鏃・石錘・石匙

※1
石鏃・石錘・石匙 石斧

※1  倉敷市船穂町里木貝塚は、倉敷市の北に隣接した低い台地の裾にあり、かつて広く倉敷市の沖積地が海面下にあった頃の海岸である。
倉敷市にも同様な貝塚が多く、このあたりは瀬戸内海をめぐる縄文時代の遺跡が最も豊富な地域である。

里木にも縄文時代の数千年間、海や山の幸に依存した人々が生活していた。
 里木貝塚 縄文前期の里木Ⅰ式土器や中期の里木Ⅱ式土器が発見された。また、縄文中期の人骨23体が出土した。調査は倉敷考古館

   37人骨写真
里木貝塚 猪骨・屈葬人骨
伸展葬人骨(胸に石皿)
屈葬人骨 重石により足の骨が折れている  縄文時代人は、住居の近くに死者を埋葬しており、
 しばしば貝塚と重なっている。

 当時は手足を屈した埋葬が多いが、伸ばしたものもある。

 体の入るだけの穴を掘り、時には胸に大きな石などを置いたものもある。
涼松貝塚出土人骨の復顔 里木貝塚より2㎞程西の貝塚。
4千年程昔の人骨

20歳前半の若者。大石が胸に乗せられた屈葬。

復顔は佐賀大医学部

 涼松貝塚 前期から後期にかけて形成された貝塚。 早期の土器。前期から後期にかけての土器・石器・骨角器と14体の新骨が出土した。

   39食糧
押形文土器 ※1
円板形土製品・削器・石鏃・彩色土器(前期)・彩色土器(晩期)
栃・くるみ・貝(ハイ貝・アカニシ)・猪

※2 ※3
シジミ・カキ・ハマグリ

※1  縄文時代の食糧は殆ど狩猟・漁労・採集によっていた。 猪・鹿・川や海の魚・貝とともに、栃やくるみ・ドングリ等も大切な食物だった様である。
前池遺跡のトチの実は、土中の貯蔵穴から発見されたものである。(晩期遺跡)
   
※2  瀬戸内海に面する縄文早期の貝塚には、淡水産「シジミ」貝のものがかなりある。まだ、海が現在ほど入り込んでいなかったことを示している。
海が最も深く入るのは縄文時代前期である。
   
※3  文字による記録のない、数千年にわたる、永い縄文時代は、その頃使用した土器などの変化を基にして、前・中・後・晩期に分けられている。
ここに陳べた土器片は、瀬戸内周辺で、こうした編年の基準になっている土器形式を示したものである。


  瀬戸内地方の土器形式

 40土器片
  41早期・前期
早期 押形文土器 前期 磯の森式土器   
  羽島下層式土器
前期
里木Ⅰ式・彦坂ZⅡ式・
彦坂ZⅠ式・磯の森式
前期
里木Ⅰ式・彦坂ZⅡ式・
彦坂ZⅠ式
前期
彦坂ZⅡ式・
彦坂ZⅠ式・磯の森式
  43中期
里木Ⅲ式・船元Ⅳ式・
船元Ⅱ式
船元Ⅳ式・船元Ⅱ式 里木Ⅲ式・船元Ⅳ式・
船元Ⅱ式
里木Ⅲ式・船元Ⅳ式
  45後期・晩期

福田KⅡ式・中津式

彦崎KⅠ式・彦崎KⅡ式

彦崎KⅠ式・彦崎KⅡ式

宮滝式
晩期 黒土BⅡ式 晩期 黒土BⅠ式


 50復元土器
  52早期・前期・中期

※1

早期 深鉢形土器
香川県真島町井島大浦

前期 深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚

早期 押形文土器
児島郡東児街波張崎

中期 鉢形土器
倉敷市粒江船元貝塚

 ※1縄文時代の土器は、表面に縄状のものをころがして模様を付けているので、縄文という呼び名ができたのだが、特に縄文がついていなくても
   この時代の土器は総て縄文式土器と言われる。

   土器と言えば、すぐ容器と思いがちだが、土器は元来、食物を煮る道具なのである。火で焼くことしか知らない食生活に、煮ることが加わったのは、
   生活史上の一大変革だった。
   縄文土器は、土器のなかった頃と同じ狩りや漁り (すなどり) の生活とはいえ、実際にはそうとう進歩したものだったろう。

  54中期
深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚

深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚

深鉢形土器※1
倉敷市船穂町里木貝塚

深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚
※1『上の土器』とは左から二番目の写真※1印の里木貝塚の深鉢形土器です。

深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚

深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚

深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚
深鉢形土器
倉敷市船穂町里木貝塚
鉢形土器 船元貝塚
鉢形土器 児島湾海底

深鉢形土器 里木貝塚

 ※1上の土器の口縁部の模様 〔縄文中期後半(里木Ⅱ式)の土器〕
    細い縦線文様に見える地文部は、細い縄紐を細棒に巻きつけたものを、表面へ転がした文様(撚糸文)である。

    細線の波形文様は、これも細い管状のもの(竹など)を半裁し、その先端を交互に連続して押すことで、描いたと思われる。
    渦巻文などは粘土紐を、貼り付けている。

  55後期
鉢形土器 倉敷市広江浜
磨消縄文鉢
倉敷市福田貝塚
磨消縄文鉢
倉敷市中津貝塚
沈線文鉢
倉敷市福田貝塚
沈線文鉢
倉敷市福田貝塚
磨消縄文深鉢
総社市昭和町ケンギョウ田

磨消縄文深鉢 総社市昭和町ケンギョウ田
鉢形土器 倉敷市広江浜 沈線文鉢 倉敷市広江浜 磨消縄文鉢
倉敷市福田貝塚
  56晩期
突帯文鉢形土器
笠岡市高島

皿形土器 笠岡市高島

無文(粗製)鉢 
倉敷市広江浜
無文小鉢 倉敷市広江浜
無文(精製)鉢倉敷広江浜
突帯文深鉢 倉敷広江浜

突帯文深鉢 倉敷広江浜
沈線文深鉢 倉敷広江浜




 60弥生時代
  61弥生土器
  62年表・前期
第二室弥生時代 弥生時代の遺跡
甕形土器 
岡山市高尾貝塚
弥生時代前期
  66中期・後期
高坏形土器
岡山市 津島グラウンド
壺形土器 浅口市寄島町柴木/中期
壺形土器 倉敷市上之町/中期保育園
右:津島グランド前期
台付壺形土器
壺形土器
壺形土器
中期
壺形土器
鉢形土器
倉敷市上之町保育園/
中期
器台形土器
倉敷市仁吾遺跡
高坏形土器倉敷市酒津一水江/中期
壺形土器
高坏形土器/中期
弥生中期製塩土器実験
台付鉢形土器 倉敷市児島味野仁伍/中期

実験製塩土器

後期の土器

壺棺/岡山市庚申塚/後期

※1

※2
高坏形土器
倉敷市児島下津井沖

※1 弥生時代になると九州地方では大人を大形の甕に埋葬する風習があるが、この地域では、時に小児を壺に入れて葬っている。
口の小さい壺に入れるときは、しばしば壺の口を打ち欠いており、鉢や高坏で蓋をしている。
※2 弥生時代の「弥生」と言う名前は東京の弥生町から出土した土器が、今まで知られていた縄文土器と大変違っているので、
その名を採って弥生式土器と呼ばれたのに始まる。
しかし、今では、弥生時代と言えば米を作り、金属器を使用し、織物を作る・・・・等々の時代。そうした日本文化の一時代を指す言葉になっている。

弥生土器は、縄文土器に比べて明るい色をし、模様も単純で、幾何学的な感じがするが、しかし、「陶車(ろくろ)」を使用して造ったのではなく、
整形する時に回転した程度である。




  70その他の道具
   72金属器
銅矛
銅戈 倉敷市広江浜
銅剣 倉敷市由加山
平形銅剣

※1
銅鏃 藤井寺市国府
倉敷市富平松
倉敷市両津遺跡
倉敷市福江前山

 ※1我国の弥生文化は、水田による稲作を生業として発展し、金属器も用いだした。 しかし、鉄と青銅の利用をほぼ同時に知った人々は、
    鉄は実用の道具として利用したが、鋭利さでは鉄に及ばない青銅器類は、本来の用途を離れ、祭りの具となっていった。
    我国で鋳直された銅剣・銅矛・銅戈等は、武器の機能を失った形にどんどんと変わっていった。

   74石器
     石包丁(稲の穂摘み具)は磨製のものが普通だが、岡山・香川には打製のものも多い。
     磨製石包丁内湾刃型は近畿地方に多い。
     磨製石包丁外反刃型は九州に多い。

      岡山地方では弥生時代にも縄文時代と同じような石匙を使用した。 


打製・磨製石包丁
左:磨製石包丁内湾刃型
右:磨製石包丁外反刃型
石斧・石槍・石匙・土垂・石錘・鉄鏃 石鏃・石斧・石包丁
石鏃・その他

※1
石鏃 石斧・石槍・石匙・土垂・石錘・石包丁 紡錘車・石斧・鉄鏃・石匙
桃の種

石槍・石包丁・土垂・石錘
弥生時代の石斧は
 太型蛤刃石斧
 柱状片刃石斧
 扁平片刃石斧
 鑿状片刃石斧と
形態に変化があり、用途により分化していたことが判る。
「包丁」と呼ばれているが実は鎌のことで、弥生時代になって、米作りが普及すると同時に、稲の穂摘具として新しく現れた石器である。
 鎌と言っても、手に握りこんで使用する。

 ※1石の斧は縄文時代からずっと重要な道具として使用されているが、この大きな蛤刃の石斧は弥生時代の特徴的な道具である。
   新たな開墾の道具かも知れない。
   弥生時代には鉄器の使用が始まっているとはいえ、まだ、貴重品の時代であり。鏃や斧はかなり新しくまで石で作られている。

   76土製品

分銅形土製品(中期)

※1
紡錘車 ※2
土製品・小形土器
籾がついた壺の底(前期)※3

スタンプ文のある器台
鹿の絵のある高坏脚(中期)※4
※1 分銅形土製品
名前の由来は形が秤の重り「分銅」に似るためだが、出土品は破損している。呪符的なもので、破壊が使用目的かも知れない
時に、顔を描くものもある。
主に中四国に分布し、そのうちの半数近くが岡山県出土である。当地方弥生時代の特性を示す遺物である。
 
※2 紡錘車 
中央に小さい孔のある小円盤状の土製品は、小孔に軸を取り付けて、その軸に繊維をつなぎ、コマのように回転して撚りをかける道具である。
弥生時代の遺跡からよく発見され、この頃から織物が本格的に作られたことを示している。紡錘車には土器片を再利用したものが多い。
 
※3 弥生土器文様の特徴
弥生時代も縄文時代と同様に、おもに土器の変化を基準にして前・中・後期に区分されている。
この辺りでは、前期の土器には「ヘラ」による沈線や重弧、木葉などの文様が多く、中期には櫛状の工具で描いた文様や凹線文が多い。
後期になると器台を除き次第に文様が少なくなる。
※4 スタンプ文のある器台
この辺りで弥生中期の高坏脚部に普通に見られる三角透かしや、沈線文に加えて、入念な鋸歯文や斜格子文が描かれ、その上、鹿まで描かれている。
このような土器は、きわめて珍しい。余分に加えられた文様は、全て銅鐸に見られる文様でもあり、銅鐸祭祀との関係を思わす土器でもある。
 
  ただの高坏が、銅鐸祭祀の祭器として発達する中で装飾高坏となり、しかし、銅鐸祭祀を禁止され、首長墓崇拝を強要されたとき、
彼らは、本来装飾高坏の上にあるべき銅鐸の代わりに、装飾高坏=装飾器台の上の特殊壺を、銅鐸として拝んだのだろうか。

即ち、首長崇拝を強要され、隠れキリシタンのように、捨てさせられた銅鐸模様を、本来銅鐸祭祀具の器台に描き、首長崇拝を銅鐸崇拝におきかえて耐えたのか。首長を拝んでいるふりをして銅鐸模様や特殊器台を拝んでいたのだろうか。


   78弥生-古墳期の土器
辻山田遺跡墓壙溝で区切られた数か所の墓域に、このような土壙が密集している。→ 朱・粘土を敷くもの、小石を枕とするものなどが、一基に、このケース内の 壺形土器玉類を伴っただけで他には全く副葬なし。 鉢形土器溝の中からは女男岩と全く同様に、石や土器類が発見された。→ 壺形土器このケースに、その一部を展示している。 女男岩遺跡全景
高坏形土器・台付小壺形土器 二重口縁壺
複合口縁壺の違い

台付家
台付坩(かん=るつぼ) 鉢形土器・朱・剣 特殊壺と器台
華岡山遺跡の墓壙
※1
丸底形土器 華岡山遺跡※2
※3
高坏 特殊壺と器台
銅鐸 壺形土器 壺形土器 器台 壺形土器

 ※1丘陵頂部の墓域の中には、長方形の木棺が収められたと思われる土壙が密集しながら、かなり規則的に発見された。
   これ等の内部には、一切副葬品は見られなかった。

 ※2華岡山遺跡では小丘陵上の一画を溝で区切ってその中に弥生時代末の墳墓が約30基発見され、墓壙の上や、溝からは
   墓に供えられた土器が多数出土した。
   弥生時代の共同体的な社会から、支配者である「王」が出現し、大きな古墳を造る時代への移り変わりを示す頃を明らかにした
   重要な遺跡である。

 ※3このケースに復元している甕・高坏類が、尾根上に墓域を区切るために掘られた溝の中より発見された時の状況。
   これ等の土器は墓に供えられたもので、、高坏の坏部にまで穿孔が見られる。





 80古墳時代
  81弥生-古墳期の土器
黒宮大塚古墳古墳時代初頭の巨大墳墓
前方後方墳

墳頂部の竪穴石室
高坏形土器 台付小型壺
高坏形土器
器台と台付壺
壺と器台
石室上部土器群
古墳時代初頭の器台 須恵器
平瓶(ひらか)・壺
須恵器 須恵器 平瓶

  82金属器
鉄刀子・鉄鉾・鉄槍鉋・鉄鏃・鉄石突・鉄斧
鉄剣、双龍環頭太刀
・刀剣・刀
砥石・鉄のやすり・鉄鉗(かなはし)・鉄槌・鉄床
馬具、引手(しって)・鉄轡(くつわ)鐙(あぶみ)・鉸具(腹帯を止める金具)
隋庵古墳 ※1 ※2 鉄刀子・鉄鉾・鉄槍鉋・鉄鏃・鉄銛
杏葉・鉄石突・鉄斧
福砂古墳出土

 ※1鉄鎚(かなづち)・鉄鉗(やっとこ)・鉄床(かなとこ)・鑢(やすり)・砥石も加わった、一式の出土品は鍛冶道具である。
   古墳時代中期になってこのようなセットが古墳に副葬されたのは、鉄製品加工技術が格段と普及したことを示すものであろう。

 ※2古墳時代中頃には、朝鮮半島から乗馬の風習が伝えられ、古墳の副葬品の中に乗馬の装備である馬具が見られだす。
    木・皮・布などの部分は腐朽しても金属部分は残る。

    馬の口にはめる轡(くつわ)、鞍(くら)に取り付けて皮などの帯へつなぐ鞖(しおで)、革帯に取り付ける鉸具(かこ)、鐙(あぶみ)、鐙をつるす鎖金具、
    吊り下げる飾りの杏葉(ぎょうよう)などのほか、鏡板・雲珠・馬鈬(ばたく=馬に付ける鈴)など豊富な部材があった。

  84土器
土師器の甑(こしき)/弥生以来の飯蛸捕りの釣鐘型の小壺。近来までた大して形の変化はない。 土師器 甕・甑こしき・ 甕・高坏 土師器 手づくね小坩
高坏
師楽式製塩土器 須恵器 装飾什台付壺
須恵器 平瓶ひらか 土師器 高坏 須恵器 蓋付坩 器台(透かし入り)


 86土器棺・埴輪

 円筒棺
  古墳に埋納された棺の多くは木棺・石棺が多い。しかし、まれに埴輪と同じ手法で、焼き物で製作された円筒形の棺や円筒埴輪や盾形埴輪を
  そのまま利用した棺がある。円筒埴輪が盛んに使用された。古墳時代中頃(5世紀)に多い。埴輪製作者の棺であろうか?

円筒棺 朝顔形円筒埴輪 家形埴輪・円筒埴輪 朝顔形円筒埴輪 朝顔形円筒埴輪
家形埴輪 盾形埴輪 盾形埴輪
盾形埴輪

盾形埴輪

盾形埴輪

盾形埴輪

盾形埴輪

朝顔形円筒埴輪

(きぬがさ)埴輪
貴人に差し掛ける傘をイメージした埴輪

  87金属器
鉄鉋(やりがんな)・鉄鑿(のみ)・鉄釣針・鉄鏃・鉄鉾・鉄刀子 鉄錐・鉄鋸・鉄鑿(のみ)・鉄鉋(やりがんな)・鉄鑿 鉄斧・鍬先・鉄鎌 この鉄斧は鋳物でもろく実用にならなかった。
儀式用のものか。
実用は鍛造でなければ
※1
※2

 ※1
現在の鎌は先端が曲がっているが、古墳時代でも古い時期の鎌は、鉄板を切っただけの短冊形で、一端を曲げ、柄を付けるときのかかりにしたものである。
古墳時代も少し新しくなると、先端が次第に内湾してくる。また、古くから、普通の鎌と鉈(なた)鎌の区別があり、柄と刃が鈍角のものは、作りもやや大きく、
なた鎌だったと思われる。
 

 ※2
鍬先は一枚の鉄板の両端を折り曲げたもので、木の鍬の先端に取り付けるようになっている。やや新しくなると字形の鍬先も現れてくるが、
大型の字形のものは鋤先である。


  89陶棺・埴輪
      埴輪と同じ焼き質の容器で、外には朱が塗られている。金蔵山古墳の中央石室に付設した小石室の中から四個出土。
      中には多量の鉄の道具類が、用途別に分類して納められていた。

      小石室からは、この容器以外にも多くの鉄鏃や櫛などが出土。墓の主のための副葬品入れの小室だったのである。

陶棺 土師器 壺
円筒埴輪の中に土師器壺が入っていた。骨壺か
埴輪質合子(ごうす)
鉄製工具が入っていた
引用コトバンク合子
鶏形埴輪 頭部
翼 鶏形埴輪の翼 蓋埴輪と鶏形埴輪 蓋(きぬがさ)埴輪の上部飾り部分のみである。 蓋埴輪の中には、このように傘部と組合わせるものもある。
  91その他
祭祀遺物鏡形石製品
勾玉形石製品※1
滑石製紡錘車・模様のある紡錘車※2 銅鏃 馬形帯鉤(朝鮮半島出土)※3 籠目皿※4 筒形銅器※5 滑石製刀子※6
・琥珀玉
・滑石製勾玉

 ※1祭礼・儀式はいつの時代にもつきものである。儀礼の後、利用しない供物道具類は代用品に替える知恵も各時代共通である。
   ここにある小さい土製・石製品は、古墳時代の鏡、勾玉、剣などの代用品である。その頃の祭りの際、神木にでも飾られたものだろう。
   祭祀址より、多数出土する。小さい土器も同様である。



※1 祭礼・儀式はいつの時代にもつきものである。儀礼の後、利用しない供物道具類は代用品に替える知恵も各時代共通である。
ここにある小さい土製・石製品は、古墳時代の鏡、勾玉、剣などの代用品である。その頃の祭りの際、神木にでも飾られたものだろう。
祭祀址より、多数出土する。小さい土器も同様である。
 
※2 原始的な方法で糸を紡ぐ時、円板形のものを糸巻棒にさし、回転して「撚り」をかける。これを紡錘車と言い、
日本でも弥生時代から土製品あるいは土器片を再利用し、丸く穴を開けたものが使用されている。
  この滑石製紡錘車は古墳から出土した。実際に用いたか否かは不明だが、この頃はこれに似たもので糸を紡いでいた。 
 
※3 ベルトのバックルに当たる飾り金具である。これと同じような品は、岡山市加茂造山古墳の前方部にある榊山古墳から出土しており、宮内庁に
蔵されている。
 
※4 器の表裏に、底を網代編み、側面を笟編みにした籠の押し型が付く。丹塗りもされており、他の出土例からみても生活一般に用いる土器とは
おもわれない。古墳などの祭祀に使用するために作られた特別な土器であろう。
 
※5 木柄状のものの一端に取り付けられるものである。目釘で固定されるが、透(すかし)のある部分には柄は入らず、中空になり、中に青銅の棒が
あって、鈴のような効果をしめしたと思われる。儀式の場で利用されたものであろう。
 
※6 滑石製刀子は、本来、革の鞘が付いた小刀を滑石で模造したものである。古墳時代の中頃に祭祀に用いるために、刀子に限らず、
その他器材や玉・剣・鏡などの簡略な石製の模造品が作られている。特に石製刀子は古墳に多く副葬されている。

  92銅鏡

滑石製双孔円板
金製輪形品・管玉・臼玉

銅鏡・盤竜鏡・珠文鏡・四獣形鏡・珠文鏡
三角縁三神三獣マ帯鏡
※1

管玉

鍬形石

柄頭形石製品

※2
二神二獣鏡
方格八乳鏡

 ※1
  縁が突出して断面が三角形を示すため、三角縁と言われ、中の文様に神や獣を配しているので、神獣鏡と呼ばれる。
  この種の鏡は我国の古墳出土鏡の中で最も多い。
  文字や像の鮮明なものは中国からの渡来品と考えられ、魏代頃の作とされる。倭の女王卑弥呼が魏から送られた鏡100面はこの種のものでは
  ないかと言われている。

 ※2
  金属製の鏡は、日本でも江戸時代まで使用されていた。しかし、この鏡は古墳時代に中国の鏡を模して作ったもので、多少凸面になっている。
  この頃の我国では鏡は珍しい品と言う以上に、光や物を映すことで、特別な力を持つ宝器として扱われたらしい。

   古墳の中でも死者の顔や胸の周囲に置かれるのが一般的である。




 100古代 これ以降もっと大量に収蔵品がありますが、これ以降は省略させていただきます。
  101古墳-古代 陶棺・陶筒
須恵質切妻家形陶棺
(火葬骨蔵器)
(古墳時代)
瓦製経筒
(平安時代)
承徳二年銘経筒
(平安時代)
※1 土師質陶棺形骨蔵器

 ※1
小型陶棺 古墳時代には、岡山県東部を中心として、陶棺と呼ばれる特異な焼物の棺が盛行しており、一つの大きな特色となっている。
奈良時代になり、仏教的な葬法を受け入れ、火葬にする様になっても、古い伝統を捨てきれず、小さい陶棺形の蔵骨器をわざわざ作り、
これに骨を納めている。

四注形(よせむね)や切妻形の屋根、あるいは、亀甲形の蓋をした容器には、円筒状の足を取り付け、小さいながらも、陶棺の形をそのままに
受け継いだ姿を見せる。
奈良時代の吉備地方に独特な遺品である。