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  西日本の縄文  31    2016.05.15

  出雲弥生の森博物館  島根県出雲市大津町2760  0853-25-1841   火曜日休館撮影可

交通 駅正面からタクシー1200円片道。出雲市駅南口から往復すると片道1090円。 乗る前に必ず値段を聞いてから乗車しましょう。
バス 出雲市駅より平日3往復。休日2往復。(現実的に利用不可です)
レンタカーは、タクシー代より高くつくので無意味です。
時代 弥生時代-古墳時代
見所 四隅突出型墳丘墓 専門の博物館です。
謎の墳丘墓としていろいろな憶測を呼んで知られる、四隅突出型墳丘墓の真相を、展示解説する施設です。
四隅突出型墳丘墓群 である 西谷墳墓群史跡公園 と、四隅突出型墳丘墓出土物の展示・ガイダンス施設です。
展示も素晴らしいですし、解説スタッフも大変な優秀・博識です。是非訪れて下さい。
展示内容 西谷3号墓の四隅突出型墳丘墓の発掘成果と、その後の、古墳時代の出雲の遺跡についての展示。
展示方法 ①西谷3号墓被葬者の葬儀、②出雲の弥生時代、③出雲の古墳時代 に分かれています



次 

01西谷横穴墓群

出雲弥生の森博物館
05入口展示 出雲王の眠る丘
 出雲のクニ 栄光の時代
 西谷墳墓群と「よすみ」
 弥生時代のカリガラス

 西谷3号墓
 -最初に造られた
   四隅突出型墳丘墓-
10四隅突出型墳丘墓ジオラマ
11ジオラマ
 再現!出雲の王墓
 西谷3号墓その日その時
 男女二人の王
12葬送儀礼 人々が集う盛大な儀式
13供献土器
14男王の埋葬
16ジオラマ2

20副葬品 王者が求めた宝
21男王の宝
22女王のアクセサリー

 次に造られた西谷2号墓
30王権の継承
31受け継がれる王位
 ガラス腕輪と中国産朱の出土遺跡 
 鉛ガラス
 代々の王墓
32「よすみ」のはじまり
  「よすみ」とは何か
  「よすみ」の始まり

33王墓の時代
  各地の王墓
  列島各地の個性的な墓

40王の権力を支えたもの
  -王権の原動力-
41三世紀前半の東アジア世界 
 壮大な交流
47各地からの文物

50豊かな大地 
51豊かな大地
53弥生の暮らし
 米は商品作物でした
54田畑の恵み
55弥生の暮らしと土製品
57自然への祈り

60王の治めた国
61出雲の弥生ムラ
63弥生ムラの発展

65弥生時代後半の土器
66土器

70出雲王のいたムラ
71主な四隅突出型墳丘墓
  出雲王のいたムラ  
  弥生人のモノづくり 
73有力者の暮らし
74吉備から運ばれた特殊土器

80最後の出雲王
 西谷の丘の「よすみ」の
  作られた年代
81The Last King

100新たな出雲の世界 古墳時代
101花開く地域文化 西谷墳墓群
 古墳時代の出雲 -王権のゆくえ-  
 西谷に築かれた古墳

 古墳時代の始まり
102山地(やまじ)古墳の副葬品
 古墳時代 前期

110古墳が語る地域社会
113 1400年前の格差社会
 出雲平野の主な古墳
 1400年前の格差社会
 前方後円墳時代
 円墳の時代

114アクセサリー 
115武具・馬具
116尾崎横穴墓群

120器と暮らしぶりの変化
121
 器の変化

130新たな出雲の輝き
131横穴式石室の世界
134金銅製武具
136出雲最大の宝箱
137上塩冶築山古墳
138武具・馬具

150未盗掘古墳 中村1号墳
 東西出雲の石棺
151中村1号墳
 復元!中村1号墳
 
180西谷墳墓群史跡公園
182史跡公園出雲弥生の森
183西谷墳墓群2号墓

185四隅突種型墳丘墓の
 内部構造観察施設

 解き明かされた王墓
187西谷3号墓の調査
 土層が語る埋葬構造
188 1号墓


 01西谷横穴墓群 7世紀前半~中頃 600~650年頃
出雲弥生の森博物館 西谷横穴墓群 第3支群古墳時代
7世紀前半~中頃
発見当時の横穴墓群 横穴墓の構造 西谷横穴墓群 墓道を斜めに削っていますがかなり大きな横穴墓です

 西谷横穴墓群 横穴墓は、山の斜面に横から穴を掘って作った墓のことです。
    この横穴墓群は、博物館建設に先立つ調査で発見されたものですが、そのまま埋めて保存してあります。

    南北約30m、東西約15mの範囲から、10基の横穴墓が見つかりました。
    出土品の須恵器から古墳時代の終わり頃(7世紀前半~中頃)に造られたと考えられます。

    斜面に見える細長い楕円が、一つ一つの横穴墓の場所になります。今見えているのは、墓に通じる墓道を埋めた部分です。
    入口は板や石でふさいであり、羨道を通って人が埋葬された玄室に至ります。

    第1・2支群は、史跡公園側 (向かい側の谷) の斜面で発見されています。




 出雲弥生の森博物館
     -初代出雲王の葬送-

 05入口展示 出雲王の眠る丘

 ※1出雲のクニ 栄光の時代
     米作りが始まり、鉄や青銅などの金属器を使いだし、海を越えて海外とも人や情報が行きかった弥生時代。
     この時代に、ここ出雲にも「王」とあがめられる人物が現れました。

     1800年前、その王のために造られた巨大な墓。それが西谷3号墓です。
     四角く、四隅が突出した不思議な形のお墓。 そこに眠る王はどんな姿だったのか?。
     そして、王が治めた当時の出雲はどんな社会だったのか?
 
     それが、今、解き明かされます。

 ※2西谷墳墓群と「よすみ」 弥生時代後期~古墳時代前期 (2世紀末~3世紀) に築造された

     「よすみ」とは何でしょう?  四隅が突き出した、四角いお墓のことです。
     正式には四隅突出型墳丘墓といいます。長いので「よすみ」と呼んでおきます。

     古墳が造られるようになる以前、弥生時代に出雲などで流行したお墓です。
     その中で大きさトップ5のうち4つが、ここ「西谷の丘」にあります。
     出雲の人々は、どうしてこんな変な形のお墓にこだわったのでしょうか。


出雲王の眠る丘 弥生の王者 出雲のクニ 栄光の時代※1 西谷墳墓群と「よすみ」
※2
「よすみ」とはなんでしょう 西谷墳墓群分布図
西谷3号墓復元CG 王の証
カリガラス製勾玉弥生時代後期 西谷3号墓 女王の埋葬 西谷3号墓だけのとても珍しい形の勾玉です。
中国製ガラスを大陸か半島か出雲かで→
加工したものです。
穴が二つあいていることが珍しいのです。

 その使用目的は不明。
丹後古代の里資料館に沢山のガラス資料があります。特にガラス釧等は絶品ですが、

この二穴勾玉とはガラスの含有物が異なります。

 弥生時代のカリガラス
ガラスの製造には、二酸化ケイ素を主成分とし、これにアルカリ金属酸化物とアルカリ土類酸化物の混合物を1500℃に熱して溶融して生成します。
まり、弥生時代の原初的なガラス生産方法では、珪砂ソーダ灰石灰石を利用しました。
   
カリガラスは、材料のアルカリ成分であるソーダ灰を、草木灰で代用したものです。 これによって、淡青色から紺青色のガラスが得られます。
淡青色は銅が、紺はコバルトが不純物として混入し、発色したものです
   
草木灰にはカリウムと石灰分を含むので、大量の草木灰と白っぽいきらきら光る砂だけでもガラスが作れるということですね。
火山灰には二酸化ケイ素が大量に含まれているので、火山灰と草木灰と、炭火とふいごがあればできそうです。
そういえば、北海道 富良野の畑には大量の火山ガラスが落ちていました。これを集めてきて草木灰と共に加熱すると青いガラスが、
そのまま溶融すると透明なガラスが苦も無く手に入りますね
参考:ナトロン(01)  ナトロンガラス(01)は溶融時に、塩湖などにできる塩化物を混ぜて溶融温度を下げる働きをしたもので色は関係なしです。
古墳時代のナトロンガラス 
※アフリカにナトロン湖という湖があります。



 西谷3号墓 -最初に造られた四隅突出型墳丘墓-


 10四隅突出型墳丘墓ジオラマ   光り輝く出雲 -出雲王の力-
 11ジオラマ

※1再現!出雲の王墓
    いずもでは、銅剣・銅鐸などの青銅器を使ったマツリがすたれた後、独特な墓「よすみ」を造ることに力を注ぐようになりました。
    「よすみ」の完成された姿が、ここ西谷3号墓にあります。大きさ55m×40mで、当時としては日本最大級。葺石の数は2~3万個
    まさに王の墓に相応しい内容です。

    1800年前、その上で出雲の王の葬儀が行われていました。その日の様子を想像力を豊かにして再現しました。

  西谷3号墓その日その時

    西暦18X年、5月のある日のごご、薄曇りの空に穏やかな風が吹きわたっていました。
    西側の赤穴に男王が埋められ、それを囲むように太く高い柱が4本立てられようとしています。

    東側では、続いて女王の埋葬が行われています。 琴の音と共に厳(おごそ)かな歌声も聞こえてきました。
    周りには各地からの人々が続々と集まってきました。 夜のとばりが「西谷の丘」に降りる頃、

    墓の上ではこれらの人々と新王たちが集います。
    そして、亡き王を讃(たた)えつつ、互いのきずなを確かめる宴席が始まるはずです。


  男女二人の王
    二つある大きな墓穴に骨は残っていませんでしたが、副葬品から推定して、男女の王が埋葬されたと考えられます。
    しかも、二人はほぼ当時に葬られています。

    仲のいい夫婦でしょうか? いえ、必ずしもそうとは言えません。  魏志倭人伝には、女王卑弥呼とそれを補佐する「弟」が登場します。
    西谷3号墓が造られたのは、まさに卑弥呼と同時期です。  西谷3号墓の二人も、同じような関係だったのかもしれません。


 考察王墓に夫婦が同時に埋葬されることはありえない。 夫婦だからと言って同時に死ぬこともありえない。
    これは、死んだ王の側室が殉死したのではないでしょうか。 朝鮮半島ではそのような慣習が長い間あったようです。 (韓ドラ見てりゃわかる)

    それとも、追葬でしょうか。考古学的な僅かな時間差とは、どれくらいでしょう。短日~数十年でもわずかな時間差と思われます。
    真相はどうでしょうか。


光り輝く出雲
-出雲王の力-
弥生の王者 西谷3号墓 再現!出雲の王墓 ※1
西谷3号墓その日その時 男女 二人の王 四隅を守る衛士



 12葬送儀礼 人々が集う盛大な儀式
    各地からの参列
      西谷3号墓では、合わせて300個を超える土器が出土しました。これ等は墓上の儀式で使用されたものと考えられています。
      地元出雲の土器だけでなく、、山を越えて吉備 (岡山県南部) から運ばれたものや、越 (北陸地方) の特徴を持つものもありました。

      地元はもちろん、はるばる100㎞以上放れた土地からも人々が集まって、盛大な葬儀をおこなっていたのです。

  13供献土器
人々が集う盛大な儀式 各地からの参列 西谷3号墓から出土した各地の土器 各地の供献土器 山陰の土器低脚坏・壺・山陰型器台 山陰の土器
山陰型器台と蓋付き壺 吉備の土器特殊壺・器台・特殊器台 器台に載った特殊壺・
特殊器台に載った特殊壺
手前は山陰の土器です 北陸系の土器壺×3・器台・高坏 壺・器台・高坏
壺・器台・高坏 墓上の儀礼黄-出雲人 青-吉備人
緑-北陸人 橙-地元人
白-呪術師と親族
墓上から発見された土器
土器の下から発見された巨大柱跡
浅い柱穴は
 上部で柱4本が組まれ ていたことを表す。

 その礼拝施設に各地の供献土器がずっと置かれていた。 
 だとすると、柱は屋根付き出なければならず、
だったら祭祀施設です。

 ただの柱なら墓標でしょう。


  14男王の埋葬
      西谷3号墓に王はどのように葬られたのでしょう。  ここでは布にくるまれていたと想像して復元してみました。
      深く掘りこまれた墓穴の中に、遺体の入った長さ2m程の木棺が置かれ、その外側にさらに一回り大きい木椁が造られていました。

      埋める途中で、小さに木簡木椁がひとつ一緒に埋められました。子供の棺かも知れません。

男王の埋葬 発掘状況と木棺木槨墓
墓上の河原石、
木棺木槨、朱、剣

人骨はなかったようです。
小さな被葬者は殉死者
子ども?女性の小者

※丸石(河原石)は墓石です。昭和30年代頃まではこんなものでした。→
 死後しばらくは河原石を置き、やがて石碑を立てる人、そのままの家もありました。山中の河原石は墓石。

 余計ですが、近所の鉄板焼き屋が拾った丸石を看板の重石に載せています。最近あまり流行ってない。

 ちなみに我が生家では大正初年に移転してから、漬物石は屋敷内から出た丸石=五輪塔。です。(笑)
 大昔は墓地だったようで、その下は河原でした。
千年以上前のことです。家は私が潰しました。(笑)

 16ジオラマ2
立柱を立てている所再現 墓下で葬送儀礼準備 葬送儀礼の様子と、
右は柱たての様子を
同時に再現しています
埋葬の儀でしょうか 木槨の蓋を閉じているところです。 墓上祭祀を行うには、巨大になりすぎた方形墓では、四隅からしか上がれません。
四方に立つ衛士の服装や楯・槍にも、重要な意味があります。 よすみを駆け上る人
よすみの葺石を運ぶ人夫
きっと古代朝鮮の儀礼を参照したのでしょう。
こんなところまで再現しています。イヌは、半島系でしょうか。 出雲の、参列者と庶民が集まってきた。  こんなストーリーを、よく考えて模型にしましたね。

 素晴らしい!


 20副葬品 王者が求めた宝

 21男王の宝
   墳丘の中央近くに埋められた木棺の中からは、ガラスの胸飾りと鉄の剣が発見されました。鉄の剣は勇ましい男王の姿を想像させます。
   棺内に厚く敷かれた朱、ガラスや鉄はどれも中国や朝鮮半島からもたらされたものでした。こうした特別な品々と葬られたことが王の証なのです。

王者が求めた宝 男王の宝
王の埋葬位置と
ガラス管玉と鉄剣の発掘状況
ガラス管玉(胸飾り)と
朱、鉄剣
ガラス管玉(胸飾り)と朱弥生時代後期
西谷3号墓男王
ガラス管玉
鉄剣 男王のアクセサリー 男王のアクセサリーを当時の姿に復元しました。 ガラスの胸飾りを首からかけています。


  22女王のアクセサリー
女王のアクセサリー女王のアクセサリーを当時の姿に復元しました。 胸飾りのほか、首飾り、頭飾り、耳飾りを付けています。 耳飾りの二穴勾玉は、このように復元されました よくマッチしたデザインに推定復元してあります。 女王の宝 女王の埋葬位置、ガラス勾玉、ガラス玉
碧玉管玉 等発掘状況
ガラス玉と勾玉管玉 碧玉管玉 ガラス玉と碧玉玉 ガラス管玉(胸飾り)と朱弥生時代後期
女王の埋葬
ガラス管玉と朱 当時の大陸や半島でも同じような葬送儀礼を行っていたのでしょうか。

  次に造られた西谷2号墓

 30王権の継承

  31受け継がれる王位
     3号墳の次に造られた巨大な「よすみ」2号墓からは、ガラスの腕輪や朱などが発見されています。
     これ等は3号墓の棺内から出土したものと同様に、海外からもたらされたものでした。

     二つの王墓から発見されたガラスはいずれも中国大陸産と考えられ、朱は中国陝西省のものに近い成分であることがわかっています。
     こうした品々は限られた遺跡でしか発見されていません。

     代々の出雲王は、海外から手に入れた貴重な「お宝」を権威の象徴としていたのでしょう。

受け継がれる王位※1 ガラス腕輪と中国産朱の出土遺跡※2 鉛ガラス製腕輪※3 代々の王墓※4

 ※2ガラス腕輪と中国産朱の出土遺跡
    弥生時代後期に、これら貴重な交易品は、北部九州、出雲、因幡、丹後の日本海ルートと、唯一瀬戸内の吉備だけから出土します。
    当時、これらの地域が半島と結びついた強い経済力と、強大な権力を持っていたことを示すものです。

 ※3鉛ガラス
    赤色顔料の鉛丹光明丹を混ぜて作ったガラス。柔らかく、加工に適している。光学ガラスやクリスタルガラスとして利用される。

 ※4代々の王墓
    「西谷の丘」には、3号墓をはじめ6基の「よすみ」があります。そのうち4基が王墓に相応しい大きさです。
    西暦200年前後の数十年間に、3号→2号→4号→9号の順番で造られました。

    王墓がひとつの場所に造られ続けるのは、この時代の日本では他に例がありません。 ※大変安定した政権だったことを表しています。
         


 32「よすみ」のはじまり

  「よすみ」とは何か
    弥生時代中期に四角い墳丘を造って斜面に貼石をし、有力者を葬るようになります。
    更に、墳丘墓の稜線に沿って大きめの石を並べるものが現れ、ます。おそらくここが、墓上でマツリをするための「通路」だったのでしょう。

    この「通路」部分が外に張り出すようになったのが四隅突出型墳丘墓です。
    出現したのはおよそ2000年前のことでした。出雲ではそれまでの青銅器のマツリがすたれ、「よすみ」が地域のシンボルとなっていきます。

「よすみ」とは何か 青銅器の祭 荒神谷遺跡 貼石墓から「よすみ」へ中野美保2号墓(貼石墓) 青木4号墓初期「よすみ」
僅かに突出
突出部の拡大
「よすみ」の広がり 「よすみ」の分布 「よすみ」の広がり
 「よすみ」はその中心である島根県東部のほか、

中国地方山間部や鳥取県、更に遠く北陸にも造られました。
 これまで、100基前後が確認されています。

「よすみ」が造られた地域は互いに密接なつながりがあったと考えられます。

 「よすみ」の始まり
    弥生中期後葉に 広島県三次市 宗祐池西1号墳 10×5m 備後の国 が、現在の最初とされている。 引用島根大学渡邊貞幸教授成編




 33王墓の時代

  各地の王墓
    「西谷の丘」に巨大な「よすみ」が次々と造られたのは、今から約1800年前のことです。
    この頃、列島では、九州北部や岡山県南部、京都府北部、愛知県などでも、強い個性を持った墓造りが行われていました。
    北陸に造られた「よすみ」も山陰のものとは少し違っています。

    他と異なる独自の墓やマツリは、地域の結束を強めるシンボルとなり、人々を束ねる権力者は、その力を誇示する為、
    自らの墓を豪華にまた、巨大にしていきました。



  列島各地の個性的な墓
北部九州 青銅器の大量副葬 平原1号墓の鏡   丹後 鉄とガラスの大量副葬 大風呂南1号墓のガラス腕輪
山陰 石で飾られた巨大な「よすみ」 西谷2号墳   北陸 貼石を持たない「よすみ」 小羽山30号墓
吉備 巨大な墳丘と特殊器台の祭り 楯築墳丘墓と特殊器台   東海 前方後方墳   廻間遺跡SZ01

各地の王墓 各地の王墓 列島各地の個性的な墓 山陰と丹後と北陸 吉備と東海 北部九州 
青銅器の大量副葬



 40王の権力を支えたもの -王権の原動力-

  41三世紀前半の東アジア世界

    壮大な交流 日本海に突き出た島根半島。周辺の入江と湖は行行き交う船に安全な公開をもたらします。
      縄文時代以来、良港に恵まれた出雲は人とモノが集まる所でした。

      弥生時代の後半、出雲に「よすみ」が造られる頃には、その交流は一層活発になります。
      日本海でつながる九州地方や北陸地方、山を越えた瀬戸内地域、そしてはるか中国や朝鮮半島からも、様々な品が出雲に運ばれました。
      出雲から各地へも多くの品が出て行きました、

      海を渡り、山を越え、人とモノが行き交う土地、それが出雲だったのです。

王の権力を支えたもの
-王権の原動力-
壮大な交流 3世紀前半の東アジア世界魏から朱     
呉からガラス腕輪
辰韓から鉄剣  
南西諸島から貝
大陸は三国時代
半島は三韓・楽浪・帯方・   高句麗・濊・東沃沮
 ガラス腕輪
   鉛ガラス製 復元品
     西谷2号墳
鉄剣/復元模型/水銀朱西谷3号墓


  47各地からの文物
朝鮮半島系土器
国内生産
弥生終末期~古墳前期中野清水遺跡
半島南部の勒島式土器
ヌクト式土器
弥生後期 山持遺跡
九州から運ばれた土器
須玖式土器
弥生中期 下古志遺跡
九州から運ばれた土器
下大隈式土器
弥生後期 古志本郷遺跡
九州から運ばれた土器
福井式甕棺
弥生後期 
中野清水遺跡2 3
西部瀬戸内系土器
山口県の影響下の土器
弥生時代後期
白枝荒神遺跡
西谷4号墓

九州から運ばれた土器
甕棺の破片
弥生後期 矢野遺蹟
岡山から運ばれた土器
吉備の葬儀用土器
特殊壺と小型特殊器台
弥生後期 西谷2号墳
北陸系土器
越の土器に似る
弥生時代後期~終末期
中野清水遺跡厳密には、北陸のどこなのかは、わかっていない
西からの品々     
ゴホウラ貝製腕輪南海産の貝が九州で腕輪に加工されて運ばれた
九州や山口の土器も発見された

弥生後期 猪目洞窟
南からの品々
分銅形土製品
瀬戸内地域からは、権力者の葬儀のための特別な土器、呪いの道具がもたらされた

 弥生中期 下古志遺跡
東からの品々
碧玉管玉(田畑遺跡)と
碧玉(矢野遺跡)北陸から装飾品用石材が盛んにもたらされた。北陸の土器に似た土器も発見された

中~後期  




 50豊かな大地 
 51豊かな大地
   およそ3600年前に三瓶山が噴火しました。
   その火山灰などが島根半島と中国山地の間に流れ込み、弥生時代が始まる頃には広々とした出雲平野が形作られていました。

   弥生時代の出雲平野は斐伊川などの大小の川が流れ、南北に山々、東西に湖、その周辺には日本海が広がる自然豊かな土地でした。
   水に恵まれた平野は人々が米作りをするのに最適の環境であり、山々は動物や木の実を、日本海や湖は豊富な魚介類を人々にもたらしました。

豊かな大地 弥生時代の地形と主な遺跡
 

 出雲平野は大変広いのですが、そこに大変な数の弥生集落があったことは驚きに値します。
 というか、それほど肥沃な低湿地があったということ、随分早く塩分が抜けたと思います。(陸化するのは大変遅かった。)

 日本海に突き出た半島だけに沢山の渡来人が押し寄せ、次々と入植地を獲得し、開拓し耕地を広げていった。
 遅くから来て中国山地の奥深くに分け入らざるを得なかったのは、固定式かまど文化人でした。かあるいは、製鉄に関係する人々だったかも
 しれません。


  53弥生の暮らし
稲を刈る 精米をする 木の実を拾う シカを狩る 魚貝をとる


 米は商品作物でした
   稲作農耕を行った半島出身の人々は、日常は雑穀を食べていたと思います。米は商品作物で、半島や大陸に送ってお宝と交換していました。
   そのために、列島各地と半島・大陸を結ぶ定期航路があり、秋には大量の米を積んで出港し、帰り船で高価な品々を持ち帰ってきました。

   この運営は、半島の商人が行っていて、半島だけでなく、大陸へ直接船を出し、交易していたと思われます。

  54田畑の恵み
田舟 弥生中期湿田で稲を運ぶ 田下駄 弥生中・後期湿田の履物 しかし、
これで歩くのは難しい
杵と鍬 横槌 弥生時代脱穀・ワラ打ち ナスビ形鍬(吉備発祥)弥生中期  吉備地方で発祥したナスビ型農耕具は

 近畿地方を中心に
弥生時代後期から古墳時代後期の遺跡から出土します。

引用県内初例のナスビ形農耕具新潟県埋文
  55弥生の暮らしと土製品
石包丁と石鎌
弥生時代/矢野遺跡
モミの圧痕が付いた土器
弥生前期/矢谷遺跡
稲穂の跡が残る土器
弥生前期/矢野遺蹟
稲穂の跡が残る土器 モミの痕跡
 矢野遺跡が出雲平野でいち早くコメを造り始めたムラである証拠となる、
 稲穂の圧痕のある土器
自然の恵み羽毛と獣毛 魚介類
弥生~古墳 猪目洞窟
クルミ・アブラギリ・ツバキ
弥生~古墳 猪目洞窟
石錘
弥生~古墳/矢野遺跡
稲田桃と種 稲田モモ形土製品
弥生中期~古墳前期
小山遺跡
イノシシ骨
弥生~古墳前期
矢野遺跡
シカ骨
弥生~古墳前期
矢野遺跡

  57自然への祈り 人々は動物の姿を土器に描いたり木でかたどりました。自然に対する感謝や恐れの気持ちを表したのでしょう。
鳥形木製品弥生中期 サメを描いた土器 中期
魚を描いた土器 中期
サメを描いた土器 中期 魚を描いた土器 中期 4頭のシカ
鹿が描かれた土器
中期
2頭目のシカにライティング 鳥形木製品
これは誰が見ても鳥竿の作り物でしょう。

先祖供養に関係する墓地の飾りですね。
鹿は
①鹿をトーテムとする部族が大陸からやってきた
3000~2300年前/物部氏

②1700~1300年前
鹿が神格化された
伊勢・鹿島・香取の神社
これ等は物部氏の神社であったが一般化した。
※2019.0209追記
いくら考えてもなぜ鹿が稲作の神であるのかわかりません。
縄文時代は狩猟の対象
(諏訪神社)

夜中に群れで出てきて田んぼの稲穂を咥えてすーと引くと、実が全てそぎ取られてしまう。
大変、食害上手な害獣です。
これを神にする論理が知りたいものです。



 60王の治めた国

 61出雲の弥生ムラ
   弥生時代の出雲平野では、最初にできた「よつがね」ムラに続いて、次々と新しいムラが現れました。
   良好な港と豊かな自然は、弥生時代の人々にとって、とても魅力的な環境だったのです。

  「西谷の丘」に王墓が築かれる頃までには、出雲の弥生ムラは目覚ましい発展を遂げ、平野の至る所で大きなムラができました。
   それぞれのムラは大きな溝などで区画された中に住居や倉庫などが立ち並び、沢山の人々でにぎわっていました。
     
出雲の弥生ムラ 出雲平野のムラの
分布変遷2500年前 1800年前
弥生ムラのはじまり2500年前弥生文化が始まる。最も古くから栄えたムラが「よつがね」ムラです。 初め頃の弥生土器
弥生前期赤色で飾られた土器
弥生前期の土器
初め頃の弥生土器 この杉綾模様は何でしょう 土笛 弥生前期
矢野遺跡
石の剣 弥生前期末~中期末 原山遺跡 開かれた市 (いち)集落で行われた夏祭りの縁日の様子かな?(笑)



  63弥生ムラの発展  弥生時代後半になると、出雲平野に大きなムラが次々と出現しました。そこからは様々な道具が沢山発見されています。
弥生ムラの発展弥生後半にはムラが淘汰され大規模化していく
クニの萌芽
弥生の建物竪穴式建物 高床式建物 木の大型容器
建築材 梁 弥生中期~             後期
建築材 垂木 弥生中期
   海上遺跡
建築材 はしご
弥生後期 海上遺跡
建築材 連結具
弥生中期 海上遺跡
木の筒形容器
弥生中期 海上遺跡
火起こし具 弥生中期
海上遺跡
建築部材 梁
弥生中期 海上遺跡


  65弥生時代後半の土器
   66土器
弥生時代後半の土器弥生中期~後期
下古志遺跡/天神遺跡
山陰形土器でしょうか 蓋付き注口土器や甕
山陰型器台状のものなど
ヨーロッパのアンフォラ様の取っ手付き甕があったんですね 甕の首に付けられた4条の線がとても神経質です



 70出雲王のいたムラ

 71主な四隅突出型墳丘墓

 出雲王のいたムラ
   大きく発展を遂げた出雲平野のムラには、人々を支配する有力者が現れました。
   遺跡から発見される特別な品々がその存在を示しています。

   ムラの有力者達のトップに立ち、クニとしてまとめていたのが出雲王でした。
   大きなムラのどれかには、王の住まいがあったはずです。

   それは、古くから栄えた「よつがね」ムラでしょうか?  それとも「西谷の丘」に近い「なかの」ムラでしょうか?
   あるいは、土に埋もれた幻の遺跡があるのでしょうか?

   出雲王の住んだムラ、それはまだ突き止められていないのです。


 弥生人のモノづくり
   弥生人たちはムラの中で石のアクセサリーや農具など、様々なモノを作り出しました。
   鉄器も普及して生産性も飛躍的に高まったようです。

出雲王のいたムラは 出雲王のいたムラは 西谷の時代のおもなムラと「よすみ」 出雲王のいたムラは 作りかけの鍬四つ分がつながる
弥生時代 矢野遺跡
アカガシ亜属
作りかけの管玉と素材弥生前期~中期
矢野遺跡
花仙山で採れる碧玉各地に運ばれた出雲ブランド  弥生後期
古志本郷・山持遺跡
鉄のナイフ 鹿角柄付き
弥生中期~後期
多聞院遺跡
斧柄 弥生中期 榊
海上遺跡


 73有力者の暮らし
   ムラの有力者たち 彼らは特に丁寧に作られた品々に囲まれていた。そのトップに立つ出雲王の持ち物はさらに豪華だったでしょう。

有力者の暮らし 屋根を飾る板 弥生中期
海上遺跡家屋文鏡に無い屋根飾り
楯 弥生中期海上遺跡 楯復元品
弥生後期~古墳前期
山持遺跡
いす
弥生後期~古墳前期
山持遺跡
ムラの有力者たち 丁寧な作りの土器
弥生中期末~後期
下古志遺跡

船形容器・たる形容器
弥生時代中期/海上遺跡
ケヤキ・桑・エノキ製
木のおたま・スプーン
クワ・サカキ・イヌガヤ
顔かくし
弥生後期~古墳前期
姫原西遺跡


 74吉備から運ばれた特殊土器
    権力者の葬儀で使う特殊な土器です。 ムラから出土する特殊土器は王のいたムラを探る手がかりになるかもしれません。

  弥生後期矢野遺跡
特殊土器(壺と器台)「よつがね」ムラは大型特殊器台を出土する唯一のムラ  特殊器台つまり、「よつがねムラ」には王が住んでいたということか 吉備から運ばれた特殊土器特殊壺・小形特殊器台・大型特殊器台 特殊壺 口縁の破片
特殊壺を真似た土器

弥生後期下古志遺跡


80最後の出雲王 出雲のクニが最盛期を迎えた頃、「西谷の丘」に9号墓が造られました。
   大きさは約60m×55m、高さ5mの日本最大の「よすみ」です。その周囲には3列の石列が巡らされていました。

   ところが、9号墓が造られてからまもなく、出雲の地では「よすみ」がこつ然と姿を消してしまいます。
   出雲王の治めたクニにいったい何があったのか、その答えは今も謎に包まれています。

 西谷の丘の「よすみ」の作られた年代
   「西谷の丘」で「よすみ」が造られたのは弥生時代後期~終末期です。9号墳は弥生終末期の墳墓です。

 参考西谷墳墓群史跡公園 西谷墳墓群※1
 ※1西谷墳墓群の中の「奥津城」は「奥都城」のことで、墳墓のことです。大切なことを専門用語でかっこつけたら意味わからんやん。墓と書け。
     
  81The Last King
最後の出雲王 西谷9号墓の築造想像図 9号墓発見の土器  9号墓の埋葬施設はまだ発掘されていません。

 周辺から僅かに土器が発見されているだけです。
 






 100新たな出雲の世界 古墳時代



 101花開く地域文化 西谷墳墓群
    弥生時代が終わり古墳時代になると、 出雲でも前方後円墳に代表される「古墳」が作られるようになりました。

    やがて、西谷9号墓から約300年の時を経て、「西谷の丘」から西北3㎞の丘に
    出雲地方最大の前方後円墳今市大念寺古墳(全長92m)が造られました。 新たな権力者の出現です

    新たな権力者はどのような人物だったのか? 新時代を迎えた出雲はどのような歴史をたどったのか? ここではその謎に迫ります。


 古墳時代の出雲 -王権のゆくえ-
  西谷に築かれた古墳
   「西谷の丘」に「よすみ」が造られなくなった後も、小規模な方墳や円墳といった古墳が築造されました。
   円墳の16号墳(約1600年前)からは朝鮮半島製と考えられる土堀具が出土しており、海外との交流が続いていたことを物語ります。

 ※朝鮮半島から道具まで持ち込んで築造したのは、半島系農奴集団を使役できる政治力・経済力を持った、渡来系首長が出現したのかもしれない。
   だとすると、「よすみ文化人」を駆逐した軍事勢力。あるいは、強大な政治的圧力をかけられるヤマト政権の関係者かも知れない。

   さらに、1400年前頃には、「西谷の丘」の山肌に穴を掘った墓(横穴墓)が造られました。
   最初の「よすみ」3号墓から数えると、ここ「西谷の丘」には約500年間も墓が作り続けられたことになり、全国的にも稀です。

花開く地域文化 古墳時代の出雲
王権のゆくえ
西谷に築かれた古墳
西谷墳墓群分布図 西谷16号墳 (円墳)箱式石棺 西谷古墳群出土
土師器 近畿と同形
古墳前期 西谷1号墳
鉄の剣と農具
左は朝鮮半島の堀り具
古墳中期 西谷16号墳
円筒埴輪 「西谷の丘」周辺地域では最も古い
古墳中期 西谷11号墳
須恵器と土師器
横穴墓の供献土器
古墳後期 西谷横穴墓群2支群


 古墳時代の始まり
   古墳時代になると(約1700年前)、東北地方南部から九州までの各地に前方後円墳が造られます。
   しかし、島根県東部では四角い墳や前方後墳がまず作られました。

   出雲平野周辺で最古の前方後円墳は、平野の北側にある大寺1号墳(全長約52m)で、約1600年前のものです。 西暦400年5世紀
   同じ頃、今の神西湖の東に、山地古墳(直径24mの円墳?)が造られました。出土した青銅鏡はこの地域最古です。


 102山地(やまじ)古墳の副葬品 古墳時代 前期

古墳時代の始まり 山地古墳の調査
大寺1号墳(左)と
山地古墳(右)
山地古墳の副葬品右奥は杖の先に付けて音を出す金具(筒形銅器) 土器棺と壺/古墳の裾に埋められていた
両方とも土器館かも
山地古墳の副葬品管玉・銅鏡・筒形銅器  右奥は杖の先に付けて
音を出す金具(筒形銅器)

  古墳時代前期
    山地古墳




 110古墳が語る地域社会

  切り石を積み上げた石室側面が開いた家形石棺山腹に群集する横穴墓など、約1400年前の出雲には特色ある古墳が次々と造られました。
  それらの古墳からは、金銀で飾られたイヤリングや刀、馬具等が見つかります。当時の有力者のステータスシンボルです。

  また、古墳の大きさと、副葬品の質や供えられた土器の組み合わせには深い関係がありました。
  そこから当時の出雲社会をうかがうことができそうです。

  113 1400年前の格差社会
古墳が語る地域社会 古墳が語る地域社会 古墳が語る出雲社会 出雲平野の主な古墳※1 1400年前の格差社会
※2

 ※1出雲平野の主な古墳

 弥生出雲の権力と財力
   弥生時代を通じて西日本から北陸にかけて、大変な影響力を持っていた出雲です。莫大な財力を持っていたことでしょう。

 古墳初期の出雲没落の謎
   しかし、古墳時代前期に築造された古墳はわずか二基です。また、それも、前方後墳など、時代の流れとは違う形式でした。
   大和政権の成立過程で大きく力を失った出雲北部九州。 逆に吉備は大いに権力を得ました。黒い政治闘争があったようです。

 政治闘争の敗者と勝者
   この時敗北したのは鉄を牛耳っていた地方政権で、北部九州は半島の鉄を独占。 出雲も自前の鉄と半島の鉄を独占していました。

   しかし、丹後半島では、伽耶人が高地性集落や二重環濠の中で鍛冶を営み、伽耶の鉄を製品化して都に供給していたようです。
   そして、政権と結びついて姻戚関係を持ち、巨大前方後円墳をたくさん作っています。 参考引用丹後古代の里資料館

   吉備もまた、北部九州や出雲と結んで半島の文物を入手していたにもかかわらず、大和政権側にくみして強大な権力を得ました。
     参照:31受け継がれる王位 「ガラス腕輪と中国産朱の出土遺跡」

 出雲と北部九州の消滅
   出雲と北部九州は、どうやら大和政権の成立過程において、政権中枢から政治闘争で追い落とされ、地方の支配権も失ってしまったようです。
   この時期、吉野ヶ里遺跡では自ら環濠を埋め、出ていくことで、ムラは消滅しました。大和政権による強要でしょうか。

   また、出雲では、有名な国引きという、支配権の譲渡を要求されました。

   2019.02.09追記
   この背景には、大陸の巨大国家の勢力を背景としていた(朝貢・冊封)北部九州と出雲は、大陸国家の瓦解によって権力基盤を失ったのです。
   つまり、北部九州の多くの小国は大陸国家の庇護にあることで勢力を保つことが出来ていた、だから、金印をもらったのは奴国王だけではなく、
   印の代わりの玉璧などを下賜されて属国となっていた国々が沢山あったのでしょう。


 国引き神話と諏訪神社
   出雲は政権争いで敗北し、国引き神話 に見られる、王権を大和側に譲渡し、首長は出雲社の宗教司祭となって生き残りました。

   このような例は他にもあり、九州で意に従わないクニに「攻めるぞ」と脅しをかけて、軍を下関辺りまで進めて威圧して平定した
   と言うのもあり、全国に同様の脅迫で国を奪ったり、隷属させたりしました。


  諏訪の支配権を奪った出雲一族
    話はちょっと違うけれど、出雲で国を奪われた一族の一部建御名方神が放浪し、太平洋側から天竜川を遡って諏訪湖に至り、
    そこで、縄文人の国を奪い、縄文人の王洩矢神は宗教司祭として生きる道を選んで敗北した。これって、国引きの意趣返しか八つ当たりやね。


  古墳時代の首長墓の被葬者はだれか
    そして、長く出雲社の長は水葬され墳墓を持たなかったようです。
    従って出雲の古墳時代初期~中期の古墳は、大和から来た政治支配者の墳墓と言うことになります。では、これって誰?

  出雲で何が起こったのか
    しかし、ここでは、他地域とは違う凄惨なことが行われ、出雲神は祟り神(たたりがみ) としておそれられ、特異なことが行われてきたようです。
    ここから先はよくわかりません。自分で調べてね。




※2
 1400年前の格差社会
   これは、1400年前に出来上がったピラミッド社会、経済的政治的支配体制、富裕権力者の支配構造、のことを言ってると思います。

  前方後円墳時代

社会的地位 古墳名 副葬品
出雲西部第一位の大豪族 今市大念寺古墳 金メッキされた死者の靴
第二位の豪族 妙蓮寺山古墳 鈴付きの腕輪
 
支配下の人々上クラス 墳丘をもつ墓 銅の椀、飾り付き刀の柄
  築山遺跡円墳群  
     
下のクラス 墳丘を持たない墓 家形石棺を持つ横穴墓 土器や刀
  上塩冶 (かみしおや) 横穴墓群  


    円墳の時代
社会的地位 古墳名 副葬品
第一位の豪族 上塩冶築山古墳 金ピカの冠 馬具
第二位の豪族 宝塚古墳 鈴付きの腕輪
支配下の人々上クラス 出雲平野北部の豪族 馬具
中村1号墳 石棺
定岡谷古墳群
     
下のクラス 神門横穴墓群  
   ※ただしこれ以下の庶民やもっと下の農奴には墓もない。死んだらほぼ野ざらしでしょう。


  114アクセサリー 上塩冶横穴墓群22支郡 築山遺跡 古墳後期
金銀に輝く耳飾り 金のリングと菱形の金箔 金糸
絹糸などに巻きつけられていた糸状の金
様々な玉類

  115武具・馬具  上塩冶横穴墓群 古墳後期
金・銀の飾りがついた刀
古墳時代後期
刃幅の広い鏃
細長い鏃
巨大な斧
刃幅の広い鏃
鉄の剣 横穴墓からの検出はまれ 飾りのない馬具(実用品)


  116尾崎横穴墓群 古墳時代後期
金属の器を真似た土器 須恵器 高坏の蓋につまみなしが出雲風 器台 古墳の須恵器
多種多様な形
横穴墓の須恵器
小古墳・横穴墓に須恵器の供献はまれ


 120器と暮らしぶりの変化
   400年にわたる古墳時代。出雲の人たちの暮らしには変化の波がいくつもありました。
   1600年前には近畿地方の土器とよく似た土器「土師器」が使われるようになります。

   (中央政府の統一によって) 器の形に地方色がなくなっていったのです。
   (この頃、言葉の統一も行われました。でもまたその後、方言だらけになりましたが(笑)、基本的には全国同じなのです。たとえば"母")

   1400年前からはカメを火にかけるとき「五徳」のような土製品(土製支脚)を使うことが流行します。これは出雲独特の生活用具です。

  121
器と暮らしぶりの変化 器の変化※1 4世紀の土器 5世紀の土器 6世紀の土器
1600年前の土器手前は近畿風土師器
奥は出雲形土師器
古墳前期
1500年前の土器灰色で硬質の須恵器も使われ始める
古墳中期
1400年前の土器「かまど」と蒸し器が普及
古墳後期
移動式かまどと五徳 五徳=土製支脚

 ※1器の変化
     4世紀の土器 出雲の土師器 と 近畿風の土師器  甕・壺など
     5世紀の土器 灰色の須恵器 と お椀形の土師器  須恵器の壺・高坏 脚付き坏など
     6世紀の土器 移動式カマド 甕 甑 土製支脚 などかな






 130新たな出雲の輝き

  131横穴式石室の世界
      古墳の内部に造られた横から出入りできる石積みの部屋、それが横穴式石室です。
      その中には当時の権力者達が沢山の副葬品と共に葬られていました。

      出雲平野は大型の横穴式石室が密集する地域として、全国的にも注目されています。
      最も古いのは、1450年前の今市大念寺古墳の巨大な石室です。横穴石室は、その後およそ100年間にわたって次々と造られましした。


横穴式石室の世界 右:今市大念寺古墳
羨道から奥を
左:今市大念寺古墳石棺
正面:今市大念寺古墳の横に開いた家形石棺
出雲独特の形
右:上塩冶築山古墳羨道から
左:上塩冶築山古墳石棺
正面:上塩冶築山古墳 石棺
左:宝塚古墳 石棺
右:宝塚古墳
左:放レ山古墳
右:放レ山古墳
左:上塩冶地蔵山古墳
右:中村1号墳(発掘前)
左:中村1号墳(発掘後)

  134金銅製武具 古墳後期 上塩冶地蔵山古墳
カギ形の金具 金色の冠剣先の形をした飾り板が立っていた アクセサリー銀色耳飾りと様々な玉
水晶・メノウ・ガラス製玉
二振 (ふり) の太刀 金銀の飾り付き刀柄先に半円の飾りが付く
捩環頭太刀
(ねじりかんとうたち)
金銀の飾り付きの刀柄先が丸い円頭太刀
銀は黒ずんでいる
鉄製鏃刃の形が4種類ある 鉄の矛先13本以上の矛があった 大型ナイフ他にも小さなナイフが見つかっている


 136出雲最大の宝箱
      上塩冶築山古墳は、直径46m、周囲の濠を含めると直径は77mある、出雲最大級の円墳です。
      墳丘は円筒埴輪や装飾付須恵器で飾られていました。

      横穴式石室は切石を精巧に組み合わせて造られ、内部に2つの家形石棺が置かれています。
      石室の大きさもさることながら、高い技術で造られたその美しさは日本でもトップクラスです。

      石室の中からは金色の冠や金銀に輝く馬具や刀など、多数の副葬品が発見されています。
      今市大念寺古墳に葬られた人物に続く、出雲の最高権力者の墓と考えられます。


  137上塩冶築山古墳
出雲最大の宝箱 上塩冶築山古墳
円墳R=46m,R=77mと
今市大念寺古墳
L=92m
円筒埴輪と子持ち壺 円筒埴輪と装飾付須恵器
 古代出雲歴史博物館では、子持ち壺

 出雲弥生の森博物館では装飾付須恵器
 と呼んでいる
  138武具・馬具 古墳後期 上塩冶築山古墳
青銅の鈴 馬具金色の轡くつわ 金色の鞍金具 刀 刀子 鉄鏃 馬具金色の尻飾り革帯に付けられていた 馬具金色の尻飾り 尻懸しりがい
馬具の名称 金色の馬具名称 1轡くつわ 3辻金具 
4鉸具かこ 
5鐙釣り金具あぶみ 
6鞖しおで
2鉸具かこ 
7雲珠うず 
8杏葉ぎょうよう
飾りのない馬具 飾りのない馬具1轡くつわ 
6鞖しおで
8花形杏葉




 150 未盗掘古墳  中村1号墳

  中村1号墳は直径30m、堀を含めると直径42mの円墳です。
  横穴式石室は割り石を加工した石材で作られ、奥の部屋には家形石棺が置かれています。
  石棺は板石を組み上げてあり、その形は安来市など出雲東部のものとよく似ています。

  未盗掘の石室には、鏡、飾り付きの刀3振り、3組の馬具、多数の須恵器などがありました。
  奥の部屋への埋葬後、前室にも追葬が行われています。

  古墳の規模や副葬品の質と量からみて、上塩冶築山古墳の主と同時代の、出雲平野東北部の有力者が眠る墓と考えられます。


 東西出雲の石棺
    西出雲--家形石棺に横穴が開いた形。
    東出雲--大石を寄せて箱式石棺を造り、蓋石も載せて、横に供献物を置く前庭状のものが付いている。

    これ等はどちらも、本来の石棺の役目を無視している。本来の埋葬習慣に家形石棺と言う文化が流入したが、本来の機能を無視して、
    自分たちの埋葬思想に合わせたように改変した。 これは、支石墓の習慣だったのではあるまいか。

    西出雲には畿内型の家形石棺が伝わり、東出雲では、技術的か石材かの問題で寄せ石の石棺となっている。

  151中村1号墳 古墳時代後期
未盗掘古墳の世界 東西出雲の石棺西では家形石棺に穴が、東では前庭が 立派な灰釉の備前焼ですね 金色の馬具2 花形の飾り板が特徴 金色の馬具
鉄鏃 青銅鏡 金色の鈴 金製耳環
ガラス製勾玉
金銀の飾りのついた刀古墳後期 国富中村古墳/東出雲 金銀の飾りのついた刀 金が残っている
古墳後期に刀剣の副葬は珍しい
須恵器被葬者への食べ物飲み物を供えた
須恵器 供献土器か葬送祭祀具か 装飾付須恵器 装飾付須恵器
または子持ち壺墓の入り口に立ててあった
中村1号墳の模型
追葬がなされた様子
復元!中村1号墳

 復元!中村1号墳は、
    横穴式石室が未盗掘で発見された全国的にも珍しい古墳です。
    1400年前、2人目の埋葬直後を復元しました。 石室の前後2つの部屋は多数の副葬品で埋め尽くされています。

    石室の入り口はおびただしい数の石で厳重に閉じられています。
    そこには、当時の人々が抱いていた、死者に対する強い恐れの感情がうかがえるでしょう。


  この後、収蔵展示室に、大量の弥生・古墳・古代の土器が展示され、 また、 古代以降の火葬墓などについての展示がありますが、割愛します。

 







 180西谷墳墓群史跡公園


  182史跡公園出雲弥生の森
史跡公園入口博物館の向かい側 案内板横道にそれずに3号墓2号墓へ 4号墓4号墓も大きい これが「よすみ」墓上への参道 墓上祭祀ではここからしか上がれない 4号墓頂部。向こうに5号墓が見える 3号墓へ
3号墓 (最大最古)3列の石敷きは排水施設か、土止めか 4本の立柱が見える。縄文寺地遺跡同様 巨大墓標だ。男女王の埋葬施設が見える 3号墓の埋葬施設の
説明版※1
男王・第4主体の
墓上祭祀模型
3号墓の葺石の様子 墳丘の解説版
西谷3号墓※2 西谷3号墓※3 墳丘墓模型 第1主体の朱・玉類
第4主体出土土器

※1西谷3号墓の埋葬施設には、
    大小8つの以上の墓穴があります。中でも、現在墳丘上に示している「第4主体」と「第1主体」は、長編6mもあるものでした。
    これらの墓穴には二重の木棺が収められており、棺の底に真っ赤な朱が敷き詰められるなど、大変手厚い埋葬であったことがわかります。

    棺の中からは第4主体で鉄剣と首飾りが、第1主体で200個以上の玉類が発見されています。
    第4主体には当時の男王が、第1主体には女王が葬られたのではないでしょうか。

    また、第4主体では、4本柱の葬儀用施設も発見されており、当時の儀式の様子が再現されています。

※2西谷3号墓 (四隅突出型墳丘墓)
    方丘部は南北30m東西40m高さ4.5m。突出部を含めると約50mの大型の四隅突出墳丘墓です。
    墳丘の斜面には貼石、墳端には立石・敷石を並べており、墳端の配石構造は2段になっています。

    墳頂部の大型埋葬施設2基(第1・4主体)は木棺と木槨の二重構造であり、第1主体からはガラスの勾玉・管玉などの多数の玉類が
    中心主体と考えられる第4主体からは鉄剣1振・ガラス管玉などが出土しました。

    また、墓上から山陰の土器と共に吉備の特殊土器、北陸系の土器が出土しています。
    第4主体の周りには4つの大きな柱跡が発見されていることから、墓上に4本柱の施設を建てて祭祀が行われていたことが推定されます。

    西谷3号墓は、出土土器から弥生時代後期後半(2世紀後半頃)に造られたと考えられます。

※3西谷3号墓
    西谷3号墓はおよそ西暦200年頃に造られました。

  埋納された宝物
    副葬品は大1主体から200個以上の玉類が、第4主体からは鉄剣1点と20個の管玉からなる首飾り1点が出土しています。
    第4主体は当時の王。第1主体はその王妃が埋葬されたのではないでしょうか。

  墓上祭祀
    墳頂部では少なくとも大小8つの墓穴が確認されていますが、そのうちの第4主体では、墓上祭祀の舞台装置が発見されました。
    それを元に当時の儀式の様子が復元されています。

  地域間交流
    墓上では主体部の上から大量の土器が出土しています。
    地元の土器、吉備の土器、北陸のものに似た土器も出土しており、なき王のために他地域からも参列者が来ていたと考えられます。







 183西谷墳墓群2号墓

 ※1西谷2号墓 (四隅突出型墳丘墓)
     方丘部は南北36m東西24m高さ4m。突出部を含めると約50mの大型の四隅突出墳丘墓です。
    墳丘の斜面には貼石、墳端には立石・敷石を並べており、墳端の配石構造は西谷3号墓と同じく2段になっています。

    墳丘は大半が失われていましたが、残丘部に大型埋葬施設(第1主体)があり、木簡には朱が敷かれていたようです。

    また、中心施設があったと推定される場所からは、ガラス釧、ガラス管玉、朱、吉備の特殊土器などの遺物が出土し、
    埋葬者が広い範囲との交流を持っていたことがうかがえます。

     出土土器から弥生時代後期後半(2世紀後半)に造られたと考えられています。

西谷墳墓群2号墓 葺き石墓 西谷2号墓※1
(四隅突出型墳丘墓)
2号墓全景と
配石施設断面
2号墓参道 墳頂部
2号墓から3号墓を
見る
地下観察施設入り口 出口 蘇った2号墓※2 墳丘の保護※3 復元の過程 復元2号墓の見所

 ※2蘇った西谷2号墓
     この墳丘墓は僅かに残っていた墳丘を大切にしながら、当時の姿に復元したものです。
     機械のなかった1800年前の弥生時代に、この巨大な王墓を築き上げた人々の苦労は計り知れません。

 ※3墳丘の保護
     2号墓は、墳丘が削り取られた場所に展示室を設け、残丘と共に全体を盛土で覆って墳丘の保護と復元を行いました。
     そのため、整備後の2号墓は、全体が高さより約1.5m高くなっています。


  185四隅突種型墳丘墓の内部構造観察施設
   1862号墓
蘇った四隅突出墓 蘇った西谷2号墓 復元前の2号墓 2号墓の中心に眠る王
※1
出雲王の埋葬施設 木簡の残存状況
引き継がれた王の権威※2

 ※1 2号墓の中心に眠る王
       2号墓の中心付近で真っ赤な朱とガラス腕輪が発見されました。
       このことから、ここには最も重要な埋葬施設、「中心主体」があったと考えられます。
       しかし、墓穴は完全に破壊されていたので、その構造を知ることはできません。

       そこで、右側の展示では西谷3号墓第1主体の発掘状況を再現しました。
       ボタンを押すと、2号墓のガラス腕輪を装着した埋葬当時の出雲王の姿が浮かび上がります。

 ※2 引き継がれた王の権威
       西谷2号墓は3号墓同様の大きな墳墓でした。(3号墓の方が2号墓よく古く、3号墓が最初に造られたと考えられている。)

       墳丘の大きさは、出土した朱やガラス腕輪とともに王の権威を象徴します。
       従って、3号墓に眠る初代王の権威は、2号墓の王に引き継がれたと考えられます。

       3号墳→2号墳→4号墳の順に作られました。


  解き明かされた王墓

   187西谷3号墓の調査
      調査によって、墓上の祭祀の様子や突出部の構造など3号墓に秘められていた、きわめて重要な事実が次々に明らかになりました。

解き明かされた王墓 西谷3号墓の調査 3号墓第4主体の
祭祀イメージ
土層が語る埋葬構造※1 解説文

 ※1土層が語る埋葬構造
     左の土層パネルは、西谷3号墓第1主体の断面を復元したものです。 質の異なる土が複雑に重なり合っている様子が見てとれます。
     こうした土層を丹念に観察し研究することで、出雲王の埋葬施設がどのような構造だったのかがわかります。

     木棺を木槨で覆った二重構造であったことが判明し、手厚い埋葬を行っていたことが明らかになりました。


   1881号墓
   弥生時代後期後半 (2世紀後半頃)  小形の四隅突出型墳丘墓。

  墳丘の北側が失われている。南東側は貼石、敷石、立石が残っている。
  墳端の配石構造は1段になっています。

  墳頂部では埋葬施設と考えられる土壙が4基確認されている。