西日本の縄文 31 2016.05.15 出雲弥生の森博物館 島根県出雲市大津町2760 0853-25-1841 火曜日休館撮影可
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01西谷横穴墓群 7世紀前半~中頃 600~650年頃
※西谷横穴墓群 横穴墓は、山の斜面に横から穴を掘って作った墓のことです。 この横穴墓群は、博物館建設に先立つ調査で発見されたものですが、そのまま埋めて保存してあります。 南北約30m、東西約15mの範囲から、10基の横穴墓が見つかりました。 出土品の須恵器から古墳時代の終わり頃(7世紀前半~中頃)に造られたと考えられます。 斜面に見える細長い楕円が、一つ一つの横穴墓の場所になります。今見えているのは、墓に通じる墓道を埋めた部分です。 入口は板や石でふさいであり、羨道を通って人が埋葬された玄室に至ります。 第1・2支群は、史跡公園側 (向かい側の谷) の斜面で発見されています。 |
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出雲弥生の森博物館 -初代出雲王の葬送- 05入口展示 出雲王の眠る丘 ※1出雲のクニ 栄光の時代 米作りが始まり、鉄や青銅などの金属器を使いだし、海を越えて海外とも人や情報が行きかった弥生時代。 この時代に、ここ出雲にも「王」とあがめられる人物が現れました。 1800年前、その王のために造られた巨大な墓。それが西谷3号墓です。 四角く、四隅が突出した不思議な形のお墓。 そこに眠る王はどんな姿だったのか?。 そして、王が治めた当時の出雲はどんな社会だったのか? それが、今、解き明かされます。 ※2西谷墳墓群と「よすみ」 弥生時代後期~古墳時代前期 (2世紀末~3世紀) に築造された 「よすみ」とは何でしょう? 四隅が突き出した、四角いお墓のことです。 正式には四隅突出型墳丘墓といいます。長いので「よすみ」と呼んでおきます。 古墳が造られるようになる以前、弥生時代に出雲などで流行したお墓です。 その中で大きさトップ5のうち4つが、ここ「西谷の丘」にあります。 出雲の人々は、どうしてこんな変な形のお墓にこだわったのでしょうか。
弥生時代のカリガラス
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西谷3号墓 -最初に造られた四隅突出型墳丘墓- 10四隅突出型墳丘墓ジオラマ 光り輝く出雲 -出雲王の力- |
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11ジオラマ ※1再現!出雲の王墓 いずもでは、銅剣・銅鐸などの青銅器を使ったマツリがすたれた後、独特な墓「よすみ」を造ることに力を注ぐようになりました。 「よすみ」の完成された姿が、ここ西谷3号墓にあります。大きさ55m×40mで、当時としては日本最大級。葺石の数は2~3万個 まさに王の墓に相応しい内容です。 1800年前、その上で出雲の王の葬儀が行われていました。その日の様子を想像力を豊かにして再現しました。 西谷3号墓その日その時 西暦18X年、5月のある日のごご、薄曇りの空に穏やかな風が吹きわたっていました。 西側の赤穴に男王が埋められ、それを囲むように太く高い柱が4本立てられようとしています。 東側では、続いて女王の埋葬が行われています。 琴の音と共に厳(おごそ)かな歌声も聞こえてきました。 周りには各地からの人々が続々と集まってきました。 夜のとばりが「西谷の丘」に降りる頃、 墓の上ではこれらの人々と新王たちが集います。 そして、亡き王を讃(たた)えつつ、互いのきずなを確かめる宴席が始まるはずです。 男女二人の王 二つある大きな墓穴に骨は残っていませんでしたが、副葬品から推定して、男女の王が埋葬されたと考えられます。 しかも、二人はほぼ当時に葬られています。 仲のいい夫婦でしょうか? いえ、必ずしもそうとは言えません。 魏志倭人伝には、女王卑弥呼とそれを補佐する「弟」が登場します。 西谷3号墓が造られたのは、まさに卑弥呼と同時期です。 西谷3号墓の二人も、同じような関係だったのかもしれません。 考察王墓に夫婦が同時に埋葬されることはありえない。 夫婦だからと言って同時に死ぬこともありえない。 これは、死んだ王の側室が殉死したのではないでしょうか。 朝鮮半島ではそのような慣習が長い間あったようです。 (韓ドラ見てりゃわかる) それとも、追葬でしょうか。考古学的な僅かな時間差とは、どれくらいでしょう。短日~数十年でもわずかな時間差と思われます。 真相はどうでしょうか。 |
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12葬送儀礼 人々が集う盛大な儀式 各地からの参列 西谷3号墓では、合わせて300個を超える土器が出土しました。これ等は墓上の儀式で使用されたものと考えられています。 地元出雲の土器だけでなく、、山を越えて吉備 (岡山県南部) から運ばれたものや、越 (北陸地方) の特徴を持つものもありました。 地元はもちろん、はるばる100㎞以上放れた土地からも人々が集まって、盛大な葬儀をおこなっていたのです。 |
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13供献土器 |
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14男王の埋葬 西谷3号墓に王はどのように葬られたのでしょう。 ここでは布にくるまれていたと想像して復元してみました。 深く掘りこまれた墓穴の中に、遺体の入った長さ2m程の木棺が置かれ、その外側にさらに一回り大きい木椁が造られていました。 埋める途中で、小さに木簡木椁がひとつ一緒に埋められました。子供の棺かも知れません。 |
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16ジオラマ2 |
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20副葬品 王者が求めた宝 |
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21男王の宝 墳丘の中央近くに埋められた木棺の中からは、ガラスの胸飾りと鉄の剣が発見されました。鉄の剣は勇ましい男王の姿を想像させます。 棺内に厚く敷かれた朱、ガラスや鉄はどれも中国や朝鮮半島からもたらされたものでした。こうした特別な品々と葬られたことが王の証なのです。 |
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22女王のアクセサリー |
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次に造られた西谷2号墓 30王権の継承 |
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31受け継がれる王位 3号墳の次に造られた巨大な「よすみ」2号墓からは、ガラスの腕輪や朱などが発見されています。 これ等は3号墓の棺内から出土したものと同様に、海外からもたらされたものでした。 二つの王墓から発見されたガラスはいずれも中国大陸産と考えられ、朱は中国陝西省のものに近い成分であることがわかっています。 こうした品々は限られた遺跡でしか発見されていません。 代々の出雲王は、海外から手に入れた貴重な「お宝」を権威の象徴としていたのでしょう。
※2ガラス腕輪と中国産朱の出土遺跡 弥生時代後期に、これら貴重な交易品は、北部九州、出雲、因幡、丹後の日本海ルートと、唯一瀬戸内の吉備だけから出土します。 当時、これらの地域が半島と結びついた強い経済力と、強大な権力を持っていたことを示すものです。 ※3鉛ガラス 赤色顔料の鉛丹や光明丹を混ぜて作ったガラス。柔らかく、加工に適している。光学ガラスやクリスタルガラスとして利用される。 ※4代々の王墓 「西谷の丘」には、3号墓をはじめ6基の「よすみ」があります。そのうち4基が王墓に相応しい大きさです。 西暦200年前後の数十年間に、3号→2号→4号→9号の順番で造られました。 王墓がひとつの場所に造られ続けるのは、この時代の日本では他に例がありません。 ※大変安定した政権だったことを表しています。 |
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32「よすみ」のはじまり 「よすみ」とは何か 弥生時代中期に四角い墳丘を造って斜面に貼石をし、有力者を葬るようになります。 更に、墳丘墓の稜線に沿って大きめの石を並べるものが現れ、ます。おそらくここが、墓上でマツリをするための「通路」だったのでしょう。 この「通路」部分が外に張り出すようになったのが四隅突出型墳丘墓です。 出現したのはおよそ2000年前のことでした。出雲ではそれまでの青銅器のマツリがすたれ、「よすみ」が地域のシンボルとなっていきます。
「よすみ」の始まり 弥生中期後葉に 広島県三次市 宗祐池西1号墳 10×5m 備後の国 が、現在の最初とされている。 引用島根大学渡邊貞幸教授成編 |
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33王墓の時代 各地の王墓 「西谷の丘」に巨大な「よすみ」が次々と造られたのは、今から約1800年前のことです。 この頃、列島では、九州北部や岡山県南部、京都府北部、愛知県などでも、強い個性を持った墓造りが行われていました。 北陸に造られた「よすみ」も山陰のものとは少し違っています。 他と異なる独自の墓やマツリは、地域の結束を強めるシンボルとなり、人々を束ねる権力者は、その力を誇示する為、 自らの墓を豪華にまた、巨大にしていきました。 列島各地の個性的な墓
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40王の権力を支えたもの -王権の原動力- |
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41三世紀前半の東アジア世界 壮大な交流 日本海に突き出た島根半島。周辺の入江と湖は行行き交う船に安全な公開をもたらします。 縄文時代以来、良港に恵まれた出雲は人とモノが集まる所でした。 弥生時代の後半、出雲に「よすみ」が造られる頃には、その交流は一層活発になります。 日本海でつながる九州地方や北陸地方、山を越えた瀬戸内地域、そしてはるか中国や朝鮮半島からも、様々な品が出雲に運ばれました。 出雲から各地へも多くの品が出て行きました、 海を渡り、山を越え、人とモノが行き交う土地、それが出雲だったのです。 |
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47各地からの文物
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50豊かな大地 |
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51豊かな大地 およそ3600年前に三瓶山が噴火しました。 その火山灰などが島根半島と中国山地の間に流れ込み、弥生時代が始まる頃には広々とした出雲平野が形作られていました。 弥生時代の出雲平野は斐伊川などの大小の川が流れ、南北に山々、東西に湖、その周辺には日本海が広がる自然豊かな土地でした。 水に恵まれた平野は人々が米作りをするのに最適の環境であり、山々は動物や木の実を、日本海や湖は豊富な魚介類を人々にもたらしました。 |
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53弥生の暮らし |
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54田畑の恵み
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55弥生の暮らしと土製品 |
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57自然への祈り 人々は動物の姿を土器に描いたり木でかたどりました。自然に対する感謝や恐れの気持ちを表したのでしょう。
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60王の治めた国 |
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61出雲の弥生ムラ 弥生時代の出雲平野では、最初にできた「よつがね」ムラに続いて、次々と新しいムラが現れました。 良好な港と豊かな自然は、弥生時代の人々にとって、とても魅力的な環境だったのです。 「西谷の丘」に王墓が築かれる頃までには、出雲の弥生ムラは目覚ましい発展を遂げ、平野の至る所で大きなムラができました。 それぞれのムラは大きな溝などで区画された中に住居や倉庫などが立ち並び、沢山の人々でにぎわっていました。 |
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63弥生ムラの発展 弥生時代後半になると、出雲平野に大きなムラが次々と出現しました。そこからは様々な道具が沢山発見されています。
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65弥生時代後半の土器 |
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66土器
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70出雲王のいたムラ |
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71主な四隅突出型墳丘墓 出雲王のいたムラ 大きく発展を遂げた出雲平野のムラには、人々を支配する有力者が現れました。 遺跡から発見される特別な品々がその存在を示しています。 ムラの有力者達のトップに立ち、クニとしてまとめていたのが出雲王でした。 大きなムラのどれかには、王の住まいがあったはずです。 それは、古くから栄えた「よつがね」ムラでしょうか? それとも「西谷の丘」に近い「なかの」ムラでしょうか? あるいは、土に埋もれた幻の遺跡があるのでしょうか? 出雲王の住んだムラ、それはまだ突き止められていないのです。 弥生人のモノづくり 弥生人たちはムラの中で石のアクセサリーや農具など、様々なモノを作り出しました。 鉄器も普及して生産性も飛躍的に高まったようです。 |
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73有力者の暮らし ムラの有力者たち 彼らは特に丁寧に作られた品々に囲まれていた。そのトップに立つ出雲王の持ち物はさらに豪華だったでしょう。
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74吉備から運ばれた特殊土器 権力者の葬儀で使う特殊な土器です。 ムラから出土する特殊土器は王のいたムラを探る手がかりになるかもしれません。 弥生後期矢野遺跡 |
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80最後の出雲王 出雲のクニが最盛期を迎えた頃、「西谷の丘」に9号墓が造られました。 大きさは約60m×55m、高さ5mの日本最大の「よすみ」です。その周囲には3列の石列が巡らされていました。 ところが、9号墓が造られてからまもなく、出雲の地では「よすみ」がこつ然と姿を消してしまいます。 出雲王の治めたクニにいったい何があったのか、その答えは今も謎に包まれています。 西谷の丘の「よすみ」の作られた年代 「西谷の丘」で「よすみ」が造られたのは弥生時代後期~終末期です。9号墳は弥生終末期の墳墓です。 参考西谷墳墓群史跡公園 西谷墳墓群※1 ※1西谷墳墓群の中の「奥津城」は「奥都城」のことで、墳墓のことです。大切なことを専門用語でかっこつけたら意味わからんやん。墓と書け。 |
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81The Last King |
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100新たな出雲の世界 古墳時代 |
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101花開く地域文化 西谷墳墓群 弥生時代が終わり古墳時代になると、 出雲でも前方後円墳に代表される「古墳」が作られるようになりました。 やがて、西谷9号墓から約300年の時を経て、「西谷の丘」から西北3㎞の丘に 出雲地方最大の前方後円墳、今市大念寺古墳(全長92m)が造られました。 新たな権力者の出現です。 新たな権力者はどのような人物だったのか? 新時代を迎えた出雲はどのような歴史をたどったのか? ここではその謎に迫ります。 古墳時代の出雲 -王権のゆくえ- 西谷に築かれた古墳 「西谷の丘」に「よすみ」が造られなくなった後も、小規模な方墳や円墳といった古墳が築造されました。 円墳の16号墳(約1600年前)からは朝鮮半島製と考えられる土堀具が出土しており、海外との交流が続いていたことを物語ります。 ※朝鮮半島から道具まで持ち込んで築造したのは、半島系農奴集団を使役できる政治力・経済力を持った、渡来系首長が出現したのかもしれない。 だとすると、「よすみ文化人」を駆逐した軍事勢力。あるいは、強大な政治的圧力をかけられるヤマト政権の関係者かも知れない。 さらに、1400年前頃には、「西谷の丘」の山肌に穴を掘った墓(横穴墓)が造られました。 最初の「よすみ」3号墓から数えると、ここ「西谷の丘」には約500年間も墓が作り続けられたことになり、全国的にも稀です。 |
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古墳時代の始まり 古墳時代になると(約1700年前)、東北地方南部から九州までの各地に前方後円墳が造られます。 しかし、島根県東部では四角い方墳や前方後方墳がまず作られました。 出雲平野周辺で最古の前方後円墳は、平野の北側にある大寺1号墳(全長約52m)で、約1600年前のものです。 西暦400年5世紀 同じ頃、今の神西湖の東に、山地古墳(直径24mの円墳?)が造られました。出土した青銅鏡はこの地域最古です。 102山地(やまじ)古墳の副葬品 古墳時代 前期 |
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110古墳が語る地域社会 切り石を積み上げた石室。側面が開いた家形石棺。山腹に群集する横穴墓など、約1400年前の出雲には特色ある古墳が次々と造られました。 それらの古墳からは、金銀で飾られたイヤリングや刀、馬具等が見つかります。当時の有力者のステータスシンボルです。 また、古墳の大きさと、副葬品の質や供えられた土器の組み合わせには深い関係がありました。 そこから当時の出雲社会をうかがうことができそうです。 |
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113 1400年前の格差社会
※1出雲平野の主な古墳 弥生出雲の権力と財力 弥生時代を通じて西日本から北陸にかけて、大変な影響力を持っていた出雲です。莫大な財力を持っていたことでしょう。 古墳初期の出雲没落の謎 しかし、古墳時代前期に築造された古墳はわずか二基です。また、それも、前方後方墳など、時代の流れとは違う形式でした。 大和政権の成立過程で大きく力を失った出雲と北部九州。 逆に吉備は大いに権力を得ました。黒い政治闘争があったようです。 政治闘争の敗者と勝者 この時敗北したのは鉄を牛耳っていた地方政権で、北部九州は半島の鉄を独占。 出雲も自前の鉄と半島の鉄を独占していました。 しかし、丹後半島では、伽耶人が高地性集落や二重環濠の中で鍛冶を営み、伽耶の鉄を製品化して都に供給していたようです。 そして、政権と結びついて姻戚関係を持ち、巨大前方後円墳をたくさん作っています。 参考引用丹後古代の里資料館 吉備もまた、北部九州や出雲と結んで半島の文物を入手していたにもかかわらず、大和政権側にくみして強大な権力を得ました。 参照:31受け継がれる王位 「ガラス腕輪と中国産朱の出土遺跡」 出雲と北部九州の消滅 出雲と北部九州は、どうやら大和政権の成立過程において、政権中枢から政治闘争で追い落とされ、地方の支配権も失ってしまったようです。 この時期、吉野ヶ里遺跡では自ら環濠を埋め、出ていくことで、ムラは消滅しました。大和政権による強要でしょうか。 また、出雲では、有名な国引きという、支配権の譲渡を要求されました。 2019.02.09追記 この背景には、大陸の巨大国家の勢力を背景としていた(朝貢・冊封)北部九州と出雲は、大陸国家の瓦解によって権力基盤を失ったのです。 つまり、北部九州の多くの小国は大陸国家の庇護にあることで勢力を保つことが出来ていた、だから、金印をもらったのは奴国王だけではなく、 印の代わりの玉璧などを下賜されて属国となっていた国々が沢山あったのでしょう。 国引き神話と諏訪神社 出雲は政権争いで敗北し、国引き神話 に見られる、王権を大和側に譲渡し、首長は出雲社の宗教司祭となって生き残りました。 このような例は他にもあり、九州で意に従わないクニに「攻めるぞ」と脅しをかけて、軍を下関辺りまで進めて威圧して平定した と言うのもあり、全国に同様の脅迫で国を奪ったり、隷属させたりしました。 諏訪の支配権を奪った出雲一族 話はちょっと違うけれど、出雲で国を奪われた一族の一部建御名方神が放浪し、太平洋側から天竜川を遡って諏訪湖に至り、 そこで、縄文人の国を奪い、縄文人の王洩矢神は宗教司祭として生きる道を選んで敗北した。これって、国引きの意趣返しか八つ当たりやね。 古墳時代の首長墓の被葬者はだれか そして、長く出雲社の長は水葬され墳墓を持たなかったようです。 従って出雲の古墳時代初期~中期の古墳は、大和から来た政治支配者の墳墓と言うことになります。では、これって誰? 出雲で何が起こったのか しかし、ここでは、他地域とは違う凄惨なことが行われ、出雲神は祟り神(たたりがみ) としておそれられ、特異なことが行われてきたようです。 ここから先はよくわかりません。自分で調べてね。 ※2 1400年前の格差社会 これは、1400年前に出来上がったピラミッド社会、経済的政治的支配体制、富裕権力者の支配構造、のことを言ってると思います。 前方後円墳時代
円墳の時代
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114アクセサリー 上塩冶横穴墓群22支郡 築山遺跡 古墳後期 |
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115武具・馬具 上塩冶横穴墓群 古墳後期 |
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116尾崎横穴墓群 古墳時代後期 |
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120器と暮らしぶりの変化 400年にわたる古墳時代。出雲の人たちの暮らしには変化の波がいくつもありました。 1600年前には近畿地方の土器とよく似た土器「土師器」が使われるようになります。 (中央政府の統一によって) 器の形に地方色がなくなっていったのです。 (この頃、言葉の統一も行われました。でもまたその後、方言だらけになりましたが(笑)、基本的には全国同じなのです。たとえば"母") 1400年前からはカメを火にかけるとき「五徳」のような土製品(土製支脚)を使うことが流行します。これは出雲独特の生活用具です。 |
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121 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
130新たな出雲の輝き |
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131横穴式石室の世界 古墳の内部に造られた横から出入りできる石積みの部屋、それが横穴式石室です。 その中には当時の権力者達が沢山の副葬品と共に葬られていました。 出雲平野は大型の横穴式石室が密集する地域として、全国的にも注目されています。 最も古いのは、1450年前の今市大念寺古墳の巨大な石室です。横穴石室は、その後およそ100年間にわたって次々と造られましした。 |
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134金銅製武具 古墳後期 上塩冶地蔵山古墳 |
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136出雲最大の宝箱 上塩冶築山古墳は、直径46m、周囲の濠を含めると直径は77mある、出雲最大級の円墳です。 墳丘は円筒埴輪や装飾付須恵器で飾られていました。 横穴式石室は切石を精巧に組み合わせて造られ、内部に2つの家形石棺が置かれています。 石室の大きさもさることながら、高い技術で造られたその美しさは日本でもトップクラスです。 石室の中からは金色の冠や金銀に輝く馬具や刀など、多数の副葬品が発見されています。 今市大念寺古墳に葬られた人物に続く、出雲の最高権力者の墓と考えられます。 |
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137上塩冶築山古墳 |
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138武具・馬具 古墳後期 上塩冶築山古墳 |
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150 未盗掘古墳 中村1号墳 中村1号墳は直径30m、堀を含めると直径42mの円墳です。 横穴式石室は割り石を加工した石材で作られ、奥の部屋には家形石棺が置かれています。 石棺は板石を組み上げてあり、その形は安来市など出雲東部のものとよく似ています。 未盗掘の石室には、鏡、飾り付きの刀3振り、3組の馬具、多数の須恵器などがありました。 奥の部屋への埋葬後、前室にも追葬が行われています。 古墳の規模や副葬品の質と量からみて、上塩冶築山古墳の主と同時代の、出雲平野東北部の有力者が眠る墓と考えられます。 東西出雲の石棺 西出雲--家形石棺に横穴が開いた形。 東出雲--大石を寄せて箱式石棺を造り、蓋石も載せて、横に供献物を置く前庭状のものが付いている。 これ等はどちらも、本来の石棺の役目を無視している。本来の埋葬習慣に家形石棺と言う文化が流入したが、本来の機能を無視して、 自分たちの埋葬思想に合わせたように改変した。 これは、支石墓の習慣だったのではあるまいか。 西出雲には畿内型の家形石棺が伝わり、東出雲では、技術的か石材かの問題で寄せ石の石棺となっている。 |
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151中村1号墳 古墳時代後期
※復元!中村1号墳は、 横穴式石室が未盗掘で発見された全国的にも珍しい古墳です。 1400年前、2人目の埋葬直後を復元しました。 石室の前後2つの部屋は多数の副葬品で埋め尽くされています。 石室の入り口はおびただしい数の石で厳重に閉じられています。 そこには、当時の人々が抱いていた、死者に対する強い恐れの感情がうかがえるでしょう。 |
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この後、収蔵展示室に、大量の弥生・古墳・古代の土器が展示され、 また、 古代以降の火葬墓などについての展示がありますが、割愛します。 |
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180西谷墳墓群史跡公園 |
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182史跡公園出雲弥生の森
※1西谷3号墓の埋葬施設には、 大小8つの以上の墓穴があります。中でも、現在墳丘上に示している「第4主体」と「第1主体」は、長編6mもあるものでした。 これらの墓穴には二重の木棺が収められており、棺の底に真っ赤な朱が敷き詰められるなど、大変手厚い埋葬であったことがわかります。 棺の中からは第4主体で鉄剣と首飾りが、第1主体で200個以上の玉類が発見されています。 第4主体には当時の男王が、第1主体には女王が葬られたのではないでしょうか。 また、第4主体では、4本柱の葬儀用施設も発見されており、当時の儀式の様子が再現されています。 ※2西谷3号墓 (四隅突出型墳丘墓) 方丘部は南北30m東西40m高さ4.5m。突出部を含めると約50mの大型の四隅突出墳丘墓です。 墳丘の斜面には貼石、墳端には立石・敷石を並べており、墳端の配石構造は2段になっています。 墳頂部の大型埋葬施設2基(第1・4主体)は木棺と木槨の二重構造であり、第1主体からはガラスの勾玉・管玉などの多数の玉類が 中心主体と考えられる第4主体からは鉄剣1振・ガラス管玉などが出土しました。 また、墓上から山陰の土器と共に吉備の特殊土器、北陸系の土器が出土しています。 第4主体の周りには4つの大きな柱跡が発見されていることから、墓上に4本柱の施設を建てて祭祀が行われていたことが推定されます。 西谷3号墓は、出土土器から弥生時代後期後半(2世紀後半頃)に造られたと考えられます。 ※3西谷3号墓 西谷3号墓はおよそ西暦200年頃に造られました。 埋納された宝物 副葬品は大1主体から200個以上の玉類が、第4主体からは鉄剣1点と20個の管玉からなる首飾り1点が出土しています。 第4主体は当時の王。第1主体はその王妃が埋葬されたのではないでしょうか。 墓上祭祀 墳頂部では少なくとも大小8つの墓穴が確認されていますが、そのうちの第4主体では、墓上祭祀の舞台装置が発見されました。 それを元に当時の儀式の様子が復元されています。 地域間交流 墓上では主体部の上から大量の土器が出土しています。 地元の土器、吉備の土器、北陸のものに似た土器も出土しており、なき王のために他地域からも参列者が来ていたと考えられます。 |
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183西谷墳墓群2号墓 ※1西谷2号墓 (四隅突出型墳丘墓) 方丘部は南北36m東西24m高さ4m。突出部を含めると約50mの大型の四隅突出墳丘墓です。 墳丘の斜面には貼石、墳端には立石・敷石を並べており、墳端の配石構造は西谷3号墓と同じく2段になっています。 墳丘は大半が失われていましたが、残丘部に大型埋葬施設(第1主体)があり、木簡には朱が敷かれていたようです。 また、中心施設があったと推定される場所からは、ガラス釧、ガラス管玉、朱、吉備の特殊土器などの遺物が出土し、 埋葬者が広い範囲との交流を持っていたことがうかがえます。 出土土器から弥生時代後期後半(2世紀後半)に造られたと考えられています。
※2蘇った西谷2号墓 この墳丘墓は僅かに残っていた墳丘を大切にしながら、当時の姿に復元したものです。 機械のなかった1800年前の弥生時代に、この巨大な王墓を築き上げた人々の苦労は計り知れません。 ※3墳丘の保護 2号墓は、墳丘が削り取られた場所に展示室を設け、残丘と共に全体を盛土で覆って墳丘の保護と復元を行いました。 そのため、整備後の2号墓は、全体が高さより約1.5m高くなっています。 |
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185四隅突種型墳丘墓の内部構造観察施設 |
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1862号墓
※1 2号墓の中心に眠る王 2号墓の中心付近で真っ赤な朱とガラス腕輪が発見されました。 このことから、ここには最も重要な埋葬施設、「中心主体」があったと考えられます。 しかし、墓穴は完全に破壊されていたので、その構造を知ることはできません。 そこで、右側の展示では西谷3号墓第1主体の発掘状況を再現しました。 ボタンを押すと、2号墓のガラス腕輪を装着した埋葬当時の出雲王の姿が浮かび上がります。 ※2 引き継がれた王の権威 西谷2号墓は3号墓同様の大きな墳墓でした。(3号墓の方が2号墓よく古く、3号墓が最初に造られたと考えられている。) 墳丘の大きさは、出土した朱やガラス腕輪とともに王の権威を象徴します。 従って、3号墓に眠る初代王の権威は、2号墓の王に引き継がれたと考えられます。 3号墳→2号墳→4号墳の順に作られました。 |
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解き明かされた王墓 187西谷3号墓の調査 調査によって、墓上の祭祀の様子や突出部の構造など3号墓に秘められていた、きわめて重要な事実が次々に明らかになりました。 |
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1881号墓
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