西日本の縄文 北陸の辺縁は何処まで 11 2015.10.15 丹後古代の里資料館 京都府京丹後市丹後町宮108 0772-75-2431 火曜休館 午前9:30~4:00午後 撮影可 交通 レンタカー 見所 福井県以西の日本海側で唯一撮影可の博物館。 (周囲の京都府内の資料館も撮影禁止) 北陸西部の先史時代を知る重要な博物館です 注意 開館時間が短い 感想 田舎の小さな資料館ですが、ただキャプションを付けた展示物が並んでいるのではありません。 弥生時代から始まる丹後王国の消長を明らかにしながら、弥生・古墳・古代の人々の様子を詳しく理解できるよう構成されていました。 こんなに詳しく各時代を理解できたのは日本中でここだけです。大変すばらしい展示でした。2016.01.15 特集記事 弥生時代の始まりと大量渡来のわけ 弥生時代を作った渡来人は 弥生時代の縄文人は はじめて知った弥生時代の遺作経済 交易のための米作り 列島への植民の目的 交易経済を担った弥生時代の商人 貝の道の交易商人の存在 商人とは 私の誤解 丹後王国衰退の原因を考える ※長大になってしまいました。最初から読むのは大変です。 目次から、見たい項目をコピー&ペーストで、ブラウザの検索でそこへ飛んでください。 |
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目次
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01外観 |
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常設展のテーマ 丹後王国の成立から消滅。そして丹後国誕生までの歴史がわかるように展示しています。 Ⅰ縄文人の生活 丹後の先史時代
丹後の歴史時代
20縄文時代 -平遺跡-
Ⅰ縄文人の生活
市内最古の石器-有舌尖頭器
3000年間にわたり人々が生活した平(へい)遺跡
平遺跡の土層 剥ぎ取り
※2平遺跡出土土器
※1獣形勾玉頭部 北部九州を中心に、縄文後・晩期~弥生中期までの遺跡で出土します。 引用「いいね金沢 獣形勾玉 金沢市寺中遺跡」 例 獣形勾玉 金沢市寺中遺跡出土 城遺跡出土 翡翠製獣形勾玉 勾玉考 その3:トラネコ日記 - てぃーだ 本来半島系の石製品ですから、縄文後・晩期に半島人や北部九州人が持ち込んだのでしょうか。 |
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30弥生時代 突帯文土器を初めて見たとき、弥生土器だと。時間的に縄文土器に分類されても無理があると思っていました。 ①歴博の年代設定を500年さかのぼるという変更。そして、縄文晩期併行期に ②弥生早期を新しく設定したのは正しいと思う。 参照・引用・図表転載「日本人の源流を探して-3 03水田稲作時代の始まりと渡来人」 弥生時代の始まりと大量渡来人のわけ
弥生時代を作った渡来人は 最初は逃亡難民が、次いで、大規模な領土獲得・拡張競争のために、国家レベルの開発戦略で小国家を作るために、 更に、次々と新しい社会的要因が発生し、大量の半島人が流入した。 弥生時代の縄文人は 縄文晩期に、中期の26万人が、5万人に減少していた縄文人は、人口の5%にまで比率を下げた。 さらに、山の民として1000年たっても半島人と別社会でいた人々や、おそらくは、暴力的な混血など以外は通婚は少なかったであろう。 そうしている間にも、多産系の半島人の割合はどんどん増加し、少数民族になってしまった。 すると、この現代日本人の中にどれほど縄文人の形質が残っていようか。ほんのわずかな痕跡に過ぎないのではないか。 近年、暇人となり、暇潰しに韓ドラが目に入るようになった。出てくる俳優のほとんどが、日本人そっくりな顔立ち・声の人が沢山いる。 もう、ほぼ半島人なのでしょう。 違いは、遺伝子レベルの細部だけでしょう。 と、思いはじめた。 |
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31Ⅱ米作りの始まり 丹後での稲作農耕 丹後半島では竹野遺跡 (たかのいせき) (資料館周辺) で最初に稲作りが始まり、竹野川(たかの)※2 を遡りながら広まっていった。 稲作農耕文化と共に、遠賀川式土器※1・石包丁・陶塤(とうけん=つちぶえ)が出土。 ※1遠賀川式土器--胴部が丸く張り出す特徴的な土器 土笛の教える交易の道 土笛=陶損 は中国発祥の楽器 ってオカリナのことか。あんな寂しい音が弥生人伽耶人は好きだったのか。 半島人は銅鑼や太鼓を打ち鳴らしてやかましく騒ぐのが好きなんではなかったか。それは後世の文化なのか? 土笛は 中国~北部九州~山陰沿岸~丹後半島 の運搬航路があったことを示唆している。 Ⅱ丹後の稲作の始まり
高地性環濠集落・二重環濠集落の厳重な防衛のわけは、途中ヶ丘遺跡・扇谷遺跡が、 玉・鉄製品製造の村で、 伽耶系入植地の重点集落だった。 ※2竹野-タケノとタカノ 京丹後市丹後町竹野はタカノと読む竹野川(タカノ) 兵庫県豊岡市竹野町はタケノとよむ。 京丹後市の専門サイトは朝鮮語だという。 参照「丹後の地名-竹野(たかの)京丹後市丹後町竹野」 大変立派な個人サイトです。 「天日槍系の人々」は アメノヒボコ=渡来人の意味です |
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34Ⅲ丹後王国成立前夜
はじめて知った弥生時代の稲作経済 弥生時代の稲作経済とは、米を半島に大量に運んで交易したということです。そんなに大きな船があって、運べるとは思っていなかった。 大体おかしな話だ。列島の広大な土地に米を作ってどうするんだ。全て食べるのか。ではなく。弥生人は交易のための米作りだったのだ。 列島への植民の目的 農奴は作らされるだけ。支配者は、初めから交易目的に、列島の開墾地を支配するために、やってきたのだ。 それは、自ら開墾の指揮を執るか、開墾された土地を奪うかの違いである。 弥生の王墓に武器と共に農耕具が埋納されたものと、武器ばかりのものとがあるのは、その違いでしょう。 トラキア人のような他国へ侵入して食糧や財物・人を奪って奴隷にするどの泥棒国家というのも存在したのですから。 だから、戦争が絶えず、鉄製品の製造拠点が必要だったり、青谷上寺地遺跡のように前住民を虐殺して村のどぶに捨てて新住民に なりかわったり。 そんな中で、より高い武力を持った者、より、戦略にたけた者がやがてヤマトの大王となったのでしょう。 交易経済を担った弥生時代の商人 さて、 丹後地域の狭くわずかな農地でこれだけの経済効果があるのなら、北九州・出雲・金沢・富山などの広大な平野では天文学的な経済力が あったはず。 すると、列島から膨大な数の舟が半島に向けて航海し、文物を運んでいたことになる。 これは目からうろこである。 確かに韓ドラを見ていると、商人や定期船などの運行する者たちが登場する。 100万もの人々を送り込むにはやはり、定期航路を運行する商人がいたからではないか。 半島へ米を運び、列島へ文物や農奴を運ぶには、当初からの商人が重要な働きをしたと考えざるを得ない。 貝の道の交易商人の存在 それは、3000年前に九州と沖縄を結ぶ「貝の道」が開かれ、南島の貝を半年がかりで交易していた。商人がいた。莫大な利益を上げていた。 米も、貝も同じことだったでしょう。 「貝の道」「貝交易」についてはリンク先「26貝交易」を参照(沖縄写真通信 沖縄県立埋蔵文化財センター の26) 商人とは 文物などを売り買いすることを商というが、これは、中国の殷(商)の人々がこれに長けていたので、商人という言葉ができた。 商王朝は3700年前~3100年前頃まで続いた王朝で、弥生時代3000年前にはすでに一般的な職業であった。 私の誤解 弥生人の交易は何を売るんだろうと、生口(奴隷)を売って資金を得ていた遣隋・唐使から奴隷を売っていたのかと思っていました。 また、卑弥呼が奴隷を中国王に献上したとあるので。 だとすると膨大な数の縄文人が半島や大陸に売られたことになる。 もちろん奴隷貿易もあっただろうと思いますが、交易の中心は米と列島の珍しい宝石などでした。 34Ⅲ丹後王国成立前夜
※1大量の木製品 奈具谷遺跡 弥生中期 水利施設、排水路と取水施設が見つかった遺跡。 その湿地から大量の木製品が残っていた 剣形木製品・砧・網代状編み物・田下駄・えぶり・鋤 槽(そう)・桶・はこ・木製高坏・杓子・火きり臼・機織具・梯子 取水口下流から 栃の実のあく抜き施設 そのほかに 銅鐸形土製品・石鏃・石包丁・磨製石斧 玉造り関連石材(奈具岡遺跡と関連)。 木工職人集団のムラ ※2奈具岡遺跡の水晶玉つくり工房 弥生中期の大規模玉つくりの専業生産集団のムラ 水晶の小玉・棗玉(なつめ)・勾玉 と 中国から入手したカリガラスや鉛ガラスで小玉を制作。 中国製鋳造鉄斧など、半島から交易で入手した製品や、鉄加工技術を持った集団。(伽耶の人々か) 日吉ヶ丘遺跡 (中期中葉~後半) からも大量の鉄製品が出土。 制作した玉製品は半島南部との鉄交易に使われたもののようだ。(丹後からは出土せず) ※3方形貼石墓の出現 -王権の芽生え- 弥生中期後半 巨大で特殊・豪華な副葬品の墳墓 中期後半に丹後独特の墳墓がつくられる。日吉ヶ丘遺跡は一辺30mもの、この時期列島最大のもで、700点余の碧玉製管玉が副葬され、 王の顔面に管玉を縫い付けた布がかぶせられていた。このとき既に王権が存在していた。 同時期の広島県の山中や出雲では四隅突出型墳丘墓が造られ、墳丘裾と突出部に貼石をしている。 この 同時期、中国山地や出雲地方では四隅突出型墳丘墓があり、墳丘裾と突出部に貼石をしている。 この形式は、但馬・丹後・若狭を飛び越して北陸からも出現する。 ために、出雲・越と但馬・丹後・若狭の勢力とは対立関係ではないかと想像されている。 ※四隅突出型墳丘墓は、 一時期、騎馬軍団征服説と相まって、高句麗人の墳墓と考えられていましたが、 最近では、広島県山中で発生したものが、出雲から北陸へと、人の移動と共に広まったと考えられています。 ※4方形台状墓の世界 -王権の伸長- 弥生後期 交易は大成功で、墳墓はさらに豪華に 弥生後期には貼石墓でなく、山の斜面を階段状に削り出した方形台状墓が造られる。 後期前半 大山墳墓群・三坂神社墳墓群・左坂墳墓群・今市墳墓群など。中でも、 三坂神社3号墳では中心埋葬の木棺内に水銀朱が厚く撒き、中国製素環頭鉄刀・鉄鏃・槍鉋 水晶の算盤玉・小玉、ガラス製勾玉・管玉の 頭飾りを副葬。 左坂墳墓群からも中国製素環頭鉄刀が発見され、北部九州以外では大変珍しいものだった。 また、首飾り・腕飾り・耳飾りに使用の青いガラスの勾玉・管玉・小玉もおおく、丹後からは13000点を超えている。 これらは大陸との直接交易で入手したと考えられる。 丹後は北部九州を除くと、群を抜いて、大量の交易品が出土している。 ※5墓壙内破砕土器供献 土器を割って供える葬送儀礼 弥生後期 弥生後期に木棺上や周囲に割った甕・壺・高坏をばらまく儀礼が行われる。丹後・但馬中心に北丹波・兵庫丹波に特徴的に分布する葬送儀礼。 死者の日用品を壊してあの世に送る行為です。現在も残っています。 ※6青いガラスのネックレス 後期前半以降 墳墓に大量のガラス製玉・勾玉・管玉・小玉が出土している。穿孔は技術未熟のため、石同様に行った。 スカイブルーの海の色が好まれた。 三坂神社墳墓群で3000点。左坂墳墓群で6900点。 ※7弥生の墓とムラ -大山墳墓群と大山遺跡- 後期中葉 方形台状墓からは、武器(銅鏃・鉄鏃)、工具(刀子・槍鉋)、玉類(ガラス製勾玉・管玉・小玉・碧玉製管玉) 墓壙内破砕土器供献 出土。大山式土器。 ※8中国・新の王莽の貨泉が出土した函石浜遺跡 函石浜遺跡(縄文後期~室町) 久美浜湾東の砂丘上の遺跡 中国製鉄鏃・銅鏃と共に中国の新時代の貨幣、貨泉 (貨幣) が出土。この遺跡が中国文化流入窓口だった。 古墳時代には、滑石製勾玉や臼玉が使われた海辺の祭祀が行われていた。 新(西暦8年~23年)王莽が建国。昆陽の戦いで王莽が敗死し滅亡 引用Wikipedia この遺跡は当時中国交易の窓口であり、日本海を望む港湾機能を有した遺跡だった。 |
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37Ⅳ丹後王国の成立※1 弥生後期後半にはさらに大きく多彩な副葬品の墳墓が造られるようになる。 交易の莫大な利益により豪華な副葬品に大墳墓 大風呂南1号墳は、青く透き通ったガラス釧 (腕輪) ・鉄剣11本・銅釧13個や玉類が副葬される。 ・ガラス釧は断面が五角形で、インド、ベトナムなど東南アジアに類例があるものとされる。 (遠まわしに東南アジア製と言っている) ・銅釧13個は壱岐・原の辻遺跡出土同系統のもの。 ・鉄剣11本は他に例がない。 日本海交易を掌握していた丹後の王の姿があらわれる。 弥生時代後期末葉の巨大墳墓※2 赤坂今井墳墓 全国最大級 中心埋葬施設は長さ14m幅10.5mの巨大な墓穴に木棺が埋納 二番目の墓穴(7m×4.2m)の木棺から真っ赤な水銀朱。壮麗な頭飾りと両耳の垂飾りが出土。 頭飾りは深緑色のガラス勾玉と淡い青色のガラス管玉や 碧玉製管玉を組み合わせてつくられており、鉢巻き状の布に玉を取り付けて頭に巻いていた。この装身具から、被葬者は女性。 青色ガラスの管玉には、中国秦の始皇帝陵の兵馬俑の彩色に使われて「漢青」という人口顔料が含まれていた。(高価で高い技術) 2世紀後半の大風呂南1号墓と、3世紀初頭の前後の赤坂今井墳墓は、丹後の王墓であり、この時代に丹後王国が成立したと考えられる。 大和政権とのかかわり このような弥生時代の王墓は、筑紫・出雲・吉備などでも発見されており、邪馬台国以前に各地に地域国家が成立していたことがわかる。 また、初期ヤマト政権は各地の地域国家が連合して作り上げたとされており、丹後王国もこれに関わって大きな役割を果たしたと考えられる。 このことは、「古事記」や「日本書紀」の天皇と丹後の媛との婚姻記事からも裏付けられる。
槍鉋の出土の意味 いずれの墳墓からも大量の鉋(やりがんな)が出土している。これは、大規模な木造邸宅があったことを意味しているのではないか。 この頃は柱に礎石を置かない掘立柱建物だったので、吉野ヶ里のような王宮を立てていたのかもしれません。 |
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40古墳時代 |
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41Ⅴ丹後における古墳時代のはじまり 古墳の造営 3世紀中葉に古墳時代が始まるとヤマトを中心に前方後円墳が造られる。 丹後の前方後円墳は4世紀中葉の城米山古墳。(与謝野町加悦かや墳長92m) 埴輪はなく、竪穴石槨だが、墳丘には多数の埋葬施設があり、弥生の埋葬形態を受け継いでいる。 湧田山1号墳(墳長100m)後円部が楕円形。前方部が後円部より低い。埴輪葺石を持たない。などより古い古墳の形態で、丹後最古の前方後円墳か。 中国鏡の入手と卑弥呼 3世紀後半の太田南古墳群の2号墳から、龍紐を持つ中国製の画文帯環状乳神獣鏡、 5号墳から中国魏の青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が出土。 卑弥呼は239年に魏に朝貢しており、翌年銅鏡100枚をもらって帰ってきた。 同時期に多数の地方の王が中国王朝と関係を持とうとしていたと考えられる。
多量の桃核※(桃の種) -道教の隆盛- 道教は、銅鏡を使う中国の呪術で、卑弥呼が行っていたものと同じである。後漢で発生したといわれている。 大量の桃が用いられ、飛鳥の遺跡からも山ほどの桃の種が出土している。 この時期大陸からシャーマンが多く渡って来てこれを行っていたのかもしれない。 そして、ところの政権を乗っ取っていったのかもしれない。 ※1舶載鏡が出土した太田南古墳群 古墳時代前期(3世紀後半~4世紀) 最も古い2号墳(22m×18m方墳)の木棺から中国・後漢製の画文帯環状乳神獣鏡が出土。 5号墳(18.8m×12.3m方墳)組合式石棺から青龍三年銘鏡出土。 6号墳からは、石釧、鉄製刀子、針・ノミ状鉄製品が副葬されていた。 大量の銅鏡の出土 これは、其々の王が中国王朝と関係したか、または、輸入したものであり、遠く大陸と、商人を通じて、密接な関係にあったことを 示している。 |
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43丹後王国成立の自然条件-潟湖の存在と活用- 古墳時代前期後半 天然の港湾施設 丹後王国の発展は大陸・半島の先進的文物が日本海を介していち早く丹後に入ってきたからである。 港湾として砂嘴によって外海と隔てられた潟湖が使われた。久美浜湾・離湖・阿蘇海や 福田川河口の浅茂川湖・竹野川河口の 竹野湖などがあった。 このような潟湖の周辺にはその地方最大の古墳や、由緒ある神社などがあり、古代の港とそれを支配する領主がいたことを物語っている。 また、大規模河川で舟がのぼれる地域にも港があった。 円山川中流域の袴狭遺跡の船団を描いた板絵。 由良川中流域の志高遺跡の船着場遺構などがそれを裏付ける。
※大量の木製品が出土した古殿遺跡と文字 木製品の、工具、農具、容器、案、祭祀具、発火具、組具、織機具、棒状木製品、多数の建築、土木部材など 容器には盤や箱、 祭祀具には鏃模造品や舟形木製品。 案とは古代の机のことで二脚と四脚があり、四脚は食膳具でなく文机かも。だとすると、古墳時代には既に文字を書く人がいたことになり、 丹後の文化先進性が見える。 交易や管理に携わる者は、初めから文字を使わなければ職責が果たせない。商人は文字を使っていたはずです。 |
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45Ⅵ丹後王国の隆盛 -丹後三大古墳の時代- 4世紀中葉~5世紀初頭に築造 巨大古墳の築造 時の天皇陵に匹敵する。墳丘は三段。葺石。丹後型円筒埴輪を使用。 蛭子山古墳 (145m4世紀中葉)、 網野銚子山古墳(198m4世紀後半)、 埴輪絵線刻「龍」 丹後型円筒埴輪2000個以上使用 神明山古墳 (190m4世紀末葉~5世紀初頭) 埴輪絵線刻「舟に乗る人」 丹後三大古墳は、古代に強大な権力を持つ「丹後王国」が存在した証拠である。 半世紀の間に次々と造られていくには、多くの労働力が必要で、後の丹波国全体の労働力を集めたと考えられ、 最盛期には、丹後には強大な力を持った王国があったことを裏付ける。
※1丹後の小型前方後円墳の由来 (40~50m級の全く同型) 丹後三大古墳が4世紀中葉~末葉であるのに対し、小型前方後円墳は3世紀後半~4世紀前半の、より古い時代の王墓と考えられている。 (100m級以上) ※2前方後円墳の築造規格から見える丹後とヤマト ヤマト政権下の地方の前方後円墳は、ヤマトや河内の相似形に造られた。 初期ヤマト政権は桜井市、天理市など奈良東南部にあったが、4世紀後半に奈良市北部佐紀楯列古墳群に、 5世紀に大阪の古市古墳群や百舌鳥古墳群に移動したと考えられている。 佐紀楯列古墳群で最初に造られた佐紀陵山古墳(207m)で丹後出身の日葉酢媛の御陵とされ、網野銚子山古墳はこれと相似形で、 初期ヤマト政権と丹後王国との密接な関係が考えられる。 また、同様に相似形の古墳は、神戸市五色塚古墳・上野市御墓山古墳など4世紀後半のヤマト政権の政治勢力範囲を示しているとも 考えられる。 |
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47Ⅶ丹後王国の衰退 5世紀前半から 造られなくなった大型古墳 ・明神山古墳の次の王墓は、5世紀前半の黒部銚子山古墳(墳長105m京丹後市弥栄町)です。しかし、長さは半分。堆積は六分の一となった。 これ以降100m級は作られなくなり、5世紀中葉の円墳の産土古墳(直径55m京丹後市丹後町竹野)や、 方墳と思われる離湖古墳(34m×43m京丹後市網野町小浜)が次の王墓となる。 この時期の丹後には強大な権力を持った王は存在しなくなったようです。 繁栄の中心が南へ移動 丹波全体では、5世紀中葉雲部車塚古墳(墳長140m兵庫県篠山市)。5世紀末葉には千歳車塚古墳(墳長88m亀岡市)があらわれ、 王国の繁栄の中心は丹後から丹波南部へと移っていきました。 丹後王国の時代範囲 2世紀後半 ~5世紀前半頃までの250年間でした。 (大風呂南1号墳) (黒部銚子山古墳) しかし、3世紀~4世紀前半の王墓は見つかっておらず、今後の丘陵調査によって発見されるかもしれません。 長持形石棺を持つ古墳 ・5世紀の丹後には、長持ち形石棺を用いる古墳が5基(産土山・離湖・願興寺5号・馬場の内・与謝野町法王寺の各古墳)確認されている。 いずれも日本海や潟湖に面して築かれ、産土山・離湖古墳の被葬者は鉄製甲冑を持つことから、 日本海交通の要衝をおさえた将軍のような王とされる。 王者の棺 ・長持形石棺は、大仙古墳(仁徳天皇陵)など畿内中心に5世紀の巨大古墳に使用され、「王者の棺」と呼ばれる。 丹後にこれが多く分布するということは、衰退したとはいえ、依然、ヤマト政権と密接な関係は続いていたと考えられる。 ・使用石材は、ヤマトでは播磨の竜山石ですが、丹後では地元産の凝灰岩です。 47Ⅶ丹後王国の衰退
※1奈具岡北1号墳の陶質土器 この古墳は水晶製玉作り工房の奈具岡遺跡を望む丘陵上に、5世紀前半に築造された、葺石・埴輪を持たず、不整形な前方後円墳(墳長60m)です。 埋葬施設から多数の鉄製武器・ボタン状の銅製品(銅釦どうこう)が出土。 墓穴の上からは、日本海側初出土の12個の陶質土器があり、その形態から韓国慶尚南道(伽耶)産と考えられる。 古墳時代中期になっても、丹後王国が大陸や半島と交流していたことを示している。 ※2女王の墓である大谷古墳 古墳は竹野川上流にあり、古墳時代前期末~中期前葉にかけての墳長32mの帆立貝式前方後円墳である。 組合式石棺には熟年女性の完全な人骨が残っていた。全国的にも珍しい、女性首長の女王墓であった。 「記紀」にあるように、丹後からは、9代開化天皇妃・11代垂仁天皇妃を輩出し、近くの神社にも女性神をまつり、丹後では女性の地位が高かった。 ※3写実的な形象埴輪が並べられたニゴレ古墳 5世紀中葉の小規模な円墳(直径20m高さ3~4m) 豊富な遺物が出土した。 船形木棺に鉄製甲冑一揃いと剣・鉄鏃。墳丘上には写実的な形象埴輪・朝顔形埴輪・円筒埴輪が置かれていた。 形象埴輪には、家形・椅子形・船形・甲冑形がある。 船形埴輪は外洋航海型の準構造船を模して、古代の港、竹野潟・離湖などに浮かんでいた舟を模して造られたものだろう。 ニゴレ古墳の被葬者は、鉄製甲冑を身に着け、丹後王国の経済を支えた、日本海交易を担う船団を率いた将軍のような人物が想像される。 ※4古墳時代中期中葉~後葉の有力古墳 清漬古墳群 大宮町口大野の独立丘陵上の26基の古墳群 7号墳から鉄製鋲留短甲や珍しい三環鈴が出土。8号墳からは円筒埴輪・朝顔形埴輪が出土。 また、大型はそうなど、丹後では数少ない古式の須恵器が副葬されていた。 清漬古墳群のつくられた古墳時代中期中葉~後葉は長持形石棺を持つ産土山古墳や離湖古墳の後の時期にあたり、 当時の首長墓の一形態を知る上で貴重な例となっている。 丹後王国衰退の原因を考える 2世紀後半~5世紀前半頃(250年間) 丹後発展の理由 ①天然地形の良港があった。コメ交易よりも、②母国伽耶の鉄インゴットの輸入加工。それの列島への配布・交易が重要な産業だった。 ③列島の原石を加工して玉製品を生産し、半島との交易品にした。 衰退の理由考察 ①5世紀に、それまで奈良にあったヤマト政権が大阪(浪速の津)に移動してきた。これによって瀬戸内航路が発達して物流経路が変わった ②但馬は新羅、丹波は百済、丹後は伽耶であるが、丹波は朝廷と深く結びついた秦氏の領地であり、より大きな権力で交易を独占した。 ③鉄の生産が他の地へ移った。日本で鉄生産が始まったのは6世紀古墳時代後期でした。この推論はダメですね。 再考 どうもわからない。ただ、物流が変わり、生産、または、販売ができなくなったこと、交易ができなくなったからでしょう。 遣唐・遣隋使貿易も、日宋・日明貿易も、江戸時代の北前船、菱垣廻船、樽廻船など、の交易船は一回の航海成功で天文学的な利益を得た。 富の蓄積はここにあり、衰退の原因もここにあると考えるべきでしょう。 |
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49Ⅷ丹後王国の消滅 (古墳時代後期 6世紀) ・古墳時代後期(6世紀) には横穴式石室を持つ古墳が出現する。 7世紀前半に古墳作りが終わる。 丹後の没落・丹波の繁栄 この時期、灰色の硬い焼き物、須恵器や乗馬の風習が始まったことを示す馬具類が副葬されるようになる。 しかし、丹後では古墳は、2基しか作られず、丹波では16基築造されています。 もはや丹後王国の王権や、一帯を治めた有力豪族は存在せず、いち早くヤマト政権下に組み込まれたようです。 古代製鉄コンビナート 遠處遺跡 丹後の古墳時代後期には、古代の製鉄コンビナートとして有名な遠處遺跡。 金銅装双龍環頭太刀の優品が出土した湯船坂2号墳や高山12号墳など、特筆すべき遺跡・古墳が存在する。 ただ、遠處遺跡はヤマト政権直営の製鉄工房だったと考えられています。 これらの古墳の主は、ヤマト政権下に組み入れられた小地域の豪族です。副葬品は、服属の証として、ヤマト政権から下賜されたもの でしょう。
※1竪穴系横口石室の離山古墳 古墳時代後期になると全国的に横穴式石室が導入される。丹後で最初に導入された石室は、羨道が玄室より高く短い羨道には天井石を乗せない。 竪穴系横口式石室という、九州型で、北部九州中心に日本海沿岸部に点在する。丹後でも6世紀前半~中頃に海岸部や河口部で10基ほど確認され。 離山古墳もその一つで、石室内外から、玉類・須恵器・土師器が出土。付近にも同系統の古墳があり、 離湖周辺が丹後の竪穴系横口式石室の分布域となっている この後、6世紀後半~7世紀初めにかけて畿内型の横穴式石室が導入されていく。 ※3横穴式石室の大成古墳群 竹野川河口の大地上に造られた、横穴式石室を持つ16基以上の古墳群 最大玄室長4.5m×2.5m。それぞれ片袖式、両袖式、無袖式の石室がある。 6世紀後半~7世紀初め頃に順次つくられた。 須恵器・鉄製武器・玉類・耳環などが出土。 使用石材は、この台地を構成している柱状節理です。 ※4豪華な副葬品を持つ湯船坂2号墳 6世紀後半 直径18m円墳 須恵器・鉄鏃・鉄刀・馬具など大量の副葬品が出土 2対の金銅装双龍環頭太刀は国内有数の優品。仏具の銅椀が出土し仏教が伝わっていた。 ※5金銅装の豪華な環頭太刀 環頭は太刀の柄の先に輪を持ち、輪の中に龍や鳳凰等の浮彫をしたもの。銅に金メッキをしたものは金銅装という。 環頭は朝鮮半島産であったが、6世紀後半以降、大和朝廷の中枢工房で国産化された。 湯船2号墳6世紀後半。高山12号墳7世紀初頭。いずれも大和政権服属の証として下賜されたもの。 |
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和銅6年(713)丹波国から五郡を割いて丹後国が誕生した。ヤマト朝廷が全国を分国して力を弱め支配しやすくした。
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60中世
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70編集後記
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