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  西日本の縄文 北陸の辺縁は何処まで 11  2015.10.15

  丹後古代の里資料館 京都府京丹後市丹後町宮108  0772-75-2431 火曜休館 午前9:30~4:00午後 撮影可

   交通  レンタカー

   見所  福井県以西の日本海側で唯一撮影可の博物館。 (周囲の京都府内の資料館も撮影禁止)
        北陸西部の先史時代を知る重要な博物館です

   注意  開館時間が短い

   感想  田舎の小さな資料館ですが、ただキャプションを付けた展示物が並んでいるのではありません。

        弥生時代から始まる丹後王国の消長を明らかにしながら、弥生・古墳・古代の人々の様子を詳しく理解できるよう構成されていました。

        
こんなに詳しく各時代を理解できたのは日本中でここだけです。大変すばらしい展示でした。2016.01.15


   特集記事 弥生時代の始まりと大量渡来のわけ  弥生時代を作った渡来人は  弥生時代の縄文人は
           はじめて知った弥生時代の遺作経済  交易のための米作り      列島への植民の目的

           交易経済を担った弥生時代の商人   貝の道の交易商人の存在   商人とは  私の誤解
           丹後王国衰退の原因を考える


      長大になってしまいました。最初から読むのは大変です。
         目次から、見たい項目をコピー&ペーストで、ブラウザの検索でそこへ飛んでください。


 目次


01外観

 常設展のテーマ

 Ⅰ縄文人の生活
   丹後の先史時代
   丹波国(律令制前)とは

20縄文時代

 平遺跡出土土器型式
 獣形勾玉頭部

30弥生時代

 弥生時代の始まりと大量渡来のわけ

 弥生時代を作った渡来人は
 弥生時代の縄文人は


31Ⅱ米作りの始まり

 丹後での稲作農耕
 土笛の教える交易の道
 遠賀川式土器

 高地性環濠集落・二重環濠集落
 竹野-タケノとタカノ

34Ⅲ丹後王国成立前夜
 稲作経済の成功
 王墓の誕生

 はじめて知った弥生時代の稲作経済
  交易のための米作り
   列島への植民の目的
   交易経済を担った弥生時代の商人
   貝の道の交易商人の存在
   商人とは
   私の誤解

 大量の木製品 奈具谷遺跡 弥生中期
  奈具岡遺跡の水晶玉つくり工房

 方形貼石墓の出現 -王権の芽生え-
  巨大で特殊・豪華な副葬品の墳墓
  四隅突出型墳丘墓の謎

 方形台状墓の世界 -王権の伸長-
  交易は大成功で、墳墓はさらに豪華に

  墓壙内破砕土器供献
  青いガラスのネックレス
  弥生の墓とムラ
  中国・新の王莽の貨泉が出土した
    函石浜遺跡

37 Ⅳ丹後王国の成立

 交易の莫大な利益により豪華な副葬品大墳墓
  弥生時代後期末葉の巨大墳墓
  大和政権とのかかわり
  槍鉋の出土の意味


40古墳時代

41Ⅴ丹後における古墳時代のはじまり
  古墳の造営
  中国鏡の入手と卑弥呼

  多量の桃核(桃の種)-道教の隆盛-
  舶載鏡が出土した太田南古墳群
  大量の銅鏡の出土

43丹後王国成立の自然条件-潟湖の存在と活用-
   天然の港湾施設

  大量の木製品が出土した古殿遺跡と文字

45Ⅵ丹後王国の隆盛 -丹後三大古墳の時代
  巨大古墳の築造

  丹後の小型前方後円墳の由来
  古墳の築造規格から見える丹後とヤマト

47Ⅶ丹後王国の衰退

  造られなくなった大型古墳
  繁栄の中心が南へ
  丹後王国の時代範囲 
  長持形石棺を持つ古墳
  王者の棺

  奈具岡北1号墳の陶質土器
  女王の墓である大谷古墳
  写実的な形象埴輪が並べられたニゴレ古墳
  墳時代中期中葉~後葉の有力古墳 清漬古墳

  丹後王国衰退の原因を考える

49Ⅷ丹後王国の消滅

 丹後の没落・丹波の繁栄
 古代製鉄コンビナート 遠處遺跡

 竪穴系横口石室の離山古墳
 横穴式石室の大成古墳群
 豪華な副葬品を持つ湯船坂2号墳
 金銅装の豪華な環頭太刀
 
50Ⅸ丹後国の誕生

60中世 

70編集後記

 この博物館展示で私がわかったこと

弥生時代は3000年前から始まり、
弥生早期が設定された。
 
従来縄文土器とされた突帯文土器は
弥生早期の土器であった。
 
弥生早期人は半島や大陸からきた
食い詰め漁労民だった。
彼らは瀬戸内側を進んで拡散した。
    
弥生前期に大規模な半島人の渡来が
始まった。
 
彼らは、松菊里式竪穴住居に住み、
遠賀川式土器を使う半島人だった。
 
国家ごとに入植地を造り、そこから、
更に次々と拡散していった。
 
弥生前期人の入植の目的は、領土拡張
コメをはじめとする交易品の獲得だった。
 
コメや物産の交易は商人によって行われ
交易航路があり、交易船が運航していた。
 
沖縄の貝の道も3000年ほど前から始まり
運搬業者は半島人と沖縄人の混血集団
だった。
  貝がその後半島にも送られたことから、
船や交易品は半島人商人のものだった。
 
同じことが本州の各地で行われていたと
考えられる。
 
同じことが本州の各地で行われていたと
考えられる。
 
つまり、弥生前期人は交易のための
米作りにやってきたのだ。
 
入植地や生産物、財物の略奪が起こり、
常に戦乱状態になっていった。
(入植百年後)
 
この交易によって莫大な富を築き、各入
植地に王が誕生し、絶大な権力を持った
 
各地豪族の栄華は長く続いた。
 
やがてこの王権はヤマト政権によって弱
  体化させられていった。
   
そうして、大和朝廷の時代が始まった。
 01外観
久美浜湾
一年を通じてのリゾート
風光明媚 新鮮魚介
美食極楽 我貧乏也
左側に日本海の景勝地ジオパークが展開します。琴引浜など 丹後古代の里資料館
立派な外観
展示室入口

  常設展のテーマ  丹後王国の成立から消滅。そして丹後国誕生までの歴史がわかるように展示しています。



 Ⅰ縄文人の生活


 丹後の先史時代
 旧石器時代 遺跡未発見

 縄文時代  
1万年程前  有舌尖頭器発見
8千年前 (早期)  裏陰遺跡 押型文土器
6千年前 (前期)  松ヶ崎遺跡 貝殻文土器 魚類骨(ハタ・タイ・ヒラメ)・植物種子(栃・栗・胡桃・エゴマ・瓢箪

前期~晩期(3千年間)  平遺跡 
中期    約5千年前  平式土器(渦巻文などで加飾された土器)
後期 (3~4千年前)  浜詰遺跡 最盛期(4千年前) 竪穴住居跡
貝塚から  海産貝(蜆・蛤・牡蠣・アサリ・鮑・サザエ) 魚骨(ボラ・フグ・鯉・黒鯛・スズキ・鮪)
  獣骨(イルカ・鯨・猪・鹿・狸・猿)

 丹後の歴史時代
 丹波国(律令制前)とは  元は、但馬+丹波+丹後の広大な国だった。
   まず但馬※1 が分国※2 次に丹後※3 が分国(和銅6年713)された。

※1但馬国はアメノヒボコが新羅より来住したとされる。(播磨の国風土記) つまり、新羅人の国であった。
※2分国年は不明。『日本書紀天武天皇4年(675年)に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。引用Wikipedia「但馬国」
※3丹後国は伽耶人の国であり、今も伽耶 (加悦) の地名が残る。






 20縄文時代 -平遺跡-

  丹後国は「たにわのみちのしりのくに」と呼ばれ、加佐郡・与謝郡・丹波郡・竹野郡・熊野郡の五郡が、和銅六年(713)に丹波国から分かれてできた国です。
  この分国以前の丹波国は、現在の京都府亀岡市以北全域と、兵庫県氷上郡、多紀郡を範囲とする広大な国でした。そして、京丹後市峰山町と大宮町の範囲が丹波郡であったように、丹波国の中心は、この丹後にありました。

このことは、丹後の弥生時代の卓越した遺跡や丹後三大古墳の存在などと共に、古事記や日本書紀の記事から裏付けられています。
つまり、古代のある時期、丹後には丹波国の範囲全体を治める「丹後王国」と呼べるような強大な勢力の中心が存在したのです。

この常設展では、主に「丹後王国」の成立から消滅、そして丹後国誕生の歴史までが分かるように展示していますので、古代丹後のロマンを感じていただければ幸いです。

尚、「丹後王国」の時代は分国以前のことですので、本来ならば、「丹波(タニワ)王国」と表現しなくてはいけないところです。
しかし、現在でも丹波は、京丹波町(京都府)や篠山市(後に丹波篠山市と改名)・丹波市(いずれも兵庫県) などの地域を刺しています。

また、京丹後市内にも丹波の地名が残っており、「丹波王国」の表現は混乱しやすいように思います。
このため、当時の丹波(タニワ)の中心地が、現在の丹後にあったとの立場から、分国以前のことではありますが、「丹後王国」として表現しています。


 Ⅰ縄文人の生活

  縄文時代以前の旧石器時代の遺跡は、今のところ京丹後市内では見つかっていませんが、1万年程前の有舌尖頭器 (石製のヤリ先) が久美浜町などで発見されています。

今から約1万2,3千年前には、長く続いた氷河期が終わり、気候が温暖化し、植物が豊かに育つようになりました。人々の生活はそれまでの移動生活から定住生活へと変化します。約1万年間続く縄文時代の始まりです。

市内で最も古い縄文土器(押型文土器)が見つかった遺跡は、約8,000年前(早期)の裏陰遺跡(京丹後市大宮町奥大野)などがあります。
続いて約6,00年前(前期)の松ヶ崎遺跡(京丹後市網野町木津)からは、貝殻で文様を付けた土器やハタ、タイ、ヒラメなどの魚類の骨やトチ、栗、クルミ、エゴマ、ヒョウタンなどの植物が出土しています。

また、前期から晩期まで約3,000年に渡り集落が営まれた平遺跡(京丹後市丹後町平)では、約5,000年前の中期になると平式土器と呼ばれる渦巻き文などで加飾された特徴的な縄文土器を持つようになります。

約4,000年前の後期には浜詰遺跡(京丹後市網野町浜詰)が最盛期をむかえます。この遺跡からは竪穴住居跡が発見されています。
また、貝塚からは、シジミ、ハマグリ、カキ、アサリ、アワビ、サザエなどの貝類、ボラ、フグ、コイ、クロダイ、スズキ、マグロなどの魚類。
イルカ、クジラ、イノシシ、シカ、タヌキ、サルなどの哺乳類の骨が見つかり、当時の人々が食べていたものが分かります。

縄文・弥生展示当地は弥生~古墳にかけて丹後王国が隆盛した はじめに丹後国の紹介
範囲・歴史

8千年前(早期)から始まる狩猟漁労に依る遺物多
縄文人の生活浜詰遺跡復元住居
文書内容は上に記述済
平遺跡出土土器 平式土器
の独特の装飾文が
平式土器です
平遺跡 石斧・叩石・石錘・石匙・石鏃・垂飾・小玉・管玉・獣形勾玉頭部※1 石斧・叩石・石錘・石匙 獣形勾玉頭部・垂飾・小玉・管玉 石鏃
スクレーパー・石斧


 市内最古の石器-有舌尖頭器

縄文時代草創期(1万年以上前)の石器である有舌尖頭器が、これまでに市内から4点見つかっている。
奈具岡遺跡(1)と途中ヶ丘遺跡(2)のほか久美浜町内(出土地不明 1)が見つかっている。サヌカイト製の石器で、狩りの槍先として使われた。

丹後では旧石器時代の遺跡や遺物は発見されていないが、これら有舌尖頭器の存在かせ丹後でも1万年以上前から人々が生活していたことがわかる。


 3000年間にわたり人々が生活した平(へい)遺跡

平遺跡は、宇川河口左岸の先ゆう↑にある治用文遺跡である。
遺物が出土した地層は、縄文時代前期末~晩期にかけての3,000年に渡って堆積したもので、厚さ4mにも達し、11層に分けられた。

中でも中期の渦巻き文や紡錘文で加飾された土器は、平遺跡の主度が初めてであることから「平式土器」と呼ばれ、近畿北部の縄文土器の一形式に位置づけられている。

また、晩期の埋甕や石組炉も発見されているほか、貝殻や石錘、軽石で作ったウキ、木の実をすりつぶすのに使った石皿と叩き石、猪、鹿を捕獲する弓矢の石鏃などの出土遺物の種類も多い。

装身具である丸玉と管玉は分析の結果、九州産のクロム白雲母という石で作られており、広域間の交流が推測される。

市内最古の石器
融雪尖頭器
一万年前の市内最古のサヌカイト製有舌尖頭器旧石器~縄文草創期の石器が出土

平遺跡 前期末~晩期まで3千年間続いた遺跡
平式土器=中期の渦巻文・紡錘文で加飾された土器
平遺跡の縄文土器
平遺跡出土土器※2
〇縄文前期…北白川下層式、大歳山式
〇縄文中期…鷹島式、船元式、平式
〇縄文後期…元住吉式、宮滝式
〇縄文晩期…滋賀里式並行、篠原式

埋甕 晩期 平遺跡
浜詰遺跡復元模型
漁労民のムラだった
北陸系土器 中期 北陸系土器 中期 北陸系土器 中期


 平遺跡の土層 剥ぎ取り

  平遺跡は、京丹後市丹後町平に所在する縄文~古墳時代を中心とする遺跡です。遺跡は日本海に面した砂丘上に立地しています。
平成8年の発掘調査では、縄文時代早期~晩期の土器・石器などを大量に含む層と古墳時代の石敷遺構が見つかっています。

展示の土層剥ぎ取りは、縄文時代の包含層が堆積していた様子を展示しています。
土層は大きく3期にわけることができる。

①上層の黒色砂層(細かい砂の層、縄文時代後期~晩期)
②下層の暗褐色砂層(粗い砂礫層、縄文時代前期~中期)
③地山の黄褐色粘質土(砂礫混じりの層)

土層は上に行くほど新しい時代の堆積で、下に行くほど古い時代のものとなっています。
発掘調査では、土の堆積している状態を観察しながら、少しずつ掘り下げていきます。

平遺跡は砂丘上の遺跡縄文早期~晩期の土器・石器包含層と、古墳時代の石敷層遺構を発見 平遺跡周辺地形図 平遺跡土層剥ぎ取り標本①
平遺跡縄文時代包含層②

 ※2平遺跡出土土器

前期 北白川下層式 大歳山式    
中期 鷹島式 船元式    平式(渦巻文・紡錘文)
後期 元住吉式 宮滝式    
晩期 滋賀里式併行 篠原式    


 ※1獣形勾玉頭部
      北部九州を中心に、縄文後・晩期~弥生中期までの遺跡で出土します。 引用「いいね金沢 獣形勾玉 金沢市寺中遺跡」

     例 獣形勾玉 金沢市寺中遺跡出土   城遺跡出土 翡翠製獣形勾玉   勾玉考 その3:トラネコ日記 - てぃーだ

     本来半島系の石製品ですから、縄文後・晩期に半島人や北部九州人が持ち込んだのでしょうか。





 30弥生時代





  突帯文土器を初めて見たとき、弥生土器だと。時間的に縄文土器に分類されても無理があると思っていました。

  ①歴博の年代設定を500年さかのぼるという変更。そして、縄文晩期併行期に
  ②弥生早期を新しく設定したのは正しいと思う。

    参照・引用・図表転載「日本人の源流を探して-3 03水田稲作時代の始まりと渡来人



 弥生時代の始まりと大量渡来人のわけ

5700年前中国北西から

畑作牧畜民の南下と稲作漁労民の逃亡


畑作牧畜民の南下により稲作民が南下。山東半島に追い詰められた人々は舟で朝鮮半島へ。
遂に3000年前長江下流域と半島南部から列島にやってきた。
3000年前の難民の流入
弥生早期

突帯文期の稲作遺跡


3000年前の突帯文土器の稲作民がこれである。
北部九州から瀬戸内航路を通って東進し東海にまでたどり着いた。そのルートからやがて枝分かれして内陸に浸透していった。
弥生早期と区分された
2800年前の半島人流入
弥生前期

板付Ⅰ式土器
遠賀川式

弥生時代最初期の土器セット。弥生土器の特徴である壺も朝鮮半島の松菊里式の影響を受けている。
転載【書評】日本のコメの故郷が絞りこまれた『列島初期稲作の担い手は誰か』  弥生前期


2800年前の流入で
半島式住居広まる

松菊里型竪穴住居の分布図


朝鮮半島南部に広く分布する竪穴住居が列島で分布するのは、弥生前期で遠賀川式土器の分布と一致する。遠賀川土器を使い、松菊里住居に住んだ
水田稲作伝来の年代

私の予想通り突帯文土器は新設定された弥生早期に属す弥生土器である。

大量の弥生人が押し寄せる前に小規模な開墾開拓民がやってきていたとの想像通りであった。
しかし、200年で西日本から東海を席巻したのだからその数10万人は下らないだろう。
遠賀川式・遠賀川系土器及び突帯文土器の分布

・最初の200年の緩慢な侵略。突帯文期=弥生早期。
・春秋戦国の圧力で大挙渡来。弥生前期
・半島の国家レベルで植民を開始し100万もやって来ることになった。
・弥生前期、中期、後期、古墳と何度も新たな移住の波が起こった。
・東日本への半島人の侵入は困難だったようだ。



  弥生時代を作った渡来人は
     最初は逃亡難民が、次いで、大規模な領土獲得・拡張競争のために、国家レベルの開発戦略で小国家を作るために、
     更に、次々と新しい社会的要因が発生し、大量の半島人が流入した。

  弥生時代の縄文人は
     縄文晩期に、中期の26万人が、5万人に減少していた縄文人は、人口の5%にまで比率を下げた。
     さらに、山の民として1000年たっても半島人と別社会でいた人々や、おそらくは、暴力的な混血など以外は通婚は少なかったであろう。
     そうしている間にも、多産系の半島人の割合はどんどん増加し、少数民族になってしまった。

     すると、この現代日本人の中にどれほど縄文人の形質が残っていようか。ほんのわずかな痕跡に過ぎないのではないか。

     近年、暇人となり、暇潰しに韓ドラが目に入るようになった。出てくる俳優のほとんどが、日本人そっくりな顔立ち・声の人が沢山いる。
     もう、ほぼ半島人なのでしょう。
     違いは、遺伝子レベルの細部だけでしょう。  と、思いはじめた。



 31Ⅱ米作りの始まり

  丹後での稲作農耕
    丹後半島では竹野遺跡 (たかのいせき) (資料館周辺) で最初に稲作りが始まり、竹野川(たかの)※2 を遡りながら広まっていった。
    稲作農耕文化と共に、遠賀川式土器※1・石包丁・陶塤(とうけん=つちぶえ)が出土。

      ※1遠賀川式土器--胴部が丸く張り出す特徴的な土器

  土笛の教える交易の道
    土笛=陶損 は中国発祥の楽器 ってオカリナのことか。あんな寂しい音が弥生人伽耶人は好きだったのか。
    半島人は銅鑼や太鼓を打ち鳴らしてやかましく騒ぐのが好きなんではなかったか。それは後世の文化なのか?

    土笛は 中国~北部九州~山陰沿岸~丹後半島 の運搬航路があったことを示唆している。


 Ⅱ丹後の稲作の始まり
二千数百年前になると、中国大陸や朝鮮半島から米つくりなどの技術を持った人々が日本列島にやってきます。
最初に北部九州へやってきた人々は、その後急速に東へ広がっていきます。

丹後半島でも以前からこの地に住んでいた縄文人が米作りを受け入れ、新しくやってきた人々と一緒に新しい弥生文化を花開いていったのです。

この資料館の北側一帯に広がる竹野遺跡(京丹後市丹後町竹野)は、丹後半島で最初に米作りが始まった場所の一つです。
ここから竹野川を遡るように内陸に向かって弥生時代の村が広がっていきました。

そして、米作りとともにやってきたのが、遠賀川式土器という胴部が丸く張り出す特徴的な土器や、
稲の穂を刈り取る道具である石包丁などの石器です。

また、陶塤という土笛が、市内の竹野遺跡、途中ヶ丘遺跡(京丹後市峰山町長岡・新治)、扇谷遺跡(京丹後市峰山町杉谷・丹波・荒山)から合わせて5個出土しています。

この陶塤は、源流が中国にあります。北部九州から山陰海岸にかけての遺跡から、これまでに約100個が見つかっており、丹後半島が出土の東限となっています。収穫のお祭りなどで吹かれたものでしょう。

Ⅱ丹後の稲作の始まり内容は上に記述 遠賀川式土器 土笛・磨石・砥石・石斧
石斧・石包丁・籾跡のある土器
竹野遺跡 弥生~中世
石皿・叩石・環状石斧
ヘラ描流水文土器・陶塤
など弥生前期の遺物出土
稲作は北部九州→日本海経由で浸透。竹野潟に弥生中期の船着場の石積遺構 最初に米作りが始まった竹野遺跡
内容は左2つに記述
陶塤の来た道は 弥生前期後半の遺跡から出土する特徴的文物で
日本海交易ルートの存在を証明する品である
陶塤 弥生前期 竹野遺跡
遠賀川式土器 の分布域
日本海ルートで分布か
赤米(古代米)  丹後には
弥生早期突帯文土器が出土せず大陸・半島からの直接の入植でなく、北九州に入植した一団が拡散した入植地であった
途中ヶ丘遺跡 前期~後期二重環濠高地性集落
玉の石材・鋳造鉄斧・鍛冶滓・ガラス塊など大陸半島の最新技術の村 リンク
峰山町杉谷・丹波・荒山扇谷各遺跡
前期末~中期初頭
扇谷遺跡は玉・鉄製品製作の高地性環濠集落 人面形土製品・玉作り関係資料・鍛冶滓・鋳造鉄斧・ガラス塊・紡錘車 砥石・碧玉原石・石鋸
人面土製品
コスプレ衣装  丹後竹野には先端技術の工房があり、先進的な入植が行われたようだ。

 しかし、広大な平地でなく、なぜこんな山間地に取りついたのかはわからない。大規模な稲作には不向き

  高地性環濠集落・二重環濠集落の厳重な防衛のわけは、途中ヶ丘遺跡・扇谷遺跡が、 玉・鉄製品製造の村で、 伽耶系入植地の重点集落だった。


 ※2竹野-タケノとタカノ
    京丹後市丹後町竹野はタカノと読む竹野川(タカノ) 兵庫県豊岡市竹野町はタケノとよむ。 京丹後市の専門サイトは朝鮮語だという。

    参照「丹後の地名-竹野(たかの)京丹後市丹後町竹野」 大変立派な個人サイトです。 「天日槍系の人々」は アメノヒボコ=渡来人の意味です





   34Ⅲ丹後王国成立前夜

弥生前期末~中期初頭の
  稲作経済の成功により、大陸・半島・北九州から交易入手した、鋳造鉄斧やガラス塊など、最新文物や技術を導入し、
  大きな権力基盤を構築した。
  王の死後大きな墳墓を作って貴重な品々を埋納するようになる。

中期後葉の丹後では方形貼石墓が作られるようになる。王墓の誕生である。

後期には、低い丘陵上の尾根の上を階段状に整形して、方形台状墓が造られる。
  中国製素環頭鉄刀や鉄製品・ガラスのネックレスなど多数が副葬された。これが当時の王権の象徴であった。




  はじめて知った弥生時代の稲作経済
     弥生時代の稲作経済とは、米を半島に大量に運んで交易したということです。そんなに大きな船があって、運べるとは思っていなかった。
     大体おかしな話だ。列島の広大な土地に米を作ってどうするんだ。全て食べるのか。ではなく。弥生人は交易のための米作りだったのだ。

   列島への植民の目的
     農奴は作らされるだけ。支配者は、初めから交易目的に、列島の開墾地を支配するために、やってきたのだ。
     それは、自ら開墾の指揮を執るか、開墾された土地を奪うかの違いである。

       弥生の王墓に武器と共に農耕具が埋納されたものと、武器ばかりのものとがあるのは、その違いでしょう。
       トラキア人のような他国へ侵入して食糧や財物・人を奪って奴隷にするどの泥棒国家というのも存在したのですから。

     だから、戦争が絶えず、鉄製品の製造拠点が必要だったり、青谷上寺地遺跡のように前住民を虐殺して村のどぶに捨てて新住民に
     なりかわったり。

     そんな中で、より高い武力を持った者、より、戦略にたけた者がやがてヤマトの大王となったのでしょう。


   交易経済を担った弥生時代の商人

     さて、
     丹後地域の狭くわずかな農地でこれだけの経済効果があるのなら、北九州・出雲・金沢・富山などの広大な平野では天文学的な経済力が
     あったはず。

     すると、列島から膨大な数の舟が半島に向けて航海し、文物を運んでいたことになる。 これは目からうろこである。

     確かに韓ドラを見ていると、商人や定期船などの運行する者たちが登場する。
     100万もの人々を送り込むにはやはり、定期航路を運行する商人がいたからではないか。

     半島へ米を運び、列島へ文物や農奴を運ぶには、当初からの商人が重要な働きをしたと考えざるを得ない。


   貝の道の交易商人の存在
     それは、3000年前に九州と沖縄を結ぶ「貝の道」が開かれ、南島の貝を半年がかりで交易していた。商人がいた。莫大な利益を上げていた。
     米も、貝も同じことだったでしょう。

     「貝の道」「貝交易」についてはリンク先「26貝交易」を参照(沖縄写真通信 沖縄県立埋蔵文化財センター の26)


   商人とは
     文物などを売り買いすることをというが、これは、中国の殷(商)の人々がこれに長けていたので、商人という言葉ができた。
     商王朝は3700年前~3100年前頃まで続いた王朝で、弥生時代3000年前にはすでに一般的な職業であった。


   私の誤解
     弥生人の交易は何を売るんだろうと、生口(奴隷)を売って資金を得ていた遣隋・唐使から奴隷を売っていたのかと思っていました。
     また、卑弥呼が奴隷を中国王に献上したとあるので。

     だとすると膨大な数の縄文人が半島や大陸に売られたことになる。
     もちろん奴隷貿易もあっただろうと思いますが、交易の中心は米と列島の珍しい宝石などでした。




  34Ⅲ丹後王国成立前夜

丹後王国成立前夜内容は上に記述 河内産の土器2cに大阪からこれに何を入れて運んできたのか 弥生土器
三坂神社墳墓群
奈具岡遺跡
中期2千年前
水晶製玉類の制作工程と製品
水晶原石を入手し加工していた工房
弥生戦士の墓
豊谷墳墓群 中期前葉
打製石剣・石鏃は戦闘による破損痕、人体の鏃受傷痕跡
大量の木製品
奈具谷遺跡※1水利施設跡
奈具岡遺跡の水晶玉工房※2
奈具岡遺跡の水晶玉工房 奈具岡遺跡の水晶未玉製品と鉄製品 方形貼石墓の出現※3
-王権の芽生え-
日吉ヶ丘遺跡の貼石墓と出雲の四隅突出型墳丘墓 方形台状墓の世界※4
-王権の伸長- 三坂神社墳墓群と
三号墓の埋葬施設
弥生時代後期前半
弥生土器弥生後期 大山墳墓群 大山墳墓群復元模型
ムラを見下ろす集団墓
三坂神社墳墓群素環頭鉄刀・鉋・鉄鏃、ガラス勾玉・水晶ガラス小玉・ガラス管玉 左坂墳墓群 ガラス小玉・勾玉・素環頭鉄刀・鉄鏃
今市墳墓群 鉋・刀子
墓壙内破砕土器供献※5 青いガラスのネックレス
※6
弥生の墓とムラ※7
-大山墳墓群と大山遺跡-
中国・新の王莽の貨泉が出土した函石浜遺跡※8

 ※1大量の木製品 奈具谷遺跡 弥生中期
     水利施設、排水路と取水施設が見つかった遺跡。

    その湿地から大量の木製品が残っていた
     剣形木製品・砧・網代状編み物・田下駄・えぶり・鋤  槽(そう)・桶・はこ・木製高坏・杓子・火きり臼・機織具・梯子

    取水口下流から 栃の実のあく抜き施設

    そのほかに
     銅鐸形土製品・石鏃・石包丁・磨製石斧  玉造り関連石材(奈具岡遺跡と関連)。 木工職人集団のムラ


 ※2奈具岡遺跡の水晶玉つくり工房 弥生中期大規模玉つくりの専業生産集団のムラ
     水晶の小玉・棗玉(なつめ)・勾玉 と 中国から入手したカリガラスや鉛ガラスで小玉を制作。
     中国製鋳造鉄斧など、半島から交易で入手した製品や、鉄加工技術を持った集団。(伽耶の人々か)

     日吉ヶ丘遺跡 (中期中葉~後半) からも大量の鉄製品が出土。

     制作した玉製品は半島南部との鉄交易に使われたもののようだ。(丹後からは出土せず)



 ※3方形貼石墓の出現 -王権の芽生え- 弥生中期後半
 
    巨大で特殊・豪華な副葬品の墳墓
     中期後半に丹後独特の墳墓がつくられる。日吉ヶ丘遺跡は一辺30mもの、この時期列島最大のもで、700点余の碧玉製管玉が副葬され、
     王の顔面に管玉を縫い付けた布がかぶせられていた。このとき既に王権が存在していた。

     同時期の広島県の山中や出雲では四隅突出型墳丘墓が造られ、墳丘裾と突出部に貼石をしている。
     この

     同時期、中国山地や出雲地方では四隅突出型墳丘墓があり、墳丘裾と突出部に貼石をしている。
     この形式は、但馬・丹後・若狭を飛び越して北陸からも出現する。

     ために、出雲・越と但馬・丹後・若狭の勢力とは対立関係ではないかと想像されている。

        ※四隅突出型墳丘墓は、
            一時期、騎馬軍団征服説と相まって、高句麗人の墳墓と考えられていましたが、
            最近では、広島県山中で発生したものが、出雲から北陸へと、人の移動と共に広まったと考えられています。




 ※4方形台状墓の世界 -王権の伸長- 弥生後期

    交易は大成功で、墳墓はさらに豪華に
     弥生後期には貼石墓でなく、山の斜面を階段状に削り出した方形台状墓が造られる。

     後期前半 大山墳墓群・三坂神社墳墓群・左坂墳墓群・今市墳墓群など。中でも、
     三坂神社3号墳では中心埋葬の木棺内に水銀朱が厚く撒き、中国製素環頭鉄刀・鉄鏃・槍鉋 水晶の算盤玉・小玉、ガラス製勾玉・管玉の
     頭飾りを副葬。

     左坂墳墓群からも中国製素環頭鉄刀が発見され、北部九州以外では大変珍しいものだった。

     また、首飾り・腕飾り・耳飾りに使用の青いガラスの勾玉・管玉・小玉もおおく、丹後からは13000点を超えている。
     これらは大陸との直接交易で入手したと考えられる。 丹後は北部九州を除くと、群を抜いて、大量の交易品が出土している。



 ※5墓壙内破砕土器供献 土器を割って供える葬送儀礼 弥生後期
     弥生後期に木棺上や周囲に割った甕・壺・高坏をばらまく儀礼が行われる。丹後・但馬中心に北丹波・兵庫丹波に特徴的に分布する葬送儀礼。
     死者の日用品を壊してあの世に送る行為です。現在も残っています。


 ※6青いガラスのネックレス 後期前半以降 墳墓に大量のガラス製玉・勾玉・管玉・小玉が出土している。穿孔は技術未熟のため、石同様に行った。
    スカイブルーの海の色が好まれた。 三坂神社墳墓群で3000点。左坂墳墓群で6900点。


 ※7弥生の墓とムラ -大山墳墓群と大山遺跡- 後期中葉
     方形台状墓からは、武器(銅鏃・鉄鏃)、工具(刀子・槍鉋)、玉類(ガラス製勾玉・管玉・小玉・碧玉製管玉) 
     墓壙内破砕土器供献 出土。大山式土器


 ※8中国・新の王莽の貨泉が出土した函石浜遺跡 函石浜遺跡(縄文後期~室町) 久美浜湾東の砂丘上の遺跡
     中国製鉄鏃・銅鏃と共に中国の新時代の貨幣、貨泉 (貨幣) が出土。この遺跡が中国文化流入窓口だった。
     古墳時代には、滑石製勾玉や臼玉が使われた海辺の祭祀が行われていた。

      新(西暦8年~23年)王莽が建国。昆陽の戦いで王莽が敗死し滅亡 引用Wikipedia

     この遺跡は当時中国交易の窓口であり、日本海を望む港湾機能を有した遺跡だった。




 37Ⅳ丹後王国の成立※1 弥生後期後半にはさらに大きく多彩な副葬品の墳墓が造られるようになる。

  交易の莫大な利益により豪華な副葬品に大墳墓

   大風呂南1号墳は、青く透き通ったガラス釧 (腕輪) ・鉄剣11本・銅釧13個や玉類が副葬される。
     ・ガラス釧は断面が五角形で、インド、ベトナムなど東南アジアに類例があるものとされる。   (遠まわしに東南アジア製と言っている)
     ・銅釧13個は壱岐・原の辻遺跡出土同系統のもの。
     ・鉄剣11本は他に例がない。
   日本海交易を掌握していた丹後の王の姿があらわれる。

  弥生時代後期末葉の巨大墳墓※2

   赤坂今井墳墓 全国最大級 中心埋葬施設は長さ14m幅10.5mの巨大な墓穴に木棺が埋納

    二番目の墓穴(7m×4.2m)の木棺から真っ赤な水銀朱。壮麗な頭飾りと両耳の垂飾りが出土。 
    頭飾りは深緑色のガラス勾玉と淡い青色のガラス管玉や
    碧玉製管玉を組み合わせてつくられており、鉢巻き状の布に玉を取り付けて頭に巻いていた。この装身具から、被葬者は女性。

    青色ガラスの管玉には、中国秦の始皇帝陵の兵馬俑の彩色に使われて「漢青」という人口顔料が含まれていた。(高価で高い技術)
    2世紀後半の大風呂南1号墓と、3世紀初頭の前後の赤坂今井墳墓は、丹後の王墓であり、この時代に丹後王国が成立したと考えられる

   大和政権とのかかわり
    このような弥生時代の王墓は、筑紫・出雲・吉備などでも発見されており、邪馬台国以前に各地に地域国家が成立していたことがわかる。
    また、初期ヤマト政権は各地の地域国家が連合して作り上げたとされており、丹後王国もこれに関わって大きな役割を果たしたと考えられる。

    このことは、「古事記」や「日本書紀」の天皇と丹後の媛との婚姻記事からも裏付けられる。

Ⅳ丹後王国の成立※1 弥生時代後期末葉※2
弥生土器
弥生時代後期前半
赤坂今井墳墓
丹後のもう一つのガラス釧
比丘尼屋敷遺跡鉛ガラス製 緑色
弥生時代後期後半
赤坂今井墳墓 鉋・鉄刀・鉄鏃・鉄剣

ガラス釧
大風呂南墳墓
カリガラス製 ブルー
赤坂今井墳墓復元模型 赤坂今井墳墓の墳丘上で行われた葬送儀礼推定図 出土した頭飾りの復元レプリカ 墳墓内の頭飾りの出土状況

  槍鉋の出土の意味
   いずれの墳墓からも大量の鉋(やりがんな)が出土している。これは、大規模な木造邸宅があったことを意味しているのではないか。
   この頃は柱に礎石を置かない掘立柱建物だったので、吉野ヶ里のような王宮を立てていたのかもしれません。





 40古墳時代 
   41Ⅴ丹後における古墳時代のはじまり

   古墳の造営
    3世紀中葉に古墳時代が始まるとヤマトを中心に前方後円墳が造られる。

    丹後の前方後円墳は4世紀中葉の城米山古墳。(与謝野町加悦かや墳長92m)
    埴輪はなく、竪穴石槨だが、墳丘には多数の埋葬施設があり、弥生の埋葬形態を受け継いでいる。

    湧田山1号墳(墳長100m)後円部が楕円形。前方部が後円部より低い。埴輪葺石を持たない。などより古い古墳の形態で、丹後最古の前方後円墳か。

   中国鏡の入手と卑弥呼
    3世紀後半の太田南古墳群の2号墳から、龍紐を持つ中国製の画文帯環状乳神獣鏡
       5号墳から中国魏の青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が出土。

    卑弥呼は239年に魏に朝貢しており、翌年銅鏡100枚をもらって帰ってきた。
    同時期に多数の地方の王が中国王朝と関係を持とうとしていたと考えられる。

小児用石棺 竹野遺跡
古墳時代中期
竹野と書いてタカノと読むんだ 棺の底に穴が開いています。土器棺に穴があいてるのと同じかな 石版で作った石棺 Ⅴ丹後における古墳時代の始まり
内容は上に記述
浅後谷南遺跡の導水施設
噴水庭園というべきか
4世紀3.5mの一木造の木樋と溝で結ばれた堰(貯水池)からなり、溝から鳥形・鏡形の木製祭具や多量の桃核※が出土した。 水に関わる祭祀遺構。
纏向遺跡や、明日香村の同様の庭園跡が発見されている。飛鳥酒舟石遺跡
舶載鏡が出土した太田南古墳群※1 青龍三年銘鏡 画文帯環状乳神獣鏡
方格規矩四神鏡古墳時代前期 方格規矩四神鏡 方格規矩四神鏡 土師器
古墳時代前期末~中期初頭

土師器古墳時代前期

 多量の桃核※(桃の種) -道教の隆盛-

   道教は、銅鏡を使う中国の呪術で、卑弥呼が行っていたものと同じである。後漢で発生したといわれている。
        大量の桃が用いられ、飛鳥の遺跡からも山ほどの桃の種が出土している。

        この時期大陸からシャーマンが多く渡って来てこれを行っていたのかもしれない。
        そして、ところの政権を乗っ取っていったのかもしれない。


 ※1舶載鏡が出土した太田南古墳群 古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)
     最も古い2号墳(22m×18m方墳)の木棺から中国・後漢製の画文帯環状乳神獣鏡が出土。

     5号墳(18.8m×12.3m方墳)組合式石棺から青龍三年銘鏡出土。
     6号墳からは、石釧、鉄製刀子、針・ノミ状鉄製品が副葬されていた。


   大量の銅鏡の出土
     これは、其々の王が中国王朝と関係したか、または、輸入したものであり、遠く大陸と、商人を通じて、密接な関係にあったことを
     示している。




   43丹後王国成立の自然条件-潟湖の存在と活用-  古墳時代前期後半

     天然の港湾施設
      丹後王国の発展は大陸・半島の先進的文物が日本海を介していち早く丹後に入ってきたからである。

      港湾として砂嘴によって外海と隔てられた潟湖が使われた。久美浜湾離湖阿蘇海や 福田川河口の浅茂川湖竹野川河口
      竹野湖などがあった。

      このような潟湖の周辺にはその地方最大の古墳や、由緒ある神社などがあり、古代の港とそれを支配する領主がいたことを物語っている。

      また、大規模河川で舟がのぼれる地域にも港があった。 円山川中流域の袴狭遺跡の船団を描いた板絵
      由良川中流域の志高遺跡の船着場遺構などがそれを裏付ける。

丹後王国成立の自然条件
-潟湖の存在と活用-
内容は上に記述 円山川中流域の袴狭遺跡の船団を描いた板絵ははは、何んにも見えへんね。ごめん。
日本海岸の主な潟湖
折り曲げられた刀子・銅鏃 三坂神社裏9号墳 前期
人物の線刻のある土師器
有明8号墳 前期後半

刀子・銅鏃・人物の線刻のある土師器

碧玉製紡錘車形石製品
北谷1号墳前期
石釧 太田南6号墳
前期後半

古墳前期4cの出土物

各種の腕輪形石製品をもつカジヤ古墳
2000点以上の木製品が出土した古殿遺跡
鉄製品 大田南6号墳
前期後半
斜縁四獣鏡・玉類
愛宕神社1号墳

貸出中の形式不明の銅鏡
古墳は丘陵上に築かれ200以上。弥生後期~古墳後期の小型台状墳は前方後円墳・円墳・方墳などより下層の者の墓。 三種の腕輪形石製品の
カジヤ古墳 4世紀
73×55m不整形な楕円型
埴輪・葺石無・竪穴木棺↓
2000点以上の木製品が
出土した古殿遺跡
古墳時代中期の竹野川河口の想像復元模型 築造当時の明神山古墳と竹野潟の推定図 海から見える明神山古墳と
築造当時の姿に復元した明神山古墳

碧玉製の鍬形石・車輪石・石釧が出土。三種同時に出土はここだけ。
 その他に近年朝鮮半島南部から出土例が増え、生産地未解明の筒形銅器や銅鏡が出土。

 大量の木製品が出土した古殿遺跡と文字
    木製品の、工具、農具、容器、、祭祀具、発火具、組具、織機具、棒状木製品、多数の建築、土木部材など
     容器には盤や箱、 祭祀具には鏃模造品や舟形木製品。

     とは古代の机のことで二脚と四脚があり、四脚は食膳具でなく文机かも。だとすると、古墳時代には既に文字を書く人がいたことになり、
       丹後の文化先進性が見える。

     交易や管理に携わる者は、初めから文字を使わなければ職責が果たせない。商人は文字を使っていたはずです。






   45Ⅵ丹後王国の隆盛 -丹後三大古墳の時代- 4世紀中葉~5世紀初頭に築造

    巨大古墳の築造

     時の天皇陵に匹敵する。墳丘は三段。葺石。丹後型円筒埴輪を使用。
      蛭子山古墳   (145m4世紀中葉)、
      網野銚子山古墳(198m4世紀後半)、        埴輪絵線刻「龍」       丹後型円筒埴輪2000個以上使用
      神明山古墳   (190m4世紀末葉~5世紀初頭) 埴輪絵線刻「舟に乗る人」

     丹後三大古墳は、古代に強大な権力を持つ「丹後王国」が存在した証拠である。
     半世紀の間に次々と造られていくには、多くの労働力が必要で、後の丹波国全体の労働力を集めたと考えられ、

     最盛期には、丹後には強大な力を持った王国があったことを裏付ける。

網野銚子山古墳の築造推定図 丹後前方後円墳の墳丘比較図 網野銚子山古墳ジオラマ 丹後の小型前方後円墳※1 弓矢の線刻
弓矢の線刻のある丹後型円筒埴輪(上部丸い)
銚子山古墳
古墳の築造規格から見える丹後とヤマト※2 網野銚子山古墳 明神山古墳と潟湖跡 丹後の巨大前方後円墳大きさ較べ 蓋(きぬがさ)形埴輪
大将軍遺跡
古墳前期末~中期初頭
土師器  大将軍遺跡
前期末~中期初頭
直弧文の埴輪
前方後円墳模型

  ※1丹後の小型前方後円墳の由来 (40~50m級の全く同型)
      丹後三大古墳が4世紀中葉~末葉であるのに対し、小型前方後円墳は3世紀後半~4世紀前半の、より古い時代の王墓と考えられている。
      (100m級以上)

  ※2前方後円墳の築造規格から見える丹後とヤマト
     ヤマト政権下の地方の前方後円墳は、ヤマトや河内の相似形に造られた。

     初期ヤマト政権は桜井市、天理市など奈良東南部にあったが、4世紀後半に奈良市北部佐紀楯列古墳群に、
     5世紀に大阪の古市古墳群や百舌鳥古墳群に移動したと考えられている。

     佐紀楯列古墳群で最初に造られた佐紀陵山古墳(207m)で丹後出身の日葉酢媛の御陵とされ、網野銚子山古墳はこれと相似形で、
     初期ヤマト政権と丹後王国との密接な関係が考えられる。

     また、同様に相似形の古墳は、神戸市五色塚古墳上野市御墓山古墳など4世紀後半のヤマト政権の政治勢力範囲を示しているとも
     考えられる。







   47Ⅶ丹後王国の衰退 5世紀前半から

    造られなくなった大型古墳
      ・明神山古墳の次の王墓は、5世紀前半の黒部銚子山古墳(墳長105m京丹後市弥栄町)です。しかし、長さは半分。堆積は六分の一となった。
      これ以降100m級は作られなくなり、5世紀中葉の円墳の産土古墳(直径55m京丹後市丹後町竹野)や、

      方墳と思われる離湖古墳(34m×43m京丹後市網野町小浜)が次の王墓となる。

      この時期の丹後には強大な権力を持った王は存在しなくなったようです。

    繁栄の中心が南へ移動
      丹波全体では、5世紀中葉雲部車塚古墳(墳長140m兵庫県篠山市)。5世紀末葉には千歳車塚古墳(墳長88m亀岡市)があらわれ、
       王国の繁栄の中心は丹後から丹波南部へと移っていきました

    丹後王国の時代範囲  2世紀後半     ~5世紀前半頃までの250年間でした
                     (大風呂南1号墳)    (黒部銚子山古墳)

               しかし、3世紀~4世紀前半の王墓は見つかっておらず、今後の丘陵調査によって発見されるかもしれません。


    長持形石棺を持つ古墳
     ・5世紀の丹後には、長持ち形石棺を用いる古墳が5基(産土山・離湖・願興寺5号・馬場の内・与謝野町法王寺の各古墳)確認されている。
      いずれも日本海や潟湖に面して築かれ、産土山・離湖古墳の被葬者は鉄製甲冑を持つことから、
     日本海交通の要衝をおさえた将軍のような王とされる

    王者の棺
     ・長持形石棺は、大仙古墳(仁徳天皇陵)など畿内中心に5世紀の巨大古墳に使用され、「王者の棺」と呼ばれる。
      丹後にこれが多く分布するということは、衰退したとはいえ、依然、ヤマト政権と密接な関係は続いていたと考えられる。

     ・使用石材は、ヤマトでは播磨の竜山石ですが、丹後では地元産の凝灰岩です。


  47Ⅶ丹後王国の衰退
Ⅶ丹後王国の衰退内容は上に記述 長持ち形石棺を持つ古墳内容は上に記述 舟と人物の線刻のある埴輪
神明山古墳
舟と人物の線刻のある埴輪
神明山古墳

捩文鏡・硬玉製勾玉とガラス製小玉・鉄剣
大谷古墳
大将軍遺跡 土器捨て場
奈具岡北1号墳の陶質土器※1 女王の墓である大谷古墳※2 変形四獣鏡 産土山古墳
   玉類 離湖古墳
古墳時代中期
甲冑破片 三環鈴
清漬7号墳
古墳時代中期
産土山古墳の長持形石棺 産土山古墳埋葬状況
写実的な形象埴輪が並べられたニゴレ古墳※3 古墳時代中期中葉~後葉の有力古墳
清漬古墳群※4
産土山古墳長持形石棺
 竹野川河口の直径50m
の大型円墳。
 段築・葺石・埴輪。
 古墳中期5世紀中頃

石棺内に素焼枕・翡翠・碧玉・瑪瑙・ガラス製玉類・銅鏡(変形四獣鏡)・環頭刀子・弓・鹿角装鉄剣
棺外に甲冑・鉄剣・鉄鏃など

※1奈具岡北1号墳の陶質土器
   この古墳は水晶製玉作り工房の奈具岡遺跡を望む丘陵上に、5世紀前半に築造された、葺石・埴輪を持たず、不整形な前方後円墳(墳長60m)です。
   埋葬施設から多数の鉄製武器・ボタン状の銅製品(銅釦どうこう)が出土。

   墓穴の上からは、日本海側初出土の12個の陶質土器があり、その形態から韓国慶尚南道(伽耶)産と考えられる。
   古墳時代中期になっても、丹後王国が大陸や半島と交流していたことを示している。


※2女王の墓である大谷古墳
   古墳は竹野川上流にあり、古墳時代前期末~中期前葉にかけての墳長32mの帆立貝式前方後円墳である。
   組合式石棺には熟年女性の完全な人骨が残っていた。全国的にも珍しい、女性首長の女王墓であった。

  「記紀」にあるように、丹後からは、9代開化天皇妃・11代垂仁天皇妃を輩出し、近くの神社にも女性神をまつり、丹後では女性の地位が高かった。


※3写実的な形象埴輪が並べられたニゴレ古墳  5世紀中葉の小規模な円墳(直径20m高さ3~4m)
  豊富な遺物が出土した。 船形木棺に鉄製甲冑一揃いと剣・鉄鏃。墳丘上には写実的な形象埴輪・朝顔形埴輪・円筒埴輪が置かれていた。

  形象埴輪には、家形・椅子形・船形・甲冑形がある。
  船形埴輪は外洋航海型の準構造船を模して、古代の港、竹野潟・離湖などに浮かんでいた舟を模して造られたものだろう。

  ニゴレ古墳の被葬者は、鉄製甲冑を身に着け、丹後王国の経済を支えた、日本海交易を担う船団を率いた将軍のような人物が想像される。


※4古墳時代中期中葉~後葉の有力古墳 清漬古墳群 大宮町口大野の独立丘陵上の26基の古墳群
  7号墳から鉄製鋲留短甲や珍しい三環鈴が出土。8号墳からは円筒埴輪・朝顔形埴輪が出土。
  また、大型はそうなど、丹後では数少ない古式の須恵器が副葬されていた。

  清漬古墳群のつくられた古墳時代中期中葉~後葉は長持形石棺を持つ産土山古墳や離湖古墳の後の時期にあたり、
  当時の首長墓の一形態を知る上で貴重な例となっている。



 丹後王国衰退の原因を考える 2世紀後半~5世紀前半頃(250年間)

  丹後発展の理由
     ①天然地形の良港があった。コメ交易よりも、②母国伽耶の鉄インゴットの輸入加工。それの列島への配布・交易が重要な産業だった。
     ③列島の原石を加工して玉製品を生産し、半島との交易品にした。

  衰退の理由考察
     ①5世紀に、それまで奈良にあったヤマト政権が大阪(浪速の津)に移動してきた。これによって瀬戸内航路が発達して物流経路が変わった

     ②但馬は新羅、丹波は百済、丹後は伽耶であるが、丹波は朝廷と深く結びついた秦氏の領地であり、より大きな権力で交易を独占した。

     ③鉄の生産が他の地へ移った。日本で鉄生産が始まったのは6世紀古墳時代後期でした。この推論はダメですね。

   再考
     どうもわからない。ただ、物流が変わり、生産、または、販売ができなくなったこと、交易ができなくなったからでしょう。
     遣唐・遣隋使貿易も、日宋・日明貿易も、江戸時代の北前船、菱垣廻船、樽廻船など、の交易船は一回の航海成功で天文学的な利益を得た。

     富の蓄積はここにあり、衰退の原因もここにあると考えるべきでしょう。



  49Ⅷ丹後王国の消滅 (古墳時代後期 6世紀)

    ・古墳時代後期(6世紀) には横穴式石室を持つ古墳が出現する。 7世紀前半に古墳作りが終わる。

  丹後の没落・丹波の繁栄
    この時期、灰色の硬い焼き物、須恵器や乗馬の風習が始まったことを示す馬具類が副葬されるようになる。
    しかし、丹後では古墳は、2基しか作られず、丹波では16基築造されています。
    もはや丹後王国の王権や、一帯を治めた有力豪族は存在せず、いち早くヤマト政権下に組み込まれたようです。

  古代製鉄コンビナート 遠處遺跡
    丹後の古墳時代後期には、古代の製鉄コンビナートとして有名な遠處遺跡
    金銅装双龍環頭太刀の優品が出土した湯船坂2号墳や高山12号墳など、特筆すべき遺跡・古墳が存在する。

    ただ、遠處遺跡はヤマト政権直営の製鉄工房だったと考えられています。
    これらの古墳の主は、ヤマト政権下に組み入れられた小地域の豪族です。副葬品は、服属の証として、ヤマト政権から下賜されたもの
    でしょう。

Ⅷ丹後王国の消滅内容は上に記述
清漬古墳 中期    
離山古墳 6世紀中頃
須恵器 はそう 清漬古墳
古墳時代中期
土師器 高坏
須恵器 坏身と坏蓋
須恵器 高坏    
離山古墳
竪穴系横口石室の
離山古墳※1

片袖式石室 高山12号墳
古墳時代後期
円筒埴輪 甕
太田2号墳
高山12号墳
古墳時代後期
珍しい形の須恵器
特殊扁壺 (とくしゅへんこ)
高山12号墳

金銅装双龍環頭太刀柄頭

勾玉・管玉・切子玉
・象嵌鉄製品

馬具 轡(くつわ)高山12

丹後町徳光 高山12号墳
古墳時代後期
須恵器・土師器
高山3号墳
須恵器 土師器
馬具・古墳後期の代表的副葬品※2 横穴式石室の大成古墳群※3 鉄鏃・太刀の柄縁・鞘口・責金具・鞘尻金具 馬具 帯金具 高山12号 卑弥呼の錦 金銅装双龍環頭太刀
湯船坂2号墳
全長1.2m幅3.5cm太刀の鞘と柄は銅でつくられ、全体に金箔が施され、柄の環頭には玉をかみ向かい合う大小2対の竜が刻み込まれています。
豪華な副葬品を持つ湯船坂2号墳※4 金銅装の豪華な環頭太刀※5 ※2日本列島に乗馬の風習が伝わるのは5世紀頃だが、丹後へは6世紀後半~7世紀初めの横穴式石室古墳に限られる。
 くつわ・あぶみや装飾品の杏葉(ぎょうよう)や雲球(うず)などが出土する

※1竪穴系横口石室の離山古墳
   古墳時代後期になると全国的に横穴式石室が導入される。丹後で最初に導入された石室は、羨道が玄室より高く短い羨道には天井石を乗せない。
   竪穴系横口式石室という、九州型で、北部九州中心に日本海沿岸部に点在する。丹後でも6世紀前半~中頃に海岸部や河口部で10基ほど確認され。

   離山古墳もその一つで、石室内外から、玉類・須恵器・土師器が出土。付近にも同系統の古墳があり、
   離湖周辺が丹後の竪穴系横口式石室の分布域となっている

   この後、6世紀後半~7世紀初めにかけて畿内型の横穴式石室が導入されていく。

※3横穴式石室の大成古墳群
   竹野川河口の大地上に造られた、横穴式石室を持つ16基以上の古墳群
   最大玄室長4.5m×2.5m。それぞれ片袖式、両袖式、無袖式の石室がある。 6世紀後半~7世紀初め頃に順次つくられた。
   須恵器・鉄製武器・玉類・耳環などが出土。

   使用石材は、この台地を構成している柱状節理です。


※4豪華な副葬品を持つ湯船坂2号墳 6世紀後半 直径18m円墳 須恵器・鉄鏃・鉄刀・馬具など大量の副葬品が出土
   2対の金銅装双龍環頭太刀は国内有数の優品。仏具の銅椀が出土し仏教が伝わっていた。


※5金銅装の豪華な環頭太刀
   環頭は太刀の柄の先に輪を持ち、輪の中に龍や鳳凰等の浮彫をしたもの。銅に金メッキをしたものは金銅装という。

   環頭は朝鮮半島産であったが、6世紀後半以降、大和朝廷の中枢工房で国産化された。

   湯船2号墳6世紀後半。高山12号墳7世紀初頭。いずれも大和政権服属の証として下賜されたもの。



 50Ⅸ丹後国の誕生 (古代)
    和銅6年(713)丹波国から五郡を割いて丹後国が誕生した。ヤマト朝廷が全国を分国して力を弱め支配しやすくした。

Ⅸ丹後国の誕生内容は上に記述 丹後の国に関する木簡 丹波国から都へ送られた木簡 鬼瓦 軒丸瓦 平瓦
俵野廃寺
丹後唯一白鳳時代寺院
俵野廃寺 7世紀後半
線刻土器 墨書土器
土馬 巡方
(石帯の四角いバックル)
土馬 横穴墓の世界6世紀後半~8世紀中葉 古代のムラと役所飛鳥時代=竪穴住居   
奈良時代前期=掘立柱建物  郡衙跡は不明
銅製鉸具 碁石
鉈尾 緑釉陶器 巡方
横枕遺跡
渤海使の客館跡
 横枕遺跡 928年
記紀に見える ヤマト政権と丹後王国の関係

婚姻などの記録
我が国最古の伝説が残る丹後
神明山経塚出土の経筒と銅鏡 神明山経塚出土の経筒と銅鏡 末法思想の流行
 平安末期にやがて末法の世になり正しい仏教がなくなるというので、人々がこぞって経典を模写し、経筒に封入して山中などに埋納し、来るべき時に供えた。
 仏教を盛んにさせる新手の方法だった。(笑)


 60中世

大石の薬師堂の十二神将
京丹後市丹後町大石
  まだまだ展示は続くのですが、私の守備範囲を超えていますので、中断します。

 70編集後記
博物館は、 ものを見せる展示を主としています。
   
だから 中にはただその辺に物を並べただけの展示館もあります。
詳しい説明やキャプションもなければ、展示館のお姉さんに聞いても何もわからない館も多い。
   
しかし、 私が体験しただけでも、琵琶湖博物館岩手県立博物館アイヌ民族博物館などは高度な知識を学習しておられ、
  私のような素人の質問には見事に答えられるという、博識なガイドさんの館もあります。
また、  総社市埋蔵文化財学習の館のように、専門の学芸員さんが直接説明して頂ける館もあります。

古代の里資料館では、 それを、パネルで説明されています。小さなパネルに高度な情報が詰まっていて、普通なら見過ごしてしまうけれど、
  その中には質問と回答以上の、驚愕の古代知識が詰まっていました。
 
日本中、 沢山の博物館を回ったけれど、これほど高い知識を得られたのは素晴らしいことです。
  深く感謝するとともに、是非これを多くの皆さんに知っていただきたいと思います。
   
最後に、 編集が下手で、内容が冗長となり、四度目の見直しをできませんでした。従って、誤植や、間違いが多々あるかと思います。
  お許しください。
       2016.1.27 22:10 編集者 まさと