縄文を旅する4 南の縄文 沖縄~九州01 2014.02.04(火)
沖縄県立埋蔵文化財センター 沖縄県中頭郡西原町上原193-7 098-835-8751
設立目的 埋蔵文化財の収集保存と指導
交通 |
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市外線バスターミナル発 那覇バス97番 「琉大付属病院前」下車徒歩約5分 |
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このバスは国際通りを通るが、停車バス停は限られているので、ホテルで聞いておか、事前に調べておくべき。 |
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見所 |
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南島の独特な先史文化。 |
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感想 |
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旧石器人がスンダランドから丸木舟でやってきたり、東南アジアやフィリピンから来た人が縄文人のルーツであったり、 |
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南西諸島からは3万年以上古い人骨も普通に出土し、日本先史時代の確かな系譜を知ることができた。
(この時点では、竿根田原洞窟の旧石器人は、調査段階でした。埋文ではこの時の土壌の水洗が行われていました。) |
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目標 |
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沖縄先史時代の知識は、ほとんどだれも持ち合わせていないと思います。 |
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ここでは 琉球弧についての基礎知識を学びながら、考古学的成果を享受したいと思います。 |
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反省 |
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写真量に比べて文章が多すぎる。それほど予備知識がないからか、私がしつこすぎるのか。 見直すたびに手直しが入ってきりがない。 |
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目
次 |
00空の旅
01那覇 琉球緋寒桜
02夜の国際通りと公設市場
03沖縄埋蔵文化財センター
琉球弧の地理的区分
04沖縄の埋蔵文化財(歴史的区分)
・先島諸島の旧石器時代
・琉球年表
・琉球弧の歴史区分 対応表
01琉球弧の先史時代 概要
05沖縄先史時代人の住処
07沖縄の旧石器人
中世温暖期のグリーンランド
08旧石器時代人・湊川人の頭骨
・旧石器時代の琉球弧
・石灰岩台地
09旧石器時代を探せ
旧石器時代の道具
・新石器時代 前期の琉球弧 |
10新石器時代 前期
12土器で見る沖縄先史時代の文化圏
崖葬墓
懸崖葬
13新石器時代前期の土器
14土器片
16住居
18沖縄新石器時代の道具
・新石器時代 前期 中琉球の詳細
・新石器時代 後期 の琉球弧
20新石器時代後期
22貝の道
25貝製品
貝製品の使用者
突然のグスク時代の到来
26貝交易
研究の実態
南島の貝交易
論文要旨
私なりのまとめ
奄美諸島、徳之島の朝鮮式陶器生産の 大規模窯業団地遺跡 2015.11.24追記
カムィヤキ古窯跡群
沖縄のグスク時代が突然始まった理由 2015.11.25追記
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40グスク時代
41グスクの移り変わり
三別抄の乱
45箱式石棺と貝の道
50宮古・八重山の先史時代
51先史時代の宮古八重山
52貝斧文化と丸ノミ石斧
貝斧は○ノミ石斧の
スンダランド人は来ていた
南方系民族の大移動
60近世沖縄の陶磁器
61沖縄の古窯
65貿易陶磁器
沖縄の貿易
言葉を変えると
71企画展示「首里 京の内 遺跡」出土品展
80白帆竿根田原洞穴遺跡
編集後記 |
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00空の旅
全日空LCCのソラシドエアー(Sora seed air)を利用しました。新品の機体に乗るのは何年ぶりでしょう。感動しました。窓に傷がない。
沖縄の空を飛ぶと |
なぜか心高揚 |
懐かしい景色です |
早春の沖縄旅行は |
初めてです。 |
まだ、冬の気象です |
おぉ、懐かしい |
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01那覇 今回の目的の第一は長年憧れた沖縄の桜を見に行くことです。
南国らしい強烈なくれない色の緋寒桜は、わざわざ見に来る価値のある、素晴らしいながめでした。
牧志公園の桜モノレール牧志駅の前
ここには牧志御嶽もあります |
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写真の下手な私では
感動できる画はなかった |
地元の人も観光客も通りすがりの人も、みんなカメラを向けていました。 |
紅梅かと見まごう鮮やかな色ですね。 |
河津桜はこの緋寒桜と桜餅の葉に使う大島桜とを交配して作られました。だから、他の桜に先駆けて咲くのです。
「街道をゆく6 沖縄・先島への道」 司馬遼太郎 の中で、『沖縄人は本土人に差別されていると感じている』といった記述が出てきます。
それは実際、過去連綿とあった事実であるし、現在の国政においてもそう感じざるを得ない事実がある。
そして、植物学者が、 沖縄の緋寒桜の名称を 彼岸桜と混同するという勝手な理由で、 寒緋桜と呼ぶようにし、
それを正しいこととして、 放送局などで採用している。
彼岸桜を 岸彼桜と呼べと言われたらどれほど怒るだろう。 やはり、沖縄は本土人から差別され、軽んじられていると私は思う。
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02夜の国際通りと公設市場
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03沖縄埋蔵文化財センターへ
国際通り三越前のバス停那覇バス97番。乗り遅れて98番でもよい |
97番は途中で98番と待ち合わせし、乗り換えて琉大病院前に行きます |
沖縄のコンクリートはすぐに劣化してこうなります。 |
帰りのバスの時刻を見て来たなら入場無料で入ります。 |
受付窓口などありませんが、出入は (削除) チェックされています。 |
削除 |
琉球弧の地理的区分 引用
南西諸島は、鹿児島県大隅半島以南~与那国島までの全ての島嶼をさします。
考古学的見地から、北琉球・中琉球・南琉球に区分し、(トカラ列島以北を含む)
琉球史的見地から、北琉球圏・南琉球圏に区分します。(トカラ列島以北を含まず)
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考古学的見地から、 |
北琉球 |
種子島付近~吐噶喇列島 |
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中琉球 |
奄美大島付近~沖縄島付近(付近は児島を含む) |
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南琉球 |
宮古島付近~与那国島 |
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琉球史的見地から、 |
北琉球圏 |
奄美大島付近~沖縄島付近(付近は児島を含む) |
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(トカラ列島以北を含まず) |
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南琉球圏 |
宮古島付近~与那国島 |
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琉球弧の三大文化圏 |
琉球弧の二大文化圏 |
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04沖縄の埋蔵文化財(歴史的区分)
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概要
外洋に囲まれた沖縄の地理的な位置と環境から、日本だけでなく、血用船半島、中国、東南アジアおよび南太平洋諸島との交渉や、文化的関連をもつ歴史が形成された経緯があり、多様で多彩な遺跡、遺物が存在します。
先史時代
先史時代については縄文文化、弥生文化の枠組みでとらえられない歴史的、文化的展開を経てきた地域です。沖縄本島と周辺の島々は九州の縄文時代の人と文化を源流にしながらも、独自の強い個性を持っています。
また、宮古・八重山諸島は、縄文・弥生文化の影響を受けていません。その系譜は東南アジアにつながる「南方文化」に属するものと考えられています。 |
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原史時代
島嶼地域でありながら、独自の王国形成に至った歴史的過程を持っています。その遺跡としてグスク(城)と称される12~15世紀の首長層の拠点(居館)が造営され、各地に城壁を巡らせた遺構が存在します。中国陶磁器をはじめとする様々な遺物が出土するのも本県の特徴です。主要な遺跡は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2000年(平成12)12月2日に世界文化遺産登録されています。
また、王国時代には王と首里と交易港那覇を中心に石造建造物などが造営され、中国や日本の文化を取り入れて独自の個性的な文化を創造しました。 |
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近世・近代
近世及び近代に造営された墓(亀甲墓)や石橋など中国の影響を受けたものが多く、基地ような石造文化遺産として調査、保存されています。
また、陶器窯が近世初頭に造営され、遺構沖縄の伝統的な焼き物として今日にまで継承されています。
現代
1941~1945年の太平洋戦争・沖縄戦に関する遺跡は、住民を巻き込んだ悲惨な戦争体験を記録し継承すべきものとして、「戦争遺跡分布調査事業」が実施されています。 |
埋文の入口はこんなこんなところに紙が貼ってあるなんて
プレートですね失礼しました |
沖縄先史時代の特徴独自の新石器時代文化圏と南方文化圏 |
原史時代という時代
12~15世紀新石器時代から
12世紀に突如始まる戦乱の時代 |
近世・近代中国文化・福建文化の影響を強める |
旧石器・縄文・弥生・グスク・近世の遺跡 |
琉球弧年表 引用
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・先島諸島は旧石器時代には台湾と陸続きだった。以後グスク時代まで独自の南方文化圏だった。
・ 琉球年表 私たちの知らなかった沖縄の歴史が書かれています。 特に貝塚時代後期(弥生時代に相当)の沖縄の様子は是非拡大して見てください。
・琉球弧の歴史区分 対応表 引用
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北琉球圏 |
南琉球圏 |
本土 |
(A)先史 |
旧石器時代
貝塚時代早期~中期及び前期(縄文時代) |
旧石器時代
新石器時代前期(前期・有土器・下田原期) |
旧石器時代
縄文時代 |
(B)原史・古代 |
貝塚時代後期(弥生~平安並行期) |
新石器時代後期(先島歴く原>史時代) |
弥生~平安時代 |
(C)中世 |
グスク時代~第一尚氏時代 |
グスク時代~第一尚氏時代 |
鎌倉~室町時代 |
(D)近世 |
第二尚氏時代前期~後期 |
第二尚氏時代前期~後期 |
安土・桃山~江戸時代 |
(E)近代・現代 |
明治~平成時代 |
明治~平成時代 |
明治~平成時代 |
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01琉球弧の先史時代 概要
05沖縄先史時代人の住処 原始という言葉は沖縄・九州に来て初めて聞きました。あまり博物館で使わない言葉です。
小さな島沖縄では水と食料の確保が住居の立地条件だった。
海洋民だった原始沖縄人―殆どの遺跡が海岸近くに―
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沖縄諸島から宮古・八重山諸島まで、新石器時代の人々は主に海岸に近い丘や海浜(ビーチ)に住んでいました。
例外的に沖縄市、うるま市、北中城村の内陸部にも遺跡がありますが、それを含めて貝塚には海で採れた貝殻や魚の骨が沢山あるところから、海産物を頼りに暮らす海洋民だったことがわかります。 |
沖縄諸島の新石器時代後期
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沖縄諸島では、新石器時代後期になると、目の前のサンゴ礁を生業の場とする社会になっていき、海浜に集落(ムラ)をつくるようになります。人々はサンゴ礁に生息する貝や魚、海草などを採り、貝殻や魚骨でいろいろな道具や飾りをつくりました。特に貝器文化を発達させ、貝の腕輪の材料は九州の弥生社会とも交易していました。 |
沖縄本島北部や周辺離島の場合
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急な斜面の山が海岸まで迫っている地形が多く、生活に適した丘はありません。その代わりに海に注ぐ小川と入り江の砂丘が多く、新石器時代の人たちは殆どの時期を海浜で暮らしました。しかし、本部半島の西端では石灰岩の丘か発達しているので、そこでは中・南部と同じような遺跡分布が見られます。 |
沖縄本島中・南部の場合
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本島の中・南部は高い山はなく、ほとんどが石灰岩の丘やクチャと呼ばれる粘土層、細粒砂岩(ニービ)の風化土壌(ウジマー)の丘になっています。
石灰岩は上の層になっていて雨水がよく染み込むので、その窪みや崖下には湧水(泉)が沢山あります。
新石器時代の人は日々のくらしに欠かせない水を求めて、泉に近い丘に住むようになりました。石灰岩丘の赤土台地の端には住居跡が、その崖下には貝塚が残されています。遺跡を見つけたいときには、泉が近くにあるかどうかを目安にすると発見できることがあります。 |
海洋民だった原始沖縄人
ビーチに住んでいた |
沖縄本島南部には遺跡が集中します。
低い土地の方が住み易かったようです |
宮古八重山の遺跡地図本島とは別の文化圏で交流はなかった。
宮古凹地300㎞も続く広大な無島嶼海域で区切られていた。 |
新石器時代後期
弥生~平安時代の遺跡サンゴ礁を生業の場に
海辺にムラをつくる |
本島北部の遺跡立地
川の近くに水を得た |
本島中南部の遺跡立地
湧水を求めた |
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06沖縄の地質と遺跡
モザイク状の地質は新石器人にも影響した |
旧石器は石灰岩洞窟
縄文中期まで海岸低地 |
弥生時代は海岸砂丘
グスク前期石灰岩丘陵
グスク時代は丘陵上 |
貝塚の発見旧石器遺跡の発見を呼びかけています |
沖縄には高島(大陸由来の高い島)と低島(サンゴ礁由来の平坦な島) があります。
本島北部は高島・中南部は低島で、植物相も異なります。
先史時代人はそれを見極めて住みました。
グスク時代は戦争や襲撃を恐れて住処を決めた。 |
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07沖縄の旧石器時代人
沖縄にはいつごろから人が住み着いたのか
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道具から見た人間の歴史手゛、一番古いのは旧石器時代(約250万年から1万2千年前前)です。旧石器時代は石を打ち欠いて作った道具を使っていました。
沖縄に最初に住み着いた人間はこの時代だと予想されています。まだ、確実な旧石器(打製石器)は発見されいてません。
しかし、沖縄の島々は浮き沈みして大陸と地続きの時代もあったので、旧石器時代に大陸から人間が移動してきたと考えられます。
化石人類の山下洞人(約3,2000年前)や港川人(約18,000年前)は現生人類(ホモ・サピエンス)に属すると言われています。
また、最近では奄美地域でも打製石器が発見されていることから、いずれ沖縄でも打製石器が見つかるものと期待されています。 |
港川人ってどんな人
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港川人は。1967年那覇市の実業家大山盛保氏によって発見されました。1968年に東京大学などによって調査され、数体の化石人骨が発見され港川人と名付けられました。港川人はC14年代測定法で約1万8千年前の現代型ホモサピエンス(新人)であることがわかりました。
成人男性の身長は153cm女性143cmで現代人に比べると約10cm低く、全体的に小柄です。胴長で腕は細めなのに手は大きく逞しく、下腿は発達して強靭でした。頭は現代人よりわずかに大きめですが、骨の壁が厚いために脳容積は現代日本人の8~9割と小さめです。
顔は上下に短く、額は狭く、幅は広め、顎が頑丈、眉間が突き出し気味、鼻筋は高いなどの特徴があります。
このような特徴から、中国南部の柳江人や縄文人に似ていると考えており、港川人は日本人のルーツを考える意味で重要です。 |
旧石器遺跡を探そう
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沖縄では未だ旧石器は見つかっていません。見つかるとすれば、徳之島の天城遺跡や台浜長濱文化(潮音洞・乾元洞)文化期に見られるような決まった形をとらない「不定形型剥片石器」が予想されます。 |
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08旧石器時代人・港川人の頭骨(18,000~16,000年前) 男性の頭骨
港川人の抜歯
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下顎の前歯(中切歯)が抜けていますが、生前に何らかの儀式で抜かれたものと考えられます。
抜歯の風雌雄は縄文時代中期(4000年前)以後に多いことから、港川人の切歯が人工的に抜かれたものであれば、日本最古例となります。 |
港川人1号人骨(男性)
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現代人と比べて、眉間の骨が盛り上がっているところや、あごが頑丈な作りになっているのが特徴です。 |
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09旧石器時代を探せ
旧石器時代の道具
諸志御嶽の植物群落太古の植物相を奇跡的に残した稀有な地域 |
旧石器を見つけよう佐賀県腰岳産黒曜石
沖縄では旧石器の道具が未発見 |
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鹿の骨・リュウキュウムカシジカ・ムカシキョンの骨 |
チャートが沖縄の石器材料。・・・・台形石器
沖縄では何度か人類の痕跡が途切れる。
なぜ、長い無人の時期ができたのか。
巨大津波で人も痕跡も押し流されても、一万年もの間の痕跡が消えるとは考えられない。 |
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新石器時代 前期 の琉球弧 引用「琉球弧の考古学 -南西諸島におけるヒト・モノの交流史-」
(・奄美諸島以北は縄文時代、 ・沖縄諸島は貝塚時代前期、 ・宮古八重山は新石器時代前期)
・九州本土
西九州で無文・隆起線文土器が旧石器終末の細石刃に伴出する。ここが縄文文化発祥地の一つだそうだ。
・北琉球
旧石器時代から南九州文化圏。縄文草創期の種子島で「栫ノ原型」丸ノミ石斧製作址を確認。12,000年前
屋久島では縄文後期に100軒を越す大規模集落形成。石皿・敲石などの植物質食糧加工具が大量に出土。
縄文前期の宝島では、室川下層式土器文化人の季節的漁猟集落が確認され、多数の南海産貝製品が出土。
また、大隅諸島や鹿児島本土でも少量の南島式土器が確認され南島文化人が北上した
・中琉球
サンゴ礁文化 イノーの中でその豊かさを享受する生活
6千年前縄文前期に中九州の曽畑式、3千年前縄文後期に南九州の市来式土器文化人が沖縄島に大挙流入
2千年前縄文晩期に南島式土器が、北琉球や鹿児島本土から少量出土。
7000~6500年前奄美諸島では、独自の「南島爪形文土器」が誕生。
8000年前の南城市サキタリ洞窟から押形文土器発見 押引文土器
・南琉球
新石器時代前期(縄文時代) 約4,000~2,200年前
海岸近くに発達した赤土の低い丘や砂地で狩猟漁労採集生活。 局部磨製石斧と短冊形石斧。
土器は無文土器の下田原式土器。丸底形で外耳土器もある。爪形の刻線を部分的に施す土器もある。
波照間島下田原貝塚(3800年前)出土の石器や土器に、台湾やインドネシア、オセアニア、メラネシア文化との
関連が確認されることから、先島石器時代は南方系文化であったと考えられている引用 |
丸ノミ石斧文化圏1.2万年~1万年前 |
曽畑式土器文化人が
大量南下 6000年前 |
市来式土器文化人が
大量南下 3000年前 |
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10新石器時代 前期
右のサムネイルの
左側は土器編年が一目瞭然です。 出所不明
右側はアップロード場所がなかったためここにあげました。
「26貝交易」に関係する、新石器時代後期からグスグ時代への変遷を表にしたものです
追記2014.11.03 |
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下の記述と上記引用とに年代記述の違いをご容赦ください。どちらが正しいか判別不能です
12土器で見る沖縄先史時代の文化圏
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日本列島の縄文時代を土器形式によって分類するといくつかの文化圏に分けることができます。
沖縄諸島においても分布図に見るように時代ごとの土器文化圏が形成されます。
沖縄最古の土器である爪型文土器(約6,500年前)は、九州縄文早期の爪型文土器と似ているため、縄文文化が南下したとする考え方があります。
一方では、九州の爪型文土器よりはかなり新しくなることから、九州とは無関係であると言う考え方もあります。
九州縄文前期の曽畑式土器や轟系土器(約5,000年前)が奄美諸島から沖縄諸島で発見されています。
更に縄文時代後期~弥生時代にかけて九州産の土器が沖縄諸島の遺跡から発見されています。
このことは縄文・弥生時代を通じて九州との交流が盛んであったことを物語っています。
その一方で、約4,000年前頃になると九州とは異なる独自性の強い文化も形成されるようになります。
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九州から入ってきた土器
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先史時代に沖縄に入ってきて土器には、九州の、曽畑式土器(約4,800年前)、市来式土器(約3,500年前)、黒川式土器(約2,500年前)等があります。
これらの土器は、多かれ少なかれ、沖縄の土器に影響を与えているようです。
このように九州の土器が沖縄の遺跡から出土しているので、沖縄の先人たちは海を越えて九州と交流を行っていたことがわかります。 |
新石器時代の文化圏沖縄本島を中心とする
文化圏 |
土器で見る沖縄先史時代の文化圏沖縄最古の土器は爪形文土器6500年前 その後サキタリ洞窟から8000年前の押引文土器発見 |
九州縄文前期その後、5000年前の曽畑式土器や轟式土器が流入。4000年前に独自土器文化が発生した。 |
縄文文化圏と自然環境 |
先史時代の時代区分縄文弥生は新石器時代 |
沖縄先史時代の編年 |
旧石器・縄文早期
先史時代Ⅰ山下洞人と港川人の間が繋がっていない |
縄文前中期
先史時代ⅡⅢ |
縄文中期
新石器時代Ⅳ |
縄文晩期
新石器時代Ⅴ土器形式が見事に進化する |
弥生時代
新石器時代後期 |
沖縄の独自土器文化圏 |
九州から入ってきた土器曽畑式4800年前
市来式3500年前
黒川式2500年前
九州人が大挙流入した |
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具志川島 岩立遺跡西地区について (しいだちいせき) リンク琉球弧の埋葬 ←これを先にご覧ください
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岩立遺跡西区は伊是名村の具志川島に所在する無人島です。
発掘調査によって縄文時代後期相当(およそ4,00~3,500年前)と考えられる崖葬墓と縄文時代中期相当と考えられる生活跡が確認されました。
左の土層断面は縄文時代中期相当(およそ4,500~4,000年前)に該当する層序です。この断面の更に上から崖葬墓が確認されました。 |
具志川島岩立遺跡の
崖葬墓4000-3500
縄文後期
生活痕4500-4000
縄文中期 |
岩立遺跡西区と
剥ぎ取り地層部分大変小さな無人島。訳ありでないと暮らせない逃避場所。何を生業に? |
土層内に含まれている遺構(炉跡)土層内には火を焚いた跡を多数確認された。これは食料を煮る・焼く・蒸すをした痕跡。砂も赤変している。 |
崖葬墓の状況
剥ぎ取り部に含まれず。 |
具志川島は極小無人島
船で漂着し易い環境。
人々が5百年間住居し、その後5百年は墓地にした。
しかし、千年間文化を築いたのは奇跡に近い。
海洋漁労だけでは暮らせないはず。
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崖葬墓は
崖に掘った洞窟に死体を葬る葬送です。
これは、風葬で、一次葬です。再度骨を回収して二次葬を行います。
沖縄にはこの習慣があるため、洞窟の中の人骨は、埋葬跡だと考えられます。
現在も沖縄中どこに行っても崖に埋葬穴があり、大量の人骨が入っています。
これは沖縄の最も古い埋葬法で、その後 17世紀に 福建省から 亀甲墓= 門柱墓の埋葬法が入ってきました。
しかし、これらはいずれも二次葬で一度腐敗させた後、再度葬るのです。
通常、洞窟住居が落盤事故で埋まり、よって後に発掘されるのですが、沖縄の場合は、旧石器時代から、死体を
崖や洞窟に入れる習慣があったのではないでしょうか。 白保竿根田原洞穴も、生活痕のない人骨が出ています。
懸崖葬と間違っていました
懸崖葬は 長江河口の舟の民。川舟の民族の風習。やがて他民族に追い詰められ次第に上流へ逃れて行ったため、
長江の断崖絶壁には先史時代からの棺が、下流から上流に向かって点々と今も残っています。
しかし、この懸崖葬が低島の久高島でも現れたと聞いています。
もしそうだとすると、長江から外洋に逃れ、たどり着いた一団がいたのかもしれない。
と、ずっと思っていました。 しかし、これは間違いで、 崖葬墓(風葬)でした。
久高島はタブーの島。うっかりこんなことを島の人に聞いてはいけません。たいへんなことになります。
風葬
沖縄の島嶼部では、人が死ぬと、決められた海岸(葬送の海岸)へ死体を運んで砂に埋め、上に簡易な掛け屋根をして浪と風に腐敗させます。
3カ月ほどすると、骨を回収して袋に入れ、崖に掘った穴へ。亀甲墓ができてからはそこへ埋納しました。これは、昭和30年代まで続きました。
これらの資料も今はネットから消えてしまいました2019.01.25追記
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13新石器時代前期の土器
新石器時代の土器
中泊4千、曽畑6千爪形文6500
式土器、年前 |
荻堂式 縄文後期
3000~3500年前 |
面縄西洞式3千年前
大山式3千年前
市来式3.5千年前 |
伊波式
3500年前 |
爪形文6500年前 |
曽畑式6000年前 |
爪形文土器
中泊式4000年前 |
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14土器片
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16住居
住まいと道具-1
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沖縄ではいつ頃から家を造って住むようになったのでしようか。
洞窟や岩陰を利用してた時期もありましたが、沖縄で最も古い竪穴式住居址は古我地原貝塚(約4000年前・うるま市)で発見されています。
今から約2500年前(縄文晩期)になると仲原遺跡(うるま市)やシヌグ堂遺跡(うるま市)などで竪穴住居跡がまとまって発見されました。
これらの住居は一辺4~6mで、方形のものや方形角丸など、住居の形が明らかにされています。屋根には茅を葺き、床の中央に炉を持ち、
煮炊きや貯蔵用の土器を使用していました。
当時の人々は土器や石器などを使って生活をしていました。このような生活用品とは別に骨製の簪(かんざし)や貝製ペンダントなどの装身具も発見されています。
狩猟採集や土器づくりなどの日常生活や祭祀などが住居を中心として行われたことでしょう。数人からなる家族構成で、3~5戸の小さな集落であったと考えられます。
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住まいと道具-1
住居跡遺跡
古我地原貝塚4000年前
仲原遺跡・シヌグ堂遺跡2500年前 |
一辺4~6mの方形住居
3~5戸の集落 |
古我地原貝塚2千年持続4000年前の住居跡 |
高嶺遺跡 貝塚時代中期竪穴住居と石積
2500年前 |
シヌグ堂遺跡四角の住居2500年前 |
宜野座村前原遺跡の住居跡
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宜野座村前原遺跡住居跡の発掘調査(1995-1996)で、県内では初めての竹製の籠(バーキ)や丸木舟の舳先が見つかりました。
バーキは木の実が入れられた状態で貯蔵用の穴から見出土し、その近くから船の舳先(1m5cm)も発見されました。 |
宜野座村前原遺跡住居跡
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木の実入りの籠や丸木舟の舳先が出土3500年前 |
うるま市仲原遺跡復元住居
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仲原遺跡はうるま市伊計島のほぼ中央にある縄文時代晩期(約2500~2000年前)の遺跡です。昭和54年からの調査で住居址がまとまって発見され、その重要性から国史跡になりました。昭和62~平成8年にかけて復元整備が行われました。 |
沖縄新石器時代の住居仲原遺跡 |
うるま市伊計島仲原遺跡復元住居
2500~2000年前 |
住居内に炉を持った建物跡が出土。
かやぶき屋根を維持するため現在でも沖縄北部奥集落では夏でも囲炉裏を焚いている。
沖縄は暑い地域です。 |
九州では住居内に炉がない建物遺構も出土している。
炉がないと内部はいつも真っ暗で不便かとも思います。 |
アフリカやニューギニアでも真っ暗な住居がありますね。
内部で火を焚いて燻蒸し、ノミシラミや屋根の腐敗を防がないと。 |
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18沖縄新石器時代の道具
ホラガイ製やかん
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南西諸島の民具にホラガイを利用したやかんがあります。未央子ではブラヤクン、伊平屋ではブラヤックワンと呼ばれています。
ブラはホラガイ、ヤクン・ヤックワンはやかんを意味します。宮古・八重山では最近まで使用され、このやかんで煮たお茶は美味しく、病気を治す力があると信じられていたようです。
これと同じようなものが、今帰仁村渡喜仁浜原貝塚(治用文後期:大山式土器~宇座浜式土器期)や、座間味村古座間味貝塚(縄文後期:室川式土器期)、うるまし津堅島キガ浜貝塚(治用文後期:荻堂式土器期)などの遺跡から出土しており、今から約3000年前には「ホラガイ製やかん」と同じような道具があったことがわかります。 |
ほら貝製やかん宮古八重山地方 病気を治す力があるとされた
注口土器にもそう考えたのかもしれない |
沖縄本島からも出土
3000年前には沖縄全体にあった |
ほら貝製やかん |
仲原式土器
2300年前伊計島の縄文晩期から弥生前期の集落跡
尖底土器ですね |
宇佐浜式土器
2300年前沖縄北部国頭村の住居跡遺跡
沖縄で出土する最古の尖底土器 |
磨製石斧シヌグ堂、石皿と磨石は古我地原貝塚 |
磨石も石皿も何代も使い込んだものかな古我地原貝塚
4000年前 |
石鏃・黒曜石製スクレイパーとノミ状工具高嶺・シヌグ堂
2500年前 |
骨角器・装飾品・骨針・骨錐・骨製札状製品シヌグ堂・
古我地遺跡 |
貝製サメ歯・貝札・小玉貝製利器有孔製品
古座間味貝塚、
津堅島ギガ貝塚、
古我地原貝塚 |
ホラ貝有孔製品久米島北原貝塚 |
沖縄はやはり貝や骨角器が多かったのでしょうね。 |
貝塚時代前期 中琉球の詳細 引用
貝塚時代前Ⅰ期(前期前葉) 約7,000~6,500年前
海岸地帯に生活し、大型磨製石斧と「南島爪形文土器」を使用。サンゴ礁域の南島特有の経済基盤をすでに保有
貝塚時代前Ⅱ期(早期中葉) 約6,500~4,500年前
海岸と台地崖下に住み、サンゴ礁に依る生活.。
九州本土から縄文前期の「曾畑式土器」が沖縄本島に南下。「室川下層式」と言う南島特有の土器型式が誕生。
貝塚時代前Ⅲ期(早期後葉) 約4,500~3,200年前
海岸と台地崖下に住む
南島特有の土器型式の「面縄前庭式」が成立した
貝塚時代前Ⅳ期(前期) 約3,200~2,700年前
台地崖下と海浜に住む。人口の増加、過密、移住が活発化。貝塚規模や遺物内容が豊富で、定住生活が一層進む
海陸産の貝魚も食べ、イノシシの骨・牙を道具や装身具に利用。
この頃九州本土から縄文後期の「市来式土器」が沖縄本島にまで南下している。
また南島式土器が最盛期を迎え、伊波式、荻堂式、大山式などが成立した。
貝塚時代前Ⅴ期(中期) 約2,700~2,200年前
台地縁辺部で生活し、竪穴式、石組み式などの住居を構築
貝や骨類があまり出土しない。 ヤマイモのような根菜類の栽培。
石皿、磨石が多く、植物質食糧をよく調理していた。南島式土器も終末を迎え、「宇佐浜式」が成立した時期でもある |
貝塚時代の時代区分
縄文時代との対照表沖縄埋蔵文化財センター製作の編年表 |
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新石器時代 後期 の琉球弧 2100~1000年前 引用
(・奄美諸島以北は弥生~平安、 ・沖縄諸島は貝塚時代後期、 ・宮古八重山は新石器時代後期)
・九州本土
水田稲作・金属器文化人が大陸や半島から来て、たちまち東漸し東北地方まで拡大した。
南九州は水田に不適な土地で、狩猟漁労採集が継続した。
弥生前期。九州弥生人が中琉球へ渡島して南海産大型貝製腕輪を獲得。鹿児島県内の貝塚から未成品出土
弥生中期。北部九州ではクニが興り、3世紀後半のヤマトによって大和朝廷に発展する。
・北琉球
種子島・屋久島では 弥生後期~古墳時代に、九州とは本質的に異なった南島文化の再編が起こる。
種子島では、中国青銅器に似た彫刻の腕輪や貝札(貝符=繋いで首飾りにする)が出土。
・中琉球
奄美諸島は南九州産弥生式土器の文化圏内。やがて、奄美的南島文化、壺の兼久式土器を形成した。
この土器には、鉄器・貝符・開元通宝が伴う。螺鈿材料のヤコウガイ1000個が出土した。 螺鈿=螺銅=らでん
沖縄諸島は漁労採集文化。海岸砂丘に掘立柱で四角形の平地住居に住み貝塚を形成。土器は無文大型化した。
交易で金属器がもたらされ、石斧が減少した。 金石併用時代
「貝の道」によって北部九州弥生人と、貝輪の材料を交易した。中国貨幣、明刀銭、五鉄銭、開元通宝が出土。
・南琉球
前期人は東南アジア系。土器、部分磨製石斧を使用していたが、
後期人はフィリピン系。文化も道具も全く違う。無土器、石焼調理の原始的生活。貝斧使用 |
琉球弧の考古学的枠組み |
南海産大型巻貝腕輪の道 |
シャコガイ製貝斧の伝播 |
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20新石器時代後期(弥生時代とそれ以降) 漁労採集の 原始生活が続いたとされる。
22貝の道 沖縄地方が先史時代に登場するのは南方産貝の交易です。
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暖かいサンゴ礁の海に囲まれた沖縄には、大型の貝が多数生息しています。
弥生時代の頃、西日本各地にクニが成立し統治者が出現しました。統治者たちは自らの権威のしるしとして、南海産のゴホウラ貝やイモガイやオオツタノハガイ製の腕輪などを身に付けて見せびらかしました。
そのゴホウラ貝やスイジガイの形を真似た銅製品(釧)が製作されて、支配者たちの権力を示すものとなっていました。また、南海産の貝は九州を経由して北海道にまで達しました。
一方、沖縄では「移出用」だけでなく独自の貝器文化が栄えました。九州沿岸地域の海洋民は貝を求めて奄美・沖縄に至り、交易活動を 展開しました。
沖縄の原始時代の海洋民は海に潜って貝を採り、交易に備えました。杞憂州に移出するために集められた貝溜が各地の遺跡に残されています。
また、弥生人たちがもたらした九州産の弥生土器やそれを真似た沖縄産の土器も作られるようになりました。 |
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25貝製品
ゴホウラガイ製貝輪
ゴホウラガイ素材
オオツタノハガイ製品 |
弥生土器 と 石鏃
伊江島 うるま市平屋敷トウバル遺跡 |
在地土器 伊江村右下は片口土器か 具志原貝塚 |
ヤコウガイ製貝匙
と夜光貝 伊江島
具志原貝塚
螺鈿用貝原料とともに重要な交易品だった |
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貝錘・巻貝有孔製品オオツタノハガイ製多孔製品 イモガイ製有孔製品=貝札・貝符 |
スイジガイ製利器 |
オオツタノハガイ製多孔製品 貝札or貝符
イモガイ製有孔製品 |
マキガイ有孔製品きれいな貝殻は今でも
そのままでアクセサリーになる |
貝錘リーフ内で網の下に付け、魚を脅す役割
使い方が違う南の漁 |
スイジガイ利器スイジガイは魔除け。伊勢地方のしめ縄のように年中掲げるもの |
貝錘について
普通錘は網を垂直に張るために使う。貝殻は軽く潮に流され役に立たぬ。
が、潮流のないリーフ内では網の下に付けて魚が逃げないよう脅す役目。
漁の仕方が全く違う |
貝製品を好んだ弥生人ですが、政治指導者の副葬品からは金属装身具や玉の装身具が出土します。
貝製品を身に着けたのは呪術者・宗教者でした。 (初期段階)
古墳時代には武人や首長がこれを使用しました。横穴墓などから出土します。
館の展示は、次に グスク時代の陶磁器と石垣の展示に移ります。 しかし、なぜ、狩猟採集民が突然城を作ったのか。その説明はありません。 ※
この秘密は 貝交易にあると思われます。
築城には強大な権力と莫大な財力が必要です。そして、鉄器です。
貝交易の実態を知ることによって沖縄の先史時代から歴史時代を繋ぐものが見えてくると思います。
※2019.01.24追記
この時点では知らなかったのですが、
南西諸島へは、古くから半島からやってきた縄文時代人や、弥生~古代人、などでも沢山の移住者がありました。
古代には、大和政権より、過酷な税を割り当てられたり、と、いろいろな事件の中で、武力支配への動きが高まり、
12世紀(鎌倉時代)には小豪族が動きをはじめ、グスク時代へと突入します。
その中で最も決定的だったのが、朝鮮半島では長く40年余りも元寇が続き、そこで最終的に起こった 三別抄の乱(1270年)によって、朝鮮の敗軍が
多数の軍船で沖縄本島にやってきて上陸し、
当時の群雄割拠状態に、この高度な戦争のプロが大きな変化を与え、その後、戦国時代に入ったのです。
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26貝交易
沖縄新石器時代後期を特徴づけるものは貝交易です。交易とは単なる物々交換ではなく、莫大な利益を生む商業活動です。
紀伊国屋文左衛門がみかんを大量輸送して長者になったことは有名です。また、北前船、菱垣廻船、樽廻船。
日宋貿易、日明貿易などは、教科書では教えないが、天文学的な富を生み出した。それは、生か死かを賭け希少価値を運んでくるからでした。
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原始的な船で言葉も通じない危険なところへ出かけていくのである。特に宮古八重山は漂着すれば助からない土地。
その分、扱う商品が権力者相手である。御代などいかようにも取れるというもの。成功すれば大金持ちである。 |
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しかし、 |
映画ブラッド・ダイアモンド や南米のガリンペーロの実態は、採掘者は利益に浴さず、交易商人が莫大な富を得る。 |
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そして、 |
採掘者には危険を冒してでも採らねばならないように仕向けるのが常套手段である。 |
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こうして、 |
前二世紀から後一世紀頃には既に魚民から貝を買い集めるブローカーや権力者の支配構造・身分が誕生していました。 |
(日本の戦国時代が始まった原因は、室町幕府が日明貿易を地方豪族に許可したため、地方に莫大な富が蓄えられ、政治が不安定になったからです。)
研究の実態
琉球弧の経済政治歴史を大きく支配した貝交易だが、これに着目し、研究した歴史は浅く、近年熊本大学木下尚子教授の論文が最も最新であり、
他の論文はこれを補完する内容のものが多い。従ってこの論文の要旨をまとめることとする。
下の表は論文内に出てきます。貝交易の区分表です。
中は近年の研究によって区分が変わった弥生時代です。木下教授の時代区分はこの表に沿って展開されています。
右は木下教授描くところの貝交易の模式図です。実によくまとまっています。
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南島の貝交易
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貝交易の名称 |
時期 |
交易された主要な貝殻 |
交易対象 |
貝殻の商品価値 |
1 |
九州の貝交易
(弥生時代) |
BC9世紀
~AD2世紀 |
ゴホウラ、イモガイ |
大和人 |
腕輪の材料 |
2 |
西日本の貝交易
(古墳時代) |
3世紀~7世紀 |
ゴホウラ、イモガイ
スイジガイ |
大和人 |
腕輪の素材
馬具の素材 |
3 |
唐の貝交易 |
7世紀~9世紀 |
ヤコウガイ |
中国人 |
螺鈿の素材 |
4 |
古代・中世大和
との貝交易 |
9世紀~15世紀 |
ヤコウガイ、ゴホウラ |
大和人 |
螺鈿の素材
法螺の素材 |
5 |
琉球王国の中継
貿易 |
15世紀~17世紀 |
ヤコウガイ、ホラガイ
タカラガイ |
大和人
中国人 |
螺鈿・法螺の素材
通貨 |
貝の生息域
ゴホウラ(リーフ外20m以内)、 イモガイ(毒針 リーフ内浅海)、
スイジガイ(リーフ内浅海 10m)、 ヤコウガイ(リーフ内 30m以浅)
タカラガイ(リーフ内 浅海)
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新しい弥生時代の時代区分
国立歴史民俗博物館の発表による。 |
貝の道模式図 |
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論文要旨
交易の語る琉球史──発掘調査でわかったこと─ 木下尚子(熊本大学文学部・教授) リンクはネット公開の講演記録。書籍は二万円もする
弥生時代の貝交易は、弥生時代(初期)に北部九州の弥生人がゴホウラ貝やイモ貝で腕輪を作ろうとしたのが始まり。
発注者は北九州の半島系弥生人。背が高くのっべりとした顔。 運搬人は西北九州の縄文系弥生人。 水夫と貝採取者は南島人。
北風の吹く冬に沖縄諸島を訪れ、夏至の南風と黒潮に乗って帰る。交易範囲は沖縄諸島。(貝は奄美大島以南に生息)
南海産貝輪は農耕儀礼の宗教者。大人も子どもも男は右手にゴホウラ貝。女は左腕か両腕にイモガイの貝輪をつけていた。
一方、政治的指導者は銅鏡銅剣やヒスイやガラス玉などで着飾った姿で発掘される。
流通範囲は 貝輪が鹿児島から愛知県まで。 腕輪以外の貝製品は北海道南部まで。
海上交易の実態は、沖縄各地に貝溜まりを作って貯蔵していた。運搬にかかわった貝の数は見つかっただけで1700個を越えている。
運搬者の墓が沖縄各地にあり、西北九州の箱式石棺で、多くが南島人。一体西北九州人との混血があり、代々混血集団が運搬したとみられる。
交易品は、壺に米豆の穀物。その他に少しの鉄製品、青銅製品、ヒスイ、碧玉製品。
貝交易の変化 弥生時代の交易は700年続き、ルートや運搬者が変化。種子島・奄美人が増加。
交易の土器が北九州産から熊本・鹿児島産にかわる。更に種子島、奄美産の土器も増加。 また、沖縄諸島で貝輪の荒加工するようになった。
弥生後期に交易衰退。その後、弥生終末期に西日本の有力者によって復活。古墳時代にヤマト政権が継承し四世紀以降も続いた。
5世紀~6世紀には九州の豪族が朝鮮半島南部の王に届け、腕輪・馬具に加工された。 古墳時代の交易は七世紀まで続いた。
貝交易の終焉と 七世紀後半。大和政権は律令国家を目指し、(価値観が変わり貝製品は不用となった)。1000年続いた貝交易が終わる。
南島人は朝廷に直訴したようだが再開されなかった。
南島と中国の貝交易 七~八世紀の沖縄に唐銭の開元通宝が多数発見され、ヤコウガイ交易をおこなったことが伺える。
南島での貨幣流通はまだなく、「鉄製品や布,穀物などを交換品としたでしょう。しかし開元通宝もこれに使われることがあったのだと思います。」
大和との貝交易復活 九世紀後半から大和で螺鈿の生産が始まり、唐の滅亡とともに、10~13世紀には盛況となる。
原産地の拡大を求めて先島諸島に進出。宮古八重山が文化的に繋がった。
10世紀頃、大和人の南下により、沖縄で穀物栽培が始まる。これによって、沖縄は農耕へと変わり、100年を経ずしてグスクが成立した。
補完・関連論文 奄美諸島地域における考古学覚書 古代日本の夷狄と諸蕃-交易活動の視点から- 7~11 世紀の奄美・沖縄諸島と国際社会
ネット公開書籍 奄美夜話 グスク出現前後の考古学史とその論点の整理
私なりのまとめ
貝交易は前900年頃から始まり、前1~後2世紀頃に権力者か富裕者が作った貝溜まり(貝の集積遺構)ができ始めた頃には、
琉球弧の各地に複雑な身分や階級。貧富の差が生まれていた。この時代既に金石併用時代だった
人口は自然増し、それにより食料資源は減少したにもかかわらず、漁労狩猟採集だったのは、外部から食料供給があったからでしょう。
沢山の商人が何艘もの船団を組み、琉球弧の各地に出かけ、長い期間逗留し、弥生の文物や食料を持ち込み、共に食べたはず。
沖縄諸島は次第にこの食料供給に依存する体制ができ、三世紀の軍事政治混乱期や七~八世紀の祭政(政治宗教)の転換期には飢餓に襲われたはず。
七~八世紀の転換点(地理的発見・経済的進歩・政治的問題への対処)
飢餓を、福建商人との交易によって食料を入手。銭も信用取引として流通した。琉球弧に農業技術はなく、穀物は交易で入手するものだった。
政治的トラブルや陰謀もあり、奄美人が西九州沿岸の弥生人を襲撃した。金属製武器と足の速い多くの船に分乗して数百人規模だったろう。(想像)
海運や航海技術の発達で、地理的時間的近接化。武器の集積。など、政治的・経済的・軍事的な進化が激しくなっていた。
長距離の軍事遠征は、既に琉球弧内で何度も起こっていたことだろう。
朝貢義務など負わせられたが、この時期以降、階級差、経済力の拡大、権力の強大化、大商人や、地方領主が出現し、
ついには沖縄に貝輪をつけた権力者の遺体が発掘されるようになった。
九世紀~十三世紀のヤコウガイ交易(各地商人や運搬業者の台頭)
螺鈿用ヤコウガイの交易がはじまると、高いレートの交換率となり、富と権力と物資の集積がますます強く、各地での勢力争いも活発となる。
異文化で交流のなかった、宮古八重山の先島諸島にも、貝資源を求めて交易を始めた。
平安末期から鎌倉初期にかけての日本の政治的混乱期に交易が一時的に衰退し、食料自給のため沖縄各地で始まった農耕により土地収奪が発生。
砂上住居から赤土丘陵に移動、農地確保のため防衛的住居や砦が作られ、やがて城郭に発展し、グスク時代となる。
グスク時代 (戦国時代) の始まり
1000年(2000?)続いた貝交易によって早い段階から身分制度や権力構造、支配階層が出来上がり、ブローカーまで誕生した。
食料供給を目的とした交易であったが、次第に鉄器を含む多様な文物が導入され、社会構造や経済的基盤。権力支配の構造も確立した。
一方、奄美諸島、徳之島※では、11-14世紀に朝鮮式・九州式の陶器生産が始まり、大規模窯業団地へと発展し、琉球弧での交易が始まる。
ヤマトの政治的混乱を契機に独立的気運、と農業生産の確保のため土地争いが始まり、豪族の砦が作られ始めた。
このような社会や経済の発達によってグスク時代(戦国時代)へと発展していった。
徳之島※は元は喜界島と誤記していました。2015.11.24修正
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奄美諸島、徳之島の朝鮮式陶器生産の大規模窯業団地遺跡 2015.11.24追記
カムィヤキ古窯跡群
カムィヤキは,11世紀~14世紀頃に徳之島で生産されていた焼き物である。
これらは南九州の一部(鹿児島県串木野市,金峰町,出水市,隼人町など)から、琉球列島全域(トカラ列島,奄美諸島,沖縄諸島,先島諸島)に
分布する。
距離にして約1200㎞の広範囲に渡り流通していた。
(徳之島伊仙町には大量の陶土・粘土層があった。不思議なことに、石灰岩の上に赤褐色の粘土層が広がっている)
器は還元焔によって焼成され,硬質な仕上がりとなる。その種類は, 壺を主体に,鉢,碗,甕,水注で構成され,日本の中世須恵器と類似する。
しかし,
焼き仕上がりの色調,器体に巡らされた波状沈線文,綾杉状の叩き文様などの特徴は,朝鮮半島産の無釉陶器にも似ている。このことから,
日本,朝鮮半島双方の系譜を受け継いだ「南島の中世須恵器」と位置付けられている。 引用カムィヤキ古窯跡群
左回転ロクロで作られる土器は高麗式土器で、カムィヤキは朝鮮人陶工によって作られていた土器である。
引用謎多い土器めぐり議論/徳之島でカムィヤキシンポ - 四国新聞社
カムィヤキとは「壺を焼いた場所」という意味で、窯元遺跡を指す言葉です。決して「カムィ焼き」ではないのです。
が、そのカムィヤキ古窯群の名を取ってカムィヤキともよばれています。
この土器生産が成功したのは、当時の八重山諸島には良質な土器がなかったからです。
沖縄博物館美術館では、類須恵器と呼ばれ、須恵器に似た土器として知られています。
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沖縄のグスク時代が突然始まった理由 2015.11.25追記
11世紀後半~12世紀に、喜界島の 城久遺跡(グスクイセキ) に駐留していた大和政権の機関・軍隊が大挙して沖縄島に移住したためである。
奄美諸島 喜界島の大和人遺跡
城久遺跡群
・貝交易の利益を巡って争っていた奄美と屋久島であるが、屋久島が大和に働いて奄美沖縄の島々を一等低い地域とし、朝貢を命じる地としたため、
不当な扱いを受けた奄美人が、舟で屋久島、西九州の役所を襲撃した。そこで、
・『日本紀略』長徳4年(998年)に大宰府が喜界島に対して、暴れ回る南蛮人(奄美大島人か)を捕えるように命じ、
翌5年(999年)には大宰府が朝廷に南蛮人を追討したと報告していることから、喜界島には、それだけの機関や勢力が存在していたと考えられて
いた。
なお、奄美群島の中心部から離れた喜界島に拠点が設けられたのは、島にハブが棲息していないことが理由の一つではないかと見られている
遺跡の推定年代は9世紀~10世紀の初期、11世紀後半~12世紀の中期、13世紀~15世紀の後期にわかれる。
数百棟の掘立柱建物跡や土坑墓、火葬墓が確認され、その数や種類は南西諸島では他に類を見ない。
12-13世紀の屈葬墓の調査では、本土中世の仏教思想に基づく埋葬方法と同形式と推定されている。
出土品では大宰府出土品と同系の土師器にはじまり、越州窯系青磁や朝鮮系無釉陶器、初期高麗青磁など中国や朝鮮半島の陶磁器が確認されて
いる。
引用Wikipedia城久遺跡群 参考(喜界島の埋蔵文化財(遺跡)) - 喜界町 奄美に古代日本の拠点発見?(1): 目からウロコの琉球・沖縄史
・その後、11世紀後半~12世紀には喜界島から琉球列島へ集団移住が展開し、南島人はこの移民の影響を大きく受けたと考えられます。
(沖縄人の遺伝子に大量の半島人遺伝子が混入した。と言っています。)
引用「アイヌ学入門」瀬川拓郎 参考7~12世紀の琉球列島を めぐる3つの問題 - 国立歴史民俗
・この大移動により、砂上住居から、赤土丘陵上の住居へ。また、農業が開始された。
移住した大和人は領地を獲得し、自分の王国を作るための移動である。やがて砦からグスクへと防衛が高度化し、沖縄は戦国時代となった。
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40グスク時代(12世紀-15世紀)
41グスクの移り変わり
千年も続いた貝交易。によって複雑な身分制度や権力構造が構築され、特に螺鈿用ヤコウガイの交易によってもたらされた
富の集積によって各地に按司と呼ばれる豪族が出現し、農耕の始まりとともに土地争いが起こり、城が誕生した。
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12世紀から15世紀までの時代をグスク時代と呼んでいます。グスクとは沖縄の古い集落の裏山や丘の上に堀切や土塁などの施設や石を積み上げて築かれた施設を言います。
各地に按司(地方領主)が登場し、外敵から身を守るために高い石垣を積み上げ、柵や堀切などを丘の上に巡らせてグスクが築かれました。
13世紀の中ごろには柵を巡らしたグスクが出現します。
14世紀に入るとあまり加工されていない野面積みと言われる石積みが登場します。
15世紀(グスク時代の終わり頃)になると、鉄ノミを使って丁寧に面取り加工した切り石積みが築かれます。
首里城、勝連城、中城城などが切り石積みの代表的なグスクです。
切り石積みの技術や築城技術の導入によって首里城や中城城のように大型のグスクが出現します。
尚、県内には300か所のグスクが確認されています。 |
13c中期に柵を巡らしたグスクが出現
14cに石積みが出現
15c鉄ノミ仕上げとなる |
グスクの移り変わり
上に記述 |
城時代の防御の変遷グスクⅠ型13c中期
グスクⅡ型14c初頭
グスクⅢ型13c後半 |
グスクの移り変わり次第により防御力の高い城郭へとエスカレートしていった |
沖縄古代の編年11100年を境に新石器時代とそれ以降を区別。土器形式に著しい変化 |
沖縄古代の編年2 |
グスクのかたち |
カムイヤキ
石鍋模倣土器 |
白磁壺
褐釉陶器壺 |
高麗系鬼瓦 |
グスクの石積み手法野面積み・布積み
相方積み |
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滑石製石鍋 長崎製活発な交易によって |
グスク土器広範な地域から |
青磁椀 瑠璃釉小埦高価な品物がもたらされた |
天目茶碗 青磁皿 |
あの有名な
天目茶碗を作る技術。
これはもう芸術です |
高麗系鬼瓦の
出自は浦添城かな |
三別抄の乱とグスク時代
元寇が40年余りも続いた朝鮮半島では、王族を擁立して戦っていた将軍三別抄らが、敗戦前の1273年(13c後半)済州島から船で脱出し、
半島は蒙古軍の手に落ちた。
三別抄らの軍船は、やがて古代グスク時代の沖縄に漂着し、浦添に上陸した。
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沖縄の歴史抄
旧石器時代は長く、貝塚時代前期が縄文時代にあたり、
貝塚時代後期が弥生から平安時代にあたる。貝塚時代後期には身分社会が出来上がる。
貝塚時代末期の11世紀に半島人が徳之島で窯を築きカムイ焼きの生産を開始する。
徳之島に駐留していた大和の軍隊が突如沖縄本島へ移住してしまった。これにより、住居地が海岸から山上に移動し、脳儀容が始まった。
本格的な農業の開始は12世紀。12世紀末に王が即位する。12世紀に源為朝が逃亡してきたとか、いろいろある。
古琉球時代(~1609年)
グスク時代(12世紀~16世紀) この頃から稲作・畑作農耕が行われる。
琉球を中継点に日本・中国・東南アジアとの貿易が盛んとなり、各地に豪族(按司)が登場して石垣で囲まれたグスクを築き小国へと発展した。
13世紀末に三別抄の軍船が、そんな戦国時代の琉球に漂着した。アジア貿易が盛んだったが瓦もない、草葺の建物に瓦がもたらされた。
三山時代
14世紀には、沖縄南部(南山)、中部(中山)、北部(北山)に分かれての戦国時代末期となった。 |
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同1273年浦添城の朝鮮式瓦高麗瓦が作られ始める。グスク時代の当時、戦争のプロたちは南島人とは比べ物にならない軍事集団だったでしょう。
浦添には突然朝鮮式瓦が発掘されます。また、関連遺跡が残っています。
沖縄へは、11世紀後半~12世紀に徳之島から大挙やってきた大和人・半島人集団や、13世紀末の半島人の最強軍事集団の到来。
沖縄島が戦国時代に突入するのも当然でしょう。 2015.11.25追記
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45箱式石棺墓と貝の道
貝塚時代後期(約2,200年前 渡具知木綿原遺跡、読谷村)
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沖縄で初めて見つかったもので、九州の弥生時代の石棺墓と形態が似ていることから、何らかの関係があると考えられています。
元々は5枚の板石(ビーチロック)で蓋をしてありました。写真のように石棺の中には足を伸ばした状態で、仰向けに一体の成人男性が葬られていました。
また、頭部の周りや腕、足元にはシャコガイなどの貝殻が添えられており、副葬品と思われます。 |
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50宮古・八重山の先史時代
旧石器時代の宮古八重山は台湾を通して大陸と陸続きでした。
その頃には、台湾旧石器人「八仙洞人」と同じ人々が住んでいたと思います。
この地域は沖縄とは隔絶し、台湾・フィリピンの南方文化圏でした。
例えば、与那国島が歴史に登場するのは1477年である。
51先史時代の宮古八重山
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先史時代の宮古・八重山諸島は沖縄・奄美諸島とはほとんど関係を持ちませんでした。
まだはっきりとしたつながりはわかっていませんが、南方の文化と関係があるとみられています。
この地域の先史時代は大きく前期と後期に分けられます。
前期は4,000~2,000年前
後期は2,100~900年前で、年代測定では一時的に重なっています。
前期の人々は海岸に近い赤土の低い丘に住み、少量の土器を使用していました。
石斧は主に刃の部分だけを磨き、他の部分は粗く仕上げたものを用いました。
この石斧は後期にも引き継がれますが、東南アジアによくみられるタイプです。
後期の人々は海岸砂丘に住み、人口も増えました。なぜか土器は使わなくなり、焼石調理が盛んに行われねようになります。
更に南方系のシャコガイ製の貝斧が登場しますが、その形はミクロネシアのものとは異なり、フィリピンのものとよく似ています。
後期の終わり頃には中国の開眼通宝も発見されるようになります。
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宮古八重山の
新石器時代前期は
4000~2000年前
新石器時代後期は
2100~900年前 |
先史時代の宮古八重山
前期人は東南アジア系
土器・部分磨製石斧
後期人はフィリピン系
無土器・焼石調理・貝斧 |
前・後期人は百年間同居して、駆逐したようだ |
宮古八重山の遺跡
後期人は貝斧を使用
貝斧使用時期は
2100~900年前になる |
大泊浜貝塚3800年前
出土土器・石器は台湾インドネシア・オセアニア・メラネシアと関係がある |
大泊浜貝塚
日本最南端の波照間島の北海岸にある。
ここからは島外産のイノシシや、マングローブ林に産するシレナシジミが多数出土し、西表島から狩猟採取したものだ。
引用
3800年前 |
貝斧の分布 南太平洋6千~4千年前インドネシアのスラウェシ島が発生場所 |
西太平洋拡大 参考宮古八重山では沖縄本島系の容貌の人と、もっと南方って感じの人と |
シャコガイ製貝斧出土に出会うことがある。その原因はこの辺かな |
前期・後期文化の対比前期より後期の方が文化が遅れている
旧石器人に近い |
後期文化はペナン島などの文化に似ている |
大切な比較表です |
前期の土器
下田原式3800年前鍋型土器
白保竿根田原洞穴 |
後期の土器 新里村式土器400-800年前鍋型土器 竹富島 |
後期 中森式土器
外耳土器700年前鍋型土器 西表島 |
後期 パナリ焼き 火皿と小鉢
700年前 西表島 |
宮古式土器
パナリ焼き壺宮古島 竹富島 |
前期 下田原式土器3800年前 竹富島 |
前期 下田原式土器
石斧波照間島 |
前期 骨角器波照間島 |
前期 尖頭器・磨製石斧波照間島 |
シャコガイ製貝斧製作法 |
後期 貝斧 宮古島 |
後期 貝斧 宮古島 |
イノシシ牙製装飾 宮古 |
有孔装飾品 宮古 |
波照間島の位置
サンゴ礁の島でリーフ内での漁がたやすい。
ハブがいない島。
資源豊富な西表島にも近い。 |
宮古島は低島。大きな猪牙はどこ産だろう
サメ歯は装飾orナイフ
台湾と似たものも多い |
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貝斧文化は台湾にはなく、やはり、フィリピン系文化のようです。
フィリピンの東を流れる海流は大変強く、猛烈な速さで先島諸島に運ばれる。 |
52貝斧文化と丸ノミ石斧
貝斧は 丸ノミ石斧の祖先です。 |
貝斧 沖縄埋文 |
丸ノミ石斧上野原縄文の森 |
丸ノミ石斧上野原縄文の森 |
丸ノミ石斧文化圏1.2万年~1万年前 引用 |
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八重山には4000~2000年前先ず部分磨製石斧がありました。 |
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その後、2200~900年前、フィリピン系の無土器、集石遺構、貝斧文化人が来て、先住民をおそらく殺して乗っ取りました。
しかし、12,000年前の南九州市の栫ノ原遺跡からは栫ノ原式石斧と言われる丸ノミ石斧が出土しています。
これは、スンダランド人はすでに貝斧を発達させた丸ノミ石斧で外洋航海型の丸木舟を作っていたあかしです。
なぜ、高い文化が低い文化に置き換わったのでしょう。 |
スンダランド人は来ていた
南方系の民族大移動
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では、ずっと後の、宮古八重山の新石器時代前期と後期の人々はなんでしょう。 |
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フィリピンからはじき出された文化の低い集団が八重山に到達、しばらく同居し、ながら、やがて、逆襲したのでしょう。
前住者より低い文化が始まりました。軒を貸して母屋を取られるとはこのことです。ね。
(同じことはその後も起こり、フィリピンから来たヤミ族(タオ族)は台湾のランユウと言う島と、東海岸の一部何か所かを占領しました。) |
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これが、 |
丸ノミ石斧と貝斧の逆転や、土器文化の後に無土器文化が発生するという、文化の後退の訳です。参照台湾史前文化博物館と婢南文化公園 |
ちなみに |
フィリピン系民族の拡大拡散は、八重山だけでなく、オセアニアにまで及んでいます。このネタ元を探しているのですが出てこない。 |
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注1 |
国立台湾博物館でも丸ノミ石斧を見ることができます。膨らんだ形の東南アジア系でしょう。石垣島八重山博物館蔵のものと比べてみたい! |
注2 |
福建省から標高4000mの台湾島を見ることは可能。距離100㎞。西海岸は潮流比較的穏やか。北風に乗ればあっという間に到達。 |
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台湾東海岸の花蓮市から真東に八重山諸島が見えます。風と黒潮にのるとあっという間に到達します。
台湾から拡散したハワイ原住民は、海上目視範囲が4~5㎞であるのに見えない島を目指して偶然か経験則に基づいて到達した。
その経験則とは、(雲の沸き立つ所に島がある)で、この言葉を頼りにマダガスカル島から南太平洋まで拡散
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※ |
種子島の丸ノミ石斧加工遺跡や栫ノ原遺跡の高い文化は、どこかで何千年かの先史文化があり、そこからでてきた文化だと思います。 |
※ |
スンダランド人はいろいろな文化の段階で、何波もやってきた。と思います。重量石器の段階 不定形剥片石器の段階など、栫ノ原は最高の |
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段階でしょう。 |
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60近世沖縄の陶磁器
61沖縄の古窯 沖縄には独特の土器文化があります。サンゴや貝が砕けた砂の島のイメージがありますが、陶土もありました。
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沖縄の陶器は、1616年に琉球国王 尚寧王が薩摩から朝鮮人陶工の張一六、安一官、安三官の三人を招集して湧田窯を開いたのが始まりです。
三人のうち、一官と三官は薩摩に帰りますが、張一六は仲地麗伸と名前を変えて帰化し陶業の発展に貢献します。 |
沖縄の陶磁器生産は1616年薩摩の技術指導によって始まる |
グスク時代初期に朝鮮式瓦が出土し、王宮などは瓦葺だった |
沖縄の古窯地図 |
沖縄の古窯 |
古窯の発掘と瓦 |
石垣島の古窯、登り窯1730~18c後半まで |
那覇壺屋の古窯18~19C施前半まで |
読谷村の古窯 |
壺屋古窯19C施前半まで |
国際通りの湧田窯中国南部朝鮮半島と密接な関係があった |
湧田窯について |
湧田と壺屋の製品 |
沖縄の陶芸は朝鮮人陶工によって始まった |
17c初頭以前から生産し元は首里城の瓦を生産 |
瓦や生活雑貨全般を生産していたようだ |
中国・ベトナム・タイ産の陶磁器 |
以後、沖縄産陶磁器 |
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朝鮮人陶工に始まる沖縄陶磁器もレベルの高いものです |
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海外交易を物語る貿易陶磁器
65貿易陶磁器 柵封貿易(朝貢船)
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71企画展示「首里城 京の内遺跡」出土品展
問題は、下の年表で、随分早期からの内容が載っています。
基本的に、沖縄の詳しい歴史年表などは入手不能。この他には、沖縄美術館博物館の展示パネルの年表しかありません。(撮影禁止)
企画展示室 撮影禁止 首里城内倉庫の火災跡出土の陶器類を展示 |
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ごあいさつ |
年表1459年に焼失。この頃の東アジアの陶器が貴重 |
14c中期から15c後半までの土器編年表
珍しい |
同、交易等年表 |
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80白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき) 白保旧石器時代の洗い出し
2007年の新石垣空港(白保空港)の建設に伴い発掘された旧石器時代遺跡。洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。
そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。
ミトコンドリアDNA分析の結果、約2万-1万年前とされたうち2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系のDNAタイプであった。引用
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発掘は沖縄埋文で、既に発掘終了。大量の人骨出土はNHKでも報道 |
発掘土壌からの遺物の洗い出しを行っていた。 |
学芸員とパートのおばちゃんとで大変な作業。 |
昨日イノシシの骨が出たそうな。 |
寒かったです。ここ。 |
編集後記
・私、違和感を感じなかったら、旧石器、新石器前期、後期、グスク時代の展示品を、ただ貼り付けていたままで終わっていたでしょう。
知らなかったんです。沖縄の先史時代はまだ、研究が始まったばかりなんだということを。
・沢山のネット上の文献の中から最もまとまっている論文を頼りに琉球弧の先史時代を勉強しました。
1970年代に沖縄返還。それから発掘が始まって、今ようやく千年前のことが言葉になり始めました。
貝交易の実態や、グスグ発生の謎。旧石器人の人骨発見。
今後発掘が進むと、もっと画期的なことがわかるかもしれません。 楽しみにしています。
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