北海道の縄文 №7 2022.06.02-3
帯広百年記念館埋蔵文化財センター 北海道帯広市西23条南4丁目26-8
0155-41-8731 休館日:日・月・祝日の翌日 撮影可
館の特徴
|
長らく北海道には縄文草創期がないとされていました。
しかし、2003年、帯広市大正3遺跡から14,000年前の土器が出土し、
一気に学会の定説を覆しました。
2013年に北海道を取材したときもまだ、「草創期は無し」との定説でした。
もちろんその頃には既に、帯広で草創期の土器が出土していると、テレビ番組その他で知られていました。
しかし、北海道に縄文草創期はないと、言明してきた、
高い権威を誇示する、考古学会が公認するには、そうとうな力がなければならないようです。
これまでも、幾つかの縄文草創期と思われる遺物が出土してきましたが、一切認められませんでした。
今回は、発掘チームに外国の研究チームが入っており、さっさと国際的に発表してしまったので、認めざるを得なかったようです。
そうでもなかったら、ああでもない、こうでもない、と具にもつかない屁理屈をこねて時間を掛け、結局却下するのがナラワシ。 |
|
|
|
|
目次
|
01外観
03入口展示
大正3遺跡
05十勝の遺跡
20大正3遺跡
※考察 暁式土器
23土器が使われた時代
25遺跡の様子
※考察 十勝の草創期遺跡
31草創期土器の特徴
※考察 土器の形状
33遺跡の意義
35石器
※考察-北海道旧石器人と縄文人
37科学分析
40土器で煮炊き世界最古
100旧石器時代
101細石刃の広がり
※考察 細石刃の伝播
110石器
111若葉の森遺跡
113暁遺跡
115落合遺跡
117舟底形石器
118稲田1遺跡 |
200縄文時代
201旧石器から縄文へ
※考察 旧石器・縄文草創期人の移動・回遊
210草創期の土器
220早期前半
221早期前半の土器
223早期前半(下層)古暁式
225早期前半(上層)新暁式
233早期前半中葉の土器
石刃鏃文化の土器
235早期前半中葉
東釧路Ⅰ式
241早期後半の土器
東釧路Ⅱ式
253早期後半
中茶路式土器
※中茶路式土器と下北半島
255 早期後半
石刃鏃文化期
260石刃鏃文化
261石刃鏃石器群
270早期後半の土器
東釧路Ⅳ式
281早期末葉
チョマトー遺跡 |
283前期前半
綱文式土器
土偶
310前期後半~中期前半
311宮本式土器
313中期
モコト式
315縄文中期前半土器
317中期後半~後期前半
318後期
後期初頭
北筒式
※考察 縄文後期のオホーツク海沿岸の人口激減
319北筒式と幣舞式
330石鏃の流行
333縄文時代の矢
341石鏃ができるまで
※考察 石刃鏃文化人
350晩期の土器
353幣舞式
354チョマトー遺跡 |
|
|
|
01外観
珍しい!
一つ目信号 |
十勝平野
見事な褶曲が |
向こうの山が見えない
ガスってるかな |
北海道らしい風景
防風林と畑 |
帯広百年記念館
埋蔵文化財センター
1980年着工 |
|
|
03入口展示
十勝石
大正3遺跡
2003年の発掘で、北海道にないといわれていた縄文時代草創期の土器が出土し、北海道縄文時代に草創期が存在したことを立証しました。
|
大正3遺跡
草創期土器出土 |
|
とても深い竪穴住居。寒冷地の特徴。 |
海岸に多数の住居跡が重ならず、同時期に存在したと思える。 |
地床炉、深縁竪穴住居 |
|
大正3遺跡について
|
北海道帯広市大正町にある旧石器時代末~縄紋時代早期の遺跡。帯広市教育委員会による2003年度の調査で発見されたが、オランダ、フローニンゲン大学のピーター・ジョーダン博士らの日欧研究チームの炭素・窒素同位体比法により、1万4000年前頃の土器に付着したコゲに海産物の脂肪酸が含まれていることを発見した。遺跡は十勝平野の内陸部にあり、川を遡上(そじょう)したサケ・マス類を土器で煮炊きしたと考えられる。土器で海産物を煮炊きしたことを確認できた例としては、世界最古とされる。 引用imidas |
|
発掘概要
帯広市街地から南に約15kmの地点、市東部を流れる途別川の左岸にある。
標高97mの段丘縁に大正1〜8遺跡が点在し、これらの遺跡を大正遺跡群と総称する。
2002年(平成14年)から2004年(平成16年)にかけての道路工事に伴い発掘調査が進められた。
中でも2003年(平成15年)に発掘調査が行われた大正3遺跡では、北海道最古となる1万4000年前のものと推定される土器が発見された。
遺跡の出土品は帯広市内の帯広百年記念館に収蔵の上公開されている。
大正3遺跡の土器
2003年(平成15年)秋の発掘調査で、遺跡の北側から口縁部に隆帯が巡らされ、その下に爪形文や刺突文、へら状の押引き文などの文様が付された尖がり底の特異な土器片が数百点出土した。
石器は木葉形の小形の槍先、半月形石器、彫刻刀形石器など5000点以上も出土した。これらは、今まで道内で発見されていなかった縄文時代草創期の遺物で、北海道最古の土器文化である。
また、発掘研究チームが土器に付着した炭化物を分析したところ、海産物成分が見つかった。炭素の年代測定値では、1万4000〜1万4500年前のもので、煮炊きに使った土器では世界最古のものであることが分かった。海産物成分は、川をさかのぼったサケ・マス類の可能性が高いと言われている。 引用wikipedia |
|
参考 十勝毎日新聞 ©マークが見当たらないが、新聞社のものは通常コピー禁止なので重要だが掲載せず、原文をご覧ください。 |
※実物展示は「帯広百年記念館」で、ここは同「埋蔵文化財センター(倉庫・研究施設)」です。次回の「帯広百年記念館」の頁でご覧ください。 |
|
04埋文業務説明文
|
帯広百年記念館埋蔵文化財センター
あいさつ
|
埋文センターの業務
埋蔵文化財・発掘調査
|
整理作業・保存活用
|
|
05十勝の遺跡
|
旧石器3万-11万年前
|
縄文14000-2500年前
|
続縄文2500-1200年前
擦文1200-800年前
|
チャシ16-18c
アイヌ文化期
|
|
|
20大正3遺跡 |
21遺跡の立地と発見経緯
|
大正3遺跡は十勝平野の中央部、十勝川の一支流である途別川の左岸に形成された長さが400m標高98m前後の小規模な段丘の上に立地している。
この道路は一般国道236号(高規格幹線道路)の建設予定区域で実施された遺跡確認調査の際に発見され、帯広市教育委員会によって2003(平成15)年に発掘調査が行われました。
当初は主に8,500~7,000年前の遺物や遺構が発見され、概ね事前に予想された時期の遺跡という理解で落ち着きそうな状況でした。
ところが、発掘調査を進めていくうちにこの地域では見かけない文様の土器片が黄褐色の硬い粘土層から出てきたのです。
この粘土層は、それまで道東で最も古いとされてきた(縄文早期の)暁式(テンネル式)土器が包含される土層の下に堆積し、旧石器時代の遺物を包含する更新世末期の土層として知られていました。つまり、この状況は更新世(1万年以上前)に遡る古い土器の発見を意味するものでした。
※暁式土器とは異なる文様の古い土器。(縄文草創期の発見)
(↓以下は縄文早期の暁式土器の説明)
※テンネルとは、テイネ(ぬれている)+ル(道)=湿原の中を通る道
※暁式土器群とは、十勝平野を中心に拡がった土器群。器種も多様。
※上記「テンネルとは」以下の説明は、縄文早期の暁式土器(群)についての説明のようです。
暁式土器の年代設定については、約1万年~8500年前頃とも、8300~8000年前とも、8500~7000年前とも言われ、時期の定説に各説ある。
参考「暁式土器群」を検索してご覧ください。
(↓以下は暁式土器の分布と、見分け方としての特徴を説明)
※考察 暁式土器は平底で、土器底にホタテガイの圧痕が付きます。
引用「縄文文化の北方適応形態」では
テンネル・暁式土器群を伴う生活構造は、
北海道太平洋沿岸に分布し、オホーツク海沿岸でも美幌町ピラオツマッコウマナイチャシ遺跡と斜里町オライネコタン 3遺跡で出土した。
オライネコタン3遺跡では,集落の存在を示唆する遺構が確認された。枝幸町でもその可能性のある土器は出土した。
などと綴られており、 これは前回の記事で、土器底の帆立貝痕跡を単に土器製作時に回転しやすさのためと、私が勝手に表記したが、
各地出土の暁式土器を決める根拠が、暁式土器は、ホタテ圧痕底が特徴になっていた。
つまり、ホタテ圧痕を付けて作るのが決まりの土器だったことがわかりました。 回転しやすさではないことを訂正いたします。 |
|
|
|
遺跡の立地と土器発見の経緯
|
上に記述 |
|
遺跡の位置
|
遺跡遠景
|
出土状況 |
|
|
|
|
23土器が使われた時代
|
現地での調査が終了した後、加速器質量分析計(AMS)を用いた炭素14年代測定を分析機関に依頼しました。
試料は11点で、いずれも土器片の内側に付着していたおこげ状物質です。
その結果、較正年代で、約14,000年前(較正前の年代では約12,000年前となる)のものと報告され、
北海道で最も古い土器であることが年代測定学的にも確かめられました。 |
|
土器が使われた時代 |
復元前の土器
|
年代測定値一覧表
11試料
|
|
25遺跡の様子
|
(大正3遺跡の)更新世末期の土器やそれに伴う石器類は、遺跡が立地する段丘面北側の縁辺付近から発見されました。
土器は破片で444点見つかっており、10数個分と推定されます。
また、石器類は石屑を含めると1万点以上に及ぶことから、石器づくりも盛んに行われていたようです。
石器の主な材料は黒曜石ですが、この中には石鏃らしき小型の尖頭器も多数含まれており、弓矢が利用されていたことも伺えます。
全体的な出土状況から、遺物は本来砂礫面上に残されていたと考えられ、遺跡は当時水面に近い河原のような場所だったと想像されます。
(※遺物は長年、河原のゴミ捨て場に投げ捨ててあったということかも)
ただし、このような場所は水害に遭遇しやすいなど、定住に適しているとは言い難い立地であるため、一年のうちある時期に限って利用されていた遺跡と理解する方がいいように思われます。そうした暮らしが長年積み重ねられたことによって多量の遺物が残されたと考えられます。
(※貝塚ならぬゴミ塚があったようです) |
|
※考察 十勝の草創期遺跡 を想像する
|
旧石器・縄文草創期の暮らし
※いくつかのキャンプ地を移動巡回しながら暮らす、縄文草創期の暮らしぶりがここでも行われていた。下北半島でも長野県でも同様の生活が行われており、それを旧石器時代人の生活習慣の名残ととらえる人もあるが、私はこの頃の気候変動の激しさ(後出:気候変動グラフ参照)と、それによる食料調達の困難さからこのような移動生活が行われたものと考えています。
宗谷地峡から道内への経路
樺太から南下し、稚内から東へオホーツク海から千島列島方面(後に航路)や、西の利尻・礼文、焼尻・奥尻・津軽半島方面(後に航路)に旅すると、
十勝平野は辺境中の辺境だった。
稚内からの東へオホーツク海岸と、西のサロベツ原野は、両側100km以上に延々と続く不毛な砂丘で、細い河川で飲料水を確保するくらいで何もなく、サハリンから南下してきた人々は、おそらく一気に北海道島の東西端、東は網走、西は石狩平野、に行ったことでしょう。
(それが北海道東周りと、西周りです。のちに海水面が上昇し、陸橋が水没すると、舟の航路となる。)
従って、十勝平野は東西沿岸路からは最遠方。初期土器文化人が西から残雪の日高山脈を踏破し、あるいは船の墓場である襟裳岬を廻っての到達には時間を要しただろう。
草創期人はどのように十勝に来たか
縄文草創期文化がサハリン・樺太から来たとすれば、
宗谷地峡から天塩平野、天塩川を南下朔上し、名寄盆地・上川盆地・富良野盆地を通り、狩勝峠を越えて十勝平野に入ったのか。
そうすると、1万4千年よりもずっと以前から縄文草創期文化が北海道に浸透しており、たまたま、十勝で1.4万年前が見つかったことになる。
それとも、ある時期に突然、道内に広く居住していた数百~千人程度の旧石器人に、草創期の土器文化が伝播したのだろうか。
初期土器文化人の拡散
津軽半島大平山元遺跡では1万6千年前に既に無文土器と石鏃が到達している。これは、稚内から西周り超特急で津軽半島に達したようだ。
無文土器は粗製土器で、それとは別に精製土器(有文土器)があったかもしれないし、有文土器はそれ以降に伝わったのかもしれない。
この土器文化を伝えた人々は、
中国の2万年前の遺跡から発見された土器が1.6万年前に津軽半島に到達する以前に、サハリンから北海道に南下しており、
この文化と接触した旧石器人が縄文草創期文化を形成して土器と石鏃を持ち、有文土器文化を各地に展開していったのかもしれない。
東北地方からの影響
辺境十勝平野内陸部のド真ん中では、既に黒曜石製石鏃での狩猟や土器文化が盛んであり、その土器も津軽半島でも見かける形とよく似ている。
太平山元遺跡以降の土器文化人が、北海道に流入したものと思われる。
北方、シベリアの土器文化人はサハリンから一直線に津軽半島太平山元遺跡を目指したのではなかったようです。
北海道西岸に、サハリンから南下してきた、新しい土器文化人が定着できなかった理由としては、おそらく旧石器人との軋轢などがあったのでしょう。
結論 北海道の縄文文化
サハリンからやって来た旧石器人がどのような経路で十勝平野に入ったかを妄想するのは無意味だが、
土器と弓矢の文化を携えた人々が、北海道でその文化を開花させることができず、津軽地峡を通って東北北部で土器文化を発展展開し、
ここで育った草創期文化人たちが黒曜石を求めて十勝平野に進出し、北海道南部、太平洋側から北海道を縄文化していく活動が始まった。
そして、その後も広大な北海道で、寒冷な旧石器時代的環境や動物群が、温暖化によって北に後退していくにしたがって、南から、温暖気候に適した縄文草創期文化が何千年もかけて北海道全体に広がって行ったことが想像できました。 |
|
|
30 |
31草創期土器の特徴
|
発見された(縄文草創期)土器は丸底で、底の真ん中に突起が一つ付けられています。
復元資料からは、大きく二つのサイズに分けられそうで、
小さいものは片手で握ることが可能なコップサイズ、
大きいものは口径が16~20cm前後、高さが13~20数cmの深鍋サイズと推定されます。
お焦げ状の物質は土器のサイズにかかわらず観察されるため、いずれも煮沸具として使用されていたことが伺えます。
装飾には爪形の刺突文が多用されています。このような土器は一般に爪形文土器と呼ばれています。
ただし、ここでは爪形文が単独で用いられるよりも他の文様と組み合わせて用いられる方が多かったようです。
土器の形や文様からは、縄文時代草創期とされる列島最古相の土器群の系統とみなされます。
※考察 土器の形状
丸底の先端に突起の付いた形状が、当時の使い方に適していたようです。
熱い灰の上に置いて、両手で左右に回しながらうずめていくと、倒れることなく灰層に支えられ、お湯が得られたのでしょうか。
爪形文はディンプル。滑り止め。熱効率をあげる。口縁部の粘土紐の鉢巻きは、割れ止め。まず、口が割れますから。といったところ。
尖底土器は、薪の間に差し込んで支え、煮炊きする。と、蓋がなかったこの頃には、灰や煤が入って凄い汚いお湯ができます。
もし、この湯で顔を洗ったら、汚れます。 |
|
|
|
土器の特徴 |
復元された土器
|
爪形文
ネイルアートのために何がなんやらわからんちん |
|
33遺跡の意義
|
北海道では大正3遺跡での発見までにも幾度か更新世に遡る土器ではないかという報告がありました。しかし、いずれの場合も地学的な根拠づけを可能とする材料に乏しいなど、確実性に欠けるところが多分にありました。その意味で、地学的に判断できる状況で土器が発見されたことは、極めて重要だったと思われます。また、年代測定などの理化学的な分析あるいは技術学的、型式学的な見当が可能な内容であったことも遺跡の評価を高めることに繋がりました。
こうした条件が重なったことで、更新世末期(縄文時代草創期)の土器文化が北海道に存在したことを初めて証明した遺跡として意義づけることが可能になったといえるでしょう。 |
|
35石器 大正3遺跡
|
大正3遺跡の更新世末期(草創期)の土器やそれに伴う石器は、本州系統の文化を担う集団によって残されたのではないかと推測されています。
一方、北海道ではこの時期に入っても依然旧石器文化が展開し、本州とは一線を画するような様相であることも知られています。
これら新旧二つの文化の関係性については、今後の重要な検討課題の一つといえますが、どのような議論が出るにせよ、
更新世から完新世に移行する時期の北海道の先史文化を検討するうえで不可避な情報を大正3遺跡がもたらしたことは間違いないと思われます。 |
※考察 北海道の旧石器人と縄文人
|
北海道に14000年前の縄文草創期遺跡が見つかったので、北海道の縄文時代の開始が全て1万4000年前まで遡ったという意味ではなかった。北海道年表の中には一挙に14000年前に縄文草創期と訂正したものもあった。
今回の大正3遺跡の草創期遺跡の遺物は、東北地方から流入した青森縄文草創期人の遺跡だったようです。
在地の人々は相変わらず旧石器人で、この二極化は6000年前頃まで続き、徐々に縄文化した人々が増えていったようです。
サハリンからの文化はサロベツ砂漠を越えて石狩平野に、そこから更に海岸をまわって渡島半島から津軽半島に到達し、そこで花開いた文化人が北海道に渡り、在地人と争いながら新しい文化をもたらしていったようです。
北海道には多くて〇千人ほどの原住民が散在し、接触や文化の伝播にも時間がかかったようです。 |
引用アイヌ史・アイヌ学 |
引用アイヌ民族とオホーツク人 |
|
|
37科学分析
|
最近、同位体分析や脂肪酸分析など、煮炊きに使われた材料を解明することで土器の出現や普及の理由を探ろうとする研究がいくつかのグループによって行われています。
大正3遺跡の土器については、海洋性の水生生物おそらくは遡河性の魚類が調理されていた可能性が高く、魚を煮炊きした証拠が残る世界最古の器としても話題になりました。
これらは日本列島を含むユーラシア北東部に置ける土器制作の開始や普及が水産資源の本格的な開発にかかわっていたという仮説を支持する結果として注目されています。大正3遺跡で発見された更新世の土器は、このような人類史的な視座の研究にも大きく寄与しています。 |
|
科学分析
|
オランダチームが発掘した遺跡と何かの分析 |
|
|
|
|
オランダチームのかかわった遺跡
|
|
同位体分析と脂肪酸分析のようです
|
|
|
|
|
40土器で煮炊き世界最古
|
帯広市大正遺跡群「大正3」遺跡で発掘された約1万4千年前の縄文土器片から、海産物を煮炊きした焦げかすが見つかったと、
日欧研究チームが10日付(2013.4.11記事)※の英科学雑誌ネイチャー電子版に発表した。(※これにより、日本の考古学会が認めざるを得なかったのだ。)
土器を煮炊きに使った証拠としては世界最古で、海産物は川を遡ったサケ・マス類の可能性があるという。
この研究はオランダ・フローニンゲン大のピーター・ジョーダン博士らが、土器は狩猟採集時代にアジアから欧州に伝わったとみて行っている調査の一環。
中国江西省の洞窟遺跡では、世界最古の2万~1万9千年前の土器片が見つかっている。
チームのメンバーで新潟県立歴史博物館の西田泰民専門研究員は「縄文土器はドングリの煮炊きに使われたイメージが強いが、海産物も多く料理されていたらしいことは意外だった」と話している。研究成果は土器の普及過程や当時の食生活を探る手がかりになると期待されいる。
チームは大正3遺跡のほか、久保寺南(新潟県十日町市)や星光山荘B(長野県信濃町)、鳥浜貝塚(福井県若狭町)、三角山1遺跡(鹿児島県中種子町)など13遺跡の縄文土器片約100個について、煮炊きで焦げたとみられるかすを分析した。
炭素や窒素の同位体を調べた結果、大正3のカスからは、海産物の脂肪酸が見つかった。
また、メンバーで若狭民俗資料館の鯵本真友美主任によると
、鳥浜の1万2500~1万1500年前のかすからは川や湖、海の生物のほか、シカのような草食動物の脂肪酸が見つかった。
大正3遺跡は高規格幹線道路「帯広広尾自動車道」建設の事前調査として、帯広市教委が2002~04年に発掘調査した帯広市大正地区の大正遺跡群の一つ。03年7~11月に発掘を行い、土器片444点、石器約9千点が出土した。
土器片は爪跡が着いた爪形文が特徴で、その後の放射性炭素年代測定により、道内最古の1万4千年前のものと確認された。復元土器は帯広百年記念館で展示されている。
食生活を知る重要発見
大正遺跡群の発掘調査に関わった北沢実・帯広百年記念館館長の話
遺跡が十勝川の支流、途別川沿いにあるため、当時の人々が川を遡ったサケ・マス類を食べたかもしれないと漠然と考えていたが、
その可能性が実際に示されたのは大きな成果だ。
約1万4千年前は温暖化した時代で、人々が本州から渡ってきたのではないか。当時の暮らしぶりはよくわかっておらず、食生活を知る重要な知見が得られた。
※北海道草創期の認定
2003年の発掘成果を2013年にネイチャーに発表した。 私の最初の北海道取材旅行が2013年10月でした。考古学会はまだ、認めていなかったようで、それ以降数年して、北海道縄文草創期の設定が発表されたと、うろ覚えしています。
2011年度 北海道考古学会 研究大会で、縄文草創期が発表された。
|
|
|
|
100旧石器時代
|
日本の旧石器時代は、一般には土器の出現以前の時代とされます。現在のところ、日本列島で確実な人類活動の痕跡(遺跡)が見つかるのは、およそ4万年前以降(後期旧石器時代)のことです。この時代は、最終氷期(約8万~1万年前)と呼ばれる寒冷な時期に相当し、とくに2万5000年前頃からは、もっとも寒冷な時期(最寒冷期)に入りました。
北海道(十勝)での人類の足跡は、約3万年前からみられるようになり、2万年前以降には多くの遺跡が残されるようになります。
最寒冷期の十勝は、年平均気温が現在よりも7~9℃低かったとされています。日高山脈には氷河が発達、平野部はハイマツやグイマツ、エゾマツなどのまばらな林と草原が広がっており、マンモスやステップバイソン、トナカイなど草原性の大・中型動物群の生息に適した環境だったと考えられます。
この時期に北海道で生活していた人びとは、海水面の低下で陸続きになっていたシベリア方面から渡って来たと推測されます。当時の人びとは定住せず、群れで移動する大・中型動物の狩りをしながら生活していたものと考えられます。
1万5000年前以降は急激な温暖化が地球規模ですすみ、地形や植生・動物相に大きな変化をもたらせました。この温暖化を背景に、十勝に土器文化をもった集団が進出し、旧石器時代の終わりを迎えたようです。 引用「発掘された十勝の遺跡」 |
|
101
最終氷期の動物分布
生物分布境界線にはそのほかにもある。
|
|
|
ブラキストン線以北の動物
化石マンモスの南限 |
最終氷期
ブラキストン線以南の動物
|
|
細石刃の広がり
4.2万年前カラ・ボム、ウスチ・カラコルム
2.0万年前バイカル湖周辺
2.0万年前海雲台(朝鮮半島)
2.0万年前柏台1(石狩平野)
1.0万年前アラスカへ |
|
|
細石刃の取付
|
※考察 細石刃の伝播
|
カラ・ボム遺跡は、
4万~4.4万年前のロシア南部のアルタイ山地北麓の標高 1,120m に立地する開地遺跡で、
中期旧石器時代から IUP 期の文化層が連続的に検出された多層遺跡で、そこから発見された細石刃が、
35000~28000年前のバイカル湖周辺遺跡に到達し、クラヌスイ・ヤル遺跡、クールラ遺跡は20000年前の遺跡。 tetsuyuki-fukumoto.art.coocan.jp
20000年前には、黄河文化センターを経て朝鮮半島に到達し、
20000年前に北海道石狩平野の柏台1遺跡に到達していた。 ※20000年前は最終氷期最寒冷期。(2.4万年前斜里岳付近の遺跡に到達)
20000年前黄河文化センターから朝鮮半島経由でナイフ形石器文化が流入し、杉久保・東山型石器を駆逐しながら南から茂呂・国府型ナイフ文化が拡大する。
その後細石刃の流入については諸説ある。2万年前に伝わっていた北海道では製作技術が分化発展し、様々な型式が進化していた。
13400年前、朝鮮半島と、北海道から細石刃分化が、本州島へ、流入した。
※本来細石刃は大形動物狩猟用の道具で、しかも、黒曜石原産地から遠く離れた地域へ移動するために、材料を節約するための技術である。
従って、温暖化に向かった列島では、たちまち消滅する技術だったことは周知である。 |
|
|
110石器 |
|
【旧石器時代の調査】恵庭火山灰の下層から9,700点ほどの黒曜石製の石器やこれを作ったときの剥片(カケラ)などが出土しました。石器と同じ地層から見つかった焼土の放射性炭素年代測定から、この遺跡はおよそ3万年前のものと考えています。この年代値は、今のところ北海道では最古のものです。
出土した石器は、音更川の下流で採集したと思われる握りこぶし大の黒曜石の転礫を打ち割って作られた剥片が素材で、ほとんど二次加工が施されないことが大きな特徴となっています(写真3)。剥片が接合して元の状態まで復元できたものもあり、当時の石器製作技術も明らかとなりました。
引用「発掘された十勝の遺跡」
帯広市若葉の森遺跡から出土した石器群は、今のところ、北海道で最も古いグループのもので、放射性炭素年代測定では約3万年前とされています。
この石器群は、形の整っていない小型の剥片に簡単な加工が施された石器を特徴としています。
同じタイプの石器群は、遠軽町白滝、石狩低地帯、渡島半島など道内各地に広がりを見せます。この特徴は、ほぼ同じ年代の本州東北~北陸地方に類例があることから、本州島からの集団によってもたらされた可能性があります。
若葉の森遺跡の発掘調査では、恵庭a火山灰(約2万年前降下)の下層から9,700点ほどの黒曜石製の石器やこれを作ったときの剥片(カケラ)などが出土しました。石器と同じ地層から見つかった焼土の放射性炭素年代が2万8000~3万2000年前と測定されました。 出土した石器の特徴は、音更川の下流で採集したと思われる握りこぶし大の黒曜石の円礫を打ち割って小型の石器を作っていることです。剥片が接合して元の礫の状態まで復元できたものもあり、当時の石器作りの方法が明らかとなりました。
この遺跡を残した人たちは、採集した黒曜石の原石をそのまま遺跡に持ち込んで、石器作りをしていたのです。 |
|
|
若葉の森遺跡 |
|
錐形石器 |
使用された剥片 |
|
剥片接合資料 |
石割用敲き石 |
|
|
|
|
※若葉の森遺跡と 次項 暁遺跡の間に帯広市 川西C遺跡 約2万5000年前があります。
「発掘された十勝の遺跡」の「マンモスがいたころ」を参照してください。
|
113暁遺跡 20,000-16,000 北海道帯広市西8条南12丁目1
|
引用「帯広の遺跡」
■所在地:帯広市西8・9条南12・13丁目周辺
■遺跡の概要:1961~89年の間に6次にわたる発掘調査が実施されています。初期の調査では、この地域で最古と考えられた底にホタテ貝のあとが付くことを特徴とする土器(約9千年前)が出土し「暁式土器」と命名されました。この土器と細石刃が一緒に出土したと報じられたこともあり、全国的に注目されました。
近年の調査では、土器が出土した地層よりも下の地層から旧石器時代後半期(約1万6千年前)の遺物が大量に出土し、土器と細石刃は時期を異にすることがわかりました。 出土品は帯広市指定文化財に指定され、主要な資料は百年記念館で展示・公開しています。
【旧石器時代の調査】後期旧石器時代後半期(約1万6千年前)に特徴的な細石刃(さいせきじん)と呼ばれる石器が8千点以上も出土しています。当時、この遺跡では石器製作が集中的に行われていたものと考えられます。出土した石器類は、質・量とも全国的に見ても豊富で、当時の石器製作技術や広域での石材獲得活動のようすなどを知る上で貴重な遺跡として評価されています。
【縄文時代の調査】約9千年前の「暁式土器」期を主体に、約2千500年前の縄文時代晩期までの遺物が出土しています。「暁式土器」期では、第4地点と呼ばれる遺跡西側の調査地点から竪穴式住居2棟、墓と思われる土坑1基などの遺構が出土し、集落が営まれていたことがうかがわれます。 |
|
引用帯広市掲示板
この遺跡は、昭和34年に地元の中学生によって発見されました。
昭和36年には学術発掘が行われ、旧石器時代の細石刃石器群(約1万5千年前)と縄文時代早期(約8千年前)の土器(のちに暁式土器と命名)が出土し、学界から注目されるようになりました。
昭和58年〜平成元年には開発工事に先立つ緊急発掘が行われ、旧石器時代は石器製作の場であり、縄文時代早期には集落が営まれていたことが明らかになりました。
遺跡は、「周知の埋蔵文化財包蔵地」として保存・保護の対象となっています。また、出土した遺物は帯広市文化財に指定しています。
※その後の調査では、細石刃石器群は約1万6千年前、縄文時代早期は約9千年前とされています。 |
|
引用「発掘された十勝の遺跡」 ◆細石刃石器群~帯広市暁遺跡
帯広市暁遺跡は、多量の細石刃やこれの製作に関連する石器が多く出土することで、全国的にも著名な遺跡です。
細石刃は、幅数㎜~1㎝前後の細長いカミソリの刃のような石器で、これを複数、骨などで作った軸の側縁に埋め込んで槍などに使われました。
この石器は刃こぼれが生じても、その部分だけを新しい細石刃に取り替えて使うことができるという、たいへん効率的な道具でした。
起源はシベリア方面に求められるようで、およそ2万4000年前に北海道に出現(※知床半島斜里岳にある越川遺跡らしい)し、2万年前以降には道内各地で細石刃を出土する遺跡が急増します。さらに、この数千年後には本州へ波及したようです。
なお、細石刃を出土する遺跡・地点は道内で約300、十勝では46ヵ所が確認されています。
暁遺跡の細石刃は、幅が8㎜~12㎜前後の幅広タイプと5㎜前後の細身のタイプがあり、前者のほとんどは帯広から直線距離で100㎞以上も離れた、遠軽町白滝から産出する黒曜石を素材としています。
なお、次の時期に現れる大型の両面調整石器も多くは白滝産の黒曜石が用いられています。白滝産地の黒曜石は良質で量も豊富です。このため、旧石器時代には道内はもとよりサハリンの遺跡まで運ばれていました。
このことは、製作する石器に合わせて石材の産地が選定されていることや、石材の広域流通ネットワークの確立がうかがわれます。 |
暁遺跡
|
彫器
|
掻器
|
掻器
|
掻器
|
|
|
細石刃核 |
細石刃 |
※北海道の細石刃文化は旧石器時代です。 |
|
|
|
115落合遺跡 15,000-13,000 北海道帯広市西13条南27丁目4-14
|
落合遺跡は1955 (昭和30)年頃から、土器や石が出土する遺跡として知られていた。本格的な発掘調査は1991 (平成3)年に行われ、
先土器時代終末頃(1万年前)と縄文時代、前期(約5千年前)、中期(約4千年前)の石作りをした跡や、野外の炉跡などが見つかった。この遺跡は崖に面した平坦なところに立地しており、見晴らしが良く、近くに湧水がある、大変住みやすい環境にあったため、長期間人が住み続けたものと考えられる。
引用「北海道島における黒曜石製荒屋型彫器の検討」
この遺跡からは荒屋型彫器が出土しているようです。 |
落合遺跡 |
|
彫器
荒屋型彫器 |
参考資料
別府町出土 |
石斧
刃の作り直しで生じた破片を接合しています |
|
|
116
|
掻器
|
石錐
|
短刀形の石器
両面調整石器
|
参考資料
別府町出土
|
|
117舟底形石器(船底形石器)
|
舟底形石器は、細石刃を剥ぎ取るための石核。細長い船底形で甲板状の平坦面から連続して細石刃を剥ぎとった痕跡が一端に残る。引用「歴史1」 |
舟底形石器制作過程
|
舟底形石器
製作途中
|
舟底形石器(母型) |
舟底形石器
微小な石刃の剥ぎ取り後
|
|
118稲田1遺跡 15,000-13,000 北海道帯広市稲田町5ほか
|
帯広市西14条南40丁目付近に所在。1996~2000の調査で、約2万5千年前の石刃石器群や顔料が出土。縄文時代は早期~後期の遺構・遺物が出土。
引用「発掘された十勝の遺跡」 |
|
石刃
|
掻器
|
彫器
|
有舌尖頭器 |
|
|
石刃核
|
彫器
稲田1遺跡彫器 |
両面調整石器
|
|
|
|
|
200縄文時代
|
201旧石器から縄文へ
|
|
旧石器から縄文へ |
|
過去の驚愕の気候変動と前期以降の安定。しかし、これでも人類には不安定なのだ。 |
4・5千年も続いた気候激変の草創期を経て人類は生存技術を高めたようだ。 |
旧石器時代の気候
|
旧石器時代の激しい気候変動は、数十年で温帯が寒帯に、寒帯が温帯になるような状態でした。
沖縄が北海道になるような変動 |
草創期
|
草創期の気候変動は氷河期の変動以上の激しさで、動物は一定の地域にとどまることができず、北へ南へと移動回遊を強いられたことでしょう。 |
早期以降の気候
|
気候が次第に安定し、食料資源の確保も容易となり、定住した生活が可能となった。、 |
※考察 旧石器・縄文草創期人の移動・回遊
|
旧石器時代から縄文草創期の人々が、定住せず、移動生活を続けたのは、この激しい気候変動にあるといえる。
食糧動物はこの変動を避けるために回遊する。人も動物も季節に応じた食用植物の確保をはかる。
寒冷→温暖→灼熱の環境変化と、湿潤→温暖→乾燥。一定の環境や食糧を確保するためには移動を余儀なくされたのだ。
西アジアでは農耕・牧畜が始まったというが、列島では気候を安定させられるほどの大陸もなく、気候変動は直接環境の変化となった。 |
|
203石器を使う
|
槍の先につける
|
獲物を解体する
|
角を削る
|
木を切る |
皮をなめす
|
|
204人々の暮らし
|
採集する
|
テントを張る
|
磨り潰す
|
斧をみがく |
煮炊きする
|
|
|
縄文土器
|
引用「縄文土器ギャラリー 帯広百年記念館」
北海道で最古の土器は、平成15年に帯広市大正3遺跡の発掘調査で出土した約1万4000年前のものです。
なお、縄文時代の終末は、北海道では『続縄文時代』という縄文時代と同様の文化が営まれ続きました。 |
|
草創期16,000-10,000
|
210草創期 約14,000年前 草創期の土器
|
引用「縄文土器ギャラリー 帯広百年記念館」
北海道内では帯広市大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最古とされています。
大正3遺跡の土器(下写真)は、底が丸く、先端に乳房状の突起がつく形で、“爪形文”と呼ばれる爪でつけた文様に特徴がある土器群で、
本州の東北地方から中部地方にかけての、この時期の土器群と共通した特徴をもっています。 |
|
|
早期10,000-7,000
|
220早期前半 約10,000-8,000年前 暁式土器
|
引用「縄文土器ギャラリー 帯広百年記念館」
約1万年~8500年前に道東地域を中心「暁式土器」と呼ばれる平底の土器が作られました。
土器の底面に「ホタテ貝」のあとが明瞭に残されたものがあるのも、この土器の特徴です。
「暁式」という型式名は、1961年に帯広市暁遺跡から見つかった土器を指標とし、明石博志氏によって命名されました。
この土器を出土する十勝管内のおもな遺跡は、浦幌町平和・下頃辺、池田町池田3、帯広市暁・八千代A・大正8の各遺跡があり、
とくに八千代A遺跡ではこの土器を伴う大集落遺跡が発掘調査されました。(105軒の竪穴住居跡、土坑121基)
このタイプの初期(9千年より前)の土器には文様はほとんど無く、表面を縦方向に植物質の道具で擦ったような条痕が付く程度です。
新しいタイプの土器はTa-d火山灰(約9000年前降下)より上層から出土するものが多く、絡条体と呼ばれる植物質の軸に撚り糸を巻きつけた道具による文様で土器を装飾するようになります。 |
|
221早期前半の土器
|
223早期前半(下層) Ta-d火山灰は樽前火山約9000年前の噴出物
|
225早期前半(上層) 約10,000-8,00年前 新暁式土器
|
Ta-d火山灰の上層から出土した「暁式土器」の新しいグループ。(9千年以後 9000-8000)
文様の無いもの、撚糸を軸に巻きつけたものを押し付けたもの絡条体圧痕、円形刺突がつけられたものなどがある。
※樽前火山の噴火で一帯が無人となった後、新たな土器文化が始まった。どちらも底面にホタテ貝の文様があるので、new typeの暁式土器とされる。
※この土器はホタテ貝殻の上で作ってそのまま乾かし、そのまま焼いて、そのまま使ったようだ。でなければ、土器底の貝殻痕が潰れたり、摩耗しているはず。こんな土器って初めて見た。葉っぱの上で作って、そのまま焼いたのは見たが、貝殻のままとはね。 |
ホタテガイの殻 参考資料
|
ホタテガイはイタヤガイ科の二枚貝で、膨らみが強い方が右殻。弱い方が左殻である。水深10m~30mの砂礫底に生息する。
自然分布域は、カムチャツカ、サハリンから東北あたりまで。 |
|
縄文早期前半の土器
Ta-d上層 |
|
円形刺突文 |
ホタテ貝の土器底面 |
ホタテガイの殻 |
ホタテガイの殻 |
円形刺突文 |
北海道東部の縄文時代前期末から中期初頭を特徴づける平底押型文土器とともに出土した土器。器形は平底押型文土器と共通する。 |
絡条体圧痕 |
棒に縄を巻きつけた物を施文具として、
土器のまわりに転がして圧痕したもの |
|
|
|
230早期前半 |
231早期前半 約10,000-8,00年前
|
233早期前半中葉の土器 石刃鏃文化の土器 8000~7000年前 石刃鏃文化 土器 年前 女満別式土器 浦幌式土器
|
ロシア極東地域から北海道東北部に広がった「石刃鏃文化」の土器。
口縁や底面が隅丸方形のものも多い。 平底。
石刃鏃文化の土器には、文様が無いもの(無文土器)と、撚糸を軸に巻きつけたものを押し付けた文様(撚糸文土器)のものとがある。 |
|
「石刃鏃文化」[ 女満別式(大陸系) 型押文、 浦幌式(道内系) 絡条体圧痕文]の二種類がある。
は8500年~8000年前頃に、北海道東北部に見られる“石刃鏃”という特殊な鏃に特徴をもつ文化で、アムール川流域と関係があると考えられています。
このステージの土器は
「女満別式」と呼ばれる型押文に特徴がある土器(大陸系)
「浦幌式」と呼ばれる絡条体圧痕文が特徴の土器(道内系)などが、型式設定されています。
十勝では帯広市大正3・7、浦幌町共栄B・新吉野台細石器遺跡などが著名です。 引用縄文土器ギャラリー帯広百年記念館 |
|
235早期前半中葉 東釧路Ⅰ式土器 東釧路Ⅰ式土器
|
「東釧路Ⅰ式」と呼ばれる無文・条痕文系の平底土器。
筒形で。つくりは薄手。文様はほとんど付けられず、木片状の工具でこすった跡が残される特徴がある。(八千代A遺跡)
「東釧路Ⅰ式土器」
は筒形・薄手で、土器の表面に繊維質の工具で横方向に擦ったあとが残された特徴をもつグループです。同じような特徴の土器は北海道西南部にも分布します。十勝でこの土器がまとまって出土した遺跡には、帯広市八千代A、清水町上清水4、豊頃町高木1、大樹町下大樹遺跡などがあります。 |
|
八千代A遺跡 9000年前 帯広市八千代町基線196
9千年前頃に営まれた道内最古級の大規模縄文集落遺跡で、帯広市教育委員会によって昭和60〜63年に発掘調査が行われました。
指定品は、竪穴住居跡の床付近からの出土品を主とする土器・土製品39点、石器・石製品541点、計580点で、この中には縄文文化最古級の動物形土製品や石製装飾品なども含まれています。 八千代A遺跡
八千代A遺跡
帯広市市街地から約30km離れた標高280mの台地で見つかった縄文時代早期の大きな集落跡です。
約13,000㎡を発掘調査して、竪穴建物跡105軒、土坑121などが見つかりました。
住居・竪穴建物の床や炉の跡からは、焼け焦げた、クルミ・ドングリ・キハダの実などが出土しています。
約1万6000年前氷河期が終り、地球温暖化で十勝平野にミズナラ、カシワ・オニグルミなど、どんぐりのなる木が広がり、それらのどんぐりを縄文人が食べていたと考えられます。
遺跡から出土した暁式土器は、器の底にホタテの貝殻を押し付けた跡が見られるものが多いのが特徴です。
八千代A遺跡 |
|
|
240早期後半 約8,000-7,000年前 |
241早期後半の土器 東釧路Ⅱ式土器 東釧路Ⅱ式土器
|
「東釧路Ⅱ式」と呼ばれるグループ。
この段階になって、土器の表面に縄を回転させてつけた文様(縄文)が付けられる。
引用「縄文土器ギャラリー 帯広百年記念館」
およそ8000年前になると、
「東釧路Ⅱ式」と呼ばれる縄文が多用された土器が道内各地に分布するようになります。
この土器は縄文のほかに、押引き文や貼付け文、刺突文など多様な文様が組み合わさるのが特徴です。
このグループの土器は帯広市大正8遺跡からまとまって出土しました。
Ⅱ式の形や文様が変化して「東釧路Ⅲ式土器」へ移行した。 東釧路Ⅲ式土器
東釧路Ⅲ式土器は、絡条体圧痕文・組紐圧痕文・撚糸文が帯状に複合して施文される縄文土器で、口縁が直立に近く立つ、もしくは大きく外反し底面が外に大きく張りだす。例外なく底部の張りだしの所に短い撚糸文を並列してめぐらす特徴がある。
東釧路Ⅲ式は縄文時代早期の終わり頃、北海道内に広く分布した土器です。鉢型の土器で底が平らでクの字状に張り出す特徴を持っています。
東釧路Ⅲ式土器は、縄・組紐・絡状体の圧痕紋・斜行縄文・羽状縄文等が施され、貼付や貼付帯が加えられる。
さらに表面に細い粘土ヒモをいく段にも貼り付け、その間に細かな縄文を施文した「中茶路(なかちゃろ)式」土器へと変遷します。
東釧路Ⅳ式土器は体部の縄文が羽状に施文されることに特徴があります。
なお、「東釧路式」の名称は釧路市東釧路貝塚でこのタイプの土器が層位的にまとまって出土したことに由来しています。
引用縄文土器ギャラリー帯広百年記念館 |
|
|
250早期後半 約8,000-7,000年前 |
251早期後半
|
253 早期後半大正8遺跡中茶路式土器 8000-7000 中茶路式土器
|
「中茶路式」と呼ばれるグループ。
細い粘土紐の貼付の間に繊細な縄文が付けられることに特徴がある。(大正8遺跡)
コッタロ式土器、中茶路式土器は、東釧路Ⅲ式土器に文様、器型とも非常に類似しており、帯状に文様帯が区別されていたものが、桶のたがのような微隆起線を貼付することによって区分するようになり、そしてさらに文様が複雑な構成となる。
コッタロ式土器 縄文・撚糸文を器面に施文してから、微隆起線文を貼付する土器、
中茶路式 微隆起線を最初に貼付した後に撚糸文・絡条体圧痕文を施文するのが中茶路式で、コッタロ式土器が古いとされている。
引用「早期の土器」札幌市中央図書館
中茶路式は、細い粘土紐の貼り付けの間に繊細な縄文が付けられることに特徴がある。
表面に細い粘土ヒモをいく段にも貼り付け、その間に細かな縄文を施文した
引用縄文時代の土器
土器に縄目文様が一般化するのは、早期後半になってからです。
このころ、東釧路Ⅲ式・コッタロ式・中茶路式などと呼ばれる縄文・絡条体圧痕文・組紐圧痕文などが施された平底土器が北海道全域に広がりました。
この時期の竪穴住居跡が、大麻6遺跡で12軒見つかっています。大型のものは直径が8~9mの隅丸方形または多角形で、床面に10本前後の柱穴と中央部に炉穴、壁端に貯蔵穴様のピットをもち、壁際に幅1m程のベンチや周溝をもつものです。
全道的には、集落遺跡として函館市中野B遺跡で600軒を超える貝殻文土器群期の住居跡が見つかっています。
こうしたことから、既に、早期中葉には、定住化が進んでいたことが明らかになっています。
中茶路式土器と下北半島との関り
引用「約1万年前にしてこの美しさ」六ケ所村郷土館
縄文時代早期の終わりころの約7000 年前になると、気候の温暖化による海面の上昇がさらに進みました。貝や魚がたくさん獲れるようになり、表舘遺跡のような集落が、海辺に形成され定住化が進みました。この表舘Ⅹ群土器が出土した表舘遺跡からは、日本でも有数の大きさを誇る大型住居も見つかっています。
この表館Ⅹ群土器には、縄ひもを波形に押しつけた押圧文が見られます。この文様は、同じ遺跡の中茶路式土器(北海道産)に多く見られ、北海道との交易・交流があったことがわかります。表館Ⅹ群土器に見られるこの押圧文の波の表現は、荒れ狂う津軽海峡を越えての縄文人の交流があったことを物語っています。 |
中茶路式土器
|
255 早期後半大正7遺跡石刃鏃文化期 8000-7000
|
「中茶路式」と呼ばれるグループ。
この3点の土器は写真のようにまとまって住居跡からつぶれた状態で出土したことから、セットと考えられる。
繊細な縄文と細い粘土紐の貼り付けに特徴がある。 |
大正7遺跡と石刃鏃文化 8500~8000年前
|
引用「発掘された十勝の遺跡」
石刃鏃文化の進出
およそ8500年前、「石刃鏃」という特殊な矢じりに特徴をもつ集団が、北海道東北部に出現しました。石刃鏃は中国東北部からロシア極東地域に分布することが知られており、当時同じような環境にあった道東地域へサハリン経由で広がったものと考えられます。
十勝では、浦幌町共栄B遺跡、帯広市大正3・7遺跡からこの文化集団の集落跡が発掘されています。
大正7遺跡の発掘調査では住居跡の内外から1000点を超す石刃やこれを加工して作られた石器が出土しました。
この遺跡では石核や剥片類も多く出土したことから、石刃製作が盛んに行われていたようです。この遺跡で作られた黒曜石製石器は、十勝産のほかに置戸産地のものが多く使われていました。
十勝地域は、暁式土器文化以降、石刃鏃文化に至るまでは、北方要素の強い文化圏に含まれていたと考えられ(1万~8千年前)
道西南部地域と共通した土器文化に含まれるのは、温暖化が進んだ8千年前以降、土器の表面に縄文がつけられるようになってからのことです。
※石刃鏃文化には良質で大きな黒曜石が必要だったため、石刃鏃文化人たちは、宗谷岬から東側の白滝黒曜石鉱山を目指したようです。
このため、石刃鏃石器群・土器群は道東にだけ広まった文化でした。
※縄文海進が始まると、温暖化のために北方系民族は北に後退し、代わって青森から本州系縄文人が進出したようです。 |
中茶路式土器
|
|
260石刃鏃文化 8300年前 |
260大正8遺跡の石器 8,300年前 石刃鏃文化 |
261
|
この一群は、両側縁が並行する、形の整った石刃で主に構成されています。
石刃は鏃の材料にも用いられますが、このような例(石刃が矢尻に使われるということ)は、日本では他に見られないことから、
石刃鏃文化(せきじんぞくぶんか)と名付けられました。
同様の文化は完新世の初め頃の、シベリア(東北アジア一帯)に広がっていました。
日本列島では北海道東部が石刃鏃文化圏内に入っていたようです。 |
石刃鏃文化の石器群
|
263大正8遺跡 7,000年前
|
掻器
|
削器
|
石斧
|
石斧
|
|
石錐
|
つまみ付きナイフ |
すり石
|
縄文前期文化のママさんが、磨り石でたたいて柔らかくした皮革を、
つまみ付きナイフで裁断し、石錐で孔をあけ、ナイフで切り出した細紐で綴って衣服を作り、最後に歯で噛んで柔らかくしたのでしょうね。 |
|
|
270早期後半の土器 8,00-7,00年前 稲田1遺跡 東釧路Ⅳ式土器
縄文早期終末期の土器
|
「東釧路Ⅳ式」と呼ばれるグループ。
底が丸く、表面には太い縄を回転させたり、押し付けたりした文様が付けられているのが特徴。
また、体部の縄文が羽状に施文されることに特徴があります。 年代測定では、約6,500年前という値が出された。(大正8遺跡)
引用「早期の土器」札幌市中央図書館
東釧路Ⅳ式土器は、縄文時代早期の最末期に位置する。
羽状の撚糸文(不整撚糸文)・縄文が施文された鉢型が特徴である。
口縁の径が大きく、底の形が丸底に近く口縁の大きさに比較して底部が小さい鉢型の器型を呈する。 |
|
280 |
281早期末葉 チョマトー遺跡 7000年前
|
引用「帯広の遺跡」
チョマトー遺跡は ■所在地:帯広市西15・16条北1丁目
■遺跡の概要:チョマトー遺跡は、帯広川の流路移動に伴って形成された三日月湖(通称:チョマトー沼)の南岸に立地する縄文時代の遺跡で、
平成17年度に市道改良工事に伴う発掘調査が実施されました。
遺物はTa-c火山灰直上から晩期(約2500年前、幣舞式相当)の土器、
この下位の黒色土からは縄文時代後期(約3500年前、北筒式相当)、
中期(4500年前、モコト式相当)、
早期終末(約7千年前、東釧路Ⅳ式相当)の土器やこれに伴う石器など遺物2万点余と、土坑・焼土などの遺構が出土しました。
|
早期末葉の土器は
|
「東釧路Ⅳ式」と「綱文土器」の過渡的な特徴をもつ土器。
底が小さく、表面には縄を押し付けた文様がつけられているのが特徴。
参考資料
東釧路Ⅳ式は、丸底、表面には太い縄を回転させたり、押し付けたりした文様や、体部の縄文が羽状に施文されることに特徴があります。
綱文土器は、縄文時代前期前葉の土器。縄文の縄目が太いことから「綱文式」という型式名がつけられた。底部が尖底になること、胎土に繊維を多く含むことも特徴である。
これらに対して、中茶路式は繊細な縄文が施されている、真逆の土器。 |
|
|
前期7000-5500
|
283前期前半 7,000-6,000年前 大正8遺跡
|
土偶 大正8遺跡
大正8遺跡から出土した土偶は、縄文時代前期前半もしくは少し前くらいのものと思われ、
全体に赤い顔料が塗られていと考えられています。
埋文にも本館にも展示はありません。上のリンクからご覧ください。
|
|
綱文土器
|
|
310前期後半~中期前半 約6,000-5,000年前
宮本遺跡 北海道帯広市西20条南6丁目 6000~4000年前(縄文前期~中期)
|
宮本遺跡は、おもに6千〜4千年前頃(縄文時代前期〜中期)に利用されていた遺跡です。昭和58〜60年に自由が丘団地を造成するときと、平成5〜6年に帯広国際センター棟を建設するときに発掘調査が行われ、たくさんの土器・石器類と竪穴住居跡、貯蔵穴、落し穴などが見つかりました。
落し穴は長さ3m、幅1m、深さ1m前後の細長い形で、単独または列状に並んで19基ありました。シカをとるために設置されたものと考えられています。
またこの遺跡では、木の実などをすりつぶす道具(すり石)もたくさん見つかりました。植物質の食料が大量に加工されていたこともうかがえます。
引用 |
|
311宮本式土器 宮本式土器
|
「宮本式」と呼ばれるグループ。
口縁部に沈線が施文される。体部の縄文はひし形構成。
再び平底になり、表面には縄文が付けられ、粘土の貼り付けなどが施されたものがある。(宮本遺跡)
引用「縄文土器ギャラリー」
6000年前頃(前期後半)になると、再び土器の底は平底となり筒形に近いかたちになります。このグループの土器は帯広市宮本遺跡の発掘調査でまとまって出土したことから「宮本式」という型式名が設定されています。 |
|
313中期5500-4500 中期の土器
|
モコト式土器
中期になると、土器に突起が付けられたり、粘土ヒモの貼付けによって表面が装飾された「モコト式」土器が作られるようになります。
その後、「北筒(ほくとう)式」と呼ばれる筒形器形で円形刺突文に特徴があるグループが広がりますが、良好な復元個体は当市にはありません。
北筒式の前段階として、網走市のモコト遺跡から出土したモコト式土器がある。-北海道道東部の土器で、胎土に繊維を多く含み、地文は無節もしくは単節の縄文が付される。文様は口縁部に集中し、押し引き文や刺突文、沈線文などが多い。また垂直に粘土帯を貼りつけ、その上にも押し引き文や刺突文を加える。器形は円筒形で平底となる。 引用中期の土器 |
|
315縄文中期前半 約6,000-5,000年前 西遺跡 縄文中期前半、西16条南1丁目、(縄文後期、縄文晩期、続縄文時代、擦文時代の遺跡)
|
317中期後半~後期前半 約5,000-3,500年前
|
|
318後期4500-3000
|
318後期初頭の土器 宮本遺跡 北筒式土器 北筒式土器
|
引用「北筒式土器」
北筒式土器は北海道円筒式土器の略で、中期後半に主として道東や道北に分布した、若干の繊維を含んだ円筒形の土器である。
口縁部は山形突起をもった波状もしくは平縁で、口縁部に肥厚帯がつくられ、その直下に円形の刺突文が数センチ間隔でめぐる特徴を持った土器で、その南限は日本海側では岩内町、噴火湾岸では登別市である。
石銛(もり)といわれている小型・大型の尖頭器が多くみられ、磨石、石皿がほとんどみられない。磨石や石皿といった植物加工用石器がほとんどなく尖頭器が多出すること、貝塚から海獣骨が多出することなどから、陸獣や海獣狩猟民的な性格であったと考えられている。遺跡も海岸地帯だけではなく山岳地に近いところまで分布し、円筒式土器文化が植物質食糧資源を最大限に利用し、狩猟・漁労も盛んに行っていたのに対し、狩猟や海獣狩猟を主体とした狩猟民族の文化と考えられている。 |
|
道東部の中期後半から後期前半にかけて作られた「北筒式」と呼ばれる。筒形で口縁部に円形の刺突が付けられていることに特徴を持つ。 |
|
モコト式のあと、道東部は北筒式土器が広まる。口縁部に厚い肥厚帯をもち、円形刺突文を外から付している。トコロ六類(写真)、トコロ五類などに分けられる。そのほか中期の前半から中葉にかけて、神居式、多寄式、シュブノツナイ式など平底で押型文を特徴とする土器が、上川を中心とする道央から道北地方に分布するが、その文化内容はまだよくわかっていない。 |
|
※考察 縄文後期のオホーツク海沿岸の人口激減
|
引用「北見市、縄文時代後期の土器」
縄文時代後期のオホーツク海沿岸地域では急激な人口減少があったらしく、遺跡がほとんど見つからない時期になります。
それと共に中期・後期初頭まで流行していた円筒形の土器は姿を消しました。
かわって、他地域の文化の影響も受けて、さまざまなデザインの土器が作られるようになりました。
晩期には人口が回復し、遺跡の数が増加する一方、装飾的で華やかな土器も作られるようになりました。
縄文時代後期の土器
約4500年前から、3500年前頃までの土器です。円筒形の北筒式土器にかわって複雑な形の土器が現れます。 以上引用
※ 縄文後期の一時的な遺跡の減少。円筒土器文化の消滅。その後、他地域の様々な土器が出現する。人口回復までに500年を要した。とあります。
この人口減少、文化の消滅は、オホーツク海沿岸を巨大な津波が襲ったのではないでしょうか。この地域の津波想定高さは 10mと言われています。
これは過去の痕跡から割り出されたもので、当時も起こった可能性があります。
オホーツク海一帯は巨大火山列をかかえる地震の巣ですし、千島列島の北も南も大断層が走っています。
津波の後、沿岸から全てが流され、自然が回復して居住できるまでには、500年。縄文晩期までかかったのでしょうか。すると、何千年に一回とかの津波かも知れません。
※2024.01.01能登半島沖の地震では、地震の瞬間一挙に地盤が4mも隆起し、これは4000年分の隆起にあたるとされています。
能登半島で4000年に一回、大地震と共に隆起するようです。北海道南部沿岸を走行すると、沿岸には延々と10~15mの海岸段丘が続いています。
ゆっくり隆起すると、侵食されて段丘にはならず、一挙にたかまったことが わかります。すると10万~15万年に一度巨大地震と共に北海道が隆起することになります。これは決してあり得ないことではなく、私が北海道南海岸沿岸の延々と続く海岸段丘の原因は定期的に起こる巨大地震だろうと思い、今回の能登半島沖地震の瞬間の隆起で確信を得ました。
しかし、オホーツク海沿岸の巨大地震と津波は、オホーツク海内部の地震、特にカムチャッカ半島西側で起こった地震は、オホーツク海内を盥のように何度も何度も短い周期で沿岸を襲い、甚大な被害をだしたことでしょう。そして、これが流氷の季節であったなら、巨大な海氷が何度も襲い、陸上には何一つ残さず全て削り取って沖に流してしまったことでしょう。津波後500年もしなければ次の文化が入り込めなかった理由もわかります。 |
|
319参考品十勝の土器 縄文晩期・続縄文後半・擦文後半
|
後期初頭の「北筒式」以降の後期中葉~晩期前半は、突瘤文や沈線文を主体とする土器が作られます。さらに
晩期後半になると「幣舞式」と呼ばれる縄線文(縄を押し付けた文様)や沈線文を特徴とする土器が作られるようになります。
しかし、帯広市内の遺跡ではこれらの良好な復元個体はきわめて少ないのが現状です。 |
|
|
十勝管内出土
縄文晩期前半
|
|
|
|
十勝管内出土
続縄文後半 |
|
|
|
|
|
|
|
石鏃の流行
|
|
330石鏃の流行り(はやり) ―矢じりの移り変わり―
|
弓矢は氷河期の終わり頃に発明された狩の道具で、世界中のほとんどの地域で使われていました。
北海道最古の土器が発見された大正3遺跡でも矢じりらしき石器が多数発見されており、北海道でも1万4千年前頃には弓矢が使われていた可能性があります。
矢じりの形は、本体と柄に取り付ける部分とがはっきりとわけられるもの(有茎:ゆうけい)と、そうでないもの(無茎:むけいに分けることができます。)
道東の縄文時代の矢じりは、
約5千5百年前より古い時期(早期-前期)では無茎が優勢ですが、その後は
約3千年前(中期-晩期)まで有茎となります。 |
|
331石器の作り方
|
|
石器の作り方
|
石製ハンマーによる打ち欠き
|
鹿角ハンマーによる打ち欠き
|
角の先を使った
押し剥がし
|
|
332石鏃の装着
|
333縄文時代の矢(恵庭市 ユカンボシE11遺跡)
|
下の写真は炭化した矢柄と石鏃が、5000年前の住居跡が発見された時の様子です。
石鏃と矢柄がセットで発見されることはほとんどなく、貴重な例となりそうです。(恵庭市教委2011) |
ユカンボシE11遺跡 引用IMIDAS
|
北海道恵庭市和光町にある縄文時代の遺跡。
恵庭市教育委員会が調査して、縄紋時代中期(約4700年前)の黒曜石製の石鏃(せきぞく)、矢柄(やがら)、矢羽根(やばね)が、焼けた縦穴建物(竪穴建物)の中から見つかった。矢柄や矢羽根は通常くさってなくなるが、焼けて炭化したために残ったものである。矢柄はノリウツギの枝を使った長さ45センチのものであるが、本来の長さは50~60センチと推定されている。これに2枚の矢羽根がつけられていた。この矢柄・矢羽根は縄紋時代では初めての発見であり、縄紋時代の大事な道具であった弓矢の研究の貴重な資料になると考えられる。 |
|
arrow
|
石鏃と矢柄が組み合わさって出土した |
石鏃と矢柄の発掘
|
上:矢柄はノリウツギの割材を使用
下:矢筈には繊維が巻かれていた痕跡を発見 |
縄文時代の矢 |
|
335石鏃の流行り
|
340石鏃 |
341石鏃ができるまで
石鏃が出来るまで |
|
|
|
|
|
|
材料の石片
捨てられていた石器なども再利用していたようです。 |
加工を始めたころ
折ったり、大まかに打ち欠いたりしてそれらしい形になっています。 |
加工が進んだ頃
加工が積み重ねられ、完成品の形に近づいています。 |
完成間近のミス!
勢いあまって角をこわしてしまったもの |
失敗それとも未熟さ?
|
|
343
|
|
9,000年前(早期)
(草創期)1万年前(早期) |
8,500年前(早期)
|
8300-8000年前(早期)
石刃鏃文化期
|
縄文早期に東シベリアの石刃鏃文化人※が気候寒冷化により十勝まで南下したようだ。 |
|
345
温暖化により石刃鏃人は北に帰ったらしい。 |
7,500年前(前期)
7,800年前(前期) |
5,500年前(中期)
7,000年前(前期) |
4,500年前(後期) |
北海道年表 |
|
※考察 石刃鏃文化人
|
北海道の石刃鏃文化期は、縄文早期8000-7000年前の急激な寒冷化、8.2kaイベントが起こった時期です。
引用コトバンク石刃鏃とは
長大な石刃を剥ぎ取る技術であり、時には30cmもの石刃が検出される。その石刃を折り取って加工し、矢尻(石刃鏃)や刃器に加工する技術のこと。
北海道東部の縄文時代早期には,日本列島のほかの地域にはない特殊な石器製作技術、石刃鏃文化をもった人々が生活し,東部の海岸地帯を中心にその遺跡がある。同様の石器は中国東北部やアムール川流域にも多数みられ,石刃鏃以外の石器も共通していることから,日本列島と大陸との交流の具体的な証拠として注目されている。
引用8.2kaイベントの原因は、
アメリカ五大湖付近一帯の広大な地域を覆っていたローレンタイド氷床の決壊であるといわれています。 膨大な量の真水が北太平洋に流出して、北太平洋の海表面を覆い、氷結したために北半球が急速に寒冷化したことが原因と考えられています。 この時期に、北海道では東シベリアの石刃鏃技法が流行しました。 |
8.2kaの気温変動
|
寒冷化による動物の南下や、環境の悪化による人類の南下によって、東シベリアの住民が一挙に南下し、北海道や沿海州まで降りてきたのでしょうか?
しかし、石刃鏃遺跡から出土する土器は、北海道在地の土器だったのです。
いったい、東シベリア人が南下したのか、一部に南下した石刃鏃文化人を、在地住民が受容し、石刃鏃製作技法だけを取り入れたのでしょうか。
引用「どこから来たの?石刃鏃文化の謎(後編)~土器・湧別市川遺跡」 前編
湧別市川遺跡(北海道紋別郡湧別町東3線3)で見つかった土器は、縄を押し付けた「絡条帯圧痕文」や貝殻などを押し付けたり引きずったりした「条痕文」といった文様の特徴があり、「浦幌式土器」と呼ばれています。
浦幌式土器は北海道東部太平洋側の浦幌町で最初に見つかった土器で、文様や土器の形の系統から北海道中央部や東北北部との関連が強いと考えられています。そのため、土器は石刃鏃とは異なり、北海道在地の要素が強いように感じられます。
しかし、他の遺跡では異なった特徴を持つ縄文土器が見つかっています。
引用「北海道女満別町の豊里遺跡」 (女満別石刃鏃遺跡=豊里石刃遺跡=北海道網走郡大空町女満別豊里099)
石刃鏃が出土する豊里遺跡では、
紐を木片などに縛り付けて土器上を転がして付けた組紐圧痕文様のほか、刺突文・竹管文の文様を持つ“女満別式土器”が出土している。
これらの文様土器が石刃及び石刃鏃と一緒に出土したことから、縄文早期時代の石刃鏃文化に位置付けている。
豊里遺跡出土の土器型式を女満別式土器という
引用「25704014研究成果報告書-KAKEN」[(3)石刃石器群を用いた集団~(4)結論]を参照
女満別式土器群は石刃鏃土器群で、押型文が特徴である。この土器群や共伴する石器群は、大陸の石刃鏃石器遺跡から出土するものと同等で、大陸からやって来た石刃鏃文化人が作り、使っていたものである。
標識遺跡となる女満別豊里遺跡(女満別豊里099)と、別場所の二ツ山遺跡(標茶町字シラルトロエトロ25-7)などとの間で土器は、型押文様は共通するが、つくりも焼きもかなり異なっている。
二ツ山遺跡第1地点では、浦幌式(在地系)と女満別式(東シベリア系)が共伴し、女満別式の上面は円形だと報告されている。女満別式の上面は円形が基本となるので、時間が経過してから上面略楕円形が基本の浦幌式の特徴と接触融合したと言える。
また二ツ山遺跡第3地点の土器に無節の縄を押捺した「型押文」がある。 これは女満別式の型押文に用いられる本来の施文具ではない。異なる施文具で女満別式の模様効果を表現した可能性がある。
浦幌式が主体となる大正遺跡には「女満別式相当」の深鉢がある。この文様もまた、変容形態であると考えられる。
二ツ山遺跡出土土器群の器型や器厚は、東釧路Ⅱ式に近い。
以上のこことからも、最初期の女満別式は、道東で女満別式系統として在地変化した可能性がある。
※女満別式が二ツ山遺跡群や十勝大正遺跡群で変化していったことを表している。湧別市川遺跡でも在地系が取り込んだ文化であった。
中略
結論
道東の縄文集団は、完新世初頭の温暖化の過程で定着性を高めていた。その途中、極端な寒冷期8.2kaイベントに遭遇し、この環境変化を乗り切るために、亜寒帯気候に適したサハリン系の石刃技法を取り入れた。
石刃技法による道具を使った生業活動は、高度な製作技法はもとより、資源調達から製作、使用に至る一連の行動連鎖をパッケージとして受け入れなければ実践できなかった。
それを可能にするため、道東産黒曜石調達のための社会システムを通じて交流のあった、サハリン系集団の知識と技術を修得した。
サハリン系集団は、最寒冷期(石刃鏃文化最初期)は道東に南下していた。女満別式土器の成立に関与していた可能性がある。これらによって道東の社会システムが変化した。(黒曜石供給システムが変貌した)
しかし、気候回復後の温暖化した中で、温暖な気候にそぐわないながらもその社会システムを維持していた。が、次第に不必要となり、段階的に放棄されていき、石刃技法は廃れていった。
まとめ
引用文の結論の通り、
急激な寒冷化のために、黒曜石入手のために来ていた石刃鏃文化人に極寒冷期の生存方法を学び、石刃鏃文化が流行した。
サハリン系石刃鏃技術を取り入れるために、それまでの黒曜石の流通システムを変更した。
サハリン系文化人は女満別式土器を使う豊里遺跡の人々であり、 道内系の人々は浦幌式土器を使った。
一時的な寒冷化に伴い、寒冷地の社会システムを取り入れて、招いたり、模倣したり、したが、やがて気候が回復すると、元の社会システムに戻った。
しかし、気候変動が(8.2kaイベント)が道東に石刃鏃文化を生み出していたとは思わなかった。もう一つは、
女満別にはサハリンから、黒曜石を求めて北方民族がやって来ていたという事実も驚きです。そして、
8.2kaイベントは100年以上続き(グラフ参照)、何世代か過ごしたのに、どのようにして元の生活に戻れたんだろう。石刃鏃文化は影響を残さなかったのだろうか。 |
|
発掘された十勝の遺跡 十勝の先史時代 (十勝の考古学を全てまとめたページ。 これを載せると私のページはいらないかも。)
|
|
晩期3000-2200
|
「北筒式」以降の後期中葉~晩期前半は、突瘤文や沈線文を主体とする土器が作られます。さらに、
晩期後半になると「幣舞式」と呼ばれる縄線文(縄を押し付けた文様)や沈線文を特徴とする土器が作られるようになります。
しかし、帯広市内の遺跡ではこれらの良好な復元個体はきわめて少ないのが現状です。
右の土器は大型の浅鉢で、突起部に同心円状の縄線文が施文されています(幣舞式/大正7遺跡)。 引用「縄文土器ギャラリー」 |
|
350晩期の土器 約3,000-2,500年前 |
351
|
|
|
|
|
|
晩期土器 |
有孔土器は北筒式? |
暁遺跡
晩期前半 |
|
暁期前半の土器 |
早期前期の暁式とは別です |
|
353晩期後半の土器
|
幣舞遺跡 北海道釧路市幣舞町1から4番地
釧路川河口から500m上流の左岸の海成段丘、釧路段丘上に位置する。
明治21年(1888)釧路貝塚として学界に最初に紹介された場所もこの遺跡の範囲に含まれる。
大正13年(1924)前後から開発が進み、原地形を把握できない状態にあった。
昭和29年(1954)遺跡の西面を掘削する富士見坂道路工事の際多量の遺物が検出され、その前後に発見された土器をもとにヌサマイ式土器が設定され、縄文時代晩期の在地の特徴的な土器を出土する遺跡として知られるようになった。
平成元年(1989)から同10年にかけて五次にわたる発掘調査が実施され、遺跡西側部分の様子が明らかになった。引用コトバンク |
|
「幣舞式」と呼ばれるグループ。
この土器は浅い鉢形で、突起部に穴があけられており、日常の煮炊きとは異なる用途と考えられる。(大正7遺跡) |
|
354チョマトー遺跡 縄文晩期後半
チョマトー遺跡
縄文晩期後半 |
チョマトー遺跡
縄文晩期後半
|
|
|
|
|
360
発掘模型 |
|
チョマトー遺跡は、チョマトー沼の周辺にあり、埋め立てられて公園や神社となって、一見それとはわからない。周囲には大きな建物が立ち、病院までもある。だがここは沼地の上に建てられた軟弱地盤である。
十勝平野は海進海退によって形成された、いわば泥炭や泥の上に形成された平地である。つまり、十勝平野全体が軟弱地盤の上にあり、地面に荷重を掛けると、やがて沈んでいく。つまり、大きなビル、住宅、は基礎をしっかりしても、基礎ごと沈んでいく。それだけではない。家庭の駐車場にコンクリートを打っても、車を止めるとその重さに耐えきれず、やがてコンクリートは割れて、沈んでいく。
しかも、ここは十勝平野内に活断層、真向かいの海底に巨大な断層があり、何度も巨大地震を起こしている。 |
|
|
|
|