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目
次 |
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10外観
12行程
13資料館前の案内板
有樋尖頭器
湧別技法などの細石刃石器群
大平山元遺跡の特徴
14大山ふるさと資料館
20入口展示
21世界文化遺産登録を目指して
24北海道・北東北の縄文遺跡群
30展示室
32大平山元遺跡
33北海道・北東北の縄文遺跡群
35縄文文化の人類史的価値とは
40太平山元遺跡panel
41年表 遺跡発掘の経緯と経過
43遺跡発見の経緯 |
太平山元遺跡
50太平山元遺跡 石器
51縄文時代草創期
石刃
55無文土器片
60彫器・掻器
70太平山元Ⅰ遺跡 復元
71復元 縄文人
73土器片
74石斧
75石鏃
110縄文草創期の大平山元
112石刃(ナイフ)
121当時の自然環境
122第2群細石刃石器群の段階
123湧別技法の細石刃核
130旧石器時代
131旧石器時代の石器
132槍先形尖頭器
133第3群有樋尖頭器主体の段階
134第4群 黒曜石石器群の段階
140石器の作り方
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200廊下展示
210丑ヶ沢(2)遺跡
212石器 縄文後期
220山本遺跡 平安時代後期
222擦文土器 平安時代
230今津遺跡 縄文時代晩期
232縄文晩期の土器
240宇鉄遺跡 縄文時代晩期
242象嵌土製品
243鏃・玉
244土偶
各地の特徴的土偶
246土器
300民俗展示 |
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10外観 |
12行程
新青森駅周辺からレンタカーで、日本最古の土器を検出した展示館を目指す。
青森県の津軽半島・下北半島にはバイパスが通っていて、
(※高架道路でなく一般道である。直線的で、多少高速走行ができるが白バイ、パトカー常時取り締まり路線。危険な道です。走行には要注意)
30kmを30分で走ることが出来る。尚、青森駅→五所川原線の路線バスに乗ると1時間半かかる。やめた方がいい。
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13資料館前の案内板 (以下のような専門的で、遺跡の核心を表す看板が、駐車場に建っているという、驚きの事実です。)
大平山元遺跡とは (おおだい やまもと)
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国史跡「太平山元遺跡」は、石器の材料となる珪質頁岩が産出する蟹田川の傍にあります。
後期旧石器時代から縄文時代草創期まで、石器などの特徴の移り変わりを追うことが出来ます。 |
有樋尖頭器
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尖頭器の表裏両面に調整加工を施した尖頭器の一種で、先端部から「樋状」の剥離が施されているのが特徴とされる器種です。
様々な石材で様々なサイズのものが作られます |
湧別技法などの細石刃石器群
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旧石器時代終末期にやって来た湧別技法の細石刃文化人は、まさに、津軽半島に上陸した。
渡島半島西岸から、シーカヤックに乗って猛烈に漕いで津軽半島にたどり着いた集団だ。
海流に流されれば、陸奥湾内か、へたをすれば寒冷な太平洋側に出てしまう。温暖な津軽にはたどり着かない。 |
大平山元遺跡
周辺案内板
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資料館・遺跡の
案内図
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年表
年表は当地方特有
例:縄文晩期終了は
他地方より遅い。 |
旧石器時代(~15,000年前) |
大平山元遺跡(外ヶ浜)・田向冷水遺跡(八戸)・五川目(6)遺跡(三沢市) |
縄文草創期(15,000~11,000年前) |
赤平(1)遺跡(東北町)・表館(1)遺跡(六ケ所村) |
縄文早期(11,000~7,000年前) |
長七谷地貝塚(八戸)・中野平遺跡(おいらせ町) |
縄文前期(7,000~5,000年前) |
二ッ森貝塚(七戸)・田小屋野貝塚(津軽市) |
縄文中期(5,000~4,000年前) |
三内丸山遺跡(青森市) |
縄文後期(4,000~3,000年前) |
小牧野遺跡(青森市)・風張遺跡(八戸) |
縄文晩期(3,000~2,000年前) |
亀ヶ岡遺跡(つがる)・是川遺跡(八戸)・大森勝山遺跡(弘前市) |
弥生時代(2,000年前~) |
砂沢遺跡(弘前)・垂柳遺跡(田舎館村) 相違 |
古墳時代(~) |
丹後平古墳群(八戸)・阿光坊古墳群(おいらせ) |
奈良・平安時代(~1,000年前) |
五所川原須恵器窯跡群(五所川原) |
中世(1,000年前~) |
十三湊(五所川原) |
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遺跡航空写真 |
明らかに何もない所を
見学可と言われても
誰もいかないでしょ。
遺跡は保存されずに
既に破壊されたのか。 |
大平山元遺跡の特徴
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石器などの特徴では、主に関東地方や中部地方で見られる石器「有樋尖頭器」が、見つかっています。また、
北海道で流行した「湧別技法」と呼ばれる石器の作り方を用いた「細石刃石器群」や
関東地方より西の西日本との関係を示す「野岳・休場型細石刃核(のだけ・やすみば)」と呼ばれる石器の作り方を用いた「黒曜石製細石刃核」などが見つかっています。(西日本型細石刃核) (※九州型細石刃核は船野型細石刃核)
これら、日本列島の各地との関係性を示す石器が多く見つかる遺跡は、北日本では他に例がありません。
更に、縄文時代草創期では、「神子柴・長者久保石器群」と呼ばれる石器群と無文土器片が一緒に見つかり、石鏃や大型の石刃の集中地点などがあります。
後期旧石器時代後半から縄文時代草創期へ生活スタイルが変わっていく様子を見ることができ、それらを考え、検討する上で極めて重要な情報を持っている遺跡です。 |
大平山元遺跡の特徴
上に記述 |
大型の石刃 |
石鏃・無文土器片 |
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14大山ふるさと資料館
(旧大山小学校の校舎を利用。大山って、大平山元の字をとったようだ。おおだいやもと)
大山ふるさと資料館
旧大山小学校校舎を
利用 |
石積みアート
2019年作成の
最新ストーンサークル |
博物館入口
何だしょぼいと思わないで下さい。 |
小さな町で集客力のない箱モノは作れないのです。 |
懐かしいような古い校舎の使い込んだたたずまい。 |
寒冷・豪雪・強風の地でこの木造校舎は寒かったでしょう。関西の温暖地の木造校舎と同じ構造である。 |
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20入口展示 |
21世界文化遺産登録を目指して
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「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、狩猟・採集・漁撈により1万年以上前から定住を開始、発展、成熟し、長期間継続した先史文化(縄文文化)の生活や祭祀・儀礼の在り方を示す、東北アジアをはじめ世界の中で類例のない文化遺産です。4道県及び関係自治体では縄文遺跡群の世界遺産登録を目指しています。 |
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北海道・北東北の
縄文遺跡群 |
世界文化遺産を目指して |
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※私の懸念
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この運動は当HP開始と同時期に始まった運動です。2020年の世界遺産への推薦が決まりました。(決定と同じ。意味) しかし、世界遺産も、以前とは様子が違い、認定されても観光客はすぐ来なくなる。
沖縄も富岡製糸場も石見銀山も、すでに集客力をなくし、重い維持費負担がのしかかる。
逆に京都や白川郷の様に、生活破壊、オーバーツーリズムに悩まされる地域。観光地では中国人の怒鳴り声ばかりが響き渡る。
堺市は誘致運動して大成功で決定したが、古墳を見ることも触ることもできない。バカな運動をした結果である。
何も将来を構想せずに、ただ、大騒ぎして尻馬に乗っただけ、さて選定されたが、、、どうしよう。その先は何も考えていなかったパターン。
どうか、北海道・北東北の遺跡破壊にだけはならないでほしいと思う。 |
豊かな自然環境
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縄文時代の北海道・北東北は、クリやクルミなどをもたらすブナ林が広がり、サケ・マス・海獣に代表される豊富な水産資源を背景に、日本列島の中で土器がいち早く使用され、定住が開始、発展、成熟しました。 |
豊かな自然環境 |
ブナ林
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サケの遡上 |
海流による自然環境 |
※ブナ林はつい最近まで営林署によって日本中で切り倒されつくした、非有用植物でした。
それが日本の国策だった。伐採し、代わりに |
※針葉樹を植林し、山は保水力を失い、いまや日本中で森林災害・破壊が起こっている。 |
※ダム作り専門公社(ダム建設公団=水資源開発公団))が日本中にダムを造り川を堰き止め、鮭の遡上を不可にした。 |
※そして、大雨が降ると、雨水に加えてダムからも大量放水し大水害を引き起こす。 |
地域文化圏の形成
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日本列島では同じ形や文様の土器が使われる地域文化圏が成立していました。中でも「北海道・北東北地域」は、縄文時代を通じて常に同じ文化圏が形成され、円筒土器文化や亀ヶ岡文化圏などが栄えました。 |
地域文化圏の形成 |
円筒土器文化
バケツ形で縄目文様が装飾され、おもに煮炊きに使われました。 |
亀ヶ岡式土器
精巧で美しい装飾が施された縄文土器造形の極致「亀ヶ岡式土器」 |
大湯環状列石
秋田県鹿角市 |
※大湯環状列石は、今では遺跡がむき出しで、誰でもどこからでも入ることができ、悪い奴が破壊しようとすれば可能だが、
かつては、遺跡の周囲は高い板囲いをめぐらされ、誰も入ることが禁じられ、厳重に保護されていたそうです。 |
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24北海道・北東北の縄文遺跡群
世界遺産に必要な普遍的価値を示す17遺跡
北海道・北東北の縄文
遺跡群
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北海道北東北の17遺跡 |
17遺跡の分析 |
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17遺跡分布図 |
北海道北黄金貝塚 |
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30展示室
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31大平山元遺跡
大平山元遺跡 |
大平山元遺跡写真 |
大平山元遺跡 |
埋め戻された遺跡 |
大平山元遺跡案内板 |
遺跡範囲図 |
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32大平山元遺跡
内容1
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大平山元遺跡は津軽半島の北東部、陸奥湾に注ぐ蟹田川の河口から上流8kmの左岸に位置し、津軽山地から派生する低位段丘上の
南北500m東西300mの範囲に立地します。
珪質頁岩の産出地から3.5km東に位置し、それを石器素材として安定的に使用できることから、後期旧石器時代後半から縄文時代草創期まで継続的に営まれた、北日本では稀有な石器原産地遺跡です。 |
内容2
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後期旧石器時代後半期では、
➀関東・中部地方との関係を示す有樋尖頭器や
②北海道との関係を示す荒屋型彫器や湧別技法による細石刃からなる石器群、
③関東以西との関係を示す野岳・休場型黒曜石製細石核等、(※西日本型細石刃核)
北日本では他に例がない程日本列島各地との関係が注目される石器が多数出土しています。
※西日本型細石刃は対馬海峡からもたらされたが、列島を東進してなんと津軽半島まで広がっていたとは、大変な驚きです。
これを持ってやってきた旧石器人はやはりナウマンゾウやオオツノジカを追って西からやって来たんでしょうね。
だから、ここで、神子柴形石器群と出会うことができ、持ち帰ったのかもしれない。(西に広めたの意味) |
内容3
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更に、縄文時代草創期では、神子柴・長者久保石器群と放射性炭素測定により最古級の年代値が得られた無文土器との共伴や、
縄文時代草創期の特徴ともされる大型石刃の埋納等、後期旧石器時代から縄文時代草創期への遺構の在り方を検討する上で極めて重要な情報を提供している遺跡です。 |
太平山元遺跡 |
内容1
上に記述 |
内容2
上に記述 |
内容3
上に記述 |
※大平山元からは、
神子柴形尖頭器、細石刃、石鏃、と土器
が出土しています。
説明がつかない石鏃などは、
あまり表に出ないようです。
ここには後の縄文時代の全てが
旧石器時代の文化と共にあったようです。 |
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33北海道・北東北の縄文遺跡群
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北海道、青森県、岩手県及び秋田県は、世界自然遺産「白神山地」や「知床」など、美しい自然が色濃く残る緑豊かなところです。この豊かな自然の恵みを受け、縄文時代の北海道・北東北では常に同一の文化圏が形成され、発展し、優れた文化を育んできました。この地域には、保存状態がよく、先人たちの知恵や工夫を現代に伝える、とても価値の高い遺跡が数多く残されています。 |
北海道・北東北の縄文遺跡群
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北海道・北東北の縄文遺跡群
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北海道・北東北の縄文遺跡群
上に記述 |
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35縄文文化の人類史的価値とは
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青森は縄文遺跡の宝庫、ことに三内丸山遺跡は秋田の大湯環状列石と並んで国の特別史跡、いわば遺跡の国宝だ。
もちろん亀ヶ岡石器時代遺跡や是川石器時代遺跡は古くから全国に知られた著名な遺跡だし、
小牧野遺跡や大森勝山遺跡のストーンサークルは他に例を見ない。
そこで、日本の縄文文化を代表する遺跡、日本を代表する文化遺産として、これら青森、秋田、岩手及び北海道の代表的な縄文遺跡を選りすぐって
世界遺産に推薦しようということになった。
しかし、いかに日本国内で大事であろうと、いかに日本人が素晴らしいと叫んだところで、それだけで世界遺産として推薦を受け、さらにユネスコの登録が叶うわけではない。そのためには、より広く世界に通用する「普遍的な価値」や「人類史的意義」を認めてもらわなければならない。
では、縄文文化の「顕著で普遍的な価値」とは何だろう。
世界に例をみないほど優れた土器文化や土偶などに窺える高い精神文化もさることながら、私は次の3つを考えている。
第1はそれが西方の新石器文化の様に本格的農耕・牧畜ではなく、狩猟・採集・漁撈と落葉広葉樹林での植物管理・初期的栽培によりつつ、
じつに1万年にわたる長期間、定住集落を形成・維持した稀有の例であること。
第2に、縄文社会が、世界にも稀な多様性に富む日本列島の自然と共生し、変動する環境に適応しつつ持続されたこと。そして、
第3に、縄文人は戦争を行わなかったことである。
これらは、現代に生き未来に向かう人類に実に貴重なヒントを与えてくれる。更にもう一つ、縄文文化こそは、弥生文化以降の日本人と日本文化の基礎・基盤をなす、まさに「母なる文化」だということ。
東アジアの日本列島で展開された、実にユニークなこの先史文化は、世界史全体に新たなモデルを提供し、
真に普遍的な人類史を再構築する上で不可欠なものとなることを疑わない。 |
縄文文化の人類史的価値とは |
縄文文化の人類史的価値とは
上に記述 |
上に記述 |
三内丸山遺跡 |
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40太平山元遺跡panel
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41年表 遺跡発掘の経緯と経過
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1971(昭和46)年
大平の畑から見つかった1点の局部磨製石斧が契機 一町田工先生の尽力
1975(昭和50)~1979(昭和54)年
県立郷土館による大平山元Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ遺跡の一連の学術調査
大平山元Ⅰ遺跡
石核、石刃及び縦長剥片、それら素材の各種石器、尖頭器、石鏃、それら石器群と同一の土層から石器に伴って土器片が出土。
それまで土器が存在しない段階に位置づけられていた神子柴・長者久保石器群に無文の土器や石鏃が伴う。 縄文草創期(のはじまり)
大平山元Ⅱ遺跡
大平八幡宮の境内からも石器が採集される旨の情報を得て調査を実施。
旧石器時代後半期の石刃素材の各種道具、尖頭器、舟底形石器など、多量の石器類
大平山元Ⅲ遺跡
分布調査をしたところ、旧石器時代後半期の黒曜石製細石刃核や旧石器時代の石器が表採(地表面での採取)
黒曜石製の細石刃核は採集品であるが、西日本的特徴を持つ
1989(平成元)年
大平山元Ⅱ遺跡
大平八万宮境内の南側にある地区会館の建て替えに伴う発掘調査を町教委が実施し、旧石器時代聲半期の大量の石器類が出土した。
大平山元技法の追加資料、湧別技法と考えられる接合資料、及び、他の石器群より層位的に火葬から黒曜石製の剥片類を検出した。
1998(平成10)年
大平山元Ⅰ遺跡
県立郷土館調査地点の南側に住宅が建設されることになり、町教委が事前調査を実施。
石刃素材の彫器などの加工具類の他、打製石斧、石皿、両面調整の槍先形尖頭器や石鏃、と、土器片が出土。縄文草創期。
土器片に付着した炭化物の放射性炭素年代測定の結果、16,520年十云う値画得られ、最古段階の土器と判定された。
2000(経て製12)~2008(平成20)年
大平山元Ⅰ遺跡
町教委による適切な保存と活用を目的にした調査を行う。
これまでと同様の石器類と伴に土器片が出土
その石器群ブロックの範囲は、郷土館調査地点を中心に南北26m東西20mの楕円形であることが判明。
大平山元Ⅱ遺跡
遺物が良好に残存していることが確認、濃密に分布するのは八幡宮境内であることが判明した。
大平山元Ⅲ遺跡
これまでの石器は得られたが、遺跡の大半は、大きく削平されてしまっていた。
大平山元Ⅳ遺跡
南端から遺物の分布が確認でき、出土層位及び出土状況から縄文草創期の可能性がある。
2003(平成15)~2006(平成18)年
大平山元Ⅱ遺跡
県道バイパス工事に伴って、八幡宮西側と南西側の調査を実施。
縄文時代草創期の石刃の集中地点の検出。
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年表
上に記述 |
年表
上に記述 |
大平山元遺跡周辺遺跡地図
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大平山元遺跡の範囲は、周知の埋蔵文化財包含地(いわゆる遺跡)「大平山元Ⅰ遺跡」の全ての範囲と、「大平山元Ⅱ遺跡」の一部の範囲です。
ほぼ何のことか不明 |
遺跡周辺地図 |
史跡の上空より |
右(南)に蟹田川が流れる
上(東が陸奥湾方向)
左:Ⅲ遺跡
右:Ⅱ遺跡
下:Ⅰ遺跡 |
大平山元遺跡概要 |
名称 大平山元遺跡オオダイヤマモト
住所 青森県東津軽郡外ヶ浜町
字蟹田大平山元73番地2外
面積 20,860.92㎡
史跡指定2013.3.27(平成25)
追加指定2015.10.7(平成27) |
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43遺跡発見の経緯
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1971(昭和46)年秋、大平地区の張山宅裏の畑から大型石斧が発見される。当家の中学生が蟹田中学校一町田工教諭に届け、
県立郷土館準備室(当時)り三宅氏に鑑定を求めた。
1975(昭和50)年に県立郷土館が試掘調査をしたところ、各種の石器と共に土器片が見つかった。最古の土器かという極めて重要な発見となり、
翌年に発掘調査を実施し、約30点の土器片が見つかった。
土器は無文土器で、平底であり、土器の起源など大きな問題を提起することになった。 |
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太平山元遺跡
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50太平山元遺跡 石器
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51縄文時代草創期(約1万5000年前)
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縄文時代草創期
(約1万5000年前)
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石刃
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石刃 |
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52
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53縄文時代草創期(約1万5000年前) 剥片
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剥片 |
縄文時代草創期
(約1万5000年前) |
縄文時代草創期
(約1万5000年前) |
縄文時代草創期
(約1万5000年前) |
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54石刃
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55無文土器片 1万5000年前 (重複しています。あとでもう一度出てきます。ピントと光が少し違います。)
石器 1万5000年前 (重複しています。あとでもう一度出てきます。ピントと光が少し違います。)
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60 |
61
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62縄文時代草創期 約1万5000年前
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63
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64
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70太平山元Ⅰ遺跡
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71
復元縄文人について
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この復元縄文人は、平成21年度に国立歴史民俗博物館にて開催された「縄文はいつから!?」で展示され、草創期末から早期の人骨を元に描かれています。(日本で出土している人骨の中で近い時期です。)衣服はニホンジカの毛皮を中心として肌の露出を少なくしています。皮の靴を履いています。
携えている土器は、隆起線文土器(大平山元Ⅰ遺跡は無文土器)です。背中には、弦を外して巻き付けた状態の弓と矢筒に入れた矢、石槍を持っています。左手には局部磨製石斧を持っています。 |
大平山元Ⅰ遺跡の景観復元
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トウヒ属やカラマツ属などの亜寒帯性の針葉樹が林を作っている。崖にはヤナギの低木やオオイタドリなどが生えていただろう。
住居遺構は見つかっていないが、遺物量はここが居住地であったことを物語る。蟹田川に面した台地上では、土器で煮炊きしながら焚火を囲んでいる人達がいる。彫器や掻器といった石器が多く出土していることから、狩猟した動物の解体や加工が行われていただろう。石斧で木を切り倒している人がいる。これからテントを作るのだろうか。 |
大平山元Ⅰ遺跡の
景観復元
上に記述 |
遺跡景観復元図 |
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72
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73土器片 縄文時代草創期 約1万5000年前 (73~75は二度目です。)
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74縄文時代草創期 約1万5千年前
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75
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110縄文草創期の大平山元 |
111
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112石刃(ナイフ 集中区出土)
石器集中区(部or域):円形テントの中で石を加工して石器を制作した跡。円形に破片が散乱している。
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113石刃
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120 |
121当時の自然環境
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当時は、今より寒い「氷期」と呼ばれる寒冷な時期から、次第に暖かくなる時期へと移り変わる頃でした。
トウヒ属やモミ属中心の「亜寒帯性針葉樹林」でした。そこへカバノキ属などの「落葉広葉樹」が混じる森林環境(混交林)だったと考えられています。
このことは、土器の使い方を読み解く大きなヒントになります。(乱文) |
景観復元図について
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平成21年度に国立歴史民俗博物館にて開催された「縄文はいつから!?」にて展示されたものです。
大平山元Ⅰ遺跡の地形図をもとに、遺跡が立地していた地形を復元しています。谷を広く深く描き、植生は亜寒帯性針葉樹林にしています。
疎林ではなく、谷筋には密に木が生えています。台地上はややまばらで、谷には広葉樹の灌木やオオイタドリやフキが生えています。
奥の低地は草原をイメージしています。
人々は、台地上で焚火を囲んで作業をしています。動物を解体している人たちもいます。後ろでは、石斧で木を切り倒している人がいます。 |
景観復元図 |
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当時の自然環境 |
当時の自然環境
上に記述 |
景観復元図について
上に記述 |
調査風景
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石器の出土 |
石器の出土状況 |
発掘作業 |
石器 |
ヘラ削り |
トレンチ内の遺物 |
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122第2群細石刃石器群の段階
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123湧別技法の細石刃核
細石刃核の作り方
細石刃核の作り方
湧別技法
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細石刃核
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細石刃核の作り方
湧別技法
石器接合 |
第2群 細石刃石器群の段階 |
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124
彫器・掻器 |
彫器(ナイフ)
斜め上が刃の部分
荒屋型彫器にみえる |
掻器(ナイフ)
下の半円状が刃の部分 |
掻器 |
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130旧石器時代
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131旧石器時代の石器
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この大平山元遺跡は、土器片と一緒に見つかる石器以外にも石器が沢山見つかります。東側の微高地状地形と呼んでいるところで、縄文時代より古い旧石器時代のものです。
ナイフや石槍が見つかり、関東地方で流行した石器や北海道を中心に見つかる石器の作り方で作られた石器もあります。 |
旧石器時代の石器
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旧石器時代の石器
上に記述 |
石鏃
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発掘風景
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発掘風景
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132槍先形尖頭器
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133第3群有樋尖頭器主体の段階
第3群
有樋尖頭器主体の段階
槍先形尖頭器 |
第3群
有樋尖頭器主体の段階 |
削器(ナイフ)
端が刃の部分
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削器(ナイフ)
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134第4群 黒曜石石器群の段階
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135接合資料
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石器は、石を割って作ります。
見つかった石器同士が接合(くっ付く)すると元の石がわかり、同時に、石器の割り方がわかります。右の資料は、石刃を作っていたことがわかります。
資料の右側が上です(わかりやすいように横向き)。 |
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140石器の作り方
大平山元Ⅰ遺跡出土品
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大平山元Ⅰ遺跡から出土している石器は、大型の石斧・掻器・彫器・尖頭器・石鏃・石刃などを特徴とする縄文時代草創期の
「神子柴・長者久保石器群」と呼ばれるものである。
これらには掻器・彫器・石刃など旧石器時代の伝統を残す石器が多くみられるが、石鏃や土器のような縄文時代に特徴的な遺物も見られ、旧石器時代から縄文時代への移行期の様相をよく示す一括資料である。
神子柴・長者久保石器群に位置づけられる遺物は全国的にあまり多く確認されておらず、本県においても東北町長者久保遺跡出土資料など、4遺跡が知られているだけである。
また、本遺跡から出土した無文土器は列島最古段階の土器である点においても極めて重要な資料といえる。 |
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141石器
珪質頁岩
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石器に用いられる石材は、「黒曜石」(火成岩)が有名ですが、この遺跡では「
」(堆積岩)が使われています。
近くを流れる「蟹田川」の上流(西側)、北東側の山地などに広がる地層(主に小泊層と呼ばれている地層)に含まれています。
これらの珪質頁岩の中でも良質なものを選んで拾い集め、石器を作る作業をしています。
引用 |
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珪質頁岩の分布
津軽地方
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石器の作り方
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石器の使い方
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珪質頁岩
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上に記述 |
大平山元Ⅰ遺跡
出土品
上に記述 |
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142石器の作り方
石器の作り方 |
石を手に入れる
石器素材の獲得 |
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荒割りして状態を見る |
蟹田川で入手した
珪質頁岩 |
石器製作作業へ |
Blade core石核 |
石器製品の完成 |
石刃核
石刃の素になる石器 |
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145平成10年の調査
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県立郷土館の発掘調査から約20年後の1998(平成10)年、その調査地点の南側に住宅が建設されることとなり、事前の発掘調査が実施されました。
石器群と共に土器片も見つかり、土器片に付着していた炭化物(すす・焦げ)の年代分析をしたところ、今から1万5千年前に使われていたことがわかりました。この発掘調査で見つかった資料は、2019(平成31)年4月に「県重宝」の指定を受けました。 |
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146
平成10年の調査 |
平成10年の調査
上に記述 |
発掘調査風景 |
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200廊下展示
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210丑ヶ沢(2)遺跡 縄文時代後期 青森県東津軽郡外ヶ浜町字蟹田丑ヶ沢14
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丑ヶ沢(2)遺跡は、縄文時代中期末葉の土器片や後期前葉の土器片等が畑から拾われており、「蟹田町史」に報告されています。
この発掘調査の場所は、国道280号バイパス改築工事に伴うもので、陸奥湾に沿って南北に延びる海岸段丘を開削する丑ヶ沢川の右岸の段丘に位置します。
この海岸段丘は、蓬田村広瀬地区から延びており、広大な平坦面が広がり、標高は30m~43mです。調査地点付近には蟹田スキー場があります。
発掘調査によって、竪穴式住居跡4棟、土壙(墓)1基が見つかりました。全ての遺構が北端斜面に沿っての平坦面に位置しています。
各遺構の時期については、竪穴式住居跡4棟全て縄文時代後期後葉、土壙1基は縄文時代後期前葉と考えられます。 |
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211panel
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丑ヶ沢(2)遺跡 |
丑ヶ沢(2)遺跡
上に記述 |
床に設置された土器 |
住居跡 |
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212石器 縄文後期
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鏃
縄文時代後期
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鏃
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スクレイパー(ナイフ) |
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石匙(ナイフ)
紐の痕が残る
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紐の痕とは擦れ痕又は紐止めのアスファルト痕 |
十字の紐痕が残る石器
石錘か |
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213土器 丑ヶ沢(2)遺跡 縄文後期
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220山本遺跡 平安時代後期 青森県東津軽郡外ヶ浜町字蟹田山本野脇78-1ほか
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山本遺跡は、古くから「古城」「古舘」として知られていた場所で、江戸時代第五代将軍綱吉の時代、貞享年間(じょうきょう1684~1687)の検地水帳(けんちみずちょう)に記載があります。発掘調査は北海道新幹線工事に伴うもので、調査地点は、蟹田山本地区の南側、町内を東西に流れる清流蟹田川を渡り、標高35m、斜面から平地に広がるスギ林に覆われたところです。遺跡の南側には、蟹田上小国の開田が広がっています。遺跡からは山本集落が見渡せます。
発掘調査発掘調査によって、壕と土塁が2条、土坑(地面に穴を掘ったもの)2基が見つかりました。全て平安時代後期(950年頃)と考えられます。
遺跡の主体部には、竪穴住居跡が広がりその周りを壕と土塁が囲む防御性集落、環濠集落と呼ばれているものです。 |
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221panel
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222擦文土器 平安時代
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8~9世紀頃に、大和文化圏から持ち込まれた、ろくろ成形された土師器に影響を受けたアイヌ文化が、それをまねて土器表面をこすって磨き、
土師器風に仕上げたアイヌ土器。 |
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擦文土器
(北海道主体の土器) |
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平安時代後期にアイヌ文化の擦文土器出現。
多くのアイヌ村が近世まで存続した。 |
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223土器
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須恵器
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玉
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平安時代の勾玉とは、、
古い宝物として古墳時代から継承されたのか、
古い宝物だから、アイヌ交易で都から持ち込まれたのか、
平安時代にもまだ勾玉が流行したのか。
そういえば、鏡や大刀、勾玉をご神体として神社もたくさんあると聞いた。まだ、流通していたのね。 |
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225
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230今津遺跡 縄文時代晩期 約3000年前 青森県東津軽群外ヶ浜平舘今津才の神
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「字平舘 今津 才の神(あざたいらだて いまづ さいのかみ)」にあります。1972(昭和47)年に発掘調査が実施されました。
縄文時代晩期(約3千年前)の遺跡であることがわかり、塩を作るときに使った土器、土器や石器を捨てる場所も数か所見つかりました。
その後道路の改良工事に伴って、1984(昭和59)年に青森県埋蔵文化財調査センターが発掘調査を実施しました。
前述の捨て場が3か所確認でき、特異なパターンとして知られています。
また、3つの足を持った土器が確認されています。 |
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231今津遺跡
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232縄文晩期の土器 約3000年前 今津遺跡
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233縄文晩期の土器 約3000年前
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240宇鉄遺跡 縄文時代晩期 約3千年前 青森県東津軽郡三厩村大字宇鉄字下平
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「字三厩宇鉄あざみんまやうてつ」にあります。古くから土器や石器が出土することで知られていましたが、1925(大正14)年に記録があります。
その後1955(昭和30)年に慶応義塾大学の発掘調査があり、多くの遺物が見つかりました。それらは、縄文時代晩期(約3千年前)のものでした。
1975(昭和50)年から3年間青森県立郷土館による発掘調査が実施され、弥生時代(約2千年前)の遺物が見つかり、国の重要文化財になりました。
また、最近では1993(平成5)、1994(平成6)に中学校建設工事に伴う発掘調査を実施しています。 |
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241宇鉄遺跡
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宇鉄遺跡
上に記述 |
発掘調査
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宇鉄遺跡発掘調査状況 |
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242象嵌(土製品に石をはめ込んだもの)縄文晩期 約3千年前
他の館ではこれを土偶と分類していました。
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243鏃・玉
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石鏃
縄文晩期300年前 |
縄文晩期約3千年前 |
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玉類 |
縄文晩期約3千年前 |
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244土偶 縄文晩期約3千年前 宇鉄遺跡
各地の特徴的土偶
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上の土偶を整理して並べると、どれも各地にあった、特徴的な土偶と、どことなく似ている。偶然なのか、見てきた記憶なのか。
土器にも流行があり、各地の土器が真似されるのだから、土偶も真似されたのかもしれない。 |
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246土器 縄文晩期約3千年前
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十腰内式や亀ヶ岡式土器は、その文様や造形の意味を理解した上で真似たので、広い範囲で同じ職人の作かと思うほどそっくりな土器が出土する。
あの複雑で高度な亀ヶ岡式遮光器土偶も、単に現物を模倣したのではなく、作る意味や、各部の装飾の意味を理解したため、各地でも作られ、広まったのでしょう。まぁ、その為に、多少現物を知らないで作ったような作品もありました。(ちょっとオリジナルから離れた感じもする。) |
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300民俗展示
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