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六ケ所村郷土館の展示資料を検討しながら、いろいろ考えたことも、付け加えておきます。なにぶんにも全てが私的な記録に過ぎないのでごめんなさい。 |
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六ヶ所村郷土資料館館長様
このページをご覧いただけるとありがたいのですが。
昨年9/27に郷土館を訪問させていただき、地下倉庫までご案内頂き、帰りに
「9世紀~11世紀の青森」、「企画展「今、蘇る 六ケ所村の平安時代」資料」を頂き、
大変お世話になりました。
私は関西に住んでおります。旅行しては、[沖縄写真通信]という頁に写真を載せています。
昨年秋に青森県を旅行していろいろな館で撮った写真をもとに勉強していました。
青森県の考古の面白さ、特異性に大変驚き、とても興味を持って写真を見させて頂きました。
10月初めからかかって約半年後の今年3月末に訪問した全館の写真の整理と検討が終わり、
六ケ所村郷土館についてはこのようなページができました。
このようなページの公表は禁止される館もあれば、推奨される館もあり、様々です。公表禁止と言われれば自粛しています。
さて、今回メール差し上げましたのは、
一つには頂いた資料の御礼と、それをもとにしてできたページをご覧いただきたいという思いと、
青森県の考古を調べるうちにどうしてもわからないことが3点あり、鉄生産、馬産者、エミシ です。
ネット上の論文などを探していればそのうちに答えが見つかるかもしれないとは思っていますが、
謎があることが、また、博物館通いの魅力かとも思っています。
ご覧いただけますと幸いです。
差出人氏名
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館長様
ご丁寧なメール頂きましてありがとうございます。
大変ご迷惑をおかけしております。この宛先は携帯ということで本文はこちらにupしております。ご覧いただけますと幸いです。
考古学というのは大変面白いものだと、この職業についておられる皆様を大変羨ましく思います。
昨年、さんまるミュージアムで「発掘された日本列島2019」を見て帰り、最初にありましたのは白神山地東麓遺跡群で、その写真を編集中に
「にっぽん!歴史鑑定」という番組で白神山地遺跡群の注口土器が陰嚢付きであることを知り、同時に編集をしていた島根県埋蔵文化財センターの
遺物の中に、島根県のほぼ同じ地域の近接した遺跡の中から、福島県ジョーモピアの屈折像土偶か青森県是川中居遺跡の屈折像土偶にそっくりな土偶と、白神山地遺跡群の典型である陰嚢付き注口土偶が出土していることを知りました。
これらを実際に展示している古代出雲歴史博物館では、注口土器は陰嚢が目立たないように真上から光を当て、上の方に展示していました。
展示者は陰嚢にみえることを嫌ったのでしょう。白神遺跡群のことを知らなかったようです。
この二つの遺物は損傷が少なく、ほぼ原形のままと言って良いほど丁寧に運ばれています。手に持って運んだようです。しかしなぜ、東北の別々の場所から、島根県の近接した遺跡に運ばれたのでしょう。
福島(又は是川中居)から、一旦、白神に行き、船で鳥取県大山を行き過ぎ、その向こうの三瓶火山の西にある深い山中のムラに持ち込んだのでしょうか。
同じような屈折像土偶が地上を運ばれた例もTVで見ました。これは、何世代もかかって神戸市に到着しましたが、オリジナル(是川中居)と神戸の土偶との中間がなんと関ケ原だったという。現物では運ばれず、記憶の中で省略と忘却で変化してしまっていました。(土偶の陸送は不可能とわかりました)
縄文後晩期に青森から舟で島根まで。その島根から遮光器土偶やベンガラなどの赤色塗装された土製品が見つかっておれば、ベンガラと共に運ばれたことになるけれど、そんなものは出ていない。しかし、手足がへし折れてはいるけれど、この時代においてはいかにも丁寧に運ばれた様子です。注口土器も島根で使えたようです。
いったい、縄文時代とはどんな時代だったのか。とても不思議に感じます。そして、東北、特に青森の先史時代の不思議な様子は、驚くばかりです。
あんな丸木舟に、陰嚢付き注口土器を持った女と、座産土偶を持った女を乗せて日本海を南下して、嫁に行ったのでしょうか。
福島県あたりの遺跡を調べていると、縄文寒冷期には沢山の人々が南下し、北陸から近畿地方、中国地方を通って九州まで移動し、九州に土偶や石棒の文化をもたらしたり、また、西日本の土器を携えて故郷に帰ったりしている様子が見えます。地図もナビも磁石も、それどころか道路さえない時代に列島を自在に旅すること、宿も食堂もなく、野宿と草を食べながら、、、、いったいどうやって旅したのだろう。
こんなことを考えていると、本当に考古学の楽しさを感じます。
さて、前置きが長くなりましたが、ご指摘いただきました点につきましては早速修正いたしました。
そして、製鉄と、馬産者と、エミシについては、
まず、製鉄については頂きました資料を再度読み返しさせていただきましたところ、ほぼ答えが見つかったように思います。
馬産者につきましても、「馬買い禁止令」の記述から、当時の北海道アイヌや粛慎、エミシなどの関係を調べると、答えが導き出されました。
要するに、いただいた資料の中に答えや、答えのヒントが沢山ありました。私の読解力不足でした。
エミシとは誰かについては、やはり、都人からは東北地方に住む人すべて、実際には和人・縄文系・東北アイヌ・北海道アイヌなどいろいろだったと思います。
私が見つけた答えは、四角でくくってそれぞれの下に書いてみました。
ただ、東北地方でもう一つ疑問なのは、追分節です。これはモンゴルの民謡が伝わったとされ、実際にモンゴル人に聞いてもらうとおなじだとその秘密が解き明かされたと思われます。しかし、信州と東北にだけ伝わる、馬産に関わると思われる追分節が、いつごろ、どこから伝わったのかといった研究の文献が見つからない。以前はこのことが巷間でもかなり話題になったのに、最近ではほとんどネットにも上がらない。
また、アキナケス剣をモデルに蕨手刀を作った、サハリン経由でやって来た(ユダヤ系といわれている)人々の記事もネットから消され、このような人権にかかわることは、東北地方ではやはりタブーとなっているのかもしれません。
そういえば、ここで私が述べているほとんどの問題は、関西人にはわからないけれど、青森ではタブーとなっている人権問題に触れているのかもしれません。
北海道でも同様の人権問題があるようですから。
記事のどこかで上げている、津軽半島北端地域に分布するアイヌ村の存在についても、(きっと今も存在しているのだと思います)、タブーかもしれませんね。
あまりこの件について深く追求することはやめることにしたほうが良いのだろうと思います。
以上、長々と語りまして申し訳ありませんでした。今回は大変お世話になりました。ありがとうございました。
これからもどうぞお元気でお仕事にまい進してください。
2020.06.25
記述者氏名 |
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六ケ所村郷土館館長様
随分ご無沙汰しております。
過日は詳しい資料をお送りいただきましてありがとうございました。早速書き換えさせていただきました。
ここのところ、NHKなどの放送番組を視聴して資料を集めていました。
例えば、火野正平さんの自転車旅では野辺地駅から鷹架沼の間では今も馬を飼う人がいることがわかりました。
私が通った時にはそのような放牧は一切見られませんでした。あれはテレビ用の仕込みだったのかもしれませんが。(笑)
そういえば、下北半島の突端、尻屋崎では昔から寒立馬が有名で、今も放牧されていることを忘れていました。
ただ、この時驚いたのは、沼という名称だけれど、本当は大きな入り江で、河口付近に港ができて、大きな船が着岸するんですね。
私は三沢市で見た根井沼などを想像していました。ということは、改めてgooglemapを見ると、尾駮沼もきっと砂丘ができる以前の
凸凹した海岸線の入り江のことで、汽水湖なのでしょう。それをこの辺の言葉では沼と言うのだと思いました。
私の地方での沼のイメージは、湖・池などに泥が溜まって浅くなり、有機物の腐敗する、湿原や泥炭の溜ったイメージでした。
放送大学の講座を見ていますと、西日本では、大分県姫島の黒曜石は広く流通することで有名なのですが、長径6km幅2km程の小さな島は、
4つの小さな島が砂州で繋がったもので、その4つの小さな島には合わせて7つもの火山があるという、びっくりするようなことを知りました。
30万年前の火山です。
ところがNHKジオジャパン(4)東北・北海道編では、下北半島のまさかりの部分は、南北50km東西40kmの中に3つものカルデラが形成されており、
恐山カルデラができたのも30万年前と聞いています。
八甲田周辺から始まるカルデラ地帯には青森県内だけで6~7のカルデラがあり、それが南へさらに続いている。
青森県には南北に二つの火山帯が通っており、恐山は那須火山帯に属し、津軽半島は鳥海火山帯に属する。といったこと再認識しました。
NHK新日本風土記の「津軽」「下北半島夏」では、江戸~明治にアイヌ村があったという説明は流れるが、何度番組を見直しても
彫りの深い容貌の人は登場しませんでした。
「下北半島 夏」(実は、この番組の再放送7/10を待っていたので、ご返事が遅くなりました)では、
取り立てて古モンゴロイドのような人は登場せず皆、普通の老人の顔だと思いました。
少なくとも現在の青森では、過去のアイヌやエミシの問題は、人権問題とはなっていないかのように思いました。
それら以上に感じたのは、番組「下北半島夏」で取り上げられた、青森独特というか、下北特有なのか、
江戸時代に始まったという恐山に象徴される特有の信仰や宗教観。土着信仰というべきなのか、それが江戸時代に物質化したのが恐山信仰で、
戦時中に付け加わったと思われる、死者の結婚や、恐山で死者に衣類を共献するなど、その後も次々と新しい信仰習俗が付け加わっていく、
下北特有の民間信仰への驚き。
坂上田村麻呂は下北には侵攻していないはずなのに、脇ノ沢の鯛島にも各地にあるらしい坂上田村麻呂伝説があり、番組の中では、
それが事実のように物語られていること。 まるで、義経伝説の様に。
義経や田村麻呂を名乗って村人に財物を出させたり、子供ができていたというから、1年以上も逗留して無理難題を吹っかけていたような
都崩れみやこくずれ の ゴロツキが、この時期の東北地方を沢山うろついていたのかもしれない。
鯛島信仰は、八戸の蕪島信仰と同じようなものなのかと思ったり、赤い鳥居をたくさん並べた同じような神社が山口県にもあることから、
千石船が運んだ信仰なのかと思ったり、それは、田名部のまつりが京都祇園祭にそっくりであることなどと同じかと思ったりします。
関西から見ると、冬は雪に閉ざされた陸の奥というイメージがありますが、実際には江戸時代には五百石船が行って五百石、帰って五百石、
合わせて千石船という、
当時としては大変高額な交易をする船が沢山行きかい、とても繁栄していたようです。富と最新の文化が行きかったのでしょう。
きっと、もっと情報を集めれば、下北半島にはもっともっと興味深いことが出てくるのだろうと思います。
いま、「下北半島 夏」を聞きながらこれを書いているのですが、「ガンバリヤ!」という掛け声が聞こえました。関西弁も伝わったのかな?
津軽弁の自動翻訳機を開発している人がいるという話はTVで放送された。青森市の保健婦さんが津軽に赴任すると言葉が通じないという。
大事なことが通じないのは危険なので開発しているという。
ところが下北弁についてはそれほどの難解さは聞かない。 下北弁が生まれた
豊かな津軽半島は翻訳機が必要なほど閉鎖的で、言葉訛りが強く、寒冷海霧にさいなまれる下北では、共通語が浸透している。
なぜか?出稼ぎのせいか?下北は都会に出る人が多かったために文化が共通化し、津軽は豊かだったために津軽藩時代が残ったのかな。
青森県は、きっと知れば知るほど興味深いことが尽きないのではないかとも、下北はミステリアスな地域だとも思いました。
随分いろいろなご指導を頂きありがとうございました。また、「ひまじん」のかなりいい加減なHPをおほめいただきましてありがとうございました。
あくまでも「あそび」ですから、ご容赦願います。
本当にいろいろありがとうございました。心より御礼申し上げます。また何かございましたら宜しくお願い申し上げます。
差出人氏名
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本掲載までに解決すべき問題 このまま掲載するときは未解決
青森県の鉄生産
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論を進める前に知っておいていただきたいのです。東北地方には鉄鉱石や砂鉄の鉱床が多く、
青森県では、津軽半島西側の七里長浜と下北半島東側海岸には砂鉄が真黒い帯となって、現在も豊富な鉱床が広がっています。
鉄生産には2段階ある。製鉄と製錬。三沢市~六ケ所村~東通村の太平洋側にできた砂丘は、ヒバの針葉樹林が製鉄のために大量伐採され
はげ山になったためにできたものだと言われる。それほど膨大な量の薪炭を用いて行った鉄生産が、製鉄なのか、精錬なのかがわからない。
付近一帯には膨大な量の砂鉄鉱床があり、燃料が得られれば、たたら製鉄が行われて当然のはずだが、そのような文献が 見当たらない。
つまり、下北半島東部のヒバ林を伐採し、砂鉄を採掘してたたら製鉄を行ったのが、いつなのか、誰なのか、どこから来たのかはわからないのです。
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上の問題についての答えが見つかりました。 2021.1.22記述
下北半島東部のヒバの森林を切り払ったのは誰か
2020年9月から10月にかけての新潟旅行の本来の目的は柏崎市立博物館のたたら製鉄ジオラマと資料を見ることでしたが撮禁で断念しました。
その他の館で集めてきた資料の中に、中国地方から新潟県柏崎市にたたら製鉄の集団が来て製鉄コンビナートを築いた。軽井川南遺跡。そして、新たな生産地を求めて船出し、青森県の津軽海峡を通り越して太平洋側に出て、製鉄を始めたという記述を見つけました。
つまり、下北半島頸部で有り余る砂鉄を利用し、天然ヒバの大森林を切り払って薪炭にし、鉄を生産したのは、日本海側からやって来た中国地方由来のたたら製鉄集団でした。
軽井川南遺跡群は8世紀(奈良時代)~12世紀(鎌倉時代初頭)とされている。すると、下北半島に入植したのは、その頃か、それ以降となる。
柏崎から分家して下北に行ったのか、柏崎に来た集団同様に新天地を探していた別の製鉄集団がいたのかもしれない。
いずれにしても少人数でできる仕事ではなく、初期入植者に続いて大量の労働者や職人が呼び寄せられ、大規模な伐採と、薪炭製造、たたら製鉄が行われたことだろう。島根県斐伊川なんぞの砂鉄資源どころか、ここでは、海岸に層をなして真っ黒な砂鉄鉱床が広がっており、燃料と設備さえあれば、苦も無く大量の銑鉄が得られました。
日本海から来る船は、当時はまだ砂丘に埋もれていない入江(現在の沼)に停泊し、食料を持ち込んで、戻り舟には原料鉄が満載されたことでしょう。
膨大な原料鉄(柏崎市軽井川南遺跡でも鉄製品の製作は少なく、多くの鉄は銑鉄のまま出荷された)は、都やその他の都市へ運ばれたようです。
しかしヒバ林の伐採が進むと砂丘が発達し、やがて鉄生産ができなくなり、引き揚げていったものと考えられます。
この荒野となってしまった跡地に、(東北南部の製鉄集団が切り払った森林の跡に馬産者が入ったように)、下北半島にも馬産業者が入り、平安時代以降、放牧地となりました。そして、中国地方でもそうであったように、たたら炉の跡は風化し、製鉄コンビナートの遺跡は砂丘の下に埋もれたのでしょう。 |
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青森からはるか南の東北南部では長方形のたたら製鉄の痕跡が見つかっているだけで、それ以降は全て、関東型の小型縦型製錬炉である。
(宮城県・岩手県の鉄生産は未調査だが、)
その後、鉄生産地帯は岩木山麓に移動する。しかしながら、ここでは七里長浜の膨大な砂鉄鉱床を利用すること無く、単に岩木山麓に薪炭資源を
求めるだけで、製鉄原料は、どこからか運ばれて来るのである。半島から運ばれたものではないかと言われている。
考えてみれば、針葉樹林を伐採してしまうと二度と自然再生しない。あとは砂丘になって自然破壊を起こしただけである。
しかし、森林伐採で草原化してしまった地域に馬産を目的に入植を始めたのだから、東北北部の太平洋側は、広大な地域のおそらく原始以来
誰も踏み入ったことのないような地域で、無数の大木が切り倒され続けたのだろう。どれほど膨大な量の鉄が生産されたことか。と思う。
青森県太平洋側(糠部地域)は寒冷地だが、日本海側は暖流が北上し広葉樹林が繁茂し現在ではリンゴの生産も盛んである。
中国地方の鉄生産に伴う薪炭作りは、樫の木を20年毎に伐採するサイクルで運用していた。岩木山付近でも同じだったかもしれない。
岩木山では薪炭原料の再生産が可能だったとして、原料の鉄はどこから運んだのか。
縄文時代から盛んだった日本海航路は、弥生時代に入ると米交易や移民の搬送、各種物資の交易が盛んだった。
米やベンガラを積んで帰る戻り船と違い、来航する船は空船では危険であるため、おもし(重石)の代わりに人や鉄滓を積んできて、
米との交換材として交易したのかもしれない。(江戸時代には切り石を重しに運び、それを使った建築物が各地に残っている。)
以前、東北旅行した時に、10月にもかかわらず、河川でアユ釣りが行われていた。低水温で成長が遅いからだという。ならば、地球の温暖期に
繁茂したヒバ林を伐採して二度と蘇ることがなかったほどではないにしても、岩木山麓の広葉樹林の伐採サイクルは20年より長い思われる。
大量の木炭を必要とするたたら製鉄は維持できず、運ばれてきたズク(銑鉄)の製錬が精一杯だったのだろう。
結局、東北北部でのたたら製鉄の様子はほぼ不明である。広く行われていたのは日本海航路の交易品銑鉄を用いた製錬だけである。
各地の国府附属の官営工房では製鉄は行われず、精錬だけだったのか。追及が甘い。 |
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鉄生産の事実
東北地方南部では長方形の(たたら)製鉄炉、東北地方北部では関東から持ち込まれた円形竪型炉で製鉄を行っていた。
前者は中国地方型製鉄炉であり、後者は朝鮮半島式製鉄炉である。
長方形たたら製鉄炉は新潟県でも使われており、当時は広い範囲で使われていたようだが、使用後壊されてしまうため痕跡が残りにくい。
中部高地や関東からは半島系土器、特に騎馬民族に関係する(胃袋を水筒にした)土器が多数出土することから半島や大陸から来た人々が
多く住み、馬産を行っていたと考えられる。馬産には必ず鉄製馬具が必要で、半島系技術(円筒形竪型炉)を用いて作っていたものと思われる。
鳥取県からも革袋形土器など乗馬と関わる土器も出土するが、馬産とは縁遠い。従って、新潟や福島で出土した西日本型製鉄炉は馬産者とは関わりがなく持ち込まれた技術であると考えられる。(製鉄自体が目的)
一方、馬産目的に稲作限界を超えて北方に入植した半島系技術が色濃い関東・信州系の馬産者は、半島系製鉄炉を構築していったのでしょう。
ここで 私が不満なのは、「たたら」と付けば砂鉄等から還元・溶融して原料鉄を得ることだが、東北では単に「製鉄」という。
製鉄も製錬も鍛錬も全て製鉄という言葉で済まされるので、細かいことの、区別がつかない。
また、円筒形竪型炉は、長方形竪型炉のように製鉄時に壊さずに補修して使い続けられる物なのか(精錬炉では補修後再利用可)、ほとんど情報がない。これらのことについてはわからないことだらけだ。
ただ、分かったことは、かなり長い間、砂鉄から原料鉄の生産を行っていた。
やがて生産地が岩木山麓に移る頃には交易で得た原料鉄を縦型の製錬炉を幾つも連ねた精錬所で一斉に溶かし、材料鉄を作っていた。
岩木山麓での鉄生産の細かい発達状況は不明である。
西日本の製鉄に関してはつい最近全貌がわかったのです。それまでは、たたら炉の形すらわかりませんでした。記録と遺跡が残りにくいものの一つのようです。 |
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馬産の主体はだれか
阿光坊古墳群の被葬者のように、古墳時代終末期・奈良飛鳥時代から、東北地方太平洋側を開拓者が海岸から川沿いに入り込み、
どんどん北上して各地に集落を広げていった。その勢いたるやすさまじいもので、いったいどこからこれほどの人々が集まって来たかと思うほど
多数の集落遺跡が展開される。
太平洋側を南から来たのであるから、そのような船の航路があり、海運業者との密接な関係があって、物資や人の補給が行われたであろう。
船には優秀な種馬が積まれていた。(この頃の船は季節風を利用し、春の南東風で東北へ往路、冬の北西風で復路だったことでしょう。)
これに先立つ弥生時代に既に信州から関東に馬産遺跡があり、関東以西では各地に牧が開かれていた。
すると、阿光坊にやって来たのは、関東・東海の馬産者であると思われるが、ある文献ではエミシと書かれているものもある?
阿光坊古墳群では、西から都風な文化を持って大量に移住し、付近を占拠していくつも村を開いたのである。
南東北のエミシが馬産を始めたのではなく、倭人の馬産業者ではないだろうか。
ところが、馬産者の住居は円形竪穴住居に方形掘立柱建物が合体したものであるが、これは、続縄文時代の住居である。誰が住んでいたのか。
馬産者が続縄文人に変わったのだろうか。
実際、弥生中期以降の寒冷期に南下したアイヌは広く東北地方に分布し、北海道との間でも広く交易をしていたようである。
平安時代にアイヌ交易の拠点が、朝廷によって太平洋側から日本海側に移され、それまでの業者の既得権が奪われ、
朝廷側が独占することに対する戦争が生じ、多くのアイヌが和人と共に北海道に帰ったが、いまだ各地に残り、
近世、現代まで、青森県北端の海岸沿いには数多くのアイヌ村が点在していた。
彼らが馬産の担い手となったのか、それとも彼らの住居様式を取り入れたのかのどちらかであろう。大方の論文は後者であるとされる。
すると、やはり、馬産業者は和人だったことになる。
ここで詰めが甘いのは、馬産業者の墓形式である。アイヌ式の男性器女性器を模した墓標がなければ和人、あればアイヌと言えるが、
これについては追及している論文はない。アイヌ形式の墓標は各地で発見されているようだが、馬産と結びつける研究は見当たらない。
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馬産の主体についての一つの史実
阿倍比羅夫は658年に東北地方日本海側を北上しアイヌを制圧し、アイヌの要望に応じて粛慎(ニブフ)が奥尻島を占拠して北海道西海岸を
荒らすことをやめさせるためにこれを討った。この時、渡島アイヌとの間に朝貢関係を結び、熊皮や子熊などを貢がせた。
(その他にラッコの毛皮や鷲の羽根なども含まれていた。これらは渡島アイヌでは入手できないものであった。)
(この時、都人の地理的認識は渡島半島から北海道西海岸北部にまで及んでおり、羊蹄山なども認知されていた。)
718年に渡島・出羽の蝦夷が良馬千頭を朝貢し、その後787,786に馬買い禁止令が出た。658年から60年後、古代中国が朝鮮に命じたように
上越の阿倍比羅夫はこの地域に高価値で取引される馬の飼育と貢納を命じたようだ。50年もあれば、良馬が産出されるであろう。
このことから、アイヌもエミシも馬産を行っていたと考えられる。
一方、関東・信州地域から入植した人々は、弥生時代から長い歴史と経験を持ち、太平洋側からや、中通り、浜通りの長い街道を通って
東北地方一帯に広がっていき、各地で馬産を行った。縄文系や東北アイヌの土地で広大な地域を草原に変え、馬産を行うには、
蝦夷やアイヌと融合するしかない。その中で、地元民の馬産業者も育ったであろう。
つまり、馬産業者は、最初は和人が持ち込んだが、やがて広くエミシ・アイヌにも広がり、良馬が産出されれば、生産者は誰でもよいし、
都人にとっては、全ての東北人は、半島系も縄文系も、すべて蝦夷であった。
このような中で、北海道アイヌ=続縄文人の住居形式である掘立柱建物付竪穴住居も馬産に欠かせない施設として誰れ彼れなく取入れた
のではないかと思われる。
つまり、馬産の主体は和人、蝦夷、アイヌの人々であったと言える。
誤りと思われる論文
「中世以前の東北の牧馬」安田初雄(福島大学)では、
658年の事件は、渡島は北海道ではなく秋田県米代川流域か津軽地方のこととし、この地域に靺鞨人や韃靼人が棲んでいたと言っている。
彼らはどちらも騎馬民族であり、乗る馬はサラブ・アラブのような大型馬である。
当時生産したのはポニー、小型馬である。また、 なぜ、靺鞨や韃靼がそこに住んでいたのか、これらの記述に対する裏付けが全くない。
また、 当時の地理的範囲の認識も間違っており、日本書紀には羊蹄山(この付近のことをしりべしと呼んでいた)まで登場する。
現在も羊蹄山付近のことをシリベシと呼んでいる。
一般的に阿倍比羅夫が粛慎を討ち、アイヌの活動範囲を広げたと考えられているが、
どのような地理的認識であるか、矮小化された伝聞であるか、阿倍比羅夫は米代川周辺でアイヌをいじめたことになっている記述があるようだ。 だとすると阿倍比羅夫っての随分チーセー男で現代まで伝わるほどの人間ではない。ただのヤクザ者に過ぎないことになる。
阿倍比羅夫北征における米代川遡航説について
ここの記述のように小舟で川を遡って付近のアイヌを討ってヤアヤアと勝どきを挙げた、すると北海道アイヌが力を得て粛慎を襲ったり、
中国から無理難題を迫られていたアイヌが山丹交易と和人交易の三角貿易をしたりできるわけがない。
この論文に記載される古文書は間違いだろう。
いずれにしても、北海道西部は記紀の時代の地理的範囲である。
靺鞨:中国沿海州の粛慎の末裔。後に女真族となって清朝を打ち立てる。
韃靼=タタール人:北アジアから東ヨーロッパにかけて住む、モンゴル系、トルコ系、ツングース系、フィン系などを指す名称。騎馬民族。
この論文の真偽はいかに。
この時期、北海道アイヌや粛慎の活動は活発で、粛慎は千島列島に広く分布・居住してラッコ猟や鷹猟をしていたし(大変貴重な交易品)、
アイヌは山丹交易や和人との交易など三角貿易をしていたし、サハリンやアムール川流域まで出かけていた。
粛慎は奥尻島を占拠したのちに佐渡島まで南下し、住んでいたという。北海道の地名が記紀に乗るはずがないと決めつけるのはどうかと。
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蝦夷とはだれのことか
エミシとは古代東北地方に住む人々である。ところが、なんとなく、漢字が同じことからエゾ即ちアイヌと思いがちである。しかし、そうだろうか。
本来列島には縄文人が住んでいた。彼らはアジア人種とヨーロッパ人種がまだ未分化な段階で列島に渡り、同じような遺伝子を持ちながら、
各地で固有種として分化した。
その後、遺伝的影響は、北海道では北方ユーラシアから影響を受け、西日本では半島から、太平洋側では、遠く南方からの影響を受けてきた。
後期旧石器時代以来何万年も続いた人種的安定の時代は文明の発達による海上交通の発達と、気候変動による食料戦争によって破られた。
3000年前には既に北部九州西岸や島嶼部で、縄文人と半島人の混血が存在し、船の運航・交易に携わっていた。
この頃、陸稲と刻目突帯文土器を携えた『山の大陸系の人々』が200年で西日本一帯に広がり、そのあと『水田稲作民」が遠賀川式土器を携えて、
列島を西から拡散した。
水田稲作農耕民は縄文人が利用していなかった湿地を開拓して広がり、陸稲農耕民は焼き畑をしながら山間地に広がっていった。
弥生人の拡大は1200年余り続き、東北地方日本海側では縄文人が本来の縄文生活に加え、弥生農耕文化(水田稲作)をも加えた生活に変化し、
九州地方では、平地の弥生人と山の縄文人とに分かれて暮らし、西日本では半島人が支配的に暮らしていた印象がある。
原始ヤマト政権の時代には、ヤマトタケルなどという、各地を転戦して半島系や縄文系の有力弥生人を支配する、ローマ時代にもいたような
つわものが出現し、支配圏を広げていった。
それだけではなく、何度も半島に出兵し、転戦した。これは外国を攻めるとは思っていず、自分たちは半島人の一員であり、こちらに来て
力を蓄えたので、半島のもめごとにも参加しようといった程度の意識である。この時の参戦者は半島出身者Ⅰ世とかⅢ世とかであっただろう。
しかし、白村江の戦いで大敗すると、この時初めて、半島人ではない自分たちを知り、列島を自国として防衛する意識を持ち、大和国を意識した。
自国という意識の元に、中国の制度にならい、大宝律令を制定し、中国に文明国として認知してもらおうと文明化を試みる。
問題は、律令の精神を貫く中華思想である。
中華思想とは世界の中心に自国があり、その周囲にあるのは、蛮族の国で、下等で危険で敵である。彼らを支配し重税を取り立てよう。
といった、一方的な思い込み、それが問題である。
大宝律令の制定によって大和朝廷は南島と東北地方を夷狄とし、朝貢を命令し、敵対視することとなった。
朝貢を「手土産を持ってひれ伏しに行くこと」などというTV番組もあったが実際は重税を課すのである。
それまでは、毎年朝廷に招いて正月の行事を行っていた人々を、今日からお前らは下等で危険な蛮族だ。税金を出せ。敵だ征伐してやる。
この時までに、南島には沢山の半島人が入植していた。
東北地方には第1次ヤマト政権(第2次ヤマト政権は神武東征以後。)の人々が逃亡していた。
また、多くの和人がアイヌ交易や馬産目的などで、(半島系弥生人が)入植していた。
ここにある日突然重い税負担を強いられ、脅され、勝手にお前らは敵だと戦争を仕掛けられたら、怒るよな。
南島でも多数の船で南島人が九州の島や西海岸を襲撃しています。
東北では、何度も何度も戦争を仕掛けられました。なんとも不幸な敵対視政策が戦争を生み、その後長く捕囚や、防人だと、敵対視し続けられ、
根絶やしをもくろまれ続けた。悪政である。
ネット上にあるほとんどのエミシ関連の文献は、エミシを十把一絡げにして論じ、あたかも蝦夷という民族でもいるかのような話しぶりだが、
ヤマト政権からすると東北地方に住む者全てがエミシである。しかしその中には、半島系、縄文系、アイヌ系の人々がおり、戦争とは何の関係も
ない人々が大多数を占める。
ここで問題なのは、ヤマト政権の差別政策、又は怯えた政策、被害者意識、怨嗟の政策、などと思える異様なまでの東北敵視政策と、
研究論文の多くがエミシとはどのような人々であったかを考えずに単にエミシという集団として捉えているところである。
最後に私の甘い所は、これらの論証に裏付けを全く示していないところである。
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目
次 |
はじめに
01八戸駅から六ケ所村郷土館へ
10地学系展示
11 1600万年前の貝化石
13微化石
資料 砂子又層
15六ケ所村の詳細
海底火山が作った
六ケ所村の大地
20考古系展示
21六ヶ所村の歴史を探る
上尾駮遺跡
30旧石器時代
31神子柴・長者久保石器群
幸畑(7)遺跡
33剥片石器
36掻器
37円盤形石核
37円盤形石核
50縄文時代
51縄文海進
52隆起線文土器 表館遺跡
53縄文の暮らし
60六ケ所村の遺跡
61表館遺跡
62大石平遺跡
63上尾駮遺跡
64発茶沢遺跡Ⅰ
65発茶沢遺跡Ⅱ
66富ノ沢遺跡
68鼻曲がり土面
80土製品
81手形足形付土製品
考察 縄文の渦巻き文 |
90土偶
91六ケ所村の縄文土偶
92六ケ所村の土偶・土版
94有脚立像土偶
95遮光器土偶
100小型土製品
鐸形土製品
円盤状土製品
111三角柱土製品
112三角型磨り石
113石刀 大石平(1)遺跡
114玉未成品と玉砥石
115耳飾り
116耳飾りと大珠
120土面 上尾駮(1)遺跡
121鼻曲がり土面
130織物 オヒョウ
135編布(アンギン)
151竪穴住居の生活
152狩猟・漁撈・採集生活
153復元住居
180人骨の出土
18歳の縄文美人!
190縄文時代の狩猟場
191落し穴
200富ノ沢遺跡
20円筒上層式土器
210富ノ沢遺跡
212土錘・石錘
213祭祀土器(臓骨器)
赤漆彩色切断壺形土器
人体文土器
215表館(1)遺跡
216石鏃・石槍・石匙
217神子柴型石器
(1)神子柴型石器群
(2)➀神子柴型と神子柴系
②土器の有無の違い
③神子柴型石器の三期
218石製品
青龍刀形石器 |
230縄文土器・石器
233縄文時代草創期
234縄文時代早期
237縄文時代前期
300縄文時代中期
320縄文後期土器
322後期初頭
323後期前葉
324後期前葉
326石棒
350縄文晩期
354出土した種子の植物
400弥生時代
410念仏間式土器と天王山式土器
412天王山式土器
東北北部の土器編年
420家ノ前遺跡
下北と東北南部の土器が出土
422天王山式類似土器
430大石平遺跡
弥生時代後期の集落遺跡
440上尾駮(2)遺跡 中期後葉
なぜ集落は縮小したか
450弥栄平(4)遺跡
異質な続縄文土器が出土
460千歳(13)遺跡
中期後葉~古墳時代初頭
続縄文土器
470土製紡錘車 家ノ前遺跡
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500平安時代
501六ケ所村への入植
研究 北東北部への入植者
馬飼の開始
503 9 後半~11cの青森
520家ノ前遺跡9c~10c
524製塩土器
526鉄製品
530上尾駮(2)遺跡
532第1号鍛冶場遺構
考察 六ケ所村の製鉄 540金堀沢遺跡
543白玉帯 表館遺跡Ⅱ区
550弥栄平(4)遺跡
552第17号竪穴住居跡
555錫杖状鉄製品
560沖附(1)遺跡
565灰釉陶器
570発茶沢(1)遺跡
掘立柱建物 馬屋?
580須恵器大甕
600自 然
601六ケ所村の花
604六ケ所村の動物
700民俗展示
701民俗・農林業
702漁業
丸木舟からカッコ船
800六ケ所村ジオラマ |
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はじめに
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青森県には撮影可能な地学系博物館はありません。県立郷土館は撮影可だが、HPへの掲載ほぼ不可。撮禁の弘前市立博物館には何が展示されているのかわからない。そのすぐそばにあった十腰内式土器の専門的展示館は、もちろん撮禁だったが、名前だけ残してコーヒーショップに変貌した。展示してあった十腰内式土器は何処かの倉庫に押し込められてしまった。長野県駒ケ根市と同じだ。儲からないものは潰してしまえ式の。
青森県は東北地方で最も遅く隆起してきた地域であり、大きな火山が多く、カルデラの上にカルデラが重なったり、何度も巨大噴火を起こしたり、また、津軽半島や下北半島の形成過程や古地形などは実に興味深い。青森県にもたくさんの大学があり、幾多の郷土の天才秀才を集めているにもかかわらず、この分野だけに興味がないはずはない。
地学展示と言えば、外国から高額で恐竜や古代象化石を購入することと思い込む傾向があるが、そうではなく、純粋に地域の大地の成り立ちを
図や模型などを通じてわかりやすく展示することの方が大切である。恐竜化石はファーストインパクトにすぎないと思う。
館長から聞いた話しであるが、下北半島一帯の自治体がまとまって地学関連の資料館を建設しようと、ジオパーク博物館構想を練っているそうだ。
それは素晴らしいことであるが、5年10年先の話である。これから国に申請して、学者を集めての話しである。私が見られるかは疑問だ。
そのような中で、六ヶ所村郷土館では、豊かな経済力の中、現館長の肝入りで地学・自然科学コーナーが設けられるそうである。期限は3年以内。
これなら私も希望がある。現在郷土館には、下北半島の頸部の堆積岩の展示があるが、ここから推定する下北は確かに地学的興味をそそられる。
是非期待したいと思います。。 |
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01八戸駅から六ケ所村郷土館へ
八戸駅新幹線ホーム東北では新幹線ホームは高架でない。 |
八戸駅新幹線ホームを青森鉄道月台から見る
別棟だが地上である |
ガラス窓の湾曲がちょっとカッコイイ |
青い森鉄道の車窓
車窓には広大な稲作地帯と針葉樹林が延々 |
六ケ所村郷土館
野辺地駅から車で下北半島縦貫道路を使い、40分ほどで到達。外来者用駐車場がわからなかった。
六ケ所村には核廃棄物の膨大な量の貯蔵タンクがあり、莫大な補助金が交付されている。とってもリッチなムラである。
私もここに住めば、僅かな年金からごっそりと税金や掛け金を取られなくて済むだろう。
➀ 郷土館入口
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②館内案内図(以前)
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←図②のように郷土館HPの施設案内にはほんの僅かな展示物しか描かれていない。
例えば六ケ所村模型設置場所の前方にある壁側は空いている。
これは開館当時の展示です。(平成3年8月開館、西暦1991年、30年間ほったらかしだったのか)
現在、現館長によって積極的に貴重な遺物が続々と展示され始めています。➀写真内の右端
これからの展示の増加が楽しみです。 |
館長や学芸員は県から派遣されるそうです。現館長の任期は残り3年なのですが、その間に収蔵庫からなるべく多くの貴重な遺物を出して、
新たな展示物で楽しませていただきたいと思います。
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10地学系展示
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※館では元々地学展示がなく、地学系イベントとして現館長主催で、地域の地形的特徴のある地域を巡るツアーなどを開催しています。
青森県には地学展示のある博物館はありません。博物館展示のメインはまず地学かと思いますし、青森県は巨大カルデラや火山がいくつもあり、
陸地の成因に関しては、十和田カルデラ・八甲田カルデラ・白神山地と太古のカルデラや、陸奥湾・下北・津軽半島の成立など、
地学的に興味深い場所は多々あるのに、そんな展示はどこにもありません。
従って、六ヶ所村郷土館の地学ツアーは関心を持つ層を広げる素晴らしい活動だと思います。是非、今後の発展を願うものです。 |
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11 1600万年前の貝化石 新生代第三紀中新世
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この化石は、六ケ所村、出戸棚沢、標高450mから発見されたもので、1600万年前に生きていた貝の化石です。
その後、海底火山による地殻変動で、海底の地層ごと押し上げられました。(※実に若い地形です。現在も隆起途中にあるようです。)
泊地区中山崎では、海底火山噴火の枕状溶岩を見ることができます。 |
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かつては通路。今は展示物が置かれている |
右隅が地学コーナー
今はまだこれだけですが、今後増える予定 |
貝化石 |
①⑥ニシキガイ
②ニシキガイ
(ヒオウギの仲間)
③イシカゲガイ
④カガミガイ
⑤シジミガイの仲間 |
1600万年前の貝化石
上に記述 |
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13微化石
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海抜20mの林道の露頭では、新第3期鮮新世(1,300万年前から200万年前)の砂子又層 (すなごまたそう) に生痕・巣穴の化石(泥管=でいかん)を観察することができます。
海綿の骨針(こっしん)や珪藻円心類(えんしんるい=中心類)の破片微化石を含んでいます。昔は海底で、後に隆起したことがわかります。 |
資料 砂子又層 引用下北半島東部,砂子又層に挟在するガラス質火山灰の広域対比の可能性について
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顕微鏡で微化石を観察してみよう |
倉内地区クビリト林道
生痕(巣穴)化石 |
倉内クビトリ林道
海抜20mの露頭 |
生痕・巣穴の化石
砂子又層
1300万~200万年前 |
1.海綿の骨針 海の中の海綿
海綿スポンジ
海綿の骨針顕微鏡写真
海綿骨針 |
2.その他の微化石 海底や海中を浮遊する微生物 |
貝形虫・放散虫
有孔虫・珪藻 |
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15六ケ所村の詳細
大学生の頃下北半島脇野沢を旅行した時、車窓にいくつか断層が見え、最後に大きな切れ目、小地溝帯があり、大変興味を持った。
(当時は調べる方法はなかったが。小地溝帯ではなく、下北断層だそうです。)
海底火山が作った六ケ所村の大地
海底火山が造った
六ケ所村の大地
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山地: |
海底火山が隆起:安山岩質
新生代第3紀中新世(約2300万年前から約500万年前)
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砂丘: |
天ヶ森砂丘、約6千年前の縄文海進以降に太平洋から堆積した。
平安時代以降のたたら製鉄用木炭獲得のために樹木が伐採され、
その後、太平洋から堆積した。
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蟻戸野:旧南部藩9牧の一つ。七戸蟻戸野。丘陵。
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梵天山 |
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六ケ所村歴史マップ |
1.貴宝山神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
2a.中山崎大砲場跡(六ヶ所村泊字焼山)
2b.遠見番所跡(六ヶ所村泊字焼山)
3.大穴-どうくつ
4.大乗寺といちいの木(六ヶ所村泊字村ノ内)
5.諏訪神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
6.稲荷神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
7.泊のまる木舟
8.高磯崎大砲場跡(六ヶ所村泊字南川)
9.屋萩神社
10.沼ニシン漁
11.一里塚(六ヶ所村平沼字道ノ下/久 |
12.平沼大砲場跡(六ヶ所村平沼字道ノ下)
13.熊野神社(六ヶ所村平沼字追館)
14.平安寺(六ヶ所村平沼字道ノ下)
15.常照寺(六ヶ所村倉内字道ノ上)
16.安倍館(六ヶ所村倉内字道ノ下)
17.いっこう供養塔(六ヶ所村倉内字前谷地)
18.内沼蝦夷館(六ヶ所村)
19.熊野玉串神社(六ヶ所村倉内字石神)
20.中志蝦夷館
21.マデ漁法
22.千歳のしなの木 |
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20考古系展示
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驚くことに、この館では、展示の目玉となる遺物が最初に展示されている。旧石器時代の「神子柴型石器」、縄文草創期の「隆起線文土器」である。
これらが県立郷土館に収蔵され、展示されているものがレプリカであったとしても、うっかり見逃すことがないように気を付けたいものである。 |
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21六ヶ所村の歴史を探る
上尾駮遺跡(かみおぶち)
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今から約20,000年以上前、地球の大半が氷河に覆われる寒い気候でした。当時の海面は凍り付き、今の陸地より130m~140m程水位が下がり、北海道と青森は陸続きになっていた。当時の青森は現在のシベリアくらいの気候だといわれています。 |
六ヶ所村の歴史を探る |
上尾駮遺跡
上に記述 |
氷河期の古地形
北海道南部 |
青函トンネルは津軽海峡にあった二本の地峡のうち太い方の中を通って作られていたのか。
驚きである。
渡って来た旧石器人の見た風景が想像できる、夢のある地図 |
青森で発見された化石 |
➀ナウマン象の臼歯
②ナウマン象
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トラ・野牛(バイソン)
オオツノジカ、ヒグマ
ニホンジカ |
③アオモリ象 |
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30旧石器時代
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獲物を追って移動したベースキャンプの跡なのかな?
31神子柴・長者久保石器群 幸畑(7)遺跡(こうばた) 後期旧石器時代終末期(約1万2千年前)
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現在、鷹架野鳥の里公園(たかほこ)となっている幸畑(7)遺跡は、鷹架沼右岸の台地上にあり、
青森県では極めて珍しい旧石器時代の
長者久保・神子柴系(神子柴・長者久保石器群)石器群が、50㎡という狭い範囲で出土した。遺構は見られなかった。
定住社会となる前、狩猟が中心で獲物を追って移動し、定期的に人々が集合するベースキャンプのようなところだったのか。
1 遺構 なし
2 遺物 丸鑿(まるのみ)1点、掻器5点、彫器1点、片面尖頭器1点、円板型石核1点、
未成品石器(砂質安山岩)2点、礫石器2点、剥片97点、チップ107点 |
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六ヶ所村の湖沼
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長者久保遺跡の出土物
長者久保遺跡 引用コトバンク長者久保遺跡
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青森県上北郡東北町甲地にある旧石器時代の遺跡。1962~64年(昭和37~39)佐藤達夫らが調査した。
特徴的な円鑿、石斧、小形打製石斧、石槍、彫器、物をそぎ削る削器など約50点が、川沿いの谷筋の低い粘土層から出土。
その上面を洪積層の軽石流堆積(たいせき)物が覆っているため旧石器時代と思われる
が、調査者は、円鑿は磨製石器であるから新石器時代の所産であるという。(以後略、イサコボ文化についての記述は間違いである。イサコボは6千年前である) |
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長者久保・神子柴石器群
獲物を追って移動したベースキャンプの跡なのかな?
上に記述 |
長者久保・神子柴石器群
丸鑿、片面尖頭器
掻器,掻器2,円盤形石核 |
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石斧・礫石器・剥片等 |
丸鑿・片面尖頭器・掻器 |
ナウマンゾウを食べていたの? |
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掻器 |
掻器、円盤形石核 |
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ナウマンゾウを食べていたの
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旧石器を調べたら、ナウマンゾウ・オットセイ・オオツノジカ・タヌキなどの動物、 モズ・アカハラなどの鳥、 オットセイ・イルカなどの海の動物の脂肪がついていました。狩と解体に使われたようです。 |
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32 参考資料「長者久保 ・神子柴文化期 にお ける土器 出現 のC14年代・較正暦年」
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これらは石器原石でしょうか。それとも重量石器でしょうか。
川原石のようですが、磨製石斧ではないと思いますが。 |
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33剥片石器
これは打製石斧なんでしょうか
剥片石器 |
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この形の石器はWikipediaで見たんですが、
今のところいくら探しても再発見できない。 |
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34
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36掻器
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37円盤形石核
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掻器
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円盤形石核
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引用「石核とは」コトバンク
定型剥片を得るために、事前に原石を加工しておくこと。調整石核。
円筒形、円錐形、半円錐形、円板型石核、舟底形、亀の子形などがある。
前期旧石器時代後半以後、フランス・ルバロワ遺跡 (ルヴァロワ)の名をとるルバ(ヴァ)ロワ技法が、アフリカ・ヨーロッパロ・アジアにまで広がった。
ちなみに、
後期旧石器時代には長さと幅が2対1以上の細長い剥片、石刃を量産する石刃核が生まれる。
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50縄文時代
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51縄文海進
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今からおよそ9000年~6000年前、縄文早期にあたります。
気候が温かくなり、氷河が溶け始め、海水面が現在よりも約6メートル前後上昇し縄文海進が起こりました。
気候が温かくなり、森には動物が棲み、入江には沢山の魚介類がいて、豊かな自然ができ、縄文の集落もできました。 |
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52隆起線文土器 表館遺跡 縄文草創期
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37本の細い粘土紐が貼り付けられているので、このような名前が付きました。
人類が初めて煮炊きして食べることができるようになり、旧石器時代から縄文時代に移るきっかけとなった日本最古・世界最古の土器の一つです。
そこがとんがっていて、女性のオッパイの形をしています。土器自体が、女性や命を育むものを象徴しているのかもしれません。
約1万年前にして、この美しさ!そして、この完成度。
DATA:縄文草創期 12,000年前、37本の貼り付け隆起線。高30.5cm口径22.0cm、底部乳は房状、底部に2条1組の隆起線文。 |
※隆起線文はどのようにして貼り付けたのだろうか。
細い粘土紐は動物の腸にゆるい粘土を入れて押し出して作るとして、
➀どうやってこれだけ等間隔に、②形が固まった土器の上に落として半回転したら先程載せたものは落ちてしまう。それに、
③乾けばパリパリッと取れてしまう。または、焼いたら取れてしまう。細い粘土紐の貼り付けは難しい。
粘土紐を貼り付けるという考えを捨てて、板の端に等間隔でラーメン程の刻みを入れ、土器の表面調整のために、
グルっと土器の周りを回して削れば簡単に表面調整と、滑り止めのグリップが付いてしまうような気がする。しかし、これとて難しい。
昔この方法で凸縞のあるコーヒーカップを沢山作って、みんなクレクレで持って行かれちまった。把手が壊れたのも持って行かれたなぁ。
しかし、これとて37本等間隔に入れるのは大層難しい。やはり、貼り付けたのか。すごい技術。草創期だけどなぁ。
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53縄文の暮らし
縄文の暮らし |
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竪穴住居
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狩り
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木の実拾い
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漁撈
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潮干狩り |
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60六ケ所村の遺跡
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61表館遺跡 縄文時代草創期(約12000年前)
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表館遺跡は(1)と(2)に分かれています。その一部は昭和30年から考古学界に登場して、古くから有名な遺跡です。昭和47年から試掘、昭和54年から発掘調査が実施されてきました。写真①~③は、昭和62年度のものです。
①は現場の全景で、南の方から撮りました。②はA地区の遺構(竪穴式住居群など)を真上から撮したものです。
館内に展示中の縄文時代草創期(約12000年前)の隆起線文土器(上記52)は、ここから出土したものです。
③はA地区低位面の調査風景で、どのくらいの深さから遺構や遺物が出たか分かる写真です。 |
表館遺跡 |
遺跡全景ほぼ海岸。
(上に記述) |
発掘状況 |
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62大石平遺跡(おおいしたい) 縄文時代中期末~後期初頭
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昭和49年に発見、昭和58~60年まで3年にわたって調査されました。
縄文時代中期末~後期初頭の竪穴式住居61軒、土壙777基などの遺構と一緒に手形・足形付土版(展示中)が発見され、そのほか、
弥生時代の竪穴式住居9軒と土壙も検出されています。弥生時代の土器は一部を館内に展示しています。
写真①手形付土版の出土状況。 ②縄文土器の出土状況。 ③昭和60年度調査風景。 ④遠景。 |
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①手形付土版の出土状況 |
②縄文土器の出土状況
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③昭和60年度調査風景 |
④遠景 |
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63上尾駮遺跡 縄文・平安時代の複合遺跡 縄文時代前期
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この遺跡も(1)と(2)にわけられて、更にA~C地区に分かれています。発掘調査は昭和60、61年に行われました。2か所とも縄文時代と平安時代の複合遺跡です。
①上尾駮(2)遺跡C地区から出土した縄文後期のヒスイ(硬玉)製品です。翡翠の原産地は新潟県糸魚川付近で、この中の4個は写真③の様にまとまって出土しました。
②は上尾駮(1)遺跡C地区の縄文晩期の土坑から出土したヒスイ製の勾玉と丸玉で、紐を通して首に飾りネックレスとして用いられていたものです。
④は上尾駮(1)遺跡C地区の調査区遠景です。 円形の窪みが縄文時代前期の竪穴式住居で、方形のものは平安時代のものです。 |
上尾駮遺跡 |
①上尾駮(2)遺跡C地区縄文後期ヒスイ製品 |
②は上尾駮(1)遺跡C地区縄文晩期土坑出土、ヒスイ製勾玉と丸玉。
首に飾るネックレス |
③まとまって出土した |
④遺上尾駮(1)遺跡C地区遠景。 円形の窪みは縄文時代前期の竪穴式住居。方形は平安時代の住居址。 |
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64発茶沢遺跡Ⅰ 旧石器・縄文・弥生・平安・江戸
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発茶沢遺跡は表館遺跡の一部として昭和30年頃から知られていました。 現在、(1)(2)に分かれ、(1)は表館(1)遺跡と隣接しています。(図B)。
昭和54・55・60~63年に調査され、旧石器・縄文・弥生・平安・江戸の各時代の遺物と、58軒の竪穴式住居(うち縄文2軒)、
落とし穴とみられる溝状ピット665基、各種土壙81基、掘立柱建物跡10軒などが発見されました。
注目される遺構は、溝状ピット群(Ⅰ-②、Ⅱ-①②)と掘立柱建物跡です。 |
発茶沢遺跡Ⅰ |
①掘立柱建物跡 |
②掘立柱建物跡
断面 |
発茶沢遺跡 |
図B
発茶沢・表館遺跡
発掘地図 |
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65発茶沢遺跡Ⅱ 縄文後期初頭 平安時代
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溝状ピット数は全国最大級で、(図Aの様に配置され)、縄文時代後期初頭(約3000年前)に構築されたものと推定されています。
掘立柱建物跡は、平安時代の竪穴式住居と併設された類と、されていない類とがありますが、馬の飼育施設と推定されて「尾駮の牧=おぶち」と
推定地にも挙げられています。(館外に復元されたものがあります:未撮影)
写真Ⅰ-①は平安時代の竪穴式住居跡、Ⅰ-②は溝状ピットを埋めた土層の状況。 Ⅱ-③は昭和62年度の遠景写真です。 |
発茶沢遺跡Ⅱ |
竪穴式住居跡
平安時代 |
溝状ピットを埋めた土層 |
昭和62年度の遠景写真 |
図A
B地区の溝状ピット配置図 |
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66富ノ沢遺跡 縄文時代中期中頃から末葉
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富ノ沢(1)(2)遺跡は昭和46年に発見され、現在は同(3)もあります。発掘調査は昭和63年から平成2年まで行われました。
縄文時代中期中頃から末葉まで(約4,500-4,000年前)の竪穴式住居跡約500軒、土壙約900基のほか配石遺構、屋外炉、掘立柱建物跡などが
環状に発見されて(環状集落)、日本最大級の縄文集落が営まれていたことが わかりました。
大量の土器、石器のほか、土偶、シカの角、炭化したドングリ、クルミの実なども出土しています。
※当時は、暖かく大変豊かな暮らしがあったようです。500年間の建て替え率は1棟/年、1軒20年もつとして20軒ほどの住居があったかな。 |
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68鼻曲がり土面(右曲がり) 上尾駮遺跡 縄文晩期 約3,000年前
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鼻の曲がった土面は青森県の太平洋側から岩手県の北部から出土。そのほとんどが左に鼻が曲がっていますが、唯一、この土面だけが右に曲がっています。特別なお祭りのときに祈祷師が付けていたのかもしれません。 |
鼻曲がり土面
(右曲がり)
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※ド素人の勝手な想像
粘土でこの土面を作ろうとすると、右利きの私には大変無理が掛る。不自然だ。
向かって右眉の付け根から鼻を経てその先を左に曲げるのは、無理な造形で、逆ならできる。
この作業をする場合は左手で行う。右では作りにくいから右利きはこんな意匠の発想はしない。
これはたぶん左利きの人の作品だと思います。
土面の右鼻曲りの割合は縄文人の左利きの割合を示しているのだろうと思います。
北海道-四国近畿の土面出土数147/80遺跡、東北は116点。
青森岩手で83点。特殊な祭具の鼻曲りは5面。左利きは5/83?=6%
(現日本人の左利きの割合11%) 縄文人は右利き社会だったか? |
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80土製品 |
81手形足形付土製品
六ケ所から東京、パリへ!
手形足形付土製品
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東京国立博物館で、2018.7.3~9.2まで開催される特別展「縄文―1万年の美の鼓動」において六ケ所村大石平遺跡出土の「手形足形付土製品」と表館遺跡出土の「隆起線文土器」が展示されます。
同、10.17からはパリ日本文化会館で行われる「縄文」展に展示されます。六ヶ所村から東京、パリへ旅立つのです。
手形足形付土製品は「想いを伝える美」として紹介されます。手形足形付土製品には、渦巻き文様が記されていて「胎児や魂を象徴している形ではないか」と言われています。
生まれて1歳ぐらいの赤ちゃんの手形をとり、渦巻きの文様を施したお母さんの想いとはどのようなものだったのでしょうか。
赤ちゃんの生存率の低い時代でしたので、我が子を思う母の温かい想いが伝わってきます。 |
縄文時代の母の愛
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現代でも赤ちゃんの誕生記念や成長記録として、手形・足形をとることがありますよね。これと同じことが縄文時代にも行われていました。
北海道から東北にかけての遺跡では、子供の手形や足形のついた土版が出土としています。
これらは子供の成長祝うもの、お守り、子供の形見であるなど様々な説が唱えられています。
いずれにせよ、子供を想う母の愛情は縄文時代から変わらないものなのですね。 |
考察 縄文の渦巻き文
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※この文様を「渦巻き」と書いてあります。確かに渦巻きですがよく見ると、中心は受け止める形。下の方には尖った形があります。
これは縄文時代特有のデザインで、色々なもののデザインに用いられています。ただの唐草文様にも見え、そのように一瞬で思い込んでしまいますが、少し違うようです。
下の写真は、十和田市郷土館所蔵の土器と岩版ですが、ここにも整った形で描かれています。また、東北地方縄文後晩期の鉢又は皿の裏面にもこのような文様がデザインされています。 |
入組文or三叉文、渦巻文 参照「縄文土器の文様を作ろう」
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この文様をY字と見ると三叉文。二つの曲線が絡んだ形と見れば入組文。渦巻きと見れば渦巻文。ハハハどれでしょう。入組渦巻文・入組三叉文? |
土器
十和田市郷土館蔵 |
岩版
十和田市郷土館蔵 |
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ただの渦巻きではなく、起点と終点、それを点対称図形にして上下を逆にすることにより、永遠の輪廻(岩版左)、丁度、現代のリサイクルマークのような意味なのではないでしょうか。生まれ変わるという意味。再生。
又は、男性器と女性器を表して、これもまた輪廻再生を表し、死んだ子供の再生を願ったのではないでしょうか。 |
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90土偶
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91六ケ所村の縄文土偶
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六ケ所村の土偶は縄文時代中期(4500年前)から作られるようになりました。
始めは顔や胴体、腕のみで十字型に造られています。徐々に時代が進むにつれて脚が生え、精巧な文様が描かれるようになりました。 |
中
期
約
4
5
0
0
年
前 |
十字型無脚土偶 |
富ノ沢遺跡 出土 |
顔に点で表現された目と口が、目の上には粘土で貼り付けた鼻と眉毛が表現されています。
とてもかわいらしいですね。
※かわいいとかの情緒の問題ではなく、顔の表情の造形は、眼窩を設け、その中に眼を描いている。体全体の造形は幼稚だのに顔の造形力は高い。 |
十字型無脚土偶
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千歳遺跡 出土 |
体全体に沢山の点が付いています。
両腕には渦巻の模様が描かれています。
お腹の部分にはへそのような出っ張りがあります。
母親と子供のつながりが表現されています。
※へそが飛び出しているのは、妊娠後期。 |
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後
期
約
4
千
年
前 |
有脚立像土偶 |
上尾駮(2)遺跡 出土 |
欠けてしまっていますが、この時代になると、頭が付くようになりました。
また、足が生えています。
これは出産時の女性を表現し、安産祈願のために作られたのかもしれません。
※座産で足を曲げているところを、平面で表現しているのでガニ股のようになっている。 |
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晩
期
約
3
千
年
前 |
遮光器土偶 |
上尾駮(1)遺跡 |
これは、遮光器土偶の片足部分です。
土偶の模様や形から、カナダの先住民のゴーグル(遮光器)に似たものを付けていたことでしょう。
※高度な造形力。デザイン力と技能が最高水準。どこから発達したものなのでしょうか。
雪眼鏡といわれていましたが、雪眼鏡の遺物が出土しないことから、否定されて
目のデフォルメだといわれています。
クシャクシャッとして奥目な縄文人がこんな目の形になることなど、ありはしない。
半島人にはこんな顔の人もいた。北海道・東北縄文人は北方民族と交易しており、雪眼鏡も
生活の利器としてなくてはならないものだったことでしょう。 |
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土偶ってなんだ
土偶ってなんだ |
土偶ってなんだ
右に記述 |
土偶とは、縄文時代の土で作られた人形です。土偶には様々な特徴があります。
手や足、首を持つもの、上半身に模様をつけたもの、お腹に腹巻のような模様がついているものなど、沢山あります。しかし、どれもオッパイが付いています。
また、お腹の模様は女性が妊娠した時にできる妊娠線を表現しているといわれています。
つまり縄文時代に作られる土偶の多くは女性だったと考えられています。土偶は女性が子供を出産する生命力や母性を感じさせてくれます。 |
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92六ケ所村の土偶・土版
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十字型無脚土偶 |
富ノ沢遺跡 出土 中期
右に伸びているものは
何を表現しているのだろう |
千歳遺跡 出土 中期
両腕に渦巻き文
渦巻きは何を表現しているのだろう |
上記91の年表では縄文中期4500年前とある。
縄文中期は5500~4500年前なので、
製作年代は縄文中期後葉~終末期でしょうか。
この時期は中期後葉から寒冷化が始まり
ただでさえ苛烈な生活環境が年ごとに苦しくなり、食糧不足に栄養失調などで子供の死亡率が上がり、ムラ社会の維持が困難になるため、多産を願い、呪術が発達したため、このような土偶が多く出現し、そのために残存率が上昇したのかもしれません。
土偶自体は縄文前期からつくられていました。
(三沢市歴史民俗資料館所蔵) |
土版
大石平遺跡
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ほとんどの対象で文様が見えませんでした。
斜めから撮るか、光源を用意しないとだめでした。 |
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93逆三角形無脚土偶
逆三角形無脚土偶
千歳遺跡 縄文後期 |
みじんに壊れた特殊な土偶は、何を表し、何んの用途なのでしょう。 |
千歳遺跡 縄文後期 |
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94有脚立像土偶
※上尾駮(2)遺跡では、平面構成の土偶と、足(靴)だけだが立体構成の土偶とがある。
土偶はどうやら、初めから、二種類、二形態だったようだ。
彫刻の仏像と、掛軸の仏像のように。そしてそれぞれの使用目的が違ったようだ。
※膝が、オムツをしている赤ちゃんのように曲がって開いていますが、これは、膝を曲げている様子を表しているのではないかと思います。
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95遮光器土偶 上尾駮1)遺跡 晩期
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遮光器土偶 脚部 上尾駮1)遺跡 晩期 |
遮光器土偶 上尾駮1)遺跡 晩期 |
※遮光器土偶の脚部は皆このようになっている。
膨らんだズボンと裾を絞った袴か、モンペのような形。
ズボンの膨らみの中には断熱用の干し草でも入っているかのようだ。
北方民族の衣装の中にはこのような形状のズボンはない。
いや、着用後足首を縛ってススキの穂、ガマの穂などを入れるのかな。
ここに着目した論文にはまだ出会っていない。 |
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100小型土製品
これらの多くは葬送儀礼に使ったものではないでしょうか。 |
101祭祀具 縄文後期
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鐸形土製品
上に記述 |
ミニチュア土器
大石平(1)遺跡 後期 |
靴形土製品
大石平(2)遺跡 後期 |
茸形土製品 大石平(1)遺跡 後期 |
祭祀用弱毒性キノコで司祭がトリップに使うとされていたが、
全て食用でキノコ図鑑として選別用に使用。
毒キノコを食うと死ぬからね。 |
鐸形土製品 大石平遺跡 縄文後期(約4千年~3千年前)
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中が空洞の鐘の形の土製品で、内側にススが付いているものもあり、火に関わる儀礼に使われたと考えられています。
頂部の穴に紐を通して吊り下げていたようです。文様のデザインは土器のものと共通点が多く、弥生時代の銅鐸にも縄文系の文様が見られるそうですから、後の時代にも影響を与えたのかもしれません。
大石平遺跡からは、このような呪術に関係したと思われる遺物が多数出土しています。国の重要文化財に指定されています。
※鐸形土製品は縄文時代後期(4000~3000年前)の東北地方を中心に分布する土製品である。鐸に似ているが舌を吊るす穴はなく鐸でない。
内部が黒くすすけているので、北方民族特有の石ランプ(動物脂を燃やす)の消火道具と思ったが、青森に石ランプはない。(笑)用途不明。祭祀用。 |
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110 |
111三角柱土製品(三角柱状) 大石平(1)遺跡 縄文後期
三角柱土製品
大石平(1)遺跡
縄文後期 |
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普通の三角柱状製品とは異なるようだ |
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112三角柱形磨り石 大石平(1)遺跡
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三角形磨り石は三角柱土製品と同じ所にありキャプションもないので三角柱石製品とするのかな。
三角柱石製品と考えると、現代のインドでも使われているカレースパイスの磨り潰し用石製品として
理解できる。
三角とう形製品に似ているが、周囲に文様はなく、周囲三面がよく擦れていることから、磨り石と考えるのが妥当なのかと思い、私が勝手に名付けました。 |
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113石刀 大石平(1)遺跡 縄文晩期
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上:石刀握り手×2
下:石刀握り手・刀身と
別の石刀の握り手 |
石刀の握り手 |
石刀 |
石刀と石棒 |
石刀と石棒 |
石刀 |
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114玉未成品と玉砥石
下の写真の遺跡名が不明で、上の大石平'(1)の続きか、下の上尾駮(2)のどちらかと思ったのですが、ネット検索すると、
上尾駮(1)遺跡から多量の玉製品・未製品が出土しているようなので、ここに玉作り工房があったものと考えます。上尾駮(1)遺跡 晩期
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玉未成品と玉砥石 このようなお椀のような砥石で丸い部分を作っていたとは知らなかった |
筋砥石と玉砥石
筋砥石はよく見かけるが、お椀形の砥石は
はじめて見た |
お椀形砥石の使い方を考えてみた。
途中まで穴あけした玉を入れ、穴に竹棒を差し込んでかき回せば、丸く削れるのではないか。
それとも手で蓋をしてぐるぐる振り回すとか。そりゃ疲れる非効率。 |
穴開け途中の玉 |
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115耳飾り
耳飾り
上尾駮(2)遺跡
大石平遺跡
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耳飾りの種類
耳栓型耳飾り:小さな鼓のような形をしている。左右対称と非対称あり
円板型耳飾り:円盤状の物(右上端)
玦状耳飾りり:ドーナツ状で一部分が切れている(右下端)
参照 |
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116耳飾りと大珠 上尾駮(2)遺跡 縄文後期
ヒスイ(硬玉)製大珠 上尾駮(2)遺跡
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耳栓型耳飾り
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首飾り 上尾駮(2)遺跡
縄文後期
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120土面 上尾駮(1)遺跡 縄文晩期(3,000年~2,000年前)
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当初(昭和61年7月)破片6点が出土し、後に一つに接合されたが、、右眉上端、左頬、口及び顎等の部分が欠失している。この頃土製の仮面が多く作られている。その表情には、恐ろしい不気味なもの、涙を流しているようなもの、ユーモラスなもの、顔つきが遮光器土偶と同じく瞑目しているもの、更には無表情のもの等様々あるが、他と明確に区別される一群のものがある。
中にはこのように曲がった鼻が付いたものがあり、この仮面は鼻が右に曲がっているが、他は全て左に曲がっている。
本県の太平洋側から岩手県の北部にかけて発見されている。何らかの呪術的な用途に用いられたとみられている。 |
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121鼻曲がり土面 上尾駮(1)遺跡
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130織物
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131
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135編布(アンギン)
編布(あんぎん)を着ていた 東海学園大学名誉教授 尾関清子
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この度、六ヶ所村立郷土館で私の編布に関わるつたない作品を展示していただき、心より感謝しております。
「編布」の中には織物かと見まごう程繊細な密度の物や、現代的でダイナミックな縞模様が製作されております。それにも関わらず、一般的には「編布」の名前もそれほど知られていないという現実があります。しかし、六ケ所村では早々と「編布」の衣服を想定され、等身大に作られた縄文美子嬢をはじめ、縄文時代の生活を復元されたジオラマの人々すべてに、「編布製の衣服」が着せられています。これは日本広しといえども、この会場のみと言えましょう。つきましては一人でも多くの方々が見学され、「編布」を理解していただきたいと思います。 |
縄文の布―「編布」とは
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私たちの衣服は毛皮を除きそのほとんどが織物か、編み物で作られています。
縄文時代の衣服について確たる証拠はありませんが、主にアンギンで作られていたのではないかと思われます。
では、編布(アンギン)は織物なのか、それとも編み物でしょうか。
織物は縦方向に並列した経糸(たて)とこれに直行する緯糸(よこ)で作られたものです。その最もわかりやすいのが平織りです。
一方、編み物は一本の糸又はひも状のもので編目(ループ)を作りながら布状にしたものです。
アンギンはたて糸と横糸で構成されていますので織物かと錯覚しますが、二本のたて糸(経糸)で一本ないし二本の横糸(緯糸)を縄状に絡ませるので、織物とは言えません。なおアンギンは、いま述べたように、たて糸と横糸が必要なため、私たちの知っているセーターや、Tシャツといった編み物の部類でもありません。
要するに、アンギンは日本最古の布としてわが国で開発された特殊な編み物です。その編目はすだれや、俵と同じでたて糸が縄状になっているのが特徴です。
※アンギンは編み物でも織物でもないと言っている。名前はないようだ。 |
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縄文人は毛皮でなく、編布(アンギン)を着ていた
上に記述 |
縄文の布―「編布」とは
上に記述 |
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布織り見本 |
アンギンの衣服
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150ジオラマ
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151竪穴住居の生活
竪穴住居 |
前期土器 |
中期土器 |
中期土器 |
中期土器 |
中期土器 |
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152狩猟・採集生活
海辺の採集
狩猟の様子
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縄文時代の人々は、弓矢(石鏃)や槍(石槍)を使った狩や、獣たちが水飲み場に通う「獣道(けものみち)」に陥とし穴を掘り、イノシシやシカなどを捕獲していました。縄文時代の溝状ピット(陥とし穴)は、早期
(9000年前) から晩期 (2300年前) まで作られていました。
それは、それぞれまとまって、複数並んで列をなすことが多く、集団でシカやイノシシなどを追い込んで穴に陥とし捕獲したものと思われます。
六ケ所村の発茶沢(1)遺跡では、溝状ピットが665基発掘されているのが有名です。
そうした一連の縄文時代の狩猟の様子を、六ヶ所村で発掘された貴重な資料を背景に想像した、当時の生活の様子です。
※発茶沢(1)遺跡のように、集落周辺に多数落とし穴を設ける理由を考えてみた。
➀当然、村から近ければ獲物を運ぶのに手間がかからない。
②集落に危険動物を近づけないため。 イノシシは危険動物であるし、ニホンジカが出没するとヤマビルが拡散する。 |
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153復元住居
縄文時代中期の復元住居 弥栄平(1)遺跡第12号住居(いやさかたい)
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この住居は、発掘の時、家屋材と思われる炭化材が検出されたことから、人為的な廃棄か不慮の火災か判別できないが、焼失した住居である。
それと、1層より検出された小貝塚は、淡水産のカキ、シジミを主体としており、中にはボラなどのうろこも数点含まれていた。
この情景は、縄文時代中期の竪穴住居内での暮らしを想像したものである。
この竪穴住居は、「青森県埋蔵文化財調査報告書第98集 弥栄平(1)遺跡」を元に原寸大で復元したもので、規模は、直径4.4mの正円に近い略円形で、床面積は15.9㎡である。
※関東地方では床面積約20㎡とされるが随分小さい。居住人数=床面積÷3-1とされる。4人家族であった。 |
縄文時代中期の復元住居 |
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石囲炉を囲んで |
円筒下層式土器と円筒上層式土器が並んで炉から外されている。 |
魚に竹を刺して焼く |
カモ・キジ |
カレイ・鮭 |
鳥は首を縛って逆さに吊り、腸内が発酵し始めると美味とされる。 |
斧・石槍 |
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180人骨の出土 弥栄平遺跡(いやさかたい) 縄文時代後期初頭(約4,000年前)
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181弥栄平遺跡
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弥栄平遺跡は、昭和46年9月4日に、18~19歳の女性の人骨が甕棺土器(②)に容れられて偶然発見され、一躍有名になりました。
縄文時代後期初頭(約4,000年前)のものとしては全国でも数少なく、昭和49年に頭蓋骨から復元され(写真①)、縄文美人復顔像は、現在青森県郷土館で展示されています。
写真③は甕棺土器の発見された地点から、最も近い場所にあった縄文集落の1軒です。これは、館中央に復元されている竪穴式住居跡のモデルになったものです。 |
弥栄平遺跡復顔人骨 |
①復元美人
②甕棺土器 |
③復元された竪穴住居跡 |
18歳の縄文美人! 筋肉質のお母さん?!
縄文女性と甕棺 弥栄平遺跡 縄文後期 約4,000年前
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昭和46年(1971)、農業試験場の職員が、弥栄平にあったジャガイモ畑をトラクターで耕していた時、偶然にもこの甕棺を発見。職員が蓋を開けみると中に人骨が入っていたので、驚いて警察に通報したそうです。
その後縄文時代の甕棺だったことが分かり、この甕棺からは、今から4,000年前の縄文後期の20歳前後の女性の全身骨格が出てきました。
頭部を復元し、当館では縄文美子と名付けた対話式ロボットを製作しました。縄文美子は、縄文時代について詳しく説明してくれます。 |
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18歳の縄文美人 |
縄文女性と甕棺
上に記述 |
18歳の縄文美人 |
18歳の縄文美人
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十腰内式土器の文様 |
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二次葬は下から、足の骨、骨盤、大腿骨や腕の骨は立てて、その上に胸骨、最後に頭骨と、死後再生できるように順番に埋納されています。
これは、八戸市立博物館の伏せ甕の人骨も同様である。(倒立した甕棺)
正立の甕棺にもこのような順で入っているものと思われる。倒立甕はやはり、一般人と違う、特殊な地位の人物だったのでしょう。(倒立のため雨水が溜まって溶けることなく遺存した。)
幾つも発見される切断土器の中で、六ヶ所村の切断土器の女性骨は、蓋で密閉され、雨水の侵入で溶解することもなく、埋納した人々の願い通り、永遠に手厚く埋納され続けています。ほんの偶然ですが。他の十腰内式土器の中にも同じように埋納された人骨が入っていたものと考えられます。
十腰内式土器は骨壺の土器だったんですかね。資料館がなくなった今となってはわからない。 |
よみがえる 4000年の眠りから
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昭和46年9月、トラクターで芋畑を耕していた人が、人骨の入った壺を発見。調べたら縄文後期の18歳の女性の骨でした。
六ケ所村では復元をしてもらい「縄文美子」と名付けました。どうぞ、美子さんに話しかけて下さい。 (自動応答のロボットになっています。) |
縄文美人の自動応答
ロボット縄文美子さん |
よみがえる |
堅果類を置いて、ドングリの殻を割っている。 |
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せっかくの自動応答ロボットを設置したのだから、来館者には話しかけてほしいと、管理者は思うかもしれないが、
大人の行動として、人形に話しかけている人を見ると、、どう思われるかと、感じました。
これはご案内された時に勧められましたが、話せませんでした。子供たちなら話すでしょう。
つがる市カルコの古代語ロボットは会話不能。 |
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190縄文時代の狩猟場 弥栄平(1)遺跡
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この溝状土坑が確認された弥栄平(1)遺跡は、尾駮沼と鷹架沼に囲まれ、山地から海岸に向かって標高を下げ先細りする地形です。
この立地条件は、追い込み猟に適した環境と言えるでしょう。 遺跡の東側には、665基にも及ぶ溝状土坑が確認された発茶沢(1)遺跡があり、
この土地が縄文時代の人々の良い狩猟場であったことを物語っています。 |
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191落し穴 弥栄平(1)遺跡
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縄文時代の食料獲得方法には、落とし穴を利用した狩猟があります。この溝状の掘り込みも落し穴の形状の一つであり、溝状土坑と呼称されています。どのような狩猟であったかというと、その一例として複数の溝状土坑を使用した組織的な追い込み猟が行われたことが推測されています。
狩猟対象は、群れを形成するシカなどが考えられるでしょう。 |
665基出土した落し穴 |
縄文時代の狩猟場
上に記述 |
縄文時代の落とし穴
上に記述 |
溝状遺構 |
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溝状遺構 |
この形状・この大きさ・
この深さが、 |
彼ら、弥栄平(1)遺跡の人々が経験から得た |
最も効率の良い落し穴だったようです。 |
ん?兎捕獲用なのか! |
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発茶沢遺跡 |
溝状ピット配置図 |
発茶沢周辺遺跡 |
鹿には沢山のヤマビル(山蛭)がたかっていて、鹿の通り道には、人は嫌って入らない。
鹿が沢山いた狩猟場は危険地帯だった。
縄文人はどのようにヒルを防除したのでしょう。
アニメ「もののけ姫」では、物凄い数のヤマビルがたかったイノシシが出てきます。よく、忠実に取材し、描いたものだと感心しました。あれは事実です。知らない人にはわからないが??? |
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196溝状ピット
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200富ノ沢遺跡 縄文時代中期中頃~末葉(約4,500~4,000年前) 青森県上北郡六ヶ所村大字尾駮字上尾駮2-1
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201富ノ沢遺跡の円筒上層a式土器
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円筒土器の形式と編年
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中期後葉 |
大木10式土器 |
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中期後葉 |
榎林・最花式(大木式の影響を受けた土器) |
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中期中葉 |
円筒上層 d・e 式期 |
縄文時代 |
中期前葉 |
円筒上層 a・b・c 式期 |
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前期後葉 |
円筒下層 c・d 式期 |
縄文時代 |
前期中葉 |
円筒下層 a・b 式期 |
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十和田火山の |
プリニー式噴火 |
縄文時代 |
前期 |
表館式、早稲田6類式、大木2式 |
遺跡数が最も多くなるのは縄文時代前期後葉~中期前葉であり、
その後、中期中葉から後葉へと減少傾向にある。
これは、青森市域・八戸地域でも同様の傾向である。
引用円筒土器文化総合研究について - 三内丸山遺跡 |
巨大噴火の火山灰と土器文化の変遷
引用変転する大地が生み出す新しい文化 |
中期
円筒下層式の流れを汲む円筒上層式土器が中頃まで出土。円筒土器文化はこれらに代表される。
その後、大木式土器文化の影響を受けた榎林式,最花式が順に出土し中期終わりまでには大木10式に置き換わる。
5,400年
前期
円筒下層式土器は、火山灰の上に突如出現し、少しずつ変化を見せながら、前期の終わりまで続くが、
十和田カルデラ大噴火以前、この地域に見られたいくつかの小さな土器文化に直属するような形跡は辿れない。 |
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210富ノ沢遺跡 縄文時代中期中頃~末葉まで(約4,500~4,000年前)
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富ノ沢(1)(2)遺跡は昭和46年に発見され、現在は同(3)もあります。縄文時代中期中頃から末葉まで(約4,500~4,000年前)の竪穴式住居跡約500軒、土壙約900基のほか配石以降、屋外炉、掘立柱建物跡などが環状に発見されて、日本最大級の縄文集落が営まれていたことがわかりました。
大量の土器、石器のほか、土偶、シカの角、炭化したドングリ、クルミの実なども出土しています。 |
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211遺跡概要
富ノ沢遺跡 |
富ノ沢遺跡
上に記述 |
遺跡調査風景
なるほど広大な遺跡 |
石槍出土状態 |
←この石槍って、神子柴型石器じゃないの?
周囲のも神子柴型だよ。
って、時代は縄文中期中葉。遡ること1万年も前の石器があったって、、、オーパーツじゃないの。
旧石器の遺物を間違って掘り出しちまったってことか?
こんな巨大石槍を使う動物がまだいたのかな。
海獣? |
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212土錘・石錘
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石錘集積跡
新納屋(2)遺跡 |
土錘・石錘
約9,000年前
表館(1)遺跡 |
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石錘 |
土錘 |
魚骨・動物骨
貝殻・動物骨 |
動物骨魚骨 |
ニシン・イワシ類
・アイナメ・鯛類 |
鯛類・マダイ
アシカ・テン・犬 |
アシカ・テン・犬・クマ
底部四足動物痕跡
上尾駮(2)遺跡 |
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213祭祀土器 (臓骨器)
赤漆彩色切断壺形土器 縄文後期(4000年~3000年前)
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昭和60年、大石平(1)遺跡から出土した土器で、高さ31.0cm、口径7.8cm、最大胴径25.4cmの完全な形で出土。
初めに口の小さい壺形土器を成形し文様を付けた後、生乾きの過程でヘラなどを連続して差し込み、身と蓋を切り離して作られている。
全面がベンガラで赤く採色されており、埋葬時の副葬品と考えられる状態で出土した。用途不明。 平成7年、国重要文化財に指定 |
人体文土器 千歳(13)遺跡 後期後葉 青森県上北郡六ヶ所村大字倉内字笹崎1149番地ほか
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粘土紐が貼り付けられており、口縁の山形頭頂部及び器外面の貼り付け部の両側や、頚部から胴中央部にかけてM字状に施され、短い粘土紐が2本ずつ垂れ下がっている。竹菅の刺突文が施され、所々に弁状突起を加えている。
人体文土器は青森県から長野県までの50遺跡から出土している。東北地方では、中期末から後期前半のものが多く、主に太平洋側から出土している。 |
※粘土紐と刺突文による人体表現は珍しい。岩手県滝沢市けや木の平団地遺跡から雰囲気の似たものが出土している。
石川県でも似たものが出土しているが撮影禁止だったと記憶している。 |
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215表館(1)遺跡 |
216石鏃・石槍・石匙
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弓・石槍 |
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石鏃・石槍 |
石匙(縦長型) |
石鏃・石槍 |
石匙 |
石匙 |
石匙 |
北方型縦長石匙ばかりである。
青森でも西日本型横長石匙が混じるものであるが、完全北方型縄文人集落であった。 |
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神子柴型石器 長者久保・神子柴型石器 神子柴・長者久保型石器
217神子柴型石器 転載
(1)神子柴型石器群
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後期旧石器時代に、シベリア・アムール川流域から、沿海州に起源をもつ人々がこの石器を各地で作りながら、北海道から列島を南下し、
南九州にまで到達した。大型磨製石斧と石槍を特徴とする石器群です。 転載Wikipedia神子柴系石器
疑問 なぜ神子柴型石器は青森から始まるのか
※土器も弓矢も、神子柴型石器文化も沿海州を通ってシベリア・アムール川流域から列島に持ち込まれたといわれます。
しかし、疑問なのは、北海道・神子柴型石器といくら検索しても何もヒットしません。本当に北海道を通って来たのでしょうか。
以前、ニブフ族は、サハリンから、北海道西岸の島や海岸を伝って奥尻島や秋田、佐渡島などへ渡航していたことを調べました。
大平山元遺跡以前の、北海道に【無文土器+神子柴型石器+弓矢】の文化が発見されていてもおかしくはない。いや発見されねばならない。
しかし、全く発見されないのは、全ての遺跡が海の底に沈んでしまったからか、それとも初めからなかったからか。
※神子柴型石器は直接沿海州から来たのか。ニブフが運んだのか。もう一度北海道を調べないとわからない。 |
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(2)神子柴型石器のバリエーション
➀神子柴型と神子柴系
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神子柴型
大型で片刃の局部磨製石斧、 大型で木の葉形をした石槍・槍先形尖頭器、の組み合わせを神子柴型という。
神子柴系
そのほかに、石刃素材のスクレイパーと彫刻刀形石器や、植刃(しょくじん)、
断面が三角形の錐、半月系の石器、有茎尖頭器、矢柄研磨器、、石鏃、などを伴うのが神子柴系。 引用神子柴系石器
神子柴系石器は、南九州薩摩半島南端の帖地遺跡からは、細石刃と共に出土している。狩りに両方を使い分けたようです。
神子柴型石器は、旧石器~縄文草創期の石器であるため、尖頭器の呼び名が、旧石器時代風に槍先形尖頭器、縄文時代風に石槍ともいう。 |
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②神子柴型石器群の二つの文化
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神子柴型には有土器と無土器の文化があります。
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土器を伴わない遺跡 |
長野県神子柴遺跡、長野県唐沢B遺跡、青森県長者久保遺跡(野辺地町)、など |
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土器を伴う遺跡 |
青森県大平山元遺跡、神奈川県上野遺跡第一地点第Ⅱ文化層、茨城県後野遺跡A地区、六ケ所村表館(1)遺跡 など |
※
➀土器のある・なしは、時代のあと先ではなく、二系統の神子柴文化があったからだと考えられている説。
野辺地町長者久保遺跡と六ヶ所村表館(1)遺跡は大変近接しているにもかかわらず、前者は無土器、後者は有土器文化が伝わっている。
別々の神子柴文化人が津軽半島に渡り、下北にもやって来たのか、それとも、別文化人は海流に流されて下北半島に上陸したのだろうか。
②神子柴文化の無土器と有土器についての新しい説
神子柴文化の無土器・有土器について、新たな考えが出されている。近接した地域に土器有無の神子柴文化の遺跡があるのは、
彼らが遊動していたからだとされる。遊動する旧石器人の末裔である彼らもやはり遊動していた。遠距離ではなく近距離で。という。
アマゾンの原住民も森の中にいくつも村を持っていて、ある時突然移動をする。一日ほどの距離を移る。それは、当然で、住居周辺の食材が
少なくなると別の居住地へ移動する。そこにもまた家があり、留守中に動物がまたやって来て、植物が成長し、自然の食料増産を図るのだ。
保存食を抱えて冬ごもりする間は、それに適した村が選ばれる。そこには土器の破片も生じることとなる。
このような短期間の、しかも一日程度の近距離の遊動によって無土器と有土器の神子柴型遺跡が出来たという。確かに。納得。
無土器・有土器の二つの神子柴文化人がとても近接していながら交流することもなく、信州まで広がり続けることはまずありえない。 |
私たちは、長野県神子柴遺跡の美しい大型石器に驚いたのだ。武器型青銅器崇拝文化の様に、大型神子柴石器崇拝文化があったのでは
ないかとまで考えられている。
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③神子柴型石器の三期 (※引用元不明)
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出現期
神子柴系石器の出現期は、1万3000年前とされてきましたが、最近は、1万7000年前、大平山元遺跡出現前に傾いている。
象徴化の時期
神子柴の尖頭器は、次第に大きく、薄く、美しく作られるようになり、やがて象徴として扱われるようになり、実用性を失っていき
ました。九州国立博物館(撮禁)では、30cm近くの大形幅広尖頭器を見ました。弥生時代の象徴としての大型銅矛を連想します。
終焉期 やがて、土器と弓矢の縄文的組み合わせが一般化すると、実用的な刺突具としての石槍に置き換わっていきました。
※神子柴型石器が消えて行ったと言っている。 写真は新潟県十日町博物館 |
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神子柴型石器 表館(1)遺跡 縄文草創期
打製石斧、石槍 |
磨製石斧 |
アオトラ石※の磨製石斧
3点目の小石斧は彫器のように鋭く研がれている。 |
神子柴型石器が、槍としての小型刺突具を伴っているのは始めて見ました。
神子柴型尖頭器は大型ばかりと思っていましたので。小型があって当然ですね。
他の館では出さない展示物ですね。 |
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218美しい磨製石斧の秘密 縄文草創期
磨製石斧には蛇紋岩や頁岩など、粘りのある石が使われます。東北地方北部ではその中に緑色岩とアオトラ石があります。
青くて虎のような模様があるのでそう呼ばれています。蛇紋岩もそうですが、大変美しく、旧石器~縄文のひとびともこれを重用しました。
※この記事は六ケ所村郷土館の御指導を頂きました。
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緑色頁岩
表舘遺跡出土
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緑色細粒凝灰岩
アオトラ石
泊(1)遺跡出土
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緑色頁岩
弥栄平遺跡(2)出土
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※アオトラ石製磨製石斧
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●三内丸山遺跡では秋田県出土のような大型で美しい石斧ではなく、普通の石斧だったと思います。
秋田県の超大型の石斧は実用品だったのか、崇拝の対象物だったのか、旧石器末・縄文草創期の神子柴型石斧によく似て美しい。
弥生時代に半島から輸入された鉄斧は、丁度これと同じ形をした大型の鉄製品で、そのまま斧とする一方、材料鉄としても利用されました。
●日高山中から原石で秋田に運び、独自な加工をすることは不可能であり、秋田出土の形状が完形の交易製品だったと思われます
つまり最初からあのような長大で美しい石斧だったと想像します。(交易価値が大変高かったと思われます。)
●北海道幌尻岳から秋田県の山中まで徒歩とカヌーと徒歩で運んだ!驚くべき交易範囲です。本当に縄文人の行動力と活動範囲には驚かされます。
最近では秋田県のほか、山形県、新潟県でも発見されています。 |
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219石製品
3つの突起が付いた足付石皿 縄文時代中期
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これは富ノ沢遺跡出土の約4000年前(縄文時代中期)の石皿です。器の底に3つの突起が見られます。通常は突起が4つ付くものが多く、これは大変珍しいもので、全国で十数例しか出土していません。
なぜ、、富ノ沢の縄文人は、珍しい3つの突起の石皿を作ったのでしょうか? カメラやイーゼルの三脚の様に、不安定な地面でも3つの突起の方が、4っつより安定しやすく、しかも小型の石皿なので、用途としては携帯用と考えられます。 |
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3つの突起が付いた
足付石
上に記述 |
3つの突起が付いた
足付石 |
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青龍刀形石器 縄文時代中期から後期
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縄文時代中期から後期にかけて、東北地方北部から北海道南部で作られた石器。このように完形品で出土するのは稀なことである。
形態は、羽部が幅広く内側に反り、突起が付き、柄の部分が丸く細くなっている。三国志の関羽が持つ青龍刀に似ているので、こう呼ばれている。
青龍刀形石器は、実際に使われた可能性もあるが、出土数が少ないことから祭祀用と考えられています。 |
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230縄文時代
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青森県出土土器編年表 転載『青森県における土器の出現』
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時代 |
型式名 |
縄文時代 |
草創期 |
(無文土器) (隆線文系土器) (爪形文系土器) |
早期 |
日計 白浜,小舟渡平 根井沼 寺の沢 物見台,千歳 蛍沢AⅡ式 吹切沢,早稲田1・2類 ムシリⅠ式 表館Ⅵ群 赤御堂 早稲田5類 表館Ⅸ群 |
前期 |
表館Ⅹ群 表館ⅩⅡ群 表館ⅩⅢ群 長七谷地Ⅲ群 表館,芦野Ⅰ 早稲田6類 深郷田 円筒下層a 円筒下層b 円筒下層c 円筒下層d1 円筒下層d2 |
中期 |
円筒上層a 円筒上層b 円筒上層c 円筒上層d 円筒上層e 榎林 最花,中の平Ⅲ 大木10 |
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時代 |
型式名 |
縄文時代 つづき |
後期 |
牛ヶ沢 沖附 弥栄平 十腰内Ⅰ 十腰内Ⅱ 十腰内Ⅲ 十腰内Ⅳ 十腰内Ⅴ 十腰内Ⅵ |
晩期 |
大洞B 大洞BC 大洞C1 大洞C2 大洞A 大洞A’ |
弥生時代 |
前期 |
砂沢 五所,二枚橋 |
中期 |
宇鉄Ⅱ,井沢 田舎館 |
後期 |
念仏間 天王山(鳥海山) |
古墳時代 |
前期 |
(塩釜)4C代 |
中期 |
(南小泉Ⅱ)5C代 (住社)6C代 |
後期 |
(栗囲)7C代 |
古代 |
飛鳥 奈良 |
8C代 (国分寺下層) |
平安 |
9C代 (表杉ノ入)10C代 11C代 12C代 |
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231草創期~早期
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233縄文時代草創期
隆起線文系土器 昭和62年 表館(1)遺跡出土 草創期
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約1万2千年前の土器で、大きさは高さ30.5cm、口径22.0cm。底部が乳房状のつくりで口唇部に小波状、体部に横位(37条)の、また底部には2条1組の隆起線文が見られます。器形、文様、デザインとも1万2千年前の土器とは思われないほど洗練されています。
このほか発茶沢(1)遺跡からも破片が出土しています。 |
隆起線文土器
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隆起線文土器は、37本の細い粘土紐が貼り付けられて装飾されているので、このような名前が付けられました。
旧石器時代~縄文時代へ移行する1万2千年前の縄文時代草創期の土器です。日本最古、世界最古の土器の一つです。
底が尖って、女性のオッパイの形をしています。土偶が女性をあらわしているように、この土器自体が、女性や命を育むものを象徴しているのかもしれません。 |
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隆起線文土器 |
隆起線文土器 六ヶ所村表館遺跡 |
隆起線文土器 |
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234縄文時代早期
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■千歳(物見台)式土器 昭和49年 千歳(13)遺跡出土 早期
約9千年~6千年前の土器で、高さ29.3cm口径25.0cm。沈線・貝殻文系土器文化を代表する土器です。
文様を付けた貝殻はサルボウかアカガイの口縁と推定されています。(※シロウト目には二つの貝の違いはわからない。(笑))
■ムシリⅠ式土器 昭和62年 表館(1)遺跡第102号床面出土 早期
高さ31.5cm口径33.5cm底径7.0cm。
ムシリは、下北郡東通村にある貝塚遺跡名です(ムシリ貝塚)。沈線文土器を代表とする土器で、内面には条痕が見られます。 |
縄文時代早期 |
千歳(物見台)式土器
ムシリⅠ式土器 |
縄文時代早期
上に記述 |
貝殻文系土器 縄文早期中頃
千歳(13)遺跡 |
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千歳(物見台)式土器 千歳(13)遺跡出土 |
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ムシリⅠ式土器
表館(1)遺跡第102号床面出土 |
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235
表館Ⅵ群土器 昭和62年 表館(1)遺跡 早期
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■表館Ⅵ群土器 昭和62年 表館(1)遺跡
大きさは高さ24.0cm口径28.3cm底径7.2cm
縄文系土器文化の始まりを代表する土器で、この遺跡名が付けられています。この頃から気候が温暖化に向かい、「縄文海進」が始まります。
■早稲田5類土器 昭和62年 表館(1)遺跡
高さ33.0cm口径31.5cm底径11.0cm。深鉢形で綾杉状縄文が施されており、胎土には植物性繊維が混入されています。早稲田は三沢市の早稲田貝塚から採用された形式名です。 |
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表館Ⅵ群土器
早稲田5類土器
上に記述 |
表館Ⅵ群土器
表館(1)遺跡
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早稲田5類土器
表館(1)遺跡
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236
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■早稲田5類土器 昭和62年 表館(1)遺跡 早期
高さ29.0cm口径31.3cm底径10.0cm。深鉢形で外面には縦位の縄文原体側面圧痕文(LR)が施されており、胎土には植物性繊維が少量混じっています。
■表館X群土器 昭和62年 表館(1)遺跡 早期
高さ45.5cm口径39.0cm。5つの大きな波状口縁の下に砲弾状の体部と丸底に近い底部が特徴です。縄の側面圧痕による弧状文、縦位縄文、縄端回転文(LR、RL)が施されています。 |
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表館Ⅵ群土器
早稲田5類土器
上に記述 |
早稲田5類土器
表館(1)遺跡 |
表館X群
表館(1)遺跡
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表館X群
表館(1)遺跡 |
表館X群
表館(1)遺跡 |
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237縄文時代前期
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■北海道系(中茶路式)土器 昭和62年 発茶沢(1)遺跡 前期
約6千年~5千年前の土器。高さ39.5cm口径32.0cm底径11.0cm。北海道に標識遺跡を持ち、土器の胎土などから搬入品と推定されており、、表館(1)遺跡からも出土しています。
■表館式土器 昭和58年 表館(1)遺跡 前期
高さ13.0cm口径12.8cm。この土器の特徴は、尖底、小型で全面に押引き沈線文が施されています。表館式土器のタイプサイト(type site標識遺跡)を代表する土器で、屋外炉(直径65cm円形)の西側上端から伏せた状態で出土しました。 |
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北海道系(中茶路式)
表館式土器
上に記述 |
北海道系(中茶路式)
発茶沢(1)遺跡 |
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表館式土器
表館(1)遺跡 |
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238
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■早稲田5類土器 昭和60年 上尾駮(1)遺跡 前期
高さ43.5cm口径33.1cm。砲弾状の深鉢形で、ループ文が全面に、底辺部には縄文(LR)が回転方向を変えて施されています。
■円筒下層d1式土器 昭和61年 上尾駮(1)遺跡C地区第5号竪穴住居跡出土 前期
縄文時代前期末葉、高ささ28.0cm口径21.0cm底径12.0cm。本県を中心に発展した円筒土器文化が具現する深鉢形土器です。
口縁部に撚糸圧痕文、胴部には複節斜縄文を配し、平底で安定度の高い土器です。 |
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早稲田5類土器
円筒下層式d1土器
上に記述 |
早稲田5類土器 上尾駮(1)遺跡
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円筒下層式d1土器
上尾駮(1)遺跡C地区
第5号竪穴住居跡
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300縄文時代中期
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301富ノ沢遺跡 縄文中期土器
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縄文土器には、数多くの形態があり、しかも器面には様々な文様が見られます。
縄文時代中期(約5000~4000年前)の土器を見ると青森県を中心として、東北地方北部から北海道南部地方にかけて円筒上層様式。
東北地方南部には大木様式というようにグループが形成されています。
※同一土器形式の地域は同一文化圏で、言語が通じ、交流が盛んである。が、円筒上層文化圏では、十和田カルデラ噴火後の過酷な自然環境によって大木式土器を用いるわけにはいかなかったのだ。土器様式においては別文化圏であるが、日常的な交流はあったのではないか。 |
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302縄文中期コーナー
縄文時代中期 |
富ノ沢遺跡の縄文時代中期の土器
上に記述 |
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311縄文時代中期
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円筒上層a式土器
深鉢 中期初頭
上尾駮(1)
上部が粘土紐で縁取られる。→ |
円筒上層b式土器
深鉢 中期初頭
富ノ沢(2)
粘土紐が複雑な文様になる。→ |
円筒上層c式土器
深鉢 中期前葉
富ノ沢(2)
点描が縄から串で付けられる。→ |
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円筒上層d式土器
深鉢 中期中葉
富ノ沢(2) 点描から縄文に変わる |
円筒上層e式土器
深鉢 中期中葉
富ノ沢(2) 粘土紐が付かなくなり、沈線文に変わる。 |
大木8a式土器
深鉢 中期中葉
富ノ沢(2) 上部に渦巻などの文様が付く。 |
大木8a式土器
深鉢 中期中葉
富ノ沢(2) |
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大木8b式土器
深鉢 中期後葉
富ノ沢(2)
上部が窄み(すぼみ)横向きにトゲ付きの渦巻文様が付く。 |
榎林式土器
壺 中期後葉
富ノ沢(2)
上部が反り沈線で渦巻の文様が付く。 |
榎林式土器
深鉢 中期後葉
富ノ沢(2)
上部が反り沈線で渦巻の文様が付く。 |
大木8b式土器
深鉢 中期後葉
富ノ沢(2)
上部が窄み(すぼみ)横向きにトゲ付きの渦巻文様が付く。 |
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最花式土器
深鉢 中期後葉
富ノ沢(2)
縦方向に細い線が引かれる |
大木10式併行土器
深鉢 中期末葉
富弥栄平(1)
上部に突起と粘土紐貼り付け後に点描がつく |
大木10式併行土器
深鉢 中期末葉
富ノ沢(3)
Jの字文様がつく |
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316中期の石器
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窪み石
中期 冨ノ沢(2)遺跡 |
磨石
中期 富ノ沢(2)
木の実などを粉にするすりこ木 |
足付石皿
中期 富ノ沢(2) 脚が付いた石皿。
足の数は2か3。 |
石皿
中期 富ノ沢(2)
木の実などを粉にするすり鉢 |
石皿 中期 富ノ沢(2)
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青森県出土土器編年表 転載『青森県における土器の出現』
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時代 |
型式名 |
縄文時代 つづき |
後期 |
牛ヶ沢 沖附 弥栄平 十腰内Ⅰ 十腰内Ⅱ 十腰内Ⅲ 十腰内Ⅳ 十腰内Ⅴ 十腰内Ⅵ |
晩期 |
大洞B 大洞BC 大洞C1 大洞C2 大洞A 大洞A’ |
弥生時代 |
前期 |
砂沢 |
(青森県埋蔵文化財調査センター作成) |
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320縄文後期土器
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321後期初頭
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弥栄平(2)式土器
深鉢 後期初頭
弥栄平(2)遺跡
沈線で弧線文渦巻き文を描く |
蛍沢Ⅱ群土器
深鉢 後期初頭
沖附(1)遺跡
磨り消し縄文で横S字文を描く |
牛ヶ沢式土器
深鉢 後期初頭
沖附(1)遺跡
縄文を施さずに粘土紐を貼り付ける |
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322後期初頭
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沖附(2)式土器
深鉢 後期初頭
沖附(2)遺跡
磨消縄文でクランク状文様を描く |
沖附(2)式土器
深鉢 後期初頭
沖附(2)遺跡
二重線の下にハート型の文様を描く |
沖附(2)式土器
深鉢 後期初頭
沖附(2)遺跡
二重線の下に渦巻を描く |
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323後期前葉
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十腰内Ⅰb式土器
浅鉢 後期前葉
鷹槊遺跡Ⅱ
磨消縄文で文様を描く |
十腰内Ⅰb式土器
深鉢 後期前葉
鷹槊遺跡Ⅱ
沈線で横向きにS字状文を描く |
十腰内Ⅰa式土器
浅鉢後期前葉
大石平(1)遺跡
沈線のみで文様を描く |
十腰内Ⅰa式土器
浅鉢後期前葉
大石平(1)遺跡 沈線のみで文様を描く |
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324後期前葉
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十腰内Ⅰa式土器
甕棺 後期前葉
上尾駮(2)遺跡
沈線だけでS字文を描く |
※信州では何かを上に置き、紐で縛って蓋をした後だといわれている。 |
十腰内Ⅰa式土器
甕棺 後期前葉
弥栄平(2)遺跡
赤い顔料を塗って描く |
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十腰内Ⅰa式土器
甕棺 後期前葉
弥栄平(2)遺跡
二本の沈線で狩猟文モチーフを描く |
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326石棒 富ノ沢(2)遺跡 縄文中期 4,500年前
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石棒 富ノ沢(2)
縄文中期 4,500年前
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石棒 富ノ沢(2)
縄文中期 4,500年前
第6号住居跡
石棒出土状況 |
祭祀か?住居内で石棒の置かれたイメージ
第6号住居から出土
住居内からの出土は住居内で祭祀に使われたと考えられている。 |
石棒
富ノ沢(2)遺跡
縄文中期 |
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330土器出土状況
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350縄文晩期 土器
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351上尾駮(1)遺跡 晩期
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大洞C1式土器
浅鉢 晩期中葉
上尾駮(1)
磨消縄文で雲形文様を描く |
大洞C1~C2式土器
壺 晩期中葉
上尾駮(2)
赤色顔料で雲形文様を描く |
大洞C1~C2式土器
壺 晩期中葉
出土地不明
穴があけられた壺形土器 |
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352
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大洞C1式土器
台付鉢 晩期中葉
上尾駮(1)
横回転の縄文が付く |
大洞C1式土器
台付鉢 晩期中葉
上尾駮(1)
磨消縄文で雲形文様を描く |
大洞C1式土器
台付鉢 晩期中葉
上尾駮(1)
磨消縄文で雲形文様を描く |
大洞C1式土器
台付鉢 晩期中葉
上尾駮(1)
磨消縄文で雲形文様を描く |
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353
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大洞C1~C2式土器
深鉢 晩期中葉
出戸地区 |
大洞C1~C2式土器
深鉢 晩期中葉
上尾駮(1)
縁が小刻みに波打つ |
大洞C1~C2式土器
壺 晩期中葉 上尾駮(1)
全体に磨きがかかる |
大洞C1~C2式土器
深鉢 晩期中葉 上尾駮(1)
二つの孔あり。紐を通した孔という考えがある。 |
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354出土した種子の植物
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ニワトコ・ヤマブドウ
・サルナシ |
ヒエ・キイチゴ
・サンショウ |
アカザ・セリ・イタドリ |
ウルシ・アカザ |
オニグルミ・トチノキ |
クワ・ドングリ・クリ |
調査風景 |
竪穴建物跡
長楕円の大型建物
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この大型建物跡も
三内丸山遺跡の大型建物にも匹敵するほどの規模のようです。 |
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青森県出土土器編年表 転載『青森県における土器の出現』
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時代 |
型式名 |
弥生時代 |
前期 |
砂沢 五所,二枚橋 |
中期 |
宇鉄Ⅱ,井沢 田舎館 |
後期 |
念仏間 天王山(鳥海山) |
古墳時代 |
前期 |
(塩釜)4C代 |
中期 |
(南小泉Ⅱ)5C代 (住社)6C代 |
後期 |
(栗囲)7C代 |
古代 |
飛鳥 奈良 |
8C代 (国分寺下層) |
平安 |
9C代 (表杉ノ入)10C代 11C代 12C代 |
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400弥生時代
農業生産技術を引っ提げてやって来た弥生人だったが、弥生時代中期には撤退が始まった。
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401
六ヶ所村の
弥生時代コーナー |
弥生時代コーナーの隣に平安時代コーナー。
古墳時代~奈良時代がありません。
これは、遺跡が未発見なのではなく、
古墳前期~奈良時代~平安時代前期(4世紀~9世紀後葉)の、北東北は無人だったのです。
遺跡がなく、人跡が途絶えています。 |
六ヶ所村の
平安時代コーナー |
講演「古代・平安時代の六ヶ所村に馬はいたか?」では
弥生時代終わり頃の遺跡はありますが、その後数百年間は遺跡が見つからず、9世紀後葉になって突然集落が
出現する。と言っている。また、別資料では↓
東北北部に7世紀以降に馬を飼育する人々が集落を作り(阿光坊古墳群)次第に北上して
9世紀後葉
➀表館(1)遺跡:ロクロ土師器坏・長甕、非ロクロ土師器長甕、五所川原産須恵器、白瑪瑙石帯(上位貴族の物)
②家ノ前遺跡:ロクロ土師器坏・長甕・小甕、非ロクロ土師器長甕
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考察
この時期日本海側では大規模な入植が既に開始され、五所川原に須恵器窯を開くなど活性化している。
長甕(長胴甕)はカマドにかける鍋であり、その上に甑を置いて米を蒸す道具である。こんな進んだ文化を持った入植者が来ていた。ただ、五所川原窯から下北はあまりにも遠く、徒歩で何日もかかる。もろい土器をどう運んだか。
陸上を背負って運べる数は知れており、交易にならない。海上を運ぶなら一気に大量輸送を短期間でこなせただろう。
阿光坊遺跡から疑問に思っていた五所川原土器の輸送は海上交通によったと考えるべきだ。
すると、この時には、日本海航路は、八戸までつながっていたことになる。本当だろうか。 |
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9世紀後葉~10世紀初頭
➀唐貝地遺跡 ②弥栄平(4)(5)遺跡 ③幸畑(4)遺跡
と、なだれ打つように遺跡が増加している。寒冷な気候を生かした馬の生産者が大量に移住を始めたようだ。 |
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410念仏間式土器と天王山式土器 弥生時代中期以降
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411念仏間式土器(大石平Ⅰ群土器) 弥生時代中期後葉 引用大石平4段階変遷案再考
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引用「大石平4段階変遷案再考」」
第20図に掲げたのが、「念仏間式」の標式資料である。
細く鋭い沈線による鋸歯文の多用(4・5)、磨消縄文の発達(9、12)、口縁部前面の縦長の刺突列といった同式の特徴は(1~ 3)、大石平式にもみられる特徴である。念仏間式土器の特徴は、弥生後期の天王山式に引き継がれる。 |
図20念仏間式 |
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412天王山式土器 弥生時代後期 引用弥生後期天王山式土器成立期に おける地域間関係
天王山式土器の3段階変遷
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3世紀~4世紀前半代の土器(2)(後北式・天王山式系土器) |
東北北部の土器編年 引用「1.時代区分と弥生土器の編年」
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東北地方北部の弥生文化に関する研究は、伊東信雄氏によって
縄文時代晩期終末の大洞A’式→谷起島式(岩手県一関市谷起島)→志藤沢式(秋田県南秋田郡若美町)→田舎館式(本県の田舎館村垂柳)→常盤式(岩手県水沢市佐倉河)土器という編年が提起された。 |
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本県では橘善光による編年が次のように試みられた。
・(弥生中期)五所式→二枚橋式→宇鉄式→田舎館式→(+)→(弥生時代後期)念仏間式→鳥海山式→烏間式、近年は、
・(弥生前期)砂沢式→五所式・二枚橋式→(弥生時代中期)宇鉄Ⅱ式・井沢式→田舎館式→(弥生時代後期)念仏間式→天王山式(鳥海山式)のほか、
・(1期)砂沢式→(2期)五所式・井沢式・二枚橋式→(3期)宇鉄Ⅱ群→(4a期)田舎館2群→(4b期)垂柳Ⅲ群→念仏間式・大石平Ⅰ群→
→鳥海山式・大石平Ⅵ群2類という編年も考えられている。 |
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420家ノ前遺跡 弥生時代前期と後期
下北周辺の土器と東北南部の土器が出土。なぜ?
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弥生時代後期の遺構は検出されなかったが、尾駮沼北岸が生活領域の一部であったことが分かる。
下北半島周辺で見つかっている念仏間式土器(大石平Ⅰ群土器)と東北地方南部を中心に分布する、天王山式土器が出土しており、両者の時期的関係を考える上で重要な遺跡である。現在は宅地となっている。 |
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421
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家の前遺跡
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遺跡の場所 |
発掘風景 |
遺跡の状態 |
1.遺構は未検出
2.主な遺物
(1)前期の壺×1
(2)後期の土器
甕×6
壺×3 |
出土土器 |
①~⑤
大石平Ⅰ群土器
⑥~⑨
天王山式類似土器
⑤⑥⑦壺
①~④⑧⑨甕 |
下北周辺の土器と東北南部の土器が出土。なぜ?
上に記述 |
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422天王山式類似土器(てんのうやま) 家ノ前遺跡
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天王山式土器は、弥生前期に東北北部まで進出した弥生人が、前期後半からの寒冷期に伴い、弥生人は撤退し、北海道からはアイヌが南下して弥生人の放棄地に入って寒冷地式農業などをして暮らし始めた。
残された弥生化した縄文人たちは、既に縄文人の生活とは断絶していたにも関わらず、縄文の狩猟採集生活を始めた。
これは、弥生経済である農業生産を中心とした社会システムが崩壊したため、やむなく残る生活手段としての草を食べたり、野山の動物を追ったりという狩猟採集生活を行うしかなかったのだ。
その時の縄文化した人々が作った土器が天王山式土器である。
この時期に、南下してきたアイヌとの接触によって、東北地方に現在も続くアイヌ地名や、マタギ技術などのアイヌ文化が東北から信州にかけての広範な地域に残されました。 |
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この土器は、弥栄平遺跡 縄文後期 約4,000年前の十腰内式土器とよくにている。作り手は縄文系弥生人である。縄文文化が終焉し、断絶して1000年も立つのに、縄文の土器文様に至ったのは、DNAであろうか。 |
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425天王山式類似土器 家ノ前遺跡
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430大石平遺跡 弥生時代後期の集落遺跡
(念仏間式土器期=大石平Ⅰ式期=弥生中期)
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431
3つの時期に形成された弥生のムラ
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弥生前期・中期前葉の村は1~2軒。中期末は6件の竪穴住居が造られた。この場所が、断続的になぜ利用されたのか?
第306号土坑跡から土器23点、石鏃8点出土。意図的に供えられたもの。出土した中期の大石平Ⅵ群土器は、この時期の標識的な資料として重要。
また、弥生中期末の土器は、大石平Ⅰ式(念仏間式)土器の内容を研究するうえで重要なものである。 |
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大石平遺跡 |
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遺跡の場所 |
遺跡遠景 |
第2号住居と
第306号土坑跡 |
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第Ⅵ群2類土器
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3つの時期に形成された弥生のムラ
上に記述 |
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433大石平遺跡の土器 念仏間式土器期=大石平Ⅰ式期
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435
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440上尾駮(2)遺跡 弥生中期後葉 |
441遺跡の概要
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主な遺構 |
A地区から竪穴住居跡1軒。 C地区から同2軒 |
主な遺物 |
(1)中期後葉の深鉢2点、破片10点
(2)後期の甕と壺が僅か
(3)磨製石斧2点。1点は敲き石として転用か。 |
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弥生時代中期以降、なぜ集落は小規模化していったのか?
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A地区の竪穴住居の1軒は、円形で4本柱の主柱穴をもち、中央に地床炉を伴い、C地区の2軒は不整円である。出土物が少なく時期決定が難しいが、土器の大半は中期後葉の大石平Ⅰ並行期土器である。
弥生時代中期以降竪穴住居跡の検出例が少ないため、この小規模な住居群が検出されたことは、当時の集落の在り方を考えるうえで興味深い。 |
上尾駮(2)遺跡
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上尾駮(2)遺跡 |
遺跡地図 |
第3号竪穴住居跡・第21号土坑 |
出土土器・石器 |
①⑩⑪後期の土器
②~⑨中期の土器
⑫⑬磨製石斧 |
主な遺構・遺物
上に記述 |
弥生時代中期以降、
なぜ集落は小規模化していったのか?
上に記述 |
集落の小規模化。
答えがないが。
既に記述している。
寒冷化で弥生農耕が破綻した。
半島系弥生人は列島内の出身地へ帰り、縄文系弥生人は縄文的狩猟採集生活を行う。 |
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443
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450弥栄平(4)遺跡 |
451遺跡概要
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主な遺構 |
未検出 |
主な遺物 |
(1)弥生前期は、砂沢式浅鉢1点 、鉢1点、台付鉢1点、高坏台部1点
(2)弥生中期は、田舎館式並行壺1点、鉢2点
(3)弥生終末期~古墳時代初頭相当は、後北C2・D式鉢1点(北海道アイヌの土器)
以降、北海道アイヌの文化が展開する。 |
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弥生文化としては異質な続縄文土器が出土?
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縄文・弥生・平安時代の複合遺跡である。弥生時代の住居跡は見つかっていない。
出土した土器は弥生時代前期の砂沢式と中期の田舎館式である。また、北海道で多く出土する後北C2・D式土器が出土した。これは続縄文文化の土器である。
※寒冷化に伴い、北海道から沢山のアイヌが南下し、弥生人の耕作地放棄地に入って北海道的農業や狩猟・漁撈を行っって生活を始めた。
このため、東北地方の広範囲から北海道の後北式土器が出土するようになり、縄文系弥生人は天王山式土器を携えて狩猟採集生活を行う。 |
弥栄平(4)遺跡
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弥栄平(4)遺跡
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遺跡の場所 |
遺跡遠景 |
遺耕遺物概要 |
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①浅鉢
②⑤⑦~⑩鉢
③壺
④台付坏
⑥高坏台部 |
遺跡概要 |
弥生文化としては異質な続縄文土器が出土 |
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453土器片
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460千歳(13)遺跡 弥生時代中期後葉~古墳時代初頭 |
461遺跡概要
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主な遺構 |
土坑 1基 |
主な遺物 |
後期の土器1点(※右の恵山式・後北式の融合した土器のこと) |
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後期の続縄文文化の土器出土!北海道から?
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後期の土器1点出土。続縄文文化の恵山式土器の特徴をよく示している。口縁部は、むしろ後北式土器の特徴が混在している。
北海道に同時に存在した恵山式と後北式、双方の土器の要素が融合しているものと考えることができる。 |
千歳(13)遺跡 |
千歳(13)遺跡
続縄文土器
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遺跡の場所 |
遺跡遠景 |
遺跡概要・遺跡地形図
出土土器 |
後期の続縄文文化の土器出土!北海道から? |
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463続縄文土器
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465続縄文土器
続縄文土器文様
引用続縄文時代・擦文時代 |
続縄文文化とアイヌ文化のつながり
続縄文時代に続いて、北海道は「擦文時代」そして「アイヌ文化期」へと移って行きます。
続縄文時代後半の土器の文様には、アイヌ文化の文様を思い起こさせるものがあります。
つながりがあるのかもしれません。 |
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470土製紡錘車 家ノ前遺跡 |
471
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繊維に撚りをかけて糸を紡ぐ(糸にする)道具。軸棒の鉤(かぎ)に繊維の端をかけ、軸棒を回転させることで撚りを掛け、強い糸を作る。弥生時代に土・石製や骨・角製のものが用いられ、平安時代に鉄製となる。(東北地方では鉄製紡錘車が平安時代にならないと出現していない。特記事項)
麻などの繊維に撚りをかけるのは、昭和初期まで行われていた。六ケ所村では、
9世紀後半の家ノ前遺跡から土製紡錘車が出土し、
10世紀以降の他の遺跡からは鉄製紡錘車が出土している。 |
土製紡錘車
上に記述 |
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※考察 六ヶ所村の奈良時代が消滅
お気づきかと思いますが、奈良時代がありません。寒冷化によって、また、集落が消滅し、人跡が途絶えたようです。
ということは、
飛鳥・奈良時代は寒冷期で、湿地であった奈良盆地は乾燥化し、都市を作る土地がどんどん北の方に拡大し、水上交通が主だったものが
乾燥化によって水路・運河を掘ったり、都の中や周辺に広い道路が縦横に建設されるようになった。
のではないかと思います。
確かに、水上交通で始まった纏向遺跡だのに、次第に奈良盆地が乾燥して短い期間に広大な平野となり、大規模な都が建設できるようになった。
疑問に思わなかったほうが間違いであった。そんなに急に奈良全体が隆起するはずはない。むしろ沈下しているはずである。
列島は寒冷化していたのだ。更に、土木工事が進んで、大河川の氾濫が少なくなり、その後河川の大規模な改修工事も行われた。(奈良時代)
下北では大寒冷期でも、都ではそれほどのことはなかったのかもしれない。
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500平安時代
前期 794-930
中期 930-1068
後期 1068~1185年
弥生時代後期から古墳時代初期の遺跡を最後に六ケ所村からは人跡が途絶え、平安時代中・後期の9世紀後葉に新たに入植が始ります。
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501六ケ所村への入植
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502図・写真 上の図・写真は以下の論文・資料から引用しています。
引用文献
〈基調講演②〉「古代・平安時代の六ケ所村に馬はいたか?」東海大学文学部 歴史学科考考古学専攻 教授 松本建速
レジュメ「古代・平安時代の六ケ所村に馬はいたか?」 六ヶ所村歴史フォーラム 2015年8月30日 東海大学 松本建速
"蝦夷"と馬と尾駮の牧 六ヶ所村歴史フォーラム 2012年12月2日 東海大学文学部歴史学科 松本建速
引用した図・表・写真
第1期移住の波
5世紀後葉~6世紀中葉 |
第2期移住の波
6世紀後葉~7世紀 |
8c第2期移住後半
9-10c前半
第3期移住前半
10c後半-11世紀
第3期移住後半
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掘立柱建物付竪穴住居
続縄文式住居でした
馬飼は高級馬の飼育に利用した。 |
掘立柱建物付竪穴住居9世紀後半
秋田県鹿角市 |
掘立柱建物付竪穴住居六ヶ所村発茶沢203号十世紀中期以降 |
石組カマド 塩崎遺跡群
長野県埋文
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南堀之内遺跡 |
鹿角市中の埼遺跡
9世紀後半 |
六ヶ所村弥栄平(4)18号
9c後半~10c初頭 |
六ヶ所村発茶沢203号
10世紀後半 |
続縄文土器文様 |
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503 9世紀後半から11世紀の青森
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次の文書は六ケ所村郷土館館長さんからいただいた資料です。
大変有意味な内容が書かれていますので読みながら文章化しました。 |
各遺跡が営まれた期間と北東北・六ケ所村に関わる年表 |
787-86、馬買い禁止令。718年渡島・出羽の蝦夷良馬千匹献上で、都人が良馬を買いあさり、雑馬を官に納入のため。
877元慶の乱、貞観地震(869=千年前の東日本大震災。京都でも大地震が起こり姫路市から牛頭天皇を迎え祇園祭開始)
で疲弊した東北に過酷な政策をとることに俘囚が反乱を起こし秋田の城柵を焼き討ちする。
879出羽国の住民が奥地に逃亡。この年出羽権守が秋田城を修復。資料から東北・渡島と和人間で緊張状態継続。
※718年には既に良馬1000匹を献上するほど馬産が盛んであり、資料からその担い手がアイヌ(※810)であったとも伺える。
※860以降に六ケ所村湖沼地帯への入植が始る。(馬産)
915十和田火山噴火・火山灰降下、946・947白頭山火山灰降下。これにより北東北の東部から津軽へと人が移住する。 |
9世紀後半から11世紀の青森
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1気候:6c半ば寒冷、8c-9c温暖、9c-13c寒冷。火山活動:915・945-947により火山灰降下
5生産活動と植生:9c以降、製鉄開始。ヒバ林の大量伐採で草原化・砂丘化した。猿ヶ森砂丘のヒバ林埋没林(8c-10c)
6人口増加: ➀津軽地方、7-8c11遺跡35軒が9c以降155遺跡4000軒②南部地方、7-8c,66遺跡500軒、9c,147遺跡1700軒
7住居構造:竪穴住居。カマド位置、9c迄は北カマド、10c南・東カマド。住居の南・東に設置した。風向きか?
8小川原湖周辺と野辺地湾岸の集落:
(1)9c末-10c前葉に集落が忽然と出現。奥入瀬川流域では減少。十和田火山灰の降下による移動か。
➀上尾駮(2)遺跡から鍛冶遺構、鉄器生産。※馬産には必要不可欠。
②発茶沢(1)遺跡で掘立柱建物付竪穴住居まとまって出現、馬産のためか。※北海道アイヌの住居である。
(2)10c後半野辺地湾岸の向田(35)遺跡では、尾根平坦面に柵列で囲まれた竪穴・掘立柱併用建物が配置され、
斜面には一般的な竪穴住居がひな壇状に並ぶ。住み分けが明確化した。 |
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9歴史:元慶の乱(878)出羽国司の苛政に雄物川以北の蝦夷が秋田城を焼き討ちし、翌年多数の出羽国住民が奥地へ逃亡
火山噴火・火山灰降下で農耕不可、水資源の悪化や河川の汚濁、漁撈への影響によって上北地域北部へ避難移住
10生活道具:
➀9世紀に土器のロクロ整形開始。津軽は整形のまま。南部は内面黒色。県南の7-8cの末期古墳出土。東西差有
②擦文土器:煮炊用。10c-11cの北海道から。三八上北南部を除く120ヶ所から出土。
③須恵器:9c後葉以前は他地域産。9c後葉以降は五所川原須恵器窯と他地域産。10c中葉に五所川原産が主流
④製鉄:10c以降県内各地で生産。製鉄炉、鍛冶炉、を伴う集落から鉄器素材や製品を供給。
鰺ヶ沢町杢沢遺跡、東禿(2)遺跡。 階上町荒屋敷久保(1)遺跡
⑤木地師による木製品生産。陸奥湾・岩木川流域の低地集落から大量農耕土木具・編具・織機等出土。大鰐町大平遺跡
⑥稲作は前川遺跡が唯一。水田跡49・大畔跡・水路。約1反で200~440kg約2俵半。現在の半分。
⑦畑作の畝状遺構20か所検出。陸稲・大小麦・粟・稗・キビ・マメ科など栽培。
⑧農耕具:7-8cから鉄製鍬先・鋤先使用。9-11c量増加。 ・青森市新田(2)遺跡から木製装着部も出土。
・青森市大沼遺跡から牛の歯出土。馬耕・牛耕具は未検出。・鎌の刃、穂摘み具用鉄製品(苧麻の引き金)
・横槌(稲の穂刈から根刈になり、稲藁を利用した製品。菰編みが一般化)
・紡錘車:7-8c三八地域、8c津軽地方、9cには全県から鉄製紡錘車が出土。大麻・苧麻から布を織っていた。 |
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11馬産:
②古墳時代中期に馬産が岩手県南部に及ぶ。③7~8cに青森東部に馬産定着。八戸市丹後平古墳群。
③三八地域は笹・ススキなどイネ科植物が生育し黒ボク土発達。雪が少なく、冬も放牧に適する。
④718出羽・渡島の蝦夷馬千匹献上 ⑤878年元慶の乱。蝦夷秋田城を焼き討ち。糠部駿馬の交易を巡る争いと関係する
⑥1004年陸奥守・出羽守・前鎮守府将軍が藤原道長に献馬。 ⑦丹後平古墳群から7-8cの馬骨130-135cm中型馬
李平下安原遺跡8-9cの幼馬骨、八戸市林ノ前遺跡10-11cの幼馬含む大量の馬骨出土。食用にもしていた。
⑧陸奥臨時交易御馬が制度化(10世紀後半。年間20疋程献上)⑨1184宇治川の合戦で七戸・三戸の馬活躍
12製鉄と鍛冶:
➀鉄生産の3工程は製鉄・精錬鍛冶・鍛錬鍛冶。
東北北部の製鉄炉は地面を楕円形に堀り、地上に粘土で煙突を設ける半地下式竪型炉で、※朝鮮半島式たたら炉か?
東北南部以南では長方形箱型が主流。精錬・鍛錬鍛冶の炉には地床炉もある。 ※吉備式たたら炉
②10cは城柵による地方支配の衰退期。官主導の鉄生産も縮小。鉄生産者の中には東北北部移動した者もいただろう。
③東北北部での鉄製産は岩手県三陸沿岸・秋田県米代川流域・岩木山山麓など、砂鉄原料の製鉄炉が集中的に作られた
④鍛冶炉は9c後半以降に県内の集落からの発見が増える。竪穴住居内や単独で屋外に設けられるものがある。
⑤製品の材料鉄は県内は竪型炉で生産。青森県市野木(1)・新城平岡(2)・高間(1)・朝日山(1)・羽黒平(1)・山本・東秀(2)
つがる市八重菊(1)遺跡などで生産。9c後半代-10c前半代が多い。精錬滓やフイゴの羽口が出土。単数炉で生産した。
⑥県内では、鉄生産に必要な木炭は、8c-12cまでは、主に地面に掘った穴、土壙で生産された。※
※炭焼き窯でなく、穴の中で生焼けの炭を作った。生焼けの炭が鉄還元には最適だった。
※東北地方では「たたら製鉄」とは言わないようです。単に製鉄。 |
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13木工と木製品:➀鉄製品の普及は木製品の加工を進化させた。台形状原木では、袋状鉄斧、荒型ではチョウナとカンナ、
ロクロ整形では、ノミが対応する。
②大平遺跡、大鰐町砂沢平遺跡。木地師の存在が推定できる。10cから木器・漆器生産が進展。
14塩生産:➀古代の潮は貴重な税(庸調)で、多賀城ができると同時に国府直轄で行われ、軍備増強のたの兵士支給の
ために大量に必要とされていた。松島湾沿岸の製塩は、8c後半-9cにかけて生産がピーク。(燃料の枯渇で北部へ)
②製塩は、9c後半には八戸市周辺。10-11cは、陸奥湾沿岸を中心に、西海岸や小川原湖周辺など80遺跡で実施。
白浜式バケツ形製塩土器や円柱型支脚は北陸地方が源流で八戸周辺は太平洋側の影響。夏泊半島西部の大沢遺跡は
10c前半-11c後半
15漁業:➀鉄製釣針・ヤス・銛・鉤・土錘が出土 ②六ケ所村発茶沢(1)遺跡からも土錘が出土。
南部地方では東北町赤平(2)遺跡、林ノ前遺跡で鉤が発見されている。
16土師器の生産: 7-8世紀の土師器生産は不明な点が多い。9世紀後半の野木(1)、隠川(12)遺跡をはじめとして
ロクロピットと焼成施設(窯)が検出。各遺跡で行われていた。
17須恵器生産と刻書土器:➀梵珠山南西の前田野目川流域と原子地区周辺から良質の粘土を採取でき、列島最北の
五所川原須恵器窯39基がある。9c後葉-10c前葉は碗・皿・食膳具。10c中葉以降は壺・甕の貯蔵具が中心になる。
北海道まで供給する。②文字や記号のヘラ書きが多い。ヘラ書きは土師器の墨書に対応、記号は擦文分布圏を意識した
供給対応か。鉱産資源の開発行為と一体化している可能性がある。 |
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18土器埋設遺構:
➀県内の土器埋設遺構は9c後半-10c代である。土師器甕の合口甕棺は乳幼児の埋設施設か。
津軽地方で多く検出。律令体制下の習俗。六ヶ所村では尾上駮(2)遺跡から検出
②都では庶民の遺体は鴨の川原などへ放置。火葬されていた。墓への埋葬は社会の上位の者だった。 |
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520家ノ前遺跡 9世紀後半から10世紀前半 青森県上北郡六ヶ所村大字上尾駮字家ノ前4-1
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521遺跡概要
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主な遺構 |
竪穴住居 11軒(窪地で確認:7ヶ所)
①地下式カマド(10軒)と中央に地下炉設置(5軒)
②4軒の竪穴住居(第4号・5号・11号・12号)は、焼失家屋の可能性あり。
土坑 1基 |
主な遺物 |
土師器(坏10点、内部黒色坏1点、鉢・甕5点)
須恵器甕・壺
製塩土器 1点
その他 木製椀1点、土製支脚4点、土製紡錘車、灰釉陶器片、用途不明鉄製品1点
製塩を行っていた可能性がある |
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製塩土器出土:どこで作られ、何のために使われた?
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塩を製造・運搬するための土器を製塩土器という。海辺で濃くした海水を製塩土器に入れて煮詰めたり、固まった塩を製塩土器に入れたまま運んだり、していた。製塩土器は破片で見つかることが多く、壊して塩を取り出していたようだ。
陸奥湾沿岸で作られた塩を製塩土器に入れて運んできて、日常生活用として塩を使っていたか、製塩を行っていた可能性もある。 |
家ノ前遺跡
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家ノ前遺跡 |
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家ノ前遺跡
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遺跡の場所 |
埋まりきらない竪穴住居跡 |
遺跡概要
製塩土器
上に記述 |
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522
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家ノ前遺跡遺構全体図 |
第1号住居跡遺構全体図
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検出された全ての住居跡から白頭山火山灰が堆積しており、火山灰降下時にはすでに廃棄されていたと考えられる。
よって、9世紀後半から10世紀前半に営まれた集落と考えられる。 |
遺跡の状況 |
平安時代の竪穴住居が完全に埋没しておらず、地表面の窪地として確認できたものが、7か所あった。
出土物の多くは土師器甕で、外面ヘラナデ調整が多く、ロクロ調整のものは少量出土。 |
出土遺物 |
①②⑤小型甕
③④甕
⑥土製支脚
⑦製塩土器
⑧木製品
⑨用途不明鉄製品 |
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524製塩土器 家ノ前遺跡 10世紀後半 平安時代中期
製塩土器 |
製塩土器は塩粒が土師器の粒子の隙間に入り込み |
ゆっくりと確実に土器をバラバラに内側から破壊する。 |
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525土師器甕
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526鉄製品
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527土師器 坏
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530上尾駮(2)遺跡 9世紀末葉~10世紀前半 |
531遺跡概要
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主な遺構 |
(1)竪穴住居 24軒(床面積:小17軒、中5軒、大2軒周提有り)
①半地下式カマド(8軒:設置方向は南から東)と出入口、床面に地床炉がある住居跡も有り
(2)竪穴遺構 1基
(3)鍛冶場遺構 1基
(4)土器埋設遺構 1基(土師器甕と須恵器長頸壷を重ねて埋設) |
主な遺物 |
土師器(坏、鍋、手づくね土器)
須恵器(坏、長頸壷、短頸広口甕)
製塩土器 3軒の住居跡から出土
土製品の羽口、土製支脚、勾玉、丸玉(玉類は装飾品ではなく祭祀用か)
鉄製品:刀子、紡錘車、鉄斧、鋤鍬先、鉄鎚など28点
その他、砥石、炭化材、鍛冶滓
鉄槌400gい゛楔が撃ち込まれている。全国的に出土例が少ない。鍛冶場遺構を伴う集落遺跡。鍛冶集団が住んでいたか。 |
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鉄斧や鉄鎚が出土:鍛冶や祭祀をしていた?
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鉄の斧や重さ400gの鉄鎚が出土。全国的にみても出土例は少ない、。鍛冶を行っていたと考えられる。また、土器埋設遺構も出土。
その他に、土製の勾玉・丸玉が出土。勾玉と丸玉がセットの例と丸玉のみの例がある。玉類は、装飾用ではなく、祭祀用と考えられる。 |
上尾駮(2)遺跡 |
上尾駮(2)遺跡 |
上尾駮(2)遺跡 |
遺跡地図 |
発掘当時の様子 |
遺跡概要 |
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532第1号鍛冶場遺構
第1号鍛冶場遺構
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鉄製品が28点出土。羽口や鉄滓、炭化材や砥石も出土。
鍛冶場遺構を伴う集落跡は、六ヶ所村付近では、数少なく注目される。 |
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遺構外出土土製品 ①~⑦丸玉
⑧勾玉
⑨支脚 |
遺構内外出土鉄製品 ①金鎚
②鋤鍬先
③手斧 |
土器埋設遺構及び
出土土器 |
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533鉄製品 野鍛冶の痕跡
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鉄製品 手斧(ちょうな) |
刀子 |
紡錘車 |
鉄滓 |
フイゴの羽口 |
考察 六ケ所村の製鉄
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小川原湖東部の淋代海岸(三沢市)は豊富な砂鉄鉱床であり、近くでたたら製鉄や大鍛冶場、小鍛冶場があってしかるべきである。
しかしながら上のような、野鍛冶の作業場のような遺物しか出土せず、唯一上尾駮遺跡から鉄槌が出土し、小鍛冶場の痕跡かと思われる。
これは、未だ遺跡が発見されていないか、、風化し、砂丘の下になったかでしょうか。 |
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534土師器 甕(非ロクロ) 住民が自ら作った土器。
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535須恵器破片 五所川原から運ばれた貴重な土器だった。
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536須恵器長頸壷
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540金堀沢遺跡 10世紀世紀後半 六ヶ所村大字倉内字唐貝地
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541遺跡概要 縄文~平安時代の遺跡
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主な遺構 |
(1)竪穴住居7軒:窪地として確認
(2)SI01竪穴住居跡1軒を発掘調査。SI02を調査中
(3)出土遺物:土師器、須恵器、羽口、その他に徐江文土器・石器 |
主な遺物 |
土師器:ロクロ成形1点、非ロクロ成型95点
須恵器:2点
鉄製品:刀子1点
土坑1基
縄文土器片多数 |
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金堀沢遺跡
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金堀沢遺跡は小川原湖の北西に面し、小高い丘の上に位置している。
平成2年に六ヶ所村教育委員会の発掘調査によって縄文時代の住居や貯蔵穴、墓、平安時代の住居跡が発見され、縄文時代と平安時代の複合遺跡であることがわかった。
平成26年から東海大学松本建速教授ら発掘調査隊が毎年8月下旬に金堀沢遺跡で発掘調査している。この遺跡は埋まりきらず、窪地として残っており、平安時代の六ヶ所村の歴史を語る重要な遺跡であることがわかってきた。 |
金堀沢遺跡
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金堀沢遺跡
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遺跡の位置 |
埋まりきらない竪穴住居 |
東海大学竪穴住居発掘 |
遺構概要 |
遺跡概要 |
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542
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須恵器 壺 |
鉄製品 刀子 |
土師器 甕 |
土師器 小型甕 |
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543石帯(白玉帯) 表館遺跡Ⅱ区 平安時代
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青森県教育委員会が、昭和47年6月~7月に行った試掘調査で出土。この石帯は、「三位又は四位の参議以上が、許された白玉帯と考えられます。」
「表館の人物が、国司や鎮守府将軍を通して京へ上り、そこで貴族から白玉帯を賜与されたのかもしれない。」そうです。
(埼玉県埋文 田中弘明氏「尾駮の駒・牧の背景を探る」本文より抜粋)
平安京で作られた石帯で、この石帯と一緒にロクロ成形の須恵器の壺も出土しています。この地の有力者が、馬を献上した際に、下賜されたのかもしれません。
※「おんぞぬぎてたまふ」だったのでしょう。とても優秀な馬を生産していたようです。衣類はもらったけれど、貴族ではありません。馬飼いです。 |
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須恵器長頸壺
10世紀後半
表館遺跡Ⅱ区 |
石帯(白玉帯)
表館遺跡Ⅱ区 |
石帯(白玉帯) |
石帯(白玉帯) |
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550弥栄平(4)遺跡 10世紀前半 青森県上北郡六ヶ所村大字尾駮字上尾駮
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551遺跡概要
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主な遺構 |
(1)竪穴住居21軒:窪地で確認7ヶ所
①地下式カマドは南から東の壁に設置。排煙部はトンネル式から半地下式に作り替えられている。
②竪穴住居の床面積 小8軒 中11軒 (第17号竪穴住居は最大21㎡)
(2)竪穴遺構2基、焼土遺構1基 |
主な遺物 |
土師器:坏・甕・鍋
須恵器:坏・甕・長頸壷・広口長頸壷
鉄製品:刀子・鋤鍬先・穂摘み具様鉄製品・紡錘車・錫杖状鉄製品
砥石
稲作か雑穀栽培が行われていた。 |
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穂摘み具様鉄製品・錫杖状鉄製品出土:何のため?
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「穂摘み具様鉄製品」は、弥生時代の石包丁を鉄製品に置き換えただけで、県内では、青森市三内丸山遺跡など4ヶ所の遺跡から木質部を残した状態で出土している。稲刈り用の他に、苧麻(からむし)の繊維をしごき出す苧引金(おひきがね)に使っていたと考えられている。(青森市山元(2)遺跡)
「錫杖状鉄製品」は、形が仏教で使われる錫杖に似ていることから、このように名付けられた。
北東北独特の遺物で、環状部には筒形鉄製品のほかに鉄製の棒や小板を下げる例もあり、これらがぶつかり合って音を発生させる道具と考えられている。これらは大陸との交流を裏付ける有力な資料ではないかと考えられている。
※北方民族のシャーマンの道具だったといわれている。 |
弥栄平(4)遺跡
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弥栄平(4)遺跡
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弥栄平(4)遺跡
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遺跡地図 |
弥栄平遺跡発掘 |
遺跡概要 |
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552第17号竪穴住居跡
第17号竪穴住居跡
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第17号竪穴住居跡
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第17号住居は
十和田a火山灰(915年)と
白頭山火山灰(945~947年)の間に構築・廃絶された。 |
第17号竪穴住居跡
周提内堆積土模式図 |
錫杖状鉄製品
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第17号竪穴住居跡
出土土器
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①土師器 坏
②土師器 小型甕
③~⑦土師器 小型甕
⑧須恵器長頸壺
⑨須恵器広口短頸壺 |
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553
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土師器 坏
(ロクロ・黒色処理) |
土師器 坏
(ロクロ) |
土師器
(甕の底部) |
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554
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土師器 小型甕
(非ロクロ)
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土師器 甕
(非ロクロ) |
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555錫杖状鉄製品
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錫杖状鉄製品は、9世紀後半から出土し、10世紀後半の環濠集落からの出土が顕著になる。
朝日山(2)遺跡、野木(1)遺跡、野辺地町二十平(1)遺跡、七戸町貝ノ口遺跡、そして六ケ所村の弥栄平遺跡など県内12遺跡から出土。
西日本で見られる仏具に似ているので、この名前が付いた。が、
ロシア・朝鮮・中国大陸でも広く宗教儀式に使われており、日本固有の祭祀具ではなく北方系シャーマンと関連する遺物とみる説がある。
西日本の錫杖頭は、僧が托鉢の時、家々の前でこれを鳴らすことにより、来意を知らせたり、山や野を行くときはこれを鳴らして毒蛇や毒虫などから避けたりするために用いられた。 |
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556須恵器長頸壺
須恵器長頸壺 |
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560 |
560沖附(1)遺跡 10世紀 青森県上北郡六ヶ所村大字尾駮字沖附4-10 |
561遺跡概要
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主な遺構 |
(1)竪穴住居37軒:(窪地で確認できた住居群:3か所からなる。西側21軒・中央部7軒・東側9軒)
①周提付き竪穴住居もあり、周提直下から降下火山灰があることから10世紀前半遺構に建てられたと推定できる。
②焼失家屋や埋め戻された家屋あり。
(2)竪穴住居群が3ヶ所に分かれているが、出土土師器に大きな違いはない。 |
主な遺物 |
土師器:坏・甕・鉢、須恵器:小型甕。灰釉陶器、土製支脚、甕が多い
鉄製品:刀子・直刀・鍔(つば)・ヤリガンナ・手斧・鑿(のみ)・鋤鍬先、紡錘車が多い
その他:灰釉陶器(愛知県産)、砥石、鏃、羽口、鉄滓
木工に関わる人々が居住か、灰釉陶器は転用硯として使用。字を書く人が住んでいたか。 |
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木工に関する鉄製品と灰釉陶器が出土:何のため?
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「木工に関する鉄製品」が多数出土。木工に関わる人々が居住していた可能性がある。砥石や少量の羽口・鉄滓も出土。
小鍛冶を行っていたと思われる。
「灰釉陶器の破片」が出土。灰釉陶器は、よく転用硯として使われる。当時は、石の硯より陶器の方が墨を摺るのに丁度良いざらつきで、平城宮内ではよく使われていた。灰釉陶器片を掌に載せ、墨を摺り、筆で文字を書く、デスクワークの上級役人ではない現場で働く役人(?)が、古代のこの六ヶ所にいたのではないかとロマンが広がる。いったいどんな目的でこの六ヶ所の地に来ていたのだろうか。
※やはり、馬の生産や、献上する数を管理するような、税の取り立ての役人だろうか。しかし、最果ての地まで、、、大変な勤務だろう。 |
沖附(1)遺跡
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沖附(1)遺跡
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遺跡の場所
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遺構配置図 |
遺跡概要
上に記述 |
木工に関する鉄製品と灰釉陶器が出土:
何のために?
上に記述 |
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562沖附(1)遺跡出土品
沖附(1)遺跡出土品 |
灰釉陶器
上に記述 |
灰釉陶器とは
植物を焼いて灰をつくり、それを水に溶いて釉薬とする。
その釉薬をかけて焼いた土器のこと。
主に奈良・平安時代の役所やお寺で使われていた。
国内最初の陶器に位置づけられる。 |
灰釉陶器
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出土土器
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①~③土師器 坏
④⑤⑦⑧⑪⑫土師器 甕
⑥須恵器小型 甕
⑨⑩土師器 鉢 |
出土鉄製品
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①②刀子
③紡錘車
④⑤ヤリガンナ
⑥⑧手斧
⑦鑿のみ
⑨鋤鍬先 |
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565
灰釉陶器 沖附(1)遺跡
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国内最初の陶器。植物を焼き灰をつくり、水に溶いて釉薬をつくり、かけて焼いた土器。主に奈良・平安時代の役所やお寺で使われました。
平安前期は、主に現愛知県の尾張黒笹(くろざき)地区で生産されました。
そもそも灰釉陶器は、よく転用硯として使われました。
当時は、石の硯より陶器の方が墨を摺るのに丁度良いざらつきで、よく使われてたそうです。灰釉陶器片を掌に載せ、墨を摺り、筆で文字を書く、デスクワークの上級役人ではない現場で働く役人が、古代のこの六ヶ所にいたのかもしれません。
墨 転用硯 木簡と筆 刀子 |
沖附(1)遺跡
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灰釉陶器
墨・転用硯・木簡と筆・刀子 |
灰釉陶器 |
石器 砥石 |
土師器 坏 (ロクロ・黒色処理)
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566土師器 甕 沖附(1)遺跡
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567鉄製品 沖附(1)遺跡
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鉄製品 刀子
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鉄製品 鍔 |
鉄製品 直刀 |
鉄滓 |
鉄製品 手斧 |
鉄製品 鍬先 |
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570発茶沢(1)遺跡 旧石器~平安時代の複合遺跡 9世紀~10世紀後半 青森県上北郡六ヶ所村大字鷹架字発茶沢
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571遺跡概要
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主な遺構 |
(1)西側小規模集落:竪穴住居跡6軒、土壙6基、焼土遺構9基
(2)東側大規模集落
①竪穴住居跡51軒、掘立柱建物跡11棟(燻蒸施設か厩舎が考えられる)、土壙66基、焼土遺構23基
調査区域外の住居跡窪みが多数。大規模集落
②石組カマドで、煙道は地下式から半地下式の構造へ変化 |
主な遺物 |
土師器:坏・甕・壺・鍋・甑(こしき)・小型土器
須恵器:坏・壺・鉢・大甕・刻書土器片 ※五所川原須恵器窯跡産が多数を占める。
土製品:土玉、土製支脚、羽口、土垂、製塩土器。砥石
鉄製品:刀子・鑿(のみ)・鎌・締め金具()刀装具・紡錘車・棒状鉄器(刀子が作られる過程の半成品か=小鍛冶場)
その他:炭化米
北海道系中茶路式土器が出土。表館(1)遺跡でも出土。
厳しい自然環境に適した稲作や馬飼を行っていたか。 |
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掘立柱建物:何のために使用?馬屋?燻蒸施設?
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竪穴住居跡と掘立柱建物跡が組み合わされた構造の建物が青森県で初めて確認された。
掘立柱建物跡はカマド側にあり、煙道を覆うような形で建てられている。作業空間か馬小屋か、燻製を作っていたのかはまだ分かっていない。
六ヶ所村立郷土館の体育館寄りに、復元した掘立柱建物がある。復元に当たって、屋根の構造が想像図のものとは違ったものに復元されている。 |
発茶沢(1)遺跡 |
発茶沢(1)遺跡 |
遺跡地図 |
遺跡の検出状況 |
遺跡概要 |
掘立柱建物:何のために使用?馬屋?燻蒸施設? |
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572第205号住居跡 発茶沢(1)遺跡
石組カマド 参照文化的区分
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カマドの一部が石を組んで作られているもので、古くは5世紀後葉に、長野県や群馬県北部辺りに出現。
9世紀前半に鹿角市「高市向館遺跡」や、9世紀後半の「中の崎遺跡」にも見られ、米代川流域から津軽の山間地で見られた。
10世紀中葉以降、六ヶ所に伝わったのではないかと考えられる。 |
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第205号住居跡想像図
掘立柱建物跡想定図 |
第205号住居跡
盛り土の調査 |
掘立柱建物の復元
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石組カマド |
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炭化米出土
津軽地方や岩手県北部より小粒で、厳しい気候に適した早熟の小粒種を栽培か。 |
出土 土師器
①~④坏
⑤~⑩甕 |
出土 須恵器
①②長頸壷
③大甕 ④壺
⑤ヘラ書き破片
(刻書土器) |
出土 鉄器
①鍬先
②穂摘具様鉄製品
③④刀子
⑤⑥棒状鉄製品 |
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575 出土品 発茶沢(1)遺跡
支脚・土師器小型甕
(非ロクロ)
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576土師器小型甕(非ロクロ) 発茶沢(1)遺跡
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577
土玉と勾玉 発茶沢(1)遺跡と上尾駮(2)遺跡出土(両遺跡は同一遺跡の続きである。)
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ヒスイから土製への変化は、威信財的な内容から呪術的機能へと変化しているとみられる。鍛冶遺構から出土しているので、カマド神信仰に関連し、
住居廃絶に伴う不浄観を祓う意味で置かれたか。
野尻(4)遺跡の竪穴建物跡のカマドに隣接した床からも、一連に連なった土玉・勾玉が8個出土している。 |
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土玉と勾玉 |
土玉と勾玉 |
須恵器 刻書土器 |
須恵器 壺 |
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578須恵器 短頸壺 発茶沢(1)遺跡
須恵器 短頸壺 |
須恵器 短頸壺 |
須恵器破片 |
土器底部の装飾 |
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579土師器 発茶沢(1)遺跡
土師器(甕)と土製支脚
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カマドで使われたのか、ススがついています。また、粘土を積み上げた輪積み痕を見ることが出来ます。発茶沢(1)遺跡出土 |
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土師器(甕)と土製支脚 |
土師器 甕
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土師器 甕
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土師器 甕
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土師器 甕
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580須恵器大甕 発茶沢(1)遺跡
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大甕は、古墳時代の墓から出土している例があり、あの仁徳天皇陵(5世紀前半の前方後円墳)からも出土。
「古墳の東側造出部から破片として出土。祭祀の中で使われたのではないかと考えられている。」(宮内庁HP)また、
「京都府長岡京跡からも須恵器大甕23個見つかった。酒をつくる容器と考えられる。」(長岡京跡右京第1019次調査)
「青森県中泊町の中里遺跡からも須恵器大甕が出土」しているらしい。(県史跡「中里城遺跡」)
この大甕の用途としては、水やお米・稗・粟等の貯蔵用考えられる。 |
須恵器の大甕
発茶沢(1)遺跡
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大甕
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600自 然
六ケ所村で見られる花たち
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夏でも涼しい風が吹く六ケ所村で見られる花たちです。
沼地にはヨシやニッコウキスゲの群落が見られ、ミズバショウやショウジョウバカマ、ギボウシなども見られます。
水辺には、めずらしい自生のカキツバタやかわいらしい黄色い花をつけるリュウキンカも見られます。
倉内地区で見られたオニユリは、古い時代に鱗茎(ユリ根)を食用にするため渡来したものらしく、朝鮮南部が原産地と考えられています。
※朝鮮半島南部からこの鱗茎を持って渡来した人々がいたということですね。鱗茎だけが流れ着いたわけではない。
彼らが、馬産の主体だったのだろうか。ユリ根は甘くておいしい。一方で滋養強壮、整腸作用があり、和漢薬に重宝されている。 |
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601六ケ所村で見られる花たち
六ケ所村で見られる花たち
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六ケ所村で見られる花たち |
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リュウキンカ |
ショウジョウバカマ |
キバナイカリソウ |
オニユリ |
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イタヤカエデ |
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602
クマガイソウ |
ニッコウキスゲ |
ニッコウキスゲ |
エビネ |
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604六ケ所村の動物たち
ニホンアナグマ
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ネコ目イタチ科。雑木林や里山などに生息。夜行性で、鋭い爪を持ち、トンネルを掘って集団生活をする。
雑食性で、果実やネズミなどなんでも食べる。
穴を掘れないタヌキなどが同居することがあるので「同じ穴のムジナ(アナグマ)」という諺がある。日中でも、道路脇をトコトコ歩いていることがある。 |
ニホンカモシカ
・ホンドキツネ |
オコジョ |
アナグマ |
ニホンアナグマ |
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キテン・ノウサギ |
オジロワシ |
オジロワシ |
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700民俗展示
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701民俗・農林業
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702漁業
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国内の博物館では近年まで使われていた丸木舟(一木造り)を見かけることがある。種子島、松江市、などである。
六ケ所村で展示されているということは、下北半島一帯でごく最近まで使われていたことを示しており、六ケ所村郷土館地下室に何艘もの
丸木舟がストックされていました。
構造船よりもたやすく手に入ったために重宝されたのでしょう。また、それだけの大きな木がまだどこかにあったということで、使用者自身が
自力で造船する知識と技術が受け継がれていたようです。 |
丸木舟とカッコ船 |
シジミ漁 |
漁業の様子 |
ニシン漁 |
地引網
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地引網
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丸木舟からカッコ船
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泊の丸木舟は、長さ4m6cm幅70cmが標準的な大きさで、漁船としては大変小型です。鰹節の両端を切り落とし、半分に割ったような形をしていて
前部が広く船尾は非常に細くなっています。通常は一人乗りで、最大3人まで可能です。船を進めるには、車櫂と呼ばれるオールのような特殊な櫂が用いられます。車櫂で漕ぐと丸木舟の走りは思いのほか軽快です。
泊の丸木舟は、主に岩礁の多い海岸での、冬のアワビ漁に使用されます。
丸木舟は専門の船大工ではなく、漁師自身が山に入り船作り(フナウチ)をします。何人かが組になって山に入りやん柱で大体の形に彫り込んでから里に引き下ろし、最後の仕上げを船大工が行いました。
丸木舟に使われる木材は軽く水切れの良いカツラが最も好まれますが、一般には容易に入手できるブナが用いられました。原木を切り倒す時には、
まず、根本にシトギ(餅)を供え、お神酒をかけて山の神に挨拶をします。荒取りした丸木舟を山から引き出す時にも、シトギを供えお神酒を
切株にかけて、山側に三回引いて後に前へ引き出します。これは、引かれていく丸木舟の最後の挨拶の意味ではないかと考えられています。
また、泊では、丸木舟より一回り大型のカッコと呼ばれる漁船も使われます。この船は、船底に丸木舟を浅くしたようなムダマと呼ばれる材を用い、それに棚板を取り付けた構造です。カッコ船が使用されるようになったのは、明治以降であると伝えられています。
その理由としては丸木舟の原木の入手が困難になり、また、丸木舟に比べて軽いので、波にぶつかると船体が動いて波が入らず、多少の波でも漁を行うことが出来るという利点もあります。
カッコは、一木造りの丸木舟から発展した構造線で、船底材ムダマの名勝を冠してムダマハギと呼ばれます。ハギとは接ぎ合せること、
即ち構造船の意味です。船の発達過程は、丸木舟、準構造船(ムダマハギ)、そして構造船(シマイハギ)に進化すると考えられています。
泊は、船の発達の過程を目の当たりにすることが出来る大変珍しい地域と言えます。 |
丸木舟からカッコ船 |
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ムダマハギ型漁船
断面構造図 |
地域と漁船の構造図 |
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漁具 |
漁の様子 |
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800六ケ所村ジオラマ
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810六ヶ所村
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