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   東北の縄文1   05  2016.10.13-3

   山形県立博物館  山形市霞城町1-8  023-645-1111  毎週月曜日、年末・年始 撮影可

  時代  旧石器時代 縄文時代 古代

  見所  質の高い展示物があり、展示量は少ないですが、山形県全体の先史の傾向がつかめます。
      
  交通  山形駅より徒歩10分
 



00外観

地学 山形のなりたち

付加体形成の時代
01古生代~中生代

海底火山の時代
02新生代新第三紀、
 中新世、前期-中期

油田形成の時代
03新生代新第三紀、
 中新世中期

陸化の時代
04中新世後期-鮮新世

浅海の時代
05鮮新世

列島形成の時代
06第四紀更新世

山形の時代
07第四紀更新世

1万年間の変化
08第四期完新世

考古学 山形のあけぼの

10旧石器時代
  人の住み始め
  山形の旧石器文化
11山形の大地に刻まれた歴史
12石器の作り方、使い方
13石器
14礫石器

 資料
 中期旧石器時代
 礫石器  
 石刃技法

15ナイフ形石器
  ナイフ形石器の分布と種類
16細石刃
  細石刃文化の拡大と分布

17尖頭器 後期旧石器時代
18尖頭器 旧石器末~縄文

 考察
 尖頭器
 中期旧石器~後期旧石器末

 尖頭器の呼び名
 尖頭器の出現と盛衰 
 動物相の変化と尖頭器

 考察
19神子柴型石器 

 神子柴型石器群
 二つの神子柴文化


20縄文時代
21panel
 
日向洞窟遺跡の意義
日向洞窟前遺跡

22panel
日本の洞窟遺跡


24土偶 縄文の女神
25土偶残欠

26山形の縄文土器

27石器
29祭祀具と装飾品

30縄文土器
31異形注口土器
  彩漆土器
  釜淵土偶

弥生時代
60弥生時代のくらし
61弥生土器

古墳時代
70古墳時代の暮らし
71panel
72道具
73山形の古墳
74古墳
75古墳2
 伊那森古墳
 大之越古墳
 戸塚山古墳

76大之越古墳の副葬品
 環頭大刀

77古墳文化の広がり
 銙帯金具

古墳時代の集落
80嶋むらの暮らし
81panel
83嶋遺跡の木製品
85嶋遺跡の装飾品
87嶋遺跡の土器
 
山形の古代

90古代
  出羽国の成立と条里制 
91
92出羽の国衙
 




 00外観 博物館は旧山形城内にあり車では北方向から、徒歩では山形駅西口を出て北進し、霞城公園南門から入ることができます。

      博物館部門紹介  地学、植物学、動物学、考古学、歴史学 、民俗学、教育学の各部門の展示が行われています。

山形城北門入口
博物館入口 最上川小舟と磯見舟最上川小舟/奥側
大石田町黒滝地区
向井の田畑に肥料・稲束等を運んだり魚を獲ったりする自家用小舟
磯見舟/手前
温海町大岩川地区
箱メガネで、衣その魚やアワビ・サザエ・ワカメ・エゴ等を獲るための小舟
博物館 案内図



  地学 山形のなりたち

  ここで明らかにしたいことは、四方を山地・山脈に囲まれ、広大な県土全体が北に傾斜し、沢山の火山が活動する不思議な山形の
  地形・地理・気候が、つまりは、風土そのものが、考古学的にも大きな役割や意味を持ったのではないかと考え、調べてみました。




 付加体形成の時代


 古生代 (3-1.5億年前)

   アジアのもとになった地塊は南半球で形成。古生代後期にプレート運動で北上し、中生代に衝突合体した。西日本の石灰岩地帯はこの時形成。

 中生代白亜紀 (1.5-0.66億年前)

   シベリア陸塊に海底堆積物が次々と付加拡大する。白亜紀に東アジア東縁で火山活動開始し、花崗岩が形成され、列島の骨格が形成された。

   海嶺と海溝
    プレートは海洋の山脈である海嶺で作られます。プレートは年間数cmから10cmの早さで移動して、大陸のヘリにある海溝に沈み込みます。
    日本列島はプレートの沈み込む場所にあるため、過去の時代から絶えず地殻変動を受けてきました。

   海溝と付加体
    プレートに乗って移動してきた海底の堆積物や岩体は、海溝にプレートが沈み込むときに、大陸にくさび状に接合します。これを付加体と言いう。
    日本列島の骨格は、過去のプレート運動で付加された様々な付加体によって構成されています。

 01古生代~中生代 3億~0.66億年 
古生代
合体してできたアジア
ペルム三畳ジュラ紀

シベリア・中朝・揚子地塊
3~1.5億年前
シベリア地塊の形成過程
中生代 白亜紀
列島の骨格形成/付加体
領家帯花崗岩・三波川変成岩
四万十帯付加体
海嶺と海溝

海山(3千m級)が沈み込む時は、特に摩擦が多く巨大地震が発生する。

火山列は海溝から一定の距離に出来、火山帯となる。
海溝と付加体

大陸プレートに乗り上げていく付加体は、南米からやってくる間に周辺の大陸からの河川堆積物、海底火山から噴出した堆積物、生物残渣つまり石灰岩、などです。


   海底火山の時代




 新生代新第三紀中新世 (2300-1040万年前)

   中新世初頭に、東アジアの辺縁部が沈降して裂け始め、湖となり、やがて海が侵入して、日本海が誕生した。
   海底火山が活発になり、海底に噴出した大量の火山灰・火山礫が堆積して、緑色凝灰岩ができ、金属鉱床を形成した。

 日本海の誕生 -東アジアの分裂- 新生代 新第三紀 中新世 前期-中期 2300-1040万年前

  緑色凝灰岩 (グリーンタフ) 地域の岩石・鉱物

   新第三紀中新世の激しい地殻変動から海底火山活動までを、グリーンタフ変動といい、この活動があった地域を、グリーンタフ地域と呼んでいる。
   この海底火山活動で、海底近くに、上昇してきた熱水鉱液から、銅・鉛・亜鉛・石工などが沈澱し、山形・秋田に広がる金属鉱床(黒鉱床)が出来た。

  グリーンタフのでき方
   00プレートの沈み込み摩擦と圧力による高温高圧下で、海底40km~60kmで地殻が溶解する。
   01海底の大きな断層を通ったマグマは、地殻表面に噴き出し、海底で激しい噴火をはじめます。

   02海底には、噴出した溶岩や火山砕屑物が、堆積し、海中には、火山灰や軽石が浮いています。
   03その火山灰や軽石は、静かに沈み、堆積し、やがてグリーンタフとなります。

 02新生代新第三紀、中新世、前期-中期 2300万-1045万年前
古第三紀末期-新第三紀初期
2500万-1900万年前
日本海の誕生
-東アジアの分裂
緑色凝灰岩地域の岩石と鉱物 グリーンタフの形成 グリーンタフと鉱山の分布
グリーンタフの形成


   油田形成の時代


 新生代新第三紀 中新世中期 (1630万-1040万年前)

    この頃、山形はほとんど海に覆われ、最も深く沈みました。深海では泥や石油の素になった微生物が堆積しました。
    出羽山地付近は水深数千mになりましたが、奥羽山脈付近は中新世を通じて海底火山が活発であまり深くはならなかった。

  山形を覆った海 -深海の時代- 新生代 新第三紀 中新世 前期-中期 1630万-1040万年前


  この頃の岩石・化石・石油
    この頃の地層は、新第三紀中新世の中部層・上部層で、内陸盆地に近い山地や庄内の山地に多く分布しています。
    中部層は泥岩・砂岩からなり、石油を含んで最上・庄内地方に分布し、上部層は、礫岩・砂岩・泥岩からなります。
    下層部は、激しい海底火山のあったところの地層です。  

  石油の溜まり方
    ①新生代の激しい火山活動に続いて沈降が起こり、深い海の海盆には、泥や砂と共に多くの微生物が堆積しました。
    ②堆積した地層は隆起する時、大きな力を受けて褶曲しました。地層に埋もれていた微生物の死骸は石油に変化しました。

    ③石油は地層の背斜構造の砂岩のところにガスと共に集まります。この上下の地層は、石油やガスを逃さない細粒の泥岩から出来ています。
    ④余目油田は庄内平野の中心にあり、南北に広がる平原型油田です。長さ4km幅1.5km、二つの背斜構造から出来ています。


 03新生代新第三紀、中新世中期 1630万-1040万年前

山形を覆った海
-深海の時代-
この頃の岩石・化石・石油 この頃の岩石・化石・石油



  陸化の時代


 中新世後期中頃  (1040万-530万年前)
    中新世後期になると、山形は太平洋プレートの圧力を受け、次第に隆起し陸化し始め、奥羽山脈は陸に、山形は内海になりました。

   海底から陸へ -プレートの圧力と大地の隆起- 新生代第三紀、中新世後期中頃-鮮新世 1040万-260万年前

   鮮新世 (530万-260万年前)
     鮮新世になると、日本海に繋がっていた内陸の海は、出羽山地の隆起によって海から分かれ、湖になりました。


   その頃の山形
    中新世中頃に海底に堆積していた地層は、隆起する時に大きな力を受けて褶曲しました。
    特に出羽山地や奥羽山脈地域では、激しい地殻変動を受けて高く隆起していきました。

    一方、陸地も盛んに隆起し、山形では、海の一部が狭く入り込んだ湾となって残っていましたが、隆起が進み、海退し、
    米沢・山形・新庄地域には湖ができ、庄内地域は湾となりました。

    この湖には、陸地で茂った植物が埋もれ、亜炭になりました。また、陸地には火山性陥没湖が出来ました。

 04中新世後期-鮮新世 1040万-260万年前
中新世後期中頃
700万年前
海底から陸へ -プレートの圧力と大地の隆起- その頃の山形


   浅海の時代



 鮮新世 530万-260万年前

  亜炭のでき方 鮮新世 530万-260万年前

    ①新第三紀末頃になると、陸地が拡大し、内海や湖が出来ました。この頃は、温暖な気候が続き、メタセコイアやブナなどの植物がおい茂って
    いました。

    ②陸地は、盛んに隆起を続け、時おり激しい地殻変動が起こり、周辺から植物が沢山流れて来て、湖に堆積しました。

    ③火山灰や軽石・礫・砂・泥などが植物と共に堆積を繰り返し、地層は次第に重みで加圧され、炭化作用が進みました。

  最上地方の炭田 総埋蔵量約5億t。大正時代に企業化されました。燃料や工業原料に使用されています。

  この頃の岩石・化石・亜炭
    鮮新世に堆積した地層は、新庄・尾花沢盆地に特に多く、軽石凝灰岩を伴う砂岩、亜炭を挟む礫岩・砂岩・泥岩が見られます。
    化石は、酒田付近で二枚貝や巻貝。 新庄盆地南西部ではブナ・コンプトニアなど植物化石が見られ、この頃の植物は後に亜炭となりました。

 05鮮新世530-260
鮮新世 500万年前 鮮新世
3250-200万年前
亜炭のでき方 この頃の岩石・化石・亜炭 鮮新世の化石・岩石分布



   列島形成の時代



 第四紀更新世 260-1万年前

 土地の隆起と低地の沈降 第四紀更新世  260-1万年前
   第四紀更新世 (260万-1万年前)
     第四紀は、山形がより強く太平洋プレートに押された時代です。この為、奥羽山脈や出羽山地は隆起して高くそびえ、低地は沈みました。
     庄内に海が進入したり、内陸に大小の湖沼や湿地ができて、そこへ山地から川によって運ばれてきた土砂が堆積しました。

     また、山地では、蔵王山、鳥海山など、十余りの火山が新たに活動を開始しました。

 山形の火山と温泉
     山形には、奥羽山脈に沿った那須火山帯と、出羽山地に沿った鳥海火山帯があります。プレート境界から遠い鳥海火山帯のマグマは、
     那須火山帯より深い地点に発生しています。その結果鳥海火山の溶岩はアルカリやアルミナを多く含みカルシウム成分が少ない傾向を示し
     ています。

     温泉はこの新しい火山と密接な関係があり、地価のマグマから出た熱水や、マグマに温められた地下水が素になっていると考えられています。
     このため、温泉は火山帯に多く分布しています。


 気候変動の第四紀 -繰り返す氷期- 260万-1万年前
     第四紀になると、気候変動が起こりました。特に更新世後半に激しくなり、寒冷な氷期と温暖な間氷期が繰り返され、生物環境に大きく影響
     しました。
     氷期には海水面が下がって、動植物が大陸と交流しやすくなり、山形に大陸からナウマンゾウが移動してきました。

 この頃の岩石と地層
     更新世になると最上町向井町地域で火山活動が起こり、その噴火により軽石が堆積しました。その後向井町カルデラを形成しました。
     また、鳥海山・月山・蔵王山・白鷹山・吾妻山などの新しい火山も活動を始め、爆発を伴いながら、安山岩や火山砕屑物を噴出しました。

     なお、肘折では、1万年前に噴火し、軽石を堆積しました。この頃の礫や砂は、高位の段丘をつくり、赤色土化して、特に、新庄や尾花沢盆地
     に見られます。
     米沢盆地西部の玉庭杞憂量もこの頃できたものです。



 06第四紀更新世260-1万年前

土地の隆起と低地の沈降 山形の火山と温泉 山形の火山と温泉 気候変動の第四紀
-繰り返す氷期-
この頃の岩石と地層



   山形県の形成



 第四紀の年代表 第四紀更新世 260万-1万年前

   260万年前から現在までを、新生代第四紀といい、更新世と完新世に分けています。
   この時代の重要な出来事は、寒暖の気候が繰り返され、新しい火山活動が起こり、山形に人が住みついたことです。郷土の地形はこの時代に
   形作られました

260万-80万年
260万-80万年
向日町火山の噴火、カルデラの形成。 メタセコイア植物群の繁茂。 庄内層群(泥岩・砂岩・礫岩)の堆積。葉山・白鷹山・面白山火山の噴火。
80万-15万年 メタセコイア植物群の消滅。 月山火山の噴火(30万年前)
15万- 1万年 ●ナウマン象の渡来。
●4万年前頃人が住み始める。 上屋地(石器出土 4-3万年前頃)、東山(石器出土 2万年前)、角二(細石刃1.5万年前)
●河岸段丘の形成 3万年前頃、寒冷な気候下で泥炭の堆積。温暖な気候下で赤色風化土壌の形成
●鳥海・蔵王・吾妻などの火山活動
1万-現在 ●新しい火山活動が続く。
●沖積低地・砂丘・扇状地の形成


 07第四紀更新世 260万-1万年前

第四紀の年代表 260万-80万年前 80万-15万年前 15万-1万年前 旧石器時代の石器 1万年-現代



   1万年間の変化



 第四紀完新世 1万年-現在

  最上川と郷土の姿 -美しい山形の大地- 完新世 1万年-現在
    完新世の約1万年前になると、気候は温暖になりました。 それまで低地や湖沼や湿地は、山地からの多量の土砂で埋まり、平野に姿を変えて
    いきました。
    最上川は、腰用や海の名残の内陸盆地と庄内平野を結んで日本海へ流れるようになり、山形の大地が完成しました。

  その頃の山形
    第四紀完新世になって、湖盆の位置が東方にずれ、現在の盆地に近い地形を作り、淡水となっていました。
    完新世の地層は、平野・盆地や河川沿いに、砂・礫・粘土などが堆積したものです。また、山麓には、川が砂や礫を積もらせ、扇状地を作った。

    この頃は、各火山が噴火を繰り返し、主に火山砕屑を積もらせました。
 
  最上川とその地形
    完新世になると、湖の水は昔の川跡を流れて、湖のくびれた部分の川底を抉り、五百川渓谷碁点三ヶ瀬三難所や、最上峡などの
    峡谷を作りました

    (ここ、ちょっと意味が通らない。別の項目が一つとんでいるようです。)

    更に、硬い地層の所では穿入蛇行が造られ、盆地や平野には泥や砂が堆積して段丘・自然堤防・三日月湖などが作られました。
    このようにして最上川が出来ました。最上川は、全長229km、流域面積は県土の76%を占めています。

 08第四期完新世 1万-現在
最上川と郷土の姿 その頃の山形
最上川とその地形








 考古学 山形のあけぼの 


 
 10旧石器時代

 人の住み始め
   人類が現れてから、土器を使うようになった約1万年前までを旧石器時代と言います。この時代は火山活動が活発で、寒冷な氷期と温暖な
   間氷期とが繰り返しおとづれました。人々は主に動物を捕え、打製石器を使い、移住しながら暮らしていました。

   山形に人が住み始めたのは、約4万年前と言われています。この時代の遺蹟は、見晴らしの良い台地や段丘などに見られます。

 山形の旧石器文化
   山形には、旧石器時代の遺跡が多く、なかでも、朝日町大隅遺跡・朝日村越中山A遺跡・小国町東山遺跡・飯豊町上屋地B遺跡などは
   旧石器文化の研究史に残る遺跡です。

   また、中期旧石器時代から後期旧石器時代までの、それぞれの時代を代表する石器が発見されています。

   特に、後期旧石器時代には、東山型ナイフ・杉久保型ナイフのほか、茂呂型ナイフや国府型ナイフなど色々なナイフ形石器が見られます。


 11第2展示室 山形の大地に刻まれた歴史


 山形の大地に
刻まれた歴史
人の住み始め  山形の旧石器の移り
       変わり
中期-飯豊町上屋地B遺跡
     石核
山形の旧石器文化 山形の旧石器文化
ナイフ形石器の地方色
東山型・杉久保型
茂呂型・国府型
旧石器時代の遺跡分布 遺跡分布図から

 山形では、
中期旧石器~後期旧石器の遺跡が沢山あり、

遺物も豊富に出土している稀有な地域である。
後期-朝日村越中山K遺跡
    小国町岩井沢遺跡

    小国町横道遺跡
    小国町東山遺跡

    大石田町角二遺跡
    飯島町上屋地A遺跡
    西川町弓張平B遺跡

  12石器の作り方、使い方
ナウマンゾウを倒す油絵
笹原で、広葉樹の灌木地帯が舞台となっている
石器の作り方、使い方 礫器
中期旧石器時代

木を倒したり、骨を割ったりする
ナイフ形石器
後期旧石器時代

物を切ったり、刺したり
細石器
後期旧石器時代後期

木や骨にはめて槍とする
尖頭器
後期旧石器時代終末期

木の先につけて槍とする


 13石器

 14礫石器
 中期旧石器時代 約4万年前の旧人 (=ネアンデルタール人) の石器です。


  中国の山西省の丁村文化やシベリアのルバロワムスティエ文化期の石器とよくにています。
     参考リンク ムスティエ文化は、ネアンデルタール人の文化です。  ※ムスティエ文化の画像  ※ムスティエ文化

  丁村文化-(山西省)は中期旧石器時代文化の遺跡。
     石器・動物骨・二歳児の頭頂骨化石発見。ネアンデルタール人に近い

  ルヴァロワ技法-前期旧石器~中期旧石器にヨーロッパ・アジア・アフリカに分布する剥片製作技法。ルヴァロワ文化は存在しない。
     製作する剥片の形を想定して調整された石核から、剥片を剥離する
     技法である。石核は亀甲(きっこう)形石核とよばれる。

  ムスティエ文化
     ヨーロッパ・シベリア・アルタイにおける中期旧石器時代に栄えた文化。
     ルバロワ型石核を用いた削器と尖頭器が発見された剥片石器を特徴とする

中期旧石器時代の石器
飯豊町/上屋地B遺跡
石核  握斧 両刃石器  

 資料

 中期旧石器時代の文化はネアンデルタール人 (旧人) の文化です

  礫石器の意味
    人類がつくった石器のうちでもっとも簡単なもの。円礫(えんれき)もしくは角礫を拾い、その一端を石などで打ち欠いて
    刃をつけたもの。人類のつくった最古の石器とされる。    引用1


    前期旧石器時代の自然石を打ち欠いただけの原初的な石器で、原人段階からの使用が確認されている。
    オルドヴァイ文化の中で初めて出現する。    引用2  

    右図、先ナイフ形石器文化分布図は、旧人型旧石器人は西からナウマンゾウを追って列島にやってきた証明です。
先ナイフ形石器文化
引用国立博物館日本人はるかな旅展


 資料  引用石刃技法Weblio

 石刃技法
   とは、東北アジアの後期旧石器時代の開始を告げる技術的指標である。
   この技法は、ユーラシア大陸西部のイランからアルタイシベリア経由北ルート東方アジアに広がった革新的技術の一つとみられている。

   また、このルートは、現代型新人 (ホモサピエンス) が拡散してきた道程を示していると言える。


  技法の概略

    ①原石(母岩石材)を輪切り状に大きく荒割りして打面を準備し、
    ②石核の素材をつくり出したのちに調整加工を加えて石核を作り、
    ③これを連続的に同一方向から加撃してほぼ同じ大きさの縦長剥片を打ちはがしていく。

   この剥片を刃器(石刃)とよび、二次加工を加えて多様な形態の石器を製作していく。
   二次加工としては刃潰し剥離がなされ、ナイフ形石器を製作することが多かった。


  美利河(ピリカ)技法  ピリカ遺跡 ピリカ旧石器文化館

    北海道美利河1遺跡出土の66点の石核・石刃・剥片は互いに接合し、石刃技法の過程を示す好例である。

①まず長径21センチの川原石の表皮を剥ぎ取り縦長のかたちに整えるのが第1段階、
②ついでその頂部を横から叩いて数枚の剥片を剥離して石核上部に水平に近い打面を作るのが第2段階、
③この打面の周縁を上から打撃し、目的の石刃を連続して剥離するのが第3段階である。石刃剥離が一段落終えた
④打面と剥離作業面の角度を修正するために打面の再生を行鵜野が第4段階
⑤以後第3・4段階を繰り返す。石核1点から石刃30~40点を製作した

      北海道・東北地方では母岩として黒曜石や頁岩を利用している。
      関東平野特に武蔵野台地では、チャ-トを初め在地の石材や黒曜石のような遠隔地からの石材を利用している[2]。

      それらの調整技術の差異、有無、打面転位のあり方などから、石刃技法は細かい分類が可能である。 

   15ナイフ形石器 後期旧石器時代 約3万年前~2万年前
石刃 掻器 彫器 ナイフ形石器//南野遺跡/新庄市
彫器:南野遺跡
 ナイフ形石器:黒曜石製
  南野遺跡のナイフ形石器は。東山系である

また、遺跡には現在も沢山の旧石器が散乱している。

石刃
南野遺跡/新庄市

掻器
  南野遺跡/新庄市
  弓張平B遺跡/西川町
ナイフ形石器の地域差
引用高畠町郷土資料館

 資料
ナイフ形石器の分布と種類
  ナイフ形石器は、まず、西方から列島に伝わり(3.4-2.8万年前)、その後、北方からも(2.7-1.9万年前)伝わった。

  つまり、最初に西方からナウマンゾウを追ってやってきた狩猟民族が、各地で滞留して地方色を産み、

    北陸や新潟では杉久保型、瀬戸内地方では、土地柄の石材の性質に合わせた国府型などに分化し、
    南方からやってきた一団は、九州型や関東型の茂呂型ナイフ形石器文化を作っていた。

  その後、
    北方から東山型ナイフ形石器文化人が南下し、杉久保型石器人を取り込みながら東北南部まで勢力を
    拡大した。
             図表引用国立博物館日本人はるかな旅展
ナイフ形石器文化
Ⅰ期

34000-28000年前
Ⅱ期

27000-19000年前
 
 
 16細石刃  後期旧石器時代末 約2万年前~1.5万年前

掻器 彫器 細石刃 細石刃核/
角二山遺跡/大石田町

掻器

細石刃

彫器 細石刃核/角二山
細石刃文化の拡大と分布
引用「旧石器人の遊動と植民」稲田孝司


 細石刃文化の拡大と分布

   最初に西から細石刃文化人が入り、東北地方にまで拡散していった。

   その後、旧石器時代終末期に、それまで北海道にいた北方系民族が大挙南下して、日本海側伝いに移動と拠点構築を行いながら戦略的に、拡散し、
   一部は関東にも進出し、また一部は山陰から瀬戸内、四国、九州にまで進出した。彼らは、大型動物狩猟民族だった。

 

 17尖頭器  後期旧石器時代末


尖頭器 掻器 片刃石斧
尖頭器:弓張平B遺跡/西川町 片刃石斧:上屋地A遺跡/飯豊町 掻器:弓張平B遺跡/西川町

 資料

   18尖頭器
後期旧石器~縄文草創期の石器土器の変遷

引用旧石器から日向へ
尖頭器引用山形県考古資料館
旧石器から日向へ
尖頭器

出所不明/旧石器前期
尖頭器

能美市立博物館
尖頭器山梨県立考古博物館
尖頭器北海道埋蔵文化財センター
 この図表では、神子柴型石器の出現期を17000年頃にしています。大平山元遺跡出現の前に置いているということです。



 尖頭器 せんとうきpoint

   尖頭器についてわかりやすい説明を探していたら、作っちゃいました。


 中期旧石器時代 (10~3万年前)

   には斜軸尖頭器など、動物を仕留める道具として使われてきた石器である。突き刺す道具である。
   この時代には、大型動物を捕える為にはこの程度のにぶい切れ味の道具で済んだのだろうか。

   要は狩りの仕方による。沼や氷の上に追い込んで、身動きとれなくなった動物を仕留める。
   下枝の生え込んだ針葉樹林帯に追い込み、ツノが枝に絡んで動けなくなったオオツノシカを仕留める、などなら使えたのかもしれない。


 後期旧石器時代 (3万~1.5万年)

   にはナイフ形石器が発達する。動物を解体するときに使うのか、猟で使うなら、撫で斬り、浅い手傷を負わせるだけになる。
   どのような猟が出来たのでしょうか。この時代にも槍先型尖頭器はあり、やはり猟につかったようです。

   槍先型尖頭器は、2万年~1.5万年前、旧石器時代後半期に出現している。


 後期旧石器時代末期 (現在年代を特定することは不可能です。大平山本遺跡以前、1.8万年頃かと思われますが、誰も特定できません。)

   まず朝鮮半島から細石刃文化人が流入して東北地方まで広まり、その後、北海道から北方民族によって楔形石核の細石刃文化が流入した
   (角錐状石核、船底状石核)

   この軽量大形鉾(ほこ)形道具は、大型動物の急所の足などを撫で斬りにして浅い手傷を負わせて出血死、または、歩行困難にして
   捕獲する道具である。細石刃カッターナイフは切りつける道具であって刺すことはできない。従って投げ槍ではない。

   動きの遅い大形獣を効率的に捕獲できるが、突進してくるナウマンゾウに対して手に持って構えて切る。命がけの狩猟である。
   この道具の盛行によって尖頭器は下火になる。

 後期旧石器時代終末期 (細石刃以後で大平山元遺跡以前ですから、1.7万年前頃かと思いますが、特定できません。)

   細石刃文化人は多人数で渡来して、狭い列島で効率的に大形獣を獲り尽くし、あっという間に絶滅させてしまい、細石刃は役に立たなくなった。

   そこで、動きの速い、嗅覚の鋭い中型獣を捕獲するには、投げ槍が有利であった。重く鋭く、致命的に刺さるもの。尖頭器は発達した。
   神子柴型石器の登場である。


 資料  引用尖頭器wikipedia


 尖頭器は、日本では旧石器時代に出現し、縄文時代、弥生時代に渡って使用されました。

   尖頭器の呼び名
・約3万年以前のものを 尖頭器
・後期旧石器時代最終氷期最寒冷期以後は 槍先形尖頭器、(約2万年前から約1万5千年前まで)
・旧石器時代末~縄文草創期のものを 有舌尖頭器
・縄文時代から弥生時代のものを 石槍せきそうとよぶ。


   尖頭器の分類
形態による分類 木葉形(このは)、柳葉形(りゅうよう)、半月形、有舌、有茎、有肩など。九州では、三稜(さんりょう)が加わる。
調整部位による分類 周辺調整、片面調整、両面調整など


素材用途 石器・骨角器製で、槍先や短剣のように用いられた。使用時期や、狩猟対象に応じ、大小様々な形のものが用いられていた。
発達 長身で幅が狭く舌部の返しの未発達なものから、 基部の返しが鋭くなったものへ と変遷する


  尖頭器の出現と盛
    槍先型尖頭器の出現は、ナイフ形石器の盛行期、2万年~1万5千年前頃である。

  使用法・使用時期
    木の柄につけて投げ槍とし、大型獣の狩りに用いられたのが始まりで、狩猟に大きな進歩をもたらした。
    ナイフ形石器は後期旧石器時代末葉に衰退していくが、代わって槍先形尖頭器は著しく発達し、量的にもめざましく増加する。

    細石器が盛行期には一時的に減少するが、縄文土器が出現する前後に再度、最盛期をむかえる。

  尖頭器の分類
    細石器以前を初期尖頭器、 以降を発達期の尖頭器と呼ぶ。

    前者は一般的に比較的小形のものが多く、調整も周辺部調整片面調整両面調整と多様であるのに対し、
    後者は長大なものが加わり、大半が両面調整のものへと定式化されていく。また有舌(有茎)尖頭器を伴います。

    縄文時代の槍先形尖頭器は上述の発達期尖頭器の後半部にあたる。  引用尖頭器wikipedia
 

 動物相の変化と尖頭器の消長

  旧石器末から縄文初頭期は、ホモサピエンスの寒冷地進出と共に、北米・アジアに於いても尖頭器の発達が著しい。
  寒冷地の大形獣を捕獲する投げ槍として発達した。

  が、日本列島では、海進により大陸から孤立し、大形獣がたちまち絶滅した。ために、イノシシ・ニホンジカを狩猟対象とした。

  嗅覚が鋭く行動の機敏なこの動物の捕獲には、投げ槍が適していた。特に有舌尖頭器の急増は、こうした事情を物語っていると推定される。

  やがて弓矢の伝播とともに、タヌキウサギなどの小動物も狩猟対象となり、弓矢と槍の中間的な機能を果たした投げ槍は消滅していく。

  ※「弓矢と槍の中間的な機能」とは、槍は手に持って構えて刺す道具。 弓矢は飛ばして射止めるもの。すると、投げ槍は、両方の機能を持つ物。
   しかし、小型獣中心の縄文時代には、中型獣用の取り扱いにくいものはすたれてきた。  引用尖頭器wikipedia 

 考察

 19神子柴型石器  画像引用「狩猟採集民のコスモロジー」

局部磨製石斧
槍先型尖頭器
植刃
画像引用「八ヶ岳便り」


 神子柴型石器群

 ①神子柴型石器群は
   大型で片刃の局部磨製石斧、 大型で木の葉形をした石槍・槍先形尖頭器、の組み合わせを神子柴型といい、

   そのほかに、石刃素材のスクレイパーと彫刻刀形石器や、植刃(しょくじん)、
   断面が三角形の錐、半月系の石器、有茎尖頭器、矢柄研磨器、、石鏃、などを伴う。 引用神子柴系石器

   神子柴型石器は、旧石器~縄文草創期の石器であるため、尖頭器の呼び名が、
   旧石器時代風に槍先形尖頭器縄文時代風に石槍ともいいます。


 ②二つの文化 神子柴型には有土器無土器の文化があります。

土器を伴わない遺跡 長野県神子柴遺跡、長野県唐沢B遺跡、青森県長者久保遺跡、など
土器を伴う遺跡 青森県大平山元遺跡、神奈川県上野遺跡第一地点第Ⅱ文化層、茨城県後野遺跡A地区 など

   土器のある・なしは、時代のあと先ではなく、二系統の神子柴文化があったからのようです。
   神子柴系石器は、南九州薩摩半島南端帖地遺跡からは、細石刃と共に出土している。狩りに両方を使い分けたようです。


 ③神子柴型石器の三期 (※これを記述したURLを逃しました。)
   出現期
     神子柴系石器の出現期は、これまで1万3000年前とされてきましたが、最近は、1万7000年前、大平山元遺跡出現前に傾いている。
   象徴化の時期
     神子柴の尖頭器は、次第に大きく、薄く、美しく作られるようになり、やがて象徴として扱われるようになり、実用性を失っていきました。
     九州国立博物館 (撮影禁止) では、30cm程もある大形幅広尖頭器を見ました。弥生時代の象徴としての銅矛を連想します。
   終焉期
     やがて、土器と弓矢の縄文的組み合わせが一般化すると、実用的な刺突具としての石槍に置き換わっていきました。







 
   おことわり 以下の、博物館の解説文には洞穴とありますが、現在の一般的表現としての洞窟に統一して表記します。 
 


 20縄文時代 約1万5000年前~3000年前

  縄文時代のくらし
    縄文時代になると、はじめて土器や弓矢を使うようになりました。
    人々は、竪穴住居に住み、縄目などの文様のある土器を使い、石器や骨角器で、けもの・鳥・魚を捉え、貝や木の実を採取して暮らしていた。

    山形では、この時代の遺跡が広く各地に見られ、規模も大きいことから、全国でも人口が多い所であったと言われています。

  山形の縄文文化
    山形には、縄文草創期から晩期までの遺跡が数多く分布しています。
    遊佐町吹浦遺跡高畠町日向洞窟遺跡などの発掘は、縄文文化を解き明かす調査として注目されました。

    また、山形市熊ノ前遺跡長井市長者屋敷遺跡の発掘調査では、沢山の竪穴住居跡が見つかり、縄文人のムラを調べる上で貴重な遺跡と
    されています。

   21Panel
縄文時代のくらし 山形の縄文文化 縄文時代の遺跡分布 縄文時代の遺跡分布

 縄文遺跡は川沿いに分布する。
 縄文人が日本海から川沿いに拡がってきたことと
鮭の溯上を頼りに暮らしていた証でしょう。

 その内、最大のものが最上川沿いの分布で、
大きな交易圏を形作っていたかもしれません。
 



 日向洞窟遺跡の意義

 日向洞窟の考古学的意義
   日向洞窟は、縄文草創期~平安時代  この遺跡の発見によって草創期が設定された。


 日向洞窟の位置
   遺跡は、米沢盆地の東北縁、奥羽山脈の西斜面にある「山形県東置賜郡高畠町竹森」に所在し、付近には、尼子洞窟群、観音岩洞窟群など
   14地点に洞窟遺跡群が点在している。 洞窟遺跡がこれほど密集する地域は他に類を見ないものである。


 洞窟の全景
   日向洞窟は、通称「立石」(標高230m)の麓に南向きに開口する。 立石は凝灰岩塊の露頭で積年の浸食風化により形成したものである。

   最大規模の、日向第1洞窟付近に、第2洞窟、第3・第4岩陰など、4か所の自然洞窟、岩陰に居住したものである。
   洞窟は、何千年もの間使用されていた複合遺跡です。第1洞窟は、入口の高さ3.5m、幅5m、奥行14mのひょうたん状となっている。

   洞窟前面には豊富な水量の小川が流れ、緩やかな勾配で「白龍湖低湿地」に臨む。


 洞窟内の文化層 

   日向第1洞窟内基盤岩上に5層の堆積があり、
     第1層(表土) 縄文時代晩期以降  の遺物
     第2層     縄文時代晩期~早期の遺物
     第4層     縄文時代草創期   の遺物が包含されていた。 第3層と最下層の第5層は無遺物。


 第4層の縄文時代草創期の土器、石器は、
   新潟県小瀬ヶ沢洞窟※3長崎県福井洞窟※4と並んで、旧石器文化から縄文文化への発展過程を解明する重要な資料である。
   人々がここで1万年以上前から住居として生活を送っていたことや、縄文草創期の存在が証明されるきっかけとなった。

   土器は、縄文最古の隆線文系土器を始め、後続爪形文系土器多縄文系土器※1の各様式が存し、
   これは、現在まで、日本海側草創期土器の北限である。          引用文化財オンライン日向洞窟



 日向洞窟遺跡 縄文草創期の、貴重な石器が出土している日向洞窟遺跡の西100mの休耕地です。 

   洞窟前の堆積層は2m余りもあり、基盤の五層の内
      第1層の表土には、縄文晩期以降の造物
      第2層には、晩期から草創期各時期のもの、
      最下層には、草創期の遺物が包含されていた。

   この層の土器は、隆起線文土器片、爪形文土器片等
   石器は、草創期(1万6000~1万1000年前)を代表する石器の局部磨製石斧矢柄研磨器が出土した。

   東北では発掘例が少ない貴重な遺物でした。

   ほかに、1万5000~1万4000年前)の地層から尖頭器と石鏃が十数点が見つかりました。

   また、同じ場所で土杭など居住の痕跡を示す遺構や、土器や石器など数千点が出土し、これまで計1万点以上の遺物が発見され、
   その中には、人骨・クマ・シカ・キツネ・カモ・ヤマドリほか多数の骨も含まれています。

   洞窟前の広い平たん地が活動の拠点だったようである。 引用<日向洞窟遺跡>縄文草創期の石器出土 | 河北新報
   22Panel2
日向洞窟の人々 日向洞窟の人々 洞窟全景/平面・断面第1洞くつは、入口の高さ3.5m、幅5m、奥行14mのひょうたん状の洞窟です 洞窟の文化層 洞窟の遠景宮城県の白石市方面から奥羽山脈を米沢盆地に抜ける国道113号線の出口に当たる北側山地に所在する。引用 ジオラマ

 日本の洞窟遺跡

  新潟県小瀬ヶ沢洞窟は、※3
     特に石器群の中には、ロシア・沿海州方面との関連が指摘されるものもあり、縄文文化の起源を明らかにする上で重要な資料です

  長崎県福井洞窟は、※4
     旧石器時代から土器文化(縄文時代)への過渡期の文化層が認められた遺跡です。引用ながさき旅ネット

  長崎県泉福寺洞窟からは、
     隆起線文土器(約12000年前)の下の文化層から、豆粒文土器(13000年前)が出土している。

 






 
 24土偶 縄文の女神  (約4500年前) 縄文時代中期  西ノ前遺跡の縄文の女神 最上郡舟形町西ノ前遺跡出土土偶


 縄文の女神リンク
  縄文の女神ホームページ  国宝・縄文の女神~日本最大の土偶~  国宝「縄文の女神」 - 山形県立博物館
  東京国立博物館 - 展示 日本美術(本館) 特別公開「国宝土偶 縄文の女神」  縄文の女神 - Wikipedia  国宝指定「縄文の女神」 — 山形県
  縄文の女神 - 最上地域観光協議会  美しすぎる土偶!魅力的なボディーライン「縄文の女神」 05:縄文の女神 | JOMON美土偶グランプリ
  ねずさんのひとりごと 縄文の女神



 西野前遺跡の縄文の女神
   土偶は平成4年に見つかりました。半径3mの範囲から出土した5つの破片を繋ぎ合わせて元の姿に復元したものです。
   高さ45㎝、肩幅17㎝、重さ3.155kg。全身がわかる土偶の中で日本最大。均整のとれた八頭身の全身立像で『縄文の女神』と呼ばれている。

   姿かたちは直線や弧線を巧みに組み合わせたフォルムからなり、「横から見る」ことを意識した造形と考えられます
   腕や目鼻の省略も違和感がありません。


  以下引用縄文の女神ホームページ
   色調は淡い赤褐色で、半円形を呈し、複数の穿孔(せんこう)が見られる頭部には、顔面の表現はなく、両側には耳飾りを意識した孔があります。
   腕を省略し、角ばった肩からW字に乳房が張り出し、腹部には妊産婦を表現し、突き出した個所にヘソをあらわす刺突が見られます。

   背中には背骨を表す正中線が臀部まで垂下し臀部は後部に突き出た「出尻形」を呈しています。
   脚部端部は分離しておらず、立像として自立する工夫としてパンタロン風に裾広の形状です。

   底面には比較的広い抉(えぐ)りが見られ、焼きむらを避ける工夫が見られます。
   縄文時代中期の作とみられ、人の姿を究極まで象徴化しつつ、高い様式美を誇る姿は、学術的にも造形的にも日本を代表する土偶です。

西ノ前遺跡の縄文の女神 正面
背面
下半身・臀部の入れ墨
頭部の穴にはどんな飾りがさしてあったのでしよう
縄文の女神発見他に48点の土偶も出土 遺跡全景 出土状況 国宝指定書 縄文の女神を面白く見る5つの方法


  全裸の八頭身体形から見て北方系民族でしょうか。 乳房の様子から老婆。シャマンの顔は模写禁止だったのでしょうか。神の顔だからでしょうか。
     (基本的に現代も、北方民族の人形には写実的な顔はありません。)

  下半身、特に臀部の唐草文の刺青などはかなり上質な造形です。
  デザイン全体としては大変高度で頭部の穴を使ったどのような飾りがあったのでしょうか。飾り穴だったか、紐を通してぶら下げたのか、です。

  全裸だったのか、パンタロンスーツだったのか、、刺青なのか、黒曜石製ナイフで皮膚を切り刻んでいたのか、、ほんとはよくわかりません。
  立像で自立する縄文土偶は数少ないものです。

  ※2017.6.16追記 この形式と同じ土偶が、長野県伊那谷から沢山出土しています。造形力はもっと低いですが。

 
 25土偶残欠 縄文時代中期 西ノ前遺跡

土偶残欠意味:不完全な土偶 「縄文の女神」とよく似た土偶が多いことから、
製作者が一人であったか、または、
この遺跡では、土偶に関する 土偶とはこのようなものだという 定式化された観念があり、 従って同じような形状の 土偶が作られたのでしょうか。

  伊那谷の縄文人は、関東からの移住者であり、従ってこのでっちり(出っ尻)型土偶のルーツは関東にあるようで、そこから、東北地方へ拡散した
  のでしょうか。 それとも、一時期、関東を中心に、東海~東北南部に大流行したのでしょうか。
 




 

  26山形の縄文土器

     縄文時代は、土器の形や文様で6つの時期に分けられています。
山形でも、 草創期 には土器がつくられ
早期 になると主に尖底土器が
前期 には平底で様々な縄目模様の土器がつくられました。
中期 には粘土紐を貼り付けた大型土器が作られ、
後期 になると精巧で薄手のものが多く、
晩期 には美しい文様で様々な形の土器が作られました。


 縄文土器の文化圏
   山形は、東北南部の宮城・福島とおおむね同一の文化圏に入りますが、遊佐町吹浦遺跡で見られる縄文前期末の土器には、
   東北南部の大木式土器と、東北北部の円筒式土器の影響が見られ、両文化の接点であったことがわかります。

   また、山形を含む縄文晩期の亀ヶ岡式文化圏は、サケ・マスの捕れる東日本地域と重なっています
   文化圏を作る要因としては、自然環境の違いや縄文人の交流などが考えられます。

山形の縄文土器 縄文土器の移り変わり 縄文土器の文化圏 縄文早・中期の土器編年

 上図より、
   日本海沿岸の遊佐町吹浦遺跡の前期土器は、最上川上流域に比べて先進的なデザインで、
   かつ、以後の、日本海側遺跡、及び最上川交易圏などのデザインに強い影響を及ぼしたように見える。

   それとも、元来、土器デザインは日本海側交易圏を中心に発達した文化なのだろうか。





 27石器 縄文中・後期 横内遺跡/尾花沢市


円盤状石製品/磨製石斧/石匙/石のみ/石錐


 29祭祀具と装飾品
    岩版-土版と同じく信仰のための護符に使われた
    石棒-権威の象徴として集団の指導者が持っていたといわれています

祭祀具 横内遺跡の信仰関連遺物/縄文中・後期
石棒/中・後期
横内遺跡/尾花沢市

土製装飾品/石製装飾品/スタンプ状石器/信仰関係遺物
岩版岩版/晩期
/笛田遺跡/村山市
装飾品・信仰関係遺物土版・垂飾り・耳飾り
晩期/的場遺跡/西川町
岩板・耳飾り
晩期/的場遺跡/西川町
土偶:晩期/笛田遺跡/村山市
耳飾り:後期/小国遺跡/村山市
土偶:中期/土生遺跡/村山市
線刻礫:晩期/鶴子遺跡/尾花沢市
土偶:中期/土生遺跡/村山市
岩板図:晩期/的場遺跡/西川町
石棒:晩期
漆山遺跡/山形市






 30縄文土器


 31土器

  異形注口土器
    人の顔・胴体・下半身を表したと言われています。このように異様な形をした土器は、全国でも珍しく、儀式具と考えられています。
    北海道博物館に、人面付環状 (注口) 土器があります。よく似た発想の土器だと思います。

  彩漆土器 押出遺跡
  釜淵土偶 釜淵C遺跡 前出の「出っ尻土偶」とは別で「カッパ土偶」とも呼ばれています

異形注口土器後期/蟹沢遺跡/東根市 異形注口土器
後期/蟹沢遺跡/東根市
異形注口土器
後期/蟹沢遺跡/東根市
深鉢/大木式土器系中期/古道遺跡/村山市 深鉢/円筒式土器系

早期/赤石遺跡/村山市
微隆起線文土器
草創期/大立洞窟遺跡/高畠町/山形唯一
日本最古の土器
かすかに線が見える
彩漆土器前期/押出遺跡/高畠町 彩漆土器前期/押出遺跡/高畠町 彩漆土器前期/押出遺跡/高畠町 釜淵土偶晩期/釜淵C遺跡
/真室川町
釜淵土偶/国重要文化財 リンク
 002
 釜淵土偶

山形県北部には土偶の文化が花開いていたようです
釜淵土偶は
大正時代に耕作中に発見

縄文晩期末の文様である
「工字文」がみられる。

表面に赤採されている
高さ23.4cm肩幅19cm
 










 弥生時代




 60弥生時代のくらし
   弥生時代になると、大陸から稲作と金属器が伝わってきました。
   人々は次第に石器に代わって金属器を使うようになり、稲作に適した低地にムラが営まれました。

   中期以降になると、米作りのムラは山形でも多くなります。山形市江俣や米沢市堂森などの遺跡から出土した籾痕のある土器が稲作を証明
   しています。

 山形の弥生文化
   北九州に根付いた米作りの技術は、まもなく各地に広まっていきました。
   日本海沿岸地域には、北上する対馬海流を利用して伝えられたことが、酒田市生石2遺跡などから出土している弥生前期の土器から伺われます。

 弥生文化圏の広がり
   弥生前期 には西日本中心の弥生文化圏は、中期 (AD100年頃) には東北北部にまで達した。
   弥生中期 に福島県・青森県太平洋側、青森県内陸部で籾殻圧痕土器が出ている。


 東北地方の弥生時代
   青森県弘前市砂沢遺跡では弥生前期の水田稲作が行われており、東北への日本海航路を使っての稲作栽培は、弥生前期でした。
   最上川流域の縄文人ムラで栽培され、作り手は縄文人でした。が、弥生文化は全く受け入れませんでした。

   弥生中期に太平洋側で稲作栽培が普及したことについては、
   近年までこの付近では山背や冷害が多い米の不作地域でした。温帯ジャポニカの古代米が栽培できたことに大変な驚きを感じます。

  61土器

弥生土器堂森H遺跡/米沢市 弥生時代の暮らし 山形の弥生土器の移り変わり 山形の弥生文化 弥生文化圏の広がり
弥生時代の遺跡分布
最上川沿いに遺跡点在
弥生関連遺物 甕・高坏形土器・壺弥生前期/生石2遺跡/
酒田市
石包丁・籾圧痕土器弥生中期/江俣遺跡/
山形市
環状石斧:向山遺跡/
村山市
石鍬:蒲生田遺跡/
南陽市

  環状石斧
    こん棒の頭につけて、狩りや戦いに使ったといわれています。やはり、縄文人との確執が激しかったのでしょう。
    沢山の半島人がやってきて、この武器で縄文人を殲滅しながら土地収奪をしていったのでしょう。

    闘牛じゃあるまいし、環状石斧で倒すような動物はいませんでした。縄文人を殺すための武器でしょう。

 



 



 古墳時代




 70古墳時代の暮らし
   古墳時代になると、日本の各地に豪族が現れ、大きな墓をつくる風習が起こりました。人々は竪穴住居に住み、土師器を使うようになりました。
   山形では、この時代の集落遺跡と古墳が、山形盆地や米沢盆地に多く見られます。

   この頃、稲作が普及して、多くのムラができ、それを支配する豪族がいたことがわかります。


 古墳時代初頭に関東・東海・北陸から、弥生王族と稲作農耕民の集団が東北地方に多数入植し、稲作農耕と古墳文化を展開した。
   やがて、近隣の縄文系の人々を支配していった。

 71Panel
古墳時代の暮らし 古墳時代のムラ山形市坊屋敷遺跡に古墳時代の集落遺跡 ムラの分布(北部) ムラの分布(南部)  古墳時代の中心は
山形・米沢盆地となります。
 やはり、交易品としての米が産業の中心だったようです。
 
 72道具
   子持勾玉-大きい勾玉に小さい勾玉が付いているもので、祭祀に使います
   石製模造品-石包丁・石鎌・石鍬・石剣などの模造品で、軟らかい石で作られており、孔に紐を通して農耕祭祀に使います

高坏・壺古墳前期/宮町遺跡/
山形市
子持勾玉、石製模造品 子持勾玉
  狐山遺跡/山形市
石製模造品
  山形県内出土
 
器台と小壺 器台-古墳前期/宮町遺跡

坩 (つぼ)-古墳時代/
          宮町遺跡
 

 73山形の古墳
    山形でも4世紀になると豪族が現れ、権威を示すために、稲荷森古墳天神森古墳などの大きな墓をつくるようになりました。
    その後、6世紀に入ると小古墳が沢山作られ、更に戸塚山山麓古墳群のような群集墳が造られるようになりました。

  この流れは、西日本と同じで全国的に情報が即座に流れ、時間的な遅滞は無いようで、同じ文化レベルです。
    奈良時代になって律令制が広く行われるようになると、古墳は次第に作られなくなりました。

  山形の古墳の移り変わり
    古墳造営は、前期Ⅱ期の米沢盆地から始まり、100年後の前期Ⅳ期に山形盆地にも古墳が造られ始めた。

 74古墳
稲荷森古墳(南陽市)前方後円墳/南陽市 天神森古墳前方後方墳/川西町
4世紀前半(前期後半)
山形の古墳 山形の古墳 古墳の移り変わり
 
 75古墳2
稲荷森古墳 大之越古墳 戸塚山古墳 戸塚山古墳群

 稲荷森古墳
     南陽市/全長96m高さ10m県内最大の前方後円墳。周濠なし。丘陵を利用して盛り土した3段築成。4世紀。
     置賜地方を支配した県内最古の豪族墓

  大之越古墳
     山形市/直径16m/円墳/周溝有り/石棺の下に、更に石棺が見つかる。5世紀終わり頃、山形周辺を支配した豪族墓。
     環頭大刀・馬具など沢山の副葬品発見。 環頭大刀は、山形の豪族と中央との交流を示す貴重な資料です。

  戸塚山古墳群
     米沢市/山麓の群集墳と山頂の前方後円墳など3基の古い古墳とからなる古墳群です。(群集墳が新しいと言いたいようです)

  群集墳は、
     いくつかの支群に分かれ、7世紀頃の短期間に造られたようです。
     そのほとんどが横穴式石室を持つ、直径10mの円墳で、中には一段と大きい盟主墳と考えられる古墳も見つかっています。
 
  76大之越古墳の副葬品

大之越古墳の副葬品古墳時代中期 環頭太刀直刀・鉄剣 鉄鏃・刀子、坩、
馬具・鉄斧・ベルト金具等
鉄鏃・刀子 坩(つぼ) 馬具・鉄斧・ベルト金具等

 環頭大刀
   柄頭の形から呼ばれています。環頭は金箔張りで、内部には鳳凰が、外環には銀象嵌の文様が見られます。
   中央の畿内政権から山形の豪族に与えられたといわれています。

 

 77古墳文化の広がり
    4世紀の終わり頃には、東北地方でも古墳が造られるようになり、最古の古墳は会津大塚山古墳と言われています。
    5世紀になると、仙台平野・米沢盆地・山形盆地でも、大型古墳が造られ、
    5世紀末には、岩手県南部にも見られるようになります。
    7世紀になると、群集墳が現れ、
    8世紀の奈良時代には、それが、北海道南部まで広がっていきました。

  古墳文化の拡大
    古墳人による地域支配は、東北地方太平洋側から進んでいきました。これは、元々、アイヌとの交易が気候温暖な太平洋側で行われ、
    人の往来も発達していたからでしょう。つまり、産物の集散地など、豊かな土地を支配圏に入れようと権力者が活動したためです。

古墳文化の広がり 東北の古墳の大きさ較べ 古墳文化の拡大 清水前古墳群出土品※2 ※3
銙帯金具銙帯金具(かたい)/
梨郷(りんごう)古墳群/
南陽市/奈良時代
坏蓋と坏身清水前古墳群/高畠町
金環/後期/塩の森古墳/高畠町
※2
清水前古墳群出土品

高畠町
鉄斧・石突・責金具・
刀子・鉄鏃・ 坏蓋と身

梨郷(りんごう)古墳群
南陽市
銙帯金具(かたい)/奈良

塩の森古墳
高畠町
金環 (鉄環を金箔で包 んだ)/古墳後期  
※3
鉄斧・石突・責金具・
刀子・鉄鏃

 銙帯金具 (かたいかなぐ) 革製ベルトの飾り金具のこと

  金・銀・玉・石の装飾板(銙)や垂飾を革帯または布帯にとりつけ,尾錠で締める腰帯の総称。
  本来は中央アジアや北方胡族の間に行われた服飾具であった。日本では古墳時代の4世紀末に,竜文・心葉文をあしらった金銅製銙帯が出現する。

  古代の貴族が公服着用のときに用いた革帯。もとは腰帯(こしおび)といわれ、黒漆塗りの革帯の後腰部分に(か)とよぶ金、銀または玉、石などの
  正方形または円形の飾り12個を並べて据え付けたもの。養老の衣服令では、五位以上金銀装、六位以下は烏油(くろぬり)といって、
  銅に黒漆を塗ったものをつけると定められている。平安時代以降は、玉や石のみを用いることとなって、石帯とか玉帯とよばれるようになった。

 



 
 古墳時代の集落



 80嶋むらの暮らし(古墳時代 後期)
  山形市の嶋遺跡は、建物跡をはじめ、鋤・織具などの木器類、多くの土師器、モモ・アサなどの植物種子、櫛・玉類などの装飾品が発見されました。

  嶋の人々は、7世紀前後にムラを作り、木製農具を使って米作りを行い、モミを高床式倉庫に蓄え、アサの着物などを着て暮らしていたことが
  わかりました。

   7世紀に木器で農耕とは、東北では鉄製農耕具の普及がいかに遅れていたかを表しています。
    しかし、同時期に蕨手刀などの生産も行われていたことも留意すべきでしょう。
 嶋遺跡の発見
    嶋遺跡は、水田の圃場整備の工事中に、大量の土器や柱根が見つかり、発掘調査が行われました。
    遺跡は、旧馬見ヶ崎川の自然堤防の上にあり、付近は湧水に恵まれた湿地帯で、米作りに適していました。


 嶋遺跡とは
    山形市嶋地区にある、低湿地に立地する古墳時代後期(約1,400年前)の集落跡です。
    発掘調査で、打込柱による平地式建物跡や高床式建物跡、土器、木製の道具など、保存状態の良いものがたくさん発見された。
    東北地方の古墳時代の村落形態や生活様式を研究するうえで重要な遺跡である。 引用山形市公式ホームページ 史跡 嶋遺跡について

  81Panel
木製品山形市/嶋遺跡 嶋むらのくらし河川の自然堤防上に
形成された集落だった。

住居、生活状況の全てが埋もれていた
嶋遺跡の発見付近の河川の氾濫による洪水か、土石流などで一瞬にして押し潰されたのでしょうか 建物の全景/柱根・材木の分布と建物跡高床建物・平地住居など
規則的に建てられていた
収獲付近の地形からこんな風景だったでしょう
 
  83嶋遺跡の木製品 古墳時代後期 7世紀

嶋遺跡出土の木器大足の枠木・横木・板木槌・指物(台)・弓
鋤鍬
大足の枠木・横木・板
指物(台)
紡織関係遺物/製糸具
⑥招木の支柱
④綜絖⑤緯打具
①桛②綛③布巻具
麻の種・紡輪・桛写真
織機:④綜絖⑤緯打具③布巻具
製糸具:麻の種・紡輪
紡織関係遺物:
     ①桛②綛
織機: ⑥招木の支柱
④綜絖⑤緯打具
③布巻具
織機: ⑥招木の支柱
④綜絖⑤緯打具

 大足:田下駄大形のもの  桛(かせ=綛・写真):意味-糸の巻き取り機写真
 
  85嶋遺跡出土の装飾品・信仰関係・こも編み具・食物残渣

こも編み具・生活具・生活残渣
装飾品・信仰関係遺物

砥石・土製支脚
食物残渣瓜・瓢箪・炭化籾
クルミ・スモモ・桃・クリ
綛上げ・巻き返し綛=桛=かせ=糸巻き
orそれで巻いた糸
装飾品関連遺物土製小玉・玦状耳飾り
勾玉・碧玉製管玉
信仰関連遺物三日月形骨製品
木製鏃
竹櫛
 

  87嶋遺跡出土の土器 古墳時代後期

ハソウ・長胴甕・甑・壺・鉢
手づくね土器・大盤・直口壺
大盤=大きな器=大皿

小形甕
椀・高坏・小形甑・片口土器・小型壺
はそう・長胴甕 甑こしき
壺・鉢 大盤・直口壺盤=皿状のもの
大盤=大皿の意
てづくね土器 直口壺(ちょっこうこ):
        保存容器
弥生時代に入って
妙な小壺が出てきます。
坩とか直口壺とか、

 弥生文化は、半島人の風土病の、回虫や結核の持ちこまれた時代でもあります。
もしかすると、
これらの小壺は痰壺じゃなかったのかな
なんて思います。
 

 山形の古代

 90古代 出羽国の成立と条里制  熊野台遺跡出土品 平安時代

   奈良時代になると、律令体制が整い、班田制のもとに、条里制水田が造られるようになりました。

   山形では、庄内地方を中心に出羽郡が置かれ、和銅5年(712)には、出羽の国となり、陸奥の国に属していた内陸の置賜郡と最上郡が加わり
   大きな出羽国が成立しました。

   平安時代になると条里制水田が広くみられるようになりました。

  91
古代瓦酒田市/城輪柵遺跡
きのわのさく
出羽国の成立と条里制 出羽国の成立年表 山形の条理遺構 古代農民の足跡
古代農民の足跡1200年前 熊野台遺跡出土品
長胴甕・鉢・大甕
坏と蓋・坏

長胴甕・鉢・大甕
 
 92出羽の国衙 山形県酒田市城輪

   出羽国が成立すると、国府が庄内地方に置かれ、その後、秋田に移り、再び庄内地方に戻ったと考えられています。

   酒田市の城輪柵遺跡 (きのわのさく) は、これまでの調査で約720m四方の地域とその内側の約120m四方が、築地塀で囲まれ、
   中央部には正殿・東西両脇殿などがあったことが明らかになり、平安時代の出羽の国衙であったと考えられています。

出羽の国衙 出羽の国衙 城輪柵遺跡
きのわのき (さく)内郭の復元想像図
城輪柵遺跡と周辺の遺跡
出羽国衙と周辺の遺蹟 城輪柵遺跡出土品平安時代/
酒田市城輪柵
瓦・物忌札