東北の縄文1 05 2016.10.13-3 山形県立博物館 山形市霞城町1-8 023-645-1111 毎週月曜日、年末・年始 撮影可 時代 旧石器時代 縄文時代 古代 見所 質の高い展示物があり、展示量は少ないですが、山形県全体の先史の傾向がつかめます。 交通 山形駅より徒歩10分 |
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00外観 博物館は旧山形城内にあり、車では北方向から、徒歩では山形駅西口を出て北進し、霞城公園南門から入ることができます。 博物館部門紹介 地学、植物学、動物学、考古学、歴史学 、民俗学、教育学の各部門の展示が行われています。
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地学 山形のなりたち ここで明らかにしたいことは、四方を山地・山脈に囲まれ、広大な県土全体が北に傾斜し、沢山の火山が活動する不思議な山形の 地形・地理・気候が、つまりは、風土そのものが、考古学的にも大きな役割や意味を持ったのではないかと考え、調べてみました。 |
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付加体形成の時代 古生代 (3-1.5億年前) アジアのもとになった地塊は南半球で形成。古生代後期にプレート運動で北上し、中生代に衝突合体した。西日本の石灰岩地帯はこの時形成。 中生代白亜紀 (1.5-0.66億年前) シベリア陸塊に海底堆積物が次々と付加拡大する。白亜紀に東アジア東縁で火山活動開始し、花崗岩が形成され、列島の骨格が形成された。 海嶺と海溝 プレートは海洋の山脈である海嶺で作られます。プレートは年間数cmから10cmの早さで移動して、大陸のヘリにある海溝に沈み込みます。 日本列島はプレートの沈み込む場所にあるため、過去の時代から絶えず地殻変動を受けてきました。 海溝と付加体 プレートに乗って移動してきた海底の堆積物や岩体は、海溝にプレートが沈み込むときに、大陸にくさび状に接合します。これを付加体と言いう。 日本列島の骨格は、過去のプレート運動で付加された様々な付加体によって構成されています。 |
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01古生代~中生代 3億~0.66億年
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海底火山の時代 新生代新第三紀中新世 (2300-1040万年前) 中新世初頭に、東アジアの辺縁部が沈降して裂け始め、湖となり、やがて海が侵入して、日本海が誕生した。 海底火山が活発になり、海底に噴出した大量の火山灰・火山礫が堆積して、緑色凝灰岩ができ、金属鉱床を形成した。 日本海の誕生 -東アジアの分裂- 新生代 新第三紀 中新世 前期-中期 2300-1040万年前 緑色凝灰岩 (グリーンタフ) 地域の岩石・鉱物 新第三紀中新世の激しい地殻変動から海底火山活動までを、グリーンタフ変動といい、この活動があった地域を、グリーンタフ地域と呼んでいる。 この海底火山活動で、海底近くに、上昇してきた熱水鉱液から、銅・鉛・亜鉛・石工などが沈澱し、山形・秋田に広がる金属鉱床(黒鉱床)が出来た。 グリーンタフのでき方 00プレートの沈み込み摩擦と圧力による高温高圧下で、海底40km~60kmで地殻が溶解する。 01海底の大きな断層を通ったマグマは、地殻表面に噴き出し、海底で激しい噴火をはじめます。 02海底には、噴出した溶岩や火山砕屑物が、堆積し、海中には、火山灰や軽石が浮いています。 03その火山灰や軽石は、静かに沈み、堆積し、やがてグリーンタフとなります。 |
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02新生代新第三紀、中新世、前期-中期 2300万-1045万年前 |
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油田形成の時代 新生代新第三紀 中新世中期 (1630万-1040万年前) この頃、山形はほとんど海に覆われ、最も深く沈みました。深海では泥や石油の素になった微生物が堆積しました。 出羽山地付近は水深数千mになりましたが、奥羽山脈付近は中新世を通じて海底火山が活発であまり深くはならなかった。 山形を覆った海 -深海の時代- 新生代 新第三紀 中新世 前期-中期 1630万-1040万年前 この頃の岩石・化石・石油 この頃の地層は、新第三紀中新世の中部層・上部層で、内陸盆地に近い山地や庄内の山地に多く分布しています。 中部層は泥岩・砂岩からなり、石油を含んで最上・庄内地方に分布し、上部層は、礫岩・砂岩・泥岩からなります。 下層部は、激しい海底火山のあったところの地層です。 石油の溜まり方 ①新生代の激しい火山活動に続いて沈降が起こり、深い海の海盆には、泥や砂と共に多くの微生物が堆積しました。 ②堆積した地層は隆起する時、大きな力を受けて褶曲しました。地層に埋もれていた微生物の死骸は石油に変化しました。 ③石油は地層の背斜構造の砂岩のところにガスと共に集まります。この上下の地層は、石油やガスを逃さない細粒の泥岩から出来ています。 ④余目油田は庄内平野の中心にあり、南北に広がる平原型油田です。長さ4km幅1.5km、二つの背斜構造から出来ています。 |
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03新生代新第三紀、中新世中期 1630万-1040万年前
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陸化の時代 中新世後期中頃 (1040万-530万年前) 中新世後期になると、山形は太平洋プレートの圧力を受け、次第に隆起し陸化し始め、奥羽山脈は陸に、山形は内海になりました。 海底から陸へ -プレートの圧力と大地の隆起- 新生代第三紀、中新世後期中頃-鮮新世 1040万-260万年前 鮮新世 (530万-260万年前) 鮮新世になると、日本海に繋がっていた内陸の海は、出羽山地の隆起によって海から分かれ、湖になりました。 その頃の山形 中新世中頃に海底に堆積していた地層は、隆起する時に大きな力を受けて褶曲しました。 特に出羽山地や奥羽山脈地域では、激しい地殻変動を受けて高く隆起していきました。 一方、陸地も盛んに隆起し、山形では、海の一部が狭く入り込んだ湾となって残っていましたが、隆起が進み、海退し、 米沢・山形・新庄地域には湖ができ、庄内地域は湾となりました。 この湖には、陸地で茂った植物が埋もれ、亜炭になりました。また、陸地には火山性陥没湖が出来ました。 |
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04中新世後期-鮮新世 1040万-260万年前 |
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浅海の時代 鮮新世 530万-260万年前 亜炭のでき方 鮮新世 530万-260万年前 ①新第三紀末頃になると、陸地が拡大し、内海や湖が出来ました。この頃は、温暖な気候が続き、メタセコイアやブナなどの植物がおい茂って いました。 ②陸地は、盛んに隆起を続け、時おり激しい地殻変動が起こり、周辺から植物が沢山流れて来て、湖に堆積しました。 ③火山灰や軽石・礫・砂・泥などが植物と共に堆積を繰り返し、地層は次第に重みで加圧され、炭化作用が進みました。 最上地方の炭田 総埋蔵量約5億t。大正時代に企業化されました。燃料や工業原料に使用されています。 この頃の岩石・化石・亜炭 鮮新世に堆積した地層は、新庄・尾花沢盆地に特に多く、軽石凝灰岩を伴う砂岩、亜炭を挟む礫岩・砂岩・泥岩が見られます。 化石は、酒田付近で二枚貝や巻貝。 新庄盆地南西部ではブナ・コンプトニアなど植物化石が見られ、この頃の植物は後に亜炭となりました。 |
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05鮮新世530-260
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列島形成の時代 第四紀更新世 260-1万年前 土地の隆起と低地の沈降 第四紀更新世 260-1万年前 第四紀更新世 (260万-1万年前) 第四紀は、山形がより強く太平洋プレートに押された時代です。この為、奥羽山脈や出羽山地は隆起して高くそびえ、低地は沈みました。 庄内に海が進入したり、内陸に大小の湖沼や湿地ができて、そこへ山地から川によって運ばれてきた土砂が堆積しました。 また、山地では、蔵王山、鳥海山など、十余りの火山が新たに活動を開始しました。 山形の火山と温泉 山形には、奥羽山脈に沿った那須火山帯と、出羽山地に沿った鳥海火山帯があります。プレート境界から遠い鳥海火山帯のマグマは、 那須火山帯より深い地点に発生しています。その結果鳥海火山の溶岩はアルカリやアルミナを多く含みカルシウム成分が少ない傾向を示し ています。 温泉はこの新しい火山と密接な関係があり、地価のマグマから出た熱水や、マグマに温められた地下水が素になっていると考えられています。 このため、温泉は火山帯に多く分布しています。 気候変動の第四紀 -繰り返す氷期- 260万-1万年前 第四紀になると、気候変動が起こりました。特に更新世後半に激しくなり、寒冷な氷期と温暖な間氷期が繰り返され、生物環境に大きく影響 しました。 氷期には海水面が下がって、動植物が大陸と交流しやすくなり、山形に大陸からナウマンゾウが移動してきました。 この頃の岩石と地層 更新世になると最上町向井町地域で火山活動が起こり、その噴火により軽石が堆積しました。その後向井町カルデラを形成しました。 また、鳥海山・月山・蔵王山・白鷹山・吾妻山などの新しい火山も活動を始め、爆発を伴いながら、安山岩や火山砕屑物を噴出しました。 なお、肘折では、1万年前に噴火し、軽石を堆積しました。この頃の礫や砂は、高位の段丘をつくり、赤色土化して、特に、新庄や尾花沢盆地 に見られます。 米沢盆地西部の玉庭杞憂量もこの頃できたものです。 |
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06第四紀更新世260-1万年前
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山形県の形成 第四紀の年代表 第四紀更新世 260万-1万年前 260万年前から現在までを、新生代第四紀といい、更新世と完新世に分けています。 この時代の重要な出来事は、寒暖の気候が繰り返され、新しい火山活動が起こり、山形に人が住みついたことです。郷土の地形はこの時代に 形作られました
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07第四紀更新世 260万-1万年前
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1万年間の変化 第四紀完新世 1万年-現在 最上川と郷土の姿 -美しい山形の大地- 完新世 1万年-現在 完新世の約1万年前になると、気候は温暖になりました。 それまで低地や湖沼や湿地は、山地からの多量の土砂で埋まり、平野に姿を変えて いきました。 最上川は、腰用や海の名残の内陸盆地と庄内平野を結んで日本海へ流れるようになり、山形の大地が完成しました。 その頃の山形 第四紀完新世になって、湖盆の位置が東方にずれ、現在の盆地に近い地形を作り、淡水となっていました。 完新世の地層は、平野・盆地や河川沿いに、砂・礫・粘土などが堆積したものです。また、山麓には、川が砂や礫を積もらせ、扇状地を作った。 この頃は、各火山が噴火を繰り返し、主に火山砕屑を積もらせました。 最上川とその地形 完新世になると、湖の水は昔の川跡を流れて、湖のくびれた部分の川底を抉り、五百川渓谷や碁点・三ヶ瀬・隼の三難所や、最上峡などの 峡谷を作りました (ここ、ちょっと意味が通らない。別の項目が一つとんでいるようです。) 更に、硬い地層の所では穿入蛇行が造られ、盆地や平野には泥や砂が堆積して段丘・自然堤防・三日月湖などが作られました。 このようにして最上川が出来ました。最上川は、全長229km、流域面積は県土の76%を占めています。 |
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08第四期完新世 1万-現在
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考古学 山形のあけぼの |
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10旧石器時代 人の住み始め 人類が現れてから、土器を使うようになった約1万年前までを旧石器時代と言います。この時代は火山活動が活発で、寒冷な氷期と温暖な 間氷期とが繰り返しおとづれました。人々は主に動物を捕え、打製石器を使い、移住しながら暮らしていました。 山形に人が住み始めたのは、約4万年前と言われています。この時代の遺蹟は、見晴らしの良い台地や段丘などに見られます。 山形の旧石器文化 山形には、旧石器時代の遺跡が多く、なかでも、朝日町大隅遺跡・朝日村越中山A遺跡・小国町東山遺跡・飯豊町上屋地B遺跡などは 旧石器文化の研究史に残る遺跡です。 また、中期旧石器時代から後期旧石器時代までの、それぞれの時代を代表する石器が発見されています。 特に、後期旧石器時代には、東山型ナイフ・杉久保型ナイフのほか、茂呂型ナイフや国府型ナイフなど色々なナイフ形石器が見られます。 |
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11第2展示室 山形の大地に刻まれた歴史
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12石器の作り方、使い方 |
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13石器 |
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14礫石器 中期旧石器時代 約4万年前の旧人 (=ネアンデルタール人) の石器です。 中国の山西省の丁村文化やシベリアのルバロワ=ムスティエ文化期の石器とよくにています。 参考リンク ムスティエ文化は、ネアンデルタール人の文化です。 ※ムスティエ文化の画像 ※ムスティエ文化 丁村文化-(山西省)は中期旧石器時代文化の遺跡。 石器・動物骨・二歳児の頭頂骨化石発見。ネアンデルタール人に近い ルヴァロワ技法-前期旧石器~中期旧石器にヨーロッパ・アジア・アフリカに分布する剥片製作技法。ルヴァロワ文化は存在しない。 製作する剥片の形を想定して調整された石核から、剥片を剥離する 技法である。石核は亀甲(きっこう)形石核とよばれる。 ムスティエ文化 ヨーロッパ・シベリア・アルタイにおける中期旧石器時代に栄えた文化。 ルバロワ型石核を用いた削器と尖頭器が発見された剥片石器を特徴とする
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資料 引用石刃技法Weblio 石刃技法 とは、東北アジアの後期旧石器時代の開始を告げる技術的指標である。 この技法は、ユーラシア大陸西部のイランからアルタイ、シベリア経由の北ルートで東方アジアに広がった革新的技術の一つとみられている。 また、このルートは、現代型新人 (ホモサピエンス) が拡散してきた道程を示していると言える。 技法の概略 ①原石(母岩石材)を輪切り状に大きく荒割りして打面を準備し、 ②石核の素材をつくり出したのちに調整加工を加えて石核を作り、 ③これを連続的に同一方向から加撃してほぼ同じ大きさの縦長剥片を打ちはがしていく。 この剥片を刃器(石刃)とよび、二次加工を加えて多様な形態の石器を製作していく。 二次加工としては刃潰し剥離がなされ、ナイフ形石器を製作することが多かった。 美利河(ピリカ)技法 ピリカ遺跡 ピリカ旧石器文化館 北海道美利河1遺跡出土の66点の石核・石刃・剥片は互いに接合し、石刃技法の過程を示す好例である。
北海道・東北地方では母岩として黒曜石や頁岩を利用している。 関東平野特に武蔵野台地では、チャ-トを初め在地の石材や黒曜石のような遠隔地からの石材を利用している[2]。 それらの調整技術の差異、有無、打面転位のあり方などから、石刃技法は細かい分類が可能である。 |
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15ナイフ形石器 後期旧石器時代 約3万年前~2万年前
資料
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16細石刃 後期旧石器時代末 約2万年前~1.5万年前
細石刃文化の拡大と分布 最初に西から細石刃文化人が入り、東北地方にまで拡散していった。 その後、旧石器時代終末期に、それまで北海道にいた北方系民族が大挙南下して、日本海側伝いに移動と拠点構築を行いながら戦略的に、拡散し、 一部は関東にも進出し、また一部は山陰から瀬戸内、四国、九州にまで進出した。彼らは、大型動物狩猟民族だった。 |
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17尖頭器 後期旧石器時代末 |
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資料 18尖頭器
尖頭器 せんとうきpoint 尖頭器についてわかりやすい説明を探していたら、作っちゃいました。 中期旧石器時代 (10~3万年前) には斜軸尖頭器など、動物を仕留める道具として使われてきた石器である。突き刺す道具である。 この時代には、大型動物を捕える為にはこの程度のにぶい切れ味の道具で済んだのだろうか。 要は狩りの仕方による。沼や氷の上に追い込んで、身動きとれなくなった動物を仕留める。 下枝の生え込んだ針葉樹林帯に追い込み、ツノが枝に絡んで動けなくなったオオツノシカを仕留める、などなら使えたのかもしれない。 後期旧石器時代 (3万~1.5万年) にはナイフ形石器が発達する。動物を解体するときに使うのか、猟で使うなら、撫で斬り、浅い手傷を負わせるだけになる。 どのような猟が出来たのでしょうか。この時代にも槍先型尖頭器はあり、やはり猟につかったようです。 槍先型尖頭器は、2万年~1.5万年前、旧石器時代後半期に出現している。 後期旧石器時代末期 (現在年代を特定することは不可能です。大平山本遺跡以前、1.8万年頃かと思われますが、誰も特定できません。) まず朝鮮半島から細石刃文化人が流入して東北地方まで広まり、その後、北海道から北方民族によって楔形石核の細石刃文化が流入した (角錐状石核、船底状石核) この軽量大形鉾(ほこ)形道具は、大型動物の急所の足などを撫で斬りにして浅い手傷を負わせて出血死、または、歩行困難にして 捕獲する道具である。細石刃カッターナイフは切りつける道具であって刺すことはできない。従って投げ槍ではない。 動きの遅い大形獣を効率的に捕獲できるが、突進してくるナウマンゾウに対して手に持って構えて切る。命がけの狩猟である。 この道具の盛行によって尖頭器は下火になる。 後期旧石器時代終末期 (細石刃以後で大平山元遺跡以前ですから、1.7万年前頃かと思いますが、特定できません。) 細石刃文化人は多人数で渡来して、狭い列島で効率的に大形獣を獲り尽くし、あっという間に絶滅させてしまい、細石刃は役に立たなくなった。 そこで、動きの速い、嗅覚の鋭い中型獣を捕獲するには、投げ槍が有利であった。重く鋭く、致命的に刺さるもの。尖頭器は発達した。 神子柴型石器の登場である。 |
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資料 引用尖頭器wikipedia 尖頭器は、日本では旧石器時代に出現し、縄文時代、弥生時代に渡って使用されました。 尖頭器の呼び名
尖頭器の分類
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尖頭器の出現と盛衰 槍先型尖頭器の出現は、ナイフ形石器の盛行期、2万年~1万5千年前頃である。 使用法・使用時期 木の柄につけて投げ槍とし、大型獣の狩りに用いられたのが始まりで、狩猟に大きな進歩をもたらした。 ナイフ形石器は後期旧石器時代末葉に衰退していくが、代わって槍先形尖頭器は著しく発達し、量的にもめざましく増加する。 細石器が盛行期には一時的に減少するが、縄文土器が出現する前後に再度、最盛期をむかえる。 尖頭器の分類 細石器以前を初期尖頭器、 以降を発達期の尖頭器と呼ぶ。 前者は一般的に比較的小形のものが多く、調整も周辺部調整、片面調整、両面調整と多様であるのに対し、 後者は長大なものが加わり、大半が両面調整のものへと定式化されていく。また有舌(有茎)尖頭器を伴います。 縄文時代の槍先形尖頭器は上述の発達期尖頭器の後半部にあたる。 引用尖頭器wikipedia |
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動物相の変化と尖頭器の消長 旧石器末から縄文初頭期は、ホモサピエンスの寒冷地進出と共に、北米・アジアに於いても尖頭器の発達が著しい。 寒冷地の大形獣を捕獲する投げ槍として発達した。 が、日本列島では、海進により大陸から孤立し、大形獣がたちまち絶滅した。ために、イノシシ・ニホンジカを狩猟対象とした。 嗅覚が鋭く行動の機敏なこの動物の捕獲には、投げ槍が適していた。特に有舌尖頭器の急増は、こうした事情を物語っていると推定される。 やがて弓矢の伝播とともに、タヌキやウサギなどの小動物も狩猟対象となり、弓矢と槍の中間的な機能を果たした投げ槍は消滅していく。 ※「弓矢と槍の中間的な機能」とは、槍は手に持って構えて刺す道具。 弓矢は飛ばして射止めるもの。すると、投げ槍は、両方の機能を持つ物。 しかし、小型獣中心の縄文時代には、中型獣用の取り扱いにくいものはすたれてきた。 引用尖頭器wikipedia |
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考察 19神子柴型石器 画像引用「狩猟採集民のコスモロジー」
神子柴型石器群 ①神子柴型石器群は、 大型で片刃の局部磨製石斧、 大型で木の葉形をした石槍・槍先形尖頭器、の組み合わせを神子柴型といい、 そのほかに、石刃素材のスクレイパーと彫刻刀形石器や、植刃(しょくじん)、 断面が三角形の錐、半月系の石器、有茎尖頭器、矢柄研磨器、、石鏃、などを伴う。 引用神子柴系石器 神子柴型石器は、旧石器~縄文草創期の石器であるため、尖頭器の呼び名が、 旧石器時代風に槍先形尖頭器、縄文時代風に石槍ともいいます。 ②二つの文化 神子柴型には有土器と無土器の文化があります。
※土器のある・なしは、時代のあと先ではなく、二系統の神子柴文化があったからのようです。 神子柴系石器は、南九州薩摩半島南端の帖地遺跡からは、細石刃と共に出土している。狩りに両方を使い分けたようです。 ③神子柴型石器の三期 (※これを記述したURLを逃しました。) 出現期 神子柴系石器の出現期は、これまで1万3000年前とされてきましたが、最近は、1万7000年前、大平山元遺跡出現前に傾いている。 象徴化の時期 神子柴の尖頭器は、次第に大きく、薄く、美しく作られるようになり、やがて象徴として扱われるようになり、実用性を失っていきました。 九州国立博物館 (撮影禁止) では、30cm程もある大形幅広尖頭器を見ました。弥生時代の象徴としての銅矛を連想します。 終焉期 やがて、土器と弓矢の縄文的組み合わせが一般化すると、実用的な刺突具としての石槍に置き換わっていきました。 |
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おことわり 以下の、博物館の解説文には洞穴とありますが、現在の一般的表現としての洞窟に統一して表記します。 |
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20縄文時代 約1万5000年前~3000年前 縄文時代のくらし 縄文時代になると、はじめて土器や弓矢を使うようになりました。 人々は、竪穴住居に住み、縄目などの文様のある土器を使い、石器や骨角器で、けもの・鳥・魚を捉え、貝や木の実を採取して暮らしていた。 山形では、この時代の遺跡が広く各地に見られ、規模も大きいことから、全国でも人口が多い所であったと言われています。 山形の縄文文化 山形には、縄文草創期から晩期までの遺跡が数多く分布しています。 遊佐町吹浦遺跡や高畠町日向洞窟遺跡などの発掘は、縄文文化を解き明かす調査として注目されました。 また、山形市熊ノ前遺跡や長井市長者屋敷遺跡の発掘調査では、沢山の竪穴住居跡が見つかり、縄文人のムラを調べる上で貴重な遺跡と されています。 |
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日向洞窟遺跡の意義 日向洞窟の考古学的意義 日向洞窟は、縄文草創期~平安時代 この遺跡の発見によって草創期が設定された。 日向洞窟の位置 遺跡は、米沢盆地の東北縁、奥羽山脈の西斜面にある「山形県東置賜郡高畠町竹森」に所在し、付近には、尼子洞窟群、観音岩洞窟群など 14地点に洞窟遺跡群が点在している。 洞窟遺跡がこれほど密集する地域は他に類を見ないものである。 洞窟の全景 日向洞窟は、通称「立石」(標高230m)の麓に南向きに開口する。 立石は凝灰岩塊の露頭で積年の浸食風化により形成したものである。 最大規模の、日向第1洞窟付近に、第2洞窟、第3・第4岩陰など、4か所の自然洞窟、岩陰に居住したものである。 洞窟は、何千年もの間使用されていた複合遺跡です。第1洞窟は、入口の高さ3.5m、幅5m、奥行14mのひょうたん状となっている。 洞窟前面には豊富な水量の小川が流れ、緩やかな勾配で「白龍湖低湿地」に臨む。 洞窟内の文化層 日向第1洞窟内基盤岩上に5層の堆積があり、 第1層(表土) 縄文時代晩期以降 の遺物 第2層 縄文時代晩期~早期の遺物 第4層 縄文時代草創期 の遺物が包含されていた。 第3層と最下層の第5層は無遺物。 第4層の縄文時代草創期の土器、石器は、 新潟県小瀬ヶ沢洞窟※3、長崎県福井洞窟※4と並んで、旧石器文化から縄文文化への発展過程を解明する重要な資料である。 人々がここで1万年以上前から住居として生活を送っていたことや、縄文草創期の存在が証明されるきっかけとなった。 土器は、縄文最古の隆線文系土器を始め、後続爪形文系土器、多縄文系土器※1の各様式が存し、 これは、現在まで、日本海側草創期土器の北限である。 引用文化財オンライン日向洞窟 日向洞窟前遺跡 縄文草創期の、貴重な石器が出土している日向洞窟遺跡の西100mの休耕地です。 洞窟前の堆積層は2m余りもあり、基盤の五層の内 第1層の表土には、縄文晩期以降の造物 第2層には、晩期から草創期各時期のもの、 最下層には、草創期の遺物が包含されていた。 この層の土器は、隆起線文土器片、爪形文土器片等 石器は、草創期(1万6000~1万1000年前)を代表する石器の局部磨製石斧と矢柄研磨器が出土した。 東北では発掘例が少ない貴重な遺物でした。 ほかに、1万5000~1万4000年前)の地層から尖頭器と石鏃が十数点が見つかりました。 また、同じ場所で土杭など居住の痕跡を示す遺構や、土器や石器など数千点が出土し、これまで計1万点以上の遺物が発見され、 その中には、人骨・クマ・シカ・キツネ・カモ・ヤマドリほか多数の骨も含まれています。 洞窟前の広い平たん地が活動の拠点だったようである。 引用<日向洞窟遺跡>縄文草創期の石器出土 | 河北新報 |
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日本の洞窟遺跡 新潟県小瀬ヶ沢洞窟は、※3 特に石器群の中には、ロシア・沿海州方面との関連が指摘されるものもあり、縄文文化の起源を明らかにする上で重要な資料です 長崎県福井洞窟は、※4 旧石器時代から土器文化(縄文時代)への過渡期の文化層が認められた遺跡です。引用ながさき旅ネット 長崎県泉福寺洞窟からは、 隆起線文土器(約12000年前)の下の文化層から、豆粒文土器(13000年前)が出土している。 |
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24土偶 縄文の女神 (約4500年前) 縄文時代中期 西ノ前遺跡の縄文の女神 最上郡舟形町西ノ前遺跡出土土偶 縄文の女神リンク 縄文の女神ホームページ 国宝・縄文の女神~日本最大の土偶~ 国宝「縄文の女神」 - 山形県立博物館 東京国立博物館 - 展示 日本美術(本館) 特別公開「国宝土偶 縄文の女神」 縄文の女神 - Wikipedia 国宝指定「縄文の女神」 — 山形県 縄文の女神 - 最上地域観光協議会 美しすぎる土偶!魅力的なボディーライン「縄文の女神」 05:縄文の女神 | JOMON美土偶グランプリ ねずさんのひとりごと 縄文の女神 西野前遺跡の縄文の女神 土偶は平成4年に見つかりました。半径3mの範囲から出土した5つの破片を繋ぎ合わせて元の姿に復元したものです。 高さ45㎝、肩幅17㎝、重さ3.155kg。全身がわかる土偶の中で日本最大。均整のとれた八頭身の全身立像で『縄文の女神』と呼ばれている。 姿かたちは直線や弧線を巧みに組み合わせたフォルムからなり、「横から見る」ことを意識した造形と考えられます。 腕や目鼻の省略も違和感がありません。 以下引用縄文の女神ホームページ 色調は淡い赤褐色で、半円形を呈し、複数の穿孔(せんこう)が見られる頭部には、顔面の表現はなく、両側には耳飾りを意識した孔があります。 腕を省略し、角ばった肩からW字に乳房が張り出し、腹部には妊産婦を表現し、突き出した個所にヘソをあらわす刺突が見られます。 背中には背骨を表す正中線が臀部まで垂下し臀部は後部に突き出た「出尻形」を呈しています。 脚部端部は分離しておらず、立像として自立する工夫としてパンタロン風に裾広の形状です。 底面には比較的広い抉(えぐ)りが見られ、焼きむらを避ける工夫が見られます。 縄文時代中期の作とみられ、人の姿を究極まで象徴化しつつ、高い様式美を誇る姿は、学術的にも造形的にも日本を代表する土偶です。
全裸の八頭身体形から見て北方系民族でしょうか。 乳房の様子から老婆。シャマンの顔は模写禁止だったのでしょうか。神の顔だからでしょうか。 (基本的に現代も、北方民族の人形には写実的な顔はありません。) 下半身、特に臀部の唐草文の刺青などはかなり上質な造形です。 デザイン全体としては大変高度で頭部の穴を使ったどのような飾りがあったのでしょうか。飾り穴だったか、紐を通してぶら下げたのか、です。 全裸だったのか、パンタロンスーツだったのか、、刺青なのか、黒曜石製ナイフで皮膚を切り刻んでいたのか、、ほんとはよくわかりません。 立像で自立する縄文土偶は数少ないものです。 ※2017.6.16追記 この形式と同じ土偶が、長野県伊那谷から沢山出土しています。造形力はもっと低いですが。 |
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25土偶残欠 縄文時代中期 西ノ前遺跡
伊那谷の縄文人は、関東からの移住者であり、従ってこのでっちり(出っ尻)型土偶のルーツは関東にあるようで、そこから、東北地方へ拡散した のでしょうか。 それとも、一時期、関東を中心に、東海~東北南部に大流行したのでしょうか。 |
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26山形の縄文土器 縄文時代は、土器の形や文様で6つの時期に分けられています。
縄文土器の文化圏 山形は、東北南部の宮城・福島とおおむね同一の文化圏に入りますが、遊佐町吹浦遺跡で見られる縄文前期末の土器には、 東北南部の大木式土器と、東北北部の円筒式土器の影響が見られ、両文化の接点であったことがわかります。 また、山形を含む縄文晩期の亀ヶ岡式文化圏は、サケ・マスの捕れる東日本地域と重なっています。 文化圏を作る要因としては、自然環境の違いや縄文人の交流などが考えられます。 上図より、 日本海沿岸の遊佐町吹浦遺跡の前期土器は、最上川上流域に比べて先進的なデザインで、 かつ、以後の、日本海側遺跡、及び最上川交易圏などのデザインに強い影響を及ぼしたように見える。 それとも、元来、土器デザインは日本海側交易圏を中心に発達した文化なのだろうか。 |
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27石器 縄文中・後期 横内遺跡/尾花沢市
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29祭祀具と装飾品 岩版-土版と同じく信仰のための護符に使われた 石棒-権威の象徴として集団の指導者が持っていたといわれています |
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30縄文土器 |
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31土器 異形注口土器 人の顔・胴体・下半身を表したと言われています。このように異様な形をした土器は、全国でも珍しく、儀式具と考えられています。 北海道博物館に、人面付環状 (注口) 土器があります。よく似た発想の土器だと思います。 彩漆土器 押出遺跡 釜淵土偶 釜淵C遺跡 前出の「出っ尻土偶」とは別で「カッパ土偶」とも呼ばれています
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弥生時代 60弥生時代のくらし 弥生時代になると、大陸から稲作と金属器が伝わってきました。 人々は次第に石器に代わって金属器を使うようになり、稲作に適した低地にムラが営まれました。 中期以降になると、米作りのムラは山形でも多くなります。山形市江俣や米沢市堂森などの遺跡から出土した籾痕のある土器が稲作を証明 しています。 山形の弥生文化 北九州に根付いた米作りの技術は、まもなく各地に広まっていきました。 日本海沿岸地域には、北上する対馬海流を利用して伝えられたことが、酒田市生石2遺跡などから出土している弥生前期の土器から伺われます。 弥生文化圏の広がり 弥生前期 には西日本中心の弥生文化圏は、中期 (AD100年頃) には東北北部にまで達した。 弥生中期 に福島県・青森県太平洋側、青森県内陸部で籾殻圧痕土器が出ている。 東北地方の弥生時代 青森県弘前市砂沢遺跡では弥生前期の水田稲作が行われており、東北への日本海航路を使っての稲作栽培は、弥生前期でした。 最上川流域の縄文人ムラで栽培され、作り手は縄文人でした。が、弥生文化は全く受け入れませんでした。 弥生中期に太平洋側で稲作栽培が普及したことについては、 近年までこの付近では山背や冷害が多い米の不作地域でした。温帯ジャポニカの古代米が栽培できたことに大変な驚きを感じます。 |
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61土器
環状石斧 こん棒の頭につけて、狩りや戦いに使ったといわれています。やはり、縄文人との確執が激しかったのでしょう。 沢山の半島人がやってきて、この武器で縄文人を殲滅しながら土地収奪をしていったのでしょう。 闘牛じゃあるまいし、環状石斧で倒すような動物はいませんでした。縄文人を殺すための武器でしょう。 |
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古墳時代 70古墳時代の暮らし 古墳時代になると、日本の各地に豪族が現れ、大きな墓をつくる風習が起こりました。人々は竪穴住居に住み、土師器を使うようになりました。 山形では、この時代の集落遺跡と古墳が、山形盆地や米沢盆地に多く見られます。 この頃、稲作が普及して、多くのムラができ、それを支配する豪族がいたことがわかります。 ※古墳時代初頭に関東・東海・北陸から、弥生王族と稲作農耕民の集団が東北地方に多数入植し、稲作農耕と古墳文化を展開した。 やがて、近隣の縄文系の人々を支配していった。 |
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71Panel |
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72道具 子持勾玉-大きい勾玉に小さい勾玉が付いているもので、祭祀に使います 石製模造品-石包丁・石鎌・石鍬・石剣などの模造品で、軟らかい石で作られており、孔に紐を通して農耕祭祀に使います |
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73山形の古墳 山形でも4世紀になると豪族が現れ、権威を示すために、稲荷森古墳や天神森古墳などの大きな墓をつくるようになりました。 その後、6世紀に入ると小古墳が沢山作られ、更に戸塚山山麓古墳群のような群集墳が造られるようになりました。 ※この流れは、西日本と同じで全国的に情報が即座に流れ、時間的な遅滞は無いようで、同じ文化レベルです。 奈良時代になって律令制が広く行われるようになると、古墳は次第に作られなくなりました。 山形の古墳の移り変わり 古墳造営は、前期Ⅱ期の米沢盆地から始まり、100年後の前期Ⅳ期に山形盆地にも古墳が造られ始めた。 |
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74古墳
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75古墳2
稲荷森古墳 南陽市/全長96m高さ10m県内最大の前方後円墳。周濠なし。丘陵を利用して盛り土した3段築成。4世紀。 置賜地方を支配した県内最古の豪族墓 大之越古墳 山形市/直径16m/円墳/周溝有り/石棺の下に、更に石棺が見つかる。5世紀終わり頃、山形周辺を支配した豪族墓。 環頭大刀・馬具など沢山の副葬品発見。 環頭大刀は、山形の豪族と中央との交流を示す貴重な資料です。 戸塚山古墳群 米沢市/山麓の群集墳と山頂の前方後円墳など3基の古い古墳とからなる古墳群です。(群集墳が新しいと言いたいようです) 群集墳は、 いくつかの支群に分かれ、7世紀頃の短期間に造られたようです。 そのほとんどが横穴式石室を持つ、直径10mの円墳で、中には一段と大きい盟主墳と考えられる古墳も見つかっています。 |
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76大之越古墳の副葬品 |
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77古墳文化の広がり 4世紀の終わり頃には、東北地方でも古墳が造られるようになり、最古の古墳は会津大塚山古墳と言われています。 5世紀になると、仙台平野・米沢盆地・山形盆地でも、大型古墳が造られ、 5世紀末には、岩手県南部にも見られるようになります。 7世紀になると、群集墳が現れ、 8世紀の奈良時代には、それが、北海道南部まで広がっていきました。 古墳文化の拡大 古墳人による地域支配は、東北地方太平洋側から進んでいきました。これは、元々、アイヌとの交易が気候温暖な太平洋側で行われ、 人の往来も発達していたからでしょう。つまり、産物の集散地など、豊かな土地を支配圏に入れようと権力者が活動したためです。
銙帯金具 (かたいかなぐ) 革製ベルトの飾り金具のこと 金・銀・玉・石の装飾板(銙)や垂飾を革帯または布帯にとりつけ,尾錠で締める腰帯の総称。 本来は中央アジアや北方胡族の間に行われた服飾具であった。日本では古墳時代の4世紀末に,竜文・心葉文をあしらった金銅製銙帯が出現する。 古代の貴族が公服着用のときに用いた革帯。もとは腰帯(こしおび)といわれ、黒漆塗りの革帯の後腰部分に銙(か)とよぶ金、銀または玉、石などの 正方形または円形の飾り12個を並べて据え付けたもの。養老の衣服令では、五位以上金銀装、六位以下は烏油(くろぬり)といって、 銅に黒漆を塗ったものをつけると定められている。平安時代以降は、玉や石のみを用いることとなって、石帯とか玉帯とよばれるようになった。 |
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古墳時代の集落 80嶋むらの暮らし(古墳時代 後期) 山形市の嶋遺跡は、建物跡をはじめ、鋤・織具などの木器類、多くの土師器、モモ・アサなどの植物種子、櫛・玉類などの装飾品が発見されました。 嶋の人々は、7世紀前後にムラを作り、木製農具※を使って米作りを行い、モミを高床式倉庫に蓄え、アサの着物などを着て暮らしていたことが わかりました。 ※7世紀に木器で農耕とは、東北では鉄製農耕具の普及がいかに遅れていたかを表しています。 しかし、同時期に蕨手刀などの生産も行われていたことも留意すべきでしょう。 嶋遺跡の発見 嶋遺跡は、水田の圃場整備の工事中に、大量の土器や柱根が見つかり、発掘調査が行われました。 遺跡は、旧馬見ヶ崎川の自然堤防の上にあり、付近は湧水に恵まれた湿地帯で、米作りに適していました。 嶋遺跡とは 山形市嶋地区にある、低湿地に立地する古墳時代後期(約1,400年前)の集落跡です。 発掘調査で、打込柱による平地式建物跡や高床式建物跡、土器、木製の道具など、保存状態の良いものがたくさん発見された。 東北地方の古墳時代の村落形態や生活様式を研究するうえで重要な遺跡である。 引用山形市公式ホームページ 史跡 嶋遺跡について |
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83嶋遺跡の木製品 古墳時代後期 7世紀
大足:田下駄大形のもの 桛(かせ=綛・写真):意味-糸の巻き取り機、写真 |
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85嶋遺跡出土の装飾品・信仰関係・こも編み具・食物残渣 |
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87嶋遺跡出土の土器 古墳時代後期
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山形の古代 90古代 出羽国の成立と条里制 熊野台遺跡出土品 平安時代 奈良時代になると、律令体制が整い、班田制のもとに、条里制水田が造られるようになりました。 山形では、庄内地方を中心に出羽郡が置かれ、和銅5年(712)には、出羽の国となり、陸奥の国に属していた内陸の置賜郡と最上郡が加わり 大きな出羽国が成立しました。 平安時代になると条里制水田が広くみられるようになりました。 |
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92出羽の国衙 山形県酒田市城輪 出羽国が成立すると、国府が庄内地方に置かれ、その後、秋田に移り、再び庄内地方に戻ったと考えられています。 酒田市の城輪柵遺跡 (きのわのさく) は、これまでの調査で約720m四方の地域とその内側の約120m四方が、築地塀で囲まれ、 中央部には正殿・東西両脇殿などがあったことが明らかになり、平安時代の出羽の国衙であったと考えられています。
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