縄文を旅する3 北の縄文 北東北〜南北海道旅 26 2013.10.11(金)
北海道開拓記念館 札幌市厚別区厚別町小野幌53-2 011-898-0456
現在、北海道博物館として開館中2019.01.16記述
このページはかつての開拓記念館の姿を留めるものです。
現在改装工事のため27年春まで休館中 新装後は組織改編さ、北海道博物館となります。
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交通 |
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・札幌駅前バスターミナルからJRバス開拓の村行きで開拓記念館入口から徒歩で3分 |
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・「北海道立埋蔵文化財センター」から徒歩20分。天気が良ければ楽しい公園ウオーク。 レンタル自転車があればね。 |
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・新札幌駅前にレンタサイクルありの情報 |
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見所 |
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・写真を編集してわかりました。 |
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大変膨大な量の、考古・歴史資料、アイヌ史資料が充実している。ぜひ、新装開館の折には見に行ってください。 |
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反省点 |
埋文から歩く予定。強風雨。途中崖あり。傘さし杖つきのため大きく迂回。へとへとで全身ビチャビチャになって到着。 |
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途中何回も、断念しようと思った。 しかし、記念館のスタッフは大変親切。展示物も大変素晴らしい。感動しました。
が、疲労で写真撮り忘れ多発。 |
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目
次 |
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北海道の地学
00更新世 前期 後期
温暖期の北海道 中期更新世
寒冷期の北海道 後期更新世
寒冷期の人類 旧石器時代
01旧石器時代
北海道の旧石器文化
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縄文時代
04縄文早期
縄文文化
土器の始まり
05縄文前期・中期
気候の温暖化と人々のくらし
縄文海進と温暖化
06縄文後期
07縄文晩期
08縄文後期晩期の器物
続縄文時代
11続縄文時代 前期
続縄文文化
弥生文化の北上と続縄文文化
続縄文前期の北海道文化
16続縄文時代 後期
ひろがる北海道系土器 |
21aオホーツク文化
オホーツク文化人は
21オホーツク文化の交易品
22オホーツク文化の道具
23クマに対する信仰
トビニタイ文化
24擦文文化への同化
擦文時代
25擦文文化
擦文人の生活
鉄器の使用 |
アイヌ時代
30アイヌ文化
内耳土器とチャシ
31鉄製品の流入
33鉄鍋の流入と砦チャシ
34アイヌの食生活
36アイヌの交易品
アイヌとの対立史
37アイヌの信仰
38住居
近世・近代の北海道
50近世の北海道
統一政権と松前藩
シャクシャインの戦い
55海運の発達
外国の進出
60近代の北海道 |
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北海道の地学
00更新世 前期 後期 258万年〜1万年前まで 4回の氷河期と3回の間氷期
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第四紀の初め頃に堆積した地層は日本各地の低地帯周辺の丘陵部や内陸盆地に分布している。その多くは浅い海で退席した海成層である。
北海道の代表的な地層は、渡島半島の瀬棚層、石狩低地帯の下野幌層、十勝平野の池田層、天北地域の更別層などが知られている。
これらの地層から出土する化石には、すでに絶滅した、シクナガホタテガイ、コシバニシキガイ、ムカシオナガトリガイなどのほか、現在も生きている種が多数含まれている。
現生種で見ると、ベーリング海、オホーツク海に生息する寒流系の貝化石が多く、その他ステラー海牛などの北方系の哺乳類の化石も見られる。 |
北海道博物館写真拝借 |
入り口展示原始林の開墾を彷彿させる巨木の切り株 |
前期更新世120万年前 |
前期更新世 |
120万年前の東アジア
浅い海に地層が堆積。
寒冷期 |
前期更新世の海進 |
ジュゴン(海牛)の棲息海牛の化石120万年前 |
近代の海牛の絶滅18世紀に絶滅 |
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「海牛」って何?
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海にいる哺乳類で、ジュゴンやマナティーのこと。体長3-4mで、海藻や水草が食べ物です。熱帯から亜熱帯の海や川で生息しています。 |
温暖期の北海道−中期更新世−約40万年前
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40万年前頃に起きた海進は、北半球全域に起こった一大事件でした。北海道でこの時期に堆積した代表的な地層は、石狩低地帯の音江別川層、根釧原野の大楽毛層などで、これらの地域は太平洋に口を開く大きな内湾となっていた。
この時期の地層から産出する貝化石は全て現生種であり、ウネウラシマ、ハマグリ、シオフキなどの温暖種を含む。
この時期には、現在の日高山脈付近にあった北米―ユーラシアプレート境界が西側(日本海東縁部―フォッサマグナ地帯)に移動し、山地・丘陵・盆地など現在の地形を作り上げる運動が始まった。 |
中期更新世40万年前 |
温暖期の北海道 |
温暖海進期
列島の低湿地を形成
プレート境界が移動した |
A現在の生物分布
B縄文海進時
C中期更新世 超高温 |
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寒冷期の北海道 後期更新世 約13万年前
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11万年前頃から気候の寒冷化が始まった。宗谷海峡は、7万000年前頃に姿を消し、サハリンと北海道は陸続き(陸橋)となった。
この時期から約1万年前までの間、北海道は大陸から突き出た半島となっていた。しかし、津軽海峡は、海水面が最も低くなった約2万年前の寒冷期でも存在しており、北海道と本州は離れたままであった。
寒冷で乾燥した気候となった北海道では、雪が少なく、氷河は日高山脈の一部に発達しただけで、低地には針葉樹林や森林ツンドラが広がった。
陸橋を通って、現在は絶滅した針葉樹のグイマツが北海道にも進出し、マンモス象などの動物群も南下してきた。 |
後期更新世13万年前 |
7.5〜1万年前北海道は大陸と陸続きだった |
13万年前 |
寒冷期の列島2万年前 |
後期更新世の海進 |
マンモス象の牙の
不思議マンモスの牙は
雪を払って食料を捜す道具だったという。 |
ゾウの牙は門歯 |
道内カルデラと降灰 |
北海道のカルデラ 単位万年前
道央・道南 |
道東 |
支笏(4.4)
クッタラ(8-4.5)
赤井川(200-130)
洞爺(9.0-11)
濁川(1.2)
汐泊 |
屈斜路(6.0、11-12)
摩周(0.9-1.0万) |
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寒冷期の人類 ―旧石器時代―
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氷河が発達する寒冷期には、海水面が低下してサハリン(樺太)と北海道は大陸と陸続きになった。寒冷な気候の中で、マンモス象やヤギュウなどが大陸から南下し、オオツノジカが北上してきた。これらの大形哺乳類を追い、人々も北海道に移動してきた。子の人々が持っていた文化を旧石器文化と呼んでいる。
北海道では、それらの人々の存在が約2万年前から認められるが、約10万年も前に遡ることができるかもしれない。 |
寒冷期の人類北海道の旧石器人の痕跡は
10万年以上遡ると予想されている |
ここでは、
氷期の北海道は、
シベリアから突き出た
半島となり、
津軽海峡は存在した |
津軽海峡
最大水深450m
最短距離18.7q
ここは氷結しなかった |
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01旧石器時代 2〜1万年前
北海道の旧石器文化
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北海道の旧石器文化は、現在までのところ2万年前から1万年前頃まで続いていた。
最も古い遺跡は、祝梅三角山遺跡(千歳市)や嶋木遺跡(上士幌)などで、終末期を示す遺跡は、立川第3地点遺跡(蘭越)などがある。
この頃の人々のは、主に狩猟や採集生活を営んでいた。
遺跡に残された石器の特徴から、北海道ではこの時代を
@小型剥片石器が使われていた時期、
A石刃や細石刃が使われていた時期
B有茎尖頭器や局部磨製石斧が新たに使われた時期、の三時期に分けられる。
北海道の旧石器文化は大陸から直接渡来したり、あるいは本州を経由してもたらされたことが考えられるが、北方地域からの影響が大きい。 |
北海道の旧石器文化北方系民族の多彩な文化がもたらされた |
旧石器文化
・小型剥片石器
・石刃・細石刃
・有茎尖頭器・局部磨製石斧の三つの時期 |
細石刃技法
アルタイ地方で
4万年前発生 |
黒曜石の流れ
白滝からアムール川へ
皮舟で青森へも |
掻器
石核
尖頭器
細部加工剥片
ナイフ形石器
舟底形石器
剥片石器
石刃技法 |
石刃技法の石器
北方ユーラシアの技術
ナイフ形石器と同時期に発達した
掻器・石核・剥片・刃器
彫器・両面調整石器 |
黒曜石と珪質頁岩か寿都町・置戸町出土 |
両面調整石器・石核
石刃
スキー状削片 遠軽町
両面調整石器は手斧 |
細石刃 |
細石刃と細石刃核色々な技法の細石刃核
置戸町安住遺跡 |
有茎尖頭器に伴う石器玉・砥石・掻器・石刃
削器・彫器
有茎尖頭器・ナイフ
蘭越町立川遺跡 |
有茎尖頭器の情報は少ない。
槍には小さく石鏃に大きい。ために、
アトラトル用と言う
製作技法
氷河期の狩猟具
手投げの何倍もの命中率
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縄文時代 8000〜2000年前
北海道の縄文時代は早期から始まります。
狩猟・漁労・採集・栽培が行われていた。
04縄文早期8000〜6000年前
縄文文化
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1万年前頃から全世界的に気候が温暖化し、氷河期は終わりを告げる。日本各地ではこの頃から土器の使用が始まった。
北海道でも8,000年前頃には土器が使用され、磨製石斧や弓矢の使用が一般化するようになった。
生活は狩猟・漁撈・採集を基礎とし、植物栽培もおこなわれていた。また、家畜として犬も飼育されていた。
この段階から金属器の使用が始まる2,000年前までを縄文文化と呼んでいる。 |
土器の始まり
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8,000年前頃から北海道でも土器の使用が始まり、食生活に一大革命をもたらした。土器は出現当初には煮炊きを目的として使用された。
土器が使われ始めた頃には単純な器形が多く、模様も貝殻や木のへらを用いており、縄目の模様は見られない。
また、北海道南西部には東北地方と同じ尖底土器群が、北海道北東部には平底の土器群がそれぞれ分布していた。
これらに伴う石器類にも性格の差がみられる。
特につまみの付いた石ナイフ、石皿、石錐などは南西部の遺跡から多く発見され、東北地方との共通性が強い。
北海道内に見られるこうした大きな二つの文化の流れは、自然環境の違いを反映した生活法の差を表しており、その後も続いた。
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・磨製石斧と弓矢の使用
・縄文犬・アイヌ犬のDNAは南方型で、縄文人は南から来たことがわかる。 |
土器の始まりつまみ付きナイフ石皿石錐の使い方が道南では違っていたようだ
貝殻文は南方系土器 |
土器の始まり
北海道北東部の平底土器は南九州草創期似 |
初期縄文文化域の分布尖底土器→北海道南部
東北地方の文化
平底土器→道央・北・東
北海道・北方の文化 |
南西北海道の
尖底土器-鳴川式- |
鳴川式尖底土器と
擦り切り磨製石斧 |
尖底土器に伴う石器鳴川遺跡 石鏃 掻器
摘み付きナイフ
ナイフ
それに磨りきり磨製石斧 |
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北東北海道の
平底土器-高木式-
東釧路W式石狩市古潭遺跡 |
平底土器に伴う石器たたき石 石錘 砥石 石鏃 掻器 土製円盤
豊頃町高木T遺跡 |
剥片石器と石斧の組み合わせ |
北海道東部の
石刃鏃に伴う土器 |
石刃鏃文化の石器擦切磨製石斧 石錘 石のこ
大空町豊里遺跡 |
石刃鏃 |
石刃鏃石器彫器 掻器 石刃 石刃槍
石核 |
尖底土器文化
南北海道
平底土器文化
東北海道
石刃鏃文化=平底土器 東部北海道 |
尖底土器と共伴石器
平底土器と共伴石器
剥片石器と磨製石斧
石刃鏃石器と共伴土器
色々の民族が来て
色々な文化が開花した |
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05縄文前期・中期
前期6000〜5000年前
中期5000〜4000年前 北筒式土器は北海道式円筒土器の意味で、石刃鏃石器の共伴土器です。磨製石斧も共伴します。
気候の温暖化と人々のくらし
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6000年前頃になると、気候の温暖化が始まった。海水面は上昇し海岸線は内陸部の低地帯に侵入した。この現象を縄文海進と呼ぶ。
こうした気候の温暖化は自然の食料資源の増加をもたらし、人口も増えて、人々の生活は安定したものとなった。
集落の分布は内陸部まで広がり、その数も増加した。住居も大型化し、集落の規模も大きくなった。土器も大型で雄大なものがみられるようになる。
大型の磨り石や石皿の存在は、植物性食料の豊富さを示している。
住居のそばには貝塚が残され、そこからは各種の動物や魚類の骨などが発見されており、当時の人々の食生活は予想以上に豊かであったことがわかる。 |
縄文海進と温暖化
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氷河期が終わった1万年前頃から海水面の上昇が始まり、約6千年前には3mも上昇した。この現象を縄文海進と呼んでいる。
当時は平野の奥深くまで海が入り込んだ。内陸部の地表下に自然貝殻層が残っていたり、その頃の貝塚が20km以上も内陸部に分布しているのはそのためである。自然貝殻層や貝塚の構成物には、アカニシ、ハマグリ、シオフキ、サルボウなどの貝類やブリスズキなどの魚コツが含まれている。
当時、石狩低地帯の、北部(石狩湾)は秋田以南、また、南部(太平洋)は仙台湾以南、道東の釧路や根室地域は津軽海峡以南の海況で、
陸上の平均気温は現在より2〜3℃も高温であった。そののち海水面は次第に低下して現在に至り、各所に泥炭地が形成された。 |
気候の温暖化と人々の暮らし
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縄文海進と温暖化2〜3mの海面上昇で20qも内陸に漁労簡単の遠浅の里海が広がる。
集落が奥地まで分散し人口増加する |
円筒下層式土器 前期
石皿・すり石 中期森町 森川A遺跡 |
筒型土器-北筒式-斜里町ウナベツ川遺跡
石斧 砥石 尖頭器
つまみ付きナイフ 石錘
石族 神居古潭遺跡
筒型土器-北筒式 択捉 |
中期 筒型土器-北筒式斜里町
磨製石斧 神居古潭
道北・道東の土器で
石刃鏃文化の円筒土器
アムール川流域の人々 |
択捉島出土の
北筒式土器
堅果類の調理に使用砥石 神居古潭遺跡 |
縄文 中期遺跡
尖頭器 北見市常呂川
つまみ付きナイフ 神居古潭 |
石錐石鏃 神居古潭 |
つまみ付きナイフ 石錐 石鏃 神居古潭遺跡エスキモーは海獣の生肉を切りながら食べる。
つまみ付きナイフはその用途にピッタリ |
縄文 中期遺跡
尖頭器 北見市常呂川
つまみ付きナイフ 神居古潭 |
円筒上層式土器
森町 中期 煮込み用 |
中期 鳥崎式土器
森町鳥崎川遺跡樺太南部から来た土器
ニブフなどの人々が渡島半島を回って噴火湾へ舟で来て定住した証拠 |
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06縄文後期 4000〜3000年前
6300年前頃から気温が低下し始め、3000年前の最寒冷期まで、気候変動が激しく、不安定であった。
地表は乾燥し、海面は低下し、浅海の漁場は泥炭の湿地となった。
人口減少が激しく、呪術的な文化も高まってきた。
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07縄文晩期 土偶等
3000〜2200年前
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旧石器時代の人口5千人。縄文中期最大25万人。晩期には5人に1人しか生き残れなかった5万人。
絶望の時代に人間は信仰を求め、自然を恐れ、敬うようになった。
土偶自体は旧石器時代のシベリアで発達していた。牙偶や骨偶でした。 ここの土偶は本州東北から伝わった南北海道の土偶です。 |
後期・晩期の土偶八雲町鮎川洞窟
新日高町御殿山遺跡
根室市初田牛10遺跡 |
土偶室蘭市絵鞘遺跡
八雲町鮎川洞窟 |
土偶室蘭市輪西 室蘭市絵鞘遺跡 |
木製櫛棒を差し込んで使う
新日高町御殿山遺跡 |
玉深川市音江遺跡
新日高町御殿山遺跡
木古内町札刈遺跡 |
ママチ遺跡の土面千歳市ママチ |
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08縄文後期晩期の器物
木製櫛新日高町御殿山遺跡 |
玉
新日高町御殿山遺跡
木古内町札刈遺跡 |
滑車形耳飾
縄文後期
新日高町御殿山遺跡 |
石棒
縄文晩期 函館市
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石刀
晩期
函館市日ノ浜遺跡石刀はみんな直刀でしたが→ |
石刀 晩期
木古内町札刈遺跡湾曲した石刀が出土
直刀は突くだけ
曲刀なら切れる
って知ってたのね |
双口土器 晩期
紡錘形土管の両端をワッと束ねた形にした。
でも、どうやって? |
壷 タンネトウL式恵庭市柏川遺跡 |
斬新な形ですよねー
久しぶりに陶芸をやってみたい気分になります |
皿 縄文晩期 大洞式七飯町大中山遺跡
大洞式土器とは
亀ヶ岡式土器のことです |
深鉢 大洞式木古内町札刈遺跡
縄文晩期 |
大洞式土器の詳細
亀ヶ岡式土器を大洞遺跡出土物を示準として分類したものです |
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09縄文カレンダー
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冬 鹿、オットセイ、貝類
春 熊、ニシン、ウバユリ
夏 アザラシ、鱒、苺、桑の実
秋 鮭、ドングリ、くるみ、栗
一年中動物が獲れた |
札苅のムラ縄文時代晩期の住居、お墓、土器焼き場、祭祀場等の様子 |
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続縄文時代 2200〜1300年前
異常気象による食糧不足と、それをめぐる戦乱で新天地を求めた朝鮮半島から植民目的の武力集団の渡来によって
縄文人の生活は完全に破壊された。
しかし、北海道においては稲作不適地ゆえに支配されることなく、また、沖縄でも同様のことが起こっていた。
この後、狩猟採集の文化は14世紀まで続くことになる。
11続縄文時代 前期 2200〜2000年前 鉄器文化の始まり
土器 道南では恵山式土器を伴い、道央道東では前北式・後北式を伴う。
恵山式土器は
台付土器や甕形,壺形,鉢形など東北地方の弥生文化と共通する土器の組成をもちながら,
豊富な石器,骨角器を伴い,狩猟に加えて沿岸漁労にも深くかかわっていた文化である 引用 恵山式土器
続縄文文化
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2,400年前頃、本州では大陸から稲作と金属が伝わり弥生文化が広がった。
しかし、海峡を挟んだ北海道では稲作が行われず、わずかな鉄器だけが伝わった。
縄文文化を受け継いで狩猟、漁撈、採集を中心としたこの文化を続縄文文化とよび、およそ2,300年前から、1,300年前まで続いた。
続縄文文化の終わり頃になると、北海道の人々は東北地方の北部へ、また、サハリンの人々は北海道へ南下するなど部分的な移動があった。 |
弥生文化の北上と続縄文文化
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2300年前頃北九州に始まった弥生文化は急速に北に広がり、2200年前頃に東北北部の青森県にまで達した。
水田農耕を軸とする弥生文化の農耕社会ではやがて小国が分立し、それらは更に大きな政治権力によって統一されていった。
しかし、東北には金属器は伝わったものの水田農耕は行われず、以前からの縄文文化的な狩猟採集生活を基礎とする生活(続縄文文化)が続いた。
続縄文文化前半の集落は、海岸部に多く分布し、貝塚を伴うことが多いので、その生活は海に依存していたと考えられる。
この時期の土器は、北海道南西部と、北東部の土器群二つに大きく分かれる。 |
続縄文文化稲が生育せず弥生文化は育たなかったが
交易によって鉄器は伝わった |
北海道の
南西部と北東部の二つの土器文化圏があった |
弥生文化の北上と続縄文文化
南北海道と北東部の土器群に分化した |
稲作は津不能だが
栽培種のゴボウは江別市で出土。密接な関係が続いていた |
北海道南西部の
土器文化
恵山式土器 |
琥珀製首飾り
芦別市滝里4遺跡 |
貝輪イモガイ沖縄産ベンケイ貝青森産
儀式用スプーン
伊達市有珠10遺跡 |
弓筈状 ヘアピン状 骨偶 銛先 刺突器 函館市恵山貝塚 |
魚形石器 貝製平玉クマ形石製品 槍 釣針 ヘアピン 針
伊達市有珠10 |
骨製槍儀式用の装飾 |
スプーン骨匙儀式用 |
銛先離頭銛 |
骨針大変細く精密な作業ができる |
ヘアピンかんざし何かの装飾の穴
精巧である |
ヘアピン |
結合式釣り針朝鮮半島が発祥
縄文早期〜後期
オサンリ式釣り針 |
熊の頭部
石製品 |
儀式用?お守り?
精巧なつくり |
北海道北東部の
土器文化
宇津内式土器
石斧石核石鏃石片
北見市栄浦2 |
宇津内式土器土器形式が全く違う民族のもの |
深鉢 宇津内式
網走市 |
続縄文前期の北海道文化
恵山文化(渡島半島)、 (えさん)
宇津内文化(オホーツク海沿岸)、(うつない)
下田ノ沢文化(太平洋沿岸)、
江別文化(石狩低地) (えべつ)
弥生文化の影響を受けた恵山文化では、土器の形は多様化し、小型化しました。小さな浅鉢が増えたことは、
土器が食器の機能を持つようになったことをうかがわせます。
恵山文化と 同じころ、北海道の北東部では 宇津内文化(オホーツク海沿岸)と 下田ノ沢文化(太平洋沿岸)が栄えていました。
これは 弥生文化の影響がほとんど見られないもので、土器にも 北方の大陸からの影響が色濃く印されています。
約1800年前、この 恵山・宇津内・下田ノ沢文化を統合する形で、石狩低地帯に新たな文化、 江別文化が起こりました。
石狩低地帯に生まれた江別文化は、急速に 全道に分布を拡げ、やがて 東北地方北部まで波及してゆきました。※
引用 土器の変遷から文化のうねりがみえる
※弥生前期の寒冷化により東北地方から弥生人が逃げ出し、北海道からはアイヌ人が南下し、逃げ出した弥生人の集落で暮らしました。
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16続縄文時代 後期 2000〜1700年前(弥生時代) 寒冷化に伴い人類が移動・南下し、オホーツク文化が始まる。
ひろがる北海道系土器
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続縄文文化の後半期、北海道系土器(後北式)が津軽海峡を越えて東北地方全域にまでひろがっていった。
当時の気候は現在よりも寒冷なので、東北地方北部まで進出していた水田農耕をもつ弥生文化の前線が南に後退したためこうした現象が起きたとも考えられる。
しかし、不思議なことに同時期の東北地方の弥生式土器が北海道からも出土している。
また、同じ頃サハリン南部の鈴谷式土器を使用していた人々が稚内・礼文などに南下してくる。
更に北海道中央部でも後北式土器を伴う遺跡から鈴谷式土器がしばしば発見される。
続縄文文化の後半期は、北と南の分化が北海道の中で積極的な交流を持っていたのである。 |
寒冷化が更に進行樺太から人々が南下弥生人と交易 |
ひろがる北海道系土器 |
鈴谷式土器の南下は民族の移動 |
樺太へ北上した
後北式土器 |
鈴谷式土器の南下と後北式土器が北上 |
石斧の柄江別市別太遺跡 |
柄付ナイフ江別市別太遺跡 |
後北式 深鉢江別市別太遺跡 |
注口土器 後北式余市フゴッペ出土 |
鈴谷式土器樺太の土器 |
サハリンの尖底土器と北海道の弥生土器 |
余市の後北式注口土器と秋田の後北式土器 |
北大式土器と |
岩面刻画北方民族の洞窟壁画 フゴッペ洞窟 |
北方民族の狩猟具狩猟名人達の洗練された骨角器
フゴッペ洞窟 |
占いを文化に持っていたト骨と土器 |
石斧が多数副葬
現代エスキモーと同じ仕掛けで鮭を捕獲 |
鈴谷式土器
紀元前1世紀から紀元6世紀。樺太に住んでいた人々の土器 |
↑アイヌ人たちは交易のため秋田県辺りにまで舟で出かけていたそうです |
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オホーツク文化
初期 3c-4c
前期 5c-6c
中期 7c-8c
後期 9c-10c
終末期 11c-13c 1000年も続いた文化である
オホーツク文化
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5世紀頃、漁撈や海獣狩猟を行い、犬と豚を飼育した人々がサハリンから北海道のオホーツク海沿岸部にやってきた。
この文化をオホーツク文化と呼んでいる。曽利まで北海道に住んでいた人々の文化とは全く異なり、クマに代表される動物儀礼などは、
のちのアイヌ文化にも影響を与えた |
オホーツク文化人は
海洋狩猟民族で、舟で海獣や魚を取って暮らしていた。
毛皮交易用の狩猟のために南下し、樺太や稚内〜国後島沿岸に住み着いた人々。
他方、日本海側を新潟県沖の島まで南下して交易する人々もいた。
広範囲に交易を行い、クマを信仰し、アイヌ文化にクマ信仰をもたらした。
特に特徴的なのは、犬と豚を飼育していたことだ。また、菜園を作っていた。
オホーツク文化人は「靺鞨」「ツングース」「エベンキ」「エスキモー」「ニブヒ」といろいろ呼ばれる民族。有名人は大祚栄
※オホーツク文化は移動南下した人々ではなく、もともとそこに住んでいた人々の文化が発展したものだとの説もある。
21オホーツク文化の交易品
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22オホーツク文化の道具 縄文時代や北海道南西部の漁具とは全く違う大型の獲物用の道具。
オホーツク土器深鉢 釣針 骨鏃 石錘 刺突器オホーツク文化人は、
北海道北部と樺太では漁業
網走市二ツ岩 礼文町香深井 |
掘り具 スプーン ラッコ牙偶 銛先北海道東部では
海獣狩猟に重点を置いた。
根室市弁天島 北見市常呂川
礼文町 網走市モヨロ 北見市栄浦 網走市二ツ岩 |
バックル 婦人牙像 針入れ 船模型 牙製婦人像捕鯨を行っていた舟の模型に注目。大型のクリ舟。
礼文町香深井 根室市オンネモト 根室市弁天島 羅臼町松法川 |
掻器 石鏃 石錘 刀子 石製円盤 装身具 管玉シベリアの旧石器時代のような牙製婦人像など実に珍しい
網走市二ツ岩 北見市栄浦 |
有孔石製円盤は何だったのか、漁網を編む糸によりをかけたのかな。紡錘車になるが
←オホーツク文化期の墓
江差町目梨遺跡 |
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23クマに対する信仰
アイヌを特徴付ける文化といえばクマ信仰。しかし、それは、実はオホーツク文化人の信仰だった。
北海道全土を支配する初期モンゴロイドのアイヌが、後期モンゴロイドの精神文化に乗っ取られたことになる。
それほど強い影響力があった。
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オホーツク人が動物に対して特別な意識を持っていたことは、遺跡から出土する多くの遺物によって知ることができる。
クマはその中でも最も主要なもので、モヨロ貝塚(網走)や栄浦第二遺跡(常呂)などでは、住居の奥にクマの頭蓋骨が積み上げられた例がある。
これらの頭骨は一定の方法で意識的に置かれている。また、クマを表現した牙や骨の彫刻、土器の模様、土製品なども多くみられる。
これらは オホーツク人の信仰や儀礼を表現している。
クマに代表されるオホーツク人の動物観は、のちのアイヌ文化に通じるものがあり、アイヌ文化の源流をオホーツク文化に求める手掛かりとなっている。 |
海洋漁労民のオホーツク人がなぜクマ信仰に至ったかクマを恐れ敬う、拝む生活背景は、海岸で巨大なヒグマと遭遇すればわかる |
骨製クマ像 湧別町川西 |
骨製熊像
オホーツク文化期
礼文町香深井A遺跡礼文町香深井 網走市二ツ岩 |
骨製クマ 土製クマ
オホーツク文化期 根室市温根元遺跡
江差町目梨泊遺跡
集落に出没し危険、時々食料で、恐れ、敬う存在。
台湾や中部地方で猛毒蛇が信奉されたと同じでないか |
木製クマ型容器羅臼町松法川北岸遺跡 |
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トビニタイ文化 (羅臼町飛仁帯遺跡)
9c-13c 四百年も続いた文化
7c-8cにサハリンや北海道北部・東部から国後初頭にかけて進出していたオホーツク文化を、
9c頃に擦文文化人(古墳文化・土師器文化に影響されたアイヌ)が北海道北部に進出し、オホーツク文化人の交通路を遮断し孤立させた。
道東のオホーツク文化人は擦文化人と(ニブヒとアイヌ)は融合し、二つの文化を折衷させた文化、トビニタイ文化が生まれた。
背景は、オホーツク文化人千年の歴史の間に、続縄文人は擦文文化人へと進化した。続縄文文化とは弥生文化のことであり、
擦文文化とは、古墳文化・土師器文化に影響を受けた文化のことである。
擦文人は人口増加に陥り、鉄器で武装して新天地を求めた。このアイヌとの争いに敗れ、オホーツク人は追い詰められていった。
そして、遂に、放逐、虐殺、捕囚でもなく、融合が起こった。一時的な折衷様式による文化が形成された。
物理的には敗北したオホーツク人であるが、逆に、擦文人の精神文化を完全に支配したのである。
つまり、擦文人になかった精神文化を、オホーツク人のシャマンが入り込んで乗っ取ったのである。
アイヌが敬うほど、それほどオホーツク人の文化レベルが高かったようだ。
こうして、ここに、クマ祭りを行うアイヌ。内陸民であったアイヌが海洋狩猟や、交易、などに乗り出すようになった。
大変な進化である。その始まりがトビニタイ文化である。
24擦文文化への同化
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オホーツク文化の終末期、北海道東部の網走・根室・釧路及び南千島にかけて、オホーツク文化と擦文文化の両者の特徴を併せ持つ文化が存在し、
トビニタイ文化と呼ばれている。
土器はオホーツク文化と擦文文化の特徴を兼ね備え、また、住居も両文化の特徴を持っている。
遺跡は海岸部や内陸の河川沿岸部に存在し、擦文文化の遺跡の立地条件と同じである。
これはトビニタイ文化が擦文文化に、より近いことを示すものであり、オホーツク文化の一部が北海道に土着化し、擦文文化へ同化したことを物語っている。 |
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擦文時代 7c-13c(飛鳥時代〜鎌倉時代後半)
25擦文文化
北海道式古墳(直径3〜7m終末期の東北と同じ形式) かまど付き方形竪穴住居(本州東部の奈良・平安期と同じ)
擦文文化
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7世紀頃、本州文化の影響を受け、それまで使用されていた縄文の付いた土器と石器が姿を消し、土師器に似た土器や鉄器が使われ始めた。
人々は河口近くに集落をつくり、狩猟・漁撈のほか畑作農耕を営んだ。この文化を擦文文化と言い、13世紀頃まで続きアイヌ文化の原型となった。
この時期には、鉄器を中心とした交易が盛んになり、自給自足の経済は次第に弱まっていった。 |
擦文人の生活
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江別や恵庭では直径3〜7m程の北海道式古墳と呼ばれる円墳が見つかっている。その築き方は東北地方の終末期古墳と全く同じである。
また、住居形式も本州東部の奈良・平安時代に普通に見られるカマド付きの方形の竪穴住居が一般的になる。
このように擦文文化の開始にあたっては東北地方と密接な交流があり、その影響が強い。
人々の生活はサケ・マスなどの河川魚、野生植物の採集と共にアワ・キビ・オオムキ・コムギなどの農耕を行っていた。
また、交易によって得た鉄製品を用い、石器は使われなくなった。同時に鉄を加工する野鍛冶の技術ももたらされた。 |
土師器や鉄器の流通による文化の進化
奈良・平安文化の流入
鉄器の加工
農耕の開始 |
擦文人の生活 |
薄くて硬い土師器が作られるようになった。 |
擦文土器 |
杯 高坏 紡錘車紡錘車など織物技術も進歩したものが導入
雄武町雄武竪穴 |
文字なども使われ始めた
刻字土器 奉の字の墨書土器 |
鉄器の使用
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鉄器の利用は続縄文時代から始まるが、鉄器はまだ一般的なものではなく、石器が多く用いられていた。
擦文時代になると、鉄器の使用が始めて本格的に開始された。この時期には様々な鉄器の使用が考えられ、加工技術の存在も認められる。
しかし、製鉄技術はまだ確認されておらず、鉄は本州から供給されたと考えられる。
江別や恵庭などに見られる「北海道式古墳」には、刀子、蕨手刀、直刀、斧、鎌、鋤などの、武器・農工具が副葬され、東北北部の末期古墳との類似性が注目される。
鉄器の使用は各地に広がり、鍛冶作業に伴う送風用のふいごの羽口、鉄滓や鍛造剥片などが出土している。
札前(松前町)、青苗(奥尻町)末広(千歳市)などの遺跡は、当時の鉄生産に関連した地域の拠点としての役割もうかがわせる。 |
青森出土の擦文土器交易や移住も広がる |
内耳土器・ヤス・鉤銛鉄製内耳鍋(吊り下げて使用)をまねた土器 |
鉄器の使用鉄製品の製造加工と |
交易品方頭太刀 円頭太刀 刀子 鉄鏃 |
蕨手刀 鎌 針 鋤 |
新文化が届いたふいごの口 湖州鏡
鉄斧 鎌
枝幸町 |
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アイヌ時代 13c-19c アイヌの歴史 アイヌ語の語族については明確には言い難いという雰囲気のようだ。これ以上は扱わない。
30アイヌ文化 13c (鎌倉後期〜明治時代)
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13世紀に、アイヌ文化は擦文文化の伝統を受け継ぎながら、さらに和人の文化との接触が強まる中で、その影響を受けながら成立した。
人々は、自然環境を有効に利用して、狩猟、漁撈、採集などのほか小規模な農耕により生計を立てていた。和人との交易活動が活発になり、
そのための生産活動も一層盛んになっていった。
こうした和人との経済的交流の中で、熊送り儀礼を代表とする多様な信仰体系が出来上がっていった。
また、民族独自の文字はもたなかったが、ユカラをはじめとする口承伝承があり、その中で噛み、自然、人々への対処の仕方などが受け継がれてきた。 |
内耳土器とチャシ
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鎌倉幕府の支配は奥州(東北地方)に及び、日本海沿岸の交易が発達し、13世紀頃から擦文文化が変容してアイヌ文化が成立した。
その頃、土器に代わって内耳に吊り耳を持つ鉄鍋が使われ、14〜15世紀頃にはそれに似た土製の鍋(内耳土器)も作られた。
交易経済の発達によって、アイヌ民族の社会的な成長が進み、15〜18世紀頃にはチャシ(砦)も作られた。(アイヌ間の戦争を意味する) |
アイヌ文化縄文・続縄文・擦文と発展してきた先住民アイヌが北海道・樺太に打ち立てた文化。 |
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世界の先史文化がそうであるように、呪術的
よくわからない |
オホーツク文化と |
擦文文化の分布 |
内耳土器とチャシ鎌倉時代の日本海交易の発展に伴い、アイヌ社会が拡大し、砦を作って戦争を行うようになった。 |
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31鉄製品の流入
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33鉄鍋の流入と砦チャシ 14cは鎌倉時代後半から室町初頭 チャシは15cに作られた。
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本州で鉄鍋が一般的に使われ始めるのは、鎌倉時代と言われる。14世紀頃北海道に伝わると、同時にそれを模した土器(内耳土鍋)が作られた。
鉄鍋は便利であったが、依然として貴重品であった。
鍋以外の鉄製品や陶磁器なども伝わっており、この頃から蝦夷地と本州の交易が次第に盛んになった。
15世紀頃からの遺跡としてチャシがある。
チャシは見晴らしの良い丘陵の先端や独立した丘を濠で区画して作っている。
それらはユーカラの中で柵を幾重にも巡らせた姿で登場する。チャシが作られた目的や使われなくなった理由はわかっていない。
しかし、チャシは砦としてのほか、サケ産卵床の見張り場あるいは儀式の場として造られたなどの説がある。 |
14c鉄製品の流入が社会の混乱を引き起こし |
鉄鍋の流入とチャシの出現
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チャシの分布 |
土地争いが激化し、軍事拠点が作られる。 |
闘争の激化による小集団が発生していた。 |
武田泰淳の小説のように平和な社会ではなかった光りごけ だったかな |
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34アイヌの食生活
日常の食生活
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手に入れた食料はそのまま食べることもあったが、動植物を問わずまず乾燥させ、物によって燻製にして保存した。
調理は女性の仕事であった。日常の食事はオハウと呼ばれる魚や鳥獣の肉を山菜と共に炊き込んだ汁物が中心であった。
サヨと呼ばれるアワやヒエのお粥、ラタシケップと呼ばれる豆類やウバユリなどの煮つけもあった。
味付けには獣脂や魚油が用いられたが、基本的には自然の素材がもつ味を生かしたものだった。 |
日常の食生活 |
食材の調理食材はまず保存食化してから食べる。
調味料はない。 |
調理道具台所道具は現在と同じである。 |
すじ子潰し、杓子、箸、椀 |
アイヌは髭も髪もぼうぼうに描かれている。
すると、縄文人の身だしなみもそうだったのだろう。
散髪屋もカミソリもない時代
ぼうぼうで正解のようだ。
いつの時代も、ノミやシラミが大変だったろう。 |
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35アイヌの工芸 独特の模様が特徴である。 アイヌ紋様基礎講座 北海道デジタル図鑑〜100の物語[伝統・文化]アイヌ文様
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鉄器による工芸技術の高まり |
続縄文以降工芸が発達し、見事な芸術が開花している。 |
五弦琴が中央アジアからシベリア経由で伝播なぜトナカイの鈴が?
あ、ただのサンプルだ |
シャマンの祭祀太鼓北方民族の道具。トビニタイで加わった文化? |
北方民族は全て後期モンゴロイドだから、北方民族の生活スタイルを身に着けていても、
アイヌは、南方系初期モンゴロイドです。 |
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36アイヌの交易品
アイヌとの対立史
鮭
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昆布
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毛皮 |
トドとクマ |
砂金場分布図 |
砂金取り道具揺り板 |
鷲の羽 トドの××
干しなまこ 昆布 |
干鱈 鹿皮 丹頂 |
交易船 |
中世蝦夷社会
和人館の形成
アイヌとの対立史
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アイヌとの対立史
ピンボケ |
中世蝦夷社会と
和人館の形成東北地方の支配者安藤氏(福島城)が松前経営に乗り出す |
安藤氏の本拠地
中国の北方経営 |
蝦夷の登場 |
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37アイヌの信仰 アイヌ生活文化マニュアル
祭祀具本来南方系であるアイヌ人 |
北方系文化を、取り込みながら独自の文化や信仰を築く |
儀式用の被り物ウイルタ樺太 |
木幣ウイルタ樺太 |
物入れナナイ 杓子煙草入れ 皿引 ニブヒ |
首飾り クマ頭部 |
花矢 白老町これらの祭祀具や祭祀は構造的には北海道の縄文祭祀と同じである。
よく似た道具が出土している。 |
酒箆は北海道・東北からも出土し、現在の仏教儀式の道具にも似たものがある |
杯と捧酒箆 サハリン イクニ |
酒箆(さけべら)はその後大変進化して、芸術的になった。
アイヌ犬は南方系の犬。
ならばアイヌも南方系。犬だけスンダランドからは来ない。
しかし、アイヌの儀式や信仰は完全に北方系。しかし、アイヌの前期モンゴロイドの容貌は南方系だが。 |
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38住居
なぜこんなに通気性の良い住居なの? 保温を高める方法はいくらでもあるじゃない。
土壁にするとか。それとも何か別の方法があったのかなぁ?
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近世・近代の北海道
50近世の北海道 大儲けをするためにアイヌを利用し、また、厳しい取り立てをしたり、ノルマを課したり。権力者はいつも悪いね。
統一政権と松前藩
シャクシャインの戦い
統一政権と松前藩 |
統一政権と松前藩 |
北海道の区部図 |
国土という概念がなく、収奪する獲物ぐらいにしか思ってない |
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シャクシャインの戦い買い上げ価格を切り下げられ激怒したアイヌの惣大将 |
シャクシャインの戦い |
不満を持たせ、戦争を起こさせれば、こっちのものだ。
殺やっつけられるし、言いなりにさせられる。 |
世界中侵略者はどこでもおんなじ手だな。 |
松前藩の参勤交代経路 |
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55海運の発達
西回り開運の発達航海が成功すれば大金持ちになれた |
結局アイヌは金儲けの草刈り場に |
場所請負制の成立 |
寛政年間場所略図 |
漁業の発達と
日本海開運飢饉や鎖国経済の行き詰まりを北海道の産品開発で儲けた |
アイヌ民族蜂起図搾取され、そりゃアイヌは怒るわいな |
幕府の北方経営国境や領土の概念がなかったからなぁ |
外国の進出
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シベリアの豊富な毛皮を求めて東進したロシアは、17世紀中頃には黒竜江(アムール)沿岸に進出し、勃興期の清と衝突した。
1689年のネルチンスク条約で南下を阻止されたロシアは、北東に進み、18世紀前半には、千島列島を南下した。ロシア人は、18世紀中頃には「赤蝦夷」の名で松前藩などに知られるようになり、その動きは、松前藩や幕府の関心を引いていった。
また、蝦夷地と中国の間には、中世以来樺太と黒竜江流域を経由する山丹交易の道があり、「異国への通路」として幕府も注目し始めた。ロシアは極東を食料補給基地として日本に注目し、通商を求めて施設を派遣した。また、イギリス軍艦プロビデンス号は、二度にわたりエトモ(室蘭)に来航し、幕府を刺激した。 |
外国の進出 |
ロシアの極東進出産業革命後の世界は新天地を求めた |
オムシャ(ジオラマ)松前藩は、蝦夷地の中をいくつもの「場所」に区切り、家臣に支配させた。 |
これを「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」と呼ぶ。
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各「場所」では、毎年1・2度「オムシャ」と呼ばれる儀式が行われた。 |
これは、場所の中心にある「運上屋」(会所)にアイヌ民族の人びとを集め、 |
米や酒などをふるまい、場所の規則を申し渡す儀式である。 |
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60近代の北海道
開拓使札幌本庁舎 |
鉄道模型 |
産業遺産の模型 |
近代化遺産 |
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北海道開拓の村近辺の早い紅葉 |
10月半ばでも北海道はこんなです |
温暖化しているといわれます |
しかし、それなりの雰囲気があります |
この時大雪山は後葉真っ最中。
平地は11月中旬ですと言われたが、
この数日後に北海道に初雪が降った。 |
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