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目次
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03王塚古墳への経路
01外観
02入口展示
110ジオラマ
112発掘されたムラ
114土器
116土器・鉄器・装身具
120北部九州の古墳
121王塚古墳が造られた時代
122王塚古墳周辺の古墳
123立体地図
124王塚古墳
130王塚古墳の歩み
131発見~大平戦争
132戦後から石室閉鎖
133保存整備に至る経過
135保存施設の役割 |
140装飾馬具
142装飾馬具
145銅製品
146馬具
147変形神獣鏡
148王塚古墳の石室の姿
150復元石室
151装飾古墳の世界
153装飾石室
154墓道
考察 王塚古墳
155羨道
156玄室
158屍床 |
170副葬品
171発見から現在までのあゆみ
172須恵器
173鏡・装飾品
174武具・武器
175副葬品について
180装飾古墳の模様
182彩色壁画の顔料(絵具)
※考察 顔料の入手
184古代の絵具
185古代の顔料
186高松塚古墳の顔料
190撮影禁止区域 |
300王塚古墳館 企画展
「コノマ遺跡群の発掘調査展」
301円墳・横穴墓・登り窯
302コノマ遺跡群
驚き②円墳4c~5c
305粘土で包んだ棺と朱
306頭部に置かれた鉄剣
驚き③1号横穴墓6c末
307はにわゴロゴロ
308横穴墓の円筒埴輪
320コノマの横穴墓
驚き④5号横穴墓7c
322遠かったのゃ
325横穴墓副葬品
331被葬者
333横穴墓の使用時期
驚き⑤7号横穴墓6c末
34謎の土製品
350コノマの登り窯
360コノマのベンガラ
35弁柄種類
370コノマと桂川の古墳時代
373コノマ遺跡群の現在 |
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03王塚古墳への経路
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01外観
王塚装飾古墳館
広大な敷地の中にあります。が、古墳とは逆方向です。 |
長~い敷石路の上に、前日テレビでどこかの街でやっていた、チョークアートがありました。 |
見事なハクトウワシです。しかも斜めから見て正常に見えるように、長細く描かれています。 |
駅から館までは田舎道と住宅街と田んぼの中を歩いて行きます。タクシーなしチョット散歩 |
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02入口展示
テレビでCMしている玄関マット誂えですね |
チョット雑っぽく見えるけど設計上仕方なし |
円形展示場入口
博物館によくある円形の設計は、 |
展示がしづらく、観覧しにくい、無能な設計者の仕業です。気の毒っス |
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この鏡はなんのことかさっぱりわかりません |
きっと玄室内の三角模様をモチーフにしたのでしょう。 |
所々に、古墳内の装飾文様が描かれて |
いるんですが、撮影すると、私が映るので、 |
チョット画像になりませんでした。 |
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110ジオラマ 古墳時代のムラ(集落)の暮らし
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王塚古墳が造られた6世紀のムラ(集落)の様子を、町内から発掘された住居跡や出土品を参考にして再現したものです。
この頃のムラは、数軒から20数軒で造られ、1軒の広さは6畳から20畳位でした。
また、人々のくらし向きは、稲作の普及によって、農耕を中心に安定してきた時代です。
ここでは、稲穂を運ぶ人やモミすりをする人、狩りや魚捕りから帰って来た人など、当時の人々の暮らしの様子を表しています。 |
靫・双脚輪状文・馬・蕨手文
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館内風景
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絵に見えますが
ジオラマです |
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竪穴住居・高床倉庫
・竪穴住居断面 |
・A狩猟からの帰還
・B漁からの帰還
・E籾磨り
・D火起こし |
竪穴住居と親子 |
・C稲を運ぶ男
・AB狩猟・漁撈から帰還 |
❶高床倉庫 |
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❸竪穴住居断面
・F糸を紡ぐ女
・G炊事する女 |
・F糸紡ぎ |
ムラ(集落)の暮らし
上に記述 |
ジオラマの説明 |
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112発掘されたムラ 飯塚牟田遺跡 古墳時代 |
113
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発掘されたムラ |
桂川町東部に位置する土師地区の
飯塚牟田遺跡です。
古墳時代の集落跡が見られる。 |
住居跡 |
古墳時代の住居跡を発掘した物です。
対角線上に4本の柱穴が建てられ、
壁際にカマドが作られていました。 |
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横穴墓 |
当時の住人達が葬られた、横穴墓というお墓です。
丘陵の中腹に直接穴を掘って造ったもので、
円墳よりランクが下の墓と考えられています。 |
※5世紀後半の九州北部、豊前地方に起源を持つとされる。 |
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114土器
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土師器 甕・甑 |
カマド模式図 |
土師器 高坏 |
須恵器
長頸壷・平瓶 |
須恵器 横瓶 |
須恵器 甕 |
須恵器 大甕 |
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116土器・鉄器・装身具
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土師器 埦 |
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鉄鎌・紡錘車 |
鉄斧・刀子 |
鉄鏃 |
装身具・玉類 |
耳環 |
須恵器
坏身蓋・ハソウ・高坏 |
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120北部九州の古墳
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121王塚古墳が造られた時代
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日本の歴史では、3世紀から7世紀までを古墳時代と言っています。王塚古墳が造られたのは6世紀で、この頃の日本は、大和王権が朝鮮半島と活発な交流を始めようとしていました。しかし、地理的に近く、以前から朝鮮半島と独自に交流をしていた北九州の豪族は、大和王権の動きに緊張感を持ち、やがて対立するようになります。
「日本書紀」によると、527年に北部九州の豪族「磐井」が反乱を起こし、翌年には鎮圧されたとあります。
535年には、北部九州にも中央支配の拠点である屯倉が、「穂波」・「鎌(嘉麻)」を始めとして各地に設置され、大和朝廷による支配が次第に強化されていきます。 |
北部九州の古墳
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北部九州最古の古墳は、周防灘沿岸の石塚山古墳(苅田町)と言われています。続いて古墳時代初期の古墳は、糸島地方や福岡平野などに多く見られます。
横穴式石室は、4世紀末から登場し、谷口古墳(佐賀県浜玉町)が最も古く、6世紀には各地で造られ、群集墳が登場します。
また、装飾古墳は5世紀から出現しますが、その多くは6世紀に造られました。
古墳の築造は、7世紀中頃から急速に衰退しますが、一部では、宮地嶽古墳(津屋崎町)や綾塚・橘塚古墳(勝山町)などの巨石古墳が造られました。
この分布模型では、北部九州の古墳の中から〇〇と思われる165基を表示しています。 |
王塚古墳が造られた時代
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王塚古墳が造られた時代
👆上に記述 |
北部九州の古墳 |
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上に記述 |
石塚山古墳(苅田町)
谷口古墳(浜玉町)
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瀬戸古墳群(群集墳)
福岡県桂川町
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橘塚古墳 |
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122王塚古墳周辺の古墳
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王塚古墳周辺の丘陵地には、天神山古墳や金毘羅古墳など7基もの前方後円墳が集中しています。
このほかにも大小の円墳が数多くあり、遠賀川流域では指折りの古墳密集地帯であるといえます。
また、王塚古墳の近くを流れる穂波川やその支流に沿った低い丘の上から、横穴墓をはじめ多くの古墳が発見されています。 |
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123立体地図
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竹原・王塚・瀬戸・
石塚・綾塚・橘塚 |
王塚と五郎山古墳 |
五郎山と近隣古墳 |
石人山・岩戸山
鳥船塚・塚花塚 |
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124王塚古墳 6世紀前半、前方後円墳
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全国に数多くある装飾古墳の中で、燦然と輝く超一級の装飾古墳、それが王塚古墳です。
現在、装飾古墳の中で、国の特別史跡に指定されているのは、王塚古墳と奈良県の高松塚古墳・キトラ古墳の3つです。
王塚古墳の特徴は、石室内の前面に描かれた装飾文様にあります。文様の色として最多の5色が使われ、色彩豊かな豪華絢爛さを極めています。
また、石室内部は、石屋形や石枕・燈明台が設置され、前室と後室の境の上部には珍しい小窓があるなど、複雑で精巧な構造になっています。
王塚古墳は、現代と古代を結ぶ貴重な文化遺産であり、多くの謎を秘めた古代ロマンの宝庫です。 |
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130王塚古墳の歩み
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131発見~大平戦争 昭和9年(1934)発見
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132戦後から石室閉鎖
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133保存整備に至る経過
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134西村二馬 (遺古墳保存の功労者)
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135保存施設の役割
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保存施設は石室を密閉するためのものです。
石室を外気からさえぎり、カビの発生を防ぐほか、公開時にし石室に影響を与えないために、観察室・前室の温度を石室内の温度に合わせて調整しています。
※高松塚古墳
高松塚古墳の発見以前は、(それまで、古墳を発掘調査はするものの、保存などの話が持ち上がる前に、業者が夜間に重機で破壊していました。
資本家は警察と結びついており、機動隊を導入し、反対者にひどい暴行を加えてまで)破壊する方針で来た国の政策一変するものでした。
しかし、今度は、その“国宝”を外国要人や賓客、一級国民、超一級国民やその家族などには、平服を着たまま石室に入れて見せていたのです。
そこで一番心配されていたのが、壁画の劣化とカビでした。このことは当時のテレビ報道でも盛んに取り上げられ、問題視していました。
当然、そのような事態(カビと乾燥による剥落)が進行し、それでも相当ひどくなるまで平気で要人に見せていました。
とうとうどうにもならなくなったので、カビと剥落を国民に公表し、ただし、お偉い人には見せていた事実は隠蔽し、石室を破壊し、できもしない保存処理を始めました。
※北部九州の装飾古墳
60年ほど前の私が子供の頃、その頃は、民放でも「日本の謎」などの番組で各地の様々な話題を掘り起こしていました。(鬼ノ城、月山のミイラ等)
北部九州の装飾古墳の回では、「この地域にある多数の装飾古墳を、(60年も前に既に)それを模写復元する活動が報じられていました。
日本画家の老人が石室に入り、壁面に垂らした掛軸仕様の白紙に残存した模様を写し取り、同時に、もう一枚の掛軸に、僅かな壁画の残存模様を手懸りに、それらをつないで復元模写していました。(同時に模写と復元模写をしていたのです。)
北部九州では、このような文化財の保護・保存への努力が早くから始められていたことに驚いたことを覚えています。ただ、この時の模写は、どこへ行ったのか、もう一度、日の目を観る機会があればいいなと思います。 |
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石室
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前室 |
石室と前室 |
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観察室 |
機械室・前室 |
入口 |
石室と盆施設 |
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140装飾馬具 |
141古代の馬具
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この埴輪に取り付けた馬具は、王塚古墳の出土品から当時の姿を推定復元したものです。
このような馬の飾りは、当時の権力者がその権威を示すために造り、儀式などに使われたようです。
埴輪馬は、古代の馬とほぼ同じ大きさに復元しています。 |
馬具の各部名称
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轡 (くつわ) |
: |
銜(はみ)・引手(ひって)・鏡板(かがみいた) からなり、馬の口にかませ手綱たづなを付けて制御する |
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胸繋(むながい) |
: |
馬の胸から鞍の前輪(鞍の前の板)につなぎ、かけわたす紐 |
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面繋(おもがい) |
: |
馬の頭部につけ、轡を保持するための紐 |
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尻繋(しりがい) |
: |
馬の尻から鞍の後輪(しずわ・鞍の後の板)につなぎ鞍を固定する紐 |
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● |
鐙(あぶみ) |
: |
鞍の両脇に吊り下げて、乗者の足を入れる |
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障泥(あおり) |
: |
鞍の下方に垂らす泥除け |
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● |
雲珠(うす) |
: |
尻繋の交点を固定し、装飾的に発達した金具 |
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● |
辻金具(つじかなぐ) |
: |
面繋・尻繋などの交点を固定する金具 |
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● |
杏葉(ぎょうよう) |
: |
胸繋や尻繋からさげる扁平な装飾品 |
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● |
鞍(くら) |
: |
馬の背に載せて人が乗る座。 前輪と後輪を居木(いぎ)で繋いだ鞍橋(くらほね)の上に鞍敷(くらしき)をかける |
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古墳の馬具 |
古代の馬具 |
各部の名称 |
馬具の各部名称 |
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142装飾馬具
辻金具・面繋
轡(銜)・轡(鏡板)
胸繋 |
面繋・轡鏡板
おもがい・くつわかがみいた
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手綱 |
鞍金具(前輪・後輪) |
鐙、障泥
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鞍・辻金具・杏葉 |
鐙、障泥あぶみ・あおり |
鞍・辻金具・杏葉 |
雲珠うす |
雲珠・辻金具 |
剣菱形杏葉 |
尻繋しりがい |
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145銅製品 |
146馬具
雲珠
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辻金具 |
杏葉(剣菱形)
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杏葉(心葉形しんよう)
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147変形神獣鏡
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148王塚古墳の石室の姿
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150復元石室
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151装飾古墳の世界
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装飾古墳とは、遺体を納める石室や石棺に彫刻したり、顔料で絵画を描いた古墳の総称で、壁画古墳とも言われています。
造られた時代は、4世紀後半から7世紀前半までと幅がありますが、多くは6世紀に造られたものです。
古代の人々は、どの様な思いを込めて、彫刻や絵画を描いたのでしょうか。
初期の幾何学的な装飾文様は、死者を邪悪なものから守り、魂を鎮めるためのまじないであったようです。
6世紀には馬や船が描かれていますが、これは死者が死の世界へ旅立つときの乗り物を表現したものとが考えられています。
装飾文様の一つ一つに、死に対する恐れと死後の世界で安らぎを願った、古代の人達の祈りや思いが感じられます。 |
墳丘の構造
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王塚古墳の墳丘の一部を、樹脂で固めてから剥がした盛土の標本です。
土が締まりやすく頑丈にするために、性質が違う黄色と黒色の土を交互に丁寧に積み重ねています。
この工法から、大きな古墳を造ることは、当時、大変な仕事であったことが理解できます。 |
古墳の土層標本
(見えない) |
墳丘の構造
剥ぎ取り土層は、
墳頂部 |
墳丘の大きさと土層
標本の位置
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前方後円墳
全長86m
墳高9.6m
墳丘幅60m |
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※復元壁画をご覧いただく前に、『王塚装飾古墳館 |装飾と文様| 』をご覧ください |
153装飾石室 |
154墓道
復元石室入口 |
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天井石の円は太陽か |
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蕨手文・馬・双脚輪状文・乗馬す人も見える。 |
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考察 王塚古墳
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横穴式石室は、半島式のような薄い割り石を積み上げたものでなく、ヤマトのような全て巨石でもなく、小ぶりの自然石と大きな石を巧みに使って、しかも1500年たっても、下の方の石が潰れたり、崩れたりしない、石をよく知った職人の堅固な構造。 しかも蓋石には見事な割り石の天井石を載せている。素晴らしい職人技です。
横穴式石室内を装飾する文化は、横穴式石室の建造技術と共に伝わったと思われます。大陸では被葬者の生前の姿などが見事な『絵画』で描かれます。
しかし、列島では『描く』とは、『魔除け』と捉えられ、呪術的な文様が描かれました。そういえば、縄文・弥生を通じてbody paintingや刺青は破邪目的でした。
人物や風景を描いて「美しく飾る・装飾する」という行為は高等文化に属し、列島の古墳人には伝わらず、「描く」=「破邪」という、一段低い文化レベルでの受け取りとなったようです。 |
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列島の石室に描かれたものには伝統的な魔除け文様と思われる、円や螺旋、三角形、蕨のような文様などと、
邪への威嚇、対抗するための様々な武器・武具などや、
あるいは竹原古墳の馬のように描き手が見たこともない動物(馬)や、(また、王塚古墳の馬は首の太さからどう見ても『牛』のようです)
現代では説明のできない、呪術文など、およそ装飾するという意味をはき違えた装飾がなされています。
描画顔料も乏しかった古墳も多く、なかには(土壁や石の)壁面に線刻しか残っていないものもありました。
横穴式石室を築いた石工と、描画職人とは全く接点がなかったため、このような結果になったのではないだろうかとおもっています。
私が子供の頃見たTV番組では(以前にも書きましたが)、藤ノ木古墳やキトラ古墳に残るような描画装飾の古墳が北部九州にもありましたが、
そのすべてが現在ではなぜか残っておらず、60年前に壁画の保存と復元を手がけた絵図も、現在では非公開または、行方不明となっているようで、どこを探しても文献が出てきません。しかし、確かに60年前には、北部九州でも多数の古墳に人物画などが残っていました。ただ、高松塚古墳などのような切り石による密閉型の古墳でないためと、盗掘等による石室の開放が原因で、壁画の剥落が余りにも激しかったようです。 |
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155羨道
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馬3頭に騎手3人描かれている |
馬2頭に騎手2人 |
ピラミッドのように文字でなく、絵画で呪文を描き |
真っ暗な空に太陽か月を描いたのだろうか |
天井を支える梁石にも、蓋石にも何やら描かれている。真っ赤な天井だったらしい |
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穴太積みとは異なる不思議な石積で |
しかも土台石が膨大な荷重に1500年も耐えている。どうやって荷重を逃がしているんだろう。 |
玄室
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閉塞石をはずすと見えるあっと息を飲む玄室の荘厳さ。 |
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156玄室
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158屍床
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159Lookback
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170副葬品 |
171発見から現在までのあゆみ
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王塚古墳は、
昭和9年(1934)9月30日、土砂採取中に発見。その石室の大きさと美しい彩色壁画は、人々を驚かせ“世紀の大発見”と騒がれました。
昭和12年(1937)国の史跡指定を受け、昭和27年(1952)3月29日には国の特別史跡第1号に指定。
しかし、壁画に発生するカビや大雨による浸水のため壁画は傷む一方。更に石炭採掘の話が持ち上がるなど、その存続さえ脅かされました。
昭和23年(1948)に生じた石室のヒビは、調査の結果周辺の石炭採掘が原因と判断。
昭和41年(1966)には前室の天井石に亀裂を発見。翌42年から保存のために密閉。
昭和57年(1982)「王塚古墳保存整備調査委員会」が設置され、調査・研究の結果、昭和62年(1987)から6年間に渡り保存施設工事を実施。
平成2年(1990)秋、23年ぶりに公開されるようになりました。 |
王塚古墳の副葬品
馬具
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三葉文楕円形杏葉
剣菱形杏葉
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壺鐙
衝・引手・輪鐙 |
f字形鏡板付轡
上:蕨手文楕円形鏡板
下:十字文楕円形鏡板
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鞍金具
(上:前輪、下:後輪)
雲珠・辻金具
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172須恵器
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坏身と蓋
赤く焼かれている
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堤瓶・高坏
直口壺(赤焼き) |
台付壺 |
坏と蓋 |
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173鏡・装飾品
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変形神獣鏡 |
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土製丸玉 |
金の耳環、銀の鈴 |
埋木製切子玉(うもれぎ)
琥珀製なつめ玉
ガラス製管玉 |
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174武具・武器
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大刀 |
刀子・鉾(ほこ)・鉄鏃 |
挂甲の小札
けいこうのこざね
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175副葬品について
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王塚古墳からは、鏡、装身具、武器、武具馬具、などの豊富な副葬品が出土しています。
中でも、五角形の飾りが付いた杏葉という馬具や石炭で作られた切子玉などは大変珍しいものです。
また、鏡には、これを包んでいたと思われる麻布が付着しており、貴重な資料になっています。
石室を発見した人の話では、4つの坏が石室の前室に並べてあったそうです。そして、墳丘からは台付壺、高坏などが出土しています。 |
馬具
上に記述 |
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轡鏡板 |
轡鏡板 |
轡鏡板
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轡
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鞍金具
下:前輪、上:後輪
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壺鐙 |
輪鐙
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180装飾古墳の模様
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日本の装飾古墳の文様は、大きく分けると、抽象的な幾何学文様と器物や道具類を表した形象的文様があります。
しかし、大陸で一般的に描かれているだけで肖像画などは見られません。
手法は、彫刻(浮き彫り、線刻)と彩色があります。
【幾何学的文様】
幾何学的文様には直弧文、鍵手文、蕨手文、三角文、円文、格子目文、放射線文、はしご形文などがあります。
これらは単独で画題を構成することはなく、複数の図形を組み合わせたり、連続・重複、また派生して連続三角文や同心円・菱形文を作り出しています。幾何学的文様は、装飾古墳の発生(4世紀後半)と同時に出現しています。 |
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直弧文
「日輪寺古墳」福岡
「千足古墳」岡山
「浦山古墳」福岡
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直弧文
「井寺古墳」熊本
双脚輪状文
「王塚古墳」福岡
「塚花塚古墳」福岡
三角文と菱形文
「チブサン古墳」熊本 |
渦巻文
「清戸迫76号横穴墓」
福島県
同心円文
「千金甲1号墳」熊本
「長迫古墳」熊本
蕨手文
「王塚古墳」福岡
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同心円と三角文
「チブサン古墳」熊本
「五郎山古墳」福岡
「日岡古墳」福岡
連続三角文
「王塚古墳」福岡
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装飾古墳の模様
上に記述 |
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182彩色壁画の顔料(絵具) |
183
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一般に装飾文様に使用されている色は、赤・黄・白・黒・緑・青の6食までが確認されています。
顔料の分析された例が少なく、わずかに王塚古墳やチブサン古墳(熊本県山鹿市)の例で原料に知られているだけですが、
他の古墳も大差はないと考えられます。
高松塚古墳の顔料については、9色が確認されています。顔料については法隆寺金堂の壁画と類似していることから、仏教の伝来と
共に中国・朝鮮半島を経由して入って来たものと考えられています。
絵を描いた絵筆についてもよくわかっていませんが、おそらくハケ状のものを使用したのでしょう。 |
※考察 顔料の入手
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古墳時代末期とはいえ、半島航路を航行する船は、準構造船で、一度の航海による運搬量も少なく、その中で、高価な顔料を入手できるということは、大変大きなな経済力を持った豪族だったのだと思います。
博多湾から遠く離れた山の中で、朝鮮半島と交易して莫大な冨を築けるような生産物の何があったのだろうかといぶかります。博多の倭人と交易して入手できるなら、王塚古墳以外にも沢山の古墳に一般的に使われているはずで、なぜ、王塚古墳が豊富に入手できたのかは不思議です。。 |
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彩色壁画の絵の具
上に記述 |
描画想像図 |
王塚古墳前室 |
高松塚古墳西壁
女性群像 |
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184古代の絵具
接着剤
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顔料がはがれるのを防ぐ接着剤については、高松塚古墳ではニカワが使用れているようですが、他の古墳については顔料の採集ができていないので、まだよくわかっていません。
現在考えられるものとして、ウルシ・ニカワ・エゴマなどがあります。 |
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接着剤
上に記述 |
エゴマ・ニカワ・ウルシ
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彩色サンプル
顔料:弁柄
エゴマ・ニカワ・ウルシ
※エゴマに接着効果は発見できなかった。
鉱物顔料の溶媒(溶けない)として、粘度を利用して油中に浮遊させ、刷毛にからめて岩に塗るのではないか。 |
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185古代の顔料
王塚古墳の顔料
古代の顔料 |
九州の装飾古墳 |
各模様に使用した
が顔料と原料 |
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古墳別の色の種類表 |
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186高松塚古墳の顔料
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190撮影禁止区域
撮影禁止区域も見物してきました。が、、、な~~んにも覚えていません。無理です。記憶障害!!
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王塚古墳館 企画展
「コノマ遺跡群の発掘調査展」 4世紀末~7世紀中頃 (古墳中期初頭から飛鳥時代初頭)
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300コノマ遺跡群の発掘調査展 福岡県嘉穂郡桂川町土師 |
【 驚き➀コノマ遺跡群 4世紀末~7世紀中頃 】 筑豊地域初
301円墳・横穴墓・登り窯
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コノマ遺跡群は標高約37m~49mの砂岩質でできた南北に細長く伸びる丘に造られていました。
この遺跡群では、古墳時代のお墓である円墳や横穴墓と、須恵器を焼いた登り窯を発見しました。
その他、土壙墓(素掘りの墓穴)が円墳の近くに2基(出土品なし)ありました。
コノマ遺跡群の特徴は円墳、横穴墓、登り窯の3つが、同じ場所にあったことです。これは大変珍しく、筑豊地域では初めての発見でした。
更に、初めての発見が連続しました。 |
企画展ポスター
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ごあいさつ |
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円墳・横穴墓・登り窯 |
👆上に記述 |
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円墳1基(4c末-5c初)
土壙墓2基
横穴墓11基(7c前半)
登り窯1基(6c末) |
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302コノマ遺跡群
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303
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遺跡分布状況 |
円墳と土坑
土壙墓は追葬か殉死 |
横穴墓
飛鳥・奈良時代か |
よこあなぽ
はなれたばしょに
なぜつくる
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【驚き②円墳 4世紀末~5世紀初頭】 桂川町初
305粘土で包んだ棺と朱!(粘土槨 古墳時代初期)
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円墳葉直径約20mの大きさで、周囲を一望できる場所に造られていました。
円墳の頂には長さ約3.2m、幅1.0mの長方形の墓壙がありましたが、棺は既になく、それを包んだ灰白色の粘土(粘土槨)が残っていました。
詳しく調べると、本来の棺は木を竹のように割り、幹をくりぬいた長さ約2.6m、幅0.6mの割竹形木棺とわかりました。
さらに床には朱とベンガラの二種類の赤色がまかれ、全長約20cmの鉄剣(副葬品)が1点見つかりました。
割竹形木棺や朱を使用した古墳は、桂川町で初めての発見です。
造られた時期は、鉄剣の置き方(配置)から4世紀末~5世紀初頭と考えられます。
円墳の規模や副葬品の数から被葬者は小首長クラスの人であったと想定されます。 |
粘土で包んだ棺と朱! |
粘土で包んだ棺と朱!
上に記述 |
円墳 |
墓壙
棺を包んだ粘土が残っていた |
粘土で包んだ棺の様子
頭部付近に鉄剣と朱の散布 |
割竹形木棺の内側はベンガラと、頭付近に朱がまかれていた。 |
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306頭部に置かれた鉄剣
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【驚き③1号横穴墓墓道 6世紀後半】 桂川町初
307はにわゴロゴロ
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1-➀号と1-②号横穴墓の墓道からは、埴輪の破片が沢山見つかりました。破片を繋ぐと、円筒埴輪のほか、形象埴輪らしきものもありました。
そもそも埴輪は、前方後円墳や円墳の周りに飾るもので、発見した時は円墳の埴輪が横穴墓の墓道に転落したものと思っていました。
しかし、円筒埴輪のデザインが円墳の造られた4世紀後半より新しい6世紀後半と判明し、横穴墓で使用した埴輪だとわかりました。
埴輪が使われていた横穴墓は、桂川町で初めての発見です。 |
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はにわゴロゴロ |
埴輪の破片が沢山見つかった墓道
1-➀、1-②号横穴墓 |
はにわゴロゴロ
上に記述 |
埴輪がゴロゴロありました。
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「ザ☆埴輪」は円筒系
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皆さんは、埴輪と聞いたら人や動物、家を想像するかもしれませんが、土管のような見た目をした円筒系の埴輪こそ「ザ★埴輪」なのです。
埴輪のルーツは、お墓にお供えする壺とそれを載せた台で、弥生時代後半にはありました。
その後、古墳時代に壺と台を合体させた朝顔形埴輪や、台のみを大型化させた円筒埴輪に変化しました。これが埴輪の始まりです。
朝顔形埴輪や円筒埴輪は、古墳時代前期から後期にかけて使用されますが、人や動物、建物などの物をかたどった形象埴輪は中期と遅れて現れました。
コノマ遺跡群の横穴墓で見つかった埴輪は、ほとんどが「ザ★埴輪(円筒形)」です。 |
「ザ☆埴輪」は円筒系 |
埴輪ゴロゴロ横穴墓 |
「ザ☆埴輪」は円筒系
上に記述 |
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308横穴墓の円筒埴輪 コノマ遺跡群1号横穴墓
横穴墓の円筒埴輪 |
円筒埴輪
1号横穴墓 6c
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円筒埴輪
1号横穴墓 6c |
円筒埴輪
1号横穴墓 6c |
円筒埴輪
1号横穴墓 6c
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円筒埴輪
1号横穴墓 6c |
円筒埴輪
1号横穴墓 6c |
円筒埴輪
1号横穴墓 6c |
形象埴輪
1号横穴墓 6c
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320コノマの横穴墓 |
321横穴墓
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横穴墓は、丘の斜面を横方向に掘って造られたお墓で、墓室(遺体を納める部屋)と墓道(墓室に通じる道)からなります。
コノマ遺跡群の横穴墓は、墓室が家の形をしたものやドーム型をしたものなど様々あります
。また、1つの墓道を2つの墓室が共有するものもあります。
墓室では、耳飾りをはじめとするアクセサリー、馬具や武器などの鉄製品が発見されました。
墓道では、お祀りに使われたのでしょうか、土師器や須恵器の焼き物が見つかっています。
横穴墓は、6世紀後半に1-➀号が造られて以降、6世紀末から7世紀にかけて増加しますが、7世紀中頃には造られなくなります。 |
コノマの横穴墓 |
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上に記述 |
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屍床(1-➀号) |
大きな横穴墓
1-➀号 |
小さな横穴墓
3号横穴墓 |
敷石 3号横穴墓
棺の台か |
閉塞石 5号横穴墓 |
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【驚き④ 5号横穴墓 7世紀前半】 筑豊地域初
322チーッタ遠かったのゃ(筑紫弁)
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横穴墓から見つかった焼き物の中で、5号横穴墓の墓道からは、高さは低いものの大型で分厚い土師器の高坏が見つかりました。
他の横穴墓で見つかる小型で薄いものとは大きく異なります。
この土師器は、現在の八女市周辺で多く見られるもので、筑豊地域では初めての発見です。
このことから、5号横穴墓に埋葬された人物は、桂川町からちょっと遠い(チーッタ遠かったのゃ)現在の八女市周辺と交流していたのでしょう。 |
須恵器は焼き物の革新!
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須恵器は、ロクロを回転させながら形を作り、斜面を利用した登り窯に入れて高温で焼き上げるため、黒や灰色をした硬い焼き物になります。
技術は5世紀前半に朝鮮半島から伝わりました。縄文土器や弥生土器とはまったく異なった技術で造られた革新的な焼き物です。 |
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大型土師器高坏
5号横穴墓
参考:土師器高坏
コノマ1号横穴墓
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チーッタ遠かったのゃ
上に記述 |
須恵器
コノマ7号横穴墓
ハソウ、坏蓋
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須恵器は焼き物の革新!
上に記述 |
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325横穴墓副葬品
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勾玉・管玉・ガラス玉
コノマ1-➀号 |
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耳環
コノマ8号 |
耳環
コノマ1-➀号 |
耳環
コノマ4-➀号 |
須恵器
1号横穴墓
高坏、坏身
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須恵器 堤瓶
1号横穴墓
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330 |
331古代桂川のイケオジ
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1-➀号横穴墓の墓室からは、熟年男性の人骨を発見しました。近くにはウサギの骨があり、お供え物と思われます。
また、水晶やガラス製の勾玉や耳飾り、大量の小玉などのアクセサリーのほか、ヤジリや馬具が見つかっています。
横穴墓なのに埴輪を飾ることや大量のアクセサリーがあることから古墳時代のイケてるオジさん(イケオジ)だったのかもしれません。 |
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古代桂川のイケオジ |
1-➀号横穴墓
熟年男性想像図
165cm 古墳時代男性平均身長 |
上に記述 |
頭蓋骨、下顎骨 |
発見当時の人骨 |
コノマ遺跡群イラスト
立石直進 |
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333横穴墓の使用時期
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横穴墓の使用時期 |
横穴墓の斜め上からの断面図(名称図) |
横穴墓の横からの断面図 |
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335
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1-➀号横穴墓 |
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337
3号横穴墓 |
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【驚き⑤ 7号横穴墓 6世紀後半~末頃】 九州初
340 |
341ナゾめいた「土製品」
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7号横穴墓の墓道からは、多くの土師器や須恵器の焼き物に混ざって、扇(おうぎ)形をした土製品が見つかりました。
この土製品は6世紀後半~末頃のものですが、形や作り方がとてもシンプルで、使用方法が誰もわからない謎めいた土製品でした。
ところが、約40年前(1982年)八王子横穴墓群から発見された須恵器の甕の底に、なんと扇形土製品がくっ付いているのを見つけました。
その状態から、この土製品は須恵器を焼くときに、登り窯の急斜面な床に差し込み、甕が転がらないよう固定する道具とわかりました。
この扇形土製品に似た物は、広島県三次市の矢谷遺跡にあった須恵器窯跡とその関連施設にあることがわかりましたが、
九州では、桂川町以外まだ見つかっていません。この土製品を使うグループと使わないグループが存在したものと考えられます。
謎めいた「土製品」であったため、今まで 見落とされていましたが、今後の調査と研究が進めばもっとナゾが解明されるかもしれません。 |
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ナゾめいた「土製品」
上に記述 |
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扇型土製品 |
扇型窯道具が溶着した甕
八王子横穴墓群 |
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343扇形土製品 コノマ遺跡群7号横穴墓墓道
※焼き物の安定を図るため、土器の底に敷く、底詰め石。
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345扇形土製品
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※おうぎがた土製品は、登り窯の中に置いた甕が転がらないよう固定し、甕の底と床の間に差し込んで使用しました。
(イラストは変です。アナ窯の中がこんな斜面のはずがないでしょう。) |
眠っていた人は・・・
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扇の形をした土製品は、須恵器の鎌を焼くときに使うものと判明しましたが、実際に見つかった場所は7号横穴墓です。
お墓には埋葬者が生きているうちに愛用していた物のほか、身分や職業を示すものを入れることがあります。
そのため、この横穴墓に眠っている人は、須恵器作りに関わった人物と考えられます。 |
ぐちゃぐにゃな甕
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扇形土製品の正体を掴むきっかけとなったのは、ぐにゃぐにゃに変形した須恵器の甕です。焼いている時の温度が高過ぎたため、形が変形し、扇型土製品でも転がることを止めきれず、、須恵器の破片や、石が付いてしまった失敗作品です。
更に底には転がることを留めきれなかった扇型土製品がくっ付いていました。発見した時には思わず「やった!」と行ってしまいました。 |
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350 【驚き⑥ 登り窯 6世紀末】 桂川町 筑豊地域初 |
351初回で壊れた登り窯
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コノマ遺跡群のほぼ中央には、横穴墓と並んで6世紀末に使用された全長約13mもある登り窯が見つかりました。
登り窯は、丘の斜面をトンネル状に掘り抜いたもので、下で薪を燃やし、上が煙突、その中間のトンネル内に、須恵器を並べて焼きます。
登り窯は通常、複数回にわたって使用しますが、コノマの登り窯は、床の状態や修理した跡がないことから、初めての使用中に壊れたものだと分かりました。また、窯の中には焼き上がっていない須恵器の坏蓋が35セットと甕2点が並べた当時に近い状態で発見されました。
その他さらに多くの物も焼いていたようで、須恵器の破片が大量に見つかりました。
この登り窯が壊れた原因は、地質が固い砂岩質から柔らかい粘土質へと変化する場所に造られていたためです。
横穴墓が使用されている最中に登り窯が造られていることから、横穴墓にお供えする須恵器を作っていたのかもしれません。
登り窯は、桂川町で初めて見つかり、更に初回で壊れた物は筑豊地域で初めての発見です。 |
コノマの登り窯
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コノマ遺跡群の登り窯は、窯の中心に沿って6個の甕を一列に並べ、その周りや隙間に蓋坏や高坏を置いて須恵器を作ろうとしたようです。
しかし、登り窯は初回で壊れてしまい、完成品の須恵器はできませんでした。
この登り窯で甕を置くときには、床を少し掘って石や蓋坏で固定しており、扇形土製品は使用されていません。 |
※詰めの甘い論証。大切なことを忘れている。なぜ、横穴墓から扇形製品が見つかったのか。初焼きの登り窯の中になぜ扇形と製品が無かったのか。
横穴墓の中で何に使われていたのかがない。
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コノマの登り窯
上に記述 |
初回で壊れた登り窯
上に記述 |
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353
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須恵器 甕 |
須恵器 蓋坏
コノマ遺跡群登り窯
(生焼けの土製品)
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356
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須恵器高坏
登り窯内 |
須恵器 高坏の蓋
登り窯内 生焼け
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360コノマのベンガラ |
361コノマのベンガラ
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コノマ遺跡群では、円墳と7号横穴墓からベンガラが見つかりました。ベンガラとは、鉄が酸化したもので、やや暗い赤色をするのが特徴です。
円墳のベンガラは、硫化水銀の鉱物でできた朱と共に棺の床にまかれていました。
7号横穴墓のベンガラは、墓道から見つかった須恵器の坏の中に詰められていました。 |
コノマのベンガラ
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コノマのベンガラ
上に記述 |
棺内の朱と弁柄の状況
(円墳)
赤点が朱、桃色が弁柄
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発見時の朱と弁柄
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発見時の弁柄入り坏
7号墓道
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弁柄入り坏蓋と
弁柄入り坏
両方7号横穴墓出
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363ベンガラ
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円墳と7号横穴墓の、どちらの弁柄も、蛍光X線や電子顕微鏡を使って調査した結果、成分は同じ鉄でしたが、材料は異なっており、
円墳のものは鉱物で、7号横穴墓の物はバクテリアであることが分かりました。 |
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鉱物でできた弁柄は、褐鉄鉱が使用されたと考えられます。コノマ遺跡群では、褐鉄鉱が採取できたため、円墳の辺ながら葉コノマ遺跡群で採れる褐鉄鉱を使用した可能性があります。 |
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バクテリアでできた弁柄は、鉄細菌(Leptothrixレプトスリック)からできたもので、その形状が筒状になっていることから、パイプ状弁柄と呼ばれます。
鉄細菌は「赤水」と呼ばれる川や用水路に溜まった赤茶色のヘドロの中に沈んでおり、7号横穴墓の弁柄も地元のヘドロを使用した可能性があります。
弁柄は年代によって異なる材料を使うことが分かりました。 |
ベンガラ
上に記述 |
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拡大写真
バクテリア弁柄と
鉱物弁柄
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電子顕微鏡写真
バクテリア弁柄と
鉱物弁柄
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鉱物弁柄 |
露出した褐鉄鉱
コノマ遺跡群
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生物生成弁柄 |
桂川の赤水
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ベンガラの弁柄は当て字。
本来は「ベンガル湾から来たもの」で、
有田産焼き物を「有田」と略すのと同様、ベンガルからで、ベンガラ?はどうか知らないけれど、ベンガル産赤色顔料を指す言葉。 |
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365鉱物由来とバクテリア由来の弁柄の比較
弁柄を作ってみた
弁柄の比較
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弁柄入り須恵器
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弁柄を作ってみた
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バクテリア弁柄 |
鉱物弁柄
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赤水とバクテリア弁柄
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褐鉄鉱と鉱物弁柄
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褐鉄鉱弁柄
実験製作
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バクテリア弁柄
実験製作
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370コノマ遺跡群と桂川町の古墳時代 |
371年表
コノマ遺跡群
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コノマ遺跡群が位置する丘は、円墳や横穴墓、更に登り窯を発見したことで古墳時代にはお墓を造りつつ、焼き物も作ろうとした場所と分かりました。 |
コノマの円墳とその時代
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最初に造られたのは円墳で、4世紀末~5世紀初め頃と考えられ、埋葬者は小首長クラスの人物が想定されます。
この円墳が作られる以前には、全長81mの前方後円墳である金毘羅山古墳が3世紀末頃に造られており、桂川町では
古墳時代の始めには既に“”大型前方後円墳を造れるほどの政治的・経済的な基盤がありました。※
その後も、4世紀後半には推定約37mの宮ノ上古墳が、5世紀前半には推定約35mの大平古墳の前方後円墳が続けて造られています。
そのため、コノマ遺跡群の円墳の埋葬者は、宮ノ上古墳や大平古墳のような前方後円墳に埋葬されるような首長に仕えていたのかもしれません。
※ここ“”には、“ヤマト政権と強く結びついた”と、入れるべきではないか。 |
コノマの空白期間
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円墳が造られたのち、コノマ遺跡群は約150年間何も造られませんでした。
その間、桂川町では大型円墳である茶臼山古墳(詳細不明)が5世紀中頃に造られています。
その後は6世紀前半~中頃に遠賀川流域最大の前方後円墳で装飾古墳の王塚古墳(全長86m)や
6世紀中頃には前方後円墳である天神山古墳(全長68m)が造られ、桂川町とその周囲を治めていた首長の系譜は連綿と続いていました。
また、同時期に中屋古墳群で、小型の円墳が造られるようになりました。
なお、コノマ遺跡群の空白期間中には、「日本書紀」によると北部九州の首長連合のトップである筑紫君磐井が527年に反乱を起し、
その乱を鎮圧した後の535年にヤマト政権の政治的・軍事的拠点である、屯倉(みやけ※)を穂波に設置(穂波屯倉)したとの記述があります。
桂川町とその周辺における、ヤマト政権の支配力が強化されて行きますが、一方で、屯倉を設置しなければならないほど当地域は、重要な場所だったと考えられます。
※屯倉=倉庫、直轄地といった説明しかないが、
屯倉は、政治的・軍事的拠点であり、この地域を監視する駐屯地であり、役所であってヤマト政権が軍事的支配や圧力を高めるための施設である。
穂波屯倉が設置された532年以前に、528年継体天皇が528年に糟屋屯倉、
535年に安閑天皇が筑紫国に筑紫国に穗波屯倉・鎌屯倉の各屯倉、豊国に滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉など20個あまりの屯倉設置したと『日本書紀』にある。
従って、屯倉とは、ヤマト政権の兵と役人が駐屯し倉には、武器と兵糧とが入っていただろう。 |
コノマ遺跡群 コノマの円墳とその時代
上に記述 |
コノマの空白期間
上に記述 |
桂川町の古墳
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コノマの横穴墓、登り窯とその時代 6世紀末~7世紀初頭
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コノマ遺跡群では円墳が造られたのち、約150年間の空白期間を経て、6世紀後半から横穴墓が作られるようになります。
更に、6世紀末~7世紀初頭にかけて横穴墓の数は増加していきます。
埋葬された人々はあまり階層が高くないと思われますが、埴輪や扇形土製品、大型土師器高坏が見つかったことで、埴輪作り、須恵器作りに関わっていた人物達や遠隔地との交流があった人物が眠っていたと思われます。
同じ時期の桂川町では横穴墓をはじめ円墳も多く造られるようになり、古墳の数がピークに達します。
また、コノマ遺跡群では、6世紀末頃の須恵器を焼いた登り窯が発見されましたが、この時期は古墳が多く造られていることから、共献用須恵器を焼いていたのかもしれません。
コノマ遺跡群では7世紀中頃には横穴墓を造らなくなりました。この時期には646年に大化の改新があり、薄葬令が出されたので、全国で古墳を作ることが制限されていきました。そのため、コノマ遺跡群でも横穴墓を作ることを止めたのかもしれません。 |
コノマの横穴墓、
登り窯とその時代 |
王塚古墳より
コノマ遺跡群と
天神山古墳を望む |
桂川町の首長墓位置図
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373コノマ遺跡群の現在
コノマ遺跡群の現在 |
平成30年発掘調査 |
令和2年遺跡消滅 |
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コノマ遺跡群の現在 |
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