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 新潟の縄文 №15 2020.09.30-2

阿賀町郷土資料館 新潟県東蒲原郡阿賀町両郷甲2200
0254-95-2253月・火休館 撮影可

交通 レンタカー
特徴 縄文草創期の設定に寄与した小瀬ヶ沢洞窟遺跡資料
 
 目次

01外観
100原始展示室
101年表

110旧石器時代
112阿賀町の旧石器時代遺跡

※考察 旧石器時代の石器ブロック
120石器製作の工程
122クロマニヨン人の石器製作

130縄文時代
132縄文文化の幕開け
133室谷洞窟(草創期)
134大谷原遺跡(早期)
141小瀬ヶ沢洞窟
144大谷原遺跡出土資料(早期)
160縄文前期の大災害
   ―沼沢火山の噴火
163沼沢火山噴火頃の土器
164巨大な製粉用石皿
165災害から回復した頃の土器

200縄文文化の繁栄➀生業
201列島の環境
202調理具
203狩猟・漁撈具

220縄文文化の繁栄②環境と技術
221縄文人の暮らしと環境
25石匙 携帯ナイフ
226石錐
227石製の様々な利器
228磨製石斧


240縄文文化の繁栄②
    環境と技術
241石器石材と産地
243掘削用の打製石斧
246鏃と石斧
247アスファルトの利用
248地域間交流を示す土器
248a中部高地系
248b関東東部系土器
248c東北南部系土器
248d越後系土
248e東北北部系土器

250縄文文化の繁栄③
    人と社会、送りと祭り

251土偶と石棒
271縄文時代の墓と人々の送り
275土製品 獣面・足形土器
281埋められた土器
283三角形の造形品
285まじないの石製品
287大珠と耳環

300弥生時代
310稲作文化の足音と縄文伝統
311稲作の波及と弥生文化の始まり
312土器
313下西ノ沢遺跡
315原遺跡
317大屋敷遺跡
323人ヶ谷岩陰遺跡

400第2室 縄文土器の世界
410縄文土器の誕生
 草創期・早期・前期
420躍動する造形 中期
422関東系土器 五領ヶ台式
23北陸鶏土器 新保式
431北陸系土器 新崎式
432中期土器分布圏
433東蒲原郡の土器 大木7b式
441関東東部系土器 阿玉台式
442東蒲原郡の土器 大木8a~8b式
451大木式の浅鉢
452東蒲原郡の土器 大木7b式
461東蒲原郡の土器 大木9-10式

470縄と余白の対称 後期
471加曽利式土器
472大木10

480縄文土器工芸の美 晩期
483大洞式BC式
490様々な土器
491注ぎ口を付けた土器
492様々な土器形式
494機能化した器 形と用途

510原遺跡
513複式炉
520黒い土器・赤い土器
546原遺跡の土器変遷

600歴史展示室
601Ⅰキリシタン関連資料
610Ⅱ古代の越後 陸奥と東蒲原

620古墳時代の遺跡
621上鉄砲町遺跡の出土遺物
625越後国の地方支配

630Ⅲ中世武士の活躍
632小田切氏の動向
633統治と戦の拠点、津川城

640近世大名の支配
650江戸時代の生活用具
660墨書建築部材
670会津街道と石畳の道

680Ⅵ戊辰戦争
 
 はじめに
 阿賀野市は新潟県の平野部にありますが、阿賀町は北に飯豊山地、東から南は越後山脈、西に魚沼丘陵に囲まれ、中心部は盆地状の氾濫原ですが大部分は急峻で雪深い山岳地帯です。

 東に山を越すと福島県柳津町です。訪問前の全国newsではクマの出没や、遭遇被害の映像が盛んに流れていました。
町の中心部を、福島県南部の山岳地帯から流れ下る大河阿賀野川が貫流しています。この大河は、東北地方が隆起する最初から流れており、魚沼丘陵や、越後山脈と飯豊山地をぶった切って流れています。 
 しかし、その意味では河川を通じた交通の要衝であり、サケの遡上があり、旧石器・縄文の時代から人の往来の激しい所です。
また、阿賀野川の川筋ではなく、すぐそばの、山頂を通る旧石器時代からの「八十里越え」は、以前取り上げましたが、縄文中期の福島・山形と越後長岡方面を結ぶ道として、火焔土器の成立と伝播に重要な役割を果たしました。

 この日、午前中は朝日村に行き、午後は阿賀町に行きました。何百キロと言う走行でした。(笑)

お借りしました
 
 
 01外観
阿賀町郷土資料館
旧川上中学校
 

 100原始展示室
 101年表
後期旧石器時代~
縄文早期
縄文前期~後期 縄文晩期~弥生前期 弥生前期~後期
 


 110旧石器時代

日本列島に人類(ホモ・サピエンス)が登場したのがおよそ4万年程前。彼らはナウマンゾウ、オオツノシカ、マンモスなど、今では絶滅した中・大型の哺乳類を追い、列島に足を踏み入れました。規格的に製作されたヤリを手に遊動生活を送り、狩猟を生業としたこの時代が旧石器時代です。
※「規格的に製作されたヤリ」の意味は不明。
 111
旧石器時代
旧石器時代-人類の拡散と東アジアへの到来
ホモ・サピエンスの拡散ルート 最終氷期の植生
最終氷期の代表的な哺乳類
※ナウマンゾウの絶滅時期は意外と早い。
2.3万~2.8万万年前頃
それ以外にも諸説あり

 112阿賀町の旧石器時代遺跡上ノ平遺跡吉ヶ沢遺跡 約23000年前
上ノ平遺跡吉ヶ沢遺跡磐越自動車道阿賀野川サービスエリア建設工事に先立ち、県埋文により発掘調査されました。
両遺跡は阿賀野川左岸の高位段丘上(西山Ⅱ面)に沢を隔てて立地しています。遺跡からは旧石器時代の石器のまとまり(ブロック)が発見されました。
上ノ平遺跡ではA地点で5ヶ所、C地点で7ヶ所、吉ヶ沢遺跡ではB地点で4ヶ所、それぞれ検出されています。
上ノ平遺跡では石器の完成品が多く、それらは他所から持ち込まれたと考えられます。

一方、吉ヶ沢遺跡では完成品に加えて石器の素材となる石刃も多く出土しているので、遺跡内で集中的に石器の製作が行われたと考えられます。
※吉ヶ沢遺跡は石器製作のムラだった。

上ノ平遺跡と吉ヶ沢遺跡 上ノ平遺跡と吉ヶ沢遺跡の遠望 遺跡配置図 吉ヶ沢遺跡B地点
石器出土状況
(ブロック3)
上ノ平遺跡C地点
石器出土状況
(ブロック7a)
阿賀町の旧石器時代遺跡ー上ノ平遺跡と吉ヶ沢遺跡
上に記述



※考察 旧石器時代の石器ブロック(石器製作区)
 旧石器時代のキャンプ跡地として石器ブロックが残っています。石器ブロックは円形に石器の破片が飛び散った石器製作の跡です。
この作業テントはかなり密閉性が高く、石器の剥片は、壁にあたって跳ね返って来たように奇麗な円形になっている。するとテントは、ただの木の枝をへし折って作った簡素なものではなく、毛皮や樹皮などで周囲を囲ったように思える。
 それに膨大な石屑の量。ここから、狩の途中のキャンプではなく、かなり頑丈な住居と、長い時間そこで過ごした結果だと考えられる。
また、この石器ブロックは一つではなく、何かを中心に環状に配置されていたりする。

 するとこれは旧石器時代の環状のムラ跡だろうとなるのだが、危険なガラスの破片をまき散らした場所で、平気で生活できるわけはない。
石器の剥片は危険だから、周囲に飛び散らないようにわざわざ円形に囲った中で作業をしているのだと思う。
 現代のようにゴミをゴミ箱に捨てるなどの生活習慣は、近代以降の都市生活から始まったもので、それまではゴミは辺りに散らかして終わりだった。
野球場も遊園地も、列車の中もゴミだらけだった。縄文の竪穴住居の中では隅っこには食べた後の動物骨が投げ捨てられていた。どうしようもないものだけを捨て場に持っていた。

 私は石器ブロックは生活の場ではなく、ただの石器製作小屋であり、石屑の量から、かなりの長期間にわたって作業をしたと思っている。
それは、狩猟期間前から始まり、狩猟期間中にも、狩りをして壊れた槍を直してまた、狩りへと、、少なくともそんな時期に設置した作業小屋ではないだろうか。そして、同じ狩猟基地を繰り返し使ったために、毎年少しずつずらしたのか、集団で狩りをしたため、同じ場所でそれぞれが別々に石器テントを立てて作業した、ために環状になったのかもしれない。
 起居する生活の場は別の場所にあったに違いない。靴のない時代には足をケガすることは大変なことだっただろう。以前、アフリカの子供たちに使用済みの靴を送る運動をCMしていた。足をケガして化膿して、大変な足を映していた。だから、危険な石刃の上では暮らさなかっただろう。 
 
 

 120石器製作の工程
 以下の展示は意味が分かりにくいですが、➀クロマニョン人(フランスクロマニョン洞窟の旧石器人)の石刃石器の製作工程図(海部陽介「人類がたどって来た道」NHKブックス)に沿って、前述の上ノ平遺跡と吉ヶ沢遺跡の石器製作の行程が似ていることから、
クロマニョン式工程図に従って、石器製作出土物を並べて解説されています。
 
 
 121
 

 122クロマニヨン人(ヨーロッパ上部旧石器人)達の主な道具とその作り方

行程Ⅰ
石刃石核から
石刃を剥がす
行程Ⅱ

石刃を加工して様々な道具に仕上げる
彫器と錐器の利用
鹿角に溝を彫り、打ち割って細長の材料とする 鹿角の硬くてしなやかな性質を活かして道具を作る


  石器製作工程の実際

 石器製作工程Ⅰ

この写真を拡大してます

    上ノ平遺跡C地点
出土石器 後期旧石器時代
(2.2万年前)熊渡陸
石刃
石刃はよその物を利用
 
         
 吉ヶ沢遺跡B地点
出土石器
後期旧石器時代
(2.2万年前)熊渡区
 石刃は自所で製作  
石器か石刃で搬出
<行程Ⅰ>
一つの石核から石刃(石器素材の剥片)を多量にうち剥がす
 
接合資料
他の剥片と接合した
彫刻刀形石器

参考資料
猿額遺跡出土石器
 

 124 工程Ⅱ 石刃に細部加工を加えて様々な石器に仕上げる
行程Ⅱ
全体図
行程Ⅱ(上野平遺跡)
この写真を拡大してます
       
  上ノ平遺跡C地点の
石器製作
ナイフ形石器(ヤリ先) 彫刻刀形石器と
製作時のゴミ剥片
  彫刻刀形石器
骨・木に溝を彫る削る
    行程Ⅱ
石刃に細部加工を加えて様々な石器に仕上げる
 
       
  行程Ⅱ(吉ヶ沢遺跡)
この写真を拡大してます
   
吉ヶ沢遺跡の石器製作 ナイフ形石器(ヤリ先) スクレイパー
(皮なめし、掻き取る)
 
  彫刻刀形石器
(骨・木に溝を彫る、削る)
 
 


 130縄文時代

氷河期の終り頃、土器の製作が始まり、弓矢が狩猟の道具に登場しました。そして気候が温暖化に向かうと、森林が国土を覆い、日本列島独自の文化を育む基盤が整いました。植物質食料の採集を中心に、狩猟や漁労を巧みに組み合わせて定住生活を送ったこの時代が縄文時代です。

 131
縄文時代

上に記述
墓に埋められた浅鉢
縄文中期4500年前
五十島遺跡
墓に埋められた浅鉢
 

 132縄文文化の幕開け―洞窟の利用から定住へ

 小瀬ヶ沢洞窟(草創期)
昭和33・34年に長岡市立科学博物館により発掘調査が行われ、草創期の土器や様々な狩猟用の石器 (各種のヤリを主体に石鏃で構成)、
獣骨 (ツキノワグマ・カモシカ) が出土し、縄文文化の起源を探る上で重要な遺跡です。
狩猟のためのキャンプ地であると共に、石器製作工房と流通基地の役目も果たしたとみられます。

※「各種の槍を主体に石鏃で構成」の意味は不明。次の室谷洞窟の文からすると、まだ、大きな動物がいたので石槍の量が多く、石鏃もあったという意味だと思われます。「各種の槍を主体に石鏃で構成」だと思います。

縄文文化の幕開け―洞窟の利用から定住へ 小瀬ヶ沢洞窟(草創期)
上に記述
小瀬ヶ沢洞窟の平面図断面図
小瀬ヶ沢洞窟の断面図 小瀬ヶ沢洞窟遠景 尖頭器の出土 尖頭器・石斧出土状況

 133室谷洞窟(草創期)
昭和35~37にかけて長岡市科学博物館により発掘調査が行われ、草創期以降の遺物が下層から上層にかけて順を追って堆積していました。
草創期の遺物は下層から出土し、草創期後半の土器、狩猟用の石鏃や工具用の石器、獣骨(ツキノワグマやカモシカなど)が出土しています。
狩猟用の石器が小瀬ヶ沢のヤリ主体から弓矢へと変化しています。 ※小瀬ヶ沢より新しい遺跡。石鏃主体の狩猟具。

室谷洞窟(草創期) 室谷洞窟平面図 室谷洞窟断面図 室谷洞窟遠景 発掘作業 下層出土の
多縄文系土器
(第2次発掘調査)

 134大谷原遺跡―縄文早期の定住集落
常浪川上流域に位置する大谷原遺跡は、草創期の洞窟を利用する暮らしから、開けた土地での定住生活への転換をあきらかにした重要な遺跡です。
水辺の作業場と貯蔵穴を囲むように住居跡が並んでおり、あらかじめ生業の場と住居・埋葬の場を区別して集落を営んでいたことを伺わせます。

大谷原遺跡―縄文早期の定住集落 常浪川下流から
遺跡遠望
大谷原遺跡の集落 竪穴住居 土坑群(埋葬の場) 水辺の作業場
 

 140
 141小瀬ヶ沢洞窟出土資料(草創期)
小瀬ヶ沢洞窟土器片
尖頭器(ヤリ先) 尖頭器 植刃
槍やナイフの替え刃
獣骨片 大変美しい尖頭器です。折れたり欠けたりしていても左右対称。
完成度の高い熟練の製作者。
 142小瀬ヶ沢洞窟出土資料
掻器
皮をなめす
削器
削る、切る
細かな剥離痕のある剥片
刃こぼれをもつ石片
 143小瀬ヶ沢洞窟出土資料(草創期)
掻器 石斧(伐採) 猿額遺跡出土資料
草創期1万3000年前
尖頭器

 144大谷原遺跡出土資料早期
大谷原遺跡出土資料 石鏃 尖頭器
 145大谷原遺跡出土資料
磨石 石匙
つまみを創り出したナイフ
石匙 縦型 石匙 横型
 146大谷原遺跡出土土器
土器(早期) 早期の土器に特徴的な尖った底部 沈線と貝殻の縁で
文様を付けた土器
 147大谷原遺跡出土資料
石箆
(皮をなめす)
石箆
(皮をなめす)
磨製石斧 磨製石斧
 


 160縄文前期の大災害―沼沢火山の噴火

 ※参考文献 「沼沢火山噴火の影響から見る 縄文時代前期末葉と中期初頭の遺跡分布」  縄文時代の大噴火

 161沼沢火山の噴火
紀元前3500年頃、縄文前期終り頃に現福島県金山町に位置する沼沢火山が噴火し、その火山灰や軽石が会津盆地以西郡山付近まで降り積もりました。
只見川沿いではこの火山灰流(鹿瀬軽石質砂層)が谷を埋め、更に泥流となって阿賀町まで流れ下りました。そして、川幅の狭いところで堰き止めめられ、天然のダム津川湖が出現しました。この縄文前期終り頃の災害により、阿賀野川流域と津川盆地は一時的に無人の地と化しました。

カルデラ湖となった
沼沢火山
上に記述
災害の爪痕  左下の調査地点では3m近く掘り下げても
鹿瀬軽石質砂層が堆積しています。
右は、北野遺跡の縄文前期の竪穴住居が
砂層で埋まった様子です。

原遺跡隣接地
(右地図中
町内の発掘調査で検出した火山灰流
(=鹿瀬軽石質砂層)
北野遺跡
(右地図中▲10
白い部分が砂で埋まった範囲 天然ダム津川湖の出現
原遺跡の位置
※多くの遺跡が湖底に沈んだと言っている

 163沼沢火山噴火頃の土器 縄文前期 5500年前 猿額遺跡(西区)

 164巨大な製粉用石皿 縄文時代前期 約5500年前 猿額遺跡(西区)
巨大な製粉用石皿 ※南洋の島では、幻覚作用のある植物の根を巨大石皿で潰しながら
磨石で縁を叩いてリズムをとりながら歌い、行うようです。
この大きな磨り石がセットで出土したようです。

 火山噴火後の植生は、強酸性土壌に耐えうるような硬い植物が生え、こんな大掛かりな製粉器が必要だったのかもしれない。

 165災害から回復した頃の土器 縄文時代中期 5400年前 屋敷島遺跡(新渡区) 新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬8931-1
    津川湖・津川盆地 鹿瀬遺跡付近の位置関係
災害から回復した
中期の土器
深鉢
浅鉢
浅鉢 深鉢

何の模様だろう。初めて見ました
深鉢

※噴火当時の土器は深鉢が中心で、100年経って環境が回復すると丈の低い鉢や皿が登場する。十和田カルデラの噴火後のミニ版のように見える。
沼沢火山の爆発も沢山の噴出物を周辺に堆積させ、大きな被害を出したが、100年で自然が回復した。すると、十和田カルデラの噴火がいかに大きかったか、その影響がいかに長く続いたかがわかりました。
 


 200縄文文化の繁栄➀生業


 201豊かな自然の恵みをもたらす列島の環境
縄文時代中期は前期の最温暖期以降も温暖な気候が続きました。また、多量の雨が豊かな森林を育み、木の実や動植物など縄文人の食料資源を支えました。

縄文文化の繁栄
➀生業
豊かな自然の恵みをもたらす列島の環境 縄文前期(7千年前頃)の列島の植生と古地理 世界の降水量分布
日本は多雨地域である


 植物質食料の採集・栽培、狩猟

縄文人は集落のテリトリーの中で得られる四季折々の食料を利用する、多角的な生業計画を立てていました。
その中心となるのが秋に実るドングリなどの木の実でした。それらを秋に集中的に採集し、アク抜きや製粉などを施して貯蔵に回し、食料の乏しい夏季まで利用しました。
秋に川を遡上するサケも盛んに食され、干物や燻製にして貯蔵品や交易品にも用いられたでしょう。
動物の狩は秋から冬、魚捕りは春から夏に行われました。
近年、土器に残された痕跡から、ダイズやアズキなど豆類が栽培されていたことも明らかになりつつあります。

植物質食料の採集・栽培、狩猟
植物質食料の採集・栽培、狩猟
上に記述
縄文時代の
生業スケジュール


 カロリーから見た食物の中心
下の表では、トチ、クリ、クルミなどの木の実や、ユリ根やヤマノイモといった根茎類のカロリーが大きいことがわかります。
これらデンプン質の食料が縄文人の食べ物の核でした。
遺跡の土層に含まれる、花粉の分析や、貯蔵穴・イモ掘り棒の分析に基づくと、クリ林を管理したり、ヤマノイモを増殖したりしてこれらを安定的に手に入れるような工夫をしていたと考えられています。

カロリーから見た食物の中心

上に記述
縄文時代の主要食糧

 202調理具 屋敷島遺跡(新渡区) 縄文中期 5400年前 
木の実を磨り潰す石器セット 石皿と磨石
フチに穴がある。木の実潰し穴かな。
焦げの付いた礫
石焼料理の痕跡?
縄文中期5400年前
屋敷島遺跡(新渡区
焦げの付いた礫
石焼料理の痕跡?
縄文中期5400年前
屋敷島遺跡(新渡区

 調理具 キンカ杉遺跡 縄文中期 約5000年前 新潟県東蒲原郡阿賀町九島下原キンカ杉.
オコゲの付いた土器
縄文中期5000年前
キンカ杉遺跡(九島区

 203狩猟・漁撈具
石鏃
キンカ杉遺跡
縄文中期 約5千年前
石鏃
キンカ杉遺跡
尖頭器
縄文中・後期
5~4000年前
左3点:キンカ杉遺跡
右1天:狐窪遺跡
屋敷島遺跡

  漁撈具 角嶋岩陰(角嶋区)
魚捕りの石器
漁網の錘
軽石製の浮子
角嶋岩陰(角嶋区)
魚捕りの石器
漁網の錘
角嶋岩陰(角嶋区)
石錘
 


 220縄文文化の繁栄② くらしの環境と技術 


 221縄文人の暮らしと環境
縄文人の暮らしと環境 縄文ムラと里山の原型 里山生態系の食物網 里山生態系を
生産者・消費者・分解者に分け、
多様な消費者の存在を関連付けて描いている。



 縄文時代の暮らしと道具
縄文人が暮らしに用いた素材は全て天然の資源です。集落周辺でとれる物が中心ですが、遠方の資材や完成品を交易で入手することもありました。
道具の素材選びにもこだわりがあります。ナイフには薄く割れて鋭い刃の付けやすい黒曜石や頁岩、木を切り倒す斧には綿密で磨きやすい蛇紋岩、
斧や骨を研ぐ砥石には目の粗い砂岩、住居の柱には堅くて腐りにくいクリの木、木製容器には柔らかく加工しやすいトチノキ、弓にはよくしなるマユミなど、道具の用途によって材料を選びました。天然資源の特性に関する膨大な知が代々継承されたのです。

縄文時代の暮らしと道具 御所野遺跡の焼失住居跡から復元された竪穴住居
竪穴住居の建築と
道具の使い分け
竪穴住居の建築と道具の使い分け

➀打製石斧で地面を掘り下げ
②柱や梁…磨製石斧で木を伐採
③縄で柱と梁を結わえて固定
④茅で屋根をふき、土を盛る。
⑤炉…礫を組み合わせたり土器を埋めて設置
⑥床の敷物…植物繊維のゴザや動物の毛皮
・資材を切る(ナイフ)
・穴をあげる(石錐)
・斧を研ぎ直す(砥石)


住居跡と炉跡
丸く地面を掘り下げ、
中央に炉(中央の黒い範囲)を据え、その雌雄位に柱を配置します。壁に沿う溝は壁を保護するために板材をはめた後と考えられています。
食料の貯蔵穴 地面を深く掘り下げた穴に、木の実などの食料を貯蔵しました。
地面には一定温度・湿度が保たれたので保存向きです。
狩猟の技術・落し穴 動物を追い込んだり、落ちるのを待つワナの技術です。イヌを従えての狩猟も発達しました。

 225石匙 つまみを作り出した携帯ナイフ
石匙 石匙
原遺跡屋敷島遺跡

原遺跡・屋敷島遺跡
西日本型の
横長型が混じる

狐窪遺跡

キンカ杉遺跡

キンカ杉遺跡
縦長の東日本型

 226石錐
石錐
キンカ杉遺跡
こんなに大きな石錐もある。
皮革に穴を開けるだけではなかったようです。
まるで刺突具みたいです。

 石器原材料
石器の原材料(頁岩)
縄文後期4000年前
大尾遺跡

 227石製の様々な利器 縄文中・後期(5~4000年前) キンカ杉遺跡・屋敷島遺跡・狐窪遺跡・原遺跡
石製の様々な利器
縄文中・後期
5-4000年前
盤状石器
植物繊維採集・加工
屋敷島遺跡
楔形石器
討ち割り用のクサビ
キンカ杉遺跡
削器/刃を付けた剥片
切る・削る
屋敷島遺跡
石箆/掻器
なめす、掻き取る
キンカ杉遺跡
※植物から繊維を取り出すための道具。
茎を潰し、繊維を取り出す。

 228樹木伐採・加工用の磨製石斧 猿額遺跡・キンカ杉遺跡・屋敷島遺跡・原遺跡
彫器
屋敷島遺跡
磨製石斧
屋敷島遺跡
キンカ杉遺跡
キンカ杉遺跡
猿額遺跡
砥石
磨製石斧・石製品・骨角器の砥石
縄文時代中期5400年前
屋敷島遺跡
磨製石斧の刃先をメンテナンスした?
 


 240縄文文化の繁栄② くらしの環境と技術


 241石器石材と産地
縄文文化の繁栄②くらしの環境と技術 黒曜石原産地 1白滝
2置戸
3赤井川
4深浦
5男鹿
6板山
7高きら山
8霧ヶ峰
9八ヶ岳
10箱根
11伊豆
12神津島
13隠岐
14姫島
15腰岳
 物資の交易 物資の交易
縄文時代の社会には各地をつなぐ交流網が張り巡らされ、この中に物資の交換を取り仕切る中核的な集落や仲介人が存在したと考えられます。
 黒曜石
ナイフや石鏃などに利用。町内出土のものは新発田市板山産を中心に、北海道産や長野産が持ち込まれたと考えられます。
 蛇紋岩
磨製石斧に使用。町内の各縄文集落に数点含まれるのが一般的です。
 ヒスイ
威信材となるペンダントに加工されて流通。町内では北の遺跡で出土。
 下呂石
室谷洞窟で石鏃が一点出土。
 アスファルト
接着剤として利用。石器を柄に取り付けたり、割れた土器の修復に使用されています。

 243掘削用の打製石斧 キンカ杉遺跡・大屋敷遺跡・八田蟹遺跡赤岩遺跡
掘削用の打製石斧 掘削用打製石斧
キンカ杉遺跡

八田蟹遺跡・赤岩遺跡

大屋敷遺跡
敲石(ハンマー)
縄文中期5000年前
原遺跡

 246鏃と石斧
黒曜石製石鏃と原石
縄文中期5400年前
石鏃:キンカ杉遺跡
原石剥片:屋敷島遺跡


蛇紋岩製磨製石斧
 縄文中期5000年前 

 247アスファルトの利用
赤色顔料を磨り潰した磨石
大谷原遺跡
アスファルトの付着した
土器・石器
縄文時代中・後期
5~4000年前
原遺跡・狐窪遺跡
狐窪遺跡
まみの黒い部分は
ヒモをアスファルトで
固定した痕です。
アスファルト塗布用のパレットに転用された土器片
 

 248地域間交流を示す土器 縄文時代中期前・中葉 5000年前 キンカ杉遺跡・屋敷島遺跡
   ※縄文時代の交通路・要所にあたるため、各地の土器が持ち込まれた。
東日本各地の土器の分布域(中期前・中葉) ・後北式  (北海道全域)
・円筒上層式 (東北北部~北海道西半部)
・大木式 (東蒲原の文化圏) (青森以南~福島県)
・馬高式(火焔土器) (長岡市・十日町付近)
・阿玉台式 (関東地方)
・新道式(有孔鍔付土器) (伊豆半島・東海~信州)
・新崎式 (福井・石川・富山・新潟)
地域間交流を示す土器
阿賀町には東西南北様々な土器や石器の材料が集まってきます。
 248a中部高地系
中部高地系土器
有孔鍔付土器
中期前葉 キンカ杉
中部高地系土器
新道式
中期前葉 キンカ杉
 248b関東東部系土器 阿玉台Ⅰb式 中期前葉 屋敷島遺跡
 248c東北南部系土器 大木7b式 中期前葉 屋敷島遺跡
 248d越後系土器 馬高式 中期中葉 屋敷島遺跡
 248e東北北部系土器 円筒上層C式 中期前葉 キンカ杉遺跡
 

 250縄文文化の繁栄③人と社会、送りと祭り

 251土偶と石棒
土偶は粘土を人形にした焼き物。乳房と子を宿したお腹の膨らみの表現から、女性原理を表しています。
石棒は生命の根源を生む男性のシンボルを表した石製品。土偶も石棒も、生命の誕生と関わりのある表現を埋め込まれた造形物です。

衣・食・住全てを自然界の産物に頼っていた縄文時代。環境の変化は縄文人の生活に大きな影響を与えます。
豊かで安定した自然の実のりが、縄文人にとって最も大きな関心事だったと考えられます。

土偶や石棒に限らず、男女の性シンボルの表現が縄文の遺物に数多く登場するのも、子を産む二つの力を自然の豊穣にもつなげたいと考えたからなのかもしれません。
土偶と石棒
上に記述
土偶の
地域的時代的変遷
左の図表:
縦に見ると余り関連性が見られないが、

横に見ると、東海以東では、よく似た傾向があるようだ。
完全模倣ではなく、近隣の流行図案のニュアンスだけを掴んで地域的な独自性を加えた、、と感じる土偶が作られている。

それにしても西日本には土偶文化があまり盛んにならなかった。
気候や人数、食糧資源など、地域の事情があったのだろう。


 縄文人のアクセサリーの意味
縄文人は櫛、耳飾り、ネックレス、腕輪、腰飾りなどのアクセサリーを用いました。墓の中からそれらを装着した状態の人骨が発見されることもあります。
アクセサリーを付けて埋葬された人骨の研究によれば、縄文時代に何らかの基準
 ― ➀地元の人と他所から来た人、②呪術師と一般人、③年齢や経験など―
で、人を区別することが始まっていたとみられます。つまり、アクセサリーは、装着する人の社会的な位置付を表示する意味が強かったのです。

縄文人のアクセサリーの意味
上に記述
土偶出土状況
キンカ杉遺跡
石棒出土状況
狐窪遺跡
炉に立てられた石棒状の礫 原遺跡
耳飾り 北の遺跡
直径5㎝
土偶出土状況
キンカ杉遺跡

 253土偶 文後期 約4000年前
土偶

 見方のよくわからない土偶 縄文後期 約4000年前 五十島遺跡
見方のよくわからない土偶 見方の分からない土偶
縄文後期 約4千年前
五十島遺跡
墓に備えられた土偶
 254土偶 キンカ遺跡
土偶
 255土偶 縄文中期~後期 5500~3000年前 大坂上道遺跡 キンカ杉遺跡 屋敷島遺跡 狐窪遺跡 原遺跡

屋敷島遺跡

屋敷島遺跡

狐窪遺跡

大坂上路遺跡
キンカ杉遺跡

キンカ杉遺跡

キンカ杉遺跡
狐窪遺跡
原遺跡
狐窪遺跡
狐窪遺跡
狐窪遺跡
原遺跡

 257石棒 縄文時代中期~晩期 5000~3000年前 キンカ杉遺跡 大尾遺跡 狐窪遺跡 中貫遺跡 長者屋敷遺跡
 257a石棒
土偶や石棒は何に使うの
石棒の祭にも諸説あり
原遺跡 狐窪遺跡 狐窪遺跡
キンカ杉遺跡 キンカ杉遺跡
大尾遺跡
大尾遺跡 狐窪遺跡 狐窪遺跡 狐窪遺跡
中貝遺跡 長者屋敷遺跡 菱潟遺跡 大尾遺跡
 257b石棒  縄文時代中期~晩期 5000~3000年舞う キンカ杉遺跡 大尾遺跡 狐窪遺跡 中貫遺跡 長者屋敷遺跡
狐窪遺跡 石棒 狐窪遺跡 石棒 狐窪遺跡
中貝遺跡
 


 270縄文文化の繁栄③ 人と社会、送りと祭り

 271縄文時代の墓と人々の送り
縄文人は一般的には地面に穴を掘った土壙墓に埋葬されました。その中に副葬品として死者に供えられたものが出土することもあります。
墓域は集落の中央広場など特定の範囲に設けられます。

乳幼児の遺体は土器の中に入れ、家の玄関などに埋められました。埋甕と言います。土器を母親の胎内に見立て、それを地中に埋めることで、
大地に還って子の生命が再び母親のお腹に宿ることを願ったものと考えられます。

この他、縄文時代には`火葬'、骨を掘り出して埋葬し直し`再葬(複葬)'、複数人の骨を一つの墓穴に集める`合葬'の風習もありました。

死んだ人をどのように‘送る'のかは、その人の年齢や集落での役割と密接に関係していたと考えられます。また、墓域の中心に位置する墓は集落の始祖が埋葬されたとみられ、祖先とのつながりを特に重要視する社会であったようです。

縄文時代の墓と人々の送り
土器片で顔を覆った墓
大坂上道遺跡
土器と墓標の石が埋められた墓
キンカ杉遺跡
蓋石の載った埋甕
屋敷島遺跡
縄文時代におけるライフヒストリーモデル 土壙墓や土器棺
 

 275土製品

 277獣面・足形土器
獣面や足形の土器装飾
縄文中期5400年前
キンカ杉遺跡
屋敷島遺跡
獣面 獣面
獣面
足形
 279
土版(護符?)
晩期2000年前
出土地不明
飲み物を注ぐ土器
縄文中・後期
5000~3500年前
原遺跡
飲み物を注ぐ土器
縄文中・後期
5000~3500年前
屋敷島遺跡
 281埋められた土器
穴に埋められた
小型土器と呪術具
縄文中期5400年前
キンカ杉遺跡
穴に埋められた
呪術具
縄文中期5400年前
キンカ杉遺跡

三角柱状土製品
 282
穴に埋められた小型土器三点と石器
聴聞中期5400年前
屋敷島遺跡

 283三角形の造形品 縄文中期~晩期 5000~3000年前 大坂上道遺跡 屋敷島遺跡 キンカ杉遺跡
三角形岩版
キンカ杉 縄文中期
大坂上道 縄文中期
三脚石器
キンカ杉遺跡
縄文中期
三脚石器
三脚石器
三角柱状土製品
屋敷島遺跡 縄文中期
石冠
縄文晩期 出土地不明

 285まじないの石製品
独鈷石
縄文版3000年前
出土地不明
くぼみ・穴のある石製品
縄文中・後期
5400-4000年前
屋敷島遺跡
大尾遺跡

右:穿孔された軽石
屋敷島遺跡
蜂の巣石
発火具?まじない石?
大尾遺跡 縄文後期

 287大珠と耳環 縄文中期~晩期5400~3000年前 屋敷島遺跡 嶋岩陰 原遺跡 揚城遺跡
石製ペンダント 土製耳飾り
キンカ杉遺跡 縄文中期
土製ペンダント
 原遺跡 縄文晩期

石製の玉
 揚城遺跡 縄文晩期
土製耳飾り
 北野遺跡
   縄文中~後期

石製の玉
 長者屋敷遺跡
  縄文晩期
 
 


 300弥生時代


約1万年前に長江下流域で始まった水田稲作は、紀元前千年紀前半に朝鮮半島を経由して日本列島に到達しました。
イネの栽培を中心とする農耕が始まったこの時代が弥生時代です。
耕地や水を求めての争い、金属製品の渡来、大陸との政治的な交渉もこの時代に原点があります。


 310稲作文化の足音と縄文伝統


 311稲作の波及と弥生文化の始まり
紀元前1千年紀の前半、朝鮮半島経由で稲作農耕文化が九州北部に伝わりました。
灌漑の土木工事や農耕具の製作、農事暦や予祝・収穫祭など、農耕文化を形成する技術や思想が揃って導入されました。

 縄文人と弥生人の顔つき
日本列島に稲作文化を伝えた渡来系の人々は面長でのっぺりとした顔つきだったようです。
こうした特徴は、春秋・戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)の長江下流域の人骨によく似ています。

弥生時代 稲作文化
上に記述
稲作文化の足音と縄文伝統
稲作の波及と弥生文化の始まり

上に記述
稲作起源地と日本列島へのルート
縄文人と弥生人の顔つき


 日本列島の諸文化
本州・四国・九州各地で稲作文化の受容と定着には時間差が生じました。この時代の
北海道では漁撈や海獣狩猟を主体とする続縄文文化、
沖縄では漁撈や貝の採集を主体とする貝塚時代後期文化が広がっていました。
こうした違いが生じた要因は、稲作に適するか不適かという自然条件、大陸に近いか遠いかによる外来文化の影響の受けやすさ、縄文伝統を強く残すか否かという様々な条件にあったと考えられます。

日本列島の諸文化 列島の諸文化 第1地域:
 弥生前期までに稲作定着
第2地域:
 弥生中期以降に稲作定着
第3地域:
 稲作定着が不明瞭
第4地域:
 貝塚時代後期文化
 漁撈貝採集主体
第5地域:
 続縄文文化
 漁撈海獣狩猟主体
日本列島の諸文化
上に記述


 人ヶ谷岩陰の発掘調査
昭和60年・61年に新潟大学により発掘調査された人ヶ谷岩陰では、東北系の弥生土器、狩猟用の石鏃、カモシカやツキノワグマの骨が出土しました。
稲作が波及したこの時代でも険しい奥山での狩猟が活発に行われていたことを示します。
この遺跡は狩猟の際の短期キャンプですが、ここを利用した人々の母村はどこにあったのでしょうか。

人ヶ谷岩陰第二次発掘調査のようす
人ヶ谷岩陰の発掘調査
土器の出土状況
獣骨の出土状況
人ヶ谷岩陰遺跡
 この遺跡は、流紋岩の岩脈を利用した自然の岩で、縄文時代の終りから弥生時代の初めにかけての季節的な狩猟のためのキャンプ地として使用されたものである。
 昭和60-61年の発掘調査で崩落した大小の岩片堆積の下から722点の土器・石器・剥片・獣骨・獣歯・クルミ・貝殻などが出土した。
平場の母村があって、そこから人ヶ谷の地まで出かけて来たものと思われ、当時の生活を知る上で、極めて貴重な遺跡である。

※平地の村から狩猟のために使っていた岩室だと言っている。そのような洞窟・岩室・岩陰は長い間使われていました。

 312土器

 313下西ノ沢遺跡出土土器 弥生時代前期 約2500年前 (キャプションなし) 深鉢と浅鉢
下西ノ沢遺跡出土
弥生前期2500年前
 ※どう見てもこれらの土器は、縄文晩期の「工字文土器」など、縄文系土器である。工字文深鉢・浅鉢
 弥生化されていない縄文人が沢山いた時代のようです。

 315原遺跡出土土器 弥生時代前期~中期 2500年前
原遺跡
弥生前期~中期
2500年前
割れ口を漆で繋いだ土器

 317大屋敷遺跡出土資料 弥生中期 2000年前
中部地方系?土器 東北南部系土器
南御山2式・二ッ釜式
・川原町口式
北陸系土器

 ※土器が弥生土器になってきた。弥生人がたくさん入って来たのか、縄文系弥生人が、真似て弥生系土器を作り始めたのか。
  各地の土器があるのだから、各地から弥生人が大挙して押し寄せてきたようである。
 
 321獣骨
カモシカ骨 ツキノワグマ骨 カエル骨 石鏃
 323人ヶ谷岩陰遺跡出土資料 弥生時代前期 2500年前

縄文系土器ですね
 
 
 


 400第2室 縄文土器の世界

阿賀町には数多くの縄文時代の遺跡があり、発掘調査や表面採集によって多種多様な縄文土器が得られています。
このコーナーでは縄文土器に焦点を当て、変遷、形、制作と使用、色彩といった観点からその魅力をご紹介します。
 401縄文土器の世界
大木8a式土器
縄文中期5000年前
原遺跡
大木8a式土器
縄文中期5000年前
原遺跡
出土状況

 410縄文土器の誕生 草創期・早期・前期

早期の土器
1万1500~7000年前
早期の土器
前期の土器
約7000~5500年前
前期の土器 前期の土器 前期の土器 前期の土器 深鉢 大木6式
前期後葉 猿額遺跡

 420躍動する造形 中期

 421
打ち割った二つの土器を交互に並べて顔を覆った墓

 422関東系土器 五領ヶ台式(中期初頭)
五領ヶ台Ⅰ式
中期初頭
大谷原遺跡
五領ヶ台Ⅰ式
中期初頭
大坂上道遺跡
 423北陸鶏土器 新保式 中期初頭
新保式 中期初頭
大坂上町遺跡
新保式 中期初頭
大坂上路遺跡
新保式 中期初頭
大坂上路遺跡
 430土器群
 431北陸系土器 新崎式(中期前葉)
新崎式 中期前葉
キンカ杉遺跡
新崎式 中期前葉
キンカ杉遺跡
新崎式 中期前葉
キンカ杉遺跡
新崎式 中期前葉
キンカ杉遺跡
浅鉢
新崎式 中期前葉
キンカ杉遺跡

 432中期土器分布圏
  縄文中期、東日本における土器の分布と馬高式(火焔型・王冠型土器)の勢力圏
東北の土器
関東の土器
東北
 大木式
関東
 五領ヶ台式
 阿玉台式
 勝坂式
 加曽利E式
 曽利式
北陸
 新保新崎式
 上山田・天神山式
北陸の土器

 433東蒲原郡の土器 大木7b式 中期前葉
大木7b式 中期前葉
屋敷島遺跡
大木7b式 中期前葉
屋敷島遺跡
東蒲原郡の土器
大木7b式
中期前葉
大木7b式 中期前葉
屋敷島遺跡
東北南部の土器
大木7b式 中期前葉
 
 440
 441関東東部系土器 阿玉台式(中期前葉)
阿玉台式Ⅰa式
中期前葉 キンカ杉遺跡
阿玉台式Ⅰa式
中期前葉 キンカ杉遺跡
阿玉台式Ⅰa式
中期前葉 キンカ杉遺跡
阿玉台式Ⅰa式
中期前葉 キンカ杉遺跡
浅鉢
阿玉台式Ⅰa式
中期前葉 キンカ杉遺跡
 442東蒲原郡の土器 大木8a~8b式(中期中葉)
大木8a 中期中葉
角神D遺跡
大木8a 中期中葉
角神D遺跡
大木8a 中期中葉
屋敷島遺跡
大木8a 中期中葉
屋敷島遺跡
大木8a 中期中葉
屋敷島遺跡
大木8a 中期中葉
角神D遺跡
大木8b 中期中葉
 
 450
 451大木式の浅鉢 中期前葉~中葉
大木式の浅鉢
中期前葉~中葉
大木7b式 中期前葉
キンカ杉遺跡
 452東蒲原郡の土器 大木7b式(中期前葉)
東蒲原郡の土器
大木7b式
中期中葉
大木7b式 中期前葉
屋敷島遺跡
大木7b式 中期前葉
屋敷島遺跡
東蒲原郡の土器
大木8a~8b式
中期中葉
キンカ杉遺跡
 
 460
 461東蒲原郡の土器 大木9-10式(中期後葉)
大木9式 中期後葉
原遺跡
大木9式 中期後葉
原遺跡
大木9式 中期後葉
原遺跡
大木10式 中期後葉
北野遺跡
大木10式 中期後葉
北野遺跡
加曽利EⅣ式
中期後葉 北野遺跡
加曽利EⅣ式
中期後葉 北野遺跡
加曽利EⅣ式
中期後葉 北野遺跡
 462東蒲原郡の土器 大木9-10式(中期後葉)
 大木8b~9式
中期中葉~後葉
原遺跡
大木10式
中期後葉 北野遺跡
大木10式
中期後葉 北野遺跡

 470縄と余白の対称 後期

 471加曽利式土器
称名寺式 北野遺跡
後期
深鉢
加曽利B式 加曽利B1 後期中葉
狐窪遺跡
新地式 後期後葉
長者屋敷遺跡
 
 472大木10
大木10式系 後期初頭
五十島遺跡
三十稲場式
後期初頭
大尾遺跡
南三十稲場式
後期前葉
狐窪遺跡
南三十稲場式 後期前葉
狐窪遺跡
南三十稲場式 後期前葉
狐窪遺跡
 
 480縄文土器工芸の美 晩期
 481縄文晩期土器
縄文晩期土器
3200~2300年前
長者屋敷遺跡
原遺跡
揚城遺跡
 483大洞式BC式 晩期前葉 長者屋敷遺跡 原遺跡
大洞式BC式 晩期前葉長者屋敷遺跡 原遺跡 大洞式C1式 晩期中葉 長者屋敷遺跡 原遺跡 大洞C2式
晩期中葉
原遺跡
揚城遺跡
大洞式C2式 晩期中葉 原遺跡 揚城遺跡
 485晩期後葉 鳥屋1式 原遺跡
鳥谷1式 晩期後葉
原遺跡
鳥屋2式 晩期後葉
原遺跡
鳥屋2式 晩期後葉
大屋敷遺跡

 490様々な土器
 491注ぎ口を付けた土器(中期~後期)
注口土器 中期後葉
北野遺跡
注口土器 中期後葉
北野遺跡
注口土器 後期前葉
綱取Ⅱ式 狐窪遺跡
宝ヶ峯式 後期中葉
狐窪遺跡
宝ヶ峯式 後期中葉
狐窪遺跡
 492様々な土器形式
後期後半の土器組成率と器種構成モデル
意味は不明
土器の器形 土器形式と用途
 493器台・蓋・台付
器台・蓋・台付 器台
大木8b式 中期中葉
キンカ杉遺跡

三十稲場式 後期初葉
北野遺跡
台付土器
大木10式 中期後葉
北野遺跡
不安定な台がなぜついた。
 494機能化した器 形と用途
サイズを作り分けた
深鉢

中期中葉

深鉢(小)
大木8a式 中期中葉
角神D遺跡
深鉢(大)
大木8a式 中期中葉
角神D遺跡
深鉢(大)
木8a式 中期中葉
キンカ杉遺跡

中期前葉 北陸系
キンカ杉遺跡
イズを作り分けた
浅鉢

中期前葉
浅鉢(小・大)
新崎式 中期前葉
屋敷島遺跡
 
 500

 510原遺跡

 511panel
原遺跡 土器の手書き実測図 調査地区と集落の推定範囲 遺跡空撮 原遺跡 遺構平面図
 
 513複式炉
 原遺跡から発見された縄文時代の囲炉裏―複式炉―
ここに展示されているのは、角島区に所在する原遺跡で発見された縄文時代中期終わり頃(約4500年前)の囲炉裏の原寸大複製品です。
石を敷き詰め、土器を2個埋めて造られています。土器の埋められた部位と、石組の窪んだ部分からなる複合的な構造を呈することから、複式炉と呼ばれています。類例は東北地方や信濃川流域に分布しています。

この炉に敷き詰められた石は強い火熱で赤く変色し、ボロボロになってしまったものも多数あります。この石を全て剥がすと、その下は真っ赤に焼けた土が表れました。強い火が継続的にこの炉で焚かれていたことを暗示します。埋められていた土器も内側に赤と黒に変色した部分が帯状に認められ、高温のモノ(火など?)を容れた容器の可能性があります。

 下写真⑤⑥について
この写真は、原遺跡(縄文中期終わり頃、約4500年前)で発掘された竪穴住居S140とS145です。
この2軒は同時に建っていたわけではありません。土の埋まり方を詳しく調べたところ、S145が先に立てられ、その跡地にS140が立てられたことがわかりました。

2軒分の敷地内から沢山の柱穴(写真➀~⑨)が発見されました。➀~⑤がS140の大黒柱の穴と考えられます。⑥⑦はその上に炉が重なっているため、(A案)柱を立て穴を埋めてしまってから炉を造った、または(B案)炉が造られる以前に立ていた柱の痕跡と考えられています。
 
 ※B案の場合S140は改造されていることになり、S140(改築前)→S145→S140(改築後)の順が考えられます。

S140とS145は丁度半分重なるように位置しています。また、炉や柱穴も直線状に並んでいます。

これらのことから、原遺跡の縄文人は、前にあった家の跡地に並ぶように新・改築をしていました。
このように同じ場所に何度も家を建てる事例は、原遺跡以外でも多く見受けられるので、縄文時代にそのようなムラのしきたりがあったことが推測されます。


複式炉 原遺跡から発見された縄文時代の囲炉裏―複式炉―
複式炉
上に記述
複式炉

 520黒い土器・赤い土器 縄文の色彩感

 ※白い土器と赤い土器ってのもありました。ここでは黒い土器ですね。
 521

 522
赤色顔料(ベンガラなど)を漆で塗布 中期・晩期 キンカ杉遺跡 長者屋敷遺跡 原遺跡


 525
焼き上げの最後に燻いぶし技法で仕上げ  長者屋敷遺跡 原遺跡

  黒赤
焼燻した後の器面に赤彩 後期  狐窪遺跡

黒赤
 546原遺跡の土器変遷
大木9式
約4800年前
平面的な磨り消し縄文装飾
大木10式
約4500年前
平面的な磨り消し縄文装飾
大木8b式
約5000年前
立体的な突起装飾
大木8b式
約5000年前
大木9式
約4000年前
渦巻の隆帯装飾
 
 



 600歴史展示室



 601Ⅰキリシタン関連資料
 切支丹禁制留書について
高清水神社所蔵の
吉利支丹近世留書について
補足解説
会津のキリシタン政策について
比較資料➀ 比較資料② 比較資料③
 
 

 610Ⅱ古代の越後 陸奥と東蒲原

Ⅱ古代の越後・陸奥と東蒲原 越後・東北・会津の出来事 幕府・会津・越後の出来事 津川盆地西縁の古代遺跡の分布
ピンボケ
ピンボケ
竪穴住居 角大溝遺跡
竪穴住居
平安時代9世紀
上野東遺跡
越後国の地方支配と
蒲原郡
ピンボケ
 

 620古墳時代の遺跡

 新発見、古墳時代の暮らし -上鉄砲町遺跡-
 平成30年、常浪川下流(阿賀野川との合流部付近)の左岸に立地する上鉄砲町遺跡で、確認調査を実施したところ、
古墳時代前期の土器(土師器)が数点出土しました。町内での発掘による出土は初です。

越後や会津ではこの時代の古墳や集落が多く見つかっていますが、その中間にある東蒲原郡の様相は不明でした。
このたびの発見は、阿賀野川を通じた二つの地域の交流を証明する重要な成果です。

 東蒲原郡の古代遺跡
 東蒲原郡では古代の遺跡の発掘調査事例はまだ少ないのですが、近年、磐越自動車道建設や国道49号揚川改良に伴う発掘調査の成果により、少しずつ当地の古代の様相が明らかになりつつあります。

 それによると、発掘調査事例が多い津川盆地西縁部の西区においては、阿賀野川沿いの高位段丘面(西山Ⅱ面)に遺跡が分布する傾向があります。一つの遺跡につき1軒から数軒の竪穴住居や掘立柱建物で構成される、小規模な集落を構えていたようです。

 これらの遺跡の年代は、出土した土器から、9世紀後半から10世紀初頭と考えられます。
会津大戸窯で焼かれた須恵器や、佐渡小泊窯で焼かれた須恵器が出土しており、当時の物資の流通網を考える上で重要です。

 また、大坂上道遺跡では、役人のベルトに付ける石製装飾品(「巡方」)が1点だけ出土しています。
ベルトを巻いて正装するような人物がこの遺跡にいたのでしょうか?
それとも何らかの糸でベルトの装飾部品だけが伝わったのでしょうか?

 大坂上道遺跡などが成立する9世紀後半~10世紀初頭は
律令体制から王朝国家体制へ、戸籍に基づいて人に対して課税する方式から土地に対して課税する方式へと変化する時期にあたっています。
これに伴って新規集落の開設の動きが活発となり、山地や丘陵にも集落が進出するようになります
東蒲原郡の古代遺跡の成立は、古代社会の変化と連動した出来事でもあります。

新発見、古墳時代の暮らし
上鉄砲町遺跡
東蒲原郡の古代遺跡 土師器 甕
古墳前期(4c頃)
上鉄砲町遺跡

 621上鉄砲町遺跡の出土遺物
   撮影不明瞭
会津大戸窯産
須恵器 長頸壷
大坂上道遺跡
9c後半~10c初頭
会津大戸窯産
須恵器 壷
大坂上道遺跡
平安時代
佐渡小泊窯産
須恵器 長頸壷
上野東遺跡
9C後半~10c初頭
須恵器 瓶子
向大通遺跡
9C後半~10c初頭
           
大坂上道遺跡
9c後半~10初頭
土師器 黒色埦
巡方
平安時代
大坂上道遺跡
土師器 黒色埦
墨書
9c後半~10初頭 土師器 甕
 
 625越後国の地方支配
  画像不明瞭


越後国の地方支配と蒲原郡
(律令時代)
越後の荘園・国衙領と
小川荘
城氏と小川荘の恵日寺寄進
 
 630Ⅲ中世武士の活躍
 631年表 たいていピンボケ
幕府・会津・越後の出来事


佐原・蘆名氏、会津へ 藤倉・金上氏と小川庄 小川庄と小田切氏
 632小田切氏の動向
  不明瞭
 633統治と戦の拠点、津川城
統治と戦の拠点となった会津領西の要・津川城
安倍理非内の戦い 蘆名氏の滅亡と金上盛備
 
 640近世大名の支配
 643年表
中世武士の活躍 近世初期の領地変遷
 645
会津藩主と藩政 町・村の支配 確実にピンボケ
 650江戸時代の生活用具
江戸時代の鍵取新田村と鍵取遺跡の発掘調査
生活道具 会津本郷焼
19c以降 鍵取遺跡
肥前産陶磁器②
染付碗 18c 鍵取
鍵取遺跡出土物 肥前産陶磁器➀
京風陶器
17c中頃~ 18c初頭
鍵取
 660墨書建築部材
護徳寺観音堂発見の墨書建築部材
山・川の資源利用と「山論」
 670会津街道と石畳の道
会津街道と石畳の道
会津街道旅紀行
阿賀野川水運
津川船道、揚川通船 大平田船の舵 大平田船の櫂
 
 680Ⅵ戊辰戦争
東北越後諸藩の動向と越後の戦局
戦局展開図 弾丸