|
|
目次 |
01外観
※環濠集落の北限
02入口展示
100静川遺跡の環濠集落
考察 最古の縄文環濠集落
考察 縄文時代の環濠集落
仮説➀
考察 円筒土器文化vs大木式土器文化
仮説②
101静川の風
110静川環壕遺跡ジオラマ
115縄文中期の環壕
120静川遺跡の土器・石器
121右側「聖域」環壕出土
123左側「住居域」出土
130苫小牧発掘速報展示
133勇振1遺跡
140土器
151注口土器の世界
155変わった形の土器
160石器
163石斧
200地学・生物学
201 1大地の生い立ち
212北海道の生い立ち
|
二階展示室
300旧石器時代
300原野のあけぼの
301原始のヒト
305人類の拡散経路
311獲物を追って
320北海道の旧石器
322千歳メボシ川2遺跡
323白滝村白滝遺跡
325石器製作の道具
330縄文時代
330くらしと祈り
350縄文早期土器
360前期土器
370中期土器
380後期土器
390晩期土器
400続縄文時代
401続縄文土器
410擦文時代
411擦文土器 |
500土器石器
502貝塚
505貝塚分布
506骨角の利用と傷
520装飾品・呪術品
521首輪・土偶
3-2くらしと祈り
530人骨 呪術の世界
※抜歯
540ムラの始まり
545縄文早期の遺物
3-4よみがえる縄文文化
550発見された墓
560縄文土器文様
571静川遺跡を掘る
573石器 |
600アイヌ時代
601アイヌの世界
610地名とコタン
620ユーカラ
4-2狩と漁
631毒矢による狩
633狩猟具
640漁撈
642衣料
650食料と食生活
660埋まっていた船
670祭りと送り
680四季の生活
800近代
800開拓のあゆみ
※考察 和人の進出
※考察 和人の蝦夷地支配
810苫小牧開拓の歴史
830森林開発
850産業を開く
手工業から製紙工業へ |
|
|
01外観
苫小牧市美術博物館
5月末は新緑の季節でした。 |
八重桜が咲いていたり |
北方の木花が満開だったり、 |
鬱陶しい梅雨の本州とは違って |
とてもさわやかで美しい |
新緑の北海道でした。 |
50年前訪れた積丹半島は季節外れの大雪でした |
当館は撮禁です。7年前受付で不快な言葉を受け立腹しました。 |
|
ここで2021年発掘列島展があり、私の訪問寸前に突然コロナで中止となり、かなり抗議しました。→
|
理由は地域展に撮禁の北海道唯一、
静川環濠集落が地域展のため撮影可になっており、これを撮りたかったのです。
翌2022来訪時には申請で撮影可能になってた。
が、公開展示は僅かで、決して満足できるものではありませんでした。 |
|
※環濠集落の北限
太平洋側では千葉県佐倉市の弥生ムラ(六崎大崎台遺跡 弥生中期)、日本海側では新潟県新八幡山遺跡(弥生後期)であるが、
秋田市地蔵田B弥生ムラ(弥生前期)が4軒の家を柵で囲っており、 これを入れると秋田市となる。
しかし、苫小牧市静川遺跡が環濠集落であると、一挙に新しい環濠に対する認識が開けるのです。従って、とても重要な遺跡だったのです。
あっ!ただし静川遺跡は、縄文時代の環濠集落です。 |
|
02入口展示
マンモスの親子
|
マンモス象の化石は、北半球の各地から発見されています。北海道からも、夕張市、北広島市、えりも町などから臼歯が発見されています。
マンモス象は、今から4万年前にシベリア地方で発生したといわれ、北海道は生息の南限になっています。
子供のマンモスは、生まれて1年間、乳を飲み、親のもとに5年ほど暮らして一人前になります。
そしてオスでは11~13歳で大人になり、メスは8~12歳で大人になり、14~16歳で子供を生みます。
寿命は60~70年ですが、その前に歯はなくなってしまいます。
さてマンモス象は、現在地球上に生きているでしょうか。 |
マンモスの歯
|
|
展示室のマンモスの足元に、大きな化石が置いてあります。これは、マンモスの「臼歯」の化石です。
マンモスの口の中には上下2つずつのとても大きな臼歯が4本あり、口の中に放り込んだ植物をすりつぶして食べていました。
歯の表面の「ギザギザ」は、エナメル質でとても硬く、すり減ると新しい歯が、ベルトコンベアのようにあごの奥から出てきました。歯は、5回生え変わり、6本目で最後でした。
※北海道各地の博物館でマンモス象の臼歯を見ましたが、野尻湖ナウマン象博物館で見るナウマン象の臼歯よりも細く小さいものばかりでした。しかし、
マンモス象、体長6~7.5m、体高3~3.9m牙の長さ5m
ナウマン象、体長5~6m、 体高2.5~3m牙の長さ2m
明らかにマンモスゾウの体格の方が大きいのに、小さな臼歯だったのは、食物の違いによると思います。
どちらも寒冷地に住みながら、南のナウマンゾウは硬く貧栄養の食草、北のマンモス象は柔らかくてカルシウムに富んだ食草だったようです。しかし、トナカイのようにひずめで雪を掘って直接口で食べるのではなく、鼻で巻き取れるほど長く大きな柔らかい草は、本当にシベリアの雪の下にあったのだろうか。 |
マンモスのあかちゃん…ぼくはディーマ
|
大きなマンモスの隣にいる「こどもマンモス」には、モデルがいます。シベリアのマガダン州にある鉱山の凍土層から発見され「ディーマ」と名付けられたマンモスのミイラです。
ディーマは生後1年のオスのマンモスで、発見されたマンモスのミイラの中でも、特に保存状態の良いものでした。ディーマが発見されてから、小さな耳の形、長い毛、短い尾などマンモスの体の特徴や、X線撮影により、体内の様子などが明らかになりました。 |
マンモスってどんな生き物?
マンモスってどんな生き物? |
|
「マンモス」という名前はエストニア語で「maa(土の)」と「mutt(モグラ)」が合わさったものと言われています。
昔、マンモスは地下で生きていたと想像されていたからです。
マンモスは、長鼻目ゾウ科の哺乳類で、その祖先は、5500万年前に誕生したと考えられています。長鼻目の中から誕生したマンモスは、大きなキバと長い毛をもち、寒さに適応できる身体の仕組みを持っていたのが特徴です。 |
マンモスの「キバ」 |
マンモスのキバ
マンモスのキバは、人間の前歯が長く伸びたものです。
オスの場合平均で、1本のキバの長さは2.2~2.7m、重さ45kgというとても大きなものでした。
メスはオスよりもキバは小さかったと言われています。
キバは「食事の場所を取り合うため」など、色々な目的に使われたと言われていますが、ほとんどのマンモスのキバに、
すり減ったり、ひっかいたりした跡があることから、多くの場合、餌を捕るために「植物を掘り起こす」「木の皮を剥ぎ取る」などに使ったと考えられます。 |
マンモスの「いただきます」 ※関西でいうなら、いただき まンモす 。ですね。
マンモスの
「いただきます」 |
|
マンモスの主食は、カヤツリグサ科(特にスゲの仲間)の植物でした。
他にも、ヤナギ科、カバノキ科、グイマツなどの植物をかじっていたことがわかっています。
胃の内容物から、体重6トンの大人のマンモスで、1日に180kgの植物を、1日のうち20時間かけて食べていたと考えられています。
11万年前~1万年前の氷河期には「マンモス・ステップ」と呼ばれる広い草原が、北ヨーロッパから北極周辺にかけて広がっていて、マンモスの食べ物がたくさん生えていました。
北海道では、勇払平野から石狩平野を境界として東側にも広がっていたと考えられています。 |
マンモスの大きさ |
|
マンモスの大きさ
肩までの平均の高さは、オス2.7~3.4m、メス2.6~2.9mくらいで、現在のアフリカゾウよりは、少し小さなことが分かっています。
全身は寒さに耐えるため、毛に覆われていました。外側は硬い約1m程の長い毛、内側は綿毛の二重構造になっていました。
ここに展示してあるのは、平均的な大きさのマンモスを復元したものです。北海道では約4万年前から約2万年前に生息していたことが、発見された臼歯化石の研究から明らかになっています。 |
|
|
100静川遺跡の環濠集落
|
遺跡年代 |
縄文早期~続縄文時代の遺跡。そのうち |
環濠年代 |
環壕遺跡は縄文中期の集落遺跡です。約4000年前(中期末~後期初頭)。 |
遺跡位置 |
北海道勇払郡苫小牧市静川 |
全景 |
空撮写真 |
出土物 |
環壕底からは
中期終末期の伊達山式土器と、握りこぶし大の礫が、(※この頃に完成し、戦闘の痕跡も残存)
上部からは晩期の土器が出土している。(※この頃、環濠が不用となったか) |
|
※礫は投石用と考えられ、何らかの敵と戦ったようです。
環濠を乗り越えようとした敵ですし、石つぶてで応戦できたのは獣ではなく人間でしょう。
縄文時代中期に防衛線を張らねばならないような敵とはどんな緊張関係だったのでしょう。 |
参考文献 |
静川遺跡 |
|
|
|
考察 最古の縄文環濠集落 引用Wikipedia環濠集落
|
➀福岡市博多区の板付遺跡は縄文晩期から弥生後期の遺跡であるが、初期水田遺構を伴う環濠集落である。同じく
②博多区那珂の那珂遺跡は、縄文晩期末の二重環濠集落として知られている。これらの集落遺跡は、水田稲作と共に伝播した防御性集落である。
③しかし、北海道勇払原野の縄文中期の静川遺跡は、「稲作」とは全く無関係の高地性防御性集落である。
静川遺跡は二股に分かれた台地上にあり、一方は集落遺跡、もう一方が環濠集落である。
環濠は幅1~2m、深2m、断面V字状の溝が、長軸約56m、短軸約40mの不正楕円形に巡る環濠集落が発見されている。
環濠の内側から2棟、外側からは15棟の円形竪穴建物が見いだされている。それは、弥生の環濠集落とは性格を異にするものであろう。
※環濠内部の二棟の建物内部には炉もなく、使用痕があまり見つかっていないため、非常時の避難場所であったと考えられます。
また、環濠内出土物からは、対人防御の痕跡が見られます。
※例えば、この程度の溝であれば、ヒグマはひとッ飛びで乗り越えます。熊対策としては全く意味がありません。対人用環濠と考えられます。 |
考察 縄文時代の環濠集落
|
環濠底からは縄文中期後半の円筒土器文化以降 (サイベ沢遺跡以降)の、東北地方南部の大木8b式の流れを組む伊達山式土器が出現している。
この土器は、東北北部~北海道南部で繁栄した円筒土器文化人に替わり、東北南部からの大木式土器文化人が北海道南部に進出し、北海道で独自に分化発達した土器文化である。
仮説➀
つまり、円筒土器文化の北海道に、大木式土器文化が進出していく過程での出来事です。
この文化人の北海道進出に伴い、在来北海道縄文人と新来東北南部人との間で争いが起こり、そのためにこのような防衛施設としての環濠集落が形成されたのではないか。
この争いは縄文中期から縄文後期まで続いているので、随分長いあいだ争い続けたものである。
以前より、北海道の縄文文化は東北地方の影響を強く受けていると聞いていたが、東北地方から文化を持った人々が移住してくることが多くあったようだ。
そして、前に来た東北縄文人と、後から来た東北縄文人が生活圏をかけて殺し合いをしていたということになる。
※Wikipedia環濠での静川遺跡の紹介では、この環濠内空間は祭祀のための場ではないかと推測しているが、それは2000年もあとのアイヌ時代のチャシ跡を念頭にした類推であり、静川遺跡の環濠と結びつけるのは飛躍が過ぎるのではないかと考えられる。単なる祭祀場なら、ただの平地や広場で何の問題もない。このような防御的性格を持たせる必要は微塵もないはずである。それとも防御せねばならないような秘儀がおこなわれたとでもいうのだろうか。 |
考察 円筒土器文化vs大木式土器文化
|
静川遺跡の環濠建設は、先住民である円筒土器文化圏に東北南部から徐々に北上し、青森円筒土器文化圏を征服し、津軽海峡をわたって渡島半島を北上し、遂に道央地域にまで進出してきた大木式土器文化人との戦いなんだろうか。
円筒土器文化は、一説には十和田カルデラの噴火による降灰によって、長時間煮込まなければならない食物の必要性から生まれたとされる。
その影響は青森県北部から渡島半島に及び、一大文化圏を築いたとされる。すると、 この場合は、文化の担い手は、火山噴火に影響された人々であり、種族や民族には関わりない。 そのような不特定な人々が青森や渡島半島を行き来することによって周囲にその文化がもたらす何らかの利点があり、不特定の人々に伝播したり、模倣されたりして広まったことになる。
また、別の視点では(というか、史実だが)、中国山東半島から沿海州にかけて、広く円筒土器文化圏が存在した。その一端が青森・渡島半島に伝播し、大陸本来とは多少輪郭のはっきりしない円筒土器文化圏が形成された。この文化の担い手は大陸渡来の集団であり、円筒土器文化人である。と考えられる。
この類推だと、
縄文中期の天塩山地、夕張山地・日高山脈以西の土器文化、この際、勇払原野の土器文化は、円筒土器文化であり、この地に支配的にいたのは大陸由来の円筒土器文化人である。とするならば、縄文中期後半の寒冷化に伴う人々の移動がダイナミックに起こり、なぜか、東北南部地域の人々が、北海道道央地域にまで進出し、食糧資源の争奪に走ったとするならば、このような高地性環濠集落が発生したとしても不思議ではない。ただし、それがあまりにも弥生時代の高地性環濠集落に酷似していることは、大変な驚きである。
遡って、不特定多数の火山災害被害者の間で自然発生的に発達した土器文化が円筒土器文化であるとするならば、火山噴出物の自然環境に与える影響が少なくなり、長時間煮込み調理が不用となり、東北南部の大木式土器文化の土器を使用するようになり、その文化が次第に拡大していくということは、北海道の火山災害の影響も薄れていったということであり、長時間煮込みの硬い食べ物から、解放されていくことによってよい兆しである。
にもかかわらず、その人々が高地性環濠集落で防衛しなければならないのなら、彼らとは異なる系統の種族が南下して来たために戦闘(殺し合い)になったのであって、何ら接点のない人々同志(異民族間)の戦いであると考えられる。
本州縄文時代には、愛媛県の洞窟で発見された殺傷痕のある人骨など以外は、ほとんど争いが起こっていないとされている。
しかし、北海道では、ダイレクトに北方から次々といろいろな民族が南下し、多くの殺戮があったことは、本州とは異なる重要な点である。→
いろいろな民族とは、例えば、
石刃文化人(良質な黒曜石から長大な縦長石刃を切り出して石器を作るシベリア北方文化人)。
細石刃文化人(わずかな黒曜石から小さな剥片を剥ぎ取り、木片や骨角に埋め込んで使用する中央シベリアの文化人)
オホーツク人(アムール河口から来た集団と北海道北部の縄文人が混血して生まれた海洋狩猟民族)
→と、私は考える。今後の北海道先史時代を観察していく中で、縄文時代の戦闘の痕跡については注視していきたいと思います。 |
|
仮説② 引用「ウトナイ湖サンクチュアリ」」
静川遺跡のある勇払原野は支笏湖火山などからの火山灰が堆積した泥炭層に形成された、約360㎢の広大な湿原・原野である。
釧路湿原(269㎢)やサロベツ原野(146㎢)と共に三大原野とされている。
札幌や石狩平野を含む石狩低地帯は日本海側から太平洋側へと続いており、勇払原野はその南端の一角である。
縄文海進当時は海が深く侵入し、海とつながった湖沼や河川となっていたでしょう。引用「ウトナイ湖・勇払原野」
「勇払原野は台地、砂丘、湿原、湖沼と複雑な環境を持ち、先住のアイヌ民族により 川を利用した太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要衝として、またサケやシカ等の資源に 恵まれた土地として、自然と共存した文化がありました。」引用「ウトナイ湖サンクチュアリ」
勇払原野は釧路湿原同様に食糧資源の豊かな土地で、やはり、湿原より上の丘陵上(段丘上)に集落がありました。
更に、湿地と河川を利用して遡り、勇払川・千歳川・石狩川を経由することによって日本海側に到達する交通路でもありました。
現在、地図に載っている静川遺跡周辺の遺跡は、全てが遠く離れた遺跡である。しかし、このような交通の要衝には数多くの集落があったことは間違いなく、静川遺跡同様に、海・川・湿原・丘陵・砂丘などの変化にとんだ地形から食糧を獲得していたに違いありません。
ただ、釧路湿原と違うのは、湿原の乾燥化が早く進んでいたことです。このことがやがて豊かだった食糧資源の減少につながり、遂に自らの集落の周囲に環濠を巡らせて防衛するところまで深刻化したのかもしれません。
しかし、それにしても、石狩海岸と苫小牧が河川で繋がっていたとは気が付きませんでした。
そういえば、以前の北海道取材旅行の際に、オホーツク人の土器が石狩低地の中央付近から出土し、なぜ、海洋民族がこのような内陸に痕跡を残したのかと疑問が投じられていました。
ここは、日本海と太平洋をショートカットで結ぶ驚くような交通路・交易路だったんですね。
結論として、湿原の乾燥化に伴う食糧資源の減少による近隣の村との戦争があったのではないか。ということです。
さきの、だて歴史文化ミュージアムの有珠モシリ遺跡の襲撃事件のように、弥生時代のような大きな集団同士の戦争ではなく、小さな集団でしかなかった縄文時代の戦争だったのではないでしょうか。 |
|
|
101静川の風
|
静川の風に縄文人の声が聞こえる 自然を敬い 争わず 護り過ぎず
命あるものに感謝し 再生を祈り
縄文時代一万年間にもわたり 自然と共生した 人々が此処にいたのです |
国指定史跡静川遺跡
|
静川遺跡は苫小牧市の東部、苫東開発地域にあります。昭和57(1982)年に発掘調査が行われ、縄文時代中期~後期を中心におよそ18万点の遺物跡が出土しました。
静川遺跡は静川台地(厚真台地)の北に突き出した二股の台地先端部に位置しています。標高はおよそ17mで、眼下の低地部との比高差は11m程です。ここから低地部には湖沼群や安平川が、遠くには樽前山や石狩低地帯方面が遠望できます。
環壕遺構のほか、環壕遺構の内部にある2軒の建物跡、環壕遺構と同時期と考えられる縄文時代中期~後期の33軒の住居址群が確認されています。
二股の台地先端部をそれぞれ生活空間と環壕遺構で囲われた空間とに分けて利用してきたように見られます。
また、生活痕跡のあまり見られない環壕内部の2軒の建物跡が普通の住居跡ではないらしいことも考えると、内部と外部を区画して祭祀などを行おうとした可能性があります。 |
ひょうたん形の環壕
|
静川遺跡の環壕(掘り)は、上幅2~3m、下幅30~50cm、深さ0.8~1.8mで丘陵の基部側が深く、平均で1m、総延長139mに渡って巡らされています。
掘り上げた土は全て環壕の外側で確認されています。環壕で囲われた内部は約1590㎡で、およそテニスコート6面分にもなります。
形状がひょうたん形になった理由は、台地の地形に従って掘った結果このような形になったと推察されます。
環壕の覆土下部からは縄文時代後期初頭の伊達山式(だてやましき)の土器片が出土しているため、この頃に完成した可能性が高いと考えられます。
出入り口とされる掘り残し部分が2か所あり、北西にある壕4と壕3の間を除くとほぼ完成した状態の環壕遺構と考えられます。 |
国指定史跡
静川遺跡 |
ひょうたん形の環壕 |
環壕内の2軒の建物跡
|
静川遺跡の環壕の内側からは2軒の建物跡が見つかっています。
東西に並んだうちの西側の1号は長軸630cm、短軸220cm、深さ25cmの不整円形、東側の2号は長軸846cm、短軸670cm、深さ20cmの楕円形でともに内部に炉は見られません。
1号には褐色、黄褐色土が堆積していて、土葺き屋根であった可能性があります。
2号の床面付近から伊達山式土器が出土しており、環壕と同時期に存在していたと考えられます。
集落群の建物住居跡と比べて遺物が極端に少なく、炉もないことから日常的に生活していた様子をうかがうことはできません。
環壕内という非日常的空間にあることも考えると、何らかの祭祀にまつわる建物跡であった可能性があります。 |
集落跡の住居址群
|
環壕のある台地とは別の、西側の台地からは34軒の住居跡が見つかっています。このうち1軒は縄文時代晩期に相当し、33軒が縄文時代中期末葉から後期初頭に掛けてのものと考えられています。
出土した土器の型式から住居跡を分類すると、
北筒式(前期末~中期、約4500~4000年前)相当が16軒、
伊達山式(縄文後期初頭)相当が8軒、
タプコプ式(縄文後期初頭)相当が1軒、残り8軒が時期不明となっています。
住居跡は小型のものが多く、長軸が2~3mが14軒、3~4mが9軒確認されています。内部に炉を伴うものが多く、24軒で確認されています。地床炉が多く、中には石囲炉、土器片囲炉も使われていました。環壕と関連する伊達山式相当がやや少ないものの、隣接する静川25遺跡では伊達山式の住居跡が10軒確認されています。環壕の完成までに年数がかかったことを考慮すると、北筒式の頃から作り始め、伊達山式の頃に完成したのかもしれません。
|
環壕内の2軒の建物跡 |
集落跡の住居址群 |
|
|
110静川環壕遺跡ジオラマ
ひょうたん形
、二つに分かれた集落 |
左環壕
住居は二重環濠内
(特別仕様の住居址) |
渡口外の陥し穴
渡口外の陥穴は外敵侵入者対策用かと |
陥し穴群(動物用か)
|
右環壕(住民住居址群)
大小多数の住居址と
多数の陥し穴 |
|
|
|
右上の通路で繋がる左右環壕。左環濠は聖域だったのか |
|
|
|
|
115縄文中期の環壕
石鍬での工事は膨大な労力を必要とした。対人対猛獣対策か。 |
|
木の根・笹のブチ・草の根・小石大石を、打製石斧で切り開くは至難の業 |
※北海道の猛獣はヒグマ。
明治時代に巨大ヒグマが多数の集落を襲い、多くの住民を食い殺した話が残っている。
令和4年夏の現在でも、3mを越すヒグマが60頭もの牛を食い殺し、いまだに捕獲も射殺もできていない現実がある。(OSO18、2023.8.26駆除)
当時であれば、巨大ヒグマがウヨウヨしていても不思議ではなく、こんな環濠でもある程度防御施設となりえたのかもしれないか。そんな筈はない! |
|
|
120静川遺跡の土器・石器 |
121右側「聖域」環壕出土
|
苫小牧静川遺跡の
土器・石器 |
|
|
|
|
|
環濠底出土土器片
伊達山式
縄文後期初頭
|
|
|
|
|
|
122
|
2号建物跡出土土器片
伊達山式
縄文後期初頭
|
|
|
|
|
|
環壕底出土 敲き石
緑色泥岩製
縄文時代
|
環壕底出土 砥石
砂岩製
縄文時代
|
|
|
|
|
123左側「住居域」出土
|
|
15号住居
北筒式
縄文中期末
|
同一反復 |
17号住居
伊達山式
縄文後期初頭 |
同一反復 |
|
3号住居
タプコプ式
縄文後期 |
3号住居
土器片囲炉土器
タプコプ式 縄文後期 |
|
|
|
|
|
|
130苫小牧発掘速報展示
|
131ごあいさつ
|
苫小牧市埋蔵文化財調査センターでは、毎年市内のどこに遺跡があるのか調査を行っています。
近年では、土砂採集や砂防工事、土地造成が行われる前に、そこが遺跡かどうかの調査と、遺跡だった場合は発掘調査を行っています。
調査では土器や石器が見つかるほか、縄文時代の陥し穴が見つかることもあります。
このコーナーでは、最近の調査で見つかった資料の一部を紹介します。 |
|
ごあいさつ |
発掘調査の実際 |
2020発掘調査試掘 |
2021陥し穴調査
|
柏原64遺跡 縄文時代
|
133勇振1遺跡 縄文時代
勇振1遺跡
土器・石器
縄文時代 |
|
土器
火に懸けた |
石器 |
石鏃・石匙
(つまみ付きナイフ)
|
つまみ付きナイフ
磨製石斧 |
静川48遺跡
縄文時代 |
土器 |
石器
|
|
|
|
|
135
|
覚生1遺跡(おぼっぷ)
縄文時代 |
高丘8遺跡
縄文前期 |
高丘8遺跡
縄文前期
|
石斧 |
石鏃
刺突具
石槍
つまみ付きナイフ |
|
|
140土器 |
141土器ってな~に
|
粘土で形を作って、焼いたものを土器といいます。
土器は物を煮たり、、貯蔵するのに使われていました。
土器にはいろいろな形があります。 ふかばち、さら、つぼ、かめ
表面には色々な文様がつけられています。
〇縄を転がしてつけた丸いツブツブ
〇棒で引いた線
〇棒を刺した四角や丸い穴
があります。縄を転がしてつけた文様を、縄文と言います。縄文土器が使われていた時代を縄文時代といいます。
本州では、米作りが始まると弥生時代になり、土器に縄文は使われなくなります。
北海道では、縄文がまだ使われています。縄文時代と同じ生活が続くので、続縄文時代と言われています。 |
|
|
|
土器ってな~に |
浅鉢形土器
静川4遺跡
約2500年前
(縄文晩期末or続縄文初頭)
|
浅鉢 |
浅鉢 |
深鉢形土器
ニナルカ遺跡
約5000年前
縄文前期末or中期初頭
|
|
|
|
|
|
143
|
深鉢形
柏原5遺跡
約3500年前
縄文後期
|
大小の土器
柏原5遺跡
約2500~3000年前
縄文晩期
|
|
|
台付き浅鉢
静川22遺跡
約2000年前
続縄文時代 |
|
150 |
151注口土器の世界
|
縄文土器のなかに、現在の土瓶や急須に似た注ぎ口の付くものがあります。
古くは急須土器と呼ばれたこともありましたが、急須は江戸時代に中国から伝わったもので、急須形では、お茶を入れる道具という間違ったイメージを与えるため、「注口土器」と呼ばれています。
「注口土器」には上磯町茂辺地遺跡(写真パネル)の人面付きや八戸市是川中居遺跡(写真パネル)・苫小牧市柏原5遺跡のように朱や黒に彩色されたものも
あり、非日常的な機能が考えられます。
「注口土器」は、中に入れた液体を注ぐものとされていますが、では一体中に何を入れたのでしょう。
現在では、果実酒というのが有力です。お祭りや儀式の時に、おごそかに、酒を注ぐ場面が想像されます。
「注口土器」は東日本の縄文時代後期~晩期に多く見られます。北海道では、その後の続縄文時代にも見ることができます。
苫小牧市静川5遺跡の道内最古の珍品をはじめ、東北から持ち込まれた柏原5遺跡の黒漆塗りの優品など、祭祀芸術の世界をご紹介します。 |
静川5遺跡出土
|
道内最古の注口土器。大きく波をうつ口、その盛り上がった一方に、横に突き出た注口がつけられています。
表面の細かい粘土紐と縄でつけられた文様に、この時期の土器が持つ特徴を見ることができます。
上半は波状やひし形状に粘土紐を貼り付け、軸に巻いた縄を押しつけています。
下半は並行する粘土紐と縄を回転させた縄文がつけられています。
上下の異なる文様構成のなかにも、その特異性を見ることができます。 |
|
注口土器の世界 |
静川5遺跡出土
(約6200年前)
|
注口土器(写真)
静川5遺跡出土
(約6200年前)
|
注口土器(実物)
静川5遺跡出土
(約6200年前)
|
注口土器
苫小牧市柏原5遺跡
縄文後期 |
|
|
|
|
|
153
|
155変わった形の土器
|
縄文時代植物性食料の利用をめざし、発明された土器。ドングリなどの木の実や山菜は、煮ることによって。苦みが取れ、食料となります。
土器はナベやカメのように使われていたと考えられています。
食料が安定すると、家を建て、定住できるようになります。それまでの移動の生活を一変させる大発明と言えます。
また、文化や技術の伝承という、別な側面にも効力が現れて来ます。
一般に、縄文土器は粘土を円形に積み上げる、輪積み法で造られています。当然、口の丸いものが出来上がります。
高さの違いにより、深鉢・鉢・浅鉢などと呼ばれています。
量は少ないですが、口が四角形のものや、どのようにして作ったのか分からないようなハート形など、基本の形とは異なるものがみられることがあります。
不思議なのは、時期が早期と晩期、その間に四千年のギャップがあることです。どちらも、流行はしなかったようです。
みんなと同じものは作りたくなかった人が、縄文時代にもいたようです。 |
四角形の鉢 |
変わった形の土器
|
四角い鉢 |
深鉢(四角)
ニナルカ遺跡
縄文早期
6400年前
|
鉢(四角)
静川14遺跡
縄文早期
6500年前 |
|
|
|
浅鉢(四角)
柏原5遺跡
縄文晩期
2500年前 |
|
|
|
|
|
160石器 |
161石器ってな~に
|
石を叩いたり、磨いたりして作った道具を石器と言います。元になる石によって、色々な種類があります。
一つは、黒曜石(十勝石)という、黒くてガラスのように光る石で作った道具です。
黒曜石を割るとふちがナイフの刃のようになった、かけらができます。
それを木や鹿の角で叩いて、石鏃・石槍・ナイフを作っています。
縁が刃のようになっていますから、物を削ったり、刺したり擦る道具によく使われています。
もう一つは、川や海岸にある丸い石で作った道具です。その石を叩いたり、磨いたりして、石斧・敲き石・砥石を作っています。
重たい石や大きな石は、木を切ったり、穴を掘ったり、木の実をつぶしたりする道具によく使われています。
ほかに、石を割ったり、磨いたりする、石器を作る時の道具としても使われています。 |
|
石器ってな~に |
弓矢 |
狩の絵文様のある土器
青森県韮窪遺跡
約4000年前
|
展開写真
陥し穴・弓矢・獲物(猪) |
弓矢 |
|
鏃
静川30遺跡
約5500年前 |
|
|
|
163石斧
縦斧 |
縦斧
静川30遺跡
約5500年前 |
横斧
静川30遺跡
約5500年前
|
横斧 |
斧の種類
上:横斧ヘブ族使用
下:縦斧モニ族使用
|
横斧による伐採
ヘブ続
|
縦斧による伐採
石山寺縁起絵巻 |
石斧を使って切った
ナラ材 |
|
くさび型の斧
静川22遺跡
約5500年前
|
|
|
|
165ナイフ
|
ナイフ
静川22遺跡ほか出土
(約6千~2千年前) |
|
ナイフ
静川22遺跡
約6千~2千年前
|
|
つまみ付ナイフ |
つまみ付きナイフ |
石槍
|
|
ドリル(きり)
静川22遺跡
約5500年前 |
|
復元品
|
|
167擦切り石斧の未成品
|
すり切りの仕方 |
擦切り石斧の未成品
静川30遺跡
約5500年前
|
2本の斧を作る途中
刃をよく磨いている |
|
静川22遺跡
約5500年 |
斧+砥石
静川22遺跡
約6~5千年前 |
|
|
|
|
168剥片と原石
|
|
|
200地学・生物学
※このコーナーでは写真不鮮明でほぼピンボケとなっています。回避を願います。
|
201 1大地の生い立ち
|
1大地の生い立ち |
|
1-1北海道の生い立ち
1-2石狩低地帯と周辺の地層
1-3火山活動
1-4原野の生成
1-5二重根
1-6郷土の地質と地史 |
ストロマトライト |
|
|
212北海道の生い立ち
|
213
|
以下は省略 |
215石狩低地帯と周辺の地層 |
220地層は語る1-3 |
250原野の生物2-1 |
260海のけもの2-7 |
270鳥類 |
280森林と火山 |
|
|
|
|
二階展示室
300旧石器時代 |
300原野のあけぼの
|
300 |
301原始のヒト
ヒトへの長い道のり
|
人類は700万年前、アフリカで誕生しました。初期の人類の特徴は二本足で直立し、歩き始めたことと、犬歯が小さいことがあげられます。
やがて、自由になった手で道具(石器)を作り始めます。肉食により、体格も大きくなり、脳も発達してきます。
火の使用が始まり、調理や暖房、照明などに利用され、生活もよくなります。さらに脳が大きく発達し、言葉を話すようになり、文化を形成してきました。
私たち現生人類は、絶滅した多くの人類種の最後に誕生したヒトで、その特徴は、長い進化の道のりのなかで、徐々に身につけたものと言えます。 |
3原野のあけぼの
※撮影 |
3-1原始のヒト
3-2くらしと祈り
3-3土器を調べる
3-4よみがえる縄文文化 |
ヒトへの長い道のり
700万年前
サヘラントロプス・チャデンシス
390~290万年前
アウストラロピテクス・アファレンシス |
260~230万年前
アウストラロピテクス・アフリカヌス
230~140万年前
ホモ・ハビリス |
180~150万年前
アウストラロピテクス・ロフストウス
150~10万年前
ホモ・エレクトス |
20~3万年前
ホモ・ネアンデルターレンシス
20万年前
ホモ・サピエンス |
|
302ヒトの系譜
|
猿人は道具を使った最初のヒトで、主にアフリカのサバンナを舞台に生活していました。
原人は火を使うことを、旧人は墓を作って死者を葬ることを初めて行ったヒトです。
これらのヒトは、洞穴や岩陰をすみかとしながら、ヨーロッパやアジア大陸などへ広がって、沢山の化石を残しました。
さらに新人は洞穴に壁画を描いたり、精巧な道具を作ったヒトで、北極の一部と南極大陸を除いた、地球上のいたる所に住みました。 |
|
303
|
最古の人類(猿人)
サヘラントロプス・チャデンシス
(トゥーマイ猿人)
写真
引用wikipedia |
新生代新第三紀中新世末期の約700万年から約680万年前のアフリカ大陸北中部(現在のサハラ砂漠の一角、中部アフリカの北部、チャド共和国北部)に生息していた霊長類の1属である。
トゥーマイは男性で、推定身長は約1.20~1.30m、推定体重は 35kg前後。脳の容積は約350~380ccで、チンパンジーと同じぐらい。大後頭孔が頭蓋骨の下方にある。このことから、直立二足歩行していた可能性が高い。眼窩上隆起(目の上の出っ張り)が著しい。犬歯はやや小型である。 |
|
猿人
(アウストラロピテクス) |
|
|
東アフリカのオルドウヴァイの谷から発見された、ジンジャントロプスが有名です。
今から約400万~100万年前に、主にアフリカで生活していました。
脳容量は440~750ccで、顔はゴリラやサルに似ていました。 |
|
原人
(ホモ・エレクトス) |
|
|
中国の北京原人やインドネシアのジャワ原人がよく知られています。
今から約100万~20万年前に、アジアやヨーロッパ大陸などに住んでいました。
脳容量は750~1300ccです。あご骨が大きく、眉の上の隆起が発達していました。 |
|
旧人
(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス) |
|
|
ドイツのネアンデルの谷で発見されたことから、一般にネアンデルタール人と呼ばれています。
今から約20万~3万5千年前、特に西ヨーロッパを中心に生活していました。
脳容量は1300~1600ccもあり、現代人と同じくらいです。身長は低く、体つきががっちりした、頭の大きいヒトです。 |
|
新人
ホモ・サピエンス・サピエンス
|
|
|
クロマニヨン人などで代表され、フランスのクロマニヨンや中国の周口店の山頂洞出土の化石が知られています。(※化石人骨)
今から約3万5千~1万年前に生活し、氷河期が終わる頃(約1万年前)には世界各地に住みつきました。
脳容量は1300~1450ccです。眉の上の隆起は弱く、下あごも歯も小さい、後頭部の丸いヒトです。
※現代人の脳容量1400cc。旧人の1600ccはとても大きく、はるかに知的だったようです。 |
|
305人類の拡散経路
ヒトの発生と経路 |
|
|
|
アフリカからユーラシア |
環太平洋の人類拡散 |
|
306
|
|
311獲物を追って
|
大陸に住んでいた旧石器時代のヒトが、動物を追って日本列島に渡ってきたのはいつ頃だったのでしょうか。
最近、本州でも40,000年以上の以前の生活の痕跡が、いくつか確認されています。北海道では約30,000年前には、既に住んでいたと言われています。
苫小牧地方にヒトが住み始めたのは、約20,000年前です。美沢や千歳市祝梅の台地から発見された石器からわかっています。 |
|
313
石器の使用法 |
石器の製作法 |
|
|
320 |
|
320北海道の旧石器 |
321
北海道出土旧石器類
千歳市メボシ川2遺跡
|
|
石槍
出土地不明
|
石槍・削器
浦幌町吉野遺跡
|
斧形石器 |
彫器
○○遺跡
平取町ビバウシ遺跡
|
|
322千歳メボシ川2遺跡 後期旧石器時代~中世
|
石刃核・掻器 |
彫器 |
斧形石器 |
石錐
下川町モサンル遺跡
|
|
323白滝村白滝遺跡 旧石器時代後期
|
325石器製作の道具
|
膝あて(鹿皮)
鹿角加工具
敲石
|
製作石器類 |
剥片・削片 |
原石(黒曜石)
|
|
|
330縄文時代 |
330くらしと祈り
|
縄文時代の人々は、水辺近くの日当たりのよい台地にムラ(集落)をつくり、石や骨、角で作った道具(石器・骨角器)などで狩や漁を行い、植物や貝類を採集して暮らしていました。
また、このような自然に頼った暮らしの中で、人々は病気や死、災いなどの出来事に対して、恐れや敬いの気持ちを持っており、それから逃れるために、呪術や祈りを行いました。 |
貝塚は語る
|
貝塚からは大量の貝殻にまじって、壊れたりいらなくなったいろいろな道具が出土します。
そのほかに、普通の遺跡では残りにくい骨角製や貝製の道具、装身具類と獣・魚骨なども出土しています。
そしてこれらの遺物は、当時の食生活などを調べる大きな手がかりを与えてくれます。
貝塚は、昔の人々が食べて捨てた貝殻などが積もったもので、主にゴミ捨て場として利用されましたが、
人骨なども見つかることから、墓地にも使われていたようです。 |
|
3-2くらしと祈り
貝塚は語る |
貝塚の断面
静川22遺跡 |
樽前C降下軽石層
第2黒色腐植土層
貝層
降下軽石層
降下軽石風化層 |
|
表土層
樽前a降下軽石層
樽前b降下軽石層
第1黒色腐植土層
樽前C降下軽石層
第2黒色腐植土層 |
|
|
340土器を調べる
|
「土器の発明は、人類が化学的変化を応用した。最初の事件である」とイギリスの考古学者、ヴィア・G・チャイルトは語っています。
約12000年前、土器が作られてから、縄文土器・弥生土器・土師器へと絶え間なく作られてきました。(原文のまま)
そして地域や時代によって、文様や形もいろいろ変化していきました。
日本列島で作られた土器が、世界に例を見ないほど独自に発達したのはなぜでしょうか。 |
|
350縄文早期土器
※土器分類は、
上段:道北的 赤
中段:道央的 黄
下段:道南的 青 の各土器 |
351
|
353道北的 赤
|
355道央的 黄
|
357道南的 青
|
|
360前期土器 約6000年前
|
361道北的 赤 |
365道央的 黄
|
367道南的 青
|
|
370中期土器 約5000年前 |
371
|
373道北的 赤
|
375道央的 黄
|
377道南的 青
|
|
380後期土器 約4000年前 |
381
|
383道北的
|
385道央的
|
387道南的
|
|
390晩期土器 約3000年前 |
391
|
393道北的 赤
|
ハート形土器 |
乾燥の段階で倒れてひしゃげたまま焼成した |
晩期に脚付浅鉢 |
|
|
|
395道央的 黄
|
397道南的 青
|
|
400続縄文時代 2000年前 |
401続縄文土器
|
403北海道的
|
405本州的
|
背中の盛り上がりが擦り切れている。
クマに見えますが。 |
|
|
|
|
四脚の付いた浅鉢 |
|
|
|
|
←見たことのない大胆な文様です。 |
|
|
410擦文時代 約1300年前 |
411擦文土器
|
413北海道的
|
415本州的
|
|
450 約800年前
|
|
500土器・石器 |
501土器の移り変わり |
502苫小牧の貝塚
北海道の貝塚分布
北海道の貝塚分布 |
|
北端の貝塚
擦文・オホーツク・アイヌ期
船泊・香深井・亦稚
声問・オンコロマナイ |
道南の貝塚 |
擦文・オホーツク・アイヌ期がほとんど
続縄文期
フゴッペ・礼文華・高砂・有珠・尾白内・恵山・絵鞆 |
道東の貝塚
擦文・オホーツク・アイヌ期がほとんど
続縄文期:大曲 |
縄文カレンダー
|
冬
狩猟
エゾユキウサギ・エゾシカ
・エゾタヌキ・ヒグマ |
春
狩猟・採集 |
夏
漁撈・採集 |
秋
漁労・採集 |
|
504動物骨
|
505貝塚分布
|
貝塚は道内では約130ヶ所、苫小牧地方では8か所発見されています。
これらの貝塚には、海水が内陸奥深く侵入した「縄文海進期」(6000~5000年前)に作られたものがほとんどです。
苫小牧地方の貝塚は、「旧ウトナイ湾」と呼ばれる海の周辺の台地に多くあります。
貝塚からは、現在の苫小牧地方に生息している貝類、獣、魚の骨などや、絶滅したオオカミの骨も見つかっています。
また、温かい海に生息する貝類、魚類も出ることから、当時の気候は今よりも暖かかったのでしょう。
※本文とは無関係ですが、地図下方の苫小牧港は湿地帯を掘り込んで深く幅の広い溝を作り、最後に港湾の入り口となる部分を爆破して完成させたようです。
この工事は1963年に完成したようです。 しかし、このような工法は戦前の台湾で、台湾で事業を起こして巨額の富を築いた日本人が、恩返しに内陸掘り込み方式で花蓮港を作りました。台湾東部にはこの方法で以後も港湾が建設されました。当時の日本人実業家は大儲けすることより、台湾の近代化やインフラ建設に寄与することを大切にしました。 |
|
|
灰色:古ウトナイ湾
褐色:台地、居住地域
北海道の地形の特徴は、海岸段丘が多いことです。右に海があると、ほとんど左に急峻な断崖があります。
このような特徴と、段丘が浸食されて深い谷を作り、道路を走ると大きな谷と、広い台地が繰り返し出てきます。
縄文海進によって海化した海浜平野が遠浅の海岸を形成し、台地上の村から降りて貝を採取した。その後海退によって引いていった海岸に降りて村を作り、貝塚が低地帯の中にも作られたようです。 |
|
506骨角の利用と傷
|
獲物の解体時の傷
|
道具に加工する時の傷
|
道具に利用される角や骨
鹿角:針・釣針等
肩甲骨:スプーン
橈骨:刺突具
尺骨 |
|
|
510骨角器
|
銛・ヤス類 |
縫針類 |
角 |
かんざし |
|
|
石刀模造品 |
刺器 |
|
|
|
|
516骨角の傷 縄文前期 静川22遺跡他
|
アザラシ(陰茎骨)
オットセイ(大腿骨)
・植苗貝塚 |
トド(脛骨)
蝦夷鹿橈骨
・植苗貝塚 |
|
517貝塚出土の動物骨
貝塚出土の動物骨 |
|
カラス・カモ・スズキ・サケ・フグ
・ヒラメ・カサゴ・ツノザメ
・ウグイ・ニシン・エイ |
ヒグマ・蝦夷狸・ニホンカワウソ・ヘビ・カラス |
トド脛骨・エゾシカ頭骨
|
ボラ |
|
|
520装飾品・呪術品 |
521首輪・土偶
※この形態の土偶は、東北北部の秋田県北部の伊勢堂岱縄文館から北海道札幌市埋蔵文化財センターの間でよく見かけました。
この地域共通の土偶文化があったようです。つまり、同一の宗教観を持った人々が多く住んでいたり、その移動圏にあったようです。
|
523装飾品
貝輪
縄文後期 静川22遺跡 |
歯牙飾
縄文後期~晩期 |
垂飾
縄文前期
静川22遺跡
|
勾玉
縄文晩期
静川8遺跡 |
|
525装飾・呪術
棍棒形石器
縄文晩期
タプコプ遺跡 |
|
石刀
縄文晩期
柏原18遺跡 |
玦状耳飾
縄文前期
|
耳飾
縄文後期
千歳市美々4遺跡 |
石棒
縄文後期
美沢1遺跡
|
|
527装身具
|
漆塗櫛
縄文後期
美々4遺跡 |
耳飾 |
勾玉(展示物盗難)
縄文晩期
早来町遠浅1遺跡
|
貝輪
|
|
|
3-2くらしと祈り |
530人骨
呪術の世界
|
縄文時代の人々は、自然界の全てのものや自然現象にも霊魂が宿っていると信じていました。
地震・雷や病気・死などを恐れ、災いから逃れようと祈りや呪術を行ったと考えられています。
遺跡からは時々土製の仮面やいれずみをした土偶などが出土したり、また、抜歯や研歯を施した人骨が発見されることもあります。
これらのものは、祭りや祈り、呪術に関係するものと思われ、当時の人々の祈りや呪術の世界を知る手がかりになっています。 |
抜歯人骨 千歳市美沢1遺跡
|
「抜歯」は成人式などを行う上での重要な儀式で、健康な歯を貫く風習です。
抜歯人骨は、道内の7ヵ所の遺跡から10体ほど発見されています。
ここに展示した頭骨は、新千歳空港の美沢1遺跡の墓から、4体出土した中の成人男性(?)の1体で、縄文後期の終わり頃のものです。
道内の場合、出土したほとんどの抜歯人骨は、抜歯が一般に行われた縄文後期と晩期のもので、
それらは上あごの第2切歯を抜き去っているという特徴があります。 |
呪術の世界 |
呪術の世界 |
抜歯人骨 |
|
|
抜歯人骨
|
抜歯人骨出土地 |
|
|
|
※抜歯
抜歯は南方系習俗だと思っていました。北海道の道南部にまで伝播していたとは。ただ、本州ほどの激しい抜歯ではなく、抜歯の数が少ない。
抜歯文化縄文人の世代が少し進んでいて、繰り返し歯を抜く習俗からは後退したようだ。
これらはやはり南方から来た人々だったのだろうか。他の地域で見られないのは、本来北海道には、というか、北方系縄文人にはない習俗のようだ。
北海道からは南方の完成品が、日本海ルートで持ち込まれていました。これをもたらしたのは、南の島の英雄戦士で、強烈な苦痛に絶えられる
選ばれた人々でした。その中でも運よく北海道まで来れたことは、大変な強運の持ち主たちだったと考えられます。その英雄にあやかって
抜歯したのかもしれません。すると、南島から来た貝輪交易人は、この地に止まって一生を終えたのかもしれない。
|
|
540ムラの始まり |
541
|
縄文時代の初め頃は、洞穴や岩陰を利用した、移動生活でした。
やがて川や湖近くの台地に、地面を掘りくぼめた家(竪穴住居)を作り、5~10人の家族が数件まとまって、共同生活を営むようになりました。
苫小牧で最古の縄文遺跡は、有珠川2遺跡(約9000年前)ですが、住居と呼べるはっきりした遺構は見つかっていません。
ムラが作られるのは、約6000年前からで、静川8や14遺跡などからは、その頃の家が30軒以上発見されています。
これらは一時期に作られたものではなく、3~4世代にわたったものです。 |
縄文早期の遺物 |
ムラの始まり |
有珠川2遺跡遺構配置図
|
静川8遺跡遺構配置図 |
美沢2遺跡遺構配置図 |
静川14遺跡遺構配置図 |
|
542
|
545縄文早期の遺物
有珠川2遺跡 |
石小刀・掻器 |
削器・石斧・石錐
|
摺石
|
石鏃
|
石小刀 |
掻器
|
石箆・石鑿・有孔石斧 |
|
|
|
|
|
546早期の遺物
縄文時代早期の遺物 |
石錘 |
浮子 |
有孔円盤形土製品 |
ミニチュア土器 |
擦石
砥石・矢柄研磨器 |
|
547静川14遺跡
掻器・石箆 |
石小刀・石錐 |
石銛 |
石鏃 |
砥石・石錘 有孔円盤形土製品
|
擦石・敲石 |
石のみ・石斧・有孔石斧 |
|
|
|
|
|
|
548 |
549発掘作業
|
|
550 3-4よみがえる縄文文化
発見された墓4-3
|
この墓は、静川22遺跡で発見された約1900年前の続縄文時代のものです。
人骨は手足を折り曲げた成人の屈葬のようです。墓の底には生命(血)の象徴と考えられる真っ赤なベニガラが敷かれ、壺や石鏃、石槍、石斧など、それに管玉や平玉の飾り玉がたくさん納めめられていました。
埋葬された人は副葬品から見て、サハリン(樺太)などの交易で得たコハクの首飾りで身を装い、生活用具を豊富に持ったムラの長だったでしょうか。 |
3-4甦る縄文文化 |
続縄文期の墓
静川22遺跡
約1900年前 |
石斧・頭蓋骨 |
剥片・管玉・平玉・丸玉 |
磨石・鉢・?骨 |
丸玉・石槍 |
甕・石槍
|
|
左側遺物名称不明
頭骨
?
壺
石鏃
?四肢骨
浅鉢 |
|
石斧
掻器
石鏃
掻器
剥片
管玉
平玉・丸玉
削り器
敲き石
?? |
|
|
|
560縄文土器文様 |
561土器の文様
|
文様は、使う道具の種類とその用い方で、色々な特徴が表現されます。
縄文土器は主に縄で文様をつけるほか、棒・ヘラなどや貝殻・植物の茎・魚の骨などを利用したものがあります。
文様のつけ方は、道具を突き刺したり、転がしたり、引いたりします。また、ちょっとした動かし方や置き方で変化に富みます。
縄目文様の土器が使われたことから、、縄文時代と呼ばれています。 |
|
3-4甦る縄文文化
土器の文様 |
|
貝殻腹縁文
結束の羽状縄文 |
微隆起線文
沈線文 |
撚糸文
磨消縄文 |
土器づくり
土器作り
|
1粘土の採掘
2素地づくり
3成形
|
4施文・調整
5陰干し
6焼成(野焼き)
7完成 |
発掘調査
|
570よみがえる縄文文化3-4 |
571静川遺跡を掘る
|
昭和51(1976)年から始まった、苫小牧東部工業地帯内での発掘調査によって、今までに知られていなかった大昔の色々なことがわかってきました。
その中でも静川16・22遺跡は代表的な遺跡です。
静川16遺跡は、全国的にもまれな縄文時代の環濠集落 (溝で囲ったムラ)で、
静川22遺跡は、貝塚や墓が一体となったムラが発見されています。
今ここに当時の人々の生活がよみがえりました。 |
静川22遺跡を掘る 縄文前期~アイヌ時代
|
大昔のムラの発掘によって、当時の人々の生活ぶりを知ることができます。
静川22遺跡は安平川(あびら)を見下ろす小高い台地の上にありました。調査の結果、続縄文時代のムラや、アイヌ時代のシカの解体場跡が発見されました。特に注目を引いたのは、縄文時代前期の住居跡や墓、貝塚などです。台地の中央は、祭などを行う広場になっていて、その周りからは住居跡やたき火跡が、たくさん見つかっています。
また、斜面には、食べかすや貝殻などを捨てた、大きな貝塚や墓地が作られていました。 |
|
3-4甦る縄文文化 |
静川22遺跡を掘る |
|
|
|
静川22遺跡
縄文時代前期の遺構群 |
縄文早期遺構群 |
縄文前期遺構群 |
縄文中期遺構群 |
続縄文時代
恵山期の遺構群 |
アイヌ時代の遺構群 |
|
573縄文時代の石器 静川22遺跡
縄文時代の石器 |
石鏃
早~晩期 |
石刃鏃 早期
静川22遺跡・白老町虎杖浜遺跡・他
掻器 早期
白老町虎杖浜遺跡
|
石鏃・石銛
静川22遺跡 |
石箆 早期
静川14遺跡 |
石槍
早~前期
静川22遺跡 |
石小刀 |
石小刀
早期~前期
静川22遺跡 |
石斧
静川22遺跡
|
石のみ
前期 静川22遺跡 |
石冠
静川22遺跡 |
|
飾り玉の製作
飾玉・玉未成品・石錐
中期 久米井遺跡
|
石錐 中期 静川21遺跡・久米井遺跡
玉砥石 静川23遺跡 |
|
|
|
|
|
|
|
600アイヌ時代
アイヌの世界
|
アイヌは和人と同じ蒙古系の人種です。アイヌとは男性を主とした「人間」という意味の言葉です。全ての物を神として敬い、特に自然を大切にして生活を営んでいました。
※私が知る限り、アイヌはモンゴロイドとコーカソイドが分化する以前の非常に古い形質を持った民族で(白人種と黄色人種の祖先)、その後オホーツク人など、ツングース系民族(モンゴロイド)との交雑や、和人との通婚もあり、モンゴロイドと似ているが、本来はコーカソイド(白人)とよく似た容貌の民族だったと記憶しています。 |
|
1アイヌの世界
2狩と漁
3衣服と飾り
4食料と食生活
5埋まっていた舟
6祭りと送り
7四季の生活 |
4-1アイヌの世界 |
|
610地名とコタン
|
北海道の地名に「内」と「別」が付くものがかなりあります。アイヌ語の「ナイ、ベツ」で川の意味であり、
苫小牧も、「ト・マク・オマ・ナイ」が語源で、沼の・山奥に・ずっと入って行く・川という意味です。
アイヌは自然とのかかわりや、自分たちの生活とのかかわりや、字あーぷんたちの生活との関係から地名をつけたのです。
また、コタン(部落)は3~10軒程の血族集団で、古老を中心とした共同生活が営まれるようになりました。 |
|
地名とコタン |
チセ
|
チセの内部 |
コタン |
|
|
|
チセ |
便所
メノコル・オツカコル |
倉庫 プ |
家 チセ |
熊檻 ヘベレセツ |
祭壇 ヌサ |
|
|
620ユーカラ
|
文字を持たないアイヌには、口伝えに語り継がれてきたユーカラ(詞曲)があります。
多くの種類に分けられますが、色々な神がアイヌに語り掛けたもの=カムイ・ユーカラと、
先祖の英雄が活躍した内容のもの=アイヌ・ユーカラとに大別されます。
それを個人的な節をつけて語るもので、長いものでは何日もかかります。
アイヌ・ユーカラのなかには、道東地方を中心とした、サコロベというものが知られており、語るのは男性に限られています。 |
|
4-1-2
ユーカラ |
|
|
口琴 ムックリ鳴らし |
五弦琴 トンコリ |
五弦琴と拍子棒レプニ |
|
|
|
|
|
|
630 4-2狩と漁 |
631毒矢による狩2-1
|
狩は、毛皮が良質で肉のおいしい冬を中心に行われます。クマは穴ごもりをしているところをねらい、シカは崖下に追い落として捕ることもあります。
狩の道具には、弓矢・槍・仕掛弓・罠などがあります。矢の先には、トリカブトという草の根からとった毒(スルク)を塗って使いました。
仕掛弓は、アイヌ独特の方法で、獲物が紐に触れると矢が当たる仕組みになっているもので、おもにクマ猟に用いられました。 |
|
4-2狩と漁 |
|
|
狩小屋でのワシ狩り |
穴クマ狩り |
獲物を背負って |
|
|
|
|
|
|
633狩猟具
狩猟具 |
山杖 エキムルクワ
打棒 カンニ
|
弓 ク
山刀 タシロ
|
鹿皮衣コクウル
|
|
|
|
火打ち道具入れカロフ
発火器 シルビ
鹿笛 イパブケニ
矢毒入れ スルクオフ
|
矢 アイ |
矢筒 イカヨブ |
|
|
|
635はきもの
はきもの |
軟雪用かんじき
テシマ
槍 オブ
|
わらじ ストゥケリ |
鮭皮靴 チェプリケ |
|
|
640漁撈
サケの鈎漁
|
サケは、カムイ・チェプ(神の魚)と呼ばれる程、貴重な食料でした。
サケ漁は、マレクという鈎を使いましたが、サケを突いて揚げる時に金具が回転し、サケが落ちないように工夫されています。
また、引っかけて獲るものに、アプという漁具もあります。
このほか、木の枝で作ったウライ、テシ、ラオマツプや網漁も行われました。
また、海漁ではキテと呼ばれる銛を使って、カジキ、マンボウ、アザラシなどを獲りました。 |
|
※アラスカエスキモーに婿入りした日本人がいますが、現代でも鮭漁は、川から水路(簗)を引き、浅瀬に円形に作った小さなプール(溜り)に魚を誘い込んで、マレクで捕獲していました。
また、アザラシを捕獲し、首の周りに切れ目を入れ、つるりと皮をむいて中身をだし、その皮の中に鳥を沢山捕まえて押し込み、やがて自然発酵して柔らかくなったモノをおいしく食べるという、おそらく何千年も前から続く漁撈や狩猟・食生活をそのまま踏襲していました。素晴らしいですね。生きた考古学です。 |
4-2サケの鈎漁 |
|
サケ漁
|
鮭簗 |
海漁
|
魚とり矢
ベラアイ |
簗の取り出し口 |
漁撈具 |
網針 アバリ |
銛 キテ |
|
|
|
642衣料 |
643衣服と飾り
|
和人と交易を行う以前は、獣や魚の皮、羽毛、それに草を編んで衣服を作りました。織機の技術を得たことで、樹皮を使ってアッシ(オヒョウの樹皮で作った着物)などができました。
その後、本州や中国から木綿や絹の着物が移入され、それに刺繍をした美しい着物、手甲、脚絆、前掛けなどが生まれました。
同時に玉飾り、耳輪なども交易で入手するようになりました。 |
|
装飾品について |
装飾品について(不鮮明画像)
神祭りなどの儀式の時に、身を飾る装飾品は、
男性の場合は、頭に×冠(サパンペ)をかぶり
蝦夷刀(エムシ)を刀掛け帯(エムシアツ)に通して 左前にかけました。
女性の場合は、鉢巻き(マタンプシ)をしめ、
耳飾り(ニンカリ)や、首飾り小帯(レクトゥンペ)、玉飾り(タマサイ)をつけました。
こうした装飾品は、ただ単に、装飾のためだけでなく、宗教的な××(意味?)や守護用としての意味も持っていました。 |
|
頭巾 コンチ |
衣服 アミップ
|
前掛け マンタリ
|
|
|
|
冠 サパンペ |
上衣アットゥシ |
刀掛け帯エムシアツ
蝦夷刀 エムシ |
わらじ ストゥケレ
|
|
|
644
|
頭巾 コンチ(女性) |
冠 サパンペ(男性) |
たばこ入れ
タンパクオプ
|
刀掛け帯
エムシアツ
蝦夷刀エムシ |
裁縫道具 くけ台 |
糸巻
ヌイトサイェプ
|
|
|
|
|
|
|
645
|
|
女物額飾帯
マタンプシ |
耳輪 ニンカリ |
|
玉飾り タマサイ
|
飾り板付玉飾り
シトキタマサイ |
脚絆 ホシ |
前掛け マンタリ |
糸巻ぎ木 カニツ
|
|
|
|
646衣服のできるまで
衣服のできるまで |
アイヌの原始機
アッシカラペ |
旧白老博物館(現国立アイヌ民族博物館)では
長い間、アツシ織りの実演を、おばさんたちが数人で見せてくれていました。
さて、現在の新博物館ではどうなったか。
技術は継承されたのでしょうか。 |
|
647衣服のできるまで
|
衣服の原料は、オヒョウ、ハルニレ、シナノキの内皮やイラクサの繊維です。
内皮は薄くはがれるまで沼に浸けておき、これを水洗いして乾燥させ糸にしますが、赤、黒などに染色する場合もあります。
織機(アッシカラペ)で織りますが、原料の採取から衣服になるまで、2か月ほどかかると言われています。
木綿や針。はさみなどを得たことによって、切伏模様(きりふせもよう)や刺繍をした着物が盛んに作られました。
模様には地方差がありますが、渦巻、括弧、波状など、ほとんど共通しています。 |
衣服のできるまで |
1原料の採取
樹皮の剥がれやすい5~6月に木の一部から採取 |
2原料の水浸け
内皮だけを剥がして沼に浸す。1~2週間で薄く何枚にも剥がれるようになり、水洗い・乾燥させる。 |
3糸を紡ぐ
指先と口を使って細かく裂き、撚りを掛けて糸を作る。それを「へそ巻き」という巻き方で、大きな糸玉にする。 |
4織る
織機から10~20m離れた所に杭を打ち、この間に130~150本のたて糸を張り、織り手が前に進む方法で、織ります。 |
5仕立てる
袖と身頃の布に切り分けて仕立てます。和服とは違い「かがり縫い」で繋ぎます。針は長さ6cm程の太いものを用います。 |
|
|
650食料と食生活 |
651
|
明治時代の初め頃までは、朝夕二食だったようです。
シカ、クマなどの肉を主食にして、魚や山菜を副食としていました。味つけは塩だけで、全体に油を使った料理を好みました。
獣の内臓や魚は、生で食べた時代もあったといわれています。
アワ、イナキビの栽培によって酒も作られるようになり、儀式には、自慢の酒がふるまわれました。
※動物の血や内臓には寒冷地で不足しがちな栄養素が多く含まれており、現代でも、エスキモーなどで刃、ビタミンCや栄養素を補給するために、生で飲食するようです。加熱すると、栄養素が壊れてしまいます。特にビタミンなど。 |
|
4-4食料と食生活 |
ミズナラ・コナラの実
(ドングリ)
オオウバユリを採る |
酒造り
シトキ造り |
|
653
|
鍬 |
臼と竪杵 |
|
|
|
炊事道具 |
酒柄杓(さけびしゃく)
イヨマレビサック
|
汁杓子(しるしゃくし)
|
汁杓子
団子べら
|
|
655
|
|
踏み鍬・酒桶
|
碗・脚付膳
ふき・ゼンマイ |
谷地ぜんまい
うばゆりの干し団子
山うど |
包丁・臼
山うど・行者ニンニク |
|
|
660埋まっていた船 |
661
埋まっていた舟 |
板綴り船イタオマチプ |
板綴り船イタオマチプ
|
板綴帆船
カリンバテシカチプ(?) |
|
|
板綴舟 |
板綴舟 |
丸木舟 |
これも板綴舟だろうが |
|
|
|
665丸木舟
アイヌ丸木舟及び推進具
|
1966(昭和41)年、苫小牧市沼ノ端にある勇払川の旧河道で、5艘の丸木舟が発見されました。丸木舟は今から3百年以上前の1667(寛文7)年に噴火堆積した樽前山の火山灰の下に埋没していました。
5艘の丸木舟の中には2本の櫂と4本の棹がありました。櫂や棹にはシロシと呼ばれるアイヌの所有印が彫られています。
0・1・3号は丸木舟で、アイヌ語でチプと呼ばれています。2・4号は船べりに舷側板をつけるための穴が沢山ある板綴舟で、アイヌ語でイタオマチプと呼ばれています。チプは川を上り下りする時に、イタオマチプは海を航行する時に使われたといわれています。
江戸時代には、勇払から石狩を結ぶ「勇払越え」あるいは「ツコツ越え」と呼ばれる交通路がありました。
串原正峯が記した「夷諺俗話いげんぞくわ」によると「イシカリ川より夷舟にて東蝦夷地シコツ(千歳)といふ処へい出たり。
…中略…それより山越をしてビビという所へ出。それより又船に乗り、此処よりは夷の丸木舟に乗りてコシツフ(勇払)という処へ着船せししなり」とあります。
この丸木舟は「勇払越え」という文献上の史実を裏付ける重要な資料といえます。 |
絵図に見られるチプ
|
この5枚の絵図パネルは、江戸時代後期に蝦夷地
に来た幕府の役人、村上嶋之允によって描かれた『蝦夷島奇観』にみられるアイヌの舟・チプの絵図です。
左から順に「猟の準備」、「オットセイに銛を打ち込む」、「昆布採」「初月を見る」「ホロチプ・大舟」の図が描かれています。
これらの絵図からは、アイヌの海用の舟は、舷側等に波除のための板を取り付けた板綴舟であったことが分かります。 |
絵図に見られるチプ |
猟の準備図 |
オットセイに銛を打ち込む |
昆布採図 |
初月を見る |
ホロチプ・大舟図 |
同一反復 |
ウイマムチプ |
|
|
|
|
|
|
670祭りと送り
|
アイヌはすべての物が、人間のために神の国から来たものと考えています。
神の中で最も位の高い火の神(アペフチ・カムイ)を通じて、それぞれの神に祈願したり、感謝するのが祭りです。
クマ祭りで代表されるイヨマンテも、神の国から毛皮や肉を持ってきた、クマの霊を返す送りの儀式です。
アイヌにとって、祭りと送りとは、一体のものといえるでしょう。 |
|
4-6祭りと送り |
|
680四季の生活
|
川沿いに住んでいたアイヌは、河漁と狩猟、それに山菜採りと、簡単な農耕で生活していました。
一方、海岸のアイヌは、海漁というように大きく分かれていました。
生活カレンダーで、それぞれの季節によって、色々な仕事があることが分かると思います。
やはり男性が中心ですが、女性も家事のほか、山菜採りや農耕で汗を流しました。
寒くて長い北海道の冬を越すには、多くの食料を蓄えなければならなかったのです。 |
|
|
800近代 |
800 5開拓のあゆみ
|
※考察 和人の進出
|
奈良時代頃には和人は既に蝦夷地に進出していたようです。記紀には道南地域の地名や羊蹄山なども記載されている。
この頃にはすでにアイヌと和人との交易が太平洋側(おそらく八戸付近)で行われていた。
長らく内陸の狩猟民であったアイヌはオホーツク人と混血し、海洋航海技術を獲得し、アムール川河口やカムチャツカ半島付近にまで進出するようになった。また、サハリン南部やアムール河口を襲撃して強奪する海賊行為も行われていた。
こうしてオホーツク人やニブフなどと対立し、大和朝廷に援軍を求め、660年に斉明天皇が派遣した阿倍比羅夫が奥尻島に進出していたオホーツク人を駆逐した。
しかし、これをきっかけに和人の船は北海道の日本海沿岸を北上し、たちまち利尻礼文や稚内まで到達し、更に網走付近まで交易路を広げていった。
7世紀にヤマト政権がアイヌとの交易地の太平洋側を禁止し、日本海側へ移し、朝廷による交易の独占が行われたため、争いとなり、多くの和人や交易のために訪れていたアイヌが渡島半島や石狩平野に移住し、又は引き揚げてしまった。
これによって多くの和人移住者によって和人文化がアイヌ文化に混入し、現在のアイヌの宗教儀式に見られる言葉や作法。宗教観念などが伝播した。
こうして次第に多くの和人が交易や移住などで蝦夷地と接触するようになり、和人の移住も増えていった。
その後、武力を携えたゴロツキ集団が進入し、やがて土地や先住民を支配をしようとしてアイヌと争いを始め、だまし討ちをしたりしながら支配域を広め、それと共にゴロツキが増加していった。 この延長線上に、本州から組織的に移住した、のちの蠣崎氏がいる。
と、理解している。 |
|
810
|
蝦夷地(北海道)に和人が住み始めたのは、鎌倉時代頃からです。
次第に商人や武士が増えて、道南に和人の町ができます。和人地の統一者となった蠣崎(かきざき)氏(後の松前氏)は、アイヌとの交易を独占して、
やがて「場所請負」という特殊な制度をつくりました。
当時の苫小牧地方は、千歳から運ばれてくるサケや樽前浜のイワシなど、東蝦夷地一番の生産地でした。遠く大坂方面から、北前船が商いに訪れました。
また、苫小牧は、石狩と結ぶ交通の要地でもあったのです。 |
|
|
1勇武津場所
2勇払から苫細へ
3産業をひらく |
勇武津場所
|
|
|
※考察 和人の蝦夷地支配
|
北海道道南地方の渡島半島南端の現:松前(当時は別の名前)付近にアイヌとの武力闘争で土地を支配し、江戸幕府に藩として承認をもらった松前氏は、しかし、当時の石高制に乗じることはできなかった。北海道では米が採れなかったからだ。そこで、家禄として家臣に道内各地をそれぞれの支配場所として割り当て“場所”と呼び、この地の住民から最初は本州商人から得た米などと地域特産品との交易をおこない、その頃にはもう北海道全海岸に進出していた商人に売り渡すことで収入を得、また、上納して藩財政の原資とした。
しかし、やがて、商品取引の間に武士が介在している二重手間をはずし、直接商人がアイヌと交易し、その何割かを領主と称する武士に払い、それを藩に上納するようになった。“場所”の交易を請け負った商人を“場所請負人”、この制度のことを“場所請負制”という。
場所請負人の商人は、漁場を開拓したり、商品開発をおこなったりしたが、やがては激しい搾取をおこなうようになり、江戸時代末期には、北海道全体でアイヌ集落やアイヌ文化の崩壊。過酷な労働に追いやることとなり、明治初期には鮭の乱獲により、鮭の捕獲禁止令が発出されたほどであった。
と、私は理解している。
江戸末期から明治になって、外国船が北海道を占領しようと軍艦を派遣したり、上陸して住民を射殺したりするようになると、江戸幕府はまず、調査員を派遣し、更に各藩に命じて沿岸防衛をおこなわせた。更に明治時代になると本州からの植民をおこなって開拓という方法で蝦夷地の支配を一気に推し進めた。
もし、この時にアイヌの勢力が強ければ、大きな抵抗に遭ったはずであるが、そうならなかったのは、この頃には上述したように商人によってアイヌ文化は崩壊寸前にまで陥っていたため、大きな抵抗はできなかったのだ。
と、私は理解している。 |
苫小牧開拓の歴史
|
820
|
和人の進出とアイヌ |
勇払場所 |
勇払俯瞰絵図
|
産業・社会制度の発展拡充
|
|
830森林開発
|
840
|
850産業を開く
手工業から製紙工業へ
|
苫小牧地方の産業は、豊かな森林資源を利用することから始まりました。
鉄道の枕木や、鉱山の坑木を作る製材所、マッチの軸木や小函の生地を作る工場、そしてベニヤ工場などです。
これらの工場は小規模なものでしたが、明治43年(1910)、王子製紙が操業を始め、沢山の作業員が働くようになりました。
それ以来、苫小牧は「紙の町」として栄えてきたのです。 |
|
|
|