北海道の縄文 №4 2022.06.01-2
新ひだか町博物館 (新ひだか町図書館)
日高郡新ひだか町静内山手町3丁目1-1 0146-42-0394
月休・祝日の翌日10:00~18;00 撮影可
|
近隣の観光地 |
|
競走馬の生産地。美しい牧場の風景が延々と続く。 |
|
近隣の博物館 |
|
山が海に迫り、海岸段丘上は牧場。UpDownの大きな道路。 |
|
宿泊情報 |
|
競走馬の生産地で、高額ホテルが沢山あり |
|
|
|
|
はじめに
「日高町立門別図書館郷土資料館」について
新ひだか町博物館の直前に訪れた、日高門別郷土資料館は撮影可ですが、掲載禁止と記憶しています。
しかし、とても重要な展示内容なので、あえて文書のみですが中心点をお伝えします。
掲載の可不可を問合せたが返事が無いので、掲載を停止しています。
※北海道には同音異字の地名が多く、モンベツと言えば紋別が知られ、門別は一般的ではない。更にややこしい伊達紋別もある。
そこで日高地方の門別ということで日高門別と言いますが、北海道民でも日高門別を知らない人もいます。
余談ですが、士別と標津はどちらもシベツと読みます。最近はサムライシベツと言って区別しています。
メカジキのイオマンテ
掲載禁止の「日高門別図書館郷土資料館」の中心展示物は「メカジキの送り」です。
アイヌ民族の習俗には、いろいろな「送り」があり、それは神への感謝と豊穣への祈りです。
クマ送り、シマフクロウの送り、エゾシカの送り、などなど、その地域のアイヌが食糧の中心とする動物の永遠の豊穣や、それをもたらしてくれた神への感謝が表されています。
日高門別沙流川河口域では、メカジキの送りです。
メカジキはバショウカジキ目メカジキ科の大型魚で、頭部先端に長大な吻(フン)を持っていることが知られています。
私は、この漁で有名な沖縄県与那国島久部良漁港で、4mもある魚体を釣りあげるところを撮影し、ただし、そのフィルムは、漁船の主にとられてしまいましたが、(ただの旅行客が撮影しているのを、久部良中の民宿に連絡し、既に沖縄を離れ、帰宅している私を突き留めて写真とフィルムを要求するなどと、尋常ではなく、役場職員ということでしたが、大変驚きました。なぜ、私だとわかったのだろうかと今でも不思議です。)
ですから、南の島の魚だと思っていました。そして、回遊も、宮城県金華山沖から太平洋へと泳ぎ去るものと思っていました。
ところが、暖流が北海道沖にまで北上し、それに乗って北海道沖にも回遊しているとは思いも寄りませんでした。
メカジキは7月から 11 月にかけて胆振から日高沿岸. を回遊し、白老沖から幌別沖が好漁場でした。(引用「北の発掘物語」)
要するに、襟裳岬から室蘭沖を回遊し、この辺りで多くの漁獲があったようです。
特に好漁場だった白老町のアイヌ民族博物館では、シリカプ(=メカジキ)送りをイベントとして現在もおこなっています。
メカジキの吻は鋭い刃物状で、小魚の魚群の中でこれを左右に振って魚を傷つけ食べるのです。ノコギリザメや同じような魚がほかにもいます。
そのため、アイヌのチャシ(砦)では、周囲に立てた木の柵の間にこれを立てておき、敵の侵入を防いだとあります。
参照「白老アイヌ民族博物館」では80と100でメカジキが少しだけ出てきます。
さて、
日高門別 「シノタイ遺跡」(縄文~アイヌ時代の複合遺跡)はメカジキ送りの遺跡です。
北海道沙流郡門別町字冨浜のシノダイ岬の近くにあります。メカジキ送りの祭祀場はアイヌ時代の遺跡です。
砂丘の中からメカジキの吻を立てて丸く柵状に囲った送りの跡が出土しています。
遺跡はドローン映像でもわかる、寒風吹きすさぶ な~んにもない 海岸の砂浜です。
(映像中にでてくる巨大ホテルグランオーベルジュホッカイと、近くに小さく見える高齢者対応型居住施設ハマナス館は廃業)
日高門別郷土資料館の展示では、
縄文時代の沙流川下流域の遺跡名不記載の遺物には、
縄文早期暁式土器の底にホタテガイの貝殻痕跡が見つかっています。浅い海の海底にいるホタテガイを網や手などで捕獲し、土器作りの際に底に敷いたものと思われます。漁撈中心のアイヌ集落。きっと秋から冬には近所の沙流川に鮭が遡上し、これらも捉えて食糧や交易品にしていたのでしょう。
縄文時代には船の構造から、メカジキ漁は不可能と思われ、打ち寄せられたものを食べたとされています。
(しかし、近世アイヌのメカジキ漁も不安定な丸木舟でも行なっています。必ずしも不可能とは思えませんが、、いかがでしょうか。)
縄文早期遺跡からは黒曜石製石鏃多数。石錘、琥珀玉、独鈷石なども出土する。道内の黒曜石やサハリンの琥珀玉など交易も盛んだったようです。
アイヌ文化期では17世紀頃にメカジキ漁が盛んにおこなわれるようになった(館内パネル引用)とあるので、中世・近世以降の漁撈のようです。
メカジキ送り遺跡の
シノタイA遺跡は、シノダイ岬の砂丘上及び背後の海岸段丘上に形成されたアイヌ文化期を中心とする遺跡です。隅丸方形住居跡も出土。
メカジキを主体とした送り場は、周辺から100頭分以上の吻骨片が出土しており、なかには、吻骨が地面に刺さったままの状態で発見され、
メカジキ送りの実態がわかってきました。
また、送り場からは、メカジキ、歯クジラ、イルカなど大形魚類や、海棲哺乳類の頭部や、エゾシカの骨なども見つかっている。
どうやら岬では、7~11月のメカジキの漁期になると、砂浜から板綴舟を繰り出して、ひっそりと漕いでメカジキに近付き、回転式離頭銛を打ち込み
銛につなげた綱に何か(大きな木製の浮きか、舟か、魚類の浮袋か動物の膀胱などで作った浮袋)を引かせて弱るのを待ち、弱って浮いてきたところに二の銛、三の銛などを打って仕留め、砂浜に引き返して舟とメカジキを引き上げて、最初に吻を石斧などで切り落とし(与那国島でも最初に鋸で切り落としていました。危険だから)、次に巨大な西洋の死神が持つような鎌に似た尾びれを切り落としてから解体したでしょう。
メカジキ以外にも、クジラや海獣類なども、同様の方法で採っていたのでしょう。そして、同じように「送り」をしていたようです。
北海道とは言え、夏から秋・冬です。寒風の中では、干物にすることができたでしょうが、夏場はどのように保存処理したのでしょう。
塩漬けか塩引きにしたのでしょうか。
夏場は煮ても焼いても、そう、長持ちはしないが、塩漬けの食べ物を主食にすると、高血圧の原因となり、寿命は短かっただろうと思います。
暖流が流れる海を前にした、比較的温暖な、しかし、風の強い地域であり、7~11月まではメカジキ漁だが、12~6月はどうしたのだろう。
何しろ周囲には海と、砂丘と、不毛の大地だけだから。それでも秋冬はエゾシカ猟ができたかもしれない。
ただ、メカジキ漁期外の、休漁期の集落がもっと内陸にあるのではないだろうか。 何もしないで半年も、この不毛の荒野で居住し続けることは無理で、冬から春にかけては別の場所でシカ猟や、春には若菜摘み、秋には木の実拾いもしたのではないだろうか。
北の発掘物語(ネットから削除されたようだ)の記述を復元した内容
➀「平取町ハヨピラ自然公園のハヨピラの語源には二つの説があります。 ※この公園は宗教団体の廃墟施設。UFOとの交信を目指したという。
「ハヨㇰ (hayok) 武装した ピラ (pira) 崖」
「ハイ (hay) メカジキの吻 オ (o) 置く ピラ (pira) 崖」ということで、
メカジキの吻 オ(o)を置く ピラ(pira)崖]の地名が残. されています。 ※メカジキの吻を置く崖。武装した崖。
※ということで、シノダイ岬後方の崖にはメカジキの吻が立て並べられていて、さながら武装した崖のようだったそうだ。狐などの収穫物を荒らす動物の侵入を防ぎ、また、チャシのように敵として侵入する人間を防ぐためだったのかもしれない。
②「太平洋に面した日高町シノタイ遺跡の調査ではメカジキの吻が柵のように並んで出土しました。メカジキは7月から 11 月にかけて胆振から日高沿岸を回遊し、白老沖から幌別沖が好漁場でした。漁場までは、車櫂(カンジ)で漕ぎ、魚影を発見すると早櫂に持ち替えて静かに近づきました。車櫂ではパシャパシャと 波音が立ち、メカジキが逃げてしまうからです。」
※車櫂とは板綴舟の舷側板の左右のふなべりに突き出た突起(タカマ)に穴をあけた櫂をはめ込み、一人で立ち、両側の櫂を回転させて漕ぐ方法。
※早櫂とは進行方向に背を向け、二人が船の両側で櫂を漕ぐ。カッターボートの漕ぎ方だ。この際、かじ取りが必要。 |
|
|
|
目
次 |
門別郷土資料館について
01日高ドライブ
03建物外観
05入口展示
常設展示室
10古地図に記された町
20空から見た新ひだか町
30和人の歴史年表
100縄文時代
101遺跡と年表
110駒場7遺跡
113土器
115石器
120ショップ遺跡
122石器の用途機能による分類
123土器
130中野台地A遺跡
132土器
133一号址出土石器 |
140ホロケ遺跡
143石器
144異形石器
147装身具・石棒
148土器
150静内御殿山墳墓群
151配石遺構
152土器
154石棒
155装身具
156御殿山式土器
158土偶
159注口土器
200旭町1遺跡
203土器
220郷土史研究部年表
300アイヌ時代
310アイヌ文化
312アイヌ口承文芸
313アイヌの神々
314道具 |
330明治時代
330移住した人々
340昆布漁
341三石昆布
342昆布の生活史
345北海道の主な昆布と分布
346昆布と刈り取り道具
347コンブ漁の姿
348暮らしと昆布
350日高の自然
361人々の暮らし
363戦争と町・災害の歴史
365町の産業
368教育 |
|
|
|
01日高ドライブ
日高門別図書館(日高町門別郷土資料館)から新ひだか町図書館へ35km
郷土館・博物館は一度見るともう何度も人は来ないので、図書館に併設して集客しなければならない。
地方の博物館や郷土資料館が衰退し、やがては老朽化を理由に建物ごと貴重な展示物が壊されてしまうのが現状です。
美しい牧場 |
牧草を刈り取り
絵のように美しい |
5月末は新緑の季節 |
北海道沿岸は海岸段丘。高い段丘と港町の低地が |
ジェットコースタのように続く。
右手の遥か彼方が襟裳岬。 |
さっきの道は左手の段丘上だったんだ。 |
太平洋側は寒流千島海流上を渡る風が |
危険な海霧をもたらす |
右の鉄橋は日高本線
|
暴風雨で線路が流失し廃線に |
この右下の線路は廃線になっても仕方ない |
|
|
03建物外観
|
05入口展示
|
「北の零年」の淡路島徳島藩は明治政府から静内、新冠両郡の支配を命じられ、洲本城から3艘の汽船で546人が移住した。
移住したのは武士と農民で、以下の「淡路豊年祭」や「社日碑」は、同行した農民が持ち込んだふるさとの名残でしょう。 |
|
新ひだか町と新冠町
社日碑の分布調査
|
社日は
淡路島の土着信仰 |
新日高町・新冠町市街の社日碑の分布と脳儀容センサス調査区域との重ね合わせ |
「淡路豊年踊り」
|
旧宮内省新冠御料牧場の台覧競馬
|
左壁面の掲示
国立アイヌ文化博物館
ウポポイのポスター |
ワッカ(水)
|
カント(空)
|
ウテカンバアンロー |
レラ(風)
|
ラム(心) |
|
|
常設展示室
|
10古地図に記された町
|
|
この地には、自然の中で営みを始めた人々がいた。
この地には自然を畏れ、敬い、感謝しながら生きた人々がいた。
新ひだか町博物館
ようこそ新ひだか町博物館へ
この地には自然に挑み、苦難を乗り越え土地を開いた人々がいた。
この地には自然の恵みを生業へと結びつけた人々がいた。
先人の知恵や工夫によって生まれた「力」が、
自然と調和し、人と自然が共生する私たちの新ひだか町を
創り上げています。 |
館内図
|
古地図に記された町
|
現在の地図に見る北海道の姿は、軟骨魚類のエイに似ているといわれます。東部が頭、
中央部が胸びれ、西部が尾、というわけです。すると、新ひだか町の位置は、エイの右
胸びれあたりでしょうか。北海道及び新ひだか町の姿と位置が正しく地図に記されたの
は江戸時代のことです。それは伊能忠敬(測量家・地理学者、1745~1818年)らの
測量によるもので、当町三石は、その測点のひとつでした。 |
|
古地図に記された町 |
古地図 |
|
|
|
新ひだか町の位置 |
|
ミツイシ |
蝦夷闔境輿地全図
|
蝦夷地全図
|
日高地方
|
|
日高国静内郡図
成立年不詳(明治初期) |
日高国三石郡図
成立年不詳(明治初期) |
日高国三石郡図
成立年不詳(明治初期)
|
北海道歴検図
日高州(上)漆内
1871(明治4)年 |
北海道歴検図
日高州(上)漆内
1871(明治4)年 |
|
20空から見た新ひだか町 (この鳥瞰図は上空7,952mから町を見た様子を描いています。)
|
「北海道の背骨」といわれる日高山脈を背に太平洋を望む新ひだか町は、
北緯42度12分31秒~42度40分03秒、東経142度20分01秒~142度53分28秒に位置します。面積は1,147.75㎢で、その大半が山林です。
町の最深部、山脈の前縁には、標高500m以下の低山、丘陵が広がり、静内川など太平洋に注ぐ河川沿いや太平洋沿いには何段もの段丘が発達しています。 |
空から見た新ひだか町 |
この鳥瞰図は上空7952mから描画。 |
空から見た新ひだか町 |
空から見た新ひだか町 |
|
|
新ひだか町 |
|
|
|
|
|
地理DATA |
地形・気候・海流 |
対馬暖流の一部が恵山岬から噴火湾~白老~襟裳岬に流れ込んで、日高地方は比較的温暖な地域となっている。 |
平均気温の比較
降水量の比較 |
最深積雪 |
|
|
30和人の歴史年表
|
1633-1867
|
1868-1901
|
1891-1926
|
1926-1959
|
1956-1985
|
1984-2005
|
1994-2015
|
|
|
|
|
|
|
100縄文時代
|
101遺跡と年表
|
新ひだか町の遺跡
遺跡は昔の人々の生活の痕跡です。それは住居跡、貝塚、墳墓などの遺構と、土器、石器、金属器などの遺物からなります。
新ひだか町には「集落跡」「遺物包含地」「貝塚」「墳墓」「チャシ跡」などの遺跡があり、その総数は優に100を越えています。
なかには歴史上、学術上の重要性が認められ、国や北海道の史跡に指定された遺跡もあります。 |
|
新ひだか町の遺跡
|
新ひだか町の遺跡 |
|
|
|
年表(旧石器~現代) |
旧石器~縄文 |
弥生~平安 |
鎌倉~平成 |
|
|
|
110駒場7遺跡 縄文早期、中期 新ひだか町静内柏台
|
駒場7遺跡は、新ひだか町静内柏台で発見された縄文文化早期及び縄文文化中期の遺跡です。
1981~1982(昭和56~57)年に調査され、当時の集落跡であることが分かりました。
この遺跡からは、縄文文化早期の貝殻で文様をつけた土器が多数出土しています、
興味深いのは、
道南ならではの底が尖った土器と (縄文尖底土器)
道東ならではの底が平らな土器が、ここで混在していることです。
※二つの土器文化が混在しているということは、この地点が東西から来る旅人の中継地、休息地、または、持ってきた食糧がここで尽きる地点。
または、二つの土器文化の交易地点だったのかもしれない。
|
引用「北海道 道南 縄文尖底土器」
|
縄文時代早期後半 全道一円に、平底の絡条体圧痕文・組紐圧痕文土器群、が広がった
縄文時代前期初頭 胎土に繊維をふくんだ縄文が多く施文された尖底もしくは丸底の土器群が出現する。
それまでにはみられなかった、胎土に多量の繊維を混ぜる技術伝統をもった土器で、縄文、撚糸文、竹管文、押型文などの文様で飾られた。
道南には春日町式土器(函館市春日町遺跡を標式)、土器全面に縄文や撚糸文が施文された土器分布する。
この仲間には椴法華村で出土した竹管文が多用されたトドホッケ式土器、
縄文と半裁竹管で描かれた連続弧文が施文された石川野式土器がある。
同じ頃、噴火湾岸から石狩低地帯には道南に分布した土器と類似した、砲弾形の尖底土器に粗い斜行縄文が施文された中野式土器が分布する。
道東・道北には矢羽状、格子目状の押型文と撚糸文が施文された押型文土器や、
ロープを土器に巻きつけて施文したような文様が施文された綱文式土器が使用されていた。
繊維土器普及の理由(東北地方から伝播)
前の時期にくらべて大型な尖底や丸底土器には例外なく繊維が含まれており、撚糸が含まれたものも見られる。
土器が大型になるにつれて形を保つのが難しくなり、焼く前の補強のために繊維を混ぜたものと考えられる。
|
引用「北海道 道東 平底土器」
|
引用「平底押型文土器-文化財オンライン」
平底押型文土器は北海道東部の縄文時代前期末から中期初頭に特徴的な土器である。
平底円筒形の器形は同時期の道南部に広がっていた円筒土器文化の影響とされるが、側面の押型文は道東部の特徴である。
引用「平底土器の出現」
北海道平底土器の出現は、道東と道南では様相が異なり、
道東(釧路など)では早期初頭に下頃部式土器や沼尻遺跡出土の条痕文平底土器が出現する。次に
道南(函館)の梁川町遺跡や春日町遺跡で出土する絡条体圧痕紋の平底土器。東釧路Ⅱ・Ⅲ式があり、
次に、押型文尖底土器や綱文尖底土器が次に編年されている。 … |
|
111
|
駒場7遺跡
|
縄文早期の住居跡 |
遺跡位置 |
駒場7遺跡 |
|
113土器
|
縄文土器とは、縄文時代(約11,500年前~約2,700年前)に作られ、使われた土器の総称です。
皆さんは、縄目の文様がつけられた土器で、食べ物を煮炊きする道具だと分かったはずです。
しかし、土器の文様は、縄目の文様(縄文)だけではありません。
貝殻で文様をつけた貝殻文、
魚の骨で文様をつけた魚骨文、
ヘラや棒で文様をつけた沈線文など、様々な文様があります。
なお、土器の内外についたススやこげの分析から、土器の多くが煮炊きに使われたことが確かめられていますが、
ほかに、どのように使われたのか、はっきりしたことは分かっていません。 |
縄文がなくても縄文土器
|
貝殻沈線文系土器
駒場7遺跡
底にホタテ貝の圧痕 |
魚骨文土器
駒場7遺跡
魚の脊椎骨を押し付けたり転がしたりして付けた文様 |
貝殻・沈線文土器
貝殻・沈線文系土器
(平底)
PH-8出土
縄文早期
|
貝殻沈線文土器(平底)
PH-8出土
縄文早期
ホタテガイの圧痕底 |
貝殻沈線文土器(平底)
PH-7出土
縄文早期 |
貝殻沈線文土器(平底)
PH-22出土
縄文早期 |
貝殻沈線文土器(平底)
PH-22出土
縄文早期 |
|
|
貝殻沈線文土器(平底)
遺構外出土
縄文早期 |
|
貝殻沈線文土器(尖底)
PH-26出土
縄文早期 |
|
|
貝殻・沈線文土器(平底)
遺構外出土
縄文早期 |
貝殻沈線文土器(尖底)
出土
縄文早期 |
|
|
|
|
魚骨文土器
魚骨文土器
PH-2出土
縄文早期
|
魚骨文土器
PH-2出土
縄文早期 |
|
|
北海道前期の土器
|
115石器
|
引用「縄文尖底土器」
春日町式に伴う石器は貝殻尖底土器群に伴ったものと大差なく、
つまみつきナイフ、二等辺三角形の石鏃、石錐、各種のスクレーパー、磨製石斧、自然礫の一端に磨り跡のある磨石などがある。
中野式に伴う石器も春日町式と大差がないが、北海道式石冠(せきかん)とよばれている、礫を細かく敲いてお供え餅型に作りだし底面を平らな擦り面とした磨石(すりいし)、敲石、石皿、大型な石錘などがあり、北海道式石冠が多量に出土するのが特徴である。 |
PH-7出土遺物
駒場7遺跡
|
削器
PH-7床面出土 |
掻器
PH-7床面出土 |
石錘
PH-7床面出土 |
砥石
PH-7床面出土
|
磨り石
PH-7床面出土 |
砥石
PH-7床面出土 |
石錘
PH-7床面出土
|
貝殻・沈線文系土器
平底
PH-7床面出土 |
|
|
|
|
117
PH-22出土遺物
駒場7遺跡 |
貝殻・沈線文系(平底) |
|
石鏃
|
石匙 |
破片・砕片 |
砥石 |
石錘 |
すり石
くぼみ石 |
すり石 |
台石
|
|
|
|
120ショップ遺跡 早期~前期 新ひだか町三石旭町
|
ショップ遺跡は新ひだか町三石旭町で発見された縄文時代早期~前期の遺跡です。
その発見は江戸時代に遡ることが、松浦武四郎(探検家、1818~1888年)の著作「東蝦夷日誌」からも伺えます。
これまでに何度も調査され、「雷斧(かみなりまさかり)・環槌(たまのつち)・簇石(やのねいし)・陶器の欠(かけ)多し」という松浦武四郎の記述そのままに、多数の遺物が出土しています。 |
|
121
ショップ遺跡 |
|
出土遺物 |
遺跡位置図 |
|
石器の様と機能による分類
|
|
122石器の用途機能による分類
石器の用途機能による分類
|
|
|
|
|
|
狩猟具
狩猟具
|
突き刺す
石鏃・石槍
|
錘にする
石錘(漁網錘)
|
|
|
工具
工具
|
打ち割る
石斧
|
切る・削る
石匙
削器・掻器
|
孔をあける
石錐
|
みがく
砥石
|
作る
台石・たたき石 |
調理具
調理具
|
川を剥ぐ、
肉を切る・骨を切る
石匙・削器・掻器
|
製粉する
石皿
すり石・北海道式石冠
|
日を起こす?
たたく・砕く?
くぼみ石 |
|
|
宗教的な道具
|
123土器
|
魚骨文土器
PH-2出土
縄文早期
|
静内中野式土器
昭和36(1961)年
第1次調査出土資料
縄文前期
|
|
|
|
|
125ショップ遺跡出土遺物
ショップ遺跡出土遺物 |
石錘
|
|
石匙
|
石鏃
|
|
石斧
|
石冠
|
|
|
静内中野式土器
|
|
|
|
|
|
|
130中野台地A遺跡 縄文前期 新ひだか町静内清水丘
|
中野台地A遺跡は、新ひだか町静内清水丘で発見された縄文文化前期の遺跡で、1952(昭和27)年と1984~1985(昭和59~60)年に調査され、
土器と石器の「生産遺跡」であることがわかりました。
なお、この遺跡から出土した素材である粘土に繊維含む厚手で底が尖った縄文土器は、縄文文化前期を代表する土器の一つであり、「静内中野式土器」の名で広く知られています。 |
静内中野式土器
|
静内郡静内町中野遺跡出土を標識土器とする。高さ30cm以上の大型の土器が主体、口縁部はほぼ平縁で内湾する尖底土器。文様は斜行縄文が主体です。 引用 |
|
131
|
132土器
静内中野式土器 斜行縄文尖底土器
|
1331号址出土遺物
|
|
134
|
135石匙
|
|
|
|
|
|
|
|
|
竪型に横型が混じる。
西日本から青森に伝わり、海峡交易によって僅かに北海道に入り、日高地方にまで流布したのかもしれない。 |
|
|
|
136石槍
|
137石錘・敲き石・石斧
|
石錘
|
擦切残片
|
擦切残片、たたき石 |
|
|
石斧
|
|
|
|
|
|
石錘
|
すり石 |
|
|
|
|
|
|
|
140ホロケ遺跡 縄文後期~晩期 新ひだか町三石豊岡
|
ホロケ遺跡は、新ひだか町三石豊岡で発見された縄文文化後期~晩期の遺跡です。
1954(昭和29)年以来、何度か調査され、配石を伴う墳墓であることがわかりました。
なかには、長さ110cmの先が尖った「クサビ石」を突き刺す得意な埋葬例もあり、調査者を驚かせました。
なお、墳墓からは土器、石器、玉、漆塗りの弓の一部などの副葬品が出土しています。 |
クサビ石
|
特別展 |
クサビ石 |
|
|
141
|
143石器
|
145異形石器
|
147装身具・石棒
|
148土器 縄文文化後期~晩期
|
|
150静内御殿山墳墓群 縄文後期~晩期 新ひだか町静内目名
|
静内御殿山墳墓群は、新ひだか町静内目名で発見された縄文文化後期~晩期の遺跡です。
配石を伴う数十にも及ぶ大規模な墳墓群で、1952(昭和27)年以来、何度も調査され、土器、石器、装身具などの副葬品が多数出土してます。
墓制・葬制など縄文文化の人々の精神文化を考える上で貴重であり、遺跡は北海道の史跡に、出土遺物は北海道の有形文化財に、それぞれ指定されています。 |
|
151
|
152静内御殿山墳墓群出土遺物
|
153
|
154静内御殿山墳墓群出土遺物
北海道指定有形文化財
|
名称及び員数: |
静内御殿山墳墓群出土の遺物1件 |
|
規模: |
装身具31点、御殿山式土器45点、石器6点 |
|
記号番号: |
考6 |
|
所有者: |
新ひだか町 |
|
155装身具
|
|
|
|
|
|
装身具 |
装身具
土製品 |
|
装身具
石製品 |
装身具 |
|
朱漆塗櫛 |
耳栓
|
|
|
|
|
|
156御殿山式土器
御殿山式土器 |
|
|
|
|
|
|
甕
|
甕
|
壺
|
注口土器
竹などを挿した
|
注口土器 |
|
157土器・土製品
|
158土偶
|
土偶は何のために作られて、どのように使われたのか、はっきりとしたことは分かっていません。
静内御殿山墳墓群出土の土偶は、櫛、耳飾り(耳栓型)、仮面、首飾りを身に着けています。
ほかに、前髪、あるいは、額飾り・頭飾り、そして、胸のふくらみは認められます。
その装いは、何か特別な日の、特別な人物(女性)の姿を思わせます。 |
土器
|
159注口土器
|
注口土器 |
|
|
|
注口土器 |
|
注口土器 |
注口土器 |
陰嚢付注口土器
|
注口土器 |
青森から東日本に散見される陰嚢付が北海道日高地方にもあった。
地域で独自発生したか、本州から手本が来たか |
|
|
|
200旭町1遺跡 縄文中期、晩期 新ひだか町三石旭町
|
旭町1遺跡は。新ひだか町三石旭町で発見された縄文文化中期及び晩期、続縄文文化の遺跡です。
1981~1982(昭和56-57)年に行われた調査で、住居跡、土壙墓、埋壺、落とし穴などの遺構と、土器、石器、コハク玉などの遺物が発見され、
ここが当時の人々の居住地であり、埋葬の場あるいは葬送の場であり、狩猟の場であったことが分かりました。 |
|
201
旭町1遺跡
全体写真忘れ |
|
埋壺の出土状況
|
遺跡位置図 |
|
|
203
|
壺形土器(埋壺)
SP-126
縄文文化晩期
|
舟形土器
SP-185、SP-44
出土
縄文文化晩期 |
|
|
|
|
220郷土史研究部年表 1951~1977(昭和26~52)年
|
|
1952~1959 |
1959~1963 |
1965~1977 |
|
静内中野式土器
縄文文化前期 |
機関紙
|
機関紙
|
古人の営みを発見した人々
|
静内高等学校郷土史研究部
|
|
|
|
300アイヌ時代
|
310アイヌ文化
|
アイヌの人たちは、松前藩の家臣と交易を行い、米や漆・鉄製品などを得ていました。
しかし、年を経るごとに交換の条件が不利になり、松前藩に対する不満が高まりました。
1669(寛文9)年、ついにシャクシャインに率いられたアイヌの人たちは松前藩に対して戦いを始めました。
優勢に進めた戦いも、次第に劣勢となり、最後は謀殺されました。しかし、その戦いは、強大な敵に抗ったアイヌの英傑として、今も語り継がれています。 |
|
311
|
312アイヌ口承文芸
|
鶴の舞 |
国指定重要無形民俗文化財
アイヌ口承文芸
カムイユカラ
|
|
|
口承文芸について
|
アイヌの社会では、人から人へ口伝えによって生活習慣、教訓からユカラなどにいたる迄様々な情報が、何世代にも渡って伝承されてきました。
口承文芸には英雄叙事詩や神々が主人公になる物語、昔話などがあります。語りの長いものでは三日三晩にも及んだといいます。 |
アイヌ古式舞踊について
|
新ひだか町の静内・三石に伝えられるアイヌ古式舞踊は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
古式舞踊は、儀式の後や、コタンの人たちが集まった時の娯楽として長い間受け継がれてきました。
踊りには、自然とともに生きてきたアイヌらしく、動物の動きをまねた物が多くあります。 |
|
313アイヌの神々
|
アイヌの神々
|
|
|
天上の世界
人間の世界
死後の世界
アイヌの人々の暮らし |
|
天上の世界
天上の世界 |
|
|
天の高いところに、リクンカント(高天の世界)という神々の住む世界があります。天上の神々は人間と同じ姿で人間と同じ生活をしており、人間界には動物や植物あるいは自然界の現象などの形をとって現れるとされます。
この神々はカントコロカムイ(天を司る神)という最高神に束ねられており、
人々から敬われるとともに、人々の暮らしを守る役割をになっています。 |
人間の世界
人間の世界 |
|
アイヌモシリ(人間の世界)と呼ばれる地上は、神によって作られ、動物や 植物など様々なものの姿をとった
神々がいたるところにいます。
動植物の神は自らの体を人間に与え、火や水など自然現象の神は特技に応じて人間を助けます。
ですから、これらを利用する時には感謝の心を持って行いますし、神々の魂を天上に送るために、
イヨマンテやシワクテと呼ばれる送りの儀礼を行います。 |
死後の世界
|
|
人間の死に際して、遺体は土葬に付され、霊魂はクワ(墓標)の神に導かれてカムイモシリ(死者の世界)に暮らす先祖のもとへ向かいます。
死者の世界に着くと、生前と同じ暮らしを続け、やがてポエカシヌカラムイ(子を授ける神)によって、
再び赤ん坊として生まれて来るとされます。 |
アイヌの人々の暮らし
アイヌの人々の暮らし |
|
アイヌの人たちは、狩猟・漁撈・採取によって自然の恵みを得ながら、農耕や本州、樺太・大陸方面との交易を織り交ぜ暮らしを彩って来ました。
着物などのアイヌ文様やアイヌ語という独自の言葉に育まれたユカラなどの口承文芸は、世界に誇る文化として現代に伝得られています。
近代以降の急速な生活環境の変化により、多くの有形無形の文化が失われてきました。
今、様々な形で、文化の継承・復興が試みられています。 |
|
314道具
|
|
|
|
シトキ |
|
|
女性が儀式の時に首から提げます。
ガラス玉を連ね、中央には金属の飾りがつけられています。 |
ケトゥシ |
|
|
ガンマの葉で編んだカバン。
旅に出るとき、着物など大切なものを入れて運びました。 |
|
315
|
サパンペ
男性の儀式用冠 |
ニカプンペ
儀式用御座。色木綿入手以前は赤はハンノキの樹皮、 |
ニカプンペ
黒はクルミの樹皮で染めた。 |
エチウシ
儀式用酒器
本州産 |
ウトゥヌプ
片口。酒器 |
|
316
|
チカラカラペ |
白木綿の切り伏せと細かい刺繍が美しい儀式用の着物。
部分的に柄模様の別布を配し、色糸を用いて、華やかさが特徴です。 |
|
|
サケカラシントコ 酒を醸すための桶
|
ケマウシペ 酒を入れる
|
プタウンパッチ 蓋付き漆鉢(宝物)
|
|
|
|
|
|
イクパスイ(棒酒箸)
神々に祈るとき、イクパスイは人間の祈り言葉を神々に伝えてくれるとされる。 |
オッチケ(膳)
儀式のときにトウキ(杯)やイクパスイ(棒酒箸)を載せます。
漆塗りの膳です。 |
トウキ(椀)
儀式のときに酒を浮けるための酒器として使います。
酒は祈り言葉とともに、神に捧げられます。 |
|
|
明治時代
|
330移住した人々
北海道移住
|
明治新政府は北海道を「皇国ノ北門最要衝ノ地」として、その防備と開拓を推し進めました。
当時、日本はロシアと国境をめぐり緊張関係にありました。
また「富国強兵」「殖産興業」による日本の近代化のため、北海道の資源に期待がかけられていました。
そのようななか、北海道へ移住し、開拓の先駆けとなったのが、明治維新で失業した武士でした。 |
移住した人々 |
北海道移住 |
|
移住者の分布 |
移住者の出身地 |
淡路島洲本からの入植が始まりでした。 |
移住前の状況
|
明治以前の北海道は蝦夷地と呼ばれていました。江戸時代後期、ラッコの毛皮などを求めて蝦夷地周辺にロシアが進出してきます。
幕府はロシアに対抗するため、蝦夷地を直轄し警戒したほか、日本の領土であることを示すためにアイヌの人々を和風化しました。
この時期、幕吏らが蝦夷地を往来し、防備のための探検や測量をしており、新ひだか町も踏査されています。 |
移住者たちの暮らし
|
ピンボケで判読不可
開墾は、まず、草や茅を刈り払って道路を作ることから始まりました。
ブヨに刺されて〇みとかゆみに悩まされた話やクマを見つけて慌てて逃げた話などが今に伝わっています。 |
|
340昆布漁
|
341前浜の恵み -ミツイシコンブ-
三石(日高)昆布の名声
|
日高沿岸の昆布は、水揚げされたその時から天日による乾燥を行い、幾つもの手間ひまをかけて、初めて製品として出荷されていきます。
今では、北海道を代表する主要な昆布の銘柄の一つとして、三石(日高)昆布の名声を高め、日本全国にその名を知らしめた、小林重吉や幌村運八ら、先人たちの功績がありました。 |
昆布産業に貢献した人々
|
小林重吉(1825-1903) 函館生まれ。祖父の代から三石場所の請負人を務めました。明治2(1869)年の場所請負制度廃止後も、三石郡内の主要な漁業を経営し、事業の拠点を函館に置きながらも、三石では数々の事業に取り組みました。中でも明治10(1877)年には、姨布村(現在の三石本町)に「刻昆布製造所」を設け、品質の高い製品を清国の上海に輸出して、信頼を得、昆布輸出の足掛かりを作り、三石昆布の名を全国的に有名にしました。
また、自ら西洋型帆船を所有して、海運業に携わる一方、船員養成の必要性を感じて、明治9 (1876)年には、日本で初めての海員学校を姨布村に設立したほか、明治15 (1882)年には、私費を投じて自宅の一部を解放し、三石小学校の起源となる学校を開設しています。
※あまり昆布の話は出て来なんだなぁ。 |
|
342コンブ
昆布の生活史
|
海の中で、生育する植物には、海草と海藻があり、昆布は海藻の仲間です。海草は、根・茎・葉の区別があり、花を咲かせて種子によって増えますが、海藻は花は咲かず、胞子によって子孫を増やします。
私たちが海へ行った時に目にする昆布の体は、“胞子体”と呼ばれ、雌でも雄でもない、茎と葉の区別のない葉状体です。 |
昆布の一年
|
①夏の終わりから冬の始めにかけて、この胞子体の葉の表面に胞子のうが作られ、次第に黒く盛り上がった“子のう斑”として広がっていきます。
②胞子のうの中には“遊走子”と呼ばれる胞子が作られます。この遊走子は西洋なしのような形をしており、大きさは数ミクロンととても小さく、2本のべん毛を使って海の中を泳いで移動します。海中の岩やコンクリートブロックなどにたどり着き、それらに付着した遊走子は、細胞分裂を行って枝分かれをしながら伸びていき、(葉状ではなく)糸状のからだの“配偶体”になります。
③配偶体には雌と雄があり、それらは顕微鏡で観察すると、細胞の大きさから容易に区別できます。大きい細胞からなるのが雌の配偶体で、小さい細胞からなるのが雄の配偶体です。
④やがて雌の配偶体には“生卵器”が、雄の配偶体には“造精器”が現れ、まもなくそれぞれの中には卵と精子が作られます。卵は球状で、直径数十ミクロン、精子は2本のべん毛を持った西洋なし形で、遊走子よりも小さめです。
⑤卵と精子による受精の後、受精卵は細胞分裂を繰り返して葉状となり、冬の終わりから夏の初めにかけて活発に成長して、再び全長数メートルの胞子体へと育っていきます。
北海道の沿岸に見られる昆布の多くは寿命が2年であり、遊走子を放出した2年目の胞子体は次第に枯れていきます。 |
コンブという生き物 |
昆布の生活史 |
昆布の生活史 |
➀胞子のう |
②配偶体
③配偶体 |
④雌雄生殖器の成長
⑤受精と成長
|
|
|
枯死
成熟
胞子体
芽胞体 |
|
|
|
|
|
|
345北海道沿岸の主なコンブと分布
|
コンブ類(褐藻類コンブ目植物)は、現在世界で約130種類が知られています。日本国内では37種類、このうち北海道沿岸では28種類が確認されており、北海道は世界で最も昆布の多様性に富んだ地域といえます。
種類によっては北海道の漁業を支える重要な漁獲対象となっており、日本で採れる昆布の約95%が、北海道沿岸で水揚げされています。 |
北海道沿岸の昆布と分布
|
北海道沿岸の主なコンブと分布 |
各部の名称
中帯部
縁辺部
葉縁又は縁
葉基部 |
昆布の分布 |
リシリコンブ(利尻昆布)
ホソメコンブ(細目昆布)
ガゴメコンブ(がごめ昆布)
オニコンブ(羅臼昆布、おに昆布)
ナガコンブ(長昆布)
ガッガラコンブ(圧葉昆布)
ミツイシコンブ(三石昆布・日高昆布)
マコンブ(真昆布) |
|
|
|
|
ミツイシコンブ 褐藻類 コンブ科
長さ7~8m、幅10~15cmほどの長い帯状の昆布で、北海道太平洋沿岸の日高地方が主な産地であるが、津軽海峡の函館付近まで分布する。
真昆布に比べて縁はあまり波打たず、中帯部は幅の1/6ほどで細く、おもての中央には狭い溝がある。細く火が通りやすいため調理しやすく、煮物などの食用にも、だし昆布にも利用できる優れものである。
主な製品名は「三石昆布」、「日高昆布」。 |
|
|
マコンブ 褐藻類 コンブ科
体は革質で黒褐色。通常長さ2~6m、幅15~20cm、ときに更に大きくなる。厚みのある中帯部は幅の1/3~1/2の太さがある。縁は薄くなり大きく波打つ。
水深2~10mの岩の上に多く生育し、2年生。主に北海道南部、本州北部に分布するが、北海道函館地方を主産地とし、昆布の中では最も品質佳良な種類として利用されている。
上品な甘みと、コクのあるまろやかな澄んだ出汁が取れ、高級出汁として使われる。
主な製品名は「真昆布」。 |
|
|
カゴメコンブ 褐藻類 コンブ科
函館地方を主産地とし、津軽海峡から室蘭にかけて分布する種で、中帯部は葉幅の1/3~1/4と広く、葉状部全体に龍紋状の凹凸が形成される。
長さ1.5~2m、幅30cmほど。粘質がとても多い。2年生または3年生。味は、甘みが強く、粘りも強い。松前漬けに使用される。
製品名は「がごめ昆布」など。 |
|
|
ホソメコンブ 褐藻類 コンブ科
北海道日本海沿岸南部、津軽海峡、本州三陸沿岸に分布する。葉状部は線状または笹の葉状で、中はゆるやかに波打つか、平坦である。
長さ1~2m、幅10cmほどでマコンブやリシリコンブと比べると、細く、小型である。1年生と言われるが、2年生も多い。
味は、甘みが弱く、刺激性の苦味と粘りがあり、主に昆布巻きや佃煮に利用される。
主な製品名は「細目昆布「」。
|
|
|
リシリコンブ 褐藻類 コンブ科
北海道日本海北部からオホーツク海に分布し、利尻・礼文両島が主産地である。長さ1.5~2.5mと時に3mを超え、幅15~20cmで、やや細い。
体は革質でやや硬く、濃い黒褐色をしていて、マコンブに似るが、縁まで厚い。品質が良く、薄い塩味の香りの良い澄んだ出汁が取れ、高級出汁として使われる。
主な製品名は「利尻昆布」。 |
|
|
オニコンブ 褐藻類 コンブ科
北海道東部の厚岸、根室から知床半島羅臼地方に分布する。中帯部は厚く葉幅の1/3~1/2の太さがある。縁は薄くなり、幅の広いものほど大きく波打つ。長さ2~3m、幅20~30cmで、形態は真昆布によく似ており、品質も真昆布に劣らない。薄い黄色の、濃厚な風味で香り高い甘みがある出汁が取れ、高級だしとして使われる。
主な製品名は「羅臼昆布」「おに昆布」。 |
|
|
ナガコンブ 褐藻類 コンブ科
三石昆布に似ているが、長さ15~18m、幅12~20cmもあり、日本産昆布の中で最長。体はしなやかな革質で、縁は平坦かゆるやかに波を打つ。
釧路、根室地方の海中で大群落を作り、生産高は最も多い。出汁は少なく、甘みが薄いが、肉厚のものは味も良く、煮物にすると柔らかくておいしい。
主な製品名は「長昆布」、「棹前昆布」。 |
|
|
ガッガラコンブ 褐藻類 コンブ科
釧路、根室地方の波の静かなところに生育する。長さ2~5m、幅5~20cmで葉状部は平坦なものが多く、縁は厚くあまり波打たない。
中帯部は幅の1/2以上になる。質は硬くて折れやすい。2年生または3年生。味は甘みが弱く、刺激性の苦味と粘りがあり、主に昆布巻きや佃煮に使用される。
主な製品名は「厚葉昆布」。 |
|
|
346昆布と刈り取り道具
|
347コンブ漁の姿
|
日高沿岸のコンブ漁は、7月上旬から9月下旬、遅い時で10月中旬まで、船外機船で「かぎ」「ねじり」と呼ばれる漁具を使った「採りコンブ漁」が行われます。
各浜には、その日の漁を行うかどうか判断する役目の「旗持ち」がおり、夜明け前から日和見をして、海が穏やかで午後まで天気が続くような日に旗を掲げます。この旗を合図に一斉に漁が始まります。
陸には「おかまわりさん」が待機し、水揚げした昆布を玉砂利が敷き詰められた干場に素早く並べ、その日のうちに天日乾燥させます。
漁は午前中に終了しますが、昆布が乾くのを待って夕方までには取り込み、昆布採りの一日が終わります。
干し上がった昆布は、昆布小屋(倉庫)で保管された後、3尺5寸(105cm)の長さに切り揃えられ、基準に従って1本1本選別(「選葉作業」)されます。
等級ごとに20kgを1駄として結束し、検査機関の職員が基準に合っているかどうか確認して、合格した昆布だけが出荷されます。 |
|
コンブ漁の姿 |
コンブ漁の姿 |
日高の昆布浜 |
昆布浜 |
昆布漁協と浜名 |
昆布漁の実際
|
本旗
採取
天日干し
選葉
結束
検査
出荷 |
|
|
|
|
|
348暮らしと昆布
暮らしと昆布
|
日本の伝統的な食材として、今も大切に扱われている昆布。神事や仏事では大切なお供え物としても登場します。長い歴史の中で昆布は、私たちの食文化や年中行事、儀式など、人々の喜怒哀楽とともに、暮らしの様々な場面の中に取り入れられてきました。 |
歴史に見る昆布
|
古くは奈良時代に昆布が朝廷に献上されている記録があるほか、
平安時代には既に、現在の函館市域で採れていた「宇賀昆布」が、蝦夷地の名産品として知られていました。
日高沿岸では、江戸時代の場所請負制の下、商人の豊富な資金力で、沿岸の漁場開拓が進み、生産量が拡大しました。
1891(寛政3)年の「東蝦夷道中記」には、当時の三石場所の昆布生産量が14,500駄(駄:昆布50枚を1把とし、4把を1駄とする)であることが記録されています。 |
暮らしと昆布 |
歴史に見る昆布 |
|
和食と昆布
|
和食と昆布
|
2013(平成25)年、「和食:日本の伝統的な食文化」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されました。
和食は「だしの文化」とも言われ、素材が本来持っている味を「だし」の「うま味」が引き立たせる料理です。
「だし」の素材である昆布が、国の内外から注目を集めています。 |
|
昆布の栄養
|
昆布の栄養
|
昆布は海の野菜といわれるほど、ビタミンやミネラルなどの栄養素が豊富です。
ミネラルは人体に必須とされるもののうち、そのほとんどを含んでいます。 |
|
昆布の消費
|
昆布の消費
|
富山市の1世帯当たりの昆布の年間支出金額(2011~2013年平均)は、全国平均の2倍を超え、群を貫いています。
北陸地方、近畿地方で支出金額が多くなっていますが、この背景には、これらの地域が古くから昆布の集散地として栄え、独自の昆布食文化が発展してきたという歴史的な経緯があります。
一方、昆布の生産地である北海道(札幌市)は、支出金額では下位に位置しており、消費が低調です。
それぞれの昆布の生産地ではも昆布の消費拡大に向け、健康食である昆布の特色を生かした、魅力ある製品の開発が行われています。 |
|
|
|
350日高の自然
|
|
|
|
|
|
高麗雉 蝦夷雷鳥 オシドリ
ヤマシギ オシドリ(オス) |
トエキョウトガリネズミ
日本医たち |
アライグマ |
キタキツネ |
エゾシカオス |
ヒグマ |
|
360暮らし |
361人々の暮らし
|
「涼夏少雪の郷、新ひだか町は、北海道の厳しい環境の中でも、夏涼しく、冬には雪の少ない、過ごしやすい気候に恵まれております。
私たちは、太古の昔より、そうした日高山脈の広大で豊かな自然環境の中で育まれて来ました。
そこには、過去から築き上げてきた先人たちの、四季折々の暮らしがありました。 |
画面左側の隠れている展示物です |
|
人々の暮らし
桜祭り・蓬莱山祭り |
|
明治時代の三石
昭和初期の活動大写真
昭和26年町制施行記念
春立潮干狩り
静内駅前
農繁期託児所
三石スキー場
御幸通り歩行者天国 |
アイロン(電気・炭火)
こて
ひのし
|
|
362
宇宙戦艦ヤマト・石原裕次郎のLPレコードがある |
農耕具
たこ足水田直播器は見えますか |
たこ足水田直播器 |
唐棹・足踏み脱穀機
・やいた |
|
363戦争と町・災害の歴史
|
365働く
|
まちの産業 |
まちの産業 |
農業 |
水産業 |
|
林業 |
商業 |
工業
|
畜産業 |
アオダモによるスポーツ用品の生産 |
|
農業 |
農業
日高山脈を望む広大な大地で営まれる農業は、明治以降、森林の開墾から始まり、雑穀や豆類などを作付、次第に耕地を広げていきました。
しかし、主要な耕作地である水田は、減反政策などにより、畑地・宅地・草地などに変わり減少してきています。一方、付加価値の高いミニトマト、アスパラなどの野菜や花卉栽培が盛んになってきています。 |
水産業 |
水産業
日高沿岸域では、太平洋流れる暖流と寒流が行き交い、水産資源がとても豊かです。「日高昆布」で全国に知られる三石昆布は、江戸時代から特産品として北海道街へ産出されてきました。明治から大正にかけて、カツオが豊漁で鰹節が生産されたこともありました。現在では、良質のサケ・マスやカレイ、ウニ、つぶ貝などが日高ブランドとして道内外に出荷されています。 |
林業 |
林業
日高山脈の麓に広がる一帯は、良質な森林資源に恵まれています。新ひだか町の面積の8割は林地で占められ、エゾマツ・トドマツの針葉樹、ナラ・カツラなどの広葉樹が生産されてきました。上質の材は、鉄道の枕木や家具材として、北海道外から海外にまで輸出された時期もありました。昔の造材は、冬に山に入り、まさかりとノコで切り倒し馬で運び出しました。現在は、資源の有効活用のため、植林事業も積極的に進められています。 |
商業 |
商業
新日高町は、日高管内の経済の中心地として賑わいを見せています。特に競走馬の生産が伸びるに従って、馬市などに多くの人が集まり、中心商店街をはじめ、飲食店、宿泊施設などが大きく展開してきました。しかし、当町においても、郊外型店舗の進出や自動車の普及などにより、人の流れが変わってきており、商店街再興のため新たな取り組みが模索されています。 |
工業
|
工業
地方の豊富な資源や生産物を活用した加工業が盛んでした。原木を加工する製材工場やベニヤ板や紙パルプの原料であるチップなどを生産しました。この地域で収穫された亜麻を原料にした繊維生産や牛乳を加工してチーズを製造する工場もありました。現在、ベニヤ板や生コン・ヒューム管の製造は、道内トップクラスを誇る技術のもと海外でも事業を展開しています。 |
畜産業 |
畜産業
1872 (明治5)年、開拓使によって開設された新冠牧場場(現家畜改良センター新冠牧場)で、本格的に馬の飼育・改良が始められました。
かつては農用馬や軍用馬の生産が大きな位置を占めていましたが、現在では、サラブレッドなどの競走馬の生産が主体となっています。近年、三石牛のブランドで知られる黒毛和牛の生産も拡充してきています。 |
アオダモによるスポーツ用品の生産 |
|
|
368教育
|
1871 (明治4)年に静内郡に移住した稲田家臣団は、その年、子弟教育のため、私塾の益習館を建設しました。後の高静小学校の前身となりました。
三石では、代々三石場所の請負人であった。小林重吉が、1882 (明治15)年、自宅の一部を教室にして教師を招き、教育が本格化しました。その後、町内各地に公立学校が設置されていきました。 |
|
|
|
|
|
|