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新潟の縄文 №5 2020.09.26-2
津南町歴史民俗資料館 新潟県中魚沼郡津南町中深見乙827 025-765-2882月休撮影可
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交通 |
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レンタカー |
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特徴 |
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火炎土器・アンギン編 |
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火焔土器もアンギン編も津南町特有として、他地域と区別
されるようです。このうちアンギンは近代まで製作し、
着用されていたそうです。 |
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2021.8/28加筆修正 |
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目
次 |
前庭展示 01茅葺民家
05外観
07津南町の石仏
100第1展示室
101室内全景
110旧石器時代
111先史狩猟採集民の曙
112石器編年と遺跡と指標
113正面ヶ原D遺跡
加用中条A遺跡
120縄文時代
121時代の変革
旧石器から縄文へ
122石器
130縄文草創期
131本ノ木遺跡
132考古学会を席巻した
「本ノ木論争」の舞台
133後期旧石器
杉久保石器群
134細石刃
135尖頭器
136ポイント |
137山内清男の歴史観
大陸に起源を求めた
「縄文土器文化」
150縄文早期
151土器形式
153縄文前期
170堂平遺跡
171雪国縄文文化の里
172石鏃・石槍
173石匙・石錐
174打製石斧
175石錘
200縄文中期
210前期末葉~中期初頭
211土器形式
213磨製石斧
214石皿
215調理器具
216装身具
230中期前葉 土器
231~234土器形式
235道尻手遺跡
240中期中葉
241土器形式
250中期後葉
大木8b系土器
道尻手遺跡
310後期初頭
311土器形式 |
320石器・土製品
321彫刻された石の造形
-彫刻石棒-
322意匠・異形な造形
-異形石器と三脚石器-
323土偶
324三角とう製品
325石棒・岩板・土冠・独鈷石
326土偶・耳飾・玉類
327磨製石斧製作工程
328獣骨・炭化物
340弥生時代
341弥生時代以降の津南町
342北陸東北部系土器
343栗林式・箱清水式土器
古代
344内黒土器ほか
350メイン展示
火焔型土器・王冠型土器 |
400第2展示室
401館内全景
411旧石器時代
412旧石器・縄文早期
415縄文早期・前期
416前期
417前期~後期
421中期~晩期
石器
422旧石器~縄文晩期
423縄文前期~晩期
425古代
426土偶・経筒・石器
中空土偶
427古代・中世
431沖ノ原遺跡(縄文)
441小型土器
442炭化物 栗・クッキー
451縄文土器
460石器
461磨製打製石斧
462石鏃
463耳飾り
465三角土版
466土偶
500民具展示室
501農具
510アンギン編
530機織り
540農具 |
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※津南町について思うこと
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地殻の東西圧力によって北東から南西に向かって深いシワを刻んだ褶曲山脈が、幾重にも重なる地域に、苗場火山をはじめとする火山群から噴出した溶岩や火砕流によって埋め尽くされた台地を、河川が長い時をかけて深く刻み、長い長い谷を掘り抜きました。
余りにも長いので、南部上流部は長野県に属し、栄村と名乗り、北部中流域は津南町として新潟県に属しています。
この谷を刻んだ川、中津川は、これもまた、山梨県境の甲武信ヶ岳から信濃の国を流れ下り、多くの支流から河川水を集める大河千曲川が
新潟県境を越えて信濃川と呼ばれる大河に合流します。
この地は秋山郷と呼ばれます。
冬には深い雪に閉ざされ、岐阜県の合掌村同様の閉塞した、言葉にしてここに書くことができない、陰鬱な暮らしがあったのだと思われます。
しかし、縄文の津南町は(秋山郷)は違っていました。火焔土器文化が独自に発達し、豊かな縄文の暮らしがあったからこそ、長く続く独特の縄文文化が花開いたのだと思われます。
ここでは、旧石器時代から続く長い長い人々の営みが見られます。
また、周囲の地形の面白さも格別です。道路の両端にせまる切り立った高い山の上には、火山噴出物が形成した広々とした台地が広がり、
遠く長野県から引かれたパイプラインは水路式発電の水を各地の発電所に供給しながら延々と流れ下ります。津南町の奥には他の地域ではもうすでに廃墟となっている大昔の発電施設が、今もなお現役で見られます。
神社仏閣には、独自に発達した木彫りの装飾が施され、柱状節理の巨大断崖が見られたり、幾重にも重なる河岸段丘や、火砕流堆積層を通って流れてくる伏流水による、参道脇を流れ下る瀧があったり、観光にも事欠きません。
さらにまた、長野県栄村は遠く東海や関東地方の地盤と繋がっており、この地域の地震活動と相互に深く関連した活動があるなど、
興味深い地域でもあります。
付近は、温泉地やスキー場など、有名な観光地です。ぜひ、この地域にも訪れていただければと、思います。
編集者敬白 |
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01茅葺民家 (※この古民家は資料館の前庭に立っています。資料館を隠してしまっているので、訪問者は“おやっ”とおもいます。)
津南町指定文化財 茅葺民家
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この茅葺民家は、元禄年間 反里口(そりぐち)集落に建てられ、1755年頃現在地に移築されました。以来1974年秋までの間、桑原家代々の人々が暮らしの中心として、この家を利用し続けていました。この民家は、二世紀以上の長い間、風雪に耐えた魚沼地域を代表する茅葺民家です。
構造は内柱造りで、11本の大柱を主幹とし、松やブナを材料としていることから、隅々まで木のぬくもりが生き続けています。
平面形式は広間形でジロ(囲炉裏=地炉)を囲む広い土間の他三室からなり、井戸と厩(うまや)が本屋の中にあります。
また、民家の敷地もそのまま残っておりますので、(ただし、資料館も民家の敷地内です。)民家と水路・蔵・樹木等の空間的位置関係を見るうえでも貴重です。 |
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05外観
googlemapから拝借 |
津南町歴史民俗資料館は、入口と思われる場所に茅葺民家があるため、それが資料館の様に思われています。
更に、資料館入口はただの下駄箱なので、入口ではなく、裏口に見えます。
下駄箱から中に入ると、そこに「津南町歴史民俗資料館」などという表示はありません。
つまり、館の建屋全体の写真が撮れません。内部も木造ですから、全体が古い木造建造物の様に錯覚してしまいます。
しかし、実際は鉄コン筋クリートの建物でした。私も、これを編集して初めて知りました。(笑) |
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07津南町の石仏
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津南町の石仏は、善光寺道の路傍に建っており、道標とも見えるし、行き倒れの供養塔にも見えます。 |
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100第1展示室
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101室内全景
第1展示室 |
津南町管内図 |
津南町管内図 |
卯ノ木遺跡 |
河岸段丘展望台 |
全景 |
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110旧石器時代
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111先史狩猟採集民の曙
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津南町の人類活動の痕跡は、30,000年前から残されています。この年代は日本列島に人類が出現した頃と近く、新潟県でも最古となります。
旧石器時代は氷河期と呼ばれ、当時は寒冷で乾燥した気候でした。現在の気温よりも、平均で約7℃程低かったといわれています。
旧石器時代の人々は定住的なイエを持たず、各地を転々と移動する遊動的な暮らしをしていました。
旧石器時代はおよそ30,00年前から15,000年前まで続き、津南町ではこの15,000年間の活動が遺されています。
※津南町が豪雪地帯になったのは縄文時代8000年前の対馬暖流の流入以降だから、旧石器時代は雪が少なく、ただ寒冷な地域だった。
新人(ホモサピエンス)の旧石器人は3.5万年前から列島に顕著になるが、短い期間に列島を動き回り、食料豊富な場所として、
野尻湖や津南町の山間部を移動回遊しながら食料を得たんですね。 |
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先史狩猟採集民の曙 |
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旧石器時代の
景観イメージ |
神山遺跡の発掘と現在の神山遺跡 |
神山遺跡
2.8万年前の野営跡
狩猟採集と鮭漁を行っていた。 |
最終氷期の気候区分 |
針葉樹と北方系植物の果実
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旧石器時代の道具 |
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112石器編年と遺跡と指標
下に行くほど古い |
後期旧石器時代後葉
約13,000年前まで
終末期
浅間草津火山灰降下 |
後期旧石器時代中葉
約23,000年前AMS
AMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法 |
後期旧石器時代初頭
約30,000年前AT火山灰 |
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113正面ヶ原D遺跡 斧形石器等 石器群 後期旧石器時代 約30,000年前
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120縄文時代
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121時代の変革 旧石器時代から縄文時代へ ―縄文時代草創期の津南町―
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およそ16,000年前から15,000年前になると、日本列島で土器が出現します。粘土を焼くことによって作られるこの器は、人類史上における革新的な造形技術と評価されています。
土器が出現してから約5,000年間もの期間を縄文時代「草創期」と呼んでいます。この時代は、旧石器時代~縄文時代への変化の過程と捉えられており遊動的な生活スタイルから、定住的な生活スタイルへと徐々に変化していきます。
津南町では非常に多くの縄文時代草創期の遺跡が残されており、その数と密度は国内随一です。 |
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縄文草創期の遺跡が特に密集する信濃川・清津川の合流点 |
本ノ木遺跡調査風景 |
久保寺南遺跡(十日町)
干溝遺跡(十日町)
卯ノ木南遺跡(津南町) |
草創期の遺跡
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本ノ木遺跡 |
津南町 |
1.5万年前を遡る頃の千点を超える遺跡と、1.27~1.25万年前の信濃川対岸からの土砂崩れ現場の遺跡とからなる。 |
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久保寺南遺跡 |
十日町 |
1.6~1.3万年前、草創期前半の集落跡。 |
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干溝遺跡 |
十日町 |
1.5~1.15万年前、隆起線文土器、 |
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卯ノ木南遺跡 |
津南町 |
縄文早期(1.15-0.7万年前)の遺跡、爪形文土器、押圧縄文土器出土 |
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122石器
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130縄文草創期
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131本ノ木遺跡 |
132考古学会を席巻した「本ノ木論争」の舞台
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昭和31年冬・32年夏
津南町ではおよそ初となる発掘調査が、この本ノ木遺跡にて行われました。それぞれは、「本ノ木冬の陣・夏の陣」と呼ばれ、冬の陣を指揮したのが芹沢長介、夏の陣を指揮したのが山内清男でした。調査の結果、多量の石槍とその製作の際に生じる剥片、および一個体分の土器が出土しました。両調査では同じ成果が得られたものの、石槍と土器の帰属時期に関しては、両者で異なる見解が出されました。
この見解の相違から生まれた論争を、学史上「本ノ木論争」と呼んでいます。この論争は、考古学会全体を巻き込んだ大きな論争となり、様々な研究者たちがこの問題に取り組んできました。この論争はその後も、旧石器じだい 終末期と縄文時代か意識の時代観と遺物の組み合わせを、どのようにとらえるかという議論として、現在もなお研究が続けられています。
今回の特集展示は、過去に芹沢長介・山内清男両氏が本ノ木遺跡を紹介・報告してきた資料をもとに、それに関わる資料を提示します。 |
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133後期旧石の杉久保石器群
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杉久保石器群 神山遺跡
後期旧石器時代
約23,000年前 |
尖頭器石器群
居尻B遺跡
後期旧石器時代
約20,000年前
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尖頭器石器群
居尻B遺跡
後期旧石器時代
約20,000年前
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134細石刃
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正面中島遺跡からは、旧石器時代の細石刃石器群と、60㎝離れた同一の地平(土層)から大型尖頭器石器群が出土した。
押形文土器、微隆起線文土器の縄文草創期であるが、細石刃と長者久保神子柴形石器が出土した。 |
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135大型尖頭器(ポイント)
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尖頭器(第1次調査出土)
芹沢長介分類
「ポイントA」 |
尖頭器(第1次調査出土)
芹沢長介分類
「ポイントB」 |
尖頭器(第1次調査出土)
芹沢長介分類
「ポイントC-F」 |
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芹沢長介提示の
尖頭器製作工程
左:1工程目
右:5工程目
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第1次調査出土の
抉り入り削器(ノッチ) |
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136ポイント 本ノ木遺跡
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縄文時代の始まりの頃の至宝―細く、薄く、そして丹精につくり込まれた石の槍先―
今回、重要文化財に答申を受けた本ノ木遺跡出土品は、昭和31・32年に行われた調査による出土品のうち、縄文時代草創期の遺物群の一括です。その内容は、土器片66点、石器1,214点及び附の剥片と石核16点で構成されています。
石器は、未成品を含む1,110点もの尖頭器を主体とし、それに削器、掻器及び石斧が含まれます。中でも尖頭器は、精巧に作られた完成品に加えて、半加工の未成品や製作途上で生じたと思われる破損品も多く含まれ、その形態は細身の柳葉形から、幅広の木葉形まで変化に富みます。これらは、尖頭器製作の諸段階を示すものですが、原礫を荒割りにした初期工程の資料は含まず、製品の整形と仕上げ工程を示すもので、半加工品が本遺跡に持ち込まれ、仕上げの加工が行われていたことを示しています。また、削器には、側縁に抉りのある個体(抉入削器)が目立ち、石斧には丸鑿状の刃部を持つものも含みます。
土器片は、縄文時代草創期に通有な押圧縄文やハの字爪形文が施文された土器を中心とし、器形は丸底及び小型の平底を持つ深鉢形土器と推定されます。押圧縄文は施文原体を土器の外面に押し当てて、爪形文は爪や箆状の工具を土器外面にハの字に刺突して施文されています。加えて、過半数の土器片内面には、斜め方向の掻き上げ調整痕が顕著に残っています。
これらの特徴を持つ土器は、本遺跡の周辺、特に信濃川・清津川合流点付近の遺跡から多く出土する傾向があります。
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137大陸に起源を求めた「縄文土器文化」 -山内清男の歴史観-
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「縄文土器文化の起源」を短期有していた山内清男は、所謂「最古の土器」を追い求めていました。元の木遺跡の土器にその可能性を見出しており、血もに出土した尖頭器(石槍)に注目しました。「長い細い槍」が実用に耐えないと判断し、大陸系統の「植刃」として考えています。
「石槍の前後を打ち欠いたような破片」を指して言及しており、すべてが「植刃」とは断言していないが、そうした「用途も否定できない」と主張しています。同種のものは、モンゴルや中国東北部、地羽扇半島東部にあるとされています。
こうした類例等を根拠に、これらの石器を「渡来石器」と認定し、「縄文土器文化」の大陸起源説を唱えていきます。
現代もなお、この摂には決着がついていません。「渡来石器」の位置付けも研究者によりさまざまで、評価には賛否があります。 |
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「植刃」
山内清男・佐藤達夫により紹介された |
「縄の圧痕ある土器」
山内清男・佐藤達夫により紹介された
押圧縄文土器 |
「植刃」あるいは石槍
山内清男・佐藤達夫により紹介された
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「植刃」
山内清男・佐藤達夫により紹介された
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大陸に起源を求めた
「縄文土器文化」
-山内清男の歴史観-
上に記述 |
シベリア新石器時代の植刃
他の「渡来石器」
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150縄文早期
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151土器形式
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押型文土器
卯ノ木遺跡
縄文早期中葉
約10,000年前
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絡条体圧痕文土器
北林A遺跡
縄文早期末葉
約8,000年前 |
条痕文系土器
芦ヶ崎西平遺跡
縄文早期末葉
約8,000年前 |
羽状縄文系土器
洗峰B遺跡
縄文前期前葉
約6,800年前 |
朝日C式土器
諏訪前東A遺跡
縄文前期中葉
約6,500年前 |
朝日C式土器
諏訪前東A遺跡
縄文前期中葉
約6,500年前
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諸磯C式土器
下モ原Ⅱ遺跡
縄文前期後葉
約6,000年前
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152
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撚糸文系土器
大原遺跡
縄文早期初頭
約11,000年前 |
貝殻沈線文土器
別当A遺跡
縄文早期後葉
約8,800年前
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貝殻沈線文土器
正面ヶ原B遺跡
縄文早期後葉
約8,800年前
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153縄文前期
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塚田式土器
寺田上A遺跡
縄文前期後葉
約6,000年前 |
塚田式土器
寺田上A遺跡
縄文前期後葉
約6,000年前
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集合沈線文・刻印文・浮線文土器
洗峰E遺跡
縄文前期末葉
約5,800年前
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170堂平遺跡
中期中葉~後葉(約5000~4500年前) の集落遺跡
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171雪国縄文文化の里
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およそ15,700年前から2,400年前までの期間を、縄文時代と呼びます。この10,000年以上に亘る歳月の中で、多様な文化が構成されていきます。
その象徴が、5,000年前に創造された火炎型土器・王冠型土器です。長い氷河期が終わり、温暖で湿潤な気候になると、約8,000年前には多雪環境になります。それによって落葉広葉樹の森が展開し、四季が明瞭になります。
縄文時代でも後半期の人々は、定住的なイエ(竪穴住居)を持ち、地縁・血縁のなかでムラ(集落)を作っていました。
縄文時代前期の中頃以降に集落が顕在化し、縄文時代中期には最盛期を迎えて大規模な集落が構成されます。縄文時代人々は、ムラを中心として狩猟・採集、儀礼、埋葬など多様な活動をしていました。 |
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雪国縄文文化の里
-縄文時代の津南町- |
堂平遺跡第11号住居跡
卵形の竪穴住居跡
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道尻手遺跡第9号住居跡
長方形の竪穴住居跡
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竪穴住居が環状を為す
「縄文モデルムラ」 |
縄文時代最大の
石製造形物
芋川原遺跡採集の
彫刻石棒
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川の展望台 |
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172石鏃・石槍
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173石匙・石錐
石匙・石錐 |
石匙・石錐 |
石錐 |
石錐 |
石錐 |
石匙 |
石匙 |
石錐 |
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174打製石斧
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175石錘など
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200縄文中期
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210前期末葉~中期初頭 |
211土器形式
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五領ヶ台式土器
城林遺跡
縄文中期初頭
約5,500年前
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円筒形の土器
城林遺跡
縄文中期初頭
約5,500年前 |
集合沈線文土器
道下遺跡
縄文前期末葉~中期初頭 約5,600年前 |
北陸系在地土器
城林遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
北阿玉台系土器
城林遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
浅鉢形土器
城林遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
集合沈線文土器
道下遺跡
縄文前期末葉
約5,800年前
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213磨製石斧
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214石皿
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215調理器具
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216装身具
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230中期前葉 土器 |
231土器形式
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北陸(新崎式)系土器
城林遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前
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北陸(新崎式)系土器
城林遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
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北陸(新崎式)系土器
八反田遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前
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北信(後沖式)系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
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232
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※後ろのポスターは
取材と同時期の、
令和2年9/5-11/3に「なじょもん」で開催中の
「千曲川-信濃川流域の縄文文化」火焔土器前夜の世界 のポスターです。
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233道尻手遺跡
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中部高地(勝坂式)系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前
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中部高地(勝坂式)系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
中部高地(勝坂式)系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
有孔鍔付土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
有孔鍔付土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
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234
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五丁歩系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
五丁歩系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
五丁歩系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
新巻類型土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
五丁歩系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
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235道尻手遺跡
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津南町上段に所在する道尻手遺跡は、平成8年に発掘調査が実施され、環状集落の一部が姿を現しました。信濃川の河川氾濫原から離れた中位段丘面に立地します。また、段丘崖下に豊富な湧水があり、小さい流れを作っています。遺跡の標高は約262mです。 |
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五丁歩系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
道尻手遺跡 |
大木8a系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,000年前 |
五丁歩系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
大木8a系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,000年前 |
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大木7b系土器
道尻手遺跡
縄文中期前葉
約5,300年前 |
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240中期中葉
241土器形式
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火焔型土器 亜種
道尻手遺跡
縄文中期中葉
約5,000年前 |
火焔型土器 亜種
道尻手遺跡
縄文中期中葉
約5,000年前 |
焔型土器 亜種
道尻手遺跡
縄文中期中葉
約5,000年前 |
焔型土器
道尻手遺跡
縄文中期中葉
約5,000年前 |
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250中期後葉 大木8b系土器 道尻手遺跡 縄文中期後葉 約4,800年前
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大木8b系土器
道尻手遺跡
縄文中期後葉
約4,800年前 |
大木8b系土器
道尻手遺跡
縄文中期後葉
約4,800年前 |
大木8b系土器
道尻手遺跡
縄文中期後葉
約4,800年前 |
大木8b系土器
道尻手遺跡
縄文中期後葉
約4,800年前 |
大木8b系土器
道尻手遺跡
縄文中期後葉
約4,800年前 |
栃倉式土器
上野スサキ遺跡
縄文中期後葉
約4,800年前
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沖ノ原Ⅰ土器
道尻手遺跡
縄文中期後葉
約4,500年前 |
沖ノ原Ⅰ土器 上正面かみ遺跡
縄文中期後葉
約4,500年前 |
沖ノ原Ⅰ土器
堂平遺跡
縄文中期後葉
約4,500年前 |
沖ノ原Ⅱ土器
上野スサキ遺跡
縄文中期末葉
約4,200年前 |
沖ノ原Ⅱ土器
上野スサキ遺跡
縄文中期末葉
約4,200年前 |
沖ノ原Ⅱ土器
上野スサキ遺跡
縄文中期末葉
約4,200年前 |
××? |
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310後期初頭
311土器形式
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双耳壷
上野スサキ遺跡
縄文後期初頭
約4,200-4,100年前 |
双耳壷
上野スサキ遺跡
縄文後期初頭
約4,200-4,100年前
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三十稲葉式土器
蓋形土器
道尻手遺跡
縄文後期初頭
約4,100年前 |
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南三十稲葉式土器
上野スサキ遺跡
縄文後期前葉
約4,000年前 |
南三十稲葉式土器
下モ原川遺跡
縄文後期前葉
約4,000年前 |
浅鉢形土器
道尻手遺跡
縄文後期中葉
約3,800年前 |
注口土器
道尻手遺跡
縄文後期前葉
約4,000年前 |
加曽利B系土器
八反田遺跡
縄文後期中葉
約3,800年前
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加曽利B系土器
反里口遺跡
縄文後期中葉
約3,800年前 |
注口土器
八反田遺跡
縄文後期中葉
約3,800年前 |
注口土器
八反田遺跡
縄文後期中葉
約3,500年前 |
瘤付土器
大清水採集
縄文後期後葉
約3,500年前 |
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正面ヶ原A遺跡
中部高地(中ノ沢式)系土器
縄文後期後葉
約3,500年前
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正面ヶ原A遺跡
佐野系土器
縄文晩期前葉
約3,200-3,100年前 |
正面ヶ原A遺跡
佐野系土器
縄文晩期前葉
約3,200-3,100年前 |
上原A遺跡
佐野系鉢形土器
縄文晩期前葉
約3,200-3,100年前 |
上原A遺跡
佐野系鉢形土器
縄文晩期前葉
約3,200-3,100年前 |
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320石器・土製品 |
321彫刻された石の造形 -彫刻石棒-
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縄文時代には、すでに石を彫刻するという技術が存在していました。頭部を注意深く見ると、そこには彫刻されていることがわかります。
つくりあげるのに非常に手間がかかるこの造形物は「彫刻石棒」と呼ばれています。
形態は男性性器をかたどっていると言われ、性的な象徴など、縄文人が生命に対する観念を抱いていたことが伺えます。
ここで展示しているものはそこまで大きくないですが、大きいものには70cmを超える大型品もあります。 |
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彫刻された石の造形
-彫刻石棒-
上に記述 |
大形彫刻石棒
釜坂遺跡
縄文中期前葉-後葉 |
線刻された礫
午肥原遺跡
中期前葉-後葉 |
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322意匠・異形な造形 -異形石器と三脚石器- <津南町内出土資料>
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縄文時代には、しばしば一見不思議で奇妙な形をした石器が作られることがあります。
石鏃や石斧のようにわかりやすい形ではないため、「何に使ったのか?なぜこの形が採用されたのか?」という疑問が解決できません。
意匠的な形態のものや、石鏃の形が崩れたようなもの、三脚状に脚が作り出された三脚石器もあります。
この多様な形には、いったい何の思いが込められていたのでしょうか。 |
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三脚石器
堂平遺跡・原遺跡
縄文中期前葉-後葉 |
意匠・異形な造形
-異形石器と三脚石器-
上に記述 |
異形石器
道尻手遺跡・沢田遺跡
縄文中期・晩期 |
異形石器
道尻手遺跡・沢田遺跡
縄文中期・晩期 |
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323土偶
土偶
反里口遺跡
縄文中期前葉-後葉
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土偶
道尻手遺跡
縄文中期前葉-後葉 |
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324三角とう製品
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三角とう形土製品
道尻手遺跡
縄文中期前葉-後葉
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土版・土棒
道尻手遺跡
縄文中期前葉-後葉 |
ミニチュア土器
道尻手遺跡
上野スサキ遺跡
上正面かみ遺跡
縄文中期前葉-後葉 |
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325石棒・岩板・土冠・独鈷石
石棒類
道尻手遺跡
反里口遺跡
原遺跡
縄文後期前半 |
石棒・石剣
正面ヶ原A遺跡
縄文後期後葉-晩期前葉 |
石冠類
正面ヶ原A遺跡
縄文後期後葉-晩期前葉 |
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岩板
正面ヶ原A遺跡
縄文後期後葉-晩期前葉 |
土冠
正面ヶ原A遺跡
縄文後期後葉-晩期前葉 |
不明遺物
左:石棒?or 石剣?
右:岩板? |
独鈷石
正面ヶ原A遺跡
諏訪前東B遺跡
縄文後期後葉-晩期前葉 |
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326土偶・耳飾・玉類
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土偶・顔面付土器類
正面ヶ原A遺跡
縄文後期後葉-晩期前葉 |
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土製耳飾り
正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉
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玉類
正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉 |
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327磨製石斧の製作行程資料 正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉
磨製石斧の製作行程
資料
正面ヶ原A遺跡
縄文後期後葉-晩期前葉 |
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328獣骨・炭化物 後期・晩期
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不明獣骨
正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉 |
クジラの骨
正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉
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栃の実 (炭化物)
正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉 |
クルミ・トチノミ外皮
正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉 |
不明種子
正面ヶ原A遺跡 縄文後期後葉-晩期前葉 |
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弥生時代
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340弥生時代以降の津南町
受け継がれてきた雪国津南―弥生時代以降の津南町―
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10,000年以上も続いてきた縄文時代も、その終盤期には日本列島で、“コメづくり”が開始されていきます。
稲作が始まり、人々の生活は大きく変化することとなり、狩猟・採集が生業の基盤であった時代は終わりを迎えます。
農業が基幹産業である津南町ですが、弥生時代の遺跡はごく僅かで、日本における初期農耕民の活動の実態はわかっていません。
続く古墳時代も同様で、当時の生活文化は大きな謎です。
その後も人々が暮らし続けた痕跡は認められますが、縄文時代と比較するとやはり希薄です。
南北朝・戦国時代には、著名な新田氏・上杉氏などが 関わる激動の歴史の中に、津南町も組み込まれていきます。
この頃には、段丘の突端部を利用した山城が造営され、その姿は現在もなお見ることができます。 |
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341
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受け継がれてきた雪国津南 |
上に記述 |
吉祥寺(平安時代)・
善玖院(14世紀)の
木造如来坐像
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県史跡:今井城(16c)
赤沢城(16c)
岡諏訪神社本殿彫刻
(江戸時代)
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342北陸東北部系土器
※北陸東北部から弥生人が入植したことがわかる。やはり日本海ルート。しかも、その頃には、ここまでの道中は全て入植済みだったようだ。
すさまじい弥生人の繁殖力。(笑)
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北陸東北部系土器
朴ノ木坂遺跡
弥生時代終末期
(古墳時代早期) |
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343屋敷田Ⅲ遺跡出土の弥生土器 栗林式、箱清水式土器
※信州系弥生人の流入
信州系(栗林式)土器
屋敷田Ⅲ遺跡
弥生中期 |
信州系(栗林式)土器
屋敷田Ⅲ遺跡
弥生中期 |
信州系(栗林式)土器
屋敷田Ⅲ遺跡
弥生中期 |
信州系(栗林式)土器
屋敷田Ⅲ遺跡
弥生中期
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信州系(箱清水系)土器
堰下遺跡
弥生終末期(古墳早期) |
信州系(箱清水系)土器
堰下遺跡
弥生終末期(古墳早期) |
信州系(箱清水系)土器
堰下遺跡
弥生終末期(古墳早期) |
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古代
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344内黒土器ほか 吉相遺跡 10~11世紀
※随分人の往来が盛んになり、土器の流行が持ち込まれた。
内黒土器ほか
吉相遺跡
10~11世紀 |
内黒土器ほか
吉相遺跡
10~11世紀 |
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345
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宝篋印塔を転用した砥石
意味が分からなかったのでしょう。 |
赤沢城跡 出土(16c)
砥石・壺(瀬戸美濃焼) |
天目(瀬戸美濃焼) |
青磁 |
耳皿片 カワラケ |
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350メイン展示 火焔型土器・王冠型土器
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400第2展示室コレクション
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401館内全景
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411旧石器時代
旧石器時代
米原遺跡 |
旧石器時代
芋川遺跡 |
旧石器時代
神山(一)遺跡 |
旧石器時代
神山(二)遺跡 |
旧石器時代
米原遺跡
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旧石器時代
芋川遺跡
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旧石器時代
神山(一)遺跡 |
旧石器時代
神山(二)遺跡 |
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412旧石器・縄文早期
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旧石器時代
越度遺跡 |
旧石器時代
姥入遺跡
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旧石器時代
小坂平(一)遺跡
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旧石器時代
小坂平(一)遺跡 |
旧石器時代
小坂平(二)遺跡 |
旧石器時代
卯ノ木遺跡 |
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413旧石器・縄文早期
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415縄文早期・前期
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縄文早期 下原遺跡
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草創期~前期
桐ノ木平遺跡 |
脚注がひっくり返っている |
早期 毘沙門下遺跡
前期 足滝遺跡 |
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416縄文時代前期
前期 神山A(一)遺跡 |
前期 神山A(一)遺跡
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前期 神山A(二)遺跡
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前期 神山A(二)遺跡
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早期~中期
堤ノ脇遺跡 |
前期~後期
卯ノ木平遺跡 |
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417前期~後期
前期 両留遺跡 |
前期~後期
笹原遺跡
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前期~後期
妙法遺跡
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前期~後期
妙法遺跡
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中期 沖ノ原遺跡 |
中期~後期
反里口遺跡 |
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421中期~晩期
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中期~晩期
釜坂(一)遺跡 |
中期 上野(一)遺跡
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旧石器~晩期
堂尻(一)遺跡
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旧石器~晩期
堂尻(二)遺跡
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422旧石器~縄文晩期
旧石器~晩期
堂尻(三)遺跡 |
旧石器~晩期
屋敷田遺跡
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縄文中期
屋敷の平遺跡
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縄文中期
南原遺跡
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縄文期
遺跡全般(一)
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423縄文前期~晩期
縄文期
遺跡全般(二) |
縄文期
遺跡全般(三)
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縄文早期~後期
辰ノ口遺跡
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425古代
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426土偶・経筒・石器
中空土偶
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上野遺跡から出土した中空土偶は、縄文時代中期前葉に帰属する特徴的な土偶です。
類例は全国で4例しかありません。その中で一番破片資料が多く、最大級の貴重な資料です。
中空と呼ぶのは、胴部が輪積み技法で作られているからです。この中空の意味が問われています。
胴部がなぜ、中空なのかが最大の疑問です。 |
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中空土偶 |
文化財一口メモ |
中空土偶 |
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経筒 |
縄文期
遺跡全般(五) |
縄文期
遺跡全般(五) |
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427古代・中世
古代 相吉(一)遺跡 |
石棒
縄文期 堂尻遺跡
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縄文期
堂尻(四)遺跡
縄文中期~縄文晩期
釜坂(二)遺跡
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中期 上野(二)遺跡
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経筒 中世期
陣場坂上経塚 |
陶片
中世期
赤沢たて遺跡
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431沖ノ原遺跡出土品(一部) 縄文時代
沖ノ原遺跡
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沖ノ原遺跡は、中津川左岸に位置する高位段丘上に立地する縄文時代中期の集落遺跡です。
昭和46~47年にかけて3次にわたる確認調査を実施した結果、広場を囲むように住居跡が環状に巡っていることが判明しました。
その重要性から発掘調査団長であった江坂輝弥慶応大学教授は、遺跡開発範囲から除外し、恒久的に保存することを町に要望されていました。
津南町は、その容貌を受けて約24000㎡を現状保存する英断をいたしました。遺跡は、現在国指定史跡に登録され保存されています。 |
沖ノ原遺跡出土の縄文土器群
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ここに並ぶ縄文土器群は、江坂輝弥慶応大学教授の指導によって復元された貴重な縄文土器群です。その特徴から
縄文時代中期中頃~後期初頭に作られた土器であり、約5500~4800年前の年代が与えられます。
特に均整の取れたスタイルと螺旋渦巻の構成で有名な火焔土器は、原始美術の根源であると多くの見学者が感嘆の声を漏らしています。 |
沖ノ原遺跡
上に記述 |
新潟県文化財指定書 |
沖ノ原遺跡 |
沖ノ原遺跡 |
沖ノ原遺跡出土の
縄文土器群
上に記述 |
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拓本
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拓本
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432沖ノ原遺跡出土品(一部) 縄文土器
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441小型土器
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通常の土器の大きさ(容量)と比較した場合、子供のままごと道具の様に、あえて小さく作った土器群があります。
何の目的で作られ、どのように使われたのかは不明です。また、小型土器を作り、焼成段階で崩れ、そのまま焼き上がった資料もあります。 |
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442炭化物
炭化栗
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トゲトゲの外皮の内側にあるクリが炭化したものです。これは内皮とその中にある実が一体になったもので、それが炭化作用を受けて腐らずに残ったものです。資料を振ると、カラカラと実が動きます。すなわち、炭化する寸前にすでにクリが乾燥して、実が縮み、内皮と分離した状態で保存されていた可能性が示唆されます。それは焼成してパックされたことを意味しています。
これは炭化ではなくタンニンなどが沈着して保存されたという説もあります。 |
クッキー状炭化物
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練り物をクッキー状に形を整えて作られた食べ物が、炭化した貴重な食料資料です。
しかし、炭化していることから、その素材については不明であり、蒸したのか、煮たのか、焼いたのか、その調理方法についても不明です。 |
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炭化クリ 沖ノ原遺跡 |
炭化栗 |
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クッキー状炭化物 |
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クッキー状炭化物 |
縄文クッキー
4000~5000年前 |
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451縄文土器
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460石器
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461磨製・打製石斧
打製石斧
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金属の斧に形が似ていることから石斧と呼ばれています。その製作方法が打撃を与えて形を整えることから打製石斧と言います。
その形は三味線のバチに似ている「バチ形」や七夕でぶら下げる短冊に類似する「短冊形」があります。
これらの打製石斧は、土を掘り、山芋などの根茎類を採取する道具の先端に装着されていたと推測されています。 |
磨製石斧
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磨いて斧の形を整えた道具であることから、磨製石斧と呼びます。選択される石の大半は『蛇紋岩』と呼ばれる石材であり、津南地域出は、産出しません。これら蛇紋岩製の石斧は、糸魚川市姫川系近傍のムラで製作されたものだと推定されています。
すなわち、交易などで山深い津南まで運ばれたものです。用途は、木の伐採あるいは加工であることが刃先の使用痕で明らかです。 |
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462石鏃
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弓矢の先端に装着した矢尻(やじり)です。頁岩や鉄石英、黒曜石など、薄く剥ぐことができて細かな加工がしやすい石材が選択されています。
その場合、石塊を剥離し、薄い剥片を用意して、その周辺に加工を施し、矢尻の形を整えます。
矢と矢尻の装着は、天然アスファルトが使用されていたようです。一部の矢尻の基部に、天然アスファルトの付着が認められます。 |
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463耳飾り
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現代女性が耳たぶに穴をあけ、ピアスという装飾品をはめ込み、着飾る風習があります。
日本では、この.ような風習は昭和50年代まで遡ることはありません。 |
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465三角土版
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三角の形をした土製品です。典型資料は、扁平ではなく、三篇の先端部が接地しており中央部が浮いています。
すなわち湾曲する特徴があります。文様は湾曲する面にはなく、凸面に描かれます。三角は顔面部を省略し、胸部を上にして、股あるいは性器部を下にした物であり、土偶に類似した性格を持つと推察されています。
乳房が粘土粒や沈線で表現され、性器を三穴や凸部で表します。三穴は女性で、凸部は男性と理解する考えがあります。 |
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466土偶 沖ノ原遺跡
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土偶の乳房や、ふくよかな腹部、妊娠線等から女性像といわれていますが、全てが女性的というものではありません。
顔の省略や、中性的表現から人間像というよりも、精霊のイメージを擬人化した可能性があるという魅力的な学説があります。
津南地域の土偶に見られる正中線(妊娠線表現?)は、粘土紐(隆起線)で表現されているものが多数ありますが、
信濃川下流域の長岡・三条周辺では沈線で正中線を表現するものが多い陽です。これは地域性の違いと言えるようです。 |
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471
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500民具展示室
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501農具
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510アンギン編
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縦糸にイラクサやカラムシ(アオソ)、横糸にアカソの繊維を用いて編まれたもので、各地の縄文遺跡からその一部が見つかっており、織物以前の編布と言われています。
ここに蒐集しているものは縦糸の幅が8ミリですが、縄文遺跡から発掘された物には3~4ミリという精巧なものもあります。
秋山郷でもこれが編まれ、自身の作業着として、また、ろう袋として里の商人に売られていたという記録があります。
男の冬仕事として行われ、材料の採取に始まり精製までも非常な手数を要するものでした。 |
「バトオビオリ」という道具でアンギン以外にも布を織る(編む)道具があったようです。大発見だと思います。
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520民具
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530機織り
イザリバタ
座り機 |
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機織道具
イザリバタ |
ダツあみ |
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540農具
筵むしろ編み機
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藁沓、木槌 |
筌 |
標準語ワラダだが
方言ワダラと記述。
雪中の猟に使用 |
ワダラ(ワラダ)
幼児が、カラダをカダラと言ったりする。 |
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熊皮
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タヌキ皮
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赤ん坊の入れ物 |
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