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企画展の案内 長野県庁 生活協同組合 より転載 「進化する縄文土器~流れるもようと区画もよう~」長野県立歴史館 秋季企画展(9/16(土)~11/26(日))を開催します。 2017年09月01日 5,000年余り前、信州の縄文土器には、土器装飾の面で「流れるもよう(模様)」と「区画もよう(模様)」という二つの大きな流れがあり、それぞれ 独自に発展し隆盛を極めます。地域ごとに異なる感性と技を駆使して作られた土器をご覧ください。 6遺跡 19点の重要文化財が大集合! 「流れるもよう」を代表する御代田町川原田(かわらだ)遺跡と、 「区画もよう」を代表する富士見町藤内(とうない)遺跡、 (転載した理由はここです。代表的遺跡を指定) 2件の重要文化財を軸に、周辺各県を含む土器91点を展示します。 地域間の結びつきを示す土器のもよう、あるいは独自性を強調した優品をご覧いただきます。 国重要文化財 川原田遺跡出土品(浅間縄文ミュージアム蔵) |
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企画展のご案内 転載進化する縄文土器 約5,400年前の縄文時代中期中葉の初め、土器に土偶やヘビなどの造形をのせる「デコボコかざり」が始まりました。 この時期を取り上げた「縄文土器展」(H26)に続き、本展では装飾がさらに進化をとげる約5,300〜5,100年前にスポットをあてます。 この時期の土器装飾は、地域ごとの独自性を高め、華やかさを増していきました。特に、長野県中央部の八ケ岳連峰を挟み、 流れるもようを軸にする東北信〜北陸、 区画もようを基本とする中南信〜西関東で、 驚くほど違う装飾が流行します。 (転載理由はここです。流行地域を指定) 地域ごとに異なる感性と技を駆使して作られた土器を比べ、その特徴を感じてみてください。 縄文人たちは違いを強調する一方、土器は盛んに運ばれ、持ち込まれた土器を真似することもありました。 交流を通じて、異なる文化を柔軟に採り入れ、豊かな社会を築いていった縄文人の生き方に触れていただければ幸いです。 ※この企画展はシリーズ第2回です。第1回は、中期前葉~中期中葉Ⅱ期の土器の発生と文様について行われました。(H26) |
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篠ノ井駅周辺の観光地 01霧の姨捨駅 松本駅から長野に向かう途中の千曲市にある観光スポットです。 スイッチバック、棚田、夜景、そして朝夕昼夜の眺望、雪景色、紅葉、田植え、 は見事です。
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05長野県立歴史館外観 長野県千曲市の科野の里歴史公園内にある公立の博物館で、他に埴科古墳群、森将軍塚古墳館、科野のムラがある。01 02 03 04 05
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進化する縄文土器 ~流れる模様と、区画模様~ |
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第1会場 |
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Ⅰ進むデコボコ飾り 1土器が進化するってどういうこと (1)土器の観察から進化の痕跡を見つけよう (2)お決まりのパターンへ、それとも進化? (3)たった一つでも進化形と言えるの? 2まねするか、オリジナルか (1)行き交う人や土器 (2)他所の模様は、かっこいい? (3)オリジナルであること、それが重要 引用「進化する縄文土器」 |
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100進化する縄文土器 ~流れる模様と、区画模様~ |
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はじめに 皆様はおおよそ1万年以上の長きに渡り、縄文人はさほど変化のない暮らしを続けてきたというイメージをお持ちではないでしょうか。 実際には、鍋といった生活用品ですら、日々変化を重ねていました。 縄文土器と言えば火焔土器とお思いの方、こうした派手な飾りの土器が流行したのは、300年程の期間に過ぎません。縄文土器は進化し続けてきた のです。 鍋としての使い勝手を無視してでも、縄文人が派手な飾りに向かいだしたのは、約5,400年前の縄文中期中葉の初めでした。この時期を取り上げた 「デコボコ飾りの始まり」(平成26年度)に続き、本展では更に進化を遂げた中期中葉の中頃、約5,300~5,100年前にスポットを当てます。 この時期、土器の飾りは地域ごとに独自性を高めていきました。特に、長野県中央部の八ヶ岳連峰や美ヶ原高原などを挟み、 流れる模様を軸にする東・北信から北陸と、区画模様を基本とする中・南信~西関東で、驚くほど違う飾りが流行しました。 土器の飾りに対する感性、そして製作技術も一様ではなかったのです。 しかし、縄文人達は互いの違いを強調するばかりではなく、前の世代の飾りを引き継ぎながら進化させました。 また、土器を遠くへ運び、比べ、真似をしました。 世代間や地域間の交流を通じて、異なる感性を柔軟に取り入れ、豊かな社会を築いていった縄文人の生き方に触れていただければ幸いです。 |
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101資料 転載「進化する縄文土器」 資料を展示している遺跡名
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110Ⅰ進むデコボコ飾り 今から約5,400年前 (縄文中期中葉のはじめ) 、土器に土偶や蛇などを貼り付けるデコボコ飾りが始まりました。それから百年・二百年が経つ中で、 華やかな土器へ進化を遂げました。 第Ⅰ章では、縄文時代中期中葉の中頃 (約5,300~5,100年前)のデコボコ飾りが、どのようなきっかけで進化したのかを考えてみます。 そこには人々が作る歴史、人と人の関わりの歴史が映し出されています。 引用「進化する縄文土器」 |
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111 1土器が進化するって、どういうことだろう? (1)土器の観察から進化の痕跡を見つけよう 土器の飾りを観察すると、時と共に ❶巨大化する。 ❷細かく丁寧な作りになる。 ❸小さな飾り(附属品)がたくさんつく。 ❹他の飾りと合体する。 こともある。(逆もある) こうした変化を進化と呼ぶ。 約5400年前、「土器に土偶を載せよう」とした人に「土器には土器のカミ(精霊)が宿るので土偶と土器の合体はおかしい」といった人もいたかも。 そのせいか、最初の土偶装飾付土器は、小さな土偶が、土器の縁に控えめについていた。 ところが、次第に土偶は巨大化し、洗練され、変形し、新たなカミへ、主役へと進化しました。 神像筒型土器 重文 (画像は図録「進化する縄文土器」からの転載です。撮り忘れていました。)
神像筒型土器 重文 富士見町藤内遺跡 勝坂Ⅲ式(藤内式) 5200年前 勝坂Ⅱ式(53000年前)まであった腰や脚の表現は消滅。頭部は人面でない何者かと合体している。裸だった背から臀部は硬質な外衣や頸当て のようなものをまとい、細かった腕も剛腕に変わる。パワーアップした進化形が完成の域に達したことが伺える。 転載進化する縄文土器 |
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112第1室 |
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113サンショウウオ状文 これがサンショウウオ状文と呼ばれる模様の「お決まりのパターン」 ①頭や尾の形、左向きか右向きかなどのバラエティがある。 ②腹部から子が生まれるような表現の付く場合もある。 本来、お腹が膨れたヘビだったのかも知れないが、簡略化、抽象化されて、現代人には正確な意味が読み取れない。 縄文時代中期中葉の間で、既に意味不明になっていたようで、次の、勝坂Ⅳ式 (井戸尻Ⅰ式) 段階では、形が崩れて、見られなくなる。
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113a(2)お決まりのパターンへ、それとも進化? 進化が起きるのは前向きな姿勢ばかりではありません。 手作りの土器は、同じものは作れず、作るたびに変化します。「手を抜きたい」「飽きた」「これ以上は無理」となると省略形へ変化します。 例えばサンショウウオ状文④は、蛇の模様①から進化しました。リアルな蛇の進化形③もあったが、数が少なく、作るのが難し過ぎたようです。 そこで主流になったのが、分かりにくいが、誰もが作れる、「頭+平板な胴+尾」のお決まりパターン(抽象文)サンショウウオ状文への進化でした。
蛇体装飾の変化 五領ヶ台式 直後の、1蛇体装飾は、勝坂Ⅰ(狢沢) 式期の具象化と抽象化、更に抽象的意匠の具象化と抽象化に分化し、 同じ勝坂Ⅱ式期にあって、2写実的 (原村大石)、3具象的 (原村比丘尼原)、4抽象化 (原村大石) と、同一地域同一遺跡でも意匠が混在した。 そのようにして、やがて、何を描いているのかわからなくなり、デザインの統一性が崩れ、蛇体文が5サンショウウオ状文となった。 ※五領ヶ台式直後とは、縄文中期初頭 (前葉) 直後という意味(中葉) 勝坂式土器 |
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114 (3)たった一つでも進化形と言えるの? 1回限りで消えてしまうようでは進化とは呼べません。 大切なのは ①類似品が沢山作られること。 (形式・類型) ②前に作ったモノとのつながりがあること。(系統) ③受け入れてくれる人々の間に広まること。(分布) です。生き残らなければ進化できません。 今では、たった一つの進化形がコピーされ、物流システムやネットを通じて多くの人に広まります。 ところが、1点1点手作りの縄文土器では、類似品が出回らないと、誰も知らない間に消えてしまいます。 作り手だけでなく、使う人の考えも重要です。縄文中期には、「パワーアップしたカミ(精霊)にして」と要望されたかもしれません。 一方、あまり羽目を外すと「伝統にそぐわない」「模様の意味が分かってない」とダメ出しされたことでしょう。 進化は作り手と使い手との関わり合いの中で、その時々に使われていた土器飾りや技法を受け継ぎながら起こります。 例えば、楕円形の区画が重なる模様は、中・南信~西関東のどこにでもあります。 この地域には、区画模様に親近感を持ち、表現内容の意味がわかる人々が暮らしていたのでしょう。(勝坂式土器文化圏) そして彼らに受け入れられた区画模様は進化を続けながら長く続きました。 |
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115 (4)交流から生まれる進化 土器が運ばれ、比べることで、進化のきっかけが生まれます (3)までは、仲間が暮らしている範囲で起こる進化の話でした。ところが、地元の狭い土地だけで生活は成り立ちません。 足りない物は物々交換し、結婚相手も探しに出かける必要があります。 縄文時代中期には、他所の人々と仲良くするため、おクニ自慢の土器が贈られたようです。 たとえば、中・南信 (勝坂式土器) に多い、金魚鉢のような波々飾り①の土器は、岐阜県下呂市桜洞神田遺跡②でも見つかっています。 そして、運ばれて来た他所の土器から刺激を受けることもあったと思われます。 進化には、仲間内だけでなく、遠くに住んでいる人やモノとの出会いが大切です。 |
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2まねするか、オリジナルか 116a (1)行き交う人や土器 土器が運ばれ、比べることで、進化のきっかけが生まれます。 ここまでは勝坂の人々が暮らす範囲で起こること、仲間内での進化の話でした。ところが、地元の狭い土地だけでは生活は成り立ちません。 勝坂の人々が、ミネラルが豊富な海産物や、良質な磨製石斧を手に入れるには、新潟県糸魚川方面へ行かなければなりません。 逆に、海辺の縄文人が切れ味の鋭い刃物や鏃の材料が欲しいと思えば、信州産の黒曜石を求めてやって来たことでしょう。 もし、見知らぬ海辺の縄文人が山で勝手に黒曜石を掘っていたら、ただでは済まなかったでしょう。 地元の人と仲良くして、物々交換するのが得策です。また、結婚相手を探しに出かける場合などもあり、遠くの村とも仲良くしておく必要が あります。 縄文時代中期には、他所の人々と仲良くするため、土器も一役かっていたようです。というのは、土器は土地毎に粘土が違い、色や質感に特徴が あります。更にオリジナル模様で飾られているため、持ってきた土器を見れば、どこの縄文人なのか、すぐに知ることができたと思われます。 重要なお祭りや結婚話となれば、出来栄えの良い、お国自慢の土器が贈られたでしょう。 例えば、金魚鉢のような波々飾りの勝坂式土器は (↑113)、岐阜県下呂市桜洞神田遺跡など、勝坂から遠く離れた場所で見つかっています。 地元の土器とは、粘土や模様の描き方が違うので、運ばれてきたモノと考えられます。そして、とても出来栄えの良い土器です。 このように土器は地元で使うだけでなく、遠くへも運ばれていきました。 そして、運ばれてきた土器から刺激を受けることで、新たな進化が始まりました。 進化には仲間内だけでなく、遠くに住んでいる人やモノとの出会いが大切です。 転載進化する縄文土器 ※縄文土器の爆発的進化の理由 ここでは、縄文中期の土器が爆発的に進化した理由は、交易にあるといっている。 交易のための手作り工芸品として、より高い価値を出すために、土器装飾が発達した。という意味。 確かに、後期には寒冷化で人口が急激に減少し、交易中継点となる集落の数が激減して交易が困難になると、土器装飾は衰退した。 |
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116 (2)他所の模様は、かっこいい? 自分たちの"ひらめき"には限界があります。そんな時、遠い所から運ばれてきた土器には、見慣れない模様が描かれていて魅力的です。 好奇心旺盛に他所の真似をする人がいて、「伝統にこだわらなくてよい」と言ってくれる人々がいれば、合成・合体が起こり、進化が生まれます。 5,300年前以降、中南信~西関東の勝坂式土器で、縦の区画模様 (展示品№1・№5) が流行します。これは、100年程前に、北陸土器の真似から 始まります。受け入れ条件は、こちらの地域の基本 (区画模様) にすることだったようです。 そのため、開放的に流れていた北陸の模様を、縦の楕円形やひし形の区画文に変形させました。 そして、一旦受け入れられると、勝坂の人々に一気に広まりました。
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117 (3)オリジナルであること、それが重要 「自分たちはどこの何物?」を示すため、真似ばかりはしていられません。 縄文中期中葉の土器は ①自分たちの好みや、考え方を示す。 ②他所との違いをはっきりさせる。 ③独自の技術をみがく。 といった方向に進化しました。 海辺の縄文人・山間の縄文人にはそれぞれの好みや伝統、神話があり、土器にも表現されていたようです。 そう簡単に他所の真似をするわけにはいきません。また、交易や婚礼の時に土器を贈る場合、何処の誰かおぼえてもらうため、 オリジナルな飾りの土器が重要だったとみられます。 中信の塩尻市吉田向井遺跡には東信の土器があります①が、それを真似しませんでした。(↓写真3) 区画が身についた人々にとって区画しないことは難しかったのかもしれません。 逆に、下伊那の櫛形文②は同じ区画模様ということもあり、盛んに真似しています。 好みが一致すること、区画するということも分かり易かったからかも知れません。 |
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119ピースのたりないジグソーパズル 博物館では、完全な形の土器が沢山展示されています。そのため、遺跡にも展示品のような土器が埋まっていると思われるのではないでしょうか。 ところが、実際は小さな破片を残らず集めて、似ている者どうしに分け、パズルを解いているのです。 下の土器のように、組み立てる前に「ピース」を広げてみると、土器の飾りがどんなふうに展開していくのかよく分かります。
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120第2会場 |
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121第二会場 入口掲示 日本列島における鍋の変化と縄文中期の深い鍋 現代社会では、効率の良いことは美徳です。少ない材料と道具、短時間でマニュアル通りに、サクサク仕事を片づけることが大切です。 わざわざ使いにくくなることを承知で、飾りに多くの時間をかけるなんて、もってのほかです。 しかし、効率よりも、祈りの心やワクワク感を土器に表現していた時代もありました。 日本列島に土器が出現してから、現代までの1万数千年の間、最も派手に鍋を飾ったのは、5千年程前の縄文中期のことです。 なぜ、現代人からすると無駄に思えるようなことに力を注いだのでしょう。
世界の先史時代土器と縄文土器 日本列島に住む縄文人達が、深い鍋の飾り方を工夫していた頃、世界ではどのような土器を使っていたのでしょうか。 小麦やコメの栽培で、本格的な農耕社会に入っていたメソポタミヤや中国などでは、鍋・壺・鉢・の器種がはっきりと分かれていました。 派手に飾るのは、水や酒、穀物などを貯めておく壺、そして、神や人に食事をもてなす鉢や皿でした。 しかも、粘土の作り物をゴテゴテと貼り付けるのではなく、絵の具で描く彩文土器が主流でした。 一方、それら以外の地域では、煮沸用の鍋や鉢が器種の主流となっており、それらの表面に線刻したり、粘土紐を貼り付けた土器もありました。 しかし、日本列島に広がる縄文土器のように、極端な発達を遂げた例はありません。 独自の発達を遂げた縄文土器は、"元祖クールジャパン"の一つと言えるかもしれません。
森と草地の生活 ~縄文時代に深い鍋が発達した背景~ なぜ、縄文時代中期に深い鍋を飾りたてるようになったのでしょう。 その背景には、深い鍋を必要とした生活があり、命を支える鍋への感謝と祈りがあったからだと考えられます。 土器装飾が発達した地域の一つ、八ヶ岳製南麓には、広大な裾野の丘陵と、豊富な湧水があります。 この地区で集落が増加する5,500年前頃から、土器装飾も次第に派手になっていきます。定住生活が安定すると、土器に沢山の飾りを付ける 余裕が生まれ、大きな把手を付ける技術も発達してきます。まさに"デコボコかざり"時代の到来です。 安定した生活を支えてくれたのは、広大な落葉広葉樹の森でした。この地域には、食糧資源の宝庫である海がありません。 そこで、クリやドングリなどを管理し、その恵みを最大限に利用していたと考えられます。 更に、火入れ等によってできた草地は、マメ・アズキ・エゴマなどの栽培も行っていた可能性が指摘されています。 そして、これらを調理するため、あるいは、ドングリ類のアク抜きを行うため、深い鍋は欠かせない存在であったと思われます。 単に、技術力の向上や、製作時間が確保できたためだけでなく、祈りを込める対象であったからこそ、深い鍋への装飾が過剰なまでに 発達していったと考えられます。
定住生活で起こる問題と物語 定住生活が進み、人口が増加すると、いろいろな問題が起こってきます。 ①長年顔を合わせるご近所さんや、隣のムラの人々と仲良くすること ②ムラ内で亡くなった人をどうするか、扱いを定めておくこと ③増えるごみを処理していくこと ④食べ物が不足した都市でも、簡単に移動できないこと…等々です。 いやになったら引越せばよいという時代と違い、ある程度定住化が進んだ縄文ムラをまとめていくのは意外と大変です。また、昔は自由に 使っていた野山でも、隣ムラの住人や他地域の人々と接する機会が増えてきます。そのため、争いを避けるルールが必要になってきます。 文字のない縄文時代には、主に物語 (神話) の形で、生きるためのルール、自分たちの誇りや信仰などを、語り継いでいったと考えられます。
物語を土器の装飾に取り込む 定住化が進展し、社会が複雑化していくと、それに合わせて、物語の内容も複雑になり、種類も豊富になっていったと考えられます。 縄文時代の中期、鍋の用途を邪魔してまでも付けられた、動物やヒトのような意匠 (カミや精霊か) は、単なる飾りとは思えません。 土器製作者達は、人々の求めに応じて、複雑化し、多様化した物語の世界を、土器に表現していった可能性があります。特に中央高地から 西関東地域に広がる勝坂式土器では、その傾向が強く、多様な物語に合わせるかの様に、多くの種類の土器が作られるようになっていきました。 土器装飾は、 (1)分割線や枠を設定して空間 (表現された世界や宇宙) を組み立てること、 (2)回転させて場面展開や時間変化を示すことで成り立っています。 例えば下図のように土器体部の広い枠内に配置されたヘビ状の飾りが、場面毎に姿を変えながら、何かのメッセージを語っているとみられます。
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125入口掲示 既出ですが、改めて詳細に掲示します。
展示資料の出土した遺跡の位置
展示資料に関連する土器形式の広がり
用語解説
●縄文土器 日本列島の縄文時代につくられた土器の総称。県内では、土器出現期の約15,000年前頃から約2,500年前までの土器を指しています。 西日本が弥生時代に入っている頃 (約2,500年以前)、県内では稲作の痕跡がなく、土器も縄文土器を引き継いでいるので、縄文土器と呼ばれています。 大きく、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に別れ、中期は約5,500~4,500年前のおよそ1000年間で、本展はそのうちの200年間 (約5,300~5,100年前) の土器を展示しています。 「展示資料の時期と地域」パネルをご参照ください。 ●遺跡の名前 縄文時代にどう呼ばれていたかは不明。多くの場合、現在の字名(あざめい)を付けるため、地元独特の呼び名になります。 同一地名の中にいくつもの遺跡がある場合は、便宜的に遺跡名の後ろに数字を付けます。古林第4遺跡(こべいしだいよんいせき)など。 「展示資料の出土した遺跡の位置」パネルで遺跡の場所や読みをご確認ください。 ●土器 (形式) の名前 膨大な縄文土器を、同じ特徴を持つことを基準に、時代・地域ごとにまとめた時の名称。 例えは「勝坂式土器」という土器 (型式)名は、型式設定に用いた資料が出土した神奈川県勝坂遺跡 (標識遺跡) の名がつけられます。 型式名は学会全体での商人ではないため、研究者で異なる名称を使う場合があり、勝坂式を藤内式・井戸尻式などの名称で呼ぶ研究者もいます。 また、様式論に立脚する研究者は勝坂式土器様式と呼んでいます。 本展では、 勝坂式 (中・南信~西関東)、上山田・天神山式 (北陸)、焼町式 (東・北信)、阿玉台式 (関東)、北屋敷式 (東海)、船元式 (西日本)などの 土器を展示しています。 「展示資料に関連する土器形式の広がり」パネルをご覧ください。 ●型式 縄文土器の調査では、 ①粘土の選び方~細かなテクニック (製作)、 ②器全体~部分の形 (形態)、 ③器全体の飾り方~細かい模様 (装飾)を基準に、 同じものをまとめ・違うものを分ける作業を行います。 同時に、出土状況などから同時性と新旧 (年代差)を確かめ、また、どこ (地域差)で見つかっているかを確認していきます。 特定の時代・地域に、特徴ある土器群がまとまる場合、これを土器の「型式」として名前を付けます。広範囲で同じ作業を行うと、 例えば、 縄文時代中期中葉の北陸では「流れる模様」を特徴とする上山田式(天神山式)土器が、 同時期の長野県中・南信には「区画もよう」を特徴とする勝坂式土器が広がっていることがわかります。 この作業によって、他の道具類(石器など)や住居、集落の在り方を比較する時の基準にしたり、 土器型式間の影響関係や、消長を比較することができるようになる。 ●C14年代・暦年代 炭素(C)には、宇宙線の影響で変化した放射性炭素C14が僅かに含まれており、年ごとに減っていきます。 半減期は約5,730年です。この性質を利用して土器についていたおこげ (炭素)のC14の測定値 (減った量) を調べ、年代値に換算することが出来ます。 近年、微量でも精度の高い測定ができる装置が開発・普及したことで計測が進みました。 ただし、C14の数値は、太陽活動による宇宙線量の変動や、陸と海のC14濃度の違いなどの影響を受けて誤差が生まれます。 この誤差を補正し、暦 (1年365日)の年代に近付けたのが較正暦年代です。 本展で記載した年代 (約5,300~5,100年前) は、国立歴史民俗博物館年代測定研究グループが行った較正暦年代の数値をもとにしています。 |
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Ⅱ信州を二分した土器飾り 1こんなに違います (1)東・北信 流れる模様の焼町式土器 (2)中・南信 区画模様の勝坂式土器 2何が違い、いつ・どこで始まったのだろう? (1)見分けるコツは粘土紐の貼り付け方 (2)流れる模様はいつ・どこから進化した? (3)区画模様はいつ・どこから進化した? |
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126 Ⅱ 信州を二分した土器飾り 約5,300年前、縄文中期中葉の中頃、土器の飾りは全国的に華やかなデコボコ飾りへと進化しました。 ところがよく見ると、飾り方は地方によって大きく異なっていたことが分かるでしょう。 特に信州は、東・北信と中・南信で、大きく異なる道を進みます。何処がどう違うのか、いつ頃から違ってきたのか探ってみましょう。 東・北信 (流れる模様の焼町式土器) 中・南信 (区画もようの勝坂式土器)
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1こんなに違います
127(1)東・北信代表
流れる模様の焼町式土器 直線で区画することはほとんどありません。まず、太い粘土紐を曲りくねらせ、流れるように貼り付けます。 次に、空いているところを粘土紐に沿わせた線 (沈線) などで埋めていきます。
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2何が違い、いつ・どこで始まったのか 128(1)見分けるコツは粘土紐の貼り付け方 土器の飾りのほとんどは、筒型の器の周囲に貼り付けられ、飾り全体の骨格、割付、筋道の役割を果たします。 太くてデコボコの凸部に当たるため目立ちます。この粘土紐で、土器に描く世界が決まります。 流れるように展開 (第8図) させるのか、上下の空間や一回転する間 (時間) をきっちり分けて描く (第9図) かは、 技術的な違いだけでなく、背後にある空間のとらえ方、ひいては世界観が異なっていたと考えられます。 |
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(2)流れる模様はいつ・どこから進化した? 粘土紐が斜めに曲がり流れる土器を探すと、約5,500年前 (縄文中期前葉) の新潟県上越から長野県北信の山あいの地に辿りつきます。
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(3)区画模様はいつ・どこから進化した? 粘土紐による区画模様は、約5,400年より少し前 (縄文中期前葉から中葉に移る時期) に、中部高地~西関東の地で起こりました。
このように、流れる模様と区画模様は、異なる地域で始まり、それぞれに進化を重ねていきました。 |
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Ⅲ流れる模様の世界 ~日本海側の土器装飾~ 1北陸も斜めの流れる模様へ 2北陸代表になった遺跡より 3日本海を身近に感じる地域の土器 4越後の山間の土器 5千曲川流域の土器 6内陸部に広がる焼町式土器 |
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Ⅲ流れる模様の世界 ~日本海側の土器装飾~ 東信・北信の縄文時代中期中葉土器を象徴する流れる模様。この飾りと近い関係にある土器は、日本海側の各地に広がっていました。 この章では、流れる模様の仲間に出合いに行きます。 大きなくくりでは流れる模様ですが、よく見ると、海辺の土器、山間の土器は、其々の土地で独自に進化していった点が見られます。 |
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1北陸も斜めの流れる模様へ
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129a流れる模様の土器 日本海側の土器装飾
2北陸代表になった遺跡より 1950年代、北陸の縄文時代中期中葉の土器に名前が付けられ、本格的な研究がスタートしました。 上山田式土器 石川県代表 上山田貝塚 上山田遺跡 上山田遺跡 かほく市上山田貝塚は、能登半島の付け根にあり、縄文時代には河北潟に面した丘の上にムラが営まれていました。 1950年代、石川県の縄文中期中葉土器の基準として「上山田式」の名が使われるようになりました。 最大の特徴は、くるりと渦を巻いて斜めに流れる粘土紐です。これに空白部を埋める線描き模様が付きます。 粘土紐を刻むのは、山あいの流れる模様の土器には少ない特徴です。 129b |
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天神山式土器 富山県代表 天神山遺跡 天神山遺跡は、立山から流れ下る布瀬川左岸の段丘上にあります。海から離れていますが、隣の天神山から海を望むことができます。 1950年代後半に調査がおこなわれ、富山県の縄文時代中期中葉土器の基準として「天神山式」の名が使われるようになりました。 その特徴は、上山田式とほぼ同じで、弧線や渦巻きのリズミカルな模様が見られます。 129c
富山県天神山遺跡出土品 上山田(天神山)式
上山田式土器 (天神山式土器) 1950年代、石川県上山田貝塚・富山県天神山遺跡の調査が行われ、縄文時代中期中葉の土器に各々で型式名が付けられました。 その特徴は、 ①口縁部に横方向に粘土紐を貼る例が多い。 ②その下に、渦を巻いて斜めに流れる粘土紐を貼る。 ③粘土紐の上を刻む。 ④空白部を線描きの渦巻き文や流れる模様、三叉文などで埋める。 などです。 両者の型式的特徴はほとんど同じと言ってよく、本展では、全国的な縄文土器の編年体系を確立した山内清男が使った上山田を先に記述します。 ※上山田貝塚は石川県西部かほく市、天神山遺跡は富山県東部魚津市です。大きく離れた二地点には頻繁な交流や移動があり、 よく似た土器が製作され、流通していました。しかし、上山田は上山田式、天神山は天神山式と考えるべきでしょう。 このような頻繁で共通文化圏を有する交流は、やはりヒスイ製品の流通が背景にあったのでしょうか。 以前、「沖縄写真通信」で北陸を取り上げた時、富山県内と同形・同製作者のものと思われる柳葉型の流麗で美しい尖頭器が石川県でも 展示されていたことを発見して驚きました。 |
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130 3日本海を身近に感じる地域の土器 上山田・天神山式土器は、石川県~新潟県西部を中心に、盛んな沿岸交通によって、東北や西日本の日本海沿岸にも運ばれていきました。 ここでは、上山田・天神山式土器の本場、富山県と新潟県西部地区を、西から東へ移動しながら、各地の土器を観察してみよう。 |
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131飛騨・信州と行き交う情報 富山県 松原遺跡 上山田・天神山式土器 松原遺跡は、砺波市旧荘川町の扇状地頂部に立地しています。内陸部にあるムラのため、岐阜県飛騨との交流も盛んだったようです。 飛騨や新潟県糸魚川付近を経由して、勝坂式土器の有孔鍔付土器 (№14) や、区画模様の情報も入ってきました。
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135北陸のオリジナルの形はこれ ~富山県黒部市浦山寺蔵遺跡~ 上山田・天神山式土器 遺跡は黒部市黒部川左岸の段丘上に立地し、磨製石斧の未成品が多く見つかっています。斧作りのムラと考えられます。 ここでは上山田天神山式に独特な形、底部近くがすぼまる鍋 (深鉢) や台付土器に注目してみましょう。すぼまる部分に模様がないのが特徴です。 長野県内ではも筑北村東畑遺跡 (№84) に類似した品があります。また、塩尻市剣ノ宮遺跡では、真似したけどうまくいかなかった勝坂式 (№81) があります。本場のものと比べてみましょう。
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137海辺の土器の質感 ~新潟県六反田南遺跡~ 上山田天神山式 六反田南遺跡はヒスイ産地の遺跡 六反田南遺跡は、糸魚川市の現在の海岸線から200m程しか離れておらず、当時も海辺のムラだったことに変わりありません。 本場、石川・富山両県とはちょっと違う模様が付いた上山田・天神山式が中心になります。 ヒスイの装飾品や磨製石斧を手に入れるため、山あいのムラから多くの縄文人が訪れていたようで、信州系の土器も沢山見つかっています。 地表下3~4mの深い場所に長年埋まっていたため、土器があまり痛んでいません。海辺の縄文土器本来の質感が感じられます。 ※ヒスイ産地を巡って、信州と北陸 (富山・石川と、新潟) の土器が巡り合い新たな展開を見せることになる。 上山田・天神山式土器は、ヒスイ産地と石川県との往復により一帯に広まった土器である。 |
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勝坂の本場から持ち込まれた土器はごくわずかだったらしく、類似品の多くは、飛騨ルート・糸魚川ルートの途上で模倣された物のようです。 富山市鏡坂Ⅰ遺跡を例に見ると、まず、地元の粘土で習熟度の高い勝坂Ⅱ式が作られます(14図1)。ただし部分的に勝坂にない模様があります。
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141焼町式土器との深い関係 ~新潟県五丁歩遺跡~ 型式名なし 遺跡は南魚沼市の魚野川右岸の段丘上にあり、海岸から離れた山間です。海辺の土器の他、長野・群馬・福島方面の土器の影響が見られます。 今回は、長野県の焼町式土器と近い関係にある土器を展示しました。その特徴は、粘土紐を貼り付けた線や突起が多いことです。 同じ流れる模様の土器でも、海辺に比べ、デコボコ飾りが好きだったようです。また、北陸で多かった粘土紐の上を刻むことはしなくなっています。 焼町式との違いは、口縁部の横帯の区画がしっかりとしている点などですが、決定的な違いではなく、焼町式土器と姉妹関係にあるといえます。 |
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142峠を越えるごとに微妙に違う ~新潟県野首遺跡~ 形式名未定 焼町式土器並行期 野首遺跡 野首遺跡 野首遺跡は、十日町市、信濃川との合流点に近い飛渡川の沖積扇状地上に立地します。この地域の信濃川右岸段丘上には、中期の遺跡が多く 見られ、火焔型土器(馬高式)の中心地の一つです。今回の展示は火焔型土器が本格化する前の、流れる模様・渦巻き模様の付く土器です。 山あいの地では、峠を越える毎に、土器の顔つきも微妙に変わってきます。口縁部の横帯の作り方と模様、突起の使い方等々、 五丁歩遺跡や長野県側の千田遺跡や川原田遺跡 (焼町式) とちょっとだけ違います。 |
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143火焔土器へ進化が始まる ~新潟県堂平遺跡~ 遺跡は、中魚沼郡津南町、信濃川右岸に流入する清津川を遡った地点、信濃川の高位河岸段丘上にあり、火焔土器の中心地の一つです。 今回は、本格的な火焔土器に進化する前の土器です。古手の火焔土器が出始める頃、流れる模様の土器にも似たような突起が付けられます。№32 火焔土器にお決まりの、横方向の分帯、縦方向の軸線が定まっていないのが特徴です。 |
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143 5千曲川流域の土器 千曲川を遡ると、同じ流れる模様でも、粘土紐の模様や把手・突起物がふえ、デコボコ飾りが発達することが分かります。 色の違いを楽しむ ~中野市 千田遺跡~ 型式未定 焼町式並行期 千田遺跡 信濃川 (新潟県)は、長野県では千曲川となる。千田遺跡は中野市 (旧豊田村) の千曲川左岸、斑尾川が合流する地点の河岸段丘上にある。 千曲川を利用して、新潟県中越や長野盆地方面と、斑尾川を遡って峠越えして新潟県上越方面と、交易するにはとても便利な所です。 北信の縄文遺跡で面白いのは、焼き色が白っぽい土器と赤黒い土器が一緒に使われていることです。 流れる模様の土器同士の色の違いをお楽しみください。 |
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144 6 内陸部に広がる焼町式土器 御代田町の川原田遺跡は、千曲川上流域、浅間山南麓の丘陵上にある。1990年の調査で焼町式土器が大量に発見され型式認定された。 また、本場が千曲川流域の東信にあったことが判明した。 土器の特徴は、曲りくねる粘土紐を軸に飾りが展開する点です。1本の粘土紐ではなく、繋ぎ目に「8」字状の突起をつけて、流れる模様に繋ぐ。 元祖は北信から上越の山間の地で、東信に定着するのは、約5,350年前になってからでした。 東信では元々区画模様が主流でしたが、区画模様の本家、勝坂式土器の勢力が広がってくる中、流れる模様に大転換を図りました。 どうにかして勝坂に対し、地元のオリジナリティを確保したかったと考えられます。 |
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144a焼町式土器の新旧と進化を追う
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145本場以外で見つかる優品 ~朝日村熊久保遺跡~ 勝坂式土器文化圏の中で、松本盆地や諏訪湖周辺には焼町式土器が比較的多く持ち込まれています。その筆頭ともいえる優品が、 東筑摩郡朝日村熊久保遺跡から出土しています。 本場にもないような出来ばえで、真似できるレベルではありません。 しかし、これほどの大型品を山越えで運んだとはとても思えません。 使われた粘土も東信のものとは異なります。 大きな祭りなどの際に、名をはせた焼町式土器の作り手が招かれ、特別に焼いたものなのでしょうか。興味は尽きません。 胎土分析などの試みが期待されます。 |
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146様々な地域の土器を作る ~渋川市道訓前遺跡~ 渋川市 (旧北橘村) 道訓前遺跡は、赤城山の西麓にあります。1996根なの発掘で、焼町式土器の大型優品が複数見つかりました。 これにより、焼町式の中心地は群馬県かとも思われました。ただ、この地域の面白い点は、 それ以外の土器、越後系土器や、東北系土器、関東系土器にも、大型で素晴らしいものが多数あることです。 |
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146道訓前遺跡の優品土器 渋川市
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参考「山梨県風土記の丘」 | |||||||||||||||||||||||||
Ⅳ区画模様の世界 ~中部高地とその周辺の土器装飾~ 1中部高地の土器の基準になった遺跡 2勝坂式土器の本場!山梨へ 3勝坂のお隣さんの区画模様 |
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150 Ⅳ 区画模様の世界 ~中部高地とその周辺の土器装飾~ 流れる模様の世界から、いくつかの峠を越えて中・南信、そして山梨へとやって来ると、そこは区画模様の世界です。 この章では、中部高地と呼ばれる山あいの地で進化を遂げた、区画模様の土器の優品をご覧ください。 また、その周辺地域の個性豊かな土器とも比べてみましょう。 |
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151 1 中部高地の土器の基準となった遺跡 藤内遺跡第32号住居跡出土土器 「中部高地」は考古学で使われる地域名です。おおむね長野県の諏訪郡から山梨県の縄文中期の遺跡が多い地域を指し、 華やかな縄文土器文化のイメージと重なっています。 この地域では、地元の歴史は地元の力で調べる活動が盛んです。縄文研究でも地元の人達主体で調査を行い、土器形式名も付けられました。 今回の展示対象は、藤内Ⅰ式、藤内Ⅱ式、井戸尻Ⅰ式と呼ばれています。土器の特徴は、勝坂Ⅲ式・Ⅳ式とほぼ同じです。
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152富士見町藤内遺跡の「藤内式土器」 |
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154大量の大型品が捨てられた住居跡 ~諏訪市荒神山遺跡~ 遺跡は諏訪湖南西側の丘陵地帯にあり、諏訪湖、八ヶ岳、富士山が望める最高のロケーションです。 第93号住居跡の埋土中から大量の大型品が出土しました。縄文中期には時折り見つかる事例です。 日常的に使っていた鍋を捨てたゴミ捨て場というよりは、特別な使い方をされた土器だったのかもしれません。 焼町式土器や下伊那型櫛形文土器も交じり、大型の優品がそろっています。今回の展示は勝坂式の大型優品です。
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155特別な逸品 ~霧ヶ峰南麓・八ヶ岳西麓より~ 優良な交易資源である黒曜石の原産地直下であり、動植物資源が豊富な広大な山麓地帯を抱える霧ヶ峰南麓から八ヶ岳西麓は、「縄文王国」と うたわれることでもわかるように、縄文中期の遺跡が密集し、区画模様の土器が数多く出土しています。 今回その中から、ちょっと変わった2点を紹介します。 |
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2 勝坂式土器の本場!山梨へ 諏訪湖の周囲から八ヶ岳西麓は、黒曜石原産地が近いこと、越えやすい峠が多いことから、他所の人々が頻繁に訪れていたようです。 いろんな地域の土器が多く見られ、模様を真似ることもありました。 これに対し、土器のほとんどを勝坂式土器で占めるのが、富士見町の立場川以南、そして山梨県側になります。 ここでは、本場の勝坂式土器の優品の数々を見てみましょう。 |
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156八ヶ岳南麓の土器 ~北杜市古林第4遺跡~ 八ヶ岳南麓から茅ヶ岳山麓には、縄文時代中期の大きなムラが沢山ありました。北杜市 (旧大泉村) の古林第4遺跡もその一つです。 デコボコ度の高い突起があります。焼町式土器と比べると、上に飛び出す突起は、焼町は丸一つ、勝坂では二つ (目玉のよう) です。 また、正面の突起は焼町では手書きの「8」みたいに流れます (№36) が、勝坂ではきっちりと左右対称になる例が多い。 似ているようで其々、こだわりがあるようです。
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157南アルプス山麓の抜群な質感の土器 ~南アルプス市鋳物師屋遺跡~ 勝坂Ⅲ式(藤内式) 南アルプス市 (旧櫛形町) の鋳物師屋遺跡は、赤石山脈山麓の扇状地上に立地しています。釜無川の西岸の大きな縄文中期のムラの一つです。 一般に出土品は風化が進んだ感を持ちますが、この遺跡の土器は残存状況が非常によく、本来の縄文土器の質感を感じることができます。 今回は、小型の残存状況の良いものを展示します。質が良い分、模様を描くときのきめ細かなテクニックも見られます。 №68の人体文の表現された有孔鍔付土器と共に、注目してみてください。 |
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158際立つ抽象模様 ~笛吹市 一の沢遺跡~ 一の沢遺跡Wiki 一の沢遺跡 一の沢遺跡 遺跡は、笛吹市 (旧境川村) の御坂山地と曽根丘陵の接点、甲府盆地を見下ろす扇状地にあります。 山梨県では、甲府盆地を囲む見晴らしのよい丘陵・扇状地上に縄文村があり、互いの存在を見ることが出来、連帯感が生まれたかもしれません。 勝坂式には、区画模様ばかりでなく、№57のような抽象的な模様を単独で見せるタイプの土器があります。 デコボコ飾りばかりでなく、縄文を磨り消して描かれた円や区画模様の美しさをご覧ください。 |
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159区画模様の典型的な形 ~山梨県釈迦堂遺跡~ 笛吹市から甲州市にかけて広がる釈迦堂遺跡群は、京戸川扇状地の扇央部に立地しています。1980-1981の調査で、約1200個体の復元土器と 1,116点の土偶が出土しています。 今回は、縦の区画模様 (№58)、横の区画模様 (№59) それに、これも勝坂らしい人体文様が付く例 (№69) など、勝坂式土器文化圏の中心地らしい きっちりとした典型的な区画模様をご覧ください。 |
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160 2 勝坂のお隣さんの区画模様 太平洋側に流れる河川の流域では、勝坂式土器の広がる地域と重なるように、あるいは周辺地域に独特な区画模様の土器があります。 その中から南信の下伊那型櫛形文土器、関東の阿玉台式土器を取り上げます。 |
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161下伊那地域のシンプルな区画文 ~下伊那型櫛形文土器~ 長野県の下伊那地域とその周辺に点在しているのが下伊那型櫛形文土器です。 その特徴は、灰色がかった焼き色で、非常に薄く、形も写真にあるような定型的な深鉢形のみです。 飾りは、前時期の平出第3類A土器と同様シンプルで、口縁部の横帯と体部の櫛形文だけです。 日常生活では、勝坂式などと共にセットを組んで使われています。 その中で、頑固に定型的なオリジナルな土器を作り続けているグループがいたことが分かります。 |
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162関東の区画模様 ~阿玉台式土器~ 阿玉台式土器 阿玉台式土器 阿玉台式土器 阿玉台式土器 阿玉台貝塚 (読み:おたまだい) 東関東を中心に、東京湾沿岸や、利根川を遡って分布するのが阿玉台式土器です。大きな扇状把手が付く例 (№62) と、平らな口縁の例がある。 区画模様は、基本的には、口縁部だけですが、勝坂式の影響を受けて体部に区画模様を持つ例も見られますが、多くは、この土器のように 上から下がってくる粘土紐が貼り付く程度です。
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中・東信から西関東には、流れる模様の世界とは一味違う区画模様の世界がありました。 そこには、地域毎、作り手毎に独自性を持った土器が広がっていました。 表現力の豊かさは、次章で紹介する、顔や生き物が描かれた土器でも知ることができます。 |
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ⅴ顔の付く土器、生き物が付く土器 1ヒトの顔も進化する 2ヒトの体が付く 3生き物を描く |
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180 Ⅴ顔のつく土器、生き物がつく土器 区画模様の勝坂式には、ヒトの顔や全身像、カエルやヘビ、虫などの造形物が貼り付いたり、模様として表現される例が沢山あります。 流れる模様の土器にも、ヘビやヒトに見えなくない模様があります。 しかし、抽象的な描き方なので、現代人の誰が見てもヘビ・ヒトと断定できるものではありません。 勝坂式土器の表現は、より分かり易く、誰が見ても顔は顔、といった例が多いのが特徴です。 一方で、測ったように正確に描くよりも、それぞれの生き物の印象や動きを大切にして表現しているのが縄文人です。 躍動感あふれるヒトや生き物たちをご覧ください。 |
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五領ヶ台直後型式群 勝坂Ⅰ式(貉沢式) 勝坂Ⅱ式(新道式) 勝坂Ⅲ式(藤内式) 勝坂Ⅳ式(井戸尻Ⅰ式) 土偶装飾 (内向き) ⇒ 「顔が飛び出すグループ」 ⇒ 深鉢と分岐 ⇒ 出産土器などの人面装飾土器へ 人面装飾 (外向き) ⇒ 勝坂Ⅱ式期に流行し、以降衰退 (この図はあまりよく理解できませんでした。(笑)) |
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182顔が付く、生き物が付く土器 中部高地には、ヒトの顔や全身像、カエルやヘビなどの造形物が貼り付いた土器が多く見られます。 土器に描かれた物語の主人公たちは、次第に巨大化し、飾り立てられ進化していきました。
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183ふくよかな樽形は、豊かさのみなもと 人面装飾土器は、小さな体が器に張り付く例の他、器全体を体に見立てる例があり、土器に手の表現などが見られることがあります。 特に樽のようなふくよかな形をした土器では、山梨県御所前遺跡のように土器中央にも顔があり、子どもの誕生を表現しているとされています。 まさに土器が母体に見立てられていたことが分かります。 ふくよかにお腹の張った器には、おいしい煮込み料理 (実用面) だけでなく、様々な命の源が蓄えられている事を連想させてくれます。 |
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184 沢山の飾りを頭に乗せ、頂点には蛇の模様が合成されています。
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185斬新なデザインのでかい顔 顔は器の上から出るものだと思っていたら、いきなり器の中央から、破格のデカ顔が飛び出す、といった斬新なデザイン。 華やかな土器の飾りが進化する縄文時代中期中葉において、勝坂の人々が他地域の土器をリードしていた理由は、一つには貪欲に他地域の 土器の飾りを採り入れたこと、そして、もう一つは、このような斬新なデザインを受け入れてくれる人たちが周りにいたことだと思われます。
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186 2 ヒトの体が付く 土器そのものが体と一体になっているもの以外に、土器の側面に人体が描かれている場合もあります。 この場合、土器を回転させると場面が変わり、物語が展開していくことを想像させます。 ペアで物語が展開する 土偶装飾以外にも、体全体を表現した模様があります。区画模様の土器は、上下に空間を分けるだけでなく、回転体 (筒型) であることを活かして 横方向で時間 (場面) を分けて描くのも得意です。 例えば、踊る縄文人と呼ばれるこの土偶では、〇頭 (ふくよかな女性?) と△頭 (男性?) のペアが、交互にポーズを変えて登場します。 土器を一回転させると、男女の物語が展開する仕掛けだったのかもしれません。 |
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187歌う?語る? 一つの区画が一つの場面を表しているとすると、四角い区画模様で囲まれたこの場面の、登場人物 (あるいはカミ) は、右手を上げ、 大きな口を開け、この土器がお披露目された場所 (祭の場所) で、観客を前にして歌ったのでしょうか。あるいは、何かを語ったのでしょうか。 左側面はカミ (精霊) でしょうか?棒状で人体のような模様が付けられています。 |
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188生き物が合体・合成する 縄文の人々は、現実にはあり得ない生き物同士が合体する物語を創造していたのかもしれません。 この時代、ヒトとヘビ、ヒトとカエル等々が合体・合成してパワーアップした進化形が表現されました。 |
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お知らせ 次項、「生き物を描く」での、 サルの土製品は企画展「進化する縄文土器」の最後に、 一方、ヘビの香炉形土器は、常設展に、分かれてあります。 更に、「Ⅵ 運ばれた地域の顔」以降は、常設展にあります。 企画展示場での展示は常設展に続いています。 そこで、常設展内の「進化する縄文土器」を、続けて、掲示いたします。 常設展のページでも掲載していますが、企画展「進化する縄文土器」のページを完結させるために、 常設展示場に特設されている土器番号71~91をこの後、掲載して、企画展示を終了したいと思います。 |
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第3室 常設展示室内展示 |
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189生き物を描く 縄文時代の人々は、平面に描くよりも、生き物の躍動感や、質感などを表現しやすい立体物が好きだったようです。 土器の表面にも、ヒトを線で描くのではなく、土偶を貼り付けてしまったことでもわかります。 また、実物を正確に測ったように描くのではなく、印象的な部分を強調したり、今にも動き出しそうに作るのが得意だったようです。 その表現力に脱帽です。
香炉形土器 器全体が、とぐろを巻く親蛇を表しているのだろうか。3匹の子蛇が親蛇の上に登り、最後の4匹目が、一生懸命登ろうとしている。 生まれた直後とすると、胎生のマムシの可能性が高い。 三角頭で、目の周囲の模様で鋭く見せる目はマムシを思わせる。また、ずんぐりとした体形は「ツチノコ」を想像させる。 ランプに使われたとされる器。ほの暗い場所で、器の正面からチロチロと揺れる炎の向こうに4匹目の子蛇の顔が覗く仕掛けになっている。 |
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190常設展示会場 |
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191 |
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Ⅵ運ばれた「地域の顔」 ~人々の交流から始まる進化~ 1運ばれてきたコンパクトな土器 2峠越えを控えたムラに集う 3信州の北と南を結ぶ 4黒曜石原産地近くのムラ |
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200 Ⅵ 運ばれた「地域の顔」 ~人々の交流から始まる進化~ 「流れる模様と区画模様」Ⅲ・Ⅳ章では、信州の南と北の違いなど、各地の独自性が強まる点を中心にみてきました。 ここの章では、岐阜県と長野県内を西から東へ移動しながら、各地で人や土器が盛んに往き来していたことを確かめます。 そして、素晴らしい出来栄えの土器を遠くのムラへ贈る。あるいは、見よう見まねで他所の土器を作るなど、 人と人の交流が生まれる進化を見ていきましょう。 |
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201 1運ばれてきたコンパクトな土器 岐阜県飛騨の地には、枝葉のように延びる谷や尾根があり、北陸と東海、西日本と東日本をつなぐ大動脈となっていました。 下呂市桜洞神田遺跡第6号住居跡からは、地元の土器や北陸系の土器に加え、今回展示する信州、西日本、東海など、外来の土器が 出土しています。 各々、いかにも持ち運びやすそうな大きさで、しかも各地の個性的な特徴がしっかりとわかる土器です。 72-74
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2 峠越えをひかえたムラにつどう 塩嶺・善知鳥の2つの峠は、日本海と太平洋に注ぐ河川の分水嶺に当たります。塩尻市側の麓には、焼町・剣ノ宮・峯畑遺跡といった縄文中期の ムラが並んで営まれていました。 峠越えをひかえた中継地として人々がひと息入れたり泊まったりしたためか、各地の土器が持ち込まれています。 他所の土器を多く見たせいか、剣ノ宮遺跡の土器には、似ているけどちょっと変?、あるいは他所の土器を参考にしたらしい新作などがあります。 そのあたりを観察してみましょう。 |
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202地元の土器は勝坂式土器 大量に土器が捨てられていた27号住居跡で最も多かったのは、諏訪方面と共通性の高い勝坂式土器でした。 75,76 |
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203 厚くて深いナベと、薄くて浅いナベ |
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204遠くから運ばれてきた土器 長野県内の小さな遺跡では見られない、遠い地域の土器が出土しています。 ただし、何処で作られたか絞り込むのは、今後の研究にかかっています。 77,78
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205峠の向こうの土器が、次代の流行をになう 少し遠い場所、ここでは下伊那辺り~塩尻市剣ノ宮遺跡、からは、善知鳥峠を越えて、櫛形文の描かれた大型の土器も運ばれてきました。 行き来が盛んな地域の土器飾りは、お互いに真似しあったりして、新たな流行を作っていきました。 79,80 |
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206櫛形文の流行 |
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207真似しづらい焼町式土器 櫛形文は採り入れた後に大流行しますが、東・北信側のお隣さんである焼町式の真似は、なかなかしませんでした。 真似し始めるのは、本場の焼町式に陰りがみられる勝坂式の末期 (井戸尻Ⅲ式) あたりになってからです。 櫛形文は、勝坂式などと同じように分帯して、区画文をつなげる「区画模様」の仲間です。 一方、飾り全体の組み立て方が全く違う「流れる模様」をまねするのは難しかったのでしょうか。 |
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208真似してみたけれど 真似したけれどうまくいかなかった例もあります。↓の№81の土器は、北陸の№16、№17のようにしたかったのでしょう。 ところが飾りは地元の勝坂式です。慣れない地元の人が北陸土器を真似ようとして、歪んでしまっています。 中を覗くと、底抜けです。北陸では台のように見える部分も、筒状になった器です。 作り手は、外見だけを真似ようとしたため、台の上に器を作ろうとして、結局、頑丈な底を作れませんでした。 |
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209狭い地域で少しだけ作られた土器 新作を作っては見たけれど、多くの土器製作者には広まらなかった例もありました。 やや黄褐色の焼き色に、弧線文がつながるこのタイプは、松本平南部を中心に散見される程度で終わってしまった、地域限定の土器です。 |
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220 3信州の北と南を結ぶ 筑北村東畑遺跡は、長野盆地、上田盆地、松本盆地、の中間に当たり、地域間交流の結節点に位置しています。 時代によって、勢力の強い地域が異なっており、主となる土器の顔つきが変わっています。 縄文時代中期中葉中頃は、千曲川流域の東・北信との結びつきが強い時期です、第95号住居跡からは、北信や東信の焼町土器 (82,83) 北陸の形を採りいれた土器 (84) などが出土しています。 一方、中・南信の勝坂式土器 (85) も認められ、各地との結びつきを橋渡しするムラだったことが分かります。 82-85 86 87
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230 4 黒曜石原産地近くのムラ 大仁反遺跡 長和町 関東や新潟方面の縄文人が、黒曜石を手に入れようとやってくる場合、千曲川から支流の依田川沿いに入るルートがあります。 長和町落合で和田峠方面と別れ、大門峠への道をとると、間もなく大仁反のムラに着きます。 発掘調査では、大量の黒曜石と共に、様々な地域の土器が見つかりました。 また、大門峠を越えるとすぐに勝坂式土器の本場、茅野市に出るため、多くの勝坂式土器が見つかっており、影響を与え合っていました。 88-90
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Ⅶ究極の飾りを求めて 1、誰もまねのできない土器を作りたい 2、進化する縄文土器 |
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240 Ⅶ 究極の飾りを求めて 華やかな飾りを目指して進化してきた縄文中期の土器は、この後更にエスカレートしていきます。 約5,000~4,800年程前 (中期中葉~後期) には、新潟県で火焔型土器が、中部高地では水煙土器などが全盛期への道を駆け上がります。 |
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241 1 誰もまねできない土器を作りたい 約5,000年前、焼町式土器の盛んだった東・北信で、流れる模様が動揺を起こします。この地域は、5,350年程前までは区画模様が主流だったため、 流れる模様が長く続く北陸などとは事情が異なっていたのでしょう。勝坂系や群馬の土器に押されて、廃れてしまいます。 しかし、ごく一部の深鉢形土器と、日常生活とは別に使われたと考えられる台付鉢には、流れる模様が引き継がれました。 特に台付鉢は、他所の人間には作れないような究極の技術で、華やかな飾りを作りました。 日常的に使う土器は変化しても、特別な時に使う器は、伝統の流れる模様の器を使ったのでしょう。 一方、中・南信ではデコボコ飾りが頂点を迎えるようになります。ただし、400年近く続いた区画模様は下火になり、 水煙土器など、流れのある飾りが増えていきます。 いずれの地域も新たな時代を迎えるきざしが見え始めます。 91
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進化する縄文土器 |
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250特別寄稿 高橋龍三郎「パプ・アニューギニアの土器づくりと縄文土器」の中の 9.人面装飾と動物形装飾 10.縄文土器の装飾を考えるに当たって を抜粋 |
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9.人面装飾と動物形装飾 人面装飾は精霊を象ったものと言われるが、祖霊、先祖霊の可能性もある。(・・・省略・・) (要約①:人面装飾を棒の先に着けてヤムイモの見張りにする。) (要約②:土器の先端に自分たちのトーテムの亀の顔を装飾した。) 人面装飾と象徴的な動物形装飾が同じ個体の土器、あるいは同じ型式の土器に共に見られることは、縄文中期の勝坂式にも共通して見られる。 多くの場合、ヘビ、イノシシ、トリ等のモチーフが文様化して加えられるが、もし、それらがトーテム的なシンボルであるとすれば、 その在り方はクウォマ族の在り方に近い。 (要約③:勝坂式土器にヘビとイノシシが一つの土器に装飾されるのは、それは集団のトーテムではないか。) ※一説によると、ヘビは男性を、イノシシは多産の女性を表したものであるとも言う。 |
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10.縄文土器の装飾を考えるに当たって 縄文土器の口縁部に配される動物突起は、諸磯b式土器を嚆矢(こうし)として、以後、五領ヶ台式、勝坂式、加曾利E式後半期を経て後期に 継承される。 主に、イノシシ、ヘビ、トリなどがあり、長野では中期の新道式、藤内式、井戸尻式などに見られる。 群馬県、栃木県方面でも、加曾利E式終末段階において、トリ形やイノシシ、ヘビなどの装飾が現れることが知られている。 ( 参考 加曾利E式 加曽利貝塚 加曽利E式 加曽利E式 加曽利E式 加曽利E式 曽利式土器 関東の大木式・東北の加曽利E式土器 ) 山梨県では主に釣手土器の口縁部突起にイノシシやヘビを配したものがあり、(北原・宮の前・安道寺遺跡) それらを製作した集団の何らかの 社会的区分 (階級のことか?) と関係がありそうである。 時にはイノシシとヘビの「あいの子」状に合体したものがあり、「イノヘビ」などと称されている。 両者をうまく表現出来なかった技術的未熟さか、それともイノシシとヘビを実際に合体させた真摯な造形表現なのか、意見が分かれるところである。 氏族集団が成立する前夜の状態を示し、何らかの社会的区分の事実上の合体状態、あるいは分岐状態を示しているのかもしれない。 これらの大きな動きが長野県、山梨県方面を中核として出現し、やがて関東地方全体を席巻していくことは重要で、更に後期には、氏族社会の成立と 関係して、東は東北、北海道地方、西は東海、近畿地方にまで拡大する。 その動きはトーテミズムの成立と氏族社会の成立に連動し、社会構造を大きく変革する過程とちょうど重なるのである。 ※特別寄稿者は、土器装飾を、ニューギニアと同じように、部族のトーテムだという考えのようである。。 ※縄文社会の先に、氏族社会や社会的地位区分(身分社会)の形成などに思いをはせている。 |
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まとめ 結局、縄文土器から当時の社会の何を読み取るのかは重要な課題であり、縄文時代の本質に迫る方法論の問題である。 しかし、現在はその実証に関して定見があるわけではない。ただ、過剰な装飾の土器が日常的な使用には不向きであること、 それから何らかの祭祀・儀礼などの社会的側面、精神世界と関わることを指摘する声は近年ますます大きくなりつつある。 確かに民族誌研究の成果からすると、人面意匠や文様、突起が単なる装飾でなく、人々の精神世界や社会的側面を反映するとの視点は、有効な方法論 になりうる。 筆者は後・晩期の動物型土製品などの動物意匠が、特定集団の氏族的独立性と社会区分を物語ること、また氏族社会が列島規模で成立し展開する プロセスを解明する上で、重要な役割を果たすことを述べた。 動物意匠はトーテミズムなどの社会的機能と関連し、「旗印」として氏族集団の表徴として機能するからである。 後期の氏族社会 (単系出自社会) 出現に至る変革過程を詳しく探る作業が必要で、途中にある中期社会が如何なる経過を示すのか、 大家族制などから出発して中期の双系出自社会を経て、やがて後期の単系出自社会に至るとすれば、まさに中期社会はそのプロセスの真っ只中に あるといってよい。 集団表徴として「イノヘビ」(イノシシ集団とヘビ集団の合体か、あるいは分岐か?)」が出てきたり、トリ形突起が出てくるのは、 集団の派生と分岐、集団の合体などの兆候とみなすべきであり、後期の単系出自社会に向けた集団編成の大きな転換期であった可能性が高いのである。 高橋龍三郎氏のまとめ である |
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