西日本の縄文 25 2016.04.19-1 広島県立歴史民俗資料館 みよし風土記の丘ミュージアム 広島県三次市 小田幸町122 0824-66-2881 月曜休館 撮影可 交通 車 見所 三次市や庄原市・廿日市市には、広島県下第一級の旧石器時代の遺跡が多数あり、その遺物の一部が展示されている。 吉備と出雲に挟まれた地域の、弥生時代から古墳時代にかけての独自な文化による豊富な遺物。 大変展示物が豊富です。また、興味深いものが沢山あります。 |
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00中国地方の珍しい地形 考古のページで地学の話は不似合ですが、中国地方を旅行すると山の低さに驚きます。 山陽自動車道で岡山県内を走ると丘陵が続きます。ブドウ栽培が有名です。 松江自動車道で松江から広島に南下すると、もっと驚きます。山は高くても10〜30mくらい。丘です。高冷地野菜やこんにゃく栽培が主です。 この特異な地形はこの地域の旧石器〜古墳時代の生活に大きな影響を及ぼしました。 まず、この地形の不思議から見ていきたいと思います。
中国地方の形成 三次盆地の形成 県立歴史民俗資料館は広島県三次市にあります。 @〜Fの番号は下の図と対応しています
旧石器時代の山稜交通路
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00外観 |
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01みよし風土記の丘周辺の地史・地質
三次盆地の成立 (標高150〜170m)
※ コハク
カキ化石 -
地ロウ
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10旧石器時代 日本列島で見つかる旧石器は、ほとんど後期旧石器時代に属します。当時はウルム氷期に当たる寒冷期でした。 人々はナイフ形石器などを使い、狩猟・採集生活を行っていました。 |
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15冠遺跡の旧石器文化3万5000〜3万年前 |
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16三次盆地の旧石器文化3万5000〜3万年前 三次盆地の旧石器出土分布図 三次盆地では、現在12箇所で後期旧石器時代の遺跡が見つかっています。 このうち下本谷・宮風呂・松ケ逧・宗祐池・岡竹遺跡などで、流紋岩製の古い石器が見つかっています。 これらの石器は、下本谷遺跡・宮風呂遺跡から出土したナイフ形石器の特徴から、 後期旧石器時代の最古段階(3.5〜3万年前)にあたる、非常に古い石器文化と考えられています。 ナイフ形石器 ここにあるのは3万年以上前の人々が作った、日本で最古級の石器です。流紋岩を打ち欠いて作り、刃がつけてあります。 当時の人々は、これで狩りをしたり、獲物を解体したりしました。 下本谷遺跡の旧石器文化3万5000〜3万年前 遺跡は三次市市街地南の丘陵上にあり、石器は複数地点から出土したが、一か所から200点余出土したため、狩猟キャンプ跡だとわかりました。 石器は荒い加工のナイフ形石器と打製石斧が特徴で、後期旧石器時代の最古段階だと考えられています。 下本谷遺跡 旧石器時代最古級 (3.5〜3万年前) の石器 石で作ったナイフ 三次市、下本谷遺跡のナイフ形石器は3万5千年〜3万年前のものです。石を割って鋭い刃物に加工した石器です。 ナイフ形石器はナイフとして使ったり、槍先にしてナウマンゾウなどを狩猟するときに使ったりしました。 瀬戸内海の海底からは、1万年以上前に絶滅したナウマンゾウの牙や臼歯の化石が発見されています。 |
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17佐田谷遺跡・下山遺跡 3万年前〜2万年前 |
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18.各地の石器 3万年前〜2万年前 |
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192万年前の、瀬戸内系石器文化の拡大 日本列島の後期旧石器文化は、2万年ほど前に各地域で地域色が現れます。 (これは最寒冷期のため人々が各地に閉じ込められ交流が少なくなったからだと考えられます。) 瀬戸内系石器文化 代表的なものに瀬戸内地域を中心とした瀬戸内系の石器文化があります。 安山岩を用いた横長剥片のナイフ形石器文化で、国府(こう)型ナイフ形石器が代表的です。 三次盆地でも、酒屋高塚古墳から典型的な国府型ナイフ形石器が出土しており、2万年前頃を境に瀬戸内系文化が流行したことが判ります。 地球の寒冷化と地域文化の発展 2万年前頃は地球の最寒冷期で、2万5千年ほど前からシベリアの動物が寒冷過ぎるために南下し、それを追って人々も南下した時期です。 この気象現象によって人々の交流が妨げられ、地方に別れて暮らすことによって地方色が生まれ、方言が生まれて、言葉が通じなくなり、 以後の交易を妨げるものになりました。 |
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40縄文時代 12000〜2500年前 氷河期が終わり、温暖な完新世へと変化し、日本列島では土器や石を磨いて作った磨製石器などを使う時代を迎えました。 人々は旧石器時代と同じ狩猟・祭祀有の生活でしたが、ムラや貝塚を作るなど判定住の要素も見られます。 この時代の土器は、縄目の文様の特徴から縄文土器と呼ばれ、浅鉢や深鉢などの鉢形土器が中心でした。 ※道具の変化 寒冷な氷河期から温暖な完新世への気候の変化は、人々の暮らしに大きな変化をもたらしました。 土器の発明と磨製石器の登場です。 また、旧石器時代からの打製石器にも変化が現れています。 旧石器時代の終わりごろに登場した槍先形尖頭器(石ヤリ)は、縄文時代の初め頃に小型化し、石鏃へ変化しました。 道具の変化は自然環境の変化による動物類の小型化に合わせたためと考えられています。 |
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41縄文時代早期 |
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43縄文式土器と交易 縄文式土器は、縄・ヘラ・貝殻などを利用して文様が描かれており、まず、食べ物の煮炊きに使われました。 土器には同じ形や共通した文様のものが広い地域に分布しています。 また、海産の貝や魚の骨が帝釈峡遺跡群から出土したり、大分県や香川県の石器石材が、県内の各地から発見されたりします。 このことから、集団の移動や集団間の行き来があったり、交易がおこなわれたりしたことが伺われます。
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45その他の縄文遺跡
※1縄文の生活風景想像図 縄文人が裸に毛皮の姿は、30年以上も前の知識で、アンギン編の衣服があったこと、それが現代まで継承されていたことも知られている。 しかし、そういわれてみると、西日本では、アンギン編が出土している遺跡を知らない。 博物館に縄文衣装としてドンゴロスを貫頭衣にしたものはときどき見かけるが、アンギン編み機は見ていない。 改めて調べてみると、毛皮の想像図を掛けているのは、「みよし風土記の丘」と「神石町立歴史民俗資料館」だけでした。 神石町の資料館は毛皮をまとう人物と布のようなものを着ているかもしれなさそうなよくわからん絵でした。 やはり、西日本における織物が未検出なせいでしょう。 この場合、みよし風土記の丘を突っ込むと何もできなくなるのでやめましょう。 ただ、漁網を編む技術があれば、敷物を編む技術があれば、布も簡単に編めますから、裸に毛皮と言う原始人的な発想はいかがなものか。 西日本でも蓆(むしろ=敷物)の痕が土器底に残っているので、人々はアンギン編みを着ていたと想像されます。 ムシロの編み機とアンギン編み機は同じものだからです。 ※2弥生土器と縄文土器 縄文土器は鉢形が基本で、口縁部が平らでないため、蓋ができず、煮る料理が中心でした。 弥生土器は、壺形(貯える)、甕形(煮炊き)、高坏形(供える)という組み合わせに替わり、口縁部は平らになります。 中でも、甕形土器は、蓋をして、煮る・蒸す・炊く の調理が可能になりました。 このような器の変化は、稲作農耕を中心とした生活への変化を示しています。 |
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47縄文の諸道具 |
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60弥生時代 2500〜1700年前 縄文時代の終わり頃、稲作や金属器などの新しい文化がはじまった。 人々は沖積平野に定住のムラを作り、稲作農耕を行った。 やがて武力闘争によってムラがまとまり、小さなクニへと発展しました。 日常の土器は、貯蔵する壺、煮沸する甕、盛り付ける高坏のセットへ変化しました。 |
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61美しき農民の土器 大陸から九州に伝えられた水稲農耕や金属器の道具は、人々の生活に大きな変化をもたらしました。 縄文土器は、煮炊き用深鉢が大半を占める呪術的な土器なのに対し、 弥生土器は、貯える壺、煮炊きする甕、盛り付ける鉢や高坏、と言う、用途に即した日常容器のワンセットでした。 長い米食生活を通じて存在する、今日の私たち日本人の食器は、この弥生土器に原点を求めることができるでしょう。 |
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63農民の道具・武器のはじまり 笹利迫田遺跡貝塚は、 広島市佐伯区石内の細い谷に面した丘の上から斜面にかけて造られた弥生後期の集落の跡で、 斜面には当時使った土器や貝などが多量に捨てられ、貝塚になってしまいました。 貝塚は殆ど土を含まないもので、マガキを主体(90%)に、アサリ・ハマグリの二枚貝。マテ貝の巻き貝など、岩礁や砂泥に生息する 海水産の貝類があり、その他、淡水産の貝類も多少含んでいました。 広島湾岸の地域では弥生時代後期に丘の上に造られたムラが増大しますが、これらのムラでは稲作・畑作の他、 貝類も多量に穫って、丘の上に持って上がり、食べていたと考えられます。 |
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64農民の道具 ※2農民の道具 -石器から鉄器へ-
※1武器の始まり
私見 倭国大乱の原因 倭国大乱は、中国漢帝国が滅亡し、後ろ楯を失った北部九州が弱体化し、列島の権力バランスが崩れたために起こったといわれています。 いずれにしても、本来、長年にわたる、飢餓民や、戦乱大陸からの敗戦兵士などの流入したものである。 野盗強盗や殺戮などが生きる手段の者たちである。大陸や半島にならって、収穫物泥棒や領地拡張戦争を仕掛けるのは普通のことと言えよう。 防衛・侵略戦争の戦没兵士が英雄視され、 従って、その軍事指導者が、小国家の首長となり、 王を名乗って服従や王墓に対する崇拝を要求し、(青銅器祭祀の終焉) 農業中心のムラが、やがて武人が主導する軍事国家に変貌し、吉野ヶ里に見られるように 第一身分巫女(シャマン)、第二身分武人、第三身分農民 そのほかに交易に携わるものなどが武人に続く身分。 農奴やその下の身分のものもいただろうと思います。 |
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65祀りと弔い 弥生時代には、農耕祭祀や儀式が行われるようになりました。 銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅鏡はこのような農耕祭祀に使われました。 また、分銅形土製品は、魔除けやまじないに使われました。 葬送の方法には、直接土中に収める、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓、壺(甕)棺墓等があります。 墓は共同墓地に集められています。その上に、木や石を立てたり、土器を置いてしるしとするものもあります。
※1木ノ宗山遺跡は、 烏帽子岩と呼ばれる、人為的に加工痕のある、巨石の下から、木炭・丸底土器(土器棺)・銅剣・銅鐸・銅戈が出土した。 ※2銅剣・銅戈と銅鐸の出土 銅剣・銅戈・(銅矛)は北九州を中心地する西側渡来民文化圏であり、特に銅戈は北部九州の出土が主流である。 銅鐸は出雲を西端とする東側渡来民文化圏で、広島県は両文化の重なる地域である。 しかし、北部九州の銅戈が広島で出土したのは特異な例である。 引用縄文と古代文明を探究しよう 巨石の立柱 吉備の楯築遺跡の墳丘上にも、木ノ宗山、銅鐸・銅剣・銅矛、出土地にも 巨石が立ち並ぶ。 四隅突出型墳丘墓や、吉野ヶ里遺跡では、埋葬施設に木柱を建てるのが一般的である。 木ノ宗山出土地の烏帽子岩の下には遺跡がなかったとあるが、何らかの祭祀址を示す石柱のようです。 |
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66三つにわかれた広島 吉備地方と出雲地方は、 弥生後期にそれぞれ独自な文化を持つようになりました。 その周辺地広島県では、備北・芸北は出雲地方(特に石見)、備南は吉備地方(特に備中)、芸南はその西の地方の土器圏に属し、 3地域に分かれていました。 この様相は、来るべき古墳時代の各地域の動向と深くかかわっています。 ※1脚付注口鉢形土器(広島の呼称) 台脚付注口土器(岡山の呼称) 三次盆地特有の土器 注口付大型脚付土器とも言います。(笑)
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67三つに分かれた土器 |
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年代 まだ、確定していない部分が多いようです
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70四隅突出型墳丘墓について 弥生時代の墓は、 初期には格差のない同じような土壙が集団墓地として形成された。 やがて、副葬品が現れ、貧富が生じ始め、 次に、他と区別する溝を巡らしたりし始め、権力差が生じ、社会の階層分化が進んだことを表している。 次の段階では、特定の個人や一族の墓域が区画される。この区画は通常方形である。 その区画の中を一族の墓所とし、やがて、土盛りなどして、装飾性を高め、方形区画墓が成立する。 四隅突出型墳丘墓の由来 @半島北方民族(高句麗)の埋葬形式説。 A支石墓※1から発達した説。などは否定され、※1支石墓は長崎県島原半島・唐津市付近にのみ分布している。引用Wikipedia B方形区画墓の発展形と考えられている。 C最近、配石墓から発達したという学説が出た。※2 ※2埋葬方法として、墓壙を一般民より高くするため土盛りするが、土手の崩落防止に貼石をし方形貼石墓が成立。 (引用山陰弥生墳丘墓の研究) 四隅に踏石を置き、墓上祭祀のための参道として使用し、それが発達して 四隅が突出するマウンドが出来上がったのである。E この説にはそれなりの理由と実際があり、納得できました。 もし、側面に階段を設置すると方形でなくなります。 成立の時期期 弥生時代中期後葉と言われている。D表 墳丘墓の変化 四隅が突出する様子E 72-01四隅突出型墳丘墓の由来
※2山陰地方の墓地構造(歴博の論文)では、 C図の中心の長者の墓の麓に、東〜南にある配石墓が出雲の大王の墓になったというのである。 この殉死者か、家族か、の、みすぼらしい墓を、地域の首長が自分の墓にするか?考えられない! そして、四隅突出型墳丘墓は、鳥取県から始まったという。 にわかに信じられないので、説だけあげておきます。 参考四隅突出型墳丘墓(鳥取) ※3弥生時代の墳墓から前方後円墳への形態変化については、 左側は、四隅の突出する様を、方形墓の四隅に着目して並べたものです。 ただし、これが前方後円墳に行きつくというのは想像逞し過ぎでしょう。 右側は、方形周溝墓の水抜き溝の、ふちがなくなってできたという着想です。 これらは、広島大学古瀬清秀教授の着想です。 75↓図F朝鮮半島北方民族の埋葬形式 明らかに列島の四隅突出型墳丘墓と異なる。
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74四隅突出型墳丘墓は、 四隅が突き出ている方形の墳墓で、山陰から広島県北部にかけて分布しています。 中でも、古い時期のものが三次盆地から見つかっていることから、中国山地、三次盆地発祥と考えられています。 また、その供献土器は「塩町式土器」と呼ばれる装飾性の高い土器です。
72-03特殊壺・特殊器台→埴輪への形態変化 (参考) |
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77塩町式土器は、 弥生時代中期後半(2100年前頃)に、県北の三次〜庄原地域を中心に使われた、特徴的な装飾の土器です。 甕形土器や高坏形土器などを、凹線文と言う、横線や斜めの刻目、貼付文などで飾った土器です。 江の川流域を中心とした 島根県や 安芸南部、 岡山県北部 にまで分布し、当時の交流を知る手がかりになっています。 この時期には、備後北部地域で四隅突出型墳丘墓という区画墓も現れ、塩町式土器と共に発達します。 しかし、弥生時代後期になると、双方とも備後北部から姿を消していきます。 中心が出雲・石見に移りました。 葬送儀礼用の装飾土器。 として発達してきたが、やがて、吉備の特殊壺・特殊器台、山陰の鼓形器台に取って替わられ、弥生後期に消滅した。
塩町式土器は 県北西部の中国山地に位置する哲西町山根屋遺跡では「塩町式土器」と呼ばれる、装飾性豊かな土器が出土しています。 この土器は、弥生時代中期後半(約2100年前)に現在の広島県北部の山間部を中心とする地域で使われていたものです。 岡山県古代吉備文化財センター 古代吉備を探る2 塩町遺跡 広島県三次市大田幸町656 三次青陵高校内 年代 弥生時代中期後半(約2100年前) 塩町式土器は広島県. 北部一帯の 弥生時代中期後半の標式土器 遺跡内容
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80古墳時代 は、各地の支配者が前方後円墳などの高塚を造ることで、大和を中心とした階級社会を築いた時代です。 前期(3〜4世紀)、中期(5世紀)、後期(6〜7世紀)に分けられます。 日常生活では、土師器と言う素焼きの土器が用いられました。また、硬質陶器の須恵器も造り始められました。 古墳の構造と副葬品 古墳は周囲に溝を巡らし、墳丘には石を貼り付けたり、円筒・家形・人物などの埴輪を並べています。 内部には竪穴・横穴式石室などを造り、その中に木棺や石棺を置いて、遺骸を納めています。 棺や石室の中には、古い時期には鏡・玉・刀剣などが収められ、新しい時期には馬具・武具や各種土器などを納めています。 前期古墳 (4c) 定型化した前方後円(方)墳の成立を持って古墳時代の開始と考えられています。 古墳の多くは見晴らしの良い丘の上に立地し、墳丘の頂上には竪穴式石室・箱形石棺・粘土槨など竪穴系の埋葬施設が作られていました。 副葬品として三角縁神獣鏡をはじめとする鏡や首飾り・鉄剣・鉄製農工具等が死者と共に埋められていました。 中期古墳 (4c末〜5c) 平野にも古墳が造営されるようになり、特に大型が多くなりました。 また、馬具・武器・武具などの鉄製品を多量に副葬したものがあり、須恵器も備え始められました。 県内最大の古墳である、三ツ城古墳や、県北最大の糸井大塚古墳などが作られております。 後期古墳 (6c・7c) 古墳は小型化し、丘の上から斜面にかけて密集して造られ群集墳をなすものが多くみられます。 また、埋葬施設は竪穴系のほか、横からいれる横穴式石室も多く作られました。 横穴式石室は何度も埋葬が行われ、須恵器を多量に副葬したものがおおくありました。 県北部では、須恵器の杯身・杯蓋や甕の破片を敷いた土器床の石室が多くみられます。 |
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81各時代の古墳 |
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82副葬品の変化 前・中・後期に区分され、前期古墳は竪穴式石室が、後期には横穴式石室が流行します。 これは、古墳が家族墓として地域の支配層に広まったためで、大和政権の支配が各地に及んだことを物語っています。 また、古墳の副葬品の内容も時代と共に少しずつ変化します。 武器や鏡・玉などの装飾品は一般的ですが、 前期では、鏡の副葬が特徴的で、 中期以降は武器類や馬具の副葬が目立ち始め、 後期には、須恵器が大量に副葬されるなど、時期によって流行があります。 前期は青銅器信仰の名残と鬼道(道教)の影響で銅鏡が多かったのか。中期は高価な交易品が大量に手に入り、 後期には、大和政権の地方弱体化政策で、須恵器に意味を込めて荘厳したのでしょうか。 |
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83霊を運ぶ動物 古代人は人が死ぬとその霊魂は体から離れ、鳥に乗って遠い死者の国へ行くと信じていました。 山口県土井ヶ浜のウミウを抱いた女性の墓や、神話で死後白鳥になって飛んでいくヤマトタケルの話などはそれを物語っています。 また、記紀によると、鳥はカミの世界と人の世界を結び、神の意志を人々に伝えるものとされていました。 鳥によって死者の霊は天の彼方、海の彼方に至り、また、遥かな神の国からは、イネの豊作や、啓示の神意を携えた鳥が訪れたのです。 葬送祭祀用の土器 この祭祀はきっと今も韓国で続いているのでしょうね。 |
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84埴輪 ※1馬形埴輪 緑岩古墳 1500年前 三次市 背中には人を載せる鞍(くら)が、お腹の横には足を掛ける鐙(あぶみ)と泥除けの障泥(あぶり)がついています。 また、鬣(たてがみ)を頭の上でまとめ、口の両脇には飾りの板、腰の上には鈴をつけるなど、当時の馬は着飾っていたことがわかります。 ピンと立った耳、上向き加減の顔と言うように、なかなか凛々しい姿で「いななく馬」というニックネームもついています。 |
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85鉄と古墳 5世紀中頃以降、朝鮮人渡来者によって、様々な生産技術や土木技術が持ち込まれ、鉄や須恵器の手工業生産も開始された。 三次市周辺でも、古墳の中に鍛冶具や鉄滓を副葬する例があり、鍛冶集団の首長の墓と考えられています。 県北一帯は、近世以来たたら製鉄の盛んな地として有名ですが、古代においてもかなり発達していたことが、平城宮の木簡や、 「類聚三代格」などから窺われます。 三次市の古墳時代の製鉄遺構は未確認ですが、鉄の特産地として古くから先進地方の干渉を受けていたと思われます 暮らしと生産 多くの人々は竪穴住居で生活していましたが、豪族は、家形埴輪型の平地式住居に住んでいました。 人々は農作業の傍ら豪族の必要とする様々な品物を作っていました。 この時代には、(大陸)半島から、土木・鍛冶・工芸・養蚕・機織・土器作りなどの技術者が大挙渡来し、高度で専門的な生産技術が持ち込まれた。 これによって、農具・工具・絹織物・須恵器などを専門的に作る集団ができました。 鉄の道具の広がり 鉄を使った道具は弥生時代に朝鮮半島などから伝えられ、古墳時代には、渡来人がもたらした新たな技術によって様々な道具が作られました。 田畑の耕作や、古墳などの土木工事には、鉄の刃を付けた鍬や鋤が使われ、イネや草を刈ったり木材を切ったりするときには、 鉄の鎌や斧が使われました。 また、戦いの道具である刀・剣・鎧・甲。乗馬の馬具なども鉄製でした。 これらの材料鉄は朝鮮半島から輸入されていました。 |
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86土師器と須恵器 古墳時代になると弥生時代から継承された素焼きで赤褐色の土器、土師器が作られ始めました。 土師器は模様が簡素化し、地域色も薄くなりました。 一方、古墳時代中期になると、新たに青灰色の須恵器が、朝鮮半島から渡来した工人によって作られ始めました。 須恵器は土師器より硬く水を通さない性質を持ち、この頃から土師器と須恵器の使い分けが行われるようになりました。
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吉備系土器 87特殊器台と特殊壺 〜矢谷墳丘墓(三次市)〜 この大型器台とその上の壺は、三次にある弥生時代終わり頃の首長墓から出土しました。 これらは、吉備、(岡山県倉敷市・総社市)で作られたものです。「三次の王」の葬儀に際して「吉備の王」から送られたと考えられ、 墓には器台と壺のセットがいくつも立て並べられました。 (参考文化資源詳細情報) この巨大な土器は厚みが5ミリしかありません。どうやって運んだのでしようか。不思議な文様と共に、謎が深まります。
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88矢谷墳丘墓副葬品 弥生時代後期末 |
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89祭祀具 |
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91古墳時代の鉄を作る
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92鏡・装飾品 三角縁神獣鏡は、鏡の縁の断面が三角形で、神(神仙)と獣(霊獣)の文様があることから、この名が付きました。 |
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93古墳時代の刀を作る 広島市の遺跡から見つかった素環頭太刀を基に江の川の砂鉄から作った鉄を原料にして復元しました。 環頭太刀は中国紀元の円環状の柄頭を持つ太刀です。 円環の中に装飾のない素環頭太刀は最も古い形式で、古墳時代中期(5c頃)に我国でも生産できるようになりました。 見つかったものは和刀でした。 短甲 三角形をした何枚もの鉄板を革ひもで綴じてつくることから「三角板革綴短甲」と言う。1600年前のものです。 このような短甲が、大田川・江の川の流域に10例見られます。 |
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94銅鐸の音色 2300〜1700年前の弥生時代に、人々は青銅(銅+錫の合金)で鐘を作ってイネの豊作を祈る祭りをしていたと考えられます。 当時黄金に輝く金属の肌つや、光沢を初めて知った弥生人は、目を見張ったことでしょう。 しかし、銅鐸の最も重要なな役目は、祭りの際に木に吊るした銅鐸を揺すって、銅鐸の中に吊るされた舌と呼ばれる棒と鐘が触れ合って 音を出すことにあったと考えられています。 弥生人は、この音色に神々が祭りの場に降りてくると信じていたようです。 |
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みよし風土記の丘は、 三次盆地を代表する浄楽寺・七ツ塚古墳群と、復元住居・移築石室・石棺・古民家(重文旧真野家)、自然野草園などを公開しています。 風土記の丘の古墳 三次盆地と周辺には3000基もの古墳が集中し、県内最大の古墳密集地帯です。 そのうち、風土記の丘には176基があります。 市南部のなだらかな丘の上に立地し、北側が浄楽寺、南側が七ツ塚古墳具です。 95浄楽寺古墳群・七ツ塚古墳群 |
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95-2三次古墳群の特徴
古墳時代の生活 三次盆地に数多くの古墳を造った人々は氾濫の多い大河川の近くを避け、その支流の細長いなだらかな丘に棲んでいました。 集落前の細長い谷で稲作を、日当たりのよい丘の上で畑作を行い、そして、人々はかなり急な斜面を階段状に造成して 竪穴住居や高床倉庫などを造り、集落を形成していました |
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95-3三次古墳群の墳墓形式 |
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96風土記の丘 古墳出土遺物
三次の古墳群の特徴
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