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  西日本の縄文  25    2016.04.19-1

   広島県立歴史民俗資料館 みよし風土記の丘ミュージアム  広島県三次市 小田幸町122  0824-66-2881  月曜休館 撮影可

  交通  車

  見所  三次市や庄原市・廿日市市には、広島県下第一級の旧石器時代の遺跡が多数あり、その遺物の一部が展示されている。
       吉備と出雲に挟まれた地域の、弥生時代から古墳時代にかけての独自な文化による豊富な遺物。

       大変展示物が豊富です。また、興味深いものが沢山あります。




00中国地方の珍しい地形
  中国地方の形成
  三次盆地の形成
  旧石器時代の山稜交通路

00外観
01みよし風土記の丘周辺の地史・地質
   三次盆地の成立

10旧石器時代
15冠遺跡の旧石器文化
16三次盆地の旧石器文
 ナイフ形石器
 下本谷遺跡の旧石器文
 下本谷遺跡
17佐田谷遺跡・下山遺跡

192万年前の瀬戸内系石器文化の拡大
  瀬戸内系石器文化
  地球の寒冷化と地域文化の発展

40縄文時代
  道具の変化
41縄文時代早期
  縄文の発明
43縄文式土器と交易
  縄文土器の模様
45その他の縄文遺跡
  縄文の生活風景想像図
  弥生土器と縄文土器
47縄文の諸道具
  石冠 

60弥生時代
61美しき農民の土器
63農民の道具・武器のはじまり
 笹利迫田遺跡貝塚
64農民の道具
  農民の道具 -石器から鉄器へ-
  武器の始まり 
  倭国大乱の原因

65祀りと弔い
  木ノ宗山遺跡は   
  銅剣・銅戈と銅鐸の出土
  巨石の立柱
66三つにわかれた広島
  脚付注口鉢形土器
67三つに分かれた土器

70四隅突出型墳丘墓について
  弥生時代の墓
  四隅突出型墳丘墓の由来
72-01四隅突出型墳丘墓の由来
  山陰地方の墓地構造(
  弥生時代の墳墓から
  前方後円墳への形態変化

75朝鮮半島北方民族の埋葬形式
74四隅突出型墳丘墓は
  角丸方墳から四隅突出型墳丘墓へ
72-02矢谷古墳
77塩町式土器
  塩町式土器


80古墳時代
  古墳の構造と副葬品
  前期古墳
  中期古墳
  後期古墳
81各時代の古墳
82副葬品の変化
83霊を運ぶ動物
  葬送祭祀用の土器

84埴輪
  馬形埴輪
85鉄と古墳
  暮らしと生産
   鉄の道具の広がり
86土師器と須恵器

山陰系土器
  甑形土器
  鼓形器台
吉備系土器
87特殊器台と特殊壺吉備系土器
88矢谷墳丘墓副葬品
89祭祀具

91古墳時代の鉄を作る
92鏡・装飾品 
  三角縁神獣鏡

93古墳時代の刀を作る
  短甲
   砂鉄の入手
94銅鐸の音色

みよし風土記の丘
  風土記の丘の古墳
95浄楽寺古墳群・七ツ塚古墳群
95-2三次古墳群の特徴
  古墳時代の生活
95-3三次古墳群の墳墓形式
96風土記の丘 古墳出土遺物
  三次の古墳群の特徴 


00中国地方の珍しい地形
   考古のページで地学の話は不似合ですが、中国地方を旅行すると山の低さに驚きます。

   山陽自動車道で岡山県内を走ると丘陵が続きます。ブドウ栽培が有名です。
   松江自動車道で松江から広島に南下すると、もっと驚きます。山は高くても10〜30mくらい。丘です。高冷地野菜やこんにゃく栽培が主です。

   この特異な地形はこの地域の旧石器〜古墳時代の生活に大きな影響を及ぼしました。
   まず、この地形の不思議から見ていきたいと思います。

吉備高原 隆起丘陵岡山県高梁市弥高山付近 引用吉備高原 石見高原 残丘松江自動車道 島根県 石見高原 幼年期地形松江自動車道 島根県 準平原庄原市内 世羅台地
隆起した幼年期地形 浅く開析を受けている
(世羅西町付近))
世羅台地
 浸食輪廻の残丘玄武岩残丘 黒川明神山
引用世羅台地



 中国地方の形成
   三次盆地の形成 県立歴史民俗資料館は広島県三次市にあります。   @〜Fの番号は下の図と対応しています

中国地方は広大な@A準平原地帯でした。現在、三次盆地を流れる、A江の川は、南の瀬戸内地方から北の日本海に向けて流れていました。
やがて、岡山県から広島県にまたがる吉備地域の、吉備高原面がB隆起上昇を開始しました。

次に、中国山地が隆起Cを開始しました。

二つの隆起地帯に挟まれて三次盆地〜津山盆地は沈降し、周辺を流れていた河川が三次盆地に流れ込み、江の川に一本化して北行し、大河となりました。

多くの河川が隆起によって流れが逆流する中、
盆地北側の中国山地の隆起速度より、江の川の浸食速度の方が速かったため、アマゾン川※1のように逆流することなく、日本海に流れ続けました。

※1南米大陸は東が高く西が低くかったが、アンデス山脈が隆起したためアマゾン川は逆流しました。

※下にはこのことが二段階で詳しく説明されています。 次に旧石器時代人の山稜交通路だった蒜山高原〜冠山〜山口県の道はどうだったかに触れます。

@準平原とは   
   大地の浸食輪廻
引用地形浸食の過程
@準平原形成の動画  A江の川と他の河川唯一北行する河川です
引用地方整備局
B中国地方の地形黄色―吉備高原・世羅台地・石見高原
赤色―東中国山地・比婆山地・西中国山地
C中国山地の縄文遺跡引用中国山地の主な縄文遺跡 広島県の地形と河川



 旧石器時代の山稜交通路
野呂  吉備高原地方では、山稜の平坦地を「のろ<野呂> 地形」と言い、交通路が発達しています。この地の生活に必要不可欠で便利な地形です。
  引用  吉備高原と野呂地形  コトバンク吉備高原「百科事典マイペディア」

旧石器時代の山稜交通路の提唱者稲田孝司氏は、一般に県境は急峻な山稜なので、広島県内も、E大雑把に、江の川を横断するルートを書いています。
しかし、つい最近まで、そして現在も、淡水の大河は大変危険な場所でした。「ツツガムシ病」です。 死に至る病です。

Eで、岡山県境の 7番三坂遺跡 〜広島県西端8番地宗寺遺跡 の間は遺跡の空白地域になっています。
ここに、F広島県内の旧石器遺跡分布図、を当てはめてみると、新たなことが判りました。

東から来た旧石器人は 標高1200mの道後山 手前から川沿いに旧石器集落遺跡をたどり、三次市内に入る。

具体的には、帝釈峡付近→庄原市→三次盆地の下本谷遺跡に至り、更に、川筋を辿って、地宗寺遺跡→冠高原 (冠遺跡群) に至った様です。
そして、その先は山口県響灘にまで続いているそうです。

 
E旧石器時代の交通路引用 旧石器人の遊動と植民・恩原遺跡群 遺跡番号と遺跡名

この他に、三次市を経由して江の川沿いに山陰と瀬戸内を結ぶ交通路もあったと考えられています。
F広島県内の旧石器遺跡引用広島県の主要旧石器

野呂を使った移動経路は旧石器〜現代まで続いています。
松江自動車道も野呂の上を走っているのです。



 00外観
みよし風土記の丘考古資料館+弥生〜古代遺跡の展示施設です
県立歴史民俗資料館と
県立歴史博物館とがあり、紛らわしいので

みよし風土記の丘
ふくやま草戸千軒ミュージアム
 で、区別していますが
いずれもわかりにくいです。
 ネーミングの失敗です。
歴史年表 旧石器・縄文
弥生
古墳


 01みよし風土記の丘周辺の地史・地質

三次地方の基盤岩は、中生代末期から新生代初期にかけて形成された流紋岩類を主とする、花崗岩類・安山岩類などの火成岩類からできています。

新第三紀中新世中期 (1500〜4000万年前) に陸地の沈降が始まり湖沼化し、さらに海進があって中新世後期に再び陸化し、
鮮新世後期〜洪積世後期には準平原化して、現在観察される山砂利層の堆積がありました。

陸化の頃から数万年前までの間に衝上断層運動があり、この運動によって、三次盆地が誕生しました。

洪積世末に三瓶火山から飛来した浮石質火山灰がキビ土層に、沖積世のガラス質火山灰は有機質を吸収して黒ボク層となって、
丘陵や谷間に残っています。
     ※洪積世=更新世 (258万年前〜1万年前)

  三次盆地の成立 (標高150〜170m)

三次盆地は、北の中国脊梁山地(1200m)と、南の吉備高原(200〜600m)との間に連なる盆地群の一部にあたります。
可愛川・馬洗川・西城川・神野瀬川が三次盆地で合流し、江の川となって脊梁山地に峡谷をつくり、北西に流れています。

第三紀の中新世(1600万年前)には、愛知県から大阪府・岡山県津山市を経て広島県東城・庄原・三次に達する深い内海(第一瀬戸内海)が発達し、
その一部は日本海ともつながっていました。

この内海が残したものが海生化石を多く含む備北層群という地層で。三次盆地の特色となっています。

また、同じく中新世で備北層群の下層には、湖沼性堆積物を含む塩町層もあります。
その後、第四期の衝上運動の断層により、落ち込んだ地域が三次盆地となりました。

その北側は断崖層となり、流紋岩・花崗斑岩などの白亜紀火成岩からなる標高400m前後の山地が東西に連なっています。
   (石見高原 標高400〜600m)
南側は緩やかな丘陵で、備北層群と塩町層群で構成されています。
   (世羅台地 標高400〜600m)

       

みよし風土記の丘周辺の地史・地質
上に記述
三次盆地地質構造断面図三次市周辺の断層帯により、周囲が隆起しているのがわかる。 三次盆地の成立
上に記述
琥珀・カキ・アサリ・
地ロウ


 コハク
三次市西酒屋町末元出土 第三紀中新世(塩町累層) 
第三紀中新世中期の初め頃(1500万年前) 備北層群の下にある塩町累層から、亜炭層と共に出土した。この時期のものとしては国内稀です。

 カキ化石 -
三次市西酒屋町末元出土 第三紀中新世(備北層群)

第三紀中新世中期(1500〜1000万年前) の海成堆積層である、備北層群下部にある化石床から出土したマガキの仲間で、
オストレア グラビテス エイオンシスと呼ばれ、長さ最大80cm近いものもあります。韓国に次いで2例目。国内初の新亜種です。

 地ロウ
三次市高杉町来源出土 第四期更新世後期

馬荒川の旧河床面の堆積層から出土した、今から43,300年前頃の天然パラフィン(ロウ)です。
石炭層や油田などでみつかる黒色のものとは別のものです。この地ロウにはエベンカイトという結晶を含んでいますが、
シベリアで発見されたエベンカイトとは異なっており、世界で2例目、国内初です。





 10旧石器時代
    日本列島で見つかる旧石器は、ほとんど後期旧石器時代に属します。当時はウルム氷期に当たる寒冷期でした。
    人々はナイフ形石器などを使い、狩猟・採集生活を行っていました。



  15冠遺跡の旧石器文化3万5000〜3万年前

   人類の歩み旧石器時代区分
前期旧石器時代―原人
中期旧石器時代―旧人
後期旧石器時代―新人

上述
ナウマン象化石
臼歯・牙
瀬戸内海出土
第4期更新世後期
ナイフ形石器-冠遺跡群
槍先形尖頭器-小和田遺跡/後期旧石器
ナイフ形石器は後期旧石器を代表する石器 冠遺跡発掘冠遺跡は広島県西部のサヌカイト産地です。冠産のサヌカイトは、 3万年前の石器旧石器時代から広く西日本に流通していました ナウマンゾウの骨格 像狩りの想像図



 16三次盆地の旧石器文化3万5000〜3万年前   三次盆地の旧石器出土分布図

    三次盆地では、現在12箇所で後期旧石器時代の遺跡が見つかっています。
    このうち下本谷・宮風呂・松ケ逧・宗祐池・岡竹遺跡などで、流紋岩製の古い石器が見つかっています。

    これらの石器は、下本谷遺跡・宮風呂遺跡から出土したナイフ形石器の特徴から、
    後期旧石器時代の最古段階(3.5〜3万年前)にあたる、非常に古い石器文化と考えられています。


 ナイフ形石器
    ここにあるのは3万年以上前の人々が作った、日本で最古級の石器です。流紋岩を打ち欠いて作り、刃がつけてあります。
    当時の人々は、これで狩りをしたり、獲物を解体したりしました。

 下本谷遺跡の旧石器文化3万5000〜3万年前

    遺跡は三次市市街地南の丘陵上にあり、石器は複数地点から出土したが、一か所から200点余出土したため、狩猟キャンプ跡だとわかりました。
    石器は荒い加工のナイフ形石器と打製石斧が特徴で、後期旧石器時代の最古段階だと考えられています。




 下本谷遺跡 旧石器時代最古級 (3.5〜3万年前) の石器 

   石で作ったナイフ
     三次市、下本谷遺跡のナイフ形石器は3万5千年〜3万年前のものです。石を割って鋭い刃物に加工した石器です。
     ナイフ形石器はナイフとして使ったり、槍先にしてナウマンゾウなどを狩猟するときに使ったりしました。

     瀬戸内海の海底からは、1万年以上前に絶滅したナウマンゾウの牙や臼歯の化石が発見されています。

三次盆地の旧石器文化上に記述 ナイフ形石器
上に記述
掻器状石器/竹岡遺跡
石核/宗祐池遺跡
ナイフ形石器と剥片/
松ケ逧遺跡
ナイフ形石器/
宮風呂遺跡
下本谷遺跡の  
  旧石器文化
3.5〜3万年前の遺跡
上に記述
石で作ったナイフナイフ形石器は3.5〜3万年前。槍先に装着した
ハンマーストーン(叩石)
石核・剥片・チョッパー

chopperは前期旧石器時代に特徴の道具ですがここでは
切る道具の意味です
ナイフ形石器
壊れたナイフ形石器が捨てられていたようです
彫刻刀形石器・削器・
打製石斧
錐状石器・掻器・鋸歯縁状石器



  17佐田谷遺跡・下山遺跡 3万年前〜2万年前

佐田谷遺跡下山遺跡 佐田谷遺跡石核・剥片・台形(様)石器錐状石器
剥片
石核・剥片 水晶製 剥片・台形(様)石器・
錐状石器
 水晶製石器の
原石山地は岡山・鳥取県境の山稜交通路から、サヌカイトは冠高原から、
得たようです。
下山遺跡 剥片 石核・ナイフ形石器  

  18.各地の石器 3万年前〜2万年前
ナイフ形石器 ナイフ形石器と剥片
油免遺跡
サヌカイト・黒曜石製
ナイフ形石器/歳の神・大原2号・徳市遺跡
水晶製
石器材料の水晶は何処産でしょう。

 岡山県の恩原遺跡から大山にかけては水晶の産地でした。これは、中国地方を構成する基盤岩がこのような鉱物を多く含んでいたからでしょう。
 従って、確証はないものの、山稜ルート交易路を通じて入手・採取したのではないかと考えられます。

 同様に黒曜石は隠岐島産で歩いて採りに行きました


 192万年前の、瀬戸内系石器文化の拡大
    日本列島の後期旧石器文化は、2万年ほど前に各地域で地域色が現れます。
    (これは最寒冷期のため人々が各地に閉じ込められ交流が少なくなったからだと考えられます。)

  瀬戸内系石器文化
    代表的なものに瀬戸内地域を中心とした瀬戸内系の石器文化があります。

    安山岩を用いた横長剥片のナイフ形石器文化で、国府(こう)型ナイフ形石器が代表的です。
    三次盆地でも、酒屋高塚古墳から典型的な国府型ナイフ形石器が出土しており、2万年前頃を境に瀬戸内系文化が流行したことが判ります。

  地球の寒冷化と地域文化の発展
    2万年前頃は地球の最寒冷期で、2万5千年ほど前からシベリアの動物が寒冷過ぎるために南下し、それを追って人々も南下した時期です。

    この気象現象によって人々の交流が妨げられ、地方に別れて暮らすことによって地方色が生まれ、方言が生まれて、言葉が通じなくなり、
    以後の交易を妨げるものになりました。

瀬戸内系石器文化の
拡大
瀬戸内系ナイフ形石器ナイフ形石器/剥片/
角錐状石器
酒屋高塚古墳出土
塩野裏遺跡
剥片・角錐状石器
塩町遺跡






 40縄文時代 12000〜2500年前
     氷河期が終わり、温暖な完新世へと変化し、日本列島では土器や石を磨いて作った磨製石器などを使う時代を迎えました。
     人々は旧石器時代と同じ狩猟・祭祀有の生活でしたが、ムラや貝塚を作るなど判定住の要素も見られます。

     この時代の土器は、縄目の文様の特徴から縄文土器と呼ばれ、浅鉢や深鉢などの鉢形土器が中心でした。


 道具の変化
     寒冷な氷河期から温暖な完新世への気候の変化は、人々の暮らしに大きな変化をもたらしました。
     土器の発明と磨製石器の登場です。 また、旧石器時代からの打製石器にも変化が現れています。

     旧石器時代の終わりごろに登場した槍先形尖頭器(石ヤリ)は、縄文時代の初め頃に小型化し、石鏃へ変化しました。
     道具の変化は自然環境の変化による動物類の小型化に合わせたためと考えられています。


 41縄文時代早期
押形文 深鉢形土器
早期 馬渡岩陰遺跡
有舌尖頭器から石鏃へ
縄文時代 早期石鏃・有舌尖頭器×2

乳房状 磨製石斧
古江西1号貝塚

温暖化による大型動物の絶滅。逆に人口の増加。必然的に狩猟対象は中小型動物に移動。

 縄文の発明
   大型動物の減少により動物食(肉)が不足し、仕方なく草を食べる必要に迫られ、アク抜きや、柔軟化のために煮沸用土器が発明された。
   中小型動物用に小型投げ槍を弓に付けて飛ばす、弓矢も発明され、磨製石斧と合わせて縄文の三大発明となった。



 43縄文式土器と交易
    縄文式土器は、縄・ヘラ・貝殻などを利用して文様が描かれており、まず、食べ物の煮炊きに使われました。
    土器には同じ形や共通した文様のものが広い地域に分布しています。

    また、海産の貝や魚の骨が帝釈峡遺跡群から出土したり、大分県や香川県の石器石材が、県内の各地から発見されたりします。
    このことから、集団の移動や集団間の行き来があったり、交易がおこなわれたりしたことが伺われます。

上に記述 縄文土器編年表 深鉢 馬取貝塚 後期
深鉢 洗谷貝塚 後期
福山市
条痕文・無文・楕円押形文・貝殻条痕文・山形押形文 円明寺遺跡
押形文 早期 下本谷遺跡 三次市
府中市上下町
扇原遺跡
縄文土器の美※1 縄文土器の模様 縄文土器編年表
早期 庄原市馬渡式
    庄原市建釜式

前期 庄原市馬渡式
    京都府北白川式
中期 庄原市寄倉式
    岡山県船元式

後期 庄原市寄倉式
    福山市洗谷式  
晩期 三原市貝持式
    庄原市寄倉式

※1縄文土器の美
縄文土器は、縄などを土器表面に転がしながら押し付けたもので、時期によって形や模様が少しずつ異なっています。
   
縄文土器の模様 早期―押形文、前期―爪形文、中期―荒い縄文・爪形文、後期―磨消縄文、晩期―ヘラ書き沈線文・刻目突帯文 が特徴です。
縄文土器の中でも特に装飾性の高い土器は、世界美術史上でも日本を代表する美術作品として、
縄文人の呪術的精神生活をよく表現しているといわれています。


 45その他の縄文遺跡
縄文の生活風景想像図※1この絵は30年くらい前の知識を基にした絵ですね毛皮を羽織った縄文人 帝釈馬渡岩陰遺跡
発掘調査旧石器〜縄文前期
帝釈観音堂洞窟遺跡
人骨発掘状況
旧石器・縄文初期〜
梨ケ逧B地点遺跡
縄文早期の住居跡松ヶ谷は間違いそんな遺跡ありません

深鉢・鉢形土器
縄文後期
磨消縄文土器
縄文時代後期 
磨消縄文土器 縄文後期 磨消縄文土器 縄文後期 弥生土器と縄文土器※2
下に記述
縄文時代の食卓

 ※1縄文の生活風景想像図

    縄文人が裸に毛皮の姿は、30年以上も前の知識で、アンギン編の衣服があったこと、それが現代まで継承されていたことも知られている。

    しかし、そういわれてみると、西日本では、アンギン編が出土している遺跡を知らない。
    博物館に縄文衣装としてドンゴロスを貫頭衣にしたものはときどき見かけるが、アンギン編み機は見ていない。

    改めて調べてみると、毛皮の想像図を掛けているのは、「みよし風土記の丘」と「神石町立歴史民俗資料館」だけでした。
    神石町の資料館は毛皮をまとう人物と布のようなものを着ているかもしれなさそうなよくわからん絵でした。

    やはり、西日本における織物が未検出なせいでしょう。  この場合、みよし風土記の丘を突っ込むと何もできなくなるのでやめましょう。
    ただ、漁網を編む技術があれば、敷物を編む技術があれば、布も簡単に編めますから、裸に毛皮と言う原始人的な発想はいかがなものか。

    西日本でも蓆(むしろ=敷物)の痕が土器底に残っているので、人々はアンギン編みを着ていたと想像されます。
    ムシロの編み機とアンギン編み機は同じものだからです。


 ※2弥生土器と縄文土器

    縄文土器は鉢形が基本で、口縁部が平らでないため、蓋ができず、煮る料理が中心でした。

    弥生土器は、壺形(貯える)、甕形(煮炊き)、高坏形(供える)という組み合わせに替わり、口縁部は平らになります。
    中でも、甕形土器は、蓋をして、煮る・蒸す・炊く の調理が可能になりました。
    このような器の変化は、稲作農耕を中心とした生活への変化を示しています。



   47縄文の諸道具
骨角器・スクレイパー
(後期) 石鏃(早期)

後期のスクレイパー

後期の骨角器、用途不明
早期の石鏃
磨石はみがきでなくすり石と読みます。
敲き石のみ後期

押形文土器 早期

石錘・磨製打製石斧
石匙、後期
石冠被葬者の頭部付近から出土しためこの名がある 漁網
斧と弓矢

 石冠
   東日本で見つかることが多い石器。底になっている部分は少し膨らんでいるだけで平です。
   木の実つぶしの実用具かまじないの道具かわかりません。








 60弥生時代  2500〜1700年前



   縄文時代の終わり頃、稲作や金属器などの新しい文化がはじまった。 人々は沖積平野に定住のムラを作り、稲作農耕を行った。

   やがて武力闘争によってムラがまとまり、小さなクニへと発展しました。
   日常の土器は、貯蔵する壺、煮沸する甕、盛り付ける高坏のセットへ変化しました。


 61美しき農民の土器
      大陸から九州に伝えられた水稲農耕や金属器の道具は、人々の生活に大きな変化をもたらしました。

      縄文土器は、煮炊き用深鉢が大半を占める呪術的な土器なのに対し、
      弥生土器は、貯える壺、煮炊きする甕、盛り付ける鉢や高坏、と言う、用途に即した日常容器のワンセットでした。

      長い米食生活を通じて存在する、今日の私たち日本人の食器は、この弥生土器に原点を求めることができるでしょう。



上に記述
壺・甕・高坏
弥生前期
炭化米 弥生後期 磨製石包丁 弥生前期
弥生土器は、今日の日常食器の原点である 縄文土器と弥生土器
弥生時代にも狩猟は続きました。
脚付無頸壺形土器
近畿の土器
脚付長頸壺形土器×2
岡山の土器
中期
高坏・鉢形土器
中期
水田のある村 神辺平野の素掘り井戸
福山市大宮遺跡
弥生後期
弥生竪穴住居 弥生後期の貝塚の断面
笹利迫田遺跡貝塚(広島市)
←土器棺 (甕形土器)
  弥生前期
  山県郡北広島町
  北広島市

 63農民の道具・武器のはじまり

   笹利迫田遺跡貝塚は、
     広島市佐伯区石内の細い谷に面した丘の上から斜面にかけて造られた弥生後期の集落の跡で、
     斜面には当時使った土器や貝などが多量に捨てられ、貝塚になってしまいました。

     貝塚は殆ど土を含まないもので、マガキを主体(90%)に、アサリ・ハマグリの二枚貝。マテ貝の巻き貝など、岩礁や砂泥に生息する
     海水産の貝類があり、その他、淡水産の貝類も多少含んでいました。

     広島湾岸の地域では弥生時代後期に丘の上に造られたムラが増大しますが、これらのムラでは稲作・畑作の他、
     貝類も多量に穫って、丘の上に持って上がり、食べていたと考えられます。

笹利迫田遺跡の貝塚
スクレイパー    
土製紡錘車 後期
砥石
手坊谷・大槙3号遺跡
縄文時代前〜後期
磨製・打製石包丁
抉り入り・半月型・方形
などあり
部分磨製・柱状片刃石斧
石錐・石槍・打製石鍬
蛤刃石斧・磨製石斧

 64農民の道具
   ※2農民の道具 -石器から鉄器へ-
当初 稲作農耕の道具として、 耕作具―木製の鋤・鍬 収穫具―穂摘み具の石包丁 脱穀具―臼・杵
    開墾の道具として、木工具―蛤刃石斧 のみ(柱状片刃石斧)
     
  弥生後期 に石器が鉄器に替わり、木工技術が革新され、新たに水田の開発を可能にし、農業生産の増大をもたらした。
    鉄製武器はクニの統一に向け、大きなはたらきをした。  (支配地ぶんどり、農奴獲得)

   ※1武器の始まり
弥生時代は、米作りによって暮らしが安定し、人口も増加したと言われていますが、決して平和な時代が続いたわけではありません。
この時代に生まれたものの一つが武器です。

広島市浄安寺遺跡、福山氏石鎚権現遺跡群やザブ遺跡からは、鉄鏃・銅鏃が、また、狩猟用石鏃は対人用に大きくなりました。

刀子・鏨たがね・鑿のみ・剣 鎌・ヤリガンナ・斧 部分磨製石斧
柱状片刃石斧
石錘 石鏃

鉄鏃と石鏃 弥生後期
※1
農民の道具※2   
石器から鉄器へ
武器のはじまり※1 ※1
 墳墓から出る石鏃は
対弥生農民戦争による戦死者で、
 (住居)遺跡出土の鉄鏃は、侵略弥生人の襲撃を受けた時のものでしょう。

 私見

 倭国大乱の原因
   倭国大乱は、中国漢帝国が滅亡し、後ろ楯を失った北部九州が弱体化し、列島の権力バランスが崩れたために起こったといわれています。

     いずれにしても、本来、長年にわたる、飢餓民や、戦乱大陸からの敗戦兵士などの流入したものである。
     野盗強盗や殺戮などが生きる手段の者たちである。大陸や半島にならって、収穫物泥棒や領地拡張戦争を仕掛けるのは普通のことと言えよう。

     防衛・侵略戦争の戦没兵士が英雄視され、 従って、その軍事指導者が、小国家の首長となり、
     王を名乗って服従や王墓に対する崇拝を要求し、(青銅器祭祀の終焉)

     農業中心のムラが、やがて武人が主導する軍事国家に変貌し、吉野ヶ里に見られるように

     第一身分巫女(シャマン)、第二身分武人、第三身分農民 そのほかに交易に携わるものなどが武人に続く身分。
     農奴やその下の身分のものもいただろうと思います。




  65祀りと弔い
    弥生時代には、農耕祭祀や儀式が行われるようになりました。
    銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅鏡はこのような農耕祭祀に使われました。 また、分銅形土製品は、魔除けやまじないに使われました。

    葬送の方法には、直接土中に収める、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓、壺(甕)棺墓等があります。
    墓は共同墓地に集められています。その上に、木や石を立てたり、土器を置いてしるしとするものもあります。

※1福田 木ノ宗山遺跡
銅鐸・銅剣・銅戈出土地 広島市
巨石は権力者の墓標か
銅鐸・銅剣・銅戈の資料
※2

銅鐸 黒川遺跡
福田木ノ宗山遺跡出土
銅戈・銅剣・銅鐸・図面
銅鐸の拓本
江戸時代

 ※1木ノ宗山遺跡は、
    烏帽子岩と呼ばれる、人為的に加工痕のある、巨石の下から、木炭・丸底土器(土器棺)・銅剣・銅鐸・銅戈が出土した。

 ※2銅剣・銅戈と銅鐸の出土
     銅剣・銅戈・(銅矛)は北九州を中心地する西側渡来民文化圏であり、特に銅戈は北部九州の出土が主流である。
     銅鐸は出雲を西端とする東側渡来民文化圏で、広島県は両文化の重なる地域である。 

     しかし、北部九州の銅戈が広島で出土したのは特異な例である。       引用縄文と古代文明を探究しよう


    巨石の立柱
     吉備の楯築遺跡の墳丘上にも、木ノ宗山、銅鐸・銅剣・銅矛、出土地にも 巨石が立ち並ぶ。
     四隅突出型墳丘墓や、吉野ヶ里遺跡では、埋葬施設に木柱を建てるのが一般的である。

     木ノ宗山出土地の烏帽子岩の下には遺跡がなかったとあるが、何らかの祭祀址を示す石柱のようです。



  66三つにわかれた広島

  吉備地方出雲地方は、
    弥生後期にそれぞれ独自な文化を持つようになりました。
    その周辺地広島県では、備北・芸北は出雲地方(特に石見)、備南は吉備地方(特に備中)、芸南はその西の地方の土器圏に属し、
    3地域に分かれていました。

    この様相は、来るべき古墳時代の各地域の動向と深くかかわっています。

3つに分かれた広島県
上に記述
広島は北部九州・
     山口・愛媛を
鳥取・島根・石見を。岡山を。
それぞれ支配する勢力に分割されていた。
弥生時代後期の器台の地域色器台は祭祀の台です
祭祀に合わせた形状
各地で祭祀が異なる

備後南部の土器
壺形土器と器台形土器
芸北の土器※1
脚付注口鉢形土器
弥生中期
塩町式土器
鹿文様や装飾から祭祀具だった。
矢原遺跡
三次市三和町出土
塩町式土器
注口部の複雑な文様に呪術的意味がある 安芸南部の土器
小形器台形土器
弥生後期
装飾のない庶民の土器 壺形土器
弥生後期
この不安定な形状は土器棺です。口縁の呪術模様が凄い。 特殊器台は、
 元は銅鐸を載せる台だったそうです。


 ※1脚付注口鉢形土器(広島の呼称) 台脚付注口土器(岡山の呼称)
   三次盆地特有の土器 注口付大型脚付土器とも言います。(笑)
・・・右に示した鹿は、銅鐸絵画にも多いスタイルだが、それと比べ、奇妙な円いものの前で思案しているようでもある。
 引用倉敷考古館よもやま話(153)弥生人の語り(3)


これは広島県東北部で中国山中、かつては岡山と共に吉備国の一部であった備後の地、
三次市三和町矢原遺跡出土の、台脚付きの注口土器に描かれていたものである。

 右図のように、美しく飾られた高さ50cm近くある、大形の注口土器であって、
鹿は、脚端の広がった部分にぐるりと描かれた奇妙な絵の一部である
(拓本参照)。
         転載倉敷考古館よもやま話(153)弥生人の語り(3)


  脚付注口鉢形土器弥生時代中期の広島県三次市の塩町式土器である。

  「塩町式土器」は、装飾性豊かで、弥生時代中期後半(約2100年前)
    現在の広島県北部の山間部を中心とする地域で使われていたものです。

  山口県下関市豊北町の弥生時代前期から中期にかけての土井ヶ浜遺跡から出土した
   脚付無頸壺とよく似ている。
   脚付無頸壺は実際には注口土器であり、脚付注口壺形土器と言うべきものである。


  67三つに分かれた土器

地域性のある土器←安芸南・県北・備後南→
↓中期後半↓後期後半
↓後期中頃↓後期後半
備後南部の土器
高坏形土器
県北部の土器高坏形土器 安芸南部の土器高坏形土器
安芸南・県北・備後南

↓中期後半
↓後期後半
↓後期中頃
↓後期後半
安芸南・県北・備後南
の高坏形土器
↓中期後半
↓後期後半
↓後期中頃
↓後期後半


  年代  まだ、確定していない部分が多いようです

弥生早期: 紀元前9世紀頃 紀元前 1000年頃〜
弥生前期: 紀元前 800年頃〜
弥生中期: 紀元前4〜2世紀 紀元前 400年頃〜
弥生中期末葉: 紀元前1世紀
  弥生後期: 紀元1〜3世紀 紀元 50年頃〜

  古墳前期: 3世紀半ば〜4世紀初頭 紀元  250年〜
  古墳中期: 4世紀初頭〜6世紀初頭
  古墳後期: 6世紀初頭〜7世紀半
   




 70四隅突出型墳丘墓について

 弥生時代の墓は、
    初期には格差のない同じような土壙が集団墓地として形成された。 やがて、副葬品が現れ、貧富が生じ始め、
    次に、他と区別する溝を巡らしたりし始め、権力差が生じ、社会の階層分化が進んだことを表している。

    次の段階では、特定の個人や一族の墓域が区画される。この区画は通常方形である。
    その区画の中を一族の墓所とし、やがて、土盛りなどして、装飾性を高め、方形区画墓が成立する。


 四隅突出型墳丘墓の由来
   @半島北方民族(高句麗)の埋葬形式説。
   A支石墓※1から発達した説。などは否定され、※1支石墓は長崎県島原半島・唐津市付近にのみ分布している。引用Wikipedia
   B方形区画墓の発展形と考えられている。

   C最近、配石墓から発達したという学説が出た。※2
     ※2埋葬方法として、墓壙を一般民より高くするため土盛りするが、土手の崩落防止に貼石をし方形貼石墓が成立。
        (引用山陰弥生墳丘墓の研究)

     四隅に踏石を置き、墓上祭祀のための参道として使用し、それが発達して 四隅が突出するマウンドが出来上がったのである。E
     この説にはそれなりの理由と実際があり、納得できました。 もし、側面に階段を設置すると方形でなくなります。

     成立の時期 弥生時代中期後葉と言われている。D
     墳丘墓の変化 四隅が突出する様子E 


  72-01四隅突出型墳丘墓の由来

A支石墓 江華島拝借江華島の支石墓

これが四隅突出型墳丘墓になったって、どんな想像を働かしたんだろう

B方形墓方形周溝墓
拝借邪馬台国大研究宇佐風土記の丘

C配石墓※2
堀部第T遺跡における配石墓の位置関係「赤澤編2005」拝借山陰地方の墓地構造(歴博)

Dおもな四隅突出型墳丘墓の地域と築造時期転載佐田峠3号墳

E
弥生時代の墳墓から前方後円墳への形態変化
※3

転載遺跡の小宇宙三次

四隅突出型墳丘墓の分布 転載遺跡の小宇宙三次


 ※2山陰地方の墓地構造(歴博の論文)では、
    C図の中心の長者の墓の麓に、東〜南にある配石墓が出雲の大王の墓になったというのである。
    この殉死者か、家族か、の、みすぼらしい墓を、地域の首長が自分の墓にするか?考えられない!

    そして、四隅突出型墳丘墓は、鳥取県から始まったという。 にわかに信じられないので、説だけあげておきます。
     参考四隅突出型墳丘墓(鳥取)


 ※3弥生時代の墳墓から前方後円墳への形態変化については、
    左側は、四隅の突出する様を、方形墓の四隅に着目して並べたものです。
    ただし、これが前方後円墳に行きつくというのは想像逞し過ぎでしょう。
    右側は、方形周溝墓の水抜き溝の、ふちがなくなってできたという着想です。 これらは、広島大学古瀬清秀教授の着想です。



 75↓図F朝鮮半島北方民族の埋葬形式 明らかに列島の四隅突出型墳丘墓と異なる。

F
朝鮮半島の四隅突出墓
左:
四隅突出墓形の、慈城郡の西海里第2古墳群1号墓の模式図です。紀元前後から2世紀までに築造の積石塚です。
方形積石塚の四角の各隅を強く意識し、強調 した列石や石の配置をしています。蓮舞里2号墳へ続く初期の四隅突出簿です。

右:
四隅突出墓形の、中国・東北地方・鴨緑江の支流・渾江流域の高力墓子村11号墳の模式図。
四隅突出を意識した、蓮舞里2号墳へ続く初期の四隅突出墓です。 

殿山38号墳 広島県の中国山地に見られる第1段階の四隅突出墓である、殿山38号墳の模式図と発掘時の写真です。

北朝鮮の蓮舞里2号四隅突出墓の発展したものと考えられています。明確な突出部が確認できます。 
 引用新井直樹のホームページ

参照四隅突出墓形の蓮舞里2号墳このページの図も併せみると、朝鮮半島北方民の四隅突出墓とはまるで違うことが判る。
また、これは完成形なので列島で変化することはないはずです。 違うもののようです。





  74四隅突出型墳丘墓は、
    四隅が突き出ている方形の墳墓で、山陰から広島県北部にかけて分布しています。
    中でも、古い時期のものが三次盆地から見つかっていることから、中国山地、三次盆地発祥と考えられています

    また、その供献土器は「塩町式土器」と呼ばれる装飾性の高い土器です。

四隅突出型墳丘墓上に記述 四隅突出型墳丘墓(出雲)
と特殊器台(吉備)の文化
佐田谷1号墳後期初頭 紀元1世紀初
庄原市
田尻山遺跡の墳墓後期初頭 紀元1世紀初
庄原市
宗祐池西1号墳中期後葉 紀元前1世紀
三次市
殿山38号墳(四隅突出)大形台付鉢形土器出土
高い身分の被葬者
引用佐田峠3号墓
歳ノ神4号墳 集団墓方形集団墓(一族墓)の典型例です。隙間にぎっしり 歳ノ神3号墳弥生後期1〜3世紀
四辺を列石と貼石で区画
佐田谷1号墳埋葬施設 中国地方における四隅突出型墓の分布 三次市庄原市付近の四隅突出型墓の分布

 角丸方墳から四隅突出型墳丘墓へ

写真を見ていくと、明らかに 角丸方墳が、四隅に登り口用の踏石を設置し、その登り口が斜度を緩めるために細長く伸びるが見て取れる。

すると、この四隅の参道は一方が登り口で一方が降り口で、対になっていたか、それとも、四方から一度に入退場するような儀式が行われたのであろう。必要がなければ、四方には伸びない。

参道が一方で良ければ、前方後円墳のように一箇所だけの登り口で良い。すると、吉備の楯築墳丘墓は双方中円墓であるので、両方の方部で同時に祭祀を行ったことになる。または、陰陽二つの儀式が別に行われたかである。
上記三次市庄原市付近と同範囲の地形図
大変広範囲が網羅済み


 72-02矢谷古墳

    弥生時代後期(2から3世紀)の四隅突出型墳丘墓

    三次市風土記の丘にある。四隅突出型墳丘墓を2基合わせたような形態。,全長18.5m。
    埋葬施設は木棺7基・箱形石棺2基・土壙など計11基。後方部中央にこの墳丘墓の中心主体と考えられる最も大きい木棺が存在する。

    出土した特殊器台や特殊壷などは重要文化財に指定。
    古墳出現前における地域社会のあり方,吉備と出雲との交流,関係を示す重要な墳墓である。

矢谷古墳尾根上に「四隅」を二つ継ぎ足したように見える 弥生時代終末期の三次の土器山陰系土器に、近畿・吉備・備後の影響があった 殿山38号墳と塩町式土器の分布大型台付注口土器の供献で、三次の最高級の首長の墓地と考えられる。

三次盆地周辺の古い
墳丘墓
矢谷古墳出土の特殊壺・特殊器台・鼓型器台等吉備の特殊器台・特殊壺と
山陰の鼓形器台が供献されている
特殊壺・特殊器台の分布吉備勢力の影響範囲
そのものである
 山陰地方-鼓形器台
 三次盆地-大型台付注口             土器
 吉備地方-特殊壺・
         特殊器台


   72-03特殊壺・特殊器台→埴輪への形態変化 (参考)
特殊壺・特殊器台 特殊器台形埴輪 円筒埴輪・朝顔形埴輪


 77塩町式土器は、
   弥生時代中期後半(2100年前頃)に、県北の三次〜庄原地域を中心に使われた、特徴的な装飾の土器です。
   甕形土器や高坏形土器などを、凹線文と言う、横線や斜めの刻目、貼付文などで飾った土器です。

   江の川流域を中心とした 島根県や 安芸南部、 岡山県北部 にまで分布し、当時の交流を知る手がかりになっています。

   この時期には、備後北部地域で四隅突出型墳丘墓という区画墓も現れ、塩町式土器と共に発達します。
   しかし、弥生時代後期になると、双方とも備後北部から姿を消していきます。 中心が出雲・石見に移りました。

  葬送儀礼用の装飾土器。 として発達してきたが、やがて、吉備の特殊壺・特殊器台、山陰の鼓形器台に取って替わられ、弥生後期に消滅した。

上に記述 塩町式土器 貼付文、凹線による横線・斜め線 弥生時代中期 脚付無頸壺形土器
・壺形土器
宗祐池西遺跡 弥生中期
壺・高坏 脚付無頸壺形土器
・壺形土器
宗祐池西遺跡 弥生中期
甕・壺・注口土器 鉢形土器・甕形土器

 塩町式土器
   県北西部の中国山地に位置する哲西町山根屋遺跡では「塩町式土器」と呼ばれる、装飾性豊かな土器が出土しています。
   この土器は、弥生時代中期後半(約2100年前)に現在の広島県北部の山間部を中心とする地域で使われていたものです。
         岡山県古代吉備文化財センター 古代吉備を探る2


 塩町遺跡 広島県三次市大田幸町656 三次青陵高校内

  年代 弥生時代中期後半(約2100年前)  塩町式土器は広島県. 北部一帯の 弥生時代中期後半の標式土器

  遺跡内容
竪穴式住居跡、北斜面から10戸、南斜面から数戸をを確認
北斜面の住居跡はいずれも直径4〜5mの円形のものが多く、内部に4〜8個の柱穴のあるものがあった。
住居跡の中央には炉が掘られ、多量の灰や焼け石が確認される。

その他一辺10m以上の住居跡状遺構や土偶、多量の遺物も出土している。

住居跡内や周辺から
弥生中期後半の土器、磨製石斧、石包丁、打製石鏃、石槍、砥石、石錘、土錘、分銅型土製品、炭化した桃の実等が出土。

土器は、壺、甕、鉢、高杯、注口のある脚付鉢、などが多量に出土。(塩町式土器)
表面は装飾性に富む凹線や櫛目刺突文、円形浮文、羽状文などが多く使われている。
この種の土器は、塩町式土器と呼ばれ、弥生中期後半の標式土器とされている。

分銅形土製品は、本遺跡の特徴ある出土品のひとつで、住居跡状の床面から3個体分、土壙の中から3個体分出土し
そのひとつは、長さ15.5cm、幅14cm、暑さ1.6cmもあり、県内で発見されている70数個のうち最大のもの。
これらには、凹線文、櫛目刺突文、などが刻まれたものもあり、祭祀用具説や、権威のシンボル説などがある。
  引用転載広島県三次青陵高等学校
     






 80古墳時代
    は、各地の支配者が前方後円墳などの高塚を造ることで、大和を中心とした階級社会を築いた時代です。
    前期(3〜4世紀)、中期(5世紀)、後期(6〜7世紀)に分けられます。

    日常生活では、土師器と言う素焼きの土器が用いられました。また、硬質陶器の須恵器も造り始められました。

  古墳の構造と副葬品
    古墳は周囲に溝を巡らし、墳丘には石を貼り付けたり、円筒・家形・人物などの埴輪を並べています。
    内部には竪穴・横穴式石室などを造り、その中に木棺や石棺を置いて、遺骸を納めています。
    棺や石室の中には、古い時期には鏡・玉・刀剣などが収められ、新しい時期には馬具・武具や各種土器などを納めています。

  前期古墳 (4c)
    定型化した前方後円(方)墳の成立を持って古墳時代の開始と考えられています。
    古墳の多くは見晴らしの良い丘の上に立地し、墳丘の頂上には竪穴式石室・箱形石棺・粘土槨など竪穴系の埋葬施設が作られていました。

    副葬品として三角縁神獣鏡をはじめとする鏡や首飾り・鉄剣・鉄製農工具等が死者と共に埋められていました。


  中期古墳 (4c末〜5c) 
    平野にも古墳が造営されるようになり、特に大型が多くなりました。
    また、馬具・武器・武具などの鉄製品を多量に副葬したものがあり、須恵器も備え始められました。
    県内最大の古墳である、三ツ城古墳や、県北最大の糸井大塚古墳などが作られております。


  後期古墳 (6c・7c)
    古墳は小型化し、丘の上から斜面にかけて密集して造られ群集墳をなすものが多くみられます。
    また、埋葬施設は竪穴系のほか、横からいれる横穴式石室も多く作られました。

    横穴式石室は何度も埋葬が行われ、須恵器を多量に副葬したものがおおくありました。
    県北部では、須恵器の杯身・杯蓋や甕の破片を敷いた土器床の石室が多くみられます。

 


   81各時代の古墳
古墳時代 古墳時代
上に記述
古墳の構造と副葬品
上に記述
前期古墳上に記述 中期古墳上に記述 後期古墳上に記述
報恩地南古墳の石室 池津第1号古墳の横穴式石室 御年代古墳の横穴式石室内の家形石棺 後期
亀山1号墳の副葬品
五世紀初頭 中期
横路小谷1号墳木棺直葬
五世紀初頭 中期
中出勝負峠8号墳の埋葬施設 前期



 82副葬品の変化
   前・中・後期に区分され、前期古墳は竪穴式石室が、後期には横穴式石室が流行します。
   これは、古墳が家族墓として地域の支配層に広まったためで、大和政権の支配が各地に及んだことを物語っています。

   また、古墳の副葬品の内容も時代と共に少しずつ変化します。

   武器や鏡・玉などの装飾品は一般的ですが、

   前期では、鏡の副葬が特徴的で、
   中期以降は武器類や馬具の副葬が目立ち始め、
   後期には、須恵器が大量に副葬されるなど、時期によって流行があります。

   前期は青銅器信仰の名残と鬼道(道教)の影響で銅鏡が多かったのか。中期は高価な交易品が大量に手に入り、
   後期には、大和政権の地方弱体化政策で、須恵器に意味を込めて荘厳したのでしょうか。

上に記述
玉類 中期
三角縁神獣鏡 前期
車輪石 前期
中出勝負8号墳
前期土師器 壺 

破鏡・内行花文鏡
中出勝負8号墳
鉄斧・鉄槍・鉄鏃
中出勝負8号墳
玉類・鉄斧
中出勝負8号墳
横路小谷1号墳 横路小谷1号墳
前期
石釧・内行花文鏡・玉類・刀子・鍬先
横路小谷1号墳
刀子
横路小谷1号墳
酒屋高塚古墳 中期円筒埴輪・須恵器・画文帯神獣鏡・玉・鉄鏃
亀山1号墳 中期 鉄刀・鉄剣・鉄斧
亀山1号墳
滑石製玉・鉄鉾・鉄槍
鉄鏃 亀山1号墳
刀子・鉄鎌・筒形銅器
滑石製玉・鉄鉾
亀山1号墳
亀山1号墳 中期平野中央の残丘上 R28mh2m円墳5c前半
広島中期代表的古墳
墳頂部に割竹形木棺を粘土で覆う粘土槨
3.6m×0.5mがあった
副葬品
竪櫛33玉65+660
刀形石製模造品1
鉄刀1鉄剣5鉄槍2鉄鉾3鉄鏃150筒形銅器1
短甲1
鉄斧3鉄鎌2
ヤリガンナ1刀子11砥石1



 83霊を運ぶ動物
    古代人は人が死ぬとその霊魂は体から離れ、鳥に乗って遠い死者の国へ行くと信じていました。
    山口県土井ヶ浜のウミウを抱いた女性の墓や、神話で死後白鳥になって飛んでいくヤマトタケルの話などはそれを物語っています。

    また、記紀によると、鳥はカミの世界と人の世界を結び、神の意志を人々に伝えるものとされていました。
    鳥によって死者の霊は天の彼方、海の彼方に至り、また、遥かな神の国からは、イネの豊作や、啓示の神意を携えた鳥が訪れたのです。


    葬送祭祀用の土器  この祭祀はきっと今も韓国で続いているのでしょうね。

報恩地南古墳の土器床
後期
大量の須恵器を副葬。
どんな意味があったのか
霊を運ぶ動物 鳥上に記述
鳥を呼ぶ人・鷹匠埴輪

鳥付子持装飾台付壺
後期
亀形瓶 後期 鳥形瓶 後期


 84埴輪
内部主体の形 家形埴輪 色々な墳丘の形 円筒埴輪・朝顔形埴輪 馬形埴輪
酒屋高塚古墳断面
大型帆立貝型古墳 緑岩古墳の墳丘部 酒屋高塚古墳の土層断面 円筒埴輪 馬形埴輪 緑岩古墳※1
三次市 1500年前
朝顔形埴輪 古墳に並べられた埴輪 緑岩古墳 中期 三次市 円墳R19.5mh2.2m
二基の小型竪穴石室
幅2mの周溝・内部から埴輪や須恵器・土師器が多量に出土。円筒・馬形・朝顔形・人物埴輪
馬形埴輪※1

※1馬形埴輪 緑岩古墳 1500年前 三次市 
    背中には人を載せる鞍(くら)が、お腹の横には足を掛ける鐙(あぶみ)と泥除けの障泥(あぶり)がついています。
    また、鬣(たてがみ)を頭の上でまとめ、口の両脇には飾りの板、腰の上には鈴をつけるなど、当時の馬は着飾っていたことがわかります。

    ピンと立った耳、上向き加減の顔と言うように、なかなか凛々しい姿で「いななく馬」というニックネームもついています。





 85鉄と古墳
   5世紀中頃以降、朝鮮人渡来者によって、様々な生産技術や土木技術が持ち込まれ、鉄や須恵器の手工業生産も開始された。
   三次市周辺でも、古墳の中に鍛冶具や鉄滓を副葬する例があり、鍛冶集団の首長の墓と考えられています。

   県北一帯は、近世以来たたら製鉄の盛んな地として有名ですが、古代においてもかなり発達していたことが、平城宮の木簡や、
   「類聚三代格」などから窺われます。

   三次市の古墳時代の製鉄遺構は未確認ですが、鉄の特産地として古くから先進地方の干渉を受けていたと思われます

 暮らしと生産
   多くの人々は竪穴住居で生活していましたが、豪族は、家形埴輪型の平地式住居に住んでいました。
   人々は農作業の傍ら豪族の必要とする様々な品物を作っていました。

   この時代には、(大陸)半島から、土木・鍛冶・工芸・養蚕・機織・土器作りなどの技術者が大挙渡来し、高度で専門的な生産技術が持ち込まれた。
   これによって、農具・工具・絹織物・須恵器などを専門的に作る集団ができました。

 鉄の道具の広がり
   鉄を使った道具は弥生時代に朝鮮半島などから伝えられ、古墳時代には、渡来人がもたらした新たな技術によって様々な道具が作られました。
   田畑の耕作や、古墳などの土木工事には、鉄の刃を付けた鍬や鋤が使われ、イネや草を刈ったり木材を切ったりするときには、
   鉄の鎌や斧が使われました。

   また、戦いの道具である刀・剣・鎧・甲。乗馬の馬具なども鉄製でした。
   これらの材料鉄は朝鮮半島から輸入されていました。

鉄と古墳上に記述 暮らしと生産上に記述 鉄の道具の広がり上に記述 鉄剣・刀子・鉄鉾・鉄鏃 鋏具・轡・兵庫鎖・杏葉
鉄鎌・鋤先 石製紡錘車・槍鉋・鉄斧・ノコギリ・砥石


 86土師器と須恵器
    古墳時代になると弥生時代から継承された素焼きで赤褐色の土器、土師器が作られ始めました。
    土師器は模様が簡素化し、地域色も薄くなりました。

    一方、古墳時代中期になると、新たに青灰色の須恵器が、朝鮮半島から渡来した工人によって作られ始めました。
    須恵器は土師器より硬く水を通さない性質を持ち、この頃から土師器と須恵器の使い分けが行われるようになりました。

土師器と須恵器 土師器の、壺・甑形土器※1
古墳時代前期の土器
鼓形器台※2
甕・高坏
古墳時代前期の土器
中期・後期の土器 古墳時代中期の土器
中期土器 古墳時代後期の土器
後期土器

甑の使用状況

甑模式図
古墳時代の蒸し器
甑・甕・カマド
古墳時代には甑が一般的に使用される。
6世紀には住居作り付けのカマドが出現しました。

 山陰系土器

※1甑形土器
   古墳時代前期の大型の山陰型甑形土器です。通常の3倍以上あります。謎の土器とされています。
   甑だとすれば、なぜ一度に大量の穀物の調理が必要だったのでしょうか。米を蒸したのでしょうか。
   雑穀でしょうか。軍隊?農奴用?

     参考文献謎の弥生土器・大型甑形土器

※2鼓形器台  弥生時代〜古墳時代 山陰中心に分布した土器

山陰型甑形土器
 
古代出雲歴博
 鼓型器台

引用元不明


 吉備系土器

 87特殊器台と特殊壺矢谷墳丘墓(三次市)〜 
    この大型器台とその上の壺は、三次にある弥生時代終わり頃の首長墓から出土しました。

    これらは、吉備、(岡山県倉敷市・総社市)で作られたものです。「三次の王」の葬儀に際して「吉備の王」から送られたと考えられ、
    墓には器台と壺のセットがいくつも立て並べられました。   (参考文化資源詳細情報)

    この巨大な土器は厚みが5ミリしかありません。どうやって運んだのでしようか。不思議な文様と共に、謎が深まります。

首長の墓に供える特殊器台特殊器台から埴輪へ
器台の形式変化
向木見型特殊土器は
儀式用で水抜きに底抜き
特殊器台形土器
矢谷墳丘墓出土
三次市東酒屋町
弥生時代後期

特殊器台と特殊壺

特殊壺

器台部
弧帯文が見えます 弧帯文

死者の霊魂を封じ込める呪術文様と言われている



 88矢谷墳丘墓副葬品  弥生時代後期末
円筒埴輪 鼓形器台 低脚杯 山陰系 高坏形土器 山陰系 鼓形器台 山陰系
ヤリガンナ・刀子・ガラス玉 碧玉製管玉 ガラス小玉 貫通を示すレントゲン写真 古代ガラスの分析・分類 矢谷四隅突出型墳丘墓
ジオラマ


 89祭祀具
分銅形土製品・有孔土製品・絵画土器・平形銅剣 分銅形土製品
手坊谷遺跡
塩町遺跡
弥生時代中期
分銅形土製品
浄円寺遺跡 中期
助平2号遺跡 中期
天神遺跡 後期
絵画土器 有孔土製品 浄福寺2号遺跡 後期
土製丸玉 志村遺跡後期
有孔板状土製品 浄福寺2号遺跡 後期
平形銅剣・銅戈
江戸時代のスケッチ 巴形銅器 有鉤銅釧 弥生後期
銅鏃 
日光鏡 和鏡
弥生後期
玉類 弥生後期
鏡形土製品
   浄福寺2号遺跡 後期




  91古墳時代の鉄を作る

 
我が国で本格的に製鉄が始まったのは、古墳時代(3c〜6c)で、庄原・三次では6世紀ごろの製鉄炉が見つかっています。

粘土で円筒や箱型の炉を築き、ふいごで風を送りながら済を燃やし、炉内温度を1200℃以上に上げ、少しずつ砂鉄を振り入れて、
炉の底に鉄の塊(ヒけら)を作り出すと言う方法でした。 復元実験では、砂鉄20kg木炭60gを使い、6時間で4kgのけらを得ました。

たたら製鉄は、鉄を溶融するのではなく、高温と木炭で酸化鉄を還元し、鉄を含んだ塊を取り出し、更にこれを砕いて玉鋼(たまはがね)を取り出し、
これをさらに過熱して鍛造し、不純物を飛ばして鉄塊を得る方法です。

従って近代製鉄のように1500℃付近まで加熱して溶けて流れる鉄(出銑)を得る訳ではなく、高温は鉄の還元反応を起こさせるためで、溶融ではありません。

これを話したところ、ある博物館の学芸員さんが、「いいえ、私は流れていく鉄を見ました。」と言い張るのだが、それは、鉄滓が流れたのです。
その時の実験考古学は誤解を植え付けるために行ったのでしょうか。国立大学でそんな簡単なことも学んでいなかったとは。

古墳時代の鉄を作る上に記述 鉄滓・鉄鉗 古墳後期 古代の加治屋さんの仕事 ふいごの羽口 平安 炉内残留滓
たたら製鉄は鉄を得るため毎回炉を壊します
この塊を叩いて中心にある玉鋼はほんの僅かです
実験炉の残骸 たたらの炉はもっと巨大なもので、こんな子供の遊びじゃ温度が上がらないんだよ。この絵は間違いです。 鉄滓を流し出す


  92鏡・装飾品 

   三角縁神獣鏡は、鏡の縁の断面が三角形で、神(神仙)と獣(霊獣)の文様があることから、この名が付きました。

三角縁神獣鏡上に記述 画文帯神獣鏡・上方作銘神獣鏡・三角縁神獣鏡 画文帯神獣鏡・上方作銘神獣鏡・三角縁神獣鏡
古墳時代前期
銅鏃・玉類・金環
前期・前期・中期
金環・玉類・玉類
中期・後期・中期
小形鏡と装飾品
小形鏡
獣形鏡×2中期
・乳文鏡 前期
四乳鏡 後期
玉類 玉類
中期・後期
金環後期・
琴柱形石製品前期
鏡形土製品
石帯 奈良時代



  93古墳時代の刀を作る
      広島市の遺跡から見つかった素環頭太刀を基に江の川の砂鉄から作った鉄を原料にして復元しました。
      環頭太刀は中国紀元の円環状の柄頭を持つ太刀です。

      円環の中に装飾のない素環頭太刀は最も古い形式で、古墳時代中期(5c頃)に我国でも生産できるようになりました。
      見つかったものは和刀でした。

   短甲 三角形をした何枚もの鉄板を革ひもで綴じてつくることから「三角板革綴短甲」と言う。1600年前のものです。
       このような短甲が、大田川・江の川の流域に10例見られます。

古墳時代の太刀を作る
実験考古学で素環頭太刀を作る上に記述
僅か4kgの:ケラからは玉鋼が不足なので、原料鉄は別に調達したと思われる 一応普通の刀剣生産のようです。 素環頭太刀古墳中期 復元素環頭太刀 短甲上に記述
しかし、その前に、膨大な面積で山を崩して土砂を流し、大変な洪水を引き起こしながら砂鉄を集めたのでしょう。

 砂鉄の入手
   僅かしか取れない玉鋼で沢山の鎧兜を作るには、いくつもの山を禿山にし、膨大な量の炭焼きをして、沢山のたたらで玉鋼を作ったのでしょう。
   しかし、その前に、膨大な面積で山を崩して莫大な量の土砂を流し、大変な洪水を引き起こしながら砂鉄を集めたのでしょう。



  94銅鐸の音色
   2300〜1700年前の弥生時代に、人々は青銅(銅+錫の合金)で鐘を作ってイネの豊作を祈る祭りをしていたと考えられます。
   当時黄金に輝く金属の肌つや、光沢を初めて知った弥生人は、目を見張ったことでしょう。

   しかし、銅鐸の最も重要なな役目は、祭りの際に木に吊るした銅鐸を揺すって、銅鐸の中に吊るされた舌と呼ばれる棒と鐘が触れ合って
   音を出すことにあったと考えられています。

   弥生人は、この音色に神々が祭りの場に降りてくると信じていたようです。

銅鐸の音色
上に記述
銅鐸祭りの想像図 銅鐸
−黒川遺跡(世羅町)−
 当時の人々は、太陽の下で美しく光り輝く銅鐸を見て驚いたり、不思議に思ったりしていたことでしょう。
 さらに、銅鐸は「鐘・ベル」であり、高い金属音を出します。

 光り輝き、聞きなれない音を出す不思議な銅鐸。
まさに、神を呼び、お告げを受ける祭りに相応しい神秘的な道具です。
 



  みよし風土記の丘は、

    三次盆地を代表する浄楽寺・七ツ塚古墳群と、復元住居・移築石室・石棺・古民家(重文旧真野家)、自然野草園などを公開しています。

  風土記の丘の古墳
    三次盆地と周辺には3000基もの古墳が集中し、県内最大の古墳密集地帯です。 そのうち、風土記の丘には176基があります。
    市南部のなだらかな丘の上に立地し、北側が浄楽寺、南側が七ツ塚古墳具です。


  95浄楽寺古墳群・七ツ塚古墳群

浄楽寺・七ツ塚の古墳「たち」をつけたら擬人化
なぜ古墳を?言葉乱れ
風土記の丘の古墳 みよし風土記の丘 歴史民俗資料館と
二つの古墳群
地図上の古墳プロット ジオラマによる分布資料館周辺 
七ツ塚古墳群
七ツ塚〜浄楽寺古墳群の中間 浄楽寺古墳群 三次風土記の丘には、
 古墳ばかりでなく、四隅突出型墳丘墓などもあります。


   95-2三次古墳群の特徴
みよし風土記の丘の
古墳のかたち
古墳のかたち円墳が大半を占め、
後期になって、地方小豪族や有力農民などが多くの古墳を造ったのではないか。

古墳の大きさ
直径15m未満の小型古墳が大半を占める
全国の古墳と大きさ比較広島には中小型古墳が多く、中央政権との政治的距離があったようだ。 松ケ迫古墳の集落復元模型現三次工業団地 古墳時代の生活下に記述

 古墳時代の生活
   三次盆地に数多くの古墳を造った人々は氾濫の多い大河川の近くを避け、その支流の細長いなだらかな丘に棲んでいました。
   集落前の細長い谷で稲作を、日当たりのよい丘の上で畑作を行い、そして、人々はかなり急な斜面を階段状に造成して
   竪穴住居や高床倉庫などを造り、集落を形成していました



    95-3三次古墳群の墳墓形式
円墳七ツ塚第15号墳 二段構成の円墳模型 方墳浄楽寺第61号墳 埋葬施設は箱形石棺 前方後円墳七ツ塚第9号墳 円筒埴輪の巡る古墳
帆立貝型浄楽寺第1号墳 箱形石棺・葺石 浄楽寺37号墳箱形石棺



  96風土記の丘 古墳出土遺物
浄楽寺12号墳から各種埴輪、各古墳の埋葬施設から、鉄器、玉類の副葬品や人骨が出土した。ただし、浄楽寺37号墳からは何もなし。

浄楽寺・七ツ塚の古墳群は、位置・墳丘・埋葬施設・出土遺物などで、いくつかのグループに分かれます。
古墳時代中期後半〜後期(今から1550〜1400年前)にかけて、グループごとに、大型の古墳から作られたものと思われます。

それぞれのグループで、同じ時期に同じような大きさの古墳が競うように作られていったようです。


  三次の古墳群の特徴
       
他地域では、後期になって横穴式石室が作られ、群集墳となるが、
ここでは、中期(1600〜1500年前)頃から古墳が盛んに作られ、 後期(1500〜1400年前)になっても横穴式石室があまり多くない

墳丘は、あまり大きくなく円墳が非常に多い 。一方、旧三谷郡 (馬洗川流域) では帆立貝型古墳が多い。
3000基もの、古墳がこの小さな盆地に密集していることは全国的にも例がない。(大変裕福だったといっている。)

このような特質は砂鉄製鉄が盛んであったことや、それに伴って畿内政権や吉備との関係がかかわっていたと思われます。

@みよし風土記の丘
古墳出土遺物

鉄器・玉・人骨出土
刀子・勾玉・槍鉋・短甲片・鉄剣 家形埴輪片・円筒埴輪片 円筒埴輪片 中期 家形埴輪片 中期
A三次盆地と古墳文化 三次盆地の主な古墳沢山の大中小など様々な大きさの古墳が密集している。 盆地周辺の横穴石室の分布状況後期埋葬形式横穴石室は周辺に多い(新興勢力) 三次古墳群の特徴
上に記述
首飾り・獣帯鏡・殊文鏡
中期
首飾り 中期 鉄鏃 中期 鉄剣・鉄刀
中期
土師器 小型丸底壺
鉄斧・鉄鎌 中期
三次盆地の主な古墳 久々原6号、糸井塚の本第1号墳、久々原2号
酒屋高塚古墳
善法寺8号、岩脇古墳
三玉大塚古墳、四拾貫日南第39号墳
形象埴輪 馬形埴輪
後期
形象てひとがたやろか
後期
首飾り・耳環 後期 須恵器 後期 発掘された古墳埋葬施設
久々原7号、天狗松5号
高平2号、天狗松6号
勇免4号、善法寺9号
勇免6号、四拾貫小原1号
はそう・土馬(雨乞)・鉄鎌刀子・鉄鉾・石突 首飾り・耳環・須恵器 長頸壺・須恵器・土師器 風土記の丘への道電動カートでもなければ
私にはとても無理な道程
館のパートのおばちゃんたちはとても親切でした。 若くはしゃいで大声を上げていた学芸員様からは 何を質問しても一切答えは帰ってきませんでした。  ここは古墳時代だけ。
地方から吸い上げてきた

旧石器〜縄文は何もわからない。

 最も重要な旧石器・縄文は、
ゆとり世代の学芸員の子どもの頃には教えられなかったから、

 今でも彼らは、そんな時代があったなんて
知らないんじゃないか。
博物館で大騒ぎしている学芸員なんて

今まで見たことなかったし。