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 青森の縄文 01  2019.09.25-1

   八戸市博物館 青森県八戸市大字根城東構35-1 0178-44-8111 月・休日の翌日休館

交通 新幹線八戸駅前➀乗り場から、田面木経由 根城バス停下車
八戸線本八戸駅中心街から、市報センター経由 根城下車(ねじょう)

  2020.09.12訂正を追記しました
 
目次


八戸市立博物館と
 「根城」について

01外観
02入口展示

100考古展示
101先人の知恵

110縄文時代
112縄文早期

資料
十和田火山噴火と円筒土器
120前期
121深鉢形土器
122石器
123食生活
130中期
131土器
134特殊土器
135土器の作り方
136縄文人のおしゃれ
140後期
141土器
143後期土器
146祭祀土器
 キノコ形土製品
考察 キノコ形土器
147土偶
148狩猟文土器
150晩期
151土器
155土偶
156石刀・岩版 後期
157石棒
158土面
160じょうもんの部屋
170長七谷地貝塚
173骨角器
175平底土器と尖底土器
176薬師前遺跡
178猪牙製垂飾品と貝輪
180薬師前遺跡
181改葬
182改葬復元展示

考察
 倒立甕棺・倒立骨の意味
185薬師前遺跡の暮らし復元

  弥生時代
190是川中居遺跡

資料 砂沢遺跡
考察 砂沢遺跡と是川中居遺跡の
    文化的同一性

考察2 青森の弥生早期
191在地の土器と外来系の土器
194砂沢式土器の拡散

 古墳時代
200蝦夷の国
211丹後平古墳群への考察

考察 東北北部の古墳
資料 丹後平古墳群
資料 丹後平古墳
考察 丹後平古墳群15号墳の被葬者
考察 金装獅噛三累環頭大刀柄頭から
   当時の北方交易を考える
212丹後平古墳群 出土品
古代の八戸
213古墳から出土した土師器・須恵器


220飛鳥時代
221土師器


 平安時代
240文字のある土器
250手工業
 丹後平古墳群15号墳出土
270古墳副葬品
270古墳副葬品

考察
 金装獅噛三塁環頭大刀の入手法

271金装獅噛三塁環頭大刀
273装身具
275鹿島沢古墳群出土品
280丹後平古墳群の馬具
290原寸大!丹後平古墳群15号墳

 中世
300根城をめぐって 室町時代
301根城
302舶載品
303陶磁器の生産地
304茶道
307復元建物
310根城出土品
311甲冑・刀剣類
313中世武士のいくさ装束
315貨幣の鋳造
317生活道具
321生活用品
322土馬
324雑兵鎧
325火縄銃
326黒漆太刀拵

 南部氏について
327南部氏の勢力圏
328甲斐源氏から糠部南部氏
329南部氏の系図


400歴史展示

  江戸時代
401県重宝 毘沙門天像
402八戸藩の誕生
403八戸城
404八戸城下町
405カレンダー
406八戸城の発掘調査
407江戸時代お国事情~八戸領内の産業
421具足
431日本刀
435千石船
436農耕図・畜養
437風俗
440城下町八戸
442郷土の文化

※ロザリオと隠れキリシタン
445江戸時代の職人事情
446江戸府内の八戸藩邸
447八戸武士の江戸の暮らし
448大名の仕事・郷土の賢人
451八戸に残る安藤昌益の足跡
452真法恵賢と和算

460飢饉と百姓一揆
461江戸時代の交通事情
462しめ粕
463野田醤油産業と獣害
464稗三合一揆
465猪飢渇
466飢饉卯辰簗
468「いのち」をつなぐもの
   飢饉のときの食料
469藩籍奉還

500民俗展示

501民俗展示
513三十三観音
513三十三観音
517祈りと芸能
521えんぶり祭りの山車
八戸三社大祭

530八戸の産業
531素潜り漁
532海に生きる
533八戸の四季
534農具
535八戸のくらし
535農具
541田を耕す
543昭和のくらし
545獲り入れと脱穀
547イカ釣り漁具


600根城 復元施設
 南部氏とは

601根城と南部氏

610復元施設
611城郭公園の入口掲示
613空堀
616史跡根城の広場
 本丸跡全体模型
620本丸入口
630納屋
640主殿本丸跡
643根城はよみがえる
645建物配置の変遷

650広場・工房
653(武器)工房
655常御殿
657野鍛冶
661鍛冶工房
663板蔵
670奥御殿


690八戸駅

 八戸市立博物館と「根城」について
八戸市には有名な是川縄文館があります。ここはその名の通り縄文時代に特化した博物館で、特に縄文晩期の土偶や土器・漆器が有名です。
一方、八戸市立博物館は旧石器時代から近世までの詳しい展示があり、特に、中世の城郭遺跡「根城=ねじょう」をメインとした展示と復元遺跡の展示が行われています。

岩手県奥州市歴史公園 えさし藤原の郷」では平安時代の寝殿造が再現されています。
青森県八戸市根城=ねじょう」では中世の城郭館が再現されています。
東北地方の覇権を巡る長い戦いが行われ、その都度中心地が移り、また、中央政権によって移転や城郭の取り潰しがなされたりと波乱万丈の東北の歴史を象徴する遺跡、根城です。
 
 01外観
十和田・八甲田の山並み
十和田の山名
根城バス停は、
根城を行き過ぎ博物館も行き過ぎた所。
市立博物館
歩いて戻って博物館
※バスの中でネジロに行きますか。と聞いたら、運転手がムッとして、
そんなところ知らん。といっておこり、少ししてネジョウやろ。という。

八戸人にとって「根城」は誇りを感じる場所で、間違えて読まれると
凄く不快になるようです。ネジョウです。(o*。_。)oペコッ
 02入口展示
館内の展示案内 根城跡地形復元模型
根城全図
いざ出陣
根城本丸出陣前夜
はちのへは
考古展示
歴史展示
民俗展示
無形資料展示
根城と八戸市
 
 



 100考古展示



 101先人の知恵
   




 110縄文時代



 111
縄文時代
意地悪しているわけではない。これしかなかった。見落としたか。
下の展示は縄文早期から始まっています。
東北地方にはもちろん旧石器時代からの歴史がありますが、
ここでは、たまたま早期から始まっているのです。


 112縄文早期 9000~6000年前

八戸地域で居住活動が盛んになるのは早期中葉、白浜式の頃である。物見台式期には居住活動は低調となる。
根城跡で白浜式~寺ノ沢式期(早期中葉)の住居が検出されている。引用八戸市・階上町域における円筒下層式土器以前の遺跡分布

とんがり底の土器この地では尖底土器から始まったらしい。
乳房状→尖底→丸底の地域もある

根城跡東構地区

長七谷地貝塚:八戸市

赤御堂貝塚:八戸市
長七谷地・赤御堂共に有名な遺跡です。
赤御堂式土器は北海道からも出土。
とんがり底の土器
館平遺跡:八戸市

物見台式土器

館平遺跡:八戸市
尖底土器の使い方
縄文時代早期中葉の物見台式土器です。底部が乳房状で、口縁部が内反しています。文様は貝殻の腹縁部分を用いた刺突や、棒状工具を用いた押し引きによるもので、器面全体に幾何学的できれいな文様が施されています。引用是川縄文館

石斧 縄文後期
丹後谷地遺跡:八戸市
石器の使い方
石斧
石鏃
石匙
石錐


資料 十和田火山噴火と円筒土器
八戸では、草創期から前期前半までは、上記のような背の低い土器でよかったが、約6,200年前の噴火(中掫噴火, 2.52 DRE km3)で東北北部から
北海道南部が降灰したため、食用植物が変化し、長時間の煮込みを必要とするため、大型バケツの円筒土器に発展した。以下に掲示。
 数値のみ引用「十和田火山の噴火史webilio」

八戸市における縄文早期~前期にかけての詳細な環境史。
1万年以降の縄文海進により、八戸市付近には北から古奥入瀬湾、古八戸湾、古新井田湾が形成されていた。
8000年前の縄文早期後半頃は、貝塚分析から、漁撈を中心とした生活で、狩猟は低調だった。
 ※海進で陸地が水没しただけではまだ漁業資源は豊富でなかった。陸地から多量の栄養塩が流入しプランクトンか育つまで待たねば。

5900年前、十和田火山の爆発により、中掫浮石が降下した。この噴火は列島1万年間で最大級の噴火であり、東北北部の植生を激変させ、八戸地域では軽石泥流や洪水を引き起こして、縄文海進の内湾を埋め立ててしまった。

円筒土器文化の集落は海から離れたところに大きな集落を形成した。引用八戸市・階上町域における円筒下層式土器以前の遺跡分布

 十和田火山の噴火
十和田火山の噴火年代については、5900年前6200年前の二説あるようで、←リンクの通りそれぞれの説を採用したページ沢山あります。
両年ともに噴火したのではなく、

十和田火山は約1万年前以降、9300年前、8300年前、7600年前、6200年前、2800年前、1000年前の計7回噴火 ...引用巨大噴火がもたらすもの
過去1万1千年の間に少なくとも9回の噴火が起き、このうち6200年前と西暦915年の2回は火山灰などの ...引用十和田火山:朝日新聞 ...
11000年前、10300年前、9300年前、8300年前、7600年前、6200年前、2800年前、西暦915年(計8回) 引用十和田火山災害影響想定範囲図 鹿角市

のように噴火回数さえまちまちである。まァ、6000年前頃に縄文人に大被害をもたらした噴火が起き、円筒土器が発達したことは間違いない。
  ※巨大な円筒土器の発達は、巨大爆発のせいではないとする説もあるそうです。


 120前期 6000~5000年前

 121深鉢形土器
縄文時代前期後葉の円筒下層d式土器です。円筒土器に特有な細長いバケツの形をしています。体部には、軸に撚り紐を巻きつけた絡条体によって、木目状の撚糸文が施されています。底部付近には羽状縄文もみられます。 引用是川縄文館
  
深鉢形土器
松ヶ崎遺跡

蟹沢遺跡
深鉢形土器
松ヶ崎遺跡

蟹沢遺跡
深鉢形土器
松ヶ崎遺跡

重地遺跡
十和田カルデラの真北にある三内丸山遺跡には背の高い。 超大型円筒下層式土器深鉢 が沢山出土している。
八戸地域では火山灰量が少なかったからなのか、三内丸山に比べ、植生のそれほどの激変が無かったのか、あまり背高の円筒土器は少ない。
たまたま、展示がそうだっただけかもしれないが、、、。

 122石器 八戸市
石鏃
是川一王寺遺跡
縄文時代
石のナイフ
是川一王寺遺跡
縄文時代
石錐
矢沢遺跡
縄文時代
土器片錘
田面木平(1)遺跡
縄文前期
石槍
冷水遺跡
縄文時代
石錘
鳥木沢遺跡
縄文早期
早期には既に大きな網漁が行われ、魚を一網打尽にしていた。
 123食生活
泥炭層出土木の実
トチ・クルミ
是川中居遺跡
縄文晩期
脚付皿ミニチュア
田面木平遺跡
縄文後期

ガタツキを防ぐために
脚付にした
トチの実
風張(1)遺跡
縄文後期
石皿
丹後谷地遺跡
縄文後期
クルミ
風張(1)遺跡
縄文後期
クリ
松ヶ崎遺跡
縄文中期
石皿と磨石
駒ヶ沢遺跡
縄文時代
地面に置いて使用した石皿が半分に壊れることはあまりないはず。

だが、展示品には頑丈な石皿がすっぱりと割られているものをよく見かける。
これって、死者に送るために生前使っていた石皿を壊してあの世送りをしたのではないでしょうか。

なぜそう思うかって? 
昔、おやじが癇癪を起して、何かを地面に叩きつけたときに、こんな割れ方はせず、粉々になった。
余りにもきれいに割れているのは、意図的に切断したものだ。
と、思う。
 


 130中期 5000~4000年前

  土器文様の発達が著しい。
 131
 132
深鉢形土器
石手洗遺跡
深鉢形土器
石手洗遺跡
大木系(中の平1式)
深鉢形土器
石手洗遺跡
 133
浅鉢形土器 浅鉢形土器
松ヶ崎遺跡
浅鉢形土器
松ヶ崎遺跡
 134特殊土器 中期
獣面付土器

石手洗遺跡
中期
フクロウ把手
片眼は貫通している
見えているの意味
顔面把手付土器
石手洗遺跡
複数の人面を装飾 人面
四人が手をつないでいるように見える
人体文土器 人体文土器

松ヶ崎遺跡
人体文 人体文なのか、
精霊なのか、、、
 135土器の作り方
土器製作 こねる
成形 施文 焼成

 136縄文人のおしゃれ 縄文後期

ペンダント 耳飾
耳飾 縄文時代のアクセサリー 勾玉
縄文後期
丹後谷地遺跡
土製首飾
縄文後期
丹後谷地遺跡


 140後期 4000~3000年前

 141
台付鉢形土器
丹後谷地遺跡
台付鉢形土器
田面木平(1)遺跡
壺形土器
丹後谷地遺跡
把手付土器
丹後谷地遺跡
浅鉢形土器
丹後谷地遺跡
深鉢形土器
田面木平遺跡
壺形土器
牛ヶ沢(4)遺跡
壺形土器
田面木平遺跡
 143 後期土器
小型土器
丹後谷地遺跡
香炉形土器
田面木平(1)遺跡
短孔土器

丹後谷地遺跡
注口土器
丹後谷地遺跡


 146祭祀土器 丹後谷地遺跡 縄文後期

鐸形土器
丹後谷地遺跡
スタンプ形土器
左3個:丹後谷地遺跡
右1個:丹後平(2)遺跡

 キノコ形土製品 縄文時代後期
キノコの形を粘土で作り焼き上げたものです。北海道南部から東北地方南部にかけて分布し、青森県から多く出土しています。
カサの形には、垂れるものや平らなもの、窪んでいるものなどいろいろな形があります。
キノコには、食用キノコと毒キノコがあり、キノコ狩りするときに、食用キノコの形や大きさの見本としたのではないでしょうか。

キノコ形土器 キノコ形土器
キノコ形土器

丹後谷地遺跡
キノコ形土器

上左:丹後谷地(4)遺跡
上➡:田面木平(1)遺跡

考察 キノコ形土器
  なぜキノコ形土器が突然出現したのだろうか。
  この館では、食用キノコの教科書とされている。
  別の館では、軽い毒キノコをシャーマンのトリップ用秘薬として利用し、その象徴だと、考えている館もある。

  考古学者が、食用キノコ図鑑と見比べてみると、全て食用キノコでした。縄文人は、安全教育のためにこのサンプルを作ったのでしょう。


 147土偶
土偶
盛岡市萪内遺跡
1m程の巨大土偶
イノシシ土偶弘前市十腰内遺跡 オオカミ(?)土偶
八戸市韮窪遺跡
クマの土偶
弘前市尾上山遺跡


 148狩猟文土器 縄文後期 韮窪遺跡 青森県八戸市田面木字韮窪40-12ほか

土器の文様として、森の中で動物に弓矢を向けて捕獲しようとするほかに、獣道に仕掛けた罠などの図柄が描かれています。
これらの表現は、狩猟の安全や豊猟への祈りが込められたものと考えられます。

狩猟文土器 狩猟文土器
韮窪遺跡
狩猟文土器展開図
狩猟文土器
上に記述
 


 150晩期 3000~2300年前

 151
 152
浅鉢形台付土器
八幡遺跡 晩期
浅鉢形台付土器
八幡遺跡
壺形土器
八幡遺跡
壺形土器
熊ノ林遺跡
鉢形土器
八幡遺跡
 153
注口土器
八幡遺跡
注口土器
八幡遺跡
注口土器
八幡遺跡
壺形土器
八幡遺跡
壺形土器
八幡遺跡
 154
鉢形土器
出土地不明
浅鉢形土器
八幡遺跡
小型土器
八幡遺跡
壺形土器
八幡遺跡
壺形土器
八幡遺跡
 
 


 155土偶

板状土偶
縄文中期
是川一王寺遺跡
丹後谷地遺跡
丹後谷地遺跡
田面木平(1)遺跡 石手洗遺跡
縄文中期

新田山遺跡(五戸町)
赤御堂遺跡(八戸市)

 156石刀・岩版 後期
石刀・岩版 石刀

丹後谷地遺跡
石刀

八幡貝塚遺跡
八幡遺跡

  岩版 晩期
岩版
八幡遺跡
縄文時代晩期
岩版
八幡遺跡
 
 157石棒 中期~後期
不明石製品

西長根遺跡(中期)
石棒
石棒

西長根遺跡(中期)
丹後谷地遺跡(後期)
石棒

下田面木遺跡(後期)
 158土面 後期~晩期
土面

千歳市ママチ遺跡
縄文晩期(約2300年前)

岩手県一関市
蒔前遺跡
縄文後~晩期
4000~2300年前

青森県六ケ所村
上尾駮(1)遺跡
縄文晩期

青森県浪岡町
羽黒平遺跡
縄文後期
 


 160じょうもんの部屋 長七谷地貝塚 縄文時代早期 ちょうしちやちかいづか
 161
貝層が土層を挟んで何層にも分かれています。これは、貝殻が断続的に捨てられたことを物語っています。(貝を採る季節が決まっていたようだ)
貝殻に混じって魚の骨も捨てられています。土器の破片も見えます。

長七谷地貝塚:八戸市
縄文時代早期
縄文カレンダー
植物採集
狩猟
貝の採集

貝の採集
漁撈

漁撈
その他の生活
 

 170長七谷地貝塚 縄文早期後半(約7000年前)を中心とする集落遺跡 青森県八戸市桔梗野工業団地3丁目
五戸川下流にあった内湾に面して造られた集落遺跡で、貝塚は4つの小貝塚に分かれています。貝塚からは、鳥類や哺乳類の他、河口下流域の内湾性の貝類が中心でハマグリやヤマトシジミなどです。魚種もスズキや黒鯛などの内湾魚に、カツオなども含まれています。

大量の土器・石器、土製品・石製品をはじめ、朝鮮半島由来の組合せ式釣り針や、銛頭など骨角器が出土しています。
縄文早期約7000年も前に、半島の漁師が北部九州から山陰地方に多く渡来し、土器や骨角製漁具をもたらし、僅かに東北日本海側でも出土する半島式漁具が、津軽海峡を越えて八戸までやって来るのは稀有である。

ただし、秋田から三沢まで約1週間で漂着するとのことで、新たな漁場を求めたのか、漂着したのかはわからないが、半島式組合せ式釣り針は、大物釣りには最適だったでしょう。
長七谷地遺跡
当時の内湾は堆積と埋設で跡形もない。ただ遺跡位置と河川から当時の内湾が想像される
 171
長七谷地貝塚
 172長七谷地貝塚 縄文早期
動物遺体
長七谷地貝塚
動物遺体
ムササビの顎
アシカ類の腕
ニホンジカの角
魚の骨
クロダイ ブリ
スズキ 平目 鰹 鮭・マス類
鰈・真鯛・ウグイ類・ボラ

アホウドリ、マガン
ツキノワグマ
シカ、キツネ

スズキ カツオ
マダイ ヒラメ
サケ マイワシ
 173骨角器
 骨や角で作った道具 縄文早期
縄文時代の貝塚からは、動物の骨や角、歯牙あるいは貝殻で作った道具が出土します。長七谷地貝塚からはシカの骨で作った釣針や銛などの漁具、ヘアピンなどの装身具が発見されました。その他に、鹿の角を輪切りにしたものや、短冊形に切り取ったものなど、道具をつくるための途中経過を示す出土品もあります。
※超硬いシカの角や骨を自在に加工する技術は本当に大したもんです。
骨や角で作った道具 長七谷地貝塚
上に記述
骨ベラ
是川一王寺遺跡
ヤス
是川一王寺遺跡
ヘアピン

是川一王寺遺跡
加工痕のある骨や角
長七谷地貝塚
垂飾品
是川一王寺遺跡

釣針・銛
是川一王寺遺跡
貝刃
魚の加工調理用?
長七谷地貝塚
骨角器
針・ヘアピン
・組合せ釣針(半島式)
 縄文早期
長七谷地貝塚
刺突具・銛

刺突具は、鮭などに
とどめを刺す道具
釣針
松ヶ崎遺跡

 175平底土器と尖底土器 縄文早期 長七谷地遺跡

平底土器 早期
長七谷地貝塚遺跡
平底土器
縄文早期 長七谷地遺跡
尖底土器 早期
長七谷地貝塚遺跡
赤御堂式土器
尖底土器
縄文早期 長七谷地遺跡
  二つの土器文化が混在していたのか、発達途中だったのか、使い分けで混在していたのか。
 
 


 176薬師前遺跡 縄文後期前半 青森県三戸郡倉石村大字中市字薬師前 引用3.甕棺(土器棺)墓 - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブ

三戸郡倉石村中市の薬師前遺跡で3個の土器(甕棺1個は正立、1個は倒立、深鉢形土器1個は倒立)が発見され、特に3号棺と称する深鉢形土器を被せていたその内部から、老年の女性骨1体分が発見された。

この骨は、縄文時代後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期における甕棺葬法を知る重要な資料となった。

葬法は、頭部を最下にして顔面を上に向け、頭骨を中心にその周りに四肢骨を立て、四肢骨で囲んだ内部つまり顔面上に肋骨・脊椎・腰骨・手足の指骨を入れ、
さらにその上にはイノシシの牙を半截して製作した11枚の装身具(垂飾品)が乗っており、ベンケイガイ製の貝輪破片が8枚ほど頭頂付近で、
一方立てられていた上腕骨に7枚の同製貝輪がはまった状態で発見されたのである*241。

 後期に続く晩期の時期にも、同様の葬法は受け継がれていたらしい。ただし、発見例は極度に少なくなっている。
事例を紹介すると、昭和34年(1959)5月、三戸郡名川町平の前ノ沢で発見された1個の合口甕棺(高さ55cmの壺形土器に、深鉢形土器を倒立させて蓋の役割をさせていた)があり、内部に幼児骨とイノシシの牙を利用した垂飾品7枚、碧玉製らしい臼玉1個が副葬品として収められていたという。
この合口甕棺は、晩期中葉の大洞C2式土器のようである

 ※ここではイノシシ牙半裁の垂飾や貝輪が、死者の家族の地位を示しているような気がします。
 ※3個の甕棺のうち1個だけが倒立していること自体が、死者の地位が特別であることを意味しているのではないか。また、同時に2つの甕棺が
  埋められたのは、偶然やまとめて埋納のやっつけ仕事ではなく、特別な意味があったと思われる。

 ※ベンケイガイは北海道南部以南の5~20mの海に生息する二枚貝である。夏のあいだに潜り漁で採集するにしても、大変である。
  縄文人には、サーファー耳が多いと言われるが、東北でも潜水漁をしていたようです。


 178猪牙製垂飾品と貝輪 縄文時代後期 薬師前遺跡
    初老の女性の改葬から出土した装飾品
 
これらの副葬品は、薬師前遺跡から出土した3つの棺のうち、成人女性の骨が収められていた3号棺の深鉢形土器から発見されました。
土器の中には、イノシシの牙で作った垂飾品(首飾り)11個やベンケイ貝製の腕輪16個が納められていました。腕輪のうち6個は女性の腕にはめられていました。
おそらくこの女性は生前にこの首飾りと腕輪で身を飾っていた特殊な身分の人物であったことが想像されます。

※甕の中の、二次葬の集積骨の上に置かれていた猪牙製垂飾(円形展示) と 腕にはめられていたベンケイガイの貝輪 が展示されている。

猪牙製垂飾品と貝輪 猪牙製垂飾品と貝輪
上に記述
猪牙製垂飾
薬師前遺跡墓壙出土
 ベンケイガイ貝輪
薬師前遺跡墓壙出土
重要文化財
薬師前遺跡墓壙出土
貝輪
 
       
猪牙製垂飾
薬師前遺跡墓壙出土
猪牙製垂飾 猪牙製垂飾 巨大なイノシシの牙を何頭分も選んで作られた装飾品
一頭から二本
ここでは三頭分ある

 180薬師前遺跡 縄文後期前半
 181改葬
一旦埋葬した遺体を掘り出して、改めて土の中に埋めることです。
東北地方北部では、縄文時代始め頃、大人の骨を土器に入れて改葬する例が多く見られます。
ここに展示している薬師前遺跡の場合は、男女三人が葬られた家族の墓と考えられる貴重な例です。

※男女(老女=特別な身分)3人分の甕棺がまとまって出土したので、一家族だ。 幼児骨と成人女性骨が同時に出土すると母子だ。
 藤ノ木古墳からは逆方向を向いた二体の男性遺体が見つかると兄弟だ。という。こういうのを単純すぎるこじつけというのでしょう。
 殉死、奴隷、などの風習と考える方が妥当である。

改葬 改葬
甕棺出土状況
薬師前遺跡

調査状況

実測の状況

 182改葬復元展示 縄文後期前半 薬師前遺跡

 発掘現場の状況
甕棺が畑の中から三基出土した、手前の甕を持ち上げて右横に移動した状況。中から女性の改葬骨が現れた。

 死者を祀る 国重要文化財 五戸町 平成12年指定
縄文時代の人々もまた、死をおそれ、死者に対しては礼を尽くし、あつく埋葬しました。三戸郡五戸町薬師前遺跡で発見された3個の土器の中には、それぞれ人骨がおさめられていました。
これは甕棺墓と言って遺体が白骨化してから改めて土器に遺骨を納めて埋葬したものです。
この遺跡の人骨は保存状態が良く、改葬にあたって頭の骨から順に丁寧に土器に納められた様子がよくわかります。

発掘現場の状況 国重要文化財
死者を祀る

発掘調査で土器→を引き上げると中から
←成人女性の骨が出てきました。

考察 倒立甕棺・倒立骨の意味
アイヌの死生観では、人は死ぬと地面の下の国に行って暮らすという。地の下の国は我々が踏む地面で接しており、倒立した世界であるという。
つまり、現世の足元に逆転した来世があるというのだ。すると、甕棺の底に頭骨から順に埋納を始めた人骨を正立して埋めるのと、倒立して埋めるのでは、来世での生まれ方が違うのだ。 特別な人シャーマンと、お供の男性の生まれ方が違うということになる。特別な人は特別な生まれ方をするとの考えではないか。ために、甕棺を倒立させたのでないかと考えるのです。

 

 185薬師前遺跡の暮らし復元

薬師前遺跡の暮らし 木の実を潰す子ども
鍋が石で支えられている

手前に縄文クッキーと牡蠣

横斧を結わえ直す男

伐採用の縦斧の横に、注口土器がヤカンの様に置いてある。

シカ肉入りクッキー

海の貝。フジツボもついている。きっと牡蠣

アンギン編の背中
ヤマトシジミ
ドングリ・トチ・クルミ
タヌキの毛皮・見事な土器

大きな貝と動物の毛皮
茶化してごめんね 注口土器は一集落当たりの発見数が少ないと聞いている。

このようにやかんや茶瓶のように使ったのだろうか。
むしろ薬缶ではなかったのだろうか。
 
 



  弥生時代






 190是川中居遺跡 縄文晩期 約3000年前 青森県八戸市大字是川字中居6-1ほか


 191在地の土器と外来系の土器
是川中居遺跡では、縄文時代晩期亀ヶ岡式土器に続く在地の砂沢式土器と、西日本の特徴を持つ遠賀川系土器が一緒に出土しました
比率は、砂沢式が8割、遠賀川系が2割です。縄文時代晩期から続くムラが、縄文の伝統を残しながら、弥生文化を受け入れて行ったことがわかります。

資料 砂沢遺跡
 砂沢遺跡:砂沢溜池南部。弥生前期遺跡住所‎: ‎青森県弘前市三和下池神
弥生時代最北で、東日本で最古の、水田跡6枚が発見された、米を生産した津軽平野の遺跡である。 参考砂沢遺跡出土品 垂柳遺跡より古い

砂沢式土器 縄文から弥生に渡る標式土器
砂沢式土器は、北東北を中心に分布する弥生時代前期の土器型式で、変形工字文という文様が大きな特徴です。
また、北部九州を起源とする遠賀川系土器が、少数ですが砂沢式土器に伴って出土しており、九州北部の稲作農耕が、日本海沿岸を経由して
津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。

○石器・石製品・土製品
石器では、石鏃・石匙・磨製石斧・ 叩石・磨石などが出土しています。これらの石器は、狩猟・採集や食料加工などに使用されるもので、稲作を行いながらも、狩猟採集を行っていたことが分かります。独鈷石・多頭石斧・石棒・石剣などの石製品や、土偶・土版などの土製品も出土しています。

これらは縄文時代にみられるものであり、縄文時代の要素を残していることが分かります。出土遺物からは、縄文時代から弥生時代への時代の過渡期の様相を感じ取ることができます。 引用「弥生時代日本最北・東日本最古級の水田跡 砂沢遺跡 - 弘前市」

 誤謬の訂正2020.9.12 以下の「考察」の中に間違いがあります。原文は訂正せず、誤りを指摘しておきます。
①是川中井遺跡は縄文晩期3000年前とされている。砂沢遺跡は2400~2300年前とされる。
しかし、これだと是川中井遺跡が終わってから砂沢式土器が入ったことになります。では、両系統の土器の混在はどうなるのか。
ただし、是川遺跡と砂沢遺跡の文化的同一性の理由は理解できる。是川遺跡の跡に砂沢文化が入植したからだ。
北九州の弥生時代は3000年前からです。この時期にやって来たなら、津軽半島の弥生時代は3000年前開始となる。
私がよくわかっていなくて、砂沢遺跡と是川遺跡の認識が間違っているのかもしれません。

②砂沢遺跡の種もみが、寒冷地順化したものかどうかは不明です。これは私が垂柳遺跡と混同しています。
もし、暖地型種もみだったら、よほどの温暖期でない限り、稲は穂を付けない。昭和時代にも何度も冷害が襲い収穫できなかったことがある。
ですからこの頃の種もみで、暖地型なら最初から収穫はできないはず。6枚の田んぼが見つかっているが、収穫は困難だったでしょう。
縄文晩期はかなり寒冷な時期だったようです。

弥生前期の中頃からもっと寒冷な時期が訪れ弥生集落化は撤退しました。だから、このために砂沢人が日本海側から太平洋側に移ったとなると、余計に時代的に合わなくなります。

北部九州から夏の南風からの季節風に乗ってやってきた弥生人たちは、十三湊から延々と歩いて砂沢遺跡までやってきて開墾をはじめ、
掘っ立て小屋を建て終わったころには、ここが大変な寒冷地であり、普通の稲が育たないことくらいわかったはず。だから、
冬の季節風に乗って帰る船に、翌年来るときには、朝鮮半島北部の寒冷地から籾種を持って来てくれるよう頼んだでしょう。

今読み返してみると、以下の考察はかなりの想像力たくましすぎる考えでした。


考察 砂沢遺跡と是川中居遺跡の文化的同一性に驚き
弥生前期に日本海側の津軽平野にやって来た北部九州系の弥生人が、あっという間に、百キロも離れた太平洋側にまで到達し、
是川中居遺跡で、砂沢遺跡同様の土器比率の構成で文化を築くとは大変驚きました。
なぜ、列島を挟んだ対岸で、同じ砂沢式土器文化を構成することが出来たのか。砂沢遺跡人が移動してきたのだろうか。大変不思議です。

砂沢遺跡の水田で栽培された稲籾は北方寒冷地順化の品種で、北部九州のものとは違います。
縄文晩期文化の中にあった是川中居遺跡では、田舎館村の垂柳遺跡や砂沢遺跡で水田稲作が始まると、その噂を聞きつけた東北北部中の縄文人たちが、先を争ってその技術を導入しようと、日常で使用する土器の割合まで真似て砂沢文化人を招いたのだろうか。

※寒冷地順化の種籾を持ち込むまでには、きっと何年も栽培して失敗し、随分の時を経て半島北部から沿海州あたりの籾を取り寄せて栽培して成功したのでしょう。今のように簡単に往復できなかった当時、どのようにして寒冷地種を入手できたか、きっと大変苦労したのでしょう。


考察2 青森の弥生早期
砂沢遺跡は、日本海航路を通じて北上してきた水田稲作文化(北方種)が、十三湖から津軽平野最奥の弘前に到達して定着し、すでに縄文的弥生土器の砂沢式土器を生み出した遺跡です(この時の弘前・砂沢は弥生時代)。弥生人たちが、十三湖付近の広大な湿地ではなく最奥の弘前にやって来たのは、大河下流域は大洪水に見舞われることが多く、被害の少ない最奥部の湿地目指してやって来て、そこで縄文人を上手に取り込んで稲作文化を築いたのでしょう。

なぜ、津軽平野最奥だったのか
もしかすると、この時すでに十三湖から弘前に至る岩城川沿いの各所に弥生人の入植があったため最奥にまでやって来なければならなかったのかもしれない。すると、弘前以北の弥生遺跡は、度重なる大洪水で流されたか、深い土砂の下になっているか、江戸時代から始まった大規模な開拓で破壊されたかでしょう。

弥生時代の始まりは紀元前10世紀といわれている。暖かな北部九州から最北の寒冷地津軽にやって来た人々は、
荒れ地を開拓し、小さな水田を単位に開いていく開墾を推し進めながら、その間の食料需給を縄文人の生活スタイルに依拠し
弥生文化の影響を受けた縄文土器である砂沢式土器が成立するまでには50~100年はかかったのではないでしょうか。

砂沢人の突然の移動
そうしてやっと安定した生活基盤が出来た途端に、3,000年前の、いまだ縄文晩期の太平洋側八戸に出現し、岩木川最奥の弥生集落から持ち込んだ文化と農業技術で、弥生文化を定着させた。砂沢式土器は砂沢人でしかできない方言であり、そこに遠賀川式土器が2割混じるのは、遠賀川弥生人が帯同していたことを意味します。

どうやって移動したのか
砂沢文化が成立して間もなく、何艘もの丸木舟で岩木川を下り、日本海の海流に乗って陸奥湾を通り越して下北半島をまわり、暖流の終点である八戸へ上陸したのか、それとも、踏み分け道を何十人もの砂沢人が歩いて青森県を横断し、八戸まで来たのか。とにかく3000年前に、八戸にやって来た。なぜ。
岩木川が大氾濫を起こして田んぼが全て埋まり、生活基盤を失ったからなのか、人数が多くなって新天地を求めたのか。

なぜ一直線に八戸を選んだのか
海路・陸路にしても、途中にいくらでも入植できる平坦地があったにもかかわらず、なぜ、寒冷地太平洋側に現れたのか。大変不思議である。
ただ、ここで分かるのは、砂沢遺跡の成立は紀元前10世紀以前であり、日本海側の弥生文化全体がもっと時代を遡ることを意味しているのです。


 191在地の土器と外来系の土器

堅果類の採取
火祭り

右:甕棺(在地の土器)
左:甕(外来系土器)

弥生前期
是川中居遺跡
在地の土器と
外来系の土器
上に記述

是川中居遺跡
弥生前期

甕棺
甕棺

是川中居遺跡
弥生前期
砂沢遺跡~垂柳遺跡~是川中居遺跡

(仮に)鰺ヶ沢湊に上陸した水稲稲作民は、砂沢遺跡で水田耕作を始め、湿地の広がっていた垂柳遺跡にも進出し、ところがその文化がいきなり百キロも離れた太平洋側の是川中居遺跡まで飛んでいくとは、考えられない飛躍です。
鰺ヶ沢-砂沢遺跡24km
砂沢-垂柳遺跡21km
垂柳-是川中居133km
十和田湖経由100km
交通はけもの道だけの時代でした
 194砂沢式土器の拡散
甕棺に入っていた管玉
是川中居遺跡(八戸市)
管玉 弥生前期 壺 弥生前期

荒谷遺跡(八戸市)
八戸市南郷区大字島守字下荒谷11ほか

荒谷遺跡(八戸市)
高坏 弥生前期
荒谷遺跡(八戸市)
※是川中居遺跡に伝わった弥生文化は、たちまち広がり、荒谷遺跡にも砂沢式土器が広がり、稲作文化(米作り)が持ち込まれたと想像できる。
 このように、稲作文化は持ち込まれるや否や、爆発的に拡散していったと想像される。

 195
縄文的弥生生活
火祭り

堅果類の収穫
 
 
 
 
 
 
 


  古墳時代


 


 200蝦夷の国

  「えみし」社会の誕生 エミシの時代 蝦夷 蝦夷征討 坂上田村麻呂「蝦夷征伐」はフィクションだった! 「エミシの土器」が東京・多摩で出土
  大宝律令 蝦夷 日本古代国家と辺境 日本古代の国家と蝦夷 隼人の反乱 沖縄 南島人 襲撃   エミシ文化の時代

疑問 蝦夷をどう規定するか
朝廷にまつろわぬ人々。などと言ってしまえばそれまで。何の考察もない。朝廷側は中華思想にならって、北の野蛮人として、北の方の人間はみんな野蛮人だとしているのだから、まつらおうがまつろわなかろうが関係ないのだ。
東北地方に住む縄文系の人々のことを指すのか。北海道アイヌも含むのか。大量の半島人もいたのだが、彼らも含めて、蝦夷なのか。
当時の都人のように大雑把に言っても、現代から細かく分けて言っても、結局なにがなんだかわけがわからなくなってしまう。
だから、そんな中華思想の妄想に取り付かれて恐怖感を持った都人が、とにかくあっちの方の人間、、、と方角だけで人を決めたのだ。規定できない。
 

 
 205蝦夷の国
蝦夷の国 作り付けかまどのある方形竪穴住居
蝦夷の村
集団墓地
 
 
 

 211丹後平古墳群への考察  八戸市根城 字丹後平 「八戸ニュータウン内」 




考察 東北北部の古墳
ここでいう古墳は、畿内の前方後円墳や方墳とは違う意味だ。確かに古い墓、古墳だが、どちらかというと、立派で大きい「土饅頭」だろう。
穴を掘って遺体を埋葬すると、土は上に盛り上がる。これを土饅頭という。これに、更にどこかから土を運んで大きな土盛にしたものを
ここでは、古墳と言っている。普通は石室なんかがあるのではなく、畿内の古墳とは違うもの、そして、築造時期も古墳時代ではない。飛鳥・平安である。
しかし、確かに有力者の墓には違いないので、古墳時代後期に流行した有力者の円墳の小型版と言えるようである。



資料 丹後平古墳群  7世紀後葉~9世紀後葉 引用「遺跡案内板
丹後平古墳群は、飛鳥時代から平安時代にかけて形成された、総数100基前後と推測される古墳群です。
ここには中央政府(律令国家)から蝦夷と呼ばれた人々の、有力者が埋葬された円墳の跡が残されています。

古墳の築造は、7世紀後半に遺跡の南側から始まり、北に移動しながら9世紀後半まで続きました。埋葬施設は長方形に掘り込まれ、そこに板をはめた木棺のような構造であったと考えられます。
古墳のほかに、土壙墓や関東・九州地方に類例のある地下式土坑(横穴墓)も発見されています。

古墳には、当時貴重だった武器類をはじめとして、馬具類や装身具類の数々がおさめられています。
豊かな内容の副葬品を保った古墳群が大規模に築かれたことは、在地勢力の台頭と共に律令国家との深い関係を示しています。

このように、丹後平古墳群は蝦夷社会の実像を知る上で極めて貴重な遺跡であることから、平成11年(1999)古墳群の中心部分が国史跡に指定され、保存が図られています。
丹後平古墳群
引用文化財on-line
丹後平古墳群

資料 丹後平古墳 引用文化財on-line丹後平古墳群
丹後平古墳群は,7世紀後葉から8世紀前葉にかけて形成された総数100基前後と推測される古墳群である。

古墳群の所在する八戸市は,太平洋に面する青森県東部でも,岩手県との県境に近い南端部に位置する。
丹後平古墳群は,馬淵川の南岸にあるなだらかな丘陵中に立地する。

昭和62・63年度に全面調査された29基についての古墳の概要は次のとおりである。
古墳はいずれも直径4〜9mほどの円墳である。埋葬施設はすべて木棺を直葬したものであるが,
棺をおさめる土坑の手前に,横穴式石室の羨道部に由来すると思われる通路状の張り出しをもつものが多い。

木棺を土坑にそのままおさめるもののほか,棺床に礫を敷くもの4基、木炭を敷くもの5基がある。

墳丘や周溝に供献された土師器・須恵器のほか,132個の勾玉など約18,00個の玉類や,
鉄製・錫製の釧などの装身具,環頭大刀の把頭,方頭大刀や蕨手刀・馬具などが,主として埋葬施設から出土している。
金装獅噛三累環頭
大刀柄頭

引用国史跡 丹後平古墳群 八戸市
墳丘規模の大きい15号墳から出土した金銅製の獅噛式三累環頭大刀の把頭は,獅噛環頭と三累環頭とを組み合わせた類例のないもので
6世紀前半から中頃の朝鮭半島の製品と考えられている。また、古墳の周辺には29基の土坑墓があり,
そのなかに馬を埋葬した土坑1基,関東に類例のある地下式土坑墓1基(横穴墓)があって,古墳群の被葬者像を考える上で興味深い。

考察 丹後平古墳群15号墳の被葬者
  金装獅噛三累環頭大刀柄頭の入手(仮説1)
上の現地案内板では蝦夷の頭目の墳墓群とされている。
(大宝律令制定前のヤマト政権と蝦夷と南島人はよい関係であった。招いて宴会を開き、彼らの舞踊を見て、沢山の土産を与えて帰した。
 その土産の中に古墳に副葬された様々な宝器があり、金装獅噛三累環頭大刀柄頭 があったのではないか。)

下の文化庁の記述では、関東の弥生人が関わっている感があり、さらに、半島の馬、金銅製大刀、多量の玉類などを入手していることは、
ヤマト政権との関わりが大変強かったことを表していると思われる。 

考察 金装獅噛三累環頭大刀柄頭から当時の北方交易を考える。
当時は、北方の珍しいものを入手するためにアイヌ交易や、エミシ交易が盛んでした。この当時蝦夷やアイヌに渡された大刀は、外側は大変凝って豪華な装飾だが、実戦には使えない模造刀でした。従って、奈良正倉院の宝物が全て国内で作られたものであったと最近分かってきたように、
この獅噛大刀も国内、ほぼ東海地方で製作された品物ではないだろうかと考えるのです。
朝鮮半島から輸入した、他に類例のない柄頭ではなく、朝鮮半島からやって来た工人が北方交易のために作った特別な品だったのではないでしょうか。


 212丹後平古墳群 出土品 7世紀後半から9世紀後半の古墳群 八戸市南白山台1丁目1

 古代の八戸
古代、東北北部の人々は「蝦夷」と呼ばれていました。「蝦夷」は未開で野蛮な人々と思われていたようです。しかし、発掘調査から知ることのできる当時の人々は「むら」をつくり、大規模な古墳群を形成するような経済力を持っていたことが明らかになってきています。

丹後平古墳群出土品 八戸の古代
上に記述
焼けた家
田面木平遺跡
丹後平古墳群出土品
堀のある村
風張(1)遺跡
蝦夷の墓
推定百基以上の古墳群
丹後平古墳群
何回も建替えられた
むら
熊野堂遺跡

 213古墳から出土した土師器・須恵器 奈良時代
 須恵器
ロクロを使い、窯で焼かれた灰色の固い土器。朝鮮半島の影響を受けたもので、古墳時代の後半から平安時代にかけて盛んにつくられました。


上に記述
古墳から出土した須恵器 古墳から出土した土師器


丹後平古墳群
奈良時代(八戸市)


丹後平古墳群
平安時代(八戸市)

長頸瓶:飛鳥-奈良時代
丹後平古墳群

甕:奈良時代
丹後平古墳群

長頸瓶:飛鳥-奈良時代
 





 220飛鳥時代



 221
 土師器
古墳時代~平安時代まで長く造られた素焼きの土器。粘土を積み重ねて形を整えているが、後にはロクロも使われた。
土師器


田面木平(1)遺跡(八戸市)
飛鳥時代


根城跡東構地区(八戸市)
飛鳥時代
高坏

湯浅屋新田遺跡(八戸市)
飛鳥時代


田面木平(1)遺跡(八戸市)
飛鳥時代


根城跡東構地区(八戸市)
飛鳥時代
高坏
湯浅屋新田遺跡(八戸市)
飛鳥時代
参考
エミシ文化の時代
 223

ハソウ

根城跡東構地区(八戸市)
飛鳥時代
甑(蒸し器)

田面木平(1)遺跡(八戸市)
飛鳥時代
甑(蒸し器)

田面木平(1)遺跡(八戸市)
根城跡東構地区(八戸市)
飛鳥時代
 230
土師器 甑

古宮遺跡(八戸市)
飛鳥時代
土師器 甕
田面木平(1)遺跡
(八戸市)飛鳥時代
筒型土器

根城跡東構地区
(八戸市)飛鳥時代
土師器 甕

田面木平(1)遺跡
(八戸市)飛鳥時代
 
 奈良時代には、ヤマト政権による激しいエミシ討伐によって、青森にあっても安定して集落を営むこともできなかったのでしょうか。
 



   平安時代


 240文字のある土器 平安時代
文字のある土師器 坏
平安時代
文字のある須恵器
ヘラ書き「大万」
墨書「成」
八幡遺跡
平安時代


根城跡東構地区
八幡遺跡
平安時代
高台付坏
熊野堂遺跡(八戸市)
平安時代
把手付土器

大仏遺跡(八戸市)
平安時代


熊野堂遺跡(八戸市)
平安時代


根城跡東構地区
平安時代
 
 250手工業
フイゴの羽口
境沢頭(1)遺跡(八戸)
大仏遺跡(八戸)
平安時代

見立山(2)遺跡(八戸市)
飛鳥時代
土製紡錘車
根城跡東構地区 平安時代
田面木平(1)遺跡 飛鳥時代
紡錘車
(糸に撚りをかける)
 
 


 丹後平古墳群15号墳出土

 270古墳副葬品 古墳時代


 271金装獅噛三塁環頭大刀(前出) 丹後平古墳群15号墳出土 朝鮮半島新羅製作 古墳時代 6世紀
長さ:9.7cm 幅:5.8cm 厚さ1.8cm 丹後平古墳群15号墳出土
柄頭は刀を飾る金具のひとつです。
この柄頭は、黄銅(真鍮)を素材とし、三つの環をつなげたクローバーのような形をしています。中央には金メッキされた獅子が表現され、環には金象嵌による飛雲の文様が描かれています。
このような作り方とデザインの柄頭は、国内に例がありません。ただし、この柄頭が出土した15号墳よりも古い大韓民国羅州市伏岩里3号墳で同じデザインのものが見つかっており、朝鮮半島で作られた可能性があります。

本資料は、6世紀後半に流行する「装飾付大刀」の一種ですが、一緒に出土した柄木は7世紀後半のものです。
このことから、この柄頭は遠い地で製作され、威信を示す宝物として長い間使われたものと考えられます。

(※朝鮮半島で6世紀に制作された当時としても第一級の美術品で、ヤマト政権から蝦夷の頭目に与えられ、百年程の間威信財として使われた)

※金メッキ 電気メッキ以前は、金や銀を、水銀に入れると溶解してアマルガムとなり、これを銅の表面に塗り、熱すると水銀が蒸発して鍍金する。
        この方法をアマルガム法という。
※水銀の製法 真っ赤な赤色顔料の辰砂(国内では、三波川帯の露出する徳島県、和歌山県、三重県、群馬県などで産出する)を熱し、
  蒸発する気体を冷却すると水銀が得られる。

 金装獅噛三塁環頭大刀
丹後平古墳群15号墳から出土した金銅製の獅噛式三累環頭大刀の把頭は,獅噛環頭と三累環頭とを組み合わせた類例のないもので,6世紀前半から中頃の朝鮭半島の製品と考えられている。引用文化財オンライン

考察 金装獅噛三塁環頭大刀の入手法(仮説2)
6世紀前半頃に新羅で作られ、日本海航路を南から八戸までやって来た船がもたらした最高級の儀礼用大刀で、100~200年はそのまま宝物とされ、やがて蝦夷の大王中の大王の死と共に15号墳に副葬されたのか。

それとも。当時は北海道アイヌが山丹交易と、列島太平洋側での交易、つまり三地点を結んだ三角貿易を行っており、(随分進んだ交易である。)
蝦夷錦や、ラッコの毛皮、大刀、ガラス玉、漆器、食料、などが交易品であった。
交易所は八戸付近であり、八戸の首長はこれを比較的たやすく入手できたものと考えられる。その後の経緯は上と同じである。とも考えられる。

 丹後平古墳群 引用1wiki丹後平古墳群 7世紀後半~9世紀後半
八戸市から南西に少し離れた標高90~100mの尾根に分布している。(中略)群集した円墳群。円墳以外に、周溝を伴わない土坑墓や地下式土坑墓があり、馬の埋葬墓もあった。
およそ100基以上の末期古墳が存在すると思われ、そのうち85基が確認されている。 大きさは、ほとんどが、全長約5メートル程度で、最大のものは15号墳の全長9メートルである。

副葬品では、武器類(直刀・蕨手刀・刀子)、装身具類(玉・釧・耳環)などで、周溝からは、土器類(土師器・須恵器)や武器類、生産用具(紡錘車・砥石)、装身具類、和同開珎などがあり、最も多かったのは土器類であった。

出土した土師器・須恵器の編年や周辺遺跡の出土品との関係から8世紀初めに中心を持つ古墳群であると考えられ、県下のエミシの族長たちの実態を知りうるものとして注目される。


271金装獅噛三塁環頭大刀
   (6世紀 新羅製。入手の100~200年のちに副葬品となった。壊れたものが副葬されるが、これは完形。大王中の大王だったから。)
金装獅噛三塁環頭大刀 金装獅噛三塁環頭大刀 金装獅噛三塁環頭大刀 金装獅噛三塁環頭大刀丹後平古墳群
古墳~飛鳥時代
 273装身具 丹後平古墳群出土品 飛鳥・奈良時代・平安時代
装身具 アクセサリー
丹後平古墳群
奈良時代
丹後平古墳群出土
重要文化財
飛鳥から平安時代
アクセサリー
丹後平古墳群
奈良時代
アクセサリー
丹後平古墳群
奈良時代
アクセサリー
丹後平古墳群
奈良時代
玉の種類
勾玉: 鉤状に曲がっている玉で、頭の部分に孔が開いている。
丁子頭勾玉: 勾玉の頭の部分に3~4条の栓を刻んだもの。
丁子の花に似ていることから名付けられた。
管玉: 円筒型で縦に孔が開いている玉。
切子玉: 角錐を2個合わせたような形で、真ん中が膨らんでいる。
断面が六角形のものが多い。
棗玉: 棗の実に鉈形で縦方向に孔が開いている玉。
丸玉: 丸い形で孔が開いている玉。

 275鹿島沢古墳群出土品 古墳時代 (wiki8世紀後半~9世紀後半)(古墳マップ、終末期群集墳7世紀後半~8世紀初頭十数基)どれが正解か
時期<7世紀後半~8世紀初め> 参照鹿島沢古墳群出土品
 八戸市沢里の鹿島沢の台地の畑地で、須恵器、直刀などの遺物が発見された。古墳は封土を持つ小円墳群である。
 その後近くから、銅製の杏葉2枚・帯金具または馬具と思われる金銅製金具や銅製釧・勾玉・管玉などの装身具類も検出された。
 これらは古墳時代終末期の群集墳の副葬品である。。
 鹿島沢古墳群は、7世紀後半~8世紀初めのものと考えられる。この時代には八戸地方の開発が進み、財力のある支配者(豪族)が出現しました。

鹿島沢古墳群出土品
古墳時代
金堂製金具 銅釧
鹿島沢古墳群
飛鳥時代


(横瓶)

(堤瓶)
 
 280丹後平古墳群の馬具 奈良時代・平安時代
馬具の名称面懸・轡・差縄
金銅製金具・杏葉
方頭大刀

丹後平古墳群
平安時代
方頭大刀
丹後平古墳群
平安時代
蕨手刀
丹後平古墳群
平安時代

奈良時代
丹後平古墳群
奈良時代
鉄釧(腕輪)奈良時代
 丹後平古墳群

錫製耳環 奈良時代
 丹後平古墳群
錫製耳環 奈良時代
 丹後平古墳群


 
 290原寸大!丹後平古墳群15号墳
これは丹後平古墳群で一番大きい15号墳の主体部を原寸大で再現したものです。
古墳の中央部に造られた主体部は、亡くなった人を埋葬するところです。石を敷き詰めたあとに板を立てて棺を作っています。


全長9m
 



  中世






 300根城をめぐって 室町時代

     室町時代1334-1573
     南北朝期1336-1392

     根城成立1334-1627

  南部氏は甲斐源氏の流れを汲む一族です。
  彼らは山梨県から来たのです。

 

根城復元模型
 301根城
根城は室町時代の建武元年(1334年)に南部師行が築城しました。その後、約300年間根城南部氏が居城し、江戸時代始めの寛永4年(1627)に
現在の岩手県遠野市へ移ります。
昭和53年から11年をかけた 発掘調査をもとに、本丸の復元が行われました。

 本丸の建物
発掘調査で2万個以上の柱穴が発見され、16回の大きな建て替えがあります。南部氏が居城とする前にも誰かの館があったことがわかっています。
南部氏とそれ以前を合わせると500年程となりますが、建物の多さからも根城の歴史の長さが感じられます。

 根城跡出土品
本丸跡発掘区全体図 根城

上に記述
本丸の建物

上に記述
2万個の柱穴
2万個の柱穴は、当時の建物は掘立柱建物で、何度も建替えたためと考えられる。
 302舶載品
  室町時代に日明貿易が活発に行われ、船が大型化し、倭寇などの海賊も横行するほど大陸・半島との往来が盛んになった。
中国産茶壷 舶載品
中国産:染付・色絵
朝鮮産:陶磁器
青磁、白磁 青白磁
 303陶磁器の生産地
   珠洲・越前・備前・唐津・信楽・瀬戸・美濃・常滑
陶磁器の生産地
珠洲

唐津

越前備前

信楽
 304茶道
茶臼 風炉 風炉:茶道用火鉢 茶釜蓋 ひで鉢 松ノ木を燃やし、明かりとして使用した灯火具
 307復元建物
根城本丸
沢山の柱穴 竪穴建物跡の発掘 出入り口の発掘
復元された本丸
唐津 瀬戸美濃産鉄釉 瀬戸・美濃産鉄釉
 
 310根城出土品
 311甲冑刀剣類
根城全景
冑金 足金物 冑金 足金物 太刀各部名称
刃を下にして差す
小刀各部名称
刃を上にして差す
縁金切羽はばき 小柄こづか こうがい
 313中世武士のいくさ装束
中世武士のいくさ装束 中世武士のいくさ装束
鉄の小札(こざね)
皮の小札(こざね)
大袖の冠板 笠鋲・八双金物(鎧の飾り金具) 鎧の飾り金具
鉄鏃


 315貨幣の鋳造

るつぼ・溶けた貨幣(青銅材料として利用)

フイゴの羽口
溶けた銅製品
貨幣
 317生活道具
火鑚(きり)臼 キセル.かんざし 硯・箸 仏像・銅鈴・懸仏
仏教の法具

仏像
銅鈴・鏡(懸仏)・仏具
 321生活用品

灰ならし・先端が焦げた木
火打ち金・火打石 火箸・鉄皿
 322土馬
土馬
岩ノ沢平遺跡
土馬
 324雑兵鎧 根城南部家が家臣用として使用したもの
 325火縄銃
火縄銃 鉄砲玉 火縄銃
 326黒漆太刀拵(くろうるしたち こしらえ)複製 南北朝時代
  根城南部氏は5代政長(まさなが)の刀。 本物は東京の刀剣博物館にある。
黒漆太刀拵
大きくて大変な反りです。
 

  南部氏について


 327南部氏の勢力圏
青森県 岩手県

 328甲斐源氏から糠部南部氏(ぬかぶ なんぶし)へ 南部氏の出自

南部氏は
平安時代後期の武将、源義家の弟、義光(新羅三郎義光)を祖とする源氏の一族です。
甲斐国(山梨県)甲府盆地一帯に勢力を拡大した義光の子孫は甲斐源氏と呼ばれ、鎌倉・室町時代を通じて全国に広がります。
この中で、後に糠部地方(ぬかぶ=東北地方北部)を拠点としたのが南部氏です。

加賀美遠光(平安末期~鎌倉前期)の息子、光行を祖とし、光行の代に甲斐国巨摩郡南部(山梨県南部町・美濃部町周辺)を所領としたことから「南部姓」を名乗ったとされます。(山梨県で南部姓を名乗った

南部氏と糠部地方の関わりは
南部師行が北畠顕家(鎌倉時代末期~南北時代、南朝方)に従い、糠部郡奉行として当地方に入って以降、深いものとなります。

師行は延元4年(1338南北朝時代)、顕家と共に摂州石津(大阪府堺市)で戦死しますが、その子孫はその後も根城(青森県八戸市)を拠点とし、
同じ一族の三戸南部氏(さんのへなんぶし)と共に糠部郡に勢力を拡大していきます。
やがて師行の子孫である根城南部氏の力は衰退し、代わって三戸南部氏が台頭してきます。

その後、九戸政実(戦国~安土桃山時代)大浦為信(戦国~江戸初期)などによる一族内での分立の動きも激しくなりますが、天正18(1890)年、三戸南部氏が小田原参陣により秀吉の朱印状を得たことを機に(所領確定、所領安堵)、南部一族は近世大名への道を歩み始めます。

江戸時代初頭 寛永4年(1627)、根城南部氏は伊達領との国境守備のため遠野への移封を命じられ、八戸を去ることとなります。

南部氏系図 甲斐源氏から糠部南部氏へ 甲斐源氏の拡大

中世における甲斐源氏の足跡が残る地域
 329南部氏の系図
 
 



 400歴史展示
    北国の城下町 苦難と栄光の道をたどる


 401県重宝 毘沙門天像
毘沙門天は、仏教における四天王の一人で、北方を守護します。軍神として武士の信仰を集めました。また、七福神の一人にも数えられています。

八戸市庁前の南部会館表門は、城下町八戸の姿を伝える市の文化財でした。この門が、昭和53(1978)年、春の大雪で倒れました。その調査・修理の最中、門の内部から3枚の棟札と共に、この毘沙門天像が発見されました。

毘沙門天像は、竹製の厨子と木箱に入れられて門の冠木中央に納められていました。イチイの木一本から彫り出した高さ僅か3.6センチの小さな像ですが、その表情は豊かで力にあふれ、仏師の力量を伺わせます。城を護り、災厄をはねのけ、栄えることを願って納められたと思われます。

昭和55(1980)年、門は「八戸城角御殿表門」として建設当時の姿で復元され、棟札、毘沙門天像と共に県重宝に指定されました。

県重宝 毘沙門天像
高さ3.6cm

神ワザのような彫刻
 



 402八戸藩の誕生


 八戸藩と南部地方
北 東北地方に広がった南部氏の勢力範囲を南部地方と呼びます。彼らはそれぞれが拠点とした土地の名をつけて○○南部氏と呼ばれています。
南部氏の勢力範囲は時代によって変化しますが、現代では江戸時代における八戸藩と盛岡藩の領地を合わせて南部領と呼び、そのうち。
青森県南東部と 岩手県北部を南部地方と呼んでいます。この地域では、共通の方言「南部弁」や民話、郷土食、風習や信仰などが見られます。

八戸藩の領域
弘前藩・黒石藩

八戸藩・盛岡藩

盛岡藩
八戸藩と南部地方
南部氏の領有宣言書
南部利直黒印状
これも領有宣言

 403八戸城 根城とは別の地本八戸駅前
八戸城の築城年代ははっきりしません。存在が確認できる最古の記録は、慶安3年(1650、江戸時代、徳川家光の時代)です。
八戸南部氏は、幕府の規定により天守閣を供えた城を持てない無城主という格でした。後に城主格に昇格していますが、その居城・八戸城は天守閣を持たない陣屋形式で御殿と呼ばれました。

新御殿は、文政12年(1829、文化文政の時代)、8代藩主信真の代に立てられました。この新しい御殿は明治の廃城令によって解体されるまで、八戸藩の政治の中心として機能し続けました。
解体後、かつて城内にあった桐戸や杉戸は菩提寺である南宗寺に伝えられました。御殿の跡地には三八城神社がたてられ、本丸跡地は三八城公園として花見や朝市で賑わっています。

新御殿絵図面と
八戸城御殿模型
八戸城 新御殿絵図面 八戸城御殿模型 武家の料理人
八戸城はとても密集した建物形式です。

 404八戸城下町

 八戸藩誕生
八戸藩は、寛文4年(1664)徳川第四代将軍家綱の時代に誕生しました。

根城南部氏が遠野へ去った後、八戸を支配していた盛岡南部家の藩主重直が、後継ぎを決めずに死亡しました。
徳川幕府は、南部藩10万石を一旦取り潰し、改めて、死亡した重直の二人の弟、重信に盛岡藩8万石を、直房に八戸2万石を分け与えました。

ここから南部直房を初代藩主として、八戸藩の歴史が始まります。

 向鶴紋
根城南部氏の時代、南部家の当主が降北での戦いで、月山神社に戦勝祈願をしたところ、庭の蔓が舞い、九曜の星が落ちてきた夢を見ました。
これにより戦いに勝利することが出来たという伝承に由来します。

 八戸城下町
八戸城下町は、現在の八戸市中心部にあたります。慶安元年(1648)にはほぼ完成していました。
城は北に面した断崖を背にしています。城から南に向かって、上級武士、町家、さらに中下級武士の屋敷地となり、町家の東西には足軽町が配置されています。また、城下町の外側は売市・沢里・類家などの堤に囲まれ、その間にはお寺や神社が配置されています。これらは、戦に備えた城下町特有の町づくりです。

八戸城下町 八戸城城下町 八戸藩誕生 向鶴紋 八戸城下町
上に記述
文久改正後城下略図 八戸藩では職業に応じた住み分けを計画しましたが、崩れました。地名などにその特徴が残っています。 当時の建物はほとんど残っていませんが、江戸時代の地図を持って歩いても十分に道をたどれるほど、町の形は変わらず、残されています。 本物の鮫皮
鮫皮としてエイの皮が用いられました。
 405カレンダー

江戸時代の季節行事
 406八戸城の発掘調査
八戸城跡の発掘調査は、1994年から始まりました。本丸跡には三八城神社みやぎじんじゃが建っているため、お花畑と呼ばれている庭園部分が中心です。調査の結果、これまで絵図に記録されていなかった江戸時代の建物や堀・塀の跡、井戸や洗い場、排水溝などの水利施設、地下蔵、ゴミ捨て場などが発見されました。また、発掘資料も、藩主の居城であり政治を司った城にふさわしく、全国の珍しい陶器や高価な器、また城に勤務した藩士たちが使用したと思われる文房具なども出土しています。

八戸城の発掘調査 美濃産碗 灰白色の灰釉を施した丸腰の碗 瀬戸腰錆碗 外面下半が鉄釉、上半に灰釉を流しかけた
「腰錆碗こしさびわん
 肥前磁器碗
18世紀代の波佐見焼諸窯(長崎県)で盛んに焼かれた粗製の碗で、「くらわんか碗」と呼ばれるものである。
分厚い作りで、淡い青緑色がかった釉がかかっている。
 京・信楽系碗 淡く黄色みがかった透明釉が掛けられ前面に貫入が認められる。
外面に「根付若松文」の文様が見られる。
京焼鏡立て 発掘調査位置
約塩壺・蓋 肥前磁器中皿
肥前磁器小皿 肥前磁器色絵蓋物
 
 407江戸時代お国事情~八戸領内の産業
江戸時代お国事情~八戸領内の産業 八戸の土地利用 凡例 江戸時代の海運 凡例 八戸の移入品
米・たばこ・木綿・小間物・薬・瀬戸物・紙・砂糖・茶

八戸の産物
大豆・〆粕・鉄製品・魚油・木材・干鰯
  製塩
製塩  リアス式海岸の南部地方は、砂浜の面積が狭いため、天日ではなく海水をそのまま煮詰めて塩を作りました。
これには大量の薪が燃料として必要だったため、海岸のすぐそばまで山林が迫っている金浜から久慈までの海岸線に塩釜が連なっていました。
これらの潮は領内で消費されるほか、久慈・九戸街道を通って内陸部へ運ばれました。
 
 
 
 421具足
紫糸縅胴丸鎧 紫糸縅胴丸鎧
伝:藩主着用
当世具足着用次第
鎧の着付け教則本
短刀 銘定國
定國のいわれ 鞍と鐙 鞍と鐙
 431日本刀
日本刀の所持には登録が必要です。
刀の銘 山水図
433
黒地蓬莱文様縫取打掛
黒地蓬莱文様縫取打掛 薙刀拵
なぎなたこしらえ
薙刀拵

 435千石船
千石船掛け軸
千石船絵図
千石船模型
千石船の内部
千石船内部構造 千石船は約150tの荷を積むことが出来ました。千石船に使う巨大な錨は八戸の特産品で、全国に出荷されました。 廻船出入帳
寿丸鑑札
送り状 八戸のクジラ
 436農耕図・畜養

農耕図
生活を描いた絵馬
寛政2年奉納
農耕図 オガミ神社
豊作祈願
木崎の牧 馬産の図
木崎の牧
百馬の図
木崎の牧
八戸では昔から馬産が盛んでした。妙野、広野などの藩営牧場や農民の飼育する馬も含めると1.5万~2万頭と推測されます。
木崎の牧は、青森県五戸町にあった盛岡藩の藩営牧場です。

ここで飼育される馬は主に軍馬でした。
永歳覚日記
寛永3年1750から明治29年1896まで、町屋の当主8代146年間の書付です。
藩当初の商業は不活発でしたが、藩体制の整備や港の繁栄と共に城下町を中心に活発化し藩の特権御用商人西町屋は千石船を所有し、造酒・木綿・日用雑貨・質屋を営む一方藩財政に深く関わり、鉄山の経営にも参加しました。(中略)

 437風俗
鬢付油壺
化粧三美人図と紅皿

 美濃産徳利
酒は元々高価で、樽でまとめ買いするものでした。しかし、庶民に広がるにつれて、そのとき手持ちのお金で買える分の小売りが増えてきました。
この徳利は、小売り用の貸し出し容器です。「貧乏徳利」と呼ばれ、酒が五合分入ります。飲み終わったら酒屋に持って行けば、瓶代が返ってきました。現代の一升瓶やビール瓶が、このシステムを引き継いでいます。

紅皿
美濃産小碗
美濃産徳利
美濃産徳利解説
 
 
 440城下町八戸
 441
城下町八戸 現代に残る八戸の文化 八戸城隅御殿表門
八戸南部藩墓所
盛衰時観音堂
安土桃山時代、建立県内最古の木造建築
櫛引八幡宮本殿
櫛引八幡宮流鏑馬
赤糸威鎧,兜、大袖付、附唐櫃、鎌倉時代
白糸威褄取鎧 兜、大袖付、附唐櫃、南北朝時代
七崎神社の大杉
対泉院の大賀ハス

十八日町の山勝商店
新地遊郭街
男山の酒蔵

朝日商会
河内屋

旧八戸小学校講堂

太公望山車人形
 442郷土の文化 新古品といわれる
今渕コレクション 郷土に文化の香りを
寄贈品
ロザリオ
カトリック教徒が祈りに使う
伊万里地図絵大皿

※ロザリオ
 キリスト教の呪術具が八戸にあったということは、隠れキリシタンが多数いたということになる。しかも、長崎のような徹底した弾圧や捜索も受けず、
 呪術具がそのまま市中に存在しています。大きな組織が残っていたのかもしれません。東北の隠れキリシタンについては、40年ほど前に一度
 聞いたことがあるように思いますが、現在ではどこにも取り上げられていません。もしかしたら、埋もれているのかもしれません。

 兵庫県北条町に五百羅漢として、アーリア人的な石像があり、また、市中に沢山の屋根付き囲いに入った石仏があるのですが、最近の研究で、
 それらは隠れキリシタンの礼拝物で、屋根付き囲い石像には、裏に十字架が彫ってあり、それを隠すための囲だったこともわかりました。

 五百羅漢は兵庫県相生市にもあり、また、全国にもあるので、詳しく調べると、全国の隠れキリシタンの実態がわかるのかもしれません。
 443新古品寄贈物の続き
この時計は懐かしい。
実家に2台ありました。祖父の遺品でした。
が、ある日買えると、
古手屋(古物商)が来たので柱の掛け時計も含めて4台とも全て売り払って僅かな金を手にして喜んでいました。
高い所の掛け時計などは古手屋が登って外したそうです。

この時から認知症だったのかもしれません。
 


 445江戸時代の職人事情
江戸時代の徒弟制度と株仲間制度においては、
親方に弟子入りして下働きし、例え一人前になったとしても株仲間として株を買い鑑札を持ち、独り立ちできることはなく、そのため、本来職人を育てるという考えがなかった。職人は一生涯、下働きでした。

現代に於いても、職人の世界ではこの考えが続いており、仕事を教えず、というより教えることが出来ず、僅かな技術も、何年もかかって、仕事を盗めなどと高飛車な態度で教えられないことをごまかし、結局日本の伝統工芸が後継者を育てられないという愚かなジレンマに陥っている。

 鑑札
江戸時代、商売をしていくうえでまず重要なことは、営業する権利である「株」を取得して、「鑑札」を受けること、即ち同じ業種の株仲間に加入することでした。
株とは、幕府や藩から特定の権利を認められた身分又は集団の構成員である資格や権利そのもののことです。
百姓株、名主株、御家人株、山林原野・漁場などの入会権、商工業における株仲間などがあり、数が限定されているのが普通です。
鑑札は株の所有を示す証文で、商売をしていくうえでの許可証もしくは保証書のようなものです。これがある限り商売を営んでいくことを保証されます。
こうした許可を受けずに商売をしていくことは事実上不可能に近く、廃業もしくは倒産の際にはこれを売り払うなどしました。

職人事情 職人絵図
鍛冶
鑑札
 446江戸府内の八戸藩邸
江戸の中の八戸
(八戸藩江戸屋敷絵図)
下屋敷
藩主の別邸
下屋敷
藩主の休息用別邸
上屋敷
藩主の住居兼政務所
中屋敷
隠居・子供の住居・緊急難先など、予備的な屋敷
八戸藩邸の位置 蔵屋敷
産物の積み下ろしや保管・販売

 447八戸武士の江戸の暮らし
※1万石以上の大名には江戸参勤交代が課せられた。東北の貧藩でも莫大な費用を投じて努めなければならず、財政はひっ迫する一方だった。

 勤番武士
参勤交代の藩主に従って江戸へ行く藩士を「勤番武士」と呼びます。基本的に単身赴任です。多少の手当ては出ましたが、家族を国元に残して家計を二分するため生活は苦しくなります。家族や親族は家計を切り詰めて仕送りをしました。

家族と共に暮らす江戸屋敷勤務専門の江戸詰藩士と異なり、勤番武士は藩邸内の長屋で一人暮らしです。勤務は江戸も八戸も同じく早番、遅番、非番の三日交代ですが江戸は物価高でうかつな浪費もできません。休みの日の楽しみ方は、同僚と連れ立っての名所見物や寺社参詣、銭湯通いなどお金のかからないものでした。
また、彼らはよく家族や知人から買い物を頼まれています。八戸では手に入らない品や老舗のブランド品などが多く、休みごとに一生懸命探して歩く様子が日記や手紙から伝わってきます。
八戸での暮らしは、単身赴任の江戸とは異なり、冠婚葬祭や季節ごとの付き合い、家計のやりくりなど、現代と変わらない様々な日常が押し寄せます。江戸に比べると素朴でも豊かな季節の味覚や多彩な行事、何よりも家族の会話に彩られる日々でした。

勤番武士
江戸勤めの武士
江戸屋敷 久留米藩の江戸屋敷 五位以下の将軍拝謁 長屋の茶室
藩邸長屋の暮らし 商業地域の賑わい
 448大名の仕事・郷土の賢人
参勤交代で江戸に滞在中の大名は、決められた日に江戸城へ登城しました。朝10時頃に登城し、昼には下がります。登城してもほとんど仕事はありません。登城すること自体が仕事です。私生活でも、幕府の眼が厳しいので外出もほとんどしませんでした。
国元での生活は、江戸に比べてはるかに自由です。藩政に多くの時間を費やしますが、花見や芝居、相撲見物、あるいは狩りや浜での地引網などの漁見物を楽しみ、時にはお忍びで出かけることもありました。

大名の仕事
郷土の先人たち 奇峯学秀 西有穆(ぼく)山 則誉守西 津要玄梁
瓦鏡 安藤昌益居宅跡 昌益の名がある
宗門帳
刊本「自然真営道」 昌益思想発祥の地碑
 
 
 450
 451八戸に残る安藤昌益の足跡
八戸に残る
昌益の足跡

武士が農民を支配することを批判した思想家
八戸城下町絵図
 452真法恵賢と和算
真法恵賢しんぽうえげん(1657~1753)は、八戸藩における「和算の租」と言われ、八戸藩士を始め町人、農民にまでも指導しました。和算は江戸時代に、西洋の影響を受けることなく日本で独自に発達した数学です。

恵賢は現在の三戸郡田子町に生まれ名川町の法光寺(曹洞宗)で出家し、のち江戸に上がり和算の勉強年をしました。年を取ってから法光寺に戻り、八戸へ出ているときは法光寺の宿寺で゛あった高龍寺(曹洞宗)に泊りました。

恵賢が和算の大家であることが評判になり、八戸藩士に和算を教えることになりました。功績を賞されて、藩主から生涯一人扶持を与えられました。
恵賢の弟子たちは、問題と答え、解き方などを算額に書いて神社やお寺に奉納しました。難問が解けたときの感謝や数学力のアップ、自慢や流派の宣伝のためと、理由はいろいろでした。


真法恵賢と和算 真法恵賢と和算 真法弟算記 算木 和算用算木
 453新田開発
八戸藩では、藩財政の窮乏を救うため、文政6(1823)から大規模な新田開発を行います。この事業により2万石の八戸藩は実質収益4万石余りと書き上げました。しかし、場所を選ばない強引な耕地の拡大は、逆に生産性の劣化を招く結果となりました。
この開田絵図は盛岡藩領のもので、測量から開田までの様子が描かれています。場所は、現在の八戸市市川付近です。
新田開発 開田絵図 開田ジオラマ1
開田前
開田ジオラマ2
開田中
開田ジオラマ3
開田完成

 蛇口伴蔵の水利事業
八戸藩士蛇口伴蔵(号:山水1810-1866)は水利事業を起こすことによって、大規模な水田開発をはかり、藩を豊かにしようと考えました。
その開発は、藩財政に頼らず、あくまでも自己資金を基にし、開発技術も自ら用意するというものでした。伴蔵は商人侍とさげすまれながらも黙々と資金を蓄え、30町歩の田地と3万両の資金を準備したといわれています。 中略
事業は安政6年から文久元年に着手され、用水路の開削が行われました。

蛇口伴蔵の水利事業 蛇口陽水計画図 用水完成の碑
 
 460飢饉と百姓一揆
 461江戸時代の交通事情 八戸と江戸を結ぶもの

八戸と江戸を結ぶもの 海路:東廻り航路江戸~八戸を一ヶ月
大量の運搬・遭難リスク
八戸藩公営飛脚
足軽二人組=大名飛脚
6~8日
日本橋の賑わい 八戸
有壁本陣 参勤交代
二万石の八戸藩は200名の行列で一年毎の春、江戸まで17日間の旅で一日10時間40kmを歩きました。
大変な速足です。
奥州街道の旅 道中双六振出の図 道中双六
参勤交代の内訳グラフ
総額費用がないのが残念
 462しめ粕
八戸では今も昔も沢山イワシが獲れます。昔は獲った鰯は食べるほかに、〆粕(しめかす)にしました。しめ粕は田畑の肥料となり、化学肥料のない時代には最高の肥料でした。鰯を大きな釜で煮て、搾り機に入れて圧縮して作ります。八戸のしめ粕は、江戸時代から全国で使われました。
あぶらしぼり
煮たイワシを圧搾して
油を搾り
しめ粕(肥料)を作る
油絞り機
この頃は、イワシが
湧いていた頃ですね
湊川口十分の一役所 しめ粕
上に記述

 463野田醤油産業と獣害
野田醤油産業と獣害 野田の醤油産業の絵馬 江戸近郊の野田地方(千葉県)では醤油産業が急成長し、原料としての大豆を必要としていました。
しかし、周辺の畑地では大豆よりも高値が付く綿花栽培が農業の主流となっていました。
そこで八戸藩では、綿花栽培に必要な〆粕と共に、大豆を強制的に増産、販売し、大きな利益を上げました。
しかし、このことが深刻な災害の原因となりました。

湊川口十分の一役所
10%の税金を徴収する役所。かなりの高税率です
漁獲高の十分の一を漁業税として徴収する役所です。文化14年(1817)には、560艘もの漁船が登録されていました。
水揚げされた大量のイワシは、〆粕の原料として使われます。図の浜では、イワシを煮て魚油を搾り、〆粕に加工する活気にあふれた様子が描かれています。

畑開墾の様子 野田醤油産地に出荷するための大豆畑を開墾する次第

➀野山を焼き払って畑を作ります。(焼き畑)
②2,3年で新しい畑に移ります。
③もとの畑に生えた植物の根を掘り起こして餌にし、猪が大発生しました。
④数が増えたイノシシは作物が実った畑を襲い、農民は大変な被害を受けました。

 464稗三合一揆
天保3(1832) から数年間、天候不良による凶作が続きました。藩では深刻な財政不足に陥り、農民から強制的に食料や産物を買い上げていました。
1日に稗三合分だけを残し、それ以外を全てタダ同然に買い上げる政策でした。
このことが原因となって、天保5(1834)八戸藩領内全域で「稗三合一揆」と呼ばれる一揆が起こりました。
大豆
稗3合はどれくらい?
籾の稗3号は精白すると

1合にしかなりません。

これが藩が農民に残した大人1人の一日分の食料でした。
稗三合一揆
 465猪飢渇 無理な開墾が猪害を促進した
大豆畑の開発 絵馬「ススキと猪」
笹ノ沢薬師神社
猪飢渇と大豆
いのししけがち
右に記述
八戸地方には「猪飢渇けがち」と呼ばれる特異な災害があります。大豆増産を目的にした無計画な耕地拡大により、自然環境が破壊され、異常増殖した猪によって作物が根こそぎ荒らされるものです。

寛延2年(1749)には猪害に冷害が重なりました。
藩の政策により、稗などの雑穀をやめて大豆を作っていた農民たちの被害は深刻で、3千人余の餓死者を出しました。

 百姓共の願い出事項
一、稗の強制買い上げをやめること
一、大豆の強制買い上げをやめること
一、塩の強制買い上げをやめること
一、御掫駒おさらいごまの八戸牽ひきをやめること
一、〆粕魚油強制買い上げをやめること
一、莨たばこ税をはいしすること
一、魚の税金を廃止すること
一、他領使用人の締め出し反対
一、商人や殿負担を撤廃すること
一、藩の酒専売をやめること
一、牛馬税を引き下げること
一、一石三百文の付課税反対
一、藩札(紙幣)の発行をやめること
一、山に対する税金を半分にせよ
一、職人税を半分にせよ
一、百姓の人夫徴発をやめること
一、全ての運常勤を廃止せよ
一、鉄の専売を廃止せよ
一、久慈の田屋をやめさせよ
一、見地の一部をやり直せ


百姓共願出事項
 466飢饉卯辰簗
天明3年-4年(1783-84)にかけての飢饉の惨状を記した「天明卯辰簗」の写し。
天候の記録、穀物などの価格、子供を川へ捨てる話、衣類の追いはぎ、身投げ、押し込み強盗、城下の火事の話などが書かれています。
飢饉卯辰簗
ききんうたてやな
天保五年春の記
ここには「稗三合一揆」と呼ばれる一揆の目的や行動コース、藩に対する要求と回答結果などが記されている。
 467餓死万霊供養塔
領内の総人数6万5千人のうち、3万人余りの死者が出たという。

※この前年、飢饉を予測したコメ相場は跳ね上がり、藩の家老は備蓄米全てを売り払って、換金し多額の余剰金を出し、大宴会を催したという。
 相場が飢饉を予測しているのに、飢饉が起こると大打撃を受ける地域の官僚がそんなことはお構いなく、その後の藩財政が壊滅状態になる
 ことも予測できず、私的流用で浪費してしまうという、なんとも見事な財政担当者ではないか。

 元来、飢饉の起きやすい地域であるのに、それに備えることを、家業とすべき地位にありながら、しなかったという。
 藩の経営。人事が間違っており、人々の苦労は、愚かな藩運営と藩主の無能にあったといえる。

餓死万霊供養塔の碑文
卯辰飢饉物語 餓死万霊供養塔
飢饉の翌年、新井田村の人々によって建立された供養塔

 468「いのち」をつなぐもの 飢饉のときの食料
税金や藩の強制買取によって、農民の手元に穀物がほとんどなく、藩や村の公共的な救済もあてにできないとき、人々は山や野の自然に頼って命をつなぐよりほかにありませんでした。
 ワラビクズ(葛)、トコロ(野老)の根を掘り、トチナラクヌギの実を拾い、ヤマゴボウウルイ(ギボウシ)などの草の葉を集め、食べられる物は全て食べ尽したといいます。そうして得た命をつなぐ知恵は、大切に次の世代へと伝えられていきました。

 また、味噌は日ごろから大切なタンパク源でしたが、特に飢饉のときには重要でした。青い葉を食べるときには、下痢による脱水症状や全身が腫れ上がって死亡するのを防ぐために、「必ず味噌で煮るように」という指導がされています。味噌の塩分がカリウムを中和したのです。


「いのち」をつなぐもの 「いのち」をつなぐもの ところ 野老
長芋科の野草。煮るなどして苦味を減らした根を食べました。
ワラビの根と共に、飢饉の時の代表的な食料。
藁 ワラ
細かく刻み、叩いて粉にして利用しました
木の実 澱粉・里芋の葉
凍らせたイモから作った澱粉
ウルイ・葛
根を叩き、水で揉みだすなどして澱粉を沈殿させて取り出しました。

ワラビと共に飢饉の
代表的食料。
ワラビの根・松の皮 ワラビの根
潰して水にさらし、でんぷんを沈殿させる。
松の皮
表皮の下の合皮を粉にし、一晩煮て澱粉を加えて餅状にする。
 

 469藩籍奉還
明治4年の廃藩置県によって八戸、七戸、斗南、弘前、黒石の各藩はそれぞれ県となり、これら5軒と北海道の館県が統合された弘前県となり、
まねなく青森県と改称されました。
合県としては全国で最も早く、政治治用の建言を失った旧藩主は東京へ移り住むことになりました。
 
明治初期行政区画
変更表
幕末から青森県成立時の行政区域
幕末・明治2年・明治4年
八戸藩知事任命書 藩籍奉還之聴許書 藩籍奉還之聴許書

 戊辰戦争と八戸藩
戊辰戦争と八戸藩
慶応4年(1868)、東北諸藩を巻き込無戊辰戦争が始まりました。八戸藩は旧幕府方の奥羽越列同盟に加入し、現在の野辺地町付近で弘前藩と戦火を交えましたが、それ以外は大きな戦いに巻き込まれることもなく明治維新を迎えました。

明治4年(1871)7月の廃藩置県により、「八戸藩」は「八戸県」となり、同年9月「青森県」に編入されました。八戸市が誕生したのは昭和4年(1929)5月1日のことです。

現在では全国有数の水産都市として、また東北有数の工業都市として着実な発展を遂げ、北東北の拠点都市として成長しています。

 
 
 
 








 500民俗展示 やませ吹く海辺 炉端のぬくもりを語る






 501民俗展示
ひしざし  布の補強のために糸を刺しましたが、
それが工夫され、見事な模様となった
のが菱刺しです。
南部地方独特のもので、南部女性が
生活の中から生み出した芸術です。

いわゆる「さしこ」という技法です。
七宝焼花瓶コレクション
明治時代
高さ61.0cm
七宝焼花瓶コレクション
 
 511民俗展示風景

 513三十三観音
全国的に広まった観音信仰は、八戸地方にも、三十三か所り観音巡りの札所を生みました。「奥州南部糠部巡礼次第」がそれで、階上岳の麓の寺下観音が第1番、浄法寺町天台寺の桂清水観音が第三十三番になっています。それは庶民の心の安らぎを願う信仰でした。
又豊作や悪疫退治などを祈って、いたる所に多くの庚申塔が建てられました。

三十三観音 庚申塔 三十三観音庚申塔 八戸の33観音信仰
浄生寺十一面観音 三十三所巡礼次第 観音信仰の痕跡
 515おしらさま
絵馬、おしらさま
絵馬は、自分達や馬の病を除き、安全を祈るために木札に馬などの絵を描き、お寺や神社に奉納する際に使われました。
この地方の「藤右衛門の絵馬」は、工芸的にも優れいることで大変有名です。
おしらさまは30cm程の木の棒の先に、男女や馬の顔を彫りオセンダクを着せたものです。
イタコにあそばせ世の中・作柄を占い、無事息災を祈るものです。

南部小絵馬
江戸時代 是川清水寺
絵馬 おしらさま おしらさま伝説
おしらさま
家を守る神
おしらさま
家を守る神
 
 517祈りと芸能
古くから人々は、自然に対して恐れや驚きを持っていました。やがて、自然・・・神に対する信仰が生まれ、神に祈る動作が芸能に発達し、人々の生活の中に根を下ろし、民俗芸能として受け継がれてきました。
八戸地方には、豊作祈願の田植踊りとして発達した朳(えんぶり)や、山伏たちが布教の手段として行っていた神楽や、野馬取りの様子を芸能化させたといわれる南部駒踊りのほか、鶏舞(けいばい)、虎舞(とらまい)などがあります。

神楽面 祈りと芸能 獅子舞
後ろは「鮫舞」
 
 520
 521えんぶり祭りの山車
えんぶり祭りの山車
神功皇后と竹之内宿禰
 522祭礼 えんぶり) 春を呼ぶ祭
えんぶりは八戸地方の代表的な郷土芸能で、豊作を祈る行事です。毎年2月17日から2月20日までの4日間、市中心部及び周辺の農村で行われます。「ながえんぶり」と「どうさいえんぶり」の2つの型があり、舞い方が違います。
烏帽子も「ながえんぶりには」には、牡丹(ぼたん)や空木(うつぎ)の花がつき、「どうさいえんぶり」には、5色のテープ状の前髪がつきます。

 八戸三社大祭
八戸三社大祭は享保6年(1721)に豊作を祈る祭りとして始まりました。
おがみ神社の御神輿が長者山新羅神社に行って帰る神事が行われ、これに山車がつきました。明治時代に神明宮が加わり現在の三社大祭となりました。
現在は、7月31日が前夜祭で、8月1日から3日まで行われます。伝統的な行列に、豪華な山車が25台つき、「日本一の山車祭り」と呼ばれています。


えんぶり
八戸三社大祭
ながえんぶり
どうさいえんぶり えんぶりの主役 えんぶりは、柄ぶり、
農具の名前です
 
 530八戸の産業
 531素潜り漁

深く潜るための特殊な水中眼鏡
港がないために毎回砂浜に船を揚げ降ろしする。 縄文・弥生時代から深場での潜り漁が行われていました。

明治時代は南方の珊瑚漁の影響もあり男性のも潜水姿です。
近年は、
ドラマあまちゃんで有名となった女性の潜り漁が盛んなようです。
しかし八戸水産高校でしたか、潜水を教える学科があるそうです。
 532海に生きる
八戸は、古くから漁業が盛んでした。それは、八戸の海には魚や貝、海藻が豊富だったからです。
網でイワシやカレイ、釣りでイカやアブラメなどを獲りました。
磯では、潜ってアワビやウニ、船の上から昆布やワカメを獲りました。現在は、日本で有数の水揚げを誇ります。
 カッコ
海岸近くで漁をするための木製の和船で、「ムダマハギ」とも呼ばれます。2、3人乗りで櫓(ろ)や櫂(かい)を漕いだり、穂を張って風の力で進みました。

制作:木材を刳り抜いて「ムダマ(またはホッツ)」という尖底部を作り、それに補助材となる「ハラキ」「ミヨシ」(船首)、「トダテ」(船尾)「タナ」(側板)などを付けます。大きさは「ムダマ」(船底部)の長さが大体14~24尺(4.2~7.2m)幅が3尺5寸~4尺5寸(1.1m~1.4m)程になります。1艘の制作に2,3人で20日程かかるといわれます。

海に生きる
カッコ カッコ船 カッコ(構造船)
マンガ
昭和10~15年
1935~40頃使用
2台1組で使用されます。
船の前後に一台ずつ沈めて交互に引き、鉄製の爪で海底のソバモチ貝(ビノス貝)、ヒメ貝(サラ貝)、ホッキ貝(ウバ貝)などを獲ります。

明治時代に関東地方から八戸に導入されたといわれています。
近代の底引き網漁ですね。




 533八戸の四季

八戸の春
ウミネコが来た蕪島
八戸の春
八戸の夏
白浜海水浴場
八戸の夏
八戸の秋
食用菊の摘み取り
八戸の秋
八戸の冬
長根スケートリンク
八戸の秋
 534農具
きずるす
(籾摺り機)
 535八戸のくらし

干した食用菊も
菰編み機
 537

餅花・藁靴

餅花

弁慶
串魚を沢山刺すので
弁慶の立ち往生
なぞらえて

石臼
石臼の台は珍しい。
豆腐を作るときなど呉汁を集める役目をします。。

藁打ちと藁草履作り

麦餅・鍋
鍋を上から下げるのは中世の内耳土器以来1000年も続いてる
 
 
 540民具
 541農具
 田を耕す
冷害に悩まされながらも田で米を作りました。畑では寒さに強い稗、粟、麦、大豆、そば、大根などを作りました。
大きな田を持っている家は少なかったので、大抵の家は田と畑を耕していました。
またも米を売って、布や桶などの生活用具を買わなければならなかったので、農家でもあまりコメを食べることが出来ず、稗を多く食べていました。


千歯こき

草取り機
田植え型
他を耕す
鍬、マンガ
田を耕す

ころ
 543昭和の暮らし
昭和の暮らし 居間 台所
こんな台所は見たことないが、平成人が想像した昭和ですね。

下駄スケート
竹スキー
昭和の遊び

 545獲り入れと脱穀
刈り取られた稲は、ハセ架け又は三角ニオに積み、よく乾燥してから千歯こきで籾をとります。籾は唐箕を通してゴミを除き、挽臼にかけて玄米にします。挽臼は松ノ木で作られたキズルス(木摺臼)で二人で作業します。玄米を精白するには、足で踏む唐臼と水車を利用する方法とがあります。
このあと、仕上げとしてマンゴクドウシ(万石通し)にかけ、米と糠とにわけます。

万石通し・箕
獲り入れと脱穀 籾・玄米・白米




 ホタテ漁
ホタテ漁船 ホタテ

 547イカ釣り漁具
八戸は日本一のイカの水揚げを誇ります。イカ釣り漁業が盛んになったのは、明治時代からです。
ヤマデ・ハネゴを使って釣りました。やがて針を沢山つけるようになり、現在の巻き上げ式の機械になりました。

昔のイカ釣り竿
イカヅノ 疑似餌
イカ釣 浅場と深場のイカ釣り

浅場…
深場…天秤仕掛け
ヤマデ
深場用釣り仕掛け
テマギ(手巻き)

現在の自動イカ釣りロボットの原型
帳場・町場
 
 













 600八戸市 根城 復元施設

  ※根城(ねじょう)。決して「ねじろ」と呼んではいけません。バス運転手にひどく睨まれました。(笑)八戸人の誇りでしょう。




 南部氏とは
東北地方太平洋側北部の広範な地域を南部地方と言うが、これは、東北最北部の陸奥地方に対して南という意味ではない。
山梨県の甲斐源氏の一支族が甲斐国内の南地域の支配を任されたため、「南部氏」と名乗り、
元寇の乱がおこると(南北朝合一に際してとも言われる)、北畠氏に伴って東北地方に赴き、やがて太平洋側の支配を任されるようになった
その地域が南部とよばれるようになった。同様の傾向は、津軽氏などがある。

※つまり、この地域は、蝦夷の地だったから、国がなく、和名の地域名がなかっため、南部氏の国、津軽氏の国と言ったのが始まりでしょうか。
東北北部の太平洋側(青森県東部・岩手県など)を指す、南部地方と、津軽・弘前地方とは、かなり仲が悪く、青森駅付近の果物屋で八戸駅の果物の話をすると、「南部の果物なんて!!」と声を荒げてこき下ろした。あんなものは、、と口汚い。江戸時代終末期まで対立的で、最後に戦争をしたことも遺恨の理由かもしれません。青森では、青森りんごではなく、津軽・弘前のリンゴでした。

 601根城と南部氏
根城地図
復元施設→東構→博物館
(長い広場)
根城写真 復元施設図
納屋・主殿・工房・
野鍛冶場・板倉・奥御殿

同様の砦型山城は津軽半島でも出現する。
南部氏の支配地域
(一時期)
 
 
 610復元施設
 611城郭公園の入口掲示
   八戸市立博物館(ここも元の城郭域か)から東構(今は芝生広場)の入口に展示しているパネル。
根城南部氏出自 1334(建武の新政)
 後醍醐天皇鎌倉幕府打倒


奥州合戦(1189奥州藤原氏討伐)で陸奥国糠部を与えられた。

南部師行, 根城南部氏の武将
800年代までに東北中部まで侵攻した朝廷勢力後、東北地方には地元勢力や東日本などの武家勢力の群雄割拠する状態だった。

前九年の役・後三年の役などを通じて次第に平定されていき、その後南部氏が支配を始めた。
南部氏は各所に分家しながら支配を広めた

 根城の特徴
根城の特徴
平城
8つの郭
堀…空堀
本丸…中世城郭
根城郭配置図 城郭は8つの部分(郭)
周囲を堀と崖と河川で守られた要害の地であった。

中世城郭が随分大きく多数の居住者が居て、政権や行政の中心を担っていたことにイメージを一新された。


南部氏の支配地域
(最盛期)
復元施設案内
 
  613空堀
堀は、地面を深く掘り込み、敵の侵入を防ぐために作られたものです。この堀は本丸や中館の堀と並ぶ大きなV字形の空堀で、三番掘りと共に城の東側を守る重要な施設です。また、現在博物館のある東構地区から、発掘調査で屋敷跡が見つかっていますので、この地区も、根城の城内に含まれると考えられます。

遠く本丸入口を望む
望遠
東入口の空堀 空堀

 
 615本丸方向へ 入口→東善寺館→中館→空堀
東善寺館付近 中館へ 中館 堀跡
 
 616史跡根城の広場

 全体屋外模型
根城は西側に本丸、その北東側に中館・東善寺館、国道を挟んだ南東側に、岡前館(現住宅地)と沢里館があります。
東善寺館・岡前館の東側から沢里館にかけて三番堀が巡らされて、本丸の西側に西ノ沢、城郭北側に馬淵川があり、
各郭ごとに廻らされた堀と自然な地形をうまく利用した堅固な城跡となっています。史跡全体の面積は約8万㎡あります。
根城全景 史跡根城の広場
 全体屋外模型

 本丸跡全体模型
本丸跡は全体が柵で囲まれ、入口は中館と本丸の間の堀に渡した木橋から通じる東門(通常の入口)と北門及び西門があります。
本丸内には、中央に主殿が造られ、その南側に常御殿・奥御殿(平面表示)があります。

主殿北側には、北門から通じる中馬屋、下馬屋(平面表示)、西側に物見・番所、
常御殿の西側には工房、南側には野鍛冶場、・鍛冶工房、
奥御殿の南側に、板倉、
東門の南側には、納屋が三棟あります。

これらは全て復元建物で、それぞれの建物内では当時の様子を表現した展示を行っています。

根城は本丸や各郭の立地・縄張りなどがよく保存されている優れた史跡(文化財)であること、日本の城郭発達史上典型的な中世城郭として、
地域的特色を代表する城郭であることなどが認められ、「城の日」にちなみ平成18年4月6日に日本百名城に認定された。
本丸跡全体模型

 617
中館広場から本丸 本丸外観
 
 620本丸入口
本丸復元施設 東門 空堀
 630納屋
これらの建物は、地面を30cm程掘り窪めて土間にしています。出入り口が小さく窓がないので、内部は薄暗くなっていますが、中には米・味噌・梅漬けなどが入れられたと考えられます。納屋は、工房や鍛冶工房と異なり、全て本丸の端に寄せて建てられていました。

納屋
納屋内部 納屋内部 納屋 納屋
納屋内部
復元されていない建物群柱
 
 640主殿                         
 641本丸跡
本丸跡は、南部家の当主やその家族が住んでいた根城の中で最も重要な郭です。この郭を復元整備するため、昭和53年から11年間にわたって発掘調査が行われました。この結果、南部氏によって築かれた建物跡が約400棟発見され、復元整備は、このうちの安土桃山時代に相当する建物跡に基づいて行われています。当時の南部家の当主は第18代政栄(まさよし)か、第19代直栄(なおよし)であったと考えられています。

本丸跡 本丸跡

 主殿
この建物は、当主が特別な来客と会ったり、様々な儀式を行ったところです。儀式で使う道具や、南部家に伝わる重宝もここに納められ、大切に保管されていました。建物の中は、大きな部屋が規則正しく並んでいて、土間の台所のほかは板敷になっています。畳は特別な会見や儀式の時だけ出して使われていたようです。

主殿
 642
主殿入口と上馬屋 詰之間 茶の間

 もう一つの主殿
史跡根城の発掘は昭和53年から続けられ、本丸跡には発掘調査の成果をもとに、400年前の様子が蘇りました。主殿は根城の中心的な建物で、重要な儀式が行われました。
本丸跡に復元された主殿は曲り屋風の建物ですが、最後まで検討されたもう一つの復元案がこの模型です。いくつかの建物を廊下でつないでいるのが大きな特徴です。
もう一つの主殿
 643根城はよみがえ
根城は、南北朝時代から江戸時代初期までの三百年間、南部氏の居城でした。最盛期の南部氏は、青森県全域と秋田県、岩手県の一部に及ぶ広い領域を治めていました。領内の皮や街道に沿った要地には多くの城館が作られましたが、これらの中でも根城は最も重要な城でした。

八戸発祥の地と言われ、長く保存されてきた城跡に「当時の姿」をよみがえらせたいという機運の高まりとともに、本丸の発掘調査が開始されました。
調査が進むにつれて、記録に残れなかった建物跡や生活道具が次々と発見され、城内の様子を知るための手がかりになりました。
そして、本丸に積み重ねられた長い歴史を辿り、発掘資料を基にして、建物跡を復元するための検討が辛抱強く続けられました。

ここでは、このような経過をパネルで解説しておりますのでゆっくりご覧ください。

根城はよみがえる
根城跡周辺の城館跡
分布図
根城は平野を望む交通の要所にあって、水運も支配していました。

周辺には沢山の城館があった。沢山の豪族。
根城空撮 根城平面図

 建物復元までの過程
1根城跡 2発掘開始 3遺構の確認 4発掘調査 遺構の写真を撮る
柱跡の記録 柱跡
1柱抜き取り跡
2柱跡
3柱の建て替え
4柱間寸法
 644建物跡
柱跡から建物跡へ 多くの建物跡
 645建物配置の変遷
根城南部氏当主名
第1期 第4期
第5期
第10期 第14期 第17期(最後)
 646主殿変遷
 648主殿復元工事過程
 649主殿
広間 二之間
 
 
                          
 
 
 650広場・工房
 651広場
 653(武器)工房
この建物は竪穴式で、地面を長方形に掘り窪めて床としています。このような竪穴建物は、東北地方北部から北海道南部の城や館(たて)の中でよく見られます。建物の中では、職人たちが合戦や儀式に備え、鎧や弓などの修理をしていました。
鎧のつづり紐や部品をとり替えたり、弓などの漆がはげたところを塗り直す作業が慎重に行われていたことでしょう。

工房 工房
 655常御殿
この建物は、当主が寝起きし、領内を治めるための仕事をしていたところです。
重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、従臣の詰め所などがあったと考えられます。

常御殿
 657野鍛冶
ここは屋外の鍛冶場で、壊れた鉄鍋や銅銭などを溶かす作業をしたところです。鉄は混じり物を除いてから一旦棒状にし、銅は鋳型に流し込んで固めたあと、鍛冶工房で加工されました。強い風は、炉の熱をに逃がしてしまうので、板塀を回して防ぎました。

野鍛冶に関する出土品 1溶けた銅銭
2銅製品の材料
3鍔の鋳型
4鉄や銅を溶かす容器
5鉄かす
6フイゴの送風管
野鍛冶の様子 野鍛冶の再現は初めて遭遇しました。
大変貴重です。
野鍛冶場 板に覆われた箱ふいご
丸い鍛冶炉
 661鍛冶工房
この建物は竪穴式で、地面から90cm下にある鍛冶場では職人がよろいや刀の部品のほかに釘などを作っていました。
鍛冶場にはフイゴと炉があり、周囲には鍛冶道具や不用になった鉄、銅銭、炭などが置かれています。
金属は大切にされ、壊れた破片でも再利用されていました。鉄の製品は金槌で鍛え、銅は鋳型に長し込んで作られました。

鍛冶工房 鍛冶工房
鍛冶炉
農具などが置かれている
鍛冶炉 金床と金槌 鋳型と銅製品
溶融銅をすくうバケツがない
木炭
 663板蔵
この建物は、当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類を入れていたところです。品物を守るために厚さ6cmの厚板を買って丈夫に作られています。
また、板は柱の溝に上から落ち込むようになっていて、簡単には外すことが出来ません。
ここに出入りするのは、奥御殿に使える女性たちで、品物の出し入れや手入れを慎重に行っていました。
板倉
灯台・狭箱
とうだい(燭台)
はさみばこ

侍従者が担いで運ぶ
唐櫃からびつ
衣類・経典などの収納箱
割籠わりこ
分けて盛り付けるお重わりこそば
行器ほかい
アイヌ村で多く展示。製作地がここ青森県だったとは。密接な交易。
食物入れ
円座えんざ
元は藁蓋たわらの蓋を敷物にしたもの。
敷物に特化して作られた敷物
屏風箱室内の仕切りを入れる
長持
衣類・寝具等入れて運んだ。後に棺桶として使用した
折敷・石臼・瓶子
おしき・いしうす・へいし
              
 670奥御殿
首長家族の住居

奥御殿
南部氏支配地図
最盛期
根城復元予想図 根城城郭配置図 根城全景

 
 
 690八戸駅(新幹線の駅。旧八戸駅は、本八戸駅となっている。)
南部のリンゴ
美味しかったよ
弘前リンゴは食べてない