お詫び 岡谷美術考古博物館の展示は大変すばらしいと思います。しかし、館内のパネルと展示物をいくら眺めても、 岡谷市周辺の先史・古代の様子が全く見えてきません。も少し詳しい説明がないと、せっかくの展示紹介が、ただ、眺めるだけに終わります。 そこで、これを補うために、岡谷市立美術考古館のHPから、解説文を拝借しました。これによって初めて、館の展示の意図が理解できました。 どうかこの点、ご容赦お願い申し上げます。 ご容赦いただけない場合には、直ちにページを削除します。 (._.) (-.-) <m(__)m> m(__)m ※写真編集中に分かったのですが、この館には「レシーバー」があり、解説が聞けるため、それで、説明パネルが少なかったようです。 急いでいたので、拝聴できませんでした。見学された時には、是非、借用してください。 |
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資料 岡谷市と諏訪地方 引用諏訪地域 岡谷市は、 長野県南信地方の、岡谷市、諏訪市を中信とした、諏訪地域の中心地である。県を10地域に分けるときの旧諏訪郡にあたる。 諏訪地方は、岡谷市、下諏訪町、諏訪市、茅野市、原村、富士見町がある。 そして、縄文遺跡の集中するこの地域には、 岡谷市 (市立岡谷美術考古館) 下諏訪町 (下諏訪町立諏訪湖博物館写禁) 諏訪市 (諏訪市博物館写禁) 茅野市 (神長官守矢史料館、尖石縄文考古館、八ヶ岳総合博物館) 原村 (原村歴史民俗資料館 八ヶ岳美術館写禁) 富士見町 (井戸尻考古館) がある。 岡谷市美術考古館は、諏訪地方西端の博物館であり、諏訪湖周辺で唯一撮影可とされた貴重な資料が並ぶ展示館です。 岡谷の西には、唐草文、焼町式があり、東・南は勝坂式、北には、黒曜石産地と結びついた文化をもつ遺跡が広がっていました。 しかし、岡谷はこれらの影響下にありながら、独自な形式の土器群もありました。 |
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01旅程・外観 駒ヶ根駅から岡谷まで、飯田線(辰野マデ)・中央東線を乗り継いで行く。
「考古が大切にされていた」と思うわけは、駒ケ根市の考古館閉鎖。貴重な資料の他市への譲渡。考古資料が破壊に任される状態が影響した。 |
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※この館では、以下の慣用的時代区分を使用している。 草創期(1万3千-1万年前)・早期(1万-約6千年前)・前期(6千年-5千年前)・中期(5千年-4千年前)・後期(4千-3千年前)・晩期(3千-2.3千年前) |
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03顔面把手付深鉢形土器 入口展示 海戸遺跡 縄文時代中期 海戸遺跡は諏訪湖に向かって突出する岬状の台地先端部に立地している。 縄文時代から、天竜川に沿って人々が行き交う重要な場所でした。 遺跡から、縄文時代の竪穴住居址19棟、古墳時代以降の住居址17棟、 顔面把手付深鉢形土器、その他縄文土器、石器など多数出土しました。 顔面把手付深鉢形土器 縄文中期中葉 (5000~4000年前 ) 海戸遺跡 国重要文化財 女性が新しい生命を生み出す力を持つことから、豊穣の女神像を表し、豊かな食料を得たいと願う縄文人の心を伺うことができます。 しかし、この顔面把手付土器は、人面が外向きについているのです。 顔面把手が外向きに表現されている例は珍しく、土器の形の美しさも際立ち、国重要文化財に指定されています。 反対側の縁には蛇 (マムシ) の装飾があります。出土例が少ないことから、マツリの時に煮炊きに使われたと考えられています。 顔面把手付深鉢形土器 本遺品、強く内湾する口縁部と瓢単形に括れた屈折底をもつ胴部からなる。口縁部の一端を大きく占める顔面把手は外向きに作られ、 丸くあけられた口、切れ長につり上がった目、やや上向きの小さな鼻、肉彫り風の眉などで顔面を造形している。 顔面周辺には円形三孔を穿ち、沈線・V字形の切り込み等の装飾によって結髪状態を表現している。 口縁の他の一端には蛇を抽象化したと考えられるような装飾がある。 屈折底を除く胴部は縄文によって充填され、顔面把手および他の一端の抽象化した装飾から垂下する三条の隆帯が胴部中央まで認められる。 転載文化財オンライン 顔面把手付深鉢形土器
私見 逆向き 顔面把手の制作 通常、顔面把手付土器などの装飾付土器の製作では、土器本体と装飾は、分けて作ります。従ってこの土器も、 ①蒸し器の機能を持った独特な器形の深鉢と、 (※蒸し器はひさご形土器。23で出ている。カゴを真似た土器) ②顔面把手と、③とぐろを巻くマムシ、の飾り物の3っつは別々に製作し、乾燥の頃合いを見てドベで張り合わせます。 しかし、なぜ、周囲にいくつもある、(同様の、彼らにとって見慣れた)、顔面把手土器とは逆向きに顔を付けたのでしょうか。 その理由を考えてみました。 ❶間違えた。しかし装飾部は別誂えですから、すぐに外して付け直せます。 ❷もう一方の端の、とぐろを巻くマムシとのバランスをとるため、人面背後のデザインを内向きにした。頭部背面がドクロの顔で釣り合ったから。 ❸意図を持ってこのデザインにした。人面頭部の背後は通常巻き毛の髪型であるのに、この人面頭部ではドクロ面であり、 その対極には死の象徴、猛毒のマムシの、今にも跳び掛らんばかりの、異様なトグロの巻き方をした、怖ろしい姿がある。対した者は死ぬ。 この器のデザインは、生と死に関係する儀式に関わっているのではないだろうか。 実際、儀式用ランプ (釣手土器) の背面にも、死神のような髑髏(しゃれこうべ)を思わせる図柄をよく見かける。 生と死が、今よりも極端に身近だった、危うい生命の縄文時代には、よりリアルな二項対立の儀式があったのかもしれない。それは、↓
↓ヤノマミ族の番組を視聴した記憶 以前、NHK特集で、南米のヤノマミ族のムラに何か月も滞在して生活を撮ったドキュメント番組があった。 夜の何らかの祭祀の後、若い男女が多数、森の奥の湿地 (毒蛇だらけの場所) に行って交合をし、生まれた子供を精霊送り 、白アリに与える と言う場面があった。出産と精霊送りは、集団の女たちの多数が関与して行うのだ。 生と隣り合わせに死があり、穏やかな表情とは裏腹の、怖ろしい腐れ落ちた顔面の頭蓋骨があり、猛毒のマムシがいる。厳しい死神の姿だ。 他方でこの系統の深鉢には出産土器がある。夜の秘儀を表わす釣手型土器の裏も死の表情。 もう、何とも言えぬ恐ろしい縄文の呪術の世界が眼前に広がってくるような気がします。 つまり、穏やかな顔面把手付土器がある一方で、死の世界を怖ろしく表現した同種の土器がある。地獄・極楽絵図のような。 または、生と死と、出産と、 そんな宗教観に基づく祭祀具ではないのだろうか。と想像してしまう。 |
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10旧石器時代 獲物を追い求めた人々 ~旅人と黒曜石~ 人類はおよそ500万年前にアフリカで生まれ、現生人類の祖先は約20万年前のアフリカの女性だと考えられ、「イブ仮説」と言われています。 日本へはおよそ4万年前に人類がやってきていたと考えられます。 県内では、飯田市竹佐中原遺跡や野尻湖周辺に遺跡が発見されています。 人々はナウマンゾウやオオツノシカなどの大型獣を追って遊動生活をしていました。 石で作られた槍先やナイフなどの石器を使って狩りをしていました。 石器の材料は黒曜石が多く使われました。 和田峠や霧ヶ峰周辺に沢山の産出地があり、旧石器人が黒曜石を求めて諏訪の地にやってきていました。 1岡谷の黎明期── 先住民の到来 岡谷最古の人類の足跡は、槍先形尖頭器を手に、梨久保遺跡や榎垣外遺跡を訪れた小集団である。 旧石器終末期、1.5万~1.2万年程前といわれるが、この前後の様子はよくわかっていない。 その後、中島遺跡に、多量 の黒耀石製の槍先形石器とその製作石片(石屑)は、長期の滞留を物語り、 そして、日本ではもっとも古い土器(隆起線文土器)を、既に持っていた。 転載 先住民の到来 |
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11石器 |
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20縄文時代 縄文時代の幕開けと繁栄 今から15,000年前、最終氷期が終わろうとしていた頃、新しく土器や弓矢を使用するようになりました。縄文時代の始まりです。 その後、徐々に気候が温暖になると大型獣がいなくなり、代わって小型動物や木の実などを食料とするようになりました。 人々が集まってムラを創り、共同生活を始めました。 山河に食べ物が豊富になると、沢山のムラができ、梨久保遺跡のような黒曜石交易のムラもありました。 2縄文文化のあけぼの── 森と高原の文化 岡谷に人が定住するのは、弓矢と尖底土器を持った縄文人である。 樋沢遺跡(岡谷樋沢)を標式とする押型文土器は、汎日本的な流行を見せた最初の縄文土器で、 縄文文化が列島に定着し安定した社会を確立した時期といわれる今から8000年前、 樋沢をはじめ、下り林(岡谷小学校上)、梨平(湊西山)といった高原上地形に生活の主舞台をおいた狩猟・採集経済社会の時代である。 転変地変の大変動期を過ぎ、気候も安定化にむかって、ほぼ現在と変わらぬ 地理的景観となったころである。 転載「縄文文化のあけぼの」 |
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21押型文土器 |
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23縄文時代の土器 食べ物を調理するお鍋の登場 縄文時代には、調理に土器を使うようになりました。煮炊きすることで料理のレパートリーが広がり、、食生活が豊かになりました。 このため、食料を求めて移動する必要がなくなり、、一か所にとどまって暮らす「定住生活」が始まりました。 土器に付けられている文様には時期ごとに特徴があります。 縄などの道具で表面に文様を描いたり、飾りをつけたりしています。 中期には最も華やかな土器がたくさん作られました。中には色を塗って文様を描いた彩文土器もありました。(彩色土器) |
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資料 3 縄文文化の繁栄─── 縄文王国 縄文時代の前期、やや気候が温暖化すると関東地方を中心に漁労活動が発達するが、その頃は岡谷にあまりムラの営みが見られなくなってしまう。 しかし、今から5~6000年前、また僅かに寒冷化すると、再び縄文人の格好の居住地となり、沢山のムラが出現し、八ケ岳山麓を中心に、中部山岳地 は、「縄文王国」といわれるほどに繁栄をみた。岡谷では梨久保、海戸(小尾口)、上向(今井)、花上寺(小坂)に大規模なムラが形成された。 この繁栄は、豊かな広葉樹林帯を背景に、狩猟・漁労と植物質食料の採集が計画的に行なえたことと、地理的に東西文化の狭間に位置して 文化的刺激を受けていたことや、豊富な和田峠の黒耀石が経済的な優位性を救けたに違いないと考えられている。 それは、豪華に飾られた縄文土器や顔面 把手付土器の優品が豊かな社会を物語っているといえよう。 顔面把手という人の顔を表した口縁の突起状の飾りは、中部山岳地の特に諏訪・上伊那を中心に、山梨から静岡・神奈川の関東地方の 山間地遺跡に分布する限られた土器に見られ、当時この地域に一大文化圏の形成されていたことが知られている。 転載 縄文文化の繁栄 顔面把手飾りは、諏訪・上伊那を中心に、山梨から静岡・神奈川の関東地方の山間地遺跡に分布する、一大文化圏があったと言っている。 |
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資料 転載コトバンク梨久保遺跡 梨久保遺跡 岡谷市長地梨久保にある集落跡。諏訪盆地の北辺に位置する、縄文時代前期~後期の集落跡である。標高830~860mの扇状地上の遺跡。 中央高地の縄文時代中期初頭を代表する「梨久保式土器」の標式遺跡である。 ①梨久保式土器は、前期以来の伝統的な竹管文やへら描き幾何学文様で、籠を連想させる形をしている。小さな把手を特色とする土器である。 遺跡の範囲は扇状地の谷口部から扇央部一帯に広がる東西150m、南北250mで、この間にほぼ等高線に沿って上・中・下3群の住居群があり、 住居群の間に②甕被(かめかぶ)り土坑墓を含む小堅穴群がある。 調査で確認された竪穴住居は、縄文前期7、中期58、後期8、不明21の計94棟で、中期のものが圧倒的に多く、 ③後期初頭の敷石住居4棟も含まれる。 中期集落の遺物に、梨久保式土器など中期初頭のものを含むことから、中央高地の特色ある縄文中期文化の成立と展開を知る上で重要である。 1984年(昭和59)に国史跡に指定。 土坑墓に④特色のある石匙を副葬したものや、越後産の翡翠や東北産琥珀製の垂飾を副葬した6基が発見 されていることは、遺跡の地理的・文化的な立地をよく示している。 ※遠隔地の威信材が出土しているのは、前述にあった、黒曜石を求める人々との交易で、手に入れたものと思います。 |
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25梨久保式土器 梨久保遺跡出土の、中期初頭(約5500年前)の土器群は、梨久保式土器として型式設定されました。 主な文様は、パイプ状の棒を半分に割った半截竹管文や、縄に一度結び目をした結節縄文がつけられました。 (結節縄文 市原市) 土器の形もスマートなものが多くみられます。 ※ここでは、中期の年代を5,500~4,500年前の、校正年代を使用している。 |
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27広畑遺跡 縄文中期 広畑遺跡は高尾山麓から続く尾根上にあります。縄文中期の住居址と土器や石器が出土しました。 広畑遺跡では、土堀具の打製石斧が沢山出土し、農耕が行われたのではないかと言われています。 また、高さ7cmの小さな土偶や、石で組まれた祭壇の発見もあり、縄文時代の社会を解明するうえで重要な遺跡です。 広畑遺跡 広畑遺跡 - YouTube 高尾山麓一帯は、縄文中期の一大遺跡である。付近の白山権現の境内より湧出する豊富な水、背後の山や下方を流れる天竜川は、 狩猟や漁労に適し、また、日当たりの良い南向きの緩やかな傾斜地であることなど、縄文人の生活舞台として最適の場所であった。 昭和26年(1951)の川岸村誌編纂事業の一環として行われた調査の時には、直径5m程の竪穴住居跡一か所が発見された。 この住居内には、方形の石囲炉跡と埋甕一個が館存し、四個の完全な土器 (縄文中期)、打製石斧・石鏃などが発見された。 昭和48(1973)年の遺跡範囲確認では、14棟の住居跡が発見され、多数の遺物と住居跡を包蔵する大集落遺跡であることが分かった。 中期中葉の土器 |
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28梨久保B式土器 中期中葉末~後期初頭 |
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29梨久保B式土器 昭和44年の調査で発見された3・4号住居址出土土器は、独特の文様と形を持つものがありました。これらは「梨久保B式」としました。 梨久保B式は中期中葉から後葉へと変わる時期の土器です。 豪華な装飾と優美な形が特徴です。 |
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30有孔鍔付土器 花上寺遺跡11号住居 土器の口縁部に小孔が穿たれ、小孔下に鍔状の隆帯が一周している。一般に、精選された極めて精密な胎土を用い、内外面ともに丁寧に 磨き上げ、赤褐色の顔料を塗布することが多い。 器形・文様も得意で、一般の土器とは際立った相違を示す。 最古例は、縄文時代 前期前半の 諸磯a~b式期に見出せるが、盛行するのは中期中葉で、曽利式末期、すなわち中期の終焉と共に姿を消す。 分布は中部山岳地域を中心に東北地方南部に広がる。 土器の用途は、太鼓説、煮沸具説、種子保存具説、醸造具説など多くの説が提示されている。 器形・内外面の調整方法、土器内部の残存物、醸造実験結果などから、醸造具説が有力となりつつある。 花上寺遺跡からは、7点発見されていて、1点を除き住居跡覆土内からの出土である。中でも本品は、第11号住居跡の埋甕であった点に、 より特異な状況が見て取れる。土器の帰属は縄文時代中期中葉Ⅵ期とされていて、中期末葉の消長を辿ることのできるこの土器は、 中期文化の高揚から生み出された土器ということもいえ、中期文化解明の鍵を握った土器といえる。
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31土偶 縄文の祈り 縄文時代の人々は、災害や病気に遇わないよう、また、食べ物が沢山とれるように、お祈りやマツリをしていたと考えられます。 この時に使われていたのが、土偶や顔面把手付土器、石棒などです。 土偶は女性を表し、女性が子供を産むことから生産・再生の象徴と考えられます。 石棒は男性の象徴で、生を与え活力の源と考えられていました。 また、土器にはマムシや顔面把手が文様として付けられました。 マツリはムラの人々の結束力を高め、力をあわせていくために行われていたと考えられています。
資料 目切遺跡 岡谷市長地 縄文中期 引用wiki 長野県岡谷市長地 縄文早期~晩期 最盛期は中期約4500年前 112軒の住居跡が出土し、内79軒が縄文中期。豪華な文様で飾られた土器や石器類が沢山出土した。 マメ科植物の出土 約4500~4000年前の縄文中期の層から、アズキやツルマメの仲間などマメ類の炭化した種子68点が発掘された。 長径約3~7mmのマメが多数確認された。これらが栽培種かどうかは不明である。 (※非校正年代、中期5,000~4,000年前を使用している。) 壺を持つ妊婦土偶 目切遺跡 住居跡から5片に割れた状態で発見されました。反り返って少し上を見ています。右手は豊かに膨らんでお腹に添えられ、 左手は壺を抱えています。お尻は「出尻形」で、二個の球形の粘土の塊を基として、その上に各パーツを積み上げて作られました。 壺を持つ妊婦土偶 妊娠したお腹の大きな女性をあらわし、食物の豊穣と安産を祈願したものとされています。 壷を抱えて腰に手をあてたポーズの完全な姿は、国内ではただ一点という貴重な土偶です。
顔面把手と土偶
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32土偶 |
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33石製祭祀具 |
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縄文時代中期後半~後期 34遺跡の減少と甕被り葬 中期後半から寒冷化が進み、後期にはドングリ等の食べ物が少なくなったと考えられています。 (※ドングリが実を付けぬほどの寒冷は凄い) 市内の遺跡は大きく数を減らし、後期後半から晩期にかけての遺跡はわずかしかありません。(※どこかへ食糧探しの旅へ出た。) 寒冷期のこの時期には、関東から中部地方にかけて同じ特徴の土器が使用された。岡谷の土器は東京湾周辺の土器と同じ特徴を持つ。※1 縄文時代のお墓は土葬で、穴の中に死者を葬りました。後期には死者の頭を覆うように土器を被せる風習が見られます。※2 これを「甕被り葬」と言います。甕を被せるのは死者の魂を閉じ込めるためだと考えられています。 このような埋葬方法は、梨久保遺跡や花上寺遺跡で発見されています。 ※1関東から中部地方へ、同一文化の集団が移動し文化圏を広げた。集団移住で、先住民との食料や狩場を巡っての戦いはあったのだろうか。 否!食料が無くなった中部高地へ移住する関東人はいない。中部から関東へ行って食料を得て、関東土器に入れて持ち帰ったのか。 ※2甕被り葬 北海道網走モヨロ貝塚の被甕墓と同じか、よく似ている。 モヨロの場合、初期は屈葬、のちに伸展葬で甕をかぶせる。縄文晩期以降。(続縄文時代=本州では弥生時代) 岡谷市の場合、写真からは膝を曲げた屈葬。縄文後期。 後期土器 |
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35縄文時代の道具 食材を煮炊きする鍋が「土器」ならば、食材を獲り、加工するのは「石器」でした。 骨角器や木器があったと思われますが、残っていません。 石器には凡そ30の種類があります。これらは、時代ごとに使われる石器の割合が変化し、その様子から各時代の特徴を読み取ることができます。 狩猟具・・・・・・石鏃、尖頭器、石匙 漁労具・・・・・・石錘、釣り針型石器、石鏃 土堀り具・・・・・惰性石斧、大型粗製石匙 切る、削る・・・・石匙、剥片石器 穴あけ・・・・・・・石錐 製粉具・・・・・・・石皿、磨石、磨石塁 伐採加工・・・・・間瀬遺跡府 石器製作・・・・・砥石、敲打器 装身具・・・・・・・玦状耳飾、垂飾 祭祀具・・・・・・・石棒、石釧、岩偶 皮なめし具・・・・石摺り石 ※トロトロ石器は、日本中で出土している。 種子島東前平遺跡(トロトロ石器)H26年 - YouTube わからないモノの考古学 | 福岡市博物館 常盤の遺跡– 長野県埋蔵文化財センター トロトロ石器 オパ9のようなユーモラスな形。霧島市 パンフレット - 東京国立博物館 山の神遺跡-国営アルプスあづみの公園 2歳の女の子が発見した 縄文時代早期後半(約8000年前)のトロトロ石器 ...御前崎市 信州発考古学最前線vol.1~13には、名古屋で磨滅していることをトロいといったのでこの名が出来た。としている。
記憶 今は消えた諏訪湖の伝統漁 諏訪湖から天竜川が流れ出るあたりの縄文集落ですが、この辺りには、かつて。伝統漁がありました。石グロ漁です。 60年程前に放映されたNHK新日本紀行の番組の記憶ですが、湖の沿岸に石を沢山積み上げ、そ周囲に柱を建て、屋根掛けし、 魚の習性を利用した、日陰や隠れ場所を提供してやります。 一般の河川で行われるような小さな石積みではなく、縦横高さとも、軽トラ一台分ほどもある巨大なものです。 そうして、(たぶん冬場になってからだと思う)、周囲を網で取り囲み、石を中の方から取り除くと、いけす(プール)のようになって魚がすくえる。 外に出た魚は網にかかる。冬場で魚の動きは鈍い。 記憶では、大きなコイなども何匹も取れていたように覚えています。冬場の川魚は、脂がのっていておいしいですからね。 更に、干物にするにしても、この辺りは寒風が強いことで有名で、それにハエなどがいないため、時期的に良いのでしょう。 まぁ、わたしの記憶は冬漁でしたが、季節毎にもやっていたのかもしれません。 番組では、手漕ぎ船を使っていましたが、いまも湖で漁をしている人があるのかな、漁業組合はワカサギ釣りの鑑札を売っているようです。 それにしても、諏訪湖では、舟の出土物を見ないですね。沈下し続けるため、沈んだものは発掘されないですよね。
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※志平遺跡 (志平川両岸中央道下から天竜川まで) 発掘調査で出土した縄文土器や平安時代の墨書土器を展示しました。 調査区1200㎡から、縄文~平安の住居址14棟、3万点以上の石器・土製品・土器片・鉄製品が出土しています。 |
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50弥生時代 4弥生時代稲作農耕の定着 (岡谷の弥生時代) 紀元前300年頃、北九州に始まった稲作農耕は、次第に東日本に伝わり、 200年後 (弥生時代中期中葉)には諏訪地方にもイネは確実に入ってきたと考えられている。 狩猟・漁労・採集の生活が限界にあった縄文人は、新しいイネの栽培を始めて、諏訪湖釜口から天竜川周辺にムラを構成していった。 特に弥生時代後期 (紀元後100年頃) になって、鉄製工具が普及するや、山国信濃にも大規模なムラが各地に発達した。 諏訪地方では、岡谷では、庄ノ畑(小口)、橋原・経塚(橋原)に初期の弥生時代のムラが出現して、 さらに海戸、天王垣外(新屋敷)、横道(岡谷)に大きなムラとなって発展した。 この頃の生活の様子は橋原遺跡の調査で明らかになっている。それによると、 弥生時代後期のはじめから古代にわたりムラが営まれ、米はもちろんアワといった雑穀類や豆も栽培され、鉄器が盛んに使われていた。 ムラには集会所のような大型建物もあり、巫か首長の住居と思われる特殊な住居も発見され、最盛期は15~20棟以上のムラに発展したようである。 これにより、岡谷における稲作を中心とした農耕社会は、 今からおよそ1800年前頃 (弥生時代後期中葉、紀元200年頃)には、完全に岡谷にも定着していたことがわかった。 諏訪湖の釜口から川岸の一帯には、弥生時代の遺跡が集中しており、諏訪地方でも最も早い時期に、農耕のムラが発達した地域である。 天王垣外遺跡から発見された300点の玉類(翡翠製勾玉、鉄石英製管玉等)に見られるように、 ここにはムラを統括した王者が存在したことは確実であり、初期の諏訪の国の誕生と見ることもできよう。 弥生時代は「戦いの時代」といわれる。倭国大乱を経て、日本のクニが誕生しようとしていた頃である。 転載弥生時代稲作農耕の定着 |
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51コメ作りの伝播 ~天竜川をさかのぼる稲作~ 8,000年程前に大陸で始まった稲作は、朝鮮半島を経由して、2500~3000年前に北部九州へ伝えられました。 その後、近畿から東海地方に伝わり、やがて、天竜川を遡り、諏訪に入ります。 岡谷市内では、庄の畑遺跡が弥生時代の始まりを告げる遺跡となりました。稲作は多くの土地と労働力が必要となりました。 指導者の元にみんなが共同で作業をし、やがて階級社会が成立しました。 橋原遺跡 大王の出現と橋原のクニ 弥生時代になるとやがてムラを束ねる首長現れます。コメをたくさん作るためにはより多くの土地が必要となります。 土地を奪うものや防御するムラがあらわれ、争いとなり、やがて村は統合されてクニが生まれました。 中期の天王垣外遺跡からは首飾りに使われた385個の玉類が発見され、この一帯を治めていた大王がいたことを示しています。 後期には、天竜川沿いにムラが増加します。橋原遺跡は、沢山の住居址が発見され、諏訪地方最大の遺跡です。 多くの住居址からコメが発見され、特に59号住居址からは約46.8ℓの炭化米が出土し、稲作が伝わっていたことがわかりました。 集落の大きさから橋原遺跡を中心に「橋原のクニ」があったと考えられています。
考察 水田稲作技術の伝播 「8000年前に始まった稲作が、長江河口から半島に来て、3000年前に列島にやってきた」とある。 4000年前
すでに4000年前から大陸では稲作が行われていた。つまり、その頃までに稲の品質が向上し、選別が進み、雑草の域を脱していたようです。 3500~3000年前、朝鮮半島に伝播。 3千年前には、九州西部から南西諸島で半島人商人の活動が活発となる。(貝交易) 3000~2500年前、列島に稲作上陸。 |
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考察 諏訪地方の弥生時代は、弥生中期から始まります。 それまでは、縄文晩期でした。 北部九州に大挙してやってきた半島人は、僅か200年で、西日本にいっぱいになり、寒冷地の中部高地まで侵攻してきました。 従って、長野県中野市の、栗林式土器は、弥生中期後半の、縄文人が弥生土器を模倣する中で、独自に作り出した、縄文的弥生土器でしょう。 参照 栗林式土器編年の 再構築と分布論的研究 - 国立歴史民俗 ... |
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53弥生中期土器
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54石器・赤彩土器
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弥生後期土器 55橋原遺跡
考察 ※小粒と大粒の米が存在したことは、米粒の個体のバラつきがまだ大きかったことを意味しています。 本来のイネ科植物は、一つの穂に付く実の数は大変少なく、しかも、実を付ける時期はバラバラで、別々に熟して勝手に落ちてしまいます。 食用とするには大変困難な雑草でした。 それを4000年かかって栽培品種化し、実を大きくし、一つの穂に実が付いたまま収穫できる所まで進みました。 しかし、刈り取った穂の中には、成熟米と未成熟米が含まれており、従って粒の大小ができたようです。 |
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56弥生式土器と道具 弥生時代の土器は、煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食器の坏や浅鉢がありました。 「魏志倭人伝」にも、高坏に盛った食物を手づかみで食べていたと書かれています。 文様や把手などの飾りはなくなります。また、全体を真っ赤に塗った土器もありました。 弥生時代の遺跡からは、稲作に使われた沢山の木製農具が発見されました。 また、石で作られた道具には、鍬の打製石斧、穂摘具の石包丁などあり、狩猟に使われた石鏃もありました。 やがて、鉄器が普及してくると生産力が飛躍的に向上していきます。 橋原遺跡59号住土器 |
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70古墳時代 5 古墳時代の諏訪 弥生時代の終わり頃から物資の交流が盛んになり、それは畿内産の土器が全国規模で動いていたことに示されるように、畿内地方を中枢に確実に新しい動きが信濃にも波及した。その最大の変化は一様に新しい墓(古墳)が造られるようになったことである。 前方後円墳と呼ばれる巨大な墓を各地の有力な豪族が造るようになった背景は、畿内の大きな勢力が強力な軍事力をもって東日本を支配下に治めたからであった。前方後円墳は畿内勢力圏、すなわち大和朝廷に服したしるしか、あるいは派遣されてきた将軍の残したものということであろう。 諏訪地方では唯一、下諏訪町の青塚古墳が前方後円墳の姿を明確に残す。岡谷のスクモ塚古墳(東堀)も平地に築かれた前方後円墳である可能性があるといわれている。 岡谷で最も古い古墳は、現在のところ、湊小坂の糠塚古墳(6世紀前半期)である。諏訪地方で最も古い古墳であるフネ古墳(諏訪市有賀)に近い。 湖北地区にはこのような古い古墳は造られなかった。 岡谷にある沢山の古墳は、そのほとんどが、日本の国家としての体制が確立した7~8世紀初頭に造られたものである。今井・横川・中屋・中村の山の手山麓に築造された横穴石室の小円墳には、たくさんの武器(直刀、鉄鏃)と馬具で飾られた有力者が葬られた。 4~6世紀のムラは、新井南(小坂)、海戸遺跡にわずかに知られているだけで、あまりわかっていない。 転載5古墳時代の諏訪 私見 ※過酷な墓造りの夫役に使役された農民は、俸給もなく只働きだったでしょう。しかし、一方で、弥生時代に伝わった灌漑などの土木工事技術が 測量などの新たな技術を加えて、全国に普及したした点では画期的であったと思う。四則計算を始めとする学問的知識がひろく用いられたはず。 御存じのように、前方後円墳は、完成した設計図をもとに、被葬者の階級により、原図を拡大・縮小などして作られた。 小学校5年生程度の算数力だが、しかし、それに伴う建築資材の調達などには、かなりな計算が必要だったと思われる。 |
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71コウモリ塚古墳の馬具 古墳時代末期築造 |
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74古墳と土器 大規模な墳丘を持つ古墳は、その地域の有力者の墓でした。 日本最大の大仙陵古墳は全長486mもあり、古墳の大きさは被葬者の大きさでもありました。 3~5世紀の古墳は竪穴式石室でしたが、6世紀には横穴式石室が主流となります。同時に小規模な沢山の古墳が作られました。 古墳は7世紀の薄葬令によって造られなくなりました。 古墳時代の土器は文様がなくなり、全国的に同じものが使われるようになりました。また、新しい「須恵器」が作られるようになりました。 小坂糠塚古墳 諏訪湖の西側、岡谷市湊に位置し、市内で最も古い6世紀前半の古墳である。近くに、諏訪湖地方最古のフネ古墳(5世紀前半)がある。 湊地区は諏訪神社上社の荘園があり、近世には有力な一族小坂氏の本拠地であったことなど、政治的に重要な地域であったと考えられる。 |
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75ヤマト王権と古代氏族 奈良盆地南東部に各地の有力首長が集まり、ヤマトを中心とした連合体、大和王権が発生しました。 連合の証として各地に前方後円墳が造られたといわれています。 県内では、善光寺平周辺に造られ、ここにシナノの大王がいたと考えられています。 岡谷市内には前方後円墳はなく、湊地区に小坂糠塚古墳が5世紀末~6世紀初めに、 長地地区にスクモ塚古墳が6世紀後半に造られたと考えられます。
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80古代 6 奈良・平安時代、諏訪郡と榎垣外官衙跡 「大化の改新」、大化元年(645)の政変は、律令国家の建設を目指して、新しい制度である公地公民の制や地方行政組織の整備などをすすめた。 大化末年の国の制度の実施に伴って科野の国が成立、中央から国司が派遣され、下に郡司が置かれて統治されたはずだが資料がなく詳細不明。 大宝元年(701)、大宝律令が制定され、一切の行政は大宝令に定められた諸制度によって行なうことと勅令が発っせられ律令国家が確立した。 藤原宮(奈良県橿原氏)、文武天皇の時代であった。 当然、それは地方にも及び、新しい国家体制の中に組み込まれ、信濃の国に諏訪郡もおかれたであろうがはっきりしない。 奈良時代の養老5年(721)、信濃国を割いて諏訪国が設置され、10年後の天平3年(731)には諏訪国を廃して信濃国に合併された(続日本記)。 たとえわずか10年でも諏訪の国がおかれたことについては、これまでさまざまな学説が出され、また諏訪の特異性とも言われているところである。 近年の調査により、榎垣外遺跡(中屋スクモ塚地籍)から、古代官衙(役所)跡と見られる掘立柱建物跡が発見され、 郡衙(郡の役所)である可能性が指摘されている(成立後間もない小国では郡衙がそのまま国衙になったとされる)。 古代国衙は、政務や儀式を司る庁(政庁)や徴収した稲(税)などを収納する正倉、国司など役人が生活する館といった諸施設から構成された、 言わば計画的に造られた都城にちかいものであった。 榎垣外遺跡は2km四方に及ぶ広い範囲から、7~11世紀頃の竪穴住居や掘立柱建物跡が発見され、 特にスクモ塚地籍では、1×10間(柱が11本2列に並ぶ建物)の長い建物や、2×3間の高床式住居、2×2間、3×3間の高床式倉庫などが規則的に 配置されていた。これは、県内では唯一の建物群である。 郡衙は国衙に準じて造営されたと考えられており、郡司などの役人が主に税の徴収に当たっていた中央政権の最先端機関であった。 律令体制の確立後、これまでの古い勢力(国造など地方の有力豪族)を退けて、都から派遣されてきた国司が政務を遂行するには、 古い豪族の力が比較的弱かった湖北の地に、新しい官衙を設ける必要があったのであろう。 諏訪の神(下社)と金刺氏の存在がその辺の事情を物語っているようである。 転載 6奈良・平安時代諏訪郡と榎垣外官衙跡 |
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87奈良・平安時代 律令制度と諏訪の都 法律によって国を運営していこうとする新しい制度を「律令制」と言います。律は「してはならない」こと、令は「義務」です。 公地公民制、班田収授法、租庸調の税制が定められ、国郡制が整いました。 岡谷市は、信濃国諏方郡土武郷の一部でした。 各地に国衙と郡家(ぐうけ)という役所が設置され、諏訪郡の郡家は長地地区の榎垣外遺跡にあったと考えられています。 郡家の主な仕事は税の徴収と様々な儀式を行うことでした。 岡谷市は諏方郡内から人や物資が集まるにぎやかな「諏訪の都」でした。 |
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88机の前に座る役人 郡家の役人には、その地域の有力氏族がなりました。諏訪郡では金刺氏一族から選ばれたと思われます。 郡家には、儀式を行う正殿、事務を行う曹司、税を納める正倉、食事を作る厨家、宿泊施設の館など、多くの建物がありました。 郡家には郡司と呼ばれた上級役人や下級役人など100人ほどが務めていたと考えられます。 役人は日の出から正午まで仕事をしていました。書類をつくる役人の持ち物は、文房四宝と呼ばれた、紙・筆・墨・硯でした。 紙は高級品で普段は木の板(木簡)に文字を書いていました。庶民の大半は文字を書くことができませんでした。 |
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89花上寺遺跡 土器の移り変わり |
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平安時代の官牧 7 平安時代岡屋牧と岡屋郷 大宝令で牧を定めて牛馬を放つことが発せられたが、恐らくこれ以前から信濃には朝廷直属の牧がおかれていたことであろう。信濃に16牧があり、諏訪郡には「岡屋牧、塩原牧、山鹿牧」がしられている(延喜式)。そのなかで岡屋牧は、古来より、現在の岡谷から三沢・新倉の川岸方面 一帯が該当するとされてきた。 牧には牧長、牧帳、牧子がおかれ、管理は国司のもとで、後には牧監がおこなった。牧監には職田が給され、牧の経営の生活基盤として多数の民が農耕生活をしていた。当然ながら牧場とは別 に、ムラや役所があったわけであるが、それがどこかはっきりしない。 8世紀以降ののムラは、前代に引き続いて海戸や榎垣外を中心に営まれた。あるいは中央道長野線に伴う大久保遺跡(岡谷トンネル付近)の火葬墓から出土した八稜鏡は、牧に関連した貴人の存在を語っているのかもしれない。 信濃の国牧からは、毎年朝廷に貢馬が納められた。これが有名な「駒牽の行事」であった。望月駒を主に、これは鎌倉時代まで続いたが、岡屋牧がその後どのような変遷をたどったか明らかではない。鎌倉時代になると、岡仁屋郷、岡屋郷の名はあっても岡屋牧の名は見えなくなってしまう。平安時代末頃には荘園化してしまったものと考えられている。 転載7平安時代岡屋牧と岡屋郷 信州は、北も南も全て、官牧が設けられ、馬の生産地だった。 これは、適地か、それしかなかったか、それとも、馬の生産に長じた人々が、弥生時代から渡来していたか、でしょう。 どうも、やはり私には、畑作牧畜民が渡来していたように思えるのですが。 |
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100地学 ここで、明らかにしたいのは、①諏訪湖の形成 ②諏訪湖の今後 でした。 結果、諏訪湖は、巨大な造山圧力によって陥没した地域に形成された。 諏訪湖は、土砂で埋設されることなく、今後も沈下し続けるそうです。 |
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101諏訪の古い岩石のふるさと 諏訪の古い岩石 日本列島を造る古い基盤岩の約80%は、アジア大陸の約5億年前に形成された地殻(大陸塊)の一部と、大陸の東縁に約7000万年以上前に、 太平洋プレートが大陸地下に沈み込むところで形成された「付加体」と言われる岩石です。 諏訪地方で古い基盤岩があるのは、川岸新倉付近から辰野町にかけての山や天竜川河床に見られる、粘板岩・砂岩・泥岩 横河川上流左岸の黒色~緑色片岩、更に下諏訪町北部丸山の基盤となっている結晶片岩類、そして、入笠山地域の結晶片岩類です。 日本列島の誕生 (1)きっかけ 約2000万年前以降 約2000万年前アジア大陸の東縁で地下深部のマントル対流により大陸東縁が押し出され、北東―南西方向の地溝帯ができた。 |
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103 (2)日本列島と日本海の誕生 約1600万年前 大陸東縁の北東―南西方向の地溝帯は、どんどん広がり、日本海となり、東へ押し出された陸塊は日本列島になりました。 押し出しの力によって列島中央部は折れ曲がり、沈み込み、地溝帯となり、日本海と太平洋の間のフォッサマグナ海峡となりました。 フォッサマグナの西縁を糸魚川―静岡構造線、東縁は新発田―小出構造線と、これと斜交する柏崎―千葉構造線と考えられますが、 茨城県常陸太田市から福島県東白川郡棚倉町に続く幅約3km長さ約60kmの破砕帯が山形県酒田市へ通じるとされ、これを東縁との説あり。 (3)日本海の拡大 約1500万年前以降 これには、(a)引き裂きモデル と (b)回転モデルがあります。 (b)回転モデル 日本海が拡大していく過程で、日本列島中央部のフォッサマグナを境にして、 ・西南日本が、時計回りに約40°回転(約1480万年~約1420万年前) ・東北日本が、反時計回りに約25°回転(約1650万年~約1440万年前)回転し、列島は逆くの字になった。(古地磁気の測定結果から) この時期にフォッサマグナ海峡に堆積した地層は、諏訪地域から東信地方にかけて分布する守屋層・内村層・別所層です。 ※これまでは、中央構造線に着目してきましたが、ここでは、フォッサマグナが、長野県北部を形成しました。 |
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105 (4)フォッサマグナ海峡の分断 約1200万年前 この時期日本海の拡大はほぼ終わり、列島は現在の位置に落ち着き、活発な火山活動も休止しました。 フォッサマグナ海峡中央部では、諏訪地域を含めて隆起が始まり、海底が陸化して海峡が消滅し、フォッサマグナ海峡は北部(日本海側)と 南部(太平洋側)に分断されました。 この時期の北部フォッサマグナ海の堆積層は、東信・中信・北信にかけて分布する青木層・小川層です。 また、諏訪地方から美ヶ原高原にかけて深成岩体が地下深部から隆起して「中央隆起帯」を形成しました。(この時に美ヶ原ができた) (5)地殻変動の時代 約300万年前以降 この時期から列島は緩やかな隆起を続けます。そして列島を取り巻くプレートの配置もでき上がり、そのプレート運動の方向が変わり、 列島が圧縮される地殻変動の時代となりました。そしてフォッサマグナ地域は火山活動が活発化してきました。 ・諏訪地域では、糸魚川―静岡構造線の左横ずれの断層活動によって構造線西側山地が隆起し、東側では沈降による地溝帯となり、 これが諏訪盆地形成のきっかけとなりました。この沈降運動は現在も続いています。 |
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107諏訪の大地の成立 (1)糸魚川―静岡構造線の活動 この断層は諏訪湖の西側を通り、守屋層を切るフォッサマグナ西縁の大断層崖を形成しました。この構造線の活動に伴う北西―南東方向の 幾つもの断層活動によって諏訪盆地の東と西では諏訪湖に落ちる階段状の断層地形を形成しています。 (2)諏訪の火山活動 ①「塩嶺火山岩類の活動は、なぜ高山を造らなかったか」 諏訪盆地周辺の火山活動で最も古い活動は、下諏訪町砥川地域の約250万年前の活動です。その後火山活動は、諏訪地方の各所で 約170万年前から140万年前頃までが最も盛んとなりました。 その活動で噴出した大量の火砕岩や安山岩は、地溝帯を埋め尽くし標高1000m程の高さまで堆積し、広い平原状の地形を形成したと 考えられます。これが塩嶺火山岩類と呼ばれているものです。
諏訪の大地の成り立ち (1)糸魚川―静岡構造線 糸魚川-静岡構造線の断層活動は、諏訪湖の西を通るフォッサマグナ西縁の大断層崖を形成しました。 この活動に伴う、北西―南東方向の多数の断層活動により、諏訪盆地の東西で諏訪湖に落ちる、階段状り断層地形を形成しています。 諏訪の火山活動 ①塩嶺火山岩類の活動 諏訪盆地周辺で最古の火山は下諏訪の250万年前です。 その後諏訪各地で170~140万年前頃までが最盛期でした。 噴出した火砕岩や安山岩は地溝帯を埋め尽くし、、標高1000m程の高さまで堆積し、広い平原状を形成しました。「塩嶺火山岩類」です。 |
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111霧ケ峰火山群の活動 ②霧ヶ峰火山群の活動は、なぜなだらかな高原を形成したのでしよう。 塩嶺火山岩類の活動は、やがて北部山頂地域の三峰山・和田峠・霧ヶ峰へと移っていきます。 和田峠地域では縄文人の石器作成の原石となった黒曜石(岩)を含む流紋岩~デイサイトの活動が、約100万~90万年前の間にありました。 その後、鷲ヶ峰の火山活動があり、更に霧ケ峰高原を形成した安山岩~デイサイトの活動が、約90万~75万年前にかけてありました。 そしてこの霧ヶ峰地域の火山活動は、約75万年前の車山を形成する活動で終息しています。 ③霧ヶ峰・八ヶ岳の火山活動は、なぜ弧を描いた山の配列をしているのでしょうか。 霧ヶ峰火山群の活動とほぼ同時期に八ヶ岳では、北八ヶ岳地域で約120万年から80万年前にかけて古い八ヶ岳(八柱火山群)が活動しました。 この火山活動の噴出物は佐久側に大量に流出堆積しています。その後、現在の八ヶ岳山頂部を形成している新しい八ヶ岳火山群の活動が 約50万年前から始まり、南八ヶ岳の成層火山、北八ヶ岳の溶岩ドーム群の山頂を形成し、約2300年前の北横岳坪庭溶岩(八丁平溶岩)の 流出で、八ヶ岳火山群の活動は終わっています。 |
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①約300万~120万年前 糸魚川-静岡構造線の東側各地で、活発な活動を始めた「塩嶺火山岩類」の火山活動は、三峰山・和田峠などの山頂部の活動に移行する。 やがて霧ケ峰・北八ヶ岳八柱山地域の火山活動が始まる。 ②約120万~80万年前 「霧ケ峰火山群」と「八柱火山群(八柱山の佐久側)」の盛んな火山活動期となる。 霧ケ峰火山の活動は約75万年前に終息、八柱火山群の活動は約80万年前に終息する。 ③約50万~30万年前 南八ヶ岳の山頂を形成した「八ヶ岳火山群」の活動が始まり、南八ヶ岳地域で北北西―南南東方向に配列する成層火山群を形成する。 この火山活動と「糸-静線」の構造運動により、「諏訪盆地」の形成が始まる。 ④約30万年前~現在 八ヶ岳火山群の活動は、北八ヶ岳地域で北西―南東方向に配列する溶岩丘群を形成する。 この火山活動は、北八ヶ岳横岳坪庭溶岩の噴出で活動が終わる。 糸魚川―静岡構造線の構造運動(断層活動)が続き、「諏訪湖」が誕生する。 |