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 新潟の縄文 №17  2020.10.01-2

 古津八幡山
  弥生の丘展示館  新潟市秋葉区蒲ケ沢264  0250-21-4133 月・祝翌日休館撮影可
   常設展 及び
   企画展「天王山式土器から見た東日本の弥生社会」
    この企画展は「新潟市文化財センター」と共同で行っています。

交通 レンタカーが便利
特徴 裏山に環濠集落・古津八幡山遺跡(弥生時代)と古津八幡山古墳
新潟県埋文は450m先5分

竪形製鉄炉炉壁
 


10古津八幡山遺跡
11
12古津八幡山遺跡
13古津八幡山古墳
17弥生時代の前方後方型周溝墓

30古津八幡山 弥生の丘展示館
31入口展示
32現地説明会案内・資料
33古代の雑穀
34古津八幡山古墳土層
40新津丘陵の自然

常設展示
50古津八幡山遺跡の歴史
51古津八幡山遺跡周辺年表
52三世紀頃の世界地図
54古津八幡山遺跡周辺の遺跡
55古津八幡山周辺の遺跡
57古津八幡山遺跡

100旧石器・縄文時代
101蒲原の夜明け
111旧石器時代石器
112縄文草創期の石器
113縄文後期土器
116縄文後期の石器

117弥生土器
120防御性集落
130県内各地の防禦的集落
135a高地性集落
135b環濠の規模と形
135c新潟県内の防禦的集落
140環濠と墳墓
141古津八幡山遺跡の環濠と竪穴住居
143弥生時代中期~終末期の墳墓

145古墳前期~中期の墳墓
150県内の古墳
160古津八幡山の歩み

200邪馬台国の頃の古津八幡山
 ~弥生時代~
201弥生後期の古津八幡山
205遺跡の様子
210弥生後期の遺物
215弥生後期の石製品

221北陸系土器
225折衷土器
227東北系土器
229環濠出土土器

231アオトラ石
232弥生時代を定義する
233弥生時代後期の社会
234邪馬台国の頃の古津八幡山遺跡
235かつて戦いはあったのか
236石の道具・鉄の道具
237環濠を掘る労働力
238各地から来た人々
239米の消費量から推測した水田の面積
241米作り
242ムラの建物
243ムラの食事
260ジオラマ
265ムラの人々
267鉄斧と石斧

300弥生終末期
301方形周溝墓
305埋葬施設
310遺物
314壺棺
324豊作の祈りをする
鳥の姿をした巫女

350弥生終末期
351遺物
353北から来た人々

400古墳時代
401蒲原の王墓
410古墳前期のムラ
420暮らしの土器
421森田遺跡
422舟戸遺跡
423塩辛遺跡

430蒲原の王墓の時代
433高地性集落の解体と
 古墳の出現
436北限の主な前期古墳
437豪族居館-舟戸遺跡-

500奈良・平安時代
511蒲原の製鉄基地
513製鉄炉
521平安時代の遺物
530蒲原の製鉄基地
531需品だった鉄の道具
532奈良・平安の物造り
533「金津」の地名の由来
534鉄製品ができるまで
535鉄の種類(軟鉄・鋼・鋳鉄)
536貴重だった鉄―小さな鉄を集める―
537製鉄炉と木炭炉窯の二つの形

600古津遺跡の環濠集落
601弥生後期
603外環濠C

610大入製鉄遺跡-平安時代
 平安時代の竪型製鉄炉

700企画展
天王山式土器から見た
 東日本の弥生社会
701古津八幡山遺跡
702プロローグ天王山式土器
703企画展関連遺跡map
706舟戸遺跡
707国史跡古津八幡山遺跡
出現期の様相
本州東北部の重菱形文系土器
708a六地山遺跡
710天王山式土器
31六地山土器の特徴
734a石動遺跡
741キメラ土器
43S字状連繋文
748松影A遺跡
 
 10古津八幡山古墳
 11

環濠集落と古墳への
山道
古津八幡山周辺施設
 
古津八幡山古墳(古墳時代の円墳)
古津八幡山遺跡(弥生時代の高地性環濠集落)
大入遺跡(平安時代の製鉄遺跡)(大入緑地)

弥生の丘展示館
埋蔵文化財センター
市立新津美術館
県立植物園など
 


 12古津八幡山遺跡
※環濠集落・古墳への道の写真が抜けています。突然集落遺跡から始まります。
※誠に申し訳ありません。撮影時には、まだこの遺跡の重要さがわからず、しっかりした写真が取れていません。

案内看板 こんなのが
ありますよー!
集落跡と古墳 高地性環濠集落
弥生後期
円墳
古墳前期


  古津八幡山遺跡 高地性環濠集落

山道の上は平坦な広場。弥生人の開削の跡かもしれない

なぜか竪穴住居があったんですね。復元されています。

防御線の外の住居の目的は何だっただろう
土塁
土塁中央は現代人が切りました。

人が多くて芝生が剥がれ、、浸食が始まっています。
高地性環濠集落
土塁があちこちにあります。
写真が下手です。

 13古津八幡山古墳 古墳前期の円墳
古津八幡山遺跡は弥生時代後期(1~3世紀)の集落と古津八幡山古墳(4世紀終わり~5世紀初め)を中心とする遺跡です。
古津八幡山古墳は遺跡のある丘陵北端にあり、頂上の標高は約50mです。
 (※弥生集落が終了した後に、このあたり一帯の平野を支配した豪族の墓で、古墳の下からは弥生時代の住居跡が50数件見つかっています)
遺跡の西には越後平野が広がり、古墳頂上からは弥彦山・角田山や信濃川・阿賀野川の河口付近まで見渡すことができます。
 (※二つの山名は越後平野の象徴が見渡せると言っている。つまりそれは、大きな権力で越後平野一帯を支配した。といっている)

 越後平野は新潟県内で前期古墳が集中する地域です。古津八幡山古墳は県内の古墳の中で最大級の大きさで、越後平野各地の豪族が共同して押し立てた王(有力豪族)の墓であった可能性も考えられています。

古津八幡山古墳 古津八幡山遺跡円形 古津八幡山古墳と
弥生の遺構
古津八幡山古墳空撮 古津八幡山古墳

 古津八幡山古墳の発掘調査
古墳の復元整備工事に先立って発掘調査を行いました(2011~2013年)。その結果、直径約60mの円墳で、斜面の中程に約4~5mの平坦面(テラス)が巡ることがわかりました。(※二段築成の意味)
見つかった土器や古墳の作り方などから、古墳時代前期の終りから中期の初め頃(西暦400年前後、1750年前)に作られた古墳と考えられます。

古墳は周濠を掘って出た土を主に利用して、中心部に小さな丘のような高まりを、外側に土手を作り、その間を土で埋めて平らにするといった作業工程 を4回程繰り返すことで高く作られていきました。

場所によって使用する土を選ぶなど、高い土木技術を持っていたことがわかりました。つくり方には畿内の古墳と共通する点があり、畿内政権から
技術者が派遣されてきた可能性も考えられています。

 埋葬施設の破壊
古墳の頂上も発掘調査を行いましたが埋葬施設は確認されませんでした。頂上では一辺約11mの四角形にまわる溝が見つかりました。この溝は西暦900年頃(平安時代)のもので、建物又は墓に伴うと考えられます。この溝を掘る時に頂上が大きくけずられ、埋葬施設が壊された可能性があります。

 舟戸遺跡
古津八幡山古墳の盛り土の下や周辺で弥生時代後期(1~3世紀)の竪穴住居が多く見つかりました。
   (※弥生時代の古津八幡山遺跡の集落は古墳の位置まで広がっていたといっています。そう書けばいいのに。わかりにくい。)

古墳時代の建物などはなく、その頃の集落は麓にあったとか考えられます。
古津八幡山古墳を造った豪族の屋敷(居館)は近くの古津駅周辺の舟戸遺跡が有力です。
   (※だからこの文章は、舟戸遺跡の説明とはなっていない。舟戸遺跡があるという伏線ですね。)

発掘調査 周溝と古墳断面 周溝断面・古墳断面 古墳造りの想像図 古津八幡山古墳
復元断面図
古墳頂上で見つかった
平安時代の溝

古津八幡山古墳と
舟戸遺跡
古津八幡山の発掘調査
船戸遺跡

 15古津八幡山古墳

 17弥生時代の前方後方型周溝墓 全長13m(方台部) 前方部4.4×2.5m 後方部9×7.5m
 方形の墳丘(後方部)の北側に通路のよう名突出部(前方部)のある凸形の墳墓です。
集落が終わって間もない弥生時代終末か、古墳時代初頭に作られました。
墳丘は残っていませんでしたが、復元しています。

前方後方形周溝墓
説明プレート

 弥生時代後期にはここに高地性・環濠集落があり数十軒以上の建物があった。
  



 30古津八幡山 弥生の丘展示館



 31入口展示

天王山式土器展の
看板
弥生の丘展示館
入口
 32現地説明会案内・資料
古津八幡山遺跡現地説明会資料
曽我墓所遺跡 道正遺跡岡崎遺跡 予告
 33古代の雑穀
弥生の雑穀
・黒米くろごめ
・四国稗しこくびえ
・蜀黍もろこし

・小麦
・黍キビ

・粟あわ
・稗ひえ
・蜀黍もろこし

 34古津八幡山古墳 墳丘断面土層剥ぎ取り
時代の古い順にみると、一番下の黄色土(8)が地山、その上の黒色土(7)は古墳が作られるまでに堆積した土。
真ん中の褐色や黄色の明るい土(2-6)が古墳の盛土。一番上の茶色い土(1)が新しい時代の土となります。
古墳の盛り土は厚さが2m以上もあります。色や硬さを細かく見ると、100層以上にも分けられます。
しっかりした古墳を作るために段階を踏みながら計画的に土を積み上げていったことがわかります。

・剥ぎ取り部分の断面
・剥ぎ取り部分の断面図
・古墳断面模式図
 

 40新津丘陵の自然
い新津丘陵では植物・動物などの豊かな自然環境とかかわりあいながら、万年以上前から人々が暮らしてきました。
古津八幡遺跡周辺にみられるコナラ・クヌギ・クリなどの林は、奈良時代以降の薪炭林の姿を今に伝えています。

 古津八幡山遺跡の自然環境
土壌中に含まれる花粉や植物珪酸体(プラントオパール)分析により、昔の植生が復元できます。
縄文時代は、谷などの湿ったところにはハンノキ・トチノキなど、丘陵の乾燥したところには、クリ・コナラなどが生育していました。
クリやトチノキは縄文人が育てていた可能性があります。

弥生時代以降になると、クリ・コナラは減少し、トチノキは激減します。
イネ科の花粉が増えるので、水稲耕作が行われていたことが わかります。

※なぜ弥生時代に入るとドングリの木は減少し、トチノキは激減したのか。気候変動か。それにしてはクリが減ったとは書いてない。
どうやら、主食のドングリは水稲耕作の裏作にあたる雑穀が主食となり、ドングリよりもめっちゃ!手間のかかるトチの実は切られたようです。
ということが、上の文章で言いたいようですね。そうでしょう?

新津丘陵の自然 古津八幡山遺跡の自然環境
縄文時代の植物 トチノキ
クリ コナラ
トチ・コナラ・クヌギ・ナラガシワ・クリ・アカガシ

オニヤンマのヤゴ(外皮)
コシアキトンボ

スミナガシ
ギフチョウ
カラスアゲハ
ミヤマカラスアゲハ
モンキアゲハ
クロアゲハ
モンキアゲハ
アゲハチョウ
アオスジアゲハ
ギフチョウはアオイが、アゲハ蝶は柑橘系
が食草。
今も自然が豊かなようだ。

モンシロチョウ
ジグロシロチョウ
キチョウ
ダイミョウセセリ
コツバメ・ヤマトシジミ・ルリシジミ・ベニシジミ・テングチョウ・ミドリヒョウモン・イチモンジチョウ・?・アカタテハ・ルリタテハ・ヒオドシ・シロオビヒカゲ・クロオビヒカゲ・ウラギンシジミ・タマムシ・オサムシ
 


  展示室 (常設展示+企画展)


  常設展示


 50古津八幡山遺跡の歴史

 51古津八幡山遺跡周辺の年表
  古津八幡山遺跡の歴史
古津八幡遺跡周辺に遺跡が残された旧石器時代から平安時代にかけての歴史年表です。
その中でも、弥生時代後期から古墳時代中期と、奈良時代から平安時代の2時期に遺跡の中心があります。
年表 旧石器~縄文晩期 早期~晩期 後期~鎌倉時代 古津八幡遺跡の歴史

 52 3世紀頃の世界地図
古津八幡遺跡で高地性環濠集落が作られた頃の世界地図です。
日本は、中国の歴史書『魏志倭人伝』に邪馬台国の女王卑弥呼のことが書かれた頃です。
朝鮮半島は馬韓・弁韓・辰韓の三韓、中国は魏・呉・蜀の三国時代でした。
遠くヨーロッパではローマ帝国が地中海周辺から西ヨーロッパに及ぶ大帝国となっていました。
3世紀頃の世界地図 3世紀頃の世界地図
3世紀頃の世界地図 3世紀頃の世界地図

 世界史の中の日本列島
日本では食料採集段階の縄文時代は1万年以上と長く続きました。世界史的にみると、農耕社会に属する弥生時代の始まりはとても遅かったのです。
しかし、水田稲作が始まると、環濠集落・墳丘墓がまもなく現れ、やがて王権が成立し、最古の王墓-古墳が築かれます。その間の約1000年は世界史的にみれば、とても短期間のことでした。

※牧畜・農耕が始った新石器時代のヨーロッパに比べて、隔絶された日本列島は縄文時代という旧石器時代並の期間が1万年も続きました。
この頃の列島の対外交流は、ほんのわずかしかありませんでした。
気候の寒冷化と諸技術の向上によって東アジアが流動化し、それまでに地理的発見があったのであろう日本列島へ大挙して半島人が渡来し、縄文人を打ち負かして列島を蹂躙し、半島文化によって列島を支配した。
その後の国家の成立までのプロセスは、半島の国家体制を列島で実現する過程に過ぎなかった。つまり、第二の朝鮮半島が成立したのである。

縄文人が新しい文化を獲得して国家を成立させたのではなく、列島先住民は半島人の足の下に敷かれてやがて消えてしまった。のだ。
その千年間が世界史的に一瞬であろうとなかろうと、日本先住民の消滅の時間に過ぎない。と、おもう。

世界史の中の日本列島 世界史の中の日本列島
←この図表は一番肝心な所(日本列島)が隠されている。なんかクレームでもあったのか。
それとも、日本がみじめで隠したのか。偶然か。
弥生以降の文化は朝鮮半島から来た半島人が、半島の政治体制と共に持ち込んだもので、
決して日本列島の縄文文化がそこまで発達したのではない。
縄文文化は消滅した。
なんてことはみんなが知っていること。

現在の我々の文化は半島人の文化だ。
これ以降、長きにわたって縄文文化と、縄文系の人々への駆逐が始まる。

 54古津八幡山遺跡周辺の遺跡
古津八幡山遺跡周辺には、弥生時代後期から古墳時代中期の遺跡が多く見られます。
弥生時代後期の約200年間のみ、丘の上に濠を巡らした大きな集落(古津八幡山遺跡)が造られます。
古墳時代になると新潟県内最大の古墳、古津八幡山古墳が丘の上に築かれます。麓には古墳時代の集落が広い範囲に分布しています。
古墳を築いた王の屋敷(居館)もどこかに埋まっていることでしょう。(※近くの駅の付近にあるそうです。)
奈良時代・平安時代には、南側の山裾の広い範囲に製鉄基地が分布しています。

古津八幡山遺跡周辺の遺跡 新潟市付近の遺跡 新潟市~新発田市 寺泊付近
 55古津八幡山周辺の遺跡
古津八幡山遺跡周辺の遺跡 津八幡山遺跡周辺の遺跡

上に記述
古津八幡山付近の遺跡


 古津八幡山山麓の遺跡
 八幡山山麓の遺跡 程島館跡
山崎遺跡
原遺跡
古通遺跡
西島中谷内遺跡
西島館跡
桜大門遺跡
東島大道下遺跡
大坪遺跡
平林遺跡
舟戸遺跡
塩辛遺跡
山脇遺跡
高矢C遺跡
森田遺跡
二百刈遺跡
下谷地遺跡
高矢A遺跡
高矢B遺跡
古津八幡山古墳
古津八幡山遺跡
古津初越B遺跡
古津初越A遺跡
金津初越B遺跡
金津初越A遺跡
鳥撃場遺跡
大入遺跡
居村C遺跡
神田遺跡
居村A遺跡
居村B遺跡
古津八幡山遺跡の歴史 上50に記述
 56

程嶋館跡・山崎遺跡・原遺跡

古通遺跡
西島中谷内遺跡
西島館跡
桜大門遺跡
東島大道下遺跡
大坪遺跡
平林遺跡
舟戸遺跡
塩辛遺跡
山脇遺跡
高矢C遺跡
森田遺跡

二百刈遺跡
下谷地遺跡
高矢A遺跡
高矢B遺跡

古津八幡山古墳
古津八幡山遺跡
古津初越B遺跡
古津初越A遺跡
金津初越B遺跡
金津初越A遺跡
鳥撃場遺跡
大入遺跡
居村C遺跡
神田遺跡
居村A遺跡
居村B遺跡
※古津八幡山は、かつては八幡神社があったのでしょう。暴れ川の信濃川と阿賀野川に挟まれた残丘の周囲にはどうしてこんなに遺跡が集中しているのでしょうか。それとも、辺り一帯はもとは遺跡だらけで、たまたまこの地域だけが残り、あとはは水田に開削されてしまったのでしょうか。
信濃川・阿賀野川の下流域に発達した越後平野。そこにぽつんと開発から残された幸運な丘陵地帯。この八幡山からの眺望はきっと越後平野を見渡すことができ、しかも洪水から逃れた幸運な土地だったのかもしれません。


 57古津八幡山遺跡 ―弥生時代の北陸北辺の高地性環濠集落―
史跡 古津八幡山遺跡は、信濃川と阿賀野川に挟まれた新津丘陵上に立地する弥生時代後期の大規模な高地性環濠集落です。
集落は丘陵上に立地し、周囲に濠を巡らしています。
環濠に囲まれる範囲は南北400m、東西150m程です。部分的な発掘調査ですが、竪穴住居が50棟以上、方形周溝墓・前方後方形周溝墓などが確認されています。
高地性環濠集落は弥生時代後期に日本海側にも出現します。古津八幡山遺跡は西日本を中心とする勢力がこの地域にまで及んでいたことをよく示しています。
また、集落が途絶えた後の古墳時代には新潟県内最大の古津八幡山古墳が築かれています。古津八幡遺跡は、弥生時代後期から古墳時代にかけての社会情勢の変化を示す貴重な遺跡として2005年に国史跡に指定されました。

史跡整備 古津八幡遺跡では、弥生時代になかったものは原則作らないという方針のもと、集落の復元整備を行っています。現在までに竪穴住居7棟や環濠・方形周溝墓・前方後方形周溝墓を復元しています。

古津八幡山遺跡 -弥生時代の北陸北辺の高地性環濠集落- 古津八幡山案内図 古津八幡山遺跡
弥生時代の北陸北辺の高地性環濠集落

上に記述
空から見た古津八幡山 竪穴住居
竪穴住居 竪穴住居 方形周溝墓と外環濠 前方後方形周溝墓
竪穴住居と内環濠 条溝
竪穴住居と内環濠 冬の古津八幡山 古津八幡山遺跡
 


 100蒲原の夜明け ~旧石器・縄文時代~

 101蒲原の夜明け
蒲原の夜明け
~旧石器・縄文時代~
土器を発明した縄文人。
土器を用いた煮炊きによって、ドングリなどのアク抜きや、お年寄り・子供にも消化の良い栄養のある食事ができるようになりました。

ウサギや魚、貝なども捕っていました。森では鹿を追っています。狩りがうまくいくとよいですね。
平野には、潟や湿地が広がり、小さなムラが見えます。
   縄文時代後期(約4000年前)

お帰り
「あんたたち、お帰り!」
狩りから帰ってきたお父さんや息子を迎えて喜ぶお母さんや娘たち。本当に無事に帰って来てよかったですね。
春になると、ワラビやゼンマイをたくさん採ってアク抜きをします。乾燥させて長い冬に備えます。川で魚やタニシを捕って来た子供たちもいます。
 縄文時代後期(約4000年前)
 111旧石器時代石器
ナイフ形石器 切る・刺す
 112縄文草創期の石器
尖頭器
突き刺す道具
石器石材 母岩
愛宕沢遺跡
石斧
愛宕沢遺跡
石斧
草創期
 113縄文後期土器
縄文後期の竪穴住居跡
深鉢
煮炊き用 鍋
 114深鉢 縄文後期
深鉢
深鉢・鉢・注口土器

注口のくち
 115深鉢 縄文後期
深鉢
 116縄文後期の石器
石錐 石鏃

 117弥生土器
煮炊き用深鍋 甕
貯蔵用 壺
弥生中期 塩辛遺跡
甕・壺
煮炊き用深鍋
貯蔵用の壺
 118
煮炊き用深鉢 甕
弥生中期
秋葉遺跡
秋葉遺跡 塩辛遺跡
愛宕遺跡
 
 

 120防御性集落

 130県内各地の防禦的集落
 131県内の防禦的集落
県内の防禦的集落
県内の防禦的集落
県内の墳墓
古墳前~中期
 133県内各地の防禦的集落
滝ノ前遺跡 村上市 山元遺跡 村上市 大倉山遺跡 五泉市 中店遺跡 南蒲原郡
上田
経塚山遺跡
三条市
大平城遺跡
見附市
横山遺跡
長岡市
田塚山遺跡群
柏崎市
藤ケ森遺跡
長岡市
裏山遺跡
上越市
大沢遺跡B地区
新潟市
下馬場遺跡
上越市
家鋪塚遺跡
長岡市
斐太遺跡
妙高市
姥ケ入南遺跡
長岡市
窯蓋遺跡
上越市
西岩野遺跡
柏崎市
今泉窯蓋遺跡
上越市
吹上遺跡
上越市
 135

 135a高地性集落
古津八幡山遺跡は標高約50mの丘陵上に集落が作られていますが、このような台地上や丘陵上の集落を高地性集落と言います。
水稲耕作に不向きなことから、環濠集落と同じく外敵からの防禦のためと考えられています。
中期後半から後期初めにかけて作られた高地性集落はほとんどが瀬戸内海沿岸に密集しています。
後期後半になると北陸北東部など東西に広がっていきます。

高地性集落 高地性集落 主な環濠集落の分布と規模 主な環濠集落の分布と規模

 135b環濠の規模と形
古津八幡山遺跡と、新潟県内の環濠集落、県外の環濠集落の環濠を比べて見ました。
幅や深さに違いがあり、また、断面形にもV字型や逆台形などの違いが見られます。このような違いは、集落の規模や傾斜地か平地かといった立地、更には社会的背景といろいろな要因が考えられます。平地の環濠では断面径は逆台形が多く、丘陵や台地の環濠ではV字形が多いと考えられそうです。古津八幡山遺跡では両方の断面形があります。環濠の掘削場所による違いや、防衛上の違いなどが考えられます。

環濠の規模と形 環濠の規模と形

 135c新潟県内の防禦的集落 (高地性集落・環濠集落)
越後平野では弥生時代後期になると、平地から30m以上の丘の上に集落(高地性集落)が出現します。
水稲耕作に不向きなことと、周囲を濠で囲んでいる集落(環濠集落)があることから中国の歴史書『魏志倭人伝』に書かれた「倭国乱」と関連付けて戦いに備えた防禦的集落と考えられています。
越後平野では新津丘陵から長岡市にかけて平野を見下ろす丘陵上に多く発見されています。

古津八幡山遺跡は会津盆地へのルートの起点にあり、上越市裏山遺跡は長野県北部への南へのルートと日本海沿いの東西ルートの接点にあたり、いずれも交通の要所でした。

新潟県内の防御的集落
新潟県内の防禦的集落 新潟県内の防御的集落
新潟県内の防御的集落
 

 140環濠と墳墓


 141古津八幡山遺跡の環濠と竪穴住居
環濠と竪穴住居

 143弥生時代中期~終末期の墳墓
新潟県内では弥生中期以降、集落内の有力者の墓として方形周溝墓が作られ始め、後期には円形周溝墓や方形台状墓も出現します。
古津八幡山遺跡では、弥生時代終末期に前方後方形周溝墓が作られます。この形の墳墓は会津にもあり、八幡山集落から伝わった可能性が考えられます。

弥生中期~終末期の
墳墓
周溝墓(不鮮明)
周溝墓・台状墓

 145古墳前期~中期の墳墓
古墳時代になると、弥生時代に比べて長さや高さの規模が飛躍的に大きな墳墓(古墳)が作られるようになります。
前期には越後平野を中心に有力な古墳が見られ、信濃川を挟んだ両岸の丘陵北端には、県内最大規模の古津八幡山古墳とそれに次ぐ菖蒲塚古墳がそれぞれ分布します。
しかし中期以降、分布の中心は上越や魚沼へ移っていきます。

県内の古墳時代の墳墓
 
 150県内の古墳
城の山古墳
胎内市
観音山古墳
新潟市
保内三王山古墳群
稲場塚古墳
西蒲原郡
麻生田古墳群
長岡市
大久保古墳群
長岡市
緒立八幡宮古墳
新潟市
奈良崎遺跡
長岡市
菖蒲塚古墳
新潟市
吉井行塚1号墳
柏崎市
山谷古墳
新潟市
観音平古墳群
妙高市
古津八幡山遺跡
 

 160古津八幡山の歩み

 古津八幡山古墳イラスト  -古墳頂上~国見をしている王の風景-
今から約1600年前、樹木の葉が色づきを増した秋の暮れ、古津八幡山古墳は、沢山の人手と月日をかけて遂に完成しました。
古墳造りを主導し、亡くなった跡に埋葬されることになる王(豪族)は、従者や巫女、長老、有力な民を従え、古墳の上で祖霊への感謝と山や大地の神々への祈りの儀式を行いました。

儀式を終えた王たちは、古墳の頂上から自分たちが治める土地や民を誉め、民や田畑の豊作を願って国見をしています。

眼下には一面に越後平野が広がり、平野を挟んで西の方角には角田山や弥彦山といった山々が連なっています。また、阿賀野川の河口や、更には海を隔てた佐渡島の輪郭まで見渡すことができます。
麓には王が暮らし、国を治めるための政(まつりごと)などを行う館(豪族居館)が見えます。仕事の手を休めて巨大な古墳やその頂上から国見をする王を仰ぎ見ている民の姿もあります。

※佐渡島から新潟港に戻るとき、最初に見えるのは角田山弥彦山です。まるで島のように見えます。現在もこの二つの山は岩手山・岩木山・八甲田山の様に地元民があがめるようなシンボルとしてあります。なぜでしょうか。
日本海を航行するときの海上独標として、原始の越後平野を横行するときの目印として、古くから親しまれていたのではないでしょうか。私自身初めての佐渡帰りのとき、海上にこの山を見つけて驚きました。美しい!
その後、信仰の山として、海人も里人も祈願に訪れる信仰の対象となったのでしょう。
これらの山は火山ですね。
古塚八幡山古墳
古墳築造後の国見の
様子
古津八幡山古墳イラスト-古墳頂上~国見をしている王の風景-

 古津八幡山遺跡の発見から現在までの歴史
古津八幡山遺跡調査位置図
古津八幡山遺跡調査位置図
古津八幡山遺跡の発見から現在までの歴史
未記述

 古津八幡遺跡発見から現在までの年表
年表

 史跡古津八幡遺跡発掘調査現地説明会資料
古津八幡山遺跡現地説明会資料
 


 200邪馬台国の頃の古津八幡山 ~弥生時代~

 201弥生後期の古津八幡山
邪馬台国の頃の古津八幡山~弥生時代~
古津八幡山高地性集落 米作りには不便な丘の上のムラ。ムラは濠や土塁で囲まれています。

米づくりが 始まると、農作業を共同で行うために、人々は集まってムラを造りました。
それまでよりも安定して食料が得られるようになり、蓄えもできました。

しかし、今度はその蓄えの奪い合いなどから、他のムラとの争いが起きるようになりました。
  弥生時代後期 約1900年前
 環濠の掘削   「親方!皆を掘る者、運ぶ者、踏み固める者に振り分けておいだよ」
「よしよし、子供らもようぉ働いているようらなぁ。この分だとあと10日くれぇらなぁ」
「次の満月には完成を祝ぉて祭をやろうてば」
「ははっ!皆も楽しみにしてるっさあ」
と一層結びつきを強めるムラ人たちでした。
  弥生時代後期 約1900年前
 暮らしの様子   「この干し魚でダシをとろうか」
「いくさになる前に、沢山の矢尻を造っておかんとらねぇ」
「あれ、だっか来たがみたい。頼まれとった糸、まだ紡ぎ終わっとらんがに、早よとんにきたがけぇ」
「うんめぇウリだべ、よかったらあがらんしょ」
「おや ほんに旨そうらのぉ、したら、お米をちっと持っていくけぇ」
 弥生後期 約1900年前
 205遺跡の様子
南地区全景 南地区斜面の竪穴住居 東西の尾根を切る

条溝2
南北の尾根を切る

条溝1
斜面に掘られた
環濠内環濠B
連続しない環濠
外環濠A・B
硬い土に掘られた環濠
内環濠B
環濠に流れ込んだ2つの壺 外環濠D
斜面に作られた竪穴住居 硬く叩き締めた床をもつ竪穴住居 溝を巡らせた竪穴住居と内環濠A 竪穴住居の貯蔵穴から見つかった土器
 

 210弥生後期の遺物
 211
石鏃 弥生後期
石鏃・石錐 アメリカ式石鏃
弥生後期
未完成の石鏃
弥生後期
石錐 弥生後期
 213
石包丁 後期
・パステル型石器 後期
 用途不明石製品
・管玉未成品 後期
 
・ガラス小玉
 青ガラスの首飾り
 後期
・勾玉管玉
 緑石の首飾り
 後期

玉作完形剥片類
首飾り用石材 後期
石鏃

 215弥生後期の石製品
石斧 扁平片刃石斧
木を削る
磨製石斧
弥生後期
    鉄鏃 後期  石槍 後期     
土製紡錘車
軽石
弥生後期
土玉、投弾(石の玉)
石製人形 弥生後期
鳥型土製品 弥生後期
炭化米 東囲遺跡 前期
スタンプ文土器
北陸系(法仏式)

スタンプで施文した土器
 217
砥石(鉄器用) 後期 砥石 後期 凹石 後期
ものを潰す台石
 
 220
 221北陸系土器猫橋土器法仏式土器
弥生時代後期に富山県や石川県などの北陸地域で主に作られた土器。新潟県内では阿賀野川以南が北陸系土器の分布の中心になる。
阿賀野川以北では土器組成に占める北陸系土器の比率が少なく、東北系土器が主体となる。

弥生時代後期後半以降は、福島県会津地域でも北陸系土器が出土するようになり、阿賀野川を介してヒト・モノの交流があったことがわかる。
北陸系土器の表面は基本的に無文で、薄板で土器の表面をなでたり(ハケ目)、工具で研磨したりする(ミガキ)。
甕・壺・高坏・器台・鉢・蓋などの機種があり、高坏・器台・鉢や壺では赤彩されるものもある。

甕はススやコゲが付着しているものが多く、主に煮炊きに使われた現在の釜や鍋に相当する。
壺はモノを蓄えるための容器で、液体も入れられたと推測される。
高坏や器台は主に祭祀に使用されたと考えられている。

北陸系土器 煮炊き用深鍋 甕
北陸系 法仏式
 223
貯蔵用の壺 後期
貯蔵用壺 後期
北陸系 法仏式
鉢 ものを盛る
北陸系 弥生後期
手焙形土器 祭器
山陰系
高坏・器台 北陸系

 225折衷土器
弥生時代後期に、古津八幡山遺跡で作られた北陸系(法仏式)土器と東北系土器(天王山式)の特徴を併せ持つ土器。古津八幡山遺跡以外ではまとまった出土が見られない。
口縁部が内湾状で、端部にキザミを入れたり、突起をつけたりしている。土器の表面は薄板で撫でている。(ハケ目)。また、原則として沈線文様は入れない。
甕・壺・高坏・鉢などの器種があるが、甕とも壺とも捉えられる器形(広口長頸壷)が多い。これらの土器にはススやコゲが付着しているので、主に煮炊きに用いられたと考えられる。
古津八幡山遺跡では、方形周溝墓の溝から10個体程度の完形土器が出土しているが、このうち3個体を八幡山式土器が占めている。
共に出土した北陸系土器は後期中葉頃(法仏式古段階)で、このころには折衷土器が作られていたことがわかる。

 ※説明不足です。八幡山だけ出て出土する折衷土器のことを、“八幡山式”と言っているのでしょう。折衷土器=八幡山式
折衷土器 折衷土器 折衷土器 煮炊き用深鍋

在地系(八幡山式)
弥生後期
煮炊き用深鍋
広口長胴壺
在地系(八幡山式)
弥生後期
大沢谷内遺跡

 227東北系土器 (天王山式土器)
弥生時代後期前半に、福島県など東北地方南部から北部で主に作られた土器。福島県白河市天王山遺跡を標識とする。
新潟県内では阿賀川以北が分布の中心。阿賀野川以南の遺跡でも単発的に出土しているが、特に魚沼川流域の数遺跡でも見つかっている。
柏崎平野・高田平野での出土例は少ない。

文様は、主に縄文とヘラで描いた沈線文で、特に2本の沈線間に刺突を交互に入れた「交互刺突文」が特徴敵であるが、古津八幡山遺跡では少なく本場に比べ変容している。
甕・壺・鉢・高坏などの器種があり、甕には沈線文様のある精製土器、縄文だけの粗製土器がある。
文様帯は、口縁部・頸部・体部上半・体部下半に分けられる。

この土器の特徴として、➀口縁部の突起の発達、②交互刺突文、③縦走する縄文、④横走する縄文、⑤RL縄文が多いこと、⑥底部への施文、
⑦片口の存在、⑧半球形の口縁部、⑨口縁部の連弧文、⑩無文の頸部、⑪体部上半の重菱形文・連弧文・同心円文・渦巻文、
⑫体部下半の下向き弧線文・連弧文・鋸歯文、などがある。

東北系土器
(天王山式土器)
煮炊き用の深鉢 甕
東北系(天王山式)
貯蔵用 壺
東北系(天王山式)
赤く塗られた壺
東北系(天王山式)

 229環濠出土土器
外環濠D埋没後に掘られた土坑より出土
長野系・山陰系?
環濠が埋まった後に掘った穴から出土。ゴミなら投げ捨てるが、これは、埋葬の痕跡

 環濠出土土器
環濠の同一層出土
北陸系・東北系
 

 230解説パネル

 231アオトラ石
北海道との交流 北海道から運ばれてきた可能性の高い磨製石斧 沙流川支流の糠平川産の緑色岩の原石
(通称アオトラ石)
アオトラ石の磨製石斧は、北海道平取町で採取され、非常に長大で美しい石斧製品に仕上げて本州に供給される。
本来小さなカヌーに原石など積めないので、これは、摩耗したり、折れたりしたものを再度研いで使用し、最後に、この上は彫器にでもするための材料としたものでしょう。

 232弥生時代とは-弥生時代を定義する-
日本列島で灌漑を伴う本格的な水稲耕作が始まった紀元前9世紀から定型的な前方後円墳が出現する3世紀中頃ないし後半までの時代を弥生時代と言います。新潟県や東日本では、紀元前4世紀後半ないし市5世紀前半頃から弥生時代になると考えられています。
弥生時代を特徴付けるものは、➀灌漑水田 、②環濠集落、③集団間の争い、④青銅器や鉄器などの金属器、⑤社会的階層の顕在化、⑥政治的社会への傾斜などです。
弥生時代とは
弥生時代を定義する
弥生時代になって現れた諸事象
➀②③は早期以後
④前期末か中期初頭以後
⑤中期初頭以後
⑥中期後半以後?
弥生文化を構成する
3要素
A大陸要素 
中国系 金印、貨泉、銅鏡、素環頭大刀
朝鮮系 多鈕鏡、細形銅剣、銅矛、銅戈、有柄磨製石剣、一部磨製石鏃etc
技術・
 知識
稲作、青銅器鋳造、鉄器鍛造、大陸系磨製石器3種セット、石包丁等収穫具、紡織技術、高床倉庫など
思想習俗 各種農耕儀礼、卜骨、鳥形木製品、支石墓、厚葬(副葬品を副えて手厚く葬る)など
B縄文伝統
品物・技術・知識 打製石器製作技術(石鏃・石錐・土堀具)、勾玉、
土器製作技術(形態・文様)、木器・骨器・漆器の製作技術
C弥生固有
大陸化・装飾化下銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈、巴形銅器・有鉤銅釧
石槍、石戈と鉄戈、甕棺墓、方形周溝墓

 233弥生時代後期の社会

古津八幡山遺跡では東北系・北陸系両地方の特徴を併せ持った地元系の土器があります。
それ以前の弥生前期・中期も新潟県内では同じような状況でした。日本海・信濃川・阿賀野川を利用して各地域の文化が伝わりました。
これらの土器は、竪穴住居から一緒に見つかるので、ともに使われていたことがわかります。
外来系は、古津八幡山へやって来た人々が作ったか、それらを真似て作られた土器です。

弥生時代後期の社会 古津八幡山遺跡出土土器の系統別イメージ
北陸系:吹上遺跡(上越市)
在地系:古津八幡山遺跡
東北系:天王山遺跡(福島
北陸・長野・在地・東北系の分布範囲
長野系:篠ノ井遺跡群
  (長野市)
古津での占有率
北陸40・東北35・
地元20・その他5(%)

東北系 天王山式 縄文とヘラで描いた文様
北陸径 猫橋・法仏 薄板で表面を撫でるハケ目
地元系 八幡山式 東北的器形に北陸のハケ目
外来径 箱清水式 櫛描文・赤い土器

 234邪馬台国の頃の古津八幡山遺跡
弥生時代後期になると平地から30m以上の丘の上にムラが現れます。水稲耕作に不向きなことと、周囲を濠で囲んでいる集落があることから魏志倭人伝に書かれた「倭国乱」と関連付けて、戦いに備えた防禦的集落と考えています。越後平野では、新津丘陵から長岡市にかけて平野を見下ろす丘陵上に多く見つかっています。これらの集落の多くは弥生時代終末期にはなくなります。

邪馬台国の頃の古津八幡山遺跡 新潟県内の
防禦的集落

 235かつて戦いはあったのか
「弥生時代」というとのどかな時代を想像しがちですが、実は日本の歴史上初めて「戦争」が起きた時代でした。
実際、弥生時代後期後半の青谷上寺地遺跡(鳥取県)からは鋭利な武器による切り傷や刺し傷などが残る男性・女性や子供の人骨が100体以上も見つかっています。
古津八幡山遺跡の状況を見ると、戦争を知ってはいたけれど、実際に戦ったのかどうかはわからない、というのが本当のところです。

かつて戦いはあったのか
戦いの証拠を考古学で探る

戦争は疑わしいと推測
古津八幡山遺跡と西郷遺跡の石鏃の大きさ比較
対人用石鏃が備蓄された

 236石の道具・鉄の道具
新潟県でも弥生時代に中期になると、石の道具に変わって鉄の道具が使われるようになりました。鉄はリサイクルされるので、遺跡から見つかる点数は少ないのですが、鉄器用の砥石が残されたり、石器が極端に少なくなったりするのことで、鉄器が使われていたことが推測できます、

石の道具・鉄の道具 県内の弥生時代の石器の組み合わせ 大塚遺跡…農具が多い
西郷遺跡…狩猟・加工具が多い
 何かを製造するムラか
裏山遺跡…生産工房のムラ
古津八幡…加工具が多く、
   工場労働者のムラみたい
弥生時代から古墳時代前期の鉄器の点数 福井県で鉄器の生産が始まったのか、
そこで止められたのか、供給量が極端に少ない。

 237環濠を掘る労働力
環濠を掘るためには多くの労働力が必要でした。古津八幡山遺跡の環濠の土量は920㎥程と推定されます。
10tダンプ約150台分になります。1人が1日に掘削できる土量を0.5㎥程度とすると、延べ1840人が必要になります。
1日30人が環濠掘りをしたとしても61日かかります。雨天や農作業で忙しい時に中断したとすると半年近くかかったのではないでしょうか。
周辺の集落からも掘削作業に来たと考えられます。

環濠を掘る労働力 掘削作業風景 鍬先など
上越市裏山遺跡
環濠掘削に関わる労働力

 238各地から来た人々 人の移動
古津八幡山遺跡では、遺物だけではなく各地域から人々が来ていたと推測されます。
長野系の土器は、つくり方や文様のつけ方の特徴が長野県の土器と同じです。使われている粘土は古津八幡山遺跡の他の土器と変わらないので、長野県から新潟へ来た人(おそらく女性)が作ったものと考えられます。
北海道から新潟に伝わったものとしては後北C式土器、東北南部や新潟から各地に広がったものとしては天王山式土器アメリカ式石鏃があります。

各地から来た人々 アメリカ式石鏃・天王山式土器・後北C式1土器の分布
アメリカ式石鏃
後北C1式土器

アメリカ式石鏃は対人武器として使われたのか。

 239米の消費量から推測した水田の面積
弥生時代に1人が1日に食べる米の量を2合(300g)と仮定すると、ムラの人口は85人と推定されるので、ムラで1年間に食べる米の量は9308kgになります。当時の1000㎡の水田で収穫される米の量は64kg程度と推測されるので、ムラで1年間に食べる米を収穫するのに必要な水田の面積は
145438㎡(約100×1454m)になります。
米2号をご飯にした場合のエネルギー量は1068kcalなので、1日に必要とされるエネルギー量(2000kcal)の約半分程度です。

米の消費量から推測した水田の面積 コメの消費量から推測した水田面積の比較 ※とても楽しい計算です。素晴らしいと思います。
足りない分のエネルギーをどう補給していたのかには言及されていません。
が、私が考えるのには、おそらく弥生の豪族以外は雑穀が主食だったでしょう。

米は、交換材、商品として半島へ送られていたでしょう。
米を対価に、鉄や銅の製品、原料を輸入し、。
やがては、ぜいたく品に変わり、豪族が富を蓄積したのだと思います。
 241米作り
米作り 米作人の
年間スケジュール
春の耕起道具 農耕具出土品
五千石遺跡
秋の収穫具

 242ムラの建物
古津八幡山遺跡では18次までの発掘調査で住居約50棟見つかっています。住居は地面を掘り下げて作る竪穴式です。
山から水が流れ込まないように、掘った土を周りに盛り上げて、更にその外側に溝を掘っています。
住居の形は隅丸方形で、4本の柱と中央に炉があります。また、壁際にはものを貯蔵する穴が見られます。高床倉庫は見つかっていませんが、未調査の範囲にあったのではないかと推測しています。

ムラの建物 下馬場遺跡(上越市) 滝ノ前遺跡(村上市) 古津八幡山遺跡の竪穴建物の大きさ 古津八幡山遺跡の住居は、一辺7~4mまで大小ありますが、一辺5mが平均の大きさです。
特別に大きな住居はないので、まだ、身分の階層さは大きくはなかったと思われます。
 243ムラの食事
弥生時代の遺跡からは米だけではなく、いろいろな植物の種や実が見つかっています。
日本では夏場にひとたび台風が来れば、たちまち米が収穫できなくなりました。
米を秋に収穫し、倉庫に蓄える場合でも、夏には蓄えが少なくなったでしょう。

縄文時代から利用されてきたドングリ類や、大陸から水田稲作と共に伝わった夏に熟す果実類か、米が採れないときの備えになりました。
また、狩りも引き続き行われていました。

ムラの食事 検出遺跡数の多い植物依存体
全国の弥生遺跡出土の植物の種子や実です。
ドングリ
イモ
(モモ)
マメ類
ヒョウタン類
クルミ
クリ
麦類
ダデ類
マクワウリ
トチの実
ツバキ
ヒシ
西郷遺跡出土の動物依存体
ニホンジカ
タイ

タヌキ
イノシシ
ヘビ
コイ
ネコ
カモ
サケ
  
 
 260再現!邪馬台国の頃の古津八幡山 (古津八幡山ジオラマ)

 263  ムラの風景
新津丘陵から越後平野を望んだ弥生時代後期のムラの風景です。今から約1800年前の秋のある日を再現しています。稲刈りの季節。クリの実が
落ち、コナラは紅葉が始まっています。遠くには越後平野の原風景である弥彦山・角田山や、日本海・佐渡島が見えます。
信濃川・中ノ口川や阿賀野川などの川の流れは海岸に広がる砂丘によって遮られ、平野には潟湖や湿原が広範囲に広がっています。

 ムラの様子
丘の上のムラは紀元50年から250年頃の約200年間続きました。ムラの人口は80人から100人程で、人々は竪穴住居に住んでいました。ムラができてから100年程が経過し、壊れた住居も見られます。ムラを囲む環濠はまだ完成していないところがあります。
高床倉庫は見つかっていません。米を蓄える穴倉も見つかっていないので、高床倉庫が集落のどこかにあったのではないかという推測の元、未調査範囲に復元しています。

 ムラの植物
ムラの周囲の植物は、花粉分析・植物珪酸体(プラントオパール)や種実の分析から復元しています。
谷などの湿った所にはハンノキ・トチノキなど、丘陵の乾燥したところにはクリ・コナラ・クヌギなどが生育していました。
クリ・コナラなどの実は食用として利用されていました。
ムラの周囲には現在と同じくクマザサ(チマキザサ・ミヤコザサ)が多く見られます。山裾の谷や扇状地には水田を復元しています。

ムラの風景
ムラのようす
ムラの植物
ムラの植物 ムラの風景
ムラの様子
 264

 265ムラの人々
ムラでは東北系・北陸系・地元系の3系統の土器が使われていました。土器の系統差はその土器を作った人々の出身地を示していると考えられます。
その系統を区別するために、着衣の色をも東北系:青色、北陸系:緑色、地元系:生成り(黄色)で区別しています。

村の人々 天王山遺跡 白河市
東北系
吹上遺跡(上越市)
北陸系
古津八幡山遺跡
地元産
篠ノ井遺跡群(長野市)
長野系

 男の仕事と女の仕事
様々な労働の場面の復元は、発掘調査で見つかった遺構や遺物を根拠にしていますが、他の遺跡を参考に推定復元したものもあります。
男と女のどちらの仕事であるかの根拠は、文化人類学者のC.P.マードックの民族例を参考にしています。それによると男が主にする労働、男女共有の労働、女が主にする労働があります。狩猟や木の伐採などは男の仕事、水運びや調理・土器づくりなどは女の仕事の場合が多かったようです。
男の仕事と女の仕事 模型のシーン 労働の性的分業

 新潟県下越地域の主な墳墓
下越地域(新潟市以北)の
主な墳墓

古津八幡山遺跡
前方後方周溝墓13.0m
方形周溝墓6.3m
弥生時代

菖蒲塚古墳(前方後円墳)54.0m
山谷古墳(前方後方墳)37.0m

城の山古墳(円墳)41.6m
緒立八幡宮古墳(円墳)30.0m

古塚八幡山古墳(円墳)60.0m
 267鉄斧と石斧
鉄斧 石斧
 


 300弥生終末期



 301四角い墓とムラの長 ~弥生時代~

 301方形周溝墓
 301
四角い墓とムラの長
弥生時代
    ムラはずれで始まったムラ長の葬儀。
次のムラ長が鹿角の把で飾った剣を副えようとしています。棺の中には弓矢も見えます。 
死んだムラ長は勇敢な戦士だったのでしょうか。
それを見守るのは家族や各地から集まった人たちです。
墓の周りには酒や食べ物が入った壺や深鍋が備えられています。

  弥生時代後期 約1900年前
    丘の頂に集うムラ人。青白い月の光に浮かび上がる大きな墓の前で、
人々の掛け声と手の拍子に合わせ舞い踊る鳥の姿の巫女。

秋の収穫前で、意外と食料の少ないこの時期、ムラ人の一層の団結と
健やかなることを願い、祖先の偉大なムラ長に心から祈りを捧げています。

 弥生時代終末期(約1750年前) 
 305埋葬施設
環濠の外側に作られた方形周溝墓 方形周溝墓1
埋葬施設に副えられた鉄剣と鏃 周溝から出土した土器 方形周溝墓2 壺棺
方形周溝墓3 最も高い所に作られた前方後方形周溝墓 前方後方形周溝墓
 310遺物
 311


組合せ式木棺
 墓に共献された壺
・在地系(八幡山式)
・東北系(天王山式)
  弥生後期
  1号周溝墓
副葬品 弥生後期

・アメリカ式石鏃
 1号周溝墓
・鹿角製の把
 新保田中中村遺跡
 高崎市
  弥生後期

アメリカ式石鏃 鹿角把装短剣
弥生後期 1号周溝墓
 313
共献土器
2号周溝墓 弥生後期

器台 北陸系(法仏式)

壺 北陸系(法仏式)

壺・甕
在地系(八幡山式)

深鍋 甕
北陸系(法仏式)

深鍋
在地系()八幡山式
 314壺棺

共献の壺・甕・高坏
在地系(八幡山式)
棺に用いられた壺
東北系(天王山式)
 

 320方形周溝墓

 321
方形周溝墓の埋葬施設から見つかった鉄製の短剣です。鹿角の枝の部分でできた把がついていました。
遺体の腹部付近に剣先を足の方に向けて添えられていました。類似のものは、東日本の弥生時代中期後半から終末期の遺跡で見つかっています。
古津八幡山遺跡の鉄剣は最北の事例です。朝鮮半島製の鉄剣に日本で鹿角製の把が装着されて、もたらされたと推測できます。
布らしいものが過付着しており、布で大切に包まれていたことがわかります。
鹿角の把で飾った鉄剣
(鹿角装鉄剣)
鹿角装鉄剣と
鹿角製把分布図
鹿角装鉄剣と
鹿角製把分布図
 322方形周溝墓とムラ長
環濠の外から、方形周溝墓が3基見つかりました。3基という墓の数は、一時期のムラの人口が85人程度と推定されていますので、とても少ない数です。有力者に限られていたのでしょう。
墓の一つからは埋葬施設が見つかりました。その中に入れられた棺は木の板を組み合わせた木棺であることがわかりました。
中からは短剣と矢尻が見つかっていますが、ムラ長に副えられた副葬品と考えられます。

方形周溝墓とムラ長
方形周溝墓と壺棺の分布 古津八幡山遺跡の方形周溝墓に見られる各地の様相
 323墓道が発達した四角い墓(前方後方形周溝墓)
標高55mの最も高い場所から1基だけ見つかった墓で、弥生時代終末期に作られたものです。その頃には丘の上にあった竪穴住居はなくなり、環濠は土砂でほとんどが埋まっていました。
墓は前方後方形周溝墓とよばれているものです。周溝の一辺の中央にある通路が次第に発達して前方後方形になったと考えられています。
古津八幡山遺跡の前方後方形周溝墓は、会津地方にある弥生時代後期・終末期の墳墓を解明する鍵を握っています。

墓道が発達した四角い墓(前方後方形周溝墓) ➀方形周溝墓の一辺のほぼ中央に通路(墓道)を持つ者が見られるようになります。
   奈良崎遺跡(長岡市)
②中央の墓道が拡張し、前方部への進化が始まります。
   古津八幡山遺跡
③東海地域を先駆けに前方後方墳へと大形化していきます。
   稲荷塚遺跡(会津坂下町)
 324豊作の祈りをする鳥の姿をした巫女
北区葛塚遺跡から見つかった壺の体部に、鳥の姿をした人物が描かれたものがあります。この土器は古墳時代前期のものですが、西日本の弥生中期にも人物が描かれた土器があります。
葛塚遺跡の絵は、左手を腰に当て、右手は高く挙げて何かを持っています。右を向いた頭部は鳥のようです。
鳥が稲穂をくわえて運び、落ちた稲穂から稲が育つという伝承から、豊作を祈るシンボルとして鳥が描かれたと考えられます。
古津八幡山遺跡には鳥形の土製品もあります。

豊作の祈りをする鳥の姿をした巫女 線刻人物画土器
赤く塗られた体部に細いヘラで人物が柄が画れています。
          
 


 350弥生終末期


 351遺物 居村遺跡D地点 弥生後期終末
縄目文様の土
東北北部系
弥生後期終末
居村遺跡D
文様のある円盤
東北系
鉄器用砥石
羽状の縄目文の深鍋
東北北部系
縄目文様の壺
東北系
打ち割られた石片 縄目文様の土器

 353北から来た人々(居村遺跡D地点)
古津八幡山遺跡の南方約300mにある丘の上から径1m程の穴が2基見つかりました。穴からは羽状や縞状の特殊な縄文の土器と砥石、石を打ち欠いた破片がまとまって出土しました。
土器の特徴から、弥生時代終末期のものと考えられます。この特殊な縄文は秋田県など東北北部に類例があります。
穴の周辺には住居はなく、この二つの穴は東北北部から来た人々が残した墓と推測されます。
米や鉄器を求めて遠くから来たのではないでしょうか。

 後北C2‐D式土器出土遺跡
寒川Ⅱ遺跡では特殊な縄文の土器と共に続縄文式土器と鉄器が出土しています。

 後北C2‐D式土器分布
※弥生前期後半からの寒冷化によって、沢山の弥生遺跡が放棄され、多くの弥生人が南へ避難していった。
北海道からは寒冷化を避けるために多くのアイヌ人が南下し、放棄された弥生集落に入って北海道式の農耕を始めた。
彼らが持ってきた、作っていたのが後北式土器である。

一方、半島系弥生人は南の母村に帰っていったが、弥生化してしまった在地縄文人の末裔は、知るはずもない縄文的生活を始めた。
彼らが作り使っていた土器が天王山式土器である。

北から来た人々(居村遺跡D地点) 特殊な縄文の土器が出土した穴 後北C2-D式土器分布 寒川2遺跡(秋田県)
 
 


 400古墳時代


 401蒲原の王墓-古墳時代


 410古墳前期のムラ

争いごとが収まると、ムラ人は丘の上から麓に住まいを移しました。この地域を治めた豪族が住む屋敷(居館)が ムラの一画にあります。
ここで、政治・経済・軍事・宗教などの活動が行われました。かつてムラがあった丘の先端には土を盛り上げた大きな墓(古墳)が築かれています。

 古墳時代前期 約1600年前

古津八幡山周辺

古津八幡山古墳 古墳頂上部 頂上部の作業風景 盛土
古津八幡山古墳
今も残る周溝
古津八幡山古墳

 古墳の造営
古墳を作るには、設計や土木工事などこうどな技術が必要とされました。また、多くの人々が長い期間働かなければなりませんでした。
収穫祭か゛終わると、王のために一致団結して古墳づくりを進めます。
周辺のムラからやって来た人々は濠を掘っています。そして、その土砂を設計図通りに一生懸命に運んでいます。
  古墳時代前期 約1600年前

 古墳の造営    
途切れる周溝 周溝に堆積した土 葺石で覆われた古墳 埋葬施設発掘調査 菖蒲塚古墳
隼人塚古墳
観音山古墳

 420暮らしの土器
 421森田遺跡
森田遺跡 貯蔵用壺 土師器
古墳前期 森田遺跡
蒸し器 甑
古墳中期 舟戸遺跡
蒸し器 煮炊き用深鍋
古墳中期
 422舟戸遺跡 弥生中期
小型壺 土師器
中期 舟戸遺跡
真ん中の葉ハソウではないかな
貯蔵用壺
坏・鉢 土師器
中期 舟戸遺跡
高坏
 423塩辛遺跡 古墳後期

坏・椀 土師器 高坏 破片 煮炊き用深鉢 蒸し器
 

 430蒲原の王墓の時代

 
 431神原の王墓の時代 -古墳時代-
 432蒲原の王墓-古津八幡山古墳-
古津八幡山古墳は直径60mの円墳で、新潟県内最大の大きさです。古墳の多くの部分は土を盛って作られています。
古墳の南西部に幅約8mの濠が掘られており、ここから出た土を古墳の盛り土として利用したと考えられます。
古津八幡山古墳を作った人物がどのくらいの範囲を治めていたのかは不明です。
信濃川と阿賀野川に挟まれた交通の要所に位置していることから、東西・南北地域との交流などで越後平野を股にかけて活躍していた人物像が推測されます。
蒲原の王墓
-古津八幡山古墳-
古津八幡山古墳
平面図
弥生時代の環濠跡
盛り土断面
墳長中央の木土断面
古墳の斜面

古代の溝
墳頂上段部端推定ライン
墳丘端推定ライン
盛り土断面
墳長部 濠の断面図
盛り土断面図

 433高地性集落の解体と古墳の出現
弥生時代終末期になると、古津八幡山遺跡の高地性集落は廃絶を迎えます。一方、麓の低地に舟戸遺跡が新たに出現します。
この時期、越後平野の低地部では、新たに集落が出現したり、集落での遺物が増加したりするなど、社会の大きな変化があったことが推測されます。
古津八幡山古墳が築かれるのは八幡山集落の廃絶から約150年後のことで、弥生時代の墓に比べて規模が飛躍的に大きくなっています。
舟戸集落からよく見える場所に築かれました。

高地性集落の解体と古墳の出現 新潟市周辺の弥生・古墳時代遺跡分布図 運転免許センター付近 新潟大学前駅付近 弥彦山付近

 434古津八幡山古墳の造営
古津八幡山古墳では、厚い所で2m以上もの盛土が行われていました。盛土の量は推計1900㎥で、これはダンプ300台以上の量です。
このうち、古墳の濠の掘削で得られる土量は約7割に過ぎず、足りない分は濠の南西側の地表を削るなどして補ったと考えられます。古墳づくりには延べ6000人が関わったと計算できます。仮に1日30人が参加したとして、半年以上もかかる計算になりますが、実際はどうだったのでしょう。

古津八幡山古墳の造営 古津八幡山古墳の
作業風景(濠の部分)
古津八幡山古墳
断面模式図

 435さまざまな古墳の形
古墳の形は自由に選択できたわけではなく、埋葬された人物の血縁関係などに基づいて決められた可能性が考えられています。
越後平野の前期古墳では、古津八幡山古墳を初め、3番目に大きい、城の山古墳、6番目の規模で葺石を持つ緒立八幡宮古墳など、規模の上位に円墳が多い傾向にあります。菖蒲塚古墳・保内三王山古墳群より北の古墳が円墳で占められる点も含め、これら円墳に葬られた人物像が注目されます。

さまざまな古墳の形 古墳の形と序列

 436北限の主な前期古墳

 437豪族の屋敷(居館) -舟戸遺跡-
古墳時代、力のある首長は屋敷(居館)に住んで、政治や経済活動を行っていました。
一般的に居館は濠で方形に囲まれ、濠の内部には柵や建物が整然と建てられています。
古墳時代中期の舟戸遺跡では1辺約7.5mと大形の竪穴住居や杭列(柵)などが見つかっています。

大形の竪穴住居にはカマドが作られていた可能性が高く、新潟県内でいち早くカマドを取り入れた先進的な集落であったと推測されます。
遺物量も非常に多く、この遺跡が居館であった可能性も考えられています。

豪族の屋敷(居館) 
-舟戸遺跡-
舟戸遺跡の平面図 新潟県における古墳時代中・後期の竪穴住居の規模

 438米の食べ方
古墳時代中期・後期は、個人別の食器が普及したり、竪穴住居の調理施設が炉からカマドに変化するなど、食生活の形が大きく変わる時期です。
また、米の調理も蒸し器である甑が定着してきたことにより、それまでの水と米を一緒に入れて炊く(煮る)方法から蒸す方法が主流となったようです。
塩辛遺跡の甑の底には、穴をひとつあけたものと、複数あけたものがあります。後者は西日本に多いタイプで、なぜ塩辛遺跡に存在したのかか、その背景が注目されます。

米の調理法の変化 米の調理法の変化
弥生~古墳前期(炉)甕で煮る
古墳中期~後期(カマド)甑で蒸す
甑の地域性
半島~西日本(多孔底)
東日本(一つ穴)
 
 


 500蒲原の製鉄基地 ~奈良・平安時代~

 510
 511蒲原の製鉄基地
越後国蒲原郡金津の寛永製鉄吉。山裾では炭窯から煙が何本も立ち上っています。クリやコナラなどの木々は伐られ、木炭の材料になります。
鉄の原料である砂鉄を溶かすために沢山の木炭が使われました。

平野には多くのムラが見えますが、原野の開発には斧や鋤(スコップ)など鉄の道具は無くてはならないものでした。
  奈良・平安時代 約1200年前


蒲原の製鉄基地
-奈良・平安時代
蒲原の製鉄基地
 製鉄基地 蒲原 炭焼窯と製鉄窯
黒い線は出銑の跡
炭焼窯
 513製鉄炉
「もうすぐ、雪が積もりそうだ。作業を急ごう!」
クリやコナラを伐り、炭窯に入れています。
製鉄炉には砂鉄と木炭が交互に入れられています。
フイゴを踏む作業は大変なので代わり番子です。
「この付近の木はみんな伐ってしまった。
15年後に大きくなったら、また、戻って木炭を焼こう。」
  奈良・平安時代 約1200年前

炭焼き準備 炭焼窯 コナラ伐り出し
製鉄炉 出銑

 515居村遺跡E地点
製鉄炉と木炭窯
居村遺跡E地点
箱形製鉄炉
居村遺跡E地点
製鉄炉と木炭窯
大入遺跡C地点
竪型製鉄炉と踏みフイゴ
大入り遺跡C地点
竪型製鉄炉と踏みフイゴ
居村遺跡C地点
長大な木炭窯
居村遺跡A地点
短くて幅広な木炭窯
居村遺跡C地点
 
 521平安時代の遺物

碗 土師器
平安時代

浅鍋 土師器
壺、水瓶 須恵器
坏 須恵器
平安時代

煮炊き用小鍋
有台坏 居村遺跡C
碗 居村遺跡C
長胴甕(湯沸かし用)


 木炭からわかった奈良平安の林の姿
木炭窯から見つかった木炭49点の木の種類を調べたところ、クリ43%・シデ類16%・ブナ12%・ナラ類6%・ハンノキ6%などとなっています。
現在、クリ・ナラ類(コナラ・クヌギ)は多く見られますが、ブナは金津丘陵全体でも数本しか確認されていません。奈良時代以降の気象変化によって衰退したと考えられています。(※ブナは冷温帯、ナラ類は冷温帯下部の暖温帯が適地)

木炭からわかった奈良平安の林の姿
 523製鉄遺跡の遺物
熱を受けていない
黒い砂鉄
奈良時代 居村遺跡E
熱を受けた赤褐色の砂鉄 奈良時代
居村遺跡E
伐採の跡が残る木炭
平安時代 居村C
今も銀色の輝く鉄塊
平安時代
フイゴの羽口
平安時代 居村D
鉄器を研ぐ砥石
平安時代
上浦B遺跡
鉄鎌
平安時代 上浦B
鍬の刃先
袋状鉄斧
平安時代
上浦B遺跡
 

 530蒲原の製鉄基地


 531需品だった鉄の道具 (鉄製品)
越後では奈良時代から平安時代にかけて集落が増え、9世紀後半に最も多くなります。また、10世紀中頃から12世紀中頃の約200年間に、水田の面積が約1.6倍にも増加しています。このような、新しい集落や水田の開発には、斧や鋤・鍬などの鉄の道具はなくてはならないものでした。
もし、鉄の道具が無ければ、このような開発は不可能だったのではないでしょうか。鉄製品の材料をつくる製鉄基地は、重要な施設として役所が管理していました。

必需品だった鉄の道具
鉄製品
越後・佐渡の田の面積 水田の開発には、鉄斧で木を切り倒し、鋤や鍬で水路や水田を切り開きました。
 532奈良時代・平安時代のものづくり
当時の新潟県は越後・佐渡の2国に分かれていました。越後国は岩船郡・沼垂郡・蒲原郡・古志郡・三島郡・魚沼郡・頸城郡の7郡、
佐渡国は羽茂郡・雑太郡・鴨郡の3郡からなっていました。
工具や農具などの材料になる鉄、そして食べ物を蓄えたり盛り付けたりする須恵器という焼き物は原則として郡内で出生産し、使われていました。
大規模な製鉄遺跡も当時の郡ごとに残っています。

奈良時代・平安時代のものづくり 新潟県内の製鉄関連遺跡(奈良・平安) 佐渡島 下越 上越
 533「金津」の地名の由来
古津八幡山遺跡のある丘陵南側の麓から新潟県立植物園にかけての南北450m、東西650mの範囲で製鉄炉7基や木炭窯20基以上、鉄くず約9.5tなどが見つかっています。これらは奈良時代から平安時代の遺跡です。鎌倉時代の文献に見られる「金津」の地名はこの鉄作りに由来するものです。
当時、新津丘陵は蒲原郡のものづくりの中心地でした。新津丘陵東側は須恵器・土師器という焼き物づくり、西側の金津丘陵では鉄作りが行われていました。

「金津」の地名の由来 金津丘陵製鉄遺跡群
平面図
「金」のつく製鉄遺跡
 534鉄製品ができるまで

鉄製品ができるまで

1砂鉄集め
鉄の原料である砂鉄を集めます

2炭焼き
燃料であり還元剤になる木炭を焼く。

3製鉄(製錬)

砂鉄と木炭を製鉄炉に入れ手加熱・還元して鉄を作ります。

4鍛冶
【a精錬鍛冶】
鉄塊を鍛冶炉に入れ、加熱し、付着していた不純物(かす)を溶かして、鉄と分離させます。
【b鍛錬鍛冶】
鉄を真っ赤になるまで加熱して柔らかくし、叩いて鉄製品を作ります。
(鋤・鍬・鎌・斧・刀子など)

5鋳造鉄塊を甑炉こしきろに入れ、加熱して溶かす。更に鋳型に流し込み鉄製品を作ります。
(鍋・釜・梵鐘・仏具など)
 535鉄の種類(軟鉄・鋼・鋳鉄)
鉄は含まれる炭素量によって、軟鉄・鋼・鋳鉄(銑鉄)に分けられます。現在の和包丁は、中心の地金は軟鉄で、刃先は鋼で作られています。
作られる製品によって、使用される鉄が選ばれました。遺跡から見つかった鉄は、当初は鋳鉄がありませんが、時代が新しくなるにつれて、鋳鉄の比率が増えます。これは、製鉄炉を高温に保てるようになったという技術的な進歩によるものではないかと考えられます。

製鉄遺跡から見つかった鉄塊の種類 鉄の種類と特徴
 536貴重だった鉄―小さな鉄を集める―
千年以上前の遺跡から見つかった小さな鉄塊を分析のために切り取ると、今も銀色に輝いています。
奈良・平安時代の製鉄炉でできた鉄はとても小さなものでした。
奈良時代の居村遺跡E地点では12.5g以下のものが65%と過半数以上を占めます。
平安時代の大入り遺跡A地点では25g前後のものが多くなり、大きさにもばらつきが見えます。
時代が新しくなるにつれて、技術的に進歩し、大きな鉄ができるようになったと考えられます。

居村遺跡E地点鉄塊重量別頻度(奈良時代)
大入り遺跡A地点鉄塊重量別頻度(平安時代)
 537製鉄炉と木炭炉窯の二つの形
金津丘陵製鉄遺跡群で見つかった製鉄炉と木炭炉は、時代によって形が異なります。
奈良時代には箱型炉という横長の製鉄炉と長さが11mにもなる長い木炭窯が作られました。富山県など北陸地方に類例が多くあり、北陸道に属していた越後国の特徴をよく示しています。
平安時代には竪形炉という筒形の製鉄炉と幅広で長さが短い木炭炉が造られました。
竪形炉は関東地方など東日本で多く見られるものです。平安時代に新たな製鉄技術が伝わったと考えられます。

製鉄炉と木炭炉窯の二つの形
奈良時代の製鉄炉と
木炭炉
箱形炉 箱形炉
居村遺跡E地点
長大な木炭窯
居村遺跡A地点
平安時代の製鉄炉と
木炭炉
竪形炉 竪形炉
居村遺跡C地点
幅広な木炭窯
居村遺跡C地点
 
 
 600古津遺跡の環濠集落
 601弥生後期

外環濠D断面土層 外環濠D土層断面剥ぎ取り 古津八幡山遺跡調査
位置図
環濠の土層種別
古津八幡山遺跡
地形模型
竪穴住居復元



 つぶて石
※これまでの博物館ではあまり見たことが無かった展示物です。
 この環濠集落が実際に敵に襲撃されたという証であり、そのときに応戦した武器です。環濠の中に落ちたということは、敵は環濠を渡って侵入を試みたようです。環濠の向こう側にいる時ではなく(投げ返される)、環濠のぬかるみに入った時に投げて攻撃した。しかもかなり頻繁に襲撃があったようで、環濠の各位相に落ちており、一部の発掘で出るということは、全体にはもっと沢山投てき弾として投げ込まれていたのでしょう。
吉野ケ里を初め、環濠をもつ集落の発掘では、このような展示はないので、石は無視され捨てられてしまったのかもしれません。大変貴重な遺物です。

つぶて石
 603外環濠C 土層剥ぎ取り
外環濠C土葬断面剥ぎ取り 外環濠C末端
ここからもつぶて石が出ています
 

 610大入製鉄遺跡-平安時代 9世紀

 平安時代の製鉄炉 -竪形炉- (大入り遺跡C地点)
古津八幡山遺跡のある丘陵の南東の麓で見つかった大入り遺跡C地点の製鉄炉です。今から約1100年前、9世紀後半の平安時代のものです。
砂鉄を原料に木炭を燃料として用いた製錬炉です(※鉱石からまだ純度の低い金属を取り出す炉)。炉の背後にある踏みフイゴを用いて炉の中央にある突出部(羽口)から送風されていました。
元々の炉の高さは1.5m程と推測されます。炉の底にできた鉄塊は前方を壊して取り出しました。炉の周囲から約1tの鉄くずが出土しています。


平安時代の製鉄炉 -竪形炉-
 (大入り遺跡C地点)
製鉄炉と踏みフイゴ 大入り遺跡C地点 竪形製鉄炉 炉壁に張り付いた
鉄滓
 
 
 


 700企画展「天王山式土器から見た東日本の弥生社会」
     〔古津八幡山遺跡成立期の動向〕


 701古津八幡山遺跡 弥生後期前半 
   ※展示の意図はここで、弥生式土器と天王山式土器の明らかな違いを見せているのだと思います。

甕 北陸系
外環濠C中層出土
(弥生式)
弥生時代後期前半
壺 東北系
弥生時代後期前半
壺 東北系
(天王山式)
 
 
702プロローグ
 2020年 史跡古津八幡山 弥生の丘展示館・新潟市文化財センター
 企画展2 邪馬台国の時代8


 天王山式土器から見た東日本の弥生社会 -古津八幡山遺跡成立期の動向- 開催にあたって
古津八幡山遺跡には縄目文様が付けられた弥生土器があります。これらは、主に東北に分布する「天王山式」と言われる土器で、1950年に福島県白河市天王山遺跡からまとまって出土したことに由来します。
天王山式土器は、その時期・年代や系統・系譜などを解明することが難しく、いまだに揺れ動いているのが実情です
その要因の一つとして、天王山遺跡からは東日本各地域の様々な系統の土器が出土しているために、北海道から東北南部、東関東や北陸・長野など実に広範囲で研究を行う必要があるからです。

視点を変えれば、天王山式土器を研究することによって、当時の人々のダイナミックな動向を垣間見ることが可能になります。
時代は、弥生時代後期初め (紀元1世紀)、ちょうど古津八幡山遺跡が成立する頃の事です。
古津八幡山遺跡の高地性集落、天王山遺跡が成立する頃の動向を、土器に付けられた特徴的な文様に着目し、少しだけ迫って見たいと思います。

日本海側から見た天王山式系列土器への接近です。

ここ、第1会場では
 古津八幡山遺跡とほぼ同時期の新潟市内の遺跡を紹介します。第2会場(新潟市文化財センター)へも是非お越しください。


天王山式土器から見た東日本の弥生社会
開津台畑遺跡 加納谷内遺跡 六地山遺跡 能登遺跡


 天王山式土器
 天王山遺跡  (福島県白河市大字久田野字豆柄山
遺跡は阿武隈川と高橋川の間に残丘状にある独立丘陵の頂上に位置する。標高は407m、阿武隈川との比高差は約80mである。
1950年に発掘調査が行われ、完形土器が多数出土した。
本遺跡出土土器を標識として東北南部の弥生時代後期の土器形式「天王山式」が設定されている。

類似する土器は東北南部から北部に広く分布する。天王山式分布範囲の外郭圏としては、北海道南部や北陸にも分布する。重要な点は、天王山遺跡は、古津八幡山遺跡と同じ高地性集落であること(遺跡の性格がよくわからないが、)天王山式土器分布圏の太平洋側の南限に近い位置にあるという点である。

開催にあたって
上に記述
天王山式土器
天王山遺跡
上に記述
土器の破片を何故展示しているのか?
未記述
 703企画展関連遺跡map 弥生時代中期後半~後期前半の主な遺跡
北海道南部、下北半島 青森県 秋田・岩手 新潟・福島 東北南部・新潟・信州
北関東
北陸・長野・新潟 展示コーナー表 展示コーナー裏

 706舟戸遺跡 弥生時代後期前半 丘陵のの遺跡
重菱形文

 古津八幡山遺跡 弥生時代後期前半 丘陵の遺跡
同心円・渦文 口頸部間の小連弧文
平行沈線文系
重菱形文系
平行沈線文系

重菱形文系
平行沈線文系
重菱形文系

 707国史跡古津八幡山遺跡 出現期の様相
古津八幡山遺跡の麓にある舟戸遺跡からは弥生時代中期後半の遺物が見つかっていますが、古津八幡山遺跡からは1点も出土していません。
今までの調査結果によれば、古津八幡山遺跡は弥生時代後期前半(紀元1世紀頃)に出現すると考えられます。

古津八幡山遺跡中心部の北東側にある外環濠Cから出土している土器が後期前半(八幡山遺跡1期新段階)に属します。
遺物は環濠の中ほどの土層から出土しているで、環濠が掘削された時期はそれよりも遡る(古い)可能性が高いのではないかと推察されます。

古津八幡山遺跡では後期前半の遺跡は明確ではなく、この外環濠Cと竪穴住居が1棟と方形周溝墓などがあるだけです。
出土した土器は北陸系土器が多く、東北系(天王山式系列土器)の点数は多くありません。後期前半の重菱形文系や平行沈線文系土器は展示して
いるものがほぼ全てです。
低地の海岸砂丘上に立地する六地山遺跡や松影A遺跡のような北方系要素が色濃く見られる土器も多くありません。
このことから出現期の古津八幡山遺跡では、北陸系集団主導のもとで高地性集落・環濠が作られたと考えられます。

国史跡古津八幡山遺跡出現期の様相 後期前半の出現期の「交互」刺突文の種類 上・中段:岩手・宮城県
※中段中央は平行沈線文出文様を描いている
下段:新潟県砂山遺跡 イラスト
未記述

 本州東北部の重菱形文系土器の系譜と分布
・青森県では、邪馬尻遺跡藤沢(2)遺跡例のように重菱形文に縄文を充填する例は古い要素のもの。
念仏間遺跡西山遺跡の上胴部に縄文充填山形文を入れるキメラ土器は、アヨロ遺跡例のように北海道の恵山式の要素を取り入れた例。
 現状では青森県域でしか類例はない。
※西山遺跡の頸部・上胴部の刺突列は砂山遺跡例に類似し、後期前半に位置づけられることを示す。

 ※キメラ=一つの個体に別の物が混じっていること

本州東北部の重菱形文系土器の系譜と分布
念仏間・滝之不動明
邪馬尻・板子塚
藤沢(2)・道仏鹿糠
西山の各遺跡

アヨロ遺跡
(続縄文式土器)
能登遺跡(福島県)
砂山遺跡(村上市)
六地山遺跡(新潟市)
 708

 708a六地山遺跡 新潟市西区曽和・内野戸中才・内野潟端・内野早角・田島
遺跡は低湿地に囲まれた砂丘上(新砂丘Ⅱ-a)に立地する。発掘地用差は、1956年12月、燕市の石真島衛氏が経費を負担し、長岡市科学館の中村孝三郎氏らによって行われ、平箱11箱の土器片や石の剥片、完形に近い12点の土器など弥生時代後期前半の良好な遺物が出土した。
弥生時代には日本海や信濃川の河道や河口に近い交通の要衝であったと推定される。
現在、この調査による遺物や写真・図面などの記録類は長岡市立科学博物館に所蔵されている。

遺跡は砂丘上にあるため、季節風等による影響で表土層に攪乱が見られたものの、黒褐色腐食層から弥生土器が良好な状態で見つかった。

 基本層序
  1層 表土層:耕作土(約15㎝)
  2層 黒褐色の腐食砂層:(60㎝)遺物包含層
  3層 褐色の純砂層:無遺物層

六地山遺跡は後期前半から終末にかけての遺跡であるが、主体は後期前半(紀元後1世紀頃)で、古津八幡山遺跡の高地性環濠集落が丘陵上に出現する頃である。低地の砂丘上にある六地山遺跡は、古津八幡山遺跡を評価するうえでも重要な遺跡と言えよう。また、東日本では紀元前後(中期後半~後期前半)には遺跡が減少し、この頃の様相が判然としないと言われており、当該期の数少ない遺跡としても貴重である。

出現期には縄文が施された東北系(天王山式系列)と、縄文の施されない北陸系・折衷系があり、東北系土器には北海道や東北北部などの北方系の要素が色濃く残っている。近年の資料調査で、かつての採集資料の中に北海道の続縄文土器が発見され、日本海を介しての直接的・間接的な往来があったことを補強する遺物になっている。

遺跡は1982年の分布調査により、北東から南西方向に長さ約950mの範囲に広がっていることがわかった。また、ボーリング調査等で西側や北側の水田面からは埋没した砂丘列や弥生時代後期の遺物包含層である黒褐色砂層が良好な状態で依存していることがわかっている。
六地山遺跡
上に記述

上に記述


 六地山遺跡の円台形連結文の系譜と分布
六地山遺跡の甕の頸部に入れられた文様の系譜を辿ることは難しく、今まで、この土器の所属時期は後期後半と考えられてきた。
しかし、口縁部の交点刺突下向連弧文は主に後期前半に見られる技法なので、この文様の系譜も後期前半にある構図の中から辿る必要がある。

明確ではないが、円形と台形を組み合わせた「円台形連結文」が変容し、双頭渦巻文の影響を受けてできた構図ではないかと考えている。
「円台形連結文」は砂山遺跡の大型壺のように、各地域で壺の上胴部文様として多用されている。
尚、頸部下端の構図は、後期前半に上胴部に入れられる、連結下向連弧文が上下反転したものと考えられる。

六地山遺跡の円台形連結文の系譜と分布
上下反転した
連結下向連弧文

大槻3号墳例の山形文が上下分離し、間に変容した円台形連結文を入れる
はりま館遺跡(秋田県)
能登遺跡(福島県)
 708b六地山遺跡 弥生時代後期前半 長岡市
甕 折衷系
口縁部の突起、片口付
甕 東北系 壺 会津系

上向連弧文・円形浮文
無節縄文R
油田遺跡Y期(第2会場展示)に関係有
甕 東北系

平行沈線による上向連弧文、縄文側面押圧
 
 
 
 710天王山式土器
 730
 731六地山遺跡の弥生土器の特徴
 六地山遺跡は北陸系土器が八割を超え、古津八幡山遺跡はどちらかというと東北南部系が多い。

六地山遺跡の弥生土器は中期終末のものが若干あるが、大半は後期のものである。古津八幡山遺跡同様に北陸系・東北系・折衷系の3系統の土器群があるが、東北系・折衷系土器の様相は大きく異なる。
折衷系 甕:器面調整のナデ。口縁部の縦のスリットは例がない。
折衷系 甕壺:甕と壺の中間のような形。口縁部の横ナデが弱い。
折衷系 高坏:器形は北陸的。口縁部のスリット、坏部下端の刻みは例がない。
東北系 甕:縄文施文。文様帯の区分は東北的。上向き(上開き)の弧線文はローカル。

 古津八幡山遺跡・六地山遺跡の弥生土器集計表(系統・縄文原体)
六地山遺跡・古津八幡山遺跡には北陸系・東北南部系、及び両者の要素を併せ持った折衷系土器がある。折衷系土器の様相は六地山遺跡と古津八幡山遺跡で異なるため、同列には扱えないが、概略の比率を見るうえでは問題ないだろう。
六地山遺跡と古津八幡山遺跡を比べると、北陸系土器の比率が大きくなることがわかる。六地山遺跡では、北陸系に折衷系も含んだ数であるが、古津八幡山遺跡よりも北陸系土器の比率が高いことがわかる。

東北南部系の縄文原体を比較すると、1段目R・Lの比率が逆転している。六地山遺跡ではRL状文など1段目がLのものが約70%ある。
頸部下端の横走縄文・体部の縦走縄文などは続縄文式土器など北海道や本州北部など北方からの影響がうかがえる。
最近発見された続縄文式土器など、海岸砂丘に立地していることも要因だろう。

 六地山遺跡の縄文の施文
 0段目の右撚り(r)・左撚り(l)の撚糸を2本撚ると初めて縄になる。普通、右→左→右と交互に撚ることによって作られる。
六地山遺跡の縄文は、1段目が左撚りのもの(RL)が卓越する。 また、RL縄文を斜位に施文して、条を縦走・横走させるものがめだつ。
これらの縄文の施文方法は、北海道の続縄文式土器に近い。
六地山遺跡の弥生土器の特徴 古津八幡山・六地山の弥生土器集計表 文様原体

 六地山遺跡 弥生後期前半 長岡市 低地・海岸砂丘上の遺跡
高坏 折衷系
口縁部縦スリット
壺 北陸系 壺 折衷系
横なでされない口縁部、直立する頸部
甕 折衷系
口縁部縦スリット
甕 北陸系 甕 北陸系 甕 北陸系
 732
六地山遺跡1948撮影 六地山遺跡
ピンボケ

弥生後期前半
付加条第2種
北方系、縦走縄文
東北系

低地海岸砂丘上の遺跡
甕 北方系縦走文
甕 東北系
RL縦走縄文
 733
続縄文式土器
後北C1式鷲ノ木式沈線区画に沿って施文されたRL縄文
直線的に北方系要素が伝わっていることを示す
櫛・ヘラ状施文具による波状文 甕 折衷系 甕 折衷系 北陸系の器形に縄文が施文された折衷土器
高坏 北陸系
 734
 734a石動遺跡(いするぎ) 新潟市東区本所字居浦他
遺跡は阿賀野川河口から4.5kmほど内陸の石山砂丘列(新砂丘Ⅱ-2列)東端付近の小砂丘に立地する。標高は1m前後。本発掘調査は、県道建設計画に伴い1995・1997年に行われた。

遺物は、弥生時代前期・中期後半~後期、古墳時代初頭が主体を占めている。
中期後半の土器には、北陸系(小松式)、秋田系(宇津ノ台式)、北陸系と秋田系の折衷型式(山草荷式)を主体とし、会津系(川原町口式)、長野系(栗林式)が少量見られる。
折衷型式は3条櫛描文による直線文・波状文が主で、口縁内面に稜を持つのが特徴である。

後期前半には天王山式系列土器の良好な土器が出土している。
口縁部は、上端に方向を変えたハの字状キザミ、その下には連弧文や波状文を入れ、内面上端にも2条の平行沈線とキザミを入るなど類似するが、頸部には重菱形文を入れるものや磨り消し縄文をともなう連弧文を入れるものなどがある。また、体部上半にS字状連繋文や大形山形文を入れるいわゆる
キメラ土器が存在する。
石動遺跡
上に記述

 石動遺跡の口頸部間小連弧文と上胴部山形文の系譜と分布
石動遺跡の口頸部間小連弧文と上胴部山形文の系譜と分布 富山平野の関連遺跡について
・小連弧文や波状文は、口縁部の縦スリット(キザミ)と共に、北方系 続縄文式土器 (恵山式)の影響を受けたもの。

・日本海を介して、弥生時代後期前半に北方の要素が能登半島にまでつたわっていることがわかる。

※太平洋側には見られないので、日本海側ルートであることがわかる。
    石動遺跡(越後平野)
・上胴部の山形文に沿って、弧状や鋸歯状の文様を入れる。
・兵衛遺跡・王子山遺跡にも類例がある。
・内側の三角形の角がクルッと丸くなるクセが特徴。
    舘ノ内遺跡
 会津では唯一に近い重菱形文径土器。
 上胴部文様は連弧文であるが、沈線に沿う潔門が共通する。
 口縁部縦スリット・頸部重菱形文・鋸歯文に日本海側からの影響が見える。
大槻3号墳(石川県)
楯遺跡(青森県)
舘ノ内遺跡(福島県)
石動遺跡(新潟市)

 734b石動遺跡 弥生中期松~後期初頭
石動遺跡 秋田系(宇津ノ台式)
平行沈線で波状文・鋸歯文
区画を列点で描画

←中期末~小秋初頭の北方系要素が強い


会津系(川原町口式)

壺・甕
北陸系(小松式)

壺 長野系(栗林式)

甕 折衷系

甕折衷系
秋田系(宇津ノ台式)
弥生後期前半
3条で直線文・波状文を施文。口縁部内面に稜を持つ

 741キメラ土器
系統・出自の異なる文様が同一個体に入れられた土器を生物学用語を援用してキメラ土器と仮称します。弥生後期前半のキメラ土器は、頸部に重菱形文をいれ、上胴部に各種文様を入れています。文様に何らかの意味があったのではないでしょうか。
筒状の頸部に入れた重菱形文は弥生時代中期後半に日本海側東北北部に一般的な構図ですが、上胴部には描きにくい文様のためか、一部地域を除いては原則として頸部以外には入れられません。
日本海側を中心に北陸で多用され、新潟~青森、太平洋側の青森県~岩手県の一部で見つかっていますが、それ以南では稀です。

上胴部には帯状区画文・円台形連結文・S字状連繋文・弧線山形文などの文様が入ります。
これらの文様は、帯状区画文の様に青森県域でしかないものや、S字状連携文のように、青森県~富山県・長野県・群馬県と極めて広域に分部するものなどがあります。

石動遺跡を典型とする弧線山形文は、胎内市兵衛遺跡・新発田市王子山遺跡でも見つかっています。
S字状連繋文の祖形は中期後半の青森県~岩手県域に見られ、広域移動の証拠の一つです。

キメラ土器 キメラ”の本来の意味 生物学用語
同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態や、そのような状態の個体のこと。嵌合体ともいい、平たく言うと「異質同体」である。

モザイクとは
1個の生物体に、一つあるいはそれ以上の遺伝的に異なる形質が体の部分を変えて現れ、共存する現象。昆虫に多くみられる。同一個体に雄性・雌性の部分が混在する雌雄モザイクなど。

 口縁部下端の「交点刺突下向連弧文」の変遷
口縁部下端の「交点刺突下向連弧文」の変遷 ・滝ノ前遺跡例➀は口縁肥厚部の最下段に交点刺突下向連弧文を入れる。
 形状は六地山遺跡例に類似する。(六地山遺跡は縄文原体側面押圧)
・石動遺跡の2点は交点刺突下向き連弧文が直線化した例(末端に刺突が残る)
・松ノ脇遺跡例は石動遺跡例が更に変容し、沈線が□状に変化している。
・口縁部文様帯の口縁部下に入れられる交互刺突文は、滝ノ前遺跡遺跡・石動遺跡・松ノ脇遺跡で共通する。


 石動遺跡 低地・海岸砂丘上の遺跡 弥生後期前半
和泉遺跡(福島県)
能登遺跡(福島県)
石動遺跡
壺 東北系 東北系甕
3条連弧文
高坏 北陸系 重菱形文(頸部)+
山形文(胴部)
キメラ土器
口縁部:交点刺突下向連弧文系列変容形
?(頸部)+S字状連繋文(胴部) キメラ土器
 743石動遺跡のS字状連繋文の系譜と分布
・太平洋側の青森県八戸周辺~岩手県三陸沿岸にかけてS字状連繫文の祖形と考えられる類例が多く見られる。
 これらには、S字状に入り組んだ上下左右に三角形の構図、(補助文)が入る。(中期後半)

・開津台畑遺跡・能登遺跡の一部・吉田高校グランド遺跡例にはその名残があるが、能登遺跡の大形壺には三角形の構図は見られない。
 (三本目の沈線が名残)
・加納谷内遺跡例は、三角形の補助文を欠くが、狐崎遺跡・砂山遺跡に似て各所に棘状の構図を入れており、日本海側特有のクセかもしれない。

・S字状連繫文は元来は壺の上胴部に入れられる構図であるが、頸部に重菱形文を入れる例とキメラ現象をなし、甕上胴部にも入れられるようになる。
・S字の構図そのものに意味があったのかもしれない。

石動遺跡のS字状連繋文の系譜と分布 石動遺跡のS字状連繋文の系譜と分布
砂沢・狐崎・畑内・
尾樽部・砂山・滝ノ前

開津台畑・能登
石動・下老子笹川
頭川

藤沢(2)・上代川・上野
和井内東・室浜・山崎

山崎・和泉・天王山
吉田高校グランド
長根安坪

加納谷内
開津台畑遺跡(福島県)
和泉遺跡(福島県)
能登遺跡(福島県)
 743b石動遺跡 弥生後期前半 低地・海岸砂丘上の遺跡
石動遺跡
低地・海岸砂丘上の遺跡
甕 東北系
頸部:重菱形文
甕 東北系
頸部:重菱形文
重菱形文(頸部)+
連弧文(胴部)
キメラ土器
続縄文土器との折衷
RL縄文
口縁部:交点刺突下向連弧文系列変容形
口縁部:交点刺突下向連弧文系列変容形 口縁部:交点刺突下向連弧文系列変容形 口縁部:交点刺突下向連弧文系列変容形
同一反復 頸部:連弧文系列 頸部:連弧文系列
頸部:連弧文系列
 
 746石動遺跡周辺遺跡
石動遺跡周辺 石動遺跡の各種の
口縁部文様

 748松影A遺跡 新潟市北区笠柳字郷海老
遺跡は阿賀野川下流右岸の砂丘上(新砂丘Ⅰ-3)に立地する。現標高は約1.5m前後であるが、かつては松影遺跡(A~E)全体で、標高3~10m程あった。発掘調査は1997・1999年に行われた。縄文~古墳時代・古代・中世の遺物が確認されている。

弥生時代の遺構としては、土坑1基とピット1基がある。弥生時代の遺物の大半は包含層出土で、中期後半の土器が数点あるほかは、後期の東北系土器が主体である。

後期の土器は天王山式土器系列に属し、地文はLR縄文、撚糸文(R)が主体で、頸部には連弧文・重菱形文に由来する構図が入れられる。
内外面にハケメを多用する点も特徴である。一方で、RL縦走縄文や大きく波状を呈する口縁部、文様に沿った刺突列など、北方的な要素を色濃く伺うことができる。
天王山遺跡天王山式段階以前に属し、砂山遺跡や王子山遺跡とほぼ同時期と考えられるが、遺跡間で違いが見られる複雑な様相を示している。
土器以外には大形尖頭器・石鏃・磨製石斧・凹石等の石器がある。


松影A遺跡 吉田高校グランド遺跡
長野市
加納谷内遺跡
富山県
松影A遺跡
弥生後期前半
連弧文系列、撚糸文R
文様帯に沿った刺突列
北方続縄文式土器の影響
弧文系列、撚糸文R
文様帯に沿った刺突列
北方続縄文式土器の影響
甕 東北北部系
 746松影A遺跡 弥生後期前半 低地・海岸砂丘上の遺跡
甕 東北系 甕 東北系 甕 東北系 甕 東北系 甕 東北系
 
  ※感想 この企画展はあまりにもマニアックで、まったくついていけません。(笑)
 それにしても、一年前の私は、よくここまで、耐えて文字化したもんだと感心します。現在の私ではもう無理です。文字が読めない。関心が持てない。
 皆さんもどれだけ読んでいただけるか。、、っいものすごい時間をかけて、文字化したんだけどね、、、(~_~;)汗