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目
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11外観
12郷土資料室 入口展示
100大地からのメッセージ
101 1大地の成り立ち
120 2音更川の石
130 3モール温泉
136 4十勝坊主
137十勝坊主と谷地坊主
200遺跡からのメッセージ
201遺跡からわかる大昔の音更
202旧石器時代
2031ヒトはどこから?
※考察-旧石器人の渡来
※考察-言語痕跡から辿る渡来人集団
2052マンモスがいた頃
207②マンモスが来た
※考察-マンモスの渡来
209細石刃と石核 |
210縄文時代
2103縄文人のくらし
220狩の道具
230モノを加工する道具
250食料を加工する道具
2604縄文土器
※考察 縄文土器
262早期
※8.2kaイベント
263早期終末
264前期前半
270前期後半
272中期後半 |
281中期末~後期初頭
※考察 北筒式土器の使い方
282後期~晩期
※考察 土器の中心・顔とは
2905定住的な暮らし
3116祈り・まじない
312埋設土器
※考察 埋設土器とは
313お墓の副葬品
315ペンダント?
317赤い顔料がついた土器 |
320続縄文・擦文時代
3207変化の時代
323続縄文最後の土器
※資料 北大式土器
325擦文土器
330アイヌ文化
3308アイヌ文化へ
331②チャシ
3409発掘された音更の遺跡
343縄文人の忘れ物?
36010アイヌ文化
361エゾ地探検
410音更町の自然
450 12入植 |
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11外観
音更町生涯学習センター
農村環境改善センター |
2021年度迄教育委員会が使用していた。
その後、新たに展示館として整備した。 |
周辺にあった分館(民具館)を統合し閉館した。 |
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12郷土資料室 入口展示
展示コーナーの案内
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大地からのメッセージ
46億年前に地球が誕生してから様々な自然の変化により今の大地の姿になりました。
音更(の位置)もおよそ4千万年年前には海の中にあり、土地の隆起や火山、噴火、川の流れにより時代によって姿を変えてきました。
長い年月をかけて大地が刻んだ歴史を紹介します。 |
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遺跡からのメッセージ
音更町では、100カ所を超える遺跡が見つかっています。十勝では、3万年前に人の暮らしが始まりました。
これまで町内で行われた発掘調査で見つかった土器や石器、生活の跡からわかった大昔の人々の暮らしを紹介します。 |
遺跡からのメッセージ |
遺跡からのメッセージ |
その他の展示コーナー
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アイヌ文化 |
昔の農業と道具 |
昔の暮らしと道具
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音更を伝える絵本
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館内案内図
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100大地からのメッセージ(自然史)
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地面には、土や砂や小石が広がっています。
地面が削られた工事現場や川ぞいにできたガケを見るとしま模様になっていることがあります。
しま模様の正体は地層。何重にも重なっていて、全体として「大地」 とよばれます。
地層の中からみつかる化石や土砂の性質 (地質)によって、いつごろ、 どのように大地が 作られ、 どんな生き物が生息していたかが わかります。
音更の大地を調べてみましょう。
A message from the land
By digging and looking deeper into the ground we walk on, we can find layers of geological strata. We can trace the history of the fauna and flora of this area by looking into the fossils and sediments found within those strata. In this section, let us look into the land of Otofuke. 大地からのメッセージ
私たちが歩いている地面を深く掘って観察すると、地層の縞模様を見つけることができます。 その地層から見つかる化石や堆積物を調べることで、この地域の動植物の歴史をたどることができます。
ここでは音更の大地を覗いてみましょう。 |
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101 1大地の成り立ち 4千万年前~
➀海の時代 2千万年前頃
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大陸から分かれて島になる
恐竜がいた頃、北海道の大地はユーラシア大陸の一部でした。日本海やオホーツク海はなく、すぐに太平洋でした
2000万年前頃、大陸の下にもぐり込んだ「太平洋プレート」の影響で、大陸のヘリにできた割れ目が次第に広がり、数百万年かかって日本海やオホーツク海ができました。
もともと大陸だったところは島になり、その間に海が広がっていました。十勝地域では、日高山脈・石狩山地・白糠丘陵に囲まれた内湾となりました。「古十勝湾」と呼ばれます。 |
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日本海ができたときに東に押された西部と、オホーツク海の方から南に押された東部が合体して「北海道」になりました。西部と東部がぶつかったところに「日高山脈」が誕生しました。 |
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②内湾の時代 500万~150万年前頃
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クジラや貝も住む海
古十勝湾は、一面浅い海(内湾)でした。クジラやイルカ、アシカ・セイウチ、サメ、貝など多くの生物が住んでいました。各地から化石が見つかっています。内湾は東から西に少しずつ移動しました。地層は西ほど新しくなります。200~100万年前頃の内湾は「長流枝内の海(おさるしない)」、そこに溜まってできた地層は「長流枝内層」と呼ばれています。長流枝内の海は、西側が深くなり、東の海底は盛り上がるようになりました。100万年前頃になると、東側は陸化して丘になりました。 |
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およそ500万年前頃から100万年前までも十勝地域には太平洋から海(「古十勝湾」)が入り込んでいました。 |
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③湿原の時代 100~50万年前頃
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湖になった音更町
100万年前頃、石狩山地で大規模な火山の噴火がありました。火砕流が発生し「長流枝内の海」は埋まってしまい、低い土地は湖や湿原に変わりました。
この頃の地層では湿原に住んでいた昆虫や水生植物の化石、北部では土砂に埋まった状態の林が見つかっています。
西に湿原、東に丘陵と言う景色ができました。十勝の北の方では、山から土砂が運ばれ広い扇状地ができています。扇状地をつくる川は細く音更川の原型と言えそうです。 |
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音更町中部台地、西部台地を中心に「湖~泥炭の泥が溜まる湿原」が広がっていました。 |
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④平野形成の時代
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十勝川の誕生
日高山脈は激しい隆起でますます高くなりました。また、石狩山地の火山活動が活発化して新しい山ができました。山は、風雨にさらされ崩れやすくなり「れき(岩のかけら・石)」になります。山脈を流れる水が「れき」を流し、平らな湿原に流れ込み、土砂を堆積しました。
こうしてできた地形を「扇状地」といいます。平野のヘリほど高い土地ができ、音更南部から帯広北部の低い盆地地形ができました。 |
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日高山脈南部の隆起が激しく、たくさんの土砂が運ばれて川をせき止めたので、湿原の水は東に向かって流れるようになり、今の「十勝川」が出来上がりました。 |
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⑤十勝平野の河岸段丘
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河岸段丘
川の上流部にあたる日高山脈や石狩山地が上昇すると、なだらかな傾斜を持った扇状地は川によって削られるようになりました。音更町には北から南に流れる音更川や士幌川・然別川などが川底を削って沈み、河岸の平らな土地を残して崖をつくりました。
こうしてできた崖とその上に広がる平野を合わせて「段丘(河岸段丘)」と呼びます。川に近い段丘ほど新しく作られたことになります。音更町の街や畑のほとんどは段丘の平地の上に出来上がっています。 |
※本州の河岸段丘に比して何十倍も規模が大きく、一見それとはわかりませんでした。 |
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105化石
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音更こども体験隊
化石発掘 |
湿原植物ミツガシワの種
木(モミ属)の化石
70万年前 渋山層 |
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長流枝内層出土
貝化石
150万年前
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貝化石 |
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タマガイがあけた穴 |
タマガイ
貝を食う巻貝 |
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120 2音更川の石 100万年前~ |
121音更川の全体図
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122 1川の上流
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音更川の最上流部には、1億年以上前の海洋火山の溶岩、数千万年前の海底にできた泥岩、100万年くらい前の溶岩などでできた山々が広がっています。 |
石のようす
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音更川の上流、つまり山の登山道の入り口付近には、数十cmの大きさの角ばった岩石の塊がゴロゴロしています。 |
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123 2川の中流
石のようす
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河原には十数cmの丸みを帯びた石が目立ちます。濃い灰色・うすい灰色・うす茶色の溶岩(100万年前くらいの火山)の石がほとんどです。 |
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124 3川の下流
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高速道路の下、音更町市街地の東側を流れる音更川は、流れが緩くなり、小さな蛇行を繰り返します |
石のようす
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河原の石は、角がなくなり小さくなって数cmの大きさになります。種類は中流と似ていますがたまに黒曜石(十勝石)が見つかるなどの特徴があります。 |
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130 3モール温泉 300万年前~ |
131北海道遺産 十勝川温泉 十勝川温泉と十勝川の関係
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分厚い長流枝内層に溜まっている地下水は、東に移動し、十勝川温泉付近の地下で溢れ出して海に向かいます。地表の十勝川と同じような方向の流れが地下にもあるのです。写真の「片口鉢」のようなイメージです。 |
Q&A |
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Q 1.
お湯はどこから来るの?
A.十勝平野の地下水からです。
音更町や帯広市を中心とする十勝平野の地下には、隙間の多い厚い地層があってそこにたくさんの地下水がた まっています。 その地下水が、地下深部の熱で温められ温泉になります。
100m深くなるごとに3℃くらい温度が上がります(全国平均)。 |
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Q 2.
地下水はどこから来るの?
A.雨水です。
十勝平野やまわりの山々にふった雨水は川として海に流れていきます。しかし実は、1割以上が森や畑から地下にしみこんで、地下水として何十年も地下を移動しているのです。移動の間に地層に含まれる植物質がお湯に溶け込みます。 |
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Q 3.
お湯はどこにあるの?
A.長流枝内層にたまっています。
主にお湯をためている地層は長流枝内層という200~100万年前の海底でできました。長流枝内層は、十勝平野の中央部分の地下に広がっています。音更町東部にある長流枝内で見ることができますが、西側の地層は地下深くまで沈んでいます。地下深くの長流枝内層にお湯は溜まっているのです。 |
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Q 4.
お湯なぜ十勝川温泉に湧き出るの?
A.地下水の出口だからです。
長流枝内層は、十勝川と音更川の合流点付近で最も深く、全体に「片口鉢」の形をしています。
お湯は断層のところから溢れるように地下の浅いところを通って流出しています。
そこに十勝川温泉ができたのです。 |
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136 4十勝坊主
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➀十勝坊主
十勝坊主ってどんなもの?
直径数十cmから1m程度のまんじゅうのように盛り上がった地形のことで、寒冷地の地面に幾何学的な模様ができる「構造土」の一種です。
専門的にはアースハンモックと呼びます。アースは大地、ハンモックはでこぼこと言う意味です。
十勝坊主と言う名前は、十勝で見つかるこの地形が構造土であることを発見した帯広畜産大学の山田忍教授が名づけました。 |
アースハンモック
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十勝坊主(アースハンモック)は、北極沿岸のアラスカ、カナダやアイスランドなど、世界の寒冷地域に広く分布する地形です。
国内では十勝平野や根釧台地にまとまった分布が見られますが、形成に必要な条件が限られるため、極めて珍しい地形です。
また、十勝平野は平野部に分布する北半球の南限に当たります。
かつては十勝平野に広く分布する地形でしたが、開拓により現在では数えるほどしか分布地域が残っていません。 |
アースハンモック
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137②十勝坊主と谷地坊主
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十勝坊主に似た形状に、谷地坊主があります。どちらも湿地帯やその周りにできますが、全く違うものです。
やちぼうずは、湿った場所に生育する菅などの植物が集まってできているのに対して、
(・前年生えていたの植物の株の上に新しく生えるために盛り上がる。植物の古株)
とかちぼうずは土でできています。十勝坊主とやちぼうずはよく隣り合う場所にありますが、どちらも湿ったところにできるからです
(・凍結と、融解を繰り返す寒冷地の土壌の運動によりできる。土の塊。) |
十勝坊主・谷地坊主の分布域
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十勝坊主と谷地坊主の分布する場所は、地下水の深さが違います。
十勝坊主分布地の地下水は数十cmセンチ~1m程度の深さにあるのに対して、
谷地坊主分布地の地下水は、地表面の直下にあるか、湿地になっています。 |
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十勝坊主・谷地坊主の分布域
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十勝坊主(土塊) |
谷地坊主(植物塊)
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138③十勝坊主のでき方
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十勝坊主は、凍上(とうじょう)によって成長します。凍上は、土の中の水が凍って霜柱ができ、土が地上に持ち上げられる現象です。
十勝平野では、50cmの深さまで凍ることがあります。春になって霜柱が溶けると地面は沈下して元に戻ろうとしますが、上を覆う植物の根などが支えとなってでこぼこが残ります。こうして、凍上を繰り返すたびに十勝坊主が成長していきます。 |
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地中にできる霜柱は、凍っていない土から水が吸い上げられ成長します。レンズのような形をしているので、アイスレンズと呼ばれます。
凍上のしやすさは土の粒の大きさで異なり、十勝平野に多い火山灰質の土は凍上しやすい性質があります。 |
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139④音更の十勝坊主
指定文化財
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音更(東士幌)の十勝坊主は、昭和49年に発見され、平成12年、町の文化財として指定されました。
ここの十勝坊主は、北海道内でも数少ない「現役の」十勝坊主で、毎年冬になると凍上によって膨らんでいる様子を見ることができます。
今も活動中の十勝坊主はとても貴重な存在で、大切に守っていく必要があります。 |
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200遺跡からのメッセージ(考古資料)
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201遺跡からわかる大昔のおとふけ
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遺跡とは、かつて人が生活していた痕跡が残る場所のことです。
遺跡は、そこで、いつころ、どんな生活があったのかを私たちに教えてくれるただひとつの手がかりです。
このコーナーでは、音更町内の遺跡の発掘調査で出土した土器や石器などを展示しています。
豊かでもあり、きびしい自然の中で繰り広げられた人びとの暮らしのようすを、遺跡から見つかったさまざまなモノを通し感じとってください。
Otofuke's distant past
Archeological artefacts can help us learn much about the way of life of people who lived here in the past. In this section, you can see objects that have been discovered in various archeo- logical sites located in Otofuke. They offer us a glimpse into a past that was at times harsh, but could also be bountiful.
音更の遠い過去
考古学的遺物は、過去にここに住んでいた人々の生活様式について多くを学ぶのに役立ちます。 音更町のさまざまな遺跡から出土した遺物を紹介します。 これらは、時には厳しく、しかし豊かな過去を垣間見せてくれます。 |
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203 1ヒトはどこから?
旧石器時代とは
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日本の旧石器時代は、土器が使われる前の時代とされています。
私たち現生人類(ホモ・サピエンス)は20万年ほど前にアフリカで誕生し、長い年月をかけて世界中に広がりました。
日本列島の各地に遺跡が残されるのは約4万年前、 北海道では3万年ほど前のことです。
十勝では帯広市若葉の森遺跡など約3万年前の石器を出土する遺跡が見つかっています。
人々は氷河期の厳しい環境の中で、工夫を重ねて生活していました。 |
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※考察 旧石器人の渡来
❶なんとなく、旧石器人は北方民族がサハリンから南下して、北海道を通り、本州に拡散した。北海道が最初だと思っていましたが、本気でその間違いに気づきました。
北海道で3万年以上前の旧石器遺跡がまだ見つかっていないのではなく、まだ北海道にはサハリン(樺太島)から南下していなかったらしい。
つまり、朝鮮半島を渡って、もしくは、南のスンダランドからやって来て、本州島に辿り着いた人々の方が早かったようだ。。
本州島の旧石器人や縄文人はその多くが西又は南からやって来て、北海道旧石器人は北からのようだ。
❷しかし、土器文化と石鏃、神子柴型尖頭器は1万6000年前に津軽半島から出土している。
その後、長崎県の福岡洞窟で旧石器人が縄文土器を作る様子が発掘されている。なぜか、北海道には縄文文化を残していない。
結論
【旧石器人の渡来】
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本州島には、4万年前頃、寒冷期には黄海付近は広大な陸地だったそうだから、その南岸を北上してきた海洋民族系(スンダランド)の人々が、
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西の朝鮮半島か、南の琉球弧が中国大陸から延びる細長い島弧となって繋がっていた南東島嶼列から九州+四国+本州と周辺の島々が一つになった古日本列島に渡ってきて、本州島の旧石器人となったらしい。 |
北海道には、3万年前頃、シベリア+樺太島+北海道が連続した半島に、マンモス動物群を追った人々が、北方から南下してきたようだ。
そして、これら地域への渡来は一度だけではなく、何度も行なわれ続け、多くの旧石器家族が列島や北海道に沢山の遺跡を残したのでしょう。 |
その後、様々な文化が西から本州へ、北から北海道へともたらされ、人々の多くの渡来がありました。(様々な石器文化が来た)
【縄文時代の始りは】
1万6000年前の津軽半島大平山元遺跡の、無文土器、石鏃、神子柴型尖頭器に始まります。
(もちろんこれらに付随する高度な技術や文化が合わせてもたらされた。縄文革命だったかもしれない。)
神子柴型尖頭器
特に青森県では、県内の長者久保遺跡で発見されたことから、長者久保石器群と呼ばれ、青森県北部で盛行した石器文化です。
長野県の発見地神子柴遺跡と合わせて、神子柴・長者久保石器群と呼ばれています。
大平山元文化人とは
中国大陸内陸の黄河文化センターなどの地域の人々か、もっと南の雲南などにもあったのかもしれない、地域から、
➀弓矢(中東で発明されたのではと言われる)や、②土器(発祥地は中国南部と考えられている)、③神子柴型尖頭器(アムール川流域発祥)
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をあわせもった最先端の文化人たちが、沿海州から冬にサハリンに渡り、長大なサハリン西岸を南下して、稚内に渡り、陸続きであったろう利尻礼文を通ってサロベツ砂漠を南下し、石狩平野、渡島半島をまわって、徒歩で津軽地峡を冬に渡って津軽半島にやって来たのかも知れない。
もちろん、アムール川流域の操船の達人たちであるから、舟で一気に南下して、津軽半島までやって来たかもしれない。
この特別な一団のみが本州に土器・弓矢と芸術または宗教のような、非実用的な美しい石器芸術をもたらした人々だったのでしょう。
旧石器から縄文時代にかけては様々な文化が持ち込まれているが、北海道に土器文化を残さず、津軽半島で土器を作ったのは、北海道の旧石器人と意思疎通が出来なかったためのようです。
この時、北海道にいた旧石器人と、これらの渡来して来た祖型縄文人とは全く別の民族であったと思われます。 |
しかし、
十勝平野からも神子柴型尖頭器に似た尖頭器(私見)が見られる。これはアムール川流域の神子柴石器群文化人がその後も何度も北海道に渡来し、
神子柴系尖頭器を使っていたからかもしれない。ただし、彼らは土器文化を持っていなかったようだ。つまりは旧石器人だった。
するとやはり、大平山元遺跡に辿り着いた縄文時代の幕開けをもたらした一団は、奇跡の一団だったのかもしれない。
なぜなら、大平山元文化人以降に北海道に渡来した人々は土器文化を伝えなかったので、北方民族と思われる。
従って、大平山元文化人は中国大陸南部からやってきた、南方系だったと考えられる。
【まとめ】
とりあえず、列島の旧石器人は、スンダランドから、今は沈んだ黄海平野沿岸を歩いてきた人々が、西か南から本州島に入ったらしい。
そして、最古の縄文文化は、アムール川流域から3つの文化を携えた人々が樺太から南下してもたらした、特別な南方系の人々だったようだ。
と、思っています。知らんけど。 |
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次項に掲げるのは私の間違いです。 間違いの説明、せっかく愚考を巡らせたのだから、消すのも惜しい。(笑)
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U-tube動画をみて、北方から来た民族をインドヨーロッパ語族、西・南から来た民族ををオーストロネシア語族と思い込み、長時間かけて文章を作りました。時々こんな間違いがあるのですが、今回はネットに揚げる前に気が付いてよかったです。UP日2024.02.22訂正日02.21ギリ恥回避。
何を間違っているか。
ヨーロッパの黒海周辺のヤムナヤ文化のインドヨーロッパ語族が、シベリア南部に来てアファナシェヴォ文化を築いたのは5800年前。移動の原因はペストの大流行だったようです。彼らはタリム盆地に進出してトカラ語を成立させています。ちなみに彼らは西暦800年頃漢人によって滅亡しました。
従って、3万年前に来た旧石器人の言語はどんな種類だったかは全くわかりません。インドヨーロッパ語族はまだ成立していない。
ただ、5000年前は縄文時代中期。北海道では、突然、円筒土器文化が盛行しています。この文化は、中国大陸山東省付近(記憶曖昧)から沿海州まで拡がっていた文化で、中国大陸では、文様がはっきりした精製土器が見つかっています。この円筒土器文化人はコーカソイドかも。
オーストロネシア語族は、台湾が発生地で、台湾から太平洋に舟で漕ぎ出し、南太平洋やマダガスカルまで拡散し、一部は南アメリカに到達して土器文化を残したともいわれます。この移動の開始時期は5000年前と言われ、地球温暖化・縄文海進で、台湾島が中国大陸と分離した頃のようです。
彼らの痕跡は、日本列島周辺にも色濃く残されていることはよく知られており、このHPでも何度も取り上げました。彼らが漂着したのは日本列島だけではなく、伊豆諸島の八丈島や、マリアナ諸島、北硫黄島では、土器と石器による文化を残してます。驚異の民族でした。
次項の考察は、私が見た動画の中では、全く年代が登場しなかったので、勝手に旧石器時代の出来事と思い込み、長い時間をかけて書いた、考察です。そう思って見ると、私自身も笑えます。ことわざにこういうのを評していい言い方があったんだけど忘れました。
参考動画は
以下に揚げた「アイヌ語はどこから来た」以外に、私が間違いに気づいた「アーリア人の由来とインド・ヨーロッパ語族の起源について」
オーストロネシア語族については、オーストロネシア祖語 オーストロネシア語族 #オーストロネシア語族
また、アイヌ語について、アイヌ語南方起源説について アイヌだけではない日本先住民の言語史 ヨーロッパ人とアジア人の祖先は同一集団の子孫 |
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※以下の考察は全て間違いです。引用した動画は正しいのですが、私の解釈は全て間違っています。笑えますが、役に立たないと思います。
随分長時間をかけて誤りを既述しました。
※考察 言語痕跡から辿る渡来人集団
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論旨要約、
アイヌ語はインドヨーロッパ語属トカラ語B(トカラ列島とは無関係)の言語を基礎に、オーストロネシア語族タガログ語が取り込まれた言語である。
私なりの解説
4万年前に本州島に渡来したのは南からやって来た集団と考えました。彼らはオーストロネシア語族。そういえば、、縄文人骨を復元した時に、
南方系のワジャク人に近いとされていましたが、それはこの説の傍証となるでしょう。
3万年前に北海道に南下した集団は、インドヨーロッパ語族の人々でした。それは、この語族特有の言語ルールに残されています。
インドヨーロッパ語族では、日本語と同じSОV構文、オーストロネシア語族はVОS構文。
例:「稚内わっかない」は
アイヌ語で「ヤム・ワッカ・ナイ」で、「ヤム=冷たい」、「ワッカ=水」、「ナイ=沢」。冷たい水の沢となります。
これを、オーストロネシア言語では「沢」+「冷たい」+「水」となり、「ナイ・ワッカ」となります。つまり、稚内はインドヨーロッパ語構文の地名です。
北海道のアイヌ語地名の構文はほとんどがインドヨーロッパ語族の言葉です。その後、オーストロネシア語族がやって来たので、
オーストロネシア語族の言葉を取り入れた地名が散見されます。
赤井川(hure-pet)は、タガログ語の赤い(tpula)+トカラ語の川(petwe)が結びついた言葉。
アシリベツ(asir-pet)は、タガログ語の新しい(sariwa)+トカラ語の川(petwe)
アイヌ語は、
3万年前に南下してきたインドヨーロッパ語族トカラ語Bを話す旧石器人が北海道に先住し、その後、オーストロネシア語族タガログ語話者が来て、
二つの言語のクレオール言語として形成された。ということです。
では、そのオーストロネシア語族はどこから来たのか。本州からですね。
本州には4万年も前からオーストロネシア語族タガログ語話者が充満していて、たびたび北海道に進出していました。
この時にクレオールが起こったと考えられます。
ちなみにニヴフ語の構文は主語-目的語-動詞です。SОV構文
日本語は、
縄文語は既に滅んでしまって日本語の中に単語としてわずかに残る以外、構文をはじめとして、痕跡を残していません。
結論として
既述「※考察 旧石器人の渡来」で述べたことが、アイヌ語の由来を辿る論証の中で確からしいことがわかりました。
ここでは、本州へは南から、北海道には北からということだけを述べます。
アイヌ民族については、論を深めると、北海道で考古学が出来なくなる怖れがありますので、以下に既述した内容は削除します。
長い間
なぜ、北方から来る文化が北海道をスルーして本州に来るのか。
なぜ、1.4万年前に青森から北海道南部に縄文土器文化が持ち込まれたのに北海道全体に拡散しなかったのか。
なぜ、縄文中・後期の北海道で、環濠集落が造られたのか。おそらく沢山の環濠集落ができ、後にアイヌ文化のチャシに変貌したと思っている。
いったい、青森縄文人と、北海道縄文人の間で、どのような対立があったのか。が疑問でした。
それらの答えが、明らかにかけ離れた言語。おそらく外見も相当違っていたのでしょうし、文化も明らかに異なるものだったようです。
そして、明らかな食糧獲得競争の対立。北海道だからと言って牧場に飼っている牛馬のように動物の繁殖密度が高かったわけではなく、
新参者が進出してくると、必死で戦って追い出し、自分たちの生きる糧である野生動物を盗られないようにしたのでしょう。
北海道は、決して豊かな土地ではなかったのです。現在も、過去三万年も。
最後に、かつて、ネット上にもテレビにも登場していた一枚の写真が思い出されます。
それは、明治時代に立派なヨーロッパ人男性が立ち、アイヌ人の長老が座った状態で取られた写真です。
「はたして彼らはアジア人なのか」と疑問を投げかける写真です。
日本人に冷遇されるアイヌがヨーロッパ人の末裔ではないか。救おうという動きが起きた写真だったそうです。
確かにアイヌの人々の容貌はコーカソイドに近い。二人のコーカソイドが写った写真でした。
これは、アイヌは人種がアジア人とヨーロッパ人とに分化する以前の大変古い人種の形態を残しているからであると、DNA分析では古くからいわれている。
さて、日向氏の説は大変な確からしさを持ち、これ以上の説明は必要がないほど北海道の人の流れを語っている。
素晴らしい論証ですので、皆さんもぜひご覧ください。
以上、間違いの記述でした。もしかしたら、これまでも気づかずに、こんな間違いを沢山記述しているのかもしれません。大笑いですね。 |
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203 1ヒトはどこから 旧石器時代
1ヒトはどこから? |
旧石器時代とは
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ホモ・サピエンスの広がり |
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205 2マンモスがいた頃 旧石器時代
➀大陸と陸続きの北海道
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約8万年前から1万5千年前は、最終氷期と呼ばれる寒冷な時期でした。特に2万5千年前頃からは、年平均気温が現在より6~9℃も低い時期に突入しました。日高山脈には氷河が発達し、十勝の平野部には草原が広がり、大~中型の草食獣が生息するのに適した環境でした。 |
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➀大陸と陸続きの北海道
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海水面が現在より100m以上も低下し、北海道はシベリアからサハリンを経て南に延びる半島の先端になりました。
※サハリンから続く寒冷地の草原、森林限界が道央・道東まで拡がっていた。各所に氷河氷床が発達していた。これは、北アルプスの2000m級の山頂付近の眺めではないか。
動物が南下するといっても、こりゃ、人も動物も住めるような環境じゃないよね。草でも、動物でもいいが、食べ物がない。 |
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207②マンモスが来た 4万5000年前~2万年前頃
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この頃、大陸からマンモスやバイソンなどの動物たちが陸続きになった北海道へやってきました。
人も同じ経路で北海道へ到達したようで、道内各地に遺跡が残っされるようになります。
人々は石器や骨格器をおもな道具とし、動物の群れを追って移動しながら生活を送っていたと考えられています。
※考察 マンモスの渡来
寒冷化によって次第に食べ物が乏しくなった動物や、生育環境が適さなくなった植物が、適応環境を求めて南下を始めた時、
たまたまサハリン半島から北海道岬に迷い込んだ動物たちが、北海道マンモス動物群として流入した。
だからマンモス動物群は種類が少ないのかもしれない。 |
②マンモスが来た
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大きさ
マンモスは現在の象と同じ位の大きさで、大人で重さは約5~6トンありました。
体毛
体には、一面に細い毛と40cmの長い毛が生えていて、寒さから身を守っていました。
牙
大きな牙で戦ったり、氷を割ってその下に生えている草や苔を食べていました。 |
マンモスハンターの道具 十勝川温泉1遺跡
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細石刃は北海道の旧石器時代を代表する石器で、この石器を作る特殊な技術はシベリア方面に起源が求められます。
これは幅数ミリ~1cm、長さ数cm位の細長いカミソリの刃のような形で、骨・角・木などで作った軸の縁辺(へり)に細い溝を彫り、
ここに複数の細石刃をはめ込んで使われました。槍先やナイフとして使われたと考えられ、壊れた部分だけを替刃式に交換することでメンテナンスを容易にしました。居住地の移動を繰り返す生活にはとても適したものでした。 |
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骨・角・木の軸に溝を彫り、はめ込んで作られた。 |
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209細石刃と石核 約17,000年前
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左の3点は細石刃。右は細石刃を作るために用意された石核(細石刃核)。
同じタイプの石核は、全道各地はもとより、本州全域に広がっている。 (十勝川温泉1遺跡)
※十勝川温泉1遺跡 十勝川温泉南14丁目
この遺跡は、十勝川温泉市街の東南東の河岸段丘上にあり、縄文時代全期間の遺物が採取され、生活するには極めて恵まれた環境にあったと思われます。この遺跡の区域内では、十勝川温泉浄化センターの建設工事等に伴って、過去4回発掘が行われています。 |
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縄文時代
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210 3縄文人のくらし
縄文時代とは
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縄文時代は、日本列島で繰り広げられた土器を使い、竪穴式住居で暮らし、狩りや猟、植物質の食料などを採集して生活した時代です。
始まりは、土器が使われ始めた約1万6千年前とされています。
十勝では1万4千年前の土器が出土していますが、竪穴式住居による集落での定住生活、弓矢の使用、すり石や石皿を使った植物質食料の加工などが盛んになるのは、平野部にドングリやクルミが実る落葉広葉樹が進出した9千年前のことです。
これ以降は、他地域と連動しながら、風土に適した生活文化が繰り広げられました。 |
石器とは
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石器とは石を使った道具のことです。石ころに簡単な加工をしたり、石を割ってできた破片(かけら)を加工して作られています。石を磨いて作った石斧もあります。十勝では、黒曜石を打ち割って作ったかけらを加工して作られた矢尻やナイフなどがたくさん見つかることが特徴です。 |
石器とは
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十勝の黒曜石 十勝三股黒曜石鉱山 タウシュベツ産地
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黒曜石は、火山活動でできたガラス質の石で十勝石とも呼ばれます。割っただけで鋭い切れ味のかけらができるほか、加工がしやすく、様々な種類の石器を作る材料として大昔の人たちには大変重要な石でした。
十勝では、音更川の上流にある十勝三股周辺が良質な黒曜石の産地で、音更川や織部川・士幌川の河原で採集することが可能です。
道内では他に、遠軽町白滝、置戸町周辺、赤井川村、に大きな産地があります。当時の十勝は、石器の材料として質の良い黒曜石を入手しやすい恵まれた地域でした。 |
十勝の黒曜石
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220狩の道具
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縄文時代になると、
矢の先端に付ける「石鏃」が盛んに作られるようになります。
ヤリの先端につける「石槍」は動物を狩るだけではなく、魚を取る道具としても使われたようです。
平らな石の両端を打ち欠いた「石錘」は魚を取るための網のおもりとして使われました。 |
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221
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223石槍
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225石錘 魚を獲る網のおもり
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227石鏃 矢の先端につける鏃
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230モノを加工する道具
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現代のナイフや包丁のような使われ方をしたのは「削器」と呼ばれる石器です。「つまみ」が創り出されたものもあります。
※削器+つまみ=つまみ付きナイフでしたか。気が付かなかった。
毛皮をなめすために使われた「掻器」、
毛皮や木製の道具に穴を開ける「石錐」もたくさん使われました。
木を切ったり加工するためには適度なの粘りと磨きやすい性質の石を研いで作った大小の「石斧」があります |
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231
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モノを加工する道具 |
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232削器
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削器
切ったり削ったりする道具 |
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※多くが
「つまみ付きナイフ」加工が上手だった証拠。
つまみナシなら私でも作れるかな?
石を熟知しないと無理ですね。 |
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236石錐
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237掻器 皮なめし
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238石斧 石斧作り (※石材は緑色凝灰岩)
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239砥石 (※砥石は普通、砂岩が使われます。)
砥石
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250食料を加工する道具
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木の実などをすりつぶすために、手に持ちやすい形に石を加工した「すり石」や、作業台として使った「石皿」、固い木の実を割るために使った「たたき石」などがあります。すり石は縄文時代の遺跡からたくさん見つかる事から、植物質の食料加工が盛んに行われていたことがわかります。 |
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すり石
木の実などを磨り潰す |
石皿 ための道具 |
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石皿(台石) |
たたき石
クルミなど硬い物を割るための道具 |
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260 4縄文土器
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土器とは粘土をこねて形にして、焼いて作られた器のことです。縄文時代の土器の多くは食料を煮炊きする「鍋」として使われました。
土器を使うことで様々な食べ物を煮込んだり、木の実のアク抜きをすることができるようになり、食事のバリエーションが広がりました。
「縄文土器」は、縄文時代に使われた土器のことで、多くの土器には縄の文様(縄文)が付けられています。
「縄文」とは縄を土器の表面に転がしてつけた文様のことです。縄の撚り方や転がし方で様々なパターンの文様をつけることができます。
土器の形や文様などの特徴は、年代(時期)によって、広い範囲で一種の流行のように変化を示すことが知られています。
考古学では、このような違いをもとに土器が使われた時代や年代、文化圏を知るモノサシとして使用しています。 |
※考察 縄文土器
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終末縄文人氏の実験では、尖底土器が大変便利だったと素晴らしい実験結果が報告されています。
私は尖底土器は薪の間に差し込んで、薪で支えて煮炊きするものと考えていました。しかし、これは愚かで、木が燃えたら倒れてしまいます。
ところが、終末縄文人氏は、南九州で盛んに出土した「燻製穴」とされる装置が、尖底土器のカマドだろうとして実験されています。
斜面に近接して二つの穴を掘り、地中で連結して高い方に深鉢を置き、風下の低い方を焚口にすると、効率よく煮炊きができるという結果が得られました。
これまで、この連結穴を燻製穴だと大々的に宣伝されてきましたが、確かにそれにも使えたでしょうが、尖底土器の安定化や便利な調理方法として、使った方が効果的だったのではないでしょうか。
尖底土器はカマドからはずしたりして使ったのでしょうか。ただ、置き場所はなかったでしょう。
だとすると、竪穴住居内の炉を煮炊きに使うためには、平底土器か、円筒土器が便利だったのでしょうか。
帯広で出た14000年前の乳房型土器は、尖底土器と同じ使い方をしたのでしょうか。調理場所は屋外か、住居内の熱した灰の上か。
鹿児島の燻製穴は屋根の報告は聞いていません。しかし、排水溝を掘り、屋根を掛けないと、それが煮炊きにしても、燻製にしても、使い勝手の悪いものとなります。しかし、そこまで確かめた発掘事例はなかったように思います。 |
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261縄文土器
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262早期 9000年前の土器 (十勝川温泉1遺跡)
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「暁式」と呼ばれる、10,000年前~8,500年前頃に北海道東部を中心に盛んに作られた無文をベースにした平底土器。
この土器には、口の下に小さな刺突文がある。 (十勝川温泉1遺跡) |
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9000,前の土器 (十勝川温泉1遺跡) |
刺突文 |
※この二つの穴は、穴ではなく、
押して凹んだ装飾だそうです。
刺突文には口縁部の周囲をぐるりと巡って凹み穴を付けているものが多いと思います。
なぜ、このような意匠なのかはわかりません。
丸い凹みやその数に意味があったのかな。 |
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※8.2kaイベント
約8200年前に、北アメリカ大陸東部を覆っていた氷床で、末端の氷河湖が決壊し、膨大な真水や氷床が北大西洋に流出し、比重の関係から海水面を覆い、広大な北太西洋は一気に氷結し、氷で覆われた。広大な氷海が太陽光を反射し、地球の気温は一挙に低下した。この時の大洪水はアメリカ各地の地形に今も大侵食の地形を残している。
この寒冷化の影響は、北海道東部海岸を中心に、北東シベリアの石刃鏃文化が、繁栄し、多くの遺跡や遺物、特有の土器を残している。 |
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263早期終末 7,500~7,000年前の土器 (十勝川温泉1遺跡)
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「東釧路Ⅳ式」と呼ばれる、縄文時代早期終末頃の土器。比較的整った矢羽状の縄文や、撚糸文が付けられることが特徴の土器。
このタイプは、北海道各地や東北地方北部の遺跡から見つかる。 (十勝川温泉1遺跡) |
東釧路Ⅳ式
縄文早期終末頃
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7500~7000年前の土器
(十勝川温泉1遺跡) |
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矢羽根状縄文 |
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矢羽根状縄文 |
撚糸文 |
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264前期前半 6800~6000年前の土器 (十勝川温泉1遺跡)
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「綱文式」(つなもん)と呼ばれる、縄文時代前期前半を代表する、丸底の土器で、道内のほぼ全域に分布する。
粘土に植物の繊維や小さな石を多く含み、文様は太めの縄文が斜めに付けられる。大~小形の土器がある。 (十勝川温泉1遺跡)
繊維土器の特徴 東北地方北部の影響の土器 |
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(十勝川温泉1遺跡) |
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荒々しく綱を巻きつけたような文様 |
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270前期後半 5,000~4,500年前の土器 (十勝川温泉1遺跡)
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「宮本式」と呼ばれる、縄文時代前期後半の平底土器。
口は平らなものが多く、文様は、各種の縄文、沈線文(ヘラで線を引いた文様)、刺突文(棒状の工具で土器をついた文様)、貼付文(粘土を貼り付けた文様)などがある。(十勝川温泉市遺跡) |
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(十勝川温泉1遺跡ほか) |
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葭原2遺跡(よしわら) |
口縁部に貼付文の上に刺突文 |
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272中期後半~後期前半 4500~3500年前の土器
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「北筒式(北海道式円筒土器)」と呼ばれる、縄文時代中期後半~後期前半の土器。平底で筒形、厚手で大型の土器。
文様は、口の下に刺突文がめぐり、縄文は斜めのものが多いが、後半になると縦につけられる。
道東地域を中心に、千島列島南部にも分布が広がる。 (駒場遺跡外) 北筒系土器の変遷と展開 |
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北筒式土器出土遺跡
引用「北筒系土器の変遷と展開」 |
遺跡が海岸線や、河川沿いに連なっていることがわかり、当時の移動方法がわかる。 |
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280
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281中期末~後期初頭 4500~4000年前
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「北筒式」(北海道式円筒土器の略)。道東を中心に寒冷化に伴い発達した土器。「北筒系土器の変遷と展開」(このリンクは「ダウンロード」ホルダに保存されます) |
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※考察 北筒式土器の使い方
修復した土器の側面には、下方に鮮やかな赤色で焼かれた面と、途中から煤の付いた煙で燻された面が、全ての土器にあります。
このことから、円筒土器は、連結カマドによって使用され、調理や湯沸かしが行なわれた、据え付け型の鍋であったと想像できます。
連結カマドとは、地面に二つの穴を掘り、穴の底で二つを連結し、一方を焚口、一方をカマドとして使用するものです。
だいいちこんな大きな土器を立たせて、周囲から支えながら煮炊きすることは出来ません。カマドに納めることが前提の設計だったのでしょう。
そのような目で、これまでの土器を見直すと、土器側面が下半が赤、上半が黒の物が沢山あり、さらに調べると、縄文早期遺跡からも連結カマドが発見されていたことがわかりました。しかし、なぜか、これらは土器を語るうえで一向に取り上げられることはなく、土器の使い方に触れられることもないようです。
カマドがなければ使えない北筒式土器であることがわかっているのに、なぜか、カマドの発掘例は全く聞き及んでいません。なぜでしょうか?
連結カマドについてのリンク 煙道付炉穴 炉穴 煙道付炉穴の正体 ドングリ考古学
円筒土器の平底は熱効率が悪いので、尖底にして、その形状が炉の底に着いて土器を支え、かつ、支脚の代用だったと思います。 |
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縄文中期後半からの寒冷化
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※縄文中期後半からの寒冷化は、本州でも縄文社会に大きな変化をもたらし、それまでの大型建物・大規模集落は食料調達が困難なために維持ができなくなり、小規模家族で分散して暮らすようになった(長野県の例)。つまり、食糧が獲得できなくなる高齢者などが餓死した。大規模集落に代わって、登場したのが巨大な墓地、環状列石である。年に何度か決まった時期に一ヶ所に集まり、先祖供養の祭祀や、もしかすると埋葬も行なわれたかもしれない。
※北海道における環状列石は3500~3000年前につくられているので、北海道・東北でも同時期に同じ文化が流行したようです。
※この時期の寒冷化、乾燥化に付いてのリンク |
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282後期~晩期 3,000~2,500年前の土器 相生1遺跡
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「幣舞式」・「緑ケ岡式」と呼ばれる、道東地域の縄文時代後半から終末の土器。形は鉢形、壺形、甕形など多様で、薄手で精巧な作りものが多く見られる。
上から見たときに舟のような形をしたもの(舟形土器)もある。 (相生1遺跡外) 幣舞式土器 緑ヶ丘式土器 |
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283後期~晩期 3,000~2,500年前の土器(上に同じキャプション) 相生1遺跡
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284後期~晩期 3,000~2,500年前の土器(上に同じキャプション) 相生1遺跡
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285口縁部の装飾
何らかの意味を持って行なわれた口縁部中心を示す装飾。
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※考察 土器の中心・顔とは
縄文人にとって土器には正面が必要だったのかもしれない。正面とは土器の顔。
そういえば、気が付かなかったが、多くの精製土器には特有の正面があり、カエルや、ヘビや、胎児の顔やその他諸々の方法で、正面を表すものがつけられた土器を見てきた。現代でも、一部の装飾花瓶や、仏具用陶器などにみられる。これは装飾を見せるための正面だ。
もし正面イコール顔ならば、縄文人は、土器に魂魄や精霊を見ていたのだろうか。それとも、単に擬人化していただけなのだろうか。
上写真➀は縦長直方体。 ②は欠けているがなぜここに正面を付けたのかわからない、普段使い土器の一部分だ。③は猛禽類のクチバシに見える。 |
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289後期~晩期 3,000~2,500年前の土器(上に同じキャプション) 相生1遺跡
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290 5定住的な暮らし
➀住まい
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縄文時代の住まいの多くは、地面に深さ数10センチの穴を掘り、床を平らにし、数本の柱を立てた上に、ヨシや木ノ皮、土などをかぶせた屋根が作られた「竪穴式住居」でした。床の中央には火を焚いた跡が残るものが多く、調理、暖房、明かりなどに使われたようです。数件の住居で構成された「ムラ」もありました。
町内では十勝川温泉1遺跡からおよそ6000年前の、共進2遺跡ではおよそ4000年前の竪穴式住居の跡が見つかっています。 |
②食
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縄文時代の人々の食生活は、自然の恵みで成り立っていました。
内陸では、季節に応じてエゾシカ、ウサギ、ヒグマなど獣の狩りや、サケ・マスなどの川魚漁、木の実や野草の採集が盛んに行われていました。
遺跡の出土品などから、人々は狩りや魚のための道具や方法、食料加工や保存の技術などを工夫していたことがわかります。 |
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300 |
311 6祈り・まじない
縄文時代に限らず、文字がない時代に暮らした人の心については、解明されないことが多いのが実情です。しかし、「墓」や「土偶」、「アクセサリー」などから、その想いを見ることができます。 |
➀お墓
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➀お墓
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お墓は地面に穴を掘って、膝を曲げる状態で遺体を埋葬したものが一般的で十勝各地の遺跡からも多く発見されています。
赤い顔料が撒かれたり、土器や石器、装身具が複葬されたものもあります。
十勝川温泉1遺跡からは石斧などが副葬された6千年前の墓が見つかっています。
しかし、日本列島の多くは土が酸性のため、人骨が残る事は滅多にありません。 |
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②埋設土器
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②埋設土器
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十勝川に面した崖の上にある相生1遺跡では、大きな土器を地面にスッポリと埋めたものが発見されました。
このような例は北海道から東北地方北部に見られ、幼児の埋葬や成人の再葬などの性格(?)があったと考えられます。
相生遺跡の例は周辺には火を焚いた痕跡があり、土器の中や焼けた土からはエゾシカ、サケマス類の骨に混ざって、イノシシやワシの骨も見つかりました。この場所で何らかの祭りが行われていた可能性が考えられます。
※イノシシの骨北海道のイノシシは、本州から儀式用に交易で入手したもの。しかも、場所が遠隔地十勝。
この付近を支配していた集団が本州から苦労して入手し、とても特別な祭祀が行なわれたと考えられます。
でも、あっさり殺してしまうのだから、いけにえを入手することがとても重要だった儀式って、なんだろう。 |
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③装身具
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③装身具
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現在の私たちの身の回りにある装身具の種類は、ほとんど縄文時代には揃っていたようです。
頭には漆塗りの櫛、ヘアピン、耳にはピアスのように耳たぶに装着する耳飾り、首にはネックレスやペンダント、腕にはブレスレットなどです。
材質は石や焼き物、貝殻、骨、角、木、牙、ウルシなど様々です。
これらは「おしゃれ」と言うより、呪(まじな)いや祈り、身分などを表すような性格があったとも考えられます。 |
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312埋設土器(土器棺) 縄文時代
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※考察 埋設土器
東北地方の割と南の方からも、縄文の土器棺が出土している。遺体を土に埋めて大地に還し、再生を願うのではなく、容器に入れるのは、
➀幼児の顔に土をかけたくない。といった感傷的な考えから、
②土器棺そのものを母体に見立て、再生復活を願ったのかもしれない。この土器棺の形状が臨月の母体に見える。 |
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313お墓の副葬品
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約6000年前と見られる墓から出土した石器。
墓は120cm×68cmの長方形。お墓の底近くから見つかった石鏃、石錐、削器、石斧などは、死者に供えられた副葬品と考えられる。十勝川温泉1遺跡 |
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お墓の副葬品 |
石斧×2、砥石、 |
石鏃・石錐・掻器
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墓跡が出土した様子 |
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※埋葬時には、横斧や縦斧には柄が付いており、石鏃には矢柄が付き、弓も副葬していたでしょう。ただし、鹿角で作った矢筈は溶けたようです。
写真では、鮮やかな青に光っている石器が、石斧、石鏃、石錐、掻器のようです。不思議に輝いています。緑色凝灰岩と黒曜石 |
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314耳飾り
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縄文時代には、耳たぶに穴を開け耳飾りをつける風習があったようです。
8000~6000年前頃には、石製で切れ目が入ったタイプ(玦状耳飾)、その後は土製のものが盛行します。
各地の例を見ると最初には小さなものをつけ、耳たぶの穴が大きくなるにつれて、大型のものに付け替えていたようです。(十勝川温泉1遺跡) |
石製の耳飾り
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石のかけら(剥片)をていねいに磨いて作られた耳飾り。中央に切れ目がある「玦状耳飾(縄文前期に中国より渡来)」と呼ばれるタイプ。
耳たぶにぶら下げる、ピアスのような使われ方をした。約6000年前。(十勝川温泉1遺跡) |
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耳飾り
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※これは玦状耳飾りの破片に穴を開けて、結んで耳飾りにしたか、ペンダントにしたかに見える。 |
石製の耳飾り
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土製の耳飾り
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粘土を焼いて作られた大型の耳飾り。耳たぶに開けた穴にねじ込むようにして使われたと考えられる。約5000年前。(十勝川温泉1遺跡) |
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※耳たぶにこんな巨大な土管の口のような物をぶら下げて立ち居振る舞いするのはさぞかし大変だったでしょう。
アフリカの部族に、女性が下唇に開けた穴に丸い木皿を差し込む風習の部族があります。成人女性になると、皿をはずすと下唇が伸びきって大変見苦しい状態になっています。
生まれて間もない子供の耳に石錐で穴を開け、木片を差し込んで、次第に穴を広げ、成人するころには、耳たぶはビラビラに垂れ下がってひどい状態になっていたと思われます。
下くちびる木皿も、伸び伸び耳たぶ、にしても、このような状態が美しいと思う感性が、私にはわからないですね。 |
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314土製の腕輪
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粘土を焼いて作られた腕輪(ブレスレット)。表面には3段の文様が付けられている。約5,00年前。
※土製腕輪を腕にヒモで縛っていたのでしょうか。普通は、二つ合わせて一組だから、両側をヒモでとめていたのでしょう。 |
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315ペンダント? 約6,000~4,000年前
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黒曜石を加工して作られた石製品。
用途はよく分かりませんが、ペンダントとして使われた可能性があります。
約6,000~4,000年前。(十勝川温泉1遺跡、駒場遺跡、共進遺跡、東豊田) |
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317赤い顔料がついた土器
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続縄文・擦文時代
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320 7変化の時代 続縄文・擦文時代 |
321
➀弥生時代はなかった
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➀弥生時代はなかった
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日本史では、およそ1万年も続いた縄文時代は、北部九州に水田稲作が伝わったことにより、弥生時代になります。
しかし、北海道は稲作が行われず、基本的な生活スタイルは縄文時代と大きな変化がなかったことから、『続縄文時代』と呼ばれる時代になります。これ以降の北海道は、『擦文時代』を経て『アイヌ文化』へと、周辺地域の影響を受けながら本州以南とは異なったあゆみが続きました。 |
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②続縄文時代
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②続縄文時代(弥生~奈良時代)
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およそ3千年~1千300年前、本州以南の「弥生」「古墳」時代に相当する北海道の時代区分です。
生業は、狩や漁、植物質食料の採集が主でしたが、北海道の南西部では蕎麦などの栽培が始まりました。
この時代の後半になると、本州方面から鉄製の道具が移入され、少しずつ石器から鉄器への交代が始まったようです。 |
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③擦文時代
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③擦文時代(奈良~鎌倉時代)
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およそ1300年前~800年前、本州の「奈良」「平安」時代に平行する北海道の時代区分です。
本州文化の影響を受けた土器が広がります。竪穴式住居も四角形で片方の壁に「カマド」を持つ
本州タイプになりました。擦文時代には本州方面との交易体制が、より強くなったようで、この文化をもとにして、アイヌ文化が成立したと考えられます。 |
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323 1,500年前の土器 続縄文土器
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「北大Ⅲ式」と呼ばれる、続縄文時代最末期の土器。=擦文式土器と呼ばれる。
この土器は文様が付けられない片口で、液体を注ぐために使われたと思われる。(十勝川温泉1遺跡)
※北大式土器は、宮城県・秋田県を含む東北中部から北海道全域で盛行した土器型式です。
これは、東北北部と北海道の広大な範囲で、同一文化圏が成立したことを意味し、言語や流通の広域化が進んだことを意味します。
本州の弥生文化の発展を受けて、交易が盛んになったことや、
弥生初期から中期の寒冷化による東北弥生人の南下と、渡島アイヌの東北北部への南下、など、かなり大きな人流があったことも原因ではないでしょうか。 |
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※資料 北大式土器 引用「土師器と擦文土器1」江別創造舎
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続縄文土器
このたび、古墳時代(4〜7世紀前半)、東北地方南部は古墳文化の中に組み込まれていましたが、
東北地方北部(盛岡市と秋田市を結ぶ北緯40度線以北の地域)では、6世紀頃まで北海道と同じ続縄文文化の中にあったと考えられています。
北大Ⅰ式土器
坊主山式土器に後続する北大Ⅰ式土器が、宮城県北部を中心に青森・岩手・秋田県などで出土し、東北地方南部の土師器編年で5世紀代に位置付けられている南小泉Ⅱ式が、恵庭市柏木B遺跡で5世紀代の須恵器が北大Ⅰ式と共に出土しています。
北大Ⅱ式土器
7世紀頃から気候が徐々に温暖化に転じる中で、東北地方北部でも稲作が復活し、同時に東北地方南部でとどまっていた古墳文化が北上してきます。
土師器が続縄文土器を押しやる形で、東北北部一帯に広がり、やがて北海道へも本格的に進出してきます。
その頃、北海道には、北大Ⅱ式土器が広がっていたと考えられますが、北上してきた土師器は北海道在来の土器に大きな変化をもたらします。
何千年間も行われていた土器に縄文をつける伝統が失われ、器面全体に刷毛で擦ったような跡が見られる土器、すなわち擦文土器が成立しました。
北大Ⅲ式土器=擦文土器
最初期の擦文土器は、円形刺突文・鋸歯状沈線文など続縄文土器の文様を残す土器(従来北大Ⅲ式(=擦文土器)とされてきた土器)で、江別では萩ケ岡遺跡の墓や旧町村農場の各遺跡から出土しています。
この種の土器は、青森県馬淵川流域や岩手・宮城県の北上流域でも出土し、
東北地方南部地域で7世紀後半から8世紀前半に位置付けられている土師器・栗囲式に伴うという謂れもあります。
8世紀後半になると、横走沈線を施された擦文土器が一般的になりますが、これは東北北部の土師器と基本的に変わるところはなく、土師器そのものといっていい土器です。
それが、擦文時代の中頃になると、横走沈線文が加わってきて、典型的な擦文土器になっていったのです。 |
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325擦文土器
7~10世紀頃の土器
1,300-1,000年前頃の土器
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擦文時代の土器。土器の文様から縄文が消え、無文か沈線やキザミが主体となる。
形は本州方面の古代(奈良・平安時代)の土器の影響が見られる。 (十勝川温泉1遺跡/葭原2遺跡) |
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1,300-1,000年頃の
土器 |
8世紀頃の土器
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「土師器」と呼ばれる、本州の土器文化の影響を受けて作られた無文の「坏」形土器(飲食物の盛り付け用)。 (葭原2遺跡) |
9~11世紀頃の土器
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「擦文土器」。
左の土器は口縁に短い刻み、その下に横位の枕線が引かれた古手。
右の土器は口縁の下に矢羽状の短い沈線、その下の横・斜位の沈線が引かれた新手の土器。
(十勝川温泉1遺跡/葭原2遺跡) |
9-11世紀頃の土器 |
9-11世紀頃の土器
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9-11世紀頃の土器
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9-11世紀頃の土器 |
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アイヌ文化の時代
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330 8アイヌ文化へ
➀考古学から見たアイヌ文化
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1万年以上も続いた土器を使った生活が終わり、住居も竪穴式から平地式住居へと変わりました。
この頃を北海道の考古学では「アイヌ文化の時代」の始まりと考えています。
発掘調査が進んでいないこともあり、擦文文化からの移行の様子は明らかではありませんが、12~13世紀頃の事とされています。
この頃は前の時代と同様、本州や北方地域との交易が盛んに行われ、様々なモノが生きかいました。 |
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331②チャシ
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アイヌ文化を代表する遺跡に、海岸や河川沿いの崖や山の上に溝を巡らせた「チャシ」があります。チャシは「砦・柵・柵囲い」を意味するアイヌ語で、多くの伝承が残されています。
初期には祭祀などを行う「聖域」として存在したようですが、のちにはアイヌ同士や和人との戦いに備えた「砦」的な要素が強まったと考えられています。
チャシは十勝で70カ所が確認されており、多くは十勝川中流~海岸、利別川沿いに分布しています。
音更町域では十勝川沿いに5箇所、音更川沿いに1カ所が確認されています。 |
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アイヌ文化
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チャシ |
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十勝川温泉チャシ跡全景
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同測量図
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333刀と鍔
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畑から見つかった刀と鍔
儀礼用もしくは威信材としてアイヌ民族に伝承された鉄製の刀と銅製の鍔。和人が作成したものを、交易で入手したものとみられる。
長い間、土中に埋まっていたので、サビの進行等による劣化が見られるが、刀の表面には鞘と見られる植物質の痕跡、鍔には波上の文様が残っている。
※音更町内の音更川左岸段丘にある畑から、耕作中に発見されたと伝えられている。ただ、なぜ、畑(元は原野)から出たのか。
落としたのか、なくしたのか、投げ捨てたのか、それとも持ち主の墓跡だったのか。いくさ場だったのか。 |
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340 9発掘された音更の遺跡 |
341遺跡は文化財
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「文化財保護法」と言う法律では「貝塚、古墳などや土器、石器など土地に埋蔵されている文化財を埋蔵文化財(≒遺構・遺物)、埋蔵文化財を包蔵している土地を埋蔵文化財包蔵地(≒遺跡)」と規定しています。
遺跡は、一度掘ってしまうと元に戻すことができません。そのため、土木工事や調査のための発掘が規制されています。
埋蔵文化財包蔵地 (≒遺跡)は、全国で46万カ所以上、北海道全体で12,000カ所以上、十勝で約1100カ所、音更地域では106カ所の存在が確認されていますが、多くは地中に埋まっていることから、本当の数はこの数倍と考えられています。 |
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遺跡は文化財
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相生1遺跡の発掘調査
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十勝川温泉1遺跡の発掘
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音更の遺跡
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343縄文人の忘れ物?
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西昭和2遺跡の石槍 (4000年前)
直径20cmほどの範囲から74点、周りから33点の石槍が見つかりました。これらは全て新品同様の未使用品でした。
この遺跡では、石槍を作った証拠は見つかっていません。
どうやら新品の石槍を袋に入れて、どこかから持ち込まれたものが、そのまま置き忘れられたようです。 |
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348音更町の遺跡
音更町の遺跡 |
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360 10アイヌ文化 |
361エゾ地探検
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1858年(安政5年)函館奉行の命を受けた、松浦武四郎は、飯田豊之助と共に石狩から山を越えて十勝に入りました。
十勝川筋を下ってヲベレレフ(帯広)に泊まりました。ここから東に向かいヘルフネ(歴舟)の河口から奥地に入りタイキ(大樹)を経て音更川口付近泊り、
ヤムワッカヒラ(止若平)から十勝川を丸木舟で下り、ウラホロフト(浦幌太)に出ました。
なんと、この調査は250日を超える長いものでした。このときの様子が、「十勝日誌」 「東蝦夷日誌第7編」にまとめられ安政年間の、
このあたりの状況を知る貴重な資料となっています。 |
松浦武四郎 略歴
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1818 (文政元年)●伊勢国一志郡雲津の須川村で生まれる。
1832 (天保3年) ●諸国遊歴の志を持ち江戸へ出る。
1845 (弘化2年) ●始めて蝦夷地へ渡る。
1846 (弘化3年) ●樺太探険。
1849 (嘉永2年) ●国後島、択捉島を探険。
1855 (安政2年) ●幕府御雇に登用される。
1856 (安政3年) ●東 北 西蝦夷地を一周。
1857 (安政4年) ●「東西蝦夷山川取調日誌」と図を署わし呈上する。
1858 (安政5年) ●十勝地方を調査。
1869 (明治2年) ●開拓判官に住用され、北海道名、国郡名などの選定を行うが、翌年辞任し、その後は清貧に甘んじ著述をもって余生を過ごす。 |
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362
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東西蝦夷山川地理取調紀行
十勝日誌 多氣志棲藏版
七月十五日
快晴 以前(春)に来たときは、このあたりをほぼ西ぞいに歩いて、川筋をよく見なかったので、今度は舟と、この地方の二人(エコレ妻ヘトンケ カモイコハシ子供ラシイヒロ)を雇って出発する。間ぎわに、老人が”(カモイコハシ?)
石のやじりを十枚余り、持って来て「銭別に」と私にくれた。メモロ川を出て、二町ほどでもう十勝川の本流である。両岸は雑木の森で、日もさしこまないほどに繁りあっている。(ここから西岸を右、東岸を左と記す)
シベツ(十勝川 川巾五十間余り) これは本川という意味である。川には流木が、あたかも人の手で組んだように積み重なっている。これに川の流れがはばまれるので、水は白いしぶきを上げ、渦をまいて流れている。棹の操作を一つ間違えると、舟は非常に危険である。五、六町下つて、リウカブト(右川)
ヲンネヒハウシ ヒハイロフト(巾二十間)ホンヒハウシ(左川) ホヌンヒット(左川) イコハツケシナイ(左川)ライベツ(右川) チユカリトンナイ(右川)
シュフシヤリヒハウシ(左川) シュフシャリ(左川)メモロプトからここまでの間は、陸道で三里、川筋で来ると五里にもなる。そして西岸は大よそが低い崖で、東岸は広い雑木林の原野である。
ひと本の 棹に十勝の 早瀬をば
落ちきし跡ぞ 夢ごこちする
シカリベット(川巾三十間余り) 十勝第三の支流で、ここに人家が四軒(エチリタリテツカエシ エレンカクシイタケウセ)ある。上陸してしばらく行くと広い原野に出る。
ここに今年(午) 九十九才というシユツコハ婆さんがいるということだったので、その家を訪れるために出向いたのである。この人からいろいろ古い話を聞くことが出来たが、文化年度の乱(文化四年一八〇七年四月にエトロフ島の内保(ないほ)、沙部(しゃな)に、また同年五月に礼文島沖に、当時口
シアの船が来襲した事件)の話などを聞いた。そのあと私の帰りぎわになって、岩烟管(シユマキセル)を一本くれて、「私らが若い頃は、皆このようなキセルか、木で作ったもので烟草(たばこ)をのんでいたものだったが、近頃はアイノも金属の烟管を使い、米で作った酒を呑み、木綿の着物を着る、こんな風ではアイノのフリ(習俗)が無くなってしまう」と笑った。
これを過ぎてルウセ(左)チンレリコマベツ(左川) ハンゲチ(石川人家一軒 ラサマンカ家 一人) ここで昼食をすませ、この川の上流の状況をたずねたのであるが、ここは開拓をすれば一国になろうかという広さがあり、肥沃な土地でもある。
音更川上流
ヨクヘツ(左川) モケナシ(野) コツタメム(左水たまり) ニウシへツ(左川人家二軒アハウクロ ヒリカエキ)などを廻って、これから上流の状況を聴いた。それによると、
「やはりこのあたりから奥へ、十里ばかりも原野があり、一国にも当る広さの土地がある。水源方面には小川が多く、クマネシリにまで達している。(雪道で三日の行程)この山はリクンベツのある山に連っていて、川の源はそのあたりにある。
川には鮭 鱒 鯇 うぐい チライ(イトウ)などが多い」(シラリサによる)
夜は音更川口のこの山中の惣乙名であるシラリサ (家族六人)の家まで下って泊った。 ここには人家が九軒ある。(ユルシカクル レサカアイノ サマヌカル トクヌサン イカヤン
ウラクシテ イカクモンシュアツシ) 将来は、この地方第一の繁栄の地になるだろうと思われるところである。ただ海岸の十勝川の河口から、この音更川口まで、
十勝川下流を舟で上り下りすることは、さほど困難ではないけれども、これから上は川に流木が多く、川巾も水深もありながら、舟を通すことは難かしい。それには余程の手入れが必要であろう。もしいつの日か、この川筋を舟で往来出来るようにするとすれば、むしろ海岸の歴舟川口の方から、札内川上流に出て、この音更川からは西岸の方向にある美生川、戸蔦別川などへ、まずその馬の往来出来る道を開いた方が、よい結果を得ることであろう。ただ土地の開拓にはその土地に豊かな産物があるということが第一条件であり、道路だけ作ってそれですむというものではない、などと考えたりしたので、たわむれにこの家の柱に書いておいた。
このあたり 馬の車の みつぎもの
御蔵をたてて 積ままほしけれ
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十勝日誌 |
十勝日誌 |
日高山系を望む
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歴舟川 |
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歴舟川上流 |
石器を発掘する
札内付近7月14日 |
武四郎十勝探検経路
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十勝地方河川図
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364壁掛け
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作者 |
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山本みい子 |
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音更町在住 |
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○○工○○○/アイヌ文化○○アドバイザー |
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北海道アイヌ伝統工展 2010
最優秀賞(北海道知事賞) |
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作品 |
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タペストリー |
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噴火湾地方の文様をモデルに作成 |
独自の文を〇す
○○○はじめ身につけられるものには、刺しゅうや継ぎ布などによって○○き文や○○文と呼ばれるアイヌ文様が施されています。
衣類のそでや口やすそ周りなどの文様はそこから悪い霊が入り込まないように施されているとも言い伝えられています。
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365
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カネペウシトウキ
(梨地塗酒器)
マラプトトウキ
(熊神杯)
スオンキ
(塩入れ) |
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カパラペシントコ
(薄物シントコ)
エチュシ
(酒差し)
ケマウシペ
(脚付シントコ) |
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アイヌ民族
未開の頃の郷土は密林が太陽の光をさえぎり、熊が笹を踏み分けサケが川を遡り、シカの群れが横行する鳥獣の自由なすみかであったであろうと想像されます。アイヌ民族がいつの頃からこの地に住んでいたかは知ることはできませんが1882年(明治15年)十勝に大雪が降り鹿がいちどに少なくなりました。サケを採ることも禁止され、狩りや漁で暮らしていたアイヌの人たちは大変困りました。そこでバラバラに暮らしていたアイヌの人たちを全部下音更(開進付近)に住まわせ、音更コタンをつくりました。 |
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アマッポ(熊狩り) |
アイヌ民族 |
エゾシカ狩り |
マレック
(サケ漁道具) |
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366
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おことわり
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最新の情報では、「音更町郷土資料室」は、「音更ふるさと資料室」 と改称し、
展示項目は、■大地からのメッセージ ■遺跡からのメッセージ ■アイヌ文化 ■昔の農業と道具 ■昔の暮らしと道具 ■音更を伝える絵本
となっています。
取材当日は、■大地からのメッセージ ■遺跡からのメッセージ ■アイヌ文化 ■音更の自然 ■音更の開拓の始まり
でした。
取材当日、学芸員氏からまだ設営途中であると言われましたし、アイヌ文化以降は、以前の展示のままですといわれましたので、その後、「自然」を撤去して、「音更の開拓の始り」を、農耕具と民具に分け、別室にあった「絵本」を順路に組み入れたのでしょう。
そこで、ここでは、消え去った「自然」と「開拓の始り」を取材時のまま掲示します。 |
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400 |
410音更町の自然 |
411
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yukユク
エゾシカ
▼アイヌ文化
ユクとは、アイヌ語でもともと「獲物」 という意味です。
アイヌの人々にとってシカは、サケと並ぶ重要な食糧資源でした。毛皮は衣服や靴の材料、角や骨も加工して利用しました。弓矢での猟や大勢で崖に追い込む追い落とし猟、囲い込み猟などで捕獲しました。
自然
エゾシカは日本全土に生息するニホンジカの北海道亜種です。
雄は最大で体長190cm 体重130kg、雌は体長150cm 体重80kgになります。
夏はササや草本類、冬は雪を掘りササやナラ類の木の芽を食べ、これらが不足すると木の皮を食べます。
音更町では東部の丘陵地や北部の森林を中心に生息しています。 |
黄蘗(きわだ・きはだ) |
黄蘗
落葉高木、高さ25m 胸高直径1mに達する。
樹皮は灰色、コルク層がよく発達し内皮は鮮黄色で苦い。 材は建築、家具に広く用いられる。
内皮を黄蘗といい、苦味健胃薬となる。現在は黄柏の字を用いる、 洗眼薬や黄色染料に用いることもある。 |
柏・北狐・エゾリス |
柏
雌雄同株、花期は5月、カシワとは飲〇の〇で、葉で食物を包んで蒸したり、葉の上に食物をのせる。
樹皮に多くのタンニンを含むので革皮を作るのに用いる。 |
キタキツネ
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キタキツネ cirinnopチロンノプとは「私たちがたくさん殺すもの」 という意味です。
アイヌ文化
名前からもわかるように、たくさん捕獲され、肉は食用に毛皮は交易品などに利用しました。また、頭骨はまじないやお守りとして使いました。
伝承も多く、たとえば、キツネは昔、 白色や黒色でしたが、カワウソをだました仕返しとしてサケの筋子を体に塗りつけられたため、赤茶けた色になったというものがあります。
自然
北アメリカからユーラシアに広く生息するアカギツネのなかで北海道に生息するものをキタキツネ (亜種)といいます。地面に巣穴を掘って繁殖し、ネズミやウサギなどを主に食べます。森林から市街地まで、さまざまな環境に適応しています。 |
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ハリギリ
センノキ、リュウキュウハリギリ、ミヤコダラ。幹は直立し20m内外、枝は灰色をおび普通に幅の広い刺がある。葉は枝の先に集まって互生する。
下駄材とする肌目はあらいが木理が美しい、おもしろい杢をあらわす。 |
エゾリス
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niweo ニウエオ 道南 道央では「トゥスニンケ」 と呼ばれていました。
エゾリス
アイヌ文化
エゾリスはアイヌの人々にとって縁起の良いものではなく、足寄では猟へ行くときにその姿を見ると、その日の猟をやめたと伝えられています。本別では、エゾリス
が家のそばに来て、歩いて山へ逃げていくとその家が滅びるといい伝えもあります。 |
エゾフクロウ
ハリギリ
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kunne rek kamuy クンネレクカムイとは「夜-鳴く-神」という意味です。
エゾフクロウ
アイヌ文化
エゾフクロウは、「ペウレプ チコイキブ ニオルポク シケオチュ=仔グマだよ、獲物だよ、ひかがみ (ひざの裏側) に荷物がつかえる(ほど獲物が捕れる)よ」
と鳴き、クマの居場所を教えるといわれています。
自然
ユーラシア大陸北部に広く生息するフクロウのなかで 北海道に生息するものはエゾフクロウという亜種です。 |
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ハリギリ
センノキ、リュウキュウハリギリ、ミヤコダラ。幹は直立し20m内外、枝は灰色をおび普通に幅の広い刺がある。葉は枝の先に集まって互生する。
下駄材とする肌目はあらいが木理が美しい、おもしろい杢をあらわす。 |
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moyuk モユクモーユ)とは「小さな物」という意味です。
タヌキ
アイヌ文化
エゾタヌキは穴の中に巣を作るのに、自分で穴を掘るのが苦手と考えられています。ヒグマの巣穴も利用することなどから、道東ではヒグマの叔父、叔母とされています。キムンカムイ コラチャ(ヒグマの叔父さん)と呼ぶ地域(本別)もありますが、それは脂肉がクマの脂に似ているからだそうです。
山で獲った時には、その魂を送る儀礼を行いました。
自然
タヌキは世界でも東アジアにしか分布しない希少な動物です。そのなかで北海道に生息するものをエゾタヌキ(亜種)といいます。植物や種、昆虫、ネズミや魚まで食べる雑食性です。冬眠はせずに巣穴で「冬ごもり」をします。音更町では森林や丘陵地を中心に農耕地まで少数が生息しています。 |
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saciri サチリ オコジョも「サチリ」と呼んでいました。
イイズナ
アイヌ文化
帯広では、upas-cironnop (ウパッチロンノブ=雪/キツネの意味) と呼んだという記録があります。よく似たオコジョと区別されていなかった可能性があります。
十勝地方には詳しい伝承は残されていません。
自然
イタチの仲間で最も小さい種類です。北海道のものはキタイイズナといい、夏は頭から背中にかけて茶色く、冬は全身白くなります。ネズミ類が主食で、小鳥、昆虫
なども食べます。
森林に生息しますが、街の中の緑地でも見かけることがあります。 |
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kimun kamuy キムンカムイ キムンカムイとは「山にいる神」という意味です。
ヒグマ
アイヌ文化
アイヌの人々はヒグマをカムイ(神)と考え、キムンカムイ(山にいるカムイ)と呼んで崇めてきました。一方で春先に冬眠しているヒグマを狩る猟を行いました。肉は食料に、毛皮や胆のうは交易品としても利用しました。これらの肉や毛皮は、クマのカムイがカムイモシリ(カムイの世界)
からこの世にやってくる際に、人間へのお土産として持ってきたものと考えられていました。
ヒグマを仕留めると、クマの魂をカムイの国へ送りかえす オプニレという霊送り儀礼が行われました。また、仔グマを捕まえたときには、1~2年間大切に育ててからカムイの世界へ帰すイオマンテという霊送り儀礼を行いました。
自然
体長2m以上になる日本最大の陸上動物です。ユーラシアから北米まで広く生息し、北海道のもの○○は、ヒグマという亜種です。
雑食性で、フキなどの植物の根をを中心にキイチゴ、ドングリなどの果実、昆虫、鳥類、哺乳類などを食べます。
音更町では丘陵地や○○に棲息していると考えられます
このヒグマは、平成10年10月20日に 市街地周辺に出没し、捜索の結果 字西2線2番地付近の防風林内で 捕獲されたものです。
オス 5~6歳 体長170cm 体重約120kg |
ヒグマ
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humiruyフル・ミイ「その音が激しい」という意味です。
エゾライチョウ
アイヌ文化
肉がとてもおいしく、アイヌの人たちは刺身や汁物にして食べました。
自然
ユーラシア北部などに広く生息しますが、日本では北海道のみに生息しています。高い笛のような鳴き声をしており危険を感じると羽音をたてて飛びます。
音更ではおもに丘陵地や森林に棲息しています。 |
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エゾライチョウ |
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はっきりとオオコノハズクだとわかる名前や伝承は残されていません。
オオコノハズク
▼アイヌ文化
エゾフクロウが獲物のありかを教えてくれるカムイとして崇められる一方、小型のミミズ〇はあまり○○が良くない存在で化け物のようにあつかわれています。
自然
日本中に生息し、北海道では夏鳥ですが、まれに冬に見つかることもあります。
肉食性で小型哺乳類や小鳥、○○などを食べます。
ミューという笛のような声が低い声で「ボゥ・ボゥ・ボゥ・・・」と鳴きます。 |
オオコノハズク |
チライマチリ
オシドリ
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450 12入植
音更の開拓の始まり
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音更に定住した最初の和人は、大川宇八郎で、1880年(明治13年)の事でした。宇八郎はアイヌの人たちとの交易を行うことが多く、本格的な開墾を行ったのは、これより10年後、1889年(明治22年)然別に入った渡辺勝が最初です。当時、土地を開く道具と言えば、郷里から持ってきた鋸と手鍬程度で、苦労の割にわずかな耕地しか開くことができませんでした。
1892年(明治25年)北海道庁が帯広を起点として十勝圏の植民区画に着手し、土地の貸地を始めてから、集団入植が相次ぎました。
渡辺大は、1893年(明治26年)道庁から種馬の貸付を受け、馬産改良にも貢献しました。
また牛も飼い牛乳を樽でで帯広などの市街へ運んだのも音更では彼が最初の人です。 |
バッタの被害
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1885年(明治13年)十勝で大発生したトノサマバッタは草も木の葉を食い尽くしながら、日高を超えて勇払原野へと飛び、苦労して育てた農作物に多くの被害を与えましたバッタの襲来は、その後も1883年明治16年まで毎年続きました。音更ではまだ本格的な開拓が始まる前のことでありました。
政府が駆除のため地下地へ送った調査隊が然別で産卵地を発見し、アイヌの人など150人を使って駆除に当たりました。
サナギ一升に付き2銭で買い上げ、穴を掘って埋め、土盛りをしました。これがバッタ塚と言われるものです。
バッタ塚は昭和の初期まで町内各地に残っていました。 |
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451
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452 馬耕による農業の普及
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音更に最初に馬耕を入れたのは大川宇八郎で、明治14年のことでした。
明治末期に入ると耕作プラウ・ハローが一般的に用いられるようになり、大農機具による馬耕風景がいたるところで見られるようになりました。
これは従来の手耕では広い土地を開墾したり耕作することが難しく、当時の開拓使が欧米農法の導入に務めたからです。
こうしたことから十勝の開墾は馬の力に負うことが大きかったことが分かります。
プラウは、はじめ日高三石から購入していましたが、三石ブラウは十勝に向かないので、地元鍛冶屋が改良しました。
この鍛冶屋を地元の人たちは「機械鍛冶屋」と呼びました。 |
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馬耕
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馬耕による農業の普及
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人力と馬耕による
農耕の違い
解説図
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馬耕 |
馬耕具 鋤と唐箕 |
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453音更村の誕生
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1906年(明治39年) これまでの音更ほか二村 (然別・東土狩)の 戸長役場を廃止し、 然別・ 東土狩の両村と当時の凋寒(しおさむ)村 蝶多(ちょうた)村
(士幌川以東一帯) の一部を合わせ音更村として2級村制を施行しました。 初代村長は、和知金(わちきん)次郎でした。明治43年の村勢一覧によると戸数1.183、人口6,477人。
種馬牧場、 音更郵便局、 音更村巡査駐在所、 中士幌巡査駐在所、 音更村役場などの官公があり、市街地もしだいににぎわいを見せてきました。
1921年(大正10年)、人口は18,630人を数え、広大な面積をかかえ不便な事が多く、今の上士幌・士幌・鹿追を分村し一級村制を施行しました。この時の戸数は
1.831戸、 人口10,023人でした。 |
音更村の誕生 |
学校教育 |
農耕
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農耕具
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種蒔き器
俵編み機、縄綯機
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馬の手入れ
樋爪切りなど |
音更の飛行場・交通 |
消防・通信 |
衣類・民具 |
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455開拓成功者の住居
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467白樺並木
白樺の街路樹 |
高校生の頃には、愛読していた小説(堀辰雄)の影響で、白樺の木にあこがれていました。
信州には小説舞台の白樺がはえていることから行ってみたいと思っていました。
大学生になってやっと信州旅行をしたけれど、憧れの白樺とはだいぶ違っていました。
日高町や音更町の白樺街路樹で本当に思い描いた白樺に出会えました。50数年ぶりですね。(笑) |
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