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01外観
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10入口展示 |
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11増野新切遺跡 D-14住居祉出土物 縄文中期 加曽利E式期 高森町歴史民俗資料館考古学資料 増野新切遺跡で最大級の縄文時代中期(加曾利E)の住居址 D-14住居址で、深鉢、浅鉢、壺、台付土器、吊手土器、器台、石棒等が出土している。 住居址規模:7.5m×6.0m 引用増野新切遺跡D14号住居址出土遺物 少なくとも3時期位に渡る縄文時代中期後葉の住居跡78軒、土坑が発見され、出土土器多く、土偶42点、石器6000点
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12増野新切遺跡 B2住居址 勝坂式末期 伊那地方最濃密な遺跡。少なくとも3時期位に渡る中期後葉の住居祉78、土坑が発見され、土器の出土も多く土偶も42点、石器は6000点に近い。
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13 瑠璃寺前遺跡 3号住居址/縄文時代 後期初頭 中島地区から後期初頭の敷石住居址が調査され、炉址奥には深鉢を床面にうめその中に石棒を立てた石壇がある。
この場所に展示されているはずの、「両面顔面把手」、がありません。貸し出し中だったと思われます。リンクをご覧ください。 |
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資料 加曽利E式土器 引用加曾利E式 - Wikipedia 概要 縄文中期後半 千葉市若葉区桜木8丁目の加曽利貝塚の北貝塚E地点出土の土器を標準としている。 関東から中部地方の、縄文時代中期後半の土器型式(様式)名である。 加曾利EI式 東北地方の大木8a式の影響を受けている。口縁部文様帯に横S字状、渦巻き状、逆J字の隆帯を張り付けて、隆帯に囲まれた部分に縄文を施し、 口縁部文様帯と胴部の文様帯の間に無文帯が設ける例が多くみられる。胴部の文様帯は隆帯で区分され、縄文がぎっしり充填される。 加曾利EⅡ式 大木8b式と並行。 加曾利EⅢ式 大木8b式や大木9式の影響を受け、底部付近を除き渦巻き状の隆帯を器面全体に施し、隆帯で区分された部分に縄文を充填するタイプが出現する。 加曾利EⅣ式 器面全体にM字ないしU字あるいはV字の無文帯の間に縄文が充填される型式である。 大木9式にみられる口縁部の下肩部両脇に把手のついた浅鉢が出現する。 現在では、EⅣ式は存在せず、EⅢ式後期と称名寺式土器段階であると考えられている。 引用関東の大木式・東北の加曽利 E 式土器 称名寺式土器 神奈川県横浜市金沢区金沢町の称名寺貝塚が標準遺跡である。 縄文時代後期初頭の土器形式 ※この頃の土器形式の写真後期・堀之内1式 |
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資料 勝坂式土器 引用勝坂式 - Wikipedia 概要 縄文中期前半 神奈川県相模原市南区磯部 の勝坂遺跡という大規模集落遺跡を標準とする土器である。 関東地方及び中部地方の、縄文中期前半の土器型式名ないし様式名である 特徴 器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的である。 また、水煙式と呼ばれる中部山岳地方の土器は、勝坂式の終末に出現する。 勝坂1式古相 =狢沢式 (※文献に狢と貉の両表記があります。ワープロ機能の弊害です。狢が正記) 勝坂1式新相 =新道式 中期前半 勝坂2式 =籐内式 Ⅰ式とⅡ式 中期中葉 勝坂3式 =井戸尻式 中期中葉 ※関東地方では、井戸尻式(勝坂3)末葉には、東北地方の大木式の影響を受けた加曾利E式が成立し、 同じ住居跡から勝坂式終末期の土器と加曾利E式土器が一緒に出土することがある。 ※中部山岳地域には次の曽利式にも水煙文土器が継承される。 ※狢沢式~井戸尻式までのすべては、井戸尻考古博物館周辺のものです。 |
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20新館展示室 |
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71新館入口の展示土器である。 新館の目玉展示① |
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21 ①深鉢 縄文・中期 角田原遺跡 高さ39cm口径29cm、 径50cm程の土坑から横倒しに潰れて発見された。 口縁に4個 (現存3個) の突起が付き其々異なったモチーフを表現している。 1個は大きく把手状で、蛇体状の文様で飾られいてる。外面は横位の隆帯によって5つの文様帯に区画され、隆帯と爪形文、 沈線による文様が施される。 後円部は.文様帯は蛇行する隆帯を巡らし、頸部は縦位の沈線で埋める。胴部は三角区画文帯、斜行沈線文帯、楕円形区画文帯が重畳する。 ②顔面把手 縄文・中期 吉田本城跡 高さ15cm 城跡付近の斜面で発見された。 深鉢形土器に付く把手で、祭に使われた土器と考えられる。人面が両面に表現され、内部は中空となっている。 釣り上がった大きな目や開かれた口、そして眉に連なる鼻が表現され、印象的である。 縄文時代中期にはこのような顔面把手を飾る土器が東日本を中心にみられるが、顔が両面につくのは全国的に5例しかなく極めて珍しい。 ③深鉢 縄文・中期 唐草文系土器 増野渡瀬遺跡 高さ70cm 口径40cm 開拓中、2軒の竪穴住居跡が発見され、このうち1軒から出土した。 口縁部は大きく広がり胴部上半がくびれる。口縁は内湾し、いわゆるキャリパー形となる。 くびれ部に横位の隆線や波状の粘土紐を巡らし、口縁部と胴部の文様帯に区分する。口縁部文様帯は渦巻状のモチーフを持つ8単位の 褶曲文を施す。 胴部文様帯は懸垂文・唐草状の渦巻文を配置し、空間は斜行する沈線で埋められている。 たいへん雄大な唐草文系土器。 ④深鉢 縄文・中期 衰退期の唐草文系土器 煮炊き用 高さ50cm 口径37cm 道路工事中に発見。 上半部の約1/2を欠く。胴部に煤が付着し、煮炊きに用と思われる。 底は意図的に抜かれ、住居の埋甕に転用されていた可能性がある。 水平の口縁から頸部で細まり、胴部でやや膨らみながら底部に至る器形で、器面全体を沈線による文様で飾っている。 口縁部は楕円形の区画文、小さな渦巻文を配置し、胴部には渦巻状の唐草文をいっぱいに描いてある。衰退期の唐草文系土器の一つ。 ⑤細頸壺 弥生・中期 称宜垣外遺跡 高さ33cm 大島山・称宜垣外京の田地籍の発掘調査。 細く直立する口頸部と、最大径を丈夫に持つ胴部、小さな底が特徴。体部上半に箆描沈線文と縄文を施している。 口頸部には横位の沈線、縦位の鋸歯文。肩部には3重の鋸歯文をめぐらし、地文には縄文を施す。胴部上半には大きな雷文を巡らす。 条痕文系に属する土器で、器形・文様は他に類をみない。山麓に展開する低湿地で、稲作農耕を営んだ人々が携えた土器であろう。
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50日本最古の貨幣 富本銭 新館の目玉展示② |
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51富本銭とは 683年天武天皇12年に鋳造と推定 七世紀後半、唐にならい律令国家建設を推進した天武朝は、それまでの無文銀銭を廃止し新たに銅銭を鋳造することを命じた。 これが我が国初の鋳造貨幣富本銭である。
富本・七曜星の意味 富本の意味 富本銭の上・下に刻まれている「富」「本」の意味は、中国唐時代に出された勅撰類書「藝文類聚」に 「富民之本、在於食貨」(民を富ませる本は、食と加米にあり)という故事や、 「晋書」の「富民之本、在於食貨」という馬援の上申によるものではないかとされている。 七曜の意味 富本銭の左右に配置されている七曜の星は、中国の陰陽五行思想によるものと考えられている。即ち、古代中国に於いては、 一切の万物は陰(月)と陽(日)二気によって生じ、五行のうち木・火は陽に、金・水は陰に属し、土はその中間にあるとし、 これらの消長によって天地の異変、人事の吉凶等を説明しようとする思想である。
富本銭の状態 武陵地1号墳出土の富本銭の特徴は、外観は錆化が進行し、表面の一部に緑青が浮出するが、遺存状態は良好である。 輪にほつれが見られるが、これは平城京出土の富本銭にも認められ、鋳造後に通貨として、一定期間使用された形跡を示すものと考えられる。 蛍光X線による成分分析では、銅を主成分にアンチモンを顕著に含有することが判明した。このほかに少量の砒素・ビスマス・銀・鉛を含有する。 アンチモンを顕著に含有する特徴は、これまで出土した全ての富本銭に共通し、成分的にも、武陵地1号古墳出土の富本銭は、 飛鳥池遺跡出土の富本銭に酷似している。飛鳥池遺跡で鋳造された可能性も残る。
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53武陵地1号墳 (古墳時代後期) 7世紀前半に築造し、8世紀中頃まで追葬が行われていた。ことが重要。
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54古代銭 日本の古代鋳造貨幣は唐の開元通宝にならい、円形で中央部に方形の孔を開けた円形方孔銭である。 富本銭以降、和同開珎をはじめとする12種類の貨幣が発行された。 |
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60武陵地1号墳出土品 新館目玉展示③ 武陵地1号古墳 高森町武陵地1号墳 秋葉塔の塚 武陵地1号 秋葉塔の塚 富本銭 墳丘の上にイチイの大木があり、その下に秋葉山権現の石塔が祀られている。地域の人々は秋葉塔の塚と呼んでいる。 この塚が一躍有名になったのは、平成11年、奈良国立文化財研究所が飛鳥池遺跡から出土した富本銭を日本最古の貨幣と発表してからである。 この古墳からは、金銅製六窓鐔・金銅製切羽・金銅製鞘金具・金環・鉄鏃・丸玉・須恵器など極めて貴重な遺物が出土している。 |
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61武陵地1号古墳出土品 明治時代の発掘で、富本銭と共に武器・装身具・馬具・須恵器・銭貨(せんか)などの多くの遺物が発見された。 解説パネル 武陵地1号墳出土遺物
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100第2展示室 ※多くのものがピンボケであることをお詫びします。達筆な文字が読めない私をお詫びします。 旧石器から古代まで、高森町出土の遺物が、解説と合わせて、大変丁寧に展示されています。 大変驚きましたし、感心しました。とても偉い人がおられたんですね。 伊那谷の先史時代を研究するならば、是非訪問したい施設です。 |
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101年表 |
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110縄文時代 |
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110草創期 |
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120早期 |
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131前期
黒浜式土器 約6,000年前の関東地方の縄文前期の土器型式名である。埼玉県蓮田市黒浜に所在する黒浜貝塚を標式遺跡としている。 黒浜式の土器は胎土に多量の繊維を含んでいて、繊維は焼成によって炭化し、断面は漆黒色である。器形は、深鉢が主体である。 籠畑式土器 約5,000年前、諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群の籠畑遺跡を標準とする、中期初頭の土器である。 ※しかし、引用論文には、前期後半から中期初頭の土器に含まれている。すると、前期終末期~中期初頭となる。 諸磯式土器 縄文前期中葉、黒浜式以降の土器形式。縄文時代前期後半、関東地方西部・中部地方・東海地方東部に主体的に存在する。 ※年代的に約5,500前となるが、そのようには、どこにも書いてないのです。(笑) |
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140中期 約5000~約4000年前 |
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142前葉 |
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143中葉 |
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144後葉 |
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150後期 |
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160晩期 |
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条痕文式土器 土器文様の一種。二枚貝の背や櫛歯のような施文具あるいは植物の茎の束などで土器面をこすって施される。 特に貝殻を用いたものを貝殻条痕文という。 縄文時代早期には,貝殻条痕文を主とした装飾性の低い土器様式が出現するが,その後も各地の粗製土器に採用されている。 また弥生土器の一部にもみられる。 ※東海地方の、早期弥生系土器は条痕文土器である。晩期の条痕文土器は、その同系統の土器ではないでしょうか。 |
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170弥生時代 |
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171a年表 ピンボケです。
弥生年表
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172弥生前期 |
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173中期
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174後期 |
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200古墳時代 |
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201古墳前期 |
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202
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203
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204若宮2号古墳の馬具 |
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210古墳中期 5世紀 |
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211
1壺は単純口縁で、胴部は球形に近い。 2高坏型土器には稜が見られ、脚部は裾が大きく開き、壺・甕・鉢・坏・高坏・甑など器種が多い 3高森町の低位段丘には、この時期の集落が多い。
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212 |
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213北原2号墳 |
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214 |
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215土器や石器の使いみち |
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220古墳後期 |
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221古墳後期年表 6世紀
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222 | ||||||||||||||
230古代 |
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231古墳時代 |
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232奈良時代
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233坏 |
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234 |
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240 | ||||||||||||||
242縄文時代の小型石器と土器 |
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243弥生時代の小型石器 |
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250民俗資料 |
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251歴史資料 |
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