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目
次
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01外観
02入り口展示
両宮山古墳
100常設展
101南方前池遺跡 縄文時代
103赤磐市の文化財
111年表
両宮山古墳周辺遺跡
112縄文土器
113弥生土器
120日本遺産
両宮山古墳
130造成と竪穴住居
140丘の上の団地
祈 分銅形土製品
151石鏃
152石製武器
153磨製石斧
155石包丁
157分銅形土製品
170丘の上の土壙墓群
埋葬施設の主な種類
172方形台状墓
201正免東古墳
210丘の上の古墳
220特殊器台・特殊壺
230紡錘車 |
310用木古墳群
315銅鏡
316銅鏃
317保存処理
320管玉・銅鏃
324平根式鉄鏃
325尖根式鉄鏃
330.岡山県3大古墳
340岩田古墳群
343装身具
350装飾付き大刀が語ること
352装飾付大刀の種類
355環頭大刀
358副葬品
360副葬品
361正崎2号墳
短甲
馬具
363馬具
364大刀
365銅製品
367木棺用品
371甲冑
375鉄製品
380埴輪
381小山古墳
382人物埴輪
383蓋形埴輪
385埴輪に見る甲冑
386短甲
390埴輪棺
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500着銅遺跡
511住
512須恵器
515鉄鏃
520副葬武器の階層性
530岩田14号墳
531石室内遺物は位置図
532須恵器
550赤磐の製鉄
551猿喰池製鉄遺跡
552製鉄遺物
560陶棺
561岩田8号墳
563亀甲形陶棺
565家形陶棺 |
600備前国分寺
国分寺創建瓦
国分寺跡と七重塔
610着銅遺跡の竪穴住居
630備前国分寺跡の金具類
640備前国分寺跡
645平安時代土器
647岡山県内の古代の銅印と鋳型
650小枝2号墳装飾付陶棺
700赤磐の中世山城
720周匝茶臼山城
723鉄製品
725土製品
733銅銭
740周匝茶臼山城 城主
760中屋遺跡の大量出土銭
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はじめに 私はこんな風に考えています
※これはあくまで私の想像です。何の資料もなく書いていますので間違いだらけのはず。でも、精査する時間がない。ごめん!
2021.06.26に2時間ほどで記述しました、メモ書です。掲載日は6.18なので、掲載後に追記しました。
テーマ 吉備と讃岐 吉備文化の広がりと、讃岐の海上支配
西日本の博物館めぐり
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西日本の博物館めぐりはほとんど終わっているのですが、何箇所か、抜けています。岡山県東部、岡山県北部、広島県南部、などです。
このうち、撮影禁止館を除いて、各地の地域性や文化の広がりを知る上で、どうしても疑問が湧いた館を訪ねてみました。 |
吉備文化と讃岐文化
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岡山県東部は吉備文化圏の辺境にあります。しかし、隣接する兵庫県南西部は四国讃岐文化圏にあるのです。
県境や国境のなかった弥生時代末期から古墳時代前期にこのような明確な違いがあるのは不自然です。
事実、広島県は吉備文化の西端であり、周防文化の東の端で、安芸という区分はありませんでした。なぜ吉備の隣に讃岐があるんだろう。
吉備と讃岐を弥生後期に支配した武力集団は、九州北部からほぼ同時期に瀬戸内海を東征し吉備と讃岐に侵攻しました。
両武力集団は大変仲が良く、讃岐王に吉備王の子供を迎える程でした。(これは、讃岐が弱体化して吉備に乗っ取られたとも考えられるが。)
讃岐文化
讃岐文化は石積塚文化。朝鮮半島北部の葬送儀礼であるが、その分布を見ると、半島北部に集中するも僅かに糸状に南下する線がある。
つまり、石積塚文化人の一部の集団は南下し、各地で少しずつ石積塚を残しながら混乱の半島を移動したようである。
それがやがて博多湾に浮かぶ相島に200基以上もの石積塚の巨大集団墓地として発現する。
この小さな島での巨大集団墓地は、彼らがこの島で生活していたことを意味し、農地の少ない島ではあるが、中近世に朝鮮通信使の停泊港となったほど地の利がよく、良港を抱える。その島を占領して半島と九州との交通や運搬に関わって生業としたのではないだろうか。それ以外の生活手段は考えられない。
吉備文化
吉備文化は半島西部の支石墓文化でもないので、半島東部か中央部の勢力だったのかもしれない。(まだよくわからない。知らない。) |
瀬戸内地方への進出
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彼らはほぼ同時期に北部九州から瀬戸内地方へ進出した。この裏には鉄製武器の量産化が背景にあったのではないだろうか。
ほぼ紀元0世紀頃、中国大陸で鉄製品が一般化し、大量の鉄器が溢れ出した。それは半島においても量産化が始まり、なんと、当時は真首狩り族の支配する台湾北部でも鉄が作られていた。(これは、上空を飛ぶ飛行機の計器がこの付近で異常を示すので調査して広範な鉄滓の分布を確認した)
瀬戸内侵略は紀元1世紀頃
このような最新武器を大量に取得した北部九州の半島人集団が、こぞって各地に進出していったのではないだろうか。
後には、北部九州から北関東や東北地方太平洋側に進出し、装飾古墳文化を残している。
とにかくそれまで東アジアで誰も手にしたことのないような最新の武器を手にした半島人が、先住の半島人=弥生人を支配し、
支配民を兵員とし、武力を増強し隣接する地域を次々と支配し、支配地域を広げていった。
面白かっただろう。まるで赤子の手をひねるようなものである。ほぼ無抵抗でいくらでも支配地が得られただろう。 |
鉄の生産と運搬・交易
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やがて、最新武器の原料である鉄を作る技術を半島から導入し、岡山県南部中央の吉備の本拠地で生産を始めた。(初期のたたら製鉄の開始)
生産の中心地は、後に備後地域に移動するが、備前や北の山間地域でも鉄資源が豊富であり、生産が行われた。
ヤマト政権との関り
古墳時代前期の初期古墳が、吉備にも讃岐にもある。これは、大和政権の成立に参画した証拠である。ただし、前方後円墳の大きさにより、政権より認められた地位の高低がある。両地方の古墳はそこそこの大きさである。これは、かなり強い結びつきがあったものと考えられる。
再び吉備と讃岐
明治時代に県の範囲が定まるまで、香川県讃岐の範囲は、瀬戸内海の多くの島嶼を含み、中国地方や播磨地方にも及んでいました。
弥生・古墳時代、吉備文化圏は岡山県境から東に入った兵庫県西部中央の地域にも及んでいます。 しかし、兵庫県南部西端の地域は讃岐文化圏です。なぜここに讃岐があるのだろうか。
この原因はどうやら製鉄原料の産出範囲と関わっているようです。兵庫県西端中部の山岳地帯の砂鉄産地は吉備文化圏。
一方、その川下にあたる河口付近では讃岐文化圏であり、讃岐式石積塚などもあり、早くから異文化が入り込んで、なぜか栄えていました。
生産と流通
強大な吉備がこのような讃岐の進出を放置しておくはずはなく、そこに何らかの密接な関係があったのではないだろうかと考えられます。
海運に長けた讃岐人と、鉄生産を獲得した吉備人。 |
ヤマト政権と鉄
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当時の列島では、北部九州の勢力によって列島に流通する鉄は押さえられ、独占されていた。
つまり、ヤマト政権をはじめとする国内の勢力は鉄製武器が不足し、北部九州に対して軍事的劣勢にあった。
そんな時、品質や生産量は劣るとしても、吉備の生産する鉄は、ヤマトにとっては千金に値するものだったはず。
その鉄を融通してもらい、それをヤマトまで運んだのは讃岐の海運力だったのではないか。
これによって出雲に次いで、吉備・讃岐も新政権に参画し、自分たちの墓制である特殊壺と特殊器台、円形周溝墓や葺石などを新墓制とし、
グループの象徴として、新しい墓前祭祀を確立した。
※墓前祭祀は墳丘の上で各支配地域の長を集め、大々的に権力の継承を行い、各支配地域の長が祝福するというものであった。
※これは親子など血統による王権の継承が認められていなかったからなのか、血縁でない実力者が血縁に入って引き継いだためなのか、
後の大王家の権力継承と似たものがある。
ただし、ヤマトは一方で日本海航路を通じても大陸や半島と深い繋がりを持って鉄交易を行っており、丹後地方には200m前後の前方後円墳が
何基もあり、大王の后や妃を何人も出している。渡来人が沢山住んでいた、いわばヤマトがよって立つ、政権因縁の地である。 |
讃岐の支配地域
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吉備は農業生産性の低い島嶼部の支配に興味を持たず、工業製品としての鉄生産に力点を置いた一方で、
讃岐は海上支配を主眼とし、瀬戸内一体の島嶼や沿岸部を支配下に置き、海上交通における運搬や、通行料、海賊行為、などを行った。 |
その後の吉備と讃岐
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吉備の時代
吉備という地域は最初から吉備と呼ばれていたのか、それとも四道将軍が畿内周辺を再支配の軍事行動をおこなったときの
吉備津彦の名前なのか知らないのだが、(吉備津彦は山陽道将軍として大王の命令で政権に参画する吉備を攻撃し吉備王を鬼として殺したこと。)
当時のヤマト政権の大王は、血統ではなく、当時の実力者が王統の娘に婿入りすることによって受け継がれてきた。
つまり、グループ中のA氏が新王に立と、その反対勢力B~F氏らは政敵で、新王によって滅ぼされるわけで、いわゆる政治闘争である。
この政治闘争によって吉備は攻められ、鬼として現代にまで語り継がれ、岡山では、侵略支配者吉備津彦を「ももたろー」としてあがめている。
讃岐の時代
讃岐は仲哀天皇の瀬戸内海西征以後次第に朝廷の支配に組み入れられ、海上支配権が縮小していき、大化の改新頃には、
徳島県=阿波に政治的中心が移ってしまう。
阿波からは沢山の政権中枢にかかわる人々が輩出し、また、阿波に本拠地としての領地を持ち、政権運営に関わっていった。 |
結論
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ヤマト政権が産声を挙げたとき、各地の豪族はいかにして参集し、参画したのだろう。途中の数多くの豪族の支配地をどの様にして通過したか。
考えてみると、当時は道路がなく、細い踏み分け道程度であり、ほとんどが海上交通に頼っていた。
従って当時の都である纏向遺跡は低湿地に造られ、水路で結ばれたいわば水上集落。全て高床式なのは、増水による水位上昇に対応したもので、東南アジアに行けばこのような建築は珍しくない。また増水は災難ではなく、むしろ集落内のゴミや汚物、糞尿を押し流してくれる掃除屋さんでした。
このような水上都市は水運を前提としており、海運は必要不可欠であり、それを担う讃岐人はそれなりの大きな権力を持っていたものと思われる。
また、吉備がヤマトに鉄を供給しなければ、ヤマト政権は生まれなかったかもしれない。あるいは、丹後経由で入るわずかな量の鉄が溜まるまで
成立は50年は遅かったかもしれない。
と、想像しています。これらが事実かどうか、これから少しずつ調べ、また、すでに調べたものと合わせて、時々掲載することにします。
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01外観
赤磐市山陽郷土資料館
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この資料館は、旧山陽町域の考古資料を収蔵・展示し、郷土の学術と文化の振興に寄与することを目的に昭和53年1月、財団法人山陽町文化材保護協会が建設しました。平成12年から、山陽町教育委員会、平成17年3月より赤磐市教育委員会が管理運営しています。
古代吉備文化が栄えたこの地域には、国指定史跡である両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)・備前国分寺跡をはじめ、南方前池遺跡・用木古墳群など多くの文化財が残されています。特に山陽団地の造成に伴う広大な遺跡群の発掘調査によって、原始古代を解明するうえで重要な学術資料が多数出土しました。
当館は、縄文時代から奈良時代にかけての遺物を時代順に展示し、写真パネルで分かりやすく解説しています。 |
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02入り口展示
両宮山古墳
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両宮山古墳は、赤磐市穂崎・馬屋・和田にある前方後円墳です。昭和2年に国指定史跡になりました。
墳丘の大きさは194mを測ります。この大きさは、全国の古墳の中で第39番目に当たり、両宮山古墳が築造されたと推定される5世紀後半においては、
中四国・九州の中で最大の規模を持っています。
内濠と外濠の二重の無周濠が墳丘を取り巻いています。外濠は埋没していますが、田の畔の形状からもうかがうことができます。
その総長(墓域の広がり)は346mと広大です。 |
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善国国分寺跡所在地
一覧 |
古代の国分寺所在地から |
国分寺一覧
当時の繁栄地域が現在と大井にずれているところもある。 |
当時の都市の繁栄は何が原因だったのかを考えさせる。 |
街道が移動した。
災害で港が埋設した。
有力豪族が集散地を移動させた。
自然に便利なところに移動した。 |
俵・大甕・撚糸具 |
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両宮山古墳 |
両宮山古墳
上に記術 |
赤磐市山陽郷土資料館
上に記述 |
展示案内
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100常設展
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101南方前池遺跡 縄文時代
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今から焼く2500年前の縄文時代の終り頃、ここに住んだ人々が食料として蓄えたトチの実やドングリなどの食料貯蔵庫(穴)群が発見されました。
普通の状態では腐って亡くなってしまう木の実や木の道具などの遺物が残っていて、縄文土器と一緒に出土しました。
また、弥生時代の土器や棒杭などの木器も発掘されてます。
これらの遺物から、自然の木の実を採集して暮らしていた、私たちの遠い祖先の生活のありさまをはっきりと知ることができます。 |
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南方前池遺跡
上に記述 |
貯蔵穴 |
ドングリ
縄文晩期2500年前
南方前池遺跡 赤磐市 |
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102
弥生時代の棒杭 |
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南方前池遺跡発掘調査の議員視察 |
縄文土器
縄文晩期2500年前
南方前池遺跡 |
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103赤磐市の文化財
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国指定文化財 |
県指定文化財 |
市指定文化財 |
宝篋印塔・五輪塔 |
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111年表
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112縄文土器 縄文時代晩期 赤磐市南方 南方前池遺跡
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113弥生土器 弥生時代前・中期 赤磐市南方 南方前池遺跡
弥生土器 |
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※同一遺跡の上と下から、縄文土器と弥生前・中期土器が出土するのは、縄文人が弥生文化を受容して弥生人になったということか。
それとも縄文人を追い払って好立地を得たのだろうか。 |
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115弥生土器 弥生時代前期 赤磐市下市 山陽小学校遺跡
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116弥生土器
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台付壺
赤磐市内出土
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楽浪系土器 筒杯
弥生後期~
山陽 門前池東方遺跡 |
楽浪系土器
弥生時代の終りに、財力をたくわえた集落が半島系の土器を、米を輸出した対価として、高価なものとして入手したのかもしれない。
それとも、渡来人が多く、単に食器として持ち込んだものかもしれない。 |
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120日本遺産のポスター
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130造成と竪穴住居 弥生中期~後期
用木山遺跡や惣図遺跡からは弥生時代中期から後期までの竪穴住居が発見されました。
竪穴住居は、山の斜面を大きく削り、低い部分に土を盛って階段状の平坦面を造成して建てられました。
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140丘の上の団地
繰り返す歴史 丘の上の団地
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現在の赤磐市山陽(山陽団地)は、団地建設のため、昭和44年(1969)10月から5年間に渡る埋蔵文化財の調査が行われました。その結果、
集落跡7、土壙墓・台状墓6、古墳77、総数90遺跡にも上る遺跡密集地であることが判明しました。
このうち集落遺跡は、用木山遺跡(ようぎやま)・惣図遺跡(そうず)・愛宕山遺跡・さくら山遺跡などです。
中でも用木山遺跡(用木山:標高92m)からは、約2000年前の弥生時代の竪穴住居が124軒発見されました。それまでは人々が棲んだ形跡がない用木山丘陵に、爆発的に住居が建ったのです。更に山陽団地調査区全体で、弥生時代~古墳時代にかけて350軒の住居跡が発見されました。 |
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丘の上の団地
(弥生・古墳期) |
用木山遺跡 |
山陽団地の主な遺跡 |
造成地に建つ竪穴住宅団地 |
用木山遺跡
弥生時代住居址等
遺構配置図 |
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祈 分銅形土製品
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弥生時代の遺跡から出土する土製品で、径5~10cm前後の円盤状の両側から抉り込みを入れて作られたものです。この形が江戸時代の秤の分銅に似ていることから分銅形土製品と呼ばれています。
分銅型土製品は、岡山県古代吉備文化財センターの調査によると、現在720点余り見つかっており、その役43%が岡山県。鳥取県16%、兵庫・広島県9~10%出土しています。このうち赤磐市唐は61点以上出土しており、分銅形土製品が多く見つかった地域と言えます。
分銅形土製品の用途ですが、祭祀具と考えられており、政に用いられたようです。山陽団地の遺跡から出土した55点のうち、完形は1点しかなく、他は全て壊されています。よって壊すことにもむ大きな無意味があったのではないかと思われます。 |
分銅型土製品
上に記述 |
赤磐市出土
分銅形土製品 |
分銅形土製品出土状況
用木山遺跡 54%
さくら山遺跡25%
斎富遺跡10%
惣図遺跡 3%
愛宕山遺跡3%
門前池遺跡3%
ヤケ池遺跡2% |
用木山遺跡
竪穴住居出土状況
用木山遺跡
石包丁・土器出土状況 |
分銅型土製品編年 |
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151石鏃 弥生中期 用木山遺跡 赤磐市山陽
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152石製武器
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石剣
弥生中期 用木山遺跡
ほか
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石剣 山遺跡
用木山遺跡 |
打製石斧 弥生中期 用木山遺跡
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153磨製石斧 弥生中期 用木山遺跡
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磨製石斧 弥生中期 用木山遺跡
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磨製石斧 |
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石鎚(せきつい)
弥生中期 用木山遺跡
2000年前
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砥石 弥生中期 用木山遺跡
2000年前
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石錘 弥生中期 用木山遺跡
2000年前
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154
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155石包丁 弥生中期 用木山遺跡
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打製石包丁 弥生中期 用木山遺跡
2000年前
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磨製石包丁 弥生中期 用木山遺跡
2000年前
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157分銅形土製品 用木山遺跡
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用木山遺跡
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用木山遺跡 |
用木山遺跡 |
さくら山遺跡
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惣図遺跡
愛宕山遺跡 |
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170丘の上の土壙墓群
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弥生時代中期、人々は住居区域と墓域を明確に分離し、丘陵上を共同墓地として埋葬を行いました。
四辻土壙墓遺跡は、弥生時代中期中葉~中期末の土坑墓群です。
中期末葉までは小規模でしたが、中期後半から規模が拡大し、さらに墓域に方形台状墓が築かれ葬送に使用したと思われる土器が出土しています。
愛宕山土壙墓遺跡は弥生時代中期後半~後期までの土壙が約300基発掘されました。
いずれの遺跡も埋葬施設は乳幼児を埋葬したと考えられる土器棺を別にすると、墓壙の形状から一律して組み合わせ式木棺による埋葬と推察されます。
便木山遺跡からは弥生時代終末期の土壙墓が41基検出されました。木棺内に枕石が使用される埋葬施設が多く見られます。また、大型墓壙内に配石を施したものや、副葬品として銅鏡や鉄拳を納め、棺外に特殊器台や特殊壺を共献した、他に比べてより厚く葬られた被葬者が現れます。 |
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171
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丘の上の土壙墓群 |
愛宕山土壙墓群 |
山陽団地文化財 |
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便木山遺跡群墳丘墓 |
埋葬施設の主な種類
埋葬施設の主な種類 |
棺
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槨
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室
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大和政権内部の権力の移譲と
棺や石槨の型式変化には関係している。
政権と埋葬祭祀は不可分である。 |
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172方形台状墓
宮山方形台状墓
全ての埋葬祭祀用土器が赤彩されている。 |
土器棺 弥生時代
宮山方形台状墓
赤磐市山陽 |
土器棺 |
大きな甕である |
小さな甕に高坏を逆さにした蓋 |
大甕小甕、蓋用高坏も葬送ように最初から赤彩されている。 |
愛宕山方形台状墓
土器棺 弥生時代
愛宕山方形台状墓
赤磐市山陽 |
土器棺用に壺の頸を壊して使用した |
器台
共献用に使用 |
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201正免東古墳 5世紀後半
正免東古墳復元模型 |
正免東古墳復元模型 |
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復元模型
円形周溝墓の上に
円形台状墓を乗せ、葺石まである。 |
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円墳が3つ見えている |
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210丘の上の古墳
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山陽団地内遺跡群は、古墳時代に77基の古墳が築造されました。
古墳時代前期には、用木1号墳・3号墳などが築かれます。用木1号墳は墳長31mの円墳で、古墳内部から銅鏡・鉄剣・多数の玉類・銅鏃が出土しました。
用木3号墳は墳長42mの前方後円墳で、山陽団地内遺跡群の中で最初の定型化された古墳と考えられます。
古墳時代中期には、用木11号墳や四辻1号墳・5号墳、宮山4号墳が造られます。方墳を中心とした,墳域を区画する溝や葺石を施す古墳が見られます。四辻1号墳と宮山4号墳では、円筒埴輪・形象埴輪や、墳丘の上での祭祀に使われたと思われる須恵器が出土しています。
古墳時代後期になると横穴式石室が採用され、岩田6号墳~14号墳までの9基が丘陵斜面に築造されました。 |
愛宕山遺跡の特殊器台・特殊壺
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特殊器台・特殊壺出土地 |
丘の上の古墳 |
丘の上の古墳群 |
特殊器台 弥生後期
赤磐市是里
愛宕山遺跡 |
特殊器台
愛宕山遺跡 |
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愛宕山遺跡の特殊器台
弥生時代後期
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愛宕山遺跡の特殊器台
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赤磐市愛宕山の尾根にある遺跡で未発掘。弥生後期の墓があったとみられ、特殊器台と特殊壺の破片が採集された。
口縁部の直径40㎝、巴形の透かしのある脚部は直径50㎝の大型。
表面には赤色顔料が塗られ、筒状の胴部は数段に分けられ、鋸歯文という三角形の連続文様が施され、
渦巻のような弧文が描かれています。
発見された特殊壺には鋸歯文が施されています。 (以上抜粋して引用、広報赤磐、ふるさと探訪67) |
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220特殊器台・特殊壺 弥生後期 是里塚風呂遺跡 赤磐市是里
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弥生時代後期、墳丘墓に供えられた葬送祭祀に用いられた吉備地方独特の土器のことです。
岡山県内の弥生墳丘墓と思われる遺跡、およそ60ヶ所から出土しており、岡山県を中心に、島根県、奈良県、広島県でも出土しています。
特殊器台と特殊壺は吉備という地域にあって、王権継承の意味を持つ祭祀の成立を意味していると考えられます。
この特殊器台や特殊壺は、古墳時代の埴輪の祖形となり、円筒埴輪へと姿を変えます。 |
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特殊器台・特殊壺の変化 |
楯築型→立坂型→.向木見型→宮山型 |
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特殊器台 |
特殊壺 |
特殊器台・特殊壺
弥生後期
是里塚風呂遺跡 |
底部穿孔 |
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特殊器台と特殊壺 |
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特殊器台 便木山遺跡 赤磐市山陽
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特殊器台 便木山遺跡 赤磐市山陽
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特殊壺形土器
便木山遺跡 赤磐市山陽
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特殊壺形土器 |
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230紡錘車
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紡錘車の使用法
繊維を撚り合わせて
糸にする |
紡錘(つむ)の図
鉄製紡錘車
着銅遺跡(赤磐市長尾) |
鉄製紡錘車 古代
赤磐市長尾 着銅遺跡 |
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土製紡錘車 弥生時代
用木山遺跡 |
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用木山・惣図遺跡 |
土製紡錘車
赤磐市中島 |
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滑石製紡錘車 古墳時代
岩田14号墳 |
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300対壁
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310用木古墳群
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4世紀から5世紀の古墳時代の初め頃、この地方の支配者は用木山の丘陵尾根上に16基の古墳を築造しました。用木古墳群はこの地域の古墳の始まりとその発展の様子をはっきり示しています。中でも用木1号墳からは尚方作の銅鏡や銅鏃が出土しており、また、他の古墳からも鏡・玉・剣・鉄斧・鉄鎌などの多くの副葬品が発掘されました。 |
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311
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用木古墳群
上に記述 |
用木古墳群全景 |
用木2号墳第1主体 |
用木2号墳 銅鏡出土 |
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312
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用木1号墳の銅鏃 |
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用木1号墳 |
用木1号墳 直刀 |
用木1号墳 第1主体 |
用木1号墳 銅鏡・鉄剣 |
団地内に保存された
古墳・墳墓 |
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315銅鏡
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小型内行花文鏡
さくら山方形台状墓
71.5mm |
小型鏡片
さくら山遺跡 |
小型仿製鏡 |
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銅鏡
用木2号墳 |
方格規矩鏡
用木2号墳 |
内行花文鏡
用木2号墳 |
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316銅鏃
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317保存処理 遺物の保存処理技術
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320管玉・銅鏃 |
321管玉 なぜキャプションが隠されているんだろう。
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324平根式鉄鏃 古墳時代 正崎2号墳 5c 赤磐市正崎
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325尖根式鉄鏃 古墳時代5c 正崎2号墳 赤磐市正崎
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330.岡山県3大古墳
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造山古墳 |
5世紀前半 |
358m |
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作山古墳 |
5世紀中頃 |
286m |
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両宮山古墳 |
5世紀後半 |
206m |
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赤磐各地の主要古墳 |
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用木5号墳 |
用木5号墳
玉類・土師器出土 |
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用木8号墳 |
8号墳主体部 |
古墳の階層性 |
岡山県の3大古墳 |
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波状帯四獣鏡
用木3号墳 |
斜行櫛歯文帯内行花文鏡
用木3号墳
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ヤリガンナ 用木3号墳
鉄斧 用木3号墳 |
鉄斧 用木3号墳
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金環 古墳後期
岩田古墳
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金環 |
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340岩田古墳群
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6世紀から7世紀にかけて築造された後期古墳を主とする古墳群で、1・8号墳からは埴輪や陶棺が出土しており、中でも14号墳は大型の横穴式石室古墳で、環頭大刀を始め金環・玉類の装身具や大刀・鉄鏃・轡・杏葉などの武器や馬具、そのほか須恵器・土師器など多量の副葬品が発見され、古墳時代の終り頃のこの地方の様子を知る上で大切な資料です。 |
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341
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岩田古墳群 |
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岩田3号墳 |
3号墳竪穴式石室 |
岩田1号墳 |
1号墳主体部 |
岩田14号墳出土と
同タイプの雁木玉 |
雁木玉 |
雁木玉出土地 |
雁木玉出土古墳 |
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343装身具
玉類
岩田3号墳 古墳時代 |
滑石製小玉
岩田3号墳 古墳時代 |
管玉・勾玉・ガラス玉 |
碧玉製勾玉 |
琥珀・ガラス
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ガラス
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ガラス玉 岩田1号墳 |
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345
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滑石・メノウ・ガラス
岩田8号墳 古墳時代 |
メノウ勾玉・碧玉勾玉・双孔円板
用木7号墳 古墳時代 |
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347
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雁木玉 古墳後期
岩田14号墳 |
銀象嵌八窓鍔
岩田6号墳 古墳後期
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350装飾付き大刀が語ること
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6世紀になると、金銅や銀のそうしょくを施した大刀が多くなる。そうした装飾付き大刀の一つの祖形となるのは、百済の武寧王が身に着けていた単竜環頭大刀である。
武寧王の即位は501年で523年没。公州の宋山里古墳群の中に葬られている。最近錆落としが行われ、環頭部の精緻な文様が一層鮮明になった。金の細粒を 用いた細金細工は、列島内の資料には見られない手の込んだ装飾である。
この環頭大刀の環周の部部には二匹の竜が浮き彫りになっているが、これが少し崩れた紋様を持つ単竜環頭大刀(岡山県岩田14号墳出土)や単鳳環頭大刀が列島内で出土しており、その後の文様退化のプロセスも明らかになっている。
どのような経緯で、武寧王の大刀を模したものが列島内で製作され始めたのかはいまひとつはっきりしないが、
それを模して次々と単竜環頭大刀が製作されたと考えるのも一つの解釈であろう。いずれにしても、百済王と列島内の王たちとの交流を物語る重要な遺物である。 |
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351
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装飾付き大刀が語ること |
百済武寧王陵出土
単龍環頭大刀
韓国忠清南道公州市 |
岩田14号墳出土
単龍環頭大刀
岡山県赤磐市
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岩田14号墳 |
岩田14号墳横穴式石室 |
古墳内部 |
環頭大刀出土 |
環頭大刀 |
環頭大刀
岩田14号墳
古墳時代後期
残存長22cm |
単龍環頭大刀 |
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352装飾付大刀の種類
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外環内に装飾を持つ
環頭大刀 |
単龍環頭大刀
単鳳環頭大刀
岩田14号墳赤磐市
こうもり塚古墳総社市 |
三葉環頭大刀
双龍環頭大刀
将軍山古墳 埼玉
大谷第1号墳 真庭市 |
獅嚙環頭大刀
梶山古墳 茨城県 |
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353
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袋状の柄頭をもつ大刀 |
円頭大刀
平井地区1号古墳 群馬
金の大刀と銀の大刀
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頭椎大刀
土井2号墳
岡山県真庭市
古墳と大陸文化 |
圭頭大刀
梶山古墳 茨城県
金の大刀と銀の大刀 |
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355環頭大刀 岩田14号墳 古墳後期 赤磐市山陽
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環頭大刀 岩田14号墳 古墳後期 赤磐市山陽
残存長87.5cm |
※これは
獅噛環頭大刀
というべきです |
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358副葬品
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副葬品
遺体を埋葬する時、死者に供えて置いた品
鏡 勾玉 大刀 |
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360副葬品
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361正崎2号墳
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本古墳は赤磐市正崎に所在していました。昭和62年発掘し消滅しました。
古墳は、標高50mの丘陵尾根上に立地した径約20×16m、高さ2.5mの円墳です。今から約1550年前の5世紀代に造られた豪族のお墓です。
内部構造は木槨木棺墓と考えられ、主体部の木簡床面には埋葬された人の痕跡(人形)を見ることができました。
出土遺物は、墳丘内から三環鈴、須恵器、木槨木棺内から銅鏡、鉄剣、直刀、甲冑、馬具、鉄鏃、鉄鉾、鎹などが出土しました。 |
短甲
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胴体をまもる甲(よろい)で、細長い鉄の板(帯金おびがね)の下に幅の広い鉄の板(地板じいた)をリベットでつなぎ合わせて(鋲留びょうどめ)作られています。
このような作りの短甲を「横矧板鋲留短甲よこはぎいた」と呼びます。胴体の後ろを覆う装甲1枚と胴体の前を覆う装甲2枚を組み合わせて作られており、
前を覆う装甲のうち、左側はリベットで動かないように固定されていますが、右側の装甲は四角い金具(蝶番金具)を装甲板に打ち付けて、外側に開いて身に着けられるようになっています。
正崎2号墳の短甲は、頭の大きなリベットを使っていることや、一番下の端を鉄の板で包んで保護(鉄包覆輪てつつつみふくりん)してあることなど、新しい作り方と、上の端を革で包んで保護(革包覆輪)してあることや4つのリベットで固定され、金銅板が被せてある蝶番金具など丁寧で古い作り方が一緒に使われています。 |
正崎2・4号墳 |
2号墳第1主体部 |
第1主体部遺物分布 |
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短甲各部名称 |
短甲 |
かぶと(冑)
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頭を守る冑(かぶと)と、首を守る錣(しころ)が錆びてくっついています。冑は先が尖った形(衝角しょうかく)に作られており、沢山の短くて細い鉄の板(小札こざね)を頭の形に丸く作った鉄の板(胴巻板・腰巻板)に、鉄のリベットを使って(鋲留)くっつけて作られています。これを「小札鋲留衝角付冑こざねびょうどめしょうかくつきかぶと」と呼びます。上から見た形が、衝角付冑にしては丸い形をしています。
錣は3段の細長い板(板錣)を革ひもでつないで作られており、一番下の段の錣には首を曲げやすいように下から刳り込みが入っています。また、肩や顔と擦れてもよいように板の端は革で保護(革覆輪)してあります。 |
あかべよろい(頸甲)
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主に胸を守る甲(よろい)で、肩を覆う2枚の大きな鉄の板と、その鉄の板同士を前後でつなぐ細長い鉄の板(引合板ひきあわせいた)の合計4枚で作られています。鉄の板同士の継ぎ合せは、後ろ側では革ひもを用いて行っているのに対して、前側では引合板を左側の板にリベット留めしています。
このような作りの頸甲を「内延式鋲留頸甲」と呼びます。以下・・・・ |
かたよろい(肩甲)
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肩から上腕部を守るよろいです。正崎2号墳のよろいかぶとの最大の特徴はこの肩甲にあります。普通は大きな鉄の板を利用したよろい(短甲)には細長い板を革ひもで繋げた肩甲が使われますが、ここでは、小さな小判のような鉄の板(小札)を革ひもでくくり付けて動きやすくしている(小札肩甲)が特徴です。
馬に乗るのに適した新しいタイプのよろい(挂甲)に伴う肩甲です。正崎2号墳の肩甲は最初の1段目には長い板を使っていますが、後の8段を小札を用いて作っており、2つの違った形を合体させた(折衷式)ユニークな肩甲です。日本で1つしか見つかっていません。 |
かぶと |
あかべよろい |
かたよろい |
かたよろい |
こざねのとじ方 |
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馬具
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馬に装備する道具。
岩田14号墳からは、轡2、鐘形杏葉5、雲珠1、辻金具1、留金具8、鉸具7、鐙・鞍金具が出土しました。これらの大部分は奥壁部一括遺物群から
第1号棺床面下にかけて敷き込まれた形で出土しています。
制御用具
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➀轡(くつわ) |
馬の口にかませて馬を制御するもの |
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②引手(ひって) |
銜(はみ)・鏡板と手綱とをつなぐもの |
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③手綱(たづな) |
馬を制御するため、馬の轡に浸けた綱 |
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④面(おも)がい |
轡を固定するもの |
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⑤鏡板(かがみいた) |
轡を構成する部品で、馬の口にかませる銜(はみ)と面がいをつなぐもの。 環状と板状のものがあり、板状にはf字型・楕円形・心葉形などがある。 |
馬具補助具
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➀鞍(くら) |
乗り手が座る部分 |
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②鐙(あぶみ) |
乗り手が足を掛ける部分 |
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③障泥(あおり) |
鞍の下に敷く泥除け |
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④胸がい |
鞍を固定するもの |
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尻がい |
鞍を固定するもの |
装飾等
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➀雲珠(うず) |
尻がいなど革帯が交差する部分に装着する大型の辻金具 |
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②杏葉(ぎょうよう) |
尻がいや胸がい~垂下する装飾品。金銅製・鉄地金銅製などあり、釣鐘形・剣菱形・楕円形・ハート形がある。 |
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③鉸具(かこ) |
革帯などを留め繋ぐための蝶番式の鉤(かぎ)金具。鞍・杏葉などにつく。 |
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363馬具 岩田14号墳 古墳後期
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鐙 古墳後期
岩田14号墳
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留金具 |
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鐘形杏葉 古墳時代 |
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364大刀 正崎2号墳 古墳時代5世紀
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鉄剣 |
鉄剣
古墳時代5c
正崎2号墳 |
レントゲン写真 |
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直刀
古墳時代5c
正崎2号墳 |
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365銅製品
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三環鈴
古墳時代5c
正崎2号墳 |
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画像鏡
古墳時代5c
正崎2号墳 |
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367木棺用品
鎹(かすがい)
古墳時代5c正崎2号墳
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370正崎2号墳 |
371甲冑
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上代の武装戦士 |
小札肩甲
こざねかたよろい 古墳時代5c
正崎2号墳 |
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甲冑内部の土師器 |
正崎2号墳
甲冑出土 |
甲冑出土状況 |
甲冑
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373甲冑・小札
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衝角付冑
しょうかくつきかぶと |
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肩甲かたよろい |
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小札肩甲 |
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375鉄製品
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辻金具と漆膜
古墳時代5c
正崎2号墳
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尖根式鉄鏃 |
尖根式鉄鏃
とがりねしきてつぞく 古墳時代5c
正崎2号墳 |
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石突 鉄鉾
古墳時代5c
正崎2号墳
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轡 |
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380埴輪 |
381小山古墳
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小山古墳 |
小山古墳 |
埴輪列
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朱千駄古墳長持形石棺 |
小山古墳 家形石棺 |
埴輪 |
円筒埴輪
小山古墳 5c後半
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円筒埴輪
森山古墳 |
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382人物埴輪 岩田1号墳
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人物埴輪は形象埴輪のしっしゅであり、その中では最も遅く5世紀頃から作られるようになりました。
武人・巫女・踊子・力士・農夫など様々な姿が表現されますが、岩田1号墳の周溝から出土したこの人物埴輪は、欠損のため、性別服装などは不明です。 |
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岩田1号墳 埴輪列 |
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人物埴輪 |
人物埴輪
岩田1号墳 |
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円筒埴輪
岩田1号墳 |
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383蓋形埴輪 正免東古墳
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キヌガサ形埴輪は器財埴輪の一種で、高貴な人に差し掛ける傘を象った埴輪です。形象埴輪の中では最も早い時期(4世紀)から作られ初め、被葬者の権威をあらわすために建てられました。
この蓋形埴輪は、高月公民館建設に伴い調査が行われた正免東古墳(直径23m、後世の開削により墳丘は消失し円墳か前方後円墳か不明)から線刻のある円筒埴輪と共に出土しました。 |
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蓋形埴輪
上に記述 |
キヌガサ埴輪各部名称 |
線刻のある蓋形埴輪 |
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385埴輪に見る甲冑
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埴輪に見る甲冑 |
短甲形埴輪
岡山県月の輪古墳 |
短甲形埴輪
群馬県白石稲荷山古墳 |
短甲形
大阪府南車塚東古墳 |
短甲
宮城県杉ケ袋 |
甲冑形埴輪
京都府ニゴレ古墳 |
短甲をつけた男子像
埼玉県上中条 |
武人埴輪
大阪府今城塚古墳 |
武装男子立像
群馬県太田市
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挂甲をつけた男子像
群馬県強戸
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386短甲
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短甲形埴輪
(三角板革綴短甲)
赤磐市岩田3号墳
短甲形埴輪
赤磐市岩田3号墳 |
鹿の線刻
正免東古墳 |
短甲形埴輪
岩田3号墳 |
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390埴輪棺 町苅田 石相1号墳
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埴輪棺とは遺体を埋葬する容器として使用した埴輪のことです。
埴輪などを使った転用棺と、専用に造られた特製棺(円筒棺)に分けられます。
その総数は全国で500基余りしか確認されておらず、そのほとんどが近畿地方に集中しています。
岡山県で30基ほどが知られていますが、その半数近くの13基が岡山市の陣場山古墳群からの出土です。
埴輪棺は主となる古墳の周辺や、古墳の斜面から発見されることが多く、この埴輪棺も石相1号墳の周辺から発見されました。
全体の半分ほどが残っていますが、円筒埴輪に開けられる透かし孔は確認できず、特製棺と思われます。
棺の両側を専用の蓋で塞いでおり、蓋の内部にハケメと赤色顔料が残っていました。
※ここでは、埴輪棺はあるじ(首長)の古墳の、円筒埴輪の一部として、葬られた殉死の様に思えます。
単独で円筒埴輪転用棺として使われたものは、円筒棺として独立して葬られています。 |
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埴輪棺
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埴輪棺
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石相1号墳付近
埴輪棺抜き取り状態 |
抜き取られた埴輪棺 |
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石相1号墳付近の埴輪棺 |
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500着銅遺跡 古墳時代 |
510着銅遺跡
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着銅遺跡遺跡は赤磐市長尾。北方に延びる低い丘陵の東向き斜面に所在しており、平成24年に発掘調査が行われました。
調査では弥生土器が出土していますが、弥生時代の遺構は検出されず、調査地よりも高い丘陵上に弥生時代の集落が想定されます。
検出した遺構は古墳時代の竪穴住居4軒、段状遺構3基、土坑5基、溝5条などです。
竪穴住居の一つには北壁にカマドが作り付けられており、この集落のカマドの導入時期を示すと考えられます。
古墳時代から中世に属する柱穴の一つから復元長20cmとなる鉄製の紡錘車が出土しており、平安時代の掘立柱建物1軒と鎌倉時代の溝3条も確認されていることから、中世頃まで継続した集落と考えられます。 |
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511住 着銅遺跡
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512須恵器 5c末~6c 着銅遺跡
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須恵器
坏身・ハソウ・壺
坏蓋・支脚・甑 |
須恵器 坏身・蓋 ハソウ
土師器 支脚 |
坏身・ハソウ
坏蓋・支脚 |
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513.2土製品 5c末~6c 着銅遺跡
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515鉄鏃
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平根式鉄鏃
古墳時代6c
岩田14号墳 |
柳葉式鉄鏃
古墳時代6c
岩田14号墳 |
腸抉柳葉式鉄鏃
わたくりやないば
古墳時代6c
岩田14号墳 |
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鑿頭式鉄鏃
ノミがしら
古墳時代6c
岩田14号墳 |
鉄鏃
古墳時代6c
岩田14号墳
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釘
古墳時代6c
岩田14号墳
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520副葬武器の階層性
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武器の副葬から見る6世紀頃の軍事的構成 |
この図は被葬者の階層を副葬される武器から推定したものと思われる。
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➀装飾大刀 |
最高権力者は、ヤマト政権から下賜された装飾大刀を持っている。 |
②馬具・直刀 |
交易などで経済的に豊かな権力者は、馬具や直刀を持っている。 |
③鉄鏃のみ |
軍事力のみの戦争屋たちも、雇われ兵士集団や、野盗として活動していたのかもしれない。 |
④武器なし |
古墳時代末期に台頭してきた富裕農民などはこれに当たるのかもしれない。 |
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岩田14号墳
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本古墳は、岡山市山陽住宅団地の市街地開発事業に伴い、昭和48年10月16日から11月22日にかけて発掘調査されました。
当初、古墳は地下に埋没していたものを偶然掘り当てて、発見したものです。
古墳は直径約20m、6世紀後半に造られた円墳で、横穴式石室を有しています。
石室は現存長11.8mを測り、天井石と側壁の一部はすでに持ち去られていました。
しかし、内部の保存状態は極めて良好で、石室内より7つの木棺が確認され、この7棺以前の埋葬も行われていました。
床面には、須恵器308個体、土師器45、耳環17、トンボ玉等玉類86、環頭大刀などを含む148点の武器・馬具・鉄釘・鎹・紡錘車等
合計700点を超える豊富な遺物が副葬されていました。
本古墳は赤磐市山陽3丁目の愛宕公園内に保存されています。, |
岩田14号墳 |
岩田14号墳 |
岩田14号墳
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大刀
118×4×1.1cm
岩田14号墳
古墳時代後期
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大刀 |
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530岩田14号墳 |
531石室内遺物は位置図
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岩田14号墳石室
木棺・遺物分布図
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玄室部 |
羨道部 |
出土遺物個体数
須恵器・土師器・玉類 |
出土遺物個体数2
武器・馬具 |
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532須恵器 6c 岩田14号墳
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535須恵器
樽形瓦泉 はそう
古墳時代5c
宮山古墳 赤磐市山陽 |
台付子持須恵器
古墳時代
岩田1号墳 赤磐市山陽 |
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台付子持須恵器
古墳時代
岩田1号墳 赤磐市山陽 |
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550赤磐の製鉄
猿喰池製鉄遺跡(さるはみいけ) 赤磐市千躰 7世紀
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「真金吹く吉備~」とうたわれるように、古墳時代から吉備の国では鉄の生産が盛んであり、とりわけ備中と美作は平安時代の延喜式に鉄の納税国として記されるほどの産地でした。
備前においても鉄生産は行われており、赤磐でも奈良時代の納税を示す木簡に「備前国赤坂郡匝鍬十口天平十七年十月二十日」と記され、
猿喰池遺跡をはじめ製鉄の遺跡が点在しています。
猿喰池遺跡では原料として鉄鉱石を使用しており、磁鉄鉱やそれを磨り潰す石皿、鉄滓などが出土しています。また、製鉄炉は操業の度に壊されてしまいますが、7世紀ごろの操業と思われる製鉄炉の跡が5基確認されています。 |
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551猿喰池製鉄遺跡
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猿喰池製鉄遺跡
上に記述 |
猿喰池製鉄遺跡 |
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1号炉 |
2・3号炉 |
猿喰池遺跡 |
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552製鉄遺物
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鉄鉱石
7世紀 猿喰池遺跡
熱を加え徐々に小さく割ってから使用した
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磨石
猿喰池遺跡
7世紀
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石皿 猿喰池遺跡
7世紀
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炉壁 猿喰池遺跡
7世紀
通風孔の痕跡が残る |
炉壁 猿喰池遺跡
7世紀 |
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※上記石皿と磨り石は、鉄鉱石を粉砕するための道具か、
近代のカナトコとハンマーのように、赤熱した鉄塊を青木で支えながら叩く道具だったか、、ではないでしょうか。
石皿は調理用にしてはごっつすぎる。
磨石はチョット小さいから粉砕用かな。 |
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560陶棺
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561岩田8号墳
陶棺
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岩田8号墳
陶棺の破片と須恵器 |
岩田8号墳 |
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陶棺
岩田8号墳
古墳時代後期 |
陶棺
岩田8号墳
古墳時代後期 |
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棺本体の側面にある文様は単なる装飾とも思えず、補強用デザインとも思えず、
船に見立てて描いたものだろうか。 |
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563亀甲形陶棺 古墳時代 山陽町吉原3号墳出土
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古墳時代後半、約1400年前に使われていた焼き物の棺です。全国の中でも岡山県で多く使われました。亀の甲羅のような形や、屋根の形をしたものがあります。赤磐市には、模様が付けられた珍しい陶棺があります。 |
亀甲形陶棺 |
陶棺 |
陶棺 |
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岩田8号墳
玉砂利を敷いた床底 |
岩田8号墳
陶棺破片出土状況 |
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565家形陶棺 山陽町吉原1号墳
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600備前国分寺
備前国分寺創建瓦
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(上)蓮華文軒丸瓦
単弁八弁蓮華文 中房は小さく蓮子を持たない。蓮子は細長い子葉を持ち 間弁は楔形状を手呈する。外区内縁は二重の圏線がめぐり、
外苑は素文で内傾する。 瓦当面径18cm
(下)唐草文軒平瓦
均整唐草文 中心飾の左右に5単位ずつの唐草文を配す 瓦当面上弦幅25.5cm |
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備前国分寺創建瓦 |
近隣の国分寺瓦 |
備前国分寺 |
備中国分寺 |
美馬作国分寺 |
備前国分寺跡 奈良時代
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備前国分寺は天平13年(741)聖武天皇の勅願により、仏の加護をうけ国家の繁栄を祈るため建立されたもので、奈良時代この地方の文化の中心として栄えた。寺の建物は戦国時代の兵火で焼失したと伝えられる。
昭和49年の発掘調査により、東西180m南北240mの寺域に、南門・中門・金堂・講堂・塔・僧坊など、地下に整然と残る遺構が検出された。
屋根瓦の文様からも古代吉備文化の素晴らしさが伺われる。 |
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備前国分寺軒丸瓦
単弁八弁蓮華紋
奈良時代8c |
備前国分寺軒平瓦
均整唐草紋
奈良時代8c |
備前国分寺軒丸瓦
単弁八弁蓮華紋
奈良時代8c |
備前国分寺軒平瓦
均整唐草紋
奈良時代8c
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備前国分寺跡
上に記述 |
国分寺の瓦
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国分寺は聖武天皇の発願により天平13年(741)、国ごとに一斉に建立された官立寺院です。
岡山県には備前、備中、美作の国にそれぞれ僧寺、尼寺一対で建てられていました。
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備前国分寺 |
備中国分寺 |
美作国分寺 |
軒丸瓦
第Ⅰ類 |
単弁八葉蓮華文 |
単複弁八葉蓮華文 |
複弁八葉蓮華文
平城宮6225式系 |
軒平瓦
第Ⅰ類 |
均整唐草文 |
均整唐草文
平城宮6663式系 |
均整唐草文
平城宮6663式径 |
(※展示中の国分寺の河原はⅡ類の瓦の組み合わせです。)
8世紀の半ば、創建時の瓦を見てみると、備中国分寺と美作国分寺の軒瓦は平城宮の影響を受けているのに対して、
備前国分寺の瓦は文様に独自の特徴を持ち、やや大型であることが わかります。
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備前国分寺跡と七重塔
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石造の七重塔は、もと岡山県の重要文化財に指定されていたものです。
備前国分寺創建時の七重塔の旧心礎(塔中心の柱の礎石)の上に建てられています。
.無名ですが、県下で最も古い層塔の一つに数えられ、鎌倉初期のすぐれた石造美術品として貴重なものです。
全体が花崗岩製で、本来なら最上部に相輪があるのですが、失くなっています。
代わりに五輪塔の水輪を載せています。また、四層と五層が入れ替わって積まれています。
基礎から七層までの高さは約3mあり、初重軸部の四面に阿閦宝生・阿弥陀・不空成就の像容を彫り出しています。
二重以上は笠の上端から軸部を造り出し、軒はおだやかな真反りで、四隅の先を垂直に切っています。
相輪を乗せたもとの塔の姿は、どれほど端正で美しかったかと惜しまれます。 |
国分寺の瓦 |
備前国分寺伽藍想定図 |
備前国分寺跡と七重塔 |
七重塔 |
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備前国分寺跡 |
備前国分寺跡 |
備前国分寺跡 |
備前国分寺跡
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備前国分寺跡
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備前国分寺跡
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備前国分寺跡
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古代瓦の作り方 |
瓦の名称 |
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610着銅遺跡の竪穴住居
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620埴輪の甲冑 未撮影
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630備前国分寺跡の金具類
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備前国分寺の金具類 |
釘隠し |
釘隠し |
飾り金具 |
飾り金具 |
座金 |
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風招(ふうしょう)
風鐸の舌部 |
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640備前国分寺跡 |
641
備前国分寺の文字瓦
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備前国分寺殻は文字の刻まれた瓦が数多く出土しています。
関数字や記号のようなものが多く、建物ごとに同じ文字がまとまって出土する傾向があるようです。
これらの文字は創建当時の瓦にしか見られないため、建立に際して短期間で大量に瓦を扱うための識別記号や、符合であったと考えられます。 |
備前国分寺の建物
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金堂 |
釈迦牟尼の丈六仏を納める建物 |
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塔 |
金光明最勝王を埋納した七重塔 (本来は釈迦の骨、仏舎利を納める建物) |
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講堂 |
講義や討論を行う建物 |
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僧坊 |
僧や尼僧が生活する建物 |
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門 |
築地塀、回廊の入口 |
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回廊 |
金堂、講堂を囲む屋根付きの通路 |
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築地塀 |
寺域を取り囲む土塀 |
特別な瓦
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これまでの調査で出土した文字瓦の中で唯一、複数の文字が刻まれています。
文章が断片的なため、、はっきりとした意味は解けていませんが、奈良時代の特徴的な文字が書かれたこの瓦は、他の文字瓦と比べても、
特別な意味を持つのかもしれません。 |
「国の華」国分寺
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天平13年(741)聖武天皇によって全国68ヶ所に建立された国営寺院、国分寺は正式名称を「金光明四天王護国之寺」といい僧20人、
国分尼寺は「法華滅罪之寺」といい尼10人が配置され、「金光明最勝経」「法華経」の写経や法要を行い、国家鎮護を祈願することが勤めでした。
続日本紀によれば、「国の華たる塔を備えた寺院は南に面した好所を選び建立せ与。集落からは近すぎても遠すぎてもいけない」また、
「各国の国司は寺を厳かに飾り立てるように」とあり、「国の華」と謳われるように当時の最先端の文化の象徴でした。 |
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備前国分寺跡 |
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備前国分寺の文字瓦 |
備前国分寺の建物 |
特別な瓦 |
「国の華」国分寺 |
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643
丹が付着した軒平瓦
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瓦の下面に赤色の塗料が一直線に付着しています。瓦を葺いてから軒先の木材を塗装したこと、創建当時の国分寺の建物は赤く塗られていたことがわかります。
※寺院だけでなく、駅(うまや)も、郡衙、国衙も寺院建築同様に、赤白で塗られていたようです。 |
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丹が付着した軒平瓦 |
丹が付着した軒平瓦 |
文字瓦 |
上、八 |
四、三 |
二、一 |
文字瓦
備前国分寺 奈良時代 |
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壁土
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木製の骨久組に草や藁などを混ぜた土を塗った壁。
備前国分寺の土壁の破片には骨組みの木材の跡が残っており、壁の表面には白色粘土が仕上げ塗りされています。
※現在の白壁は、貝殻などを焼いて作った石灰(漆喰)を塗るのが普通ですが、この頃は貴重な白色粘土を塗っていたというのが凄い。輸入品。 |
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鉄釘
奈良~平安
備前国分寺
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壁土 |
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愛知県猿投窯
灰釉蝶形瓶 |
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緑釉陶器破片 |
文字瓦 |
文字瓦 |
備前国分寺からは多くの文字瓦が出土しています。
当品は、万葉仮名が記されていますが、記述内容は不明です。
そのほかのもじがわらは漢字市文字や記号が記されています。 |
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645平安時代土器 備前国分寺跡
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土師器皿 平安時代
備前国分寺 12c
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白色土器高坏
早島式土器碗
平安時代
備前国分寺 12c |
須恵器碗
須恵器壺 平安時代
備前国分寺 12c
泥塔 |
須恵質土器碗 平安時代
備前国分寺 12c
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須恵質土器 壺
平安時代 9c
備前国分寺
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泥塔
平安時代 9c
備前国分寺
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647岡山県内の古代の銅印と鋳型
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全国でおよそ216点確認されている銅印のうち、発掘された考古資料が101点、残り115点は伝世資料です。(伝世=代々伝えられたもの)
銅印は権限・所有の正当性を示す道具であるだけでなく、それ自体が権威の象徴でもあり、神聖なものとして寺社へ奉納されることもありました。
岡山県内では、神社ヘの伝世資料が1点、発掘された銅印と鋳型が4点、また、畑から偶然発見された銅印1点が確認されています。 |
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649
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白磁 |
緑釉陶器香炉 |
白磁
白磁は中国北斉時代(550~)に華北で作られ始めた、
白磁鉱の粉末粘土に植物の灰釉をかけて矢板高価な磁器です。
日本では17世紀無初頭から作られるようになりました。
三彩
唐三彩は唐(618~907)で作られた素焼きに藍、茶、白の鉛釉薬をかけ
二度焼きした陶器。日本では奈良時代に技法が伝わり、茶・緑・白の
奈良三彩が作られるようになりました。 |
奈良二彩・三彩 |
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銅印 10世紀 国分寺跡出土
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銅印 赤磐市備前国分寺跡出土
10世紀 31×31×30mm
備前国分寺の僧坊出土、鶏頭鈕を持ち、印篆で「常」と読める。
印篆(いんてん):印章に用いる文字。篆書体(てんしょたい) |
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650小枝2号墳装飾付陶棺 7世紀中期 小枝2号墳
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本資料は赤磐市福田に所在する小枝2号墳から出土した装飾付陶棺です。身部全長172cm、身部最大幅52cm、棺全高90cmを測ります。
身は長方形の箱形で蓋は切妻家形となっています。身・蓋ともに成形後に中央部で切断され2分割されています。脚は2列8行の計16本です。
この陶棺の最大の特徴は身と蓋の小口面に施された装飾です。身には蓮の蕾を連想させる浮文が縦に3列配されています。
蓋には中央の突帯を挟んで左右に1つずつ円形の浮文が施されています。装飾付陶棺は美作市野寺山古墳や真庭市定西塚古墳からも出土していますが、類例が少なく非常に珍しい資料と言えます。
本資料は古墳時代の研究に関する貴重な資料と評価され、平成9年3月に県の重要文化財に指定されました。 |
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小枝2号墳装飾付陶棺 7世紀中期
上に記述 |
陶棺の各部名称と形態 |
装飾付陶棺 |
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家形陶棺 小枝2号墳装飾付陶棺 7世紀中期
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700赤磐の中世山城
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中世の山城は全国で2万~4万あり、岡山県下にはおよそ1000。赤磐市では約60の山城があります。
山城は山の地形を利用して頂上、あるいは尾根の上に段状に小さな平地をつくって郭とし、郭と郭の間に空堀を掘って防禦を固めたものです。
中世:12世紀末、鎌倉幕府の成立から17世紀初め、江戸幕府の成立まで。 |
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中世山城 |
備前軍記 |
備前軍紀 |
鬼ノ城 |
赤磐の中世山城分布 |
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赤磐の中世山城分布 |
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720周匝茶臼山城 |
721
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茶臼山城
大仙山城遠景 |
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茶臼山城跡 |
縄張り図 |
大仙山城跡 |
周匝城 |
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723鉄製品 大型竪穴遺構出土 周匝茶臼山城
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大型竪穴遺構出土
周匝茶臼山城
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小札
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鍔
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鉄鏃 |
刀子
大型竪穴遺構出土
周匝茶臼山城
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725土製品 大型竪穴遺構出土 周匝茶臼山城
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727陶片
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730発掘調査 大型竪穴遺構出土 周匝茶臼山城 |
731.
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茶臼山城城型展望台 |
茶臼山城跡 |
大型竪穴遺構 |
茶臼山城 大型竪穴遺構 |
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732陶片 大型竪穴遺構出土 周匝茶臼山城
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733銅銭 大型竪穴遺構出土 周匝茶臼山城
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740周匝茶臼山城 城主
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周匝茶臼山城 城主 |
備前軍紀 |
先祖幷御奉公の品書上 |
周匝茶臼山城
発掘調査 |
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備前焼大甕
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壺 |
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片口すり鉢 |
石臼 |
磨石 |
砥石 |
鍛冶関連 |
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760中屋遺跡の大量出土銭
備前焼三耳壺と銅銭 |
中屋遺跡の大量出銭 |
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偶然の発見 |
赤磐市全図 |
県内の大量出土銭
出土地 |
中屋遺跡出土銅銭の種類
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発見時の様子
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日宋貿易によって輸入された中国銭である。
12世紀頃から、全て一枚一文で流通したが、
15世紀後半頃から、
撰銭令が出されるほど悪貨が流通し、銭に価値の差が生まれていた。 |
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