・伊那市では、神子柴遺跡の神子柴形尖頭器を中心にした展示館、伊那市創造館を開設し、伊那市考古資料館を閉鎖しました。 創造館には縄文時代の伊那谷特有の石器が並んでおり、旧石器末の神子柴文化の展示館は大変特異な博物館と言えます。 従って、伊那市としては、創造館を考古展示施設として見学を希望しています。 しかし、考古資料館にも素晴らしい展示があります。 |
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||
01春の伊那市と仲仙寺 ・連休明けのこの日 (5/8)、名古屋では遅咲きの桜も終わり、草花も散り、深緑の始まりですが、ここ伊那では、まだ新緑の頃。 高速道路の傍に延々と続くリンゴ畑に花が咲き乱れ、町中の家々にも春の花が今を盛りに咲いていました。 心安らぐ季節です。 ・仲仙寺は、伊那市一帯の最古の古刹で、周囲に仲仙寺古墳群を持つところから、文化財も豊富なようです。 私が注目したのは、参道に掛けられた、しめ縄です。独特なもので、千年を超える巨大杉に渡されたそれは、確かな由来を知りたいと思いました。
リンゴやナシなどの花が咲き乱れる街中で、各家庭の庭先も、様々な花が咲き乱れ、本当に美しい町でした。 いい時期に旅行しました。 |
|||||||||||||||
05外観・入口展示 顔面把手付大深鉢 この土器は勝坂式土器に属していると思われる。総高60cmを計る大きな器で、口縁部に半球状の高さ11cmの顔面把手が付けられている。 柿実状の目で、両端は吊り上がり、口は円く開口している。両耳には耳栓を表現している円形の穴を開け、額は扇状の逆三角形文風の 文様構成をし、少々上向いた鼻で、鼻穴は縦2本の刻目で意匠している。 上部に環状把手を付け、その両側に半円形の浮文で乳房を誇張し、土器中心部には浮文による円形の中に、ヘソを示す突起を加飾し、 その下の逆三角形は女性の陰部を象徴しているものと思われる。昭和45年伊那市有形文化財考古資料に指定された。 ※この土器は伊那市創造館に移動し、説明板のみありました。 ※元来、閉鎖された館には、脚注など期待してはいけません。 |
|||||||||||||||
これより、土器・石器等が、整然と分類されて展示されています。 このような展示を眠らせておくのは、いかにも残念です。是非ご覧ください。 |
|||||||||||||||
展示室 10縄文時代 |
|||||||||||||||
11草創期
|
|||||||||||||||
12早期 |
|||||||||||||||
13前期 |
|||||||||||||||
40中期 |
|||||||||||||||
41中期 |
|||||||||||||||
50中期初頭 |
|||||||||||||||
60中期中葉 | |||||||||||||||
61a
|
|||||||||||||||
勝坂式土器の解説 61c花開いた縄文文化 ―中期中葉の土器の遷り変り― 縄文時代の初め頃、日本全国で2万人だった人口が、中期には26万人に増えたことが遺跡数から計算されています。内訳は、 関東地方に9万人、伊那谷を含む中部地方に7万人が暮らしており、東日本に人口が集中していたと言えます。 そして、中期の中頃になると、非常に力強く、美しい装飾を持った土器が多く作られるようになります。 ここでは、縄文文化が花開いた今から5500年前〜5000年前に作られた縄文時代中期中葉の土器の遷り変りを見てみましょう。
勝坂式土器 (勝坂式土器期 5500〜5000年前縄文中期前半) 以下の土器形式は、勝坂1式古相、勝坂1式新相、勝坂2式、勝坂3式、に対応する。 貉沢式 (勝坂1式古相) 5500〜5400年前 粘土紐で貼り付けた飾りの横に沿って、棒の角で「―」文様を連続で付けます。土器全体を横長の楕円形で大きく区画した文様を多く使います。 新道式 (勝坂1式新相) 5400〜5300年前 粘土紐の飾りの横に沿って「へ」の文様を連続で付けます。楕円形で大きく区画する文様の他に、三角形で区画する文様を使うようになります。 籐内式 (勝坂2式) 5300〜5200年前 粘土紐の上にも刻みや爪形の文様を付けるようになります。楕円形や三角形の大きな区画に加え、生物を抽象的に表わした文様が見られます。 井戸尻式 (勝坂3式) 5200〜5000年前 人体やヘビ・イノシシ等の立体的な装飾が付けられるようになります。土器の底に近い部分が「く」の字に曲がった形になるのも特徴です。 |
|||||||||||||||
61b中期中葉の土器
|
|||||||||||||||
62a中期中葉
|
|||||||||||||||
62b中期中葉 | |||||||||||||||
63中期中葉 |
|||||||||||||||
64b中期中葉 |
|||||||||||||||
70中期後葉 (唐草文土器期 5000〜4500年前) 64a |
|||||||||||||||
71a唐草文土器の変遷 唐草文土器登場! 中期後葉の土器の遷り変り 縄文時代中期中葉の立体的な大きな装飾が付いた土器は、中期後葉になると「唐草文土器」と称される、 大きな渦巻文とその間にヘラ状の工具で線を描いて装飾する土器へと変わっていきます。 この「唐草文土器」は、伊那谷・諏訪盆地・松本平・木曽谷を中心として分布する、極めて地域色の強い土器です。 これらはT期〜X期の5つの時期に分けられています。 ここでは唐草文が作られた今から5000年から4500年前の縄文時代中期後葉の土器の移り変わりを見てみましょう。 |
|||||||||||||||
唐草文土器 縄文時代中期後葉 (5000〜4500年前) T期 細い粘土紐を貼り付けて立体的な縞模様や格子模様をつけます。 唐草文の代名詞である、大きな渦巻の文様はまだ見られません。 U期 縦方向に腕の骨のような形の文様 (腕骨文) が立体的に表わされます。その両側に渦巻文様が沈線で描かれます。 V期 渦巻き模様が、大きく枝分かれしながら粘土紐で立体的に表わされ、その間に細かな線を何本も描いて装飾します。 唐草文土器の代名詞ともいえる時期です。 W期・X期 立体的な模様を現さなくなり、大きな模様の間を埋めていた細かいヘラ描きの模様も、大雑把で適当なものになります。 大きかった渦巻の模様も簡略化され、立体的ではなくなります。 |
|||||||||||||||
71b |
|||||||||||||||
72唐草文様の歴史 現在私たちが目にする風呂敷などに使われている唐草模様は、今から約2800年前、ギリシアの神殿などの柱に見られる草の模様が原型で メソポタミアやエジプトから各地に広がったと考えられています。 日本にはシルクロード経由で中国から伝わったとされています。唐草模様には、中国伝来の飾部サーつもようという意味があるのです。 しかし、ギリシアで唐草模様が生まれる2000年以上前、縄文人たちは、既にこの唐草模様を使って500年もの間土器を飾っていたのです。 中期後葉の土器 |
|||||||||||||||
73唐草文土器の北・南 -土器から見た地域性- 唐草文土器は、長野県の中部から南部にかけての地域で作られた土器なのですが、その分布の中でも土器の形や模様に地域性が見られます。 伊那谷北部の唐草文の深鉢を見ると、土器の最大径が上方にあり、逆三角形に近い形をしています。 伊那谷南部の唐草文土器は、土器の最大径が口の部分 (口縁) よりやや下の方にあり、丸みを帯びた形となっています。 また、大きな渦巻き模様の間を埋める、細かい線で囲まれた模様を見てみると、北方の土器は直線で描かれ、南方の土器は曲線で描かれています。 中期後葉の土器
|
|||||||||||||||
74中期後葉 土器・土偶
|
|||||||||||||||
77中期末葉 |
|||||||||||||||
80後期 |
|||||||||||||||
81後期
|
|||||||||||||||
94石器 (縄文時代) |
|||||||||||||||
95 |
|||||||||||||||
96炭化物・骨片 (縄文時代) |
|||||||||||||||
97狩りは槍から弓へ 縄文時代は今より5・6℃気温が高かった時代です。縄文以前の氷河期では、今より5・6℃低かったのです。 氷河期には体長6mもあるナウマン象や、体長4mもあるヘラジカなど、体温を保つのに有利な巨大動物が栄えていました。 そういった巨大な動物を狩りながら生活していたのが旧石器時代の人々です。大きな動物を仕留める為に、石で大きな槍先、尖頭器を作りました。 ところが、氷河期が終わり、暖かい縄文時代になると、寒さに適した大型動物が姿を消し、小型で素早い、鹿や兎などの小型獣が繁栄しました。 これらの小動物を獲るために、氷河期の終わりころに発明され、全世界に広がったのが弓矢です。 この弓矢の発明がなければ、獲物を狩れない祖先たちは生き延びられず、私たちも今、このようにして生まれてくることがなかったでしょう。 |
|||||||||||||||
90晩期 |
|||||||||||||||
91 |
|||||||||||||||
98 |
|||||||||||||||
92panel
|
|||||||||||||||
※1旧石器時代 地球の歴史に人類が登場し、活躍するのは洪積世後期と言われている。現在、その存在がある程度判明している日本列島の洪積世人類は、 牛川人、三ケ日人、浜北人、港川人などが知られており、その年代はほぼ二万年前と推定されているが、更に古い石器の存在からそれよりも 前の存在も考えられている。彼らの生活の舞台は洪積世後期の火山灰層に、その生きた証を留めている。 彼らは土器を作らず、原石を打ち欠いて製作した打製石斧 (終末期には部分的に磨いた石器もある) を残している。 これらの石器は大きく分けて、石材の芯を用いたもの (礫核石器) と、石材から剥ぎ取った剥片を使用した (剥片石器) とに大別される。 これらの石器の特質は日本列島でその手法や形態には地域差が認められる。伊那市内で現在確認されている旧石器遺跡は数か所だけである。 ※2縄文時代 縄文時代は長い間続き、現在では一万年位前から、弥生時代のはじまる紀元前300年前頃までと言われている。 この長き時代を現在、土器の文様、または土器製作時の含有物によって六期に大別されている。それは、 草創期、早期、前期、中期、後期、晩期である。 更に、それぞれの時期に応じて細分し、土器形式の名称をとって呼ばれるのが一般的であり、これをいわゆる編年と言っている。 伊那市内で現在確認されている時期別の遺跡数を述べると、次の通りである。 草創期数か所、早期28か所 前期26か所 中期160か所、後期40か所、晩期15か所。 ※3縄文人の食料調達 縄文時代人達は食料を求めて、狩猟 (鳥獣、魚介類等々を捕る) や採集 (木の実や球根を集める) を常時の仕事として行っていた。 また、常に安定した獲物を得るために、弓矢や網を、更に毒を使用したりした。更により進んだ生活を望んで、道具を作り、土器を焼いたりした。 狩猟地域は森林や草深い山野と、海岸の台地と考えられ、その獲物はシカ・イノシシが全体の九割を占めていたと思われる。 狩りは男の仕事として、採集は女の仕事と考えられているが、その決め手は何もない。 彼等の食生活はいわば、食料になるものは全て食料にした状態と言っても過言ではない。 土を掘り窪めて作った竪穴の住居に住んだ。 竪穴住居の中心部付近に、暖房、照明、沸騰の三用途を兼用した炉を築き、一家団欒の場とした。 住居の形は縄文時代を通じて方形、円形、楕円形がその骨格を成している。大きさ及び数は、時期によって変化があり、画一化されていない。 縄文中期には一遺跡で100軒以上の住居祉が検出される例がしばしばあり、一大集落地帯を形成している。 ※4縄文土器の製作法 縄文土器の製作法には、輪積み法と巻き上げ法の二つがある。原料となる粘土は近くに産するのを利用したのが一般的である。 大型の土器は一度に全体を造形するのは至難の術と見えて、要所要所で乾燥させて作り上げたものと思われる。 全貌が出来上がると表裏面を丁寧に整えて、文様を付けた。 文様付けが終わると粘土の収縮を考慮したうえで、乾燥させ、600〜800℃位の温度で露天焼きしたようである。 粘土に亀裂防止や増強用の砂・雲母・石英・長石・滑石・鉄平石等を混ぜる場合が増えている。この混合物は地域によって差異が認められる。 文様は縄文、撚糸を回転させてつけたものや、縄を巻き付けたり、刻み目を入れた細い棒を転がしてつけたものも見られる。 簡単に手に入る貝殻、竹ベラ等を用いて線を引いたり、突き刺したり、粘土紐を貼り付けたり、逆に抉ったりして、彫刻風な意匠文を付けてある。 文様配置はある程度の規則のもとに造形がなされていると思われ、これらは地域と時代によって僅かながら変化がある。 土器の用途は、縄文早期ではほとんどすべてが煮炊き用で、時代が新らしくなるに従って、多種多様の容器が出現する。 浅鉢や皿等の食器類と、特殊用途を持つであろうと考えられる奇妙な形の土器がみられる。 太鼓に使用されたと想像できるものや、酒を入れたであろうといわれている土瓶の形をした注口土器。 縄文中期によくみられる釣手土器、この土器にススが付着していればランプに使用されたものではないかと考えられている。 ※5弥生時代 紀元前三世紀頃に日本列島内に稲作技術を導入した新しい文化が始まる。この文化は先の縄文時代とは異なっている。 それは、狩猟、漁労、採集を主体とする採集経済から稲作を中心とした生産経済への転換である。 この文化は水稲と共に青銅器、鉄器を併用し、日本列島内自生の文化でなく、大陸や朝鮮半島影響下のもとに成立した文化であると言われている。 弥生時代は受け入れ方に時間的、空間的な差がある。従ってこの時代を、前期、中期、後期の三時期に区分している。 弥生文化は前述したような過程を経ているために、北九州地方が最も早く成立したとみられている。 その後徐々に東日本に伝わっていくのである。その為に、東日本の弥生時代の遺跡は中期以降が多いようにみられる。 農耕社会の成立は、各ムラ、ムラを統合させた初源的な「クニ」の発生を促し、古代国家統一の母体となったことは否めない事実である。 「邪馬台国」は弥生後期に存在した「クニ」の一つである。 農耕社会の成立は道具にも大きな影響を及ぼし、稲作を基盤とした道具へと塗り換えられていく。 伊那市内の弥生時代の遺跡は現在70ヶ所程発見されているが大部分弥生後期に含まれている。 弥生時代人の住居は縄文時代と相変わらず、竪穴住居に住み、これらの周囲に高床式と言われる食料保存 (いわば倉庫) の建物を併設した。 上伊那地方の弥生文化は一般的に下伊那地方を中心とする中島式文化圏と、北信地方を中心とする箱清水文化圏の接点と言われている。 土器文様の中に両圏を代表する文様特徴が描き出されている。 ※6古墳時代 古墳時代とは、前方後円墳に代表される大規模な墳墓の造営される時代である。 前代から存続した小さな「クニ」が大和朝廷と言う大きな政治連合を成立し、我が国の租源的国家体制を成立せしめたと考えられる。 古墳時代は前期・中期・後期に区分される。古墳は一般庶民の墓でなく、上は天皇、貴族、から下は地方豪族、ムラの長に代表される いわば有力者の墓である その副葬品はその被葬者たちの権力を象徴するものが多く、到底庶民にはまねのできない品々であった。 副葬品の主なるものを記すと 次のようである。 鏡、太刀、鉄族、槍、冑、鎌、斧、刀子、馬具、勾玉、管玉、小玉、臼玉、切小玉、ガラス玉等々の玉類、土師器、須恵器等々の器類。 伊那市内の古墳は現在100か所程あり、全て、後期の古墳に含まれており、地方豪族の墓と思われる。 円形状を成しており、直径10〜25m位、高さ2〜3m位の規模で、単独に存在するのでなく、群集墳と呼ばれ、5〜20個位固まって存在している。 市内の古墳群としては上牧古墳群、福島古墳群、野底古墳群、白沢古墳群、老松場古墳群等々があげられる。 古墳時代の集落は古墳築造の礎となった庶民の居住地区をさしており、彼らの使用した土器や陶器を土師器とか須恵器とか呼んでいる。 これらの器物を細分してより綿密な時代分けをしている。 当時、庶民の住居は方形や隅丸方形の竪穴住居で、一方に風向に応じてカマドを作ってある。 ※7奈良時代 都が奈良の平城京に遷都された時を持って奈良時代が始まる。奈良時代は先の時代で確立された律令体制を基礎として国家統一がなされていた。 政治権力は主に藤原一族によって掌握されており、天皇中心の政治が徐々に確立されつつあった。 律令体制は整備された戸籍によって人民を把握し、人民に対して租・庸・調の税金を義務付けていた。 この税の体制は庶民にとって負担が大きく、逆にそれが律令体制を揺るがす原因を作りだした。 伊那市付近で、前述した税に関しての古い記録が残されており、それを記すと次のようである。 正倉院御物の庸布に記された天平十年(738)の墨書銘「信濃国伊那郡小村郷交易布一段」がある。 中央の貴族は栄耀栄華な暮らしをしていたのに比較して、大部分の庶民はカマドを持った土を掘り窪めた竪穴住居に住み、 生活用器として土師器、須恵器を使用していた。 この生活のありさまを如実に表したものに、山上憶良の「貧窮問答歌」がある。 |
|||||||||||||||
100弥生時代 |
|||||||||||||||
101 |
|||||||||||||||
102 |
|||||||||||||||
110古墳時代 |
|||||||||||||||
111 |
|||||||||||||||
120奈良時代 |
|||||||||||||||
121 |
|||||||||||||||
130平安時代 |
|||||||||||||||
131 |
|||||||||||||||
140中世・近世 |
|||||||||||||||
141
|
|||||||||||||||
200倉庫 |
|||||||||||||||
201縄文時代
|
|||||||||||||||
202絵馬 伊那谷は木曽山脈の山中の険しい山道を通じて、木曽の馬生産地と結びついていて、馬市なども盛んに行われていたようです。 これらの巨大絵馬は、馬の売買の元締めのような有力者が奉納したものと思われます。 |
|||||||||||||||
駒ケ根市ロープウェイで行く、戦時千畳敷カールは、氷河時代の地形を残す、有名な観光地です。 一年中手軽に上れる高山です。前回は、素晴らしい登山日和でしたが、今回は本当に残念でした。 機会があれば、是非もう一度登りたいと思います。皆さんも、きっと素晴らしいとお感じなると思います。 |
|||||||||||||||
中部地方の縄文1 15-2017.05.11-2 木曽駒ヶ岳千畳敷カール 長野県駒ヶ根市赤穂1番地 0265-83-2111 交通 JR飯田線駒ヶ根駅よりバス。ロープウェイ。(冬季も含め、通年運行しています。) 見所 ・晴天ならば、氷河地形カールに削られた木曽駒ヶ岳宝剣岳が見え、縦走することもできる。 ・星空の撮影ポイントとして有名で、プロ・アマカメラマンが押し寄せる場所です。 ・ホテルのレストランから眺める景色も最高です。(晴れていれば!) |
|||||||||||||||
01JR駒ヶ根駅→しらび平ロープウェイ乗り場へ
|
|||||||||||||||
02しらび平ロープ駅→千畳敷駅
|
|||||||||||||||
03千畳敷ホテル
|
|||||||||||||||
04下山、しらび平駅
|